第一章:偵察
国の重要な通商路の近くの森林部に、魔物達が巣を作り始めている。突然降って沸いた魔物の脅威に、防衛隊は騒然となった。
元々国と呼ぶのもはばかられるような小さな自治領だった。そんな小国に、魔物に対抗するような武力は無かった。昔から魔物も少ない土地であり、また山間に位置していることもあって人間同士の戦争に巻き込まれることも稀だった。
有用な鉱山があるわけでも無く、田畑を開くのにも平地に比べて多大な労力を必要とする。おまけに戦略的な価値も少ない。しかも攻め入るには起伏の多い土地に兵を送らなければならず、太古の時代に築かれた山城も残っていて攻略するのも難しい。そんな土地をわざわざ狙うような国は少なかった。
戦争になりかける事もあったが、そういう時にはいつも属国として下ることで事なきを得てきた。
開墾出来る土地は決して多くは無かったが、山の恵みの採取や、野生動物の狩猟等も共に行う事で、つつましやかに生活を営んできたのだった。
魔物の巣が出来始めているというのは、そんな田舎の小国と他の大国等を結ぶ唯一の街道付近の森の中との事だった。
修行の旅の途中だという魔術師の知らせが無かったら、恐らく誰も気が付かなかった事だろう。道を利用する者と言えばそういった旅人や行商人くらいのものだったので、集落の人間達も誰も気づいては居なかったのだ。
確かにこの街道を利用する者は少ない。しかしだからと言ってこの道を放置してしまえば魔物達は数を増やし、群れを成して国に攻め込んでくることだろう。その時には既に道は断絶され、他国への応援も呼べなくなる。
すぐに議会が招集され、話し合いが行われた。
大国に応援を呼ぶべきだという意見も出れば、これまで他国にしていたように魔物に対しても属国に下ればいいのではないかと言う者もいた。
議会はなかなかまとまらず、ついには集落のご意見番である長老や、防衛隊の隊長までもが呼び出された。
そして長い会議の末彼らが出した答えは、とにもかくにも魔物達の勢力がどの程度のものなのかを確かめるべく偵察を出す、と言うものだった。
だからって、なんで俺一人で向かわなければならんのだ……。
小国から続く街道より少し離れた森の中、青年、サップは茂みに身を潜めながら内心でぼやく。
サップはもともと狩猟を生業としていた。そのため、獲物に身を隠しながら森を往くのには慣れてはいる。
普段畑で鍬を振っている人間や年寄りが偵察に出るよりは、遥かに適任だというもの事実ではあった。
しかしサップは納得出来ていなかった。確かに偵察役として、他に相応しい人物はいないかもしれない。森の中での動き方を知らない者が付いて来ても、足手まといになるだけだというのも分かる。だが、だからと言って一人で様子を見に行って、仮に自分が戻らなかったらどうするつもりなのか。
魔物に食い殺されたのか、それとも単純に国を見限って逃げ出したのか、はたまた魔物に与したのか、誰にも分からなくなってしまうではないか。
溜息を吐きながら頭を振る。
無駄なことを考えていても仕方がない。ここに居るのは自分だけなのだ。自分が何とかしなければ、里が更に危険な状況に陥る。
サップは音を立てないように注意しながら前進してゆく。
集落を訪れたあの女魔術師によれば、魔物と言うものは皆見るもおぞましい醜い姿をしており、鼻のひん曲がるような腐敗臭や硫黄のような匂いを漂わせているのだという。
人間を主食にしている奴等は、皆獰猛で獲物を見つけ次第襲い掛かってくると言う話だ。鋭い牙や爪にかかれば、人間の身体なぞ簡単に八つ裂きだろう。
彼らは空腹を満たすことよりも殺戮に悦びを見出す化け物達で、仮に捕えた獲物を喰っている最中だったとしても、生きている人間を見つければ喰いかけのそれを放り出してでも襲い掛かって来るらしい。そしてただでは殺さず、獲物を嬲るだけ嬲った後に、まだ息がある状態でじわじわと喰っていくのだという。おまけに知性もまるでなく、腹が減れば共食いも平気で行うらしい。
聞くだに恐ろしい存在だ。……あくまでも、魔術師の話通りならば、だが。
サップは魔術師の事を疑っても居た。だからこそ、偵察役も引き受けたのだ。
小さな集落は、その土地柄もあり確かに訪れる人間は少ない。しかし外部との交流が全く無いかと言えばそんなことは無く、行商人や旅人などは時折訪れたりはしているのだ。魔界の道具や魔物が原料の物品を扱う商人も稀に訪れる事があるし、自分は魔物娘だと名乗る旅人や夫婦がやってきた事もあった。
サップ自身も彼らと話したことがあったが、皆魔物の事を気さくに話していた。商人も普通の商品を扱うように魔物由来の品を扱っていたし、魔物を名乗る女性も恐ろしい程美しくはあったが、とても人を喰うようには見えなかった。
とにかく、行けば分かる事だ。サップは警戒しながら歩みを進めた。
しばらく森をゆくと、遠くに木々の開けている場所を見つけた。
それと同時に、虫が飛ぶ羽音も聞こえてきた。一つではなく、複数だ。蜂のように耳につく、それでいて蜂よりも重く響く音だった。
サップは荷物から望遠鏡を取り出し、開けた場所へと向ける。
案の定、魔物が居た。種族も一種類のみではなく、数も一匹や二匹では無かった。
昆虫と植物の魔物が中心となっている様子で、獣のような魔物は見当たらなかった。
しかし、昆虫と植物だけと言ってもその種類は様々だった。蜂、蠅、蟷螂、蛾、蜘蛛、今目に付くだけでも色々な昆虫の特徴を持つ魔物が居た。共通しているのは、どの魔物も美しい女性の姿にも見えるという事だった。人間の女性の身体に、昆虫の手足や羽が生えているのだ。
植物の魔物の方も同様だった。大きな花の中に若草色の肌をした裸の女性が佇んでいる。他にも樹木と一体になった魔物や、大きな白百合の中から二人の女性が生えている魔物も居た。
女魔術師の話とはまるで違う姿だった。獰猛な爪も牙も無い。確かに昆虫や植物と人間が混ざり合ていると考えると少し不気味ではあったが、人間以外のモノが混ざっているのは何も悪魔や魔物に限ったことでは無い。見ようによっては、妖精や天使も同じようなものだ。
彼女達の人間の部分は皆美しく、その表情も朗らかに微笑んでいる。恐ろしい魔物の巣窟と言うよりは、妖精達が遊びまわる楽園のような光景だ。
……もしかしたら、彼女達は集落にとってもそれほどの脅威では無いのではあるまいか。
教会の教えでは確かに魔物は邪悪なモノだと言われているが、実際はこの目で見たことが全てだ。女魔術師も、きっと魔物達とろくに触れ合う機会も無く教会の教えを盲信していたのだろう。
教会は魔物と敵対しては居るが、サップの国は教会とそれほど親しく付き合っているわけでも無かった。密かに魔物達と取引をして、適当に貢物を渡すから手を出さないように取り計らってもらうなりすれば良い。そうすれば双方血も流れず、穏便に済む。
望遠鏡を仕舞いかけたその時だった。
おかしなものが視界に入った気がして、サップは目を凝らした。
それを見つけた瞬間思わず声が出そうになり、サップは咄嗟に口を抑える。
魔物の群れの中に、何人かの人間の男が居た。中には年端もゆかない少年の姿もあった。今まさに魔物達に喰われている、哀れな犠牲者達だった。
男達は皆衣服をはぎ取られ、裸だった。
魔物達はそんな男達に群がり、彼らの頭に、腕に、腹に、またぐらや脚にまでも寄ってたかって頭を押し付け、喰らいついていた。
周りの魔物達は物欲しそうな顔で仲間たちの食事風景を見ていた。彼女達が楽しそうにしているのは、まさかこのためだったのだろうか。久々の人肉にありつけて、ささやかな宴に興じているといったところか。
自分が見つかったらどうなるかを想像し、サップは体の芯が一気に冷えるのを感じた。自分の意思と無関係に体が震え出して止められなかった。
今すぐにでも逃げ出したい。背を向けて走り出したい。
だが、まだ自分は見つかったわけでは無い。焦って動いて気付かれたら、それこそ目も当てられない。
相手は空を飛びまわっているのだ。逃げる事になっても、地を這うしかない自分は圧倒的に不利だ。
それに自分は斥候なのだ。出来うる限り多くの情報を集めて帰る必要がある。この後あの男たちがどうされるのか、食事の後に彼女らが何をするのか、こうなったらすべて持ち帰ってやる。
サップは自らの太ももを力いっぱい握りしめて、震えを抑える。
そして再び望遠鏡を構えた。
魔物達の食事は続いている。胃の中身がせり上がって来そうになるが、歯を食いしばって堪えながら観察を続けた。
望遠鏡を覗きながら、サップは再び違和感を覚え始める。
最初は男達が苦悶の表情で苦痛に耐えているように見えていたのだが、よくよく見てみるとさほど苦しそうな表情でも無かったのだ。
何かを堪えているような表情であるには違いないのだが、その様子は苦痛と言うよりは恥ずかしがっているようにも見える。
それに、生きながら食われているはずなのに叫び声一つ上がらず、傷口から出血している様子も無い。血液さえも余さず吸われているとしても、傷口の肉色くらいは見えても良いはずだった。
サップは男達のうちの一人に狙いを定め、更に細かく目を凝らした。
大輪の花を咲かせた魔物、アルラウネの花の中に取り込まれて、二三匹の蜂の魔物、恐らくはハニービーだろう、に群がられている男だ。
男は後ろからアルラウネに抱き付かれている。胸に女の嫋やかな腕を回されて、逃げられないように捕まえられている。強く掴まれているようではあったが、しかし締め付けられているというほどではないようだった。
そんな男の身体を、更にハニービーが抱き付くようにして身動きを封じている。いや、しなだれかかるようにして甘えている? 彼女達は男の胸元や腕を指でなぞるように、さすっている?
男の身体にくっつけている顔も微笑んでいる、と言うよりはうっとりしているようで、口の動きも噛みついているのではなく口づけしたり舐めているようだった。
ハニービーのうちの一匹が男の正面へと回り込み、そして自らの腰を震わせる。白いふわふわの下着のようなものが消えて、丸みをおびた女の尻があらわになる。女の尻の下には、膨張し切った男の一物がそそり立っていた。
まさか。サップはごくりと生唾を飲み込んだ。
男を無理矢理犯そうとしているのか。猫が自分が獲った鼠を散々弄んでから食べるように、ひとしきり楽しんでから食い殺そうとでも言うのだろうか。
しかし男の表情からは、恐怖は微塵も感じられなかった。微笑みを浮かべて、まるで恋人同士のように魔物と見つめ合っている。
男と魔物の唇が重なる。下の方も、逞しい棒が魔物の穴へ……。
禁忌とされる人と魔の交わりを前に、サップは目的も忘れて魅入られかける。しかし猟師としての感覚が、妙な感覚を捉えていた。
サップは即座に我に返り、感覚を研ぎ澄ました。視線だ。何者かが、こちらを伺っている。
男を後ろから抑えているアルラウネ、彼女がこちらをじっと見ていた。そしてサップが彼女の存在に気が付くと、彼女はにたりと唇を歪ませた。
ぞっとした。全身の鳥肌が立ち、冷や汗が噴き出した。と、次の瞬間、魔物達の姿が急に小さくなった。魔物の群れは遥か遠くなり、何をしているのかもよく見えなくなる。
望遠鏡を確認しようとし、既にそれが手の中から消えていることに気が付く。
違う、奪われたのだ。
サップは己の迂闊さを呪った。魔物達を出歯亀するのに夢中になりすぎて、周囲への注意を完全に怠っていた。
恐る恐る、振り返る。
最初に目に入ったのは巨大なハサミだった。ごつごつとした甲殻で出来た大鋏。大岩を削り出したような武骨で力強いそれは、人間どころか大樹でさえも軽々とへし折ってしまえそうだった。
しかも、ただ力強いだけではないようだ。その大鋏には今までサップが手に持っていたはずの望遠鏡が挟まれている。持ち主が夢中になっていたとはいえ、使用者に気づかれず、壊さず望遠鏡を奪うくらいには繊細で素早い動きも出来るという事だ。
そんな大鋏を軽々と片手に構える身体を支えているのは、これまた大きく逞しい身体だった。黒曜石の塊のような艶やかでいてしかし力強い身体。大地を踏みしめその巨体を支える肢は四本あり、その全てが丸太のように太く、また鋏と同じように黒々とした硬質の殻をまとっていた。
全身を硬い甲羅に覆われていて、刃が通る隙間も無い。鋏とは反対側の腕には盾のような装甲も備えられている。サップは即座に自分のどうにかできるような相手では無いと自覚する。刃が通じないのなら、弓矢では対抗できるはずもない。
これだけの肉体を持つ相手だ。きっと悪魔じみた形相の化け物に違いない。
サップは覚悟を決めて顔を上げる。仮に八つ裂きにされるとしても、相手の顔くらいは見ておきたかった。
そしてサップは言葉を失った。自分の見ているものが信じられなかった。
そこに居たのは、可憐な少女だった。
年の頃は十代半ば辺りだろうか、目鼻立ちのはっきりとした、まだ幼さの残る可愛らしい顔立ちの女の子。
白い肌に、もっちりと柔らかそうな頬、赤いふっくらした唇。ぱっちりとした大きな目は、濃い紫色の宝石のように煌めいていた。
艶のある銀色の髪は二つに括られツインテールにされていて、さらさらと風になびいていた。頭から生えている太い二本の角を含めて見れば、さながら上等な銀細工とそれを飾る黒檀と言ったところだろうか。
彼方の魔物達同様、彼女の上半身は女性の物だった。肩や腕のあたりは鎧のような甲殻に覆われてはいたが、胸から下腹部までにかけては薄い皮膜のようなものを纏っているだけで、女性的な身体の曲線があらわになっていた。
戦車のような重厚な肉体と、あどけない少女の肢体が一つになっていた。武骨さと洗練さが混ざり合い、歪ながらも官能的な美がそこにあった。
サップは彼女を見上げながら嘆息する。呆けたように見つめる事しか出来なくなっていた。
無論、集落には女もいる。けれども日ごろから野良仕事に精を出している娘達には、これほどに繊細な美しさは皆無だった。よく日に焼けた女たちは健康的ではあったが、目の前の少女のような艶めかしい色香を前にするのはサップには初めての事だった。
「こんなところで、なにを、しているの?」
鈴を転がしたような女の子の声だった。
サップは咄嗟に応えようとし、喉から掠れた音しか出ないことに焦る。
甲虫のような魔物少女は掴んだ望遠鏡を見て首をかしげる。
「これは何? ……武器?」
「ち、違うよ。それは望遠鏡。遠くのものが良く見えるんだ」
「私達を、見ていたの?」
「あー、えっと」
サップは内心で焦り始めていた。
目の前の彼女、とても美しくはあるものの、言葉は少なく、また何を言うにも表情一つ変えないため、どういう意図で話を進めているのか今一つ分からないのだ。
ただの質問として聞いているのか、こっそり見られていた事に腹を立てているのか、それとも餌を見つけて喜んでいるのか。その表情からは読み取ることが出来なかった。
しかし武装してはいるものの、すぐに攻撃してくる気は無いらしい。話が通じるならきっと分かり合えるはずだ。サップはそう信じて、洗いざらい白状することにした。
「隠れて覗いていて済まなかった。君達が何をしているのか知りたくて」
彼女はサップをじっと見つめた。つま先から頭の先まで、サップが信頼に足る存在か見極めようとするかのようにじっくりと。
それから魔物達の群れの方へと目線を向けた。表情からは読めないものの、少し迷っている様子だった。
「ラファ姉」
彼女の返事を待っていると、新たな声が降ってきた。
見上げると、木々の間に昆虫の腹が見えた。
「上は、異常なし」
昆虫にしてはありえない大きさだ。とサップが訝っている間に、それはパッと木から足を離して落下してきた。
大地が揺れ、木々の枝が大きくしなる。大風でも吹いたかのように葉と葉がこすれ合い、掠れた音を奏でる。
甲虫少女が一匹増えた。降りてきたのは彼女と同じように、甲殻に身を包んだ昆虫の身体を持つ女の子だった。
彼女はサップを見つけると、まん丸の目を大きく見開いた。
「その人……」
「私達に、興味があるそうよ、ヘラ」
最初に出会った少女がラファで、木から降りてきた方がヘラと言うらしい。二人の容姿は似ているようで、少し違っていた。
ラファの方は二本角に髪も二つに束ね、片腕が鋏になっているのに対して、ヘラの角は一本で、髪も後ろで一つに束ねているようだった。腕の武器も鋏ではなく、騎兵が用いるランスのような槍だった。
ヘラはサップの後ろに回り込むと、その首筋に顔を近づけてスンスンと匂いを嗅いだ。
「懐かしい匂い。ラファ姉、私この人がいい」
「先に見つけたのは私よ、ヘラ」
ヘラだけではなく、ラファも身体を近づけてくる。目を閉じて、肩のあたりに顔を埋めて大きく深呼吸をする。
サップは顔を真っ赤にしながらドギマギする。女性にこんなに近づかれたことも無かったし、匂いを嗅がれたことも無かった。
ラファはパッと目を開くと、サップの顔を真正面から見つめる。
サップの心臓がかつてないほどに早く、激しく打ち始める。まるで体そのものが心臓になってしまったのではないかと錯覚するほどだ。
「今、恋人、いる?」
「い、いないけど」
「じゃあ、恋人にして」
無表情で、さらりと告げられる。サップは一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「恋人?」
「私も」
サップの背中に柔らかな感触が押し付けられる。ヘラが後ろから抱き付いてきていた。
それを見たラファは、正面からサップを抱きしめる。
突如として少女二人に前から後ろから抱きしめられて、サップは目を白黒させた。冷静になろうとするも、女の子の甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐり、まともに考える事も出来なくなってゆく。
二匹は魔物だ。それが分かっていながらも、サップは彼女らを女性として意識し始めていた。サップは自分の気持ちが分からなくなってくる。
「ちょっと待って、君達は一体何がしたいんだ」
「子作り」
「子作り!?」
思わず声が裏返る。
「子供欲しい。みんなみたいに、夫が欲しい」
ラファは魔物の群れの方を見てから、サップの顔に頬ずりする。
「私達は、雌しかいない。だから子を残すには、人間の男の精液がいる」
「あなたからは、やっぱりいい匂いがする。きっと強い子が生まれる」
右から、左から、甘く囁かれ、サップはくらくらし始める。
「魔物は、人間を食い殺すんじゃ」
「私達はみんな、人間と仲良くしたい」
「殺して食べたりなんて、絶対しない」
あぁ、ではやはりあの光景は、男と魔物が交わろうとしていただけだったのか。確かに喰われてはいたが、食事としてでは無く、別の意味だったわけだ。
魔物娘達の匂いに包まれて、サップはぼうっとし始めていた。彼女達の身体からは花のような、蜂蜜のような、果実のような優しい甘い香りがしていて、嗅いでいるだけでも安らかな気持ちになってしまうのだ。
「私の名前はラファ。魔物娘のソルジャービートルのラファ」
「私はヘラ。ラファ姉の妹。あなたの名前は?」
「……サップ。そんな名前だったのね」
「サップ君。いい名前」
「ねぇサップ。私達を恋人にして」
「でも、俺は人間で、君達は魔物で、しかも二人一緒なんて……。うっ」
サップの首筋に、二つの舌が這い回り始める。
しびれを切らした二匹の魔物娘がサップの肌の汗を舐め取り始めたのだ。
んちゅ、くちゅ、と湿った音が響き始める。ダメだと思いつつも、サップの下腹部は反応し始めていた。
硬く大きくなり始め、ズボンを押し上げ始めたその時だった。
突然二匹の魔物が身を離し、サップの身体が解放された。
「え」
そして困惑するサップの顔のすぐ横で、
どん。と轟音を上げて大気が破裂した。
同時に衝撃波が発生し、サップは近くの茂みへと吹き飛ばされる。
「な、何だ」
見れば、ラファとヘラが互いの腕に構えた得物を打ち合っていた。その度重い破裂音が大気を震わせ、衝撃の余波が木の葉を揺らす。
サップには何が起きたのか分からなかった。なぜ二匹は突然戦いを始めたのか。
「ヘラ。私が先よ。先に見つけたのは、私なんだから」
「ずっと待っていたのは、私も同じ。ラファ姉が相手でも、譲れない」
サップはなるほどと合点する。どうやら二匹は自分の所有権を争って戦いを始めたらしい。さながら樹液を巡って戦う甲虫同士の決闘とでも言おうか。
美しい女が自分を賭けて争い合う。男としては光栄ではあったものの、しかし自分の気持ちがそっちのけにされているところがサップには何とも言えなかった。
そのうえこの重量感のある身体だ。仮に彼女らの想いに応えて恋人になったとしても、彼女達の好きにされるのは目に見えていた。
ましてや断りでもしたらどうなるか。想像するのも恐ろしい。
「今のうちに、逃げた方がいいか……」
鋏と槍を打ち合わせる二匹の魔物をしり目にサップは後ずさりを始めるが、しかし三歩も進まないうちに壁に当たったように進めなくなってしまった。
振り向けば、黒い岩肌のような壁があった。
さっきまでは無かったものだ。それに、森の中になぜこんな石壁が。と訝っていると、その壁が二つに割れた。
そこから現れたのは、三匹目のソルジャービートルだった。壁のように見えていたのは、彼女の両腕に構えられた盾だったのだ。鋏、槍と続いて、今度は盾。ソルジャービートルには色々の個体が居るらしい。
サップは三匹目のソルジャービートルに抱きかかえられるようにして、盾の中の安全な空間に招き入れられた。
逃げそびれた。と気が付いたのは、既に抱きしめられた後だった。
「大丈夫でしたか。怪我はありませんか」
その表情は無表情ではあったが、他の二匹に比べると幾分か柔らかな顔つきだった。
髪は肩口辺りで切りそろえられ、角も生えては居なかった。三匹の中では一番胸が豊かで、抱えられているだけにもかかわらずサップの胸元では彼女の胸がつぶれていた。
「だ、大丈夫」
「私はチェファと言います。二人の妹です」
「そ、そうなの。と言うか、いつからそこに」
「サップさんが望遠鏡を取られた辺りから、近くには居ました」
つまりは最初から、という事か。ラファ以上に、全く気配に気が付いていなかった。
「驚かせてしまってすみません。私達ソルジャービートルは、男の人を同時に見つけた時に決闘して優先順位を決める習性があるんです。勝った個体から男の人と交わることが出来るんですよ」
「なるほど……。交際じゃなくて、交合なんだね」
触れている肌から、チェファの体温が、鼓動が伝わってくる。甲虫のような姿をしていながらも、彼女の体温は温かかった。
サップは自分の気持ちが次第に落ち着いてくるのを感じた。剣戟の音は続いていたが、この盾の中に居れば安全なのだと思えた。
「ラファ姉さんもヘラ姉さんも、怖がらせるつもりは無かったんです。
ただ、私達はもともと軍隊の最前線を構成する重騎兵としての役割を担う種族でもあって、決闘もまた激しいんです。それだけ、愛しい人への気持ちが大きいという事でもあるのですが……」
「けど、いきなり交合なんてしていいの? 相手、今回の場合俺だけど、良く知らないだろう?」
サップが問いかけると、チェファはしばらく考えているかのようにじっとサップの事を見つめて黙り込んだ。
何か変な事を聞いてしまっただろうかとサップは焦るが、しかし人間としては、共に子をなす相手の事を知っておきたいのは当然の感情だ。
「私達魔物娘は、鼻がとってもいいんです。匂いを嗅いだだけでその人がどんな人なのか分かってしまうんですよ」
「そうなのか? でも、流石に匂いだけで性格や人となりまでは分からないだろう?」
「分かるんです。汗の匂いや、体臭、精の香りから、その人が優しい人なのか、厳しい人なのか、真面目な人なのか、ふざけた人なのか、臆病な人なのか、勇敢な人なのか、すぐに分かります。だってその人の身体から出ているものですもの。言葉や態度と同じです」
「そういう物なのか」
「それに私達には触角もありますから」
チェファは顎、耳の下あたりから生える触角のようなそれを、サップの首元に触れさせて見せる。
「サップさん。先ほどまでは怖がられていたようですが、今は少し落ち着いていますね」
目を見開くサップに、チェファは頷いて見せた。
「凄いな」
「分かってもらえましたか?」
「あぁ。……けど、そんなにすぐにしたがるっていうのは、まだ良く分からないな」
「誰にでもしているわけではありませんよ。あくまで自分を孕ませるに足る雄だと思った相手にだけ、です。匂いを嗅げばその相手が分かるんです。そんな相手と出会えることは、本当に珍しい事なんですよ。
魔物娘達は皆、愛する雄と一秒でも長くそばに居て、一回でもよりたくさん、交わっていたいのです。
愛する人に寄り添っていたい。より長く一緒に居たいと思うのは、人間も同じですよね。
私達の場合は、私達を統べているサキュバスの魔王様の影響や、やはり個体の数が少ないですから、より子供を残したいという欲望が強いというのもありますが」
なるほど。とサップは合点する。
説明を聞けば、確かに理解出来ない話では無かった。昔話にも、人外の存在と人間とのロマンスも無いわけでは無いのだ。
まだ共感までには至れないが、向こうで繰り広げられている人魔の冒涜的な交わりの見方も少しは変わってくる。
「ありがとう。色々教えてくれて」
「いいんですよ。誤解を解くには、ちゃんと話すことが大切ですから。理解し合えれば無用な戦いを減らすことも出来ます。
でも、戦いを避けられない時もあります。誇りや、大切なものが掛かっている時などがそうですね」
「今の彼女達、とか?」
「はい。ですが同様に、戦いたくても戦えない者もいます。私は独りでは戦えないんです。私の腕は盾なので、負ける事は無くても勝つ事は出来ませんから。……だから、最後でいいんです」
サップは押し黙る。最後でいい、という事は、彼女もまた自分に興味を持っているという事なのだろうか。
「せっかくなので、私達の事をお話しましょうか。
ラファ姉さん、ヘラ姉さん、そして私。ちょっとずつ外見は違いますが、同じソルジャービートルという種族なんです。
同じ種族ではありますが、形にちなんで少しずつ呼び方も違うんですよ。ラファ姉さんのようなのをシザービートル、ヘラ姉さんのようなのをランサービートルと言うんです。私のようなものは、シールドビートルと言います。珍しいものではノコギリ状になっている者や、金棒のようになっている者も居ると聞いたこともあります」
なんだか本当にカブトムシのようで、サップは興味を惹かれる。
「そうだったんだね。もしかして、話し好きかどうかも変わってくるのかな。ラファもヘラも、口数が少なかったけど」
「そうですね。戦闘時の役割分担の影響もありますので」
「役割分担?」
「はい。私の役割は盾。まず最初に、敵の攻撃を防ぐんです。姉さん達を庇いながら、敵勢力の状況を見極めて、いかにすれば効率的に相手を突き崩せるかの戦略を立てます。
そしてそれを伝達するのも私の仕事です。誰にでも分かるように作戦を伝えるには、ある程度しゃべれないといけませんから。
それに対して、姉さん達二人は活路を開く役割があります。ヘラ姉さんのようなランサービートルが敵の戦線に突撃して突破口を開き、ラファ姉さんのようなシザービートルがそこから入り込んで敵地を引っ掻き回すんです
戦場では悠長に話してはいられませんから、自然と言葉は少なく、最低限のやり取りで意思を伝えるようになるんです。
……とは言っても、この森は平和なので狩りをするときくらいしか戦いはしませんが」
サップは黙ってうなずき、納得する。
一通りの説明が終わってもなお、チェファの盾の向こうの剣戟の音は鳴りやむ気配を見せていなかった。
「ラファ姉さんもヘラ姉さんもおしゃべりではありませんが、とても情熱的ですよ。だってあんなに必死で戦っているんですから」
彼女達の習性は分かった。しかし分かってもなおサップには納得出来ないところもあった。
いくら匂いで色んな事が分かるとはいえ、見ず知らずの、今日会ったばかりの自分に対して、なぜそこまで強い気持ちを持てるのか。自分はそれほど特別な人間では無い。身体も普通の人間。性格だって、同じような奴は他にもいる。どこにでもいる、ただの狩人だ。
迷い込む人間など、自分の他にも居たであろうに。どうしてこんな自分に対して、そんなにすぐに必死になれるのか。
サップは戦いを続ける二匹の方を見ようと身をひねる。と、当然チェファの肌に強く肌がこすれてしまい。
「ひゅいっ」
チェファがその表情に似合わぬ可愛い声を上げた。遅れて、わずかに頬を染める。
「び、びっくりしました」
「ご、ごめん」
「二人の事、気になりますか」
「そりゃまぁ、いきなり戦い始めたし。初対面の俺なんかのために」
サップのつぶやきを受けて、チェファは少し表情を曇らせる。しかしそれ以上彼女が何か言おうとすることは無かった。
「ねぇ、サップさん」
「ん」
チェファが、そのアメジストの瞳でじっとサップの事を見つめていた。
「戦う事はしませんが、私だってサップさんの事、強く想っているんですよ」
「い、いや、はは、参ったな。集落の女達なんて、何の財産も無いって見向きもしてくれないのに、いきなり別嬪の魔物三人から迫られるなんて、なぁ」
サップは茶化すように笑ったが、チェファは笑わず、相変わらず無表情のままだった。それどころか、その瞳に浮かぶ色はさらに真剣さを増してゆく。
「土地とか、財産とか、関係ありません。昔から、あなたは優しい人でした。私は、あなたのおそばに居られるだけで、それで……」
あどけなさの残る、可愛らしい少女の小さな顔が近づいてくる。
息がかかるほどに、鼻が触れ合うほどに迫ってくる。
唇に触れる、柔らかく湿った感触。その瞳に映る、少し不安げな自分の顔。その顔に見覚えがあるのは、自分の顔だったからだろうか。それとも。
しかし、甘い感触は背中からの衝撃とともにすぐに終わりを告げる。
「チェファ、何をしているの」
「横取りするなんて、ずるい」
チェファの腕が緩む。
振り向くと、チェファの両腕の盾が鋏と槍によってこじ開けられるところだった。
盾の向こうから、不機嫌そうに表情を消したラファとヘラが顔を覗かせる。
しかしチェファはチェファで、引く気は無いようだった。
「決闘に夢中になって、サップさんの事をないがしろにしているからいけないんです。戦いに勝っても、守るべきものを失っては無意味です」
聞きようによっては、戦いに夢中になっている間に獲物を逃がしては仕方ないだろうと言う意味にも取れたが、サップは考えないことにした。
盲点を突かれたらしいラファとヘラは、はっと息をのむ。
「そう、かもしれないわ」
「サップ君の気持ちも、聞いていなかったし」
「そうです。とりあえず、はっきりさせておきましょう」
開かれた盾の隙間から、ラファとヘラがにじり寄る。周囲を三匹のソルジャービートルに囲まれ、もはや逃げ場はどこにもなかった。
「サップ」
「サップ君」
「サップさん」
どちらを見ても、綺麗な女、もとい魔物娘が自分の事をじっと見つめている。無表情ながらも、その瞳の奥に情熱の炎が静かに揺れているのが分かる。
サップは言葉を詰まらせる。こんな事は初めてだった。誰かに助けを請いたいが、こんな経験をした事がある人間も滅多にいない事だろう。
「えっと、誰かを選んだ方がいいの?」
状況に流されつつも、しかしこの質問の時点で三人のうち誰かを選ぶこと自体は固まっているんだよな。と、サップは妙に冷静に現状を分析してもいた。
「誰かなんて言わず、三人とも選んで」
「私はサップ君と一緒に居られたら、それでいい」
「そうですよ。だってようやく会えたから」
ようやく、会えた? 狩りに出ているときに、気付かぬうちに見られていたのだろうか。それとも他に何かあるのか。
サップは少し考えてみるが、思い当たる節は無かった。やはり、知らぬ間に見られていたというところが妥当だろう。
三人を受け入れるか、それとも拒絶するのか。拒絶しても無理矢理襲われてしまいそうだが……。先ほどの決闘、そして彼女らの屈強さを思うと、逃げ切れる気もしないが。
いずれにしろ、今ここで彼女達を受け入れるわけにはいかないのだ。
今のサップは、個人の用件でここに立っているわけでは無い。小さいとはいえ、生まれ育った故郷の存亡をかけてここに居るのだ。
それを分かってもらえぬのなら、そもそも彼女らを受け入れる事も出来ない。
「済まないけど、答えは今すぐには出せない。俺は今、国のみんなの頼みで、魔物の巣の調査のために来ているから」
「魔物の巣の調査?」
「街道近くの森の奥に、魔物達が巣を作っているって知らせが入ったんだ。だから危険なものなのか調査に来た。けど、みんなは悪い奴らじゃ無さそうだし、危険は無いって報告してくるよ。
そうしたらまた来るから。待っていてくれないか」
緊張の一瞬だった。ここで彼女らが嫌がったら、出来る出来ないは別としても何としてでも逃げる算段を立てなければならなかった。
気は進まないが、彼女達を傷つけてしまう結果になるとしても、だ。
三匹のソルジャービートル達は顔を見合わせる。しかし予想外にも、彼女達はすぐに頷き合って答えを出した。
「そういう事なら、待っているわ」
「遅いようだったら、迎えに行く」
「だから、早く答えを聞かせて下さいね」
ソルジャービートル達は自分の言葉を受け入れた。彼女達は納得し、帰るための道を開けてくれた。
サップはわずかな罪悪感とともに、彼女達が本当に邪悪な存在ではないという事を確信する。
彼女達は人間離れした容姿はしてはいるが、人間よりも信頼に足る存在だ。
早く戻って来よう。そうして、もっとたくさん彼女達と話して、彼女達の事をよく知ろう。恋人同士になるかはひとまず置いておくとしても、きっと良い関係を築けるはずだ。
サップは彼女達に微笑みかけてから、手を振ってその場を後にした。
手を振ってサップを見送った後、ソルジャービートルの長姉はぽつりとつぶやいた。
「でも、おかしいわ」
「ラファ姉?」
「確かに、ここの隠れ里はずいぶん前からここにありますからね。最近見つかったというのは、変な話です。……何もないと、いいのですが」
山間に差し掛かった太陽が、血のように赤く焼けていた。
元々国と呼ぶのもはばかられるような小さな自治領だった。そんな小国に、魔物に対抗するような武力は無かった。昔から魔物も少ない土地であり、また山間に位置していることもあって人間同士の戦争に巻き込まれることも稀だった。
有用な鉱山があるわけでも無く、田畑を開くのにも平地に比べて多大な労力を必要とする。おまけに戦略的な価値も少ない。しかも攻め入るには起伏の多い土地に兵を送らなければならず、太古の時代に築かれた山城も残っていて攻略するのも難しい。そんな土地をわざわざ狙うような国は少なかった。
戦争になりかける事もあったが、そういう時にはいつも属国として下ることで事なきを得てきた。
開墾出来る土地は決して多くは無かったが、山の恵みの採取や、野生動物の狩猟等も共に行う事で、つつましやかに生活を営んできたのだった。
魔物の巣が出来始めているというのは、そんな田舎の小国と他の大国等を結ぶ唯一の街道付近の森の中との事だった。
修行の旅の途中だという魔術師の知らせが無かったら、恐らく誰も気が付かなかった事だろう。道を利用する者と言えばそういった旅人や行商人くらいのものだったので、集落の人間達も誰も気づいては居なかったのだ。
確かにこの街道を利用する者は少ない。しかしだからと言ってこの道を放置してしまえば魔物達は数を増やし、群れを成して国に攻め込んでくることだろう。その時には既に道は断絶され、他国への応援も呼べなくなる。
すぐに議会が招集され、話し合いが行われた。
大国に応援を呼ぶべきだという意見も出れば、これまで他国にしていたように魔物に対しても属国に下ればいいのではないかと言う者もいた。
議会はなかなかまとまらず、ついには集落のご意見番である長老や、防衛隊の隊長までもが呼び出された。
そして長い会議の末彼らが出した答えは、とにもかくにも魔物達の勢力がどの程度のものなのかを確かめるべく偵察を出す、と言うものだった。
だからって、なんで俺一人で向かわなければならんのだ……。
小国から続く街道より少し離れた森の中、青年、サップは茂みに身を潜めながら内心でぼやく。
サップはもともと狩猟を生業としていた。そのため、獲物に身を隠しながら森を往くのには慣れてはいる。
普段畑で鍬を振っている人間や年寄りが偵察に出るよりは、遥かに適任だというもの事実ではあった。
しかしサップは納得出来ていなかった。確かに偵察役として、他に相応しい人物はいないかもしれない。森の中での動き方を知らない者が付いて来ても、足手まといになるだけだというのも分かる。だが、だからと言って一人で様子を見に行って、仮に自分が戻らなかったらどうするつもりなのか。
魔物に食い殺されたのか、それとも単純に国を見限って逃げ出したのか、はたまた魔物に与したのか、誰にも分からなくなってしまうではないか。
溜息を吐きながら頭を振る。
無駄なことを考えていても仕方がない。ここに居るのは自分だけなのだ。自分が何とかしなければ、里が更に危険な状況に陥る。
サップは音を立てないように注意しながら前進してゆく。
集落を訪れたあの女魔術師によれば、魔物と言うものは皆見るもおぞましい醜い姿をしており、鼻のひん曲がるような腐敗臭や硫黄のような匂いを漂わせているのだという。
人間を主食にしている奴等は、皆獰猛で獲物を見つけ次第襲い掛かってくると言う話だ。鋭い牙や爪にかかれば、人間の身体なぞ簡単に八つ裂きだろう。
彼らは空腹を満たすことよりも殺戮に悦びを見出す化け物達で、仮に捕えた獲物を喰っている最中だったとしても、生きている人間を見つければ喰いかけのそれを放り出してでも襲い掛かって来るらしい。そしてただでは殺さず、獲物を嬲るだけ嬲った後に、まだ息がある状態でじわじわと喰っていくのだという。おまけに知性もまるでなく、腹が減れば共食いも平気で行うらしい。
聞くだに恐ろしい存在だ。……あくまでも、魔術師の話通りならば、だが。
サップは魔術師の事を疑っても居た。だからこそ、偵察役も引き受けたのだ。
小さな集落は、その土地柄もあり確かに訪れる人間は少ない。しかし外部との交流が全く無いかと言えばそんなことは無く、行商人や旅人などは時折訪れたりはしているのだ。魔界の道具や魔物が原料の物品を扱う商人も稀に訪れる事があるし、自分は魔物娘だと名乗る旅人や夫婦がやってきた事もあった。
サップ自身も彼らと話したことがあったが、皆魔物の事を気さくに話していた。商人も普通の商品を扱うように魔物由来の品を扱っていたし、魔物を名乗る女性も恐ろしい程美しくはあったが、とても人を喰うようには見えなかった。
とにかく、行けば分かる事だ。サップは警戒しながら歩みを進めた。
しばらく森をゆくと、遠くに木々の開けている場所を見つけた。
それと同時に、虫が飛ぶ羽音も聞こえてきた。一つではなく、複数だ。蜂のように耳につく、それでいて蜂よりも重く響く音だった。
サップは荷物から望遠鏡を取り出し、開けた場所へと向ける。
案の定、魔物が居た。種族も一種類のみではなく、数も一匹や二匹では無かった。
昆虫と植物の魔物が中心となっている様子で、獣のような魔物は見当たらなかった。
しかし、昆虫と植物だけと言ってもその種類は様々だった。蜂、蠅、蟷螂、蛾、蜘蛛、今目に付くだけでも色々な昆虫の特徴を持つ魔物が居た。共通しているのは、どの魔物も美しい女性の姿にも見えるという事だった。人間の女性の身体に、昆虫の手足や羽が生えているのだ。
植物の魔物の方も同様だった。大きな花の中に若草色の肌をした裸の女性が佇んでいる。他にも樹木と一体になった魔物や、大きな白百合の中から二人の女性が生えている魔物も居た。
女魔術師の話とはまるで違う姿だった。獰猛な爪も牙も無い。確かに昆虫や植物と人間が混ざり合ていると考えると少し不気味ではあったが、人間以外のモノが混ざっているのは何も悪魔や魔物に限ったことでは無い。見ようによっては、妖精や天使も同じようなものだ。
彼女達の人間の部分は皆美しく、その表情も朗らかに微笑んでいる。恐ろしい魔物の巣窟と言うよりは、妖精達が遊びまわる楽園のような光景だ。
……もしかしたら、彼女達は集落にとってもそれほどの脅威では無いのではあるまいか。
教会の教えでは確かに魔物は邪悪なモノだと言われているが、実際はこの目で見たことが全てだ。女魔術師も、きっと魔物達とろくに触れ合う機会も無く教会の教えを盲信していたのだろう。
教会は魔物と敵対しては居るが、サップの国は教会とそれほど親しく付き合っているわけでも無かった。密かに魔物達と取引をして、適当に貢物を渡すから手を出さないように取り計らってもらうなりすれば良い。そうすれば双方血も流れず、穏便に済む。
望遠鏡を仕舞いかけたその時だった。
おかしなものが視界に入った気がして、サップは目を凝らした。
それを見つけた瞬間思わず声が出そうになり、サップは咄嗟に口を抑える。
魔物の群れの中に、何人かの人間の男が居た。中には年端もゆかない少年の姿もあった。今まさに魔物達に喰われている、哀れな犠牲者達だった。
男達は皆衣服をはぎ取られ、裸だった。
魔物達はそんな男達に群がり、彼らの頭に、腕に、腹に、またぐらや脚にまでも寄ってたかって頭を押し付け、喰らいついていた。
周りの魔物達は物欲しそうな顔で仲間たちの食事風景を見ていた。彼女達が楽しそうにしているのは、まさかこのためだったのだろうか。久々の人肉にありつけて、ささやかな宴に興じているといったところか。
自分が見つかったらどうなるかを想像し、サップは体の芯が一気に冷えるのを感じた。自分の意思と無関係に体が震え出して止められなかった。
今すぐにでも逃げ出したい。背を向けて走り出したい。
だが、まだ自分は見つかったわけでは無い。焦って動いて気付かれたら、それこそ目も当てられない。
相手は空を飛びまわっているのだ。逃げる事になっても、地を這うしかない自分は圧倒的に不利だ。
それに自分は斥候なのだ。出来うる限り多くの情報を集めて帰る必要がある。この後あの男たちがどうされるのか、食事の後に彼女らが何をするのか、こうなったらすべて持ち帰ってやる。
サップは自らの太ももを力いっぱい握りしめて、震えを抑える。
そして再び望遠鏡を構えた。
魔物達の食事は続いている。胃の中身がせり上がって来そうになるが、歯を食いしばって堪えながら観察を続けた。
望遠鏡を覗きながら、サップは再び違和感を覚え始める。
最初は男達が苦悶の表情で苦痛に耐えているように見えていたのだが、よくよく見てみるとさほど苦しそうな表情でも無かったのだ。
何かを堪えているような表情であるには違いないのだが、その様子は苦痛と言うよりは恥ずかしがっているようにも見える。
それに、生きながら食われているはずなのに叫び声一つ上がらず、傷口から出血している様子も無い。血液さえも余さず吸われているとしても、傷口の肉色くらいは見えても良いはずだった。
サップは男達のうちの一人に狙いを定め、更に細かく目を凝らした。
大輪の花を咲かせた魔物、アルラウネの花の中に取り込まれて、二三匹の蜂の魔物、恐らくはハニービーだろう、に群がられている男だ。
男は後ろからアルラウネに抱き付かれている。胸に女の嫋やかな腕を回されて、逃げられないように捕まえられている。強く掴まれているようではあったが、しかし締め付けられているというほどではないようだった。
そんな男の身体を、更にハニービーが抱き付くようにして身動きを封じている。いや、しなだれかかるようにして甘えている? 彼女達は男の胸元や腕を指でなぞるように、さすっている?
男の身体にくっつけている顔も微笑んでいる、と言うよりはうっとりしているようで、口の動きも噛みついているのではなく口づけしたり舐めているようだった。
ハニービーのうちの一匹が男の正面へと回り込み、そして自らの腰を震わせる。白いふわふわの下着のようなものが消えて、丸みをおびた女の尻があらわになる。女の尻の下には、膨張し切った男の一物がそそり立っていた。
まさか。サップはごくりと生唾を飲み込んだ。
男を無理矢理犯そうとしているのか。猫が自分が獲った鼠を散々弄んでから食べるように、ひとしきり楽しんでから食い殺そうとでも言うのだろうか。
しかし男の表情からは、恐怖は微塵も感じられなかった。微笑みを浮かべて、まるで恋人同士のように魔物と見つめ合っている。
男と魔物の唇が重なる。下の方も、逞しい棒が魔物の穴へ……。
禁忌とされる人と魔の交わりを前に、サップは目的も忘れて魅入られかける。しかし猟師としての感覚が、妙な感覚を捉えていた。
サップは即座に我に返り、感覚を研ぎ澄ました。視線だ。何者かが、こちらを伺っている。
男を後ろから抑えているアルラウネ、彼女がこちらをじっと見ていた。そしてサップが彼女の存在に気が付くと、彼女はにたりと唇を歪ませた。
ぞっとした。全身の鳥肌が立ち、冷や汗が噴き出した。と、次の瞬間、魔物達の姿が急に小さくなった。魔物の群れは遥か遠くなり、何をしているのかもよく見えなくなる。
望遠鏡を確認しようとし、既にそれが手の中から消えていることに気が付く。
違う、奪われたのだ。
サップは己の迂闊さを呪った。魔物達を出歯亀するのに夢中になりすぎて、周囲への注意を完全に怠っていた。
恐る恐る、振り返る。
最初に目に入ったのは巨大なハサミだった。ごつごつとした甲殻で出来た大鋏。大岩を削り出したような武骨で力強いそれは、人間どころか大樹でさえも軽々とへし折ってしまえそうだった。
しかも、ただ力強いだけではないようだ。その大鋏には今までサップが手に持っていたはずの望遠鏡が挟まれている。持ち主が夢中になっていたとはいえ、使用者に気づかれず、壊さず望遠鏡を奪うくらいには繊細で素早い動きも出来るという事だ。
そんな大鋏を軽々と片手に構える身体を支えているのは、これまた大きく逞しい身体だった。黒曜石の塊のような艶やかでいてしかし力強い身体。大地を踏みしめその巨体を支える肢は四本あり、その全てが丸太のように太く、また鋏と同じように黒々とした硬質の殻をまとっていた。
全身を硬い甲羅に覆われていて、刃が通る隙間も無い。鋏とは反対側の腕には盾のような装甲も備えられている。サップは即座に自分のどうにかできるような相手では無いと自覚する。刃が通じないのなら、弓矢では対抗できるはずもない。
これだけの肉体を持つ相手だ。きっと悪魔じみた形相の化け物に違いない。
サップは覚悟を決めて顔を上げる。仮に八つ裂きにされるとしても、相手の顔くらいは見ておきたかった。
そしてサップは言葉を失った。自分の見ているものが信じられなかった。
そこに居たのは、可憐な少女だった。
年の頃は十代半ば辺りだろうか、目鼻立ちのはっきりとした、まだ幼さの残る可愛らしい顔立ちの女の子。
白い肌に、もっちりと柔らかそうな頬、赤いふっくらした唇。ぱっちりとした大きな目は、濃い紫色の宝石のように煌めいていた。
艶のある銀色の髪は二つに括られツインテールにされていて、さらさらと風になびいていた。頭から生えている太い二本の角を含めて見れば、さながら上等な銀細工とそれを飾る黒檀と言ったところだろうか。
彼方の魔物達同様、彼女の上半身は女性の物だった。肩や腕のあたりは鎧のような甲殻に覆われてはいたが、胸から下腹部までにかけては薄い皮膜のようなものを纏っているだけで、女性的な身体の曲線があらわになっていた。
戦車のような重厚な肉体と、あどけない少女の肢体が一つになっていた。武骨さと洗練さが混ざり合い、歪ながらも官能的な美がそこにあった。
サップは彼女を見上げながら嘆息する。呆けたように見つめる事しか出来なくなっていた。
無論、集落には女もいる。けれども日ごろから野良仕事に精を出している娘達には、これほどに繊細な美しさは皆無だった。よく日に焼けた女たちは健康的ではあったが、目の前の少女のような艶めかしい色香を前にするのはサップには初めての事だった。
「こんなところで、なにを、しているの?」
鈴を転がしたような女の子の声だった。
サップは咄嗟に応えようとし、喉から掠れた音しか出ないことに焦る。
甲虫のような魔物少女は掴んだ望遠鏡を見て首をかしげる。
「これは何? ……武器?」
「ち、違うよ。それは望遠鏡。遠くのものが良く見えるんだ」
「私達を、見ていたの?」
「あー、えっと」
サップは内心で焦り始めていた。
目の前の彼女、とても美しくはあるものの、言葉は少なく、また何を言うにも表情一つ変えないため、どういう意図で話を進めているのか今一つ分からないのだ。
ただの質問として聞いているのか、こっそり見られていた事に腹を立てているのか、それとも餌を見つけて喜んでいるのか。その表情からは読み取ることが出来なかった。
しかし武装してはいるものの、すぐに攻撃してくる気は無いらしい。話が通じるならきっと分かり合えるはずだ。サップはそう信じて、洗いざらい白状することにした。
「隠れて覗いていて済まなかった。君達が何をしているのか知りたくて」
彼女はサップをじっと見つめた。つま先から頭の先まで、サップが信頼に足る存在か見極めようとするかのようにじっくりと。
それから魔物達の群れの方へと目線を向けた。表情からは読めないものの、少し迷っている様子だった。
「ラファ姉」
彼女の返事を待っていると、新たな声が降ってきた。
見上げると、木々の間に昆虫の腹が見えた。
「上は、異常なし」
昆虫にしてはありえない大きさだ。とサップが訝っている間に、それはパッと木から足を離して落下してきた。
大地が揺れ、木々の枝が大きくしなる。大風でも吹いたかのように葉と葉がこすれ合い、掠れた音を奏でる。
甲虫少女が一匹増えた。降りてきたのは彼女と同じように、甲殻に身を包んだ昆虫の身体を持つ女の子だった。
彼女はサップを見つけると、まん丸の目を大きく見開いた。
「その人……」
「私達に、興味があるそうよ、ヘラ」
最初に出会った少女がラファで、木から降りてきた方がヘラと言うらしい。二人の容姿は似ているようで、少し違っていた。
ラファの方は二本角に髪も二つに束ね、片腕が鋏になっているのに対して、ヘラの角は一本で、髪も後ろで一つに束ねているようだった。腕の武器も鋏ではなく、騎兵が用いるランスのような槍だった。
ヘラはサップの後ろに回り込むと、その首筋に顔を近づけてスンスンと匂いを嗅いだ。
「懐かしい匂い。ラファ姉、私この人がいい」
「先に見つけたのは私よ、ヘラ」
ヘラだけではなく、ラファも身体を近づけてくる。目を閉じて、肩のあたりに顔を埋めて大きく深呼吸をする。
サップは顔を真っ赤にしながらドギマギする。女性にこんなに近づかれたことも無かったし、匂いを嗅がれたことも無かった。
ラファはパッと目を開くと、サップの顔を真正面から見つめる。
サップの心臓がかつてないほどに早く、激しく打ち始める。まるで体そのものが心臓になってしまったのではないかと錯覚するほどだ。
「今、恋人、いる?」
「い、いないけど」
「じゃあ、恋人にして」
無表情で、さらりと告げられる。サップは一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「恋人?」
「私も」
サップの背中に柔らかな感触が押し付けられる。ヘラが後ろから抱き付いてきていた。
それを見たラファは、正面からサップを抱きしめる。
突如として少女二人に前から後ろから抱きしめられて、サップは目を白黒させた。冷静になろうとするも、女の子の甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐり、まともに考える事も出来なくなってゆく。
二匹は魔物だ。それが分かっていながらも、サップは彼女らを女性として意識し始めていた。サップは自分の気持ちが分からなくなってくる。
「ちょっと待って、君達は一体何がしたいんだ」
「子作り」
「子作り!?」
思わず声が裏返る。
「子供欲しい。みんなみたいに、夫が欲しい」
ラファは魔物の群れの方を見てから、サップの顔に頬ずりする。
「私達は、雌しかいない。だから子を残すには、人間の男の精液がいる」
「あなたからは、やっぱりいい匂いがする。きっと強い子が生まれる」
右から、左から、甘く囁かれ、サップはくらくらし始める。
「魔物は、人間を食い殺すんじゃ」
「私達はみんな、人間と仲良くしたい」
「殺して食べたりなんて、絶対しない」
あぁ、ではやはりあの光景は、男と魔物が交わろうとしていただけだったのか。確かに喰われてはいたが、食事としてでは無く、別の意味だったわけだ。
魔物娘達の匂いに包まれて、サップはぼうっとし始めていた。彼女達の身体からは花のような、蜂蜜のような、果実のような優しい甘い香りがしていて、嗅いでいるだけでも安らかな気持ちになってしまうのだ。
「私の名前はラファ。魔物娘のソルジャービートルのラファ」
「私はヘラ。ラファ姉の妹。あなたの名前は?」
「……サップ。そんな名前だったのね」
「サップ君。いい名前」
「ねぇサップ。私達を恋人にして」
「でも、俺は人間で、君達は魔物で、しかも二人一緒なんて……。うっ」
サップの首筋に、二つの舌が這い回り始める。
しびれを切らした二匹の魔物娘がサップの肌の汗を舐め取り始めたのだ。
んちゅ、くちゅ、と湿った音が響き始める。ダメだと思いつつも、サップの下腹部は反応し始めていた。
硬く大きくなり始め、ズボンを押し上げ始めたその時だった。
突然二匹の魔物が身を離し、サップの身体が解放された。
「え」
そして困惑するサップの顔のすぐ横で、
どん。と轟音を上げて大気が破裂した。
同時に衝撃波が発生し、サップは近くの茂みへと吹き飛ばされる。
「な、何だ」
見れば、ラファとヘラが互いの腕に構えた得物を打ち合っていた。その度重い破裂音が大気を震わせ、衝撃の余波が木の葉を揺らす。
サップには何が起きたのか分からなかった。なぜ二匹は突然戦いを始めたのか。
「ヘラ。私が先よ。先に見つけたのは、私なんだから」
「ずっと待っていたのは、私も同じ。ラファ姉が相手でも、譲れない」
サップはなるほどと合点する。どうやら二匹は自分の所有権を争って戦いを始めたらしい。さながら樹液を巡って戦う甲虫同士の決闘とでも言おうか。
美しい女が自分を賭けて争い合う。男としては光栄ではあったものの、しかし自分の気持ちがそっちのけにされているところがサップには何とも言えなかった。
そのうえこの重量感のある身体だ。仮に彼女らの想いに応えて恋人になったとしても、彼女達の好きにされるのは目に見えていた。
ましてや断りでもしたらどうなるか。想像するのも恐ろしい。
「今のうちに、逃げた方がいいか……」
鋏と槍を打ち合わせる二匹の魔物をしり目にサップは後ずさりを始めるが、しかし三歩も進まないうちに壁に当たったように進めなくなってしまった。
振り向けば、黒い岩肌のような壁があった。
さっきまでは無かったものだ。それに、森の中になぜこんな石壁が。と訝っていると、その壁が二つに割れた。
そこから現れたのは、三匹目のソルジャービートルだった。壁のように見えていたのは、彼女の両腕に構えられた盾だったのだ。鋏、槍と続いて、今度は盾。ソルジャービートルには色々の個体が居るらしい。
サップは三匹目のソルジャービートルに抱きかかえられるようにして、盾の中の安全な空間に招き入れられた。
逃げそびれた。と気が付いたのは、既に抱きしめられた後だった。
「大丈夫でしたか。怪我はありませんか」
その表情は無表情ではあったが、他の二匹に比べると幾分か柔らかな顔つきだった。
髪は肩口辺りで切りそろえられ、角も生えては居なかった。三匹の中では一番胸が豊かで、抱えられているだけにもかかわらずサップの胸元では彼女の胸がつぶれていた。
「だ、大丈夫」
「私はチェファと言います。二人の妹です」
「そ、そうなの。と言うか、いつからそこに」
「サップさんが望遠鏡を取られた辺りから、近くには居ました」
つまりは最初から、という事か。ラファ以上に、全く気配に気が付いていなかった。
「驚かせてしまってすみません。私達ソルジャービートルは、男の人を同時に見つけた時に決闘して優先順位を決める習性があるんです。勝った個体から男の人と交わることが出来るんですよ」
「なるほど……。交際じゃなくて、交合なんだね」
触れている肌から、チェファの体温が、鼓動が伝わってくる。甲虫のような姿をしていながらも、彼女の体温は温かかった。
サップは自分の気持ちが次第に落ち着いてくるのを感じた。剣戟の音は続いていたが、この盾の中に居れば安全なのだと思えた。
「ラファ姉さんもヘラ姉さんも、怖がらせるつもりは無かったんです。
ただ、私達はもともと軍隊の最前線を構成する重騎兵としての役割を担う種族でもあって、決闘もまた激しいんです。それだけ、愛しい人への気持ちが大きいという事でもあるのですが……」
「けど、いきなり交合なんてしていいの? 相手、今回の場合俺だけど、良く知らないだろう?」
サップが問いかけると、チェファはしばらく考えているかのようにじっとサップの事を見つめて黙り込んだ。
何か変な事を聞いてしまっただろうかとサップは焦るが、しかし人間としては、共に子をなす相手の事を知っておきたいのは当然の感情だ。
「私達魔物娘は、鼻がとってもいいんです。匂いを嗅いだだけでその人がどんな人なのか分かってしまうんですよ」
「そうなのか? でも、流石に匂いだけで性格や人となりまでは分からないだろう?」
「分かるんです。汗の匂いや、体臭、精の香りから、その人が優しい人なのか、厳しい人なのか、真面目な人なのか、ふざけた人なのか、臆病な人なのか、勇敢な人なのか、すぐに分かります。だってその人の身体から出ているものですもの。言葉や態度と同じです」
「そういう物なのか」
「それに私達には触角もありますから」
チェファは顎、耳の下あたりから生える触角のようなそれを、サップの首元に触れさせて見せる。
「サップさん。先ほどまでは怖がられていたようですが、今は少し落ち着いていますね」
目を見開くサップに、チェファは頷いて見せた。
「凄いな」
「分かってもらえましたか?」
「あぁ。……けど、そんなにすぐにしたがるっていうのは、まだ良く分からないな」
「誰にでもしているわけではありませんよ。あくまで自分を孕ませるに足る雄だと思った相手にだけ、です。匂いを嗅げばその相手が分かるんです。そんな相手と出会えることは、本当に珍しい事なんですよ。
魔物娘達は皆、愛する雄と一秒でも長くそばに居て、一回でもよりたくさん、交わっていたいのです。
愛する人に寄り添っていたい。より長く一緒に居たいと思うのは、人間も同じですよね。
私達の場合は、私達を統べているサキュバスの魔王様の影響や、やはり個体の数が少ないですから、より子供を残したいという欲望が強いというのもありますが」
なるほど。とサップは合点する。
説明を聞けば、確かに理解出来ない話では無かった。昔話にも、人外の存在と人間とのロマンスも無いわけでは無いのだ。
まだ共感までには至れないが、向こうで繰り広げられている人魔の冒涜的な交わりの見方も少しは変わってくる。
「ありがとう。色々教えてくれて」
「いいんですよ。誤解を解くには、ちゃんと話すことが大切ですから。理解し合えれば無用な戦いを減らすことも出来ます。
でも、戦いを避けられない時もあります。誇りや、大切なものが掛かっている時などがそうですね」
「今の彼女達、とか?」
「はい。ですが同様に、戦いたくても戦えない者もいます。私は独りでは戦えないんです。私の腕は盾なので、負ける事は無くても勝つ事は出来ませんから。……だから、最後でいいんです」
サップは押し黙る。最後でいい、という事は、彼女もまた自分に興味を持っているという事なのだろうか。
「せっかくなので、私達の事をお話しましょうか。
ラファ姉さん、ヘラ姉さん、そして私。ちょっとずつ外見は違いますが、同じソルジャービートルという種族なんです。
同じ種族ではありますが、形にちなんで少しずつ呼び方も違うんですよ。ラファ姉さんのようなのをシザービートル、ヘラ姉さんのようなのをランサービートルと言うんです。私のようなものは、シールドビートルと言います。珍しいものではノコギリ状になっている者や、金棒のようになっている者も居ると聞いたこともあります」
なんだか本当にカブトムシのようで、サップは興味を惹かれる。
「そうだったんだね。もしかして、話し好きかどうかも変わってくるのかな。ラファもヘラも、口数が少なかったけど」
「そうですね。戦闘時の役割分担の影響もありますので」
「役割分担?」
「はい。私の役割は盾。まず最初に、敵の攻撃を防ぐんです。姉さん達を庇いながら、敵勢力の状況を見極めて、いかにすれば効率的に相手を突き崩せるかの戦略を立てます。
そしてそれを伝達するのも私の仕事です。誰にでも分かるように作戦を伝えるには、ある程度しゃべれないといけませんから。
それに対して、姉さん達二人は活路を開く役割があります。ヘラ姉さんのようなランサービートルが敵の戦線に突撃して突破口を開き、ラファ姉さんのようなシザービートルがそこから入り込んで敵地を引っ掻き回すんです
戦場では悠長に話してはいられませんから、自然と言葉は少なく、最低限のやり取りで意思を伝えるようになるんです。
……とは言っても、この森は平和なので狩りをするときくらいしか戦いはしませんが」
サップは黙ってうなずき、納得する。
一通りの説明が終わってもなお、チェファの盾の向こうの剣戟の音は鳴りやむ気配を見せていなかった。
「ラファ姉さんもヘラ姉さんもおしゃべりではありませんが、とても情熱的ですよ。だってあんなに必死で戦っているんですから」
彼女達の習性は分かった。しかし分かってもなおサップには納得出来ないところもあった。
いくら匂いで色んな事が分かるとはいえ、見ず知らずの、今日会ったばかりの自分に対して、なぜそこまで強い気持ちを持てるのか。自分はそれほど特別な人間では無い。身体も普通の人間。性格だって、同じような奴は他にもいる。どこにでもいる、ただの狩人だ。
迷い込む人間など、自分の他にも居たであろうに。どうしてこんな自分に対して、そんなにすぐに必死になれるのか。
サップは戦いを続ける二匹の方を見ようと身をひねる。と、当然チェファの肌に強く肌がこすれてしまい。
「ひゅいっ」
チェファがその表情に似合わぬ可愛い声を上げた。遅れて、わずかに頬を染める。
「び、びっくりしました」
「ご、ごめん」
「二人の事、気になりますか」
「そりゃまぁ、いきなり戦い始めたし。初対面の俺なんかのために」
サップのつぶやきを受けて、チェファは少し表情を曇らせる。しかしそれ以上彼女が何か言おうとすることは無かった。
「ねぇ、サップさん」
「ん」
チェファが、そのアメジストの瞳でじっとサップの事を見つめていた。
「戦う事はしませんが、私だってサップさんの事、強く想っているんですよ」
「い、いや、はは、参ったな。集落の女達なんて、何の財産も無いって見向きもしてくれないのに、いきなり別嬪の魔物三人から迫られるなんて、なぁ」
サップは茶化すように笑ったが、チェファは笑わず、相変わらず無表情のままだった。それどころか、その瞳に浮かぶ色はさらに真剣さを増してゆく。
「土地とか、財産とか、関係ありません。昔から、あなたは優しい人でした。私は、あなたのおそばに居られるだけで、それで……」
あどけなさの残る、可愛らしい少女の小さな顔が近づいてくる。
息がかかるほどに、鼻が触れ合うほどに迫ってくる。
唇に触れる、柔らかく湿った感触。その瞳に映る、少し不安げな自分の顔。その顔に見覚えがあるのは、自分の顔だったからだろうか。それとも。
しかし、甘い感触は背中からの衝撃とともにすぐに終わりを告げる。
「チェファ、何をしているの」
「横取りするなんて、ずるい」
チェファの腕が緩む。
振り向くと、チェファの両腕の盾が鋏と槍によってこじ開けられるところだった。
盾の向こうから、不機嫌そうに表情を消したラファとヘラが顔を覗かせる。
しかしチェファはチェファで、引く気は無いようだった。
「決闘に夢中になって、サップさんの事をないがしろにしているからいけないんです。戦いに勝っても、守るべきものを失っては無意味です」
聞きようによっては、戦いに夢中になっている間に獲物を逃がしては仕方ないだろうと言う意味にも取れたが、サップは考えないことにした。
盲点を突かれたらしいラファとヘラは、はっと息をのむ。
「そう、かもしれないわ」
「サップ君の気持ちも、聞いていなかったし」
「そうです。とりあえず、はっきりさせておきましょう」
開かれた盾の隙間から、ラファとヘラがにじり寄る。周囲を三匹のソルジャービートルに囲まれ、もはや逃げ場はどこにもなかった。
「サップ」
「サップ君」
「サップさん」
どちらを見ても、綺麗な女、もとい魔物娘が自分の事をじっと見つめている。無表情ながらも、その瞳の奥に情熱の炎が静かに揺れているのが分かる。
サップは言葉を詰まらせる。こんな事は初めてだった。誰かに助けを請いたいが、こんな経験をした事がある人間も滅多にいない事だろう。
「えっと、誰かを選んだ方がいいの?」
状況に流されつつも、しかしこの質問の時点で三人のうち誰かを選ぶこと自体は固まっているんだよな。と、サップは妙に冷静に現状を分析してもいた。
「誰かなんて言わず、三人とも選んで」
「私はサップ君と一緒に居られたら、それでいい」
「そうですよ。だってようやく会えたから」
ようやく、会えた? 狩りに出ているときに、気付かぬうちに見られていたのだろうか。それとも他に何かあるのか。
サップは少し考えてみるが、思い当たる節は無かった。やはり、知らぬ間に見られていたというところが妥当だろう。
三人を受け入れるか、それとも拒絶するのか。拒絶しても無理矢理襲われてしまいそうだが……。先ほどの決闘、そして彼女らの屈強さを思うと、逃げ切れる気もしないが。
いずれにしろ、今ここで彼女達を受け入れるわけにはいかないのだ。
今のサップは、個人の用件でここに立っているわけでは無い。小さいとはいえ、生まれ育った故郷の存亡をかけてここに居るのだ。
それを分かってもらえぬのなら、そもそも彼女らを受け入れる事も出来ない。
「済まないけど、答えは今すぐには出せない。俺は今、国のみんなの頼みで、魔物の巣の調査のために来ているから」
「魔物の巣の調査?」
「街道近くの森の奥に、魔物達が巣を作っているって知らせが入ったんだ。だから危険なものなのか調査に来た。けど、みんなは悪い奴らじゃ無さそうだし、危険は無いって報告してくるよ。
そうしたらまた来るから。待っていてくれないか」
緊張の一瞬だった。ここで彼女らが嫌がったら、出来る出来ないは別としても何としてでも逃げる算段を立てなければならなかった。
気は進まないが、彼女達を傷つけてしまう結果になるとしても、だ。
三匹のソルジャービートル達は顔を見合わせる。しかし予想外にも、彼女達はすぐに頷き合って答えを出した。
「そういう事なら、待っているわ」
「遅いようだったら、迎えに行く」
「だから、早く答えを聞かせて下さいね」
ソルジャービートル達は自分の言葉を受け入れた。彼女達は納得し、帰るための道を開けてくれた。
サップはわずかな罪悪感とともに、彼女達が本当に邪悪な存在ではないという事を確信する。
彼女達は人間離れした容姿はしてはいるが、人間よりも信頼に足る存在だ。
早く戻って来よう。そうして、もっとたくさん彼女達と話して、彼女達の事をよく知ろう。恋人同士になるかはひとまず置いておくとしても、きっと良い関係を築けるはずだ。
サップは彼女達に微笑みかけてから、手を振ってその場を後にした。
手を振ってサップを見送った後、ソルジャービートルの長姉はぽつりとつぶやいた。
「でも、おかしいわ」
「ラファ姉?」
「確かに、ここの隠れ里はずいぶん前からここにありますからね。最近見つかったというのは、変な話です。……何もないと、いいのですが」
山間に差し掛かった太陽が、血のように赤く焼けていた。
15/09/29 00:34更新 / 玉虫色
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