第二話 共生 ホルスタウロス 一章
ヒュン。
最初は講和条約締結に忙しかった宮廷魔術師、エルンスト・マクスウェルも、最近は個々の種族との問題を解決することが多くなった。例えば今などは、ギルタブリルの毒に関する交渉を行って、宮廷に帰ってきた所だ。解毒剤の研究を進めるために毒のサンプルを提供してもらい、それを条件に猛毒の人間に対する使用を認めるという条件で…。
ヒュン。
ふと、昼下がりのローエンハルト王城の庭を歩くうち、エルンストは、小気味良い風切り音に気づいた。その方向を見ると、開けた場所で、鎧姿の騎士が素振りをしていた。
一心不乱に、一部の乱れも無く、一振りごとに静かに燃える気迫が込められている。両手持ちの大きな剣であるにも関わらず、目にも留まらぬ速度で振り下ろされ、ピタリと切っ先を頭の高さで止める完璧な素振り。エルンストは、その騎士に話しかけた。
「…グランツ、精が出ますね。そろそろお疲れでは?」
呼ばれた騎士は大剣を下ろし、汗を拭いながらエルンストに向き直った。彫りの深い顔に、鋭い眼光、一文字に閉じられた口。精悍な武将そのものの風貌が、見るものを威圧する。
「…エルか。…いや、まだ大した数はこなしていない。」
低い声で答えた。彼の名は、グランツ・ラングレン。エルンストとは同い年で幼少からの友人である。エルンストに取っては数少ない男の友人である、とも言う。そして、ローエンハルトきっての猛将であり、若くして当世最強の剣士との呼び名も高く、『武神』の異名をとる程の強者だ。
「…あなたの言う『大した数』は、常人からすれば天文学的ですよ。」
「…まだ五百三十だ。せめて一千は…。」
朴訥に答えたグランツに、エルはため息をつく。
「で、それが垂直で、後は左右が五百ずつ、突きの型が一千…そんなところでしょうね。…もう大きな戦いはそうそう無いでしょう、少し骨を休められてはいかがですか?」
「愚問だ。…鍛えなければ、錆びる。武とは…そういうものだ。」
ためらいも無く答えたグランツに、少し苦笑しながら、エルは軽く魔術を使い、空気中の水分を集めて、氷のグラスと水を作り出した。グランツに差し出すと、彼は頷いてそれを受け取った。
「…すまんな、エル。…感謝する。」
「いえいえ。」律儀に二度も頭を下げたグランツに、エルンストは微笑で返す。「頭が下がりますよ。もうそこまで鍛錬を重ねている兵士は少ないですからね。」
ともすれば嫌味ととれる発言に、グランツは、特に気を悪くした風もなく水を飲み、一息ついて、
「…役に立つ機会が無ければそれでいい。…軍とは、そういうものだ。」
答えて、グラスをエルに返してきた。そしてまた軽く礼をし、何も言わず素振りを始める。言葉少なでとっつきにくい印象はあるが、実直な性格を知る人には好まれている。わけてもエルンストとの間柄は、まず親友と言ってよかった。そしてその親友としての立場から、エルンストは、
「…女性の前でもそれだけいいことが言えれば、もっと上手く行くのでしょうね。」
「…う…む…。」
痛いところを突かれたグランツが、思わず剣を地面に打ち付ける。『泣かした女の涙でアクアフラッドが起こせる』と評判のエルンストとは対照的に、このグランツは、女性の扱いに関してはとことん下手だった。
「…全く。顔は悪くないし、ストイックさから相当な人気があるんですから…もっと自信を持って当たらないと。」
「…そうは…言うが。」
グランツときたら、戦場では向かうところ敵なしなのに、女性と対面するだけで真っ赤になり、しどろもどろでしか話せなくなるほどの重症なのだった。時折『エルンストの女ったらしと足して2で割ってしまえばいいのに』なんて話も聞く。
「そうですね…では、何かしら話を自分から振っていけばいいでしょう。君には英雄譚も多いんですから、それを聞かせれば女性は必ず憧れてくれますよ。…私と一緒に海王竜6頭を討伐した時の話など…」
「それを…」
急に話に割り込んできたグランツの顔を見ると、やたらめったら真剣な顔で、剣の先に敵を見るようにこちらをジッと見つめていた。
「…話せば…その…エル、い、いけるのか…?」
「…ふふっ…ええ、大丈夫ですよ、グランツ。きっと世の女性の、羨望の的になれます。何なら少し脚色してもいいでしょう。」
「…そうか…。」
幾分さっきより嬉しそうに、また素振りを始めたグランツ。エルは面白そうに笑いながら、その場を後にし、国王のもとに、報告に向かった。
「そうか…ご苦労じゃったな、エル。…それで、次の依頼じゃが。」
「いやはや…大忙しですね、少しは休ませても貰いたいものです。」
謁見の間で、いそいそと書類を取り出すローエンハルト国王に、苦笑しながらエルンストが口答えする。講和の交渉より、種族ごとの問題の方がよっぽど厄介で、数も多い。
「ならば、次の依頼は結構のんびりできそうじゃぞ、良かったの。」
国王も半ばふざけた調子で応じる。エルンストがさして忙しさを苦にしていないのを分かっているのだろう。
「…相手の種族は、ホルスタウロスと言うそうじゃ。…わしは良く知らんが…ケンタウロスの仲間なのか?」
「ホルスタウロス、ですか。…彼女たちはミノタウロスの仲間ですね、ですがミノタウロスと違っておとなしい種族です。」
乳牛としての能力に優れ、おっとりした種族である。そこでふとエルは疑問を持った。
「…ホルスタウロスが、何らかの緊急な問題を抱えるとは思えないのですが。…人間を拘束するようなこともなければ、さして乱獲の対象にも成り得ませんし。」
「うむ。大人しい種族、と言うことは聞いておったから、わしもおかしいと思ったのじゃが…どうも、自分を『経営』して欲しいらしいのぅ。」
「はぁ…」ポカンとして、エルンストが応じる。「それは…別に、難しいことでも何でもないと思いますが。ローエンハルト以外の国でも、ホルスタウロスの農場を認めている国は少なくありません。彼女たちより安全な魔物は探す方が難しいですし、結構な利益もつきます。…この依頼、ホルスタウロス側からの書簡ですか?」
「いや、ハーピィの伝言じゃ。最近魔物の間ではやっておるようじゃが…どうにも要領を得んでな。…聞いていると確かに妙ではある。行って話を聞いてきてくれんか?よろしく頼むぞ、エル。」
「…畏まりました。まぁ、確かに、のんびりは出来そうですね。」
笑いながら答えたエルに、国王も大きく息をついた。
翌日の朝、その場所へ向かう途中。エルンストは、その伝言の不備と『のんびり出来そう』という自分の言葉を呪っていた。一緒に国王も呪ってしまいたかったが、忠実な宮廷魔術師たる自分にはできそうもなかった。
指定された場所は人里離れたとある高原であり、王都からだいぶ距離がある他、そこ自体に問題はないのだが、その周囲、もっと言うならばそこへ向かうまでの道のりに、非常に大きな問題があった。
四方のうち三つを標高一千メートルを越す岩山に囲まれ、ここを通るのは至難の業だ。そして、残る一方…王都のある、南西側には、森が広がっている。端的に言えば、この森が問題なのだ。
木々の間を、何かが疾走する音に、エルンストは足を止めて、やれやれと溜息をつく。これでもう何匹目だろうか…。
この森は、旧魔族の眷属である、いわゆるところの『人を襲う魔物』の巣窟なのだった。一般人ならまず立ち入り禁止のレベル、それなりに実力のあるものならば命を落すほどの危険があるわけではないが、問題はエルンストの職業だった。
「…やれやれ…。前衛が欲しいですねぇ…。」
一般常識として、魔術師の一人旅は危険である。どれだけ迅速に対応しても、『詠唱』というタイムラグが埋められない。いかに『天才魔術師』であろうと、仕方の無い話である。
向こうはこちらに気づいたらしい。視覚情報には頼れないので、音で相手を識別する。さして大きい相手ではない、『アクアカッター』で十分だろう。遭遇までの時間に検討をつけ、軽い呪文を素早く唱え、発動を待機させて備える。
音源が、素早く動き、見て取れる距離の茂みがガサガサと蠢く。敵を視認してしまえば、自然魔術の性質として、まず外れることはない。焦るな。術式の解放には一瞬、いかに敵が早く襲いかかろうと、こちらのほうが早い…。
ひときわ大きく茂みが揺れ、狼のような魔物が飛び出し…エルンストは思わず舌打ちした。
ほぼ同時に、もう一匹、大蛇型の魔物が地を這い、狼のすぐ横から飛び出すのが見えたのだ。
エルは大きく腰を捻り、狼の一撃、その下へ辛うじて潜り込む。即座に『アクアカッター』を発動した。圧縮された水の刃が、狼の腹から背にかけてを一断ちにして貫く。体勢を崩したエルンストの脇腹めがけて、蛇が鎌首をもたげて襲いかかり、そして。
「…我ながら、自分の機転に惚れ惚れしますね、全く。」
アクアカッターが、狼を貫通して斬った木が、こちらに倒れてきて、蛇の腹の上にのしかかり、その動きを止めた。膝をつきながら強がった台詞を吐いたエルンストだが、額を拭うとその汗は冷たかった。調べたくも無いが、今の蛇が牙に毒でも持っていたらと思うと肝が縮む。
「…ふん。…そもそも私は魔術師です、こんな泥臭い強行軍は…ッ」
立ち上がり、息を飲んで腰を押さえる。ねじった時に痛めたらしい。
「腰を痛める…年でも無いですけどね。…全く、運動不足ですかね?」
たった今斬り倒した木の上に腰掛け、水系列の回復魔法を詠唱し始める。戦争や冒険家の影響で、回復魔法と回復薬は非常に発達しており、『死ななきゃ大丈夫』という格言まであるくらいである。ぎっくり腰くらいは何でもない。
が。
ガサッ、という音が背後で聞こえた。エルンストはまた一つ溜息をつく。この峠道に入ってからいくつ目だろう。回復魔法の詠唱を中断し、今度こそ相手が何であろうと足りるように、オリジナルの最大魔法であるところの『巌断つ天の川』をやや投げやりに詠唱しながら、後ろを振り向く。
「…あの〜…お、お迎えに…あがりましたんですが〜…」
間の抜けた声と同時に、声の主が茂みから姿を現し、それを見てエルンストは術の詠唱を止めた。
そこに立っていたのは、おどおどした目でこちらを見つめる、ホルスタウロスだった。
「これはこれは…初めまして、エルンストと申します。…事情は、大体察しましたよ。」
「え〜っと…ホルスタウロスの〜、ターナと申します〜」
のんびりとした声で自己紹介をしたターナというホルスタウロスに連れられ、できるだけ魔物の出ないルートで峠道を抜け、出たところは、のどかで一面の若草に覆われた、広大な高原だった。その中に二人して座り込み、エルンストとターナは向かい合っていた。
ちなみに、まだエルのぎっくり腰は治っていない。女性の前で、『ぎっくり腰を治療しますので』などと言う事は、ローエンハルトきってのプレイボーイたるエルンストの美学に反する。腰をこっそり氷魔術で冷やしながらここまで歩いているのだ。ちょっと涙ぐましい。
「ずいぶん広いところですね。…ずっとここに住んでおられるのですか?」
「あ〜…そういえば〜晴れて良かったですね〜。」
「そうですね。雨がふったらあの峠道はずいぶん歩きにくそうですから。」
「私以外のみんなは〜、皆ここから出ていっちゃんたんですよ〜」
「それはそれは…ここを離れたくないのは、やはり故郷だからですか?」
「こんな日は〜、草が美味しいんですよ〜。ここの草、美味しいんですよ〜」
あ、やっと微妙に話が通じた。そんな素振りはおくびにも出さず、「それは良かったですね」と笑顔で応じるエルンスト。とはいえ彼も、ネゴシエイターとしてはあるまじきことだが、相手のあまりの呑気さに完全に気を緩め、ターナの立派な胸を鑑賞していた。さすが乳牛と言うべきか。服の上からでもはっきりとその立派さが分かる。さらに視線を落とす。ぐーたらな生活をしているせいか、腰回りはやや肉が付いていたが、太っている、というほどではなく、むしろ触り心地の良さそうな感じだ。
しばらくとりとめのない話をしたところで、ターナが思い出したように切り出した。
「えっとですね〜、お願いというのは〜、こういう事なんですよ〜。」
話は、それこそ大体エルンストの想像していたとおりだった。つまり、この高原には非常に良質な牧草が生えており、ここに残る仲間がいなくなってもターナとしてはここを離れたくない。実際、一人でずっと暮らすならば、峠の森から出たがらない魔物にも関わらずに済むし、問題はない。
しかし、これではこの高原から外には出られないし、ミルクも自分で飲むくらいしか使い道が無くて勿体無い。他のホルスタウロスは人間と一緒に生活し、ミルクを売ったりもしているらしい。自分もちょっとやってみたい。それに、何より。
「ちょっと…寂しいんです〜。」
脳天気に話していたターナが、その瞬間だけ本当に寂しそうにうつむいた。
「…わかりました。そういう事でしたら、本国で適切な人材を探してみましょう。そうですね…何か、希望はありますか?やはり男性が宜しいですか?」
「あ〜、男の人がいいです〜。」
ターナは嬉しそうにそれだけ答えた。しばらく待っても追加のリクエストは来ない。
エルンストは微笑みながら空を見上げた。時間は昼。太陽の日差しが気持ちいい。そろそろ夏だが、標高が高いせいか気温は丁度いいくらいだ。風も爽やかに頬をなで、涼やかに草を揺らす。ターナが欠伸をするのが聞こえ、気がつくと自分も、久しぶりに大口を開けて欠伸をしていた。
確かに、ここで、このおっとりしたターナと暮らすのはいいかもしれない。自分には宮廷魔術師、ネゴシエイターといった役割があるのでそんな事は出来ないが。
「あ〜…そうだ…エルさんエルさん〜」
ターナがこちらに向き直り、にこやかに笑いながら、話しかけてきた。
「ノド、かわきませんか〜?ミルク、飲まれませんか〜?」
「そういえば…ええ、頂きます。」
深く考えずに答えると、ターナは笑いながら…服を脱いだ。
エルンストは思わず目を丸くして、そして…不覚にも、完全に見とれてしまった。先ほど、服の上からでもその立派さが分かると書いたが、その巨乳は締め付けから開放されたとたん、瑞々しく弾けるように揺れ、素晴らしい量感を持て余している。大きさもさることながら形も文句のつけようがない美しさを誇っているのである。ホルスタウロス、という種族を差し引いても、極上と言って良いだろう。
ターナは右の乳房を腕に乗せて持ち上げ、あっけにとられるエルンストに向かってさし出してきた。
「は〜い、どうぞ〜。」
そのまま有無をいわさず、胸を顔に押し付けられる。そのむっちりした柔らかい量感に、表面の陶磁のような滑らかさ、どこか甘い匂いも手伝い、エルはほとんど本能的にその先端、ピンク色の乳首に吸い付いた。
少し吸っただけで、口の中に甘い、とても甘い何かが流れこんでくる。舌に絡みつくようなねばりのある、それでいて飲み下すと爽やかに喉を潤し、甘くとも甘ったるくはない、その味。
淫らというよりはどこか身を委ねてしまいたくなるような、ホルスタウロスのミルクに、いつしかエルンストはターナの背中に腕を回して、そのバストに顔をうずめていた。
やがて息が苦しくなり、顔を離して大きく息をつく。新鮮な高原の空気とともに、牛乳の優しい匂いを大きく吸い込み、目を開けると鼻の先でターナが少し頬を赤らめてにこにこしていた。
「…エルさん、美味しかったですか〜?」
「…ええ、とても。ありがとうございます、ターナさん。」
しどろもどろになりながらも、いつもどおりに微笑んで言葉を返すエルンスト。魔物特有の、男を狂わせるほどの濃密な色香は、このホルスタウロスからはあまり感じない。彼女は何の思惑も無く、ただただミルクを振舞ってくれたのだろう。
と、腰に違和感を覚え、エルンストはふと手を後ろに回して、さっき捻挫した部分をさすってみた。
「…これは…」
思わず声を漏らす。内出血が徐々に引いていき、伸びきって傷付いた筋も修復されていく、ゆっくりと効き目の出る慢性型回復魔法をかけられたのとほぼ同じ感覚が伝わってくる。
回復薬としても、この効き目は破格と言って良く、調合された魔法薬でこれだけの効果を出そうと思えばかなり値がはる事になるだろう。ホルスタウロスのミルクには強い滋養強壮の効果があるとは事前に調べていたが、文献によれば、その効果はせいぜい市販の薬草程度のものとしか…
そこでふと、再び腰に妙な感覚を感じた。目を落とすと、何時の間にやらエルンストの牡器官は、ローブの上からでもはっきり分かるくらいに勃起していた。同様に彼女らのミルクには精力増強の効果があることも思い出した。滋養の効果が高まっていれば、そちらもより優れた物になっているのだろうか。もちろんターナの胸に興奮したのを避けては考えられないだろうが…。
エルンストの股間を見て、ターナはますます顔を赤らめる。それはいいとして、少し物怖じしているようにも見て取れる彼女の反応を不審に思い、エルンストは問いかけた。
「あー…ターナさん、失礼ですが、これまでに男性とは…」
それを聞いてターナはびくりと背筋を震わせ、真っ赤になって身を捩りながら、
「あの〜…その〜…お、お会いしたことは…でも〜…他のみんなの相手で疲れちゃうみたいで〜…わ、私は〜…ま、まだ…だよ〜?」
慌てて素に戻る口調、顔は逸らしながらもチラチラとこちらを、正確にはエルの股間を伺う視線、急に恥ずかしそうに手で胸を覆う、そしてもちろん覆いきれない見事な双丘…。
その全てに、有り体に言ってそそられながらも、エルンストは、腰が治ったのをもう一度さすって確認し、立ち上がった。ターナはきょとんとして、エルンストを見上げる。
「あの〜…その〜…よ、よ、よろしいんです〜…か?」
「ええ。…いいですか、ターナさん。私が、あなたの依頼にお答えしてお連れする男性は…おそらく、あなたとずっと暮らすことになるでしょう。」
伴侶と言ってもいい。そう付け加えると、彼女はますます赤くなり、そしてにやける顔を押さえるように頬に手を当てた。
「…その幸運な男性のために、初めてを取って置かれるのが宜しいかと。」
そう言い捨てて、今度こそ辛抱できなくなる前に、エルンストは踵を返し、ターナを背に、帰途についた。
「ありがとうございます〜!楽しみに、楽しみに待ってます〜!」
無邪気なターナの声を後ろから聞きながら、王都に帰ったら、どの娘に旅の疲れを癒してもらおうかを考えながら。
その翌日、エルンストはとある女性の部屋で、椅子に腰掛けていた。キッチンでなにやら作業をするその部屋の持ち主である女性、それを見るエルンストの眼は、しかし女性を物色したりする眼ではなく、どこか呆れたような疲れたような、そんな表情だった。
その原因を何かと問えば、大きく分けて二つであろう。うちの一つは、もちろんその女性の正体にあった。
「全く…それだから、魔術師たるもの普段から薬学にも通じておくべきだと言うんです、兄さん。」
背中を向けたまま、玲瓏な声で彼女は、エルンストを兄と呼んだ。
「ええ、それはわかりましたよ、カリン。…本当はまぁ、私も他の事に忙しいのを分かって欲しい、という話ですがね。」
「…女の子を口説くだけの癖に…何を偉そうに。」
カリン、と呼ばれた女性は、不機嫌そうな顔を振り向けた。エルンストと同じ色の金髪はポニーテールに結われており、兄と違ってメガネはかけていないが、瞳も同じ色のブルー。
彼女こそ、エルンストの実の妹、カリン・マクスウェルである。年は4つ離れて17歳。宮廷魔術師の資格はまだ無いが、その見習いとして王宮に勤めている。
カリンはキッチンで、二つの作業を同時にこなしていた。魔術師のローブの上からエプロンを着込んだ姿がやや奇妙ながらも良く似合っている。そのうちの一つが、エルンストがやや苦手とする妹の部屋をわざわざ訪れた理由である。
「…確かに、興味深い草ですね。単体で薬効があるわけではなさそうです。兄さん、ちょっとした発見かもしれませんよ。」
彼女が調べているのは、エルンストが、ターナのいる高原を出る直前、ふと思い立って一掴み採取してきた、高原に生息する草である。
「私の仮説ですが…ホルスタウロスのミルクの成分と反応して薬効を生み出すのでは?」
エルンストが意見を口にすると、
「ありそうですが、私はむしろ彼女たちの内分泌系への影響を考えます。…まぁ、なんでもいいと言いますか…。」
全く勉強というものをしない兄と違って真面目なカリンはそこまで言って、もうひとつの作業を行っていたほうに向き直り、少し顔をほころばせた。
「…入りましたよ、兄さん。」
対照的に、エルンストはますます渋い顔をする。それこそが、彼が妹を苦手とする最大の理由であり、この部屋に座りながら浮かない表情をする原因だった。
サイフォン式、と呼ばれる本格的な装置。飾り気の無い部屋に立ち込める、香ばしい香り、嬉しそうなカリンが手にしたカップから立ち上る、湯気…。
「カリン。…カプチーノとは言いませんから、せめて、砂糖かミルクを…」
「ダメです。そんな無粋なもの、コーヒーに対する冒涜です。」
一蹴され、エルンストの目の前に、ブラックコーヒーが波打つカップがコトリと置かれ、エルンストの顔はいよいよ曇る。
「…ねぇカリン、前から言っていますが…私には、このような泥水を流しこむ趣味は無いのですよ。」
「大丈夫です、今日のは私が特別にブレンドした中でも一番香り高い組み合わせですよ?全体的に浅煎りに仕上げた中でも、8分の1の要領で加えたレトレーニィ・ラプルスを…」
嬉しそうにワケのわからないうんちくを垂れたかと思うと、カリンはコーヒーを口に含み、満足そうに息をつく。
「全く…だから兄さんの味覚は子供だと言うんです。こんなにも芳醇なコーヒーを、言うに事欠いて泥水だなんて…。」
得意げに言うカリン。兄弟姉妹で食べ物の好き嫌いが逆になるのはままあることだが、この二人の場合はそれがさらに極端に出ており、兄がコーヒーを大の苦手としているのに、妹のカリンは日に10杯以上のコーヒーを自分で淹れて飲むコーヒーフリークなのである。
「ハァ…もういいですよ、カリン。…それで、その牧草のことに話を戻したいんですが。」
「あ、はい。そうですね、図鑑に該当する薬草は見当たりません。先程も言いましたが、単体での薬効は無さそうです。…でも兄さん、どうしてそんな事を…?」
その質問に答えようとしたとき、ノックの音がして、カリンが扉に歩み寄り、『どなたですか』と問い返す。
扉の向こうから帰ってきたのは、低い声だった。
「グランツだ。」
「ああ、グランツさんですか。今開けます。」
兄を通じてグランツとも周知の仲であるカリンは顔色一つ変えずに扉を開け、今日は普段着の上に軽装のプレートメイルだけを着込んだグランツを招き入れた。
「すまんな…エルが、ここにいると…聞いたのでな。」
「兄さんに用ですか?…とにかく中へどうぞ。」
グランツも、カリンの前では赤面したり口ごもったりすること無く普通に出来るらしい。部屋に入って、彼はすぐに鼻をひくつかせ、巌のような顔に笑みを浮かべた。
「…いい香りだ。」
「ふふ、分かりますか?良かったらいかがです?」
「うむ。…ああ、あればでいいが…アイスの方がいいな。」
「ええ、後で飲もうと思って濃い目のを冷やしてあります、すぐ用意しますね。」
カリンがキッチンの方へ歩いていく。グランツはエルの左に座った。エルンストは彼を横目で見ながら自分のカップを軽く指で叩いた。
「グランツ、良ければこの泥水も処理して下さい。冷たいのが良ければ今から魔術で冷やしますから。」
「いや、いい。…それを冷やすのとは、少し違うのだ。…それより。」
そこまで言ってグランツは、エルンストの方に身を乗り出し、少し声を潜めて話しかけてきた。
「…そのな、昨日…とある町娘と、話す機会があったのだが…」
「…その口ぶりだと、また失敗したのでしょう?」
「む…うむ。…それで、何を失敗したのかが…」
「ええ、後で聞きます。…まぁ、その話はここでは止めておきましょう。」
笑って答えたエルンストと、頷いて背もたれに身を預けなおしたグランツの間に、透明なグラスに入ったコーヒーがやや乱暴に置かれ、
「…聞こえてますよ。」
とカリンが詰るような声で告げる。グランツは唸りながら肩をすくめた。
「ああ、グランツさんはいいんです。…でも、女の人の扱いを兄さんに習うのはどうかと思います。」
「おや、それは聞き捨てなりませんね。私以上に女性との逢瀬に詳しい男がローエンハルトにいるとでも?」
笑みを崩さずエルンストが言い放つと、カリンは眉をしかめ、やや怒った口調でやり返す。
「こんな不誠実に女の子をとっかえひっかえするような非常識極まりない人にそういう事を教わったのでは、グランツさんまでそれに毒されてしまうでしょう?」
「…う…む…確かに、エルのああいう所は…どうかと…」
「ですよね!ほら見なさい。全く…もう少し、マクスウェル家の評判を考えて下さいと言うんです。」
「だ、だがな…その、確かに、こういう事はエルが…一番、詳しい…のでな…」
「ええ、それが事実ですよ、グランツ。それにですね、世の女性が、私を放っておかないのであって…」
「全く、またそうやって詭弁を弄する!大体…!」
「む…ぅ…その、あまり、喧嘩は…」
不誠実な兄を叱りつける妹と、のらりくらりとそれをかわす兄と、それを収めるほど口先が回らないために間でオロオロするグランツ。この三人が集まると、よくこういう構図が見られる。そして、大体その終わり方も定型文になっている。
「…ふぅ…もう、そこまで言うのであれば、グランツとカリンが付き合えばいいじゃないですか。そうすれば二人とも恋愛がもう少し分かるでしょう?」
「…む。…失礼かもしれんが…やはり、カリンとは…そういう間柄には、なれん…気がする。」
「そう…ですね。グランツさんはいい人ですけど…そういうのは、違う気が…。」
毎回毎回エルンストにそう振られるたびに、二人とも素っ気無くそう返す。ここで話題を切り替えるとカリンの追求は止むのである。
エルは、二人に今回の依頼についての相談をしてみることにした。カリンには牧草の経緯からある程度話をしていたが、グランツはこれが初耳になる。最初から一通り説明を終え、一応エルンストは隣に座るグランツに話を振ってみた。
「どうですか、グランツ。あなたなら人材としては申し分ありませんが。」
「それは…出来んな。俺には…役目がある。」
「そうですよね。兄さんもそれはわかって聞いたんでしょう?」カリンがコーヒーを一口すすり、気楽に口を出す。「聞いていれば、そんなに難しいことじゃ無さそうですね。向こうから何も文句が出ないなら、落ち着き場所を探している流れ者でもあてがってしまえばよろしいのでは?」
「…そうだな。…エル?どうした?」
カリンが言った言葉に、険しい表情で考え込んだエルンストに、グランツが怪訝な顔をする。カリンも少し眼を丸くしてこちらを見ている。
「…この依頼について、考えている事があります。…まだ、しっかりと纏まっている訳では…ありませんが。」
「そうか…話してみろ。」
「どうぞ、兄さん。話しているうちに、形になってくることもあるでしょう。」
二人に優しく促され、エルンストは訥々と語り始める。
「…確かに、簡単です。彼女…ターナは、こちらがどんな条件を提示しようと、それを飲むでしょう。反攻の危険も、種族柄ほとんど無い。…ですが、果たして…その簡単さに、甘えていいものか?そう思うのです。」
「…良く、解らんが。」
「つまりですね…与し易し、と見ればこちらに都合のいいように応対する…その態度は、今後の魔物との交渉を考えた場合に、少なからず相手に不信感を与えるのではないか、と…いう話です。」
「なるほど。…この一件で、図らずも我々の態度が試される、ということですね?」
カリンは納得がいったように頷いた。グランツも、彼の意図するところは汲み取ったらしく、腕を組んで考え込んだ。
「故に…私としては、このケースでこそ、誠意を見せたいと考えます。…まぁ、ターナ嬢に悪い思いをさせたくない、というのもありますがね。」
冗談めかして言うエルンストだが、今度は誰も彼を詰るようなことはしない。兄には手厳しいカリンも、クスクスと笑っている。
「…ふむ。具体的には…?」
「それです。グランツ、以下の条件…命令に忠実で真面目であること、ある程度腕の立つこと、家庭や…要するに、『経営』で一生を終えてもいいこと…これらの条件を満たす人材、心当たりはありませんか?」
「…恋人もいない方がいいでしょうね。」
それを聞いて、ローエンハルトの若き猛将は眼を閉じて考え込んだ。しばらくして、険しい表情のまま口を開く。
「…三番目が、な。」
「…やはり、そうですか…。」
エルンストはそれを聞いて肩を落とす。が、すぐにいつものスマイルを取り戻して、
「まぁ、そうすぐに上手くはいかないでしょう。…地道にいろいろ当たって…」
と、そこでまたノックの音がする。もう一度部屋の主がドアに近づいていき、応対している。エルの位置からは声が聞き取りづらかったので、隣にいるグランツといくつか会話しているうちに、カリンが突然、
「ええっ!?は、はは、はい、しょ、少々お待ち下さい…!?」
と、慌てた声を上げた。何事かとそちらを見やると、彼女はこちらに数歩急ぎ足で近寄り、ささやいた。
「へ、陛下です、国王陛下が…わ、わたしの、部屋に…!」
聞いて、グランツは椅子を立ち、直立不動になる。カリンが慌てて部屋の中に散らかりがないか見回すのを待たず、エルも立ち上がってドアに向かい、「ちょ、に、兄さん!?」というカリンの声を聞き流し、扉を開けた。
「お、エルもここにおったのか。」
向こうには、ローエンハルト国王が気さくな笑顔で立っていた。
「ええ、どうぞお入り下さい。少々散らかっておりますが…。」
「ち、散らかってなど…その、み、見苦しければ、すぐに掃除を…!」
「おお、構わんよ、カリン。それにお主が正しいの、綺麗なもんじゃ…。固くならんで良いぞ、誰も咎めやせんでな。」
ニコニコとそう言われ、カリンもいささか緊張がほぐれた様子で、ほっと一息ついて、国王に椅子を勧めた。
「うむ、すまんの…グランツ、それに皆も座っておくれ。」3人も一礼して席に着く。「実はの、この部屋の前を通りかかったら…何とも美味しそうな匂いがしての…コーヒーか、一杯淹れてもらえんかな?」
「は、はい、ただいま!…陛下、お砂糖やミルクは…」
急に話を振られ、またしてもカリンがガチガチになる。
「砂糖を少し入れとくれ、すまんの。」
「カリン、私にも砂糖とミルクを持ってきてください。この扱いはフェアではない。」
「ああもう、兄さんは黙ってください…!」
緊張しきった妹をからかうようにエルが言葉を掛けると、カリンは今にも耳から煙でも出しそうなくらい慌てている。
「おお、そうじゃ…ミルクと言えば。…エル、ホルスタウロスの一件は進んでおるか?」
「実は…今、その件について、グランツ達と話をしていた所だったのですよ。」
「…ですが、私どもでは…力及ばず。…出来れば、陛下にもお知恵を。」
エルも国王と結構フランクに話すが、恐らく仲の良さではグランツに及ばない。ネゴシエイター、という立場で国王と差し向かいに話す機会が増えたとはいえ、軍議などでしょっちゅう頼りにされるグランツとでは回数がまるで違う。さすがに、ストレートに国王に助力を頼むのはその関係の強さの証拠であると言えた。
「うむ、それは構わんぞ。…じゃがの、出来れば状況を説明してくれんと…さすがのわしといえども、何を考えていいやら分からん。」
「畏まりました。…では、まずは…。」
エルンストがここまでの経緯と、このケースに関しての自分の考え、そして今考えている人材の条件をすらすらと述べる。その間に、カリンが新しく淹れなおしたコーヒーを国王の前に置いた。
話が一通り終わると、国王はコーヒーを一口すすり、少し考えてから口を開いた。
「人材、の。心当たりがあるぞ。…レナード、という男を知っておるか?」
エルンストには馴染みのない名前だった。カリンも同様に首を傾げたが、もとより国王の眼はグランツに向いていた。彼はその名前を聞いて、驚いた顔を見せる。
「しかし…陛下、奴は…。」
「あれは目下帰るところが無い。実直な兵士でもあるし、腕の方も十二分であろう。」
「あ…あの、良ければ、その…レナード、という人について…教えていただけませんか?」
おずおずと手を挙げ、カリンが発言する。それにかぶせるように、エルが、
「とりあえず、陛下のお言葉から、私の挙げた3つの条件をクリアする事は確かなようです。…グランツに訊きますが、貴方が彼について渋ることは何ですか?」
話をはぐらかされないよう、状況を的確につかんで最短距離を突く。グランツは巌のような顔にさらに皺を刻み、エルンストに向き直った。
「レナードは…俺の元部下だ。…エル。戦争後遺症、と言って…分かるか?」
「あ、私、聞いたことあります。戦争による…例えば精神的な苦痛から立ち直れなくなったり、強化魔法のかけ過ぎで効力が消えなくなったり…ですよね?」
エルンストではなく、カリンが答える。グランツは重々しく頷いた。
「なるほど。つまりそのレナードという方は、その戦争後遺症である、と。…症状は、どのような?」
「それは…すまんが、答えられん。本人が話さないのであれば、俺の口からは言えん。」
こう見えて部下に対する気遣いは細やかなグランツ。
「やれやれ…まぁ、それは仕方ないですが…それでは話が進まないのも事実です。」
「そうじゃの。…まぁ、分類するなら精神的なもんじゃよ。」それぐらいはよかろう、と国王がグランツに目配せし、グランツも頷く。「それに、重症というわけではない。とりあえず生活するくらいなら、問題は無いんじゃがな。」
「あの…陛下、宜しいですか?」
カリンがまた、発言する。
「おお、構わんぞ。どんどん意見を出しとくれ。」
「その…わざわざ戦争後遺症のある方を選ばなくとも…あの…」
やはり遠慮があるのか、どんどん口ごもるカリン。しかし言わんとするところは分かり、エルンストとしてもそこが納得行かない。国王は、二つ頷いて、落ち着いた声で告げた。
「…我々はの。魔物との、共生関係を築いていかねばならぬのじゃよ。」
「…なるほど。お考えはわかりました。…よし。」エルンストは納得して、膝を叩く。カリンとグランツはまだ首を傾げているが、彼は立ち上がって、「それで行きましょう。…レナード君の所へ…グランツ、案内をお願いできますか?」
「む…うむ。…良いんだな、エル?」
渋い顔をしたグランツに、いつもの笑顔で応じる。
「よし、ワシも付いて行こう。…カリン、コーヒーをご馳走になったの。とても美味しかったよ。」
「あ、ありがとうございます…。…あ、そうだ。兄さん、どうです。」
「どうです…とは、何がですか?」
「陛下のお墨付きが出ても、まだ泥水だと言い張りますか、私のコーヒーを。」
少し勝ち誇った様子のカリンに、エルンストはやれやれ、とため息をついた。
最初は講和条約締結に忙しかった宮廷魔術師、エルンスト・マクスウェルも、最近は個々の種族との問題を解決することが多くなった。例えば今などは、ギルタブリルの毒に関する交渉を行って、宮廷に帰ってきた所だ。解毒剤の研究を進めるために毒のサンプルを提供してもらい、それを条件に猛毒の人間に対する使用を認めるという条件で…。
ヒュン。
ふと、昼下がりのローエンハルト王城の庭を歩くうち、エルンストは、小気味良い風切り音に気づいた。その方向を見ると、開けた場所で、鎧姿の騎士が素振りをしていた。
一心不乱に、一部の乱れも無く、一振りごとに静かに燃える気迫が込められている。両手持ちの大きな剣であるにも関わらず、目にも留まらぬ速度で振り下ろされ、ピタリと切っ先を頭の高さで止める完璧な素振り。エルンストは、その騎士に話しかけた。
「…グランツ、精が出ますね。そろそろお疲れでは?」
呼ばれた騎士は大剣を下ろし、汗を拭いながらエルンストに向き直った。彫りの深い顔に、鋭い眼光、一文字に閉じられた口。精悍な武将そのものの風貌が、見るものを威圧する。
「…エルか。…いや、まだ大した数はこなしていない。」
低い声で答えた。彼の名は、グランツ・ラングレン。エルンストとは同い年で幼少からの友人である。エルンストに取っては数少ない男の友人である、とも言う。そして、ローエンハルトきっての猛将であり、若くして当世最強の剣士との呼び名も高く、『武神』の異名をとる程の強者だ。
「…あなたの言う『大した数』は、常人からすれば天文学的ですよ。」
「…まだ五百三十だ。せめて一千は…。」
朴訥に答えたグランツに、エルはため息をつく。
「で、それが垂直で、後は左右が五百ずつ、突きの型が一千…そんなところでしょうね。…もう大きな戦いはそうそう無いでしょう、少し骨を休められてはいかがですか?」
「愚問だ。…鍛えなければ、錆びる。武とは…そういうものだ。」
ためらいも無く答えたグランツに、少し苦笑しながら、エルは軽く魔術を使い、空気中の水分を集めて、氷のグラスと水を作り出した。グランツに差し出すと、彼は頷いてそれを受け取った。
「…すまんな、エル。…感謝する。」
「いえいえ。」律儀に二度も頭を下げたグランツに、エルンストは微笑で返す。「頭が下がりますよ。もうそこまで鍛錬を重ねている兵士は少ないですからね。」
ともすれば嫌味ととれる発言に、グランツは、特に気を悪くした風もなく水を飲み、一息ついて、
「…役に立つ機会が無ければそれでいい。…軍とは、そういうものだ。」
答えて、グラスをエルに返してきた。そしてまた軽く礼をし、何も言わず素振りを始める。言葉少なでとっつきにくい印象はあるが、実直な性格を知る人には好まれている。わけてもエルンストとの間柄は、まず親友と言ってよかった。そしてその親友としての立場から、エルンストは、
「…女性の前でもそれだけいいことが言えれば、もっと上手く行くのでしょうね。」
「…う…む…。」
痛いところを突かれたグランツが、思わず剣を地面に打ち付ける。『泣かした女の涙でアクアフラッドが起こせる』と評判のエルンストとは対照的に、このグランツは、女性の扱いに関してはとことん下手だった。
「…全く。顔は悪くないし、ストイックさから相当な人気があるんですから…もっと自信を持って当たらないと。」
「…そうは…言うが。」
グランツときたら、戦場では向かうところ敵なしなのに、女性と対面するだけで真っ赤になり、しどろもどろでしか話せなくなるほどの重症なのだった。時折『エルンストの女ったらしと足して2で割ってしまえばいいのに』なんて話も聞く。
「そうですね…では、何かしら話を自分から振っていけばいいでしょう。君には英雄譚も多いんですから、それを聞かせれば女性は必ず憧れてくれますよ。…私と一緒に海王竜6頭を討伐した時の話など…」
「それを…」
急に話に割り込んできたグランツの顔を見ると、やたらめったら真剣な顔で、剣の先に敵を見るようにこちらをジッと見つめていた。
「…話せば…その…エル、い、いけるのか…?」
「…ふふっ…ええ、大丈夫ですよ、グランツ。きっと世の女性の、羨望の的になれます。何なら少し脚色してもいいでしょう。」
「…そうか…。」
幾分さっきより嬉しそうに、また素振りを始めたグランツ。エルは面白そうに笑いながら、その場を後にし、国王のもとに、報告に向かった。
「そうか…ご苦労じゃったな、エル。…それで、次の依頼じゃが。」
「いやはや…大忙しですね、少しは休ませても貰いたいものです。」
謁見の間で、いそいそと書類を取り出すローエンハルト国王に、苦笑しながらエルンストが口答えする。講和の交渉より、種族ごとの問題の方がよっぽど厄介で、数も多い。
「ならば、次の依頼は結構のんびりできそうじゃぞ、良かったの。」
国王も半ばふざけた調子で応じる。エルンストがさして忙しさを苦にしていないのを分かっているのだろう。
「…相手の種族は、ホルスタウロスと言うそうじゃ。…わしは良く知らんが…ケンタウロスの仲間なのか?」
「ホルスタウロス、ですか。…彼女たちはミノタウロスの仲間ですね、ですがミノタウロスと違っておとなしい種族です。」
乳牛としての能力に優れ、おっとりした種族である。そこでふとエルは疑問を持った。
「…ホルスタウロスが、何らかの緊急な問題を抱えるとは思えないのですが。…人間を拘束するようなこともなければ、さして乱獲の対象にも成り得ませんし。」
「うむ。大人しい種族、と言うことは聞いておったから、わしもおかしいと思ったのじゃが…どうも、自分を『経営』して欲しいらしいのぅ。」
「はぁ…」ポカンとして、エルンストが応じる。「それは…別に、難しいことでも何でもないと思いますが。ローエンハルト以外の国でも、ホルスタウロスの農場を認めている国は少なくありません。彼女たちより安全な魔物は探す方が難しいですし、結構な利益もつきます。…この依頼、ホルスタウロス側からの書簡ですか?」
「いや、ハーピィの伝言じゃ。最近魔物の間ではやっておるようじゃが…どうにも要領を得んでな。…聞いていると確かに妙ではある。行って話を聞いてきてくれんか?よろしく頼むぞ、エル。」
「…畏まりました。まぁ、確かに、のんびりは出来そうですね。」
笑いながら答えたエルに、国王も大きく息をついた。
翌日の朝、その場所へ向かう途中。エルンストは、その伝言の不備と『のんびり出来そう』という自分の言葉を呪っていた。一緒に国王も呪ってしまいたかったが、忠実な宮廷魔術師たる自分にはできそうもなかった。
指定された場所は人里離れたとある高原であり、王都からだいぶ距離がある他、そこ自体に問題はないのだが、その周囲、もっと言うならばそこへ向かうまでの道のりに、非常に大きな問題があった。
四方のうち三つを標高一千メートルを越す岩山に囲まれ、ここを通るのは至難の業だ。そして、残る一方…王都のある、南西側には、森が広がっている。端的に言えば、この森が問題なのだ。
木々の間を、何かが疾走する音に、エルンストは足を止めて、やれやれと溜息をつく。これでもう何匹目だろうか…。
この森は、旧魔族の眷属である、いわゆるところの『人を襲う魔物』の巣窟なのだった。一般人ならまず立ち入り禁止のレベル、それなりに実力のあるものならば命を落すほどの危険があるわけではないが、問題はエルンストの職業だった。
「…やれやれ…。前衛が欲しいですねぇ…。」
一般常識として、魔術師の一人旅は危険である。どれだけ迅速に対応しても、『詠唱』というタイムラグが埋められない。いかに『天才魔術師』であろうと、仕方の無い話である。
向こうはこちらに気づいたらしい。視覚情報には頼れないので、音で相手を識別する。さして大きい相手ではない、『アクアカッター』で十分だろう。遭遇までの時間に検討をつけ、軽い呪文を素早く唱え、発動を待機させて備える。
音源が、素早く動き、見て取れる距離の茂みがガサガサと蠢く。敵を視認してしまえば、自然魔術の性質として、まず外れることはない。焦るな。術式の解放には一瞬、いかに敵が早く襲いかかろうと、こちらのほうが早い…。
ひときわ大きく茂みが揺れ、狼のような魔物が飛び出し…エルンストは思わず舌打ちした。
ほぼ同時に、もう一匹、大蛇型の魔物が地を這い、狼のすぐ横から飛び出すのが見えたのだ。
エルは大きく腰を捻り、狼の一撃、その下へ辛うじて潜り込む。即座に『アクアカッター』を発動した。圧縮された水の刃が、狼の腹から背にかけてを一断ちにして貫く。体勢を崩したエルンストの脇腹めがけて、蛇が鎌首をもたげて襲いかかり、そして。
「…我ながら、自分の機転に惚れ惚れしますね、全く。」
アクアカッターが、狼を貫通して斬った木が、こちらに倒れてきて、蛇の腹の上にのしかかり、その動きを止めた。膝をつきながら強がった台詞を吐いたエルンストだが、額を拭うとその汗は冷たかった。調べたくも無いが、今の蛇が牙に毒でも持っていたらと思うと肝が縮む。
「…ふん。…そもそも私は魔術師です、こんな泥臭い強行軍は…ッ」
立ち上がり、息を飲んで腰を押さえる。ねじった時に痛めたらしい。
「腰を痛める…年でも無いですけどね。…全く、運動不足ですかね?」
たった今斬り倒した木の上に腰掛け、水系列の回復魔法を詠唱し始める。戦争や冒険家の影響で、回復魔法と回復薬は非常に発達しており、『死ななきゃ大丈夫』という格言まであるくらいである。ぎっくり腰くらいは何でもない。
が。
ガサッ、という音が背後で聞こえた。エルンストはまた一つ溜息をつく。この峠道に入ってからいくつ目だろう。回復魔法の詠唱を中断し、今度こそ相手が何であろうと足りるように、オリジナルの最大魔法であるところの『巌断つ天の川』をやや投げやりに詠唱しながら、後ろを振り向く。
「…あの〜…お、お迎えに…あがりましたんですが〜…」
間の抜けた声と同時に、声の主が茂みから姿を現し、それを見てエルンストは術の詠唱を止めた。
そこに立っていたのは、おどおどした目でこちらを見つめる、ホルスタウロスだった。
「これはこれは…初めまして、エルンストと申します。…事情は、大体察しましたよ。」
「え〜っと…ホルスタウロスの〜、ターナと申します〜」
のんびりとした声で自己紹介をしたターナというホルスタウロスに連れられ、できるだけ魔物の出ないルートで峠道を抜け、出たところは、のどかで一面の若草に覆われた、広大な高原だった。その中に二人して座り込み、エルンストとターナは向かい合っていた。
ちなみに、まだエルのぎっくり腰は治っていない。女性の前で、『ぎっくり腰を治療しますので』などと言う事は、ローエンハルトきってのプレイボーイたるエルンストの美学に反する。腰をこっそり氷魔術で冷やしながらここまで歩いているのだ。ちょっと涙ぐましい。
「ずいぶん広いところですね。…ずっとここに住んでおられるのですか?」
「あ〜…そういえば〜晴れて良かったですね〜。」
「そうですね。雨がふったらあの峠道はずいぶん歩きにくそうですから。」
「私以外のみんなは〜、皆ここから出ていっちゃんたんですよ〜」
「それはそれは…ここを離れたくないのは、やはり故郷だからですか?」
「こんな日は〜、草が美味しいんですよ〜。ここの草、美味しいんですよ〜」
あ、やっと微妙に話が通じた。そんな素振りはおくびにも出さず、「それは良かったですね」と笑顔で応じるエルンスト。とはいえ彼も、ネゴシエイターとしてはあるまじきことだが、相手のあまりの呑気さに完全に気を緩め、ターナの立派な胸を鑑賞していた。さすが乳牛と言うべきか。服の上からでもはっきりとその立派さが分かる。さらに視線を落とす。ぐーたらな生活をしているせいか、腰回りはやや肉が付いていたが、太っている、というほどではなく、むしろ触り心地の良さそうな感じだ。
しばらくとりとめのない話をしたところで、ターナが思い出したように切り出した。
「えっとですね〜、お願いというのは〜、こういう事なんですよ〜。」
話は、それこそ大体エルンストの想像していたとおりだった。つまり、この高原には非常に良質な牧草が生えており、ここに残る仲間がいなくなってもターナとしてはここを離れたくない。実際、一人でずっと暮らすならば、峠の森から出たがらない魔物にも関わらずに済むし、問題はない。
しかし、これではこの高原から外には出られないし、ミルクも自分で飲むくらいしか使い道が無くて勿体無い。他のホルスタウロスは人間と一緒に生活し、ミルクを売ったりもしているらしい。自分もちょっとやってみたい。それに、何より。
「ちょっと…寂しいんです〜。」
脳天気に話していたターナが、その瞬間だけ本当に寂しそうにうつむいた。
「…わかりました。そういう事でしたら、本国で適切な人材を探してみましょう。そうですね…何か、希望はありますか?やはり男性が宜しいですか?」
「あ〜、男の人がいいです〜。」
ターナは嬉しそうにそれだけ答えた。しばらく待っても追加のリクエストは来ない。
エルンストは微笑みながら空を見上げた。時間は昼。太陽の日差しが気持ちいい。そろそろ夏だが、標高が高いせいか気温は丁度いいくらいだ。風も爽やかに頬をなで、涼やかに草を揺らす。ターナが欠伸をするのが聞こえ、気がつくと自分も、久しぶりに大口を開けて欠伸をしていた。
確かに、ここで、このおっとりしたターナと暮らすのはいいかもしれない。自分には宮廷魔術師、ネゴシエイターといった役割があるのでそんな事は出来ないが。
「あ〜…そうだ…エルさんエルさん〜」
ターナがこちらに向き直り、にこやかに笑いながら、話しかけてきた。
「ノド、かわきませんか〜?ミルク、飲まれませんか〜?」
「そういえば…ええ、頂きます。」
深く考えずに答えると、ターナは笑いながら…服を脱いだ。
エルンストは思わず目を丸くして、そして…不覚にも、完全に見とれてしまった。先ほど、服の上からでもその立派さが分かると書いたが、その巨乳は締め付けから開放されたとたん、瑞々しく弾けるように揺れ、素晴らしい量感を持て余している。大きさもさることながら形も文句のつけようがない美しさを誇っているのである。ホルスタウロス、という種族を差し引いても、極上と言って良いだろう。
ターナは右の乳房を腕に乗せて持ち上げ、あっけにとられるエルンストに向かってさし出してきた。
「は〜い、どうぞ〜。」
そのまま有無をいわさず、胸を顔に押し付けられる。そのむっちりした柔らかい量感に、表面の陶磁のような滑らかさ、どこか甘い匂いも手伝い、エルはほとんど本能的にその先端、ピンク色の乳首に吸い付いた。
少し吸っただけで、口の中に甘い、とても甘い何かが流れこんでくる。舌に絡みつくようなねばりのある、それでいて飲み下すと爽やかに喉を潤し、甘くとも甘ったるくはない、その味。
淫らというよりはどこか身を委ねてしまいたくなるような、ホルスタウロスのミルクに、いつしかエルンストはターナの背中に腕を回して、そのバストに顔をうずめていた。
やがて息が苦しくなり、顔を離して大きく息をつく。新鮮な高原の空気とともに、牛乳の優しい匂いを大きく吸い込み、目を開けると鼻の先でターナが少し頬を赤らめてにこにこしていた。
「…エルさん、美味しかったですか〜?」
「…ええ、とても。ありがとうございます、ターナさん。」
しどろもどろになりながらも、いつもどおりに微笑んで言葉を返すエルンスト。魔物特有の、男を狂わせるほどの濃密な色香は、このホルスタウロスからはあまり感じない。彼女は何の思惑も無く、ただただミルクを振舞ってくれたのだろう。
と、腰に違和感を覚え、エルンストはふと手を後ろに回して、さっき捻挫した部分をさすってみた。
「…これは…」
思わず声を漏らす。内出血が徐々に引いていき、伸びきって傷付いた筋も修復されていく、ゆっくりと効き目の出る慢性型回復魔法をかけられたのとほぼ同じ感覚が伝わってくる。
回復薬としても、この効き目は破格と言って良く、調合された魔法薬でこれだけの効果を出そうと思えばかなり値がはる事になるだろう。ホルスタウロスのミルクには強い滋養強壮の効果があるとは事前に調べていたが、文献によれば、その効果はせいぜい市販の薬草程度のものとしか…
そこでふと、再び腰に妙な感覚を感じた。目を落とすと、何時の間にやらエルンストの牡器官は、ローブの上からでもはっきり分かるくらいに勃起していた。同様に彼女らのミルクには精力増強の効果があることも思い出した。滋養の効果が高まっていれば、そちらもより優れた物になっているのだろうか。もちろんターナの胸に興奮したのを避けては考えられないだろうが…。
エルンストの股間を見て、ターナはますます顔を赤らめる。それはいいとして、少し物怖じしているようにも見て取れる彼女の反応を不審に思い、エルンストは問いかけた。
「あー…ターナさん、失礼ですが、これまでに男性とは…」
それを聞いてターナはびくりと背筋を震わせ、真っ赤になって身を捩りながら、
「あの〜…その〜…お、お会いしたことは…でも〜…他のみんなの相手で疲れちゃうみたいで〜…わ、私は〜…ま、まだ…だよ〜?」
慌てて素に戻る口調、顔は逸らしながらもチラチラとこちらを、正確にはエルの股間を伺う視線、急に恥ずかしそうに手で胸を覆う、そしてもちろん覆いきれない見事な双丘…。
その全てに、有り体に言ってそそられながらも、エルンストは、腰が治ったのをもう一度さすって確認し、立ち上がった。ターナはきょとんとして、エルンストを見上げる。
「あの〜…その〜…よ、よ、よろしいんです〜…か?」
「ええ。…いいですか、ターナさん。私が、あなたの依頼にお答えしてお連れする男性は…おそらく、あなたとずっと暮らすことになるでしょう。」
伴侶と言ってもいい。そう付け加えると、彼女はますます赤くなり、そしてにやける顔を押さえるように頬に手を当てた。
「…その幸運な男性のために、初めてを取って置かれるのが宜しいかと。」
そう言い捨てて、今度こそ辛抱できなくなる前に、エルンストは踵を返し、ターナを背に、帰途についた。
「ありがとうございます〜!楽しみに、楽しみに待ってます〜!」
無邪気なターナの声を後ろから聞きながら、王都に帰ったら、どの娘に旅の疲れを癒してもらおうかを考えながら。
その翌日、エルンストはとある女性の部屋で、椅子に腰掛けていた。キッチンでなにやら作業をするその部屋の持ち主である女性、それを見るエルンストの眼は、しかし女性を物色したりする眼ではなく、どこか呆れたような疲れたような、そんな表情だった。
その原因を何かと問えば、大きく分けて二つであろう。うちの一つは、もちろんその女性の正体にあった。
「全く…それだから、魔術師たるもの普段から薬学にも通じておくべきだと言うんです、兄さん。」
背中を向けたまま、玲瓏な声で彼女は、エルンストを兄と呼んだ。
「ええ、それはわかりましたよ、カリン。…本当はまぁ、私も他の事に忙しいのを分かって欲しい、という話ですがね。」
「…女の子を口説くだけの癖に…何を偉そうに。」
カリン、と呼ばれた女性は、不機嫌そうな顔を振り向けた。エルンストと同じ色の金髪はポニーテールに結われており、兄と違ってメガネはかけていないが、瞳も同じ色のブルー。
彼女こそ、エルンストの実の妹、カリン・マクスウェルである。年は4つ離れて17歳。宮廷魔術師の資格はまだ無いが、その見習いとして王宮に勤めている。
カリンはキッチンで、二つの作業を同時にこなしていた。魔術師のローブの上からエプロンを着込んだ姿がやや奇妙ながらも良く似合っている。そのうちの一つが、エルンストがやや苦手とする妹の部屋をわざわざ訪れた理由である。
「…確かに、興味深い草ですね。単体で薬効があるわけではなさそうです。兄さん、ちょっとした発見かもしれませんよ。」
彼女が調べているのは、エルンストが、ターナのいる高原を出る直前、ふと思い立って一掴み採取してきた、高原に生息する草である。
「私の仮説ですが…ホルスタウロスのミルクの成分と反応して薬効を生み出すのでは?」
エルンストが意見を口にすると、
「ありそうですが、私はむしろ彼女たちの内分泌系への影響を考えます。…まぁ、なんでもいいと言いますか…。」
全く勉強というものをしない兄と違って真面目なカリンはそこまで言って、もうひとつの作業を行っていたほうに向き直り、少し顔をほころばせた。
「…入りましたよ、兄さん。」
対照的に、エルンストはますます渋い顔をする。それこそが、彼が妹を苦手とする最大の理由であり、この部屋に座りながら浮かない表情をする原因だった。
サイフォン式、と呼ばれる本格的な装置。飾り気の無い部屋に立ち込める、香ばしい香り、嬉しそうなカリンが手にしたカップから立ち上る、湯気…。
「カリン。…カプチーノとは言いませんから、せめて、砂糖かミルクを…」
「ダメです。そんな無粋なもの、コーヒーに対する冒涜です。」
一蹴され、エルンストの目の前に、ブラックコーヒーが波打つカップがコトリと置かれ、エルンストの顔はいよいよ曇る。
「…ねぇカリン、前から言っていますが…私には、このような泥水を流しこむ趣味は無いのですよ。」
「大丈夫です、今日のは私が特別にブレンドした中でも一番香り高い組み合わせですよ?全体的に浅煎りに仕上げた中でも、8分の1の要領で加えたレトレーニィ・ラプルスを…」
嬉しそうにワケのわからないうんちくを垂れたかと思うと、カリンはコーヒーを口に含み、満足そうに息をつく。
「全く…だから兄さんの味覚は子供だと言うんです。こんなにも芳醇なコーヒーを、言うに事欠いて泥水だなんて…。」
得意げに言うカリン。兄弟姉妹で食べ物の好き嫌いが逆になるのはままあることだが、この二人の場合はそれがさらに極端に出ており、兄がコーヒーを大の苦手としているのに、妹のカリンは日に10杯以上のコーヒーを自分で淹れて飲むコーヒーフリークなのである。
「ハァ…もういいですよ、カリン。…それで、その牧草のことに話を戻したいんですが。」
「あ、はい。そうですね、図鑑に該当する薬草は見当たりません。先程も言いましたが、単体での薬効は無さそうです。…でも兄さん、どうしてそんな事を…?」
その質問に答えようとしたとき、ノックの音がして、カリンが扉に歩み寄り、『どなたですか』と問い返す。
扉の向こうから帰ってきたのは、低い声だった。
「グランツだ。」
「ああ、グランツさんですか。今開けます。」
兄を通じてグランツとも周知の仲であるカリンは顔色一つ変えずに扉を開け、今日は普段着の上に軽装のプレートメイルだけを着込んだグランツを招き入れた。
「すまんな…エルが、ここにいると…聞いたのでな。」
「兄さんに用ですか?…とにかく中へどうぞ。」
グランツも、カリンの前では赤面したり口ごもったりすること無く普通に出来るらしい。部屋に入って、彼はすぐに鼻をひくつかせ、巌のような顔に笑みを浮かべた。
「…いい香りだ。」
「ふふ、分かりますか?良かったらいかがです?」
「うむ。…ああ、あればでいいが…アイスの方がいいな。」
「ええ、後で飲もうと思って濃い目のを冷やしてあります、すぐ用意しますね。」
カリンがキッチンの方へ歩いていく。グランツはエルの左に座った。エルンストは彼を横目で見ながら自分のカップを軽く指で叩いた。
「グランツ、良ければこの泥水も処理して下さい。冷たいのが良ければ今から魔術で冷やしますから。」
「いや、いい。…それを冷やすのとは、少し違うのだ。…それより。」
そこまで言ってグランツは、エルンストの方に身を乗り出し、少し声を潜めて話しかけてきた。
「…そのな、昨日…とある町娘と、話す機会があったのだが…」
「…その口ぶりだと、また失敗したのでしょう?」
「む…うむ。…それで、何を失敗したのかが…」
「ええ、後で聞きます。…まぁ、その話はここでは止めておきましょう。」
笑って答えたエルンストと、頷いて背もたれに身を預けなおしたグランツの間に、透明なグラスに入ったコーヒーがやや乱暴に置かれ、
「…聞こえてますよ。」
とカリンが詰るような声で告げる。グランツは唸りながら肩をすくめた。
「ああ、グランツさんはいいんです。…でも、女の人の扱いを兄さんに習うのはどうかと思います。」
「おや、それは聞き捨てなりませんね。私以上に女性との逢瀬に詳しい男がローエンハルトにいるとでも?」
笑みを崩さずエルンストが言い放つと、カリンは眉をしかめ、やや怒った口調でやり返す。
「こんな不誠実に女の子をとっかえひっかえするような非常識極まりない人にそういう事を教わったのでは、グランツさんまでそれに毒されてしまうでしょう?」
「…う…む…確かに、エルのああいう所は…どうかと…」
「ですよね!ほら見なさい。全く…もう少し、マクスウェル家の評判を考えて下さいと言うんです。」
「だ、だがな…その、確かに、こういう事はエルが…一番、詳しい…のでな…」
「ええ、それが事実ですよ、グランツ。それにですね、世の女性が、私を放っておかないのであって…」
「全く、またそうやって詭弁を弄する!大体…!」
「む…ぅ…その、あまり、喧嘩は…」
不誠実な兄を叱りつける妹と、のらりくらりとそれをかわす兄と、それを収めるほど口先が回らないために間でオロオロするグランツ。この三人が集まると、よくこういう構図が見られる。そして、大体その終わり方も定型文になっている。
「…ふぅ…もう、そこまで言うのであれば、グランツとカリンが付き合えばいいじゃないですか。そうすれば二人とも恋愛がもう少し分かるでしょう?」
「…む。…失礼かもしれんが…やはり、カリンとは…そういう間柄には、なれん…気がする。」
「そう…ですね。グランツさんはいい人ですけど…そういうのは、違う気が…。」
毎回毎回エルンストにそう振られるたびに、二人とも素っ気無くそう返す。ここで話題を切り替えるとカリンの追求は止むのである。
エルは、二人に今回の依頼についての相談をしてみることにした。カリンには牧草の経緯からある程度話をしていたが、グランツはこれが初耳になる。最初から一通り説明を終え、一応エルンストは隣に座るグランツに話を振ってみた。
「どうですか、グランツ。あなたなら人材としては申し分ありませんが。」
「それは…出来んな。俺には…役目がある。」
「そうですよね。兄さんもそれはわかって聞いたんでしょう?」カリンがコーヒーを一口すすり、気楽に口を出す。「聞いていれば、そんなに難しいことじゃ無さそうですね。向こうから何も文句が出ないなら、落ち着き場所を探している流れ者でもあてがってしまえばよろしいのでは?」
「…そうだな。…エル?どうした?」
カリンが言った言葉に、険しい表情で考え込んだエルンストに、グランツが怪訝な顔をする。カリンも少し眼を丸くしてこちらを見ている。
「…この依頼について、考えている事があります。…まだ、しっかりと纏まっている訳では…ありませんが。」
「そうか…話してみろ。」
「どうぞ、兄さん。話しているうちに、形になってくることもあるでしょう。」
二人に優しく促され、エルンストは訥々と語り始める。
「…確かに、簡単です。彼女…ターナは、こちらがどんな条件を提示しようと、それを飲むでしょう。反攻の危険も、種族柄ほとんど無い。…ですが、果たして…その簡単さに、甘えていいものか?そう思うのです。」
「…良く、解らんが。」
「つまりですね…与し易し、と見ればこちらに都合のいいように応対する…その態度は、今後の魔物との交渉を考えた場合に、少なからず相手に不信感を与えるのではないか、と…いう話です。」
「なるほど。…この一件で、図らずも我々の態度が試される、ということですね?」
カリンは納得がいったように頷いた。グランツも、彼の意図するところは汲み取ったらしく、腕を組んで考え込んだ。
「故に…私としては、このケースでこそ、誠意を見せたいと考えます。…まぁ、ターナ嬢に悪い思いをさせたくない、というのもありますがね。」
冗談めかして言うエルンストだが、今度は誰も彼を詰るようなことはしない。兄には手厳しいカリンも、クスクスと笑っている。
「…ふむ。具体的には…?」
「それです。グランツ、以下の条件…命令に忠実で真面目であること、ある程度腕の立つこと、家庭や…要するに、『経営』で一生を終えてもいいこと…これらの条件を満たす人材、心当たりはありませんか?」
「…恋人もいない方がいいでしょうね。」
それを聞いて、ローエンハルトの若き猛将は眼を閉じて考え込んだ。しばらくして、険しい表情のまま口を開く。
「…三番目が、な。」
「…やはり、そうですか…。」
エルンストはそれを聞いて肩を落とす。が、すぐにいつものスマイルを取り戻して、
「まぁ、そうすぐに上手くはいかないでしょう。…地道にいろいろ当たって…」
と、そこでまたノックの音がする。もう一度部屋の主がドアに近づいていき、応対している。エルの位置からは声が聞き取りづらかったので、隣にいるグランツといくつか会話しているうちに、カリンが突然、
「ええっ!?は、はは、はい、しょ、少々お待ち下さい…!?」
と、慌てた声を上げた。何事かとそちらを見やると、彼女はこちらに数歩急ぎ足で近寄り、ささやいた。
「へ、陛下です、国王陛下が…わ、わたしの、部屋に…!」
聞いて、グランツは椅子を立ち、直立不動になる。カリンが慌てて部屋の中に散らかりがないか見回すのを待たず、エルも立ち上がってドアに向かい、「ちょ、に、兄さん!?」というカリンの声を聞き流し、扉を開けた。
「お、エルもここにおったのか。」
向こうには、ローエンハルト国王が気さくな笑顔で立っていた。
「ええ、どうぞお入り下さい。少々散らかっておりますが…。」
「ち、散らかってなど…その、み、見苦しければ、すぐに掃除を…!」
「おお、構わんよ、カリン。それにお主が正しいの、綺麗なもんじゃ…。固くならんで良いぞ、誰も咎めやせんでな。」
ニコニコとそう言われ、カリンもいささか緊張がほぐれた様子で、ほっと一息ついて、国王に椅子を勧めた。
「うむ、すまんの…グランツ、それに皆も座っておくれ。」3人も一礼して席に着く。「実はの、この部屋の前を通りかかったら…何とも美味しそうな匂いがしての…コーヒーか、一杯淹れてもらえんかな?」
「は、はい、ただいま!…陛下、お砂糖やミルクは…」
急に話を振られ、またしてもカリンがガチガチになる。
「砂糖を少し入れとくれ、すまんの。」
「カリン、私にも砂糖とミルクを持ってきてください。この扱いはフェアではない。」
「ああもう、兄さんは黙ってください…!」
緊張しきった妹をからかうようにエルが言葉を掛けると、カリンは今にも耳から煙でも出しそうなくらい慌てている。
「おお、そうじゃ…ミルクと言えば。…エル、ホルスタウロスの一件は進んでおるか?」
「実は…今、その件について、グランツ達と話をしていた所だったのですよ。」
「…ですが、私どもでは…力及ばず。…出来れば、陛下にもお知恵を。」
エルも国王と結構フランクに話すが、恐らく仲の良さではグランツに及ばない。ネゴシエイター、という立場で国王と差し向かいに話す機会が増えたとはいえ、軍議などでしょっちゅう頼りにされるグランツとでは回数がまるで違う。さすがに、ストレートに国王に助力を頼むのはその関係の強さの証拠であると言えた。
「うむ、それは構わんぞ。…じゃがの、出来れば状況を説明してくれんと…さすがのわしといえども、何を考えていいやら分からん。」
「畏まりました。…では、まずは…。」
エルンストがここまでの経緯と、このケースに関しての自分の考え、そして今考えている人材の条件をすらすらと述べる。その間に、カリンが新しく淹れなおしたコーヒーを国王の前に置いた。
話が一通り終わると、国王はコーヒーを一口すすり、少し考えてから口を開いた。
「人材、の。心当たりがあるぞ。…レナード、という男を知っておるか?」
エルンストには馴染みのない名前だった。カリンも同様に首を傾げたが、もとより国王の眼はグランツに向いていた。彼はその名前を聞いて、驚いた顔を見せる。
「しかし…陛下、奴は…。」
「あれは目下帰るところが無い。実直な兵士でもあるし、腕の方も十二分であろう。」
「あ…あの、良ければ、その…レナード、という人について…教えていただけませんか?」
おずおずと手を挙げ、カリンが発言する。それにかぶせるように、エルが、
「とりあえず、陛下のお言葉から、私の挙げた3つの条件をクリアする事は確かなようです。…グランツに訊きますが、貴方が彼について渋ることは何ですか?」
話をはぐらかされないよう、状況を的確につかんで最短距離を突く。グランツは巌のような顔にさらに皺を刻み、エルンストに向き直った。
「レナードは…俺の元部下だ。…エル。戦争後遺症、と言って…分かるか?」
「あ、私、聞いたことあります。戦争による…例えば精神的な苦痛から立ち直れなくなったり、強化魔法のかけ過ぎで効力が消えなくなったり…ですよね?」
エルンストではなく、カリンが答える。グランツは重々しく頷いた。
「なるほど。つまりそのレナードという方は、その戦争後遺症である、と。…症状は、どのような?」
「それは…すまんが、答えられん。本人が話さないのであれば、俺の口からは言えん。」
こう見えて部下に対する気遣いは細やかなグランツ。
「やれやれ…まぁ、それは仕方ないですが…それでは話が進まないのも事実です。」
「そうじゃの。…まぁ、分類するなら精神的なもんじゃよ。」それぐらいはよかろう、と国王がグランツに目配せし、グランツも頷く。「それに、重症というわけではない。とりあえず生活するくらいなら、問題は無いんじゃがな。」
「あの…陛下、宜しいですか?」
カリンがまた、発言する。
「おお、構わんぞ。どんどん意見を出しとくれ。」
「その…わざわざ戦争後遺症のある方を選ばなくとも…あの…」
やはり遠慮があるのか、どんどん口ごもるカリン。しかし言わんとするところは分かり、エルンストとしてもそこが納得行かない。国王は、二つ頷いて、落ち着いた声で告げた。
「…我々はの。魔物との、共生関係を築いていかねばならぬのじゃよ。」
「…なるほど。お考えはわかりました。…よし。」エルンストは納得して、膝を叩く。カリンとグランツはまだ首を傾げているが、彼は立ち上がって、「それで行きましょう。…レナード君の所へ…グランツ、案内をお願いできますか?」
「む…うむ。…良いんだな、エル?」
渋い顔をしたグランツに、いつもの笑顔で応じる。
「よし、ワシも付いて行こう。…カリン、コーヒーをご馳走になったの。とても美味しかったよ。」
「あ、ありがとうございます…。…あ、そうだ。兄さん、どうです。」
「どうです…とは、何がですか?」
「陛下のお墨付きが出ても、まだ泥水だと言い張りますか、私のコーヒーを。」
少し勝ち誇った様子のカリンに、エルンストはやれやれ、とため息をついた。
10/07/01 02:42更新 / T=フランロンガ
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