第六話「侵食竜」
怒りのままバルタザール邸を出たミズラフではあったが、聖教会の前まで来て黒い刀身の蛇矛を持ったままのことに気づいた。
ダルクアがミズラフの用意した素材から作った武具、先ほどの幼馴染の言を思い出して雪の積もった地面に叩きつけようとしたが、なんとなく手を止める。
たとえダルクアの真意がどこにあるのだとしてもこの武具を作るために時間を使ってくれたのは事実。そのことを思うと邪険に扱うことは出来そうになかったのだ。
しばらく深呼吸をして息を落ち着けてから聖教会に入ると、ミズラフは礼拝堂で床を掃除していた総主教にドラゴニア行きを切り出す。
「うむ、行ってこい」
ダルクアのことがあったため反対されるかもしれないと思っていたが、あまりにあっさりと許可が出たために、ミズラフは拍子抜けしてしまった。
「お前は免許皆伝を得たのだ、これからどこでその力を振るうのかは自分で選べば良いだろう」
ということらしい。さて、ドラゴニアへの定期船はヤマツミ村外れにある断崖絶壁の地、『龍翼渓谷』から出ている。
遥か昔のヤマツミ村ではこの断崖絶壁を下から登ることが通過儀礼として課せられ、登り切った者はドラゴンと対峙する勇者として認められたらしいが、もはやその風習が廃れて久しい。
実際問題岩だらけの切り立ったその崖は、土砂崩れこそ起こさないだろうが並外れた登山家でなければ登ることは出来ず、落ちれば即冥府神たるヘル神の世話になることは想像するに容易い。
現在ではこの危険極まりない断崖絶壁は、登りも下りも総主教の名の下制限されており、ドラゴニアや麓へ向かう連絡船の船着場となっていた。
「ドラゴニアの龍たちは魔物娘の例外に漏れずに皆好色だ。油断すると結婚式の日取りまで決められてしまうことすらある」
礼拝堂の椅子に腰掛けるミズラフにそう説明する総主教。若き弟子のほうはヤマツミ村から出たことがないため、自然出会ったことがある魔物娘も比較的大人しいドワーフたちばかりである。
それ故に好色と音に聞く魔物娘の中でもひときわその本能に忠実な魔物たちの爆発力をよくは知らない。
サキュバス、バフォメット、ドラゴンゾンビ、リリム、隔絶された田舎であるヤマツミ村から出るということは、そんな名前だけは聞いたこともあった有名な魔物娘と出会うかもしれないということでもあった。
「ともあれお前の人生に過干渉はしないが、付き合いには気をつけるようにしろ」
簡単に説明を終えると、総主教は懐から皮の袋を取り出す。
ズシリと重たそうなその外観に、微かに揺れるたびに中から聞こえる柔らかい音、間違いなく金貨の詰まった袋だ。
「大した額ではないが旅費に充てろ、もっともお前ほどの腕があれば生活の心配など不要かもしれないがな」
「……総主教、今までお世話になりました」
椅子から立ち上がり頭を下げるものの、総主教のほうは微かに手を振るい、フードの奥で微笑む。
「礼を言うのはこちらだ、我が息子よ。主神さまは息子のいない私に我が術を伝授する機会をくれた、それで十分だ」
『龍翼渓谷』までは総主教が送っていってくれるらしい。準備を整えると、ミズラフと総主教、二人は昔共に散歩した時のようにさまざまな話しに花を咲かせながら山道を歩いていった。
精悍な青年に成長したミズラフではあったが、この時ばかりは幼い頃に戻ったかのようである。
二人が『龍翼渓谷』にたどり着くと、すでにそこには定期船が来ており断崖絶壁のすぐ近くに停船していた。
見た目はそこいらの河川で浮かぶ高速船とほとんど変わらぬ形状をしている。60メートルほどの船体に風を切って進む尖った舳先、デッキには何人かの船乗りがおり風の流れを眺めていた。
しかし地上の船と決定的に違うのはこの連絡船は海の代わりに空を渡り、水の代わりに風を相手にするということである。
それを示すかのように船体にはいくつものプロペラがあり、船全体を飛ばすための巨大な熱気球が帆の代わりに甲板に取り付けられていた。
飛行船、この空を渡る船は複数人のウィザードの操る魔法によって運用されており、高山から高山へと渡る際によく利用される船だ。
「ここからは一人旅だな」
連絡船の乗り場で足を止めると、総主教は隣を歩いていたミズラフの背中を軽く押して前へ進むことを促す。
「ドラゴニアに着いたら竜騎士団の長たるシルヴィア団長を訪ねよ。私の封書を見せればきっと力になってくれるはずだ」
準備の段階で総主教はミズラフの荷物に自分の署名と相手の名前が知るされた封書を複数枚入れていたのだが、必要な時にそれを渡せということか。
「総主教、何から何まで本当に……っ!」
「むっ! 伏せろミズラフっ!」
総主教との長年にわたる稽古により、研ぎ澄まされた武道家としての第六感がミズラフに素早い警告を与えた。
彼の師匠からの言葉が聞こえてくる前に身をかがめていたため、結果的に強襲してきた脅威はミズラフを掠めることなく空を切る。
「な、なんだ、あれは……」
唖然とするミズラフだが、その場にいる人間で何が起きたのかを正確に理解できているものはおらず、唯一総主教のみが起こった事実を客観的に見ていた。
すなわち、突如として空の彼方から暗雲を引き連れて現れた漆黒のドラゴンが、ミズラフの頭をつかもうとして失敗したという事象である。
「ミズラフ! ここは私に任せてお前は連絡船に、奴の狙いはおそらくお前だ!」
雲がたちこめて暗くなりゆく空の下、くるりと旋回して近づいてくるドラゴンめがけて、総主教は呪文を詠唱することなく指先から電撃を放って牽制した。
しかし電撃では効き目が薄いのか、漆黒のドラゴンは総主教のすぐ近くに着地すると、威嚇するかのように咆哮をあげる。
「……そうか、貴様はあの時のドラゴンか……」
数十年前に『禁足地』すなわち聖ミズラフ修道院のあった場所から飛び去った漆黒のドラゴン。同一個体かは断定出来ないが、恐らく同じ種類というのは間違いあるまい。
「っ! 総主教、俺はこのドラゴンを知っている!」
連絡船のデッキの上で思い出したかのように叫ぶミズラフ。ぼやける光景ではあったが、失われた景色の中にこのドラゴンと邂逅し、何らかの楔を引き抜いた記憶がある。
ヤマツミ村で過ごす中で戻らなかったミズラフの記憶の断片が突如として蘇ったのならばもう間違いがない。
「このドラゴンは、やはりあの時のドラゴンか……!」
総主教は吐き捨てるように呟くと、こちらに向かって放たれた漆黒のドラゴンブレスめがけて左手から放った電撃でもってこれと相殺させる。
「……ミズラフ! 早く船を出港させろ!」
「そ、総主教!」
デッキの上でミズラフは総主教が法衣の下に帯びていた剣を引き抜き、正眼に構えるのを見守った。
「何をしている! 早くしろ!」
「む、無理です、この雲行きでは……」
声を荒げる総主教に対して悲壮に満ちた船乗りの声。あの黒いドラゴンが現れてから急に雲行きが怪しくなり、今や夜と変わらぬくらいの景色となっている。
こんな前後が不覚になりそうな状態で出港するのはあまりにも危険すぎるのだ。
「進退窮まったか……!」
襲いかかるドラゴンに対して剣をふるい、何とか立ち回る総主教ではあったが、連絡船をかばいながらの戦いとなると長時間は保たない。
だからといってミズラフを見捨てることは出来ず、結果として総主教は黒いドラゴンをその場に足止めするために剣を振るっていた。
しかしただ単に足止めするだけではミズラフを助けられず、おまけに連絡船も出港出来ないとなればもはや進退は窮まったも同じこと、総主教の顔に死相がにじむ。
「……(この突然の気象の悪化は間違いなくこやつの仕業。天候が悪化すれば飛行船は出港出来ないと踏んでの凶行と見るべきか……!)」
またしても翼を広げて滑空しようとしたため、今度は左手から冷凍光線を放ちドラゴンの翼を一時的に凍結させることにより地面に落下させた。
「……(なんとか引いてくれれば良いのだが)」
それはあくまで希望的観測、実際のところ漆黒のドラゴンが滑空して連絡船に組みつくことだけは阻止できたものの、彼女は翼の氷が溶けるとともに今度は突撃をかけんと足を鳴らしている。
「……来るか!」
咆哮とともに凄まじい速度で近づいてくる黒いドラゴン、そこで初めて総主教は正面からその顔を見たが、そこで強烈な違和感を感じた。
「な、このドラゴン、瞳を閉じているのか?」
「総主教、危ないっ!」
違和感に気を取られてすぐ近くにまで接近を許してしまい、総主教は剣を地面に突き刺して防御の構えをとる。
「むっ!」
その巨体の重量に任せた一撃は人間である総主教に塞ぎ切れるようなものではない。凄まじい勢いで黒いドラゴンは総主教を『龍翼渓谷』にまで押し込んでいった。
「むおっ!」
死力を尽くして剣に力を込めるが、ドラゴンの剛力に抗う術はなく、地面を削りながら後ろへと下がっていく。
「……くっ! ならばこれでどうだ!」
起死回生の一手、次の瞬間総主教の持つ剣の刀身が発火し、すさまじい火力の炎がドラゴンの身体を焦がした。
「ーーーーーーー!!!!!!!」
恐ろしいまでの絶叫である。電撃も氷も通用しなかった相手ではあるが、どうやら炎にだけは弱かったようだ。
「……弱点は引き当てたようだが……」
地面から剣を引き抜き、構え直しながら困ったようにつぶやく総主教。彼の目の前で黒いドラゴンは絶叫を上げながら、その姿をより攻撃的なものへと変える。
亀のように丸まっていた頭部からは巨大な角が二本現れ、全身にまとう漆黒の気配はより一層強まった。
最も顕著な変化はその翼、先から伸びるその大きな爪はあたかも第五、第六の腕のごとき威容である。
「……完全に怒らせてしまったようだな」
ドラゴンが腕へと変容したその翼を振り上げた刹那、凄まじい速度で連絡船から何かが投擲されその禍々しい爪を大きく弾いた。
「ミズラフか!?」
ミズラフの投げた蛇矛はくるくると宙を舞い、そのまま連絡船のデッキから飛び降りた持ち主が空中で掴み、急降下して地面に着地する。
「馬鹿! 何故出てきた。こいつはお前が敵うような相手ではないぞ!?」
「しかし二人ならばまだ勝ち目はあるはずです!」
蛇矛を構え直し、ミズラフは禍々しい姿へと変貌した漆黒のドラゴンを睨みつけるとともにその一挙手一投足を見守った。
人間をはるかに上回る身体能力と巨体を備える魔物娘の最高峰たるドラゴン。脆弱な人間では勝ち目がないと言われているが、こうなった以上戦う他ない。
それにこのドラゴンの狙いは明らかにミズラフである。仮にヤマツミ村に逃げ帰ったとしても彼女は総主教を打ち倒してから自分を追ってくるのは目に見えていた。
「……勝手にしろ。私はもう知らん」
そうは言いながらも総主教は刀身に炎を纏うとともに、ミズラフを庇うように背中合わせに剣を構える。
「お伴します。師匠」
正体不明のあのドラゴンについてわかっていることは二つ。瞳を閉じた状態であるということと炎を使う攻撃に弱いということだ。
ミズラフに炎を使う手段はないため、とりあえずドラゴンを足止めしてトドメを総主教にやってもらうべきだろうか?
「……来るぞミズラフ!」
咆哮を上げながらこちらに突撃してくるドラゴンに対して、総主教は大きく剣を振るうことで炎の衝撃波を放つ。
「今だ、行けミズラフ!」
考えている暇はない。総主教の言葉を受け、炎をまともに喰らいドラゴンが怯んでいるすきにミズラフは大地を蹴り空中に飛び上がった。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「ーーーーーーーーーーーーー?!?!??!!!!」
一閃。ミズラフの放った一撃は狙いを外さずに正体不明のドラゴンを穿ち、その額を切り裂く。
蛇矛の一撃によりドラゴンは大きく後退するが、ただ単に額を切り裂いたにしては明らかに手応えが軽く、ミズラフは少なからず戸惑った。
まるで額を切ったのではなく、『蛇矛の一撃がたまたま古傷を掠め、結果的に傷が見えるようになった』その程度の手ごたえである。
だがドラゴンにとっては大きな問題だったようで、彼女はその身の変貌を解いて元の姿に戻ると、翼を広げてどこかへと去っていった。
「うっ!」
あのドラゴンの額に残る傷、かつて至近距離で見たことがあるように感じて、またしてもミズラフは出所不明の頭痛に苛まれる。
いつどこで見たかまでは思い出すことは出来ないが、たしかにあの傷を、すぐ近くで見たことがあったはずだ。
「……なんとか、撃退できたらしいな」
ドラゴンの撤退とともに晴れ行く空を見上げ総主教はそう呟いた。その声を聞いてミズラフは頭を振って強引に頭痛を追い出して素面に戻る。
「……はい。しかし恐ろしい相手でした。この蛇矛がなければどうなっていたか……」
「武器として加工されたドラゴニウムは魔力を拡散させる力を持つ。お前の武器があのドラゴンの力を打ち消したのだ」
そうか、明らかに不自然なタイミングであのドラゴンの変化が解けたのはドラゴニウムの力で魔力が拡散したためか。
とするならばあの額の傷は元々魔力で隠されており、ドラゴニウムの力で魔力が飛び散ったために現れたと考えるのが自然だろう。
蛇矛、そう言えば結局ダルクアとは喧嘩別れしたままになってしまった。彼女は彼女なりに自分のことを考えていたろうに、そんなダルクアを傷つけたままだ。
あのドラゴンのような恐ろしい相手とこれから絶対に対峙しないという確証がない以上、もしその相手に敗れてしまえばあれがダルクアとの今生の別れとなってしまうのか。
「……ミズラフ、迷いと後悔は瞳を曇らせるぞ」
ミズラフの内なる逡巡を見抜いたのか総主教は微かに嘆息したが、その彼の肩越しに、こちらに向かってくる人物を捉えて口元を歪ませた。
「だが、今回はそうならずに済みそうだな」
え? と顔を上げてミズラフは後ろを振り向くと、その直後信じられないものをみたかのように瞳を開く。
目を向けた先には、ヤマツミ村の鍛冶屋ダルクア・バルタザールが肩で息をしながらそこに立っていたからだ。
19/04/24 09:28更新 / 水無月花鏡
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