エステサロン『アビス』へようこそ
黒田さんが学校を休み始めてから、もう三日が経った。
「誰か、黒田の家に見舞いがてらプリントを渡しに行ってくれんか」
「あ、私住所分かるんで行きます」
「おおそうか。じゃあ頼んだぞ、委員長」
「えぇー、見舞いなんて別にいらないじゃん。それより俺達と一緒にカラオケ行こうぜ」
「いっその事俺達も一緒に行っちゃう?」
「病気の女の子のお見舞いに行くのに男子なんて邪魔なだけよ? さ、ホームルームが終わらないから男子は黙って黙って」
「えぇー。では、週末だからと言って羽目を外さないように。ホームルームはこれで終了。気を付けて帰れよ」
金曜の放課後という物はどこか浮ついている。
翌日からの二連休の予定を楽しみに浮き足立っていたり、ただ単純に授業の無い休みの日が嬉しかったり、一週間が終わった安心感でほっとしたり。
教室を見渡しているだけでもそれが良く分かる。
ホームルーム中に委員長にちょっかいを出していた元気系の男子グループは遅くまでカラオケにたむろしようなんて言う話をしているし、クラス公認と言っていいくらいおおっぴらに付き合っているカップルは明日のデートの計画をしている。他にも少し遠出をして買い物に行く話をしている女子グループやライブに行こうと話している男女混成組。中には他校との練習試合をするらしい運動部も居るが、週末の空気はやはり平日とは違う。
「委員長も大変だよねー」
「黒田さんなんて居るだけで暗くなってくるから別に来なくたって問題ないのにねー」
一番後ろの真ん中の席からは、クラス中の様子が良く見える。傍観者のように教室内を見下ろせるその席は、同時にクラスの中での存在感を薄れさせる。
僕はこの席が好きだった。
クラスと言う組み分け、教室と言う箱詰めの中から、少しだけでも離れる事が出来るような気がしたから。そしてそれ以上に、黒田さんの背中を見ていられたからだ。
「暗くなんて無いと思うけどなぁ。早く元気になって学校きてほしいじゃない。クラスの真ん中の席が空席っていうのも寂しいしさ」
教室の右前方では女子のグループが委員長に何やら話しかけていた。
よく言えばおしゃべり好き、悪く言えば姦しいグループで、はっきり言って僕は苦手だ。委員長も良く相手にしていると思う。
鞄の中から一冊の本を取り出していると、彼女達の声が一瞬止んだ。一瞬視線を感じたが、顔を上げた時にはもうそれも消えていた。
「まぁ暗い人は一人じゃないけどね」
「あいつも休んじゃっていいんじゃない?」
「みんな健康なのが一番でしょ。さ、私はそろそろ帰るから、みんなも帰んなよ?」
「さっすがいいんちょー。まっじめー」
「じゃあ駅前のマックでも行こうか」
「えー。スタバがいいよぉ」
「あたし今月ピンチなんだよねぇ」
煩い声たちが出て行くと、教室内は少し静かになった。
委員長はため息を一つついて席を立ち、黒田さんの机に近づいていく。机の中のプリント類を回収するのだろう。チャンスは今しかない。僕は鞄を持って立ち上がった。
「あら、イズキ君。どうしたの?」
艶やかな長い黒髪を耳元に払いのけながら、委員長は僕を見上げた。
「まさか一緒にお見舞いに行きたいの?」
委員長は冗談っぽくくすりと笑う。素直に可愛い人だと思う。もう相手が居るにも関わらず、それでも駄目元で告白する男子が絶えない理由も理解できた。
「そうしたいところだけど、流石に弱った女の子の家にお邪魔しようとするほど僕も厚かましくは無いよ」
「あら、残念」
「僕も残念だよ。だから僕が行けない代わりに、黒田さんにこの本を渡してくれないか?」
あらかじめ鞄から出しておいた文庫本を手渡す。表紙にお城の絵が描かれた、有名なタイトルの本だ。委員長は手に取ってしげしげと眺めたのち、首を傾げる。
「渡せばいいの?」
「ああ。頼む」
委員長はふーんと目を細めて笑った。
「分かった、任せといて。他に何か言っとくこととかある?」
「特に……。いや、部活の後輩が寂しがっていたって伝えてくれ」
「分かった。イズキ君が早く顔見たいって言ってたって伝えとくね」
「お、おい委員長」
委員長は悪戯っぽく笑って、自分の鞄にプリントの束と文庫本を突っ込むと僕の制止も聞かずに駆け足で教室を出て行ってしまった。
僕は呆然としながらその背中を見送った後、息を吐いて頭を掻いた。
原因は三日前の、火曜日の体育の授業だろう。
食事の後の、気怠い午後の時間。食休みに惰眠を要求する肉体に鞭打って、僕達男子は校庭のランニングを行っていた。体力測定兼、学校行事の強歩大会へ向けての体力づくりと言う奴だった。
運動部の連中がだべりながら余裕を持って走る中、僕は息を切らして最後尾に何とか付いて行っていた。文科系の連中は軒並み遅れていたのだが、その中でも僕はダントツだった。
人間、誰でも暇になると無駄話をするらしい。走るのに必死だった僕は自分の乱れた鼓動と呼吸音でほとんど会話内容は聞き取れて居なかったが、クラスメイト達はどうやらクラスの女子で誰が一番可愛いとか、エッチするなら誰とだとか話していたらしい。
一番人気は委員長らしい事は何となく伝わってきて、それから話は委員長が処女かどうかで盛り上がっていたようだ。
そう言う話が苦手な僕にとってはどうでもいい事だった。と言うか走るので精一杯でそれどころでは無かったのだ。
他のみんなも特に本気になって話していたわけでは無い。ただの暇つぶしの雑談だった。まぁ約一名、本気で委員長に惚れてるらしい奴がひどく動揺していたが。
ともかく、そこまではどこにでもある思春期の男子にありがちな猥談だった。
事態が変わったのは授業が終わった後の更衣室での事だった。
誰かが着替えながら言ったのだ。
「なぁ、ヤリたい女子は分かったけどさ、逆に絶対無理って奴居る?」
その時点で嫌な予感はしていた。そしてそう言うのは大概当たってしまうのだ。周りからくすくすという笑い声が聞こえ始め、僕の予感は確信に変わった。
「聞くまでも無いだろ」
「まぁあいつはねぇ。みんな無理だろ」
「あいつって誰?」
「分かってんのに聞くなよ。黒田だろ」
「えぇ? 気付かなかったなぁ」
「嘘だって分かりやす過ぎんだろ」
それは多分ランニング中の悪ふざけの延長だったのだろう。だが僕にとっては彼らの言葉は到底許せるものでは無かった。
でも僕は止めろと叫ぶことも、薄ら笑いを浮かべるそいつらを殴ることも出来なかった。そうしたかったけど、そんな事をしても問題が大きくなるだけだと思ってしまったから。
手足や胸の奥が急に冷え込むのを感じながら、ただ歯を食いしばって拳を握りしめているしか出来なかった。
「暗くて何考えてるかわかんねーし、ぜってー不感症だよ」
「顔色悪いし頭にワカメ乗せてるし、水死体みたいで不気味なんだよなぁ」
「だっさい眼鏡かけてるしな。なんか魚みてーじゃね。いや、魚っつーか虫かなぁ」
「やってるとき変な声出しそーじゃね? あとあいつ肉付き過ぎ」
「ああわかるわかる。あとさ、なんつーか、その」
「臭そう?」
鼓膜が痺れるような大爆笑が小さな更衣室の中に反響した。
息が苦しくて、胸が痛くてたまらなかった。だけどそれでも僕は何もしなかったのだ。何かをしていれば、黒田さんは学校に来なくなることも無かったのかもしれないのに。
「イズキもそう思うだろ?」
心臓が凍りついたようだった。頭に血が上り過ぎていて、目の前のものしか見えなかった。
「聞こえてたろ? なぁイズキはどう思う」
耳障りな小さな笑い声。心臓はまだランニング中みたいにばくばくとうるさく鳴り続けていた。
僕は自分を落ち着けるために震える呼吸を繰り返した。そのままでは何をしでかすか自分でも分からなかった。顔を見た途端に殴り掛かってしまいそうだった。
手は出さない。落ち着いて、冷静に彼らを諫める。そのつもりだったのだが。
僕が彼等男子グループを振り返るのと同時に、隣の女子更衣室の扉が激しく開く音が聞こえた。
「黒田さん!」と言う委員長の声に、男子も流石に笑う事を止めた。
男子更衣室の空気も一気に冷え込み、それでようやく皆も気まずそうに顔をしかめ始めたのだった。
結局黒田さんはそのあとの授業には出なかった。
だから図書委員の仕事の為に放課後に図書館に行った時も、きっと黒田さんは来ないだろうと思っていた。でも彼女は青い顔で俯きながらも図書館までちゃんとやって来た。
僕は何とか黒田さんを元気づけようと彼女に話しかけようとしたのだが、その日は何を話しても会話が続かなかった。いつもだったら盛り上がる小説や漫画、アニメの話でも、かすれ声の生返事が返ってくるだけだった。
本当は更衣室での話をフォローしたかった。少なくとも僕は黒田さんの事を可愛いと思っているし、異性として意識していた。委員会や部活で隣に座った時にほのかに彼女の匂いを感じてしまった日には、そのままでは興奮して眠る事も出来ないくらいだ。
だがそんな事を本人に言ってなんになるだろう。僕は黒田さんの匂いはいい匂いだと思うし、女として意識していて抱きたいと思っているなんて、その場で言っても彼女を余計に傷つけてしまうだけだ。
肝心な事は何も言えぬまま長い長い放課後が終わり、僕達は最後に返却本を棚に返す仕事をしていた。
何も言えなくて悪かったと、帰りにせめて謝ろう。僕はそう考え、自分の分の片づけを早々と終えてカウンターで黒田さんを待った。ところが二十分も三十分も経っても黒田さんは戻って来ない。
気になって探しに行くと、黒田さんは足場の上に立って、虚ろな目で一番上の棚の本をただぼんやりと眺め続けていた。
「どうしたの?」
突然の声に驚いたんだろう。黒田さんは台の上でバランスを崩して僕の方に倒れ込んできた。
そして情けない事に、僕は彼女の身体を支えきれずに一緒に倒れてしまったのだ。幸い僕の身体で受け止めきれたので彼女の身体に怪我は無かったのだが、それがより彼女を傷つける事になってしまった。
「いたた。黒田さん大丈夫?」
「……ごめんイズキ君。私の身体、重かったよね」
「ち、違うよ。これは僕の腕力が無かったからだ。黒田さんが謝る事は」
「ごめん。ごめんね。私臭いよね。ごめんね、すぐに離れるから」
立ち上がった黒田さんの身体から、何かが垂れて僕の手のひらで弾けた。水滴。それが涙だと理解したときには、黒田さんはもう逃げるように図書館を出て行ってしまっていた。
翌日から黒田さんは学校を休み始めた。
男子達の気まずさは一日も持たなかった。女子の大半が責めようともせず何も言わなかったのも理由の一つだろう、翌日には何事も無かったかのように元の状態に戻ってしまった。変わったのは、黒田さんの席が空席になってしまったことだけだった。
「先輩。イズキ先輩」
僕ははっとなって読んでいた本から顔を上げた。活字を目で追ってはいたものの、内容は一文字も頭に入っていなかった。
あれ以来、事あるごとに火曜日の五時限目と放課後の事を思い出してしまうようになった。今は文芸部の部室で本を読んでいただけだったから良かったが、これが授業中や図書委員の仕事中だったら先生に怒られていたところだ。
「ごめん、ぼけっとしてた」
一年女子の後輩は口をへの字に曲げ、軽く僕を睨んで見せる。
「もう。まぁいいですけど。ところでサキ先輩はまだお休み中なんですか?」
「あ、ああ。黒田さんはまだ具合が良くならないみたいで……」
「そうなんですか。来週には来てくれるといいなぁ。私、サキ先輩の恋愛小説大好きなんですよ。生きる糧だと言ってもいいです」
ぐっと拳を握りしめる彼女。手首を飾るサンゴのブレスレットがからりと音を立てた。
ちなみに我々文芸部は三年生が女子二人、二年生が僕と黒田さんの二人、一年生がこの子一人と存続ぎりぎりの人数だった。
しかも一年生のこの娘。自分ではあまり文章を書くことは無く、もっぱら読み専。特に恋愛小説を何より好む変わった子だった。しかしページ数にさえ貢献しないものの、彼女のムードメーカーとしての役回りは今や文芸部には欠かせないものになっていた。
「スランプの時期には姫子ちゃんを見ているだけで癒される」とは先輩の弁だ。
今になって思えば、あの日もし図書委員の仕事が無く部室に来られていたら、あるいは黒田さんも……。
「ちょっとぉ。ノーリアクションですか?」
「なぁ姫子、お前黒田さんのところにお見舞いに行って元気づけてやってくれないか?」
姫子はきょとんとした後、ぶんぶんと元気に首を横に振った。
「駄目ですよ。うるさい私が行ったら良くなるものも良くなりませんよ。行きたいのはやまやまですけど……。先輩こそお見舞いに行けばいいじゃないですか」
それが出来たら苦労はしない。思わず苦笑いしてしまった。
「男の僕が女の子の部屋に、まして元気の無い女の子の部屋に入るわけにはいかないよ」
「それもそうかぁ」
姫子はぐでん、と両腕を机の上に投げ出して突っ伏した。
机の上はもう夕日で赤く染まっている。部室の壁に伸びる僕と姫子の二つの影。いつも黒田さんの影が伸びているはずの部分は、今はただ赤く染め上げられているだけだった。
委員長。ちゃんと本渡してくれたかな。
***
学校なんてサボった事は無かったけど、やってしまえば案外簡単な事だった。
朝は普通に制服を着て、母さんの作った朝ごはんを食べて家を出る。そのあと隣町のコンビニのトイレで私服に着替えて時間を潰して、両親が仕事に出かけた頃に家に戻る。服の詰め替えも体操服を入れているバッグを使えば誰からも怪しまれなかった。
両親は仕事から帰ってくるのも遅いから、早々と家に居ても気付かれるという事は無かった。
学校には体調が悪いと連絡している。一週間くらいなら性質の悪い風邪を引いたという事で何とか出来る。
でも流石にこれ以上休んだら学校も親に連絡するかもしれないし、親だって何か気が付き始めるだろう。
三日も休んでしまった。サボるのは簡単だったけど、罪悪感もやっぱりある。家に居てもすることが無いし、嫌な事ばかり考えてしまう。明日明後日は土日だから少し気分も軽いけれど、月曜の事を考えると気が重い。
学校、流石に行かないとまずいよね。でも……。
学校に行かなければならないと思う程に火曜日の更衣室での事を思い出してしまって、涙が出てしまう。
男の子たちは絶対にえっちな事をしたくない女の子として、私の名前を上げた。無理だとさえ言っていた。
聞こえていた女子たちもみんな笑いながら、ああやっぱり、みたいな目で私を見ていた。
暗くて、太っていて、おまけに臭い。そんな風に思われている事くらい大体分かっていたけど、理解しているのと実際言われて笑われるのは全然違った。
私だって、ただ笑われるだけだったら耐えられた。でも、男子達はあろうことかイズキ君に同意を求めたのだ。
彼の答えだけは聞きたく無くて、私は更衣室から逃げ出した。
私の話を変な顔一つせずにちゃんと聞いてくれるイズキ君。他の男子みたいに薄ら笑いを浮かべたり、からかったり、揚げ足を取る事は絶対にせず、何の話でも真剣に耳を傾けてくれる、私の数少ない大切な友達。
ううん。本当の気持ちとしては、彼には友情以上の気持ちを持ってしまっている。
そんな彼の言葉を聞きたくなかった。もし彼が他の男子と同じように、私に異性として悪い印象しか持っていなかったら。いくら仲が良くても女としては見られないなんて事が分かったら、もう私は生きていけない。
保健室の先生は私の顔色を見るなりベッドで休ませてくれた。
すぐに帰るようにと言われたけれど、図書委員の仕事を思い出した私はふらふらしながらも図書館に行ってしまった。
仕事をすっぽかしてイズキ君に嫌われたくなかったから。でも、今思えば帰ってしまった方が良かったかもしれない。
本棚の整理中に踏み台から落ちて、イズキ君に迷惑をかけてしまうくらいなら、帰ってしまった方が良かった。
あの時のイズキ君のすごく痛そうな顔。きっといつまでも忘れられないだろう。
分かってる。イズキ君だって男の子なんだから、きっと私みたいな暗くて太った女の子よりも委員長みたいに明るくて可愛くて胸もある女の子の方が好きに決まっている。
髪は上手くまとまってくれない癖っ毛だし、身体だって贅肉だらけで、肌にも自信が無い。それに自分では気が付いていないだけで、すごく臭いのかもしれない。
あまり慣れない人の前では上手く喋れないし、慣れてる人が相手でもよく噛むし。おまけにどんくさくって何をしても失敗ばかりだし……。
こんなんじゃ、同性から笑われるのも当たり前だ。異性からも好かれるわけが無い。
なんだか鈍い頭痛がした。熱は無いのに、なんだか寒い。少し吐き気もする。
このまま、痩せるまでずっと休んでいようかなぁ。
でも、痩せられる保証なんて無い。このまま引きこもりになってしまうかもしれない。そうしたら今よりもっと太って、どこにも出て行かれなくなって、誰からも忘れられてしまうかもしれない。
やだ。そんなのやだよ。
でも、学校に行くのも……。
考えるのも嫌になり、ベッドに身を横たえる。
このまま寝てしまおう。チャイムの音が鳴ったのは、ちょうど私が目を閉じた時だった。
慌てて眼鏡を掛けて最低限の衣服を整える。
誰が来たんだろう。正直恐怖しかない。親が帰ってくる時間には早いし、親だったら鍵を持っているはず。宅配便の人か、近所の人か。どちらにしてもあまり出たくない。
恐る恐るドアホンを覗き込むと、玄関の前にはクラスの委員長が立っていた。
『黒田さーん。プリント届けに来たよー』
どうしよう。居留守してしまおうか。寝ていたことにすれば、気が付かなかったで済ませられる。
『あとイズキ君からの言伝も預かって来たんだけど。どうしよ、寝てるのかなぁ』
イズキ君からの、言伝?
どうしよう。委員長、ポストの位置を確認し始めちゃった。プリントだけ置いて帰っちゃうかもしれない。
『あれ、黒田さん?』
委員長が顔を上げ、カメラの方を見る。
しまった。応答ボタン押しちゃってる。
「あ、ああああのっ」
『黒田さん聞こえてる?』
「い、委員長。わ、わざわざ来てくれたんだ。ごめんなさい出るのが遅くなっちゃって。どうぞ、上がって」
返事をしてしまったらもう開けないわけにはいかない。私は重い指で開錠のボタンを押した。
鍵の外れる音に続いて、廊下の向こうから扉が開く音が聞こえてきた。
委員長を部屋に通して、とりあえずクッションを敷いて座るように勧めた。
それから台所でグラスを二つ用意して、冷蔵庫の烏龍茶を注ぎ入れる。お茶菓子の場所はお母さんじゃないと分からないので、仕方ないからお盆に烏龍茶の入ったグラスだけ載せて部屋に戻った。
委員長はクッションの上に女の子座りして私の部屋の中を物珍しげに見回していた。と言っても、あまり見るべきものなんて無い。他の女の子の部屋と違ってぬいぐるみとかも無いし、ポスターとかも特に張っていないし、家具も女の子にしては地味な色合いのものが多い。
可愛い部屋は目指してみたこともあったけど、ぬいぐるみやポスターは目が気になって眠れなくなってしまって、それ以来諦めてしまった。
「あああの。お、お茶……」
「ありがと」
委員長はにっこり笑って、両手でグラスを持って唇をつける。ピンク色のぷるぷるした唇。
何となく、お茶を飲む委員長の姿をじっくりと見てしまう。肌理細やかな肌、どんぐりみたいにくりくりした丸い目、長いまつ毛、形のいい眉、すっきりした鼻筋、そして顔立ちを引き立たせる程度のナチュラルメイク。
背中まで伸びている絹のような黒髪。制服の裾から覗く白い手足。
女の私から見ても、完璧だ。月とすっぽん。私の中で月みたいなのは体型と眼鏡の形だけだ。
「黒田さんって恋愛小説が好きなんだ」
「ふぇえ? どど、どうして?」
「本棚に並んでいるの、そう言う本が多いじゃない? いいよね、恋愛小説。私も好き」
可愛い上に、こういう風に良く気が付く。
「黒田さん文芸部だよね。もしかして書いたりもするの?」
真直ぐ見つめられて、どうしていいか分からなくなって、私は目を泳がせた後小さく頷いた。
「……そそ、その、えっと、たたたしなむ、程度に」
「もしかして、先月の『十六夜』に乗ってた『鳴けない鈴虫の恋』って黒田さんが書いたの?」
『十六夜』と言うのは同人誌、文芸部で隔月で出している作品集の事だ。部員で作品を出し合って、数十部印刷してホッチキスで簡単に製本して昇降口なんかに置いておく。文芸部の活動の一つだ。
でも、それをまさか委員長が読んでいるなんて……。顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かった。体が熱い。どうしよう、仮にあてずっぽうで言われたにしても、これじゃあ丸分かりだ。
地味で暗くて、いつもクラスの中でも居るのか居ないのか分からないような、恋人どころか友達だって少ない私が恋愛小説なんて書いてるなんてばれたら気持ち悪いと思われるに決まっている。妄想ばかりして、妄想に逃げているんだって思われるに決まってる。
「ああああれは、そ、その、誰が書いたかは部員でも分からないの。ひ、一人で名前を使い分けて、いくつも書いてる先輩も居るし」
委員長の顔をまともに見られない。
「じゃあ、今度部活の時に部員の皆さんに言っておいて。『黒薔薇』さんのファンが、いつも恋愛小説を楽しみにしてるって。次回作にも期待しているって伝えて」
黒薔薇。私のペンネームだ。あの委員長が、私の小説を読んでいて、おまけに次回作を楽しみにしていてくれている。
眼鏡が曇る。顔がにやけてしまって余計に顔を上げられなくなってしまった。委員長に認めてもらえた気がして、なんだかとても嬉しかった。
「わ、分かった。伝えておくね。きっと本人も凄く喜んでる、と思う。……あ、誰だかは分からないけど」
「そうだよね。部員全員居る前ならきっと伝わるだろうし、お願いね」
委員長はきっと気が付いているだろう。私に合わせてくれているんだ。恥ずかしがっている私に気を使って、気が付かないふりをしてくれてるんだ。
「そうだ。文芸部で思い出したよ、イズキ君から預かりものがあったんだった」
預かりもの。何だろうか、イズキ君からというだけで妙に緊張する。数日前まではこんな事は無かったのに、変に意識しちゃってる。
委員長が鞄から取り出したのは一冊の本だった。一目見て何の本か分かった。手が震えそうになるのを堪えながら、私はそれを受け取る。
『注文の多い料理店』。イズキ君、私の話覚えててくれたんだ。
「でも、なんでこの本なんだろうねぇ。賢治だったら『銀河鉄道の夜』とか詩集とか他にもいっぱいあるのに。……もしかして、二人にしか分からないメッセージだとか」
「ふえぇ?」
思わず変な声が出てしまった。
「え、えっと、その。なんていうか。……前にイズキ君に話したことがあったの。このお話を読むとなんだか元気が湧いてくるんだって。
子どもの頃の事を思い出すからかもしれない。自分でも不思議なんだけど、気分が晴れるっていうか」
委員長の言う通り、宮沢賢治には他にも名作はいくらでもある。でも、幼いころの私はなぜかこの話に強く惹かれていて、事あるごとに何度も読み返していた。
今でも気持ちが沈んだ時にはぱらぱらとめくったりする。そして読んでいるうちに、いつの間にか子どものときみたいな単純な気持ちに戻ってしまう。
イズキ君にもこの話をしたことがあった。いつだったのか自分でも覚えていないけれど、彼は多分それを覚えていたから委員長にこの本を渡したんだろう。
嬉しかった。彼の気遣いが心に染み入って来るみたいで。
「なんかいいよね、そう言うのちょっと憧れちゃうかも。
ごめん、水を差すようで悪いんだけど。これ、休んでた間のプリント」
机の上にプリントの束が置かれる。それはまさに『どさっ』という効果音が似合いそうな程の、結構な量だった。見ているだけで気が滅入ってしまう。
「日本史とかの資料が多いから、見た目ほど課題とかは無いよ? 数学は来週から難しいところに入るらしいけど……。でも、思ったより元気そうで良かった。その様子なら来週には来られそうだね」
その言葉を聞いて私ははっとする。格好こそスウェットだったけど、私は委員長の前で元気に歩き回って、お茶すら用意してしまった。とても病人のする事じゃない。
でも……来週学校に行けるのかと言われると……。
「あの、ごめんなさい。私まだ学校には行けそうにない」
「そっか、まだ良くなってないんだね。ごめん、それなのに私」
違う。謝らなければならないのは私の方だ。病気だと思って折角届け物に来てくれている委員長に、嘘まで吐いてしまっているのだから。
「私が居たら休めないよね。じゃあ私はこれで」
「違うの」
腰を上げかける委員長に、私は俯きながら声をかけてしまっていた。
私は握りしめた自分の拳に目を落とす。まともに顔を見返す事も出来なかったけど、嘘をつきたくなかった。
委員長はクッションに座り直す。さっきと違って正座して、膝をこちらに向けていた。
「本当は、病気なんかじゃないの」
「黒田さんが何の理由も無く学校をさぼるとは思えないんだけど、良かったら話を聞かせてくれる? もちろん誰にも言わないし、何を言われても笑ったりしないから」
自分の浅ましさを他人に晒していいものか、迷った私はすぐに声を出せなかった。
でも、委員長はわざわざ家まで届け物をしてくれたくらいだし、何より火曜日も更衣室でただ一人私を気遣ってくれた人だ。彼女だったら、私の話をちゃんと聞いてくれるかもしれない。
「あ、あの、火曜日の体育の授業、覚えてる?」
「覚えてるよ」
委員長は、特に驚いた様子も無かった。
「わ、私も内心では分かってた。わ、私は、見た目も良くないし、暗いし。でも、実際に男子や女子からも笑われて、また笑われるかもって思うと、私……」
「あんなのただの言いがかりだよ。私は黒田さんの事太ってるとは思わない。ちょっとぽっちゃりしてるけど、女の子はそのくらいの方が可愛いし、匂いだって全然しないよ。話をしていたって真剣に返事を返してくれてるの伝わってくるし。
そう言うところ、他にもイズキ君だって分かっていると思うよ。黒田さんの事気遣ってるから、こうやって本とか」
「だ、だから余計に怖いの。私と一緒にイズキ君まで、その、変な事言われてしまいそうで……」
イズキ君には会いたい。会ってお礼を言いたい。でも駄目だ。私がイズキ君に何か言ったら、イズキ君まで変な事を言われるかもしれない。
「黒田さん」
「い、委員長には分からないよ。わわ、私なんかより、すごく綺麗だし、心も強いし。誉められても、けなされる事なんて無いだろうし」
「優等生って、そんなにいいもんじゃないよ? 私だって色々言われて平気ってわけでもないし」
委員長はため息交じりに言った。
何を言っているんだろう私は。委員長が女子たちから裏で何を言われているのか知らないわけじゃ無いのに、男子から下品な冗談を言われて困っているのを知っているのに。
「ご、ごめんなさい。……でも」
それでも胸の中の薄暗い感情は消えなかった。羨ましい。綺麗な委員長が羨ましい。きっと委員長みたいに綺麗になれば誰に告白しても喜んで受け入れてもらえるだろう。今の私が好きだと伝えてもそうはいかない。相手から気持ち悪いと思われ、迷惑がられてしまうかもしれない。仮に受け入れてくれても、周りから変な噂を立てられてしまう。
彼に拒絶されるくらいなら、嫌な思いをさせるくらいなら、何もしない方がいい。そんな事は分かっているけれど、分かっているからって受け入れられるわけじゃ無い。
胸の奥から言葉が絞り出されていく。自分でも止められなかった。
「委員長が羨ましい。委員長みたいに綺麗になりたい。……私、このままじゃ好きな人に想いも伝えられないよ」
もちろん綺麗になるだけじゃ駄目だって分かってる。外見が幾ら良くなったって、性格が変わらなければ暗いって馬鹿にされる。でもそれでも私は眩しいものに手を伸ばしたかった。
想いを小説にするだけじゃなくて、ちゃんと現実にしたい。イズキ君に想いを伝えたい。
「……結構大変だよ。男子はしょっちゅうえっちな冗談言ってくるし、女子だって裏で陰口言ってるみたいだし。もてはやされはしても、誰も本音なんて言ってくれないし。
でも、それでもいいなら、方法が無い事も無いよ」
思わぬ言葉に、私は顔を上げた。
委員長はこちらに向かって微笑んでいた。その瞳の奥に妖しげな紫色の炎が見えた気がしたのは私の気のせいだろうか。それとも……。
「もう元の自分には戻れなくなっちゃうかもしれないけど、それでもいいならこのお店に行ってみて」
委員長は財布の中から一枚のチケットを取り出して私の目の前に差し出した。
薄紫色の細長い紙の上にはデフォルメされた天使と悪魔のイラストと、ピンク色の文字で店名が書かれていた。エステサロン『アビス』。
「私がこうなるきっかけを与えてくれたお店。人生変わるよ」
アビス。深淵、奈落の底。
妖しげな名前とは裏腹にポップなデザインのそのチケットは、いつの間にか私の手の中にしっかり納まっていた。
翌日。私は早速エステサロン『アビス』に向かった。
委員長があんまりに大仰な事を言う物だから、きっと相当大きくて目立つような店だと思ったけれど、意外にもそのお店は駅前商店街の一角、通い慣れているはずの通学路の途中にあった。
店舗自体は雑居ビルの三階にあって、確かに通学中に目に着かない場所ではあるけれど、まさかこんな見知った道の途中にあるなんて想像もしていなかった。
細い階段を上っていく。二階には下品な名前の風俗店が入っていた。少し不安になりつつも無視して三階に向かう。
階段を上ってすぐに見えたのはエレベーターの入り口と『アビス』の立て看板だった。私は鞄からチケットを取り出す。何だか緊張してきた。エステに来るなんて初めてだ。
でも、委員長だってここに来て綺麗になったんだからきっと大丈夫。胸元でチケットを握りしめながら、私は自動ドアの前に立った。
「いらっしゃいませ」
傷や汚れ一つないカウンター。その向こうから、物凄く綺麗なお姉さんが頭を下げてきてくれる。エステティックサロンの受付を務めているだけあって、テレビに出てくる女優さんみたいに綺麗な人だ。
「ようこそエステティックサロン『アビス』へ。お客様は初めての方ですね」
「ふぁっ。えええっと、はい。はは初めてです。あの、これ、使えますか」
真直ぐに見つめられると、女の私でもドキマギとしてしまった。緊張しすぎて舌が全然回らない。
「ご紹介ですね。承知いたしました。では本日は無料でサービスさせていただきます。それではこちらからコースをお選びください」
受付のお姉さんはカウンターの上を示しながら柔らかく微笑んでくれる。
カウンターの上には店内で提供されているらしいコースの一覧が置かれていて、ぱっと見ただけでもかなりたくさんのコースがあった。
オーソドックスな美しさをあなたに。スタンダードコース。
野性的な魅力で男性もいちころ。ビーストコース。
神秘の国ジパングの魅力を。和コース。
誰もが憧れる永遠の美しさ。ノスフェラトゥコース。
人生そのものを変える程の衝撃。ダークスライムコース。
蛇のように男性を掴んで離さない。リチュアルコース(要予約)。
リリム店長の気まぐれ。スペシャルコース。
一覧の端の方には男性向けのコースも書かれていた。どうやらメンズエステも兼ねているらしい。
各コースの中にも細かなオプションの違いがあるらしく、色々と説明書きが書かれているが私にはなんだか良く分からなかった。
「全てのコースを無料でご利用いただけます。ただ申し訳ございませんが、リチュアルコースは事前準備が必要なため本日はサービスさせていただくことが出来ません。またスペシャルコースも、本日は店長が不在の為ご利用いただくことが出来ません。もしそちらのコースをご希望でしたら、予約の後、再度ご来店していただくことになってしまいます。もちろん料金は掛かりませんが、いかがいたしましょうか」
「ええええっと、じゃじゃあこのスタンダードコースで」
受付のお姉さんはにこやかにほほ笑んで頷いた。
「オプションはいかがいたしましょうか」
適当に一番敷居の低そうなスタンダードを選んでみたものの、オプションと言われてもこういうところが初めての私には良く分からなかった。
「強い女性になって自ら男性を捕まえたいような方にはアマゾネスオプションをお勧めしています。逆に大きな包容力で男性を癒したいような方にはプリーストオプションがいいでしょう。最近人気なのは……」
「あああの、私は、その、ただ単純に、少し綺麗になりたくて、その」
「まずは当店のサービスをお試しになりつつお綺麗になりたいのであれば、ノーマルがよろしいでしょう。徹底的にサービスを行うスイートオプションもございますが」
「のの、ノーマルでお願いします」
綺麗になりたいけれど、あんまり過激な事をされるのも怖い。
「承知いたしました。ではあちらへお進みください」
と、とうとう始まるんだ。
受付のお姉さんに見送られ、がちがちに固まりながら私は示された扉をくぐった。
狭い廊下の先にあったのは小さな浴室だった。脱衣所の先にはさらに奥へ向かうための扉もあるが、ここでシャワーを浴びていけという事なのだろうか。
『まずはリラックスして頂くために、シャワーを浴びていただきます。またマッサージの効果を上げるため、出来るだけ綺麗に体を洗っていただけますようお願いいたします。
よろしければ湯船にお浸かりになっていただいても構いません』
天井のスピーカーから受付のお姉さんの声が降ってくる。
私は言われるままに脱衣籠に荷物を置き、衣服を脱いで浴室に入る。
ピンク色のタイル張りの浴室。同色の湯船には既にたっぷりとお湯が溜められている。
蛇口をひねると、温かなシャワーが肌を叩いた。気のせいだろうか、なんだかちょっととろっとしていて肌に絡み付いてくるような感じがした。
ボディソープを手に取って泡立てる。途端に嗅いだことの無い甘い匂いが立ち昇り、私は一瞬くらっとしてしまった。
いい匂い。身体から余計な力が抜けていくみたい。今まで気にしてなかったけど、香りのもたらすリラクゼーション効果は馬鹿に出来ないんだなぁ。
念入りに体を洗い、シャワーで洗い流してから湯船の中にゆっくり身を沈める。
あったかい。
手足の先からじんわりとしみこんでくる暖かさが、初めての緊張感や不安感を溶かしていくようだった。ぽかぽかとしてとても気持ちが良い。
試しに腕をさすってみる。とろりとした湯水のおかげか、いつもよりすべすべとしていた。このお湯自体も普通の水では無くて美容効果のある物を使っているのだろう、匂いもほのかに甘かった。
ずっと浸かっていたかったけど、そういうわけにもいかない。名残惜しさを感じつつも、私は立ち上がって脱衣所に戻った。
『タオルでお体をお拭きになって下さい。特製のハニーミルクローションを用意しておりますので、お付けになっていただいても構いません。
準備ができましたら裸のまま、バスローブを身に着けてお進みください。お荷物はそのままで大丈夫です』
洗面台の前で体を拭いていると、クリーム色の小瓶が目に付いた。
ハニーミルクローション。美容液のような物だろうか。蓋を開けて傾けると、黄金色の輝きを帯びた乳白色の液体がこぼれ出てくる。
砂糖菓子のような甘い匂い。
『全身にぬっていただいて構いませんよ』
私はそれを両手に広げ、顔に、首に、胸に塗りつける。そして途中から自分でも良く分からなくなりながら、腋の下や股の間にまで塗り付けてしまっていた。
「あれ、私……」
『それではバスローブを身に着けてお進みください』
ああそうだ。進まなきゃ。
でもなんかこれ、あのお話に似ているなぁ。お風呂に入れられて、身体に何かを塗りたくられて、その先は、どうなるんだったっけ。食べられちゃうんだっけ?
進んだ先は小さな部屋になっていた。中央にはピンクのベッドが置かれていて、ベッドに沿うように二人の女の人が立っている。
二人とも受付の人に負けないくらいに綺麗で、モデルみたいな体型をしていた。
頭には二本の角、腰には翼と尻尾と言う小悪魔っぽいコスプレはお店のモチーフを生かしての事だろうか。ちょっと変わっているけど、この二人には良く似合っていた。
「いらっしゃいませ。これより美容マッサージをさせていただきます」
部屋にはベッド以外にも観葉植物が置かれて居たり、お香が焚かれていたりしていた。
部屋に入った瞬間、頭の中がふわふわとしてくる。エステはリラクゼーションも兼ねているっていうし、きっとアロマテラピーの効果のあるお香なんだろう。
「じゃあバスローブを脱いで、ベッドの上にうつぶせになってね。あとお顔もマッサージするから、眼鏡も預かりますね」
私は何も考えずにバスローブを脱いだ。
着ていたバスローブと眼鏡を受け取ったスタッフの一人が歓声を上げる。
「わぁ、お客様のお肌、白くておもちみたいにすべすべ。羨ましいなぁ」
「あぅ……」
おもちみたい、かぁ。確かにお腹のお肉もつまめちゃうしなぁ。
「おっぱいも大きいし、何か思い出しちゃうなぁ地元のオーク…」
「オーク?」
「私達の地元にはオーク、つまり樫で出来たとても美しい女神像があるのです。お客様がそれに似ていたのですよ。さ、うつぶせに寝てください」
片方の女性がフランクにしゃべりかけてきてくれるのに対して、もう片方の女性はあくまでも冷静に私を導いてくれた。
多分お客のリラックスとコースの進行を考えたスタッフ配置なんだろう。
何だか誤魔化されている気もしたが、私はそれ以上追及せずにベッドに横になった。
「では始めますね」
背中に暖かくてとろとろした物がかけられる。そしてそれが四つの手によって、背中に、脚に、腕に伸ばされていく。
「あっ」
「私達の地元の天然水です。余計な物を塗り込むよりも、こうして自然のものを使った方が肌にはいいんですよ。シャワーにも使っていますが、こちらはマッサージ用の特に質の高いお水です」
お姉さんたちの手に触れられる度に体が熱を持って疼いた。指先を触れられただけで、電気が走ったみたいな痺れるような気持ち良さが私の皮膚の上を駆け抜ける。
「何しろウンディーネが管理してる泉の水だからね」
「ウン、ディーネ?」
天然水とやらが全身に塗られると、今度は揉み解すような動きに変わった。
「ひぁっ」
身体がとろけてしまうような感触に、思わず声が漏れてしまう。自分の力では止められそうになかった。
指先が、手のひらが動くたびに体がバターみたいに溶けていくみたいだ。気持ち良すぎて、さらに頭がぼうっとしてきてしまう。
「お客様は、好きな人はいるの?」
「ふぁあ?」
「私達の手が、その方の手だと思ってみてください。きっともっと心地よいですよ」
イズキ君。イズキ君の手が私の身体に触れて、揉んでる。二の腕も、太腿も、おしりも、揉み解すように体中のあらゆる部分をまさぐっている。
「柔らかくてすごく気持ちいい身体だよ」
「はぅう」
耳元で囁いたのはイズキ君だろうか。何だかとっても恥ずかしい。でも、もっともっと触ってほしい。もっと、私のすみずみまで、大切なところも全部。
「じゃあ、仰向けになってみようか」
言われるまま、私は仰向けになる。
すかさず目元にタオルが掛けられて、私からは何も見えなくなってしまった。
再び胸元にローションのような物がかけられて、全身に広げられていく。おっぱい、お腹、腕、脚。イズキ君の手が私の全身を揉みしだいていく……。
「あぅっ」
一度全身をマッサージすると、イズキ君はおっぱいを重点的に揉み始めた。お腹の方のお肉をすくい上げるように揉み上げてから、おっぱいを軽く握って、それからその先端の乳首に優しく触れてを繰り返すのだ。
「や、あっ。……はうぅ」
息が荒くなっていくのが自分でもわかる。下腹部が熱い。自分でも良く分からない感情が、子宮の奥から噴き出そうとしているみたいだった。
「だめ……もう、私……」
指がお腹から、私の大切な部分に下りてきた。
「さぁ、最後の仕上げだよ」
敏感な部分を触られ、全身がびくんと震えてしまう。
違う。イズキ君はいきなりこんなことしない。そうだ、私は今エステに来ていて、だからこの指はイズキ君の指じゃなくて。
「駄目。そこだけは駄目ぇ」
私は自分の大切な部分を両手で覆い隠した。
駄目だ。ここだけは大好きな人以外には触られたくない。例えどんなに気持ち良くされたとしても、知らない人には触られたくない。
息を飲む気配と共に、室内の雰囲気が変わった。心なしか、お香の匂いも変わった気がする。
「ご、ごめんなさい。私、そう言うつもりじゃ無くて」
「申し訳ございません。この子はまだ新人のため、ちょっとまだ未熟なところがありまして」
謝られている? 一体何が起きたんだろう。どういう事なのか良く分からない。スタッフさん達も焦っているみたいだけど。
「あの、一体何が……」
「先ほど焚いていたお香、メルティ・ラブと言うハーブで、嗅いだ者の心を甘くとろけさせる効果があるのです。お客様のリラックスの為にと焚いていたのですが、この子の緊張感までほぐしてしまったようで、少々行き過ぎてしまったのです。
今は冷静さを保たせるストイック・ラブと言う香に切り替えましたのでもうあのような失敗は無いと思います。……不快に思われたのでしたらここで中止いたしますが、いかがいたしましょう」
あぁ、そうかぁ。確かにさっきまでの匂いを嗅いでいたら正気でいるのは難しいかもしれない。
ちゃんと謝ってくれてるし、無理矢理どうこうされる事も無いだろう。それに綺麗になりたいし、単純にマッサージも気持ち良かったし。
「……中止は嫌です。続けてください。あの、でも」
「大丈夫です。もうデリケートな部分には触れませんので」
私は手を外し、ベッドの上で体を開いて力を抜いた。
「続き、お願いします」
「ご寛大なお心に感謝いたします。私どももこのような事の無いよう、誠心誠意サービスさせていただきます」
それから先のマッサージは体が反応してしまうのを抑えるので必死だった。
ただ触られて揉まれているだけなのに、体中を変な感じが走り抜けていって、お腹の中が疼いて疼いて仕方が無かった。
ようやくマッサージを終えてシャワーを浴びる頃には、ただ寝ていただけにも関わらずへとへとになってしまっていた。
「お疲れ様でした。当店のエステはいかがでしたか」
受付のお姉さんは相変わらず綺麗だった。時計を見るとまだ一時間くらいしか経っていないのに、なんだか何時間もマッサージを受けていたような気分だ。
「なんというか、すごかったです」
まだ全身が火照っているみたいだった。特に下腹部が熱を持っている。でも、嫌な熱っぽさじゃ無かった。
あと、なぜか背中と腰の境目辺りがむず痒かった。
「いらっしゃった時よりお綺麗になられましたよ」
差し出された鏡の中に映る私は、確かに昨日よりも血色が良くて肌の張りも良くなっている気がした。
でも、やっぱりまだ太っているよね……。
「あの……。もっと痩せるには、やっぱり一回じゃ無理ですよね」
「そうですね。あまり急激に痩せてしまってはお身体に負担がかかりますし、美容にも良くありません」
受付のお姉さんは困ったような笑顔で、諭すように静かに告げる。
当たり前だ。二三日で痩せようなんてそんな都合のいい話があるわけないんだから。
「ですが眼鏡や髪形を変えるだけでも印象は変わるものですよ? 目元が変わるだけで大分違いますし、お客様のような緩やかな癖のある髪でしたら少し手を加えるだけで今以上にセクシーにも可愛くも見せられます」
私の髪。いつもワカメみたいなんて言われてるけど、本当にそんな風になれるのかなぁ。
「あと、これは施術中に失礼をしてしまったことへのお詫びです。栄養価が高く、美容効果も高い果物です。デザート代わりに食べるだけでも、お綺麗になれると思いますよ」
手渡されたのは数枚の割引クーポンと、小箱にいっぱい入った果物の山だった。
ハートの形をした見たことも無い果物だ。外国の果物なのかもしれない。でも、こんなに貰ってしまってもいいんだろうか。
「あの、でもこんなにいただいたらなんだか悪いです」
「ああ、いいんですよ」
お姉さんはにっこり笑って、意外な言葉を口にした。
「地元から山ほど送られてくるんです。それに、味の虜になってしまって、きっとそれだけあっても足りなくなると思いますよ?」
虜になる程美味しいという事なのだろうけど、なんだか妙に意味深な感じがする。
「当店にいらして下されば次回からは果実もサービスいたします。ぜひまたいらして下さいね」
月曜日までに時間は無かった。
それまでに少しでも痩せたかった私は、少し強硬な手段を取る事にした。エステサロンでもらった美容に聞くという果物。それをご飯の代わりに食べる事にしたのだ。きっと普通にご飯を食べるよりはカロリーを抑えられるだろうし、美容効果も高まるだろうと思って。
果物自体が美味しかったおかげで、食べること自体は問題なかった。
食べるたびに頭がのぼせたようになって、お腹や腰が疼くのが少しだけ気になったけど、イズキ君に会う事を思えばそんな事は全く問題じゃ無かった。
***
月曜日。気が急いだ僕は、いつもより少し早めに学校に向かった。
部室を覗いても誰も居ない事を確認してから、教室へ。
まだまばらなクラスメイト達を眺めながら、鞄から文庫本を取り出して広げる。それはまさに広げただけで、読もうとしても本の中身は一切頭に入って来なかった。
黒田さんは来るだろうか。今日も来ないのだろうか。
今日来ないとしたらいつ来るのだろうか。まさかもう来ないなんてことは無いよな……。
クラスメイトは次々に集まってくる。それでも黒田さんは来ない。ホームルームの予鈴まで十分を切っても、五分を切っても現れない。
「イズキ君」
聞きなれた優しい声が僕の鼓膜を震わせた。たった五日ぶりだというのに、なんだかすごく久しぶりな気がする。
「黒田さ、ん?」
振り向くと、見たことも無いような可愛い女の子がそこに立っていた。
柔らかなパーマのかかった黒髪、黒目勝ちの目、きめ細やかな張りのある肌。違う、僕はこの人を知っている。
眼鏡はしていないし、髪型が変わって顔の輪郭も少しほっそりはしているけれど、目や鼻の形、柔らかそうな唇は変わっていない。彼女は間違いなく黒田さんだ。
「本、ありがと。おかげで元気出た」
「うん。その、良かった」
髪と眼鏡で隠されていた素顔が表に出てしまっているのだ。何だろう、僕だけしか知らなかった秘密が周知の事実になってしまったようで、少し気持ちが落ち着かない。
「覚えててくれて嬉しかった」
「ま、まぁね」
なぜか彼女の唇を意識してしまう。
よく見てみれば髪型を変えただけじゃないみたいだ。黒田さんは先週見た時よりも綺麗になっている。おまけに頭や腰からは角や羽のような物が生えているし、その姿はまさに小悪魔のような可愛らしさ……て、角?
慌ててよく見ようとしたときには既に角も羽も無かった。いや、当たり前か。きっとただの見間違いだろう。
「どうかした?」
黒田さんのはにかむような笑顔に、胸がどきっとする。
「いや、本当に元気そうになって良かったと思って」
「ありがとう。また、あとでね」
黒田さんは僕に微笑みかけてから自分の席へ向かった。
そこでようやくクラスの連中も気が付いたんだろう、教室中が一瞬どよめいた。男子は言葉を失いつつも黒田さんの姿を凝視し、女子は女子で驚きながらも何やら険のある視線を向けているようだ。
だが当の黒田さんはクラス中の視線をまるで感じていないかのように自然な振る舞いで授業の準備を始めていた。
彼女にもっと話しかけたい。そう思って席を立ちあがりかけたその時だった。
「おはよう。ホームルームを始めるぞ」
いつもは少し遅れてくる担任教師が、今日に限って時間通りに教室の扉を開いた。
結局黒田さんに話しかけるタイミングを失ったまま、とうとう放課後になってしまった。
昼休みにもアタックを掛けようとしたのだが、委員長に先を越され二人で出て行ってしまったのだ。
何やっているんだろう僕は。深いため息を吐き、顔を上げると。
「どうしたのイズキ君」
目の前に、黒田さんが居た。
「い、いや。何でもないよ」
クラス中の視線が集まっているのを感じる。放課後になってもまだ、黒田さんに声を掛けようというクラスメイトは居なかった。皆こうやって視線を向けて様子を見ているだけで、声を掛けたり絡んで来ようとはしない。
しかし声は掛けなくとも、彼女に向けられている視線の意味が変わっている事くらい僕でも分かった。
男子の視線は明らかに異性を見る目になっていたし、女子の視線は嫉妬や羨望が混ざっているようにも思えた。
「ねぇ、早く部室に行こ」
黒田さんは僕にだけ聞こえるように囁いて、僕の腕を引く。
なんだか、いつもと違う。いつもだったらお互い誘う事も無く、自然と部室に集まるみたいな形になるのに、今日は明らかに僕が誘われている。
別に嫌では無いのだが、ちょっと恥ずかしくもあり、何となく僕はぎこちなくなってしまう。
「うん。先週は姫子も心配してたよ」
黒田さんだけでなく僕にも視線が絡み付いてくるようだったが、敢えて無視することにした。黒田さんが相手にしないなら、僕が相手にする必要も無い。
「あっ! せんぱーい。お久しぶりですー」
部室には既に後輩の姫子が来ていた。彼女は黒田さんが居るのに気が付くなり黄色い声を上げて飛びついていった。
僕はそんな二人の様子を横目で眺めながら、いつもの席で文庫本を開いた。ようやく日常が帰って来た感じがする。
「体の調子はどうですか?」
「大丈夫。なんか生まれ変わったみたいに元気だよ。ごめんね心配かけて」
「確かに凄く生き生きしてる感じがします」
「そ、そうかなぁ」
急に会話が止んだので顔を上げると、黒田さんと目が合った。にっこりとした笑みを向けられ、心臓が大きく跳ねる。
慌てて視線を反らすものの、暴れ出した心臓はなかなか収まってくれなかった。
「あー、そう言えば先輩。私今日ちょっと予定があるんで、これで帰ります」
「そう。明日は来れる?」
「もちろんです。ちょっと早いですけど失礼しますね」
取り繕うような声に感じたが、気のせいだろうか。あんなに黒田さんに会うのを楽しみにしてたのにこんなにあっさり帰ってしまうなんて、何か変な気がする。頭を下げる姫子に手を上げて応えながら、僕は内心で訝しんでいた。
まぁでも、別にこの部は毎日顔出さなければいけないっていうわけでも無い。あんまり詮索するのもおかしいだろう。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
「おつかれー」
姫子が居なくなると部室が急に静かになってしまった。そう言えば今、黒田さんと二人きりなんだよな。なんかこういうのも久しぶりだ。
久しぶりにゆっくり話そうかと思っていると、唐突にかちゃりと言う小気味のいい音が静かな教室に響き渡った。
いつの間にか黒田さんが教室の扉の傍に佇んでいた。
鍵? でも、何のために?
「ようやく二人きりになれたね」
振り返った黒田さんは、今まで見たことも無いような色っぽい顔をしていた。僕の方をじっと見つめながら、少しずつ僕に近づいてくる。
対する僕は彼女の表情に魅入られてしまって、全く動くことが出来なかった。
思わず生唾を飲み込む。黒田さんにも聞こえてしまっただろうか。
「ねぇ、喉、乾かない?」
「え?」
「これ、一緒に食べよう?」
そう言って黒田さんが鞄から取り出したのはハートの形をした果物だった。彼女は一口食べて、僕に手渡してくる。
彼女が噛んだ部分からとろりとした果汁が流れ落ちる。僕は慌てて受け取り、それを舐め取って一口食べてから、ようやく自分のしている事に気が付いた。
「あ」
「間接キス、だね」
かぁっと顔が熱くなる。
慌てる僕にお構いなしに、黒田さんは僕の手から果実を奪うと、僕が噛んだ部分を舌で舐め取ってからまた一口口に運んだ。
「あの、黒田さん」
「あ、ほら、蜜が垂れちゃうよ」
僕はまた慌てて果実に噛り付く。そして僕が噛んだ場所をまた黒田さんが食べて……、そうやって僕達は果物を食べ終わるまで相手の噛んだ部分を食べ合った。
ただ果物を食べているだけなのに、背筋がぞくぞくするような背徳感があった。何だか体が高揚してしまって、食べ終わるまで味も匂いも分からない程だった。
「あぁ、美味しかったぁ」
黒田さんは果汁の付いた指を舐めしゃぶる。何だかその指が無性に羨ましく、指になりたいとさえ思ってしまう。……自分でも意味が分からない。思考を追い払うため、僕は頭を振った。
「黒田さん」
ん、と黒田さんは僕の方に横目を向けてくる。
「なんか、無理してない? いつもと違う気がする」
ちゅぱっ。という音を立て、唇から指が離れる。
「どんな風に、違う?」
「その、なんていうか、凄く……」
動作の一つ一つがエロティックで、見ているだけで抱きしめたい衝動に駆られる。でもそんな事は言えない。僕は口ごもりながら俯くしかなかった。
黒田さんは僕の隣の席に腰を下ろし、僕の太腿の上に両手を置いた。
首筋に息がかかる。甘い匂いのする熱っぽい吐息だ。
「全部イズキ君のせいだよ」
少し顔を動かすだけで唇が触れ合ってしまいそうな程近くに黒田さんの顔があった。その瞳には僕の顔しか映っていない。多分僕の瞳にも、黒田さんしか映っていないだろう。
「僕の?」
「私の事、抱きたくないなんて言うから」
「違う、僕は」
火曜日の更衣室での事が脳裏に蘇り、僕は目を逸らした。
その通りだ。僕は思っていただけで、悪ふざけを止めなかった。それは結局一緒になって黒田さんを傷つけた事と同じだ。
「あの時は本当にごめん。結局何も言い返さなかった僕が悪い。許してくれなんて都合のいい話だけど、そのためだったら何だってする」
真直ぐに彼女の目を見つめながら、僕は心からの気持ちを述べる。あんな風に言われて気にしない女の子なんて居ないだろう。
黒田さんだって今は笑っているけど、心の中ではきっと……。
「じゃあ、改めて質問するね」
黒田さんは悪戯っぽく笑ってから、僕の耳元に唇を近づけた。
「私と、えっちしたくない?」
その囁き声は、僕の気持ちを爆発させるのに十分すぎる程の破壊力を持っていた。黒田さんに対する欲望が限界も無く膨れ上がっていく。彼女が欲しくてたまらない。思考の全てがその一点に収束していく。
頭がのぼせあがりながらも、思考は黒田さんへの想いで澄み渡っていく。この感情の前では罪悪感も恥も外聞も些細な事でしかなかった。
「うん、したい。正直今日の黒田さんは凄く、その、色っぽいし。でも、誤解して欲しくないのは僕がそう思っているのは今日に限った事じゃないんだ」
想いが溢れて口から漏れ出していた。自分でも良く分からないまま、僕は気持ちをぶつけていた。
突然の告白に驚いたように、黒田さんはきょとんとしている。逃げられないように彼女の肩に手を置いて、顔を突き合わせながら僕はさらに続ける。
「先週も、先月もそう思ってた。ずっと前からそう思ってたよ」
黒田さんの目が見開かれていく。
「でも、火曜日は」
「ぶん殴ってでもあいつらを止めるべきだったと思ってる。君の事を好きなんだから、戦うべきだったんだ。でも、僕は逃げてしまった。ずっと後悔してた」
「う、嘘」
「嘘じゃない。黒田さんの事、ずっと前から好きだった」
「だったら、き、キスして。そうしたら信じて、んぐっ」
彼女の言葉を、唇を押し付けて遮る。
すると彼女は僕の頬を両手で包み込み、唇を割って舌を入れてきた。
少し驚いたけど、僕は彼女に応える事にする。最初はお互い様子を探るように舌先同士を軽く擦り合わせるくらいだったのが、唾液が絡みだしたころには、舌を絡み合わせて激しく求め合っていた。
鼻息を荒くしながら、僕らはしばし無言でお互いの唇を貪り合う。夢みたいだ。それこそ彼女の描く恋愛小説のようだった。
でも、唇の柔らかさも暖かさも、唾液の甘い匂いも間違いなく本物の感触だ。文字よりずっと体の芯に訴えてくる。心臓が強く打ち、下半身に血液と意識が集中し始める。
「ひゃん」
制服越しに胸を掴むと、彼女は驚いて身を離した。
「ご、ごめん」
黒田さんは頬を染めながらも、自分でも驚いてしまったというような表情で自分の身体を抱いていた。
だが、その姿を見て彼女以上に驚いていたのは僕だった。なぜならいつの間にか彼女の頭には二本の角が生えていて、腰元からも蝙蝠の翼が生えていたからだ。朝と違って、今は瞬きしても消えなかった。
「……ひょっとして、見えてる?」
「うん。可愛い」
「あっ」
羽を優しく撫でると、黒田さんは体を震わせて身悶えした。それから目に涙を浮かべて息を荒げ始める。
「い、痛かった?」
「大丈夫。感じすぎちゃっただけだから」
彼女はにたりと笑い、自分の椅子を立って僕の膝の上に、向かい合うように腰を下ろした。
「驚かないんだ」
「驚いてるけど、姿が少し変わっても黒田さんは黒田さんだからね」
「偽物かもしれないよ?」
「君の事が好きでずっと見続けていた僕だよ。君は黒田さんだ。間違いない」
何となく分かるのだ。何かが黒田さんに化けているんじゃない。黒田さんが今この姿になっているだけだって事が。
「うん。なんか嬉しい。……じゃあ、続きをしよっか」
そう言って正面から抱きついてくる彼女。僕は抱きしめ返しながら、首筋に甘噛みする。もう細かい事はどうでも良くなってしまっていた。いや、角が生えたり羽が生えたりは細かい事では無いかもしれないけど、でももうどうでもいいや。
急に股間が涼しくなったと思ったら、彼女が勝手にファスナーを下ろして僕の一物を外に出していた。
「イズキ君の、おちんちん。うふふ、もう固くなってる」
僕の根元に黒田さんの指が絡み付く。うっとりしたような黒田さんの表情。見た事の無い程のいやらしい顔。見ているだけであそこがさらに硬くなってしまう。
「ぴくってした。……ずっと見てたいけど、イズキ君の大切なものだもん、いつまでも外に出してるわけにもいかないよね。誰かに見られる前に、早く隠さなきゃね」
黒田さんの指が、焦らすように僕の根元から先っぽまでを行ったり来たりする。
「どこに隠そうかなぁ。そうだ、私のスカートの中にしよっか」
彼女は腰を浮かせ、狙いを定めるかのように身じろぎした。もう片方の手をスカートの中に突っ込み、何かをずらすように動かす。
「黒田さん、いいの?」
「名前、呼んでほしいな」
「さ、サキ」
サキの唇が僕の唇を塞ぐ。そして彼女はゆっくりと体を沈めていった。
先っちょがあったかくて湿った感触に包まれる。そのままゆっくりと、熱くて狭い彼女の中を進んでいく。
「んんっ」
わずかに抵抗を感じる部分があったけれど、構わず彼女は腰を下ろし続ける。
彼女の鼻に掛かった声が僕の性欲に油を注ぐ。腰を抱き、彼女の動きに合わせて自分でもゆっくりと腰を突き上げていく。
「深い、深いよぉ……」
うわごとのような彼女の声が耳から僕をとろけさせる。
椅子に深く腰掛け直し、僕らは向かい合った。お互い制服はちゃんと着たままだ。ぱっと見ただけではサキが僕の上に座っているようにしか見えない。でもそのスカートの下ではサキの下の口が僕自身をしっかりと咥え込んで、咀嚼するような蠕動を繰り返していた。
サキはスカートの端をめくり上げる。ずらされたパンツと濡れた陰毛と接合部が良く見える。僕とサキが繋がっている……。手を伸ばそうとするも、悪戯っぽくスカートを下ろされてしまった。
「上手く全部隠れたね」
サキは頬を染めながら、僕に向かって微笑んでくれた。
「でも、誰か入ってきたらって考えるとどきどきしちゃうね」
「え、鍵締めたんじゃないの?」
「ふふ、音鳴らしただけ。大丈夫、座ってるようにしか見えないよ」
サキは僕の頭を自分の胸元に抱き寄せた。制服越しでも分かる柔らかさと温かさ。彼女の匂い。今まで以上に強く甘く、僕の本能をくすぐる。
誰かに見られてもいい。サキの身体をもっと味わっていたい。
「私、頑張ってもっと綺麗になるね。もっと痩せて、おっぱいももっとおっきくなるように」
「いいよ、サキはサキのままでいい」
「でも、私太って」
「太って無い。少しぽっちゃりしてるくらいだよ、僕はこのくらいの方が好きだ。先週までのサキだって太ってるなんて思ったことなかったし」
「ほんと?」
「うん。このままでいい。だって今のままですっごく気持ちがいいんだから」
僕は彼女の腰に腕を回してしっかりと抱きしめる。肉感的で、包み込んでくれるような柔らかな抱き心地。ずっとこうしたいと思っていて、何度も想像していたけど、現実は想像よりもずっと良かった。
心臓が破裂しそうな程の興奮と、眠ってしまいそうな程の安堵が同時に存在していた。ついさっきまではただの友達だったのに、こうやっているのが当たり前のようにさえ感じてしまう。
「私ね、この身体になっちゃったとき最初は少し怖かったんだ。人間じゃ無くなっちゃったんだって分かって。
でも、怖さよりももっと強い気持ちがあったの」
サキはゆっくりと腰を振り始める。スカートの下で大切な部分が擦れ合う。濡れたサキの柔肉が僕に吸い付いてくる。彼女が腰を振る度に細やかな襞が竿にかりに絡み付き、搾り取ろうとでもするように波打ちながらぎゅうぎゅうと僕を締め付ける。
音さえ聞こえないけど、口の中でキャンディーを嘗め回しているみたいにあそこ越しに振動が伝わってくる。
「もっと、強い気持ち?」
「イズキ君と会いたいっていう気持ち。イズキ君に触りたいっていう気持ち。イズキ君に抱きしめられて、いちゃいちゃして、一緒に気持ち良くなりたいっていう気持ち。それから、ふふ、えっちして、イズキ君の精液を私の身体の中に欲しいっていう気持ち」
腰の動きはさらに激しくなる。僕はもう言葉を返せない。嵐のようにもたらされる官能から最後の一線を踏みとどまるのに精いっぱいだった。
もういつ出てもおかしくない。彼女の中に出してしまいたい。でも、このままもうしばらくサキの与えてくれる快楽の渦に沈んでいたい。彼女に密着して、声を聞いていたい。
「だから、我慢しないで出して?」
サキは僕の顎を指で持ち上げ、口づけしてくる。
僕は片腕で彼女の腰を深く抱き寄せ、それに応える。目がちかちかするほどの快楽。体の芯から熱が噴き上がり、尿道を突き抜けてスカートの中へと放出される。
サキを僕だけの色で染め上げたい。そんな爛れながらも心の底から出た気持ちを、精液という形で何度も何度も先の中に注ぎ込む。
痙攣する彼女の身体を無理矢理押さえつけるように抱きしめ、後頭部を押さえつけてさらに深く唇を貪る。
制服の衣擦れ音と熱っぽい息遣いが絡み合い、そしてやがて落ち着いて、ほどけて二つに戻っていく。
一抹の寂しさを残して、僕のあそこは鼓動を止めた。
サキの胸の中で、僕の頭は急激に冷め始めていた。
場の勢いに任せてとんでもない事をしてしまった。謝らなければと思っていたはずが、いつの間にかセックスして、あろうことか中に出してしまった……。
「あの、黒田さん」
「どうして呼び方を戻すの?」
「いや、その。ごめん。確認もせずに、中に出してしまって……」
「だからどうして謝るの?」
僕から少し上半身を離して、黒田さんは少し眉根を寄せて不機嫌そうな顔を見せる。
「イズキ君は私の事名前で呼びたくないって事? えっちもしたく無かったって事なの?」
「したかったけど、あんまりいきなりだったからさ。ごめんサキ」
まぁ、繋がりっぱなしで言っても説得力は無いか。
身体の芯に残る熱の疼き、彼女の包み込むような甘い刺激は、穏やかになったけれどもまだ続いている。
「じゃあ約束してくれる? そしたら許してあげる」
サキは僕の額に額を押し付けながら、悪戯っぽく笑った。
「この先一生、私としかえっちしないって」
「サキも僕としかしないって約束してくれるなら、いいよ」
「もちろんだよ。何ならイズキ君以外の人間に触られても何も感じない身体にしたっていいよ」
「そんな事出来るの?」
サキは唇に指を当てて少し考えてから、頷いた。
「あのお店なら、多分出来ると思う。今度一緒に行こうか。イズキ君も私じゃなくちゃ感じない身体にしちゃう?」
「ああ、そうしよっか」
「え?」
僕が笑って頷くと、意外にもサキは驚いて目を見開いた。
「色々な事へのお詫びの意味も込めて、僕がサキしか愛さないっていう事を証明するためにも、さ。……ちょ、なんで泣くのさ」
「だ、だって。なんか嬉しくって。私の人生で、好きな人からこんな事言ってもらえるなんて思ってなかったし」
僕はそれ以上何も言わず、彼女が泣きやむまでずっとただただサキの涙を拭き続けた。
「でも、この羽と尻尾は本物なんだね」
抱き合ったまま腰元に手を伸ばすと、人間にはありえない関節部分が指先に触れた。試しに羽と尻尾の付け根をまさぐってみると、サキは聞いたことも無いような甘い喘ぎ声を上げた。
「ひゃ、やめて。まだ生えたばかりで敏感なのぉ」
ちょっといじめてみようかな。なんていう僕の考えは既に読まれてしまっていたらしく、サキは僕の手を抑えながら立ち上がって僕の上から逃げ出してしまった。
納まるところを失った僕のあれが行き場を失って小さく震える。言い様の無い寂しさに少し肌寒くなるようだった。
「部屋の中、すごい匂いだよ。ちょっと換気しよっか」
サキは尻尾を振りながら窓側に寄り、窓を開ける。その途端に練習している野球部の声や、的外れな吹奏楽部の音だし練習が聞こえてきた。
ああそうだ、まだ学校に居たんだった。時計を見ると、授業が終わってからまだ30分も経っていなかった。放課後は、まだ長い。
立ち上がろうと机に手をつくと柔らかくて湿った物に指が引っかかった。ピンク色の布切れ。さっきまでサキが穿いていたパンツ……。いつの間に脱いだんだろう。
僕はそれを持ったまま、サキに後ろから近付いていく。
揺れる尻尾を捕まえて鼻先に近づける。サキの匂いが濃く、甘く香る。調子に乗って甘噛みすると、サキは喘ぎ声さえあげなかったが強く体を痙攣させた。
太腿からもねっとりと二人分の愛液が垂れ落ち始める。
「したかったら、羽も尻尾も引き千切れるくらい強くしてもいいよ」
「してほしいの?」
「……うん。いつもの教室で、いつもの夕日を二人で見ながら、イズキ君にちょっと乱暴に、されたい」
「外から見えちゃうよ?」
言いながらも、既に僕は彼女のスカートをたくし上げている。そして言わずもがな、僕の物は元気を取り戻していた。
「見えないよ。部活してる人も帰ってる人も、みんな自分の世界しか見えてない。誰も校舎の外れの教室なんて見上げないし、窓が開いて誰かが居たって、学校なんだから当たり前だって思うだけ。
誰も窓から顔出しながら堂々とえっちな事してるなんて思わない。ねぇ、だから私達も自分達の世界に溺れよう?」
「そうだね。溺れてしまおう」
部活の喧騒、木霊する金管楽器の音色、窓の正面の真っ赤な夕日。冗談めいたサキの科白回し。
郷愁さえ覚える程の見慣れた風景の中、僕はゆっくりと彼女の中に入っていった。
初めて交わった日から数日が経った。
時間が経ったこともあって、僕はサキについて色々と分かり始めていた。
客観的に見て、サキは外見は少し可愛くなったが、だからと言って本質までも変わったというわけでは無いようだった。クラスメイトとのやり取りも、部活での話し方も前までと似たような物だった。
クラスメイト達は別人のように可愛くなったと言うが、僕はそれを否定する。彼女はもともと可愛かったのだ。ただ髪型で隠れてしまっていただけ、少なくとも僕にとってはそうだった。
変わったとすれば、本人に聞こえる声でいろいろ言われても反応しなくなった事くらいだろうか。誉められるような言葉も、妬みや悪口にも一切関心を示していないようだった。
しかし僕と二人きりになった時だけは話は別だ。
いつもは人目を気にして魔法で消している角も羽もさらけ出し、室内だろうと屋外だろうと構う事無く僕を求めてくる。学校に居る間は常に人目があるためになかなか二人きりにはなれないが、毎日少なくとも昼休みと帰宅後のサキの部屋でだけは欠かさず肌を重ねるという生活だ。
そういう時のサキは確かに積極的なのだけれど、そんな時でもやっぱりその言葉や仕草はサキのもので、だから彼女が別人になってしまったという感じは全く無い。
僕としては初めての相手を一生のパートナーにしてしまったという事になるのだが、後悔は無かった。
その事をサキに告げると意外にも驚かれてしまった。初めての時に手際が良かったから初めてだとは思わなかったのだそうだ。
多分イメージトレーニングをたくさんしていたからだろう。でも、流石にそれは言えなかった。
明日はサキが行っているというエステサロンに行ってルーンとやらを入れてもらう予定だ。そうすると、もう自分の身体でもサキが触らなければ性感を感じなくなるらしい。名実ともに僕の身体がサキのものになるというわけだ。
それが終わったら、言ってもいいかもしれないけど……。いや、やっぱりやめておこう。少しくらい秘密があった方が、きっと彼女の心を捕えている事が出来るだろうから。
部活終わりで帰宅後の私の部屋。いつものように、私とイズキ君はお互いの服を脱がし合う。彼の手が当たるだけで体が疼く。待ちに待った二人だけの甘い時間。ルーンを入れて以来、彼と一緒の時間はかつて以上に魅力的な物になった。
少しずつ外気に晒される私の身体。あれから、私の身体はまた変化した。
細かった角は太く立派になり、翼や尻尾も逞しく丈夫になった。肌を覆っていた桃色の薄毛も落ちて、今では何の気兼ねも無く肌を出せる。
イズキ君はもふもふしていて可愛いと言ってくれていたけど、それはそれで嬉しいけど、私としては直に肌を重ねられなくてちょっと不満だったのだ。
「あン。まだ駄目だよ。全部脱がせてから」
おっぱいに顔を埋める彼の耳を、少しつねる。
今では彼も性欲を隠さなくなった。好きな人からストレートに欲望を向けられるというのは、正直言って嬉しい。魔物となったきっかけそのものの事もあって、こうしてくれるだけで顔がにやけてしまうくらいだ。
「ほら、ぼーっとしてないでサキも原稿用紙の準備しなきゃ」
そうだった。私は原稿用紙と筆記用具を鞄から出して、机の上に広げる。
魔物となった今も私は小説を書き続けていた。人間向けにはもちろん、今では魔物向けの小説も書いている。
甘い甘い恋愛小説は、委員長を初めとする魔物娘の先輩達にすこぶる評判が良かった。
いつの間にか話も大きくなって、今では『アビス』の関係者から原稿をお願いされる程になってしまっている。
もちろんとても嬉しいのだけど、反面失敗できないというプレッシャーは大きい。でも、それでもこんな風に彼に手伝ってもらいながら何とか乗り越える事が出来ていた。
机に両手を付いて、四つん這いで彼におしりを向ける。
「じゃ、始めようか」
「うん。来て……。あぅ、あ、ああんっ」
彼の逞しいものが私の中に荒々しく入ってくる。背中に覆い被さられ、肌が擦れる。それだけで達しそうになるのに、さらに左乳房が荒っぽく揉みしだかれ、乳首が捻られる。
脳裏に桃色の電流が走り、花の咲くようなイメージと、物語のシーンが浮かぶ。
「きっつぅ。サキ、ちょっと手を抜いてくれないとあんまり長くもたないよ。……サキ?」
「ふぁ? あ、うん」
「もう、明日が締切だからって涙目で頼んできたのはそっちでしょ?」
そうだった。『アビス』から頼まれている原稿が明日までなのだ。
最近はスランプ気味で、どうしても一人では書けなかったから今日はこうやって彼の力を借りる事にしたんだった。二人で交わっている時の方がいつもよりも頭の中に豊かなイメージが浮かぶから。
魔物になったせいなのかな。彼に触られているだけで気持ち良くなってまともに思考なんて出来ないはずなのに、筆は不思議と良く進む。
「あの、今日は親も魔法で誤魔化すから、一晩お願いね。……あとでちゃんとサービスするから」
彼の右手が私の右手と恋人繋ぎしたあと、私の手ごとペンを掴んだ。
「ま、僕はこうして居られるだけでも幸せだけど、してくれるんならサービスもしっかり頂こうかな。
それじゃ、タイトルは何にする?」
私は突き上げられながら、文字を刻み始める。
エステサロン『アビス』へようこそ。
「誰か、黒田の家に見舞いがてらプリントを渡しに行ってくれんか」
「あ、私住所分かるんで行きます」
「おおそうか。じゃあ頼んだぞ、委員長」
「えぇー、見舞いなんて別にいらないじゃん。それより俺達と一緒にカラオケ行こうぜ」
「いっその事俺達も一緒に行っちゃう?」
「病気の女の子のお見舞いに行くのに男子なんて邪魔なだけよ? さ、ホームルームが終わらないから男子は黙って黙って」
「えぇー。では、週末だからと言って羽目を外さないように。ホームルームはこれで終了。気を付けて帰れよ」
金曜の放課後という物はどこか浮ついている。
翌日からの二連休の予定を楽しみに浮き足立っていたり、ただ単純に授業の無い休みの日が嬉しかったり、一週間が終わった安心感でほっとしたり。
教室を見渡しているだけでもそれが良く分かる。
ホームルーム中に委員長にちょっかいを出していた元気系の男子グループは遅くまでカラオケにたむろしようなんて言う話をしているし、クラス公認と言っていいくらいおおっぴらに付き合っているカップルは明日のデートの計画をしている。他にも少し遠出をして買い物に行く話をしている女子グループやライブに行こうと話している男女混成組。中には他校との練習試合をするらしい運動部も居るが、週末の空気はやはり平日とは違う。
「委員長も大変だよねー」
「黒田さんなんて居るだけで暗くなってくるから別に来なくたって問題ないのにねー」
一番後ろの真ん中の席からは、クラス中の様子が良く見える。傍観者のように教室内を見下ろせるその席は、同時にクラスの中での存在感を薄れさせる。
僕はこの席が好きだった。
クラスと言う組み分け、教室と言う箱詰めの中から、少しだけでも離れる事が出来るような気がしたから。そしてそれ以上に、黒田さんの背中を見ていられたからだ。
「暗くなんて無いと思うけどなぁ。早く元気になって学校きてほしいじゃない。クラスの真ん中の席が空席っていうのも寂しいしさ」
教室の右前方では女子のグループが委員長に何やら話しかけていた。
よく言えばおしゃべり好き、悪く言えば姦しいグループで、はっきり言って僕は苦手だ。委員長も良く相手にしていると思う。
鞄の中から一冊の本を取り出していると、彼女達の声が一瞬止んだ。一瞬視線を感じたが、顔を上げた時にはもうそれも消えていた。
「まぁ暗い人は一人じゃないけどね」
「あいつも休んじゃっていいんじゃない?」
「みんな健康なのが一番でしょ。さ、私はそろそろ帰るから、みんなも帰んなよ?」
「さっすがいいんちょー。まっじめー」
「じゃあ駅前のマックでも行こうか」
「えー。スタバがいいよぉ」
「あたし今月ピンチなんだよねぇ」
煩い声たちが出て行くと、教室内は少し静かになった。
委員長はため息を一つついて席を立ち、黒田さんの机に近づいていく。机の中のプリント類を回収するのだろう。チャンスは今しかない。僕は鞄を持って立ち上がった。
「あら、イズキ君。どうしたの?」
艶やかな長い黒髪を耳元に払いのけながら、委員長は僕を見上げた。
「まさか一緒にお見舞いに行きたいの?」
委員長は冗談っぽくくすりと笑う。素直に可愛い人だと思う。もう相手が居るにも関わらず、それでも駄目元で告白する男子が絶えない理由も理解できた。
「そうしたいところだけど、流石に弱った女の子の家にお邪魔しようとするほど僕も厚かましくは無いよ」
「あら、残念」
「僕も残念だよ。だから僕が行けない代わりに、黒田さんにこの本を渡してくれないか?」
あらかじめ鞄から出しておいた文庫本を手渡す。表紙にお城の絵が描かれた、有名なタイトルの本だ。委員長は手に取ってしげしげと眺めたのち、首を傾げる。
「渡せばいいの?」
「ああ。頼む」
委員長はふーんと目を細めて笑った。
「分かった、任せといて。他に何か言っとくこととかある?」
「特に……。いや、部活の後輩が寂しがっていたって伝えてくれ」
「分かった。イズキ君が早く顔見たいって言ってたって伝えとくね」
「お、おい委員長」
委員長は悪戯っぽく笑って、自分の鞄にプリントの束と文庫本を突っ込むと僕の制止も聞かずに駆け足で教室を出て行ってしまった。
僕は呆然としながらその背中を見送った後、息を吐いて頭を掻いた。
原因は三日前の、火曜日の体育の授業だろう。
食事の後の、気怠い午後の時間。食休みに惰眠を要求する肉体に鞭打って、僕達男子は校庭のランニングを行っていた。体力測定兼、学校行事の強歩大会へ向けての体力づくりと言う奴だった。
運動部の連中がだべりながら余裕を持って走る中、僕は息を切らして最後尾に何とか付いて行っていた。文科系の連中は軒並み遅れていたのだが、その中でも僕はダントツだった。
人間、誰でも暇になると無駄話をするらしい。走るのに必死だった僕は自分の乱れた鼓動と呼吸音でほとんど会話内容は聞き取れて居なかったが、クラスメイト達はどうやらクラスの女子で誰が一番可愛いとか、エッチするなら誰とだとか話していたらしい。
一番人気は委員長らしい事は何となく伝わってきて、それから話は委員長が処女かどうかで盛り上がっていたようだ。
そう言う話が苦手な僕にとってはどうでもいい事だった。と言うか走るので精一杯でそれどころでは無かったのだ。
他のみんなも特に本気になって話していたわけでは無い。ただの暇つぶしの雑談だった。まぁ約一名、本気で委員長に惚れてるらしい奴がひどく動揺していたが。
ともかく、そこまではどこにでもある思春期の男子にありがちな猥談だった。
事態が変わったのは授業が終わった後の更衣室での事だった。
誰かが着替えながら言ったのだ。
「なぁ、ヤリたい女子は分かったけどさ、逆に絶対無理って奴居る?」
その時点で嫌な予感はしていた。そしてそう言うのは大概当たってしまうのだ。周りからくすくすという笑い声が聞こえ始め、僕の予感は確信に変わった。
「聞くまでも無いだろ」
「まぁあいつはねぇ。みんな無理だろ」
「あいつって誰?」
「分かってんのに聞くなよ。黒田だろ」
「えぇ? 気付かなかったなぁ」
「嘘だって分かりやす過ぎんだろ」
それは多分ランニング中の悪ふざけの延長だったのだろう。だが僕にとっては彼らの言葉は到底許せるものでは無かった。
でも僕は止めろと叫ぶことも、薄ら笑いを浮かべるそいつらを殴ることも出来なかった。そうしたかったけど、そんな事をしても問題が大きくなるだけだと思ってしまったから。
手足や胸の奥が急に冷え込むのを感じながら、ただ歯を食いしばって拳を握りしめているしか出来なかった。
「暗くて何考えてるかわかんねーし、ぜってー不感症だよ」
「顔色悪いし頭にワカメ乗せてるし、水死体みたいで不気味なんだよなぁ」
「だっさい眼鏡かけてるしな。なんか魚みてーじゃね。いや、魚っつーか虫かなぁ」
「やってるとき変な声出しそーじゃね? あとあいつ肉付き過ぎ」
「ああわかるわかる。あとさ、なんつーか、その」
「臭そう?」
鼓膜が痺れるような大爆笑が小さな更衣室の中に反響した。
息が苦しくて、胸が痛くてたまらなかった。だけどそれでも僕は何もしなかったのだ。何かをしていれば、黒田さんは学校に来なくなることも無かったのかもしれないのに。
「イズキもそう思うだろ?」
心臓が凍りついたようだった。頭に血が上り過ぎていて、目の前のものしか見えなかった。
「聞こえてたろ? なぁイズキはどう思う」
耳障りな小さな笑い声。心臓はまだランニング中みたいにばくばくとうるさく鳴り続けていた。
僕は自分を落ち着けるために震える呼吸を繰り返した。そのままでは何をしでかすか自分でも分からなかった。顔を見た途端に殴り掛かってしまいそうだった。
手は出さない。落ち着いて、冷静に彼らを諫める。そのつもりだったのだが。
僕が彼等男子グループを振り返るのと同時に、隣の女子更衣室の扉が激しく開く音が聞こえた。
「黒田さん!」と言う委員長の声に、男子も流石に笑う事を止めた。
男子更衣室の空気も一気に冷え込み、それでようやく皆も気まずそうに顔をしかめ始めたのだった。
結局黒田さんはそのあとの授業には出なかった。
だから図書委員の仕事の為に放課後に図書館に行った時も、きっと黒田さんは来ないだろうと思っていた。でも彼女は青い顔で俯きながらも図書館までちゃんとやって来た。
僕は何とか黒田さんを元気づけようと彼女に話しかけようとしたのだが、その日は何を話しても会話が続かなかった。いつもだったら盛り上がる小説や漫画、アニメの話でも、かすれ声の生返事が返ってくるだけだった。
本当は更衣室での話をフォローしたかった。少なくとも僕は黒田さんの事を可愛いと思っているし、異性として意識していた。委員会や部活で隣に座った時にほのかに彼女の匂いを感じてしまった日には、そのままでは興奮して眠る事も出来ないくらいだ。
だがそんな事を本人に言ってなんになるだろう。僕は黒田さんの匂いはいい匂いだと思うし、女として意識していて抱きたいと思っているなんて、その場で言っても彼女を余計に傷つけてしまうだけだ。
肝心な事は何も言えぬまま長い長い放課後が終わり、僕達は最後に返却本を棚に返す仕事をしていた。
何も言えなくて悪かったと、帰りにせめて謝ろう。僕はそう考え、自分の分の片づけを早々と終えてカウンターで黒田さんを待った。ところが二十分も三十分も経っても黒田さんは戻って来ない。
気になって探しに行くと、黒田さんは足場の上に立って、虚ろな目で一番上の棚の本をただぼんやりと眺め続けていた。
「どうしたの?」
突然の声に驚いたんだろう。黒田さんは台の上でバランスを崩して僕の方に倒れ込んできた。
そして情けない事に、僕は彼女の身体を支えきれずに一緒に倒れてしまったのだ。幸い僕の身体で受け止めきれたので彼女の身体に怪我は無かったのだが、それがより彼女を傷つける事になってしまった。
「いたた。黒田さん大丈夫?」
「……ごめんイズキ君。私の身体、重かったよね」
「ち、違うよ。これは僕の腕力が無かったからだ。黒田さんが謝る事は」
「ごめん。ごめんね。私臭いよね。ごめんね、すぐに離れるから」
立ち上がった黒田さんの身体から、何かが垂れて僕の手のひらで弾けた。水滴。それが涙だと理解したときには、黒田さんはもう逃げるように図書館を出て行ってしまっていた。
翌日から黒田さんは学校を休み始めた。
男子達の気まずさは一日も持たなかった。女子の大半が責めようともせず何も言わなかったのも理由の一つだろう、翌日には何事も無かったかのように元の状態に戻ってしまった。変わったのは、黒田さんの席が空席になってしまったことだけだった。
「先輩。イズキ先輩」
僕ははっとなって読んでいた本から顔を上げた。活字を目で追ってはいたものの、内容は一文字も頭に入っていなかった。
あれ以来、事あるごとに火曜日の五時限目と放課後の事を思い出してしまうようになった。今は文芸部の部室で本を読んでいただけだったから良かったが、これが授業中や図書委員の仕事中だったら先生に怒られていたところだ。
「ごめん、ぼけっとしてた」
一年女子の後輩は口をへの字に曲げ、軽く僕を睨んで見せる。
「もう。まぁいいですけど。ところでサキ先輩はまだお休み中なんですか?」
「あ、ああ。黒田さんはまだ具合が良くならないみたいで……」
「そうなんですか。来週には来てくれるといいなぁ。私、サキ先輩の恋愛小説大好きなんですよ。生きる糧だと言ってもいいです」
ぐっと拳を握りしめる彼女。手首を飾るサンゴのブレスレットがからりと音を立てた。
ちなみに我々文芸部は三年生が女子二人、二年生が僕と黒田さんの二人、一年生がこの子一人と存続ぎりぎりの人数だった。
しかも一年生のこの娘。自分ではあまり文章を書くことは無く、もっぱら読み専。特に恋愛小説を何より好む変わった子だった。しかしページ数にさえ貢献しないものの、彼女のムードメーカーとしての役回りは今や文芸部には欠かせないものになっていた。
「スランプの時期には姫子ちゃんを見ているだけで癒される」とは先輩の弁だ。
今になって思えば、あの日もし図書委員の仕事が無く部室に来られていたら、あるいは黒田さんも……。
「ちょっとぉ。ノーリアクションですか?」
「なぁ姫子、お前黒田さんのところにお見舞いに行って元気づけてやってくれないか?」
姫子はきょとんとした後、ぶんぶんと元気に首を横に振った。
「駄目ですよ。うるさい私が行ったら良くなるものも良くなりませんよ。行きたいのはやまやまですけど……。先輩こそお見舞いに行けばいいじゃないですか」
それが出来たら苦労はしない。思わず苦笑いしてしまった。
「男の僕が女の子の部屋に、まして元気の無い女の子の部屋に入るわけにはいかないよ」
「それもそうかぁ」
姫子はぐでん、と両腕を机の上に投げ出して突っ伏した。
机の上はもう夕日で赤く染まっている。部室の壁に伸びる僕と姫子の二つの影。いつも黒田さんの影が伸びているはずの部分は、今はただ赤く染め上げられているだけだった。
委員長。ちゃんと本渡してくれたかな。
***
学校なんてサボった事は無かったけど、やってしまえば案外簡単な事だった。
朝は普通に制服を着て、母さんの作った朝ごはんを食べて家を出る。そのあと隣町のコンビニのトイレで私服に着替えて時間を潰して、両親が仕事に出かけた頃に家に戻る。服の詰め替えも体操服を入れているバッグを使えば誰からも怪しまれなかった。
両親は仕事から帰ってくるのも遅いから、早々と家に居ても気付かれるという事は無かった。
学校には体調が悪いと連絡している。一週間くらいなら性質の悪い風邪を引いたという事で何とか出来る。
でも流石にこれ以上休んだら学校も親に連絡するかもしれないし、親だって何か気が付き始めるだろう。
三日も休んでしまった。サボるのは簡単だったけど、罪悪感もやっぱりある。家に居てもすることが無いし、嫌な事ばかり考えてしまう。明日明後日は土日だから少し気分も軽いけれど、月曜の事を考えると気が重い。
学校、流石に行かないとまずいよね。でも……。
学校に行かなければならないと思う程に火曜日の更衣室での事を思い出してしまって、涙が出てしまう。
男の子たちは絶対にえっちな事をしたくない女の子として、私の名前を上げた。無理だとさえ言っていた。
聞こえていた女子たちもみんな笑いながら、ああやっぱり、みたいな目で私を見ていた。
暗くて、太っていて、おまけに臭い。そんな風に思われている事くらい大体分かっていたけど、理解しているのと実際言われて笑われるのは全然違った。
私だって、ただ笑われるだけだったら耐えられた。でも、男子達はあろうことかイズキ君に同意を求めたのだ。
彼の答えだけは聞きたく無くて、私は更衣室から逃げ出した。
私の話を変な顔一つせずにちゃんと聞いてくれるイズキ君。他の男子みたいに薄ら笑いを浮かべたり、からかったり、揚げ足を取る事は絶対にせず、何の話でも真剣に耳を傾けてくれる、私の数少ない大切な友達。
ううん。本当の気持ちとしては、彼には友情以上の気持ちを持ってしまっている。
そんな彼の言葉を聞きたくなかった。もし彼が他の男子と同じように、私に異性として悪い印象しか持っていなかったら。いくら仲が良くても女としては見られないなんて事が分かったら、もう私は生きていけない。
保健室の先生は私の顔色を見るなりベッドで休ませてくれた。
すぐに帰るようにと言われたけれど、図書委員の仕事を思い出した私はふらふらしながらも図書館に行ってしまった。
仕事をすっぽかしてイズキ君に嫌われたくなかったから。でも、今思えば帰ってしまった方が良かったかもしれない。
本棚の整理中に踏み台から落ちて、イズキ君に迷惑をかけてしまうくらいなら、帰ってしまった方が良かった。
あの時のイズキ君のすごく痛そうな顔。きっといつまでも忘れられないだろう。
分かってる。イズキ君だって男の子なんだから、きっと私みたいな暗くて太った女の子よりも委員長みたいに明るくて可愛くて胸もある女の子の方が好きに決まっている。
髪は上手くまとまってくれない癖っ毛だし、身体だって贅肉だらけで、肌にも自信が無い。それに自分では気が付いていないだけで、すごく臭いのかもしれない。
あまり慣れない人の前では上手く喋れないし、慣れてる人が相手でもよく噛むし。おまけにどんくさくって何をしても失敗ばかりだし……。
こんなんじゃ、同性から笑われるのも当たり前だ。異性からも好かれるわけが無い。
なんだか鈍い頭痛がした。熱は無いのに、なんだか寒い。少し吐き気もする。
このまま、痩せるまでずっと休んでいようかなぁ。
でも、痩せられる保証なんて無い。このまま引きこもりになってしまうかもしれない。そうしたら今よりもっと太って、どこにも出て行かれなくなって、誰からも忘れられてしまうかもしれない。
やだ。そんなのやだよ。
でも、学校に行くのも……。
考えるのも嫌になり、ベッドに身を横たえる。
このまま寝てしまおう。チャイムの音が鳴ったのは、ちょうど私が目を閉じた時だった。
慌てて眼鏡を掛けて最低限の衣服を整える。
誰が来たんだろう。正直恐怖しかない。親が帰ってくる時間には早いし、親だったら鍵を持っているはず。宅配便の人か、近所の人か。どちらにしてもあまり出たくない。
恐る恐るドアホンを覗き込むと、玄関の前にはクラスの委員長が立っていた。
『黒田さーん。プリント届けに来たよー』
どうしよう。居留守してしまおうか。寝ていたことにすれば、気が付かなかったで済ませられる。
『あとイズキ君からの言伝も預かって来たんだけど。どうしよ、寝てるのかなぁ』
イズキ君からの、言伝?
どうしよう。委員長、ポストの位置を確認し始めちゃった。プリントだけ置いて帰っちゃうかもしれない。
『あれ、黒田さん?』
委員長が顔を上げ、カメラの方を見る。
しまった。応答ボタン押しちゃってる。
「あ、ああああのっ」
『黒田さん聞こえてる?』
「い、委員長。わ、わざわざ来てくれたんだ。ごめんなさい出るのが遅くなっちゃって。どうぞ、上がって」
返事をしてしまったらもう開けないわけにはいかない。私は重い指で開錠のボタンを押した。
鍵の外れる音に続いて、廊下の向こうから扉が開く音が聞こえてきた。
委員長を部屋に通して、とりあえずクッションを敷いて座るように勧めた。
それから台所でグラスを二つ用意して、冷蔵庫の烏龍茶を注ぎ入れる。お茶菓子の場所はお母さんじゃないと分からないので、仕方ないからお盆に烏龍茶の入ったグラスだけ載せて部屋に戻った。
委員長はクッションの上に女の子座りして私の部屋の中を物珍しげに見回していた。と言っても、あまり見るべきものなんて無い。他の女の子の部屋と違ってぬいぐるみとかも無いし、ポスターとかも特に張っていないし、家具も女の子にしては地味な色合いのものが多い。
可愛い部屋は目指してみたこともあったけど、ぬいぐるみやポスターは目が気になって眠れなくなってしまって、それ以来諦めてしまった。
「あああの。お、お茶……」
「ありがと」
委員長はにっこり笑って、両手でグラスを持って唇をつける。ピンク色のぷるぷるした唇。
何となく、お茶を飲む委員長の姿をじっくりと見てしまう。肌理細やかな肌、どんぐりみたいにくりくりした丸い目、長いまつ毛、形のいい眉、すっきりした鼻筋、そして顔立ちを引き立たせる程度のナチュラルメイク。
背中まで伸びている絹のような黒髪。制服の裾から覗く白い手足。
女の私から見ても、完璧だ。月とすっぽん。私の中で月みたいなのは体型と眼鏡の形だけだ。
「黒田さんって恋愛小説が好きなんだ」
「ふぇえ? どど、どうして?」
「本棚に並んでいるの、そう言う本が多いじゃない? いいよね、恋愛小説。私も好き」
可愛い上に、こういう風に良く気が付く。
「黒田さん文芸部だよね。もしかして書いたりもするの?」
真直ぐ見つめられて、どうしていいか分からなくなって、私は目を泳がせた後小さく頷いた。
「……そそ、その、えっと、たたたしなむ、程度に」
「もしかして、先月の『十六夜』に乗ってた『鳴けない鈴虫の恋』って黒田さんが書いたの?」
『十六夜』と言うのは同人誌、文芸部で隔月で出している作品集の事だ。部員で作品を出し合って、数十部印刷してホッチキスで簡単に製本して昇降口なんかに置いておく。文芸部の活動の一つだ。
でも、それをまさか委員長が読んでいるなんて……。顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かった。体が熱い。どうしよう、仮にあてずっぽうで言われたにしても、これじゃあ丸分かりだ。
地味で暗くて、いつもクラスの中でも居るのか居ないのか分からないような、恋人どころか友達だって少ない私が恋愛小説なんて書いてるなんてばれたら気持ち悪いと思われるに決まっている。妄想ばかりして、妄想に逃げているんだって思われるに決まってる。
「ああああれは、そ、その、誰が書いたかは部員でも分からないの。ひ、一人で名前を使い分けて、いくつも書いてる先輩も居るし」
委員長の顔をまともに見られない。
「じゃあ、今度部活の時に部員の皆さんに言っておいて。『黒薔薇』さんのファンが、いつも恋愛小説を楽しみにしてるって。次回作にも期待しているって伝えて」
黒薔薇。私のペンネームだ。あの委員長が、私の小説を読んでいて、おまけに次回作を楽しみにしていてくれている。
眼鏡が曇る。顔がにやけてしまって余計に顔を上げられなくなってしまった。委員長に認めてもらえた気がして、なんだかとても嬉しかった。
「わ、分かった。伝えておくね。きっと本人も凄く喜んでる、と思う。……あ、誰だかは分からないけど」
「そうだよね。部員全員居る前ならきっと伝わるだろうし、お願いね」
委員長はきっと気が付いているだろう。私に合わせてくれているんだ。恥ずかしがっている私に気を使って、気が付かないふりをしてくれてるんだ。
「そうだ。文芸部で思い出したよ、イズキ君から預かりものがあったんだった」
預かりもの。何だろうか、イズキ君からというだけで妙に緊張する。数日前まではこんな事は無かったのに、変に意識しちゃってる。
委員長が鞄から取り出したのは一冊の本だった。一目見て何の本か分かった。手が震えそうになるのを堪えながら、私はそれを受け取る。
『注文の多い料理店』。イズキ君、私の話覚えててくれたんだ。
「でも、なんでこの本なんだろうねぇ。賢治だったら『銀河鉄道の夜』とか詩集とか他にもいっぱいあるのに。……もしかして、二人にしか分からないメッセージだとか」
「ふえぇ?」
思わず変な声が出てしまった。
「え、えっと、その。なんていうか。……前にイズキ君に話したことがあったの。このお話を読むとなんだか元気が湧いてくるんだって。
子どもの頃の事を思い出すからかもしれない。自分でも不思議なんだけど、気分が晴れるっていうか」
委員長の言う通り、宮沢賢治には他にも名作はいくらでもある。でも、幼いころの私はなぜかこの話に強く惹かれていて、事あるごとに何度も読み返していた。
今でも気持ちが沈んだ時にはぱらぱらとめくったりする。そして読んでいるうちに、いつの間にか子どものときみたいな単純な気持ちに戻ってしまう。
イズキ君にもこの話をしたことがあった。いつだったのか自分でも覚えていないけれど、彼は多分それを覚えていたから委員長にこの本を渡したんだろう。
嬉しかった。彼の気遣いが心に染み入って来るみたいで。
「なんかいいよね、そう言うのちょっと憧れちゃうかも。
ごめん、水を差すようで悪いんだけど。これ、休んでた間のプリント」
机の上にプリントの束が置かれる。それはまさに『どさっ』という効果音が似合いそうな程の、結構な量だった。見ているだけで気が滅入ってしまう。
「日本史とかの資料が多いから、見た目ほど課題とかは無いよ? 数学は来週から難しいところに入るらしいけど……。でも、思ったより元気そうで良かった。その様子なら来週には来られそうだね」
その言葉を聞いて私ははっとする。格好こそスウェットだったけど、私は委員長の前で元気に歩き回って、お茶すら用意してしまった。とても病人のする事じゃない。
でも……来週学校に行けるのかと言われると……。
「あの、ごめんなさい。私まだ学校には行けそうにない」
「そっか、まだ良くなってないんだね。ごめん、それなのに私」
違う。謝らなければならないのは私の方だ。病気だと思って折角届け物に来てくれている委員長に、嘘まで吐いてしまっているのだから。
「私が居たら休めないよね。じゃあ私はこれで」
「違うの」
腰を上げかける委員長に、私は俯きながら声をかけてしまっていた。
私は握りしめた自分の拳に目を落とす。まともに顔を見返す事も出来なかったけど、嘘をつきたくなかった。
委員長はクッションに座り直す。さっきと違って正座して、膝をこちらに向けていた。
「本当は、病気なんかじゃないの」
「黒田さんが何の理由も無く学校をさぼるとは思えないんだけど、良かったら話を聞かせてくれる? もちろん誰にも言わないし、何を言われても笑ったりしないから」
自分の浅ましさを他人に晒していいものか、迷った私はすぐに声を出せなかった。
でも、委員長はわざわざ家まで届け物をしてくれたくらいだし、何より火曜日も更衣室でただ一人私を気遣ってくれた人だ。彼女だったら、私の話をちゃんと聞いてくれるかもしれない。
「あ、あの、火曜日の体育の授業、覚えてる?」
「覚えてるよ」
委員長は、特に驚いた様子も無かった。
「わ、私も内心では分かってた。わ、私は、見た目も良くないし、暗いし。でも、実際に男子や女子からも笑われて、また笑われるかもって思うと、私……」
「あんなのただの言いがかりだよ。私は黒田さんの事太ってるとは思わない。ちょっとぽっちゃりしてるけど、女の子はそのくらいの方が可愛いし、匂いだって全然しないよ。話をしていたって真剣に返事を返してくれてるの伝わってくるし。
そう言うところ、他にもイズキ君だって分かっていると思うよ。黒田さんの事気遣ってるから、こうやって本とか」
「だ、だから余計に怖いの。私と一緒にイズキ君まで、その、変な事言われてしまいそうで……」
イズキ君には会いたい。会ってお礼を言いたい。でも駄目だ。私がイズキ君に何か言ったら、イズキ君まで変な事を言われるかもしれない。
「黒田さん」
「い、委員長には分からないよ。わわ、私なんかより、すごく綺麗だし、心も強いし。誉められても、けなされる事なんて無いだろうし」
「優等生って、そんなにいいもんじゃないよ? 私だって色々言われて平気ってわけでもないし」
委員長はため息交じりに言った。
何を言っているんだろう私は。委員長が女子たちから裏で何を言われているのか知らないわけじゃ無いのに、男子から下品な冗談を言われて困っているのを知っているのに。
「ご、ごめんなさい。……でも」
それでも胸の中の薄暗い感情は消えなかった。羨ましい。綺麗な委員長が羨ましい。きっと委員長みたいに綺麗になれば誰に告白しても喜んで受け入れてもらえるだろう。今の私が好きだと伝えてもそうはいかない。相手から気持ち悪いと思われ、迷惑がられてしまうかもしれない。仮に受け入れてくれても、周りから変な噂を立てられてしまう。
彼に拒絶されるくらいなら、嫌な思いをさせるくらいなら、何もしない方がいい。そんな事は分かっているけれど、分かっているからって受け入れられるわけじゃ無い。
胸の奥から言葉が絞り出されていく。自分でも止められなかった。
「委員長が羨ましい。委員長みたいに綺麗になりたい。……私、このままじゃ好きな人に想いも伝えられないよ」
もちろん綺麗になるだけじゃ駄目だって分かってる。外見が幾ら良くなったって、性格が変わらなければ暗いって馬鹿にされる。でもそれでも私は眩しいものに手を伸ばしたかった。
想いを小説にするだけじゃなくて、ちゃんと現実にしたい。イズキ君に想いを伝えたい。
「……結構大変だよ。男子はしょっちゅうえっちな冗談言ってくるし、女子だって裏で陰口言ってるみたいだし。もてはやされはしても、誰も本音なんて言ってくれないし。
でも、それでもいいなら、方法が無い事も無いよ」
思わぬ言葉に、私は顔を上げた。
委員長はこちらに向かって微笑んでいた。その瞳の奥に妖しげな紫色の炎が見えた気がしたのは私の気のせいだろうか。それとも……。
「もう元の自分には戻れなくなっちゃうかもしれないけど、それでもいいならこのお店に行ってみて」
委員長は財布の中から一枚のチケットを取り出して私の目の前に差し出した。
薄紫色の細長い紙の上にはデフォルメされた天使と悪魔のイラストと、ピンク色の文字で店名が書かれていた。エステサロン『アビス』。
「私がこうなるきっかけを与えてくれたお店。人生変わるよ」
アビス。深淵、奈落の底。
妖しげな名前とは裏腹にポップなデザインのそのチケットは、いつの間にか私の手の中にしっかり納まっていた。
翌日。私は早速エステサロン『アビス』に向かった。
委員長があんまりに大仰な事を言う物だから、きっと相当大きくて目立つような店だと思ったけれど、意外にもそのお店は駅前商店街の一角、通い慣れているはずの通学路の途中にあった。
店舗自体は雑居ビルの三階にあって、確かに通学中に目に着かない場所ではあるけれど、まさかこんな見知った道の途中にあるなんて想像もしていなかった。
細い階段を上っていく。二階には下品な名前の風俗店が入っていた。少し不安になりつつも無視して三階に向かう。
階段を上ってすぐに見えたのはエレベーターの入り口と『アビス』の立て看板だった。私は鞄からチケットを取り出す。何だか緊張してきた。エステに来るなんて初めてだ。
でも、委員長だってここに来て綺麗になったんだからきっと大丈夫。胸元でチケットを握りしめながら、私は自動ドアの前に立った。
「いらっしゃいませ」
傷や汚れ一つないカウンター。その向こうから、物凄く綺麗なお姉さんが頭を下げてきてくれる。エステティックサロンの受付を務めているだけあって、テレビに出てくる女優さんみたいに綺麗な人だ。
「ようこそエステティックサロン『アビス』へ。お客様は初めての方ですね」
「ふぁっ。えええっと、はい。はは初めてです。あの、これ、使えますか」
真直ぐに見つめられると、女の私でもドキマギとしてしまった。緊張しすぎて舌が全然回らない。
「ご紹介ですね。承知いたしました。では本日は無料でサービスさせていただきます。それではこちらからコースをお選びください」
受付のお姉さんはカウンターの上を示しながら柔らかく微笑んでくれる。
カウンターの上には店内で提供されているらしいコースの一覧が置かれていて、ぱっと見ただけでもかなりたくさんのコースがあった。
オーソドックスな美しさをあなたに。スタンダードコース。
野性的な魅力で男性もいちころ。ビーストコース。
神秘の国ジパングの魅力を。和コース。
誰もが憧れる永遠の美しさ。ノスフェラトゥコース。
人生そのものを変える程の衝撃。ダークスライムコース。
蛇のように男性を掴んで離さない。リチュアルコース(要予約)。
リリム店長の気まぐれ。スペシャルコース。
一覧の端の方には男性向けのコースも書かれていた。どうやらメンズエステも兼ねているらしい。
各コースの中にも細かなオプションの違いがあるらしく、色々と説明書きが書かれているが私にはなんだか良く分からなかった。
「全てのコースを無料でご利用いただけます。ただ申し訳ございませんが、リチュアルコースは事前準備が必要なため本日はサービスさせていただくことが出来ません。またスペシャルコースも、本日は店長が不在の為ご利用いただくことが出来ません。もしそちらのコースをご希望でしたら、予約の後、再度ご来店していただくことになってしまいます。もちろん料金は掛かりませんが、いかがいたしましょうか」
「ええええっと、じゃじゃあこのスタンダードコースで」
受付のお姉さんはにこやかにほほ笑んで頷いた。
「オプションはいかがいたしましょうか」
適当に一番敷居の低そうなスタンダードを選んでみたものの、オプションと言われてもこういうところが初めての私には良く分からなかった。
「強い女性になって自ら男性を捕まえたいような方にはアマゾネスオプションをお勧めしています。逆に大きな包容力で男性を癒したいような方にはプリーストオプションがいいでしょう。最近人気なのは……」
「あああの、私は、その、ただ単純に、少し綺麗になりたくて、その」
「まずは当店のサービスをお試しになりつつお綺麗になりたいのであれば、ノーマルがよろしいでしょう。徹底的にサービスを行うスイートオプションもございますが」
「のの、ノーマルでお願いします」
綺麗になりたいけれど、あんまり過激な事をされるのも怖い。
「承知いたしました。ではあちらへお進みください」
と、とうとう始まるんだ。
受付のお姉さんに見送られ、がちがちに固まりながら私は示された扉をくぐった。
狭い廊下の先にあったのは小さな浴室だった。脱衣所の先にはさらに奥へ向かうための扉もあるが、ここでシャワーを浴びていけという事なのだろうか。
『まずはリラックスして頂くために、シャワーを浴びていただきます。またマッサージの効果を上げるため、出来るだけ綺麗に体を洗っていただけますようお願いいたします。
よろしければ湯船にお浸かりになっていただいても構いません』
天井のスピーカーから受付のお姉さんの声が降ってくる。
私は言われるままに脱衣籠に荷物を置き、衣服を脱いで浴室に入る。
ピンク色のタイル張りの浴室。同色の湯船には既にたっぷりとお湯が溜められている。
蛇口をひねると、温かなシャワーが肌を叩いた。気のせいだろうか、なんだかちょっととろっとしていて肌に絡み付いてくるような感じがした。
ボディソープを手に取って泡立てる。途端に嗅いだことの無い甘い匂いが立ち昇り、私は一瞬くらっとしてしまった。
いい匂い。身体から余計な力が抜けていくみたい。今まで気にしてなかったけど、香りのもたらすリラクゼーション効果は馬鹿に出来ないんだなぁ。
念入りに体を洗い、シャワーで洗い流してから湯船の中にゆっくり身を沈める。
あったかい。
手足の先からじんわりとしみこんでくる暖かさが、初めての緊張感や不安感を溶かしていくようだった。ぽかぽかとしてとても気持ちが良い。
試しに腕をさすってみる。とろりとした湯水のおかげか、いつもよりすべすべとしていた。このお湯自体も普通の水では無くて美容効果のある物を使っているのだろう、匂いもほのかに甘かった。
ずっと浸かっていたかったけど、そういうわけにもいかない。名残惜しさを感じつつも、私は立ち上がって脱衣所に戻った。
『タオルでお体をお拭きになって下さい。特製のハニーミルクローションを用意しておりますので、お付けになっていただいても構いません。
準備ができましたら裸のまま、バスローブを身に着けてお進みください。お荷物はそのままで大丈夫です』
洗面台の前で体を拭いていると、クリーム色の小瓶が目に付いた。
ハニーミルクローション。美容液のような物だろうか。蓋を開けて傾けると、黄金色の輝きを帯びた乳白色の液体がこぼれ出てくる。
砂糖菓子のような甘い匂い。
『全身にぬっていただいて構いませんよ』
私はそれを両手に広げ、顔に、首に、胸に塗りつける。そして途中から自分でも良く分からなくなりながら、腋の下や股の間にまで塗り付けてしまっていた。
「あれ、私……」
『それではバスローブを身に着けてお進みください』
ああそうだ。進まなきゃ。
でもなんかこれ、あのお話に似ているなぁ。お風呂に入れられて、身体に何かを塗りたくられて、その先は、どうなるんだったっけ。食べられちゃうんだっけ?
進んだ先は小さな部屋になっていた。中央にはピンクのベッドが置かれていて、ベッドに沿うように二人の女の人が立っている。
二人とも受付の人に負けないくらいに綺麗で、モデルみたいな体型をしていた。
頭には二本の角、腰には翼と尻尾と言う小悪魔っぽいコスプレはお店のモチーフを生かしての事だろうか。ちょっと変わっているけど、この二人には良く似合っていた。
「いらっしゃいませ。これより美容マッサージをさせていただきます」
部屋にはベッド以外にも観葉植物が置かれて居たり、お香が焚かれていたりしていた。
部屋に入った瞬間、頭の中がふわふわとしてくる。エステはリラクゼーションも兼ねているっていうし、きっとアロマテラピーの効果のあるお香なんだろう。
「じゃあバスローブを脱いで、ベッドの上にうつぶせになってね。あとお顔もマッサージするから、眼鏡も預かりますね」
私は何も考えずにバスローブを脱いだ。
着ていたバスローブと眼鏡を受け取ったスタッフの一人が歓声を上げる。
「わぁ、お客様のお肌、白くておもちみたいにすべすべ。羨ましいなぁ」
「あぅ……」
おもちみたい、かぁ。確かにお腹のお肉もつまめちゃうしなぁ。
「おっぱいも大きいし、何か思い出しちゃうなぁ地元のオーク…」
「オーク?」
「私達の地元にはオーク、つまり樫で出来たとても美しい女神像があるのです。お客様がそれに似ていたのですよ。さ、うつぶせに寝てください」
片方の女性がフランクにしゃべりかけてきてくれるのに対して、もう片方の女性はあくまでも冷静に私を導いてくれた。
多分お客のリラックスとコースの進行を考えたスタッフ配置なんだろう。
何だか誤魔化されている気もしたが、私はそれ以上追及せずにベッドに横になった。
「では始めますね」
背中に暖かくてとろとろした物がかけられる。そしてそれが四つの手によって、背中に、脚に、腕に伸ばされていく。
「あっ」
「私達の地元の天然水です。余計な物を塗り込むよりも、こうして自然のものを使った方が肌にはいいんですよ。シャワーにも使っていますが、こちらはマッサージ用の特に質の高いお水です」
お姉さんたちの手に触れられる度に体が熱を持って疼いた。指先を触れられただけで、電気が走ったみたいな痺れるような気持ち良さが私の皮膚の上を駆け抜ける。
「何しろウンディーネが管理してる泉の水だからね」
「ウン、ディーネ?」
天然水とやらが全身に塗られると、今度は揉み解すような動きに変わった。
「ひぁっ」
身体がとろけてしまうような感触に、思わず声が漏れてしまう。自分の力では止められそうになかった。
指先が、手のひらが動くたびに体がバターみたいに溶けていくみたいだ。気持ち良すぎて、さらに頭がぼうっとしてきてしまう。
「お客様は、好きな人はいるの?」
「ふぁあ?」
「私達の手が、その方の手だと思ってみてください。きっともっと心地よいですよ」
イズキ君。イズキ君の手が私の身体に触れて、揉んでる。二の腕も、太腿も、おしりも、揉み解すように体中のあらゆる部分をまさぐっている。
「柔らかくてすごく気持ちいい身体だよ」
「はぅう」
耳元で囁いたのはイズキ君だろうか。何だかとっても恥ずかしい。でも、もっともっと触ってほしい。もっと、私のすみずみまで、大切なところも全部。
「じゃあ、仰向けになってみようか」
言われるまま、私は仰向けになる。
すかさず目元にタオルが掛けられて、私からは何も見えなくなってしまった。
再び胸元にローションのような物がかけられて、全身に広げられていく。おっぱい、お腹、腕、脚。イズキ君の手が私の全身を揉みしだいていく……。
「あぅっ」
一度全身をマッサージすると、イズキ君はおっぱいを重点的に揉み始めた。お腹の方のお肉をすくい上げるように揉み上げてから、おっぱいを軽く握って、それからその先端の乳首に優しく触れてを繰り返すのだ。
「や、あっ。……はうぅ」
息が荒くなっていくのが自分でもわかる。下腹部が熱い。自分でも良く分からない感情が、子宮の奥から噴き出そうとしているみたいだった。
「だめ……もう、私……」
指がお腹から、私の大切な部分に下りてきた。
「さぁ、最後の仕上げだよ」
敏感な部分を触られ、全身がびくんと震えてしまう。
違う。イズキ君はいきなりこんなことしない。そうだ、私は今エステに来ていて、だからこの指はイズキ君の指じゃなくて。
「駄目。そこだけは駄目ぇ」
私は自分の大切な部分を両手で覆い隠した。
駄目だ。ここだけは大好きな人以外には触られたくない。例えどんなに気持ち良くされたとしても、知らない人には触られたくない。
息を飲む気配と共に、室内の雰囲気が変わった。心なしか、お香の匂いも変わった気がする。
「ご、ごめんなさい。私、そう言うつもりじゃ無くて」
「申し訳ございません。この子はまだ新人のため、ちょっとまだ未熟なところがありまして」
謝られている? 一体何が起きたんだろう。どういう事なのか良く分からない。スタッフさん達も焦っているみたいだけど。
「あの、一体何が……」
「先ほど焚いていたお香、メルティ・ラブと言うハーブで、嗅いだ者の心を甘くとろけさせる効果があるのです。お客様のリラックスの為にと焚いていたのですが、この子の緊張感までほぐしてしまったようで、少々行き過ぎてしまったのです。
今は冷静さを保たせるストイック・ラブと言う香に切り替えましたのでもうあのような失敗は無いと思います。……不快に思われたのでしたらここで中止いたしますが、いかがいたしましょう」
あぁ、そうかぁ。確かにさっきまでの匂いを嗅いでいたら正気でいるのは難しいかもしれない。
ちゃんと謝ってくれてるし、無理矢理どうこうされる事も無いだろう。それに綺麗になりたいし、単純にマッサージも気持ち良かったし。
「……中止は嫌です。続けてください。あの、でも」
「大丈夫です。もうデリケートな部分には触れませんので」
私は手を外し、ベッドの上で体を開いて力を抜いた。
「続き、お願いします」
「ご寛大なお心に感謝いたします。私どももこのような事の無いよう、誠心誠意サービスさせていただきます」
それから先のマッサージは体が反応してしまうのを抑えるので必死だった。
ただ触られて揉まれているだけなのに、体中を変な感じが走り抜けていって、お腹の中が疼いて疼いて仕方が無かった。
ようやくマッサージを終えてシャワーを浴びる頃には、ただ寝ていただけにも関わらずへとへとになってしまっていた。
「お疲れ様でした。当店のエステはいかがでしたか」
受付のお姉さんは相変わらず綺麗だった。時計を見るとまだ一時間くらいしか経っていないのに、なんだか何時間もマッサージを受けていたような気分だ。
「なんというか、すごかったです」
まだ全身が火照っているみたいだった。特に下腹部が熱を持っている。でも、嫌な熱っぽさじゃ無かった。
あと、なぜか背中と腰の境目辺りがむず痒かった。
「いらっしゃった時よりお綺麗になられましたよ」
差し出された鏡の中に映る私は、確かに昨日よりも血色が良くて肌の張りも良くなっている気がした。
でも、やっぱりまだ太っているよね……。
「あの……。もっと痩せるには、やっぱり一回じゃ無理ですよね」
「そうですね。あまり急激に痩せてしまってはお身体に負担がかかりますし、美容にも良くありません」
受付のお姉さんは困ったような笑顔で、諭すように静かに告げる。
当たり前だ。二三日で痩せようなんてそんな都合のいい話があるわけないんだから。
「ですが眼鏡や髪形を変えるだけでも印象は変わるものですよ? 目元が変わるだけで大分違いますし、お客様のような緩やかな癖のある髪でしたら少し手を加えるだけで今以上にセクシーにも可愛くも見せられます」
私の髪。いつもワカメみたいなんて言われてるけど、本当にそんな風になれるのかなぁ。
「あと、これは施術中に失礼をしてしまったことへのお詫びです。栄養価が高く、美容効果も高い果物です。デザート代わりに食べるだけでも、お綺麗になれると思いますよ」
手渡されたのは数枚の割引クーポンと、小箱にいっぱい入った果物の山だった。
ハートの形をした見たことも無い果物だ。外国の果物なのかもしれない。でも、こんなに貰ってしまってもいいんだろうか。
「あの、でもこんなにいただいたらなんだか悪いです」
「ああ、いいんですよ」
お姉さんはにっこり笑って、意外な言葉を口にした。
「地元から山ほど送られてくるんです。それに、味の虜になってしまって、きっとそれだけあっても足りなくなると思いますよ?」
虜になる程美味しいという事なのだろうけど、なんだか妙に意味深な感じがする。
「当店にいらして下されば次回からは果実もサービスいたします。ぜひまたいらして下さいね」
月曜日までに時間は無かった。
それまでに少しでも痩せたかった私は、少し強硬な手段を取る事にした。エステサロンでもらった美容に聞くという果物。それをご飯の代わりに食べる事にしたのだ。きっと普通にご飯を食べるよりはカロリーを抑えられるだろうし、美容効果も高まるだろうと思って。
果物自体が美味しかったおかげで、食べること自体は問題なかった。
食べるたびに頭がのぼせたようになって、お腹や腰が疼くのが少しだけ気になったけど、イズキ君に会う事を思えばそんな事は全く問題じゃ無かった。
***
月曜日。気が急いだ僕は、いつもより少し早めに学校に向かった。
部室を覗いても誰も居ない事を確認してから、教室へ。
まだまばらなクラスメイト達を眺めながら、鞄から文庫本を取り出して広げる。それはまさに広げただけで、読もうとしても本の中身は一切頭に入って来なかった。
黒田さんは来るだろうか。今日も来ないのだろうか。
今日来ないとしたらいつ来るのだろうか。まさかもう来ないなんてことは無いよな……。
クラスメイトは次々に集まってくる。それでも黒田さんは来ない。ホームルームの予鈴まで十分を切っても、五分を切っても現れない。
「イズキ君」
聞きなれた優しい声が僕の鼓膜を震わせた。たった五日ぶりだというのに、なんだかすごく久しぶりな気がする。
「黒田さ、ん?」
振り向くと、見たことも無いような可愛い女の子がそこに立っていた。
柔らかなパーマのかかった黒髪、黒目勝ちの目、きめ細やかな張りのある肌。違う、僕はこの人を知っている。
眼鏡はしていないし、髪型が変わって顔の輪郭も少しほっそりはしているけれど、目や鼻の形、柔らかそうな唇は変わっていない。彼女は間違いなく黒田さんだ。
「本、ありがと。おかげで元気出た」
「うん。その、良かった」
髪と眼鏡で隠されていた素顔が表に出てしまっているのだ。何だろう、僕だけしか知らなかった秘密が周知の事実になってしまったようで、少し気持ちが落ち着かない。
「覚えててくれて嬉しかった」
「ま、まぁね」
なぜか彼女の唇を意識してしまう。
よく見てみれば髪型を変えただけじゃないみたいだ。黒田さんは先週見た時よりも綺麗になっている。おまけに頭や腰からは角や羽のような物が生えているし、その姿はまさに小悪魔のような可愛らしさ……て、角?
慌ててよく見ようとしたときには既に角も羽も無かった。いや、当たり前か。きっとただの見間違いだろう。
「どうかした?」
黒田さんのはにかむような笑顔に、胸がどきっとする。
「いや、本当に元気そうになって良かったと思って」
「ありがとう。また、あとでね」
黒田さんは僕に微笑みかけてから自分の席へ向かった。
そこでようやくクラスの連中も気が付いたんだろう、教室中が一瞬どよめいた。男子は言葉を失いつつも黒田さんの姿を凝視し、女子は女子で驚きながらも何やら険のある視線を向けているようだ。
だが当の黒田さんはクラス中の視線をまるで感じていないかのように自然な振る舞いで授業の準備を始めていた。
彼女にもっと話しかけたい。そう思って席を立ちあがりかけたその時だった。
「おはよう。ホームルームを始めるぞ」
いつもは少し遅れてくる担任教師が、今日に限って時間通りに教室の扉を開いた。
結局黒田さんに話しかけるタイミングを失ったまま、とうとう放課後になってしまった。
昼休みにもアタックを掛けようとしたのだが、委員長に先を越され二人で出て行ってしまったのだ。
何やっているんだろう僕は。深いため息を吐き、顔を上げると。
「どうしたのイズキ君」
目の前に、黒田さんが居た。
「い、いや。何でもないよ」
クラス中の視線が集まっているのを感じる。放課後になってもまだ、黒田さんに声を掛けようというクラスメイトは居なかった。皆こうやって視線を向けて様子を見ているだけで、声を掛けたり絡んで来ようとはしない。
しかし声は掛けなくとも、彼女に向けられている視線の意味が変わっている事くらい僕でも分かった。
男子の視線は明らかに異性を見る目になっていたし、女子の視線は嫉妬や羨望が混ざっているようにも思えた。
「ねぇ、早く部室に行こ」
黒田さんは僕にだけ聞こえるように囁いて、僕の腕を引く。
なんだか、いつもと違う。いつもだったらお互い誘う事も無く、自然と部室に集まるみたいな形になるのに、今日は明らかに僕が誘われている。
別に嫌では無いのだが、ちょっと恥ずかしくもあり、何となく僕はぎこちなくなってしまう。
「うん。先週は姫子も心配してたよ」
黒田さんだけでなく僕にも視線が絡み付いてくるようだったが、敢えて無視することにした。黒田さんが相手にしないなら、僕が相手にする必要も無い。
「あっ! せんぱーい。お久しぶりですー」
部室には既に後輩の姫子が来ていた。彼女は黒田さんが居るのに気が付くなり黄色い声を上げて飛びついていった。
僕はそんな二人の様子を横目で眺めながら、いつもの席で文庫本を開いた。ようやく日常が帰って来た感じがする。
「体の調子はどうですか?」
「大丈夫。なんか生まれ変わったみたいに元気だよ。ごめんね心配かけて」
「確かに凄く生き生きしてる感じがします」
「そ、そうかなぁ」
急に会話が止んだので顔を上げると、黒田さんと目が合った。にっこりとした笑みを向けられ、心臓が大きく跳ねる。
慌てて視線を反らすものの、暴れ出した心臓はなかなか収まってくれなかった。
「あー、そう言えば先輩。私今日ちょっと予定があるんで、これで帰ります」
「そう。明日は来れる?」
「もちろんです。ちょっと早いですけど失礼しますね」
取り繕うような声に感じたが、気のせいだろうか。あんなに黒田さんに会うのを楽しみにしてたのにこんなにあっさり帰ってしまうなんて、何か変な気がする。頭を下げる姫子に手を上げて応えながら、僕は内心で訝しんでいた。
まぁでも、別にこの部は毎日顔出さなければいけないっていうわけでも無い。あんまり詮索するのもおかしいだろう。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様」
「おつかれー」
姫子が居なくなると部室が急に静かになってしまった。そう言えば今、黒田さんと二人きりなんだよな。なんかこういうのも久しぶりだ。
久しぶりにゆっくり話そうかと思っていると、唐突にかちゃりと言う小気味のいい音が静かな教室に響き渡った。
いつの間にか黒田さんが教室の扉の傍に佇んでいた。
鍵? でも、何のために?
「ようやく二人きりになれたね」
振り返った黒田さんは、今まで見たことも無いような色っぽい顔をしていた。僕の方をじっと見つめながら、少しずつ僕に近づいてくる。
対する僕は彼女の表情に魅入られてしまって、全く動くことが出来なかった。
思わず生唾を飲み込む。黒田さんにも聞こえてしまっただろうか。
「ねぇ、喉、乾かない?」
「え?」
「これ、一緒に食べよう?」
そう言って黒田さんが鞄から取り出したのはハートの形をした果物だった。彼女は一口食べて、僕に手渡してくる。
彼女が噛んだ部分からとろりとした果汁が流れ落ちる。僕は慌てて受け取り、それを舐め取って一口食べてから、ようやく自分のしている事に気が付いた。
「あ」
「間接キス、だね」
かぁっと顔が熱くなる。
慌てる僕にお構いなしに、黒田さんは僕の手から果実を奪うと、僕が噛んだ部分を舌で舐め取ってからまた一口口に運んだ。
「あの、黒田さん」
「あ、ほら、蜜が垂れちゃうよ」
僕はまた慌てて果実に噛り付く。そして僕が噛んだ場所をまた黒田さんが食べて……、そうやって僕達は果物を食べ終わるまで相手の噛んだ部分を食べ合った。
ただ果物を食べているだけなのに、背筋がぞくぞくするような背徳感があった。何だか体が高揚してしまって、食べ終わるまで味も匂いも分からない程だった。
「あぁ、美味しかったぁ」
黒田さんは果汁の付いた指を舐めしゃぶる。何だかその指が無性に羨ましく、指になりたいとさえ思ってしまう。……自分でも意味が分からない。思考を追い払うため、僕は頭を振った。
「黒田さん」
ん、と黒田さんは僕の方に横目を向けてくる。
「なんか、無理してない? いつもと違う気がする」
ちゅぱっ。という音を立て、唇から指が離れる。
「どんな風に、違う?」
「その、なんていうか、凄く……」
動作の一つ一つがエロティックで、見ているだけで抱きしめたい衝動に駆られる。でもそんな事は言えない。僕は口ごもりながら俯くしかなかった。
黒田さんは僕の隣の席に腰を下ろし、僕の太腿の上に両手を置いた。
首筋に息がかかる。甘い匂いのする熱っぽい吐息だ。
「全部イズキ君のせいだよ」
少し顔を動かすだけで唇が触れ合ってしまいそうな程近くに黒田さんの顔があった。その瞳には僕の顔しか映っていない。多分僕の瞳にも、黒田さんしか映っていないだろう。
「僕の?」
「私の事、抱きたくないなんて言うから」
「違う、僕は」
火曜日の更衣室での事が脳裏に蘇り、僕は目を逸らした。
その通りだ。僕は思っていただけで、悪ふざけを止めなかった。それは結局一緒になって黒田さんを傷つけた事と同じだ。
「あの時は本当にごめん。結局何も言い返さなかった僕が悪い。許してくれなんて都合のいい話だけど、そのためだったら何だってする」
真直ぐに彼女の目を見つめながら、僕は心からの気持ちを述べる。あんな風に言われて気にしない女の子なんて居ないだろう。
黒田さんだって今は笑っているけど、心の中ではきっと……。
「じゃあ、改めて質問するね」
黒田さんは悪戯っぽく笑ってから、僕の耳元に唇を近づけた。
「私と、えっちしたくない?」
その囁き声は、僕の気持ちを爆発させるのに十分すぎる程の破壊力を持っていた。黒田さんに対する欲望が限界も無く膨れ上がっていく。彼女が欲しくてたまらない。思考の全てがその一点に収束していく。
頭がのぼせあがりながらも、思考は黒田さんへの想いで澄み渡っていく。この感情の前では罪悪感も恥も外聞も些細な事でしかなかった。
「うん、したい。正直今日の黒田さんは凄く、その、色っぽいし。でも、誤解して欲しくないのは僕がそう思っているのは今日に限った事じゃないんだ」
想いが溢れて口から漏れ出していた。自分でも良く分からないまま、僕は気持ちをぶつけていた。
突然の告白に驚いたように、黒田さんはきょとんとしている。逃げられないように彼女の肩に手を置いて、顔を突き合わせながら僕はさらに続ける。
「先週も、先月もそう思ってた。ずっと前からそう思ってたよ」
黒田さんの目が見開かれていく。
「でも、火曜日は」
「ぶん殴ってでもあいつらを止めるべきだったと思ってる。君の事を好きなんだから、戦うべきだったんだ。でも、僕は逃げてしまった。ずっと後悔してた」
「う、嘘」
「嘘じゃない。黒田さんの事、ずっと前から好きだった」
「だったら、き、キスして。そうしたら信じて、んぐっ」
彼女の言葉を、唇を押し付けて遮る。
すると彼女は僕の頬を両手で包み込み、唇を割って舌を入れてきた。
少し驚いたけど、僕は彼女に応える事にする。最初はお互い様子を探るように舌先同士を軽く擦り合わせるくらいだったのが、唾液が絡みだしたころには、舌を絡み合わせて激しく求め合っていた。
鼻息を荒くしながら、僕らはしばし無言でお互いの唇を貪り合う。夢みたいだ。それこそ彼女の描く恋愛小説のようだった。
でも、唇の柔らかさも暖かさも、唾液の甘い匂いも間違いなく本物の感触だ。文字よりずっと体の芯に訴えてくる。心臓が強く打ち、下半身に血液と意識が集中し始める。
「ひゃん」
制服越しに胸を掴むと、彼女は驚いて身を離した。
「ご、ごめん」
黒田さんは頬を染めながらも、自分でも驚いてしまったというような表情で自分の身体を抱いていた。
だが、その姿を見て彼女以上に驚いていたのは僕だった。なぜならいつの間にか彼女の頭には二本の角が生えていて、腰元からも蝙蝠の翼が生えていたからだ。朝と違って、今は瞬きしても消えなかった。
「……ひょっとして、見えてる?」
「うん。可愛い」
「あっ」
羽を優しく撫でると、黒田さんは体を震わせて身悶えした。それから目に涙を浮かべて息を荒げ始める。
「い、痛かった?」
「大丈夫。感じすぎちゃっただけだから」
彼女はにたりと笑い、自分の椅子を立って僕の膝の上に、向かい合うように腰を下ろした。
「驚かないんだ」
「驚いてるけど、姿が少し変わっても黒田さんは黒田さんだからね」
「偽物かもしれないよ?」
「君の事が好きでずっと見続けていた僕だよ。君は黒田さんだ。間違いない」
何となく分かるのだ。何かが黒田さんに化けているんじゃない。黒田さんが今この姿になっているだけだって事が。
「うん。なんか嬉しい。……じゃあ、続きをしよっか」
そう言って正面から抱きついてくる彼女。僕は抱きしめ返しながら、首筋に甘噛みする。もう細かい事はどうでも良くなってしまっていた。いや、角が生えたり羽が生えたりは細かい事では無いかもしれないけど、でももうどうでもいいや。
急に股間が涼しくなったと思ったら、彼女が勝手にファスナーを下ろして僕の一物を外に出していた。
「イズキ君の、おちんちん。うふふ、もう固くなってる」
僕の根元に黒田さんの指が絡み付く。うっとりしたような黒田さんの表情。見た事の無い程のいやらしい顔。見ているだけであそこがさらに硬くなってしまう。
「ぴくってした。……ずっと見てたいけど、イズキ君の大切なものだもん、いつまでも外に出してるわけにもいかないよね。誰かに見られる前に、早く隠さなきゃね」
黒田さんの指が、焦らすように僕の根元から先っぽまでを行ったり来たりする。
「どこに隠そうかなぁ。そうだ、私のスカートの中にしよっか」
彼女は腰を浮かせ、狙いを定めるかのように身じろぎした。もう片方の手をスカートの中に突っ込み、何かをずらすように動かす。
「黒田さん、いいの?」
「名前、呼んでほしいな」
「さ、サキ」
サキの唇が僕の唇を塞ぐ。そして彼女はゆっくりと体を沈めていった。
先っちょがあったかくて湿った感触に包まれる。そのままゆっくりと、熱くて狭い彼女の中を進んでいく。
「んんっ」
わずかに抵抗を感じる部分があったけれど、構わず彼女は腰を下ろし続ける。
彼女の鼻に掛かった声が僕の性欲に油を注ぐ。腰を抱き、彼女の動きに合わせて自分でもゆっくりと腰を突き上げていく。
「深い、深いよぉ……」
うわごとのような彼女の声が耳から僕をとろけさせる。
椅子に深く腰掛け直し、僕らは向かい合った。お互い制服はちゃんと着たままだ。ぱっと見ただけではサキが僕の上に座っているようにしか見えない。でもそのスカートの下ではサキの下の口が僕自身をしっかりと咥え込んで、咀嚼するような蠕動を繰り返していた。
サキはスカートの端をめくり上げる。ずらされたパンツと濡れた陰毛と接合部が良く見える。僕とサキが繋がっている……。手を伸ばそうとするも、悪戯っぽくスカートを下ろされてしまった。
「上手く全部隠れたね」
サキは頬を染めながら、僕に向かって微笑んでくれた。
「でも、誰か入ってきたらって考えるとどきどきしちゃうね」
「え、鍵締めたんじゃないの?」
「ふふ、音鳴らしただけ。大丈夫、座ってるようにしか見えないよ」
サキは僕の頭を自分の胸元に抱き寄せた。制服越しでも分かる柔らかさと温かさ。彼女の匂い。今まで以上に強く甘く、僕の本能をくすぐる。
誰かに見られてもいい。サキの身体をもっと味わっていたい。
「私、頑張ってもっと綺麗になるね。もっと痩せて、おっぱいももっとおっきくなるように」
「いいよ、サキはサキのままでいい」
「でも、私太って」
「太って無い。少しぽっちゃりしてるくらいだよ、僕はこのくらいの方が好きだ。先週までのサキだって太ってるなんて思ったことなかったし」
「ほんと?」
「うん。このままでいい。だって今のままですっごく気持ちがいいんだから」
僕は彼女の腰に腕を回してしっかりと抱きしめる。肉感的で、包み込んでくれるような柔らかな抱き心地。ずっとこうしたいと思っていて、何度も想像していたけど、現実は想像よりもずっと良かった。
心臓が破裂しそうな程の興奮と、眠ってしまいそうな程の安堵が同時に存在していた。ついさっきまではただの友達だったのに、こうやっているのが当たり前のようにさえ感じてしまう。
「私ね、この身体になっちゃったとき最初は少し怖かったんだ。人間じゃ無くなっちゃったんだって分かって。
でも、怖さよりももっと強い気持ちがあったの」
サキはゆっくりと腰を振り始める。スカートの下で大切な部分が擦れ合う。濡れたサキの柔肉が僕に吸い付いてくる。彼女が腰を振る度に細やかな襞が竿にかりに絡み付き、搾り取ろうとでもするように波打ちながらぎゅうぎゅうと僕を締め付ける。
音さえ聞こえないけど、口の中でキャンディーを嘗め回しているみたいにあそこ越しに振動が伝わってくる。
「もっと、強い気持ち?」
「イズキ君と会いたいっていう気持ち。イズキ君に触りたいっていう気持ち。イズキ君に抱きしめられて、いちゃいちゃして、一緒に気持ち良くなりたいっていう気持ち。それから、ふふ、えっちして、イズキ君の精液を私の身体の中に欲しいっていう気持ち」
腰の動きはさらに激しくなる。僕はもう言葉を返せない。嵐のようにもたらされる官能から最後の一線を踏みとどまるのに精いっぱいだった。
もういつ出てもおかしくない。彼女の中に出してしまいたい。でも、このままもうしばらくサキの与えてくれる快楽の渦に沈んでいたい。彼女に密着して、声を聞いていたい。
「だから、我慢しないで出して?」
サキは僕の顎を指で持ち上げ、口づけしてくる。
僕は片腕で彼女の腰を深く抱き寄せ、それに応える。目がちかちかするほどの快楽。体の芯から熱が噴き上がり、尿道を突き抜けてスカートの中へと放出される。
サキを僕だけの色で染め上げたい。そんな爛れながらも心の底から出た気持ちを、精液という形で何度も何度も先の中に注ぎ込む。
痙攣する彼女の身体を無理矢理押さえつけるように抱きしめ、後頭部を押さえつけてさらに深く唇を貪る。
制服の衣擦れ音と熱っぽい息遣いが絡み合い、そしてやがて落ち着いて、ほどけて二つに戻っていく。
一抹の寂しさを残して、僕のあそこは鼓動を止めた。
サキの胸の中で、僕の頭は急激に冷め始めていた。
場の勢いに任せてとんでもない事をしてしまった。謝らなければと思っていたはずが、いつの間にかセックスして、あろうことか中に出してしまった……。
「あの、黒田さん」
「どうして呼び方を戻すの?」
「いや、その。ごめん。確認もせずに、中に出してしまって……」
「だからどうして謝るの?」
僕から少し上半身を離して、黒田さんは少し眉根を寄せて不機嫌そうな顔を見せる。
「イズキ君は私の事名前で呼びたくないって事? えっちもしたく無かったって事なの?」
「したかったけど、あんまりいきなりだったからさ。ごめんサキ」
まぁ、繋がりっぱなしで言っても説得力は無いか。
身体の芯に残る熱の疼き、彼女の包み込むような甘い刺激は、穏やかになったけれどもまだ続いている。
「じゃあ約束してくれる? そしたら許してあげる」
サキは僕の額に額を押し付けながら、悪戯っぽく笑った。
「この先一生、私としかえっちしないって」
「サキも僕としかしないって約束してくれるなら、いいよ」
「もちろんだよ。何ならイズキ君以外の人間に触られても何も感じない身体にしたっていいよ」
「そんな事出来るの?」
サキは唇に指を当てて少し考えてから、頷いた。
「あのお店なら、多分出来ると思う。今度一緒に行こうか。イズキ君も私じゃなくちゃ感じない身体にしちゃう?」
「ああ、そうしよっか」
「え?」
僕が笑って頷くと、意外にもサキは驚いて目を見開いた。
「色々な事へのお詫びの意味も込めて、僕がサキしか愛さないっていう事を証明するためにも、さ。……ちょ、なんで泣くのさ」
「だ、だって。なんか嬉しくって。私の人生で、好きな人からこんな事言ってもらえるなんて思ってなかったし」
僕はそれ以上何も言わず、彼女が泣きやむまでずっとただただサキの涙を拭き続けた。
「でも、この羽と尻尾は本物なんだね」
抱き合ったまま腰元に手を伸ばすと、人間にはありえない関節部分が指先に触れた。試しに羽と尻尾の付け根をまさぐってみると、サキは聞いたことも無いような甘い喘ぎ声を上げた。
「ひゃ、やめて。まだ生えたばかりで敏感なのぉ」
ちょっといじめてみようかな。なんていう僕の考えは既に読まれてしまっていたらしく、サキは僕の手を抑えながら立ち上がって僕の上から逃げ出してしまった。
納まるところを失った僕のあれが行き場を失って小さく震える。言い様の無い寂しさに少し肌寒くなるようだった。
「部屋の中、すごい匂いだよ。ちょっと換気しよっか」
サキは尻尾を振りながら窓側に寄り、窓を開ける。その途端に練習している野球部の声や、的外れな吹奏楽部の音だし練習が聞こえてきた。
ああそうだ、まだ学校に居たんだった。時計を見ると、授業が終わってからまだ30分も経っていなかった。放課後は、まだ長い。
立ち上がろうと机に手をつくと柔らかくて湿った物に指が引っかかった。ピンク色の布切れ。さっきまでサキが穿いていたパンツ……。いつの間に脱いだんだろう。
僕はそれを持ったまま、サキに後ろから近付いていく。
揺れる尻尾を捕まえて鼻先に近づける。サキの匂いが濃く、甘く香る。調子に乗って甘噛みすると、サキは喘ぎ声さえあげなかったが強く体を痙攣させた。
太腿からもねっとりと二人分の愛液が垂れ落ち始める。
「したかったら、羽も尻尾も引き千切れるくらい強くしてもいいよ」
「してほしいの?」
「……うん。いつもの教室で、いつもの夕日を二人で見ながら、イズキ君にちょっと乱暴に、されたい」
「外から見えちゃうよ?」
言いながらも、既に僕は彼女のスカートをたくし上げている。そして言わずもがな、僕の物は元気を取り戻していた。
「見えないよ。部活してる人も帰ってる人も、みんな自分の世界しか見えてない。誰も校舎の外れの教室なんて見上げないし、窓が開いて誰かが居たって、学校なんだから当たり前だって思うだけ。
誰も窓から顔出しながら堂々とえっちな事してるなんて思わない。ねぇ、だから私達も自分達の世界に溺れよう?」
「そうだね。溺れてしまおう」
部活の喧騒、木霊する金管楽器の音色、窓の正面の真っ赤な夕日。冗談めいたサキの科白回し。
郷愁さえ覚える程の見慣れた風景の中、僕はゆっくりと彼女の中に入っていった。
初めて交わった日から数日が経った。
時間が経ったこともあって、僕はサキについて色々と分かり始めていた。
客観的に見て、サキは外見は少し可愛くなったが、だからと言って本質までも変わったというわけでは無いようだった。クラスメイトとのやり取りも、部活での話し方も前までと似たような物だった。
クラスメイト達は別人のように可愛くなったと言うが、僕はそれを否定する。彼女はもともと可愛かったのだ。ただ髪型で隠れてしまっていただけ、少なくとも僕にとってはそうだった。
変わったとすれば、本人に聞こえる声でいろいろ言われても反応しなくなった事くらいだろうか。誉められるような言葉も、妬みや悪口にも一切関心を示していないようだった。
しかし僕と二人きりになった時だけは話は別だ。
いつもは人目を気にして魔法で消している角も羽もさらけ出し、室内だろうと屋外だろうと構う事無く僕を求めてくる。学校に居る間は常に人目があるためになかなか二人きりにはなれないが、毎日少なくとも昼休みと帰宅後のサキの部屋でだけは欠かさず肌を重ねるという生活だ。
そういう時のサキは確かに積極的なのだけれど、そんな時でもやっぱりその言葉や仕草はサキのもので、だから彼女が別人になってしまったという感じは全く無い。
僕としては初めての相手を一生のパートナーにしてしまったという事になるのだが、後悔は無かった。
その事をサキに告げると意外にも驚かれてしまった。初めての時に手際が良かったから初めてだとは思わなかったのだそうだ。
多分イメージトレーニングをたくさんしていたからだろう。でも、流石にそれは言えなかった。
明日はサキが行っているというエステサロンに行ってルーンとやらを入れてもらう予定だ。そうすると、もう自分の身体でもサキが触らなければ性感を感じなくなるらしい。名実ともに僕の身体がサキのものになるというわけだ。
それが終わったら、言ってもいいかもしれないけど……。いや、やっぱりやめておこう。少しくらい秘密があった方が、きっと彼女の心を捕えている事が出来るだろうから。
部活終わりで帰宅後の私の部屋。いつものように、私とイズキ君はお互いの服を脱がし合う。彼の手が当たるだけで体が疼く。待ちに待った二人だけの甘い時間。ルーンを入れて以来、彼と一緒の時間はかつて以上に魅力的な物になった。
少しずつ外気に晒される私の身体。あれから、私の身体はまた変化した。
細かった角は太く立派になり、翼や尻尾も逞しく丈夫になった。肌を覆っていた桃色の薄毛も落ちて、今では何の気兼ねも無く肌を出せる。
イズキ君はもふもふしていて可愛いと言ってくれていたけど、それはそれで嬉しいけど、私としては直に肌を重ねられなくてちょっと不満だったのだ。
「あン。まだ駄目だよ。全部脱がせてから」
おっぱいに顔を埋める彼の耳を、少しつねる。
今では彼も性欲を隠さなくなった。好きな人からストレートに欲望を向けられるというのは、正直言って嬉しい。魔物となったきっかけそのものの事もあって、こうしてくれるだけで顔がにやけてしまうくらいだ。
「ほら、ぼーっとしてないでサキも原稿用紙の準備しなきゃ」
そうだった。私は原稿用紙と筆記用具を鞄から出して、机の上に広げる。
魔物となった今も私は小説を書き続けていた。人間向けにはもちろん、今では魔物向けの小説も書いている。
甘い甘い恋愛小説は、委員長を初めとする魔物娘の先輩達にすこぶる評判が良かった。
いつの間にか話も大きくなって、今では『アビス』の関係者から原稿をお願いされる程になってしまっている。
もちろんとても嬉しいのだけど、反面失敗できないというプレッシャーは大きい。でも、それでもこんな風に彼に手伝ってもらいながら何とか乗り越える事が出来ていた。
机に両手を付いて、四つん這いで彼におしりを向ける。
「じゃ、始めようか」
「うん。来て……。あぅ、あ、ああんっ」
彼の逞しいものが私の中に荒々しく入ってくる。背中に覆い被さられ、肌が擦れる。それだけで達しそうになるのに、さらに左乳房が荒っぽく揉みしだかれ、乳首が捻られる。
脳裏に桃色の電流が走り、花の咲くようなイメージと、物語のシーンが浮かぶ。
「きっつぅ。サキ、ちょっと手を抜いてくれないとあんまり長くもたないよ。……サキ?」
「ふぁ? あ、うん」
「もう、明日が締切だからって涙目で頼んできたのはそっちでしょ?」
そうだった。『アビス』から頼まれている原稿が明日までなのだ。
最近はスランプ気味で、どうしても一人では書けなかったから今日はこうやって彼の力を借りる事にしたんだった。二人で交わっている時の方がいつもよりも頭の中に豊かなイメージが浮かぶから。
魔物になったせいなのかな。彼に触られているだけで気持ち良くなってまともに思考なんて出来ないはずなのに、筆は不思議と良く進む。
「あの、今日は親も魔法で誤魔化すから、一晩お願いね。……あとでちゃんとサービスするから」
彼の右手が私の右手と恋人繋ぎしたあと、私の手ごとペンを掴んだ。
「ま、僕はこうして居られるだけでも幸せだけど、してくれるんならサービスもしっかり頂こうかな。
それじゃ、タイトルは何にする?」
私は突き上げられながら、文字を刻み始める。
エステサロン『アビス』へようこそ。
12/11/04 23:35更新 / 玉虫色