狐に婿入り
朝の通勤通学ラッシュ時。駅のホームは、どこかへと向かう誰かでいっぱいだ。
ひっきりなしに電車がたどり着いては、学校の制服や仕事用のスーツに身を包んだ人間を吐き出し、そしてまた飲み込んで、どこかへと運び去ってゆく。
電車と共に人が減ったその五分後には、ホームの上はまたたくさんの人間で埋め尽くされる。
何度となく繰り返されるその光景を、独りベンチに座ってぼんやりと眺める男が居た。
草臥れたスーツを身に纏い、少し疲れた顔をした男。彼もまた、昨日までは群衆の中の一人であった。
けれど今は少し事情が違った。彼は、今はもう群衆に押し合いへし合いされながら鉄の箱に詰め込まれなくても良い身分なのだった。
そんな彼がなぜ今日もまた駅のホームに居るのかと言えば、これはただ単純に身に染みついた習慣が抜けなかったというだけで、特に駅に用があるからでも何でも無かった。
「この街には、こんなに人間が居たんだな」
小さな呟きは誰の耳に届く事も無く、川のような人の流れの中に埋もれてゆく。
男は小さく息を吐く。流れに沿って生きてきたはずだった。それなのに、なぜ自分は人の流れから外れたところで一人ぼっちで居るのだろうか。
目の前を大量の人間が行き過ぎるとともに、頭の中にもさまざまな考えが浮かんだ。しかし断片的な発想は浮かんでは沈んでを繰り返すばかりで、思考はちっともまとまらなかった。
大量の人間の匂いが混じると不快な匂いが生じるように、頭の中にも澱が溜まってゆくようだった。
男はため息を吐く。
どこかに行きたい気がした。けれどどこに行けばいいのかも分からなかった。だから彼は、とりあえず思考を停止し、人の流れを眺め続ける事にした。
幼い頃から、彼は凡庸で目立つところの無い人間だった。
サラリーマンの父と専業主婦の母の元に生まれ、物心ついたころには弟も家族に加わっていた。
小学校、中学校、高校共に成績は中の中。運動も人並みにはしたが、特段才能のような物も無かった。
大学に進学はしたが、勉学もバイトもサークル等の友好関係も、流されるままの中途半端な関係性ばかりだった。
やりたいことは特になかった。夢を持っている人間を見ると羨ましいと思うものの、しかし自分にそういう物があるのかと考えると、全く何も出てこないのが現実だった。
そのうち周りに合わせるように就職活動を始め、それなりに苦労はしたものの、無事に一般企業へと就職が決まった。
就職してからも彼の生き方は変わらなかった。
それなりに仕事をし、それなりに成果は出した。けれど目立つほどの物は無く、将来会社で成し遂げたいような事も、特になかった。
やがて三年が過ぎると、見知った同期の顔は半分に減っていた。
世の中の景気が悪くなるにつれて同僚の数も減ってゆき、しかしそれに合わせて仕事の量は増え続けた。リストラをされなかったのが良かったのか悪かったのか分からなくなるときもあった。
時間が経つごとに就業時間は伸びてゆき、やがて帰りは十時、十一時が当たり前となり、土日出勤もざらになった。
このころになってようやく、彼は自分の人生に疑問を抱き始めた。自分は何のために生きているのか。こんな生活を六十過ぎまで続けるつもりなのか。何より、何が楽しくてこんな事を続けているのか。あらゆることが、分からなくなってきていた。
仕事を辞めようかとも考えた。けれども今の仕事を辞めたとして次の仕事は見つかるのか。不安は重くのしかかり、彼はいつまでも腰を上げられなかった。
そしてずるずると現状維持を続けた末が、突然の解雇通知だった。
理由は会社の経営悪化と、彼自身の成績の問題だった。ハードワークが続き心身ともに疲労が積もったせいか、彼の仕事には失敗が目立ち始めていたのだった。
彼は解雇通知を受け入れ、会社を去る事にした。不満は無いでも無かったが、会社や上司に噛み付ける程の体力も気力も無かった。
もう会社になど行かなくていい。ごみごみした電車で、人に押し潰されながら仕事の締日やノルマに追われる事も無い。けれど、本当にこれで良かったのか。
日が高く上りホームから人気がほとんど無くなっても、答えは出なかった。
弟には夢がある。大学に進学して、夢に向かって頑張っている。
母もそれを応援する為、パートを始めて学費の足しにしているらしい。
父は少し稼ぎが悪くなったが、仕事に誇りを持って取り組んでいるようだ。
では、自分は?
昔馴染みの友人たちも、仕事をバリバリこなしていたり、新たな夢に向かってリスタートを切った者達も多い。
かつての同僚たちも、また新たな目標を見つけたり、新たな職場で居場所を作って更なる活躍をしている。
では、自分は?
自分には何かあるだろうか。新しく始めたい事は。身体が震え出すような、心の底からの渇望は。
彼はベンチから立ち上がると、ふらふらとホームへと歩き始める。
黄色い点字パネルを踏み越え、ホームのギリギリの位置に立って、空を見上げる。
昨日と同じ空が広がっているはずだった。けれどなぜかその青さが目に染みた。少しずつ雲の形が歪んでゆき、そして……。
「あれ? 赤木さん」
不意に声をかけられ、ぎくりと身を竦ませる。
自分が立っている場所を思い返し、脚を踏み外しそうな恐怖に全身が粟立った。
赤木。と呼ばれた彼は、内心青褪めながらも後ずさりし、声のした方を振り向いた。
「やっぱ赤木さんやぁ。どないしたんですかこんな時間に」
後ろに立っていたのは、グレーのスーツを身にまとった小柄な若い女性だった。
彼より頭一つ分は背が低く、顔つきも童顔のためどこかの就活生のようにしか見えない。声をかけて来た辺り顔見知りなのだろうが、しかし赤木はすぐに彼女が誰なのかを思い出す事が出来なかった。
「あ、もしかしてうちの事覚えてない?」
「いや、ははは」
「先日営業に伺わせて頂いた、アビスコーポレーションの楓です。……ほら、気のいいタヌキ顔がチャームポイント、気軽にカエデちゃんて呼んで下さいって」
あっ。と赤木は声を上げた。頭の中に、確かに目の前の女性と結びつく記憶があった。
「あぁ、それで僕は確か商売上手の古狸には騙されませんよって返した、あの時の」
「いやぁまさか正体を見抜かれてるとは思いませんでしたよぉ」
以前社員旅行に温泉旅行はどうかと勧めてきた、旅行会社の営業の女性だ。生憎と会社には旅行をするほどの余裕も無かったためお断りする事になってしまったが、確かに赤木は彼女の事を覚えていた。
話が上手く、面白く、何より可愛らしい女性だったからだ。仕事を頼めなくて申し訳なかったという気持ちもあった。
「今日は遅番か何かですか?」
「遅番と言うか、ですね」
赤木は一瞬口ごもったが、すぐに隠す事でも無いと吹っ切れて、事実をありのまま話す事に決める。
「会社に居られなくなったんです。世に言うリストラ、クビって奴ですよ。ははは」
楓は面食らったように目を丸くしていたが、すぐに何か思いついたかのように思案気な顔になる。「楓さん?」
「んー。と言う事は、赤木さんは今フリーなんですよね? よければ弊社に来ませんか? うちの会社、男手が足りなくて、赤木さんみたいな真面目な人なら大歓迎なんやけど。
うちもあんまりしょっちゅうこの世界には居られへんし」
今度は赤木が驚く番だった。辞めさせられた翌日に、いわゆるスカウトに遭うなどとは全く考えていなかった。しかも辞めたのでは無く、辞めさせられた自分を取ろうとする人間が居るとは、夢であっても都合が良すぎる。
だから赤木は、考える前にとっさに答えてしまっていた。
「いや、そんな申し訳ないですよ。結局僕は仕事が出来なくて辞めさせられたわけですし、ご迷惑をおかけするだけで」
「そんな事無いですって。本当に、男の人って言うだけでありがたいんですから」
「お言葉はありがたいんですが……。僕も昨日の今日で気持ちの整理も何も付いて無いもので、少し考えてみようと思っていて」
「そう、ですか。まぁ確かに仰る通りですね。うちもちょっと急ぎすぎました」
楓は不満そうではあったが、納得はしてくれたようだった。
しかし赤木がほっとしたのも束の間、楓はすぐに営業用の笑顔に戻ると鞄から小さな紙切れを取り出して赤木の手に強引に握らせた。
「そう言う事なら弊社のリゾートをご利用ください。自然の豊かな温泉旅館です。ゆったり考え事するにはちょうどええと思いますよ」
楓は悪そうな顔になると、赤木の耳元に口を寄せて囁く。
「綺麗どころもいっぱいおりますし。……気に入った子がおったら、手ぇ出してもろてもかまいませんので」
「え、え?」
戸惑っている間に、楓はいつもの爽やかな笑顔に戻っていた。今の一言は、まさに狸にでも騙されたのかと錯覚してしまうようだった。
「ですからぁ、温泉旅館のタダ券です。弊社の事知ってもらうにも一番かなぁと思ったんで」
いや、そんなの受け取れませんよ。と言う赤木の言葉は、しかし電車の到着の音にかき消される。
「ちょ、楓さん?」
「じゃあ、楽しんできてくださいね。色よい返事を期待してますー」
言いたい事だけ言うと、楓は歩き出し始めてしまった。
電車の扉が開き、たくさんの乗客が降りてくる。まるで赤木が追いかけようとしたのを見計らったかのようなタイミングだった。
まごついている間に、楓の姿はホームの人ごみの中に消えていた。そして電車が走り去った後のホームには、もう楓の姿は残っては居なかった。
その日は、帰ってからも何も考えられなかった。翌日は親に仕事の事を連絡するべきかどうかで悩んだあげく、気付いた時には日が暮れていた。その次の日は、それでも動き出さなければと部屋の片づけを始めた。
チケットの事を思い出したのは、片付けの最中での事だった。
草臥れたスーツを処分するか迷っていたところで、ポケットからチケットが出て来たのだった。
チケットを見ながら少し悩んだが、そう長くは迷わなかった。温泉旅館のタダ券など、そう滅多に貰えるものでは無い。赤木は、楓の計らいをありがたく受け入れる事に決めた。
そして決めてからの行動は早かった。すぐに荷物を用意し、翌朝にはチケットを手に電車に乗っていた。
電車は背の高いビル街を抜け、閑静な住宅地を通り過ぎる。トンネルを抜けて山を越え、地方都市を横切って、さらに山の奥へと進んでゆく。
電車を乗り継ぎ、若葉の芽吹く深緑の山々の奥深くへ。田んぼや畑ばかりで住宅のほとんどない田舎の路線を、駅弁を食べながらゆっくりと進んでゆき、ようやく目的の場所へとたどり着いた。
木造の無人駅を降りると、まるでタイムスリップしたかのような光景が広がっていた。
建物はほとんど無かった。駅同様木造の、喫茶店なのか土産屋なのか雑貨屋なのか判断が付かない店が一件ある以外、広々とした視界には田園風景が広がるばかりだった。
電柱も街灯も、黒く塗られた木で出来ていた。建物が少ないせいで、空がやたら広く見えた。
風は冷たく、澄んでいる。都会とはあらゆるものが違っていた。風に流される雲を目で追いながら、時間の流れでさえも違うのかもしれないと赤木は思った。
「赤木常男様ですね」
声をかけられ、赤木はふと我に返る。
道の端に乗用車が止まっていて、着物姿の女性が佇んでいた。
焦げ茶色の長い髪を頭の後ろで結い上げた、紺の着物を身に付けた美しい女性だった。赤木は彼女を一目見るなり、違和感を覚えて目を擦る。彼女は相当の美貌の持ち主だったが、しかしそれ以上にあってはならない物が見えたからだった。
彼女の頭の上に、髪の毛と同じ焦げ茶色の、尖った狐のような耳が、腰のあたりに同じく狐のようなふわふわの尻尾が一本見えていたのだ。
目をしばたたかせ、赤木は今一度着物の女性に目をやる。だが、結局耳と尻尾は見間違いでは無くその場に残ったままだった。
「ええ、僕が赤木ですが」
「良かった。私、本日からお世話をさせていただきます、『妖の湯』の仲居、稲荷の伏美と申します。よろしくお願いいたします」
赤木はポケットからチケットを取り出し、今一度その中身を確認する。
温泉旅館『妖の湯』男性一名様。無期限無料招待チケット。キャッチコピーとして、『神や妖怪さえも心と身体を癒しに訪れる神秘の隠れ湯にて、あなたも人生の疲れを癒してゆきませんか。』等と書かれている。
『旅館自慢の美女達がお世話をいたします。』等と書いてある辺り多少いかがわしさは無い事は無い物の、普通の温泉だと思っていたのだが。
そう言う、コスプレ的なサービスもしているという事だろうか。
まぁ、休めるならそれでいいさ。赤木は気を取り直して伏美と名乗った彼女に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「では、お荷物を預かりますね」
赤木は荷物を伏美に任せ、乗用車の後部座席へ回る。
荷物を積み終えた伏美が赤木の隣へ座ると、乗用車はゆっくりと、温泉旅館に向かって走り出した。
「今日は遠いところからはるばる、ありがとうございます。お疲れでしょう、旅館に着いたらゆっくりして下さいね」
伏美の声は大人び、落ち着いていて、聞いているだけでも気持ちが癒されるようだった。
「ありがとうございます。乗り物に乗っているだけでしたが、やはり疲れますね」
「ふふ。無料のマッサージのサービスもありますので、良ければご利用ください」
「それなら、ぜひ」
柔和に微笑む伏美と視線がぶつかり、赤木の身体に電流が走る。
切れ長の目、すっきりとした目鼻立ち、透き通るような雪のように白い肌、そこに浮かぶ鮮やかな紅い唇。
都会でも滅多にお目に掛かれないような、とんでもない美人だった。
こんな美貌と隣り合ったら、普段なら委縮して何も出来なくなってしまうところだった。しかし彼女自身の優しげな表情と柔らかな雰囲気そうさせるのか、不思議と赤木は平静としたまま彼女の隣に座っている事が出来た。
「結構お客さんは多いんですか?」
「実を言うと、あまり……。今のお客様も、赤木様を除くとご夫婦が二組程度で」
「今は梅雨前ですしね。でも夏や冬には多いんでしょう?」
伏美は困ったように笑い、続ける。
「私共も、もっとたくさんのお客様に楽しんで頂きたいとは思っているのですが、なかなか難しくて……。
ですが、おもてなしは一級だと自負しております。今日は精一杯おもてなしさせていただきますので、どうぞ楽しんでくださいね」
居住まいを正し、軽く頭を下げる伏美。衣擦れの音と共に、わずかに香のようないい匂いがして、赤木はどきりとする。
「た、楽しみにしています」
どもりながらも何とか声を出し、赤木は意識を逸らすべく視線を前に向ける。
乗用車は、ちょうど山道に入ろうとしていた。
山道を登る事十数分。
生い茂る森の木々が急に開けたかと思うと、視界が大きく広がり、まだ建てたばかりだと思しき木造の大きな建物が見えてきた。
「あれが妖の湯です」
夕日に染まっているからか、温泉宿が黄金色に光って見える。
建物だけでは無かった。周囲の山々の稜線、木々の陰影、山と山の谷間や下界の小さな村落まで、全てが黄金色に染まっていた。
山道からの景色がこれなら、あの温泉宿からはどれほどの光景が見えるのだろうか。
赤木は自分が高揚している事に気が付き、意外な気持ちになる。こんな気持ちはいつ以来だろうかと、そして、まだ自分はこんな気持ちになれたのだ、と。
受付で簡単な手続きを済ませると、赤木はすぐに部屋へと案内された。
荷物を持ってくれる伏美の後に続き、旅館の中を歩く。玄関口も廊下も、檜の上品な匂いが香っていて、ただそこに佇んでいるだけでも気持ちが落ち着いて来るようだった。
渡り廊下を通る際には、思わず足を止めて感嘆の声を上げてしまった。
渡り廊下はちょうど山の斜面、下界を見下ろせる場所を通っていて、そこからは夕日に色づく山々などを一望する事が出来た。
まだ虫の声の時期では無かったが、遠くの方から鳥や蛙の鳴き声が反響してくる。
静かで、そして空の上に居るような圧倒的な光景だった。
「あ、すみません」
先導していた伏美がずっと待っている事に気が付き、赤木は慌てて追いすがる。
伏美は、しかし上品に笑うだけだった。
「気に入って頂けましたか?」
「ええ、とても素晴らしいです。まるで楽園に居るみたいですよ」
「楽園、ですか。ふふ、でもまだまだこれからですよ。これから、もっともっといい気持になって頂きますからね」
赤木の目の前で、伏美の尻尾が左右に揺れる。表情さえ柔和な笑顔を保っていたものの、この場所の事を褒められて気分が良かったのかもしれない。
と、そこまで類推してから、赤木はふと疑問に思う。
今の尻尾の動きは作り物には到底できないような自然な動きだった。コスプレだと思っていたが、いやしかし、まさか本物の狐娘が居るわけが……。
「着きました。ここが赤木様のお部屋です」
「……凄い」
部屋を見て、赤木は再度圧倒される。
脚を一歩踏み入れるなり、新鮮ない草の匂いに包まれた。一人用なのでそこまで広くは無い物の、和室は手入れが行き届いており、立派な床の間まで付いている。しっかりした木造のベランダも付いていて、しかもプライベートでも露天風呂を楽しめるようにか、ベランダには檜風呂まで付いていた。
「僕なんかが、こんなところに泊まってもいいんでしょうか……」
「滅多に来ないお客様です。私共としても、この宿の事を好きになって頂きたいのです。それに、楓さんからも最上級のもてなしをするようにと言われておりますし。粗相があっては私共が怒られてしまいます」
いよいよ楓の勧誘を断れなくなってしまう。内心で苦笑いを浮かべながらも、赤木の身体は窓側からの光景を見たくて動いてしまっていた。
窓の外には、やはり空の上から地上を見下ろしているかのような光景が広がっていた。
先ほどから赤みを増した夕日に照らされた山々は、今は朱く、まるで秋の紅葉の時期と見紛う程に美しく染まっていた。
「窓からの風景は、当宿自慢の一つです」
「こりゃあ、本当に凄いですよ」
「でも、自慢はそれだけではありません。お食事や温泉も良いものですよ。それと、ですね、一番の自慢は……よ、よと、ぎ、で……」
急に口ごもる伏美に違和感を覚え、赤木は彼女を振り返る。
伏美は尻尾をせわしなく動かしながら、もじもじと身を縮めていた。夕日のせいなのかもしれなかったが、その頬も赤く見える。
「伏美さん?」
「あの、その。お、お食事の用意はいかがいたしましょうか。先にお風呂に入られますか? そ、それとも、あの、私は、すぐにでも、お相手を……」
赤木は顎に手を当て少し考える。
腹は減っていたが、しかし連続での移動の為身体も疲れてしまっていた。風呂も悪くは無かったが、どちらも少し休んでからにしたかった。
「一時間後くらいに夕食をお願いします。風呂はそのあとにします」
「あ……。わ、分かりました。ご用意出来次第持って参りますね」
その時の伏美の表情は何と言ったらいいのか。安堵しているような、少し残念がるような、いわく言い難い表情をしていた。
伏美は丁寧に頭を下げると、音も立てずに襖を閉めて出ていった。
旅路は長かったが、とりあえず無事にたどり着いた。仲居さんも良い人そうだ。安堵の吐息を吐き出すと、音は赤木が思っていた以上に和室に響いた。
赤木は荷物を確認し、特に異常がない事を確認する。そして確認が終わる頃には、自分がいつの間にか渋面になっている事に気が付いた。
静かな場所で一人になると、頭の中に余計な考えが浮かび上がりそうになる。赤木は慌てて頭を振って思考を逸らした。
今は全てを忘れて、目の前の事を楽しもう。考えるのはそのあとでいい。
赤木はベランダに出て、安楽椅子に腰かける。遠くで鳥が飛んでいた。風が吹くと、木々の囁きがわずかに耳をくすぐった。
人の声、車の走る音、等々、人の作り出すような音は何一つ聞こえてこない。
空には雲一つなく、夕日が沈みかけた側は紅く燃え上り、その反対側には既に星が煌めき始めていた。
赤木はぼうっと空を見上げていた。そして気が付いた時には目を瞑っていて、久方ぶりの安らかな眠りへと落ちてしまっていた。
重要な書類が足りなかった。
期日は明日。明日の朝までに書類を作り、各部署の長に判を貰っておかなければならなかった。
必死で書類に取り組んだ。しかし書類を作成する間にも新たな仕事が舞い込み、その度トラブルが起こった。皆口々に注文を付け、文句を言って来るが、もはや気にしている余裕も無い。
結局、書類が出来たのは定時直前だった。
慌てて各部署に判を貰いに回った。判はもらえたが、貰えたものはそれだけでは無かった。
どうしてもっと早く準備をしておかなかったのか。これでは資料を読み込めないではないか。どれだけ重要な案件なのか分かっているのか。仕事を舐めているのではないのか。判子と共に、苛立たしげな小言や注意を山ほど浴びた。
それから残っている仕事を片付け、気が付いた時には十一時を回っていた。
ただ寝る為だけに帰り、そして重い身体を引きずって翌日も仕事場へ。
いつもは静かな仕事場が、しかしその日は妙なざわめきに包まれていた。
嫌な予感を感じながらも、おはようございますと声をかける。
職場中の目がこちらを向く。そのどれもが不審げで、不安げで、全身の毛が逆立つような嫌な感触が身体の中を走り抜ける。
そして上司が堅い顔つきでこちらに歩み寄って来て……。
「……様、赤木様。大丈夫ですか?」
目を開くと、女神のような女性の顔が目の前にあった。残念だったのは、その表情が笑顔ではなく少し不安げなそれだったという事だ。
「えっと、ここは」
「妖の湯ですよ。私は担当の伏美です。分かりますか?」
頬に、額にひんやりとした感触を押し当てられる。濡らした手拭いだった。伏美が汗を拭ってくれているらしい。
「大丈夫です」
赤木は椅子から立ち上がり頭を振る。全身に嫌な汗をかいていた。
既に頭上には夜の帳が降りていた。どうやら眠ってしまっていたらしい。
都会と違い山の中にはほとんど灯りらしい灯りは無く、下界の全ては闇の中に閉じ込められているようだ。
しかしそれと対照的に、空は宝石を散りばめたかのように煌めく星々でいっぱいだった。
爽やかな風が頬を撫でる。一度深呼吸すると、気分も少しは落ち着いてきた。
「うなされていましたよ? 本当に、大丈夫ですか?」
「もう平気です。ちょっと嫌な夢を、見ただけで」
腕に違和感があった。見れば、伏美が不安そうな表情のまま赤木に腕を絡めていた。
着物越しに温かくて柔らかな感触が伝わってくる。我を忘れる程気にしてくれていたのか、腕だけでなくもっと柔らかな部分も押し当てられていた。
視線がぶつかると、伏美も気が付いたのか、はっと息を飲んで腕を離す。
「し、失礼いたしました」
「いえ、こちらこそ」
「お、お食事の準備が出来ましたので、こちらへ」
気が動転しているのか、尻尾がぴんと張っているのがちょっと可愛らしかった。
赤木は小さく笑いながら、その尻尾の先を追いかける。身体の嫌な感じは、いつの間にかどこかへ行っていた。
和室に戻ると、既に夕食の配膳が済んでいた。
赤木はテーブルに着き、そして改めて所狭しと並べられた料理の数々に圧倒された。
霜降りの肉が乗った小さな土鍋、各種山菜の天ぷら、刺身に焼き魚に魚の煮つけ、山芋の煮っ転がし、その他にも色々とたくさんの小皿が並んでいる。
「この土地の銘酒も用意いたしましたが、赤木様はお酒は大丈夫ですか?」
「あ、はい。いただきます」
お猪口を手に取ると、伏美が隣に座って徳利から酒を注いでくれた。
その間、短い間ではあったが、赤木は何となく伏美の肢体に目をやってしまう。
改めて間近で見てみると、和装には洋服には無い色香があった。袖や身のこなしの端々にまで気品を感じさせつつ、女性らしさは更に際立っているようであった。襟元から見える白いうなじも、控えめながらも匂い立つような色気を感じる。
しかし和装としてみると一点残念な部分もあった。彼女は、どうやら着物を着るには少し胸が大きすぎるようなのだ。その豊かな膨らみは着物を押し上げ、ともすれば胸元が少しだらしなく見えなくも無い。
とはいえ、男としては残念などころか、むしろ……。
「赤木様?」
「え、あ、いただきます」
赤木は慌ててお猪口の中身を口に含む。その途端、口の中にほのかな甘みと、フルーティーで豊かな香りが広がった。
日本酒は飲んだことが無いわけでは無かった。けれどこんなに香り高い酒を飲んだのは初めてだった。
いつの間にか口の中から酒が消えていた。味を確かめる為もう一口と飲んでいるうちに、お猪口の中身も空になる。
「お味の方はいかがですか?」
すかさず伏美が酒を注いでくれる。それをまたすぐに乾かしつつ、赤木は大きく頷いて見せた。
「美味しいです。こんな酒飲んだことが無い」
「気に入って頂けて何よりです。このお酒は、酒好きの鬼達でさえ唸らせる程のお酒なんですよ」
「オニ?」
「えぇ。鬼です。さあさあ、お酒だけでなくお料理も召し上がってください。この山で採れたばかりの、新鮮なものを使った料理です」
赤木は言われるまま、目の前にあった煮物の小皿に箸を伸ばす。山芋、筍、人参。火は通り過ぎる事も無く、筋っぽくも無く、歯ごたえも最適だった。味付けも濃すぎず、舌に優しい味で、どの素材にもしっかり味が沁みていた。
焼き魚も脂が十分乗っていて、塩加減も適度で美味しく、煮魚も甘すぎずしょうがの味が効いていて、ご飯が止まらなくなった。
身体が料理を求めていた。一口食べるたび、身体が喜ぶのが分かる程だった。
こんなに美味い飯はいつ振りだろうか。食事をしているという感覚ですら、久方ぶりな気がした。特に、誰かと一緒にする食事などと言うものは、本当に久しぶりだった。
「お肉も焼きはじめますね。遠方から取り寄せた魔界豚と言う豚です。この豚は、この国では他ではなかなか味わえませんよ」
伏美はにこにこと機嫌良さそうに笑っていたが、赤木はそんな彼女の様子にも気が付かず、夢中になって料理を掻き込み続けた。
「うふふ。そんなに急がれなくても料理は逃げませんよ? ……赤木様? ど、どうされたんですか」
驚いた顔の伏美に見上げられ、赤木はようやく自分の状況に気が付いた。
頬が濡れて、冷たくなっていた。鼻も詰まって、今にも鼻水が垂れてしまいそうだった。
赤木は慌ててティッシュに手を伸ばし、涙を拭いて鼻をかむ。
「し、失礼」
「ごめんなさい。お口に合いませんでしたか? 今から作り直し……」
立ち上がろうとする伏美の袖を、赤木は掴んで止める。
「違うんです。あまりに美味しくて、こんな美味しい料理や食事は久しぶりで、自分でも気が付かない間に……。
何だか安心する味で、こんな表現をすると板前の方に失礼かもしれませんが、実家の母を思い出してしまって」
顔を清め終え、表情をつくろって伏美を見上げると、彼女はなぜだか頬を染めてはにかむような表情で赤木を見下ろしていた。
彼女は少しためらったようではあったが、しかし意を決したかのように腰を下ろすと、赤木の手を取った。
「実を言うと、お料理を作ったのは私なんです。この宿では、料理はお客様を担当する仲居が作る事になっているもので」
「あ……。す、すみません。僕は、そう言うつもりでは無くて、ただ美味しくて、安心して、嬉しくなってしまった物で」
「いいえ。私も嬉しいです。ちょっとびっくりしてしまいましたが、お母様の味を思い出されるなんて、最高級の褒め言葉だと思います」
伏美の手は柔らかく、温かかった。
考えてみれば、勤め始めてから今まで食事らしい食事もろくにしてこなかった。
朝は無理して携帯食を詰め込み、昼は会社のデスクでプレッシャーを浴びながら味のしないコンビニ弁当を掻き込む。夜は夜で料理も面倒臭くなってインスタントで済ませてしまう。
気の置けない会話をしながらの食事はもちろん、こんな風に労ってもらいながらの食事など、本当に久しぶりだ。
「まだまだお代わりもありますよ。お腹いっぱい食べてくださいね」
心遣いが嬉しかった。
赤木は再び溢れそうになる涙もろとも、料理とご飯を掻き込んでいった。
「……でも、お仕事が無くなって逆に良かったのかもしれませんね。仕事が続いていてもお身体を壊されたり、大きな病気をしてしまっては元も子もありませんし」
「そうかもしれません。こうしてここに来ることも出来たわけですし」
料理を食べて空腹が満たされると、今度は酒の肴に話の花が咲いた。
赤木は、自分では自分は話がそこまで上手い方では無いと思っていた。けれども伏美の前では不思議と言葉が途切れず、途切れたとしてもその沈黙は不快には感じられなかった。
「私も赤木様に来ていただけて、今までの苦労が報われたような気持ちです」
そう語る伏美の手の中にも、小さなお猪口が握られている。
赤木が一緒に飲んでくれるように頼んだのだ。最初は断られたが、独りで飲むのもつまらないと言うと快く酒を共にしてくれた。
お互い何杯か進んでいて、今は伏美の頬もほんのり赤く染まっていた。
「頑張って接客を覚えて、料理も勉強して、でもなかなかお客様は来てくれなくて。けれどこんなに素敵なお客様を迎える事が出来た」
「本当に天国に居るみたいです。景色も綺麗だし、料理も上手いし、伏美さんみたいな美人が一緒に酒を飲んでくれる」
「そそ、そんなこと、無いですよ」
そう言いつつも真っ赤になって耳をピコピコ動かし、尻尾を揺らしているところを見ると、まんざらでもないようだった。
赤木は笑い、そして大きく息を吐く。
「幸せすぎてこの後が怖いくらいです」
「赤木様?」
小さく独り言のように言ったつもりだったのだが、しかし伏美の耳には届いてしまっていたようだった。
「いえ、やっぱりこの先の仕事は無いわけですからね」
「でしたら、楓さんの話を受けられたら」
「流石に、そこまで迷惑をかけるわけにも……」
酒の水面に浮かぶ自分の顔は、酔って赤らみつつも完全に影を払拭出来ているというわけでも無かった。当たり前と言えば当たり前なのだが、切り替えをこなしきれない自分が少し情けなくもあった。そして、だからこそこんな状況に陥ってしまったのではないか、とも思う。
「……赤木様、あのですね」
顔を上げると、これまでになく真剣な伏美の顔がすぐそこにあった。
「当グループはどこの企業もそうなのですが、この旅館でも、男手は非常に稀少なのです。温泉旅館ではありますが、お客様の数も少ないので仕事もそこまで大変と言うわけではありません。それに仕事をしていなくても、ここでは食べ物にも困りませんし。
……だから、あの、そのですね」
そこまで言いながらも、しかし伏美はその先までは口に出来ないようだった。
「すみません。忘れてください」
「伏美さんが謝る事はありませんよ。こちらこそ変な話をしてしまってすみませんでした」
それでも伏美は、心苦しそうに赤木の事を見上げる。
赤木は自分の言葉を反省しつつも、ここまで気を使ってくれる伏美の気持ちが嬉しくてたまらなかった。そしてだからこそ、こんな顔をさせてしまっている事が一層申し訳なかった。
空気を換えよう。赤木は思い立ち、立ち上がる。
「そろそろお風呂に入ろうと思います。確か露天風呂があるんでしたよね」
「あ、はい。天然の温泉を引いて来たお風呂があります。一階の、受付の脇の廊下を奥に入ったところです。すぐに準備しますね」
伏美もまた立ち上がると、少し慌てたように大きなお盆に料理を下げてゆく。そして料理を下げ終えるなり、赤木が声をかける間もなく部屋を出ていってしまった。
「準備って、何かあるのか?」
赤木は首をかしげる。押入れの中に浴衣とタオル類が用意されている事は既に確認済みだった。これ以上、一体何の準備が必要なのだろうか。
見当は付かなかったが、しかし着替えとタオルさえ持って行けば問題は無いだろう。
赤木はそう考え、必要なものをもって部屋を出た。
疑問に思ったのは、温泉の入り口に男女の別が無かった事だった。
戸惑い周囲を探したが、やはり別れている入り口は存在していなかった。それでも探し歩くうちに館内地図で発見したのは、露天風呂は混浴だという事実だった。
浴場の暖簾の前で、赤木はしばしの間立ち尽くした。
「……だ、大丈夫だろう。客は少ないって言ってたし、今も夫婦が二組泊まってるって言ってただけだったし」
覚悟を決め、暖簾をくぐって浴場へと足を踏み入れる。
長考を要した割には、暖簾の向こうには無人の脱衣場が広がっていただけだった。予想通りではあったが、赤木は安堵して大きく息を吐いた。
たくさんの棚が並んでいて、衣服を入れるためのものだろうザルが置かれていた。幸運にも、使用されていると思しき棚は見当たらなかった。
端の方の棚を選び、荷物を入れる。すると、
「お待ちしておりました。赤木様」
聞き覚えのある声。さっきまで話していた声が聞こえ、赤木は振り向いた。
「伏美さ、ん!?」
赤木は彼女の姿を目に止め、驚きで言葉を失う。伏美の声がしていたのだから、そこに彼女が居るのは当たり前だった。赤木が驚いたのはそこでは無く、彼女の格好だった。
彼女は先ほどまで身に付けていた着物を脱いでおり、今は薄い白襦袢一枚と言う出で立ちだった。
女性らしい丸みを帯びた体つきが惜しげもなく晒されており、着物で押さえつけられていたのか、胸元も先ほどよりさらに豊かに見える。その先端の膨らみですら、はっきり確認できる程だ。
胸だけでなく腰元も妖艶な曲線美を描いており、襦袢も短く太もも辺りまでしかないため、白い素足が目に眩しい程だった。
「お風呂、入られるんですよね」
「ア、ハ、ハイ。……で、でも、その格好は?」
「お背中をお流ししようと……。ご迷惑、でしょうか」
少しの恥じらいと、失望が入り混じるその表情を見せられては、男としては答えは決まっていた。
「よ、よろしくお願いします」
かくして裸になった赤木は、襦袢姿の伏美に導かれて洗い場へとやってきた。
露天風呂は赤木が考えていたよりも遥かに大きかった。岩で縁どられた楕円形をしており、真ん中には大きな岩が置かれていた。湯気がもうもうと立ちこめて向こう側は見えないが、それでも二十人は同時に入れそうな広さがあった。
赤木が通されたのは、その脇にある洗い場だ。板の間などが整備されていて、シャワーは無かったが掛け流しの湯が流れていた。
「では、ここにお座りください」
指示されるまま、赤木は小さな風呂椅子へと腰かける。
桶に水を汲む音が聞こえ、何かがかきまぜられるような水音が聞こえ始める。どうやら伏美が準備をし始めたようだ。
「あの、伏美さん。これもこの旅館のサービスなんですか? そう言う店でも無いのに、ここまでしていただくのは」
「お気になさらず、身を楽にしていてください。心も体も気持ち良くなって頂くのが、この宿の、私共の目的ですので」
誰にでもやっているのだろうか。そう思うとなぜか物悲しい気持ちになってしまう赤木ではあったが、背中に伏美の手があてがわれた途端に、そんな後ろ向きな感情はどこかに吹き飛んでしまう。
「背中から、洗いますね」
泡を纏ったしっとりとした伏美の手が、赤木の背中を這い回る。首元を擦り、肩を優しく揉みほぐし、背骨に沿って下りながら、背筋を解きほぐしてゆく。
「肩、凝ってますね。背中もこんなに……」
「仕事柄、デスクワークが多かったので」
「しっかりとほぐして差し上げますね」
伏美の柔らかな手を押し付けられると、それだけで心地が良くて余計な力が抜けていくようだった。
ぬるぬると滑りながら、伏美の手が首筋から腰元までをゆっくりと往復してゆく。
「痛かったり、痒かったりはありませんか」
「……いえ、凄く気持ちいいです」
「じゃあ、今度は前の方を洗いますね」
前の方?
と疑問に思った時には、背中に二つの柔らかな感触が押し付けられていた。
熱を帯びた息遣いが首元をくすぐる。伏美の腕が腋の下から滑り込み、赤木の胸を優しく抱き締める。
「ふ、伏美さん?」
「い、今から前の方と、腕を洗います。……じっとしていて下さいね」
嫋やかな手が、腕が、赤木の腹や胸をまさぐり、泡を塗りたくってゆく。泡のこそばゆさと、そして何よりも伏美の体温と肌の感触が言いようも無く心地よくて、赤木は思わず小さく声を漏らしてしまう。
「う、あぁ」
「赤木様……」
伏美が動くたびに乳房が揺れて、赤木の背中に強く擦りつけられる。背中越しに伏美の鼓動が重なる。赤木には、もはやどこからどこまでが自分の背中なのか分からなかった。襦袢越しではあったが、体温と鼓動が溶けあい、まるで伏美と一つになっているような気持ちがした。
それと同時に、赤木は忘れていた感覚を思い出そうとしていた。身体の奥底に眠る獣のような衝動。長い間忘れられていたそれが、伏美の手によって目を覚まされようとしていた。
伏美は赤木の腋の下から、抱え上げるように腕を清めてゆく。
「これで上半身はおしまいですね。次は下の方を綺麗に、あっ……」
ほっとしたような声が聞こえたのも束の間、伏美は急に驚いたように身を震わせ、息をのんだ。
ぼうっとしていた赤木も何かが起こったのだと気が付き、自らの身体と、そして彼女の指先を見下ろす。
股間を隠すために置いておいたタオルが、いつの間にかめくれあがっていた。その下から顔を出していたのは、他でも無い自分の愚息だった。
こんなに硬く、張り裂けんばかりに勃起しているのはいつ以来だろう。朝立ちでさえも、最近ではほとんど覚えが無い程だった。
赤木が自分の失態を自覚したのは、呆けた事を考えた後の事だった。
そしてその時には既に、恐る恐る伸ばされた伏美の指が赤木の愚直を包み込んでいた。
「伏美、さん。違うんだ、これは」
口ではそう言いつつも、赤木の分身は女の手に触れられた事を喜ぶようにびくんと大きく跳ねていた。
「赤木様。私に、欲情して下さったのですか?」
「いや、そう言うわけでは。これはその、男としての、生理現象と言うか」
顔が熱くなるのが分かる。温泉に居るせいでは無く、今日会ったばかりの女性に局部を、しかも性的に興奮している状態のそれを手に取られている恥ずかしさ故に。
「私では無くても、こうなるのですね……」
なぜか残念そうな口ぶりに、赤木は不思議に思いながらもとっさに答えてしまう。
「いえ。伏美さんの手、と言うか、身体と言うか、気持ち良かったから、です」
「本当、ですか?」
「……すみません変な事言って」
背中越しに、鼓動が早まったような気がした。
耳元に、微かな笑い声が聞こえた。
「すぐに鎮めて、楽にして差し上げます。でもその前に」
背中から伏美の感触が消える。少し残念に思ったが、今度は彼女は赤木の目の前に回り、身体を使って赤木の脚を洗いにかかる。
濡れた襦袢越しに、伏美のほんのり赤く色づいた白い肌が透けて見えた。最初から身体の線がはっきりと見えていた襦袢姿だったが、今となっては濡れて肌に張り付いていて、ほとんど裸で居るのも同然だった。
伏美の胸元、白い豊かな二つの山の上に咲く桃色の花も、しっかり色づいているのが見てとれた。
伏美が身体を動かし、肌を押し付けるたび、白い肌が淫らに光沢を放ち、ぬめり蠢く。
下半身を洗い終える頃には、赤木のそれは静まるどころか、さらに猛りを増して獣のように涎を垂らしている始末だった。
伏美は桶に湯を汲んでくると、丁寧に赤木の身体に残る泡を落としていった。
そして泡を流し終えると、赤木の正面に回って跪き、上目づかいで見上げてきた。
「赤木様……。どうか私に、赤木様を慰めさせて下さいませ」
「けど、伏美さん。ただの仲居さんにそんな事まで……」
「一生懸命奉仕させていただきます。きっとご満足して頂けると思います。……それとも、私などでは赤木様のお相手としては不足でしょうか……」
伏美は目を逸らす事も無く、まっすぐ潤んだ瞳で赤木を見つめる。その姿は娼婦のように妖艶でありながらも、信仰に殉じる巫女のような純真さを同時に感じさせた。
気付いた時には、赤木は伏美の頬を撫でながら、小さく頷いて答えてしまっていた。
「あなたみたいな綺麗な人、僕には勿体ないくらいですが、伏美さんさえ良ければ、よろしくお願いします」
伏美は欲情に蕩けたような、祈りが報われたような、恍惚とした笑顔を浮かべる。
そして恐る恐ると言った様子で赤木のそれを優しく手に取り、顔を近づけて頬ずりし始める。
「これが殿方の……赤木様の一物。とても熱くて、鉄のように硬いです」
赤木は何も言えなかった。自分の物に寄り添い、うっとりしている伏美の姿を見ているだけで、喉がからからに乾いて仕方なかった。
伏美は間近からじっくりと赤木自身を観賞する。きゅうと締まった睾丸から、血管の浮き出た竿の部分、それからまだ皮に覆われている亀頭のくびれまで、嘗め回すように眺めていく。
「そんなに立派なものじゃない。皮も被ってるし……。あ、でも、毎日綺麗にはしているから」
「形や大きさなど関係ありません。皮があるのは、それだけ大切で重要な場所だからです。……あまりさらけ出していても感度が下がると聞きますし、それに」
伏美はちらり、と赤木に流し目を送る。
「赤木様には、より深く私の身体を感じていただきたいですから。精一杯、気持ち良くして差し上げますね」
伏美は目を伏せ、赤木自身の、その先端に口づけする。
温かく湿った、これ以上ない程に柔らかな感触が押し当てられる。その感触に穴が開いて、ねっとりとしたとろけるような感覚が鈴口をくすぐる。
舌だった。伏美の舌が、労わる様に赤木の亀頭を舐め上げ始めていた。
伏美は更に、唇を使って赤木の皮を剥きながら、裸の亀頭を口の中に包み込んでしまう。
「ぅああ」
伏美の口の中の心地よさは赤木が考えていた以上のものだった。人肌の温かさは興奮した肌にはちょうど良く、また潤いに満ちた口内の柔らかさは、触れているところがとろけてしまうと錯覚してしまう程だった。
「んんん」
亀頭に留まらず、伏美はゆっくりと赤木自身を飲み込み続ける。優しく唇を押し当てながら竿を下り、根元まで口の中へと収めてしまう。
そして一度飲み込むと、今度は同様に唇をわずかにすぼめながら頭を引いてゆく。
唾液まみれでてらてらと光る赤木の一物が、伏美の唇から再び姿を現してゆく。
亀頭が顔を出し掛けたところで再び自身が飲み込まれてゆき、あとは同じ事の繰り返しだった。
刺激は、決して強く無かった。けれども回数が増えるたびに、赤木は着実に追いつめられていった。
伏美の口は吸い付き、搾り上げるような事はしてこなかった。ただ彼女は唇で赤木を包み込み、ゆったりとした愛撫を繰り返していただけだった。けれどもその事が逆に赤木自身の本能を刺激し、ただ単純に刺激を与える以上に射精感を昂らせていた。
無論、舌での愛撫も続いていた。時折射精を優しく促すかのように、舌が裏筋や亀頭をくすぐってくるのだ。
伏美の愛撫は、性的な快楽を伴いながらも、まるでぬるま湯に浸かっているような、身も心も安心してしまうような心地よさがあった。
赤木が全てを忘れ、伏美に身も心も委ねようとしかけた、その時だった。
『星空が見える温泉なんだって。楽しみね、あなた』
『そうだな。たまには温泉に浸かりながら外でするのも悪く無い』
離れたところから引き戸が開く音が響き、それと共に二人分の声が侵入してきた。
赤木は焦った。全身に鳥肌が立ち、寒気に似た感覚が駆け抜ける。
湯気が立ち込めて居るとは言え、目を凝らせば自分が仲居に何をさせているのかは容易に見えてしまうだろう。
幸い伏美は音もさほど立てず、大人しく口淫をしてくれているので音でばれるという事は無いだろうが……。
こんな公衆の場で、口で慰められているところを見られでもしたら……。
しかし、そう考えれば考える程、赤木の一物はなぜだか大人しくなるどころか、むしろ猛々しさを増すかのようにさらに硬く強くそそり立ってしまう。
伏美も伏美で、なんのお構いも無しに愛撫を続けるだけだった。赤木は独り悶々とうろたえながらも、しかし確実に限界まで追い詰められていった。そして……。
「伏美、さんっ」
脳裏がちらつき、赤木は一瞬伏美の頭を掴んで押しのけかける。だが、濡れた瞳で愛撫をし続ける健気な姿を見させられると無下にする事も出来なかった。
「もう、出そうで」
「らひてくらはい。このまま、わらひのくひへ」
咥えたままで、伏美はそんな事を言う。そしてそれ以降は、再び赤木の物へと夢中になってしまう。
今までの清楚で大人びたイメージからは遥かに距離を置いた、娼婦もかくやと言うようなその淫蕩な有り様に、赤木は眩暈がするようだった。
赤木は伏美の頭を優しく掴み、自分から引き離そうとする。
「らめぇ……」
涙目で首を振る姿がいじらしすぎた。それを見た瞬間、赤木の中で何かが振り切れた。
「くっ。出……」
背筋に強烈な感覚が走り抜ける。下半身が一度強くどくんと脈打ち、尿道を押し広げながら大量の精液が一気に駆け上がり、伏美の喉奥へとぶちまけられる。
「んっ。んんんーっ」
とんでもない事をしてしまったと思いつつも、赤木はその背徳的な快楽に身を任せる事しか出来なかった。
後悔はしていなかった。誰かに見咎められたとしても、この快楽の前では些細な事に過ぎなかった。
伏美は音も立てず、しかし一滴もこぼさず、丁寧に唇と舌を使って精液を受け止める。そして射精が終わると、尿道に残った精液までも吸い上げるように唇をすぼめる。
ちゅっ。と音を立てて唇が離れ、伏美はゆっくりと顔を上げた。
頬をわずかに染めながら赤木に向かってほほ笑み、口を開けて中の物を見せつける。
口いっぱいに白濁液が溜まっていた。伏美は舌を動かして精液の粘度を確かめたり、舌に絡み付けて見せた。わざわざ赤木によく見えるようにして。
自分の出した物を、子種の汁を、まるで飴玉でも舐めるように舌で転がしている。楽しんで、喜んでいる。
赤木はただ生唾を飲み込みながら、見入る事しか出来なかった。
やがて伏美は口を閉じると、喉を鳴らして中の物を飲み干した。ご丁寧に、綺麗になった口の中までしっかり赤木に開けて見せた。
「赤木様。気持ち良くなっていただけましたか?」
「ああ、とても。こんなの、初めてで我慢できなかった。……済まない、伏美さんの口を汚してしまった……」
伏美は艶然と微笑み、しなを作って見せる。
「そんな事はありません。とっても美味しい精液でしたよ。雄の匂いが凝縮していて、味も濃くて、ねばつきもたまりませんでした」
「……え?」
赤木は自分の耳を疑う。知識しかないが、精液の味は大体苦くて生臭いと聞いている。にもかかわらず、まるで高級食材でも味わったかのような言い方ではないか。
「身体、綺麗になりましたね。どうぞ温泉にお入り下さい」
「あ、ああ」
伏美はまるで何事も無かったかのように、普段通りの調子で柔らかく告げる。
居住まいを正し、伏美は立ち上がる。赤木に向かって深く一礼し、そして彼に背を向ける。
行ってしまう。このままでは彼女が立ち去ってしまう。もう少し彼女の温もりを感じていたい。彼女の匂いをかいでいたい。
「伏美さん。良かったら、その、一緒に入りませんか」
まともに見ている事も出来ず、赤木はただそれだけぽつりとつぶやいた。
返事は、なかなか戻って来なかった。やはりダメか。赤木が半ば諦めつつ見上げると。
「……よ、よろしいんですか?」
伏美は目を輝かせ、尻尾を大きく膨らませながら、命令を待つ忠犬のように赤木の事を待っていた。
「独りで入るのも寂しいし、伏美さんさえ良ければ」
「嬉しいです……。喜んでご一緒させていただきます」
赤木は立ち上がると、少し照れながらも伏美の手を取る。そして二人は浴場の奥、露天風呂の温泉へと向かった。
温泉の湯は少し桃色がかっており、温泉質か何かなのか、わずかに甘い香りがしていた。
伏美に先んじ、赤木は湯船に身を沈める。
温泉は、赤木が考えていたほどは熱くは無かった。熱い湯が好きな者からすればぬるいと感じる程かもしれない。けれども身体が温まる程度には十分であり、刺激も少なく長時間入っているのにはちょうどいい温度だった。
温泉の水音の間に湿った衣擦れの音が小さく聞こえ、それに続いて、ちゃぽん、と湯に身を沈める音が聞こえて来る。
自分で誘っておきながら、赤木は音のする方を直視できない。しかし視線を送らないまでも、襦袢を脱ぎ捨て白い肌を晒す伏美の姿は、脳内でしっかりと再現されていた。
「ふふ。見て下さっても構いませんのに」
「いや、でも……」
湯が動き、しなやかな伏美の腕が赤木の腕に絡み付く。身体を押し当てるように、しなだれかかるように隣に並び、腕だけでなく手も、指も絡み合わせる。
赤木の心臓が、一度大きく跳ねる。しかし緊張はそう長くは続かなかった。温泉の温かさ故か、それとも伏美だからなのか、身体の強張りはすぐに湯の中に溶けてゆき、赤木はすぐに心地よささえ感じ始めていた。
まるで、湯を介して二人の身体が溶けあっているようだった。
「赤木様……。星が、綺麗ですね」
見上げれば満点の星空が広がっていた。
山にはこの宿以外に光源は無く、宿の明かりも星空を意識してか抑えられているおかげで、まさに宝石箱をひっくり返したような煌めきが広がっていた。
「凄い」
「独りで見上げていると、たまにこの凄さに圧倒される時があります。自分がちっぽけな存在で、孤独なのだという事を実感させられて。でも」
伏美は、赤木の肩に頭を預けながら続ける。
「誰かと居る事がこんなに温かいなんて。二人で見る夜空がこんなに素敵だなんて……」
赤木は繋いだ手を、さらにしっかりと握りしめる。
それからしばらく、二人は肩を並べて星空を見上げ続けた。
言葉を交わし合う事も無く、ただ静かに。
今の二人の間に言葉など無粋だった。少なくとも赤木は、沈黙の中でも確かに伏美との繋がりを感じていた。
温泉から戻るなり、赤木は準備されていた布団の上に倒れ込んだ。
「あー。ちょっとのぼせたかな。入り過ぎた……」
仰向けになり、浴衣の胸元を大きく空ける。
火照った身体に布団の柔らかさと冷たさが心地良い。目を閉じると、今日目にしてきた色々な光景と、そして伏美の艶やかな姿がまざまざと蘇てくる。
色々な意味で興奮してしまい、すぐには眠れそうに無い。けれども朝早く起きなければならないわけでも無し、このまま火照りと興奮を冷ますまでのんびりするのも悪く無い。
どこかから気持ちのいいそよ風も吹いて来た。どこからか隙間風が吹き込んでいるようだが、火照った身体にはありがたかった。
「伏美さん、かぁ。綺麗な人だよなぁ。料理も出来るし、あんな人が嫁さんになってくれたらなぁ」
風が一瞬止み、そしてそれから再びそよぎだす。
「けど、仲居さんだし。僕はただの客。おまけに無職の……。無職、か」
風がまた弱まり、今度は完全に止まってしまう。
身体の熱さに耐えられず、赤木は扇風機か団扇を探すべく目を開ける。すると。
「あ」
天井を見上げる視界の中に、焦げ茶色の狐耳が見えた。顔を傾けると、頬を真っ赤に染めた伏美が団扇をもってそこに居た。
「伏、美……さん。いつから」
「あの、えと、ですね。今晩最後のおもてなしに、参りました」
質問には答えず、伏見はただ用件だけを告げる。けれども彼女の様子を見れば、赤木の独り言が全て聞かれていた事くらいは予想が付いた。
「今晩最後のおもてなし?」
「心地よい眠りを得て頂くために、その……赤木様の火照りと興奮を、鎮めるため、夜伽に参りました」
「よとぎって、え?」
驚き身を起こしかける赤木の肩を、嫋やかな伏美の手が押さえつける。そして布団へと押し倒しながら、伏美は男の身体の上へと馬乗りになる。
「誤解されないよう最初に申し上げておきますが、こんな事、決して誰にでもしているわけではありませんからね。先ほどの露天風呂の事も含め、私にとっては赤木様が初めてのお客様ですので」
確かにおもてなしなどと言えば誰にでもこんな風に股を開いて性的な相手をしているようにも聞こえてしまう。が、どうやらそう言うわけでもないらしい。無論、彼女の言葉を信じるのならば、だが。
「伏美さん。僕は別に、ここまでの事を望んではいませんよ。これまで十分楽しませてもらったし、こんな、娼婦みたいな事をしなくても」
「私では不足ですか?」
「そうじゃなくて、こういう事は大切な人とするものだろうから……。僕は、ただのお客でしか」
「仲居が、お客様の事を好きになってはいけませんか?」
声を震わせながら、伏美はこれ以上ない程の真剣な瞳で赤木を見つめる。
赤木はぐっと言葉を詰まらせ、その今にも泣きだしそうな顔を見ていられず、目を逸らす。
「……私は、見ての通り人間ではありません。稲荷と言う名前の、狐の妖怪です。場所によっては魔物娘などとも呼ばれています。
私達は、人間以上に"鼻"が利くんです。匂いを嗅げばその人がどういった方なのか、どういう人生を歩んで来たのか、体調や心の様子まで知る事が出来ます。
楓さんからは話を聞いていただけでしたが、不思議と私はあなたに惹かれていたんです。ずっとあなたが来るのを待ちわびていました。たった三日ほどの事ですが、もし来てくれなかったら、一生会えなかったら。そう思うと怖くてたまりませんでした。
あなたは来てくれた。それだけでも涙が出そうな程嬉しかった。
……そしてあなたに会って私は確信したんです。この人が私の運命だって。
赤木様はとてもいい匂いがしていました。でもとても疲れていて、物悲しい匂いが混じっていました。私はあなたに元気になって欲しくて、あなたの匂いをもっと感じたくて……。
駄目、でしょうか。どうか今晩だけでも、一度だけでも私を抱いていただけないでしょうか。後悔はさせません。何でも言う事を聞きます。ご奉仕いたします」
伏美は、祈るように赤木に向かって頭を下げる。赤木の位置からは見えなかったが、もしかしたら必死で涙を堪えているのかもしれない。
理性、常識、恋慕、妖怪、人間、交接。いろいろなものが赤木の頭の中をぐるぐると回る。だが、赤木が答えを出すのにさほど時間は掛からなかった。
「……奉仕なんて、してくれなくていい」
「赤木様……」
「だってセックスって言うのは、二人でするものだろ? それより、本当に僕なんかでいいのかい?」
赤木は伏美の頬に手を当てて、彼女に顔を上げさせる。
救われたようなその表情。目元から零れ落ちそうな涙を指で拭い、赤木は照れくさそうに笑った。
「僕は鼻が利かないけど、伏美さんは美人で優しくて、料理も上手で、こんなに魅力的な女性はそうはいないって事くらいは分かるよ。その耳も尻尾も可愛いし。
……あまり経験は無いから、上手く出来るか分からないけど」
伏美は涙を流しながらも、美しい笑顔を浮かべる。
そして何も言わず、自分の頬に添えられた赤木の手に、自分の手を重ねるのだった。
するりと衣擦れの音がして、帯が解かれる。
浴衣が肌蹴て、伏美の白い肌が、豊かな双丘があらわになる。
「綺麗だ」
既に電気は落とされており、二人を照らし出すのは部屋に備え付けられていた小さな行燈の頼り無い光だけだった。
けれどもその小さな灯りだけでも、互いの肌を確認し合うには十分だった。揺れる橙の光は、蛍光灯の光よりはるかに女の肌を生々しく浮き立たせていた。
「お上手なんですから……。ほら、赤木様も」
伏美は赤木の帯も解くと、浴衣の前を広げて肌を露出させる。
うっとりとした表情で赤木の胸に手を置き、彼の首元へ、腹へと手を伸ばしてゆく。
「赤木様ぁ……」
伏美がしなだれかかるように肌を重ねてくる。赤木の胸の上で豊かな乳房が潰れ、むっちりした肌が赤木の肌に吸い付いて来る。熱い女の吐息が首元に掛かる。
赤木は辛抱たまらず、彼女の背中に両腕を回して強く抱き締めた。
背中をまさぐり、丸みを帯びた腰を、尻の柔らかさを堪能し、太腿にまで指を這わせてゆく。
指が動くたびに伏美の息は乱れ、熱を帯びてゆくようだった。
「もっと、触って下さい。直接、肌に」
言われるままに浴衣の中に手を入れ、伏美の柔肌にじかに触れる。
温かく柔らかく、すべすべと滑らかで傷一つない玉の肌だった。中でもお尻は特に柔らかく、指が沈み込みながらも押し返してくる感触は、いつまでも揉みしだいていたいと思わせる程に魅力的だった。
伏美もただ触られているだけでは無かった。
獣がするように、赤木の首元に自分の耳や髪を擦り付け、首筋や耳に舌を這わせ、所構わず頬ずりをしていた。
どちらからともなく、お互いの瞳を覗き込む。
吸い寄せられるように、唇が重なる。相手の唇の柔らかさを、温かさを愉しむ。昂りのままに舌を入れ合い、絡め合い、敏感な部分を擦り合って、異性の体液を求め合う。
遠くから聞こえてくる木の葉の揺れる音に、唾液の奏でる水音が混じる。
窒息しそうになるほど求め合い、鼻息を荒くして、息継ぎをしてはまた唇を貪り合った。
やがてどちらの瞳からも理性の光が消えていった。性欲で曇る瞳には、今は愛する相手の姿しか映っていなかった。
「んっ。赤木様の硬いの、当たってます……」
「伏美……。いいかい?」
「はい」
伏美はわずかに腰を上げる。その隙に、赤木は脱ぐのも煩わしいといった様子で、荒っぽく着ていた下着をずり下ろして脱ぎ捨てた。
勢いよく跳ね上がった男性自身が、ぱちんと伏美の尻を打ち付けられる。
「あん」
伏美は下着は付けていなかった。今や、彼女の腰が密着していた部分は彼女の愛液でしとどに濡れてしまっていた。
「それじゃあ、入れ、ますね」
伏美は上半身を起こし、腰をずらして位置を合わせる。
片手を赤木としっかりと結び合い、もう片方の手を赤木自身に添えて、支える。
天井に向かって反り返り、幾つもの血管を浮き立たせた、いびつなそれ。その先端に、蜜に濡れた桃色の肉の花びらが押し付けられる。
「あっ、入って、来ます」
伏美はゆっくりと腰を落としてゆく。
何かを破るような感触と共に、伏美の表情がわずかに歪む。だがそれは本当に一瞬だけの事で、伏美はすぐに娼婦もかくやと言った蕩けるような淫らな表情を浮かべ、肉棒が飲み込まれてゆく様子と赤木の表情を、嬉しそうに交互に見下ろし始めた。
一方赤木は、自分の物が飲み込まれてゆく光景もさることながら、伏美の肉体がもたらす感覚に言葉を失っていた。
伏美の雌穴は、時間を掛けて赤木を飲み込んでゆく。亀頭を包み込み、竿を食むように、じっくりと。
激しさは無かった。しかし動きは静かでありながら、その官能は強烈だった。
たっぷりと蜜を帯びた細やかな襞が、ねっとりと丹念に赤木のモノへと絡み付いてゆく。亀頭を包み込む様に撫でてゆき、かりの部分を擦り上げる。まるで赤木の形を確かめて、その身に覚え込ませようとするかのようだった。
「あ、く。ああっ」
「ほら、赤木様。もう少しで、全部入りますよ」
握り合った手に力を込め、それでも堪え切れずにもう片方の手を乳房に伸ばし、荒々しく掴む。
びくりと伏美の背が跳ね、内側が収縮する。
腰を突き上げる感触に眩暈を覚えながらも、赤木は何とか歯を食いしばって堪えた。そしてようやく、先っちょがざらりとした感触に触れて、二人は深いところで繋がり合う。
「入、りました」
腰をびくびく震わせながら、伏美は今一度、赤木の上に身を重ねる。
伏美の肌はわずかに汗ばみ始めており、肌を重ねると彼女の匂いが強く香った。鼻腔の奥まで伏美の匂いで満たされ、赤木の理性は更に追いつめられてゆく。
「あ。赤木様のが、中でまた大きく……」
赤木は本能の命じるまま、伏美の首筋に舌を這わせる。汗を舐め、白い肌に甘噛みし、そして跡が残る程に唇で吸い付く。
「あ、あああ。だめ、ですぅ」
時折痙攣する背中を撫でてゆく。うなじから背筋に沿って、そしてお尻から太ももの曲線まで、丁寧に撫で回してゆく。
指が動くたび、伏美は感極まったような声を上げた。
「はっ。あうぅ。ダメ、ダメです赤木様。赤木様に触られると、私……何も考えられなくなってしまいます」
「構わない。感じてる姿、とても可愛いよ」
「でも、私も赤木様を気持ち良くして差し上げたいんです。ですから……」
伏美は肌を密着させたまま、腰を少しずつ動かし始める。
蜜を帯びた膣肉が再びゆっくりと蠕動し、再び赤木の一物へのねっとりとした愛撫が始まった。
「くっ。伏美の中、凄い」
動きがゆっくりしている分、襞の一つ一つがしっかりと一物に絡み、優しく擦っていくのがまざまざと分かる。その快楽の強さは、自分での激しい手淫はもちろん、先ほどの口淫ですら軽く凌ぐほどの強烈さだった。
自然と腰が震え出してしまう。
赤木は咄嗟に伏美の尻を掴み、動きを止めさせようとする。けれどそこは人間と妖怪の力の差か、伏美の動きは全く止めようが無かった。
亀頭まで引き抜かれ、そしてまた伏美の中へ飲み込まれてゆく。ぬるぬるの襞襞に愛されながら、時間を掛けてゆっくりと。
このままでは我慢が出来なくなる。覚悟しかけた赤木だったが、しかし伏美は腰の動きを一往復で取りやめ、再び赤木に強く抱きつき、胸へと顔を埋めてしまう。
「伏、美?」
「いきそうでしたよね? 私も、もう少しで気をやってしまいそうでした。でも、まだダメです。もっと深く、大きく、長い快楽を味わって頂きたいのです。
もっとゆっくり、私の身体を楽しんで頂きたいのです」
伏美は、赤木に軽く口づけする。
「ただ射精するより比較にならない快楽、味わわせて差し上げます。こうして、挿入して肌に触れあっているだけでも、心地よいでしょう?」
「あぁ、温かくて、柔らかくて、伏美の匂いを感じる」
「私も赤木様の匂いに包まれて、どうにかなってしまいそうです。……一気に絶頂を迎えたくもなりますが、でもそうしてしまったら、そこまでです」
赤木は伏美の髪を、耳を撫でる。
伏美はくすぐったそうに笑い、赤木と額と額を合わせる。
「このままこうしていれば、今の心地よさをずっと味わっていられる。それ以上に、挿入し密着し続けていると、二人の気や精が絡み合って、より大きな感覚を味わえるんです」
「……そう言う経験が?」
「いいえ。私は赤木様が初めてで、んっ……。うふふ、男の方は分かりやすいですね。私が生娘だったと知った途端に、またいっそう硬くなってしまうのですから」
図星だった。既に誰かの手に渡っていたと想像した途端に、心に影が差したのも事実だった。もちろん初めての相手だと知って歓喜したのも本当だ。
赤木は照れ隠しするように、狐の尻尾を荒々しく撫で回す。
もふもふの尻尾は、しかしそれすらも喜ぶように大きく揺れた。
「お師匠様が旦那様となさっているのを見たのです。房中術、と言ったらいいでしょうか。陰陽の気を調和させ、心身の和合を目指す。お互いをより高め合い、健康的に更なる快楽を得る術です」
「房中術……。魔術みたいなものなのか?」
「いいえ。人間の考え出した、性生活の為の技術です。ですがこれは、私達妖怪独特の、妖気を織り交ぜたものです。
……少し、静まって来ましたね。また動きますね……」
くちゅり、と控え目に音がする。
どこかから風に揺れる木の葉の音が、蛙の鳴き声が聞こえて来る。衣擦れの音や、尻尾の揺れる微かな音すら良く聞こえた。
二人の熱い吐息と、繋がった部分が奏でる音も。
「んっ」
伏美は眉を寄せ、頬を染める。唇を震わせて、歓喜に震える吐息が漏れる。
赤木は、下半身だけでなく全身が熱くなってくるのを感じていた。身体中が火照り、そして敏感になって来ていた。触れ合う女の肌を、汗を、匂いを、より一層強く感じ始めていた。
赤木は伏美の髪留めを解き放つ。解放された長く艶やかな髪を指に絡ませ、梳いて、撫でる。
全身が浮かび上がるような感覚を覚える。しかしその感覚は長く続かず、赤木は再び褥の上で女を抱く自分に戻ってくる。
伏美が動きを止めたのだった。
「……我慢、出来なくなってしまいそうでした」
「僕もだよ」
「なるべく動かないようにしましょう。動かなくても、こうすれば」
伏美は赤木の首元に顔を埋め、その首筋を舐め上げて耳に甘噛みした。そしてそれから、耳たぶを、耳の穴を、ねっとりと舐めはじめた。
くちゅくちゅ、ぐちゅぐちゅ。舌の蠢く音が脳に響き、赤木は腰を跳ねさせる。
「うっ」
「ふふ。これならば弱い刺激で、より長く一緒に居られます」
「けど、やられっぱなしと言うのは悔しいな」
「赤木様も、私の身体を好きにしてくださっても構いませんよ」
乳房、お尻、太腿、それに尻尾や耳。弱そうなところはいくらでも考えられる。
しかしかと言ってあまりに強い刺激で伏美を落としてしまうのも、今の房中術とやらの目的からは外れてしまうだろう。
考えた結果、赤木はただ単純に伏美の肌をさすり続ける事にした。優しく、泣く子をあやすように、眠れない子を安心させるように。
髪を、肌を、尻尾を、ただ単純にさすり続けるだけ。けれどにもかかわらず、伏美もまた肌を震わせ、吐息にも艶が増していった。
敏感になっているのは彼女の方も同じだったのだ。
それから先は、言葉はいらなかった。
二人はそのまま、お互いの身体を愛撫し続けた。昂りの弱まりを感じれば少し強めに。昂りが早すぎると思えば穏やかに。
時間を忘れて、お互いの身体に没頭した。
肌を触れ合せ、舌で舐め、甘噛みし。
時に深く口づけし、繋がった部分をゆっくりと揺らす。
時間を掛けて、ゆっくり、ゆっくりと。
やがて自分の匂いと相手の匂いの区別がつかなくなり、相手の肌の官能で自分が感じているかのように思い始める境地に至る。
相手が感じる事で自分が感じ、自分が感じる事で相手を感じさせる。
愛する者と一つになっている。その感覚が身体中に、世界中に満ちていく。
その感覚がある時急激に大きく膨らみ、そして身体も心も押し流してしまうような大きな波となって全てを覆い尽くしてゆく。
赤木は遠くから自分の名を呼ぶ声を聴いていた。
交尾の喜びに咽び泣く獣のような、神の福音を告げる天使のような、淫靡さと清らかさが混じり合ったような女の声を。
そして同時に、自分も声を上げている事に気が付く。
「伏美。……伏美っ!」
「あぁ、赤木様ぁ」
下半身から、深く結びついている部分から自分の一部が伏美の奥深くへと放出されてゆく。
それと同時に伏美の身体から降り注ぐものも、自分の身体へと染み渡ってゆくのが分かった。
それは気であり、精であり、汗や精液や愛液を始めとする体液であり、そして愛だった。不思議とそれが一瞬にして理解出来た。
赤木の身体から放たれた物が伏美の身体へと注がれ、馴染み、そして伏美の身体から溢れ出るものが赤木の身体に溶け込んでゆく。
陰陽の輪は巡り続け、二人は穏やかな気持ちのまま、しかし激しい快楽に身も心も満たされてゆく。
脈動は、いつまでも止まらなかった。たどり着くのに時間が必要だった境地だけあり、その絶頂も普通の交合とは比較にならない程に長かった。
どれくらいの時が経っただろうか。
二人はお互いを見つめ合ったまま、快楽の海の底を漂い続ける。夢見心地ではあったが、例え夢でもこんな感覚は抱けまいと思う程の境地だった。
鳥の声が聞こえ始めていた。
窓から朝日が差し込み、伏美の焦げ茶色の髪を黄金色に染め上げる。赤木は稲穂のような髪を撫でながら、女の額に口づけした。
「……収まってしまいましたね」
「あぁ、凄かったな。まるで天国にいるみたいだった」
伏美は身じろぎすると、顔を赤木の首元に埋めてしまう。そしてなぜか伏美の肌の温度が少し上がったように感じられた。
「私も、です。こんなに満たされて、深い喜びを感じられたのは生まれて初めて」
「全部伏見、さんのおかげだな」
「……さっきまで呼び捨てで呼んで下さっていたのに」
少し不満そうな伏美が、可愛らしくてたまらなかった。
「伏美」
「はい」
名を呼べば嬉しそうに答え、耳を擦り付けるように抱きついて来る。
「お師匠様達は凄いんですよ。私達は朝には収まってしまいましたが、お師匠様達は一日かけて交わって、三日や、長い時は一週間絶頂を維持していらっしゃった時もありました」
「凄いな。けど、ご飯とかはどうするんだい?」
「私達妖怪と交わっている時は食事や睡眠の心配は無いんです。気と精が巡り合って、お互いを満たし合いますので」
「そうなんだ」
言われてみれば、確かに一晩中寝ずに一つになっていたのに眠気は一切なく、腹も減っていなかった。赤木は自分の身体を省み、伏美の言っている事もあながち間違いでは無さそうだと実感する。
「……良かったら、今晩も試してみませんか?」
赤木はどきりとして伏美を見る。女の顔をした伏美が、濡れた瞳で見上げていた。
確かにこんな快楽なら何度でも味わいたい。しかし、そう幾晩も泊まっていられる程の余裕もあるわけでも無かった。
「でも、チケットは一枚しか」
「あのチケットは、宿泊期限は無期限ですから。途中で帰られてしまったら別ですが、連泊でしたら何泊でも出来るんです」
そんな上手い話があるんだろうか。赤木はにわかには信じられなかった。しかしそれは赤木の一部、理性のみの話だった。
身体の方は、既に女の身体を抱き締めながらこう答えてしまっていた。
「じゃあ、今日も泊まる事にするよ。仲居さんはずっと変えないでくれ。伏美、君がいい」
「はい。かしこまりました。赤木様」
***
朝日が顔を出すのと同時に、赤木は目を覚ましていた。
浴衣で寝ている自分の隣には、同じように浴衣姿で穏やかな眠りについている愛しい女、伏美の姿があった。
あれから数日。赤木は旅館へ泊まり続けていた。
特に何かに追われる事も無く、穏やかな時間を、風景を見たり山の中を散歩したりして過ごし、山の幸をふんだんに使った料理を食べ、大きな風呂に浸かって、夜は愛しい人を抱く。
伏美は料理などの準備の時間以外は、極力赤木と一緒に居てくれた。一緒に色んなものを見て、話したり笑ったり、仲居と言うよりは恋人や夫婦のように振る舞ってくれた。
幸せな時間だった。幸せすぎて怖くなるくらいだった。
英気を養うには十分な時間と体験だった。再び立ち上がり、歩いて行けそうだった。
赤木は彼女の耳を、髪を撫で、そして立ち上がる。
「ん、赤木様。どちらへ」
布団から出ようとして、脚を止める。声をかけられたからでは無く、浴衣のすそを掴まれ止められてしまったからだった。
目を擦りながら、伏美もまた身を起こす。着崩れた浴衣の襟元には、昨日付けた唇の跡が残っていた。
「厠ですか? 早く戻って来て下さいね。今朝は、少し冷えますし」
「……いや、そろそろここを発とうと思って」
伏美の動きが止まる。それはまさに凍り付いたように、と言う言葉通りに。
顔面蒼白になり、訴えるような目で赤木を見る。言いたい事があり過ぎて言葉にならないのか、口を開けているのに声はいつまでたっても出てこなかった。
「いつまでもお客さんとしてここに厄介になっているわけにもいかないだろう」
「そ、そんなの気にしなくていいんです。私共は、私はいつまででもあなたに、赤木様にここに居て欲しいのです。……それとも、もう私に飽きられてしまわれましたか?」
赤木は歯を食いしばり堪えようとする。けれど、掠れて消えてゆくような伏美の声を耳にしてはもう耐えらえなかった。
赤木は身をかがめると、強く強く彼女の身体を抱き締めた。
「赤木、様?」
「伏美。僕は君と結婚したい。夫婦になって、ずっと一緒に居たい……。でも、それには男として、ちゃんと仕事を持った方がいいと思ったんだ。だから一度戻って仕事を、楓さんのコネでも何でもいいから、就職しようと思って。
決して君を嫌いになったり、飽きたりしたわけでは無いから」
「あぁ、赤木様! 嬉しいです!」
伏美の腕が背中にしっかりとしがみつく。頬に温かい液体、涙が触れる。
「私も赤木様と一緒に居たいです。私にずっと、あなたのお世話をさせてください」
「なんか照れくさいけど、ありがとう。よろしくね」
二人は身体を離し、どちらからともなくはにかむような笑顔を浮かべる。
「まぁ、と言うわけだから一度戻るけど、すぐに帰って来るから安心して……」
「でも赤木様、戻る必要はありません。赤木様はずぅっとここに居て下さっていいんです」
赤木は首をかしげざるを得ない。楓に仕事を紹介してもらうにしても、仕事をするとなれば書類のやり取りなどがある。まずは一度都会に戻らなければならないはずだ。それなのに戻る必要が無いとはどういう事なのか。
赤木が口を開こうとした、その時だった。
「話は全て、この楓ちゃんが聞かせてもらったでぇ!」
部屋のふすまがバァンと勢いよく開く。そこに居たのは、一人の小柄な女性だった。
声にも、そして顔にも覚えがあった。楓だった。以前赤木の会社に営業に来た女セールスマンで、そして赤木がこの旅館に来ることになった一番の元凶である人物だ。
顔も声も楓で間違いは無かった。ただ、赤木の知っているいつもの楓とは様子がかなり異なっていた。
彼女の頭の上には、伏美の物とは少し違っていたが、明らかに獣の耳と思しき耳が生えており、その腰元にも狸のような尻尾が揺れていた。
身に纏っているのも、いつものビジネススーツでは無く時代劇の旅人が来ているような旅装束だった。
今なら別世界の住人だと言われても信じられそうだ。
「赤木さんならそう言ってくれると思って、書類はもう用意しておいたんや。そろそろかなぁと思って様子を見に来たんやけど、ここまで予想通りに事が運んでくれるとは。
ともかく準備は出来とるよ。あとはこの書類に署名と判子もらうだけ。はいこれ」
赤木はいきなり書類を手渡され、目を白黒させる。いつもと様子が違う事を問う間も無かった。
「ここの従業員として働く契約書や。ここに居れば、ずっと伏美ちゃんとも一緒にいられる。まぁ人でごみごみした都会に伏美ちゃんを連れて行きたいなら、別の仕事も紹介できるけど」
赤木はさっと書類に目を通したが、不満な点は何一つなかった。赤木の決断は早かった。一通り読み終えると、大きく頷いた。
「いや、これでいい。これがいいよ。ありがとう楓さん」
「なら、契約成立やね」
赤木は急いでペンを用意し、判子を引っ張り出す。
「しっかし、伏美ちゃんも羨ましいなぁ。念願の旦那さん捕まえて……。うちも早く旦那さん欲しいわぁ」
「楓さんのおかげです。話を聞いていた時から惹かれるものはありましたが、実際お目に掛かって実感したんです。この人しかいないって。……身体の相性も、凄く良くて」
「それは良かった。……どうやら毎晩お熱いみたいやし、ほんと羨ましいわぁ」
「えぇ、赤木さん、見た目に寄らず凄くて……」
「は、はい。書き終わりましたよ。よろしくお願いします」
赤木は慌てて書類を差し出す。伏美は気にした様子は無かったが、赤木としては二人の秘め事は第三者にはあまり知られたく無かった。
「ふむ、ふむ、と。よし、不備は無さそうや。じゃあこれ出してきとくから、ここでの詳しい働き方は伏見と相談して決めてな」
「え、あ、はい。分かりました」
赤木が返事を返した時には、既に楓は部屋を出るべくふすまに手をかけていた。
「でも楓さん、そんなに急いでどこへ? それにその格好は……」
「あぁ、地元に戻るんよ。ジパングで妖怪達の酒宴があって、それに出席するために。と言うか、うちは本来あっちで商売しとるんやけどな。たまにこっちにも助っ人頼まれるんよ」
ジパング? 妖怪? 酒宴? 分からない単語ばかりで混乱する赤木をよそに、楓はにたりと唇を歪ませた。
「……大丈夫、これも忘れず処理しとくから」
そう言って見せびらかしたのは、赤木と伏美の名前が入った婚姻届だった。赤木は一瞬慌てかけたが、しかし考えてみれば慌てる事も無いという事に思い至る。
もともとそのつもりだったのだから、早いか遅いかの違いしかないではないか、と。
「まぁ、また定期的に様子は見に来るけどな。それじゃあ。二人ともお幸せになー」
楓はにっこりほほ笑むと、来た時同様に唐突に去っていった。
部屋に残された二人はしばしあっけにとられたように呆けていたが、やがてどちらからともなく見つめ合い、微笑み合った。
「えっと、そういう事で。伏美、これからもどうかよろしく」
「はい。よろしくお願いします。旦那様」
顔を真っ赤にしながらも、二人は手に手を重ね、そして互いに抱き締めあうのだった。
木々の間を、木の葉を揺らしながら風が通り抜けてゆく。
土から湧き上がる湿気を吹き飛ばし、肌を撫でてゆく風が心地よい。
赤木は身をかがめて山菜を取ると、背中の籠に放り込む。これで今日の分は十分だろうか。考えていると、気配を感じた。
振り向くと、坂の上からこちらに手を振る女が居た。
狐のような耳と尻尾を持った、美しい着物の女性。
「旦那様ぁ。そろそろお風呂の支度をしましょう」
「あぁ、分かった」
赤木は旅館に戻るべく、山道を引き返し始める。
旅館の運営の手伝い。それが今の赤木の仕事だった。
畑の世話をしたり、山に入って食材の調達をしたり、大浴場の掃除をしたり、部屋に備品を届けたり片付けたりといったことが主な仕事だ。
とはいえこの山奥には客自体が少ないため、仕事もそんなに大変では無い。
毎晩愛しい妻、伏美とゆったり時間を掛けて肌を重ねる事も出来ている。昼休みに軽く交われる日ですら、少なくは無い程だった。
「お風呂掃除が終わったら、私達もご飯を食べてお休みしましょう」
「いいのか?」
「はい。今日のお客様は男性一名様。旦那様がここに来た時と同じ、と言う事です」
「仕事は一通り仲居さんが独りでこなしてくれるって事だね」
「えぇ。あの子もようやく、念願の旦那様を手に入れられるかもしれません」
「確か猫又の子だったっけ。僕が来る時には、運転してくれてたんだったっけ」
勤め始めてはっきりと分かった事だったが、この旅館『妖の湯』は本当に本物の妖怪が経営している温泉旅館なのだった。
なぜ妖怪が温泉旅館などを経営しているのか。それはすなわち、ひっそりと繁殖相手である人間の男性を捕まえる為らしい。と言うのも、どうやら妖怪は雌しかおらず、生殖のためには人間の男性が必要不可欠だからなのだという。
そしてその為か、妖怪達はみんな極度の男好きばかりだった。とは言っても人間の女と違って、相手のいる男には滅多に手は出さないし、複数の男と関係を持つ事も皆無らしいが。
「男性客と直接触れ合える仲居の役割を目指す妖怪は多いですからね。私も本当に運が良かった……」
「僕も、相手が伏美で良かったよ」
赤木は、隣に並ぶ妻の肩を抱く。もしもの話には意味が無い。今は愛しい人がすぐそばに居る。その事を伝えるかのように。
想いはすぐに伝わったのか、俯きそうになっていた伏美はすぐに顔を上げ、満面の笑顔を見せてくれた。
赤木と夫婦になった事で、伏美は仲居の第一線からは退いた。けれども仲居の数が減ったかと言えばそう言う事では無く、今回の猫又のように代わりはすぐに補充された。
なぜなら、本当に伏美の言うように、人間の男性と直接触れ合う機会のもてる仲居を志している妖怪の数は本当に多いからだ。伴侶を手に入れるために、彼女達も必死なのだ。
彼女達は男性が独りで泊まりに来た際には、自分の魅力を余すところなく伝えるべく、独りで料理や風呂、夜の相手などを行い、全力で最高級にもてなしをする。
連れ合いを求める妖怪達にとって、それが一つの戦略なのだった。
夫婦で泊まりに来ている客には赤木達も準備などするが、今回のようなケースは特にする事も無い。何かすれば、逆に邪魔をしてしまう事になるからだ。
「じゃあ、今日は部屋の露天風呂から、星空を見上げながらしようか」
「いいですね。ロマンチックです」
顔にまでは出さないまでも、彼女の尻尾は嬉しそうに大きく揺れていた。その数は二本。赤木と言う伴侶を得て妖力が増えた為、尻尾の数も増えたのだった。
伏美が言うには交合の回数も多いので、三本目が生えるのも近いのではないかと言う事だ。もしかしたら、今日がその日になるかもしれない。
子供が出来るまでに尻尾が何本に増えるか。いずれにしろ、尻尾の数は愛情の深さに比例するように思えて、赤木としては悪く無い気持ちだ。
赤木は微笑み、彼女の手を取る。
指を絡めて手を繋ぎ、空を見上げる。
木々の間から見える空に雲は無く、今晩はいい夜空になりそうだった。
ひっきりなしに電車がたどり着いては、学校の制服や仕事用のスーツに身を包んだ人間を吐き出し、そしてまた飲み込んで、どこかへと運び去ってゆく。
電車と共に人が減ったその五分後には、ホームの上はまたたくさんの人間で埋め尽くされる。
何度となく繰り返されるその光景を、独りベンチに座ってぼんやりと眺める男が居た。
草臥れたスーツを身に纏い、少し疲れた顔をした男。彼もまた、昨日までは群衆の中の一人であった。
けれど今は少し事情が違った。彼は、今はもう群衆に押し合いへし合いされながら鉄の箱に詰め込まれなくても良い身分なのだった。
そんな彼がなぜ今日もまた駅のホームに居るのかと言えば、これはただ単純に身に染みついた習慣が抜けなかったというだけで、特に駅に用があるからでも何でも無かった。
「この街には、こんなに人間が居たんだな」
小さな呟きは誰の耳に届く事も無く、川のような人の流れの中に埋もれてゆく。
男は小さく息を吐く。流れに沿って生きてきたはずだった。それなのに、なぜ自分は人の流れから外れたところで一人ぼっちで居るのだろうか。
目の前を大量の人間が行き過ぎるとともに、頭の中にもさまざまな考えが浮かんだ。しかし断片的な発想は浮かんでは沈んでを繰り返すばかりで、思考はちっともまとまらなかった。
大量の人間の匂いが混じると不快な匂いが生じるように、頭の中にも澱が溜まってゆくようだった。
男はため息を吐く。
どこかに行きたい気がした。けれどどこに行けばいいのかも分からなかった。だから彼は、とりあえず思考を停止し、人の流れを眺め続ける事にした。
幼い頃から、彼は凡庸で目立つところの無い人間だった。
サラリーマンの父と専業主婦の母の元に生まれ、物心ついたころには弟も家族に加わっていた。
小学校、中学校、高校共に成績は中の中。運動も人並みにはしたが、特段才能のような物も無かった。
大学に進学はしたが、勉学もバイトもサークル等の友好関係も、流されるままの中途半端な関係性ばかりだった。
やりたいことは特になかった。夢を持っている人間を見ると羨ましいと思うものの、しかし自分にそういう物があるのかと考えると、全く何も出てこないのが現実だった。
そのうち周りに合わせるように就職活動を始め、それなりに苦労はしたものの、無事に一般企業へと就職が決まった。
就職してからも彼の生き方は変わらなかった。
それなりに仕事をし、それなりに成果は出した。けれど目立つほどの物は無く、将来会社で成し遂げたいような事も、特になかった。
やがて三年が過ぎると、見知った同期の顔は半分に減っていた。
世の中の景気が悪くなるにつれて同僚の数も減ってゆき、しかしそれに合わせて仕事の量は増え続けた。リストラをされなかったのが良かったのか悪かったのか分からなくなるときもあった。
時間が経つごとに就業時間は伸びてゆき、やがて帰りは十時、十一時が当たり前となり、土日出勤もざらになった。
このころになってようやく、彼は自分の人生に疑問を抱き始めた。自分は何のために生きているのか。こんな生活を六十過ぎまで続けるつもりなのか。何より、何が楽しくてこんな事を続けているのか。あらゆることが、分からなくなってきていた。
仕事を辞めようかとも考えた。けれども今の仕事を辞めたとして次の仕事は見つかるのか。不安は重くのしかかり、彼はいつまでも腰を上げられなかった。
そしてずるずると現状維持を続けた末が、突然の解雇通知だった。
理由は会社の経営悪化と、彼自身の成績の問題だった。ハードワークが続き心身ともに疲労が積もったせいか、彼の仕事には失敗が目立ち始めていたのだった。
彼は解雇通知を受け入れ、会社を去る事にした。不満は無いでも無かったが、会社や上司に噛み付ける程の体力も気力も無かった。
もう会社になど行かなくていい。ごみごみした電車で、人に押し潰されながら仕事の締日やノルマに追われる事も無い。けれど、本当にこれで良かったのか。
日が高く上りホームから人気がほとんど無くなっても、答えは出なかった。
弟には夢がある。大学に進学して、夢に向かって頑張っている。
母もそれを応援する為、パートを始めて学費の足しにしているらしい。
父は少し稼ぎが悪くなったが、仕事に誇りを持って取り組んでいるようだ。
では、自分は?
昔馴染みの友人たちも、仕事をバリバリこなしていたり、新たな夢に向かってリスタートを切った者達も多い。
かつての同僚たちも、また新たな目標を見つけたり、新たな職場で居場所を作って更なる活躍をしている。
では、自分は?
自分には何かあるだろうか。新しく始めたい事は。身体が震え出すような、心の底からの渇望は。
彼はベンチから立ち上がると、ふらふらとホームへと歩き始める。
黄色い点字パネルを踏み越え、ホームのギリギリの位置に立って、空を見上げる。
昨日と同じ空が広がっているはずだった。けれどなぜかその青さが目に染みた。少しずつ雲の形が歪んでゆき、そして……。
「あれ? 赤木さん」
不意に声をかけられ、ぎくりと身を竦ませる。
自分が立っている場所を思い返し、脚を踏み外しそうな恐怖に全身が粟立った。
赤木。と呼ばれた彼は、内心青褪めながらも後ずさりし、声のした方を振り向いた。
「やっぱ赤木さんやぁ。どないしたんですかこんな時間に」
後ろに立っていたのは、グレーのスーツを身にまとった小柄な若い女性だった。
彼より頭一つ分は背が低く、顔つきも童顔のためどこかの就活生のようにしか見えない。声をかけて来た辺り顔見知りなのだろうが、しかし赤木はすぐに彼女が誰なのかを思い出す事が出来なかった。
「あ、もしかしてうちの事覚えてない?」
「いや、ははは」
「先日営業に伺わせて頂いた、アビスコーポレーションの楓です。……ほら、気のいいタヌキ顔がチャームポイント、気軽にカエデちゃんて呼んで下さいって」
あっ。と赤木は声を上げた。頭の中に、確かに目の前の女性と結びつく記憶があった。
「あぁ、それで僕は確か商売上手の古狸には騙されませんよって返した、あの時の」
「いやぁまさか正体を見抜かれてるとは思いませんでしたよぉ」
以前社員旅行に温泉旅行はどうかと勧めてきた、旅行会社の営業の女性だ。生憎と会社には旅行をするほどの余裕も無かったためお断りする事になってしまったが、確かに赤木は彼女の事を覚えていた。
話が上手く、面白く、何より可愛らしい女性だったからだ。仕事を頼めなくて申し訳なかったという気持ちもあった。
「今日は遅番か何かですか?」
「遅番と言うか、ですね」
赤木は一瞬口ごもったが、すぐに隠す事でも無いと吹っ切れて、事実をありのまま話す事に決める。
「会社に居られなくなったんです。世に言うリストラ、クビって奴ですよ。ははは」
楓は面食らったように目を丸くしていたが、すぐに何か思いついたかのように思案気な顔になる。「楓さん?」
「んー。と言う事は、赤木さんは今フリーなんですよね? よければ弊社に来ませんか? うちの会社、男手が足りなくて、赤木さんみたいな真面目な人なら大歓迎なんやけど。
うちもあんまりしょっちゅうこの世界には居られへんし」
今度は赤木が驚く番だった。辞めさせられた翌日に、いわゆるスカウトに遭うなどとは全く考えていなかった。しかも辞めたのでは無く、辞めさせられた自分を取ろうとする人間が居るとは、夢であっても都合が良すぎる。
だから赤木は、考える前にとっさに答えてしまっていた。
「いや、そんな申し訳ないですよ。結局僕は仕事が出来なくて辞めさせられたわけですし、ご迷惑をおかけするだけで」
「そんな事無いですって。本当に、男の人って言うだけでありがたいんですから」
「お言葉はありがたいんですが……。僕も昨日の今日で気持ちの整理も何も付いて無いもので、少し考えてみようと思っていて」
「そう、ですか。まぁ確かに仰る通りですね。うちもちょっと急ぎすぎました」
楓は不満そうではあったが、納得はしてくれたようだった。
しかし赤木がほっとしたのも束の間、楓はすぐに営業用の笑顔に戻ると鞄から小さな紙切れを取り出して赤木の手に強引に握らせた。
「そう言う事なら弊社のリゾートをご利用ください。自然の豊かな温泉旅館です。ゆったり考え事するにはちょうどええと思いますよ」
楓は悪そうな顔になると、赤木の耳元に口を寄せて囁く。
「綺麗どころもいっぱいおりますし。……気に入った子がおったら、手ぇ出してもろてもかまいませんので」
「え、え?」
戸惑っている間に、楓はいつもの爽やかな笑顔に戻っていた。今の一言は、まさに狸にでも騙されたのかと錯覚してしまうようだった。
「ですからぁ、温泉旅館のタダ券です。弊社の事知ってもらうにも一番かなぁと思ったんで」
いや、そんなの受け取れませんよ。と言う赤木の言葉は、しかし電車の到着の音にかき消される。
「ちょ、楓さん?」
「じゃあ、楽しんできてくださいね。色よい返事を期待してますー」
言いたい事だけ言うと、楓は歩き出し始めてしまった。
電車の扉が開き、たくさんの乗客が降りてくる。まるで赤木が追いかけようとしたのを見計らったかのようなタイミングだった。
まごついている間に、楓の姿はホームの人ごみの中に消えていた。そして電車が走り去った後のホームには、もう楓の姿は残っては居なかった。
その日は、帰ってからも何も考えられなかった。翌日は親に仕事の事を連絡するべきかどうかで悩んだあげく、気付いた時には日が暮れていた。その次の日は、それでも動き出さなければと部屋の片づけを始めた。
チケットの事を思い出したのは、片付けの最中での事だった。
草臥れたスーツを処分するか迷っていたところで、ポケットからチケットが出て来たのだった。
チケットを見ながら少し悩んだが、そう長くは迷わなかった。温泉旅館のタダ券など、そう滅多に貰えるものでは無い。赤木は、楓の計らいをありがたく受け入れる事に決めた。
そして決めてからの行動は早かった。すぐに荷物を用意し、翌朝にはチケットを手に電車に乗っていた。
電車は背の高いビル街を抜け、閑静な住宅地を通り過ぎる。トンネルを抜けて山を越え、地方都市を横切って、さらに山の奥へと進んでゆく。
電車を乗り継ぎ、若葉の芽吹く深緑の山々の奥深くへ。田んぼや畑ばかりで住宅のほとんどない田舎の路線を、駅弁を食べながらゆっくりと進んでゆき、ようやく目的の場所へとたどり着いた。
木造の無人駅を降りると、まるでタイムスリップしたかのような光景が広がっていた。
建物はほとんど無かった。駅同様木造の、喫茶店なのか土産屋なのか雑貨屋なのか判断が付かない店が一件ある以外、広々とした視界には田園風景が広がるばかりだった。
電柱も街灯も、黒く塗られた木で出来ていた。建物が少ないせいで、空がやたら広く見えた。
風は冷たく、澄んでいる。都会とはあらゆるものが違っていた。風に流される雲を目で追いながら、時間の流れでさえも違うのかもしれないと赤木は思った。
「赤木常男様ですね」
声をかけられ、赤木はふと我に返る。
道の端に乗用車が止まっていて、着物姿の女性が佇んでいた。
焦げ茶色の長い髪を頭の後ろで結い上げた、紺の着物を身に付けた美しい女性だった。赤木は彼女を一目見るなり、違和感を覚えて目を擦る。彼女は相当の美貌の持ち主だったが、しかしそれ以上にあってはならない物が見えたからだった。
彼女の頭の上に、髪の毛と同じ焦げ茶色の、尖った狐のような耳が、腰のあたりに同じく狐のようなふわふわの尻尾が一本見えていたのだ。
目をしばたたかせ、赤木は今一度着物の女性に目をやる。だが、結局耳と尻尾は見間違いでは無くその場に残ったままだった。
「ええ、僕が赤木ですが」
「良かった。私、本日からお世話をさせていただきます、『妖の湯』の仲居、稲荷の伏美と申します。よろしくお願いいたします」
赤木はポケットからチケットを取り出し、今一度その中身を確認する。
温泉旅館『妖の湯』男性一名様。無期限無料招待チケット。キャッチコピーとして、『神や妖怪さえも心と身体を癒しに訪れる神秘の隠れ湯にて、あなたも人生の疲れを癒してゆきませんか。』等と書かれている。
『旅館自慢の美女達がお世話をいたします。』等と書いてある辺り多少いかがわしさは無い事は無い物の、普通の温泉だと思っていたのだが。
そう言う、コスプレ的なサービスもしているという事だろうか。
まぁ、休めるならそれでいいさ。赤木は気を取り直して伏美と名乗った彼女に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「では、お荷物を預かりますね」
赤木は荷物を伏美に任せ、乗用車の後部座席へ回る。
荷物を積み終えた伏美が赤木の隣へ座ると、乗用車はゆっくりと、温泉旅館に向かって走り出した。
「今日は遠いところからはるばる、ありがとうございます。お疲れでしょう、旅館に着いたらゆっくりして下さいね」
伏美の声は大人び、落ち着いていて、聞いているだけでも気持ちが癒されるようだった。
「ありがとうございます。乗り物に乗っているだけでしたが、やはり疲れますね」
「ふふ。無料のマッサージのサービスもありますので、良ければご利用ください」
「それなら、ぜひ」
柔和に微笑む伏美と視線がぶつかり、赤木の身体に電流が走る。
切れ長の目、すっきりとした目鼻立ち、透き通るような雪のように白い肌、そこに浮かぶ鮮やかな紅い唇。
都会でも滅多にお目に掛かれないような、とんでもない美人だった。
こんな美貌と隣り合ったら、普段なら委縮して何も出来なくなってしまうところだった。しかし彼女自身の優しげな表情と柔らかな雰囲気そうさせるのか、不思議と赤木は平静としたまま彼女の隣に座っている事が出来た。
「結構お客さんは多いんですか?」
「実を言うと、あまり……。今のお客様も、赤木様を除くとご夫婦が二組程度で」
「今は梅雨前ですしね。でも夏や冬には多いんでしょう?」
伏美は困ったように笑い、続ける。
「私共も、もっとたくさんのお客様に楽しんで頂きたいとは思っているのですが、なかなか難しくて……。
ですが、おもてなしは一級だと自負しております。今日は精一杯おもてなしさせていただきますので、どうぞ楽しんでくださいね」
居住まいを正し、軽く頭を下げる伏美。衣擦れの音と共に、わずかに香のようないい匂いがして、赤木はどきりとする。
「た、楽しみにしています」
どもりながらも何とか声を出し、赤木は意識を逸らすべく視線を前に向ける。
乗用車は、ちょうど山道に入ろうとしていた。
山道を登る事十数分。
生い茂る森の木々が急に開けたかと思うと、視界が大きく広がり、まだ建てたばかりだと思しき木造の大きな建物が見えてきた。
「あれが妖の湯です」
夕日に染まっているからか、温泉宿が黄金色に光って見える。
建物だけでは無かった。周囲の山々の稜線、木々の陰影、山と山の谷間や下界の小さな村落まで、全てが黄金色に染まっていた。
山道からの景色がこれなら、あの温泉宿からはどれほどの光景が見えるのだろうか。
赤木は自分が高揚している事に気が付き、意外な気持ちになる。こんな気持ちはいつ以来だろうかと、そして、まだ自分はこんな気持ちになれたのだ、と。
受付で簡単な手続きを済ませると、赤木はすぐに部屋へと案内された。
荷物を持ってくれる伏美の後に続き、旅館の中を歩く。玄関口も廊下も、檜の上品な匂いが香っていて、ただそこに佇んでいるだけでも気持ちが落ち着いて来るようだった。
渡り廊下を通る際には、思わず足を止めて感嘆の声を上げてしまった。
渡り廊下はちょうど山の斜面、下界を見下ろせる場所を通っていて、そこからは夕日に色づく山々などを一望する事が出来た。
まだ虫の声の時期では無かったが、遠くの方から鳥や蛙の鳴き声が反響してくる。
静かで、そして空の上に居るような圧倒的な光景だった。
「あ、すみません」
先導していた伏美がずっと待っている事に気が付き、赤木は慌てて追いすがる。
伏美は、しかし上品に笑うだけだった。
「気に入って頂けましたか?」
「ええ、とても素晴らしいです。まるで楽園に居るみたいですよ」
「楽園、ですか。ふふ、でもまだまだこれからですよ。これから、もっともっといい気持になって頂きますからね」
赤木の目の前で、伏美の尻尾が左右に揺れる。表情さえ柔和な笑顔を保っていたものの、この場所の事を褒められて気分が良かったのかもしれない。
と、そこまで類推してから、赤木はふと疑問に思う。
今の尻尾の動きは作り物には到底できないような自然な動きだった。コスプレだと思っていたが、いやしかし、まさか本物の狐娘が居るわけが……。
「着きました。ここが赤木様のお部屋です」
「……凄い」
部屋を見て、赤木は再度圧倒される。
脚を一歩踏み入れるなり、新鮮ない草の匂いに包まれた。一人用なのでそこまで広くは無い物の、和室は手入れが行き届いており、立派な床の間まで付いている。しっかりした木造のベランダも付いていて、しかもプライベートでも露天風呂を楽しめるようにか、ベランダには檜風呂まで付いていた。
「僕なんかが、こんなところに泊まってもいいんでしょうか……」
「滅多に来ないお客様です。私共としても、この宿の事を好きになって頂きたいのです。それに、楓さんからも最上級のもてなしをするようにと言われておりますし。粗相があっては私共が怒られてしまいます」
いよいよ楓の勧誘を断れなくなってしまう。内心で苦笑いを浮かべながらも、赤木の身体は窓側からの光景を見たくて動いてしまっていた。
窓の外には、やはり空の上から地上を見下ろしているかのような光景が広がっていた。
先ほどから赤みを増した夕日に照らされた山々は、今は朱く、まるで秋の紅葉の時期と見紛う程に美しく染まっていた。
「窓からの風景は、当宿自慢の一つです」
「こりゃあ、本当に凄いですよ」
「でも、自慢はそれだけではありません。お食事や温泉も良いものですよ。それと、ですね、一番の自慢は……よ、よと、ぎ、で……」
急に口ごもる伏美に違和感を覚え、赤木は彼女を振り返る。
伏美は尻尾をせわしなく動かしながら、もじもじと身を縮めていた。夕日のせいなのかもしれなかったが、その頬も赤く見える。
「伏美さん?」
「あの、その。お、お食事の用意はいかがいたしましょうか。先にお風呂に入られますか? そ、それとも、あの、私は、すぐにでも、お相手を……」
赤木は顎に手を当て少し考える。
腹は減っていたが、しかし連続での移動の為身体も疲れてしまっていた。風呂も悪くは無かったが、どちらも少し休んでからにしたかった。
「一時間後くらいに夕食をお願いします。風呂はそのあとにします」
「あ……。わ、分かりました。ご用意出来次第持って参りますね」
その時の伏美の表情は何と言ったらいいのか。安堵しているような、少し残念がるような、いわく言い難い表情をしていた。
伏美は丁寧に頭を下げると、音も立てずに襖を閉めて出ていった。
旅路は長かったが、とりあえず無事にたどり着いた。仲居さんも良い人そうだ。安堵の吐息を吐き出すと、音は赤木が思っていた以上に和室に響いた。
赤木は荷物を確認し、特に異常がない事を確認する。そして確認が終わる頃には、自分がいつの間にか渋面になっている事に気が付いた。
静かな場所で一人になると、頭の中に余計な考えが浮かび上がりそうになる。赤木は慌てて頭を振って思考を逸らした。
今は全てを忘れて、目の前の事を楽しもう。考えるのはそのあとでいい。
赤木はベランダに出て、安楽椅子に腰かける。遠くで鳥が飛んでいた。風が吹くと、木々の囁きがわずかに耳をくすぐった。
人の声、車の走る音、等々、人の作り出すような音は何一つ聞こえてこない。
空には雲一つなく、夕日が沈みかけた側は紅く燃え上り、その反対側には既に星が煌めき始めていた。
赤木はぼうっと空を見上げていた。そして気が付いた時には目を瞑っていて、久方ぶりの安らかな眠りへと落ちてしまっていた。
重要な書類が足りなかった。
期日は明日。明日の朝までに書類を作り、各部署の長に判を貰っておかなければならなかった。
必死で書類に取り組んだ。しかし書類を作成する間にも新たな仕事が舞い込み、その度トラブルが起こった。皆口々に注文を付け、文句を言って来るが、もはや気にしている余裕も無い。
結局、書類が出来たのは定時直前だった。
慌てて各部署に判を貰いに回った。判はもらえたが、貰えたものはそれだけでは無かった。
どうしてもっと早く準備をしておかなかったのか。これでは資料を読み込めないではないか。どれだけ重要な案件なのか分かっているのか。仕事を舐めているのではないのか。判子と共に、苛立たしげな小言や注意を山ほど浴びた。
それから残っている仕事を片付け、気が付いた時には十一時を回っていた。
ただ寝る為だけに帰り、そして重い身体を引きずって翌日も仕事場へ。
いつもは静かな仕事場が、しかしその日は妙なざわめきに包まれていた。
嫌な予感を感じながらも、おはようございますと声をかける。
職場中の目がこちらを向く。そのどれもが不審げで、不安げで、全身の毛が逆立つような嫌な感触が身体の中を走り抜ける。
そして上司が堅い顔つきでこちらに歩み寄って来て……。
「……様、赤木様。大丈夫ですか?」
目を開くと、女神のような女性の顔が目の前にあった。残念だったのは、その表情が笑顔ではなく少し不安げなそれだったという事だ。
「えっと、ここは」
「妖の湯ですよ。私は担当の伏美です。分かりますか?」
頬に、額にひんやりとした感触を押し当てられる。濡らした手拭いだった。伏美が汗を拭ってくれているらしい。
「大丈夫です」
赤木は椅子から立ち上がり頭を振る。全身に嫌な汗をかいていた。
既に頭上には夜の帳が降りていた。どうやら眠ってしまっていたらしい。
都会と違い山の中にはほとんど灯りらしい灯りは無く、下界の全ては闇の中に閉じ込められているようだ。
しかしそれと対照的に、空は宝石を散りばめたかのように煌めく星々でいっぱいだった。
爽やかな風が頬を撫でる。一度深呼吸すると、気分も少しは落ち着いてきた。
「うなされていましたよ? 本当に、大丈夫ですか?」
「もう平気です。ちょっと嫌な夢を、見ただけで」
腕に違和感があった。見れば、伏美が不安そうな表情のまま赤木に腕を絡めていた。
着物越しに温かくて柔らかな感触が伝わってくる。我を忘れる程気にしてくれていたのか、腕だけでなくもっと柔らかな部分も押し当てられていた。
視線がぶつかると、伏美も気が付いたのか、はっと息を飲んで腕を離す。
「し、失礼いたしました」
「いえ、こちらこそ」
「お、お食事の準備が出来ましたので、こちらへ」
気が動転しているのか、尻尾がぴんと張っているのがちょっと可愛らしかった。
赤木は小さく笑いながら、その尻尾の先を追いかける。身体の嫌な感じは、いつの間にかどこかへ行っていた。
和室に戻ると、既に夕食の配膳が済んでいた。
赤木はテーブルに着き、そして改めて所狭しと並べられた料理の数々に圧倒された。
霜降りの肉が乗った小さな土鍋、各種山菜の天ぷら、刺身に焼き魚に魚の煮つけ、山芋の煮っ転がし、その他にも色々とたくさんの小皿が並んでいる。
「この土地の銘酒も用意いたしましたが、赤木様はお酒は大丈夫ですか?」
「あ、はい。いただきます」
お猪口を手に取ると、伏美が隣に座って徳利から酒を注いでくれた。
その間、短い間ではあったが、赤木は何となく伏美の肢体に目をやってしまう。
改めて間近で見てみると、和装には洋服には無い色香があった。袖や身のこなしの端々にまで気品を感じさせつつ、女性らしさは更に際立っているようであった。襟元から見える白いうなじも、控えめながらも匂い立つような色気を感じる。
しかし和装としてみると一点残念な部分もあった。彼女は、どうやら着物を着るには少し胸が大きすぎるようなのだ。その豊かな膨らみは着物を押し上げ、ともすれば胸元が少しだらしなく見えなくも無い。
とはいえ、男としては残念などころか、むしろ……。
「赤木様?」
「え、あ、いただきます」
赤木は慌ててお猪口の中身を口に含む。その途端、口の中にほのかな甘みと、フルーティーで豊かな香りが広がった。
日本酒は飲んだことが無いわけでは無かった。けれどこんなに香り高い酒を飲んだのは初めてだった。
いつの間にか口の中から酒が消えていた。味を確かめる為もう一口と飲んでいるうちに、お猪口の中身も空になる。
「お味の方はいかがですか?」
すかさず伏美が酒を注いでくれる。それをまたすぐに乾かしつつ、赤木は大きく頷いて見せた。
「美味しいです。こんな酒飲んだことが無い」
「気に入って頂けて何よりです。このお酒は、酒好きの鬼達でさえ唸らせる程のお酒なんですよ」
「オニ?」
「えぇ。鬼です。さあさあ、お酒だけでなくお料理も召し上がってください。この山で採れたばかりの、新鮮なものを使った料理です」
赤木は言われるまま、目の前にあった煮物の小皿に箸を伸ばす。山芋、筍、人参。火は通り過ぎる事も無く、筋っぽくも無く、歯ごたえも最適だった。味付けも濃すぎず、舌に優しい味で、どの素材にもしっかり味が沁みていた。
焼き魚も脂が十分乗っていて、塩加減も適度で美味しく、煮魚も甘すぎずしょうがの味が効いていて、ご飯が止まらなくなった。
身体が料理を求めていた。一口食べるたび、身体が喜ぶのが分かる程だった。
こんなに美味い飯はいつ振りだろうか。食事をしているという感覚ですら、久方ぶりな気がした。特に、誰かと一緒にする食事などと言うものは、本当に久しぶりだった。
「お肉も焼きはじめますね。遠方から取り寄せた魔界豚と言う豚です。この豚は、この国では他ではなかなか味わえませんよ」
伏美はにこにこと機嫌良さそうに笑っていたが、赤木はそんな彼女の様子にも気が付かず、夢中になって料理を掻き込み続けた。
「うふふ。そんなに急がれなくても料理は逃げませんよ? ……赤木様? ど、どうされたんですか」
驚いた顔の伏美に見上げられ、赤木はようやく自分の状況に気が付いた。
頬が濡れて、冷たくなっていた。鼻も詰まって、今にも鼻水が垂れてしまいそうだった。
赤木は慌ててティッシュに手を伸ばし、涙を拭いて鼻をかむ。
「し、失礼」
「ごめんなさい。お口に合いませんでしたか? 今から作り直し……」
立ち上がろうとする伏美の袖を、赤木は掴んで止める。
「違うんです。あまりに美味しくて、こんな美味しい料理や食事は久しぶりで、自分でも気が付かない間に……。
何だか安心する味で、こんな表現をすると板前の方に失礼かもしれませんが、実家の母を思い出してしまって」
顔を清め終え、表情をつくろって伏美を見上げると、彼女はなぜだか頬を染めてはにかむような表情で赤木を見下ろしていた。
彼女は少しためらったようではあったが、しかし意を決したかのように腰を下ろすと、赤木の手を取った。
「実を言うと、お料理を作ったのは私なんです。この宿では、料理はお客様を担当する仲居が作る事になっているもので」
「あ……。す、すみません。僕は、そう言うつもりでは無くて、ただ美味しくて、安心して、嬉しくなってしまった物で」
「いいえ。私も嬉しいです。ちょっとびっくりしてしまいましたが、お母様の味を思い出されるなんて、最高級の褒め言葉だと思います」
伏美の手は柔らかく、温かかった。
考えてみれば、勤め始めてから今まで食事らしい食事もろくにしてこなかった。
朝は無理して携帯食を詰め込み、昼は会社のデスクでプレッシャーを浴びながら味のしないコンビニ弁当を掻き込む。夜は夜で料理も面倒臭くなってインスタントで済ませてしまう。
気の置けない会話をしながらの食事はもちろん、こんな風に労ってもらいながらの食事など、本当に久しぶりだ。
「まだまだお代わりもありますよ。お腹いっぱい食べてくださいね」
心遣いが嬉しかった。
赤木は再び溢れそうになる涙もろとも、料理とご飯を掻き込んでいった。
「……でも、お仕事が無くなって逆に良かったのかもしれませんね。仕事が続いていてもお身体を壊されたり、大きな病気をしてしまっては元も子もありませんし」
「そうかもしれません。こうしてここに来ることも出来たわけですし」
料理を食べて空腹が満たされると、今度は酒の肴に話の花が咲いた。
赤木は、自分では自分は話がそこまで上手い方では無いと思っていた。けれども伏美の前では不思議と言葉が途切れず、途切れたとしてもその沈黙は不快には感じられなかった。
「私も赤木様に来ていただけて、今までの苦労が報われたような気持ちです」
そう語る伏美の手の中にも、小さなお猪口が握られている。
赤木が一緒に飲んでくれるように頼んだのだ。最初は断られたが、独りで飲むのもつまらないと言うと快く酒を共にしてくれた。
お互い何杯か進んでいて、今は伏美の頬もほんのり赤く染まっていた。
「頑張って接客を覚えて、料理も勉強して、でもなかなかお客様は来てくれなくて。けれどこんなに素敵なお客様を迎える事が出来た」
「本当に天国に居るみたいです。景色も綺麗だし、料理も上手いし、伏美さんみたいな美人が一緒に酒を飲んでくれる」
「そそ、そんなこと、無いですよ」
そう言いつつも真っ赤になって耳をピコピコ動かし、尻尾を揺らしているところを見ると、まんざらでもないようだった。
赤木は笑い、そして大きく息を吐く。
「幸せすぎてこの後が怖いくらいです」
「赤木様?」
小さく独り言のように言ったつもりだったのだが、しかし伏美の耳には届いてしまっていたようだった。
「いえ、やっぱりこの先の仕事は無いわけですからね」
「でしたら、楓さんの話を受けられたら」
「流石に、そこまで迷惑をかけるわけにも……」
酒の水面に浮かぶ自分の顔は、酔って赤らみつつも完全に影を払拭出来ているというわけでも無かった。当たり前と言えば当たり前なのだが、切り替えをこなしきれない自分が少し情けなくもあった。そして、だからこそこんな状況に陥ってしまったのではないか、とも思う。
「……赤木様、あのですね」
顔を上げると、これまでになく真剣な伏美の顔がすぐそこにあった。
「当グループはどこの企業もそうなのですが、この旅館でも、男手は非常に稀少なのです。温泉旅館ではありますが、お客様の数も少ないので仕事もそこまで大変と言うわけではありません。それに仕事をしていなくても、ここでは食べ物にも困りませんし。
……だから、あの、そのですね」
そこまで言いながらも、しかし伏美はその先までは口に出来ないようだった。
「すみません。忘れてください」
「伏美さんが謝る事はありませんよ。こちらこそ変な話をしてしまってすみませんでした」
それでも伏美は、心苦しそうに赤木の事を見上げる。
赤木は自分の言葉を反省しつつも、ここまで気を使ってくれる伏美の気持ちが嬉しくてたまらなかった。そしてだからこそ、こんな顔をさせてしまっている事が一層申し訳なかった。
空気を換えよう。赤木は思い立ち、立ち上がる。
「そろそろお風呂に入ろうと思います。確か露天風呂があるんでしたよね」
「あ、はい。天然の温泉を引いて来たお風呂があります。一階の、受付の脇の廊下を奥に入ったところです。すぐに準備しますね」
伏美もまた立ち上がると、少し慌てたように大きなお盆に料理を下げてゆく。そして料理を下げ終えるなり、赤木が声をかける間もなく部屋を出ていってしまった。
「準備って、何かあるのか?」
赤木は首をかしげる。押入れの中に浴衣とタオル類が用意されている事は既に確認済みだった。これ以上、一体何の準備が必要なのだろうか。
見当は付かなかったが、しかし着替えとタオルさえ持って行けば問題は無いだろう。
赤木はそう考え、必要なものをもって部屋を出た。
疑問に思ったのは、温泉の入り口に男女の別が無かった事だった。
戸惑い周囲を探したが、やはり別れている入り口は存在していなかった。それでも探し歩くうちに館内地図で発見したのは、露天風呂は混浴だという事実だった。
浴場の暖簾の前で、赤木はしばしの間立ち尽くした。
「……だ、大丈夫だろう。客は少ないって言ってたし、今も夫婦が二組泊まってるって言ってただけだったし」
覚悟を決め、暖簾をくぐって浴場へと足を踏み入れる。
長考を要した割には、暖簾の向こうには無人の脱衣場が広がっていただけだった。予想通りではあったが、赤木は安堵して大きく息を吐いた。
たくさんの棚が並んでいて、衣服を入れるためのものだろうザルが置かれていた。幸運にも、使用されていると思しき棚は見当たらなかった。
端の方の棚を選び、荷物を入れる。すると、
「お待ちしておりました。赤木様」
聞き覚えのある声。さっきまで話していた声が聞こえ、赤木は振り向いた。
「伏美さ、ん!?」
赤木は彼女の姿を目に止め、驚きで言葉を失う。伏美の声がしていたのだから、そこに彼女が居るのは当たり前だった。赤木が驚いたのはそこでは無く、彼女の格好だった。
彼女は先ほどまで身に付けていた着物を脱いでおり、今は薄い白襦袢一枚と言う出で立ちだった。
女性らしい丸みを帯びた体つきが惜しげもなく晒されており、着物で押さえつけられていたのか、胸元も先ほどよりさらに豊かに見える。その先端の膨らみですら、はっきり確認できる程だ。
胸だけでなく腰元も妖艶な曲線美を描いており、襦袢も短く太もも辺りまでしかないため、白い素足が目に眩しい程だった。
「お風呂、入られるんですよね」
「ア、ハ、ハイ。……で、でも、その格好は?」
「お背中をお流ししようと……。ご迷惑、でしょうか」
少しの恥じらいと、失望が入り混じるその表情を見せられては、男としては答えは決まっていた。
「よ、よろしくお願いします」
かくして裸になった赤木は、襦袢姿の伏美に導かれて洗い場へとやってきた。
露天風呂は赤木が考えていたよりも遥かに大きかった。岩で縁どられた楕円形をしており、真ん中には大きな岩が置かれていた。湯気がもうもうと立ちこめて向こう側は見えないが、それでも二十人は同時に入れそうな広さがあった。
赤木が通されたのは、その脇にある洗い場だ。板の間などが整備されていて、シャワーは無かったが掛け流しの湯が流れていた。
「では、ここにお座りください」
指示されるまま、赤木は小さな風呂椅子へと腰かける。
桶に水を汲む音が聞こえ、何かがかきまぜられるような水音が聞こえ始める。どうやら伏美が準備をし始めたようだ。
「あの、伏美さん。これもこの旅館のサービスなんですか? そう言う店でも無いのに、ここまでしていただくのは」
「お気になさらず、身を楽にしていてください。心も体も気持ち良くなって頂くのが、この宿の、私共の目的ですので」
誰にでもやっているのだろうか。そう思うとなぜか物悲しい気持ちになってしまう赤木ではあったが、背中に伏美の手があてがわれた途端に、そんな後ろ向きな感情はどこかに吹き飛んでしまう。
「背中から、洗いますね」
泡を纏ったしっとりとした伏美の手が、赤木の背中を這い回る。首元を擦り、肩を優しく揉みほぐし、背骨に沿って下りながら、背筋を解きほぐしてゆく。
「肩、凝ってますね。背中もこんなに……」
「仕事柄、デスクワークが多かったので」
「しっかりとほぐして差し上げますね」
伏美の柔らかな手を押し付けられると、それだけで心地が良くて余計な力が抜けていくようだった。
ぬるぬると滑りながら、伏美の手が首筋から腰元までをゆっくりと往復してゆく。
「痛かったり、痒かったりはありませんか」
「……いえ、凄く気持ちいいです」
「じゃあ、今度は前の方を洗いますね」
前の方?
と疑問に思った時には、背中に二つの柔らかな感触が押し付けられていた。
熱を帯びた息遣いが首元をくすぐる。伏美の腕が腋の下から滑り込み、赤木の胸を優しく抱き締める。
「ふ、伏美さん?」
「い、今から前の方と、腕を洗います。……じっとしていて下さいね」
嫋やかな手が、腕が、赤木の腹や胸をまさぐり、泡を塗りたくってゆく。泡のこそばゆさと、そして何よりも伏美の体温と肌の感触が言いようも無く心地よくて、赤木は思わず小さく声を漏らしてしまう。
「う、あぁ」
「赤木様……」
伏美が動くたびに乳房が揺れて、赤木の背中に強く擦りつけられる。背中越しに伏美の鼓動が重なる。赤木には、もはやどこからどこまでが自分の背中なのか分からなかった。襦袢越しではあったが、体温と鼓動が溶けあい、まるで伏美と一つになっているような気持ちがした。
それと同時に、赤木は忘れていた感覚を思い出そうとしていた。身体の奥底に眠る獣のような衝動。長い間忘れられていたそれが、伏美の手によって目を覚まされようとしていた。
伏美は赤木の腋の下から、抱え上げるように腕を清めてゆく。
「これで上半身はおしまいですね。次は下の方を綺麗に、あっ……」
ほっとしたような声が聞こえたのも束の間、伏美は急に驚いたように身を震わせ、息をのんだ。
ぼうっとしていた赤木も何かが起こったのだと気が付き、自らの身体と、そして彼女の指先を見下ろす。
股間を隠すために置いておいたタオルが、いつの間にかめくれあがっていた。その下から顔を出していたのは、他でも無い自分の愚息だった。
こんなに硬く、張り裂けんばかりに勃起しているのはいつ以来だろう。朝立ちでさえも、最近ではほとんど覚えが無い程だった。
赤木が自分の失態を自覚したのは、呆けた事を考えた後の事だった。
そしてその時には既に、恐る恐る伸ばされた伏美の指が赤木の愚直を包み込んでいた。
「伏美、さん。違うんだ、これは」
口ではそう言いつつも、赤木の分身は女の手に触れられた事を喜ぶようにびくんと大きく跳ねていた。
「赤木様。私に、欲情して下さったのですか?」
「いや、そう言うわけでは。これはその、男としての、生理現象と言うか」
顔が熱くなるのが分かる。温泉に居るせいでは無く、今日会ったばかりの女性に局部を、しかも性的に興奮している状態のそれを手に取られている恥ずかしさ故に。
「私では無くても、こうなるのですね……」
なぜか残念そうな口ぶりに、赤木は不思議に思いながらもとっさに答えてしまう。
「いえ。伏美さんの手、と言うか、身体と言うか、気持ち良かったから、です」
「本当、ですか?」
「……すみません変な事言って」
背中越しに、鼓動が早まったような気がした。
耳元に、微かな笑い声が聞こえた。
「すぐに鎮めて、楽にして差し上げます。でもその前に」
背中から伏美の感触が消える。少し残念に思ったが、今度は彼女は赤木の目の前に回り、身体を使って赤木の脚を洗いにかかる。
濡れた襦袢越しに、伏美のほんのり赤く色づいた白い肌が透けて見えた。最初から身体の線がはっきりと見えていた襦袢姿だったが、今となっては濡れて肌に張り付いていて、ほとんど裸で居るのも同然だった。
伏美の胸元、白い豊かな二つの山の上に咲く桃色の花も、しっかり色づいているのが見てとれた。
伏美が身体を動かし、肌を押し付けるたび、白い肌が淫らに光沢を放ち、ぬめり蠢く。
下半身を洗い終える頃には、赤木のそれは静まるどころか、さらに猛りを増して獣のように涎を垂らしている始末だった。
伏美は桶に湯を汲んでくると、丁寧に赤木の身体に残る泡を落としていった。
そして泡を流し終えると、赤木の正面に回って跪き、上目づかいで見上げてきた。
「赤木様……。どうか私に、赤木様を慰めさせて下さいませ」
「けど、伏美さん。ただの仲居さんにそんな事まで……」
「一生懸命奉仕させていただきます。きっとご満足して頂けると思います。……それとも、私などでは赤木様のお相手としては不足でしょうか……」
伏美は目を逸らす事も無く、まっすぐ潤んだ瞳で赤木を見つめる。その姿は娼婦のように妖艶でありながらも、信仰に殉じる巫女のような純真さを同時に感じさせた。
気付いた時には、赤木は伏美の頬を撫でながら、小さく頷いて答えてしまっていた。
「あなたみたいな綺麗な人、僕には勿体ないくらいですが、伏美さんさえ良ければ、よろしくお願いします」
伏美は欲情に蕩けたような、祈りが報われたような、恍惚とした笑顔を浮かべる。
そして恐る恐ると言った様子で赤木のそれを優しく手に取り、顔を近づけて頬ずりし始める。
「これが殿方の……赤木様の一物。とても熱くて、鉄のように硬いです」
赤木は何も言えなかった。自分の物に寄り添い、うっとりしている伏美の姿を見ているだけで、喉がからからに乾いて仕方なかった。
伏美は間近からじっくりと赤木自身を観賞する。きゅうと締まった睾丸から、血管の浮き出た竿の部分、それからまだ皮に覆われている亀頭のくびれまで、嘗め回すように眺めていく。
「そんなに立派なものじゃない。皮も被ってるし……。あ、でも、毎日綺麗にはしているから」
「形や大きさなど関係ありません。皮があるのは、それだけ大切で重要な場所だからです。……あまりさらけ出していても感度が下がると聞きますし、それに」
伏美はちらり、と赤木に流し目を送る。
「赤木様には、より深く私の身体を感じていただきたいですから。精一杯、気持ち良くして差し上げますね」
伏美は目を伏せ、赤木自身の、その先端に口づけする。
温かく湿った、これ以上ない程に柔らかな感触が押し当てられる。その感触に穴が開いて、ねっとりとしたとろけるような感覚が鈴口をくすぐる。
舌だった。伏美の舌が、労わる様に赤木の亀頭を舐め上げ始めていた。
伏美は更に、唇を使って赤木の皮を剥きながら、裸の亀頭を口の中に包み込んでしまう。
「ぅああ」
伏美の口の中の心地よさは赤木が考えていた以上のものだった。人肌の温かさは興奮した肌にはちょうど良く、また潤いに満ちた口内の柔らかさは、触れているところがとろけてしまうと錯覚してしまう程だった。
「んんん」
亀頭に留まらず、伏美はゆっくりと赤木自身を飲み込み続ける。優しく唇を押し当てながら竿を下り、根元まで口の中へと収めてしまう。
そして一度飲み込むと、今度は同様に唇をわずかにすぼめながら頭を引いてゆく。
唾液まみれでてらてらと光る赤木の一物が、伏美の唇から再び姿を現してゆく。
亀頭が顔を出し掛けたところで再び自身が飲み込まれてゆき、あとは同じ事の繰り返しだった。
刺激は、決して強く無かった。けれども回数が増えるたびに、赤木は着実に追いつめられていった。
伏美の口は吸い付き、搾り上げるような事はしてこなかった。ただ彼女は唇で赤木を包み込み、ゆったりとした愛撫を繰り返していただけだった。けれどもその事が逆に赤木自身の本能を刺激し、ただ単純に刺激を与える以上に射精感を昂らせていた。
無論、舌での愛撫も続いていた。時折射精を優しく促すかのように、舌が裏筋や亀頭をくすぐってくるのだ。
伏美の愛撫は、性的な快楽を伴いながらも、まるでぬるま湯に浸かっているような、身も心も安心してしまうような心地よさがあった。
赤木が全てを忘れ、伏美に身も心も委ねようとしかけた、その時だった。
『星空が見える温泉なんだって。楽しみね、あなた』
『そうだな。たまには温泉に浸かりながら外でするのも悪く無い』
離れたところから引き戸が開く音が響き、それと共に二人分の声が侵入してきた。
赤木は焦った。全身に鳥肌が立ち、寒気に似た感覚が駆け抜ける。
湯気が立ち込めて居るとは言え、目を凝らせば自分が仲居に何をさせているのかは容易に見えてしまうだろう。
幸い伏美は音もさほど立てず、大人しく口淫をしてくれているので音でばれるという事は無いだろうが……。
こんな公衆の場で、口で慰められているところを見られでもしたら……。
しかし、そう考えれば考える程、赤木の一物はなぜだか大人しくなるどころか、むしろ猛々しさを増すかのようにさらに硬く強くそそり立ってしまう。
伏美も伏美で、なんのお構いも無しに愛撫を続けるだけだった。赤木は独り悶々とうろたえながらも、しかし確実に限界まで追い詰められていった。そして……。
「伏美、さんっ」
脳裏がちらつき、赤木は一瞬伏美の頭を掴んで押しのけかける。だが、濡れた瞳で愛撫をし続ける健気な姿を見させられると無下にする事も出来なかった。
「もう、出そうで」
「らひてくらはい。このまま、わらひのくひへ」
咥えたままで、伏美はそんな事を言う。そしてそれ以降は、再び赤木の物へと夢中になってしまう。
今までの清楚で大人びたイメージからは遥かに距離を置いた、娼婦もかくやと言うようなその淫蕩な有り様に、赤木は眩暈がするようだった。
赤木は伏美の頭を優しく掴み、自分から引き離そうとする。
「らめぇ……」
涙目で首を振る姿がいじらしすぎた。それを見た瞬間、赤木の中で何かが振り切れた。
「くっ。出……」
背筋に強烈な感覚が走り抜ける。下半身が一度強くどくんと脈打ち、尿道を押し広げながら大量の精液が一気に駆け上がり、伏美の喉奥へとぶちまけられる。
「んっ。んんんーっ」
とんでもない事をしてしまったと思いつつも、赤木はその背徳的な快楽に身を任せる事しか出来なかった。
後悔はしていなかった。誰かに見咎められたとしても、この快楽の前では些細な事に過ぎなかった。
伏美は音も立てず、しかし一滴もこぼさず、丁寧に唇と舌を使って精液を受け止める。そして射精が終わると、尿道に残った精液までも吸い上げるように唇をすぼめる。
ちゅっ。と音を立てて唇が離れ、伏美はゆっくりと顔を上げた。
頬をわずかに染めながら赤木に向かってほほ笑み、口を開けて中の物を見せつける。
口いっぱいに白濁液が溜まっていた。伏美は舌を動かして精液の粘度を確かめたり、舌に絡み付けて見せた。わざわざ赤木によく見えるようにして。
自分の出した物を、子種の汁を、まるで飴玉でも舐めるように舌で転がしている。楽しんで、喜んでいる。
赤木はただ生唾を飲み込みながら、見入る事しか出来なかった。
やがて伏美は口を閉じると、喉を鳴らして中の物を飲み干した。ご丁寧に、綺麗になった口の中までしっかり赤木に開けて見せた。
「赤木様。気持ち良くなっていただけましたか?」
「ああ、とても。こんなの、初めてで我慢できなかった。……済まない、伏美さんの口を汚してしまった……」
伏美は艶然と微笑み、しなを作って見せる。
「そんな事はありません。とっても美味しい精液でしたよ。雄の匂いが凝縮していて、味も濃くて、ねばつきもたまりませんでした」
「……え?」
赤木は自分の耳を疑う。知識しかないが、精液の味は大体苦くて生臭いと聞いている。にもかかわらず、まるで高級食材でも味わったかのような言い方ではないか。
「身体、綺麗になりましたね。どうぞ温泉にお入り下さい」
「あ、ああ」
伏美はまるで何事も無かったかのように、普段通りの調子で柔らかく告げる。
居住まいを正し、伏美は立ち上がる。赤木に向かって深く一礼し、そして彼に背を向ける。
行ってしまう。このままでは彼女が立ち去ってしまう。もう少し彼女の温もりを感じていたい。彼女の匂いをかいでいたい。
「伏美さん。良かったら、その、一緒に入りませんか」
まともに見ている事も出来ず、赤木はただそれだけぽつりとつぶやいた。
返事は、なかなか戻って来なかった。やはりダメか。赤木が半ば諦めつつ見上げると。
「……よ、よろしいんですか?」
伏美は目を輝かせ、尻尾を大きく膨らませながら、命令を待つ忠犬のように赤木の事を待っていた。
「独りで入るのも寂しいし、伏美さんさえ良ければ」
「嬉しいです……。喜んでご一緒させていただきます」
赤木は立ち上がると、少し照れながらも伏美の手を取る。そして二人は浴場の奥、露天風呂の温泉へと向かった。
温泉の湯は少し桃色がかっており、温泉質か何かなのか、わずかに甘い香りがしていた。
伏美に先んじ、赤木は湯船に身を沈める。
温泉は、赤木が考えていたほどは熱くは無かった。熱い湯が好きな者からすればぬるいと感じる程かもしれない。けれども身体が温まる程度には十分であり、刺激も少なく長時間入っているのにはちょうどいい温度だった。
温泉の水音の間に湿った衣擦れの音が小さく聞こえ、それに続いて、ちゃぽん、と湯に身を沈める音が聞こえて来る。
自分で誘っておきながら、赤木は音のする方を直視できない。しかし視線を送らないまでも、襦袢を脱ぎ捨て白い肌を晒す伏美の姿は、脳内でしっかりと再現されていた。
「ふふ。見て下さっても構いませんのに」
「いや、でも……」
湯が動き、しなやかな伏美の腕が赤木の腕に絡み付く。身体を押し当てるように、しなだれかかるように隣に並び、腕だけでなく手も、指も絡み合わせる。
赤木の心臓が、一度大きく跳ねる。しかし緊張はそう長くは続かなかった。温泉の温かさ故か、それとも伏美だからなのか、身体の強張りはすぐに湯の中に溶けてゆき、赤木はすぐに心地よささえ感じ始めていた。
まるで、湯を介して二人の身体が溶けあっているようだった。
「赤木様……。星が、綺麗ですね」
見上げれば満点の星空が広がっていた。
山にはこの宿以外に光源は無く、宿の明かりも星空を意識してか抑えられているおかげで、まさに宝石箱をひっくり返したような煌めきが広がっていた。
「凄い」
「独りで見上げていると、たまにこの凄さに圧倒される時があります。自分がちっぽけな存在で、孤独なのだという事を実感させられて。でも」
伏美は、赤木の肩に頭を預けながら続ける。
「誰かと居る事がこんなに温かいなんて。二人で見る夜空がこんなに素敵だなんて……」
赤木は繋いだ手を、さらにしっかりと握りしめる。
それからしばらく、二人は肩を並べて星空を見上げ続けた。
言葉を交わし合う事も無く、ただ静かに。
今の二人の間に言葉など無粋だった。少なくとも赤木は、沈黙の中でも確かに伏美との繋がりを感じていた。
温泉から戻るなり、赤木は準備されていた布団の上に倒れ込んだ。
「あー。ちょっとのぼせたかな。入り過ぎた……」
仰向けになり、浴衣の胸元を大きく空ける。
火照った身体に布団の柔らかさと冷たさが心地良い。目を閉じると、今日目にしてきた色々な光景と、そして伏美の艶やかな姿がまざまざと蘇てくる。
色々な意味で興奮してしまい、すぐには眠れそうに無い。けれども朝早く起きなければならないわけでも無し、このまま火照りと興奮を冷ますまでのんびりするのも悪く無い。
どこかから気持ちのいいそよ風も吹いて来た。どこからか隙間風が吹き込んでいるようだが、火照った身体にはありがたかった。
「伏美さん、かぁ。綺麗な人だよなぁ。料理も出来るし、あんな人が嫁さんになってくれたらなぁ」
風が一瞬止み、そしてそれから再びそよぎだす。
「けど、仲居さんだし。僕はただの客。おまけに無職の……。無職、か」
風がまた弱まり、今度は完全に止まってしまう。
身体の熱さに耐えられず、赤木は扇風機か団扇を探すべく目を開ける。すると。
「あ」
天井を見上げる視界の中に、焦げ茶色の狐耳が見えた。顔を傾けると、頬を真っ赤に染めた伏美が団扇をもってそこに居た。
「伏、美……さん。いつから」
「あの、えと、ですね。今晩最後のおもてなしに、参りました」
質問には答えず、伏見はただ用件だけを告げる。けれども彼女の様子を見れば、赤木の独り言が全て聞かれていた事くらいは予想が付いた。
「今晩最後のおもてなし?」
「心地よい眠りを得て頂くために、その……赤木様の火照りと興奮を、鎮めるため、夜伽に参りました」
「よとぎって、え?」
驚き身を起こしかける赤木の肩を、嫋やかな伏美の手が押さえつける。そして布団へと押し倒しながら、伏美は男の身体の上へと馬乗りになる。
「誤解されないよう最初に申し上げておきますが、こんな事、決して誰にでもしているわけではありませんからね。先ほどの露天風呂の事も含め、私にとっては赤木様が初めてのお客様ですので」
確かにおもてなしなどと言えば誰にでもこんな風に股を開いて性的な相手をしているようにも聞こえてしまう。が、どうやらそう言うわけでもないらしい。無論、彼女の言葉を信じるのならば、だが。
「伏美さん。僕は別に、ここまでの事を望んではいませんよ。これまで十分楽しませてもらったし、こんな、娼婦みたいな事をしなくても」
「私では不足ですか?」
「そうじゃなくて、こういう事は大切な人とするものだろうから……。僕は、ただのお客でしか」
「仲居が、お客様の事を好きになってはいけませんか?」
声を震わせながら、伏美はこれ以上ない程の真剣な瞳で赤木を見つめる。
赤木はぐっと言葉を詰まらせ、その今にも泣きだしそうな顔を見ていられず、目を逸らす。
「……私は、見ての通り人間ではありません。稲荷と言う名前の、狐の妖怪です。場所によっては魔物娘などとも呼ばれています。
私達は、人間以上に"鼻"が利くんです。匂いを嗅げばその人がどういった方なのか、どういう人生を歩んで来たのか、体調や心の様子まで知る事が出来ます。
楓さんからは話を聞いていただけでしたが、不思議と私はあなたに惹かれていたんです。ずっとあなたが来るのを待ちわびていました。たった三日ほどの事ですが、もし来てくれなかったら、一生会えなかったら。そう思うと怖くてたまりませんでした。
あなたは来てくれた。それだけでも涙が出そうな程嬉しかった。
……そしてあなたに会って私は確信したんです。この人が私の運命だって。
赤木様はとてもいい匂いがしていました。でもとても疲れていて、物悲しい匂いが混じっていました。私はあなたに元気になって欲しくて、あなたの匂いをもっと感じたくて……。
駄目、でしょうか。どうか今晩だけでも、一度だけでも私を抱いていただけないでしょうか。後悔はさせません。何でも言う事を聞きます。ご奉仕いたします」
伏美は、祈るように赤木に向かって頭を下げる。赤木の位置からは見えなかったが、もしかしたら必死で涙を堪えているのかもしれない。
理性、常識、恋慕、妖怪、人間、交接。いろいろなものが赤木の頭の中をぐるぐると回る。だが、赤木が答えを出すのにさほど時間は掛からなかった。
「……奉仕なんて、してくれなくていい」
「赤木様……」
「だってセックスって言うのは、二人でするものだろ? それより、本当に僕なんかでいいのかい?」
赤木は伏美の頬に手を当てて、彼女に顔を上げさせる。
救われたようなその表情。目元から零れ落ちそうな涙を指で拭い、赤木は照れくさそうに笑った。
「僕は鼻が利かないけど、伏美さんは美人で優しくて、料理も上手で、こんなに魅力的な女性はそうはいないって事くらいは分かるよ。その耳も尻尾も可愛いし。
……あまり経験は無いから、上手く出来るか分からないけど」
伏美は涙を流しながらも、美しい笑顔を浮かべる。
そして何も言わず、自分の頬に添えられた赤木の手に、自分の手を重ねるのだった。
するりと衣擦れの音がして、帯が解かれる。
浴衣が肌蹴て、伏美の白い肌が、豊かな双丘があらわになる。
「綺麗だ」
既に電気は落とされており、二人を照らし出すのは部屋に備え付けられていた小さな行燈の頼り無い光だけだった。
けれどもその小さな灯りだけでも、互いの肌を確認し合うには十分だった。揺れる橙の光は、蛍光灯の光よりはるかに女の肌を生々しく浮き立たせていた。
「お上手なんですから……。ほら、赤木様も」
伏美は赤木の帯も解くと、浴衣の前を広げて肌を露出させる。
うっとりとした表情で赤木の胸に手を置き、彼の首元へ、腹へと手を伸ばしてゆく。
「赤木様ぁ……」
伏美がしなだれかかるように肌を重ねてくる。赤木の胸の上で豊かな乳房が潰れ、むっちりした肌が赤木の肌に吸い付いて来る。熱い女の吐息が首元に掛かる。
赤木は辛抱たまらず、彼女の背中に両腕を回して強く抱き締めた。
背中をまさぐり、丸みを帯びた腰を、尻の柔らかさを堪能し、太腿にまで指を這わせてゆく。
指が動くたびに伏美の息は乱れ、熱を帯びてゆくようだった。
「もっと、触って下さい。直接、肌に」
言われるままに浴衣の中に手を入れ、伏美の柔肌にじかに触れる。
温かく柔らかく、すべすべと滑らかで傷一つない玉の肌だった。中でもお尻は特に柔らかく、指が沈み込みながらも押し返してくる感触は、いつまでも揉みしだいていたいと思わせる程に魅力的だった。
伏美もただ触られているだけでは無かった。
獣がするように、赤木の首元に自分の耳や髪を擦り付け、首筋や耳に舌を這わせ、所構わず頬ずりをしていた。
どちらからともなく、お互いの瞳を覗き込む。
吸い寄せられるように、唇が重なる。相手の唇の柔らかさを、温かさを愉しむ。昂りのままに舌を入れ合い、絡め合い、敏感な部分を擦り合って、異性の体液を求め合う。
遠くから聞こえてくる木の葉の揺れる音に、唾液の奏でる水音が混じる。
窒息しそうになるほど求め合い、鼻息を荒くして、息継ぎをしてはまた唇を貪り合った。
やがてどちらの瞳からも理性の光が消えていった。性欲で曇る瞳には、今は愛する相手の姿しか映っていなかった。
「んっ。赤木様の硬いの、当たってます……」
「伏美……。いいかい?」
「はい」
伏美はわずかに腰を上げる。その隙に、赤木は脱ぐのも煩わしいといった様子で、荒っぽく着ていた下着をずり下ろして脱ぎ捨てた。
勢いよく跳ね上がった男性自身が、ぱちんと伏美の尻を打ち付けられる。
「あん」
伏美は下着は付けていなかった。今や、彼女の腰が密着していた部分は彼女の愛液でしとどに濡れてしまっていた。
「それじゃあ、入れ、ますね」
伏美は上半身を起こし、腰をずらして位置を合わせる。
片手を赤木としっかりと結び合い、もう片方の手を赤木自身に添えて、支える。
天井に向かって反り返り、幾つもの血管を浮き立たせた、いびつなそれ。その先端に、蜜に濡れた桃色の肉の花びらが押し付けられる。
「あっ、入って、来ます」
伏美はゆっくりと腰を落としてゆく。
何かを破るような感触と共に、伏美の表情がわずかに歪む。だがそれは本当に一瞬だけの事で、伏美はすぐに娼婦もかくやと言った蕩けるような淫らな表情を浮かべ、肉棒が飲み込まれてゆく様子と赤木の表情を、嬉しそうに交互に見下ろし始めた。
一方赤木は、自分の物が飲み込まれてゆく光景もさることながら、伏美の肉体がもたらす感覚に言葉を失っていた。
伏美の雌穴は、時間を掛けて赤木を飲み込んでゆく。亀頭を包み込み、竿を食むように、じっくりと。
激しさは無かった。しかし動きは静かでありながら、その官能は強烈だった。
たっぷりと蜜を帯びた細やかな襞が、ねっとりと丹念に赤木のモノへと絡み付いてゆく。亀頭を包み込む様に撫でてゆき、かりの部分を擦り上げる。まるで赤木の形を確かめて、その身に覚え込ませようとするかのようだった。
「あ、く。ああっ」
「ほら、赤木様。もう少しで、全部入りますよ」
握り合った手に力を込め、それでも堪え切れずにもう片方の手を乳房に伸ばし、荒々しく掴む。
びくりと伏美の背が跳ね、内側が収縮する。
腰を突き上げる感触に眩暈を覚えながらも、赤木は何とか歯を食いしばって堪えた。そしてようやく、先っちょがざらりとした感触に触れて、二人は深いところで繋がり合う。
「入、りました」
腰をびくびく震わせながら、伏美は今一度、赤木の上に身を重ねる。
伏美の肌はわずかに汗ばみ始めており、肌を重ねると彼女の匂いが強く香った。鼻腔の奥まで伏美の匂いで満たされ、赤木の理性は更に追いつめられてゆく。
「あ。赤木様のが、中でまた大きく……」
赤木は本能の命じるまま、伏美の首筋に舌を這わせる。汗を舐め、白い肌に甘噛みし、そして跡が残る程に唇で吸い付く。
「あ、あああ。だめ、ですぅ」
時折痙攣する背中を撫でてゆく。うなじから背筋に沿って、そしてお尻から太ももの曲線まで、丁寧に撫で回してゆく。
指が動くたび、伏美は感極まったような声を上げた。
「はっ。あうぅ。ダメ、ダメです赤木様。赤木様に触られると、私……何も考えられなくなってしまいます」
「構わない。感じてる姿、とても可愛いよ」
「でも、私も赤木様を気持ち良くして差し上げたいんです。ですから……」
伏美は肌を密着させたまま、腰を少しずつ動かし始める。
蜜を帯びた膣肉が再びゆっくりと蠕動し、再び赤木の一物へのねっとりとした愛撫が始まった。
「くっ。伏美の中、凄い」
動きがゆっくりしている分、襞の一つ一つがしっかりと一物に絡み、優しく擦っていくのがまざまざと分かる。その快楽の強さは、自分での激しい手淫はもちろん、先ほどの口淫ですら軽く凌ぐほどの強烈さだった。
自然と腰が震え出してしまう。
赤木は咄嗟に伏美の尻を掴み、動きを止めさせようとする。けれどそこは人間と妖怪の力の差か、伏美の動きは全く止めようが無かった。
亀頭まで引き抜かれ、そしてまた伏美の中へ飲み込まれてゆく。ぬるぬるの襞襞に愛されながら、時間を掛けてゆっくりと。
このままでは我慢が出来なくなる。覚悟しかけた赤木だったが、しかし伏美は腰の動きを一往復で取りやめ、再び赤木に強く抱きつき、胸へと顔を埋めてしまう。
「伏、美?」
「いきそうでしたよね? 私も、もう少しで気をやってしまいそうでした。でも、まだダメです。もっと深く、大きく、長い快楽を味わって頂きたいのです。
もっとゆっくり、私の身体を楽しんで頂きたいのです」
伏美は、赤木に軽く口づけする。
「ただ射精するより比較にならない快楽、味わわせて差し上げます。こうして、挿入して肌に触れあっているだけでも、心地よいでしょう?」
「あぁ、温かくて、柔らかくて、伏美の匂いを感じる」
「私も赤木様の匂いに包まれて、どうにかなってしまいそうです。……一気に絶頂を迎えたくもなりますが、でもそうしてしまったら、そこまでです」
赤木は伏美の髪を、耳を撫でる。
伏美はくすぐったそうに笑い、赤木と額と額を合わせる。
「このままこうしていれば、今の心地よさをずっと味わっていられる。それ以上に、挿入し密着し続けていると、二人の気や精が絡み合って、より大きな感覚を味わえるんです」
「……そう言う経験が?」
「いいえ。私は赤木様が初めてで、んっ……。うふふ、男の方は分かりやすいですね。私が生娘だったと知った途端に、またいっそう硬くなってしまうのですから」
図星だった。既に誰かの手に渡っていたと想像した途端に、心に影が差したのも事実だった。もちろん初めての相手だと知って歓喜したのも本当だ。
赤木は照れ隠しするように、狐の尻尾を荒々しく撫で回す。
もふもふの尻尾は、しかしそれすらも喜ぶように大きく揺れた。
「お師匠様が旦那様となさっているのを見たのです。房中術、と言ったらいいでしょうか。陰陽の気を調和させ、心身の和合を目指す。お互いをより高め合い、健康的に更なる快楽を得る術です」
「房中術……。魔術みたいなものなのか?」
「いいえ。人間の考え出した、性生活の為の技術です。ですがこれは、私達妖怪独特の、妖気を織り交ぜたものです。
……少し、静まって来ましたね。また動きますね……」
くちゅり、と控え目に音がする。
どこかから風に揺れる木の葉の音が、蛙の鳴き声が聞こえて来る。衣擦れの音や、尻尾の揺れる微かな音すら良く聞こえた。
二人の熱い吐息と、繋がった部分が奏でる音も。
「んっ」
伏美は眉を寄せ、頬を染める。唇を震わせて、歓喜に震える吐息が漏れる。
赤木は、下半身だけでなく全身が熱くなってくるのを感じていた。身体中が火照り、そして敏感になって来ていた。触れ合う女の肌を、汗を、匂いを、より一層強く感じ始めていた。
赤木は伏美の髪留めを解き放つ。解放された長く艶やかな髪を指に絡ませ、梳いて、撫でる。
全身が浮かび上がるような感覚を覚える。しかしその感覚は長く続かず、赤木は再び褥の上で女を抱く自分に戻ってくる。
伏美が動きを止めたのだった。
「……我慢、出来なくなってしまいそうでした」
「僕もだよ」
「なるべく動かないようにしましょう。動かなくても、こうすれば」
伏美は赤木の首元に顔を埋め、その首筋を舐め上げて耳に甘噛みした。そしてそれから、耳たぶを、耳の穴を、ねっとりと舐めはじめた。
くちゅくちゅ、ぐちゅぐちゅ。舌の蠢く音が脳に響き、赤木は腰を跳ねさせる。
「うっ」
「ふふ。これならば弱い刺激で、より長く一緒に居られます」
「けど、やられっぱなしと言うのは悔しいな」
「赤木様も、私の身体を好きにしてくださっても構いませんよ」
乳房、お尻、太腿、それに尻尾や耳。弱そうなところはいくらでも考えられる。
しかしかと言ってあまりに強い刺激で伏美を落としてしまうのも、今の房中術とやらの目的からは外れてしまうだろう。
考えた結果、赤木はただ単純に伏美の肌をさすり続ける事にした。優しく、泣く子をあやすように、眠れない子を安心させるように。
髪を、肌を、尻尾を、ただ単純にさすり続けるだけ。けれどにもかかわらず、伏美もまた肌を震わせ、吐息にも艶が増していった。
敏感になっているのは彼女の方も同じだったのだ。
それから先は、言葉はいらなかった。
二人はそのまま、お互いの身体を愛撫し続けた。昂りの弱まりを感じれば少し強めに。昂りが早すぎると思えば穏やかに。
時間を忘れて、お互いの身体に没頭した。
肌を触れ合せ、舌で舐め、甘噛みし。
時に深く口づけし、繋がった部分をゆっくりと揺らす。
時間を掛けて、ゆっくり、ゆっくりと。
やがて自分の匂いと相手の匂いの区別がつかなくなり、相手の肌の官能で自分が感じているかのように思い始める境地に至る。
相手が感じる事で自分が感じ、自分が感じる事で相手を感じさせる。
愛する者と一つになっている。その感覚が身体中に、世界中に満ちていく。
その感覚がある時急激に大きく膨らみ、そして身体も心も押し流してしまうような大きな波となって全てを覆い尽くしてゆく。
赤木は遠くから自分の名を呼ぶ声を聴いていた。
交尾の喜びに咽び泣く獣のような、神の福音を告げる天使のような、淫靡さと清らかさが混じり合ったような女の声を。
そして同時に、自分も声を上げている事に気が付く。
「伏美。……伏美っ!」
「あぁ、赤木様ぁ」
下半身から、深く結びついている部分から自分の一部が伏美の奥深くへと放出されてゆく。
それと同時に伏美の身体から降り注ぐものも、自分の身体へと染み渡ってゆくのが分かった。
それは気であり、精であり、汗や精液や愛液を始めとする体液であり、そして愛だった。不思議とそれが一瞬にして理解出来た。
赤木の身体から放たれた物が伏美の身体へと注がれ、馴染み、そして伏美の身体から溢れ出るものが赤木の身体に溶け込んでゆく。
陰陽の輪は巡り続け、二人は穏やかな気持ちのまま、しかし激しい快楽に身も心も満たされてゆく。
脈動は、いつまでも止まらなかった。たどり着くのに時間が必要だった境地だけあり、その絶頂も普通の交合とは比較にならない程に長かった。
どれくらいの時が経っただろうか。
二人はお互いを見つめ合ったまま、快楽の海の底を漂い続ける。夢見心地ではあったが、例え夢でもこんな感覚は抱けまいと思う程の境地だった。
鳥の声が聞こえ始めていた。
窓から朝日が差し込み、伏美の焦げ茶色の髪を黄金色に染め上げる。赤木は稲穂のような髪を撫でながら、女の額に口づけした。
「……収まってしまいましたね」
「あぁ、凄かったな。まるで天国にいるみたいだった」
伏美は身じろぎすると、顔を赤木の首元に埋めてしまう。そしてなぜか伏美の肌の温度が少し上がったように感じられた。
「私も、です。こんなに満たされて、深い喜びを感じられたのは生まれて初めて」
「全部伏見、さんのおかげだな」
「……さっきまで呼び捨てで呼んで下さっていたのに」
少し不満そうな伏美が、可愛らしくてたまらなかった。
「伏美」
「はい」
名を呼べば嬉しそうに答え、耳を擦り付けるように抱きついて来る。
「お師匠様達は凄いんですよ。私達は朝には収まってしまいましたが、お師匠様達は一日かけて交わって、三日や、長い時は一週間絶頂を維持していらっしゃった時もありました」
「凄いな。けど、ご飯とかはどうするんだい?」
「私達妖怪と交わっている時は食事や睡眠の心配は無いんです。気と精が巡り合って、お互いを満たし合いますので」
「そうなんだ」
言われてみれば、確かに一晩中寝ずに一つになっていたのに眠気は一切なく、腹も減っていなかった。赤木は自分の身体を省み、伏美の言っている事もあながち間違いでは無さそうだと実感する。
「……良かったら、今晩も試してみませんか?」
赤木はどきりとして伏美を見る。女の顔をした伏美が、濡れた瞳で見上げていた。
確かにこんな快楽なら何度でも味わいたい。しかし、そう幾晩も泊まっていられる程の余裕もあるわけでも無かった。
「でも、チケットは一枚しか」
「あのチケットは、宿泊期限は無期限ですから。途中で帰られてしまったら別ですが、連泊でしたら何泊でも出来るんです」
そんな上手い話があるんだろうか。赤木はにわかには信じられなかった。しかしそれは赤木の一部、理性のみの話だった。
身体の方は、既に女の身体を抱き締めながらこう答えてしまっていた。
「じゃあ、今日も泊まる事にするよ。仲居さんはずっと変えないでくれ。伏美、君がいい」
「はい。かしこまりました。赤木様」
***
朝日が顔を出すのと同時に、赤木は目を覚ましていた。
浴衣で寝ている自分の隣には、同じように浴衣姿で穏やかな眠りについている愛しい女、伏美の姿があった。
あれから数日。赤木は旅館へ泊まり続けていた。
特に何かに追われる事も無く、穏やかな時間を、風景を見たり山の中を散歩したりして過ごし、山の幸をふんだんに使った料理を食べ、大きな風呂に浸かって、夜は愛しい人を抱く。
伏美は料理などの準備の時間以外は、極力赤木と一緒に居てくれた。一緒に色んなものを見て、話したり笑ったり、仲居と言うよりは恋人や夫婦のように振る舞ってくれた。
幸せな時間だった。幸せすぎて怖くなるくらいだった。
英気を養うには十分な時間と体験だった。再び立ち上がり、歩いて行けそうだった。
赤木は彼女の耳を、髪を撫で、そして立ち上がる。
「ん、赤木様。どちらへ」
布団から出ようとして、脚を止める。声をかけられたからでは無く、浴衣のすそを掴まれ止められてしまったからだった。
目を擦りながら、伏美もまた身を起こす。着崩れた浴衣の襟元には、昨日付けた唇の跡が残っていた。
「厠ですか? 早く戻って来て下さいね。今朝は、少し冷えますし」
「……いや、そろそろここを発とうと思って」
伏美の動きが止まる。それはまさに凍り付いたように、と言う言葉通りに。
顔面蒼白になり、訴えるような目で赤木を見る。言いたい事があり過ぎて言葉にならないのか、口を開けているのに声はいつまでたっても出てこなかった。
「いつまでもお客さんとしてここに厄介になっているわけにもいかないだろう」
「そ、そんなの気にしなくていいんです。私共は、私はいつまででもあなたに、赤木様にここに居て欲しいのです。……それとも、もう私に飽きられてしまわれましたか?」
赤木は歯を食いしばり堪えようとする。けれど、掠れて消えてゆくような伏美の声を耳にしてはもう耐えらえなかった。
赤木は身をかがめると、強く強く彼女の身体を抱き締めた。
「赤木、様?」
「伏美。僕は君と結婚したい。夫婦になって、ずっと一緒に居たい……。でも、それには男として、ちゃんと仕事を持った方がいいと思ったんだ。だから一度戻って仕事を、楓さんのコネでも何でもいいから、就職しようと思って。
決して君を嫌いになったり、飽きたりしたわけでは無いから」
「あぁ、赤木様! 嬉しいです!」
伏美の腕が背中にしっかりとしがみつく。頬に温かい液体、涙が触れる。
「私も赤木様と一緒に居たいです。私にずっと、あなたのお世話をさせてください」
「なんか照れくさいけど、ありがとう。よろしくね」
二人は身体を離し、どちらからともなくはにかむような笑顔を浮かべる。
「まぁ、と言うわけだから一度戻るけど、すぐに帰って来るから安心して……」
「でも赤木様、戻る必要はありません。赤木様はずぅっとここに居て下さっていいんです」
赤木は首をかしげざるを得ない。楓に仕事を紹介してもらうにしても、仕事をするとなれば書類のやり取りなどがある。まずは一度都会に戻らなければならないはずだ。それなのに戻る必要が無いとはどういう事なのか。
赤木が口を開こうとした、その時だった。
「話は全て、この楓ちゃんが聞かせてもらったでぇ!」
部屋のふすまがバァンと勢いよく開く。そこに居たのは、一人の小柄な女性だった。
声にも、そして顔にも覚えがあった。楓だった。以前赤木の会社に営業に来た女セールスマンで、そして赤木がこの旅館に来ることになった一番の元凶である人物だ。
顔も声も楓で間違いは無かった。ただ、赤木の知っているいつもの楓とは様子がかなり異なっていた。
彼女の頭の上には、伏美の物とは少し違っていたが、明らかに獣の耳と思しき耳が生えており、その腰元にも狸のような尻尾が揺れていた。
身に纏っているのも、いつものビジネススーツでは無く時代劇の旅人が来ているような旅装束だった。
今なら別世界の住人だと言われても信じられそうだ。
「赤木さんならそう言ってくれると思って、書類はもう用意しておいたんや。そろそろかなぁと思って様子を見に来たんやけど、ここまで予想通りに事が運んでくれるとは。
ともかく準備は出来とるよ。あとはこの書類に署名と判子もらうだけ。はいこれ」
赤木はいきなり書類を手渡され、目を白黒させる。いつもと様子が違う事を問う間も無かった。
「ここの従業員として働く契約書や。ここに居れば、ずっと伏美ちゃんとも一緒にいられる。まぁ人でごみごみした都会に伏美ちゃんを連れて行きたいなら、別の仕事も紹介できるけど」
赤木はさっと書類に目を通したが、不満な点は何一つなかった。赤木の決断は早かった。一通り読み終えると、大きく頷いた。
「いや、これでいい。これがいいよ。ありがとう楓さん」
「なら、契約成立やね」
赤木は急いでペンを用意し、判子を引っ張り出す。
「しっかし、伏美ちゃんも羨ましいなぁ。念願の旦那さん捕まえて……。うちも早く旦那さん欲しいわぁ」
「楓さんのおかげです。話を聞いていた時から惹かれるものはありましたが、実際お目に掛かって実感したんです。この人しかいないって。……身体の相性も、凄く良くて」
「それは良かった。……どうやら毎晩お熱いみたいやし、ほんと羨ましいわぁ」
「えぇ、赤木さん、見た目に寄らず凄くて……」
「は、はい。書き終わりましたよ。よろしくお願いします」
赤木は慌てて書類を差し出す。伏美は気にした様子は無かったが、赤木としては二人の秘め事は第三者にはあまり知られたく無かった。
「ふむ、ふむ、と。よし、不備は無さそうや。じゃあこれ出してきとくから、ここでの詳しい働き方は伏見と相談して決めてな」
「え、あ、はい。分かりました」
赤木が返事を返した時には、既に楓は部屋を出るべくふすまに手をかけていた。
「でも楓さん、そんなに急いでどこへ? それにその格好は……」
「あぁ、地元に戻るんよ。ジパングで妖怪達の酒宴があって、それに出席するために。と言うか、うちは本来あっちで商売しとるんやけどな。たまにこっちにも助っ人頼まれるんよ」
ジパング? 妖怪? 酒宴? 分からない単語ばかりで混乱する赤木をよそに、楓はにたりと唇を歪ませた。
「……大丈夫、これも忘れず処理しとくから」
そう言って見せびらかしたのは、赤木と伏美の名前が入った婚姻届だった。赤木は一瞬慌てかけたが、しかし考えてみれば慌てる事も無いという事に思い至る。
もともとそのつもりだったのだから、早いか遅いかの違いしかないではないか、と。
「まぁ、また定期的に様子は見に来るけどな。それじゃあ。二人ともお幸せになー」
楓はにっこりほほ笑むと、来た時同様に唐突に去っていった。
部屋に残された二人はしばしあっけにとられたように呆けていたが、やがてどちらからともなく見つめ合い、微笑み合った。
「えっと、そういう事で。伏美、これからもどうかよろしく」
「はい。よろしくお願いします。旦那様」
顔を真っ赤にしながらも、二人は手に手を重ね、そして互いに抱き締めあうのだった。
木々の間を、木の葉を揺らしながら風が通り抜けてゆく。
土から湧き上がる湿気を吹き飛ばし、肌を撫でてゆく風が心地よい。
赤木は身をかがめて山菜を取ると、背中の籠に放り込む。これで今日の分は十分だろうか。考えていると、気配を感じた。
振り向くと、坂の上からこちらに手を振る女が居た。
狐のような耳と尻尾を持った、美しい着物の女性。
「旦那様ぁ。そろそろお風呂の支度をしましょう」
「あぁ、分かった」
赤木は旅館に戻るべく、山道を引き返し始める。
旅館の運営の手伝い。それが今の赤木の仕事だった。
畑の世話をしたり、山に入って食材の調達をしたり、大浴場の掃除をしたり、部屋に備品を届けたり片付けたりといったことが主な仕事だ。
とはいえこの山奥には客自体が少ないため、仕事もそんなに大変では無い。
毎晩愛しい妻、伏美とゆったり時間を掛けて肌を重ねる事も出来ている。昼休みに軽く交われる日ですら、少なくは無い程だった。
「お風呂掃除が終わったら、私達もご飯を食べてお休みしましょう」
「いいのか?」
「はい。今日のお客様は男性一名様。旦那様がここに来た時と同じ、と言う事です」
「仕事は一通り仲居さんが独りでこなしてくれるって事だね」
「えぇ。あの子もようやく、念願の旦那様を手に入れられるかもしれません」
「確か猫又の子だったっけ。僕が来る時には、運転してくれてたんだったっけ」
勤め始めてはっきりと分かった事だったが、この旅館『妖の湯』は本当に本物の妖怪が経営している温泉旅館なのだった。
なぜ妖怪が温泉旅館などを経営しているのか。それはすなわち、ひっそりと繁殖相手である人間の男性を捕まえる為らしい。と言うのも、どうやら妖怪は雌しかおらず、生殖のためには人間の男性が必要不可欠だからなのだという。
そしてその為か、妖怪達はみんな極度の男好きばかりだった。とは言っても人間の女と違って、相手のいる男には滅多に手は出さないし、複数の男と関係を持つ事も皆無らしいが。
「男性客と直接触れ合える仲居の役割を目指す妖怪は多いですからね。私も本当に運が良かった……」
「僕も、相手が伏美で良かったよ」
赤木は、隣に並ぶ妻の肩を抱く。もしもの話には意味が無い。今は愛しい人がすぐそばに居る。その事を伝えるかのように。
想いはすぐに伝わったのか、俯きそうになっていた伏美はすぐに顔を上げ、満面の笑顔を見せてくれた。
赤木と夫婦になった事で、伏美は仲居の第一線からは退いた。けれども仲居の数が減ったかと言えばそう言う事では無く、今回の猫又のように代わりはすぐに補充された。
なぜなら、本当に伏美の言うように、人間の男性と直接触れ合う機会のもてる仲居を志している妖怪の数は本当に多いからだ。伴侶を手に入れるために、彼女達も必死なのだ。
彼女達は男性が独りで泊まりに来た際には、自分の魅力を余すところなく伝えるべく、独りで料理や風呂、夜の相手などを行い、全力で最高級にもてなしをする。
連れ合いを求める妖怪達にとって、それが一つの戦略なのだった。
夫婦で泊まりに来ている客には赤木達も準備などするが、今回のようなケースは特にする事も無い。何かすれば、逆に邪魔をしてしまう事になるからだ。
「じゃあ、今日は部屋の露天風呂から、星空を見上げながらしようか」
「いいですね。ロマンチックです」
顔にまでは出さないまでも、彼女の尻尾は嬉しそうに大きく揺れていた。その数は二本。赤木と言う伴侶を得て妖力が増えた為、尻尾の数も増えたのだった。
伏美が言うには交合の回数も多いので、三本目が生えるのも近いのではないかと言う事だ。もしかしたら、今日がその日になるかもしれない。
子供が出来るまでに尻尾が何本に増えるか。いずれにしろ、尻尾の数は愛情の深さに比例するように思えて、赤木としては悪く無い気持ちだ。
赤木は微笑み、彼女の手を取る。
指を絡めて手を繋ぎ、空を見上げる。
木々の間から見える空に雲は無く、今晩はいい夜空になりそうだった。
14/05/10 11:23更新 / 玉虫色