エンディング
「あう」
ことり、と駒を置く静かな音が部屋の中に響く。
手元に置かれているのは100円ショップで売っているような安っぽいチェスの盤と、『チェス入門』と呼ばれるソフィリアが書いた教本であった。
それは、戦いを終えた後、雅人が買ってきてくれたもの。
遠慮がちに首を振る彼女の手に、半ば強引に握らせたものだった。
「今日の対局は楽しかった。だから、そのお代みたいなものだよ−−それに、今度は君自身の手が、見たい」
「あと、その本は教本じゃないし『チェスをしている本じゃない』。だから返したほうがいい」
そう、語る彼を前にして、夕美はただ頷くことしか出来なかった。
「−−うう」
教本どおりの手が、盤上に刻まれていく。
それを、心に馴染ませるように彼女は手元のメモ帳に一手一手を書き記す。
未だ文字を読むことも、話すことも出来ないが、それでも学ぶことは出来る。
アンパッサン、キャスリング、プロモーション。
そんな基本から。
プロモーションは将棋のルールに近く比較的簡単だったが、キャスリングとアンパッサンの理解には、それなりに時間がかかった。
書かれていたとおり最小手でキャスリングを行う練習を、何度も、何度も行った。
それらを学んでからは、初歩的なテクニックの練習。
フォーク、ピン、スキュア。
そして、詰みに必要な最小手を知る。
キングを詰ませるために必要な駒はキングとクィーンにルーク、もしくはポーン。
ビショップと、ナイトは協力しなければならない。
そんなことも、はじめて学んだことだった。
基本の技術とも言えるそれらを何度も、何度も積み重ねていく。
手元のメモ紙は直ぐに真っ黒になり、大量の紙束が積み上げられた。
「あう」
パーペチュアルチェックを覚えた頃、彼女は手を休めて、外を見る。
日は、中天に達していた。鳥の鳴き声が、耳朶に響く。
ゾンビである夕美には、休息も、睡眠も食事すら必要ではない。
とはいえ、こののめり込み具合は異常であった。
「ふぅ……」
小さなため息を一つついて、椅子に深く腰掛ける。
思いつく理由は、たった一つ。
恐らく、雅人に惹かれているからであろう。
蘇ってから、夕美が頼れるものは彼しか居なかった。
家族もおらず、家も残されていない。
彼女を蘇らせた女性−−リリムという魔物は多忙で、殆ど会いに来てくれない。
彼女と一番話してくれたのは、彼だった。
それが、ボランティアの内容だったからなのだが、それでも彼女のリハビリを付き合ってくれた。
心細い彼女の心に、寄り添ってくれた。
そして、決め手は。
チェスを用意するときの、彼の笑顔だった。
昔、星を眺めていた頃の、自分のような表情だと思った。
その時はじめて。
彼女は悲しさを忘れて、自然な笑顔を浮かべることが出来た。
彼の表情を思い出して、夕美は目を細める。
随分、この身は単純に出来ているようだ。
−−いや、まだ言葉すら話せないのだから当然か。
自嘲気味に、彼女は鼻をならす。
言葉を紡ぐことのできない彼女が想いを伝える方法は、たったひとつ。
チェスゲームであった。
−−−
「−−f1、ナイト」
「あう……」
雅人の棋士が、一気に夕美の本陣を急襲する。
分かっていても避けられない一手。
ルークで取れば、プロモーションしたポーンに殺される。
キングが動けば、ナイトが殺す。
動かなければ避けられるが、チェスゲームにパスはない。
ソフィリアの奇術。
かの世界でそう称されるこの戦術は、この世界ではツーク・ツワンクと呼ばれるもの。
盤上の戦争に勝つために、彼女が生み出しーーそして敗北したテクニックであった。
「ま。け。まし、た……」
3手先の死が避けられない事に気付いた夕美は、自らのキングを倒して見せ、たどたどしい言葉で敗北を告げる。
ことりと倒れる黒のキングはどこか寂しそうであった。
「今日も、俺の勝ち」
その光景を眺めながら、雅人は駒を片付け始める。
彼女が雅人に挑むようになってからはや数ヶ月の時が経っていた。
既に彼女が負けた回数は三桁を超えていた。
勝てたことは、一度たりともない。
チェスは実力のゲーム。
いくら努力しても数ヶ月では追いつくことなどできはしない。
「夕美、随分強くなったな」
「う、ん」
確かに、彼の言葉通り、随分と彼女は強くなった。
基本の戦術は全て覚え、応用も使いこなす。
アマチュア相手であれば、三回に二回は勝てるほどの実力。
「でも、ま、だま、だ」
届かない。
実力が上がることで、彼との距離が、見えてくるようになった。
彼女の言葉が、のどの奥でひっかかる。
「グランドマスター目指してたけど、ここまで短期間で強くなった奴は−−はじめてだ」
彼は、若くしてチェスレーティングに載るほどの少年だった。
侵攻がなければ、恐らく言葉通りのグランドマスターになれるほどの才能の持ち主。
絶望的な戦力の差が、二人の間に横たわっていた。
このままでは想いをつたえることなど、出来はしない。
同じ地平に立たなければ、語り合うことは出来ない。
何度もめくり、端が黒くなった『チェス入門』を彼女は握り締める。
勝てない。
普通の手では、勝つ手段がない。
別の手段を、考える必要があった。
ことり、と駒を置く静かな音が部屋の中に響く。
手元に置かれているのは100円ショップで売っているような安っぽいチェスの盤と、『チェス入門』と呼ばれるソフィリアが書いた教本であった。
それは、戦いを終えた後、雅人が買ってきてくれたもの。
遠慮がちに首を振る彼女の手に、半ば強引に握らせたものだった。
「今日の対局は楽しかった。だから、そのお代みたいなものだよ−−それに、今度は君自身の手が、見たい」
「あと、その本は教本じゃないし『チェスをしている本じゃない』。だから返したほうがいい」
そう、語る彼を前にして、夕美はただ頷くことしか出来なかった。
「−−うう」
教本どおりの手が、盤上に刻まれていく。
それを、心に馴染ませるように彼女は手元のメモ帳に一手一手を書き記す。
未だ文字を読むことも、話すことも出来ないが、それでも学ぶことは出来る。
アンパッサン、キャスリング、プロモーション。
そんな基本から。
プロモーションは将棋のルールに近く比較的簡単だったが、キャスリングとアンパッサンの理解には、それなりに時間がかかった。
書かれていたとおり最小手でキャスリングを行う練習を、何度も、何度も行った。
それらを学んでからは、初歩的なテクニックの練習。
フォーク、ピン、スキュア。
そして、詰みに必要な最小手を知る。
キングを詰ませるために必要な駒はキングとクィーンにルーク、もしくはポーン。
ビショップと、ナイトは協力しなければならない。
そんなことも、はじめて学んだことだった。
基本の技術とも言えるそれらを何度も、何度も積み重ねていく。
手元のメモ紙は直ぐに真っ黒になり、大量の紙束が積み上げられた。
「あう」
パーペチュアルチェックを覚えた頃、彼女は手を休めて、外を見る。
日は、中天に達していた。鳥の鳴き声が、耳朶に響く。
ゾンビである夕美には、休息も、睡眠も食事すら必要ではない。
とはいえ、こののめり込み具合は異常であった。
「ふぅ……」
小さなため息を一つついて、椅子に深く腰掛ける。
思いつく理由は、たった一つ。
恐らく、雅人に惹かれているからであろう。
蘇ってから、夕美が頼れるものは彼しか居なかった。
家族もおらず、家も残されていない。
彼女を蘇らせた女性−−リリムという魔物は多忙で、殆ど会いに来てくれない。
彼女と一番話してくれたのは、彼だった。
それが、ボランティアの内容だったからなのだが、それでも彼女のリハビリを付き合ってくれた。
心細い彼女の心に、寄り添ってくれた。
そして、決め手は。
チェスを用意するときの、彼の笑顔だった。
昔、星を眺めていた頃の、自分のような表情だと思った。
その時はじめて。
彼女は悲しさを忘れて、自然な笑顔を浮かべることが出来た。
彼の表情を思い出して、夕美は目を細める。
随分、この身は単純に出来ているようだ。
−−いや、まだ言葉すら話せないのだから当然か。
自嘲気味に、彼女は鼻をならす。
言葉を紡ぐことのできない彼女が想いを伝える方法は、たったひとつ。
チェスゲームであった。
−−−
「−−f1、ナイト」
「あう……」
雅人の棋士が、一気に夕美の本陣を急襲する。
分かっていても避けられない一手。
ルークで取れば、プロモーションしたポーンに殺される。
キングが動けば、ナイトが殺す。
動かなければ避けられるが、チェスゲームにパスはない。
ソフィリアの奇術。
かの世界でそう称されるこの戦術は、この世界ではツーク・ツワンクと呼ばれるもの。
盤上の戦争に勝つために、彼女が生み出しーーそして敗北したテクニックであった。
「ま。け。まし、た……」
3手先の死が避けられない事に気付いた夕美は、自らのキングを倒して見せ、たどたどしい言葉で敗北を告げる。
ことりと倒れる黒のキングはどこか寂しそうであった。
「今日も、俺の勝ち」
その光景を眺めながら、雅人は駒を片付け始める。
彼女が雅人に挑むようになってからはや数ヶ月の時が経っていた。
既に彼女が負けた回数は三桁を超えていた。
勝てたことは、一度たりともない。
チェスは実力のゲーム。
いくら努力しても数ヶ月では追いつくことなどできはしない。
「夕美、随分強くなったな」
「う、ん」
確かに、彼の言葉通り、随分と彼女は強くなった。
基本の戦術は全て覚え、応用も使いこなす。
アマチュア相手であれば、三回に二回は勝てるほどの実力。
「でも、ま、だま、だ」
届かない。
実力が上がることで、彼との距離が、見えてくるようになった。
彼女の言葉が、のどの奥でひっかかる。
「グランドマスター目指してたけど、ここまで短期間で強くなった奴は−−はじめてだ」
彼は、若くしてチェスレーティングに載るほどの少年だった。
侵攻がなければ、恐らく言葉通りのグランドマスターになれるほどの才能の持ち主。
絶望的な戦力の差が、二人の間に横たわっていた。
このままでは想いをつたえることなど、出来はしない。
同じ地平に立たなければ、語り合うことは出来ない。
何度もめくり、端が黒くなった『チェス入門』を彼女は握り締める。
勝てない。
普通の手では、勝つ手段がない。
別の手段を、考える必要があった。
16/07/21 18:43更新 / くらげ
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