海底城の踊り子達 〜蟹の章〜
朝起きたら軽めの朝食を取り、仕事場である港へ向かう。
船が付いたら積荷の上げ下ろしを行い、港を発って行く船を見送り、別の船が到着するのを待つ。
別の船が到着したらまた積荷の移動を行い、それを日が暮れるまで繰り返す。
仕事が終わったら露店でその日の夕食を買い、家に帰る。
家に着いたら食事を手早く済ませ、神への祈りをして安物のベッドに横になる。
そして日が昇ったら、昨日と同じ事を繰り返す。
……これが、アルタルフの生活の全てだった。
仕事場の仲間達からはお堅い奴だと言われており、アルタルフ自身もその事は自覚していた。
このままではいけないと思い、自分を変えようとしたことも何度もあった。
仕事場の仲間と共に酒場に行ってみた事もあった。女性が相手をしてくれる店に着いて行った事もあった。外国の妖しげな煙草を試したこともあった。
しかしそのどれもがアルタルフには受け付けなかった。
酒を口にすればすぐに目を回してしまい、女を前にすれば緊張で何も言えなくなった。煙草などは吸った翌日に熱を出してしまう始末だった。
授業料は決して安くは無かったが、その結果分かった事は自分には遊びは向いていないという事実だけだった。
遊びが駄目なら夢を持とうと船乗りを目指したこともあった。組合に申し出て、見習いとして船にも乗せてもらった。
しかしこれも失敗に終わった。船に乗った途端に船酔いで立っている事も出来なくなってしまったのだ。驚くべきことに、港に停泊している間の僅かな揺れでも気分が悪くなってしまった。
こうして、アルタルフは夢を見ることさえもやめてしまった。
ならば家族を作ろうとも考えた事もあったが、これも上手くはいかなかった。
元々アルタルフは女性に縁が無く、結婚してくれそうな付き合いのある女性は居なかった。ならばと見合いも考えたが、荷物の積み下ろししか出来ない稼ぎの悪い男と見合いをしたがる女はほぼ皆無だった。
それでも奇跡的に二三度見合いは出来たが、女性が苦手なアルタルフには数少ない出会いだけで相手の心を掴む事は出来ず、結局誰からも見向きもされなくなってしまった。
そんなアルタルフが最後にたどり着いたのが、信仰だった。
主神様はきっと全てを見ておられる。真面目に生きて働いていれば、いつかは天国に行けるだろう。何の楽しみも無い、楽しめることも無い生活の中、アルタルフが最後に縋りついたのが教団の教えと言うわけだった。
信仰だけは何かに邪魔されるという事は無い。相手もおらず、体質も関係ない。自分が真摯に、信仰心を持っていれば救われる。アルタルフはそう信じていた。
人生の目的を見つけ、アルタルフもようやく安らかに生活が行えるようになった。と思われたが、その安寧も長くは続かなかった。ある日突然、アルタルフが最後にたどり着いた寄る辺でさえ、露と消えてしまうような事件が起こったのだ。
その日、彼の住んでいた港町を治めていた商人たちは教団の教えを否定し、教団側から魔界側へと鞍替えを表明した。それはアルタルフが信仰に希望を見出してから、ほんの一月も経つ前の出来事だった。
この世界には大きく分けて二つの勢力があった。
この世界を作った主神を崇める主神教団と、それに敵対する魔界の勢力だ。
歴史上、魔界の勢力、つまり魔物達は決して人間とは相いれない人類の天敵だった。魔物は人を騙し弄び、甘言で誘惑し堕落させ、そして殺し喰らうような存在であったのだから、分かり合えるはずなど無かったのである。
ところが先代魔王から現魔王へと魔界側の最高権力者が代替わりをした事からこの敵対関係が微妙に変化し始める。
魔物達が、人間を殺し喰らう事を止めたのだ。
それどころか魔物達は人間の女性に近い姿、魔物娘へと変化し、人間を生殖の相手と見なし、愛するようになった。
姿形が人に近づき、意思疎通も可能になってくれば、当然相手の事を同族と見なす事も不可能ではなくなる。好意を示してくる相手を無下に切り殺す事は難しくなり、無償の愛を与えてくれる者には敵意以外の感情も生じてくる。
こうしていつの頃からか魔物娘と通じる人間が現れ始め、そういった人間達が増えるにつれ、魔界と手を取り合う親魔物派の国家も現れ始めた。
主神を崇める教団は形は変わっても魔物娘達は人を喰らうと教えていたが、その教えが事実とは離れていっている事は隠しきれるものでは無かった。
結果、魔物娘が人間に害成す存在では無いという事実は少しずつ知れ渡ってゆき、それにつれ親魔物国家は徐々にではあるが増え続けていた。
その時流の波が、この港町にもやってきた、と言うわけだった。
街の有力者たちは街の住人達に魔界と敵対するのを止め、魔物達と仲良くするようにお触れを出した。
もともと多様な文化と触れることの多い場所でもあったため、ほとんどの住人達にはこの方針転換もそれほどの抵抗感も無く受け入れられていた。
だが、やはりそう簡単には変化を受け入れられない住人も多少は存在していた。当然アルタルフもその一人だった。
実際に見たことは無かったが、魔物は人を殺し喰らう存在だと言われていた。魔物と戦う事こそが神への信仰へとつながると教えられてきた。それをいきなり魔物と仲良くしろなどと言われても素直に納得出来るわけが無かった。
ましてや、今や信仰しか残されていないアルタルフにとってはなおさらのことだった。
やがて街に魔物娘達が入り込むようになった。
魔物娘と人間の交流も増え、アルタルフにも魔物娘と言葉を交わし、仕事を共にする機会があった。
野蛮で邪悪な魔物となど仕事が出来るわけがない。アルタルフは当初、そんな風に考えていた。
しかし実際はその予想とは正反対の事が起こった。
街にやってくる魔物娘達は皆素直で人の良い者ばかりだった。仕事にそこまで熱心では無い者も居たが、そう言う者でも人間以上の仕事をこなして見せた。
人間に暴力を振るう者も居なかった。彼女達は、教団の教えている魔物像とは全く異なった存在だったのだ。
この事は、教団の教えに偽りがあった事の何よりの証明だった。
自分は何のために生きているのだろうか。アルタルフは再び悩むようになった。
夜は眠れなくなり、仕事中にもぼうっと考え込む事が増えた。それが原因で仕事中にヒヤリとする事も増え始めていた。
このままでは大きな失敗をする事も時間の問題だった。何とかしなければと焦るものの、しかしアルタルフにはもうどうしてよいのか分からなかった。
転機が訪れたのは、彼が人生に絶望しかけ始めたそんな時の事だった。
その日、仕事を終えたアルタルフは一人港から海を眺めていた。
橙色の太陽が水平線の向こうへと溶ける様に沈んでゆく。夕暮れの海は次第にそのきらめきを失い、黒々とした夜の帳を下ろそうとしていた。
アルタルフはため息を吐きながら今日一日を振り返る。
昨日は手を滑らせて大きな荷物の下敷きになりかけたばかりだというのに、今日も積荷を一つ載せ忘れかけた。
以前であれば命が助かった幸運を、荷物に気が付いた運の良さを神に感謝していた。しかし今はもうそんな気にもなれなかった。
もう神を信仰する気にはなれなかったのだ。
魔物は人を殺さない。魔物娘の来訪者も見かけるようになったが、皆気のいい連中ばかりだった。つまり、これまでの教団の教えは嘘だったという事になる。
一度でも嘘をつかれれば他にも嘘があるのではないかと疑ってしまうのが人間と言うものだ。アルタルフはもう、教団の言っている事は何一つ信頼出来なかった。
日が沈み切ると辺りは急に、文字通り火を消したように暗くなってゆく。
今ここで海に入れば、きっと誰にも気付かれる事無く死ぬことが出来るだろう。アルタルフはそれも悪くないと考え、一歩海へと踏み出しかける。
しかし溺れ死んだ遺体の無残な姿を思い出し、アルタルフは足を止めた。
幾度目かのため息を吐き、いい加減にアルタルフが帰ろうとしたそんな時だった。
「おーいアルタルフさーん! どこですかー!」
自分を呼ぶ声に気が付き、アルタルフは周りを見回す。見れば港の一角、作業員の詰所の方で仲間の男が声を上げていた。
「ここだ!」
返事をしながら駆け寄ってゆくアルタルフに気が付き、男はほっと表情を緩めた。
「何かあったのか? 近場で船舶でも座礁したか?」
「何を言っているんですか。今日は作業員みんなで半期終了の打ち上げに行くって話だったじゃないですか。みなさんもう準備出来ているんですよ」
突然の話に、アルタルフは首をかしげる。
「そんな話、していたか?」
「一週間ほど前の昼休みに話していたでしょう? アルタルフさんも行くって言っていたじゃないですか」
言われてみれば皆でそんな話をしていたような気もした。最近は呆けている事も多かったので、アルタルフ自身自分が何をしていたのか分かっていない所もあった。
「悪いが、酒盛りなら俺は」
「えぇ? もう予約の人数取ってしまってるんですよ? 予定でもあるんですか?」
「いや、無いが……」
「じゃあいいじゃないですか。別に酒が嫌なら水でも茶でもミルクでも飲んでいればいい。アルタルフさん最近お疲れのようですし、こういう時こそ羽を伸ばすべきですよ」
それ以上食い下がる間は与えられなかった。男がアルタルフの腕を掴み、半ば引きずるように強引に歩き出してしまったからだ。
言いたいことが無いでは無かったが、しかし結局アルタルフは諦めて仕事の打ち上げ会に参加する事にした。
別段楽しもうと思ったわけでは無かった。ただ断るのが面倒だという、それだけだった。
以前であれば信仰を理由に断ろうともしたであろうが、それを失った今となっては断る気力さえも無くなっていた。
連れてこられた港の一角には小舟が泊められていた。もう仲間達は皆乗り込んでいるらしく、小舟の篝火の明かりの中に見慣れた面々が浮かび上がっていた。
「いつもの酒場じゃ無いのか?」
問うと、若い男に盛大に顔をしかめられた。
「今年は別の場所でやるって言ったじゃあないですかぁ。ちゃんと聞いて無かったんですか?」
「す、すまない」
「まぁいいです。早く乗って下さい」
「いや、俺は船は」
「もう時間が過ぎているんですよ。さあ早く」
船酔いの事を言おうにも取り付く島も無かった。アルタルフは仕方なく覚悟を決めると、船の空いている席に腰を下ろした。
若い男はそれを見届けると、自分の席へ着いて船頭へ声をかける。
「これで全員です」
「分かりました。では『海底城』へ出発いたします」
深くフードを被っていて顔は見えなかったが、声から察するに船頭はどうやら女性のようだった。彼女は深く一礼し、足元から一本の木の棒のようなものを取り出す。
船を漕ぐのならば櫂が必要だろう。しかしそれは櫂にしては短すぎ、そして細すぎた。それは船を漕ぐ櫂と言うよりも、歩行を助ける杖と言った方が良さそうな代物だった。
男達の何人かが噴き出し、笑い声を上げる。
「おい姉ちゃん。いくら小さな船だからって、流石にそれじゃ漕げねぇぜ」
「海面を進む船ならばそうでしょう。ですがこれは、海を潜る魔法の船ですので、これで十分なのです」
「潜るぅ? 何のために? それに俺達ゃサカナじゃねぇんだ。海の中で息なんて出来ないぜ?」
フードが微かに揺れる。わずかに見えた口元は、小さな笑みを浮かべていた
「これから向かいます海底城は、その名の通りに海底にございます。当然そこに向かうには海の中を通るのですが、そこはご安心を。この船は海の神ポセイドンの加護を得た魔法の船。この中に居る限りは息が出来なくなるなどと言う事はございません」
船中が少しどよめいたが、船頭は意に介さずに前を向いて手に持った杖を振るう。
すると驚くべきことに、船が音も立てず、揺れることも無く滑るように動き始めた。
「おおお? なんだこりぁあ」
「おい船頭さん。この船沈んでるぜぇ! このままじゃ沈没しちまう」
誰かの言う通り、船は横にだけでなく下にも進んでいた。船頭の彼女が言っていた通り、まさに海中に向かって針路を取っていたのだ。
何人かの男が慌てたように席を立ったが、しかし男達が案じていたような事態にはならなかった。船体の全てが海中に沈んでも、船の中には海水は流れ込んでこなかった。
「すげぇな。姉ちゃんの言った通りだ! 水が入ってこねぇぞ!」
「息もできる。すげぇ船だな、魔界の船ってのは」
魔界の船。その言葉を聞くなり、アルタルフは一瞬眉根を寄せる。
「つまりは、これから魔物の巣窟に向かうって事か」
誰にも聞こえぬような小声ではあったものの、隣の男の耳には届いていたらしい。アルタルフは腕を掴まれ、険のある視線を向けられた。
「しっ。あまり滅多な事を言うものじゃないぞ。せっかく魔物娘さん達が友好の証にって俺達をもてなしてくれるって言うのに。
お前さんが信心深いのは知っているが、あの子達が悪い子では無いって事くらいは知っているだろう?」
その理屈はアルタルフにも理解出来ていた。確かに実際に目にし、交流している魔物娘達は良い娘達ばかりだった。しかし感情まですぐに切り替えられるわけでは無い。アルタルフは、言わずにはいられなかった。
「けれど、魔物娘は獣や虫の身体を持つ、神に呪われた穢れた……」
男は息を吐くと、やれやれと首を振った。
「それを言うなら天使様達だって鳥の羽を持ってるじゃねえか。同じ鳥の羽でも、ハーピーは駄目だってのか? それにな、悪魔だ何だと言われている存在も、別の国では神様として祀ってる例もある。色んな国から船の来る港に居ればそれくらい……」
それくらい、アルタルフにも分かってはいるのだ。分かってはいても、それでもさまざまな感情が入り乱れて素直になる事が出来ない。
そんな様子を察したのか否か、男は腕を離して息を吐いた。
「いや、悪かったな。ちょっとしゃべり過ぎた。……まぁ今日は魔物娘を知るいい機会だろうさ。色んな事を忘れて楽しもうじゃないか」
「そう、だな」
アルタルフは視線を逸らし、船の外に向ける。
気持ちとしては今すぐ船を降りたかったが、魔物を避けるために夜の海中に飛び込む程の信仰心ももう持ち合わせていなかった。であれば男の言う通り、魔物娘を知る機会だと思うほかない。
船は既に完全に海に沈んでおり、船に備え付けられた小さな篝火に照らし出されているのは、底の知れない夜の海の闇だけだった。
海中を進み出してしばらくも立たぬうちに、船の下方にそれが見えてきた。
狭い船の上の事、一人の男が気が付き声を上げれば、すぐに船中へと知れ渡る事となった。
「すげぇぞ、海の底に星空が見える」
「なんじゃあこりゃあ。俺達ゃ夢でも見てるのか?」
「見えてきましたね。あれが私達の住んでいる海底都市です。いわば、夜景ですね」
アルタルフも興味本位で船の縁から顔を覗かせる。確かに眼下には、雲の無い夜空のような光景が広がっていた。
いくつもの小さな灯りが、海水の中でゆらゆらと揺らめいている。確かに海底に星空などあるはずもなく、空の星が映り込むなどと言う事も考えられない以上、船頭の言う通りにあそこに街があるのだろう。
海底に人は住めない。となれば住んでいるのは魔物娘達以外ありえない。
「あの灯りの一つ一つで、きっと睦言が紡がれ、愛が交わされている事でしょうね」
アルタルフは絶句し、顔を上げる。
「なんだい。噂に聞く通り魔物娘はみんな助平でお盛んってわけかい?」
男達は皆野卑な笑いを浮かべたものの、船頭は特に気にした風も無く上品に笑うだけだった。
「えぇ。魔物娘は皆男好きで、男とまぐわう事しか考えておりません。私も今は何とか自制してはおりますが、皆さまの溢れるような雄の匂いでどうにかなってしまいそうですもの」
「がははは。じゃあ姉ちゃん。俺達の相手をしてくれるかい?」
「うふふ。ですがこれから行く先には、私なんかよりももっと綺麗で可愛らしい女の子達がたくさん待っているのですよ?
その子達を見たうえで私で良いというような奇特な方がいらっしゃれば、その時は喜んでお相手をいたします」
「本当かい? おいお前ら、この姉ちゃんは俺んだからな。手ぇ出すなよ」
あちらこちらから上がる笑い声を、アルタルフは呆然として聞いていた。
信じられなかった。神の敵と言われていた相手と抱き合うなど、人外の異形の存在と性行為をするなど、考えただけでおぞましい事のはずだ。
それなのに眼下の明かりの一つ一つには魔物娘だけでは無く、人間の男も共に居て愛を交わしているのだという。
自分の周りの男達も相手が人間では無いという事など全く気に留めていない様子で、むしろ自分の物にする気でいる者までいる。
何だか別世界に来てしまったような気がした。否、実際に、別の世界に来てしまっているのだ。
「見えてきましたね。あれが海底城です」
いつの間にか海底の街の明かりが随分と近づいていた。
船頭が指差した先にあったのは特に多くの明かりに照らし出された城のような建物だった。その大きさは人間の地上の城の二三倍はありそうな程だ。
「大昔には海の魔物達の拠点となっていた場所ですが、今では皆様のような人間の方々をおもてなしするための施設となっております。
歌や踊りのような演目を楽しんで頂けるほか、魔物娘の子らが皆様のお酒のお相手もいたします。宿泊施設も兼ねていますのでご宿泊も可能です。……もちろん、気に入った女の子を部屋に連れてゆく事も出来ますよ。うふふ」
闇の中から、海底城のその偉容が少しずつ明らかになってゆく。
海底城。かつての魔物の拠点とされていた場所。どれだけ恐ろしい外見なのだろうかとアルタルフは息をのんだ。
しかし実際に現れたのはアルタルフの予想していた物とは全くの別物だった。
醜悪な海の化け物や、人間を捕食しているような恐ろし気なモチーフの銅像は皆無で、代わりにあったのは裸のマーメイドやスキュラと言った魔物娘の卑猥な銅像ばかりだった。中には人間の男と交合しているようなモデルまである程の猥雑さだった。
照らし出す明かりもどこか妖しい桃色や紫色をしていて、確かに大きさは凄まじいものがあったが、特筆すべきはそこだけで、規模が大きいだけのただの風俗店にも見えた。
アルタルフは色んな意味で眩暈を感じ、額を抑える。
これから先、何が起こるのだろうか。それを考えると、アルタルフはいつもとは別の意味で怖くなってしまうのだった。
通されたのは三階まで吹き抜けになっている大きなホールだった。
部屋の奥には舞台も設えられていた。大きさも装丁も大したもので、アルタルフも噂にしか聞いた事が無かったが、地上の大国の宮廷劇場にも引けを取らぬように思われた。
石畳の床には質のいいふかふかの絨毯が敷き詰められており、その上にいくつもの丸テーブルが並べられていた。
アルタルフ達が入った頃には、既にいくつかのテーブルにはお客の姿があった。中には女性や魔物娘らしい姿もあったが、お客のほとんどは人間の男だった。
アルタルフ達が最後の客だったらしく、男達が席に着くなりすぐに舞台の袖から一匹の魔物娘、下半身が大きなイカの形をしているクラーケンが現れ、挨拶が始まった。
「皆さま。今日は遠いところからはるばる足を運んで下さり、まことにありがとうございます。
先日、晴れて近隣の港町と私達の街との協定が正式に結ばれ、私達魔物娘と人間の方々との交流もこれからさらに活発化されてゆくと思われます。
ですが私達は出会ってまだ日も浅く、お互いについてまだ良く知らない点が多くあるのも事実です。
もっと深くお互いの事を知り、早く仲良くなるにはどうしたらいいかと考え、今日このような場を用意いたしました。
ほっぺたが落ちてしまいそうなごちそうを山ほど、一級品のお酒も溺れる程用意いたしました。また、皆さんに楽しんで頂けるように演目にも創意工夫を凝らしました。きっと楽しんで頂けると思います。
語りたいことはまだたくさんありますが、この辺にしておきましょう。
それでは、まず最初に私達の歌と踊りを楽しんでいただきたいと思います。色々とお話しましたが、難しい事は考えずに今この時を楽しんで頂けたら幸いでございます」
クラーケンは一礼すると、悪戯っぽく微笑んで客席側に向かってふぅっと息を吐きだした。
何気ない仕草。しかしそのクラーケンの吐息をきっかけに、不思議と部屋の中から少しずつ光が失われてゆき、闇が広がり始める。
誰かが明かりを消して回っているわけでは無く、何かの魔法のようだった。現にアルタルフ達の前の燭台は灯ったままだったが、それでも広間の暗闇は濃くなり続けていた。
やがて隣の顔も見えなくなり、ついには目と鼻の先さえも見えない程の真の闇が降りた。
闇の中に初めに生まれたのは、一つの二枚貝の貝殻だった。
どこにも光など無いにもかかわらず、それは真珠のような光沢と、虹色の艶めきをもって漆黒の中に浮かび上がっていた。
貝殻がわずかに震え、音も立てずに少しずつ開き始める。
するとその中から、美しい音色が聞こえる始めた。
女の歌声のようにも、竪琴の音色のようにも聞こえるそれ。
貝殻が開けば開くほどに音もまた大きくなってゆき、それに追従するように様々な種類の音が混ざり始める。
笛の音、太鼓の拍子、弦楽器の深い旋律に、金管楽器の響き。
一つ一つの音が調和してゆき、一つのハーモニーを形どり始める。
まるで貝殻が唄っているようだった。
そして唄う貝は、その音色と共に美しい泡もまたその口から浮かび上がらせ始める。
大きな泡、小さな泡。虹の七色を織り合せて作ったかのような様々な大きさのシャボン玉が、波間に揺れるかのように、ゆらゆらと漂いながら、音楽と共に広がってゆく。
真の闇の中、世界に浮かぶのは七色の無数の泡と、美しい音楽だけになる。それは夜空に虹がかかっているかのような、摩訶不思議な光景だった。
次第に音楽が盛り上がってゆき、そして最高潮を迎えるのと同時に。
シャボン玉が弾けて、そこから美しい魔物娘達が姿を現した。
ルビー、エメラルド、ブルーサファイア。宝石のように美しく煌めく鱗で覆われた魚の半身を持つ、半人半魚の魔物娘達。
あるものは楽器を片手に、またあるものは鱗の色と合わせた薄衣を纏い、虹色のシャボンの浮かぶ闇の中で泳ぐように身を翻してゆく。
観客の頭上を悠々と通り過ぎ、その隙間を誘うように泳ぎゆく。
海の底にある海底城では、重力の楔は地上に比べて緩められる。海の中の彼女達は、空を飛ぶ鳥以上に自由な存在だった。その姿は、星空で舞い踊る妖精のようだった。
奏で、舞い踊るのは人魚たちだけでは無い。無数の触腕を持つスキュラやクラーケンもまた、その両腕と触腕を優雅に揺らめかせ、振るわせながら舞っていた。
一見不気味にも見えかねないタコやイカの下肢にも関わらず、空間に囚われずに闇の中を踊るその姿は天使に並び立つほど幽玄だった。
彼女達は音楽に合わせて自由に舞い踊る。
舞の調子に合わせて音楽もその風合いや色合いを変え、時に情熱的に、時に穏やかに音と光が混じり合う。
アルタルフは、完全に見入ってしまっていた。
完全なる暗闇の中、音楽もあって周りの他の客の気配も感じられない今、まるでこの演目が自分の為だけに演じられているような、そんな気にさえなってしまっていた。
頭上を舞い、時には手の届くほどの距離を行き過ぎる海洋の魔物娘達。
人とあまり変わらぬ姿の娘も居れば、魚や軟体動物、中には甲殻類の身体を持つ娘も居る。だがそれらも決して醜くも恐ろしくも無く、どこかで神々しいような人外の力強さと美しさを感じさせた。
頭上ばかりを見上げていたアルタルフだったが、ふと何かが目に留まり視線を落とした。
方向としては舞台のあった方角。最初に貝殻が現れた場所には、まだ美しい貝が口を開けていて、その中でも何人かの魔物娘が音楽を奏で、舞を舞っていた。
その中で、アルタルフの目は一匹の魔物娘に釘付けになる。
華奢な女の子に見えた。薄紅の衣をまとい、魔物娘達の中でもひときわ大きく腕を振るい、美しく舞い踊っていた。
腕が振るわれ、薄紅の衣が翻るたびに虹色の泡が立ち、闇を虹色に彩るシャボン玉として浮かび上がってゆく。
浮かび、漂うのは大きな泡だけでは無かった。細やかな泡が寄り集まり、歪んだ虹のような七色のヴェールもまた暗闇の中を彩っていた。
なぜそれほどにまで激しく上半身を動かせるのかと疑問に思い視線を下げると、その理由はすぐに分かった。彼女の下半身は、しっかりとした強靭な蟹の身体をしていたからだ。
人外の異形の姿ではあった。しかしその力強い動きは、美しい体さばきは、そして何より心から楽しそうなその表情は、種族を越えた生命の輝きを感じさせた。
息をするのも、忘れてしまう。
アルタルフは、もう彼女の一挙手一投足から目が離せなかった。
一瞬。目があった。微笑まれたような、そんな気がした。
どくん、と大きく胸が鳴り、世界から彼女以外の音と光が遠ざかってゆく。
まるで世界には自分と彼女しか居ないかのような、そんな気がしてしまう。
もっと長く見ていたい。あの子の踊りを、もっと長く、近くで見てみたい。アルタルフはいつの間にか時間が止まってくれたらとすら考えていた。
しかし、その不思議な感覚は長くは続かなかった。
遠くの音楽が再び大きな盛り上がりを見せたかと思うと、暗闇の中に一気に光が戻り、そして照らし出された広間を歓声が埋め尽くしたからだ。
「どうでしたでしょうか。お楽しみいただけましたか?」
アルタルフはどこか遠くの事のようにその言葉と、割れんばかりの拍手の音を聞いていた。
いつの間にか目の前の机の上に大量のごちそうと酒が並んでいたが、驚くだけの気力も無かった。
周りの観客たちが突然現れた食べ物に驚きの声を上げる中、アルタルフはただ呆けながら少女が舞台のそでに消えて行くのを見送っていた。
歌と踊りが終わると、広間ではすぐに宴会が始まった。
ただでさえ食べ物も飲み物も普段では口に出来ないような高級品ばかりにも関わらず、その上お客の間に舞を披露してくれていた魔物娘達が付いて、酒の相手までしてくれる。
まるでこの世の楽園だ。アルタルフの同僚たちは皆口々にそう言いながら、上機嫌で酒を呷っていた。
一方アルタルフはと言うと、放心してしまって目の前の酒にも食べ物にも口を付けていなかった。
顔が熱く、胸の鼓動も強まったままいつまでも全身に響き続けていた。
先ほどの舞い踊り、特にあの蟹の娘の姿がまぶたから離れず、未だに昂揚感を抑えられないのだ。
力強くも美しい、生命力の溢れる身のこなし。異形の姿ではあるが、人外だからこそ表現しうる命の素晴らしさのような物を感じた。
と、アルタルフは急に視線を感じて顔を上げる。
かつてない程の興奮で力みすぎて変な顔でもしていたのだろうか、仕事仲間達が少し驚いた様な顔を向けていた。
訝しみ口を開きかけたアルタルフだったが、背後から声をかけらて口をつぐむ。
「あの、隣、よろしいですか」
「え、ああ、どう……ぞ?」
振り向いたアルタルフの視界に最初に入って来たのは、ごつごつとした甲殻で出来た大きなハサミだった。
最初は大きな蟹の料理でも運んでいるのかと思ったが、そうでは無かった。
視線を上げると、ほっそりした女性のお腹から緩やかな曲線を描く胸、そして少し幼さの残る少女の顔が目に入ってきた。
はしばみ色のぱっちりとした大きな瞳がアルタルフを見つめていた。
舞台で踊っていたあの子だという事が、アルタルフにはすぐに分かった。
「ご迷惑なら……」
「……え? あ、いや、迷惑なんて事は無い。俺の隣なんかで良ければ」
蟹の少女は器用に脚を折りたたみ、アルタルフの隣についた。椅子は無かったが、これもまた足を曲げて視線をアルタルフに合わせる。
「はじめまして。キャンサーのアセルスと申します」
「えっと。地上から来たアルタルフだ。その、よろしく頼む」
頭を下げる蟹の少女、アセルスにつられ、アルタルフもまた軽く礼をする。
しかしそこからどうすればいいのかアルタルフには分からない。もともと酒に席にもあまり出る方では無く、女遊びもしないのでこんな時どんな言葉をかけたらいいのかもさっぱりだった。
何だか居心地が悪い。ばつが悪くなり彼女から視線を外すと、違和感の原因はすぐに分かった。
周りが静かすぎるのだ。仕事仲間達が相変わらずの驚いた様な顔つきのまま、しゃべりもせずにずっとこちらを見つめたまま固まっていた。
「……俺が何かしましたか?」
アルタルフが睨む様に見回すと、男達は途端に我に返ったかのように再び笑い、飲み始める。
「え、いやぁ何でもねぇ、何でもねぇよ。ただちょっと、なんだな」
「なんつーかなぁ。ほれ、あれだよ、あれ」
「ほ、ほら。こんなごちそうなんですから、先輩も早く食べた方がいいですよ。飲んでますか?」
ベテランから新人まで、返ってくる言葉がよそよそしい。何だが様子がおかしかった。
「いや、俺は」
「何を飲まれますか? おすすめは海藻のビールです」
酒は飲まない、と続けるつもりだったアルタルフだったが、少女の健気な態度の前では無下に断る事も出来なかった。
「じゃあ、それを」
アセルスはこくん、と頷くと、蟹のハサミで器用に机の上の小樽を掴み取り、アルタルフのグラスへとビールを注ぎ入れる。
「どうぞ」
樽の中身は澄んだエメラルドグリーンの酒だった。グラスに注がれると気泡が立って、水面が薄い泡で覆われる。
アルタルフはグラスを受け取ると、すぐにグラスを傾けた。
礼儀としてほんの少し、舐める程度と考えていたアルタルフだったのだが、一口含んだ途端に次が欲しくて堪らなくなり、一気にグラスの半分ほどを飲み干してしまっていた。
海藻のビールなどと言うからには塩辛く、磯臭いのかと覚悟していたが、しかし実際の味は予想していた物とは全く異なっていた。
味らしい味はほとんど無い。しかしその代わりに口の中に含んだ瞬間にハーブのような豊かな香りが鼻腔に広がるのだ。それもきつい香りでは無く、柔らかで深みのある優しい香りだった。
ほのかに甘い風味も感じたが、炭酸がピリリと後味を引き締めてくれるおかげで後味も爽やかだ。
加えて、グラス半分も一気に飲み干しても身体に多少火照りを感じる程度で、普段のように気分が悪くなるという事が全く無い。
「うまい」
「気に入って頂けて、良かったです。食べ物もおいしいですよ」
「あぁ、それじゃあ……」
改めて机の上に目をやれば、そこには見たことも無い程の大量のごちそうが並んでいた。
海中の豊かな海産物を使った料理。魚の素揚げや煮つけはもちろん、大きな魚の活造りのようなものまで並んでいる。魚だけでは無く、当然エビやカニや貝を材料とした料理もある。中には見慣れないタコの料理まであった。
しかし驚くべきなのは魚以外の、さまざまな肉料理や果物などまで大量に並んでいるという事だ。
鳥、豚、羊、牛。どの肉だとしても海の底まで運んで来るには相当難儀した事だろう。果物や野菜についても同様だ。魚は泳いでいるのを捕えればいいが、それ以外はそうはいかない。現に港町でも魚は安くても肉はそうはいかないのだ。
黄金色の脂が滴っているあの肉料理など、一切れで荷運び作業員のひと月分の給料が飛んでしまうかもしれない。
葛藤でアルタルフが黙ってしまうと、アセルスは何も言わずに自身のハサミを伸ばして、机の上から料理をいくつも取ってアルタルフの皿へと移していってしまう。
一瞬あっけにとられたアルタルフだったが、「どうぞ」と皿を渡されてさらに驚いてしまう。
皿の上に乗っていた料理はアルタルフが食べようか食べまいかと迷っていた物ばかりだったからだ。当然あの黄金色の肉料理もあった。
「……君は、心が読めるのか?」
アセルスは首をかしげる。
「いや、その」
「アルタルフさんに食べて頂きたいと思ったものを取ったつもりです。……余計な事、でしたか?」
「そんな事は無いよ。ありがとう」
アルタルフは皿を受け取ると、お礼の意味も込めてすぐにローストビーフを一枚口に運ぶ。
そして、絶句した。
ローストビーフを食べたことが無いわけでは無かったが、こんなにも美味しいローストビーフを食べたのは生まれて初めてだった。その味の違いと言ったら、同じ名前の料理であることを疑ってしまう程だった。
試しに他の料理も食べてみると、これも同様だった。これまで食べてきたのと同じ料理のはずなのに、食べる料理は全て比較にならない程に美味かった。
勿体ないと思いながらも黄金色の肉料理も食べた。パリッと焼き上げられた皮の歯ごたえが心地よく、しかし肉質は柔らかで噛んでいるだけで溶けてゆくようだった。
芳醇な香草の香りが肉汁の豊かな風味と調和し、肉の旨味をこれ以上ない程引き立てていた。舌の上に乗り、食道を通り抜け、胃袋に落ちるごとに全ての器官が歓喜で震えるようだった。
それから先は食べるのに夢中になった。気付けばあっという間に皿が空になっていた。
「どうでしたか?」
「美味しかった」
アセルスは返事を聞くと、当たり前のように皿を受け取り、また新しい料理を盛り付ける。
そこでアルタルフははっと気が付いた。もしかしたら、この娘は自分が食べたいものを遠慮なく食べられるようにこうして何も聞かずに食べ物をよそってくれたのかもしれない。
自分から頼むのには遠慮する人間もいる。だが相手の方から「いかがですか」と渡されたら、食べない方が失礼にあたる。それを逆手に取ったのではないか。
「こちらの料理もいかがですか?」
「あ、ああ、ありがとう」
再び盛り付けられた料理も美味しいものばかりだった。だが彼女の気遣いに気が付いてしまうと、黙って食べているというのも忍びなかった。
周りを見回しても、皆先ほどのちょっとしたやり取りなど忘れて楽しげに談笑していた。
アルタルフは何かしゃべらなければと考える。しかし考えても考えても、言葉はなかなか浮かんでこなかった。結局口から出てきたのは、
「……美味いな」
と言う、料理の感想としても至極簡単な物だけだった。
女性の前だと何も言えなくなる。自分は相変わらずだと、アルタルフは内心でうな垂れる。
そんなアルタルフを見つめていたアセルスが、ふいに口を開いた。
「本当ですか?」
「もちろん。こんな美味しいもの初めてだよ」
アセルスは表情一つ変えないものの、しかし納得している様子も無かった。アルタルフとしては正直な気持ちを言っているつもりだったが、何か気になっているようだった。
「でも、何だか苦しそうに見えます……。何か私に至らない点でもありましたでしょうか」
「え? いや、そんな事は無いが」
「では、お腹でも痛みますか? それとも、お疲れなのでしょうか。そうであれば横になれる場所も……」
「それも無いよ。どこも痛くは無いし、疲れもいつも通りだ」
「でも……」
アルタルフは少し考えてその可能性に思い至り、まさかと思った。だがこちらの食べたいものを見抜いていた彼女になら、ありえない事でも無い。
どう伝えたらいいのか迷ったが飾る言葉も思いつかず、結局アルタルフはそれをそのまま素直に言葉にする事にした。
「実は女性と話すのが苦手なんだ。……いや、女が嫌いとかそう言うのでは無くてな、普通に交際などしてみたいとは思ってはいるんだが、どうにもこう、目の前にしてしまうと何をしゃべっていいのか分からなくて」
ばつが悪くなり目を逸らしたアルタルフの耳に、小さな吐息の音が聞こえて来る。
また落胆させてしまったのだろうかとため息を吐きそうになったアルタルフだったが、他ならぬ彼女の声がそれを止めた。
「私もです」
「……え?」
思わず顔を上げる。相変わらずじっと見つめてくるアセルスの表情が、心なしか柔らかくなっている気がした。
「しゃべるの、苦手です。踊っている方が好き。……あ、でも、アルタルフさんの事が嫌って言うんじゃありません。私もいい人が欲しいです。……でもこんな姿だし、怖がられる事も多くて、多分さっきも……」
眉尻をわずかに下げるアセルスを見て、アルタルフは慌てて口を開く。
しかし開けたまではいいものの、言葉がなかなか出てこなかった。特に外見の事など、下手な事を言っては余計に傷つけてしまいかねない。
それでも何か声をかけたくて、アルタルフはかつてない程に無い頭を回転させる。
「あー、えーと、踊り、踊りが好きなんだな」
「はい、大好きです。音楽に乗って、みんなと一つになれている気がして。踊っていると楽しい気分になれますし、余計な事も考えなくて済みます」
「すごかったよ、君の踊り。あんなに生き生きとした舞を見るのは初めてで、本当に素直に感動してしまった。
正直魔物娘なんて神に呪われた、人間を堕落させる敵だとしか思っていなかったんだが、自分の世界がいかに狭かったかを思い知った。世界にはこんなに綺麗で、凄い生き物が……」
アルタルフはそこまで言ってから、ようやく自分が何を言っているのかを自覚する。
何か声をかけなければと必死になるあまり、とんでもない事を口走ってしまった。もてなしをしてくれている魔物娘に向かって「神に呪われた人間の敵」など、面と向かって罵っているような物ではないか。
現にアセルスは大きく目を見開いて言葉を失ってしまっていた。
「いや、その、すまない。そう言うつもりでは」
「……嘘」
アルタルフはアセルスの顔を見ていられず、素直に頭を下げる。
「悪かった。俺は最近まで神の教えを信じていたんだ。もちろん魔物娘が人間を殺したりしないなんてことは知ってはいるんだ。けど、実際に見るまでは、その」
「そこじゃなくて、踊りの事です」
「踊りの事?」
恐る恐る顔を上げると、アセルスは頬をほんのちょっぴり赤らめていた。
「その、感動した、とか」
「あ、ああ! 本当だよ。感動した。暗闇の中にシャボン玉と魔物娘達が踊っているのも凄く、その、楽園のような光景だったし、特に君の動きからは目が離せなかった。まるで魔法にでも掛けられているかのようだったよ」
「ぶ、舞台は簡単な魔法の応用なんです。クラーケンさんは暗闇を作り出す魔法と闇の中で自分だけの姿を相手に見せる魔法が得意で、それを応用して、この広間を真っ暗にして、私達踊り子の姿だけをお客様に見せるようにしてるんです。
泡は、私の魔法ですが、踊りは魔法じゃありません。れ、練習も、したんですよ?」
アセルスはわずかに目を泳がせると、恥じらうように俯いてしまう。
なぜ急にしおらしくなってしまったのか。思い返したアルタルフは自らの発言に思い当り、顔を赤く染める。
真正面から感動した、綺麗だった、目が離せなかったなどと馬鹿正直に言われては、困惑して当然ではないか。
「い、いやあ、魔物娘って言うのは、大したもんなんだな」
結局アルタルフもアセルスの事が見ていられずに目を逸らしてしまう。
けれどこうしていても埒が明かないとアルタルフはアセルスに向き直る。すると、ちょうどアセルスも顔を上げたところだった。
お互い口を開きかけ、声をかけようとしたその時だった。
『えー、宴もたけなわではございますが、本日の酒宴の時間はここまでとなります』
アルタルフはアセルスと顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
『気に入った女の子がございましたら、どうぞ今晩はその娘と共にこの海底城に泊まって行って下さい。お部屋は余っておりますので、ご遠慮せずにお声をかけて下さいね』
そしてそんな風に続いた知らせに、アルタルフは苦笑いを引きつらせてしまうのだった。
帰りの船着き場に集まったアルタルフの仕事仲間達は、驚く事に半分にも満たなかった。話によれば来なかった者は皆この海底城に一泊してゆくとの事だった。
泥酔で動けなくなったというわけでは無いのだろうという事は、普段は鈍いアルタルフでも察しがついた。仕事仲間達は皆一晩飲み明かした程度では潰れない酒豪たちばかりだからだ。
数匹の魔物娘達に見送られ、定刻通りに帰りの船は出港した。見送りの中にはアセルスの姿もあった。
海底の海は真っ暗で、浮かんでいるのか沈んでいるのかも分からない。しかしアルタルフには行きの道中に感じたような不安は無かった。代わりにあったのは意外にも寂しさだった。
船の端で船底を眺めていると、自然とため息が漏れた。
思い返すのはアセルスの事ばかりだった。表情には出していなかったが、彼女のハサミは何度もアルタルフの服を掴みかけていたのだ。本当は彼女はアルタルフに残って欲しかったのかもしれなかった。
けれどアルタルフが選んだのは船で帰るという選択肢だった。無論もっとアセルスと共に居たい、話したいという気持ちが無いでも無かった。しかし一夜を共にするほどの覚悟は、まだ無かったのだ。
「よぅアルタルフよう」
黄昏ているアルタルフの隣に、行きで隣だった男が腰を下ろす。酒臭い息がかかり、アルタルフは顔をしかめた。
相当酔っているのだろう。男は特に悪びれる事も無く、上機嫌の様子でアルタルフの肩を叩いた。
「すげぇのに気に入られてたな。いやぁでも無事に逃げて来れて良かったなぁ」
「どういう意味だ」
「蟹娘だろう。ありゃあちょっと迫力があり過ぎる。よくもまぁ平気な顔で隣にいられたもんだよ。俺だったらあんなのが近くにいたらちびっちまいそうだぁ。いつあのハサミで挟まれないかとひやひやしちまうよ」
「あの子はそんな事はしない。心の優しい大人しい子だよ」
「でもなぁ、魚やイカタコならまだともかく、蟹は怖ぇよ」
へらへらと笑いながら、男は怖い怖いと連呼する。アルタルフはそんな軽薄な男の態度が癪に障り、むっとして言い返した。
「天使だって背中に羽が生えていると言ったのはあんただろう。魔物娘は悪い奴等じゃ無いって言ってたのも、あんただ」
「それはそうだが、でもよお、やっぱり鳥の羽と蟹や虫の足ってのはやっぱり違うだろうよ。俺はあの節足がどうにも苦手なんだ」
酒が入っているせいか、男は来た時よりも饒舌だった。これがこの男の本音なのかもしれなかった。そう思うと、アルタルフはやるせないやら腹立たしいやらで何を言う気も無くなってしまった。
「やっぱり俺は抱くなら人間がいいなぁ。お前だってそうなんだろう。だから帰って来た。違うか?」
「いや、俺は……」
アセルスを、抱く? アルタルフは想像しようとするものの、彼女の裸体を思い描くのが精一杯で、どのように交わるのかは全く見当がつかなかった。
けれど彼女の事を考えただけで胸が高鳴るのは事実だった。こんな感覚は、今まで覚えたことが無かった。
「抱けねぇのさ。抱けるならあの場に残っているはずだろ?」
答えられないアルタルフに対し、男は勝ったとばかりに胸を張る。
「僭越ながら口出しさせていただきますが、それはそこの殿方が、それだけアセルスさんに真剣だから、では無いでしょうか」
それに異議を申し立ててきたのは意外にも、船の航行を司っている船頭だった。
「真剣に相手の事を考えるからこそ、簡単に手が出せない。そう言う男女の関係もまたあるのだと思いますよ? ゆっくりと時間を掛けて育てる愛と言うものもございます。
……羨ましい限りです。私に声をかけて下さった方は、結局別の子のところに行ってしまったようですから」
船頭はあくまで穏やかに告げるが、しかし男は勝ち誇ったように笑うだけだった。
「ゆっくり時間を掛けて育てるって言ってもなぁ。こいつは地上、あの蟹の子は海底だろう? もう会う事も出来ねぇじゃねぇか」
アルタルフははっと息をのんだ。そうだ。また会いたいとは思っているが、実際どう会えば良いのだろうか。
このまま一生会えないのだろうか。それは嫌だ。
だがどうせ会えないのならば、これで良かったのかもしれない。下手に情を移すよりは、一度の出会いで済ませておいた方が……。
「会えない事はありませんよ。毎週一度はあのような催しは行っておりますので、今日と同じ時間に同じ場所に来ていただければ案内いたします」
「本当ですか?」
「ええ、嘘は申しません。あの港町も親魔物領になった以上は、胸を張って仕事が出来ますしね」
アルタルフは目の前に光が差したような心地がした。捨てる神あれば拾う神あるというのはこの事だ。
「け、けどよお、色々金もかかるんだろ? あれだけの宴会だ、俺達貧乏人がそう何度も」
「確かに多少お代はいただきます。そうですね、大体……」
船頭が口にしたのは、驚くべきことにアルタルフの丸一日の食費代程度の額だった。
流石に毎日と言うわけにはいかないが、毎週遊びに行くだけであれば十分に可能だ。
「良ければ、また是非来ていただきたいです。アセルスさんもきっと喜びますし」
「ええ行きます。来週もまた、ぜひ」
アルタルフは目を輝かせて二つ返事で答える。だが、隣の男はまだ納得出来ていないようだった。
「け、けどよお、お前確か船酔いするじゃあねぇか。移動どうすんだよ」
「あ……」
「うふふ。ここはもう船の上ですよ?」
考えてみればその通りだった。本来ならば行きで気が付くべきだったのだが、体調にも変化が無かったのですっかり失念してしまっていた。
「海の上は駄目だが、浮いたり沈んだりは平気ってこと、なのかな」
「なんでぇ。そんな出鱈目な船酔い、聞いた事ねぇぞぉ?」
男はまだ何か言いたげではあったが、それ以上は何も言ってこなかった。
それからの一週間を、アルタルフは期待と不安と共に過ごした。
もう一度アセルスに会えるかもしれないと思うと胸が高鳴ったが、もし迎えの船が来なかったらと思うと気持ちが落ち着かなかった。
そして海底城に行ってから一週間、約束通りに迎えの船は港にやって来た。
船は無事に海底城へたどり着き、アルタルフは再びアセルスと再会できたのだった。
***
海底城に通い始めて数週間目の週末。いち早く仕事を終えたアルタルフは早々と仕事場を後にし、船着き場へと向かう。
あの日からアルタルフの生活は一変していた。
世界が鮮やかに色づき、食事も美味く感じるようになり、何かするのも身体の底から力が湧きあがるようだった。
それもこれも、週末の楽しみがあるからだった。
アセルスの舞い踊りを見られると思うと、また言葉を交わせると思うと、どんなきつい仕事でも耐えられた。怪我したり身体を壊しては会いに行けないからと、健康にも気を付けるようになった。
以前のように生きることに悩むという事もほとんど無くなった。
神はどこにいるのか分からず、教団の教えにも嘘はあったが、アセルスは必ず海底城でアルタルフの事を待ってくれており、アルタルフの彼女に対する気持ちにも嘘は無かった。
アセルスのおかげで大きな悩みは無くなった。だがアルタルフは、別の意味でアセルスの事が悩みの種にもなってしまっていた。
今のアルタルフの悩み。それは、彼女との関係だった。
何度も会いに行き、幾度も言葉を交わし合った事で、彼女との距離は確実に縮まっていた。今ではもうほとんどお互いに気を使う事無く自然に話す事が出来るようになっていた。
けれど進展はその程度で、それ以上の関係に踏み込むことがまだ出来ていなかった。
海底城に泊まった事もまだ無かった。彼女は残って欲しそうなそぶりは見せていた物の、明確に言葉や態度で示す事も無かった。アルタルフとしては自分が彼女の気持ちを誤解していたらと思うと怖くなってしまい、そんな事もあって毎週酒を飲んだらすぐに帰ってしまっていたのだった。
このままでは良く無いとはアルタルフも分かってはいたが、しかし現状で十分満足してしまっても居た。そんな事もあって、下手な事をして関係を壊してしまうのではと考えると、行動にまではなかなか移れなかった。
港から海底城に向かう船の上で、アルタルフは今日もまた今回こそは彼女との関係を深めようと考える。
今回駄目だったら、次回頑張ればいいさ。そんな風に、いつものように自分を誤魔化すような言い訳を最後に入れながら……。
海底城で演じられる舞い踊りはその週ごとに微妙に振り付けや流れが変えられている。
季節や月ごとにテーマを変えているらしく、お客が何度海底城を訪れてもその時ごとに楽しめるように考えられているのだそうだ。
その日の演目も素晴らしいものだった。とはいえ、アルタルフが注視していたのはやはりいつものようにアセルスの姿だけだった。
演目が終わると魔物娘達が客席まで降りて来ていつものように酒宴が始まった。
アルタルフもアセルスが来るのを待った。ところが、その日はなぜかアセルスはなかなかやって来なかった。
いつまでも姿を見せないアセルスを不安に思い、アルタルフは席を立って広間を見渡す。
どこの席にもアセルスの姿は無かった。別の席に行っているという事は無いようだったが、依然として彼女の所在は分からないままだった。
嫌な予感がした。
冷静に考えればここで彼女が来るのを待ち続けるべきだった。自分は一介の客に過ぎないのだから、相手をしてくれる魔物娘にわがままなど言うべきでは無い。
けれどアルタルフは居ても立っても居られなかった。アセルスの事を探すために動き出すまでに、そう時間は掛からなかった。
舞台の上で踊る魔物娘達は一度裏口から外に出て、広間の入り口から来ることになっている。アルタルフはそれを思い出し、廊下に出て舞台の方向へ探しに行く。
そして廊下を進み出してすぐに、彼女が来ない理由が分かった。
「いいじゃねぇかよ姉ちゃん。俺の相手してくれよぉ」
「こ、困ります。離してください」
「離してくれって、俺はお客様なんだぜぇ?」
廊下の隅で、アセルスが漁師風の男に絡まれていた。
男はなれなれしくもアセルスの肩を抱き、にやにやと笑いながら息がかからんばかりに顔を近づけている。
アセルスは相手がお客と言う事もあって無理矢理引きはがす事も出来ないようだった。けれどその表情を見れば彼女が嫌がっている事は明白だった。いつも感情を顔に出す事が無いアセルスが、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。
アルタルフの胸が一度急に冷え込み、そして頭がかぁっと熱くなる。
「おいやめろ。嫌がっているじゃないか」
アルタルフは二人の方に近づき、男の腕を掴んで引き剥がす。考える前に身体が動いていた。
「アルタルフ」
身を寄せてくるアセルスを背後に庇い、アルタルフは二人の間に立つ。
「いてて。おいなんだよ兄ちゃん。邪魔するんじゃねぇよ。俺はお客様なんだぜぇ?」
「それなら俺も客だ」
腕を離してやると、男は大仰に腕をさすりながらアルタルフの顔を見上げる。
そして、何かに気が付いたように目を見開くと、急に下卑た笑いを浮かべてアルタルフの事を指差した。
「あんた見たことあるぜ。毎週来てその姉ちゃんと話だけして帰ってく奴だ」
「そうだが、何か問題でもあるのか」
「いやぁ? ただ見ているだけで満足しているような男に、旦那みてぇな面ぁしてほしくねぇなぁって思っただけさ。
いいかぁ? 魔物娘ってのはな、ナニがおったちそうだったらすぐにその場で抱いてやった方が喜ぶんだよ。こいつらは子作りの事しか頭にねぇんだからよ。
その姉ちゃんだってただ見てるだけの男よりは胎ん中に子種をまき散らしてくれる男の方が良いに決まってらぁ」
アルタルフは震える拳を強く握りしめる。それは殴るためでは無く、殴りかかりそうになる自分を抑えるためだった。
「ふざけるなよ」
「ふざけているのは兄ちゃんの方だろう? その姉ちゃんが欲求不満そうだったから、親切な俺が一晩中可愛がってやろうって言うのに。あぁ、すべすべの姉ちゃんの肌、たまんねぇなぁ」
アルタルフは、自分の中で何かが切れるのを自覚する。そして考える前に、それは行動となって表れてしまっていた。
「アセルスは、アセルスは俺の女だ! 俺の女を、嫌らしい目で見ないでくれないか! 今日は結婚を申し込みに来たんだ。これから愛を交わし合おうという前に外野にしゃしゃり出られてはいい迷惑だ!」
震えるアルタルフの拳に、アセルスの手の平が重ねられていた。アルタルフが殴りかからなかったのは彼女の手のおかげだった。そうでなければ、言葉よりも先に手が出ていた事だろう。
「そ、そうです。お客様には申し訳ありませんが、私は……」
畳み掛けるようなアセルスの言葉に、男はぽかんと口を開けて勢いに飲まれてしまっているようだった。
アルタルフがさらに追撃を加えようとしたその時だった。
「お客様、どうなさったのですか?」
騒ぎを聞きつけたのか、店のクラーケンがこちらに向かって来ていた。
「き、聞いてくれよぉ。俺はただそこの姉ちゃんと遊びたいって言っていただけなのに、そこの男が俺の女だなんだと騒いでよぉ」
「そうでしたか。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。その分たっぷりとサービスをさせていただきますので、どうぞこちらへ」
クラーケンは慣れたような口調で言うと、男の腕を取って自分の乳房を押し付けるように腕を組んだ。
途端に男の表情が緩いものに変わり、男はクラーケンに導かれるままいずこかへと連れて行かれてしまった。
見事なほどにあっという間の出来事で、アルタルフもアセルスも何も言う事が出来なかった。
廊下は何事も無かったかのように平静さを取り戻しており、あとには困惑する二人が残されたのだった。
我を忘れて激情に流され、しかしその対象が簡単にどこかに行ってしまった事で、アルタルフは廊下に突っ立ったまま呆けてしまっていた。
アセルスも同様のようで、あっけにとられてしまっていたようだった。
しばらく降りていた沈黙を、先に破ったのはアセルスの方だった。
「アルタルフ。ありがとう」
呆然としていたアルタルフも、アセルスによって現実に引き戻される。そしてとんでもない事をしてしまったという事に気が付き、渋面になって頭を下げた。
「いや、勝手な事をしてしまった。すまない」
「そんな事無い。……ねぇ、さっきの話、本当?」
「悪かった。俺の女だとか勝手な事を言って。けれど俺は……」
アルタルフはそこで一度言葉を区切り、大きく深呼吸する。
今の一件でアルタルフはようやく自分の気持ちを悟っていた。もう彼女を見ているだけでは満足できない。見ている間に誰かに取られるなら、彼女には自分の側に居て欲しい。週に一度では無く、いつも一緒に居たい。
「本気だ。俺の嫁さんになってくれないか」
アセルスは泣き笑いを浮かべ、そしてアルタルフに向かって体当たりするように抱きついた。
意表を突かれたアルタルフは彼女を支えきれず、廊下に押し倒されるような形で倒れ込んでしまう。
「嬉しい。……嬉しい! はい。私、アルタルフの妻になります。これからずっとあなたのそばに居ます」
一瞬、夢ではないかと疑った。
けれど肌に感じるアセルスの体温が、彼女の匂いが、これは確かに現実なのだとアルタルフに教えてくれていた。
「本当に、いいのか?」
「アルタルフじゃなきゃ嫌だもん。初めて見た時から、私の全てはあなたに捧げようって決めていたから。だって、あんなに私の事熱心に見てくれたの、あなただけだったから」
頬が熱い涙で濡れてゆく。
アルタルフは彼女の背中に腕を回し、しっかりと抱き締める。そうするのに、もう一切の迷いも無かった。
『ねぇアルタルフ。こんな事言ったら嫌われてしまうかもしれないんだけど。お願いがあるの』
『なんだ? 俺に出来る事なら何でもする。でも、何を言われても嫌いになどならないよ』
『あの、あのね。私、アルタルフの子供が欲しいの。……子作り、したいの』
『あー……。そうか、分かった。いずれはしたい事だったし、それが早くなるだけだからな』
廊下での一件の後、そんなやり取りを交わした二人が向かった先は、海底城随一の広さを誇る大浴場だった。
他の客達はまだ酒に興じているのだろう、脱衣所には人気はほとんど無かった。
「風呂?」
アルタルフは驚きと戸惑いを隠せなかった。てっきりベッドルームにでも案内されると思っていたので、こんなところに連れて来られるのは予想外だった。
「あの、ね。その、匂いが気になって……」
アルタルフは自分の服に鼻を当て、苦笑いを浮かべる。
「ごめんな、汗臭くて」
「違うの。アルタルフの匂いは好き。汗の匂いも、うっとりしてしまうくらい。私が気になっているのはそれじゃなくて、他の雌の匂い」
雌。女と言う事だろう。しかしアルタルフは首を傾げざるを得なかった。自分は女に縁があるとは言えない。まともに会話をしている女性ですら、アセルスくらいなのだから。
「信じてもらうしかないが、俺はアセルス以外には」
「分かってる。でも、お仕事で扱った荷物の中に魔界産のものとか、あるでしょ」
「あぁ、確かに最近じゃホルスタウロスミルクやらアルラウネの蜜やらアラクネの糸やら、これまで運んだことも無いものも扱っているな」
「多分それから移ってるんだと思う。ほんのわずかだけど、他の魔物娘の匂いがするの。……アルタルフから他の魔物娘の匂いがするのは、嫌なの。
わがまま言ってごめんなさい。私が綺麗にするから。アルタルフは座っているだけでいいから」
俯いたアセルスの声はどんどん小さくなってゆき、最後には聞こえない程にしぼんでしまう。
アルタルフは小さく笑うと、返事をする代わりに黙って衣服を脱ぎ始めた。
薄汚れたシャツやズボンを脱ぎ捨て、下着も少し逡巡したものの、結局脱いでアセルスの前に裸体を晒す。
「脱いだぞ」
アセルスは弾かれたように顔を上げ、そしてすぐに顔を真っ赤に染める。視線は明らかにアルタルフの股間を向いていた。
「あっ。……すごい」
「大したものじゃない。他と比べて自信もないしな。……そんなに見つめられると、恥ずかしいんだが」
「ご、ごめんなさい」
「あと、俺だけ裸って言うのも」
アセルスはこくこくと頷くと、何のためらいも無く着ていた踊り子用の薄物を脱ぎ捨て、胸元や腰元に巻いていた衣を外してゆく。
踊り子の装束はもともと露出が多く、裸に近い姿と言っても過言では無かった。しかしやはり着衣があるのと一糸まとわぬ姿では見る者の印象が全く違った。
踊り子姿には踊り子姿の色気や妖艶さがもちろんあった。しかし今アルタルフが目の前にしている彼女の裸体には、またそれとは違った生々しい蠱惑的な美しさがあった。
その身体は舞踊によって鍛え上げられたのだろう細く締まっていたが、しかしそれでいて女性らしい柔らかさも失っていなかった。
華奢な肩に、浮き出た鎖骨。ほっそりしたウエストから腰元へ向かうゆったりとした身体の線は、男に雄の衝動を抱かせるには十分すぎるものだった。
痩せて小柄なだけあり、胸は決して大きくは無かった。その膨らみは、魔物娘の中ではむしろ控えめな部類に入るだろう。けれども頂上に桃色の小さな果実を頂くその緩やかな曲線は、それはそれでどこか背徳的な欲望を抱かせた。
そんな可愛らしい女性の身体が乗っているのが、少々無骨な蟹の肉体の上と言うのもアンバランスな妖しさがあった。
「アルタルフも、人の事言えない」
「すまん。綺麗だと思って、つい」
「いい。アルタルフに見てもらえて、嬉しいから。それじゃあ、行こ」
アセルスはアルタルフの手を引き、歩き出す。
大浴場への扉をくぐると、柔らかな蒸気と、それに続いて花のような爽やかな香りが二人の身体を包み込む。
「海底温泉のお湯に、魔界ハーブを浮かべているの。少しぽうっとしてくるかもしれないけど、今日は理性に影響するような組み合わせじゃないから大丈夫」
「今日はって事は、ここも日替わりなのか?」
「うん。温泉にだけ来る夫婦もいるよ。ほら」
アセルスの言う通り、離れたところから男女の笑い声や水が弾ける音が聞こえていた。蒸気で見えにくいが、他にも客が居るようだった。
「先に温まろう。こっち」
案内された先にあったのは、湯気の発生源でもある、湯がいっぱいに張られた大きな浴槽だった。その大きさは貴族の豪邸どころか、どこかの王宮を思わせる程だった。それにこんないっぱいに湯を張っているのだから、その豪華さも知れるというものだ。
思わず見入ってしまうアルタルフをよそに、アセルスは簡単に身を清めはじめる。
蟹の身体の背中などは洗いづらいのではないかと思われたが、アセルスは見た目以上の身体の柔らかさをもって自分の身体を洗ってゆく。
「みんなで使うところだから、汚れは落とさないとね」
「あ、ああそうだな。俺も洗おう」
またもや彼女の姿に見蕩れかけたアルタルフだったが、彼女の言葉に我に返る。
アセルスの隣に並び、湯を汚してはならないとばかりに念入りに身体を清めた。
「じゃあ、入ろっか」
ざぶざぶと湯に身を沈めてゆくアセルスに並び、アルタルフも湯に足をつける。
痺れるような熱さが一瞬足を包み込む。しかし刺激的なのはその一瞬だけで、すぐに熱さは身体がとろけてしまうような心地よさに変わった。
両足をひたすと、あとはもうためらいも無く肩まで浸かってしまった。
「あぁー」
「気持ちいいでしょ。踊りの練習の後、みんなで入ったりするの。ここに入ると、疲れもすぐに取れるんだ」
アセルスの言葉に偽りは無かった。腰や肩など身体中の凝っている部分、疲れている部分が特に熱を帯び、ほぐれて溶けてゆくような心地良さに、アルタルフは大きく息を吐く。
気持ち良くて、すぐに頭がぼうっとしてきてしまう。目を瞑れば眠ってしまいそうな程だった。
「良い湯だな。毎日入りたいくらいだ」
「歓迎するよ。私もアルタルフと一緒に入りたい」
アルタルフの隣で、アセルスは小さく微笑む。お湯で気持ちも緩んでいるのか、いつもより感情表現が柔らかかった。
アルタルフはぼんやりと、アセルスを見つめる。
本当に、本当にすぐそばにアセルスの身体があった。湯につかって赤みの差した柔らかそうな肌が、上気した頬が色っぽい彼女の顔が、手を伸ばせば届くほどの距離に。
そして、考えた時には手を伸ばしてしまっていた。
アルタルフは彼女の肩を抱き、ぐっと抱き寄せる。
少し驚いた様な彼女の顔の上に覆い被さるように、唇を重ねた。
「んっ」
強張っていたのは一瞬だけだった。アセルスはすぐに唇を、身体ごとそうするようにアルタルフに委ねる。
お互いの唇を、その形を、柔らかさを楽しむかのようについばみあう。やがて唇だけでは物足りなくなり、どちらからともなく舌を伸ばし始める。
触れた瞬間その柔らかさに驚いたように舌を引っ込め合い、二人して探る様に舌を触れ合せ、絡め合わせ始める。
お互いの体液を求め、唇をなぞり、歯の裏をくすぐる。どんなに激しくしても、お湯の音にかき消されて誰かに気付かれるという心配も無かった。
我慢できなくなったアルタルフは彼女の胸元に手を伸ばし、その膨らみに包み込む様にして触れる。
「んんっ。ある、たるふ」
アルタルフの手にアセルスの手が重ねられ、やんわりと押し戻される。
「あ。……済まない。嫌だったか」
「そんなのあるわけ無いよ。……でも、ここはみんなで使うところだから。あっちに、その為の場所があるから、ね?」
「じゃあ、そこに行こう」
「うん」
立ち上がり、アルタルフは自分の身体を見下ろして驚いた。自分でも気が付かぬうちに、自分の股間のそれがかつてない程に逞しくそそり立ってしまっていた。
「……すごい」
「いや、その。そう言うつもり……ではあったが、こんな事になっているとは」
「このお湯には、抑えている欲望を引き出して、それに正直にさせる効果もあるの。私ももう……早く行こう」
湯から出た彼女の身体も、蟹の半身も、期待と興奮を押し隠せないのかほのかに桜色に染まっていた。
アセルスに着いて行った先にあった扉をくぐると、そこは濡れたまま入れる部屋になっており、いくつかの白くてふわふわした質感のベッドが並んでいた。
「そこに座って」
アルタルフは言われたままにベッドの端に腰かける。触ってみると、密度と肌理の細かい綿のような感触がした。力を入れると入れただけ沈み込み、力を抜くと元の大きさに戻ろうとする不思議な素材だった。もともと濡れたまま横になる事を前提としているのだろう、濡れた手で触っても特に不快な感触も無かった。
「それじゃあ、本格的にしよっか。……まずは、アルタルフの身体を綺麗にするね」
「でも、さっきちゃんと洗ったぞ?」
わざわざそんな手間をかけなくても、と言うつもりでアルタルフは声をかけたつもりだったのだが、アセルスは子供のように口をへの字に曲げる。
「お風呂に入ったから他の魔物娘の匂いも付いちゃってる。……アルタルフから別の子の匂いがするのは嫌」
「分かった。お任せするよ」
アルタルフがそう言って笑いかけると、アセルスは安心したように表情を緩めて頷いた。
「はじめるね。私の"泡"で、綺麗にしてあげる」
そう言うと、アセルスは蟹と人間の身体のつなぎ目辺りに指を這わせ、すくい上げるように動かし始める。
何度か指が往復するうち、彼女の腰元から泡が立ち始める。一度泡が出始めると、あとはそんなに時間もかからずに泡は次々と溢れ出してきた。
アセルスはその泡を自分の腕と胸元に塗りたくり、そして、
「うっ」
座ったアルタルフの腕を両腕でしっかり抱えて、身体を擦り付けるように動かし始めた。
「アセルス。こんな」
「どう? 気持ちいい?」
「気持ちいい。良すぎる、くらいだ」
アセルスの柔らかな肌が、乳房が腕に押し当てられ、肩口から指先までぬるぬると滑ってゆく。角度を変え、時に彼女の腋の下で、ひじの内側で挟まれ、擦られる。挟めない指先には指をねっとりと絡められる。
快楽は視覚や感触だけに留まらなかった。肌が滑るたびにニチュニチュと湿った音が響き、アセルスの甘い匂いが香る。
アルタルフは腰の底から何かがもたげ始めるのを感じていた。だが歯を食いしばりそれを堪える。
「右腕はこれで良し。左腕、出して」
言われるままに左腕を差し出し、再び腕がとろけてしまうような奉仕を受ける。
肌に直接与えられる感触もとろけるようだったが、アセルスの表情もまた堪らなかった。
舞台で踊るときのような一生懸命な顔、感じやすいところが擦れたときの恥じらうような表情、零れる熱い吐息。
気付けば左腕も終わっていた。
「次は、右脚」
脚を上げると、こちらも同じように胸の中にぎゅっと抱きしめられ、擦りつけられた。
大切な場所に近い分、刺激の強さもひとしおだった。
アルタルフは気を逸らす為に必死になる。何とか女体の快楽から目を逸らそうと、彼女の下半身に意識を集中させた。
蟹の腕や脚は、甲殻の部分は硬そうではあったが、関節部分は意外と柔らかそうでもあった。女体とのつなぎ目辺りは甲羅が少し外れるらしく、中はブラシ状になっているのも発見した。
蟹の身体から出ている青い目も綺麗だった。深い色合いで水晶のように澄んでいて、人間の瞳には無い美しさがあった。
と、気が付けば右脚が終わっていたが、なぜだかアセルスの顔が首まで真っ赤になっていた。
「さ、最後に、左脚」
「あ、ああ。でもどうしたんだ。真っ赤だぞ」
「だってアルタルフ、私の身体じっと見て来るんだもん。そんなに身体や、目を見つめられたら緊張するよ」
「わ、悪かった。でも、綺麗な目だと思って」
「……綺麗だなんて、初めて言われた」
はにかむアセルスが堪らなく愛しく、アルタルフは彼女の頭を撫でる。
しかしアルタルフにはなぜ彼女が自分の視線に気が付いてたのか疑問だった。考えられるとすれば、蟹の目でも周りを見ているという事くらいだったが……。
「もしかして、そっちの目も見えているのか?」
「うん。細かい表情の動きとか、筋肉の動きとかも分かるよ」
「それは凄いな。……もしかしていつも俺が食べたいものとかが分かったのも」
「見てれば分かったから」
アセルスは左脚を抱き締める。
「……ごめんねアルタルフ。私に柔らかい足があったら、もっと気持ち良くさせてあげられたかもしれないのに」
「かもしれないが、けどアセルスの脚も可愛いぞ。歩いてるだけでも可愛いし、喜んだりしたときに動いてたりして、……今もほら」
意識的にしているのではないだろうが、アルタルフが笑顔を向けたり声をかけるたび、アセルスの蟹の脚はわずかに縮こまったり動いたり、床を軽く叩いたりしていた。表情に出ない分身体に出ているのかもしれないが、そんなところが小動物のように可愛らしい。
「からかわないでよぉ」
「嘘じゃないぞ。と言うかこうでもしてないと、限界が近いんだよ」
「我慢しなくていいんだよ。出したいときに出して……。と、左脚もおしまい」
身体を解放され、アルタルフはほっと息を吐く。
アセルスの全身奉仕は天国のような心地よさだった。それは文句のつけようも無かったが、同時に射精を我慢するとなると地獄苦しみでもあった。
アルタルフのそれは今やがちがちに硬く、大きく膨れ上がってはいた。いつ暴発してもおかしくない程ではあったが、最後の一線だけは守り切っていた。彼女は我慢しなくてもいいと言ったが、アルタルフには男としての意地もあるのだ。
アルタルフは自分の腕の匂いを嗅ぎ、ぽつりとつぶやく。
「全身から、アセルスの匂いがする。……これはいいな」
「ま、まだ終わってないよ。ほら、今度はここに座って」
「ここって、だが」
頬を染めたアセルスが指差した先は、彼女の正面、蟹と人の身体の継ぎ目辺りにわずかに開いた彼女の甲殻の上だった。
肌を密着させずに座るのは、まず不可能だ。座れば当然剛直を下腹に押し当てる事になってしまうだろう。
アルタルフは後ずさろうとしたが、何か硬いものが背中に当たって動けなかった。見れば、いつの間にか彼女のハサミが背後に回り込んでいた。
「……アルタルフ」
逃げ場を失ったうえ、こんな寂しそうな顔をされてはアルタルフにはどうしようもなかった。
アルタルフはアセルスに跨るように、小さな甲殻の上に座る。
途端にアセルスの両腕がアルタルフの背中に回り、ぎゅうっと強く抱き締められた。
肌と肌がぴったりと密着する。お互いの心臓の音すら溶け合う程に、しっかりと抱き締め合った。
「そ、それじゃ、上半身綺麗にするね」
アセルスの腕が背中をまさぐり始める。細い指が背筋を撫で上げ、背中の筋肉に沿ってゆっくりと愛撫してくる。
同時に彼女は上半身を上下に揺すり、腹と腹同士を、胸と胸同士を擦りつけてくる。
ぬるぬるとした泡まみれの肌はどこも滑りが良く、アルタルフの全身にねっとりと絡み付いてくるようだった。
「うぅっ。くっ」
アセルスは呻き声を上げるアルタルフの頬に頬ずりし、首を舐め、顎を舐め、やがては耳にまで舌を這わせてくる。
「アルタルフ、綺麗にしてあげるからね。他の女の子の匂いなんて、いらないもんね」
「あ、ああ。俺には、お前が居てくれれば、それで」
「じゃあここも念入りに洗っておくね」
アルタルフの股間をそれまでとは全く異質の感触が包み込む。
それは、ぬるぬるとした液体で濡れた大量の柔らかい毛のような感触だった。見下ろしてみると、小さな蟹の顎のような物が腰の部分で動いていた。
「細かいブラシみたいになってるの。これならどんな小さな汚れも、わずかな匂いも残さない」
「アセルス、これは、刺激が強すぎる。くっ」
ブラシになっている下顎は更に強くアルタルフのそれを圧迫し、激しく上下に揉み上げてくる。
細かい柔毛が一物全体を包み込み、絡み付き、擦り上げ、時に尿道にまで入り込んで洗い上げてくる。
今まで精一杯耐えてきたアルタルフだったが、これには耐えきれなかった。
「あ、あああっ」
大きく腰が跳ね、顎からはみ出た男根から白濁が迸る。
度重なる脈動と共に何度も放射されたそれはかなりの粘度を持っており、アセルスの胸元を汚したまま流れ落ちることなくそこに留まる。
「あぁ……。アルタルフの、いっぱいでた」
「悪、い。アセルス。我慢が、出来ず、君を汚して」
「凄く、濃い匂い……。こんなの、初めて」
アセルスは胸元のそれを指で掬い取り、匂いを嗅いでから、何と口の中に入れてしまう。
「アセルス、汚いだろ。そこまでしてくれなくても」
アルタルフは彼女の手を取り止めさせようとする。しかしそんなアルタルフの態度に、アセルスは泣きそうな顔になってしまう。
「そんな事言わないで。魔物娘にとっては、精液は一番のごちそうなの」
「精液が、ごちそう?」
アルタルフも話には聞いていたが、しかし目の当たりにしてみると衝撃が全く無いわけでは無かった。
だが、確かに衝撃的ではあったが、それは彼女を否定するような感覚と言うわけでは無かった。それはどちらかと言えば、相手の予期していなかった一面を知る事が出来たという、関係が進んだことの喜びに似ていた。
「俺のなんかで、いいのか?」
「好きな人のが一番のごちそうだもん」
「そう言われると、照れてしまうな。まぁ、他の男のなんて口にして欲しくはないが」
「……アルタルフの、匂いも味もとっても濃いよ。自慰とかも、してなかったの?」
「教団信徒だった時の習慣が残っていてな。相手もいないのに一人で快楽に耽るのは堕落だからと禁じられていて、ほとんどしていない」
「でも、そのおかげでこんなに濃厚なのを出してもらえた……。嬉しいな」
指で掬い、口に運ぶたびアセルスの身体が小さく跳ね、表情が蕩けてゆく。精液を摂取する事で味覚だけでなく性的な快楽さえ覚えているのかもしれない。
「あぁ、もう終わっちゃった」
残念そうな表情のアセルスを見ているうちに、アルタルフは胸が苦しくなるほどに彼女の事が愛おしくなってくる。
感情のまま彼女を抱き寄せ、口づけする。アセルスは戸惑っていたようだったが、構わず唇を吸った。
「嫌だったか」
「ううん。でも口でしたり飲み込んだあとって嫌がる人も居るって聞いてたから」
「アセルスの唇が嫌なわけ無いだろ」
今度は頬を染めたアセルスからの口づけだった。
お互い髪や頬を触り合いながら、再び必死になって唇を貪り合う。荒くなっていく息遣いですら愛おしくなる。
「あっ。ぐぅっ、アセルス、そこは」
「もう少しだけ、もう少しだけ洗わせて」
口づけに集中している間にいつの間にかアセルスの指がアルタルフの熱を帯びた剛直に絡み付いていた。
細やかな泡でまみれた指で、アセルスは睾丸から先端まで丁寧に洗い上げてゆく。
睾丸を優しく揉みほぐすように大切に扱い、竿の部分には時に強く扱き上げるように、時に緩やかに泡で包み込む様に、緩急をつけて指を這わせる。
絶頂を迎えたばかりの敏感な部分に与えられる大きな感覚に、アルタルフはたまらずアセルスの身体にしがみつき、その甲殻を掴んで爪を立てる。
途端に、アセルスの身体が跳ねた。
「ひあぁっ。アルタルフ、今の、何?」
「ごめん。痛かったか?」
「……なんか、殻の内側に響いて凄かった。感じたことない感覚だった」
アセルスはぼうっとした瞳でアルタルフを見上げていたが、すぐにしていた事を思い出し再びアルタルフの一物に集中し始める。
アルタルフには休憩にもならなかったが、しかし思ったよりもアセルスの責めは長く続かなかった。
「ぴくぴくしてる。ごめんね、これで多分大丈夫。あとは、ベッドの上で……」
身体が浮き上がるような感覚に、アルタルフは一瞬どきりとする。見ればアセルスのハサミが器用に自分の身体をベッドに運んでいた。
横たえられたアルタルフの上に、アセルスがじりじりとにじり寄る。
彼女はアルタルフの股間の前に顔を寄せると、うっとりとした表情で満足げに微笑む。
「アルタルフの、綺麗になったよ」
そして付け根の部分に口づけすると、裏筋に沿ってつぅっと舐め上げ、最後には亀頭をぱくりと飲み込んでしまう。
じゅぶじゅぶと舌を絡めつかせ、口をすぼめて口全体で一しきり味わう。
アルタルフは制止しようと手を伸ばそうとするが、ハサミに腕を抑えつけられ身動きする事すら出来なかった。
柔らかな頬の肉に包み込まれる感触に、腰から第二派がこみあげようとしてきたその時、唐突に刺激が消える。
「ぱはぁっ、おいしいなぁ。このまま口に貰うのもいいけど……」
「アセルス……」
アルタルフは荒い呼吸を繰り返すだけだった。何も言う気は無かった。アセルスがしたい事なら、何でも答えてやるつもりでいた。
「うん。私も次は膣内がいい。子宮がきゅんきゅんして、もう我慢出来ない」
椅子になっていた甲殻がさらに開いて、アセルスの一番大切な場所が顔を表した。
汁気をたっぷり帯びた艶やかな貝の身にも、蜜を滴らせた異国の花のようにも見えるそれ。蟹の身体との付け根の部分に、人間の女性と同じものが付いていた。
「アルタルフ、好き」
アセルスがぎゅうっと下半身に抱きつく。そしてそれから身体を滑らせて、アルタルフと同じ目線になるまで身体を登ってくる。アルタルフの先端に、アセルスの入り口があてがわれる。
「アセルス、俺もだ。大好きだよ、世界で一番」
「入れるね。私にアルタルフの赤ちゃん、孕ませて」
アセルスは僅かに身体を揺する。ぬるぬると滑るアセルスの肌は、ただそれだけでアルタルフの滾る熱を受け入れ、最奥へと導いてゆく。
「入って、来る。熱くて、硬いの……」
「くっ。うあぁ」
洗われた時の刺激も凄かったが、アセルスの中はそれとは比べ物にならなかった。
少し窮屈なアセルスの穴。膣内の肉は柔らかでいて、しかしアルタルフを強く締め付け奥へ奥へと求めてくる。ブラシに負けず劣らずの細やかな襞襞がぴったりと吸い付いて来て、微細な凹凸に至るまでくまなく絡み付き擦りつけてくる。
「う、うご、動くね」
アセルスはアルタルフを強く抱き締めたまま、蟹の脚を器用に使って身体を上下に、左右にと揺らす。
その度違う部分が擦れ、アルタルフはたまらず獣のような声を上げてアセルスの身体にしがみつく。
動きは少しずつ激しくなってゆく。しかしどんなに激しく動いても二人の身体が離れるという事は無かった。
アセルスがその両の腕で、ハサミで、蟹の脚まで使って、アルタルフをしっかりと抱き締め挟み込んでいたからだった。
今やアルタルフの身体の上で、アセルスを感じていない部分はどこにもなかった。
「アセルス、もうっ」
アルタルフの爪がアセルスの甲殻に立てられ、女体とのつなぎ目の柔らかな部分を引っ掻く。
アセルスは声も無く弓なりに背を逸らせ、激しく痙攣する。
膣が急激にきゅうとすぼまり、アルタルフはたまらずアセルスの中心に向かって己の全てを吐き出した。
下半身が心臓のように大きく脈動し始める。幾度も幾度もアセルスの中心に向かってアルタルフの白濁が叩きつけられてゆく。
自分の中の激しい鼓動を感じながら、アルタルフとアセルスはぼんやりとした瞳でお互いの瞳を見つめ続けていた。
「……すごい。中で、ばしゃばしゃって……。あふれちゃいそう」
「あぁ、俺も空っぽになってしまいそうだ。けど、アセルスに受け取ってもらえたなら、このまま全部吐き出しても、悔いはない」
勢いが収まるにつれ、二人の呼吸も次第に落ち着いてくる。
深く息を吐くアルタルフに、アセルスは艶のある微笑みを向けた。
「大丈夫。あのお風呂には強壮効果もあるし、私の泡も塗り付けたからアルタルフの生命力も活性化してるはず。一晩中してても、きっと明日もしたくなるよ」
「そうかもしれないな。でも今は」
アルタルフはアセルスの唇に自分のそれを押し当てる。
唇同士の、幾度目かの情熱的なやり取りの後、アルタルフはアセルスの髪を撫でてこう言った。
「もうちょっとこうしていたい。君と繋がったまま、気怠さに任せて触り合ったりキスしたり」
「私もそうしたい。でも、欲しくなったらいつでも言ってね。アルタルフにだったら、私はいつでも食べられたいって思ってるから」
二人は微笑み合い、そしてまた口づけを交わすのだった。
深海の朝に鳥の声は無かった。
海の底に光は刺さないと思っていたが、どうやらそうでも無かったらしい。窓から差し込む青い光に照らされて、アルタルフは目を覚ました。
「ここは……」
一瞬の混乱の後、隣に寝ている愛しい人の安らかな寝顔に気が付いてアルタルフはほっと息を吐いた。
「アセルスの部屋。だったな」
ここは海底城の一角にあるアセルスの部屋だった。部屋の中はさほど広くは無かったが、整理整頓がしっかりなされていて狭さは感じない。
簡素な部屋だったが、ところどころに海の生き物を模したぬいぐるみが配置されているのがアセルスらしかった。
昨日あの後大浴場にたくさんの魔物娘達が相手を連れてやってきたので、落ち着いた場所に行こうという事でここに来たのだ。
それからはただひたすら睦み合っていた。激しくしては休憩し、ゆったりと交わり、元気になったらまた激しくの繰り返しだった。
アルタルフは彼女の頬に掛かった髪を梳いてやりながら、これからの事を考える。
まずは今の仕事場に事情を伝える。出来ればすぐに辞めたいところだったが、上手くいくかは分からない。時間がかかりそうなら、それはそれでまた考えることにする。
それと並行して、海の底での仕事を探さなければならない。自分に出来ることは少ないが、海の底でも荷運びの仕事くらいはあるはずだった。
そうすれば晴れてアセルスと……。
「どうしたのアルタルフ。そんな難しい顔して」
いつの間にかアセルスが目を覚まし、アルタルフの事を見上げていた。
「これからの事を考えていたんだよ。アセルスと一緒に暮らすにはどうすればいいかって。……まぁでも、それはまた改めて考えることにする。今はとにかく」
「うん。おはようのセックスしよう」
アセルスは全身を使ってアルタルフの上にのしかかりながら、激しくその唇を奪う。
荷運びで重いものの持ち運びにはなれているアルタルフだったが、何本もの脚やハサミでしがみついてくるアセルスを持ち上げるのは至難の業だった。
しかし彼もまた、一晩の間で学んだ事があった。
アルタルフはアセルスの甲殻に強めに爪を立てて引っ掻き、柔らかな関節部を撫でるようにくすぐる。
その動きだけでアセルスの全身からは力が抜けてゆき、軽く痙攣すらしてしまう。
「あ、ふっ。らめらよぉ、それ、しげきがつよすぎるからぁ」
どうやらアセルスは甲殻の上から一定のリズムで叩いたり、振動を加えられる事で極度に感じるらしかった。その中でも特に関節部はひときわ弱いのだ。
形勢逆転したくなったらこうすれば良い。アルタルフはアセルスの身体を組み敷き、その可愛らしい乳房に手の平を這わせる。
「今日も明日も休みだからな。これまでしてこなかった分、たっぷり愛し合おう」
「うん。アルタルフ……大好き」
ほのかに頬を染め、わずかに唇の端を上げるだけの小さな笑顔。しかしそれはアセルスにとっての、これ以上ない程の満面の笑みだ。
アルタルフは、もう一切迷わなかった。一度大きく息を吸い込むと、自分から、とことんまで溺れるつもりで、彼女の身体に身を沈ませるのだった。
***
海底都市の港から、一隻の輸送船が出向してゆく。
海中をゆく魔法の船は、波飛沫の代わりに水中に魔力の光の燐光を残す。この港では、その姿から魔法の船の事を光るクジラだと呼んでいた。
船を午前最後の船を手を振って見送りながら、アルタルフはあの港町にもそんな変わった呼び名があっただろうかと思い返す。
あったような気もしたが、すぐには思い出せなかった。考えてみると、陸上で暮らしていた事すら随分前の事のように思えた。
アセルスと結ばれたあの日の後、アルタルフは結局すぐに海底都市に移り住む事となった。
事情はいつの間にかアルタルフが所属していた組合にまで通じており、仕事を辞めるのにも苦労は無かった。
話によれば海底城が手を回してくれていたという事だった。その周到さは、アルタルフが抜けた後釜として仕事に入る魔物娘を用意している程に見事なものだった。
海底都市に移り住んだアルタルフは、今は小さな新居を借てアセルスと二人暮らしをしていた。
こうして海底の港で荷運びの仕事はしていたが、本来であれば働く必要さえ無いと言われていた。人間社会では考えられない事ではあったが、魔物娘の社会ではごくありふれた事なのだという。
それでもアルタルフが働いているのはただ単純に良くしてもらった海底都市に恩返しがしたいからと言う気持ちからだった。もっとも人間社会の頃の癖が抜け切らず、働いていないと落ち着かないから、と言う理由もあったが。
それでもあまり熱心に働く事を推奨しない魔物娘社会だけあり、労働は半日だけと決まっているのだが。
「おーい、午前組。迎えが来たぞー。さっさと帰れー」
詰め所の方からの声に振り向けば、そこには幾人もの魔物娘達の姿があった。その中には当然アセルスの姿もある。
魔物娘達はアルタルフと似たような境遇の作業員たちに笑顔で駆け寄ると、なんの恥じらいも無く口づけや抱擁を交わしている。
そんな中、アセルスだけは無表情で、アルタルフに歩み寄る足も他と比べて遅かった。
とはいえそれはアセルスを知らない人間から見た評価に過ぎない。彼女を良く知るアルタルフからすれば、わずかな口元や目元の緩み、ほんのわずかな頬の色づきからも、彼女がどんなにこの時を待ち望み、この後の事に期待しているのかが手に取るように分かるのだった。
足取りが遅いのは、そんな気持ちに対する照れ隠しだろう。
「アルタルフ、お疲れ様」
「アセルスも踊りの指導お疲れ様。もういいのか?」
「うん。私が教えられるのは基本だけだから、あとはそれぞれの魔物娘が自分で踊りを作り上げるの」
アルタルフと一緒になった事で、アセルスは海底城の踊り子を辞めた。とはいえ踊りまで辞めたわけでは無く、今は指導役として海底城で新人の踊り子たちに踊りを教えているのだ。
「そう言うものなのか」
「そうよ。好きな人の為だけの踊りを作るの」
彼女の手を引き歩きはじめようとしたアルタルフだったが、その一言を聞いて足を止める。
「俺の時も、か?」
「うん。二度目以降はアルタルフの為だけの踊りだったよ。暗闇の中で初めてアルタルフの姿を見つけた時だけはあんまり動きを工夫できずに、即興になっちゃったけど。
酒宴に入る前から、踊りの時から私達魔物娘のアプローチは始まってたんだよ」
「そうだったのか。何だか済まない。そんな事も知らず、俺は」
「でも、感動してくれたって言ってくれた。嬉しかったよ」
はにかむ様に笑うアセルス。アルタルフは彼女の手を、優しく握りしめる。
「で、でもね。ほ、本当は私以外にも、何人かアルタルフの為の踊りを踊っていたらしいけど」
「そうだったのか、彼女達にも悪い事をしてしまったな。……俺は、アセルスの踊りしか見ていなかったから」
アセルスの顔が真っ赤になり、その手も少し熱くなる。
「あ、アルタルフったら。もう」
「すまん。口下手は相変わらずのようだ」
アルタルフが苦笑いを浮かべていると、急にアセルスから腕を引かれた。そして身体を傾けたところで、不意打ち気味に唇を奪われる。
その瞬間の、一瞬の彼女の表情をアルタルフは見逃さない。
「とりあえず、海底城の大浴場に行こうか」
「え?」
「仕事で汗をかいたし、魔界産の物も色々運んだからな。隅々まで身体を洗って、匂いも落としたい。……アセルス、頼んでもいいか? 代わりに俺の方からもたっぷりサービスするから」
アセルスは一見すると無表情にしか見えない驚きの表情を浮かべた後、満面の笑みで頷いた。
「うん。行こう」
そして二人は手を繋いで歩き出した。
海底城に向かう道には、他にもたくさんの夫婦の姿でいっぱいになっている。
今日も海底城は、盛況なようだった。
おまけ:別室にて
海底城のとある一室にて、一組の魔物娘のカップルがベッドの上に隣り合って座っていた。
下半身がイカの魔物娘。クラーケンの彼女は、恋人の彼にしなだれかかり、十本の脚のうち三本の脚を彼の身体に絡み付かせながら囁いた。
「あなた。さっきはありがとう。おかげで上手くいったわ」
「それは良かった。けど、本気で怖かったんだよ。あの人今にも殴りかかって来そうだったし、あんな太い腕で殴られたら僕は……。ほら、まだ手が震えてる」
男の震える手を、彼女は優しく包み込む。
「勇敢だったわ。相変わらず演技力も落ちていないし」
「ここに来てからずいぶん演じてないからね。ばれないかとひやひやしたよ。……あのキャンサーには悪い事しちゃったかな。男の人にも」
「でもそのおかげで二人はようやく結ばれたのよ? このままだったら、もしかしたらお互い別の相手に取られていたかもしれないし」
「独り身の男が何度もここに来るのも珍しいしね。あのキャンサーも魔物娘にしては押しが弱いみたいだったし、見ていていつもひやひやしたよ」
「そんな二人が、今はほら」
彼女の指差した壁の向こうからは、獣のような男の声と女の嬌声が聞こえて来る。その声はアルタルフと、アセルスのものだった。
「妬けるねぇ」
「それはこっちの科白です。演技と分かっていても他の女に言い寄る夫の姿など……。見ていて気が狂うかと思いました」
「おいおい。君が頼んできた事だろう?」
「そうですが、それとこれとは話が別です」
なぜか頬を膨らます恋人に、男は肩を竦めざるを得なかった。
「あなた、私は欲求不満です。ですので一晩中可愛がって、満足させてくださいませ」
「君の欲求が一晩で解消できるとは思えないけど。って、わっ」
クラーケンは全ての脚を男の身体に絡めつかせると、押し倒すのと衣服を脱がすのを同時にやってのける。
「問答無用です! 可愛がってください!」
「分かったよ。そうがっつかなくても、可愛がってあげる。愛しているよ」
二人は唇を重ね、お互いの身体をまさぐり始める。
こうしてその夜別室でも睦み事が始まったのだった。
とは言え、似たような事は海底城の至る所で起こってはいるのだが……。それはまた、別の話。
船が付いたら積荷の上げ下ろしを行い、港を発って行く船を見送り、別の船が到着するのを待つ。
別の船が到着したらまた積荷の移動を行い、それを日が暮れるまで繰り返す。
仕事が終わったら露店でその日の夕食を買い、家に帰る。
家に着いたら食事を手早く済ませ、神への祈りをして安物のベッドに横になる。
そして日が昇ったら、昨日と同じ事を繰り返す。
……これが、アルタルフの生活の全てだった。
仕事場の仲間達からはお堅い奴だと言われており、アルタルフ自身もその事は自覚していた。
このままではいけないと思い、自分を変えようとしたことも何度もあった。
仕事場の仲間と共に酒場に行ってみた事もあった。女性が相手をしてくれる店に着いて行った事もあった。外国の妖しげな煙草を試したこともあった。
しかしそのどれもがアルタルフには受け付けなかった。
酒を口にすればすぐに目を回してしまい、女を前にすれば緊張で何も言えなくなった。煙草などは吸った翌日に熱を出してしまう始末だった。
授業料は決して安くは無かったが、その結果分かった事は自分には遊びは向いていないという事実だけだった。
遊びが駄目なら夢を持とうと船乗りを目指したこともあった。組合に申し出て、見習いとして船にも乗せてもらった。
しかしこれも失敗に終わった。船に乗った途端に船酔いで立っている事も出来なくなってしまったのだ。驚くべきことに、港に停泊している間の僅かな揺れでも気分が悪くなってしまった。
こうして、アルタルフは夢を見ることさえもやめてしまった。
ならば家族を作ろうとも考えた事もあったが、これも上手くはいかなかった。
元々アルタルフは女性に縁が無く、結婚してくれそうな付き合いのある女性は居なかった。ならばと見合いも考えたが、荷物の積み下ろししか出来ない稼ぎの悪い男と見合いをしたがる女はほぼ皆無だった。
それでも奇跡的に二三度見合いは出来たが、女性が苦手なアルタルフには数少ない出会いだけで相手の心を掴む事は出来ず、結局誰からも見向きもされなくなってしまった。
そんなアルタルフが最後にたどり着いたのが、信仰だった。
主神様はきっと全てを見ておられる。真面目に生きて働いていれば、いつかは天国に行けるだろう。何の楽しみも無い、楽しめることも無い生活の中、アルタルフが最後に縋りついたのが教団の教えと言うわけだった。
信仰だけは何かに邪魔されるという事は無い。相手もおらず、体質も関係ない。自分が真摯に、信仰心を持っていれば救われる。アルタルフはそう信じていた。
人生の目的を見つけ、アルタルフもようやく安らかに生活が行えるようになった。と思われたが、その安寧も長くは続かなかった。ある日突然、アルタルフが最後にたどり着いた寄る辺でさえ、露と消えてしまうような事件が起こったのだ。
その日、彼の住んでいた港町を治めていた商人たちは教団の教えを否定し、教団側から魔界側へと鞍替えを表明した。それはアルタルフが信仰に希望を見出してから、ほんの一月も経つ前の出来事だった。
この世界には大きく分けて二つの勢力があった。
この世界を作った主神を崇める主神教団と、それに敵対する魔界の勢力だ。
歴史上、魔界の勢力、つまり魔物達は決して人間とは相いれない人類の天敵だった。魔物は人を騙し弄び、甘言で誘惑し堕落させ、そして殺し喰らうような存在であったのだから、分かり合えるはずなど無かったのである。
ところが先代魔王から現魔王へと魔界側の最高権力者が代替わりをした事からこの敵対関係が微妙に変化し始める。
魔物達が、人間を殺し喰らう事を止めたのだ。
それどころか魔物達は人間の女性に近い姿、魔物娘へと変化し、人間を生殖の相手と見なし、愛するようになった。
姿形が人に近づき、意思疎通も可能になってくれば、当然相手の事を同族と見なす事も不可能ではなくなる。好意を示してくる相手を無下に切り殺す事は難しくなり、無償の愛を与えてくれる者には敵意以外の感情も生じてくる。
こうしていつの頃からか魔物娘と通じる人間が現れ始め、そういった人間達が増えるにつれ、魔界と手を取り合う親魔物派の国家も現れ始めた。
主神を崇める教団は形は変わっても魔物娘達は人を喰らうと教えていたが、その教えが事実とは離れていっている事は隠しきれるものでは無かった。
結果、魔物娘が人間に害成す存在では無いという事実は少しずつ知れ渡ってゆき、それにつれ親魔物国家は徐々にではあるが増え続けていた。
その時流の波が、この港町にもやってきた、と言うわけだった。
街の有力者たちは街の住人達に魔界と敵対するのを止め、魔物達と仲良くするようにお触れを出した。
もともと多様な文化と触れることの多い場所でもあったため、ほとんどの住人達にはこの方針転換もそれほどの抵抗感も無く受け入れられていた。
だが、やはりそう簡単には変化を受け入れられない住人も多少は存在していた。当然アルタルフもその一人だった。
実際に見たことは無かったが、魔物は人を殺し喰らう存在だと言われていた。魔物と戦う事こそが神への信仰へとつながると教えられてきた。それをいきなり魔物と仲良くしろなどと言われても素直に納得出来るわけが無かった。
ましてや、今や信仰しか残されていないアルタルフにとってはなおさらのことだった。
やがて街に魔物娘達が入り込むようになった。
魔物娘と人間の交流も増え、アルタルフにも魔物娘と言葉を交わし、仕事を共にする機会があった。
野蛮で邪悪な魔物となど仕事が出来るわけがない。アルタルフは当初、そんな風に考えていた。
しかし実際はその予想とは正反対の事が起こった。
街にやってくる魔物娘達は皆素直で人の良い者ばかりだった。仕事にそこまで熱心では無い者も居たが、そう言う者でも人間以上の仕事をこなして見せた。
人間に暴力を振るう者も居なかった。彼女達は、教団の教えている魔物像とは全く異なった存在だったのだ。
この事は、教団の教えに偽りがあった事の何よりの証明だった。
自分は何のために生きているのだろうか。アルタルフは再び悩むようになった。
夜は眠れなくなり、仕事中にもぼうっと考え込む事が増えた。それが原因で仕事中にヒヤリとする事も増え始めていた。
このままでは大きな失敗をする事も時間の問題だった。何とかしなければと焦るものの、しかしアルタルフにはもうどうしてよいのか分からなかった。
転機が訪れたのは、彼が人生に絶望しかけ始めたそんな時の事だった。
その日、仕事を終えたアルタルフは一人港から海を眺めていた。
橙色の太陽が水平線の向こうへと溶ける様に沈んでゆく。夕暮れの海は次第にそのきらめきを失い、黒々とした夜の帳を下ろそうとしていた。
アルタルフはため息を吐きながら今日一日を振り返る。
昨日は手を滑らせて大きな荷物の下敷きになりかけたばかりだというのに、今日も積荷を一つ載せ忘れかけた。
以前であれば命が助かった幸運を、荷物に気が付いた運の良さを神に感謝していた。しかし今はもうそんな気にもなれなかった。
もう神を信仰する気にはなれなかったのだ。
魔物は人を殺さない。魔物娘の来訪者も見かけるようになったが、皆気のいい連中ばかりだった。つまり、これまでの教団の教えは嘘だったという事になる。
一度でも嘘をつかれれば他にも嘘があるのではないかと疑ってしまうのが人間と言うものだ。アルタルフはもう、教団の言っている事は何一つ信頼出来なかった。
日が沈み切ると辺りは急に、文字通り火を消したように暗くなってゆく。
今ここで海に入れば、きっと誰にも気付かれる事無く死ぬことが出来るだろう。アルタルフはそれも悪くないと考え、一歩海へと踏み出しかける。
しかし溺れ死んだ遺体の無残な姿を思い出し、アルタルフは足を止めた。
幾度目かのため息を吐き、いい加減にアルタルフが帰ろうとしたそんな時だった。
「おーいアルタルフさーん! どこですかー!」
自分を呼ぶ声に気が付き、アルタルフは周りを見回す。見れば港の一角、作業員の詰所の方で仲間の男が声を上げていた。
「ここだ!」
返事をしながら駆け寄ってゆくアルタルフに気が付き、男はほっと表情を緩めた。
「何かあったのか? 近場で船舶でも座礁したか?」
「何を言っているんですか。今日は作業員みんなで半期終了の打ち上げに行くって話だったじゃないですか。みなさんもう準備出来ているんですよ」
突然の話に、アルタルフは首をかしげる。
「そんな話、していたか?」
「一週間ほど前の昼休みに話していたでしょう? アルタルフさんも行くって言っていたじゃないですか」
言われてみれば皆でそんな話をしていたような気もした。最近は呆けている事も多かったので、アルタルフ自身自分が何をしていたのか分かっていない所もあった。
「悪いが、酒盛りなら俺は」
「えぇ? もう予約の人数取ってしまってるんですよ? 予定でもあるんですか?」
「いや、無いが……」
「じゃあいいじゃないですか。別に酒が嫌なら水でも茶でもミルクでも飲んでいればいい。アルタルフさん最近お疲れのようですし、こういう時こそ羽を伸ばすべきですよ」
それ以上食い下がる間は与えられなかった。男がアルタルフの腕を掴み、半ば引きずるように強引に歩き出してしまったからだ。
言いたいことが無いでは無かったが、しかし結局アルタルフは諦めて仕事の打ち上げ会に参加する事にした。
別段楽しもうと思ったわけでは無かった。ただ断るのが面倒だという、それだけだった。
以前であれば信仰を理由に断ろうともしたであろうが、それを失った今となっては断る気力さえも無くなっていた。
連れてこられた港の一角には小舟が泊められていた。もう仲間達は皆乗り込んでいるらしく、小舟の篝火の明かりの中に見慣れた面々が浮かび上がっていた。
「いつもの酒場じゃ無いのか?」
問うと、若い男に盛大に顔をしかめられた。
「今年は別の場所でやるって言ったじゃあないですかぁ。ちゃんと聞いて無かったんですか?」
「す、すまない」
「まぁいいです。早く乗って下さい」
「いや、俺は船は」
「もう時間が過ぎているんですよ。さあ早く」
船酔いの事を言おうにも取り付く島も無かった。アルタルフは仕方なく覚悟を決めると、船の空いている席に腰を下ろした。
若い男はそれを見届けると、自分の席へ着いて船頭へ声をかける。
「これで全員です」
「分かりました。では『海底城』へ出発いたします」
深くフードを被っていて顔は見えなかったが、声から察するに船頭はどうやら女性のようだった。彼女は深く一礼し、足元から一本の木の棒のようなものを取り出す。
船を漕ぐのならば櫂が必要だろう。しかしそれは櫂にしては短すぎ、そして細すぎた。それは船を漕ぐ櫂と言うよりも、歩行を助ける杖と言った方が良さそうな代物だった。
男達の何人かが噴き出し、笑い声を上げる。
「おい姉ちゃん。いくら小さな船だからって、流石にそれじゃ漕げねぇぜ」
「海面を進む船ならばそうでしょう。ですがこれは、海を潜る魔法の船ですので、これで十分なのです」
「潜るぅ? 何のために? それに俺達ゃサカナじゃねぇんだ。海の中で息なんて出来ないぜ?」
フードが微かに揺れる。わずかに見えた口元は、小さな笑みを浮かべていた
「これから向かいます海底城は、その名の通りに海底にございます。当然そこに向かうには海の中を通るのですが、そこはご安心を。この船は海の神ポセイドンの加護を得た魔法の船。この中に居る限りは息が出来なくなるなどと言う事はございません」
船中が少しどよめいたが、船頭は意に介さずに前を向いて手に持った杖を振るう。
すると驚くべきことに、船が音も立てず、揺れることも無く滑るように動き始めた。
「おおお? なんだこりぁあ」
「おい船頭さん。この船沈んでるぜぇ! このままじゃ沈没しちまう」
誰かの言う通り、船は横にだけでなく下にも進んでいた。船頭の彼女が言っていた通り、まさに海中に向かって針路を取っていたのだ。
何人かの男が慌てたように席を立ったが、しかし男達が案じていたような事態にはならなかった。船体の全てが海中に沈んでも、船の中には海水は流れ込んでこなかった。
「すげぇな。姉ちゃんの言った通りだ! 水が入ってこねぇぞ!」
「息もできる。すげぇ船だな、魔界の船ってのは」
魔界の船。その言葉を聞くなり、アルタルフは一瞬眉根を寄せる。
「つまりは、これから魔物の巣窟に向かうって事か」
誰にも聞こえぬような小声ではあったものの、隣の男の耳には届いていたらしい。アルタルフは腕を掴まれ、険のある視線を向けられた。
「しっ。あまり滅多な事を言うものじゃないぞ。せっかく魔物娘さん達が友好の証にって俺達をもてなしてくれるって言うのに。
お前さんが信心深いのは知っているが、あの子達が悪い子では無いって事くらいは知っているだろう?」
その理屈はアルタルフにも理解出来ていた。確かに実際に目にし、交流している魔物娘達は良い娘達ばかりだった。しかし感情まですぐに切り替えられるわけでは無い。アルタルフは、言わずにはいられなかった。
「けれど、魔物娘は獣や虫の身体を持つ、神に呪われた穢れた……」
男は息を吐くと、やれやれと首を振った。
「それを言うなら天使様達だって鳥の羽を持ってるじゃねえか。同じ鳥の羽でも、ハーピーは駄目だってのか? それにな、悪魔だ何だと言われている存在も、別の国では神様として祀ってる例もある。色んな国から船の来る港に居ればそれくらい……」
それくらい、アルタルフにも分かってはいるのだ。分かってはいても、それでもさまざまな感情が入り乱れて素直になる事が出来ない。
そんな様子を察したのか否か、男は腕を離して息を吐いた。
「いや、悪かったな。ちょっとしゃべり過ぎた。……まぁ今日は魔物娘を知るいい機会だろうさ。色んな事を忘れて楽しもうじゃないか」
「そう、だな」
アルタルフは視線を逸らし、船の外に向ける。
気持ちとしては今すぐ船を降りたかったが、魔物を避けるために夜の海中に飛び込む程の信仰心ももう持ち合わせていなかった。であれば男の言う通り、魔物娘を知る機会だと思うほかない。
船は既に完全に海に沈んでおり、船に備え付けられた小さな篝火に照らし出されているのは、底の知れない夜の海の闇だけだった。
海中を進み出してしばらくも立たぬうちに、船の下方にそれが見えてきた。
狭い船の上の事、一人の男が気が付き声を上げれば、すぐに船中へと知れ渡る事となった。
「すげぇぞ、海の底に星空が見える」
「なんじゃあこりゃあ。俺達ゃ夢でも見てるのか?」
「見えてきましたね。あれが私達の住んでいる海底都市です。いわば、夜景ですね」
アルタルフも興味本位で船の縁から顔を覗かせる。確かに眼下には、雲の無い夜空のような光景が広がっていた。
いくつもの小さな灯りが、海水の中でゆらゆらと揺らめいている。確かに海底に星空などあるはずもなく、空の星が映り込むなどと言う事も考えられない以上、船頭の言う通りにあそこに街があるのだろう。
海底に人は住めない。となれば住んでいるのは魔物娘達以外ありえない。
「あの灯りの一つ一つで、きっと睦言が紡がれ、愛が交わされている事でしょうね」
アルタルフは絶句し、顔を上げる。
「なんだい。噂に聞く通り魔物娘はみんな助平でお盛んってわけかい?」
男達は皆野卑な笑いを浮かべたものの、船頭は特に気にした風も無く上品に笑うだけだった。
「えぇ。魔物娘は皆男好きで、男とまぐわう事しか考えておりません。私も今は何とか自制してはおりますが、皆さまの溢れるような雄の匂いでどうにかなってしまいそうですもの」
「がははは。じゃあ姉ちゃん。俺達の相手をしてくれるかい?」
「うふふ。ですがこれから行く先には、私なんかよりももっと綺麗で可愛らしい女の子達がたくさん待っているのですよ?
その子達を見たうえで私で良いというような奇特な方がいらっしゃれば、その時は喜んでお相手をいたします」
「本当かい? おいお前ら、この姉ちゃんは俺んだからな。手ぇ出すなよ」
あちらこちらから上がる笑い声を、アルタルフは呆然として聞いていた。
信じられなかった。神の敵と言われていた相手と抱き合うなど、人外の異形の存在と性行為をするなど、考えただけでおぞましい事のはずだ。
それなのに眼下の明かりの一つ一つには魔物娘だけでは無く、人間の男も共に居て愛を交わしているのだという。
自分の周りの男達も相手が人間では無いという事など全く気に留めていない様子で、むしろ自分の物にする気でいる者までいる。
何だか別世界に来てしまったような気がした。否、実際に、別の世界に来てしまっているのだ。
「見えてきましたね。あれが海底城です」
いつの間にか海底の街の明かりが随分と近づいていた。
船頭が指差した先にあったのは特に多くの明かりに照らし出された城のような建物だった。その大きさは人間の地上の城の二三倍はありそうな程だ。
「大昔には海の魔物達の拠点となっていた場所ですが、今では皆様のような人間の方々をおもてなしするための施設となっております。
歌や踊りのような演目を楽しんで頂けるほか、魔物娘の子らが皆様のお酒のお相手もいたします。宿泊施設も兼ねていますのでご宿泊も可能です。……もちろん、気に入った女の子を部屋に連れてゆく事も出来ますよ。うふふ」
闇の中から、海底城のその偉容が少しずつ明らかになってゆく。
海底城。かつての魔物の拠点とされていた場所。どれだけ恐ろしい外見なのだろうかとアルタルフは息をのんだ。
しかし実際に現れたのはアルタルフの予想していた物とは全くの別物だった。
醜悪な海の化け物や、人間を捕食しているような恐ろし気なモチーフの銅像は皆無で、代わりにあったのは裸のマーメイドやスキュラと言った魔物娘の卑猥な銅像ばかりだった。中には人間の男と交合しているようなモデルまである程の猥雑さだった。
照らし出す明かりもどこか妖しい桃色や紫色をしていて、確かに大きさは凄まじいものがあったが、特筆すべきはそこだけで、規模が大きいだけのただの風俗店にも見えた。
アルタルフは色んな意味で眩暈を感じ、額を抑える。
これから先、何が起こるのだろうか。それを考えると、アルタルフはいつもとは別の意味で怖くなってしまうのだった。
通されたのは三階まで吹き抜けになっている大きなホールだった。
部屋の奥には舞台も設えられていた。大きさも装丁も大したもので、アルタルフも噂にしか聞いた事が無かったが、地上の大国の宮廷劇場にも引けを取らぬように思われた。
石畳の床には質のいいふかふかの絨毯が敷き詰められており、その上にいくつもの丸テーブルが並べられていた。
アルタルフ達が入った頃には、既にいくつかのテーブルにはお客の姿があった。中には女性や魔物娘らしい姿もあったが、お客のほとんどは人間の男だった。
アルタルフ達が最後の客だったらしく、男達が席に着くなりすぐに舞台の袖から一匹の魔物娘、下半身が大きなイカの形をしているクラーケンが現れ、挨拶が始まった。
「皆さま。今日は遠いところからはるばる足を運んで下さり、まことにありがとうございます。
先日、晴れて近隣の港町と私達の街との協定が正式に結ばれ、私達魔物娘と人間の方々との交流もこれからさらに活発化されてゆくと思われます。
ですが私達は出会ってまだ日も浅く、お互いについてまだ良く知らない点が多くあるのも事実です。
もっと深くお互いの事を知り、早く仲良くなるにはどうしたらいいかと考え、今日このような場を用意いたしました。
ほっぺたが落ちてしまいそうなごちそうを山ほど、一級品のお酒も溺れる程用意いたしました。また、皆さんに楽しんで頂けるように演目にも創意工夫を凝らしました。きっと楽しんで頂けると思います。
語りたいことはまだたくさんありますが、この辺にしておきましょう。
それでは、まず最初に私達の歌と踊りを楽しんでいただきたいと思います。色々とお話しましたが、難しい事は考えずに今この時を楽しんで頂けたら幸いでございます」
クラーケンは一礼すると、悪戯っぽく微笑んで客席側に向かってふぅっと息を吐きだした。
何気ない仕草。しかしそのクラーケンの吐息をきっかけに、不思議と部屋の中から少しずつ光が失われてゆき、闇が広がり始める。
誰かが明かりを消して回っているわけでは無く、何かの魔法のようだった。現にアルタルフ達の前の燭台は灯ったままだったが、それでも広間の暗闇は濃くなり続けていた。
やがて隣の顔も見えなくなり、ついには目と鼻の先さえも見えない程の真の闇が降りた。
闇の中に初めに生まれたのは、一つの二枚貝の貝殻だった。
どこにも光など無いにもかかわらず、それは真珠のような光沢と、虹色の艶めきをもって漆黒の中に浮かび上がっていた。
貝殻がわずかに震え、音も立てずに少しずつ開き始める。
するとその中から、美しい音色が聞こえる始めた。
女の歌声のようにも、竪琴の音色のようにも聞こえるそれ。
貝殻が開けば開くほどに音もまた大きくなってゆき、それに追従するように様々な種類の音が混ざり始める。
笛の音、太鼓の拍子、弦楽器の深い旋律に、金管楽器の響き。
一つ一つの音が調和してゆき、一つのハーモニーを形どり始める。
まるで貝殻が唄っているようだった。
そして唄う貝は、その音色と共に美しい泡もまたその口から浮かび上がらせ始める。
大きな泡、小さな泡。虹の七色を織り合せて作ったかのような様々な大きさのシャボン玉が、波間に揺れるかのように、ゆらゆらと漂いながら、音楽と共に広がってゆく。
真の闇の中、世界に浮かぶのは七色の無数の泡と、美しい音楽だけになる。それは夜空に虹がかかっているかのような、摩訶不思議な光景だった。
次第に音楽が盛り上がってゆき、そして最高潮を迎えるのと同時に。
シャボン玉が弾けて、そこから美しい魔物娘達が姿を現した。
ルビー、エメラルド、ブルーサファイア。宝石のように美しく煌めく鱗で覆われた魚の半身を持つ、半人半魚の魔物娘達。
あるものは楽器を片手に、またあるものは鱗の色と合わせた薄衣を纏い、虹色のシャボンの浮かぶ闇の中で泳ぐように身を翻してゆく。
観客の頭上を悠々と通り過ぎ、その隙間を誘うように泳ぎゆく。
海の底にある海底城では、重力の楔は地上に比べて緩められる。海の中の彼女達は、空を飛ぶ鳥以上に自由な存在だった。その姿は、星空で舞い踊る妖精のようだった。
奏で、舞い踊るのは人魚たちだけでは無い。無数の触腕を持つスキュラやクラーケンもまた、その両腕と触腕を優雅に揺らめかせ、振るわせながら舞っていた。
一見不気味にも見えかねないタコやイカの下肢にも関わらず、空間に囚われずに闇の中を踊るその姿は天使に並び立つほど幽玄だった。
彼女達は音楽に合わせて自由に舞い踊る。
舞の調子に合わせて音楽もその風合いや色合いを変え、時に情熱的に、時に穏やかに音と光が混じり合う。
アルタルフは、完全に見入ってしまっていた。
完全なる暗闇の中、音楽もあって周りの他の客の気配も感じられない今、まるでこの演目が自分の為だけに演じられているような、そんな気にさえなってしまっていた。
頭上を舞い、時には手の届くほどの距離を行き過ぎる海洋の魔物娘達。
人とあまり変わらぬ姿の娘も居れば、魚や軟体動物、中には甲殻類の身体を持つ娘も居る。だがそれらも決して醜くも恐ろしくも無く、どこかで神々しいような人外の力強さと美しさを感じさせた。
頭上ばかりを見上げていたアルタルフだったが、ふと何かが目に留まり視線を落とした。
方向としては舞台のあった方角。最初に貝殻が現れた場所には、まだ美しい貝が口を開けていて、その中でも何人かの魔物娘が音楽を奏で、舞を舞っていた。
その中で、アルタルフの目は一匹の魔物娘に釘付けになる。
華奢な女の子に見えた。薄紅の衣をまとい、魔物娘達の中でもひときわ大きく腕を振るい、美しく舞い踊っていた。
腕が振るわれ、薄紅の衣が翻るたびに虹色の泡が立ち、闇を虹色に彩るシャボン玉として浮かび上がってゆく。
浮かび、漂うのは大きな泡だけでは無かった。細やかな泡が寄り集まり、歪んだ虹のような七色のヴェールもまた暗闇の中を彩っていた。
なぜそれほどにまで激しく上半身を動かせるのかと疑問に思い視線を下げると、その理由はすぐに分かった。彼女の下半身は、しっかりとした強靭な蟹の身体をしていたからだ。
人外の異形の姿ではあった。しかしその力強い動きは、美しい体さばきは、そして何より心から楽しそうなその表情は、種族を越えた生命の輝きを感じさせた。
息をするのも、忘れてしまう。
アルタルフは、もう彼女の一挙手一投足から目が離せなかった。
一瞬。目があった。微笑まれたような、そんな気がした。
どくん、と大きく胸が鳴り、世界から彼女以外の音と光が遠ざかってゆく。
まるで世界には自分と彼女しか居ないかのような、そんな気がしてしまう。
もっと長く見ていたい。あの子の踊りを、もっと長く、近くで見てみたい。アルタルフはいつの間にか時間が止まってくれたらとすら考えていた。
しかし、その不思議な感覚は長くは続かなかった。
遠くの音楽が再び大きな盛り上がりを見せたかと思うと、暗闇の中に一気に光が戻り、そして照らし出された広間を歓声が埋め尽くしたからだ。
「どうでしたでしょうか。お楽しみいただけましたか?」
アルタルフはどこか遠くの事のようにその言葉と、割れんばかりの拍手の音を聞いていた。
いつの間にか目の前の机の上に大量のごちそうと酒が並んでいたが、驚くだけの気力も無かった。
周りの観客たちが突然現れた食べ物に驚きの声を上げる中、アルタルフはただ呆けながら少女が舞台のそでに消えて行くのを見送っていた。
歌と踊りが終わると、広間ではすぐに宴会が始まった。
ただでさえ食べ物も飲み物も普段では口に出来ないような高級品ばかりにも関わらず、その上お客の間に舞を披露してくれていた魔物娘達が付いて、酒の相手までしてくれる。
まるでこの世の楽園だ。アルタルフの同僚たちは皆口々にそう言いながら、上機嫌で酒を呷っていた。
一方アルタルフはと言うと、放心してしまって目の前の酒にも食べ物にも口を付けていなかった。
顔が熱く、胸の鼓動も強まったままいつまでも全身に響き続けていた。
先ほどの舞い踊り、特にあの蟹の娘の姿がまぶたから離れず、未だに昂揚感を抑えられないのだ。
力強くも美しい、生命力の溢れる身のこなし。異形の姿ではあるが、人外だからこそ表現しうる命の素晴らしさのような物を感じた。
と、アルタルフは急に視線を感じて顔を上げる。
かつてない程の興奮で力みすぎて変な顔でもしていたのだろうか、仕事仲間達が少し驚いた様な顔を向けていた。
訝しみ口を開きかけたアルタルフだったが、背後から声をかけらて口をつぐむ。
「あの、隣、よろしいですか」
「え、ああ、どう……ぞ?」
振り向いたアルタルフの視界に最初に入って来たのは、ごつごつとした甲殻で出来た大きなハサミだった。
最初は大きな蟹の料理でも運んでいるのかと思ったが、そうでは無かった。
視線を上げると、ほっそりした女性のお腹から緩やかな曲線を描く胸、そして少し幼さの残る少女の顔が目に入ってきた。
はしばみ色のぱっちりとした大きな瞳がアルタルフを見つめていた。
舞台で踊っていたあの子だという事が、アルタルフにはすぐに分かった。
「ご迷惑なら……」
「……え? あ、いや、迷惑なんて事は無い。俺の隣なんかで良ければ」
蟹の少女は器用に脚を折りたたみ、アルタルフの隣についた。椅子は無かったが、これもまた足を曲げて視線をアルタルフに合わせる。
「はじめまして。キャンサーのアセルスと申します」
「えっと。地上から来たアルタルフだ。その、よろしく頼む」
頭を下げる蟹の少女、アセルスにつられ、アルタルフもまた軽く礼をする。
しかしそこからどうすればいいのかアルタルフには分からない。もともと酒に席にもあまり出る方では無く、女遊びもしないのでこんな時どんな言葉をかけたらいいのかもさっぱりだった。
何だか居心地が悪い。ばつが悪くなり彼女から視線を外すと、違和感の原因はすぐに分かった。
周りが静かすぎるのだ。仕事仲間達が相変わらずの驚いた様な顔つきのまま、しゃべりもせずにずっとこちらを見つめたまま固まっていた。
「……俺が何かしましたか?」
アルタルフが睨む様に見回すと、男達は途端に我に返ったかのように再び笑い、飲み始める。
「え、いやぁ何でもねぇ、何でもねぇよ。ただちょっと、なんだな」
「なんつーかなぁ。ほれ、あれだよ、あれ」
「ほ、ほら。こんなごちそうなんですから、先輩も早く食べた方がいいですよ。飲んでますか?」
ベテランから新人まで、返ってくる言葉がよそよそしい。何だが様子がおかしかった。
「いや、俺は」
「何を飲まれますか? おすすめは海藻のビールです」
酒は飲まない、と続けるつもりだったアルタルフだったが、少女の健気な態度の前では無下に断る事も出来なかった。
「じゃあ、それを」
アセルスはこくん、と頷くと、蟹のハサミで器用に机の上の小樽を掴み取り、アルタルフのグラスへとビールを注ぎ入れる。
「どうぞ」
樽の中身は澄んだエメラルドグリーンの酒だった。グラスに注がれると気泡が立って、水面が薄い泡で覆われる。
アルタルフはグラスを受け取ると、すぐにグラスを傾けた。
礼儀としてほんの少し、舐める程度と考えていたアルタルフだったのだが、一口含んだ途端に次が欲しくて堪らなくなり、一気にグラスの半分ほどを飲み干してしまっていた。
海藻のビールなどと言うからには塩辛く、磯臭いのかと覚悟していたが、しかし実際の味は予想していた物とは全く異なっていた。
味らしい味はほとんど無い。しかしその代わりに口の中に含んだ瞬間にハーブのような豊かな香りが鼻腔に広がるのだ。それもきつい香りでは無く、柔らかで深みのある優しい香りだった。
ほのかに甘い風味も感じたが、炭酸がピリリと後味を引き締めてくれるおかげで後味も爽やかだ。
加えて、グラス半分も一気に飲み干しても身体に多少火照りを感じる程度で、普段のように気分が悪くなるという事が全く無い。
「うまい」
「気に入って頂けて、良かったです。食べ物もおいしいですよ」
「あぁ、それじゃあ……」
改めて机の上に目をやれば、そこには見たことも無い程の大量のごちそうが並んでいた。
海中の豊かな海産物を使った料理。魚の素揚げや煮つけはもちろん、大きな魚の活造りのようなものまで並んでいる。魚だけでは無く、当然エビやカニや貝を材料とした料理もある。中には見慣れないタコの料理まであった。
しかし驚くべきなのは魚以外の、さまざまな肉料理や果物などまで大量に並んでいるという事だ。
鳥、豚、羊、牛。どの肉だとしても海の底まで運んで来るには相当難儀した事だろう。果物や野菜についても同様だ。魚は泳いでいるのを捕えればいいが、それ以外はそうはいかない。現に港町でも魚は安くても肉はそうはいかないのだ。
黄金色の脂が滴っているあの肉料理など、一切れで荷運び作業員のひと月分の給料が飛んでしまうかもしれない。
葛藤でアルタルフが黙ってしまうと、アセルスは何も言わずに自身のハサミを伸ばして、机の上から料理をいくつも取ってアルタルフの皿へと移していってしまう。
一瞬あっけにとられたアルタルフだったが、「どうぞ」と皿を渡されてさらに驚いてしまう。
皿の上に乗っていた料理はアルタルフが食べようか食べまいかと迷っていた物ばかりだったからだ。当然あの黄金色の肉料理もあった。
「……君は、心が読めるのか?」
アセルスは首をかしげる。
「いや、その」
「アルタルフさんに食べて頂きたいと思ったものを取ったつもりです。……余計な事、でしたか?」
「そんな事は無いよ。ありがとう」
アルタルフは皿を受け取ると、お礼の意味も込めてすぐにローストビーフを一枚口に運ぶ。
そして、絶句した。
ローストビーフを食べたことが無いわけでは無かったが、こんなにも美味しいローストビーフを食べたのは生まれて初めてだった。その味の違いと言ったら、同じ名前の料理であることを疑ってしまう程だった。
試しに他の料理も食べてみると、これも同様だった。これまで食べてきたのと同じ料理のはずなのに、食べる料理は全て比較にならない程に美味かった。
勿体ないと思いながらも黄金色の肉料理も食べた。パリッと焼き上げられた皮の歯ごたえが心地よく、しかし肉質は柔らかで噛んでいるだけで溶けてゆくようだった。
芳醇な香草の香りが肉汁の豊かな風味と調和し、肉の旨味をこれ以上ない程引き立てていた。舌の上に乗り、食道を通り抜け、胃袋に落ちるごとに全ての器官が歓喜で震えるようだった。
それから先は食べるのに夢中になった。気付けばあっという間に皿が空になっていた。
「どうでしたか?」
「美味しかった」
アセルスは返事を聞くと、当たり前のように皿を受け取り、また新しい料理を盛り付ける。
そこでアルタルフははっと気が付いた。もしかしたら、この娘は自分が食べたいものを遠慮なく食べられるようにこうして何も聞かずに食べ物をよそってくれたのかもしれない。
自分から頼むのには遠慮する人間もいる。だが相手の方から「いかがですか」と渡されたら、食べない方が失礼にあたる。それを逆手に取ったのではないか。
「こちらの料理もいかがですか?」
「あ、ああ、ありがとう」
再び盛り付けられた料理も美味しいものばかりだった。だが彼女の気遣いに気が付いてしまうと、黙って食べているというのも忍びなかった。
周りを見回しても、皆先ほどのちょっとしたやり取りなど忘れて楽しげに談笑していた。
アルタルフは何かしゃべらなければと考える。しかし考えても考えても、言葉はなかなか浮かんでこなかった。結局口から出てきたのは、
「……美味いな」
と言う、料理の感想としても至極簡単な物だけだった。
女性の前だと何も言えなくなる。自分は相変わらずだと、アルタルフは内心でうな垂れる。
そんなアルタルフを見つめていたアセルスが、ふいに口を開いた。
「本当ですか?」
「もちろん。こんな美味しいもの初めてだよ」
アセルスは表情一つ変えないものの、しかし納得している様子も無かった。アルタルフとしては正直な気持ちを言っているつもりだったが、何か気になっているようだった。
「でも、何だか苦しそうに見えます……。何か私に至らない点でもありましたでしょうか」
「え? いや、そんな事は無いが」
「では、お腹でも痛みますか? それとも、お疲れなのでしょうか。そうであれば横になれる場所も……」
「それも無いよ。どこも痛くは無いし、疲れもいつも通りだ」
「でも……」
アルタルフは少し考えてその可能性に思い至り、まさかと思った。だがこちらの食べたいものを見抜いていた彼女になら、ありえない事でも無い。
どう伝えたらいいのか迷ったが飾る言葉も思いつかず、結局アルタルフはそれをそのまま素直に言葉にする事にした。
「実は女性と話すのが苦手なんだ。……いや、女が嫌いとかそう言うのでは無くてな、普通に交際などしてみたいとは思ってはいるんだが、どうにもこう、目の前にしてしまうと何をしゃべっていいのか分からなくて」
ばつが悪くなり目を逸らしたアルタルフの耳に、小さな吐息の音が聞こえて来る。
また落胆させてしまったのだろうかとため息を吐きそうになったアルタルフだったが、他ならぬ彼女の声がそれを止めた。
「私もです」
「……え?」
思わず顔を上げる。相変わらずじっと見つめてくるアセルスの表情が、心なしか柔らかくなっている気がした。
「しゃべるの、苦手です。踊っている方が好き。……あ、でも、アルタルフさんの事が嫌って言うんじゃありません。私もいい人が欲しいです。……でもこんな姿だし、怖がられる事も多くて、多分さっきも……」
眉尻をわずかに下げるアセルスを見て、アルタルフは慌てて口を開く。
しかし開けたまではいいものの、言葉がなかなか出てこなかった。特に外見の事など、下手な事を言っては余計に傷つけてしまいかねない。
それでも何か声をかけたくて、アルタルフはかつてない程に無い頭を回転させる。
「あー、えーと、踊り、踊りが好きなんだな」
「はい、大好きです。音楽に乗って、みんなと一つになれている気がして。踊っていると楽しい気分になれますし、余計な事も考えなくて済みます」
「すごかったよ、君の踊り。あんなに生き生きとした舞を見るのは初めてで、本当に素直に感動してしまった。
正直魔物娘なんて神に呪われた、人間を堕落させる敵だとしか思っていなかったんだが、自分の世界がいかに狭かったかを思い知った。世界にはこんなに綺麗で、凄い生き物が……」
アルタルフはそこまで言ってから、ようやく自分が何を言っているのかを自覚する。
何か声をかけなければと必死になるあまり、とんでもない事を口走ってしまった。もてなしをしてくれている魔物娘に向かって「神に呪われた人間の敵」など、面と向かって罵っているような物ではないか。
現にアセルスは大きく目を見開いて言葉を失ってしまっていた。
「いや、その、すまない。そう言うつもりでは」
「……嘘」
アルタルフはアセルスの顔を見ていられず、素直に頭を下げる。
「悪かった。俺は最近まで神の教えを信じていたんだ。もちろん魔物娘が人間を殺したりしないなんてことは知ってはいるんだ。けど、実際に見るまでは、その」
「そこじゃなくて、踊りの事です」
「踊りの事?」
恐る恐る顔を上げると、アセルスは頬をほんのちょっぴり赤らめていた。
「その、感動した、とか」
「あ、ああ! 本当だよ。感動した。暗闇の中にシャボン玉と魔物娘達が踊っているのも凄く、その、楽園のような光景だったし、特に君の動きからは目が離せなかった。まるで魔法にでも掛けられているかのようだったよ」
「ぶ、舞台は簡単な魔法の応用なんです。クラーケンさんは暗闇を作り出す魔法と闇の中で自分だけの姿を相手に見せる魔法が得意で、それを応用して、この広間を真っ暗にして、私達踊り子の姿だけをお客様に見せるようにしてるんです。
泡は、私の魔法ですが、踊りは魔法じゃありません。れ、練習も、したんですよ?」
アセルスはわずかに目を泳がせると、恥じらうように俯いてしまう。
なぜ急にしおらしくなってしまったのか。思い返したアルタルフは自らの発言に思い当り、顔を赤く染める。
真正面から感動した、綺麗だった、目が離せなかったなどと馬鹿正直に言われては、困惑して当然ではないか。
「い、いやあ、魔物娘って言うのは、大したもんなんだな」
結局アルタルフもアセルスの事が見ていられずに目を逸らしてしまう。
けれどこうしていても埒が明かないとアルタルフはアセルスに向き直る。すると、ちょうどアセルスも顔を上げたところだった。
お互い口を開きかけ、声をかけようとしたその時だった。
『えー、宴もたけなわではございますが、本日の酒宴の時間はここまでとなります』
アルタルフはアセルスと顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
『気に入った女の子がございましたら、どうぞ今晩はその娘と共にこの海底城に泊まって行って下さい。お部屋は余っておりますので、ご遠慮せずにお声をかけて下さいね』
そしてそんな風に続いた知らせに、アルタルフは苦笑いを引きつらせてしまうのだった。
帰りの船着き場に集まったアルタルフの仕事仲間達は、驚く事に半分にも満たなかった。話によれば来なかった者は皆この海底城に一泊してゆくとの事だった。
泥酔で動けなくなったというわけでは無いのだろうという事は、普段は鈍いアルタルフでも察しがついた。仕事仲間達は皆一晩飲み明かした程度では潰れない酒豪たちばかりだからだ。
数匹の魔物娘達に見送られ、定刻通りに帰りの船は出港した。見送りの中にはアセルスの姿もあった。
海底の海は真っ暗で、浮かんでいるのか沈んでいるのかも分からない。しかしアルタルフには行きの道中に感じたような不安は無かった。代わりにあったのは意外にも寂しさだった。
船の端で船底を眺めていると、自然とため息が漏れた。
思い返すのはアセルスの事ばかりだった。表情には出していなかったが、彼女のハサミは何度もアルタルフの服を掴みかけていたのだ。本当は彼女はアルタルフに残って欲しかったのかもしれなかった。
けれどアルタルフが選んだのは船で帰るという選択肢だった。無論もっとアセルスと共に居たい、話したいという気持ちが無いでも無かった。しかし一夜を共にするほどの覚悟は、まだ無かったのだ。
「よぅアルタルフよう」
黄昏ているアルタルフの隣に、行きで隣だった男が腰を下ろす。酒臭い息がかかり、アルタルフは顔をしかめた。
相当酔っているのだろう。男は特に悪びれる事も無く、上機嫌の様子でアルタルフの肩を叩いた。
「すげぇのに気に入られてたな。いやぁでも無事に逃げて来れて良かったなぁ」
「どういう意味だ」
「蟹娘だろう。ありゃあちょっと迫力があり過ぎる。よくもまぁ平気な顔で隣にいられたもんだよ。俺だったらあんなのが近くにいたらちびっちまいそうだぁ。いつあのハサミで挟まれないかとひやひやしちまうよ」
「あの子はそんな事はしない。心の優しい大人しい子だよ」
「でもなぁ、魚やイカタコならまだともかく、蟹は怖ぇよ」
へらへらと笑いながら、男は怖い怖いと連呼する。アルタルフはそんな軽薄な男の態度が癪に障り、むっとして言い返した。
「天使だって背中に羽が生えていると言ったのはあんただろう。魔物娘は悪い奴等じゃ無いって言ってたのも、あんただ」
「それはそうだが、でもよお、やっぱり鳥の羽と蟹や虫の足ってのはやっぱり違うだろうよ。俺はあの節足がどうにも苦手なんだ」
酒が入っているせいか、男は来た時よりも饒舌だった。これがこの男の本音なのかもしれなかった。そう思うと、アルタルフはやるせないやら腹立たしいやらで何を言う気も無くなってしまった。
「やっぱり俺は抱くなら人間がいいなぁ。お前だってそうなんだろう。だから帰って来た。違うか?」
「いや、俺は……」
アセルスを、抱く? アルタルフは想像しようとするものの、彼女の裸体を思い描くのが精一杯で、どのように交わるのかは全く見当がつかなかった。
けれど彼女の事を考えただけで胸が高鳴るのは事実だった。こんな感覚は、今まで覚えたことが無かった。
「抱けねぇのさ。抱けるならあの場に残っているはずだろ?」
答えられないアルタルフに対し、男は勝ったとばかりに胸を張る。
「僭越ながら口出しさせていただきますが、それはそこの殿方が、それだけアセルスさんに真剣だから、では無いでしょうか」
それに異議を申し立ててきたのは意外にも、船の航行を司っている船頭だった。
「真剣に相手の事を考えるからこそ、簡単に手が出せない。そう言う男女の関係もまたあるのだと思いますよ? ゆっくりと時間を掛けて育てる愛と言うものもございます。
……羨ましい限りです。私に声をかけて下さった方は、結局別の子のところに行ってしまったようですから」
船頭はあくまで穏やかに告げるが、しかし男は勝ち誇ったように笑うだけだった。
「ゆっくり時間を掛けて育てるって言ってもなぁ。こいつは地上、あの蟹の子は海底だろう? もう会う事も出来ねぇじゃねぇか」
アルタルフははっと息をのんだ。そうだ。また会いたいとは思っているが、実際どう会えば良いのだろうか。
このまま一生会えないのだろうか。それは嫌だ。
だがどうせ会えないのならば、これで良かったのかもしれない。下手に情を移すよりは、一度の出会いで済ませておいた方が……。
「会えない事はありませんよ。毎週一度はあのような催しは行っておりますので、今日と同じ時間に同じ場所に来ていただければ案内いたします」
「本当ですか?」
「ええ、嘘は申しません。あの港町も親魔物領になった以上は、胸を張って仕事が出来ますしね」
アルタルフは目の前に光が差したような心地がした。捨てる神あれば拾う神あるというのはこの事だ。
「け、けどよお、色々金もかかるんだろ? あれだけの宴会だ、俺達貧乏人がそう何度も」
「確かに多少お代はいただきます。そうですね、大体……」
船頭が口にしたのは、驚くべきことにアルタルフの丸一日の食費代程度の額だった。
流石に毎日と言うわけにはいかないが、毎週遊びに行くだけであれば十分に可能だ。
「良ければ、また是非来ていただきたいです。アセルスさんもきっと喜びますし」
「ええ行きます。来週もまた、ぜひ」
アルタルフは目を輝かせて二つ返事で答える。だが、隣の男はまだ納得出来ていないようだった。
「け、けどよお、お前確か船酔いするじゃあねぇか。移動どうすんだよ」
「あ……」
「うふふ。ここはもう船の上ですよ?」
考えてみればその通りだった。本来ならば行きで気が付くべきだったのだが、体調にも変化が無かったのですっかり失念してしまっていた。
「海の上は駄目だが、浮いたり沈んだりは平気ってこと、なのかな」
「なんでぇ。そんな出鱈目な船酔い、聞いた事ねぇぞぉ?」
男はまだ何か言いたげではあったが、それ以上は何も言ってこなかった。
それからの一週間を、アルタルフは期待と不安と共に過ごした。
もう一度アセルスに会えるかもしれないと思うと胸が高鳴ったが、もし迎えの船が来なかったらと思うと気持ちが落ち着かなかった。
そして海底城に行ってから一週間、約束通りに迎えの船は港にやって来た。
船は無事に海底城へたどり着き、アルタルフは再びアセルスと再会できたのだった。
***
海底城に通い始めて数週間目の週末。いち早く仕事を終えたアルタルフは早々と仕事場を後にし、船着き場へと向かう。
あの日からアルタルフの生活は一変していた。
世界が鮮やかに色づき、食事も美味く感じるようになり、何かするのも身体の底から力が湧きあがるようだった。
それもこれも、週末の楽しみがあるからだった。
アセルスの舞い踊りを見られると思うと、また言葉を交わせると思うと、どんなきつい仕事でも耐えられた。怪我したり身体を壊しては会いに行けないからと、健康にも気を付けるようになった。
以前のように生きることに悩むという事もほとんど無くなった。
神はどこにいるのか分からず、教団の教えにも嘘はあったが、アセルスは必ず海底城でアルタルフの事を待ってくれており、アルタルフの彼女に対する気持ちにも嘘は無かった。
アセルスのおかげで大きな悩みは無くなった。だがアルタルフは、別の意味でアセルスの事が悩みの種にもなってしまっていた。
今のアルタルフの悩み。それは、彼女との関係だった。
何度も会いに行き、幾度も言葉を交わし合った事で、彼女との距離は確実に縮まっていた。今ではもうほとんどお互いに気を使う事無く自然に話す事が出来るようになっていた。
けれど進展はその程度で、それ以上の関係に踏み込むことがまだ出来ていなかった。
海底城に泊まった事もまだ無かった。彼女は残って欲しそうなそぶりは見せていた物の、明確に言葉や態度で示す事も無かった。アルタルフとしては自分が彼女の気持ちを誤解していたらと思うと怖くなってしまい、そんな事もあって毎週酒を飲んだらすぐに帰ってしまっていたのだった。
このままでは良く無いとはアルタルフも分かってはいたが、しかし現状で十分満足してしまっても居た。そんな事もあって、下手な事をして関係を壊してしまうのではと考えると、行動にまではなかなか移れなかった。
港から海底城に向かう船の上で、アルタルフは今日もまた今回こそは彼女との関係を深めようと考える。
今回駄目だったら、次回頑張ればいいさ。そんな風に、いつものように自分を誤魔化すような言い訳を最後に入れながら……。
海底城で演じられる舞い踊りはその週ごとに微妙に振り付けや流れが変えられている。
季節や月ごとにテーマを変えているらしく、お客が何度海底城を訪れてもその時ごとに楽しめるように考えられているのだそうだ。
その日の演目も素晴らしいものだった。とはいえ、アルタルフが注視していたのはやはりいつものようにアセルスの姿だけだった。
演目が終わると魔物娘達が客席まで降りて来ていつものように酒宴が始まった。
アルタルフもアセルスが来るのを待った。ところが、その日はなぜかアセルスはなかなかやって来なかった。
いつまでも姿を見せないアセルスを不安に思い、アルタルフは席を立って広間を見渡す。
どこの席にもアセルスの姿は無かった。別の席に行っているという事は無いようだったが、依然として彼女の所在は分からないままだった。
嫌な予感がした。
冷静に考えればここで彼女が来るのを待ち続けるべきだった。自分は一介の客に過ぎないのだから、相手をしてくれる魔物娘にわがままなど言うべきでは無い。
けれどアルタルフは居ても立っても居られなかった。アセルスの事を探すために動き出すまでに、そう時間は掛からなかった。
舞台の上で踊る魔物娘達は一度裏口から外に出て、広間の入り口から来ることになっている。アルタルフはそれを思い出し、廊下に出て舞台の方向へ探しに行く。
そして廊下を進み出してすぐに、彼女が来ない理由が分かった。
「いいじゃねぇかよ姉ちゃん。俺の相手してくれよぉ」
「こ、困ります。離してください」
「離してくれって、俺はお客様なんだぜぇ?」
廊下の隅で、アセルスが漁師風の男に絡まれていた。
男はなれなれしくもアセルスの肩を抱き、にやにやと笑いながら息がかからんばかりに顔を近づけている。
アセルスは相手がお客と言う事もあって無理矢理引きはがす事も出来ないようだった。けれどその表情を見れば彼女が嫌がっている事は明白だった。いつも感情を顔に出す事が無いアセルスが、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。
アルタルフの胸が一度急に冷え込み、そして頭がかぁっと熱くなる。
「おいやめろ。嫌がっているじゃないか」
アルタルフは二人の方に近づき、男の腕を掴んで引き剥がす。考える前に身体が動いていた。
「アルタルフ」
身を寄せてくるアセルスを背後に庇い、アルタルフは二人の間に立つ。
「いてて。おいなんだよ兄ちゃん。邪魔するんじゃねぇよ。俺はお客様なんだぜぇ?」
「それなら俺も客だ」
腕を離してやると、男は大仰に腕をさすりながらアルタルフの顔を見上げる。
そして、何かに気が付いたように目を見開くと、急に下卑た笑いを浮かべてアルタルフの事を指差した。
「あんた見たことあるぜ。毎週来てその姉ちゃんと話だけして帰ってく奴だ」
「そうだが、何か問題でもあるのか」
「いやぁ? ただ見ているだけで満足しているような男に、旦那みてぇな面ぁしてほしくねぇなぁって思っただけさ。
いいかぁ? 魔物娘ってのはな、ナニがおったちそうだったらすぐにその場で抱いてやった方が喜ぶんだよ。こいつらは子作りの事しか頭にねぇんだからよ。
その姉ちゃんだってただ見てるだけの男よりは胎ん中に子種をまき散らしてくれる男の方が良いに決まってらぁ」
アルタルフは震える拳を強く握りしめる。それは殴るためでは無く、殴りかかりそうになる自分を抑えるためだった。
「ふざけるなよ」
「ふざけているのは兄ちゃんの方だろう? その姉ちゃんが欲求不満そうだったから、親切な俺が一晩中可愛がってやろうって言うのに。あぁ、すべすべの姉ちゃんの肌、たまんねぇなぁ」
アルタルフは、自分の中で何かが切れるのを自覚する。そして考える前に、それは行動となって表れてしまっていた。
「アセルスは、アセルスは俺の女だ! 俺の女を、嫌らしい目で見ないでくれないか! 今日は結婚を申し込みに来たんだ。これから愛を交わし合おうという前に外野にしゃしゃり出られてはいい迷惑だ!」
震えるアルタルフの拳に、アセルスの手の平が重ねられていた。アルタルフが殴りかからなかったのは彼女の手のおかげだった。そうでなければ、言葉よりも先に手が出ていた事だろう。
「そ、そうです。お客様には申し訳ありませんが、私は……」
畳み掛けるようなアセルスの言葉に、男はぽかんと口を開けて勢いに飲まれてしまっているようだった。
アルタルフがさらに追撃を加えようとしたその時だった。
「お客様、どうなさったのですか?」
騒ぎを聞きつけたのか、店のクラーケンがこちらに向かって来ていた。
「き、聞いてくれよぉ。俺はただそこの姉ちゃんと遊びたいって言っていただけなのに、そこの男が俺の女だなんだと騒いでよぉ」
「そうでしたか。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。その分たっぷりとサービスをさせていただきますので、どうぞこちらへ」
クラーケンは慣れたような口調で言うと、男の腕を取って自分の乳房を押し付けるように腕を組んだ。
途端に男の表情が緩いものに変わり、男はクラーケンに導かれるままいずこかへと連れて行かれてしまった。
見事なほどにあっという間の出来事で、アルタルフもアセルスも何も言う事が出来なかった。
廊下は何事も無かったかのように平静さを取り戻しており、あとには困惑する二人が残されたのだった。
我を忘れて激情に流され、しかしその対象が簡単にどこかに行ってしまった事で、アルタルフは廊下に突っ立ったまま呆けてしまっていた。
アセルスも同様のようで、あっけにとられてしまっていたようだった。
しばらく降りていた沈黙を、先に破ったのはアセルスの方だった。
「アルタルフ。ありがとう」
呆然としていたアルタルフも、アセルスによって現実に引き戻される。そしてとんでもない事をしてしまったという事に気が付き、渋面になって頭を下げた。
「いや、勝手な事をしてしまった。すまない」
「そんな事無い。……ねぇ、さっきの話、本当?」
「悪かった。俺の女だとか勝手な事を言って。けれど俺は……」
アルタルフはそこで一度言葉を区切り、大きく深呼吸する。
今の一件でアルタルフはようやく自分の気持ちを悟っていた。もう彼女を見ているだけでは満足できない。見ている間に誰かに取られるなら、彼女には自分の側に居て欲しい。週に一度では無く、いつも一緒に居たい。
「本気だ。俺の嫁さんになってくれないか」
アセルスは泣き笑いを浮かべ、そしてアルタルフに向かって体当たりするように抱きついた。
意表を突かれたアルタルフは彼女を支えきれず、廊下に押し倒されるような形で倒れ込んでしまう。
「嬉しい。……嬉しい! はい。私、アルタルフの妻になります。これからずっとあなたのそばに居ます」
一瞬、夢ではないかと疑った。
けれど肌に感じるアセルスの体温が、彼女の匂いが、これは確かに現実なのだとアルタルフに教えてくれていた。
「本当に、いいのか?」
「アルタルフじゃなきゃ嫌だもん。初めて見た時から、私の全てはあなたに捧げようって決めていたから。だって、あんなに私の事熱心に見てくれたの、あなただけだったから」
頬が熱い涙で濡れてゆく。
アルタルフは彼女の背中に腕を回し、しっかりと抱き締める。そうするのに、もう一切の迷いも無かった。
『ねぇアルタルフ。こんな事言ったら嫌われてしまうかもしれないんだけど。お願いがあるの』
『なんだ? 俺に出来る事なら何でもする。でも、何を言われても嫌いになどならないよ』
『あの、あのね。私、アルタルフの子供が欲しいの。……子作り、したいの』
『あー……。そうか、分かった。いずれはしたい事だったし、それが早くなるだけだからな』
廊下での一件の後、そんなやり取りを交わした二人が向かった先は、海底城随一の広さを誇る大浴場だった。
他の客達はまだ酒に興じているのだろう、脱衣所には人気はほとんど無かった。
「風呂?」
アルタルフは驚きと戸惑いを隠せなかった。てっきりベッドルームにでも案内されると思っていたので、こんなところに連れて来られるのは予想外だった。
「あの、ね。その、匂いが気になって……」
アルタルフは自分の服に鼻を当て、苦笑いを浮かべる。
「ごめんな、汗臭くて」
「違うの。アルタルフの匂いは好き。汗の匂いも、うっとりしてしまうくらい。私が気になっているのはそれじゃなくて、他の雌の匂い」
雌。女と言う事だろう。しかしアルタルフは首を傾げざるを得なかった。自分は女に縁があるとは言えない。まともに会話をしている女性ですら、アセルスくらいなのだから。
「信じてもらうしかないが、俺はアセルス以外には」
「分かってる。でも、お仕事で扱った荷物の中に魔界産のものとか、あるでしょ」
「あぁ、確かに最近じゃホルスタウロスミルクやらアルラウネの蜜やらアラクネの糸やら、これまで運んだことも無いものも扱っているな」
「多分それから移ってるんだと思う。ほんのわずかだけど、他の魔物娘の匂いがするの。……アルタルフから他の魔物娘の匂いがするのは、嫌なの。
わがまま言ってごめんなさい。私が綺麗にするから。アルタルフは座っているだけでいいから」
俯いたアセルスの声はどんどん小さくなってゆき、最後には聞こえない程にしぼんでしまう。
アルタルフは小さく笑うと、返事をする代わりに黙って衣服を脱ぎ始めた。
薄汚れたシャツやズボンを脱ぎ捨て、下着も少し逡巡したものの、結局脱いでアセルスの前に裸体を晒す。
「脱いだぞ」
アセルスは弾かれたように顔を上げ、そしてすぐに顔を真っ赤に染める。視線は明らかにアルタルフの股間を向いていた。
「あっ。……すごい」
「大したものじゃない。他と比べて自信もないしな。……そんなに見つめられると、恥ずかしいんだが」
「ご、ごめんなさい」
「あと、俺だけ裸って言うのも」
アセルスはこくこくと頷くと、何のためらいも無く着ていた踊り子用の薄物を脱ぎ捨て、胸元や腰元に巻いていた衣を外してゆく。
踊り子の装束はもともと露出が多く、裸に近い姿と言っても過言では無かった。しかしやはり着衣があるのと一糸まとわぬ姿では見る者の印象が全く違った。
踊り子姿には踊り子姿の色気や妖艶さがもちろんあった。しかし今アルタルフが目の前にしている彼女の裸体には、またそれとは違った生々しい蠱惑的な美しさがあった。
その身体は舞踊によって鍛え上げられたのだろう細く締まっていたが、しかしそれでいて女性らしい柔らかさも失っていなかった。
華奢な肩に、浮き出た鎖骨。ほっそりしたウエストから腰元へ向かうゆったりとした身体の線は、男に雄の衝動を抱かせるには十分すぎるものだった。
痩せて小柄なだけあり、胸は決して大きくは無かった。その膨らみは、魔物娘の中ではむしろ控えめな部類に入るだろう。けれども頂上に桃色の小さな果実を頂くその緩やかな曲線は、それはそれでどこか背徳的な欲望を抱かせた。
そんな可愛らしい女性の身体が乗っているのが、少々無骨な蟹の肉体の上と言うのもアンバランスな妖しさがあった。
「アルタルフも、人の事言えない」
「すまん。綺麗だと思って、つい」
「いい。アルタルフに見てもらえて、嬉しいから。それじゃあ、行こ」
アセルスはアルタルフの手を引き、歩き出す。
大浴場への扉をくぐると、柔らかな蒸気と、それに続いて花のような爽やかな香りが二人の身体を包み込む。
「海底温泉のお湯に、魔界ハーブを浮かべているの。少しぽうっとしてくるかもしれないけど、今日は理性に影響するような組み合わせじゃないから大丈夫」
「今日はって事は、ここも日替わりなのか?」
「うん。温泉にだけ来る夫婦もいるよ。ほら」
アセルスの言う通り、離れたところから男女の笑い声や水が弾ける音が聞こえていた。蒸気で見えにくいが、他にも客が居るようだった。
「先に温まろう。こっち」
案内された先にあったのは、湯気の発生源でもある、湯がいっぱいに張られた大きな浴槽だった。その大きさは貴族の豪邸どころか、どこかの王宮を思わせる程だった。それにこんないっぱいに湯を張っているのだから、その豪華さも知れるというものだ。
思わず見入ってしまうアルタルフをよそに、アセルスは簡単に身を清めはじめる。
蟹の身体の背中などは洗いづらいのではないかと思われたが、アセルスは見た目以上の身体の柔らかさをもって自分の身体を洗ってゆく。
「みんなで使うところだから、汚れは落とさないとね」
「あ、ああそうだな。俺も洗おう」
またもや彼女の姿に見蕩れかけたアルタルフだったが、彼女の言葉に我に返る。
アセルスの隣に並び、湯を汚してはならないとばかりに念入りに身体を清めた。
「じゃあ、入ろっか」
ざぶざぶと湯に身を沈めてゆくアセルスに並び、アルタルフも湯に足をつける。
痺れるような熱さが一瞬足を包み込む。しかし刺激的なのはその一瞬だけで、すぐに熱さは身体がとろけてしまうような心地よさに変わった。
両足をひたすと、あとはもうためらいも無く肩まで浸かってしまった。
「あぁー」
「気持ちいいでしょ。踊りの練習の後、みんなで入ったりするの。ここに入ると、疲れもすぐに取れるんだ」
アセルスの言葉に偽りは無かった。腰や肩など身体中の凝っている部分、疲れている部分が特に熱を帯び、ほぐれて溶けてゆくような心地良さに、アルタルフは大きく息を吐く。
気持ち良くて、すぐに頭がぼうっとしてきてしまう。目を瞑れば眠ってしまいそうな程だった。
「良い湯だな。毎日入りたいくらいだ」
「歓迎するよ。私もアルタルフと一緒に入りたい」
アルタルフの隣で、アセルスは小さく微笑む。お湯で気持ちも緩んでいるのか、いつもより感情表現が柔らかかった。
アルタルフはぼんやりと、アセルスを見つめる。
本当に、本当にすぐそばにアセルスの身体があった。湯につかって赤みの差した柔らかそうな肌が、上気した頬が色っぽい彼女の顔が、手を伸ばせば届くほどの距離に。
そして、考えた時には手を伸ばしてしまっていた。
アルタルフは彼女の肩を抱き、ぐっと抱き寄せる。
少し驚いた様な彼女の顔の上に覆い被さるように、唇を重ねた。
「んっ」
強張っていたのは一瞬だけだった。アセルスはすぐに唇を、身体ごとそうするようにアルタルフに委ねる。
お互いの唇を、その形を、柔らかさを楽しむかのようについばみあう。やがて唇だけでは物足りなくなり、どちらからともなく舌を伸ばし始める。
触れた瞬間その柔らかさに驚いたように舌を引っ込め合い、二人して探る様に舌を触れ合せ、絡め合わせ始める。
お互いの体液を求め、唇をなぞり、歯の裏をくすぐる。どんなに激しくしても、お湯の音にかき消されて誰かに気付かれるという心配も無かった。
我慢できなくなったアルタルフは彼女の胸元に手を伸ばし、その膨らみに包み込む様にして触れる。
「んんっ。ある、たるふ」
アルタルフの手にアセルスの手が重ねられ、やんわりと押し戻される。
「あ。……済まない。嫌だったか」
「そんなのあるわけ無いよ。……でも、ここはみんなで使うところだから。あっちに、その為の場所があるから、ね?」
「じゃあ、そこに行こう」
「うん」
立ち上がり、アルタルフは自分の身体を見下ろして驚いた。自分でも気が付かぬうちに、自分の股間のそれがかつてない程に逞しくそそり立ってしまっていた。
「……すごい」
「いや、その。そう言うつもり……ではあったが、こんな事になっているとは」
「このお湯には、抑えている欲望を引き出して、それに正直にさせる効果もあるの。私ももう……早く行こう」
湯から出た彼女の身体も、蟹の半身も、期待と興奮を押し隠せないのかほのかに桜色に染まっていた。
アセルスに着いて行った先にあった扉をくぐると、そこは濡れたまま入れる部屋になっており、いくつかの白くてふわふわした質感のベッドが並んでいた。
「そこに座って」
アルタルフは言われたままにベッドの端に腰かける。触ってみると、密度と肌理の細かい綿のような感触がした。力を入れると入れただけ沈み込み、力を抜くと元の大きさに戻ろうとする不思議な素材だった。もともと濡れたまま横になる事を前提としているのだろう、濡れた手で触っても特に不快な感触も無かった。
「それじゃあ、本格的にしよっか。……まずは、アルタルフの身体を綺麗にするね」
「でも、さっきちゃんと洗ったぞ?」
わざわざそんな手間をかけなくても、と言うつもりでアルタルフは声をかけたつもりだったのだが、アセルスは子供のように口をへの字に曲げる。
「お風呂に入ったから他の魔物娘の匂いも付いちゃってる。……アルタルフから別の子の匂いがするのは嫌」
「分かった。お任せするよ」
アルタルフがそう言って笑いかけると、アセルスは安心したように表情を緩めて頷いた。
「はじめるね。私の"泡"で、綺麗にしてあげる」
そう言うと、アセルスは蟹と人間の身体のつなぎ目辺りに指を這わせ、すくい上げるように動かし始める。
何度か指が往復するうち、彼女の腰元から泡が立ち始める。一度泡が出始めると、あとはそんなに時間もかからずに泡は次々と溢れ出してきた。
アセルスはその泡を自分の腕と胸元に塗りたくり、そして、
「うっ」
座ったアルタルフの腕を両腕でしっかり抱えて、身体を擦り付けるように動かし始めた。
「アセルス。こんな」
「どう? 気持ちいい?」
「気持ちいい。良すぎる、くらいだ」
アセルスの柔らかな肌が、乳房が腕に押し当てられ、肩口から指先までぬるぬると滑ってゆく。角度を変え、時に彼女の腋の下で、ひじの内側で挟まれ、擦られる。挟めない指先には指をねっとりと絡められる。
快楽は視覚や感触だけに留まらなかった。肌が滑るたびにニチュニチュと湿った音が響き、アセルスの甘い匂いが香る。
アルタルフは腰の底から何かがもたげ始めるのを感じていた。だが歯を食いしばりそれを堪える。
「右腕はこれで良し。左腕、出して」
言われるままに左腕を差し出し、再び腕がとろけてしまうような奉仕を受ける。
肌に直接与えられる感触もとろけるようだったが、アセルスの表情もまた堪らなかった。
舞台で踊るときのような一生懸命な顔、感じやすいところが擦れたときの恥じらうような表情、零れる熱い吐息。
気付けば左腕も終わっていた。
「次は、右脚」
脚を上げると、こちらも同じように胸の中にぎゅっと抱きしめられ、擦りつけられた。
大切な場所に近い分、刺激の強さもひとしおだった。
アルタルフは気を逸らす為に必死になる。何とか女体の快楽から目を逸らそうと、彼女の下半身に意識を集中させた。
蟹の腕や脚は、甲殻の部分は硬そうではあったが、関節部分は意外と柔らかそうでもあった。女体とのつなぎ目辺りは甲羅が少し外れるらしく、中はブラシ状になっているのも発見した。
蟹の身体から出ている青い目も綺麗だった。深い色合いで水晶のように澄んでいて、人間の瞳には無い美しさがあった。
と、気が付けば右脚が終わっていたが、なぜだかアセルスの顔が首まで真っ赤になっていた。
「さ、最後に、左脚」
「あ、ああ。でもどうしたんだ。真っ赤だぞ」
「だってアルタルフ、私の身体じっと見て来るんだもん。そんなに身体や、目を見つめられたら緊張するよ」
「わ、悪かった。でも、綺麗な目だと思って」
「……綺麗だなんて、初めて言われた」
はにかむアセルスが堪らなく愛しく、アルタルフは彼女の頭を撫でる。
しかしアルタルフにはなぜ彼女が自分の視線に気が付いてたのか疑問だった。考えられるとすれば、蟹の目でも周りを見ているという事くらいだったが……。
「もしかして、そっちの目も見えているのか?」
「うん。細かい表情の動きとか、筋肉の動きとかも分かるよ」
「それは凄いな。……もしかしていつも俺が食べたいものとかが分かったのも」
「見てれば分かったから」
アセルスは左脚を抱き締める。
「……ごめんねアルタルフ。私に柔らかい足があったら、もっと気持ち良くさせてあげられたかもしれないのに」
「かもしれないが、けどアセルスの脚も可愛いぞ。歩いてるだけでも可愛いし、喜んだりしたときに動いてたりして、……今もほら」
意識的にしているのではないだろうが、アルタルフが笑顔を向けたり声をかけるたび、アセルスの蟹の脚はわずかに縮こまったり動いたり、床を軽く叩いたりしていた。表情に出ない分身体に出ているのかもしれないが、そんなところが小動物のように可愛らしい。
「からかわないでよぉ」
「嘘じゃないぞ。と言うかこうでもしてないと、限界が近いんだよ」
「我慢しなくていいんだよ。出したいときに出して……。と、左脚もおしまい」
身体を解放され、アルタルフはほっと息を吐く。
アセルスの全身奉仕は天国のような心地よさだった。それは文句のつけようも無かったが、同時に射精を我慢するとなると地獄苦しみでもあった。
アルタルフのそれは今やがちがちに硬く、大きく膨れ上がってはいた。いつ暴発してもおかしくない程ではあったが、最後の一線だけは守り切っていた。彼女は我慢しなくてもいいと言ったが、アルタルフには男としての意地もあるのだ。
アルタルフは自分の腕の匂いを嗅ぎ、ぽつりとつぶやく。
「全身から、アセルスの匂いがする。……これはいいな」
「ま、まだ終わってないよ。ほら、今度はここに座って」
「ここって、だが」
頬を染めたアセルスが指差した先は、彼女の正面、蟹と人の身体の継ぎ目辺りにわずかに開いた彼女の甲殻の上だった。
肌を密着させずに座るのは、まず不可能だ。座れば当然剛直を下腹に押し当てる事になってしまうだろう。
アルタルフは後ずさろうとしたが、何か硬いものが背中に当たって動けなかった。見れば、いつの間にか彼女のハサミが背後に回り込んでいた。
「……アルタルフ」
逃げ場を失ったうえ、こんな寂しそうな顔をされてはアルタルフにはどうしようもなかった。
アルタルフはアセルスに跨るように、小さな甲殻の上に座る。
途端にアセルスの両腕がアルタルフの背中に回り、ぎゅうっと強く抱き締められた。
肌と肌がぴったりと密着する。お互いの心臓の音すら溶け合う程に、しっかりと抱き締め合った。
「そ、それじゃ、上半身綺麗にするね」
アセルスの腕が背中をまさぐり始める。細い指が背筋を撫で上げ、背中の筋肉に沿ってゆっくりと愛撫してくる。
同時に彼女は上半身を上下に揺すり、腹と腹同士を、胸と胸同士を擦りつけてくる。
ぬるぬるとした泡まみれの肌はどこも滑りが良く、アルタルフの全身にねっとりと絡み付いてくるようだった。
「うぅっ。くっ」
アセルスは呻き声を上げるアルタルフの頬に頬ずりし、首を舐め、顎を舐め、やがては耳にまで舌を這わせてくる。
「アルタルフ、綺麗にしてあげるからね。他の女の子の匂いなんて、いらないもんね」
「あ、ああ。俺には、お前が居てくれれば、それで」
「じゃあここも念入りに洗っておくね」
アルタルフの股間をそれまでとは全く異質の感触が包み込む。
それは、ぬるぬるとした液体で濡れた大量の柔らかい毛のような感触だった。見下ろしてみると、小さな蟹の顎のような物が腰の部分で動いていた。
「細かいブラシみたいになってるの。これならどんな小さな汚れも、わずかな匂いも残さない」
「アセルス、これは、刺激が強すぎる。くっ」
ブラシになっている下顎は更に強くアルタルフのそれを圧迫し、激しく上下に揉み上げてくる。
細かい柔毛が一物全体を包み込み、絡み付き、擦り上げ、時に尿道にまで入り込んで洗い上げてくる。
今まで精一杯耐えてきたアルタルフだったが、これには耐えきれなかった。
「あ、あああっ」
大きく腰が跳ね、顎からはみ出た男根から白濁が迸る。
度重なる脈動と共に何度も放射されたそれはかなりの粘度を持っており、アセルスの胸元を汚したまま流れ落ちることなくそこに留まる。
「あぁ……。アルタルフの、いっぱいでた」
「悪、い。アセルス。我慢が、出来ず、君を汚して」
「凄く、濃い匂い……。こんなの、初めて」
アセルスは胸元のそれを指で掬い取り、匂いを嗅いでから、何と口の中に入れてしまう。
「アセルス、汚いだろ。そこまでしてくれなくても」
アルタルフは彼女の手を取り止めさせようとする。しかしそんなアルタルフの態度に、アセルスは泣きそうな顔になってしまう。
「そんな事言わないで。魔物娘にとっては、精液は一番のごちそうなの」
「精液が、ごちそう?」
アルタルフも話には聞いていたが、しかし目の当たりにしてみると衝撃が全く無いわけでは無かった。
だが、確かに衝撃的ではあったが、それは彼女を否定するような感覚と言うわけでは無かった。それはどちらかと言えば、相手の予期していなかった一面を知る事が出来たという、関係が進んだことの喜びに似ていた。
「俺のなんかで、いいのか?」
「好きな人のが一番のごちそうだもん」
「そう言われると、照れてしまうな。まぁ、他の男のなんて口にして欲しくはないが」
「……アルタルフの、匂いも味もとっても濃いよ。自慰とかも、してなかったの?」
「教団信徒だった時の習慣が残っていてな。相手もいないのに一人で快楽に耽るのは堕落だからと禁じられていて、ほとんどしていない」
「でも、そのおかげでこんなに濃厚なのを出してもらえた……。嬉しいな」
指で掬い、口に運ぶたびアセルスの身体が小さく跳ね、表情が蕩けてゆく。精液を摂取する事で味覚だけでなく性的な快楽さえ覚えているのかもしれない。
「あぁ、もう終わっちゃった」
残念そうな表情のアセルスを見ているうちに、アルタルフは胸が苦しくなるほどに彼女の事が愛おしくなってくる。
感情のまま彼女を抱き寄せ、口づけする。アセルスは戸惑っていたようだったが、構わず唇を吸った。
「嫌だったか」
「ううん。でも口でしたり飲み込んだあとって嫌がる人も居るって聞いてたから」
「アセルスの唇が嫌なわけ無いだろ」
今度は頬を染めたアセルスからの口づけだった。
お互い髪や頬を触り合いながら、再び必死になって唇を貪り合う。荒くなっていく息遣いですら愛おしくなる。
「あっ。ぐぅっ、アセルス、そこは」
「もう少しだけ、もう少しだけ洗わせて」
口づけに集中している間にいつの間にかアセルスの指がアルタルフの熱を帯びた剛直に絡み付いていた。
細やかな泡でまみれた指で、アセルスは睾丸から先端まで丁寧に洗い上げてゆく。
睾丸を優しく揉みほぐすように大切に扱い、竿の部分には時に強く扱き上げるように、時に緩やかに泡で包み込む様に、緩急をつけて指を這わせる。
絶頂を迎えたばかりの敏感な部分に与えられる大きな感覚に、アルタルフはたまらずアセルスの身体にしがみつき、その甲殻を掴んで爪を立てる。
途端に、アセルスの身体が跳ねた。
「ひあぁっ。アルタルフ、今の、何?」
「ごめん。痛かったか?」
「……なんか、殻の内側に響いて凄かった。感じたことない感覚だった」
アセルスはぼうっとした瞳でアルタルフを見上げていたが、すぐにしていた事を思い出し再びアルタルフの一物に集中し始める。
アルタルフには休憩にもならなかったが、しかし思ったよりもアセルスの責めは長く続かなかった。
「ぴくぴくしてる。ごめんね、これで多分大丈夫。あとは、ベッドの上で……」
身体が浮き上がるような感覚に、アルタルフは一瞬どきりとする。見ればアセルスのハサミが器用に自分の身体をベッドに運んでいた。
横たえられたアルタルフの上に、アセルスがじりじりとにじり寄る。
彼女はアルタルフの股間の前に顔を寄せると、うっとりとした表情で満足げに微笑む。
「アルタルフの、綺麗になったよ」
そして付け根の部分に口づけすると、裏筋に沿ってつぅっと舐め上げ、最後には亀頭をぱくりと飲み込んでしまう。
じゅぶじゅぶと舌を絡めつかせ、口をすぼめて口全体で一しきり味わう。
アルタルフは制止しようと手を伸ばそうとするが、ハサミに腕を抑えつけられ身動きする事すら出来なかった。
柔らかな頬の肉に包み込まれる感触に、腰から第二派がこみあげようとしてきたその時、唐突に刺激が消える。
「ぱはぁっ、おいしいなぁ。このまま口に貰うのもいいけど……」
「アセルス……」
アルタルフは荒い呼吸を繰り返すだけだった。何も言う気は無かった。アセルスがしたい事なら、何でも答えてやるつもりでいた。
「うん。私も次は膣内がいい。子宮がきゅんきゅんして、もう我慢出来ない」
椅子になっていた甲殻がさらに開いて、アセルスの一番大切な場所が顔を表した。
汁気をたっぷり帯びた艶やかな貝の身にも、蜜を滴らせた異国の花のようにも見えるそれ。蟹の身体との付け根の部分に、人間の女性と同じものが付いていた。
「アルタルフ、好き」
アセルスがぎゅうっと下半身に抱きつく。そしてそれから身体を滑らせて、アルタルフと同じ目線になるまで身体を登ってくる。アルタルフの先端に、アセルスの入り口があてがわれる。
「アセルス、俺もだ。大好きだよ、世界で一番」
「入れるね。私にアルタルフの赤ちゃん、孕ませて」
アセルスは僅かに身体を揺する。ぬるぬると滑るアセルスの肌は、ただそれだけでアルタルフの滾る熱を受け入れ、最奥へと導いてゆく。
「入って、来る。熱くて、硬いの……」
「くっ。うあぁ」
洗われた時の刺激も凄かったが、アセルスの中はそれとは比べ物にならなかった。
少し窮屈なアセルスの穴。膣内の肉は柔らかでいて、しかしアルタルフを強く締め付け奥へ奥へと求めてくる。ブラシに負けず劣らずの細やかな襞襞がぴったりと吸い付いて来て、微細な凹凸に至るまでくまなく絡み付き擦りつけてくる。
「う、うご、動くね」
アセルスはアルタルフを強く抱き締めたまま、蟹の脚を器用に使って身体を上下に、左右にと揺らす。
その度違う部分が擦れ、アルタルフはたまらず獣のような声を上げてアセルスの身体にしがみつく。
動きは少しずつ激しくなってゆく。しかしどんなに激しく動いても二人の身体が離れるという事は無かった。
アセルスがその両の腕で、ハサミで、蟹の脚まで使って、アルタルフをしっかりと抱き締め挟み込んでいたからだった。
今やアルタルフの身体の上で、アセルスを感じていない部分はどこにもなかった。
「アセルス、もうっ」
アルタルフの爪がアセルスの甲殻に立てられ、女体とのつなぎ目の柔らかな部分を引っ掻く。
アセルスは声も無く弓なりに背を逸らせ、激しく痙攣する。
膣が急激にきゅうとすぼまり、アルタルフはたまらずアセルスの中心に向かって己の全てを吐き出した。
下半身が心臓のように大きく脈動し始める。幾度も幾度もアセルスの中心に向かってアルタルフの白濁が叩きつけられてゆく。
自分の中の激しい鼓動を感じながら、アルタルフとアセルスはぼんやりとした瞳でお互いの瞳を見つめ続けていた。
「……すごい。中で、ばしゃばしゃって……。あふれちゃいそう」
「あぁ、俺も空っぽになってしまいそうだ。けど、アセルスに受け取ってもらえたなら、このまま全部吐き出しても、悔いはない」
勢いが収まるにつれ、二人の呼吸も次第に落ち着いてくる。
深く息を吐くアルタルフに、アセルスは艶のある微笑みを向けた。
「大丈夫。あのお風呂には強壮効果もあるし、私の泡も塗り付けたからアルタルフの生命力も活性化してるはず。一晩中してても、きっと明日もしたくなるよ」
「そうかもしれないな。でも今は」
アルタルフはアセルスの唇に自分のそれを押し当てる。
唇同士の、幾度目かの情熱的なやり取りの後、アルタルフはアセルスの髪を撫でてこう言った。
「もうちょっとこうしていたい。君と繋がったまま、気怠さに任せて触り合ったりキスしたり」
「私もそうしたい。でも、欲しくなったらいつでも言ってね。アルタルフにだったら、私はいつでも食べられたいって思ってるから」
二人は微笑み合い、そしてまた口づけを交わすのだった。
深海の朝に鳥の声は無かった。
海の底に光は刺さないと思っていたが、どうやらそうでも無かったらしい。窓から差し込む青い光に照らされて、アルタルフは目を覚ました。
「ここは……」
一瞬の混乱の後、隣に寝ている愛しい人の安らかな寝顔に気が付いてアルタルフはほっと息を吐いた。
「アセルスの部屋。だったな」
ここは海底城の一角にあるアセルスの部屋だった。部屋の中はさほど広くは無かったが、整理整頓がしっかりなされていて狭さは感じない。
簡素な部屋だったが、ところどころに海の生き物を模したぬいぐるみが配置されているのがアセルスらしかった。
昨日あの後大浴場にたくさんの魔物娘達が相手を連れてやってきたので、落ち着いた場所に行こうという事でここに来たのだ。
それからはただひたすら睦み合っていた。激しくしては休憩し、ゆったりと交わり、元気になったらまた激しくの繰り返しだった。
アルタルフは彼女の頬に掛かった髪を梳いてやりながら、これからの事を考える。
まずは今の仕事場に事情を伝える。出来ればすぐに辞めたいところだったが、上手くいくかは分からない。時間がかかりそうなら、それはそれでまた考えることにする。
それと並行して、海の底での仕事を探さなければならない。自分に出来ることは少ないが、海の底でも荷運びの仕事くらいはあるはずだった。
そうすれば晴れてアセルスと……。
「どうしたのアルタルフ。そんな難しい顔して」
いつの間にかアセルスが目を覚まし、アルタルフの事を見上げていた。
「これからの事を考えていたんだよ。アセルスと一緒に暮らすにはどうすればいいかって。……まぁでも、それはまた改めて考えることにする。今はとにかく」
「うん。おはようのセックスしよう」
アセルスは全身を使ってアルタルフの上にのしかかりながら、激しくその唇を奪う。
荷運びで重いものの持ち運びにはなれているアルタルフだったが、何本もの脚やハサミでしがみついてくるアセルスを持ち上げるのは至難の業だった。
しかし彼もまた、一晩の間で学んだ事があった。
アルタルフはアセルスの甲殻に強めに爪を立てて引っ掻き、柔らかな関節部を撫でるようにくすぐる。
その動きだけでアセルスの全身からは力が抜けてゆき、軽く痙攣すらしてしまう。
「あ、ふっ。らめらよぉ、それ、しげきがつよすぎるからぁ」
どうやらアセルスは甲殻の上から一定のリズムで叩いたり、振動を加えられる事で極度に感じるらしかった。その中でも特に関節部はひときわ弱いのだ。
形勢逆転したくなったらこうすれば良い。アルタルフはアセルスの身体を組み敷き、その可愛らしい乳房に手の平を這わせる。
「今日も明日も休みだからな。これまでしてこなかった分、たっぷり愛し合おう」
「うん。アルタルフ……大好き」
ほのかに頬を染め、わずかに唇の端を上げるだけの小さな笑顔。しかしそれはアセルスにとっての、これ以上ない程の満面の笑みだ。
アルタルフは、もう一切迷わなかった。一度大きく息を吸い込むと、自分から、とことんまで溺れるつもりで、彼女の身体に身を沈ませるのだった。
***
海底都市の港から、一隻の輸送船が出向してゆく。
海中をゆく魔法の船は、波飛沫の代わりに水中に魔力の光の燐光を残す。この港では、その姿から魔法の船の事を光るクジラだと呼んでいた。
船を午前最後の船を手を振って見送りながら、アルタルフはあの港町にもそんな変わった呼び名があっただろうかと思い返す。
あったような気もしたが、すぐには思い出せなかった。考えてみると、陸上で暮らしていた事すら随分前の事のように思えた。
アセルスと結ばれたあの日の後、アルタルフは結局すぐに海底都市に移り住む事となった。
事情はいつの間にかアルタルフが所属していた組合にまで通じており、仕事を辞めるのにも苦労は無かった。
話によれば海底城が手を回してくれていたという事だった。その周到さは、アルタルフが抜けた後釜として仕事に入る魔物娘を用意している程に見事なものだった。
海底都市に移り住んだアルタルフは、今は小さな新居を借てアセルスと二人暮らしをしていた。
こうして海底の港で荷運びの仕事はしていたが、本来であれば働く必要さえ無いと言われていた。人間社会では考えられない事ではあったが、魔物娘の社会ではごくありふれた事なのだという。
それでもアルタルフが働いているのはただ単純に良くしてもらった海底都市に恩返しがしたいからと言う気持ちからだった。もっとも人間社会の頃の癖が抜け切らず、働いていないと落ち着かないから、と言う理由もあったが。
それでもあまり熱心に働く事を推奨しない魔物娘社会だけあり、労働は半日だけと決まっているのだが。
「おーい、午前組。迎えが来たぞー。さっさと帰れー」
詰め所の方からの声に振り向けば、そこには幾人もの魔物娘達の姿があった。その中には当然アセルスの姿もある。
魔物娘達はアルタルフと似たような境遇の作業員たちに笑顔で駆け寄ると、なんの恥じらいも無く口づけや抱擁を交わしている。
そんな中、アセルスだけは無表情で、アルタルフに歩み寄る足も他と比べて遅かった。
とはいえそれはアセルスを知らない人間から見た評価に過ぎない。彼女を良く知るアルタルフからすれば、わずかな口元や目元の緩み、ほんのわずかな頬の色づきからも、彼女がどんなにこの時を待ち望み、この後の事に期待しているのかが手に取るように分かるのだった。
足取りが遅いのは、そんな気持ちに対する照れ隠しだろう。
「アルタルフ、お疲れ様」
「アセルスも踊りの指導お疲れ様。もういいのか?」
「うん。私が教えられるのは基本だけだから、あとはそれぞれの魔物娘が自分で踊りを作り上げるの」
アルタルフと一緒になった事で、アセルスは海底城の踊り子を辞めた。とはいえ踊りまで辞めたわけでは無く、今は指導役として海底城で新人の踊り子たちに踊りを教えているのだ。
「そう言うものなのか」
「そうよ。好きな人の為だけの踊りを作るの」
彼女の手を引き歩きはじめようとしたアルタルフだったが、その一言を聞いて足を止める。
「俺の時も、か?」
「うん。二度目以降はアルタルフの為だけの踊りだったよ。暗闇の中で初めてアルタルフの姿を見つけた時だけはあんまり動きを工夫できずに、即興になっちゃったけど。
酒宴に入る前から、踊りの時から私達魔物娘のアプローチは始まってたんだよ」
「そうだったのか。何だか済まない。そんな事も知らず、俺は」
「でも、感動してくれたって言ってくれた。嬉しかったよ」
はにかむ様に笑うアセルス。アルタルフは彼女の手を、優しく握りしめる。
「で、でもね。ほ、本当は私以外にも、何人かアルタルフの為の踊りを踊っていたらしいけど」
「そうだったのか、彼女達にも悪い事をしてしまったな。……俺は、アセルスの踊りしか見ていなかったから」
アセルスの顔が真っ赤になり、その手も少し熱くなる。
「あ、アルタルフったら。もう」
「すまん。口下手は相変わらずのようだ」
アルタルフが苦笑いを浮かべていると、急にアセルスから腕を引かれた。そして身体を傾けたところで、不意打ち気味に唇を奪われる。
その瞬間の、一瞬の彼女の表情をアルタルフは見逃さない。
「とりあえず、海底城の大浴場に行こうか」
「え?」
「仕事で汗をかいたし、魔界産の物も色々運んだからな。隅々まで身体を洗って、匂いも落としたい。……アセルス、頼んでもいいか? 代わりに俺の方からもたっぷりサービスするから」
アセルスは一見すると無表情にしか見えない驚きの表情を浮かべた後、満面の笑みで頷いた。
「うん。行こう」
そして二人は手を繋いで歩き出した。
海底城に向かう道には、他にもたくさんの夫婦の姿でいっぱいになっている。
今日も海底城は、盛況なようだった。
おまけ:別室にて
海底城のとある一室にて、一組の魔物娘のカップルがベッドの上に隣り合って座っていた。
下半身がイカの魔物娘。クラーケンの彼女は、恋人の彼にしなだれかかり、十本の脚のうち三本の脚を彼の身体に絡み付かせながら囁いた。
「あなた。さっきはありがとう。おかげで上手くいったわ」
「それは良かった。けど、本気で怖かったんだよ。あの人今にも殴りかかって来そうだったし、あんな太い腕で殴られたら僕は……。ほら、まだ手が震えてる」
男の震える手を、彼女は優しく包み込む。
「勇敢だったわ。相変わらず演技力も落ちていないし」
「ここに来てからずいぶん演じてないからね。ばれないかとひやひやしたよ。……あのキャンサーには悪い事しちゃったかな。男の人にも」
「でもそのおかげで二人はようやく結ばれたのよ? このままだったら、もしかしたらお互い別の相手に取られていたかもしれないし」
「独り身の男が何度もここに来るのも珍しいしね。あのキャンサーも魔物娘にしては押しが弱いみたいだったし、見ていていつもひやひやしたよ」
「そんな二人が、今はほら」
彼女の指差した壁の向こうからは、獣のような男の声と女の嬌声が聞こえて来る。その声はアルタルフと、アセルスのものだった。
「妬けるねぇ」
「それはこっちの科白です。演技と分かっていても他の女に言い寄る夫の姿など……。見ていて気が狂うかと思いました」
「おいおい。君が頼んできた事だろう?」
「そうですが、それとこれとは話が別です」
なぜか頬を膨らます恋人に、男は肩を竦めざるを得なかった。
「あなた、私は欲求不満です。ですので一晩中可愛がって、満足させてくださいませ」
「君の欲求が一晩で解消できるとは思えないけど。って、わっ」
クラーケンは全ての脚を男の身体に絡めつかせると、押し倒すのと衣服を脱がすのを同時にやってのける。
「問答無用です! 可愛がってください!」
「分かったよ。そうがっつかなくても、可愛がってあげる。愛しているよ」
二人は唇を重ね、お互いの身体をまさぐり始める。
こうしてその夜別室でも睦み事が始まったのだった。
とは言え、似たような事は海底城の至る所で起こってはいるのだが……。それはまた、別の話。
14/02/16 01:19更新 / 玉虫色