出会いのお話
「くそっ! どこへ逃げた!!」
「探せ! まだそう遠くへは行ってないはずだ!!」
怖い……苦しい……
「見つけたぞ! あっちだ!」
痛い……助けて……!!
「撃て! 撃ち殺せ!!」
「魔術部隊! 奴を吹き飛ばせ!!」
お父さん……お母さん……!!
「逃すな!! 一匹残らず殲滅するんだ!!」
「奴らを殺せ!!」
皆……誰か……
「殺せ! 殲滅せよ!!」
「子供も男も一匹も逃すな!! 奴らは全員殺せ!!」
死にたく……ない……!!
「あと一匹だ! 絶対に逃がすな!!」
「追え! 追ええええっ!!」
誰か……助けて……!!
====================
「はい、これいつものお薬。お大事にしてくださいねー」
「ありがとうございます。ルネ先生にもありがとうと言っておいて下さい」
「はい、伝えておきますね」
丁度お昼時になったところで、最後の患者さんが帰宅した。
ここは、とある小さな村の診療所。僕はここで薬剤師兼雑用の仕事をしている。ちょっとした治療や手当はできるが、専門ではない。
「お婆ちゃん、ヤンさんが最後の患者さんだし、お昼ご飯にしようか」
「ん? おおそうかい。それじゃあお昼にしようかねぇ……」
「あ、そうそう。ヤンさんがありがとうだってさ」
「んふふ……この歳になってもありがとうって言われるのは気持ちが良いもんだねぇ……」
「歳は関係ないと思うけど……ま、感謝されるってのはいいね」
扉を開け、診察後の片づけをしているルネ先生……僕のお婆ちゃんに声を掛け、お昼休憩に入る。
白い髪、皺の多い顔や手の、どこからどう見ても年寄りなお婆ちゃんだが、その腕は全く衰えていない。
老人が多いこの村でもう何年もたった一人の医者をしており、村人からの信頼も厚い。
「さて、今日のお昼は何だい?」
「今日はほっけの塩焼きとお新香にお米。最近ジパング料理にハマってるからね」
「ジパング料理ね。年寄りにはええが、スノちゃんには物足りなくないかい?」
「全然。僕もジパングの味付けは好きだし、量もちょっと多めにしてあるからね」
お婆ちゃんと二人でダイニングに向かう。
この家には僕とお婆ちゃんの二人しか住んでいない。だからご飯の準備も二人分で済むので、すぐに用意もできて食べられるのだ。
「それじゃあほっけ温める……」
午後からの診察もあるので、早速ご飯にしようとした、その時だった。
「大変だ先生!! 出てきてくれ!!」
「ん?」
「おや、トンさんの声だね。何かあったのかねえ?」
診察室の方から、老人の叫び声が聞こえてきた。
この温かでのんびりとしたお昼時には似合わない、かなり慌てた様子だが、いったいどうしたのだというのだろうか。
「どうしましたか?」
「ああ、スノ君。ちょっと来てくれよ。村外れに女の子が血だらけで倒れてんだ!」
「なっ!?」
なんと、少女が一人村外れで倒れているらしい。
村外れの山で野生の動物に襲われたのかもしれない。あそこは立ち入り禁止区域だから子供が近付くとは思えないが、大体の人間が顔見知りのこの村でトンさんが「少女」と言うから、若い旅人の可能性もある。
どちらにせよ、血だらけで倒れているのならかなり危ない状況だろう。
「わかりました、すぐに向かいます!! お婆ちゃん!」
「えぇえぇ、治療の準備をしておきますよ。スノちゃん、急いで行くんじゃよ」
「こっちだスノ君!」
お婆ちゃんに治療の準備を任せ、僕はトンさんと一緒にその少女が倒れているところまで走って向かった。
……………………
「ぜぇ……はぁ……つ、着いたぞ……」
「だ、大丈夫ですかトンさん?」
「俺はいい。ただの運動不足だ。それより彼女を!」
「ええ……」
診療所から走って10分。僕はトンさんと走り続け、少女が倒れている現場に着いた。
そこではたしかに、ぼろ布を被って銀色の髪と顔が少し出ているだけの少女……いや、少女と言うには幼すぎる女の子が、血塗れで倒れていた。
見覚えがない顔だし、恰好からして旅人……と言うよりは、放浪者かもしれない。でも、顔や体の大きさからしてまだ5,6歳にしか見えないし……何か訳ありだろう。
「とりあえず診療所に運ぶ前に状態だけは確認を……」
その少し見えている顔も切り傷が付いているし、頭からは血も流れている。布も内側から滲みたであろう血で濡れている。一目見ただけで危険な状態だが、どこがどう怪我している状態かを確認しないで運ぶと余計悪化するかもしれない。
だから、僕は彼女が被っているぼろ布を剥がした……
「……え?」
「ど、どうし……うわああっ!?」
ぼろ布の下は、同じような布で大事な所を隠しているだけの、ほぼ裸の状態の女の子だった。
ただ、その肌は傷だらけだ。切り傷や火傷の痕、無数の打撲痕に穴まで開いており、血で赤黒く染まっていてとても痛々しかった。腹部が呼吸で動いていなかったら、死体と見間違えてしまっても仕方がないほどだ。
ただ、医療に関わる人間としては失格だが、その傷以上に嫌でも目についてしまう部分が、女の子には存在していた。
「ば、化けもんだ!!」
「これは……たしか……」
苦しそうに歪んだ表情を浮かべながら気絶している女の子……その頭には、小さな三角形の耳が縦に生えていた。作り物では無く、熱を持った本物の獣耳だ。
それに、腕や足も本来の小さな女の子には決して生えているはずがない、血で赤く染まっている銀色の毛がびっしりと生え揃っていた。手足の形も、人間のそれとは大きく違い、どちらかと言えばイヌ科の動物に近い形をしており、肉球まで付いていた。
そして、同じく血で真っ赤に染まった銀色の尻尾が腰から生えている……耳や尻尾が狼のそれと似ているので、この子は狼人間、ワーウルフという魔物だろう。
そう、魔物。人ではない邪悪な存在。倒れていた少女は、化け物だったのだ。
「よいしょっと……」
「お、おいスノ君、その化け物をどうするつもりだ!?」
「どうするって、診療所に運ぶに決まってます。このままでは死んでしまいますから」
「死んでしまいますからって……お前さん、魔物を助けるつもりか!?」
だがまあ、ワーウルフだろうが魔物だろうが化け物だろうがなんだろうが、重症人である事には変わりはない。
「ええ。魔物であっても、怪我人を見捨てたとなればお婆ちゃんに怒られてしまいますから」
「そ、そうか……ルネ先生ならたしかに怒りそうだな……だが気をつけるんだぞ。小さいとはいえ魔物だ。治したとたん襲われても助けられんからな」
「わかってます。では運ぶので手伝ってください」
それに、魔物だからって理由で怪我人を見捨てたら、医療に携わる人間失格だ。少なくともお婆ちゃんなら、そんな事気にしないで治療するに決まっている。
人間だろうが動物だろうが、魔物であっても、その命は平等だ。見殺しにして良い理由にはならないのだ。
「見た感じ剣で切られたり、炎で焼かれているみたいですね。身体が抉れているのは銃かな……結構マイナーな武器だけど、魔術を使えない人間には数少ない殺傷能力の高い遠距離用武器だからな……」
「ひぃ、爪が鋭くてすぐ切れちまいそうだ……」
「切れたらちゃんと治療してあげるのできちんと持って下さい!」
だから僕は、女の子に負担を掛けないように、怖がるトンさんに手伝ってもらいながら、慎重に、それでいてなるべく急いで診療所まで運ぶのであった。
====================
「おはようリム」
「おはようお母さん!」
「リムは今日も元気だな」
「うん! 元気いっぱいだよお父さん!」
いつも通りの朝。
「もう少しでご飯ができるから大人しく待っていなさい」
「んー、ちょっとお散歩してくる!」
「あ、こら! もー、落ち着きがないなぁ……一体誰に似たのか……」
「そりゃキミでしょ。僕を襲った時から落ち付いているところなんて滅多に見た事ないし」
「言ったなこの野郎! 飯抜くぞ!」
「ごごごゴメンよ!」
いつも通りの両親。
「るんるんっ♪」
「あ、おはよーリムちゃん!」
「おはよー!」
「リムちゃん、今日も楽しそうだね」
「うん! 今日もいいお天気で楽しいの!」
いつも通りの友達。
「やあリムちゃん、おいしいお肉あるけど食べていくかい?」
「ん〜、ほしいけどもうちょっとでご飯だから止めておく!」
「リムちゃん、後でお父さんとお話したいって伝えてくれないかい?」
「いいよ! でもおじちゃん、お父さんはお酒禁止だよ!」
「あらま、お母さんに止められちゃったか。でもお酒飲むわけじゃないから伝えといてね」
「うん、わかった!」
いつも通りの集落。
「らんら……ん?」
「あら、どうしたのリムちゃん?」
「ねえおばちゃん、あっちのほうから変な臭いしない?」
「変な臭い? ああ、たしかに、なんか金属や火薬の嫌な臭いが……ハッ!?」
そんないつも通りを……
「危ないリムちゃ……」
パァァンッ!!
「うぐっ!?」
「……え?」
……一発だけ響いた発砲音が、全て壊した。
「化け狼共よ、ここは人間の土地だ!」
「返してもらうぞ、神の名の下に!」
私を庇い攻撃されたおばちゃんは、鉄の匂いが強くなると共に冷たくなっていく。
沢山の武装した人間達が、私達の集落を壊しに来た。私達の何倍もの人数で、何もかもを奪いに来た。
「早く子供達を避難させ……ぐえっ!?」
「アンタ! くそっ旦那の仇……ぎゃうっ!」
「うわーん、ママー!! きゃぷっ……」
何も出来ない私は、急いで家まで逃げ帰る。
その途中、優しいおじちゃんや、カッコ良かったおばちゃんに、仲のいい友達まで……皆が皆、兵士達に殺されていく。
私達はただ平和に暮らしていただけなのに……それなのに、悪者は殲滅だと言い、皆傷付けられ、殺されていく。
止めて、皆を傷付けないで……そう誰かが叫んでも、兵士の進撃は一向に止まらない。全員を殺すまで、止まる事は無い。
「リム、逃げるんだ! 誰にも見つからないように、できるだけ遠くへ!」
「お母さんは!? お父さんは!?」
「……大丈夫、私達もすぐに行く。だから、後ろを見ずに、走って逃げるんだ!」
「そうだぞリム。だから安心して、早く遠くに行くんだ!」
「う、うん!」
止まらない悲鳴、響く金属のぶつかる音と爆発音、嫌な臭いが立ち込める中、どうにかして家に帰った私は、すぐに両親に身体をすっぽり覆う布を被され、逃げるように言われた。
ほんの少しだけ、お腹が空いているだろうからと、お母さんが作った肉炒めを持たされ、裏口から走って山中へ逃げた。
これが、両親と交わした、最後の言葉であり、お母さんが私にくれた、最後のものだった……
====================
「どうお婆ちゃん?」
「う〜ん、一命は取り留めたんだけどねぇ……」
ワーウルフの少女を拾って数時間。
診療所に連れて行ったら、やっぱりお婆ちゃんは魔物だろうが構わずに治療を始めた。
消えそうな命を繋ぎ止めようと、傷の処置を施し、調合した薬を与え、どうにか安定し始めた頃にはもうすっかり日が暮れていた。
トンさんが広めたのか、さっきまではワーウルフを見ようと村人達が集まっていたが、お婆ちゃんが一括して解散させたので、この診療所にはいつも通り僕とお婆ちゃん、そしてこのワーウルフの女の子の3人だけになった。
「ねえお婆ちゃん、この子が怪我してた理由って……」
「おそらく誰かに襲われたんだろうねぇ……誰かって言うより、教団兵か勇者だろうけどなぁ……」
「だよね……」
この子がどこから来たのかはわからないが、少なくともどうして大怪我で倒れていたのかはなんとなく想像がつく。
おそらく教団の兵士など魔物と強く敵対している者達にやられたのだろう……山を二つ越えた先に大きな国家が存在しているので、その国の兵士達に攻められ、ここまで逃げて来たのだろうか。
「私が心配なのは、この子の心だね……」
「心? 身体じゃなくて?」
「魔物は頑丈だし、おそらく怪我自体はわりとすぐに完治するじゃろう。だが、ここまで傷付けられとるからのぉ……人間を嫌いになっとるかもしれん。ワーウルフは群れで暮らしておるらしいし、もしかしたら両親とか仲間も目の前で殺されとるかもしれん。心が壊れとる可能性だってある」
「そっか……」
そうだとしたら、この子は相当怖く、悲しい目に遭っているかもしれない。
もしそうならば……同じ人間である僕には、どうしようもできないかもしれない。
いずれにせよ、彼女が目を覚ますまでは何もできないが。
「さて……結局お昼も食べないでこの子の治療してたし、一息ついたらお腹空いちゃった。あまり良くないけど、この子を一人で置いておくわけにはいかないし、ご飯をこっちに持ってくるね」
「そうだねぇ……」
一息付けたところで、僕のお腹が鳴った。そういえばお昼ご飯を食べていなかった。
彼女を看病するためにも、僕達の空腹をなんとかしなければいけない。なので僕は、二人分の食事を……いや、三人分の食事をダイニングから運んでくることにした。
「ふぅ……しかし、治療が終わってからはどうしようかな……」
三人分の食事を温めて、お盆に乗せて運んでいる最中、僕は女の子のこれからの事を考えていた。
彼女がどこから来たかはわからない。少なくとも、ここら辺にワーウルフの集落があると聞いた事はない。
僕の予想通り山二つ越えた場所にある大きな国付近に住んでいたのであれば、彼女を送るにも一苦労だし、一人で行かせるわけにもいかない。それどころか、教団が攻めたのであればもうその集落もないかもしれない。
せめて彼女の両親が現れてくれたらいいが……お婆ちゃんが言う通り殺されているかもしれない。酷い話だが、危険な魔物を打ち倒し平和を掴むためにと、少々頑張り過ぎてしまうところがあるのが教団だ。彼女の状態からも、決して無事とは言い難いだろう。
とはいえ、この村に置いておくのもあまりよろしくない。彼女が人間を怖がっている可能性があるのもそうだが、そもそも彼女が魔物だからだ。
ここは小さな村とはいえ、教会もあるし、大体の住民は主神信仰である。つまりこの村は反魔物領なのだ。
僕やお婆ちゃんはそこまで信仰深くないし、魔物をそんなに怖いものだと思ってはいない。だが、さっきのトンさんのように、この村には魔物に対して言い知れぬ恐怖を抱いている人だって大勢居る。その中で暮らすのはかなり難しいのではないだろうか。
「お婆ちゃん、ご飯持ってきた……お婆ちゃん!!」
温めたりしているうちにそこそこ時間が経っていたが、考え事をしているうちにあっという間に病室に辿り着いた。
お盆を入口の棚の上に置いて、ゆっくりと扉を開けたら……そこには予想外の光景が広がっていた。
「ぐるるる……」
「よーしよし、怖くない、怖くないからね……」
「ぐるるるる……」
まず、あのワーウルフの女の子は目を覚ましていた。
いくら怪我を治療したと言っても、簡単に目を覚ますほど体力は戻っていないはずだ。僕が思っていた以上に魔物の体力があり丈夫なのか、魔物の神秘で超回復したのか、それとも何かしらの危険信号が彼女を刺激したのかはわからないが、とにかくベッドの上から起き上がっていた。
そして、お婆ちゃんの左手に、思いっきり噛みついていた。噛みつかれた左手から、滴り落ちる赤い液体……僕は慌ててお婆ちゃんに近付いた。
「大丈夫お婆ちゃん!?」
「大丈夫、大丈夫だからね。ここには、お嬢ちゃんを傷付ける人はいないよ……」
「ぐるるる……」
「よしよし、いいこいいこ。落ち付くんだよ……」
「ぐるるる…………」
お婆ちゃんは、手を噛まれていても気にせず、女の子の頭を優しく撫でて落ち付かせようとする。
それでも、女の子は手を噛むのを止めようとしない……おそらく、完全に本能だけで動いているのだ。女の子の眼は、正気を保っていなかった。
その眼は、怒り、憎しみ、恐怖、悲しみ、苦しみ……様々な負の感情に染まったその眼は、何も映してない。いや、映っていない。
「大丈夫だよ……ここには、お前さんを殺そうとする人間はおらん……」
「ぐるる……うぅ……」
「だから……恐がらなくていいんだよ……」
「う……うぅ……」
そんな彼女を……お婆ちゃんは、優しく抱きしめた。
小さい頃、僕は怖い事があって泣いていたら、いつもこんな風にお婆ちゃんが抱きしめてくれた。お婆ちゃんに抱きしめられたら、いつも安心できた。
それが、僕のお婆ちゃんの魅力であり、僕がお婆ちゃんの事が大好きな理由の一つでもあった。
「よーしよし、大丈夫だよ……恐かっただろう? 辛かっただろう?」
「う……あぁ……あ……」
「もう大丈夫だ……」
そのぬくもりを彼女も感じたのか……少しずつ眼に光が戻り……お婆ちゃんの手から口を離した。
そのまま、まだ体力も戻り切っていないからか……再び目を閉じ、眠りに就いた。
「大丈夫お婆ちゃん?」
「ああ大丈夫だ。落ち付いてまた眠ったよ」
「いや、その子もだけど、お婆ちゃんの手……だらだらと垂れてるけど……」
「おやまあ。またざっくりと噛まれたねぇ。スノちゃん、悪いが手当してもらえないかのぉ」
「もちろんそのつもりだよ。ほらお婆ちゃん、手を出して」
「すまないねぇ……」
とりあえず落ち付いたようなので、僕はお婆ちゃんの怪我の手当てを始めた。
人間を見て襲われると感じ、無我夢中で噛みついたのだろうか……何にせよ、再び目を覚ました時は、もう少し落ち付いていてくれると、こちらとしてもありがたい。
「さて、ご飯にしようか。一応この子の分も持ってきたけど、いらなそうだね」
「無理に起こすのも悪いしねぇ……この子には悪いけど、食べちゃいましょうか」
お婆ちゃんの手当てを終えて、ようやく僕達はご飯を食べ始めた。
ちょっと冷めたホッケを口に移しながら、僕達はワーウルフの少女を見守っていたのだった……
…………
………
……
…
「はい、このお薬を毎日飲んで下さいね」
「はいよ……なあスノア、この前の魔物はどうなった?」
「まあ、身体の傷は少しずつ回復してるよ。でも、人前には出せないかな。僕達が魔物に対して恐怖を感じている以上に、あの子は僕等人間に恐怖を感じているからね」
「そっか……そう考えると、あんまり魔物も人間と変わらないものなのかねえ……」
「さあね。ま、あまり騒ぎたてるなよな。魔物と言っても怪我人には変わらないし、それにまだ子供だからね」
「そうだな。お前とルネ先生が食われでもしない限り俺達も追い出せだなんて言う気は無いさ。この村の人間はお前達に感謝してるんだ。お前達がやってることに反対なんて、司祭様含めて誰もしないさ」
「それは助かる」
あの女の子を治療してから、1週間が経過した。
一応回復しているし、いきなり暴れてお婆ちゃんの手を噛んだりする事は無くなったものの、僕達には一言も喋ってはくれなかった。
治療しようとして近付いても唸られて触らせてもくれないし、無理に近付こうとすると爪を立てて襲いかかろうとする動作を見せる。
やはり、人間に襲われたのだろうか……僕等を見る瞳は、憎しみ以上に、恐怖が伝わってきた。
「お婆ちゃん、ご飯にしよう」
「そうだねぇ……お嬢ちゃん、一緒にご飯食べないかい?」
「……」
僕の友人である最後の患者が帰った後、僕は病室にいたお婆ちゃんに声を掛け、お昼休憩に入る。
その病室にいたワーウルフの女の子は、相変わらず部屋の隅で、あの血塗れのぼろ布を被り、こちらを警戒しながらうずくまっている。
「ご飯食べないと元気も出ないし治るものも治らないよ」
「……」
「うーん……まあ、無理にとは言わんがねぇ……食べて元気になってほしいけどねぇ……」
あの日から、全くご飯を食べてくれない彼女。
一応水は飲んでいるが、食事は全くとってくれない……警戒しているのだろうか。
「食べたくなったら言うんだよ。なんでも作ってあげるからね」
このままここにいても彼女が警戒疲れしてしまうし、埒が明かないので、ご飯を食べようと部屋を出ようとした、その時だ。
「……なんで?」
「え?」
全く姿勢は変わっていないが、初めて彼女は口を開いた。
力がなくか細い声だが……ハッキリと、僕達に向かって喋ったのだ。
「なんでって……何が?」
「なんで……私を心配するの? 人間なのに……私を殺さないの?」
その発言は、僕等を悲しませるのには、充分だった。
人間なのに私を殺さないのか……この発言から、彼女が人間に殺されかけた事がわかったからだ。
こんなに小さな子なのに、殺されかけた……命を救う仕事をしている僕やお婆ちゃんにとって、こんなに悲しい事は無い。
「皆を……皆を殺した、人間なのに……」
「……お嬢ちゃん……」
声も身体も震え、目には涙が溜まっていた。
それほど怖く、悔しい想いをしたのだろう……彼女にとってはもう、人間は自分達を殺す、恐怖の対象なのだ。
それなのに、ずっと僕達、特にお婆ちゃんが心配してくれるのが不思議だったのだろう。だから何か企んでいるのではないかと疑い、こうして勇気を出して口を開いたのかもしれない。
もちろんそんなつもりはないが、そんな事を言っても簡単には信じられないだろう。
「あなた達は……私を殺さないの?」
「お嬢ちゃんを殺す? 馬鹿言っちゃいけないよ!」
ゆっくりと、両手を広げながら彼女に近付くお婆ちゃん。
「あ、こ、来ないで!」
「何も心配はいらないよ、お嬢ちゃん……」
そんなお婆ちゃんに向かい、爪を立てて腕を振り回す彼女……きっと、これ以上近付いたらこの爪で切り裂くとアピールしているのだろう。
でも、そんなのお構いなしに、ゆっくりと近付くお婆ちゃん。僕は、その様子をただ見守るだけだ。
「いや……こないで……!?」
「大丈夫……お嬢ちゃんを殺しはしない……私らは、お嬢ちゃんに生きててほしい、元気になってほしいんだよ……」
振り下ろされる爪に怯む事なく彼女に近付き……彼女の爪がお婆ちゃんを傷付ける前に、彼女を強く抱きしめたお婆ちゃん。
「う……そだ……うそだ!」
「嘘じゃねえ。確かにお嬢ちゃんは人間に殺されかけたかもしれねえ。それはとっても怖かったと思う。簡単に人の命を奪う人間もたしかにおる。でも、私らは医者じゃよ。命を救う仕事をしているんじゃよ。だから、お嬢ちゃんには元気になってもらいたいんじゃよ……」
「うそ……そんなの……信じられないよぉ……」
嘘だ、信じられないと、彼女は言う。震えたその声で、今にも泣き出しそうな表情で。身体を震わせ、自分に言い聞かせるように、彼女は力無く言う。
掲げられていた腕は、今は力無く垂れている。
「信じられないなら、今は無理に信じなくてもええ。でも、死んじゃあ信じるも信じないもねえ。だから今は元気になるために、ご飯を食べよう、ね?」
「あぅ……」
「ご飯も怖いのなら、私が先に食べた物を食べたらええ。ここにはお嬢ちゃんを殺そうとする人間はおらんよ」
「うぅ……」
ぎゅっと抱きしめ、頭を撫でながら、優しく語りかけるお婆ちゃん……恐い顔をして警戒していた彼女も、段々と力が抜けていき……
「うぅ……うぅぅ……」
「泣いてもええ。辛かっただろ? 泣きたいだけ泣いて、落ち付いたらご飯にしよ、ね?」
「うぅ……うぇぇぇぇぇえっ!!」
「よしよし……もう大丈夫じゃよ……めいっぱい泣いたらええ……」
お婆ちゃんの優しさに、少しだけ心を許したのか……お婆ちゃんの胸の中で、大きな涙をこぼしながら、思いっきり泣き始めた。
今まで全く泣いていなかった彼女は、ここに来て初めて泣いた……全ての悲しみを、胸に溜めていた苦しみを、押し流すように……
「うえええぇぇぇ……ぐす、ふぇぇぇぇぇえっ!!」
「よしよし……ばあちゃんの胸の中で、苦しいもの全部流すとええ。もう怖いもんはねえからな……」
小さな村の、小さな診療所の、小さな病室で、一人のお婆ちゃんの優しい声と、一人の小さな魔物の悲しい泣き声だけが、いつまでも響き渡っていた……
これが、後にお婆ちゃんにべったりな甘えん坊で、僕の妹のような存在で、この村のアイドルにもなる、ワーウルフのリムとの出会いだった。
「探せ! まだそう遠くへは行ってないはずだ!!」
怖い……苦しい……
「見つけたぞ! あっちだ!」
痛い……助けて……!!
「撃て! 撃ち殺せ!!」
「魔術部隊! 奴を吹き飛ばせ!!」
お父さん……お母さん……!!
「逃すな!! 一匹残らず殲滅するんだ!!」
「奴らを殺せ!!」
皆……誰か……
「殺せ! 殲滅せよ!!」
「子供も男も一匹も逃すな!! 奴らは全員殺せ!!」
死にたく……ない……!!
「あと一匹だ! 絶対に逃がすな!!」
「追え! 追ええええっ!!」
誰か……助けて……!!
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「はい、これいつものお薬。お大事にしてくださいねー」
「ありがとうございます。ルネ先生にもありがとうと言っておいて下さい」
「はい、伝えておきますね」
丁度お昼時になったところで、最後の患者さんが帰宅した。
ここは、とある小さな村の診療所。僕はここで薬剤師兼雑用の仕事をしている。ちょっとした治療や手当はできるが、専門ではない。
「お婆ちゃん、ヤンさんが最後の患者さんだし、お昼ご飯にしようか」
「ん? おおそうかい。それじゃあお昼にしようかねぇ……」
「あ、そうそう。ヤンさんがありがとうだってさ」
「んふふ……この歳になってもありがとうって言われるのは気持ちが良いもんだねぇ……」
「歳は関係ないと思うけど……ま、感謝されるってのはいいね」
扉を開け、診察後の片づけをしているルネ先生……僕のお婆ちゃんに声を掛け、お昼休憩に入る。
白い髪、皺の多い顔や手の、どこからどう見ても年寄りなお婆ちゃんだが、その腕は全く衰えていない。
老人が多いこの村でもう何年もたった一人の医者をしており、村人からの信頼も厚い。
「さて、今日のお昼は何だい?」
「今日はほっけの塩焼きとお新香にお米。最近ジパング料理にハマってるからね」
「ジパング料理ね。年寄りにはええが、スノちゃんには物足りなくないかい?」
「全然。僕もジパングの味付けは好きだし、量もちょっと多めにしてあるからね」
お婆ちゃんと二人でダイニングに向かう。
この家には僕とお婆ちゃんの二人しか住んでいない。だからご飯の準備も二人分で済むので、すぐに用意もできて食べられるのだ。
「それじゃあほっけ温める……」
午後からの診察もあるので、早速ご飯にしようとした、その時だった。
「大変だ先生!! 出てきてくれ!!」
「ん?」
「おや、トンさんの声だね。何かあったのかねえ?」
診察室の方から、老人の叫び声が聞こえてきた。
この温かでのんびりとしたお昼時には似合わない、かなり慌てた様子だが、いったいどうしたのだというのだろうか。
「どうしましたか?」
「ああ、スノ君。ちょっと来てくれよ。村外れに女の子が血だらけで倒れてんだ!」
「なっ!?」
なんと、少女が一人村外れで倒れているらしい。
村外れの山で野生の動物に襲われたのかもしれない。あそこは立ち入り禁止区域だから子供が近付くとは思えないが、大体の人間が顔見知りのこの村でトンさんが「少女」と言うから、若い旅人の可能性もある。
どちらにせよ、血だらけで倒れているのならかなり危ない状況だろう。
「わかりました、すぐに向かいます!! お婆ちゃん!」
「えぇえぇ、治療の準備をしておきますよ。スノちゃん、急いで行くんじゃよ」
「こっちだスノ君!」
お婆ちゃんに治療の準備を任せ、僕はトンさんと一緒にその少女が倒れているところまで走って向かった。
……………………
「ぜぇ……はぁ……つ、着いたぞ……」
「だ、大丈夫ですかトンさん?」
「俺はいい。ただの運動不足だ。それより彼女を!」
「ええ……」
診療所から走って10分。僕はトンさんと走り続け、少女が倒れている現場に着いた。
そこではたしかに、ぼろ布を被って銀色の髪と顔が少し出ているだけの少女……いや、少女と言うには幼すぎる女の子が、血塗れで倒れていた。
見覚えがない顔だし、恰好からして旅人……と言うよりは、放浪者かもしれない。でも、顔や体の大きさからしてまだ5,6歳にしか見えないし……何か訳ありだろう。
「とりあえず診療所に運ぶ前に状態だけは確認を……」
その少し見えている顔も切り傷が付いているし、頭からは血も流れている。布も内側から滲みたであろう血で濡れている。一目見ただけで危険な状態だが、どこがどう怪我している状態かを確認しないで運ぶと余計悪化するかもしれない。
だから、僕は彼女が被っているぼろ布を剥がした……
「……え?」
「ど、どうし……うわああっ!?」
ぼろ布の下は、同じような布で大事な所を隠しているだけの、ほぼ裸の状態の女の子だった。
ただ、その肌は傷だらけだ。切り傷や火傷の痕、無数の打撲痕に穴まで開いており、血で赤黒く染まっていてとても痛々しかった。腹部が呼吸で動いていなかったら、死体と見間違えてしまっても仕方がないほどだ。
ただ、医療に関わる人間としては失格だが、その傷以上に嫌でも目についてしまう部分が、女の子には存在していた。
「ば、化けもんだ!!」
「これは……たしか……」
苦しそうに歪んだ表情を浮かべながら気絶している女の子……その頭には、小さな三角形の耳が縦に生えていた。作り物では無く、熱を持った本物の獣耳だ。
それに、腕や足も本来の小さな女の子には決して生えているはずがない、血で赤く染まっている銀色の毛がびっしりと生え揃っていた。手足の形も、人間のそれとは大きく違い、どちらかと言えばイヌ科の動物に近い形をしており、肉球まで付いていた。
そして、同じく血で真っ赤に染まった銀色の尻尾が腰から生えている……耳や尻尾が狼のそれと似ているので、この子は狼人間、ワーウルフという魔物だろう。
そう、魔物。人ではない邪悪な存在。倒れていた少女は、化け物だったのだ。
「よいしょっと……」
「お、おいスノ君、その化け物をどうするつもりだ!?」
「どうするって、診療所に運ぶに決まってます。このままでは死んでしまいますから」
「死んでしまいますからって……お前さん、魔物を助けるつもりか!?」
だがまあ、ワーウルフだろうが魔物だろうが化け物だろうがなんだろうが、重症人である事には変わりはない。
「ええ。魔物であっても、怪我人を見捨てたとなればお婆ちゃんに怒られてしまいますから」
「そ、そうか……ルネ先生ならたしかに怒りそうだな……だが気をつけるんだぞ。小さいとはいえ魔物だ。治したとたん襲われても助けられんからな」
「わかってます。では運ぶので手伝ってください」
それに、魔物だからって理由で怪我人を見捨てたら、医療に携わる人間失格だ。少なくともお婆ちゃんなら、そんな事気にしないで治療するに決まっている。
人間だろうが動物だろうが、魔物であっても、その命は平等だ。見殺しにして良い理由にはならないのだ。
「見た感じ剣で切られたり、炎で焼かれているみたいですね。身体が抉れているのは銃かな……結構マイナーな武器だけど、魔術を使えない人間には数少ない殺傷能力の高い遠距離用武器だからな……」
「ひぃ、爪が鋭くてすぐ切れちまいそうだ……」
「切れたらちゃんと治療してあげるのできちんと持って下さい!」
だから僕は、女の子に負担を掛けないように、怖がるトンさんに手伝ってもらいながら、慎重に、それでいてなるべく急いで診療所まで運ぶのであった。
====================
「おはようリム」
「おはようお母さん!」
「リムは今日も元気だな」
「うん! 元気いっぱいだよお父さん!」
いつも通りの朝。
「もう少しでご飯ができるから大人しく待っていなさい」
「んー、ちょっとお散歩してくる!」
「あ、こら! もー、落ち着きがないなぁ……一体誰に似たのか……」
「そりゃキミでしょ。僕を襲った時から落ち付いているところなんて滅多に見た事ないし」
「言ったなこの野郎! 飯抜くぞ!」
「ごごごゴメンよ!」
いつも通りの両親。
「るんるんっ♪」
「あ、おはよーリムちゃん!」
「おはよー!」
「リムちゃん、今日も楽しそうだね」
「うん! 今日もいいお天気で楽しいの!」
いつも通りの友達。
「やあリムちゃん、おいしいお肉あるけど食べていくかい?」
「ん〜、ほしいけどもうちょっとでご飯だから止めておく!」
「リムちゃん、後でお父さんとお話したいって伝えてくれないかい?」
「いいよ! でもおじちゃん、お父さんはお酒禁止だよ!」
「あらま、お母さんに止められちゃったか。でもお酒飲むわけじゃないから伝えといてね」
「うん、わかった!」
いつも通りの集落。
「らんら……ん?」
「あら、どうしたのリムちゃん?」
「ねえおばちゃん、あっちのほうから変な臭いしない?」
「変な臭い? ああ、たしかに、なんか金属や火薬の嫌な臭いが……ハッ!?」
そんないつも通りを……
「危ないリムちゃ……」
パァァンッ!!
「うぐっ!?」
「……え?」
……一発だけ響いた発砲音が、全て壊した。
「化け狼共よ、ここは人間の土地だ!」
「返してもらうぞ、神の名の下に!」
私を庇い攻撃されたおばちゃんは、鉄の匂いが強くなると共に冷たくなっていく。
沢山の武装した人間達が、私達の集落を壊しに来た。私達の何倍もの人数で、何もかもを奪いに来た。
「早く子供達を避難させ……ぐえっ!?」
「アンタ! くそっ旦那の仇……ぎゃうっ!」
「うわーん、ママー!! きゃぷっ……」
何も出来ない私は、急いで家まで逃げ帰る。
その途中、優しいおじちゃんや、カッコ良かったおばちゃんに、仲のいい友達まで……皆が皆、兵士達に殺されていく。
私達はただ平和に暮らしていただけなのに……それなのに、悪者は殲滅だと言い、皆傷付けられ、殺されていく。
止めて、皆を傷付けないで……そう誰かが叫んでも、兵士の進撃は一向に止まらない。全員を殺すまで、止まる事は無い。
「リム、逃げるんだ! 誰にも見つからないように、できるだけ遠くへ!」
「お母さんは!? お父さんは!?」
「……大丈夫、私達もすぐに行く。だから、後ろを見ずに、走って逃げるんだ!」
「そうだぞリム。だから安心して、早く遠くに行くんだ!」
「う、うん!」
止まらない悲鳴、響く金属のぶつかる音と爆発音、嫌な臭いが立ち込める中、どうにかして家に帰った私は、すぐに両親に身体をすっぽり覆う布を被され、逃げるように言われた。
ほんの少しだけ、お腹が空いているだろうからと、お母さんが作った肉炒めを持たされ、裏口から走って山中へ逃げた。
これが、両親と交わした、最後の言葉であり、お母さんが私にくれた、最後のものだった……
====================
「どうお婆ちゃん?」
「う〜ん、一命は取り留めたんだけどねぇ……」
ワーウルフの少女を拾って数時間。
診療所に連れて行ったら、やっぱりお婆ちゃんは魔物だろうが構わずに治療を始めた。
消えそうな命を繋ぎ止めようと、傷の処置を施し、調合した薬を与え、どうにか安定し始めた頃にはもうすっかり日が暮れていた。
トンさんが広めたのか、さっきまではワーウルフを見ようと村人達が集まっていたが、お婆ちゃんが一括して解散させたので、この診療所にはいつも通り僕とお婆ちゃん、そしてこのワーウルフの女の子の3人だけになった。
「ねえお婆ちゃん、この子が怪我してた理由って……」
「おそらく誰かに襲われたんだろうねぇ……誰かって言うより、教団兵か勇者だろうけどなぁ……」
「だよね……」
この子がどこから来たのかはわからないが、少なくともどうして大怪我で倒れていたのかはなんとなく想像がつく。
おそらく教団の兵士など魔物と強く敵対している者達にやられたのだろう……山を二つ越えた先に大きな国家が存在しているので、その国の兵士達に攻められ、ここまで逃げて来たのだろうか。
「私が心配なのは、この子の心だね……」
「心? 身体じゃなくて?」
「魔物は頑丈だし、おそらく怪我自体はわりとすぐに完治するじゃろう。だが、ここまで傷付けられとるからのぉ……人間を嫌いになっとるかもしれん。ワーウルフは群れで暮らしておるらしいし、もしかしたら両親とか仲間も目の前で殺されとるかもしれん。心が壊れとる可能性だってある」
「そっか……」
そうだとしたら、この子は相当怖く、悲しい目に遭っているかもしれない。
もしそうならば……同じ人間である僕には、どうしようもできないかもしれない。
いずれにせよ、彼女が目を覚ますまでは何もできないが。
「さて……結局お昼も食べないでこの子の治療してたし、一息ついたらお腹空いちゃった。あまり良くないけど、この子を一人で置いておくわけにはいかないし、ご飯をこっちに持ってくるね」
「そうだねぇ……」
一息付けたところで、僕のお腹が鳴った。そういえばお昼ご飯を食べていなかった。
彼女を看病するためにも、僕達の空腹をなんとかしなければいけない。なので僕は、二人分の食事を……いや、三人分の食事をダイニングから運んでくることにした。
「ふぅ……しかし、治療が終わってからはどうしようかな……」
三人分の食事を温めて、お盆に乗せて運んでいる最中、僕は女の子のこれからの事を考えていた。
彼女がどこから来たかはわからない。少なくとも、ここら辺にワーウルフの集落があると聞いた事はない。
僕の予想通り山二つ越えた場所にある大きな国付近に住んでいたのであれば、彼女を送るにも一苦労だし、一人で行かせるわけにもいかない。それどころか、教団が攻めたのであればもうその集落もないかもしれない。
せめて彼女の両親が現れてくれたらいいが……お婆ちゃんが言う通り殺されているかもしれない。酷い話だが、危険な魔物を打ち倒し平和を掴むためにと、少々頑張り過ぎてしまうところがあるのが教団だ。彼女の状態からも、決して無事とは言い難いだろう。
とはいえ、この村に置いておくのもあまりよろしくない。彼女が人間を怖がっている可能性があるのもそうだが、そもそも彼女が魔物だからだ。
ここは小さな村とはいえ、教会もあるし、大体の住民は主神信仰である。つまりこの村は反魔物領なのだ。
僕やお婆ちゃんはそこまで信仰深くないし、魔物をそんなに怖いものだと思ってはいない。だが、さっきのトンさんのように、この村には魔物に対して言い知れぬ恐怖を抱いている人だって大勢居る。その中で暮らすのはかなり難しいのではないだろうか。
「お婆ちゃん、ご飯持ってきた……お婆ちゃん!!」
温めたりしているうちにそこそこ時間が経っていたが、考え事をしているうちにあっという間に病室に辿り着いた。
お盆を入口の棚の上に置いて、ゆっくりと扉を開けたら……そこには予想外の光景が広がっていた。
「ぐるるる……」
「よーしよし、怖くない、怖くないからね……」
「ぐるるるる……」
まず、あのワーウルフの女の子は目を覚ましていた。
いくら怪我を治療したと言っても、簡単に目を覚ますほど体力は戻っていないはずだ。僕が思っていた以上に魔物の体力があり丈夫なのか、魔物の神秘で超回復したのか、それとも何かしらの危険信号が彼女を刺激したのかはわからないが、とにかくベッドの上から起き上がっていた。
そして、お婆ちゃんの左手に、思いっきり噛みついていた。噛みつかれた左手から、滴り落ちる赤い液体……僕は慌ててお婆ちゃんに近付いた。
「大丈夫お婆ちゃん!?」
「大丈夫、大丈夫だからね。ここには、お嬢ちゃんを傷付ける人はいないよ……」
「ぐるるる……」
「よしよし、いいこいいこ。落ち付くんだよ……」
「ぐるるる…………」
お婆ちゃんは、手を噛まれていても気にせず、女の子の頭を優しく撫でて落ち付かせようとする。
それでも、女の子は手を噛むのを止めようとしない……おそらく、完全に本能だけで動いているのだ。女の子の眼は、正気を保っていなかった。
その眼は、怒り、憎しみ、恐怖、悲しみ、苦しみ……様々な負の感情に染まったその眼は、何も映してない。いや、映っていない。
「大丈夫だよ……ここには、お前さんを殺そうとする人間はおらん……」
「ぐるる……うぅ……」
「だから……恐がらなくていいんだよ……」
「う……うぅ……」
そんな彼女を……お婆ちゃんは、優しく抱きしめた。
小さい頃、僕は怖い事があって泣いていたら、いつもこんな風にお婆ちゃんが抱きしめてくれた。お婆ちゃんに抱きしめられたら、いつも安心できた。
それが、僕のお婆ちゃんの魅力であり、僕がお婆ちゃんの事が大好きな理由の一つでもあった。
「よーしよし、大丈夫だよ……恐かっただろう? 辛かっただろう?」
「う……あぁ……あ……」
「もう大丈夫だ……」
そのぬくもりを彼女も感じたのか……少しずつ眼に光が戻り……お婆ちゃんの手から口を離した。
そのまま、まだ体力も戻り切っていないからか……再び目を閉じ、眠りに就いた。
「大丈夫お婆ちゃん?」
「ああ大丈夫だ。落ち付いてまた眠ったよ」
「いや、その子もだけど、お婆ちゃんの手……だらだらと垂れてるけど……」
「おやまあ。またざっくりと噛まれたねぇ。スノちゃん、悪いが手当してもらえないかのぉ」
「もちろんそのつもりだよ。ほらお婆ちゃん、手を出して」
「すまないねぇ……」
とりあえず落ち付いたようなので、僕はお婆ちゃんの怪我の手当てを始めた。
人間を見て襲われると感じ、無我夢中で噛みついたのだろうか……何にせよ、再び目を覚ました時は、もう少し落ち付いていてくれると、こちらとしてもありがたい。
「さて、ご飯にしようか。一応この子の分も持ってきたけど、いらなそうだね」
「無理に起こすのも悪いしねぇ……この子には悪いけど、食べちゃいましょうか」
お婆ちゃんの手当てを終えて、ようやく僕達はご飯を食べ始めた。
ちょっと冷めたホッケを口に移しながら、僕達はワーウルフの少女を見守っていたのだった……
…………
………
……
…
「はい、このお薬を毎日飲んで下さいね」
「はいよ……なあスノア、この前の魔物はどうなった?」
「まあ、身体の傷は少しずつ回復してるよ。でも、人前には出せないかな。僕達が魔物に対して恐怖を感じている以上に、あの子は僕等人間に恐怖を感じているからね」
「そっか……そう考えると、あんまり魔物も人間と変わらないものなのかねえ……」
「さあね。ま、あまり騒ぎたてるなよな。魔物と言っても怪我人には変わらないし、それにまだ子供だからね」
「そうだな。お前とルネ先生が食われでもしない限り俺達も追い出せだなんて言う気は無いさ。この村の人間はお前達に感謝してるんだ。お前達がやってることに反対なんて、司祭様含めて誰もしないさ」
「それは助かる」
あの女の子を治療してから、1週間が経過した。
一応回復しているし、いきなり暴れてお婆ちゃんの手を噛んだりする事は無くなったものの、僕達には一言も喋ってはくれなかった。
治療しようとして近付いても唸られて触らせてもくれないし、無理に近付こうとすると爪を立てて襲いかかろうとする動作を見せる。
やはり、人間に襲われたのだろうか……僕等を見る瞳は、憎しみ以上に、恐怖が伝わってきた。
「お婆ちゃん、ご飯にしよう」
「そうだねぇ……お嬢ちゃん、一緒にご飯食べないかい?」
「……」
僕の友人である最後の患者が帰った後、僕は病室にいたお婆ちゃんに声を掛け、お昼休憩に入る。
その病室にいたワーウルフの女の子は、相変わらず部屋の隅で、あの血塗れのぼろ布を被り、こちらを警戒しながらうずくまっている。
「ご飯食べないと元気も出ないし治るものも治らないよ」
「……」
「うーん……まあ、無理にとは言わんがねぇ……食べて元気になってほしいけどねぇ……」
あの日から、全くご飯を食べてくれない彼女。
一応水は飲んでいるが、食事は全くとってくれない……警戒しているのだろうか。
「食べたくなったら言うんだよ。なんでも作ってあげるからね」
このままここにいても彼女が警戒疲れしてしまうし、埒が明かないので、ご飯を食べようと部屋を出ようとした、その時だ。
「……なんで?」
「え?」
全く姿勢は変わっていないが、初めて彼女は口を開いた。
力がなくか細い声だが……ハッキリと、僕達に向かって喋ったのだ。
「なんでって……何が?」
「なんで……私を心配するの? 人間なのに……私を殺さないの?」
その発言は、僕等を悲しませるのには、充分だった。
人間なのに私を殺さないのか……この発言から、彼女が人間に殺されかけた事がわかったからだ。
こんなに小さな子なのに、殺されかけた……命を救う仕事をしている僕やお婆ちゃんにとって、こんなに悲しい事は無い。
「皆を……皆を殺した、人間なのに……」
「……お嬢ちゃん……」
声も身体も震え、目には涙が溜まっていた。
それほど怖く、悔しい想いをしたのだろう……彼女にとってはもう、人間は自分達を殺す、恐怖の対象なのだ。
それなのに、ずっと僕達、特にお婆ちゃんが心配してくれるのが不思議だったのだろう。だから何か企んでいるのではないかと疑い、こうして勇気を出して口を開いたのかもしれない。
もちろんそんなつもりはないが、そんな事を言っても簡単には信じられないだろう。
「あなた達は……私を殺さないの?」
「お嬢ちゃんを殺す? 馬鹿言っちゃいけないよ!」
ゆっくりと、両手を広げながら彼女に近付くお婆ちゃん。
「あ、こ、来ないで!」
「何も心配はいらないよ、お嬢ちゃん……」
そんなお婆ちゃんに向かい、爪を立てて腕を振り回す彼女……きっと、これ以上近付いたらこの爪で切り裂くとアピールしているのだろう。
でも、そんなのお構いなしに、ゆっくりと近付くお婆ちゃん。僕は、その様子をただ見守るだけだ。
「いや……こないで……!?」
「大丈夫……お嬢ちゃんを殺しはしない……私らは、お嬢ちゃんに生きててほしい、元気になってほしいんだよ……」
振り下ろされる爪に怯む事なく彼女に近付き……彼女の爪がお婆ちゃんを傷付ける前に、彼女を強く抱きしめたお婆ちゃん。
「う……そだ……うそだ!」
「嘘じゃねえ。確かにお嬢ちゃんは人間に殺されかけたかもしれねえ。それはとっても怖かったと思う。簡単に人の命を奪う人間もたしかにおる。でも、私らは医者じゃよ。命を救う仕事をしているんじゃよ。だから、お嬢ちゃんには元気になってもらいたいんじゃよ……」
「うそ……そんなの……信じられないよぉ……」
嘘だ、信じられないと、彼女は言う。震えたその声で、今にも泣き出しそうな表情で。身体を震わせ、自分に言い聞かせるように、彼女は力無く言う。
掲げられていた腕は、今は力無く垂れている。
「信じられないなら、今は無理に信じなくてもええ。でも、死んじゃあ信じるも信じないもねえ。だから今は元気になるために、ご飯を食べよう、ね?」
「あぅ……」
「ご飯も怖いのなら、私が先に食べた物を食べたらええ。ここにはお嬢ちゃんを殺そうとする人間はおらんよ」
「うぅ……」
ぎゅっと抱きしめ、頭を撫でながら、優しく語りかけるお婆ちゃん……恐い顔をして警戒していた彼女も、段々と力が抜けていき……
「うぅ……うぅぅ……」
「泣いてもええ。辛かっただろ? 泣きたいだけ泣いて、落ち付いたらご飯にしよ、ね?」
「うぅ……うぇぇぇぇぇえっ!!」
「よしよし……もう大丈夫じゃよ……めいっぱい泣いたらええ……」
お婆ちゃんの優しさに、少しだけ心を許したのか……お婆ちゃんの胸の中で、大きな涙をこぼしながら、思いっきり泣き始めた。
今まで全く泣いていなかった彼女は、ここに来て初めて泣いた……全ての悲しみを、胸に溜めていた苦しみを、押し流すように……
「うえええぇぇぇ……ぐす、ふぇぇぇぇぇえっ!!」
「よしよし……ばあちゃんの胸の中で、苦しいもの全部流すとええ。もう怖いもんはねえからな……」
小さな村の、小さな診療所の、小さな病室で、一人のお婆ちゃんの優しい声と、一人の小さな魔物の悲しい泣き声だけが、いつまでも響き渡っていた……
これが、後にお婆ちゃんにべったりな甘えん坊で、僕の妹のような存在で、この村のアイドルにもなる、ワーウルフのリムとの出会いだった。
14/03/23 21:30更新 / マイクロミー
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