朝
ピピーッと、炊飯器が米を焚き上げる音。鼻腔にほんのりと味噌の香りが届く。
あの人がまた来てくれているのだろう。ぼやけた頭を振って起床した私は寝巻として着ていたスウェットを脱ぎ、クローゼットに吊るす。替わりに引っ張り出したのは、シワ一つないダークグレーのスーツ一式と、白のシャツ。
慣れた動作でサラリーマンの戦闘服とネクタイを纏い、姿見で身だしなみを確認。
ヒゲナシ、爪よし、背筋もよし。少しはねた髪も霧吹きとクシで整え、顔も引きつらないよう口角マッサージを行う。
なにせ今から会うのは意中の相手。彼女は知るはずもないが、私はある出来事をきっかけにその人に恋心を抱いてしまった。当然緊張するというもの。
(よし)
心の中で自分に活を入れ、息を短く吐き出す。そして寝室兼書斎の扉を開け、私はリビングに移動した。
一人暮らしにしては広い、十畳ほどの居間とダイニングキッチン。
台所に立つのは淡い黄金色の長髪を持つ妙齢の女性だ。身に纏う朱の割烹着が、はっとさせるほどの鮮やかさを放っている。
包丁を使いこなす後ろ姿からは匂い立つような色香があり、結い上げた髪の隙間からチラリと覗くうなじが美しい。背筋をしゃんと伸ばした綺麗な佇まいには、私でなくとも目を奪われるに違いない。
……おっと、不埒な感情を彼女に抱いてはいけない。
「おはようございます蓮花さん」
私の呼びかけに料理の手が止まり、彼女がくるりと振り向いた。切れ長の瞳に整った鼻梁。
高級陶磁器のように、しみ一つない白肌。女優かと見紛う程の美貌の持ち主だ。
「おはようございます、想一さん」
どんな男も虜にする、淑やかで気品のある滑らかな声。彼女の名は山城蓮花、二十五歳。
失恋が原因で落ち込んでいた私を励ましてくれて、そのまま色々と世話を見てくれるようになった方だ。
私より一つ年上でもあるのだが、こちらの歳を明かすと大層驚いていた。なんでも私の年齢を二十代後半と思っていたらしい。
外見のせいで実年齢より上に見られるのは、もう慣れている。
「もう少しお待ちになって。このネギを入れたら完成間近ですので」
「恐縮です。毎朝食事を作りにきてくれるなんて、本当に頭が下がります」
「その言葉を貰えただけでも作り甲斐がありますね」
柔らかに笑うと、彼女は手元にあるネギの小口切りを再開し始めた。
その間、私は洗面所で手早く洗顔とうがいをすませる。
リビングに戻るとテーブルの上には茶の入った湯のみと購読している新聞が置いてあった。
「すいません。気を遣わせてしまって」
「お構いなく」
朝食ができるまでの間、くつろがせてもらうことにした。
口に含んだ緑茶は熱すぎもなくぬるすぎもしない、丁度いい温度だった。豊かな日本茶の香りが鼻を抜け、リラックスした気分になる。彼女の淹れるお茶は本当に美味しい。
吐息をつき、新聞を開く。大見出しには、新しく改定が為された人魔異種間結婚についての法案や変更点がアレコレ書かれていた。
「両者の合意といくつかの条件を満たせば、未成年の魔物娘とも結婚が可能か。日本も以前と比べて大きく変わったな……」
青少年健全育成条例の名の元に、あらゆるものを片端から規制し禁止してきた国のやることとは思えない。これも十数年前に突如として現れた新しい隣人達、魔物娘の影響力が大きいということだろう。
ついこの間は、魔物と人間の重婚を認めるという法案が可決されたばかり。
つくづく魔物娘達の手腕には驚かされる。
「想一さんは、今回の未成年結婚許可改定や人魔婚について反対ですか?」
料理を続けながら蓮花さんが伺ってくる。刻んだネギを鍋に入れ、ゆっくりとみそ汁をかき混ぜる姿は彼女の居住まいもあって中々絵になる。
「私は賛成派ですね。どちらかと言うと、としう…年下が好きという訳ではないんですが。けど本当に想い合っているのに、それが罪や悪とされてきた今までの法令に疑問を感じていたので。人魔婚に関しても、種族の違いや見た目がどうのこうの言うつもりはありませんし」
年上の女性が好き、という言葉を寸前で誤魔化して別の文脈に変換できたのは僥倖だった。
まだこの感情を、彼女に悟られる訳にはいかない。
「そ、そうですか。よかった」
どこかホッとした様子の蓮花さん。こちらこそ良かった、気取られなかったみたいだ。
「いただきます」
「どうぞ、お召し上がりになって」
両手を合わせ、朝食をご馳走になる。向かいの席にはニコニコした笑顔を浮かべる蓮花さんが座っており、私の手元を眺めている。
目の前には彼女の手作りごはん達が、湯気を立てて食されるのを待っている。
熱々ふっくら炊きたての白米。わかめに油揚げ、大根と豆腐、小口切りにされたネギが浮かぶみそ汁。彼女の髪と同じ色の綺麗に巻かれただしまき卵。そして一口サイズに乱切りされた野菜と牛肉が自慢の肉じゃが。
どれも非常に美味しそうだ。
手始めにみそ汁を頂くことにした。香りを楽しんだ後、椀を傾ける。郷愁を感じさせるほっとした味わいだ。わかめと油揚げの風味がよく効いており、豆腐と大根も噛み締めるだけで旨みが溢れる。緑が映えるネギも程よいアクセントになっていて、食欲が進む。
口の中が空になったらだし巻き卵を頬張る。白砂糖のうっすらした甘さが卵の風味を底上げしており、彼女の丁寧かつ精妙な腕前が伺える。私も時々だし巻き卵を作ることはあるが、何度やってもこうはならない。
そして朝餉の主役であろう、肉じゃがに箸をつける。野菜にはしっかり火が通っており、牛肉は余計な脂が抜けていくらでもいけそうだ。
素朴な旨みの人参、ほくほく食感が売りのじゃがいも、透き通った見た目と甘さが特徴の玉ねぎ、そして他の食材に囲まれても存在感を示す牛肉。
それらを包む薄口しょうゆのシンプルな味付けが胃を捉えて離さず、熱々のご飯をかきこめば至福の瞬間だ。
「美味しい、本当に美味しいです」
「急がなくてもごはん達は逃げませんよ」
「はい。いけませんね、蓮花さんの料理となるとつい箸が急いてしまいます」
「そう言って下さると嬉しいですわ。おかわりもたくさんありますからね」
そこでようやく蓮花さんも食事を始める。彼女曰く、もてなす側が先に箸を取ってはいけないと家のしつけを受けているらしい。なんというか、彼女の言葉遣いや雰囲気も相まって名家の出自ではないかと考えてしまう。
(けど古風な居住まいの節々に、びっくりするくらいの色気もあるんだよな)
みそ汁を口に含みながら、目の端で彼女の様子を観察する。
上品かつ洗練された所作で朝食を口に運ぶ彼女は、〇〇家の御令嬢と言われても信じてしまいそうな気品がある。
むしろこの歳になっても交際経験がないというのが信じられないくらいだ。こんな美女を放っておくなんて、世の男達は何をしているのだろう。
……まぁ、彼女に寄ってくる男がいないのは私にとっては大変好都合だが。
少なくとも勤め先の同僚やオフィス街のOLに、ここまで魅力的な女性はいない。
(現代日本に絶えて久しいとされる大和撫子か)
そんなことを考えつつ、小鉢にちょこんと乗った漬物もいただく。当然こちらも彼女の手作りだ。ポリポリした歯ごたえがクセになりそうで、白米との相性も抜群。
市販製品にありがちなくどさも一切なく、ほのかな塩気が味覚にうれしい。
そこを緑茶でぐいっと追いかければ、恍惚にも似た感覚が立ち昇ってくる。
「気に入って頂けたようで何よりです」
「蓮花さんの料理を食べれば誰だってこうなります。一流の板前ともいい勝負ができるに違いないです」
「まぁ。お世辞でもうれしいです」
「おべっかが言えるほど私は器用な人間じゃありませんよ」
こうして彼女との朝食時間は和やかに過ぎて行った。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
食事を終えた私は食器をシンクに持って行き、その手にスポンジを取ろうとする。
「大丈夫ですよ、想一さん。お茶碗は全部わたくしが洗っておきますので」
だがそこを蓮花さんにやんわり止められてしまった。
「そういう訳にもいきません。毎回美味しい食事を頂いているのです。食器洗いくらいするのは当然かと」
「気遣いありがとうございます。ですがこれもまたわたくしの仕事。想一さんはお仕事の支度を優先なさって」
「しかし時間には少々余裕がありますし」
「ですが……」
意外と食い下がってくる。確か蓮花さんの種族はごく普通の人間。(髪が黄金色なのは隔世遺伝らしいが……はて)
生真面目なアヌビスでもなければ、勤労を美徳とするキキーモラでもなかったはず。
上記の固有性質を持つ魔物娘でもないのに何故?
「なら想一さん、こう言い換えましょう。わたくしがしたいから家事をする。これでは理由になりませんか?」
「あっ」
そう言われてしまったら引き下がるしかない。彼女は淑やかな見かけに反して、芯が意外と強いのだ。一度こうと決めたら、頑として譲らない。
「ならば、よろしくお願いしますとしか言えませんね」
「ええ、任されました」
彼女の厚意に感謝しつつ、身支度を整えることにした。歯磨きを済ませ、鞄の中身を整理し、忘れ物が自室にないか確認して、腕時計をはめる。
最後にスーツの上から防寒コートを羽織れば準備は万端。
そうこうしている内に出勤時間が着々と近づいてきた。本音を言えば、蓮花さんともう少しとりとめのない会話をしたかったが……いや、これ以上の望みは欲張りだ。
後ろ髪を引かれる思いで、私は玄関に向かう。
「お待ちになって、想一さん」
室内スリッパをパタパタ鳴らして、蓮花さんが近寄ってきた。手には風呂敷で包まれた何かを持っている。
「こちら、昼のお弁当です。本日も真心を込めましたので」
「ああこれは失敬。本当に助かります」
仕事で使う道具や書類はしっかり確認したのに、肝心の昼食を忘れているという始末。
……迂闊な面は、未だに治る気配がない。成人してから四年も経つというのに恥ずかしい限りだ。
「そういうところですよ」
「え?」
「想一さんって誠実で大人びているのに、どこか抜けているじゃないですか。そんな所が放っておけなくて、お世話したいと思うようになったんですの」
慎ましやかに、ふわりとはにかむ彼女。
「そ、それは返す言葉もありません」
うっかり屋な所を指摘されたのに、相手が蓮花さんとなると何故胸の内がこそばゆく感じるのだろう。
自己情動の正体を計りかねている内に、腕時計からピピっと電子音が鳴る。出発五分前。
やむを得ない、もう時間だ。
「毎度のことですが、何から何まで世話になりっぱなしですいません。このお礼は必ず」
「いいんです。想一さんのお世話をするのは楽しいですし、それに、は、は、は」
「は?」
「いっ、いえ! なんでもありません! くしゃみが出そうになっただけです! どうかお構いなく!」
珍しく慌てた様子の彼女。頬がさくらんぼ色になっており、胸を撃ち抜かれるほど可愛らしい。目尻が下がりそうになることだけは、かろうじて堪えた。
「は、はい。では行ってきます」
「行ってらっしゃいませ。家事や戸締りはしっかりしておくのでご心配なく」
一礼して見送ってくれる蓮花さん。家政婦でもなければ、恋人でもないはずなのに、ここまでしてくれるなんて。これは本格的にお礼の品を用意しなければ。
意気込んだ私は速攻で出社して、速攻で仕事を終わらし、そして帰りにじっくり礼品を見繕うことを決めた。
ドアを開け、加賀見想一と表札が出された自宅を後にする。
(まず十時までにA案件とB案件の書類を作成。次に十時半からの会議に出席して同僚達や上層部と情報交換。その後は定時前に上がれるよう倍速で平常業務を行い……)
既に頭は業務遂行タイムアタックでいっぱいだ。
マンションの室内廊下を歩く私の背後で、カチャンと小さな音がする。蓮花さんが玄関のカギを閉めてくれたのだろう。
盗られて困るようなものは家に置いてないし、第一蓮花さんがそんな事をする女性でないことは前から知っている。
知り合ってかれこれ数ヶ月以上は経つが、彼女は本当に心が清らかな人だ。
そもそも信頼していなければ、合鍵など渡していない。
(彼女が喜ぶ物はなんだろう。嗜好品の類は日本茶や和菓子が好きなはずだが……。待てよ、確か老舗の油揚げや中華食品も好物と話していた記憶がある)
プレゼントの候補を絞りながら、つかつかマンションの階段を降りていく。
窓から差し込む朝日は今日も眩しく、街を包む冷気は容赦がない。現在は二月の上旬。春の訪れまで、あと少しだ。そうこうしてる内にマンションのエントランスに到着。
入口の自動ドアをくぐると、びゅうと冷風が頬を撫でた。吐息も白い煙のように空へたなびいていく。確か今日の平均気温は八度を下回っていたはず。
手がかじかんでは敵わない。コートのポケットに両手を入れ、足早に通勤路を歩いく。
最寄り駅まで約六分の辛抱だ。
道中には笑いながら登校する学生達や、私と同じようなスーツ姿のサラリーマンが先を急いでいる。中には背中から翼を生やして、悠々と空を飛んでいる者もいる。シルエットからしてハーピーに類する魔物娘か。移動が楽で羨ましい。彼女達は満員電車とも無縁なのだろう。
本日も、人魔が共に生きるいつも通りの街並みがそこにあった。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
想一が出かけてすぐ。
糸が切れた人形のように、蓮花がぺたりと玄関に座り込んだ。
吐息は病に罹ったみたいに荒く、その華奢な両腕で身体をかき抱いている。
「よく、よく頑張りましたね、山城蓮花……。よくぞ、耐えきりました……」
目の端に雫を溜め、悩ましい息が漏れる唇に指をくわえる。自分で自分の我慢強さを褒めてやらねば、心を炙る熱でどうにかなってしまいそうだった。
「ああ……。想一さん、そういちさん、そういちさん、そういちさん、そういちさん!」
ふるると小刻みに震え、激しい疼きを訴える女の性。
以前から、そして今朝も、蓮花は自己の中に在る激情と必死にせめぎ合ってきた。
想一に襲いかかり手籠めにしてしまいたいという、淑女らしからぬ衝動と。
「想一さん……。お慕いしております、好きです、だいすきです、愛しています、おかしくなるほど好きです、貴方をむしゃぶり尽くしたいほど愛してます、貴方に押し倒されて純潔を散らしたいほどお慕いしています、貴方だけの性処理雌狐になりたいんですそういちさんそういちさんそういちさんそういちさん」
壊れた蓄音機にも似た様子で、一心不乱に焦がれた男の名を呼ぶ蓮花。
恋、と呼ぶには苛烈すぎる告白。一人だけになった部屋で、彼女は業火の如き愛欲と妄執を両目に宿す。それは明らかに、人間に真似できる眼つきではなかった。人間がしていい眼つきでもなかった。
心拍が急上昇したことで、蓮花が自分にかけていた自制も溶けていく。
「はあ、ああっ、これ以上は限界です。もう解いても、いい頃合いでしょう」
吐き出す声を機に。彼女の頭頂部からは三角形の耳が、割烹着の後ろにある隙間からはふさふさの尻尾三本がするりと飛び出した。いずれも共通するのは狐色なこと、そしてピコピコふわふわ生物的に動いていることだった。
「んっ、ふああっ……やはり、こちらの姿の方が落ち着きますね」
女は人間ではなかった。世間では魔物娘と呼ばれる人外の存在だった。魔物娘に詳しい人間が彼女を見たら、その特徴的な姿から稲荷か妖狐のどちらかであると当たりをつけていることだろう。
「少しだけ、肩に力が入ってますね。後でコリをほぐさないと」
蓮花の心に同調するかのように、尻尾と耳がゆっくりと揺れ動く。
想一がいた時とは違って、幾分かリラックスしたのだろう。
魔物娘の人化擬態は人間で言う所の変装や演技、余所行きの仮面をつけている状態に等しい。短時間の行使でも気を遣うのは当然と言える。
「はぁ。にしても尻尾の数、いつの間にか一本増えてますし……。生娘で稲荷なのに、どうしてこんな……」
頬に手を当てて、臀部から伸びるふさふさの尻尾を見つめる蓮花。稲荷や妖狐にとって尻尾の数とは、体内に保有する魔力の多さだけでなく性欲の強さも示す意味を持つ。
蓮花の尻尾は合計三本。狐族の一般認知に照らし合わせると、恋人ができてから到達できる本数である。
つまり彼女は性交渉未経験にも関わらず、そこらの狐っ娘よりも大きな性欲を秘めていることになる。
ちなみに稲荷にせよ妖狐にせよ、潜在的な淫乱度が高いのはどちらも一緒である。
加えて上記二種が、存在する魔物娘の中でも上位に食い込む程の淫乱ポテンシャルを持つことを蓮花は知らない。
つまり身もふたもない言い方をすれば、彼女はドが付くほどの淫乱ということになる。
それは先の過激な独白にも如実に現れている。
「ああ。想一さんの前では良き子女でいたいのに、尻尾は増えるばかり……。これではまるでわたくしが好色な女みたいじゃないですか」
だというのに、今はうって変わってこれである。
まるでというか淫らの証明そのものなのだが、彼女はその事実を受け止めたくないらしいい。自分にとって都合の悪いことを正面から直視しないのは、人間にしても魔物にしても同様である。
しかし本来の場合【淫ら】とか【淫乱】、さらには【変態】という言葉等は魔物娘に対してこれ以上ない賛辞表現なのだが。
「困りますね。本当に、どうしたらいいんでしょうか」
だがそれはそれ、これはこれ、ということなのだろう。色欲をこじらせてしまったが清楚でいたいというのは、中々に面倒な話である。
「猛る本能を御せないこの有様では、まだ正体は明かせませんよね。しかし想一さんったら、しょうがない御方……」
ようやく立ち上がった蓮花は、先の一幕を思い出してふにゃりと目尻を下げる。
『毎度のことですが、何から何まで世話になりっぱなしですいません。このお礼は必ず』
『いいんです。想一さんのお世話をするのは楽しいですし、それに、は、は、は』
『は?』
『いっ、いえ! なんでもありません! くしゃみが出そうになっただけです! どうかお構いなく!』
それは彼と出勤する直前に交わした、慌ただしいやり取り。
「お世話をするのは、花嫁修業の練習になるから……、貴方のことを誰にも負けないくらいお慕いしているからですよ……」
恍惚。そう表現できる蕩けた笑みを蓮花は浮かべる。尻尾と耳は垂れ下がり、頬も桜色から紅色に移り変わる。身に付ける朱の割烹着よりも紅く色づいた頬は、万人を魅了するだけの色香を漂わせていた。
よく観察すると、その豊かな胸の膨らみの先端がわずかに膨れており、彼女が性的高揚を感じているのは明らかだ。
綺麗な脚線美を描く足と腰も、小刻みに震え出す。
「駄目、ダメです。やっぱり想一さんのことを考えれば考えるほど身体がっ……ん、いっ、いやっ、熱くなって……」
再び唇から零れる悩ましい吐息。切ない疼きを訴え続ける胸の奥。
挙句、意識と関係なしに下腹部へするりと伸びる右手。求めるその先は割烹着の内側、下着の中だ。
「はっ! いけません!!」
直前で我に返った蓮花が左手で右手を掴む。寸前で拘束された右手は、別の生物かのようにぴくぴくとひきつった。
「……!」
恐ろしいことだった。自分の意識とは関係なしに、身体と本能が動いている。
戦慄する蓮花の眼下で、今も右手は本能が出す命令に忠実であろうとする。
すなわち。好いた男を懸想しながら快楽を求めよ、という指令を遂行するために必死だ。
(このままではいけません)
蓮花は気品ある婦女子として、己を律することにした。別の事を考えれば、この色情も薄れてゆくだろう。一計を講じた彼女は目を瞑って思考にふけることにした。
約三ヶ月。蓮花と想一が出会って経過した月日である。
昨年の秋暮れに出逢った二人の関係は、心の波長が合うと言う事もあり着実に親しくなっていった。クリスマスを賑やかに祝い、新年の明けには共に神社へお参りに行き(この時蓮花は巫女姿も想一に披露している)、節分では共に豆を撒いた。
しかしこれだけのイベントがあったにも関わらず、二人は肉体関係を持つどころか恋人同士にすらなってない。
奥手という単語で片づけるには、少々込み入った事情が彼等にはある。
過去のあまりにひどい失恋が原因で、心に傷を負った想一。
人に裏切られた彼を慮り、狂える恋の本能を必死に抑える蓮花。
二人は気づいていない。お互い両想いなことに。
相手の本心が分からぬ故に。傷付けたくない、又は傷つけたくないが故に。大きな一線が中々越えられない。
だがそれでも、確かな絆が芽生えているのは間違いはない。
(ではわたくしと想一さんの関係は、一体何と評するのが適切なのでしょう?)
隠れた真実に気付かぬまま、蓮花は考える。
恋人? 違う。ゆくゆくはそうなりたいが、彼の心には明確に引かれた国境線がまだ存在する。ベルリンの壁を溶かすには、まだ時間と心の交流が必要だ。
じゃあ知人? 否、ずれている。知人と言うには、お互いの嗜好や性格を知っているし鍵も彼から預けて貰っている。知人の定義とは遠い。
ならば友人? おそらくそうだ。いつも敬語で話し合う点は矯正していきたいところだが。
友人。そう、恋人未満の親しい友人だ。そしていつかは、その関係を越えて愛を育み合う仲に……。
「うふ、うふふふ、あははは♪」
いつの間にか恋の奔流は決壊していた。
別のことを考えるといっても、思考の中心に来るのはやはり想一のことばかり。魔物娘なので当然のことだった。
そして好んだ相手のことを考え続ければ、色恋に炙られた女の理性が瓦解するのも当然の帰結だった。
(お茶椀の洗浄に、部屋の掃除機かけ、それに洗濯も……。やらねばならぬことは沢山ありますのに)
それでも今はやるべきことよりも、やりたいことがある。狐淑女の瞳は、どうしようもなく情欲で濁り切っていた。
(想一さん。今からはしたないことをするわたくしを、貴方は許してくれますか?)
熱を孕んだ視線の向かう場所。その先にあるのは想一の自室だった。
蓮花は蕩けた笑みをぶら下げて、ふらふらと移動を始めた。
あの人がまた来てくれているのだろう。ぼやけた頭を振って起床した私は寝巻として着ていたスウェットを脱ぎ、クローゼットに吊るす。替わりに引っ張り出したのは、シワ一つないダークグレーのスーツ一式と、白のシャツ。
慣れた動作でサラリーマンの戦闘服とネクタイを纏い、姿見で身だしなみを確認。
ヒゲナシ、爪よし、背筋もよし。少しはねた髪も霧吹きとクシで整え、顔も引きつらないよう口角マッサージを行う。
なにせ今から会うのは意中の相手。彼女は知るはずもないが、私はある出来事をきっかけにその人に恋心を抱いてしまった。当然緊張するというもの。
(よし)
心の中で自分に活を入れ、息を短く吐き出す。そして寝室兼書斎の扉を開け、私はリビングに移動した。
一人暮らしにしては広い、十畳ほどの居間とダイニングキッチン。
台所に立つのは淡い黄金色の長髪を持つ妙齢の女性だ。身に纏う朱の割烹着が、はっとさせるほどの鮮やかさを放っている。
包丁を使いこなす後ろ姿からは匂い立つような色香があり、結い上げた髪の隙間からチラリと覗くうなじが美しい。背筋をしゃんと伸ばした綺麗な佇まいには、私でなくとも目を奪われるに違いない。
……おっと、不埒な感情を彼女に抱いてはいけない。
「おはようございます蓮花さん」
私の呼びかけに料理の手が止まり、彼女がくるりと振り向いた。切れ長の瞳に整った鼻梁。
高級陶磁器のように、しみ一つない白肌。女優かと見紛う程の美貌の持ち主だ。
「おはようございます、想一さん」
どんな男も虜にする、淑やかで気品のある滑らかな声。彼女の名は山城蓮花、二十五歳。
失恋が原因で落ち込んでいた私を励ましてくれて、そのまま色々と世話を見てくれるようになった方だ。
私より一つ年上でもあるのだが、こちらの歳を明かすと大層驚いていた。なんでも私の年齢を二十代後半と思っていたらしい。
外見のせいで実年齢より上に見られるのは、もう慣れている。
「もう少しお待ちになって。このネギを入れたら完成間近ですので」
「恐縮です。毎朝食事を作りにきてくれるなんて、本当に頭が下がります」
「その言葉を貰えただけでも作り甲斐がありますね」
柔らかに笑うと、彼女は手元にあるネギの小口切りを再開し始めた。
その間、私は洗面所で手早く洗顔とうがいをすませる。
リビングに戻るとテーブルの上には茶の入った湯のみと購読している新聞が置いてあった。
「すいません。気を遣わせてしまって」
「お構いなく」
朝食ができるまでの間、くつろがせてもらうことにした。
口に含んだ緑茶は熱すぎもなくぬるすぎもしない、丁度いい温度だった。豊かな日本茶の香りが鼻を抜け、リラックスした気分になる。彼女の淹れるお茶は本当に美味しい。
吐息をつき、新聞を開く。大見出しには、新しく改定が為された人魔異種間結婚についての法案や変更点がアレコレ書かれていた。
「両者の合意といくつかの条件を満たせば、未成年の魔物娘とも結婚が可能か。日本も以前と比べて大きく変わったな……」
青少年健全育成条例の名の元に、あらゆるものを片端から規制し禁止してきた国のやることとは思えない。これも十数年前に突如として現れた新しい隣人達、魔物娘の影響力が大きいということだろう。
ついこの間は、魔物と人間の重婚を認めるという法案が可決されたばかり。
つくづく魔物娘達の手腕には驚かされる。
「想一さんは、今回の未成年結婚許可改定や人魔婚について反対ですか?」
料理を続けながら蓮花さんが伺ってくる。刻んだネギを鍋に入れ、ゆっくりとみそ汁をかき混ぜる姿は彼女の居住まいもあって中々絵になる。
「私は賛成派ですね。どちらかと言うと、としう…年下が好きという訳ではないんですが。けど本当に想い合っているのに、それが罪や悪とされてきた今までの法令に疑問を感じていたので。人魔婚に関しても、種族の違いや見た目がどうのこうの言うつもりはありませんし」
年上の女性が好き、という言葉を寸前で誤魔化して別の文脈に変換できたのは僥倖だった。
まだこの感情を、彼女に悟られる訳にはいかない。
「そ、そうですか。よかった」
どこかホッとした様子の蓮花さん。こちらこそ良かった、気取られなかったみたいだ。
「いただきます」
「どうぞ、お召し上がりになって」
両手を合わせ、朝食をご馳走になる。向かいの席にはニコニコした笑顔を浮かべる蓮花さんが座っており、私の手元を眺めている。
目の前には彼女の手作りごはん達が、湯気を立てて食されるのを待っている。
熱々ふっくら炊きたての白米。わかめに油揚げ、大根と豆腐、小口切りにされたネギが浮かぶみそ汁。彼女の髪と同じ色の綺麗に巻かれただしまき卵。そして一口サイズに乱切りされた野菜と牛肉が自慢の肉じゃが。
どれも非常に美味しそうだ。
手始めにみそ汁を頂くことにした。香りを楽しんだ後、椀を傾ける。郷愁を感じさせるほっとした味わいだ。わかめと油揚げの風味がよく効いており、豆腐と大根も噛み締めるだけで旨みが溢れる。緑が映えるネギも程よいアクセントになっていて、食欲が進む。
口の中が空になったらだし巻き卵を頬張る。白砂糖のうっすらした甘さが卵の風味を底上げしており、彼女の丁寧かつ精妙な腕前が伺える。私も時々だし巻き卵を作ることはあるが、何度やってもこうはならない。
そして朝餉の主役であろう、肉じゃがに箸をつける。野菜にはしっかり火が通っており、牛肉は余計な脂が抜けていくらでもいけそうだ。
素朴な旨みの人参、ほくほく食感が売りのじゃがいも、透き通った見た目と甘さが特徴の玉ねぎ、そして他の食材に囲まれても存在感を示す牛肉。
それらを包む薄口しょうゆのシンプルな味付けが胃を捉えて離さず、熱々のご飯をかきこめば至福の瞬間だ。
「美味しい、本当に美味しいです」
「急がなくてもごはん達は逃げませんよ」
「はい。いけませんね、蓮花さんの料理となるとつい箸が急いてしまいます」
「そう言って下さると嬉しいですわ。おかわりもたくさんありますからね」
そこでようやく蓮花さんも食事を始める。彼女曰く、もてなす側が先に箸を取ってはいけないと家のしつけを受けているらしい。なんというか、彼女の言葉遣いや雰囲気も相まって名家の出自ではないかと考えてしまう。
(けど古風な居住まいの節々に、びっくりするくらいの色気もあるんだよな)
みそ汁を口に含みながら、目の端で彼女の様子を観察する。
上品かつ洗練された所作で朝食を口に運ぶ彼女は、〇〇家の御令嬢と言われても信じてしまいそうな気品がある。
むしろこの歳になっても交際経験がないというのが信じられないくらいだ。こんな美女を放っておくなんて、世の男達は何をしているのだろう。
……まぁ、彼女に寄ってくる男がいないのは私にとっては大変好都合だが。
少なくとも勤め先の同僚やオフィス街のOLに、ここまで魅力的な女性はいない。
(現代日本に絶えて久しいとされる大和撫子か)
そんなことを考えつつ、小鉢にちょこんと乗った漬物もいただく。当然こちらも彼女の手作りだ。ポリポリした歯ごたえがクセになりそうで、白米との相性も抜群。
市販製品にありがちなくどさも一切なく、ほのかな塩気が味覚にうれしい。
そこを緑茶でぐいっと追いかければ、恍惚にも似た感覚が立ち昇ってくる。
「気に入って頂けたようで何よりです」
「蓮花さんの料理を食べれば誰だってこうなります。一流の板前ともいい勝負ができるに違いないです」
「まぁ。お世辞でもうれしいです」
「おべっかが言えるほど私は器用な人間じゃありませんよ」
こうして彼女との朝食時間は和やかに過ぎて行った。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
食事を終えた私は食器をシンクに持って行き、その手にスポンジを取ろうとする。
「大丈夫ですよ、想一さん。お茶碗は全部わたくしが洗っておきますので」
だがそこを蓮花さんにやんわり止められてしまった。
「そういう訳にもいきません。毎回美味しい食事を頂いているのです。食器洗いくらいするのは当然かと」
「気遣いありがとうございます。ですがこれもまたわたくしの仕事。想一さんはお仕事の支度を優先なさって」
「しかし時間には少々余裕がありますし」
「ですが……」
意外と食い下がってくる。確か蓮花さんの種族はごく普通の人間。(髪が黄金色なのは隔世遺伝らしいが……はて)
生真面目なアヌビスでもなければ、勤労を美徳とするキキーモラでもなかったはず。
上記の固有性質を持つ魔物娘でもないのに何故?
「なら想一さん、こう言い換えましょう。わたくしがしたいから家事をする。これでは理由になりませんか?」
「あっ」
そう言われてしまったら引き下がるしかない。彼女は淑やかな見かけに反して、芯が意外と強いのだ。一度こうと決めたら、頑として譲らない。
「ならば、よろしくお願いしますとしか言えませんね」
「ええ、任されました」
彼女の厚意に感謝しつつ、身支度を整えることにした。歯磨きを済ませ、鞄の中身を整理し、忘れ物が自室にないか確認して、腕時計をはめる。
最後にスーツの上から防寒コートを羽織れば準備は万端。
そうこうしている内に出勤時間が着々と近づいてきた。本音を言えば、蓮花さんともう少しとりとめのない会話をしたかったが……いや、これ以上の望みは欲張りだ。
後ろ髪を引かれる思いで、私は玄関に向かう。
「お待ちになって、想一さん」
室内スリッパをパタパタ鳴らして、蓮花さんが近寄ってきた。手には風呂敷で包まれた何かを持っている。
「こちら、昼のお弁当です。本日も真心を込めましたので」
「ああこれは失敬。本当に助かります」
仕事で使う道具や書類はしっかり確認したのに、肝心の昼食を忘れているという始末。
……迂闊な面は、未だに治る気配がない。成人してから四年も経つというのに恥ずかしい限りだ。
「そういうところですよ」
「え?」
「想一さんって誠実で大人びているのに、どこか抜けているじゃないですか。そんな所が放っておけなくて、お世話したいと思うようになったんですの」
慎ましやかに、ふわりとはにかむ彼女。
「そ、それは返す言葉もありません」
うっかり屋な所を指摘されたのに、相手が蓮花さんとなると何故胸の内がこそばゆく感じるのだろう。
自己情動の正体を計りかねている内に、腕時計からピピっと電子音が鳴る。出発五分前。
やむを得ない、もう時間だ。
「毎度のことですが、何から何まで世話になりっぱなしですいません。このお礼は必ず」
「いいんです。想一さんのお世話をするのは楽しいですし、それに、は、は、は」
「は?」
「いっ、いえ! なんでもありません! くしゃみが出そうになっただけです! どうかお構いなく!」
珍しく慌てた様子の彼女。頬がさくらんぼ色になっており、胸を撃ち抜かれるほど可愛らしい。目尻が下がりそうになることだけは、かろうじて堪えた。
「は、はい。では行ってきます」
「行ってらっしゃいませ。家事や戸締りはしっかりしておくのでご心配なく」
一礼して見送ってくれる蓮花さん。家政婦でもなければ、恋人でもないはずなのに、ここまでしてくれるなんて。これは本格的にお礼の品を用意しなければ。
意気込んだ私は速攻で出社して、速攻で仕事を終わらし、そして帰りにじっくり礼品を見繕うことを決めた。
ドアを開け、加賀見想一と表札が出された自宅を後にする。
(まず十時までにA案件とB案件の書類を作成。次に十時半からの会議に出席して同僚達や上層部と情報交換。その後は定時前に上がれるよう倍速で平常業務を行い……)
既に頭は業務遂行タイムアタックでいっぱいだ。
マンションの室内廊下を歩く私の背後で、カチャンと小さな音がする。蓮花さんが玄関のカギを閉めてくれたのだろう。
盗られて困るようなものは家に置いてないし、第一蓮花さんがそんな事をする女性でないことは前から知っている。
知り合ってかれこれ数ヶ月以上は経つが、彼女は本当に心が清らかな人だ。
そもそも信頼していなければ、合鍵など渡していない。
(彼女が喜ぶ物はなんだろう。嗜好品の類は日本茶や和菓子が好きなはずだが……。待てよ、確か老舗の油揚げや中華食品も好物と話していた記憶がある)
プレゼントの候補を絞りながら、つかつかマンションの階段を降りていく。
窓から差し込む朝日は今日も眩しく、街を包む冷気は容赦がない。現在は二月の上旬。春の訪れまで、あと少しだ。そうこうしてる内にマンションのエントランスに到着。
入口の自動ドアをくぐると、びゅうと冷風が頬を撫でた。吐息も白い煙のように空へたなびいていく。確か今日の平均気温は八度を下回っていたはず。
手がかじかんでは敵わない。コートのポケットに両手を入れ、足早に通勤路を歩いく。
最寄り駅まで約六分の辛抱だ。
道中には笑いながら登校する学生達や、私と同じようなスーツ姿のサラリーマンが先を急いでいる。中には背中から翼を生やして、悠々と空を飛んでいる者もいる。シルエットからしてハーピーに類する魔物娘か。移動が楽で羨ましい。彼女達は満員電車とも無縁なのだろう。
本日も、人魔が共に生きるいつも通りの街並みがそこにあった。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
想一が出かけてすぐ。
糸が切れた人形のように、蓮花がぺたりと玄関に座り込んだ。
吐息は病に罹ったみたいに荒く、その華奢な両腕で身体をかき抱いている。
「よく、よく頑張りましたね、山城蓮花……。よくぞ、耐えきりました……」
目の端に雫を溜め、悩ましい息が漏れる唇に指をくわえる。自分で自分の我慢強さを褒めてやらねば、心を炙る熱でどうにかなってしまいそうだった。
「ああ……。想一さん、そういちさん、そういちさん、そういちさん、そういちさん!」
ふるると小刻みに震え、激しい疼きを訴える女の性。
以前から、そして今朝も、蓮花は自己の中に在る激情と必死にせめぎ合ってきた。
想一に襲いかかり手籠めにしてしまいたいという、淑女らしからぬ衝動と。
「想一さん……。お慕いしております、好きです、だいすきです、愛しています、おかしくなるほど好きです、貴方をむしゃぶり尽くしたいほど愛してます、貴方に押し倒されて純潔を散らしたいほどお慕いしています、貴方だけの性処理雌狐になりたいんですそういちさんそういちさんそういちさんそういちさん」
壊れた蓄音機にも似た様子で、一心不乱に焦がれた男の名を呼ぶ蓮花。
恋、と呼ぶには苛烈すぎる告白。一人だけになった部屋で、彼女は業火の如き愛欲と妄執を両目に宿す。それは明らかに、人間に真似できる眼つきではなかった。人間がしていい眼つきでもなかった。
心拍が急上昇したことで、蓮花が自分にかけていた自制も溶けていく。
「はあ、ああっ、これ以上は限界です。もう解いても、いい頃合いでしょう」
吐き出す声を機に。彼女の頭頂部からは三角形の耳が、割烹着の後ろにある隙間からはふさふさの尻尾三本がするりと飛び出した。いずれも共通するのは狐色なこと、そしてピコピコふわふわ生物的に動いていることだった。
「んっ、ふああっ……やはり、こちらの姿の方が落ち着きますね」
女は人間ではなかった。世間では魔物娘と呼ばれる人外の存在だった。魔物娘に詳しい人間が彼女を見たら、その特徴的な姿から稲荷か妖狐のどちらかであると当たりをつけていることだろう。
「少しだけ、肩に力が入ってますね。後でコリをほぐさないと」
蓮花の心に同調するかのように、尻尾と耳がゆっくりと揺れ動く。
想一がいた時とは違って、幾分かリラックスしたのだろう。
魔物娘の人化擬態は人間で言う所の変装や演技、余所行きの仮面をつけている状態に等しい。短時間の行使でも気を遣うのは当然と言える。
「はぁ。にしても尻尾の数、いつの間にか一本増えてますし……。生娘で稲荷なのに、どうしてこんな……」
頬に手を当てて、臀部から伸びるふさふさの尻尾を見つめる蓮花。稲荷や妖狐にとって尻尾の数とは、体内に保有する魔力の多さだけでなく性欲の強さも示す意味を持つ。
蓮花の尻尾は合計三本。狐族の一般認知に照らし合わせると、恋人ができてから到達できる本数である。
つまり彼女は性交渉未経験にも関わらず、そこらの狐っ娘よりも大きな性欲を秘めていることになる。
ちなみに稲荷にせよ妖狐にせよ、潜在的な淫乱度が高いのはどちらも一緒である。
加えて上記二種が、存在する魔物娘の中でも上位に食い込む程の淫乱ポテンシャルを持つことを蓮花は知らない。
つまり身もふたもない言い方をすれば、彼女はドが付くほどの淫乱ということになる。
それは先の過激な独白にも如実に現れている。
「ああ。想一さんの前では良き子女でいたいのに、尻尾は増えるばかり……。これではまるでわたくしが好色な女みたいじゃないですか」
だというのに、今はうって変わってこれである。
まるでというか淫らの証明そのものなのだが、彼女はその事実を受け止めたくないらしいい。自分にとって都合の悪いことを正面から直視しないのは、人間にしても魔物にしても同様である。
しかし本来の場合【淫ら】とか【淫乱】、さらには【変態】という言葉等は魔物娘に対してこれ以上ない賛辞表現なのだが。
「困りますね。本当に、どうしたらいいんでしょうか」
だがそれはそれ、これはこれ、ということなのだろう。色欲をこじらせてしまったが清楚でいたいというのは、中々に面倒な話である。
「猛る本能を御せないこの有様では、まだ正体は明かせませんよね。しかし想一さんったら、しょうがない御方……」
ようやく立ち上がった蓮花は、先の一幕を思い出してふにゃりと目尻を下げる。
『毎度のことですが、何から何まで世話になりっぱなしですいません。このお礼は必ず』
『いいんです。想一さんのお世話をするのは楽しいですし、それに、は、は、は』
『は?』
『いっ、いえ! なんでもありません! くしゃみが出そうになっただけです! どうかお構いなく!』
それは彼と出勤する直前に交わした、慌ただしいやり取り。
「お世話をするのは、花嫁修業の練習になるから……、貴方のことを誰にも負けないくらいお慕いしているからですよ……」
恍惚。そう表現できる蕩けた笑みを蓮花は浮かべる。尻尾と耳は垂れ下がり、頬も桜色から紅色に移り変わる。身に付ける朱の割烹着よりも紅く色づいた頬は、万人を魅了するだけの色香を漂わせていた。
よく観察すると、その豊かな胸の膨らみの先端がわずかに膨れており、彼女が性的高揚を感じているのは明らかだ。
綺麗な脚線美を描く足と腰も、小刻みに震え出す。
「駄目、ダメです。やっぱり想一さんのことを考えれば考えるほど身体がっ……ん、いっ、いやっ、熱くなって……」
再び唇から零れる悩ましい吐息。切ない疼きを訴え続ける胸の奥。
挙句、意識と関係なしに下腹部へするりと伸びる右手。求めるその先は割烹着の内側、下着の中だ。
「はっ! いけません!!」
直前で我に返った蓮花が左手で右手を掴む。寸前で拘束された右手は、別の生物かのようにぴくぴくとひきつった。
「……!」
恐ろしいことだった。自分の意識とは関係なしに、身体と本能が動いている。
戦慄する蓮花の眼下で、今も右手は本能が出す命令に忠実であろうとする。
すなわち。好いた男を懸想しながら快楽を求めよ、という指令を遂行するために必死だ。
(このままではいけません)
蓮花は気品ある婦女子として、己を律することにした。別の事を考えれば、この色情も薄れてゆくだろう。一計を講じた彼女は目を瞑って思考にふけることにした。
約三ヶ月。蓮花と想一が出会って経過した月日である。
昨年の秋暮れに出逢った二人の関係は、心の波長が合うと言う事もあり着実に親しくなっていった。クリスマスを賑やかに祝い、新年の明けには共に神社へお参りに行き(この時蓮花は巫女姿も想一に披露している)、節分では共に豆を撒いた。
しかしこれだけのイベントがあったにも関わらず、二人は肉体関係を持つどころか恋人同士にすらなってない。
奥手という単語で片づけるには、少々込み入った事情が彼等にはある。
過去のあまりにひどい失恋が原因で、心に傷を負った想一。
人に裏切られた彼を慮り、狂える恋の本能を必死に抑える蓮花。
二人は気づいていない。お互い両想いなことに。
相手の本心が分からぬ故に。傷付けたくない、又は傷つけたくないが故に。大きな一線が中々越えられない。
だがそれでも、確かな絆が芽生えているのは間違いはない。
(ではわたくしと想一さんの関係は、一体何と評するのが適切なのでしょう?)
隠れた真実に気付かぬまま、蓮花は考える。
恋人? 違う。ゆくゆくはそうなりたいが、彼の心には明確に引かれた国境線がまだ存在する。ベルリンの壁を溶かすには、まだ時間と心の交流が必要だ。
じゃあ知人? 否、ずれている。知人と言うには、お互いの嗜好や性格を知っているし鍵も彼から預けて貰っている。知人の定義とは遠い。
ならば友人? おそらくそうだ。いつも敬語で話し合う点は矯正していきたいところだが。
友人。そう、恋人未満の親しい友人だ。そしていつかは、その関係を越えて愛を育み合う仲に……。
「うふ、うふふふ、あははは♪」
いつの間にか恋の奔流は決壊していた。
別のことを考えるといっても、思考の中心に来るのはやはり想一のことばかり。魔物娘なので当然のことだった。
そして好んだ相手のことを考え続ければ、色恋に炙られた女の理性が瓦解するのも当然の帰結だった。
(お茶椀の洗浄に、部屋の掃除機かけ、それに洗濯も……。やらねばならぬことは沢山ありますのに)
それでも今はやるべきことよりも、やりたいことがある。狐淑女の瞳は、どうしようもなく情欲で濁り切っていた。
(想一さん。今からはしたないことをするわたくしを、貴方は許してくれますか?)
熱を孕んだ視線の向かう場所。その先にあるのは想一の自室だった。
蓮花は蕩けた笑みをぶら下げて、ふらふらと移動を始めた。
20/03/09 08:51更新 / 風車小屋
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