連載小説
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第三章
 顔にあたる日差しで目が覚めた。
 天井の穴の頂点で太陽が輝いている。という事は真昼だ。
 呉葉の酒の力のせいか、俺も百合も何度絶頂に達しても意識は飛ばず、外で鳥が囀るころにようやく酒が抜けたらしく、やっと眠りに落ちる事が出来た。
 そして今、俺達は眠った時のままの姿だった。つまり、俺は百合の体に巻きつかれたままという事だ。
 さすがに今は下の方は抜けているが、体は互いの鼓動が分かるほどに密着している。昨日の残り香もあり、油断するとまた反応してしまいそうだ。
 耳元で百合のささやきが聞こえた。また嫌な夢を見ているのだろうか、百合は寂しげに細い眉をよせ、目じりに涙を溜めていた。
 俺は唯一動かせる舌で、その涙を拭う。
 俺には彼女の涙を止めることは出来ないのだろうか。彼女の寂しさを消し去ってやることは出来ないのだろうか。
 昨夜、俺は心の底から百合が欲しいと思った。彼女が妖怪であることなど一切気にはならなかった。
 妖怪を嫁にもらうという話もそこまで珍しい物でもない。だが、その妖怪の婿たちは皆深い愛で妖怪を幸せにしてやったのだという。
 彼女を幸せに出来ない俺では、寂しさすら癒してやれない俺では、やはり彼女と一緒になることなど出来ないのではないか。
 それに、こんなに美しい彼女が俺なんかと一緒になっても、妹に何もしてやれなかったように彼女にも苦労を掛けさせるだけなのではないのか。
 そんなことを考えている俺の目の前で、彼女は目を開いた。
 一瞬状況が飲み込めなかったのだろう、俺の顔をぼうっと眺めた後、彼女は目を見開いて即座に俺の身体から離れた。
 暖かさが失われ、ちょっと物寂しくなる。
「も、申し訳ございませんでした。私、なんということを」
 百合の全身が少しずつ赤くなってゆく。昨日飲んでいた時よりも赤いくらいだった。百合は顔を隠して首を振る。
「わ、私は、昨日はその、そう、お酒のせいで、だから決して無理矢理あなたを襲おうとしたわけでは」
「いや、こちらこそ済まない。謝っても取り返しがつかないことをしてしまったが、君の肌に触れたり、匂いを感じていたら、もう君に対する欲望を抑えられなくなってしまって」
 何を言っているんだ俺は。
「それ、本当ですか」
「申し訳なかった」
 俺は彼女の顔も見れず、ひたすら頭を下げた。
「か、顔を上げてください」
 上げろと言われても、合わせる顔がない。
 俺が上げられずに居ると、彼女は両手で俺の顔を半ば無理矢理自分の方へ向かせた。
「私、怒ってなんていません。悲しんでもいない。あなたが負い目を感じる必要なんてこれっぽっちも無いんです」
「百合」
 彼女は照れ笑いを浮かべながら、頷いてくれる。
「あなたは悪くない。私の毒には、体に強い快楽を感じさせる成分が含まれているんです。きっとそのせいです。
 でも殿方の唾液と混ざり合うと私本人にも強く作用してしまうので……昨日はちょっと乱れた姿をお見せしてしまいました」
「いや、そうじゃなくて」
 噛まれる前に、すでに俺は……。だが彼女は全てを言わせてはくれなかった。
「水浴びしに行きませんか」
「え」
「包帯を代えるつもりが、余計に汗や、その、いろいろなものにまみれてしまいましたし、それにこのままだと私、あなたを……、い、いえ、なんでもないです」
「そうだな、行こうか」
 確かにこのままこの匂いに包まれていたら、また彼女を押し倒してしまいかねない。
「肩貸してくれるか。まだ歩くのには自信が無いんだ」


 あれだけ激しい一夜を過ごしたというのに、体は少し消耗していた程度だった。
 昨晩深夜に入り、翌日動けなくなる事を覚悟で快楽に溺れていたというのに、体の傷さえ癒えているありさまだった。
 呉葉の酒のおかげか、百合の毒の効果か、それとも妖怪の身体には男の生命力を高める力でもあるのか。明日にはもう普通に歩くことすら出来そうだった。
 百合が案内してくれた先には小さな沢があった。
 流れは穏やかで、体を清めるにはちょうど良さそうだ。

 俺と百合は隣り合って水を浴びた。
 最初から百合は裸同然であったし、昨日は裸を見せ合うよりも淫らなことをしあったというのに、彼女の無防備な姿を見るのは気恥ずかしかった。
 だが、横目で覗き見る彼女の姿はやはり美しかった。
 長い黒髪はつややかに濡れ、白い素肌は水を弾いて滴がしたたり落ちてゆく。
 胸のふくらみから、毒腺の上を通り過ぎ、臍へと水が流れ落ちてゆく。木の葉の隙間から差し込む陽光がきらめき、昨夜とはまた違った清廉な美しさがあった。
 虫の体に両手で水をかけ、撫でる姿すら愛おしい。
 彼女は俺が見ているのに気が付いて、顔を赤らめる。何かと思えば、彼女が落としていたのは俺が昨日付けた精液であった。
 俺は慌てて目をそらす。そして二人とも無言で、自分の体を清めた。


 水浴びから帰った洞窟の中、俺は一人取り残されていた。
 百合は食事の材料を採りに山に入った。足の回復がまだ十分でない俺ではついていく事は出来なかった。
 ただ横になっているだけでは、自分の体を持て余す。
 妹は無事だろうか。傷が治ったら、どうなるのだろうか。すぐに出ていけという事にはならないとは思いたいが、百合には百合の生活があるだろう。自分には帰るところも無いが、自分の居場所は自分で探さなければならない。
 ここに居続けたいなどというのは、そうだ、ただの甘えだ。
 俺は頭を振って悶々とした考えを振り払う。それだけ回復しているという事だが、これ以上考えるのも耐えられなかった。
 立ち上がる。体重をかけすぎなければ、何とか歩けそうだ。
 俺は洞窟の横穴を歩いて、外に出た。
 洞窟の外は平らな森になっている。少し進むと傾斜が始まり、山道に繋がる。さすがにそこまで行こうとは思わないが、少し散歩をする程度なら体には問題ないだろう。
 森の地理が分かれば彼女が食材を探すのも手伝えるし、少し体を動かした方が治りも早いだろう。そう思い、森の中の道を歩いた。
 来た道を引き返せば帰れるだろうというのは甘い考えだった。しばらく歩き、さて帰ろうと振り返った時には、すでにどれが道だかわからなくなっていた。
 道と言ってもそう呼べるかどうかも怪しい獣道。その程度の細い道ならそこらじゅうに伸びていて、さて帰ろうと思ってもどの道を進めばいいのかわからない。
 背中にいやな汗をかきつつ一歩踏み出そうとしたとき、聞き知った声が響いた。
「お前か、外に出られるくらいには傷もよくなったんだな」
 この声はウシオニの牡丹か、だがあたりを探しても声の主は見当たらない。
「上だ」
 木々の生い茂る頭上を見上げようとすると、ちょうど牡丹が落ちてくるところだった。
 目の前にいきなり現れ、俺は驚いてしりもちをついてしまった。
「すまん、驚かせちまったか。足大丈夫か」
「平気だ、ありがとう」
 差し延ばされた手を掴み、俺は立ち上がった。そういえば百合も最初は落ちてきたんだったか。
「呉葉は」
「あのな、俺達がいつも一緒に居ると思ったら大間違いだぜ。あいつはちょっと山を出てる。つってもすぐ戻るだろうがな。お前こそこんなところでどうしたんだ」
「森の中を散策しようと思ってな」
「その割には顔色があまり良くないが」
「まぁ、いろいろ見て歩いて来たつもりだったんだが、帰り道が分からなくなって」
 牡丹は吹き出し、声を上げて笑った。
「そうか、迷子か、まぁ無理もないが、迷子ねぇ」
 森中に響き渡る笑い声に、俺はちょっとむっとする。
「そんなに笑わなくてもいいだろ」
「はは、そうだな。お詫びにお前んちまで案内してやるよ。付いてきな」
 そう言うと、牡丹は先導して歩き始める。図体が大きなおかげか、彼女の後ろには広めの道が出来るため歩きやすかった。
「百合の家だろう」
「だから、百合とお前の家だろ。似たもの同士だよ百合とお前は。自信が無くて遠慮してばっかりのところとか」
「いや、俺は……。俺なんかは彼女には釣り合わないよ」
「何馬鹿なこと言ってんのかねこいつは。そんな事より、見てみろ」
 牡丹は指差すが、その体が邪魔をして先が見えない。彼女の前に出ると、指差す先に慌てた様子で何かを探しているらしい百合が居た。
「おーい百合ぃ」
 牡丹の声に、百合がこっちを向く。俺と目が合うと、安心したように表情を崩してこちらに移動してきた。
 百合は俺に駆け寄るなり、何も言わずに抱きついてくる。
「良かった」
「百合?」
 彼女は俺の胸に顔を埋め、小さく震えていた。
「こいつはお前が何も言わずに出て行ってしまったんじゃないかって怖かったのさ。捨てられたんじゃないかってな。
 たまたま外に出て迷子だったところを俺が拾ってやっただけだ。だから安心しな、百合」
 百合がはっと顔を上げる。
「い、いえ、私は彼がまた崖から落ちたり、怪我などしていないかと心配で」
「はいはいそうだな。おい、付添はここまででいいよな」
「ああ、ありがとう」
 牡丹は片手をあげて応えると、風を巻き上げて跳躍する。あっという間にその体は木の上にひるがえっていた。そして樹上を飛び回り、すぐに見えなくなってしまう。
 さすが妖怪と言うべきか、その姿からは想像できない軽やかさであった。
「帰りましょう」
「ああ、心配かけて済まなかった」
「いいえ、あなたが無事でよかった。本当に」
 俺の手を引く百合の手が、小刻みに震えていた。


 夕食の準備中も、食事中も、百合は心ここにあらずといった感じで口数も少なかった。
 片づけを終えた後、百合は俺の近くに腰かけて思いつめた顔で言った。
「もう歩けるのですね」
「ああ、無理をしなければ」
「明日には……いえ、なんでもありません。今日はもう遅いですし、もう寝ましょう」
 そういうと彼女は早々と明りを消してしまった。
 闇が落ち、何も見えなくなる。
 目をつむるも、俺は眠れなかった。洞窟に帰ってからの、彼女の仮面のような表情が思い出されて、気持ちが落ち着かない。


 何か悪いことをしただろうか。勝手に外に出てしまったことを怒っているのだろうか。それとも俺と牡丹の間で何かがあったのだと疑っているのだろうか。
 闇に慣れた目を凝らす。月明かりのおかげでぼんやりと洞窟の中が見えてくる。
 百合は百足の体を両手で抱いて、小さくなって眠っていた。顔も百足の体に埋めているため、どんな顔をしているのかはわからない。
 安らかに眠っていてくれているのだろうか。願わくばそうあってほしい。
 明日は百合にちゃんと謝ろう。勝手に外に出て悪かったと、牡丹とは別にやましいことは何も無いのだと。本人に確かめてもらってもいい。
 そうすれば百合だってきっと元に戻るはずだ。


 目覚めると、すでに朝食が用意されていた。
 一人分、俺の分だけだった。無言で差し出されたそれを受け取り、俺はそれに手を付ける。
 俺が食事をしている間中、彼女は地面をただじっと見つめていた。
「あの、百合」
「足の具合はいかがですか」
「あ、ああ。良さそうだけど」
「立ってみてください、歩けそうですか」
 静かでありながら、有無を言わさない口調だった。俺は食器を置いて立ち上がった。
 痛んでいた足に体重を掛ける。軽く跳ねても特に痛みを感じない。自分でも驚くべきほどの回復力だった。
「良かった。これで歩いてここから出ていけますね」
 百合は笑顔でそう言った。
「え」
「それを食べたら、ここを出ていくことです。大丈夫、少し歩けば大きな道に出ますから、迷うことも無いでしょう」
「なぁ、もう少しここに置いてくれないか。最初に言ったように、俺には帰るところが」
「駄目ですよ、甘えないでください。妹さんがきっと待っていますよ。唯一の家族なんですから」
「百合、急にどうしたんだ。昨日の事を怒っているなら謝る。お前に何も言わずに外に出て、心配かけて悪かった。でも、俺は」
「わからない人ですね」
 百合は笑顔を消し、能面のような無表情になる。
「私は人間が嫌いなんです。大嫌いなんです。親切で助けてあげても、悲鳴を上げて怖がったり、嫌な顔をしたり、中には驚いて気を失う人だっていた……。最初は私の機嫌を取るような事を言って、動けるようになればみんな逃げてしまうんだから。
 それに、こんなに醜い私は、そばに居たら気持ち悪いでしょう。ずっとじめじめして暗い所に居るなんて、あなたには耐えられないでしょう。こっちだって長く居座られたら迷惑なんです。
 あなたは優しい人だから、どこかの人里で、私の事なんて忘れて人間と幸せになればいいんです。出て行ってください」
「待ってくれ、百合。少しでいいから俺の話を」
「あなたが出て行かないのなら、私が出て行きます」
 百合は虫の肢を天井の穴にかけると、止める間もなく穴から外に出て行ってしまった。俺にはそれを見送る事しかできず、ずっと穴を見ていても百合が戻ってくることもなかった。
 俺は呆然としながら、いつの間にか腰を下ろしていた。
 残っていた白米と味噌汁が目に付いたので、何も考えずに口に入れる。味のしないそれが無くなると、俺はぼんやりと百合の出て行った穴を見上げた。
 俺しかいない洞窟の中は静かだった。
 どれだけそうしていただろう。
 俺がここに居る限りは百合は帰ってこないのだろうという事が何となく分かり、俺は立ち上がった。
 洞窟の外に出るなり、強烈な日の光が俺の目を焼くようだった。乾いた風はやすりを掛けるように俺の肌をざらりと撫でていく。
 白茶けた光に照らされる世界は何もかもが乾いて、風化しているように見えた。
 俺は何も考えられないまま、一歩踏み出していた。
12/06/13 00:27更新 / 玉虫色
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