温泉編(3)
ヒノキの湯の温泉宿に泊まることになったのはいいけれど、どうにも先輩が不機嫌だ。
「いや〜珍しいねえ、ここにカップルでお泊りなんてね、というか今日は誰もお客いないから夜の方もどうぞお盛んに…」
部屋まで連れてきた蛙人はどうもおしゃべりだ。ニマニマしながら面白そうにこちらに下ネタなんかを振ってくる。
「それじゃごゆっくり…ご飯の準備はお電話いただけたら参りますからねぇ」
ぴた、ぴた…と足音が遠ざかった。
部屋には先輩と俺の二人きり。
「…先輩」
「…」
「ひ、広い部屋ですね〜、景色もいいですし…」
無理やりに明るい方向に持って行こうとするも。
「鬼の女の人のところ行かなくていいのかな?君はあの女にぞっこんだったけど」
「うっ…で、ですから先輩、俺はほんとに先輩一筋なんです!アレは色々あっただけで…大好きです!愛してます!」
「信じられるわけないじゃん?鼻の下伸ばして体ジロジロジロジロ…」
さっきから先輩の尻尾は威嚇するように床を静かに叩いている。
飛びかかったりしようものなら、一瞬で尻尾に巻かれて窓から放り投げられ、美しい渓谷に染みを作ることになるだろう。
「…ちょっとお散歩とかどうです?」
「やだ」
「お昼寝したくなりません?いい天気ですし一緒に」
「浮気者と添い寝なんかしたくない」
「れ、冷蔵庫にビールが!飲むしかない!」
「一人でどうぞ」
完璧な温度の違い。
これは本気で怒っているみたいだ。
「先輩、何をしたら許してくれるんですか…」
「絶対許さないもん」
ふい、と外の方を向いてしまう。
悪いのは俺なのに、ここまで無視を貫かれるとこちらがイライラしてくる。
「…ちょっと頭冷やしてきます」
先輩が黄色い目でこちらを睨み据えてきた。
「女の子のところ行くんでしょ?」
「っ…!ちょっとタバコ吸って来るだけです」
言い訳が思い浮かばず、つるりと口から漏れる言葉。
先輩はさらに怒った様子で。
「タバコはダメだって言ってるでしょ…!」
「関係ないでしょう、俺の言葉にも応じてくれない先輩には!」
「それは君が…!」
大きな目に少し涙を溜めてこちらを見る先輩。
少しだけ、黒いシミのようにできた罪悪感が広がっていく。
「…、夕方には戻ります」
俺は部屋を飛び出した。
無性にタバコが吸いたい。吸って何もかもを無感動にしたい。
「…最低だな、俺」
一人川辺に出て、岩に腰掛ける。
いつ帰ろうか。
「…最低だね、私」
日暮君が出て行った部屋で私は一人きり、めそめそとしていた。
日暮君との休日旅行…あわよくばお泊りデートに浮かれて、彼女としての可愛さを出そうとした途端にこんなことに。
温泉に入った日暮君は真っ赤な顔して、体つきは思ったよりがっちりしてて、可愛かった。
でも他の女…とりわけ人外と楽しそうに話す彼を思い出したら…。
みしし…
「あっ…い、いけないいけない」
無意識に柱に巻きつけた尻尾が柱を締め付け、折らんとしていた。
「…謝りたい、けど、私が甘かったら彼はすぐ誑かされちゃう」
人外系統のメスの特徴として、気に入ったオスを独占する種族があるものもいるらしい。
人魚の中にはオスを体の中に吸収してしまうものもあるとか。
「彼を…私だけのものに…」
決してできないことではない。
実家に帰って逃げ出したことを謝罪し、きちんと彼を紹介すれば実家の地方の家は簡単に手に入る。
その家に彼と二人きりになればよい。
いや、そんなことをせずとも、彼を肉体的に抑え込めるのは分かっている。
つまり無理やり襲い、彼を虜にすればよいのではないか。
彼のインキュバス化については分からないけれど、少なくとも確実に私色に染められる。
「…だ、ダメ、そんなことしたら嫌われる…」
しかし逆に言えば、嫌われるリスクさえなければ私は彼を監禁でもなんでもしてしまいそうになっている。
そんな重い愛、彼に悟られてはいけない。
「…帰ってきたら、きちんと謝ろう」
今日こそ私から謝る。
そして彼に許してもらう。
「…にしても、どこ行ったんだろう」
「こんなところで昼寝したら、虫に刺されますよ」
肩を叩かれて目を覚ました。
辺りを見回すとそこは勢いの増した川。
「ああ…俺寝てたのか…」
「まあいいお天気ですしなぁ、昼寝したくなるのも分かりますが」
俺を起こしてくれたのは受付をしてくれた老人だった。
木で編んだカゴを足元に置き、釣り糸を垂らしている。
「釣れますか?」
「ぼちぼちですかな、ヤマメが二匹…今日はお客はあなた方だけですし、十分なんですがね」
「え?じゃあ夜食は…」
「このヤマメの塩焼きがメインディッシュになりますよ、まあ美味しいかは分かりませんがね」
しばらくの沈黙の後。
にこにこと微笑む老人が思いついたように言った。
「そういえばあなた、おせっかいで申し訳ないがお連れの方とケンカしたとか…」
「うっ…お恥ずかしい限り」
「あっはっは、若い頃は僕も女房とよくケンカしたものです、もうできませんがね」
「となると奥さんは…」
「この土地に元々住んでいたリザードマンですよ、ここで生まれ育ったうえ、自然に対してとても敏感だから彼女と一緒にいて退屈はしなかった…確か172歳で亡くなりましたな、出会った頃には100を超えていましたが、それでも若々しくてええ娘でした」
「…込み入ったこと聞いちゃってすみません」
「謝る必要はないですよっ…と」
老人が竿を勢いよく上げる。
激流によって揺れた気配も分からなかった糸には、大きなヤマメが付いていた。
「ふむ…今日は特別料理にしますかな」
「え?」
「塩焼きを二つ出しますので、塩が皿の左端に山になっている方のヤマメを彼女に食べさせてくだされ」
「それが特別料理ですか?」
「ええ、とても美味しいですからね」
老人はそれ以上語らなかった。
怪しい気もしないでもないが、俺は怪しい択にすがらざるを得ないほど焦っているのだ。
「わかりました、お願いします」
「はいはい…ああ、あと」
「?」
「いつでも愛は忘れちゃいけませんよ、いなくなってからでは愛は注げませんから」
糸を見つめる老人の目は、心なしか光るものがあったように見えた。
「いや〜珍しいねえ、ここにカップルでお泊りなんてね、というか今日は誰もお客いないから夜の方もどうぞお盛んに…」
部屋まで連れてきた蛙人はどうもおしゃべりだ。ニマニマしながら面白そうにこちらに下ネタなんかを振ってくる。
「それじゃごゆっくり…ご飯の準備はお電話いただけたら参りますからねぇ」
ぴた、ぴた…と足音が遠ざかった。
部屋には先輩と俺の二人きり。
「…先輩」
「…」
「ひ、広い部屋ですね〜、景色もいいですし…」
無理やりに明るい方向に持って行こうとするも。
「鬼の女の人のところ行かなくていいのかな?君はあの女にぞっこんだったけど」
「うっ…で、ですから先輩、俺はほんとに先輩一筋なんです!アレは色々あっただけで…大好きです!愛してます!」
「信じられるわけないじゃん?鼻の下伸ばして体ジロジロジロジロ…」
さっきから先輩の尻尾は威嚇するように床を静かに叩いている。
飛びかかったりしようものなら、一瞬で尻尾に巻かれて窓から放り投げられ、美しい渓谷に染みを作ることになるだろう。
「…ちょっとお散歩とかどうです?」
「やだ」
「お昼寝したくなりません?いい天気ですし一緒に」
「浮気者と添い寝なんかしたくない」
「れ、冷蔵庫にビールが!飲むしかない!」
「一人でどうぞ」
完璧な温度の違い。
これは本気で怒っているみたいだ。
「先輩、何をしたら許してくれるんですか…」
「絶対許さないもん」
ふい、と外の方を向いてしまう。
悪いのは俺なのに、ここまで無視を貫かれるとこちらがイライラしてくる。
「…ちょっと頭冷やしてきます」
先輩が黄色い目でこちらを睨み据えてきた。
「女の子のところ行くんでしょ?」
「っ…!ちょっとタバコ吸って来るだけです」
言い訳が思い浮かばず、つるりと口から漏れる言葉。
先輩はさらに怒った様子で。
「タバコはダメだって言ってるでしょ…!」
「関係ないでしょう、俺の言葉にも応じてくれない先輩には!」
「それは君が…!」
大きな目に少し涙を溜めてこちらを見る先輩。
少しだけ、黒いシミのようにできた罪悪感が広がっていく。
「…、夕方には戻ります」
俺は部屋を飛び出した。
無性にタバコが吸いたい。吸って何もかもを無感動にしたい。
「…最低だな、俺」
一人川辺に出て、岩に腰掛ける。
いつ帰ろうか。
「…最低だね、私」
日暮君が出て行った部屋で私は一人きり、めそめそとしていた。
日暮君との休日旅行…あわよくばお泊りデートに浮かれて、彼女としての可愛さを出そうとした途端にこんなことに。
温泉に入った日暮君は真っ赤な顔して、体つきは思ったよりがっちりしてて、可愛かった。
でも他の女…とりわけ人外と楽しそうに話す彼を思い出したら…。
みしし…
「あっ…い、いけないいけない」
無意識に柱に巻きつけた尻尾が柱を締め付け、折らんとしていた。
「…謝りたい、けど、私が甘かったら彼はすぐ誑かされちゃう」
人外系統のメスの特徴として、気に入ったオスを独占する種族があるものもいるらしい。
人魚の中にはオスを体の中に吸収してしまうものもあるとか。
「彼を…私だけのものに…」
決してできないことではない。
実家に帰って逃げ出したことを謝罪し、きちんと彼を紹介すれば実家の地方の家は簡単に手に入る。
その家に彼と二人きりになればよい。
いや、そんなことをせずとも、彼を肉体的に抑え込めるのは分かっている。
つまり無理やり襲い、彼を虜にすればよいのではないか。
彼のインキュバス化については分からないけれど、少なくとも確実に私色に染められる。
「…だ、ダメ、そんなことしたら嫌われる…」
しかし逆に言えば、嫌われるリスクさえなければ私は彼を監禁でもなんでもしてしまいそうになっている。
そんな重い愛、彼に悟られてはいけない。
「…帰ってきたら、きちんと謝ろう」
今日こそ私から謝る。
そして彼に許してもらう。
「…にしても、どこ行ったんだろう」
「こんなところで昼寝したら、虫に刺されますよ」
肩を叩かれて目を覚ました。
辺りを見回すとそこは勢いの増した川。
「ああ…俺寝てたのか…」
「まあいいお天気ですしなぁ、昼寝したくなるのも分かりますが」
俺を起こしてくれたのは受付をしてくれた老人だった。
木で編んだカゴを足元に置き、釣り糸を垂らしている。
「釣れますか?」
「ぼちぼちですかな、ヤマメが二匹…今日はお客はあなた方だけですし、十分なんですがね」
「え?じゃあ夜食は…」
「このヤマメの塩焼きがメインディッシュになりますよ、まあ美味しいかは分かりませんがね」
しばらくの沈黙の後。
にこにこと微笑む老人が思いついたように言った。
「そういえばあなた、おせっかいで申し訳ないがお連れの方とケンカしたとか…」
「うっ…お恥ずかしい限り」
「あっはっは、若い頃は僕も女房とよくケンカしたものです、もうできませんがね」
「となると奥さんは…」
「この土地に元々住んでいたリザードマンですよ、ここで生まれ育ったうえ、自然に対してとても敏感だから彼女と一緒にいて退屈はしなかった…確か172歳で亡くなりましたな、出会った頃には100を超えていましたが、それでも若々しくてええ娘でした」
「…込み入ったこと聞いちゃってすみません」
「謝る必要はないですよっ…と」
老人が竿を勢いよく上げる。
激流によって揺れた気配も分からなかった糸には、大きなヤマメが付いていた。
「ふむ…今日は特別料理にしますかな」
「え?」
「塩焼きを二つ出しますので、塩が皿の左端に山になっている方のヤマメを彼女に食べさせてくだされ」
「それが特別料理ですか?」
「ええ、とても美味しいですからね」
老人はそれ以上語らなかった。
怪しい気もしないでもないが、俺は怪しい択にすがらざるを得ないほど焦っているのだ。
「わかりました、お願いします」
「はいはい…ああ、あと」
「?」
「いつでも愛は忘れちゃいけませんよ、いなくなってからでは愛は注げませんから」
糸を見つめる老人の目は、心なしか光るものがあったように見えた。
18/06/17 16:47更新 / あさやけ
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