全てが澄み渡る
もうどれだけの月日が流れた事だろう。かの太閤が亡くなられ、徳川との天下分け目の戦いがあった。奮戦したが武運尽き、破れ、島津の下に身を隠していたがばれてしまった。幸いにも命を取られる事は無かったが、関東より遠い遠い海の向こうの島に流される事になった。そこで待っていたのは、過酷な毎日・・・ではなく、案外豊かな生活を送る事が出来た。そんな私も、既に80を超える老人。絶海の孤島であるこの場所に、私目当てで来る客はほとんどいなかった。
そんな皐月も終わりかけになる事であった。私にお会いしたいという客が現れたのだった。何とも、御伽衆をやっており、是非とも聞いて頂きたいという話があるそうだ。折角遠方から来て頂いたのだ。私は無下に断りもせず、その御伽衆に合う事にした。
「そち。名は何と申す。」
「世澄と申す。この度、貴殿に会いに行く為、備中国から参りました。」
「これはこれは。はるばる遠方からご苦労様です。ここまでの船旅は、さぞかし大変だったでしょう。」
「ええ、船酔いがひどくて、情けない事に一度吐いてしまいまして。ただ妻の支えでどうにかなりましたが。」
「それはそれは・・・」
「ところで、こちらに流されてはいかがお過ごしでしょうか?」
「まぁ、不自由なく暮らしているが・・・」
「それは結構でございます。」
この御伽衆。年は若いが、どうも懐かしい雰囲気を醸し出している。まるで、昔いた家臣にそっくりだ。だが、それより驚きなのは、御伽衆の横に座っている彼の妻だ。長い長い髪を持ち、顔を隠している。その隙間から少し顔をうかがう事が出来るが、何とも艶めかしい顔付きであった。太閤が生きておられたら、間違いなく目を付けていただろう。
「ところで、世澄の隣にいるのが貴殿の妻か?」
「はい。妻の永髪です。お見知りおき下さいませ。」
年にしては、何とも色っぽい声をしている。器量もよさそうだ。
「世澄殿、貴殿には過ぎたる妻ですかな?」
「いえいえ、貴殿の姉君も負けず劣らずでしたよ。」
「もう、旦那様ったら。」
世澄が顔を赤くする。その隣で、永髪も白雪の様な顔を赤く染めている。これだけでも夫婦円満と言う事が良くわかる。一豊公にも負けず劣らずと言ったところだろうか。
「さて、本題じゃが・・・世澄殿は御伽衆だと言うが、本日はこの老骨にどの様な話を聞かせるかな?」
「それでは、ある将の話を聞かせましょう。天下分け目の戦に敗れたものの、最愛の妻と巡り合わせる事が出来、波乱万丈の人生でしたが、最後はその妻と幸せに暮らす・・・という物語です。」
「・・・若干、お主の色気話も入っておるな?」
「若干どころかだいぶ入ってます故。」
「老骨に猥談を話した所で、立つものは立たぬぞ?」
「まぁ、そうおっしゃらずに・・・それは天下分け目の合戦後の事でありました。」
その将は、殿が西軍に味方していた故、西軍の将として戦っておりました。彼は東軍の猛将、福島正則相手に大奮戦しましたが、小早川の裏切りにあい、西軍は総崩れ。殿様は島に流され、彼は筑前の黒田家の下に落ち延びました。しかし、そこは彼の居場所ではありませんでした。彼は妻子も捨て、一人大阪を目指しました。そこで彼は、潜伏の身となったのであります。
ある日、彼は京の馬場の遊郭に来ておりました。彼は別に女と遊びに来ていた訳ではありませんでしたが、ただ興味本位でそこに来ておりました。艶やかな着物を着た遊女、華やかな町並み。そんな中、彼の目に留まったのは馬場の雰囲気に似つかわしくない、黒の着物を着た長い長い髪の女でありました。
「もし、そこの御方。この馬場の空気に似つかわしくない着物を着ておられるが、いかがなされた?」
「いえ、少々事情がありまして・・・」
彼は胸がときめくのを感じました。天下分け目の戦に敗れ、筑前から離れたあの時から捨てていた心が今、女を目の前にして動かされたのでありました。もう自分に女や愛とは縁がない。そう思ってはいました彼でしたが、彼も男。強い恋心に動かされたのでありました。
「・・・が、お主の妻。と言う事じゃな?」
「ええ、その通りです。話の途中で茶々を入れるとは、貴殿もまた意地悪な方で。」
「ふふふ、すまんかった。では話を続けられよ。」
長い長い髪から覗かせる女の美しい顔。まるでその肌は、この世の穢れに一切触れた事の無いかのような清純で純朴な肌で、彼の心を射止めるには十分であった。
「お主、名を何と申す。」
「はい。那加(なが)と言います。」
「那加と申すか。良い名だ。」
「あ、ありがとうございます。」
この那加も、牢人ながら彼の凛々しい姿に惚れていました。刹那ではありますが、二人が近づき、慣れ染め会うまでかかった時はそうかかりませんでした。
その日の内に仲良くなった二人。彼は、那加の家に招かれました。那加との楽しい時間は、自分が牢人の身である事を忘れてしまうほど楽しいものでした。ああ、このまま那加と一緒にいたい。その念はどんどん強くなって行きました。そして、彼は那加と一夜を共にすることとなりました。
互いに激しく接吻し、彼の体には那加の長い紙が蛸の如く絡みつきます。髪を掻きわけ、白雪の様な那加のを見つめ、
「那加、わしの妻になってもらえないか?」
「はい。喜んで。」
二人の交り合いはさらに激しく、淫らなものとなって行った。那加の秘部は白露の如く濡れており、彼ももはや我慢の限界であった。彼に突かれるたび、いやらしい声を上げ、その髪を振り乱す様は、誰もが興奮を覚える様でした。だらしなく舌を出し、彼を愛らしく見つめ、もう二度と離さないと言わんばかり
に髪が彼の体に纏わりついていました。
「那加、もう我慢出来ん。出すぞ。」
「はい。思う存分あたしを満たして下さいませ。旦那様。」
そう言うと、那加に子種をぶちまけました。那加はまんざらでもなく、中に子種が入って来る度に身を悶えさせ、翡翠の様な眼で彼をずっと見つめていました。そして二人は夫婦となったのです。
こうして、二人は夫婦となりましたが、彼が牢人である事は変わらず、播磨、淡路、大和と国を変えながら暮らしておりました。しかしながら、那加とは仲睦まじく暮らしており、二人は幸せでした。
そんなある日、彼の下に手紙が届きました。その手紙は豊臣家の物で、徳川家と戦をする為、是非来てほしいという内容でした。彼は悩みました。愛する妻と生き分かれるかもしれません。しかし、島に流された殿様を復帰させたいという念。さらには個人的にも豊臣に恩がある為、悩んだ末、彼は大阪城に向かう事にしました。その事を那加に伝えると、那加は大泣きしました。ようやく巡り合えた愛しの旦那様なのに、戦で失いたくは無い。そう喚き散らしながら、美しい顔を髪を涙で濡らしました。しかし彼は、
「必ず生きて帰る。」
と、那加に一言言いました。その言葉に那加は何か確信を持ったらしく、小さな黒色のお守りを彼に渡しました。
「このお守りは?」
「このお守りにはあたしの髪が入っています。もし、危機に陥った時は、このお守りを握りしめて下さい。そうすれば、必ずあたしの元に戻れます故。なので、必ず無事に帰って来て下さいね。播磨の摩耶山で待っています。」
「ああ、わかった。摩耶山か。何かあったらそこに行く。だから俺を信じてくれ。」
そう言うと、彼は大阪城に向かいました。那加との約束を信じて。
その後、徳川との戦が始まりました。大阪の陣です。最初のうちは豊臣方が優勢であったものの、堀を埋められた後、一気に追い詰められました。塙団右門、後藤又兵衛、真田信繁ら大坂方が次々と討ち死にし、とうとう大阪城も落城してしまいました。この時、船場を守っていた彼でしたが、絶体絶命でした。周りは徳川の兵に囲まれ、一時は敵陣に斬り込み、死ぬ覚悟でいました。その時、ふと脳裏に浮かんだのが愛しい那加の姿でした。短い時ではありましたが、彼女と過ごした時は忘れたくても忘れられません。そして、別れ際の時、もらったお守りの事を思い出しました。
「かならずあたしの元に帰れる。」
その言葉を思い出した彼は、お守りを取り出し、握りしめました。すると彼は、無我夢中で西に向けて走り出しました。那加に生きて会いたい。その念だけが彼を動かしていました。不思議な事に、周りは徳川の兵で溢れていましたが、彼は無事に大阪を抜ける事に成功。そのまま飲まず食わずで摩耶山まで走り続けました。
そして、摩耶山の山頂にたどり着いた彼を迎えたのは、見覚えのある愛しい妻の姿でした。
「無事、帰って来たぞ。」
「あたし、信じていました。」
那加は彼に抱きつくと、嬉し涙を流しました。彼も泣きました。生きて愛しい妻と会えた事。それだけが何よりの喜びでした。
「さぁ、今度はもうどこにも行かず、おまえと二人っきりで暮らそう。」
「はい。」
二人の姿は、夕刻の摩耶の麓に消えて行きました。
その後、徳川は彼のを必死に探して暗殺しようとしましたが、不思議な事に見つからず、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
「・・・これで、終いです。」
「・・・壮絶じゃのう・・・」
この時、私は世澄の正体がなんとなくわかり始めていた。その探りを入れる為、私はある質問をした。
「それで、何故この話を島流しになったこのわし、宇喜多秀家にしに来た?」
「ええ。実はある方から頼まれている物をお渡しにきました。」
「ほう、ある物とは?」
「こちらです。」
取りだしたのは、桐で出来た小さな小箱であった。そこには、何故か宇喜多家の家紋が描かれてあった。
「これは?」
「わかりません。しかし、これを是非とも秀家公に渡して欲しい。とだけ聞いております。」
「そうか・・・」
「それでは、私世澄はこれにて失礼します・・・あ、そうそう、一つ言い忘れていた事がありました。」
「何じゃ?」
「殿が元気そうな姿を見て、安心しました。」
「!!」
「それではこれで・・・」
「ま、まさかお主、明石全登か!?ま、待てっ!」
私は世澄を追いかけようとしたが、小箱に躓いてしまい転んでしまった。その拍子に、小箱の中身が出て来た。切支丹が使っていた小さなロザリオであった。そして十字の裏にはこう掘られていた。「明石掃部全登」と。
「全登ぃ!」
そう頭を上げた時には、もう世澄の姿は見えなかった。
これが先月の出来事である。私は今でもあれは夢かと思うほどである。全登が生きていたとしても、あんなに若いはずがない。しかし、あのロザリオがこれが現実だと証明している。そしてこれは噂なのだが、大坂の陣の後、全登を備中の山の中で若い妻と共に暮らし、たまに人里に下りてくるという噂。そして、原三郎左が馬場に開いた遊郭には男を幸せにする長い髪の妖怪、毛娼妓が現れるという噂である。もしかすると全登は、あの御伽話の主人公の様に、忠義も信仰心も捨て、ただ愛する妻と共に暮らしているのかもしれない。そう思うと私はどこか胸がホッとした気分になるのだった。季節は夏。どこまでも青い空の下、二人はどこかで仲睦まじく暮らしている事だろう。
完
そんな皐月も終わりかけになる事であった。私にお会いしたいという客が現れたのだった。何とも、御伽衆をやっており、是非とも聞いて頂きたいという話があるそうだ。折角遠方から来て頂いたのだ。私は無下に断りもせず、その御伽衆に合う事にした。
「そち。名は何と申す。」
「世澄と申す。この度、貴殿に会いに行く為、備中国から参りました。」
「これはこれは。はるばる遠方からご苦労様です。ここまでの船旅は、さぞかし大変だったでしょう。」
「ええ、船酔いがひどくて、情けない事に一度吐いてしまいまして。ただ妻の支えでどうにかなりましたが。」
「それはそれは・・・」
「ところで、こちらに流されてはいかがお過ごしでしょうか?」
「まぁ、不自由なく暮らしているが・・・」
「それは結構でございます。」
この御伽衆。年は若いが、どうも懐かしい雰囲気を醸し出している。まるで、昔いた家臣にそっくりだ。だが、それより驚きなのは、御伽衆の横に座っている彼の妻だ。長い長い髪を持ち、顔を隠している。その隙間から少し顔をうかがう事が出来るが、何とも艶めかしい顔付きであった。太閤が生きておられたら、間違いなく目を付けていただろう。
「ところで、世澄の隣にいるのが貴殿の妻か?」
「はい。妻の永髪です。お見知りおき下さいませ。」
年にしては、何とも色っぽい声をしている。器量もよさそうだ。
「世澄殿、貴殿には過ぎたる妻ですかな?」
「いえいえ、貴殿の姉君も負けず劣らずでしたよ。」
「もう、旦那様ったら。」
世澄が顔を赤くする。その隣で、永髪も白雪の様な顔を赤く染めている。これだけでも夫婦円満と言う事が良くわかる。一豊公にも負けず劣らずと言ったところだろうか。
「さて、本題じゃが・・・世澄殿は御伽衆だと言うが、本日はこの老骨にどの様な話を聞かせるかな?」
「それでは、ある将の話を聞かせましょう。天下分け目の戦に敗れたものの、最愛の妻と巡り合わせる事が出来、波乱万丈の人生でしたが、最後はその妻と幸せに暮らす・・・という物語です。」
「・・・若干、お主の色気話も入っておるな?」
「若干どころかだいぶ入ってます故。」
「老骨に猥談を話した所で、立つものは立たぬぞ?」
「まぁ、そうおっしゃらずに・・・それは天下分け目の合戦後の事でありました。」
その将は、殿が西軍に味方していた故、西軍の将として戦っておりました。彼は東軍の猛将、福島正則相手に大奮戦しましたが、小早川の裏切りにあい、西軍は総崩れ。殿様は島に流され、彼は筑前の黒田家の下に落ち延びました。しかし、そこは彼の居場所ではありませんでした。彼は妻子も捨て、一人大阪を目指しました。そこで彼は、潜伏の身となったのであります。
ある日、彼は京の馬場の遊郭に来ておりました。彼は別に女と遊びに来ていた訳ではありませんでしたが、ただ興味本位でそこに来ておりました。艶やかな着物を着た遊女、華やかな町並み。そんな中、彼の目に留まったのは馬場の雰囲気に似つかわしくない、黒の着物を着た長い長い髪の女でありました。
「もし、そこの御方。この馬場の空気に似つかわしくない着物を着ておられるが、いかがなされた?」
「いえ、少々事情がありまして・・・」
彼は胸がときめくのを感じました。天下分け目の戦に敗れ、筑前から離れたあの時から捨てていた心が今、女を目の前にして動かされたのでありました。もう自分に女や愛とは縁がない。そう思ってはいました彼でしたが、彼も男。強い恋心に動かされたのでありました。
「・・・が、お主の妻。と言う事じゃな?」
「ええ、その通りです。話の途中で茶々を入れるとは、貴殿もまた意地悪な方で。」
「ふふふ、すまんかった。では話を続けられよ。」
長い長い髪から覗かせる女の美しい顔。まるでその肌は、この世の穢れに一切触れた事の無いかのような清純で純朴な肌で、彼の心を射止めるには十分であった。
「お主、名を何と申す。」
「はい。那加(なが)と言います。」
「那加と申すか。良い名だ。」
「あ、ありがとうございます。」
この那加も、牢人ながら彼の凛々しい姿に惚れていました。刹那ではありますが、二人が近づき、慣れ染め会うまでかかった時はそうかかりませんでした。
その日の内に仲良くなった二人。彼は、那加の家に招かれました。那加との楽しい時間は、自分が牢人の身である事を忘れてしまうほど楽しいものでした。ああ、このまま那加と一緒にいたい。その念はどんどん強くなって行きました。そして、彼は那加と一夜を共にすることとなりました。
互いに激しく接吻し、彼の体には那加の長い紙が蛸の如く絡みつきます。髪を掻きわけ、白雪の様な那加のを見つめ、
「那加、わしの妻になってもらえないか?」
「はい。喜んで。」
二人の交り合いはさらに激しく、淫らなものとなって行った。那加の秘部は白露の如く濡れており、彼ももはや我慢の限界であった。彼に突かれるたび、いやらしい声を上げ、その髪を振り乱す様は、誰もが興奮を覚える様でした。だらしなく舌を出し、彼を愛らしく見つめ、もう二度と離さないと言わんばかり
に髪が彼の体に纏わりついていました。
「那加、もう我慢出来ん。出すぞ。」
「はい。思う存分あたしを満たして下さいませ。旦那様。」
そう言うと、那加に子種をぶちまけました。那加はまんざらでもなく、中に子種が入って来る度に身を悶えさせ、翡翠の様な眼で彼をずっと見つめていました。そして二人は夫婦となったのです。
こうして、二人は夫婦となりましたが、彼が牢人である事は変わらず、播磨、淡路、大和と国を変えながら暮らしておりました。しかしながら、那加とは仲睦まじく暮らしており、二人は幸せでした。
そんなある日、彼の下に手紙が届きました。その手紙は豊臣家の物で、徳川家と戦をする為、是非来てほしいという内容でした。彼は悩みました。愛する妻と生き分かれるかもしれません。しかし、島に流された殿様を復帰させたいという念。さらには個人的にも豊臣に恩がある為、悩んだ末、彼は大阪城に向かう事にしました。その事を那加に伝えると、那加は大泣きしました。ようやく巡り合えた愛しの旦那様なのに、戦で失いたくは無い。そう喚き散らしながら、美しい顔を髪を涙で濡らしました。しかし彼は、
「必ず生きて帰る。」
と、那加に一言言いました。その言葉に那加は何か確信を持ったらしく、小さな黒色のお守りを彼に渡しました。
「このお守りは?」
「このお守りにはあたしの髪が入っています。もし、危機に陥った時は、このお守りを握りしめて下さい。そうすれば、必ずあたしの元に戻れます故。なので、必ず無事に帰って来て下さいね。播磨の摩耶山で待っています。」
「ああ、わかった。摩耶山か。何かあったらそこに行く。だから俺を信じてくれ。」
そう言うと、彼は大阪城に向かいました。那加との約束を信じて。
その後、徳川との戦が始まりました。大阪の陣です。最初のうちは豊臣方が優勢であったものの、堀を埋められた後、一気に追い詰められました。塙団右門、後藤又兵衛、真田信繁ら大坂方が次々と討ち死にし、とうとう大阪城も落城してしまいました。この時、船場を守っていた彼でしたが、絶体絶命でした。周りは徳川の兵に囲まれ、一時は敵陣に斬り込み、死ぬ覚悟でいました。その時、ふと脳裏に浮かんだのが愛しい那加の姿でした。短い時ではありましたが、彼女と過ごした時は忘れたくても忘れられません。そして、別れ際の時、もらったお守りの事を思い出しました。
「かならずあたしの元に帰れる。」
その言葉を思い出した彼は、お守りを取り出し、握りしめました。すると彼は、無我夢中で西に向けて走り出しました。那加に生きて会いたい。その念だけが彼を動かしていました。不思議な事に、周りは徳川の兵で溢れていましたが、彼は無事に大阪を抜ける事に成功。そのまま飲まず食わずで摩耶山まで走り続けました。
そして、摩耶山の山頂にたどり着いた彼を迎えたのは、見覚えのある愛しい妻の姿でした。
「無事、帰って来たぞ。」
「あたし、信じていました。」
那加は彼に抱きつくと、嬉し涙を流しました。彼も泣きました。生きて愛しい妻と会えた事。それだけが何よりの喜びでした。
「さぁ、今度はもうどこにも行かず、おまえと二人っきりで暮らそう。」
「はい。」
二人の姿は、夕刻の摩耶の麓に消えて行きました。
その後、徳川は彼のを必死に探して暗殺しようとしましたが、不思議な事に見つからず、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
「・・・これで、終いです。」
「・・・壮絶じゃのう・・・」
この時、私は世澄の正体がなんとなくわかり始めていた。その探りを入れる為、私はある質問をした。
「それで、何故この話を島流しになったこのわし、宇喜多秀家にしに来た?」
「ええ。実はある方から頼まれている物をお渡しにきました。」
「ほう、ある物とは?」
「こちらです。」
取りだしたのは、桐で出来た小さな小箱であった。そこには、何故か宇喜多家の家紋が描かれてあった。
「これは?」
「わかりません。しかし、これを是非とも秀家公に渡して欲しい。とだけ聞いております。」
「そうか・・・」
「それでは、私世澄はこれにて失礼します・・・あ、そうそう、一つ言い忘れていた事がありました。」
「何じゃ?」
「殿が元気そうな姿を見て、安心しました。」
「!!」
「それではこれで・・・」
「ま、まさかお主、明石全登か!?ま、待てっ!」
私は世澄を追いかけようとしたが、小箱に躓いてしまい転んでしまった。その拍子に、小箱の中身が出て来た。切支丹が使っていた小さなロザリオであった。そして十字の裏にはこう掘られていた。「明石掃部全登」と。
「全登ぃ!」
そう頭を上げた時には、もう世澄の姿は見えなかった。
これが先月の出来事である。私は今でもあれは夢かと思うほどである。全登が生きていたとしても、あんなに若いはずがない。しかし、あのロザリオがこれが現実だと証明している。そしてこれは噂なのだが、大坂の陣の後、全登を備中の山の中で若い妻と共に暮らし、たまに人里に下りてくるという噂。そして、原三郎左が馬場に開いた遊郭には男を幸せにする長い髪の妖怪、毛娼妓が現れるという噂である。もしかすると全登は、あの御伽話の主人公の様に、忠義も信仰心も捨て、ただ愛する妻と共に暮らしているのかもしれない。そう思うと私はどこか胸がホッとした気分になるのだった。季節は夏。どこまでも青い空の下、二人はどこかで仲睦まじく暮らしている事だろう。
完
14/08/16 10:01更新 / JOY