読切小説
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『白い手』
 早朝に降り出した雨は上がり、今年初めての蝉が鳴き始めた。

 安普請の天主堂だ。蝉の声も、近くの雑木林で子供達が遊ぶ喧噪も、落ちきっていない雨だれの音さえも、中まで丸聞こえ。
 この辺りの夏場はカラッと晴れ、気温もさして上がらない。お陰でテンサイが良く育ち、サトウキビの育たないここらの地域では、貴重な砂糖生産地帯だ。

 礼拝所で跪きながら、青々とした畑を脳裏に浮かべ、豊作を祈る。
 フィデルは、この村が好きだった。
 司祭としての赴任地を希望した際、司教様も司祭様も、大変驚かれた。が、『最も貧しい土地に行きたいのです』と訴えると、二人は呆れたように笑い、許可してくれたのだ。
 だが、この村は最も貧しい村ではなかった。
 国内には、もっともっと貧しく、作物の育たない地域がある。そんな名も知られぬ貧村にしがみつき、必死に暮らす人々の存在を知った時、フィデルは恥じた。
 都会育ちの世間知らず。
 『神童』などと呼ばれ、浮かれていたのだ。
 十五歳で神学校を卒業し、助祭に叙階された。高名な司祭の元で一年間修行し、十六で司祭に。
 この村で四年間の任期を終えれば、二十歳で司教の座が約束されている。あと、一年。
 だが、それで良いのだろうか?
 漠然とした不安を、拭い去れずにいる。

 ――チリィン。

 祈りから迷いに没頭していた頭が、直ぐさま切り替わる。
 懺悔室に人が訪れたことを知らせる、鈴の音だ。
 悩むのも、考えるのも、あとでいくらでもできる。
 フィデルは、礼拝室の奥にある小さな扉を、深呼吸してから――開けた。



(花の香り?)

 懺悔室は小さな個室だ。中央を壁で仕切り、礼拝室側に司祭が、反対側に告解者が座る。その二つの空間をつなぐのは、仕切りに開いた小窓だけ。カーテンの布地越しに、その芳香は漂ってきていた。
(嗅いだことのない香りだ。香水……とも違うような)
 フィデルは首を振った。集中できてない。この向こう側に居る、悩める信徒に失礼だ。
 椅子に腰かけ、小窓の向こうへ話しかける。
「悩める人よ、貴方がここを訪れた、それが既に信仰の証なのです。恥じることはありません。胸の内をつまびらかにし、悔い、改めるならば、神はきっとお赦しになります。さあ、最後の勇気を出すのです」
 尊敬する師のように、ゆっくり、穏やかに、腹から声を出す。……そうしないと、少年から抜けきっていないアルトヴォイスのせいで、威厳が出せないのだ。告解者に安心感を与えるためには、こういったテクニックも必要になってくる。当初は拒否感もあったが、それも必要と何とか割り切った。

 しばし、待つ。

 蝉噪も、子供達の声も、どこか遠い。雑木林のある裏手側を向いているにしては、妙に外の音が聞こえ辛い。
 ただ雨だれが地を打つ、ぽつり、ぽつりという音が耳に届く。
 そして何よりも、この甘やかな香りに意識がいってしまう。
 女性だろうか。
 女性の信徒は苦手だった。新任司祭が若いと知ると、中には明け透けな内容を打ち明けて、狼狽える様を楽しむ者も居た。
 密かに深呼吸し、胸元に下がるホーリーシンボルへと手を伸ばそうとした時だった。

「話を、お聞き下さいますか?」

 たまゆら――思考を音で塗りつぶされる。

 一色に染め上げられた世界に、しだいに……他の音が戻ってくる。
 果たしてそれは声だったのだろうか?
 いいや、声に違いない。人の、女性の声だ。
 言葉は、一言一句、頭に染みついている。
 気付けば、少し手が震えていた。
 馬鹿らしい。今さら女性相手の聴罪に緊張するなど。
 息を吸い、問いへ返す。
「聞きましょう。それが神の僕たる、私の役目です」

 また、ややあって。

「手を、握っては頂けませんか? 神父様に拒絶されるのが、恐ろしいのです」
 切々たる訴えはいかにもか弱く、胸が締め付けられる。全てをなげうってでも救いの手を差し伸べたくなる。
 だがフィデルは心に呟く。この人だから助けるのではない。全ての信徒を救い、未だそうでない未来の信徒をも助けるのだ、と。
「私は決して貴女を拒絶しません、神の名に誓って。さあ、勇気を出して、一人で主の御前に立つのです」
 女性に――とりわけ若いご婦人に気安く触れる訳にはいかない。
 人は弱いから。
 禁欲を旨とし、己を律し、神から授かった権能を我が物と勘違いせぬよう、常に心がけねばならない。でなければ、堕落しかない。
 その為には、信徒に寄り添いながらも、線引きもしなければならない。矛盾しているようだが。
 しかし、女性は言う。
「いいえ神父様。わたしがこれから懺悔致しますのは、神といえどもお赦しになるか判らないものなのです。ああ、口にするのは恐ろしく、胸に秘めたままでも生きてはいけません。このままではきっと、わたしの胸は張り裂けてしまうでしょう! 神父様……哀れな女をお救い下さい」
 その声はあまりに真に迫り、本当に、この壁の向こう側で息絶えるのではないかとフィデルに思わせた。
 だから、彼はとっさに言ってしまっていた。
「わ、解りました! 人と人とが親愛の握手を交わし、敬虔なる信徒が祈りに手を組むように……この告解の間だけ、私達の掌を重ねましょう」
 その言葉に、小窓を覆うカーテンが揺らめいた。

 ――白い手、だった。

 フィデルは未だかつて、これほどに白い手を見たことがなかった。
 白亜の神殿から、大理石の天使像が動き出して今そこに居る……そう言われても信じてしまいそうな。あるいは、真実、天使様が降臨なさったか。指先に填まる可憐な爪は、磨いたテリン(桜貝)を思わせる。
 触れても良いのか?
 裏返せばそれは、『触れてみたい』ということだ。
 だが、深山の白雪を汚す思いがして、ひどく躊躇われる。

(神よ)

 フィデルは祈った。彼こそ、己の欲を告解したい気分だった。

「神父様?」
 か細い声。
 可憐な手が、頼りなげに震える。
 見てしまえば、その手を取らずにはおれなかった。

 工芸品じみたその手は、当たり前だが血の通う温かな手だった。てっきり、宝石のような冷たさを勝手に想像していたのだが。
 そして、金やダイヤモンドにはありえない、柔らかな手触りとしっとりとした潤いがあった。ミルクでできているのではと疑うほどの。
 つい、その妙(たえ)なる感触を求め、指に力がこもる。そしてハッと我に返り、握った手を離そうとして――握り返された。
 包み込むような柔らかさに、ひどく狼狽してしまう。
「ありがとうございます、神父様」
 カーテン越しの声は穏やかで、慎ましく、美しい。今まで聞いたことのない声だ。
 今さらだが、その声にも、この白い手にも、フィデルには覚えが無い。村人の顔も名前も大まかな性格も把握済みだが、こんなご婦人はいなかった。
 こんな……農具など握ったこともないだろう、綺麗な手の持ち主。都の大聖堂を訪れるご令嬢達も、これほどではなかったように思う。

(避暑に訪れた、やんごとないご身分の方だろうか)

 声は、十九のフィデルと大差ないように聞こえる。だが、男女の性差を度外視しても、同じ人間とは思えぬほどの玲瓏な声で。カーテン越しだというのに少しもくぐもらず、はっきりと耳に届く。
 清浄な乙女の姿をいやが上にもかき立てて、眼前の壁に空想の絵筆で似姿を描かせる。

 フィデルは首を振った。

 この場で聞いたことは他言無用は当然として、告解者の詮索も禁じられている。不躾であり、何より浅ましい。信徒への裏切り行為だ。
 ホーリーシンボルを握り締め、雑念を追い払う。
「私は神の道具であり、主の耳となります。貴女の告白は天にのみ届けられ、他の誰が知ることもありません。さあ、心安くお話しなさい」
「はい、神父様」
 返答とともに、女性の手が僅かに動く。頷いたのだろうか? 律儀な性格を、好ましく思う。

「神父様が主にお仕えし心に迷いがないように、わたしの心も自由で、一切の憂いがなく、日々満ち足りておりました」
 鼓膜をそっと撫でるような慎ましやかな声に似て、きっと清廉に修身してきたのだろう。
 フィデルもそうだった。聖職者として人に恥じない、天に召された時に主の御前に誇って立てる、そんな日々を送っている。
 この乙女もそうなのだろう。
 では、しかし何故ここに?
「けれど、わたしの安息の日々は、ある時を境に終わりを告げました」
 晴天のように澄んだ声に、重く湿ったものが混ざる。
 カーテンの向こうで衣擦れの音がする。我が身を襲った不幸を嘆き、項垂れでもしたのだろうか? 神の道具として、私心を排し聞き役に徹さねばと思いながらも、知らず、手に力が入る。
 耐える力を、乗り越える勇気を分け与えたかった。
 聖職者としてではなく、一人の人間として励ましてやりたかった。
 いつもそうだ。
 だが、声をかけることは決してしない。聴罪者は神の道具に過ぎないし、告解者も“人の声”など求めていないのだ。だからいつものように口を噤んだまま、声を待つ。
 すると、白い手もぎゅっと握り返してきた。
 温かい、先程よりも。
 彼女の体温か。それとも自分か。いや、手に意識を向けるあまり、血管が開いただけだ。いちいち気にすることではない。
 それよりも、話に耳を傾けるべきだ。
「その御方は、水晶のように清らかで、太陽みたいに温かな方でした」
 声が花やぐ。
 薄暗い懺悔室に陽が差し込んだと錯覚させるほどだ。
「ご自分が既に清貧であられるのに、持たぬ者に食べ物や品物を分け与えたり。民に混じり畑を耕し、泥に塗れたり。仔牛の出産に立ち会って、産声に躍り上がって喜んだり。……救えなかった命に、人知れず涙したり」
 そんな人が居るのかと思った。
 師がそうだ。あの方は、高潔を絵に描いたような方だ。斯(か)くありたいと願い、日々精進してきた――それなのに。
 あの方を差し置いて司教になどなれば、神の裁きで自分は死ぬのではないかと思う。だが、司教への叙階を最も後押しして下さるのが、他ならぬ師であった。
(私が司教になど、やはり――)

 心奥に沈みかけた思考が、握られた手の感触で一気に浮上する。

(本当に、集中できていない)
 頭が回らない。息を深く吸い、ゆっくり吐き出す。
 部屋に満ちる香気で、胸が満たされる。
 不思議な香りだった。
 香水のように甘ったるくはない。
 薔薇の芳香に似ているが、仄かに熱のようなものが感じられる。……香りに熱というのも妙な話だが。
 昼も近い。部屋の温度が上がっているだけだ。
 そういえばと、ふと気付く。
 蝉の鳴き声が止んでいる。昼には鳴かないものだし、これは不思議ではない。
 子供達の声も聞こえない。昼餉のために帰宅したとは思えない。ここらは一日二食で済ませる風習だからだ。まあ、単に遊び場を変えたのだろうが。

「まだお若くていらっしゃるのに、いつも一生懸命で」
 いつの間にか、その声は熱を帯びていた。
 白い手も、微熱のある者の兆候として僅かに汗ばみ始めている。
 告解の最中、気持ちが昂ぶって熱に浮かされたようになる者も居る。だからこれは緊急事態という訳ではないし、話を止める必要もない。
 けれど、注意はしておく必要がある。逆上せ上がって大声で叫んだり、失神する前に止めなければ。人に聞かれたくない懺悔内容を外に響き渡るほど絶叫しては、世間的に哀れな結果になる。また、気絶して倒れ怪我でもしたら大事だ。

 手が離れないよう、しっかりと握る。
 向こうも、強く握り返してきた。

「眼差しがとても優しげで」
 ……ん?
「知的でいらっしゃるのに、笑ったお顔があどけなくて、大層お可愛く」
 これは――。
「とりわけ、声が。その……こう申し上げてはその方に失礼なのですが、まるで女の子みたいに高めの声で。ですので、柔らかく響くのです。ああ、あの愛らしい声でわたしの名を呼んで下さったら」
 恋の相談だ。十中八九。
 だが、肩の力は抜けない。恋の病というものは凄まじく、殊に女性が罹ると、これが難病なのだ。上手くいけば良いが、想いが叶わなかった場合、とても大胆な行動に出るケースがある。――最悪、命を絶つ場合もある。
 だから、『たかが恋愛話』と気軽に受け止めてはいけない。ましてや、こうして懺悔しに来ている訳なのだから。
 とは言え、できることは大してない。ただ黙って、じっと聞くだけ。そして、その全てを受け止めるだけだ。
 キッチリ留めた祭服の襟元を寛げかけ、すんでに止める。人の目がないからといって、服装を乱すべきではない。
 だが、なにか暑い。
(今年の夏は暑くなるのかな? 作物に影響がなければいいが)
 息を吸い、吐く。
(そういえば今朝、オレガノの花が咲いていたな)
 ここの裏手に咲いた、夏の花。白く小さな花々をいっぱいにつけ、その中にひっそり混じり、薄紅の花もほころんでいた。
(丁度、こんな風に)
 白くたおやかな手。ほっそりした指先に、可憐なピンクが色付いている。
 そっと――親指で甲をなぞる。
 朝露に濡れる花弁に似て、驚くほどなめらかに皮膚を滑り、

 びくっ。

 その手が、大きく震えた。
(――私は、なんてことを!?)
 己の行動に愕然とする。
 神聖な懺悔室で、告解者の聴罪中に、年若い女性の手を卑猥に撫で回すなど。
 しでかした罪の重さに、手が震える。いや、体全体が震える。
(帰って貰おう)
 今すぐ告解を中断しよう。荷物をまとめ都に帰り、師に全てを告白しよう。いやその前に、隣の教区に行き後任が来るまでこの村をお願いしなくては。

 無垢なる手から、罪の手を離そうとして――フィデルの手は、白い手に握られたままだった。
「神父様」
 何を言うよりも先に、女性の声が上がる。
「懺悔は、まだ終わってはいません」
 その声は優しかったが、有無を言わせぬ強さが感じられた。
「し、しかし――」
「お見捨てなさいますか?」
 言葉の槌に頭を殴られ、心身ともに震える。
「わたしのようなつまらぬ者は捨て置き、聖堂の内にこもり、神とのみ対話なさるおつもりでしょうか?」

 ――見捨てる。

 これは、救済の放棄か? 我が身可愛さに、職務を――救いを求める信徒を見捨てる行為か?
 だが、先程の淫らな行いは聖職者にあるまじき振る舞いだったのも確かだ。
 頭の中がぐるぐると回る。
 視界が歪み、壁や天井が揺らいで見える。

「神父様、わたしにはあなたしかおりません」
 姿の見えない告解者を探し……白い手に視線が落ちる。
「神父様――いいえ、フィデル様」
 清冽な雪解け水が、果実酒の甘さと熱を含んだ様な変化。
 香気が強くなり、肺腑が侵される。
「ベルスをお救い下さいませ」
 ベルスとは、この女性の名か。
「どうかベルスの話が終わるまで、手をつなでいて下さい」
 白い指が、フィデルの存在を確かめるように動き、しっかりと握り直す。
 その動きはどこか艶めかしく、五匹の蛇に絡みつかれたような錯覚と危機感を芽生えさせた。
 カーテンの向こう側で、衣擦れの音がする。
「ベルスは恋をしました。生まれて初めての恋です。フィデル様はどなたか女性を好きになられたことは――いいえ、やはりお答え頂かなくとも結構です。もしも別の女性の名を聞けば、胸が裂けて死んでしまいますもの。それに、全身全霊を捧げてお仕えすれば……ここ、気に入って下さるでしょうか? はぁ……どきどきしています……ふ、ぅ……」
 どこか熱を帯びた、湿った吐息だった。
「フィデル様は、胸の大きな女はお好きでしょうか?」
「…………は?」
 問われた意味が理解できない。そもそも、このまま聴罪を続けて良いのかすら、決断できずにいる。
「胸です、胸。乳房の大きさは、どれくらいがお好みですか?」
「ちょっ、ちょっと待って下さい! それが一体、この告解に何の関係があるのです!?」
「関係大ありです。ベルスのおっぱい、こんな風に……っくぅ、大きいから。……はぁ……挟んでいっぱいご奉仕できますが、もしぺったんこがお好きなのでしたら非常事態ですし、ぃ……ん」
 なんだ? 何が起こっている?
 恋愛相談ではなかったのか? 懺悔はどうした? む、胸の大小に何の意味がある? 私の好みを聞いてどうしようというのだ!?
「あ、貴女はっ――」
「ベルスです」
「名を告げては仕切りの意味がっ――」
「フィデル様に覚えて頂かねば意味がありません。わたしの、ベルスの名も、身も、心も、全てを捧げ、これからお仕えするのですから」
「な、に?」
 私に? 仕える? 修道女になりたいのか? ならばこの女性は勘違いをしている。門を叩く場所は天主堂ではなく修道院であり、仕えるべき相手は主神ただお一方であらせられるのだから。
「貴女は――」
「ベルスです」
「……ベルスさん。お住まいに戻られたら、最寄りの修道院をお尋ねになると良いでしょう。神を身近に感じ、神と共にある豊かな生活が、貴女を待っていますよ」
「いいえ、フィデル様。あなたは勘違いなさってます。わたしがお仕えしたいのはフィデル様、あなたなのです。あなただけに奉仕する、あなただけの修道女になりたいのです。……くっ、んぅ……」
 つないだ手が、ぎゅっと握られる。
 しっとり汗ばんだその手は、お湯のように熱い。
「ああ、ご奉仕したい。ここで」
 衣擦れの音に続き、何か湿った音が聞こえた。

 ぽたり、ぽたり。

 雨だれの音がする。
「ここで――っ、んぅぅ……ベルスのここで、ふぃ、フィデル様にご奉仕シたい。愛を教えて差し上げたい」

 香りが――むせ返るような濃厚な香りが漂う。
 雨だれの音がする。だがこれは、外ではなくこの室内から聞こえる。
 くちゅりと、湿った音が側でした。
「べ、ベルスさんっ、一体どうなさって!?」
 様子がおかしい。
 つないだ手は小刻みに震え、高熱でもあるかのようにカッカと熱い。カーテン越しに、はぁはぁという荒い呼吸音も聞こえる。
 それに、さっきから何だ? くちゅくちゅという音が響いている。まるで、ミルクポリッジ(乳粥)でもかき混ぜているかのような、ねっとりした音だ。その上、この甘い香り……。

 のどが、無性に乾く。
 暗い室内で、ただ白い手だけが浮き上がって見える。

 ぽたり、ぽたり。

 くちゅ、くちゅ、くちゅ。

「ベルス、さん?」
「くぅん♪ ふぃでるさまぁ……んンッ♥」
 高い声を押し殺し、
 白い手が、びくんびくんと痙攣する。

 ぽたぽた、ぽたた。

 何かの雫が大量に滴り落ちる。

 訳も解らぬままに、フィデルの陰茎は激しく勃起していた。
 だが幸か不幸か。彼は己の変化に気付かずにいる。
 ただホーリーシンボルをすがるように握り締め、混乱のなか耐えていた。……いったい何に耐えているのかも解らぬままに。
「あうぅ……フィデル様の匂いがするよぉ……。ベルスにお命じになってぇ? ご奉仕しろって。ね?」
「な、なんの……なにが……」

 ――ジャララ。

 音がした。
 重く、乾いた音が。
 薄闇のなか視線を彷徨わせ……フィデルはそれを見た。
 灯火のように輪郭を浮き上がらせた白い手に、蛇が巻き付いているのを。
(追い払わなければ!)
 あの網目模様は鎖蛇だ。詳しい種類まではとっさに判断できないが、毒蛇であることに間違いはない。
 空いた方の手を伸ばそうとして――体が動かないことに気付く。
(なぜ動かない!? 既に噛まれていたか! ……いや、痛みなど感じなかったし、随伴症状もない。それより――)
「ベルスさん」
 彼女だ。この人を助けなければ。幸い、喋ることはできる。
「いいですか、落ち着いて聞いて下さい。既にお気付きかもしれませんが……貴女の腕に蛇が巻き付いています」
 反応は……無い。
 恐怖に動けずにいるのか? だが、それならそれで都合が良い。下手に動かれて反射的に蛇に噛まれでもしたら大変だ。
「そのまま動かず、心穏やかにじっとなさってて下さい。こちらから危害を加えなければ、蛇という生き物は噛んだりしません。また、彼らが襲うのは呑み込めるサイズの小動物だけです。――動かなければ大丈夫。私の言葉を信じて下さい。この手を決して離さないで」
 蛇は、こちらへ向かってゆっくり這い出してきている。動かなければやり過ごせる。少なくとも、ベルスさんは噛まれずに済む。

 白い手は、細波のように震え、
「――ッ、は、はい。はい! フィデル様のお言葉を信じます。決して、決して離しません!」
 極度の緊張下にあるのだろう。可哀想なほど声が震えている。

 そうこうするうちに、蛇は……フィデルの腕にぐるりと巻き付いて、顎門をくわりと開いた。
(人間を死に至らしめる毒蛇は少ない。仮に致死毒を有していたとして……その時は、その時だ)
 死は恐れるべきものではない。罪を恐れるべきだ。……一度罪を犯した身だが、だからこそ、これ以上無様を晒したくはなかった。
 自分でも驚くほど心穏やかに、フィデルはその瞬間を待つ。
 とうとう身を躍らせた蛇体は、フィデルの手首に食らい付いた。
(熱い!)
 身を襲ったのは、痛みではなく熱だった。
 噛まれた箇所から稲妻が走り、全身を駆け巡る。
 そして――痛みも、腫れも、出血もなく、フィデルの体には何の変化も起こっておらず。

 ジャラリ。

 身じろぎに合わせ、それが鳴った。
(くさり?)
 鎖だった。
 黒光りするそれはフィデルの腕に巻き付き、手首の腕輪とつながっている。
 冷たい金属光沢を放ちながらも人肌に温かく、何か体の一部のように“つながっている”感じがする。
 蛇は消え去り。
 代わりに、手錠のように片手に填まるそれを、いつの間にか動く手で、そっと触ってみる。
「あん♪ フィデル様ぁ」
 仕切り壁の向こう側で。カーテンの掛かる小窓の向こう側で、媚びを含んだ艶めかしい声が上がった。
 生暖かい金属の鎖から、とっさに手を離す。

 ――人間ではない。

 直感的にそう思った。
 白い手を振り解こうとして……決して強く握り締められている訳でもないのに、その手から逃れられない。
 ただ、ジャラリ、と鎖が鳴っただけだった。
「逃げないで下さい」
 視界が歪む。
 いや、眼前の壁が歪んでいる。
「怖がらないで下さい」
 仕切り壁だけではない。天井も、床も、この部屋のあらゆる部分が歪み、脈打つ。

 ぽたり。

 天井から滴り落ちた“なにか”の雫が床で弾け、ミルククラウンのように、黒水晶の花を咲かせる。

 ぽたり。
 ぴちゃり。

 闇の花が狂い咲き、妖しい黒で荘厳する。

「気高く、清らかで、なによりお優しい。とうとう見付けた。わたしが仕えるべき主よ。ベルスのご主人様」
 フィデルの眼前で、仕切りの壁がどくりと脈打ち、小窓を中心にめくれ上がっていく。
 春を迎えた花が、ぽってりとした花弁をほころばせ、蜜を吸う虫を誘うように。
 熟し切った果実が、汁の重さに耐えかね弾けるように。

 淫らに咲いた花冠の中心に、一人の乙女の姿があった。
 白い髪と紅い瞳は、オレガノの花を思わせる。
 黒い修道服を身につけてはいるが、淫ら極まりなく大胆に着崩され、大きな乳房と白い太腿が丸見えで。
 何より、尖った耳、背の翼と腰の尾が、人あらざる身を声高に主張している。
 そして目を引くのが――首輪。
 ほっそりした首に填められたその拘束具は、まるで奴隷か飼い犬のようにその身を貶めている。更にその隷属の証は、黒光りのする鎖でつながれ、フィデルの腕輪へとつながっていた。
「フィデル様」
 女性が一歩、前に出る。
 はだけられていた裾がよりめくれ、太腿は言うに及ばず秘部までもが露わになる。
 無毛の淫裂は熱い雫を滴らせ、むっちりした内腿を伝い床を汚す。

 その、あまりに卑猥な雨だれを目にし、反射的に後退ろうとして、
「うわっ?」
 いつの間にそこにあったのか。
 黒一色の寝具で設えられたベッドに足を取られ、フィデルの体は柔らかなクッションに受け止められる。
 そして当然、手をつなぎっぱなしだったベルスも引き込まれ、上から覆い被さってきた。
「ふふ♪ つ〜かま〜えたぁ♥」
「くっ、離しなさい!」
 必死に暴れるが、振り払えない。
「悪魔め!」
「あん、悪魔ではございません、サキュバスです。そして、貴方様に終生お仕えする修道女(ダークプリースト)です」
 赤を湛えた双眸は、作りたての苺ジャムみたいに熱く潤んでいる。
「修道女を名乗りたければ、身を慎み、神に仕え、民に奉仕しなさい!」
 その赤を見据えながら、渾身の力でフィデルは叫んだ。
 するとベルスは――それまでの媚態が嘘のように、フィデルが心底可憐だと思えるほどの微笑みを浮かべ、静かに告げた。
「はい、フィデル様。ベルスは身を慎み、姦淫せず、生涯フィデル様だけを愛し抜きます。また、フィデル様を最も尊き御方と定め、誠心誠意お仕えします。そして、全身全霊を捧げ、貴方様にご奉仕致します。――堕落せし神よ、御照覧あれ。この言葉違える時、我が命尽きる時。斯く有れかし」
 誓願の結句が紡がれるや否や、豊かな胸の谷間、心臓のある辺りに、魔術文字の刻印が浮かび上がった。
 博学多識のフィデルは、その魔術文字を読み解くことが可能だった。その効力と、意味を。
「な……なんということを……」
 それは呪いだ。ベルスがフィデルに隷属するという内容の。
 呆然と、無防備な表情を晒すフィデルの頬を、白い手がそっと撫でる。
「優しい優しいフィデル様、心配なさらずとも大丈夫です。わたし達魔物娘は一途なのですから、誓いが破られることは決してありません。それにやっぱり、わたしの目に狂いはなかった」
 声に媚熱が宿り、再び瞳は潤む。
「さあ、この万魔殿で愛の尊さを確かめ合い、淫らな賛美歌を奏でましょう」

 白い手が、頬を撫でる。
 黒い雫が、床一面に咲き乱れ。
 蝉の声も、子供達の喧噪も、もう何も聞こえない――。
16/05/22 19:01更新 / 赤いツバメと、緑の淑女。

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