前編
「……ありがとう御座いました、ええ。通夜も終わったので明日から仕事には出られます……はい、はい、失礼します」
電話越しの上司に、軽く頭を下げながら携帯電話を切る。
小さくため息をつき、朝からしめていた黒いネクタイを外してベッドの上に横になる。
服に染み付いた汗の匂いと、香の香りに、小さく顔をしかめる。
……もう、寝てしまおうか。
確実にワイシャツはしわだらけになる上、下手をしたら風邪を引く。
だが、つかれきった身体、そして心にとってそれは何よりも魅力的な提案に見えた。
泥のような睡魔が全身を支配していくのに、時間はかからない。
「−−馬鹿姉め」
思わず罵声が口をつく。
決して、出来の良い人物ではなかった。
落第、逃亡、どうしようもない男との出来ちゃった婚、出産、離婚……そして、自殺。
何度も、何度も両親や弟である私に迷惑をかけてきた人物だった。
彼女が作った娘−−洋子の世話も、今では私の仕事だ。
母親がどう死んだのかを説明するだけでも、気が滅入る作業になるだろう。
おかげで、彼女の死を知ってから今まで、一度も涙を流す事は無かった。
「死ぬことは、無かっただろうに」
それでも私は、彼女の死を望んでは居なかった。
『ごめんね』
目を閉じるとすまなそうに笑う彼女の顔が浮かぶ。
小さな頃から幾度と無く私にため息をつかせた表情。
その度に、困った目にあって来たし、激昂したことは一度ではない。
しかし姉は手の届かぬ場所へと消え、それを見ることは二度とない、そう考えると心にちくりと何かが突き刺さるのだった。
「……ち」
どうしようもなく眠い、だが、寝入る事ができない。
おもむろにベッドからのそりと起き、服を片付けてから42度の熱いシャワーを浴びる。
安物の石鹸で、染み付いた死の匂いを振り払うようにごしごしと肌を擦ると、肌が赤色になってひりひりとした。
シャワーから出て、髪をドライヤーで乾かしていると携帯電話が友人からのメールの着信を告げていた。
『今から電話しても良い?』
文面を確認し、すぐさま閉じて寝に入ろうとする私の耳朶をけたたましい着信音が打ち消した。
こういうときは放っておいて欲しいと思う反面、人の声が聴きたいのも事実。
ため息を一つつき、私は携帯の着信をONにした。
「……はい」
「死んでないな?」
「死んでない」
「声に元気が無いな。大丈夫か?」
「大丈夫だと思うか?」
「……愚問だったな。すまない」
普段より、やや邪険な声でのやりとり。
相手に当たっているのがわかって、少々の罪悪感が湧いてくる。
「……あのさ、今の落ち込んでるお前にぴったりな場所知ってるんだ。きっと気に入るからさ」
「私に?」
「ああ、絶対気に入ると思う。……メイド喫茶の『ロミ・ケーキ』って所なんだが……」
「切るぞ」
相手の言葉にかぶせるように電話を切る。
一瞬良い奴だと思ったが間違いだったようだ。弱っている状況に趣味の押し付けとは中々度し難いことを考える奴だ。
ストレスがたまる上に、金もたまらない。
特にメイド喫茶など、風俗のようなものだ。金を払って偽りの笑顔を見て何が楽しいと言うのだろうか。
表面上の言葉を並べられた所で薄ら寒いだけだ。
後で休憩室で悪口を言われることを想像して、背筋が寒くなる。
「……ち」
再び鳴った携帯電話の電源を切り、私は布団を被って目を閉じた。
妙に寝苦しい夜だった。
――
「お昼ご飯は、冷蔵庫の中に入れてあるからチンして食べてくれ。出来るだけ早く帰ってくるつもりだけど、もし遅れたらとなりの晩御飯のほうも勝手に食べていいから」
「うん。分かったよ。おじさん」
「良い子だ」
洋子の若干ウェーブのかかった長い黒髪を撫で、微笑んでみせる。
姉にも、あのロクデナシにも似ていない、利発な子だ。喪に服し、両親に預けられている間も特に問題を起こさなかった。
今日も、きっと大丈夫だろう。
さらりとした髪から手を離し、玄関に手をかける。
「行ってきます」
「うん、おじさん。いってらっしゃい」
玄関の扉を閉め、ため息を一回。
本当であれば今日は洋子と過ごす予定だったのだが、新たな予定が友人によって捏造されてしまっていたのだ。
「いいから、一回行って見やがれ!分かったな!お前の名前で予約しておいたから絶対いけよ!」
留守番電話に残されたメッセージを思い出して、こめかみを押さえる。
キャンセルできない貧乏性か、それともわずかに残った友人への信頼か。
最寄り駅から数駅。
木製のシックな店構え、落ち着いた庭木と、ややクラシカルな屋根。
駅前の一角にその店−−メイド喫茶 『ロミ・ケーキ』はあった。
「……ここ、か」
頭の中で今日の予定をシュミレーションする。
まず、店に入る。
次に、一番安い一品を注文。
メイドとの会話を最小限に抑え、心づけの支払いを少なくする。
速攻で出る。
家に帰って洋子のために暖かい昼ごはんを作る。
次回以降友人に出会ったらデストロイする。
……よし、これで大丈夫のはずだ。
若干コミュニケーションに問題のある気もするが、そこは不可抗力としておこう。
相手も商売だ。一回不審者な客が来たところで気にはすまい。
頭の中で思い描いたようにドアを開け、入店のベルが鳴った直後。
「「「お帰りなさいませご主人様」」」
「……あ、はい」
部屋の入り口付近で数人のメイドが恭しく頭を下げていた。
思わず礼を返してしまうほど、完璧なお辞儀の姿勢。
ヴィクトリア時代の雑役女中の服装、と説明されれば信じてしまいそうなフリルの少ない、実用的な趣を感じるメイド服は、昨今メイド喫茶と呼ばれる物とは明らかに異なる風情を感じる。
間接照明を活かしつつ、落ち着いた内装や、ロマン派クラシックの音楽も含め、メイド喫茶というよりは別の何かである印象を感じさせる。
「ご主人様、本日ははじめてのご利用でございますね」
「は、はい」
「個室と、一般席がございますがどちらに致しますか?」
「ええと、一般席でお願いします」
「かしこまりました、ご案内いたします」
気圧されつつ、チーフと思しき店員の言われるがままに着いていく。
思っていたメイド喫茶とは異なるが、今すべきことは脱出、一刻も早い緊急回避である。
「では、専属のものをお呼びしますのでしばしこちらでお待ちになってください」
「……はい」
しっかりとしたつくりの木製の椅子に腰をかけ、即座に渡されたおしぼりで手を拭きつつ専属のメイドが来るのを待つ。
熱いとは感じない程度の暖かさが、じんわりと肌に染みる。
メイド喫茶は可愛いメイドさえ用意すれば他の部分に気を使わないと思っていたがこの店の方針は違うらしい。
いつの間にかおかれていたお冷も、下にコースターが置かれており細かい心遣いを感じさせる。
いいサービスだ。
これならば友人が気に入るのも分からなくもない。
「……お待たせしました、ご主人様」
ふと、聞こえた声に私は振り返り−−。
「本日は、わたしが担当させて頂きます」
「……!」
絶句した。
「何か、お飲み物をお持ちしましょうか?」
「……」
やや灰色を帯びた、茶色の髪が見えた。
抜群とは言わないが女性らしい丸みをもった肢体の、女性だった。
困ったような、はにかんだような笑みが、あった。
「姉……さん……?」
魚のように口を開閉させて、搾り出せた言葉はたったそれだけだった。
ありえない。
私が心に思い描いた女性は死んだはずだ。
車の中で、塩酸と硫黄を反応させて、冷たくなった姿を、私は見ているはずだ。
「ご主人様?」
「……い、いえ。何でもないです。はい」
平静を装って出した声はずいぶんと上ずったものだった。
何が起きているかは分からないが脱出しなければならないことだけは分かる。
このままだと、大切な何かが決壊する。
その前に、席を立つ。
軽く頭を下げながら、足に力を込める。
ここまで来てなにも注文しないで帰るのはマナー違反だし最悪出入り禁止や、違約金なんかもかかるかもしれない。
だけど、ここから、出なければならない。
「なんでもなくないです!」
不意に、上げられた声。
目の前の女性が、泣いている姿が見えた。
何故泣くんだ。
泣く理由なんてないじゃないか。
そんな言葉が喉の奥で、止まる。
「だって、ご主人様は……泣いているじゃないですか」
「……え?」
私の頬にも、涙が伝っていた。
葬儀の日から一度も流したことのない液体が、頬を流れて落ちた。
「これは。その」
「……」
言い訳をするように振った首を、抱きとめられる。
エプロンの木綿の感触が、ざらりと肌に触れる。
布ごしに、暖かく柔らかな彼女の体を感じた。
心の堰が、崩れていく感触。
押し込めていたはずの感情が、流れ出していく。
「泣いて、いいんですよ」
私の心を押し込めていた何かが、壊れた音がした。
「う……あ……ねえ、さん……」
うわごとのように呟く私を、彼女はただ優しく抱きしめていた。
−−
「みっともない所をお見せしました」
私の涙が止まったのはそれから20分後くらいだった。
ふと、我に返ってみれば随分と恥ずかしい事をしてしまった。
彼女のエプロンには、私が流した涙の跡がくっきりと残っている。
「いいえ、大丈夫です。ご主人様を慰めるのもメイドのお仕事ですから」
彼女は笑いながら、木綿のハンカチを取り出して私の顔を拭った。
乾いた布が頬に心地よい。
「−−さて、ご注文は何になさいますか?ご主人様?」
その笑みに、私はこの店に何度も通う事になることを予感した。
殆どの品が安くて美味しい上に……クリーニング代を払おうとしたら『払わなくていい』と言われてしまった。
大丈夫なのだろうかこの店……。
−−
「おじさん−−最近顔がやわらかくなった」
「そうかな?」
「うん、いいことがあった?」
「ああ、多分いい事、かな」
例のメイド喫茶、『ロミケーキ』に通うようになって二ヶ月が経った。
洋子が実家に通う日、基本的に二週間に一回程度だが、それでもゆったりとした時間を過ごす事が出来る。
そして、何より彼女に会うことが一番の癒しとなっていた。
「じゃあ、行ってくるねおじさん」
「ああ、行ってらっしゃい」
実家に通う洋子を見送ってから、外出の準備をする。
脳裏に浮かぶのは、メイド服を着た彼女の姿だ。
姉によく似た容姿、笑い方をする彼女。
その姿を思い浮かべるだけで、何故か笑みがこぼれる。
「さて、今日は何を頼もうかな」
頭の中でメニュー表を思い出す。
先日食べた『魔界風親子丼』は本当に美味しかった。
魔界風という枕詞が気になるが、ふわりとした卵と、出汁、鶏肉の風味が上手くマッチしたとても懐かしい味だった。
さらに外食といってもそこまで金がかからないのが嬉しい。
本当であれば洋子を連れて行って一緒に食べたい所だが、流石にメイド喫茶に連れて行くわけにも行かないのが、すこし残念になる。
落ち着いた雰囲気の場所とはいえ、自分の母に良く似た人間に叔父が接待をしてもらう光景を見るというのはどう考えても教育上、倫理上良くないだろう。
「……そう、だな」
倫理上、よくないのだ。
万が一、この関係が知られてしまえば。
洋子はどうなってしまうのであろうか。
「……お帰りなさいませ、ご主人様」
悩みながら扉を開けた私を待っていたのは。
黒髪と紅い瞳を持つ小さな少女だった。
電話越しの上司に、軽く頭を下げながら携帯電話を切る。
小さくため息をつき、朝からしめていた黒いネクタイを外してベッドの上に横になる。
服に染み付いた汗の匂いと、香の香りに、小さく顔をしかめる。
……もう、寝てしまおうか。
確実にワイシャツはしわだらけになる上、下手をしたら風邪を引く。
だが、つかれきった身体、そして心にとってそれは何よりも魅力的な提案に見えた。
泥のような睡魔が全身を支配していくのに、時間はかからない。
「−−馬鹿姉め」
思わず罵声が口をつく。
決して、出来の良い人物ではなかった。
落第、逃亡、どうしようもない男との出来ちゃった婚、出産、離婚……そして、自殺。
何度も、何度も両親や弟である私に迷惑をかけてきた人物だった。
彼女が作った娘−−洋子の世話も、今では私の仕事だ。
母親がどう死んだのかを説明するだけでも、気が滅入る作業になるだろう。
おかげで、彼女の死を知ってから今まで、一度も涙を流す事は無かった。
「死ぬことは、無かっただろうに」
それでも私は、彼女の死を望んでは居なかった。
『ごめんね』
目を閉じるとすまなそうに笑う彼女の顔が浮かぶ。
小さな頃から幾度と無く私にため息をつかせた表情。
その度に、困った目にあって来たし、激昂したことは一度ではない。
しかし姉は手の届かぬ場所へと消え、それを見ることは二度とない、そう考えると心にちくりと何かが突き刺さるのだった。
「……ち」
どうしようもなく眠い、だが、寝入る事ができない。
おもむろにベッドからのそりと起き、服を片付けてから42度の熱いシャワーを浴びる。
安物の石鹸で、染み付いた死の匂いを振り払うようにごしごしと肌を擦ると、肌が赤色になってひりひりとした。
シャワーから出て、髪をドライヤーで乾かしていると携帯電話が友人からのメールの着信を告げていた。
『今から電話しても良い?』
文面を確認し、すぐさま閉じて寝に入ろうとする私の耳朶をけたたましい着信音が打ち消した。
こういうときは放っておいて欲しいと思う反面、人の声が聴きたいのも事実。
ため息を一つつき、私は携帯の着信をONにした。
「……はい」
「死んでないな?」
「死んでない」
「声に元気が無いな。大丈夫か?」
「大丈夫だと思うか?」
「……愚問だったな。すまない」
普段より、やや邪険な声でのやりとり。
相手に当たっているのがわかって、少々の罪悪感が湧いてくる。
「……あのさ、今の落ち込んでるお前にぴったりな場所知ってるんだ。きっと気に入るからさ」
「私に?」
「ああ、絶対気に入ると思う。……メイド喫茶の『ロミ・ケーキ』って所なんだが……」
「切るぞ」
相手の言葉にかぶせるように電話を切る。
一瞬良い奴だと思ったが間違いだったようだ。弱っている状況に趣味の押し付けとは中々度し難いことを考える奴だ。
ストレスがたまる上に、金もたまらない。
特にメイド喫茶など、風俗のようなものだ。金を払って偽りの笑顔を見て何が楽しいと言うのだろうか。
表面上の言葉を並べられた所で薄ら寒いだけだ。
後で休憩室で悪口を言われることを想像して、背筋が寒くなる。
「……ち」
再び鳴った携帯電話の電源を切り、私は布団を被って目を閉じた。
妙に寝苦しい夜だった。
――
「お昼ご飯は、冷蔵庫の中に入れてあるからチンして食べてくれ。出来るだけ早く帰ってくるつもりだけど、もし遅れたらとなりの晩御飯のほうも勝手に食べていいから」
「うん。分かったよ。おじさん」
「良い子だ」
洋子の若干ウェーブのかかった長い黒髪を撫で、微笑んでみせる。
姉にも、あのロクデナシにも似ていない、利発な子だ。喪に服し、両親に預けられている間も特に問題を起こさなかった。
今日も、きっと大丈夫だろう。
さらりとした髪から手を離し、玄関に手をかける。
「行ってきます」
「うん、おじさん。いってらっしゃい」
玄関の扉を閉め、ため息を一回。
本当であれば今日は洋子と過ごす予定だったのだが、新たな予定が友人によって捏造されてしまっていたのだ。
「いいから、一回行って見やがれ!分かったな!お前の名前で予約しておいたから絶対いけよ!」
留守番電話に残されたメッセージを思い出して、こめかみを押さえる。
キャンセルできない貧乏性か、それともわずかに残った友人への信頼か。
最寄り駅から数駅。
木製のシックな店構え、落ち着いた庭木と、ややクラシカルな屋根。
駅前の一角にその店−−メイド喫茶 『ロミ・ケーキ』はあった。
「……ここ、か」
頭の中で今日の予定をシュミレーションする。
まず、店に入る。
次に、一番安い一品を注文。
メイドとの会話を最小限に抑え、心づけの支払いを少なくする。
速攻で出る。
家に帰って洋子のために暖かい昼ごはんを作る。
次回以降友人に出会ったらデストロイする。
……よし、これで大丈夫のはずだ。
若干コミュニケーションに問題のある気もするが、そこは不可抗力としておこう。
相手も商売だ。一回不審者な客が来たところで気にはすまい。
頭の中で思い描いたようにドアを開け、入店のベルが鳴った直後。
「「「お帰りなさいませご主人様」」」
「……あ、はい」
部屋の入り口付近で数人のメイドが恭しく頭を下げていた。
思わず礼を返してしまうほど、完璧なお辞儀の姿勢。
ヴィクトリア時代の雑役女中の服装、と説明されれば信じてしまいそうなフリルの少ない、実用的な趣を感じるメイド服は、昨今メイド喫茶と呼ばれる物とは明らかに異なる風情を感じる。
間接照明を活かしつつ、落ち着いた内装や、ロマン派クラシックの音楽も含め、メイド喫茶というよりは別の何かである印象を感じさせる。
「ご主人様、本日ははじめてのご利用でございますね」
「は、はい」
「個室と、一般席がございますがどちらに致しますか?」
「ええと、一般席でお願いします」
「かしこまりました、ご案内いたします」
気圧されつつ、チーフと思しき店員の言われるがままに着いていく。
思っていたメイド喫茶とは異なるが、今すべきことは脱出、一刻も早い緊急回避である。
「では、専属のものをお呼びしますのでしばしこちらでお待ちになってください」
「……はい」
しっかりとしたつくりの木製の椅子に腰をかけ、即座に渡されたおしぼりで手を拭きつつ専属のメイドが来るのを待つ。
熱いとは感じない程度の暖かさが、じんわりと肌に染みる。
メイド喫茶は可愛いメイドさえ用意すれば他の部分に気を使わないと思っていたがこの店の方針は違うらしい。
いつの間にかおかれていたお冷も、下にコースターが置かれており細かい心遣いを感じさせる。
いいサービスだ。
これならば友人が気に入るのも分からなくもない。
「……お待たせしました、ご主人様」
ふと、聞こえた声に私は振り返り−−。
「本日は、わたしが担当させて頂きます」
「……!」
絶句した。
「何か、お飲み物をお持ちしましょうか?」
「……」
やや灰色を帯びた、茶色の髪が見えた。
抜群とは言わないが女性らしい丸みをもった肢体の、女性だった。
困ったような、はにかんだような笑みが、あった。
「姉……さん……?」
魚のように口を開閉させて、搾り出せた言葉はたったそれだけだった。
ありえない。
私が心に思い描いた女性は死んだはずだ。
車の中で、塩酸と硫黄を反応させて、冷たくなった姿を、私は見ているはずだ。
「ご主人様?」
「……い、いえ。何でもないです。はい」
平静を装って出した声はずいぶんと上ずったものだった。
何が起きているかは分からないが脱出しなければならないことだけは分かる。
このままだと、大切な何かが決壊する。
その前に、席を立つ。
軽く頭を下げながら、足に力を込める。
ここまで来てなにも注文しないで帰るのはマナー違反だし最悪出入り禁止や、違約金なんかもかかるかもしれない。
だけど、ここから、出なければならない。
「なんでもなくないです!」
不意に、上げられた声。
目の前の女性が、泣いている姿が見えた。
何故泣くんだ。
泣く理由なんてないじゃないか。
そんな言葉が喉の奥で、止まる。
「だって、ご主人様は……泣いているじゃないですか」
「……え?」
私の頬にも、涙が伝っていた。
葬儀の日から一度も流したことのない液体が、頬を流れて落ちた。
「これは。その」
「……」
言い訳をするように振った首を、抱きとめられる。
エプロンの木綿の感触が、ざらりと肌に触れる。
布ごしに、暖かく柔らかな彼女の体を感じた。
心の堰が、崩れていく感触。
押し込めていたはずの感情が、流れ出していく。
「泣いて、いいんですよ」
私の心を押し込めていた何かが、壊れた音がした。
「う……あ……ねえ、さん……」
うわごとのように呟く私を、彼女はただ優しく抱きしめていた。
−−
「みっともない所をお見せしました」
私の涙が止まったのはそれから20分後くらいだった。
ふと、我に返ってみれば随分と恥ずかしい事をしてしまった。
彼女のエプロンには、私が流した涙の跡がくっきりと残っている。
「いいえ、大丈夫です。ご主人様を慰めるのもメイドのお仕事ですから」
彼女は笑いながら、木綿のハンカチを取り出して私の顔を拭った。
乾いた布が頬に心地よい。
「−−さて、ご注文は何になさいますか?ご主人様?」
その笑みに、私はこの店に何度も通う事になることを予感した。
殆どの品が安くて美味しい上に……クリーニング代を払おうとしたら『払わなくていい』と言われてしまった。
大丈夫なのだろうかこの店……。
−−
「おじさん−−最近顔がやわらかくなった」
「そうかな?」
「うん、いいことがあった?」
「ああ、多分いい事、かな」
例のメイド喫茶、『ロミケーキ』に通うようになって二ヶ月が経った。
洋子が実家に通う日、基本的に二週間に一回程度だが、それでもゆったりとした時間を過ごす事が出来る。
そして、何より彼女に会うことが一番の癒しとなっていた。
「じゃあ、行ってくるねおじさん」
「ああ、行ってらっしゃい」
実家に通う洋子を見送ってから、外出の準備をする。
脳裏に浮かぶのは、メイド服を着た彼女の姿だ。
姉によく似た容姿、笑い方をする彼女。
その姿を思い浮かべるだけで、何故か笑みがこぼれる。
「さて、今日は何を頼もうかな」
頭の中でメニュー表を思い出す。
先日食べた『魔界風親子丼』は本当に美味しかった。
魔界風という枕詞が気になるが、ふわりとした卵と、出汁、鶏肉の風味が上手くマッチしたとても懐かしい味だった。
さらに外食といってもそこまで金がかからないのが嬉しい。
本当であれば洋子を連れて行って一緒に食べたい所だが、流石にメイド喫茶に連れて行くわけにも行かないのが、すこし残念になる。
落ち着いた雰囲気の場所とはいえ、自分の母に良く似た人間に叔父が接待をしてもらう光景を見るというのはどう考えても教育上、倫理上良くないだろう。
「……そう、だな」
倫理上、よくないのだ。
万が一、この関係が知られてしまえば。
洋子はどうなってしまうのであろうか。
「……お帰りなさいませ、ご主人様」
悩みながら扉を開けた私を待っていたのは。
黒髪と紅い瞳を持つ小さな少女だった。
16/03/26 11:28更新 / くらげ
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