連載小説
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ツキアカリ
 一匹の百足が、月光に打たれていた。
 月明かりを照り返す体は暗青色で、不気味に蠢く触角と、河原の石ころにしがみつく無数の歩肢、毒を秘めた顎肢は、爛熟したザクロのように赤い。その色の取り合わせはおぞましいくらいに鮮やかで、毒々しい。

 花のように、人々から愛される姿ではない。
 鳥のように、美しい声でさえずることもなく。
 風のように、柔らかな腕で包むこともなければ。
 月のように、大きく、気高く、自由に空を渡ることもできない。

 地を這う、醜い嫌われ者。ちっぽけな虫けら。

「――“また”流れてきたのね。仕方のない子」

 その虫けらに、話しかけるものがあった。
 それは、花よりも鳥よりも風よりも素晴らしく、月のように神々しくて。
「川に落ちたって、また『あの子』に会えるとは限らないのに。そのうち、本当に溺れ死んでしまうわよ」
 楽の音を思わせる声に、百足は……答えない。応えられない。
 喋ることはできないし、言葉を理解できる頭もない。知恵がなく、ただ機械のように動くだけの存在。だからこれは……この“無駄な繰り返し”は、全く不可解で、そして奇跡のようなものなのだろう。

 ふわり、ふわり。

 綿毛のように舞い降りた声の主は、石橋の欄干に腰かけ、アオズムカデという種類のそれを見下ろす。
「あの子に、会いたい?」
 空気が震え、
 風がそれを運び、
 百足の赤い触角を揺らした。
 百足にとっての触角は、人間に例えると目であり、鼻であり、耳だ。
 その震動を感じ取ったアオズムカデは――体をくねらせた。

 きしり、きしり。

 青黒い体節が擦れ合い、足は風に嬲られた糸屑みたいにざわめき、音を鳴らす。声帯という器官を持たない百足の、それはまるで鳴き声にも似た音だった。

 きしり、きしり。

 たかだか十センチにも満たない虫けらが、のたうつように身をくねらせる。それはまことに奇妙で、見苦しく、何より生理的嫌悪を催す動きだった。
 だが同時に、哀れを誘う何かを――小さな体が張り裂けてしまいそうな何かを、見る者に印象づけたかもしれない。
 そして、女性の姿を模った、月の化身の如き存在は、それらのどんな思いも抱かなかった。
 嫌悪も、憐憫も。
 ただ『愛おしい』と、彼女は思ったのだった。

「いいでしょう。それならば、あなたに贈り物をしましょう。花のように麗しい顔を、鳥のように美しい声を、風のように人を包める腕を、そして月のように大きくどこへでも行ける体を。魔法使いが灰かぶりをお姫様に変えたように、あなたに魔法をかけてあげる」

 夜気で編んだような黒い衣から、まるで内側より輝いているのではと思わせる皓々たる腕が差し伸べられる。指先が宙を踊り、見えない鍵盤を撫で、琴糸を爪弾くようにすると――虹色のシャボン玉が忽焉と現れ出でた。
 いくつものシャボン玉はぷくぷくと現れながら空を漂い、百足にぶつかった。七色の玉が次々とぶつかって、虫の姿はたちまち見えなくなる。
 そうして。
 シャボンの玉が一つに溶け合い、大きなカタマリになった頃。白雲母みたいな綺麗な玉は、ツルンと光ってパラリと弾けた。

 すると。

 中から現れたのは――、一体の妖怪変化だった。
 豊かな山のような、緑なす黒髪。
 決して華美ではないが、か弱げで美しい相貌。
 白絹を思わせる、白く滑らかな肌。
 無理に抱き寄せれば折れてしまいそうな柳腰は、可憐の中にも隠しきれない凄艶が滲み。
 そして……腰から下は百足の胴が生えており、頭には触角が、人体部分にも鋭い顎肢がにょっきり突き出ている。
 間違いなく異形だった。
 見る者に畏怖を植え付けるだろう。
 だが、間違いなく美しかった。
「あ……う……」
 人間で言えば二十歳くらいか。妙齢の美女は小さな口を開き、不明瞭な声を漏らす。それは意味を成す言葉ではなかったが、声帯を震わせて発した、れっきとした声であった。
 なよやかな腕を眼前に掲げしげしげと見るその娘に、神秘の担い手は楽しげに告げた。
「おめでとう。これであなたは人間……という訳ではないけれど、人と言葉を交わし、愛し、子を産むことができます」
 その玉の触れ合うような声は、しっかりと娘の“耳”を介し、言葉を理解させた。
 そう、言葉だ。
 今まで音と言えば、触角や歩肢で感じ取る振動に過ぎなかった。『敵』か『獲物』を見分けるだけの、単純な器官。生きるためだけに必要な能力。
 だがこれはどうだ。
 音とはこういうものかと、娘の心が打ち震える。
 眼前の川がざぁざぁと流れる音。
 石の陰で、葉の上で、山の方で鳴く虫の音。コロコロと、リィリィと、ルルル、ロロロと合奏するのが聞こえる。そしてそれを『美しい』と思える心がある。
 それから、目の前の女性。
「お月様」
 大百足は言った。言い知れぬ感動と、伝えきれない感謝を込めて。
 お月様と呼ばれた女性はそれを穏やかに受け止めて、言った。
「名前もあげましょう、ないと不便でしょうし。そうね……夜の海のような黎(あおぐろ)い色合いに炎の緋(あか)がある。決めた、あなたの名前は『不知火』よ。今日より不知火と名乗りなさい」
「し、ら、ぬ、い……」
 一言一言を、噛みしめるように繰り返す不知火。その声は鈴の音を思わせて、夜に鳴くどの虫たちよりも、日中に鳴くどんな鳥よりも麗しい。
「初夏とは言え山の夜は少し肌寒いし、何より慎みがないわね。では、もう一つ贈り物をしましょうか」
 お月様が白い手を一打ちすると、シャボン玉の弾ける音が聞こえた。
 それで、不知火の華奢な裸身に紗(うすぎぬ)の黒引き振袖がはらりと掛かる。
「さあ、今日はもう家にお戻りなさい。ここしばらくあなたは寝ていなかったのだから」
 不知火は、教えられた訳でもないのに深々と頭を下げると、山の方へと帰って行く。彼女の足下で、石ころがからりころりと転げ、ちゃぷちゃぷと水音が鳴る。その音が楽しくて、長い胴をわざとうねらせ、音を鳴らしながら川沿いを登っていった。

「不知火、あなたは愛を知るでしょう。それがあなたにとって良きものであることを、わたしは願っていますよ」
 冴え冴えとした月影に、黒衣の女性は霞んで消えた――。
16/06/03 20:56更新 / 赤いツバメと、緑の淑女。
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