亡君の誕生
ナハトの街に夜明けが訪れた頃、戦いは終わった。こちらが出した損害は殆ど無に等しく、事実上の大勝利だった。捕まった兵士達は言うまでもなく彼女達の餌食となり、夜明けを迎えたと言うのに卑猥な呻き声がナハトの至る所から聞こえて来る。
しかし、夜明けを迎えてもガルフは目覚めなかった。遂に私は彼の名前を叫ぶのを止めて……彼の胸の上に突っ伏して泣いた。
泣いて、泣いて、人目を憚らずに泣き続けた。
どれだけ泣き続けたのかも分からず、気付いたら涙は最早枯れ果てており、口の中が乾燥していた。口だけじゃない、肌の潤いさえも失われていた。
もうこのまま……私は壊れてしまうのだろうか。最愛の男性を失い、悲しみに打ちひしがれながら生きていくのだろうか。死んで蘇った末に、こんな残酷な仕打ちはあんまりだと、アンデッド族のリッチとして生まれた己を呪った。
「何がリッチよ……。何が最強の魔法使いよ……。愛する人を守れないなんて……無意味じゃない……」
リッチ……アンデッド族の中でも最強の魔法使い……大層な肩書とは裏腹に役に立たないではないかと自分自身が嫌いになりそうになる。
自己嫌悪しつつある肩書や単語が何度も脳裏を駆け回る最中――――私の脳裏に突如閃きが舞い込んできた。
「ちょっと待って、確か魔導書に……!」
どうしてすぐに思い付かなかったのだろう。リッチの最大の武器であり、膨大な魔法が記されている魔導書にソレがあった筈だと言う事に。私の記憶が正しければ、魔導書の最後辺りに私が望んでいたソレが書かれていた筈だ。
膨大な魔法に関する知識と、微かに見覚えのある記憶を頼りに魔導書を一枚ずつ捲っていき、やがてお目当てのページに辿り着いた瞬間……私は目を見張った。
「これだ……! これを実行すれば……ガルフは助かる!」
私の叫びに同じようにガルフに抱き付いて泣いていたアンコが驚いて『本当ですか!?』と叫んだが、彼女の問い掛けに答えられる程に今の私は冷静じゃなかった。代わりに、彼女にお願いと称した命令を伝えた。
「アンコ、お願い。急いで私の研究室にセックスした魔物娘達を連れて来て!」
「え、あ、はい!」
私の言葉は理解出来てはいるが、一体何をするかまでは理解できていないようだ。子供の頭ではそれを理解するのは困難に等しいが、それでもガルフを助けるために必要な処置であろう事は重々理解したらしく、急いで他の魔物娘達の居る方へと飛んで行った。
そして私は魔力を使って彼の体をフワリと浮かすと、そのまま城の方へと運んで行く。既に顔色は肌色ではなく真っ白に近いぐらいに色褪せてしまっているが、それでも私は諦めなかった。否、諦めるつもりなんてない。
「ガルフ、待っててね。絶対に貴方を生き返らせてみせるから……」
………………
……………
…………
………
……
…
夢を見た。とてもとても懐かしい夢を見た。
幼い日に故郷を失い泣き崩れた子供だった頃の自分……
まだ新米傭兵として駆け出しだった若い頃の自分……
戦場を幾つも回って傭兵らしい立ち振る舞いが板に付いた頃の自分……
キャサリンと初めて出会って何時の間にか恋に落ちた自分……
そしてキャサリンとの別れで悲しみに暮れる自分……
今までの思い出が、人生が、全てが凝縮され、映画のように映像となって俺の目の前を流れていく。ああ、これが走馬灯ってヤツか。
そういえば俺の最期はどうなったんだっけ?………ああ、思い出した。教団の馬鹿騎士に刺されたんだ。思い出すと胸糞悪いし、我ながら呆気ない最期だと思える。呆気なさ過ぎて笑えやしない。
しかし、生き延びていたら、それはそれで面倒に巻き込まれるのは火を見るよりも明らかだ。特に魔物のキャサリンに何をされるか分かったものではない。
まぁ、こういう幕切れが……案外良いかもしれないな。それに俺は傭兵だ。戦う以外に能の無い男が死んだって、悲しむ奴は居ないだろう。寧ろ、俺の死を知った同業者が喜ぶだろうよ。稼ぎが増えるってな。
そうしている間に走馬灯の映像は終わり、暗い空間だけが取り残される。成る程、これが死後の世界か。
真っ暗で、足元はフワフワして落ち着かない。どっちが上下でどっちが左右なのか分からない。だけど自分の体等はハッキリと見えるし、恐怖心も感じない。何と言うか……人間の五感が全く通用しない世界だ。
そんな冷静な分析はさて置き、これからどうすれば良いかと悩んでいると、目の前に光に包まれた女性が何処からともなく現れた。
真っ白い光ではあるが、目が眩む程の強い光ではなく、直視出来る柔らかで温かな光だ。また逆光しているせいで姿は見えないが、背丈や体のラインなどで相手が女性である事は間違いない。
彼女が何処の誰なのかは分からないが、俺の中にある直感は彼女に違いないと叫んでいた。
「キャサリンか? キャサリンだよな?」
俺の問い掛けに彼女は言葉を返してはくれないが、代わりに微かに見える口元を軽く吊り上げてニコッと微笑みの形を浮かべてくれた。恐らく、今の質問に対する肯定であると捉えれば良い……んだよな?
「迎えに来てくれたのか……。有難いぜ」
あの世に行ったら顔見知りの死者が迎えに来るとは聞いていたが、まさかキャサリンとはな。てっきり迎えに来るのは先に死んだ両親や戦友や悪友だとばかり思っていたが、しかしこれはこれで悪くない。寧ろ、キャサリンと再会出来て喜ぶべき事だ。
「驚いただろ? いや、呆れたと言うべきか。悪運の強さならば右に出る者は居ないとさえ言われたこの俺が、こんな呆気ない最期を迎えるなんてよ」
キャサリンと思しき影は何も言わず、微動だにせず、只黙って俺の話を聞いてくれている。
それを見て、俺はこの影が彼女だと確信した。キャサリンは常に自分の意見よりも、他人の意見に耳を傾ける事に徹する節がある。悪く言えば引っ込み思案、良く言えば聞き上手というところだ。
暫くの間、俺はキャサリンに向けてずっと愚痴を零し続けていたが、やがてそれも底を突き、無言になる。すると、その瞬間を見計っていたのか、無言になったのと同時に彼女は俺に手を差し出した。
どうやら、俺をあの世に連れて行ってくれるようだ。全く、世話を焼くのが好きなお節介な所は死んでも変わらずってか。だが、それが彼女らしく思え、俺は思わず噴き出すように笑みを零してしまった。
「はははっ……じゃあ、地獄への道案内を頼むぜ。キャサリン」
今更生に対する執着も無ければ、思い残す事も無い。最もキャサリンが来てくれたおかげで爽やかな気持にもなれたので、俺は何の気兼ねも無くキャサリンから差し出された手を握り締める事が出来た。
そしていよいよ、キャサリンに導かれて地獄へ旅立つ――――かと思いきや、その予想は突然裏切られた
『ガルフ、貴方はまだ死んではいけない』
「!?」
既に気持ちの整理も終わり、思い残す事も無いと言うのに、キャサリンの口から出た言葉に俺は思わず顔を顰めた。何を今更とも言いたいし、『既に死んだ俺にどうしろと?』とも言いたかったが、それを告げる前に突然体がガクンと下に傾いた。
いや、傾いたんじゃない。彼女の体が急に鉄のように重くなり、彼女の手を握り締めていた俺までもが釣られて落下しているのだ。そう、落下だ。倒れるのではなく、高い場所から突き落とされるかのように落下しているのだ。
しかも、何処まで落下するんだと言いたくなるぐらいに長い時間に渡って落ちていく。周りは相変わらず暗いままだし、キャサリンも俺の手を掴んだままだ。
「おい! キャサリン! 何処へ行くんだよ!?」
『貴方はまだ死んではいけない』
「馬鹿言え! 俺は死んだんだぞ!! お前だって死んだから此処に居るんだろ!?」
真面目な話、俺もキャサリンも死んだ。死んだからこそ、こうやって顔を合わせられるのだ。俺はそう確信しており、彼女の言葉を真っ向から否定した。すると、彼女は両方の手で俺の顔を優しく挟み込むと、ハッキリと力強い口調でこう返した。
『いいえ、死なせはしない。そして私は死んでも、貴方の傍に居る。ずっとね……』
「何を言って――――!?」
言葉の意味が分からず聞き返そうとしたが、先に落ちていく彼女の背後に突然眩い光が満ち溢れた。視界が真っ白に覆われる程の強い光に俺は瞼を強く閉じ、瞼の向こうから感じる光がなくなるまで待ち続けた。
その光が感じなくなるまで、どれだけ目を閉じ続けていたかは分からない。気付いたら光も感じなくなっており、長い時間閉じ続けていたせいか重たく感じる瞼をゆっくり開けた。
「う…ん?」
瞼をこじ開けると真っ先に飛び込んできたのは灰色の石天井と豪華なシャンデリア……先程まで見ていた真っ暗な死後の世界とやらではなかった。しかも、温かいベッドの中で仰向けの格好で寝転がっているという贅沢な目覚めだ。
「此処は……何処だ?」
まさかとは思うが、此処は死後の世界ではない筈だ。温かいベッドの感触と心臓の鼓動を感じながら目覚めた挙句、やっぱりあの世でした……なんて酷いオチだったら俺は泣く。泣いて泣いて、あの世に居るゴーストに八つ当たりしてやる。大人気ないと思う奴も居るかもしれないが、そうでもしなければ俺の気が晴れない。いや、たったそれだけで晴れるとは思えないが。
……というか、右腕の傍で誰かが呼吸しているような空気の流れも感じるんですけど? しかも、ギュッと抱き絞められているような感覚もするような気が……。そう思いながら恐る恐る右腕の方へ首を捻ってみると―――
「すぅー……すぅー……」
―――何という事でしょう。穏やかな寝顔を浮かべて静かに眠るリッチことキャサリンさんが居られるではありませんか。しかも、蒼白い全裸の体を丸ごと使って、私の右腕をガッチリとホールドしております。
えーっと……うん。とりあえず深呼吸しましょう。吸ってー……吐いてー……吸ってー……吐いてー……よし。それじゃ改めて言いましょう。
何で生き返ったんだチキショォォォォォォウ!!!!
改めて言い直そう。やっぱり此処は地獄だわ。現実と言う名の地獄だわ。しかし、その地獄に気付いても叫び声一つ上げなかった俺に拍手を送りたい。
何はともあれ、これで確信した。一度死んだ筈の俺を生き返らせたのはコイツだ。絶対そうだ、そうに違いない。畜生、結局俺はキャサリンの魔の手から逃げ延びれなかったという訳かよ。
逃げ出そうにも今述べた通り、彼女の体は俺の右腕に密着しているので下手に動かせない。ヒンヤリとした肌の感触はそれなりに気持ち良いが、彼女が目覚めた後の事を想像するとその気持ち良さが悪寒に変換される気がするのは気のせいだろうか。
やべぇ、俺の一生終わった。絶望の余り真っ青になっているであろう顔を左手で撫で下ろし、溜息を吐き出した直後――――俺はある異変に気付いた。
「ん? 左腕?」
『確か左腕って教団の騎士に切り落とされた筈だよな?』と思いながらも恐る恐る左腕を前へ持ってくる。うん、ある。何処からどう見ても、左腕は俺の体にくっ付いている。
キャサリンか誰かが左腕の義手を直してくれたのか? いや、待て。それにしては左腕の動きが凄く敏感に分かる。
「まさか、これって……」
左腕を捻る、曲げる、伸ばす、指の一本一本を折り曲げたり伸ばしたり、そして五本同時に動かしたり……何度も何度もそれを繰り返した末、俺は一つの答えに辿り着いた。
「左腕が……元通りになっている?」
そう、直っているのではない。元通りになっているのだ。一度失って鉄と鋼で構築された左腕の義手が、再び血の通う生身の腕になっていたのだ。最初は何かの勘違いかと思ったが、指先まで通う神経の懐かしい感覚と、骨と筋肉が連動する動きの感触で勘違いではないと悟った。
「……信じられねぇ」
幾ら死に掛けた俺を助けたとは言え、失った左腕までも再生させるなんて、どんだけサービスが良いんだよ。まぁ、これも実験するのに必要な処置だろうなー……なんて思いながら首を横へ向けると、ベッドから少し離れた所に筋の装飾が施された大きな置き鏡が置かれてあった。
そこに映し出されているのは横に寝転がる俺なのだが、何かおかしい。そしてよくよく見詰め、漸くその違和感の正体に気付いた。
そこに映し出されていたのは俺なのだが、現在の俺ではない。熊の様なゴワゴワの髭が無く、顔の小皺も消えており、髪の毛だって死ぬ以前よりもフサフサだ。
うん、どう見てもこりゃー………若返っているな。この鏡に映っている俺は18か20ぐらいの頃の俺だ。
「のおおおおおおおおおおおおおおお!!?」
「ん……ガルフ?」
生き返った事、左腕が再生された事、挙句には若返っている事、流石の俺も怒涛の驚愕三連発を喰らって絶叫せずにはいられなかった。だが、その叫びによって隣で眠るキャサリンを起こしてしまい、眠たげに目を開ける彼女と目がバッチリと合ってしまう。
しまったと思っても時既に遅し。こうなれば彼女に色々と実験される前に文句をぶつけるしかない。
「キャ、キャサリン! 手前、俺に一体何を――――!?」
「ガルフ!!」
俺が怒りの形相を浮かべて何かを言おうとしたが、それよりも早く彼女が動き出す。やられる―――かと思って身構えたが、それは杞憂で終わった。
どういう訳か、彼女は俺の胸に顔を埋めるかのように抱き付いて来たのだ。突然の抱き付きに硬直してしまうが、すぐに俺は彼女を振り解こうとしたが……。
「お前! いきなり何……!」
「良かった……」
「あ?」
「良かった……! ガルフが生き返ってくれて……! このまま生き返らなかったらどうしようって不安で……あたし、あたし……!」
俺の体に抱き付く彼女の姿は、何かに怯えた幼い子供が母親に縋り付きながら泣くそれと全く同じに見えた。弱々しい姿に見えてしまうと俺も暴力を振る気が削がれてしまい、挙げ掛けた拳を解除し、彼女の頭の上にポスンと下ろすのが精一杯だった。
つーか、キャサリンってこんなキャラだったか? もっと不遜な態度が似合うリッチらしい奴かと思っていたが……こんな女々しい部分もあるだなんて意外だ。
「あー……お前に助けられた事は有難いと思うが、とりあえず何が起こったのか説明してくれねぇか? 死んだ筈なのに生きているし、義手だった左腕が生身に戻っているし、更には若返っているしで何が何やら……」
「あ、うん。……でも、その前にガルフに言っておきたい事があるの」
「何だよ? 貴方は今日から私専用の実験体になりますよっていう報告か何かか?」
「違う、そんな事よりももっと大事な事」
「大事な事?」
リッチにとって実験は最優先事項だと言うのに、それを『そんな事』と一蹴しやがった。しかも、念願の実験体である俺が手に入った割にはキャサリンの顔に喜びの色は見えない。いや、元々アンデッド族はこんな表情が主だったか。
それはさて置き、キャサリンの言う『大事な事』とは一体何だと視線で訴えると、彼女は俺の腕をギュッと力強く握り締め、覚悟を決めたような真剣な面持ちを浮かべ、俺に向かってこう言った。
「私の名前はキャサリン……キャサリン・フォルテック。貴方ならこの名前が何を意味するか分かるでしょう?」
「…………………………………はぁっ!?」
キャサリン・フォルテック……そのフルネームを持つ女性は、俺の知る限り一人しか居ない。他ならぬ、俺が初めて恋した魔法使いのキャサリンのフルネームだ。
「いや、ちょっと待て! お前のフルネームがそれだという事は……お前があのキャサリンなのか!?」
「う……うん」
「……マジかよ。いや、そもそも本当なのか?」
「……信じられない?」
「いや、だって……突然そう言われてもなぁ……」
寧ろ、信じられないという心境になって当たり前だ。俺と会った時も初対面のように余所余所しかったし、その後はナハトの城下町の中で散々追われ、敵味方に分かれるような関係だったのだ。それが目覚めた直後に私は貴方の初恋の相手なんですよと言われても正直信じるのは困難だ。
俺の表情に困惑の色を浮かび上がっているのを見て取れたのか、キャサリンは俺の方に顔を近付けてそっと囁いた。
「じゃあ、目を閉じて」
「あ?」
「良いから、目を閉じて」
「……ああ」
キャサリンが一体何をする気かは分からないが、とりあえず彼女に言われた通りに目を閉じた。そしてヒンヤリとした手の感触が俺の頬に伝わった直後、俺の脳裏に突然膨大な量の映像が流れ込んでくる。
何処の誰なのかは分からないが温かな家族団欒の姿、田舎者は絶対に足を踏み入れられそうにもない都会の街並みの風景、そして俺の知らない幾多の戦場の光景……。
いや、戦場の光景の中に見知った姿がある。俺だ。戦場の中を駆け回る俺の姿がある。映像はどんどんと俺の脳裏を流れていき、そして俺の左腕が吹き飛ばされる瞬間を最後にブツンと映像が途絶えた。
「……」
「マジ……かよ」
ここまで明白な映像を見せ付けられれば、最早信じる他あるまい。紛れもなく、このリッチは俺が愛した最強の魔法使いキャサリン・フォルテックその人だ。
何て事だ。俺が恋心抱いていたキャサリンと姿形が瓜二つの魔物も居るもんだなー、なんて呑気に思っていたが、まさかの本人だったとは。信じられねぇ、こんな奇跡みたいな事があるのかよ。しかし、今頃になってその事実を聞かされても素直に喜べない。
「だ、だったら何で最初から言わなかったんだよ!? 最初からそう言っていれば……そのー……別の方法だってあったかもしれねぇだろ!」
先に自分が死んだキャサリン本人である事を教えてくれれば、俺だって考え直していたかもしれない。いや、あくまでも仮定ではあるが。すると、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべて語り始めた。
「ごめんなさい、今まで忘れていたの。死んだショックか、もしくは大量の魔力を吸い取ってリッチになった衝動で記憶が紛失していたのかもしれない」
「………じゃあ、何時頃思い出したんだ?」
「貴方と出会った時から、薄らとね。完全に思い出したのは、貴方が騎士に腹部を刺された直後だったわ」
成程な、俺が死ぬ間際になって漸く全てを思い出したって訳か。それじゃあ俺との戦いも避けられる筈がない。そして俺を蘇らせたのは、昔の仲間である俺を想っての事か、はたまた結果的に俺を死に追いやってしまった自責の念からか……。そう考えると彼女の行動にも辻褄が合う。
しかし、一つだけ分からない事がある。
「生き返らせてくれた事や、左腕を再生してくれた事は何となく察しが付いたが……若返らせる必要はあったのか?」
生き返らせるのは勿論のこと、左腕を再生する必要性もあったかもしれないが、若返らせる必要もあったかどうかは分からない。いや、生き返るだけでも十分だと言うのに、若返らせる必要はない筈だ。
「えっと……その前に一つだけガルフに教えないといけない事があるの」
「は? 何だよ突然?」
矢鱈と答えを先延ばしにするが、もしかして若返りをしたのは単なる魔術の研究の為ですーとか言うんじゃあるまいな。いや、魔物化した事で思考がリッチ寄りになっている可能性は十分に在り得る。
そしてキャサリンはコホンッと咳払いを一つした後、リッチの時と変わらぬ淡泊な表情で告げた。
「驚かないでね。あのね、ガルフはもう人間じゃないの」
「………………は?」
「ガルフを生き返らせる為にセックスで精を溜め込んだゾンビの魔力をガルフに注いだの。その結果、ガルフは復活を果たしたのと同時にインキュバスになっちゃったの」
「………………はぁぁぁぁぁ!!?」
ちょっ、えっ、嘘だろ!? てっきり無事に生き返ったのかと思いきや、知らない内に人間辞めていたのかよ!! おいおいおい、流石の俺でもこれはショックがデカ過ぎるぜ……。
「………ごめん、やっぱりショック受けた?」
「ああ、スゲー受けた。このまま寝込みたいぐらいにショック受けた。で、それと俺の若返りとどう関係があるんだ?」
「あ、うん。とりあえずガルフの肉体はインキュバスとなって蘇ったのは蘇ったんだけど、それでも魔力が余っちゃったの。まぁ、余計に集め過ぎたっていうのがそもそもの原因なんだけどね。で、その余った魔力のおかげで思わぬ二次効果が生まれちゃったの」
「……それがこの若返りって訳か」
「うん」
成る程、この若返りも一応は蘇りの術が生み出した予想外の結果だという訳か。だけど、まさかこの俺が魔物化とはなぁ。まぁ、ゾンビとなって蘇るよりかは遥かにマシかもしれんが、インキュバスって事はあれだろ。人間とは違って致命傷を受けても死ににくくなったり、年老いたりしなくなるんだろ。それはそれで便利かもしれんが……いや、やっぱり複雑だ。
「念の為に聞くが、インキュバスから人間に戻る方法は?」
「…………」
「……無いのか」
「ごめんなさい……」
無言と謝罪、それだけで俺の期待している答えが無いのは明らかであった。そりゃそうだろうな、インキュバスだった奴が人間に戻れるんだったら、魔物娘になってしまった女性を人間に戻せるのもまた然りだ。その術が無いから色々と面倒なんだ、この世界は。
シュンッと落ち込んだように項垂れるキャサリンの頭に軽く手を置くと、キャサリンは二重の瞳を見開いて俺の方を見た。
「まぁ、命が助かっただけでも儲けものだ。魔物になったのも生き返る為の代償だと思えば……何てことない」
「怒らないの……?」
「怒るも何も、これはお前が俺を助けようと努力した結果だろ? それを否定したり罵倒したりする権利は俺には無ぇよ。それに魔物になったと言っても、これと言って違和感はないし、結果オーライだろ」
俺が反魔物主義者だったら発狂していたかもしれないが、別に俺は反魔物主義者でなければ、人類至上主義者でもなければ。只、俺と言う個人が確立されていれば十分だ。例えその個人を分類する種族が人間であろうが、魔物であろうがだ。
要するに、生きていれば全て良し。それが俺のモットーだ。
「しかし、魔物になったとなれば、あっちの街には戻れないな。それに傭兵の仕事だって出来やしない。いや、素性を隠せば何とかなるか?……いや、だけど……」
だが、魔物になったらなったでこれは問題だ。特に今までのような人間生活は困難だろう。いや、隠し通せば大丈夫かもしれないが、親しい奴にバレたら何と言えば良いのやら。中には魔物を毛嫌いする奴だって居るし……と考えていると、キャサリンが俺の腕をツンツンと指で突いた。
「ガルフ、大丈夫よ。ガルフは私が守るから」
「は?」
「今まで貴方に守られてばかりだった。でも、今度は私が守る。だから……わ、私から離れないで、ずっと傍に居て……!」
………え、えーっと。何その告白めいた一言は。しかも、その一言を言い終えた直後のキャサリンの表情は蒼白いのが一転して熟したトマト並に真っ赤になっている。そんな顔を見られたくないからか、俺の太い腕にしがみ付いて表情を隠してしまう。
何と言うか、自分の記憶を取り戻した途端に表情豊かになったなー……こいつ。それに可愛く見えるのは俺の気のせいか?
「な、何だよ急に……。まるで告白じゃねぇか」
「そ、そうよ。告白よ」
「……え?」
「あ、貴方だって……この城に来た時、私の事が好きだって言ったじゃない」
あ。
うあああああ、そう言えばそうだった! コイツは俺の知るキャサリンじゃないと思い込んでいたからとは言え、キャサリンがどれだけ好きかって事を語っちまったんだぁぁぁぁ!!
死にたい。折角生き返ったけど、もう一回死んで忘れたい。忘れたいけど忘れられない、完全な黒歴史だよ……。自分の恥ずかしい思い出に頭を抱えていると、キャサリンの口から予想外の言葉が飛び出て来た。
「それに……生きている間に言えなかったけど、私だって貴方の事が好きだったのよ……」
「………へ!? 嘘だろ!?」
「本当よ! 貴方に助けられた日からずっと……ずっと好きだったの!!」
マジかよ。俺みたいな図体がデカくて人相も悪い傭兵では、キャサリンみたいな高嶺の花は手に入れられないだろうな……と出会った時から諦めていたというのに、時を超えてのカミングアウトに俺は度肝を抜かれてしまった。
「……って事は、両想いって事で良いのか?」
「うん、両想いって事でOKだと思う」
……何だこれ。片想いかと思っていたら、実は両思いでしたと分かった途端、俺はキャサリンの顔を直視出来なくなって顔を背けてしまう。それはキャサリンとて同じだ。俺の体に密着しながらも、視線だけはキョロキョロソワソワと落ち着かない。
やがてどちらも無言になってしまい、妙に緊張した空気が部屋に充満し始める。まぁ、互いの気持ちを知ってしまったのだから無理もない。
しかし、このまま無言で居続けるのは俺の性分に合わない。この重苦しい沈黙を破るべく、俺はキャサリンの方に体を向けて、彼女の華奢な体を抱き締めた。
その瞬間、彼女の目が大きく見開かれ、俺の心臓も動悸が激しくなる。それこそ正に心臓が壊れそうだと思える程だ。だが、この時ばかりは自分の心臓なんてどうでも良かった。
そんな事よりも、自分の命よりも大事な事を彼女に伝えなければならない……その想いで一杯だった。
「キャサリン、俺をお前の望む研究の実験道具にしても構わない。だから……結婚してくれ」
彼女を抱きしめながら、俺は今までの想いを込めて彼女に告白した。お付き合い云々とか言うべき事は他にもあったかもしれないが、この時ばかりは結婚意外に単語が思い浮かばなかった。
我ながら、何とも情けない告白だ。まぁ、戦場や修羅場は数多く潜ったものの、告白だの恋愛だの色恋は経験した事が無いからどうしようもない。
だが、そんな情けない告白に対しキャサリンは静かに、それでいて凛と透き通るような声で俺の耳元で囁いた。
「はい」
俺が告白してから、その返事が返って来るまでどれくらいの時間が経過したかは分からない。長かったのか、それとも短かったのか。
だが、彼女の一声で硬直していた時が動き出した。俺と彼女の……愛し合った者同士だけが織り成せる時が動き出したのだ。
………………
……………
…………
………
……
…
「はぁ……! はぁ……!」
「逃がすな! 追え!!」
「化け物共が逃げるぞ!!」
土砂降りの豪雨の中、とある王国へと続く森の中で人間達の喧騒が木霊する。先頭を走るのは大人の女性と年端もいかない少年、そのすぐ後ろからは肩手に松明を握り締め、もう片方の手に干し草フォークや鍬を握る大人達の姿があった。
その様子を察するに、少年と女性は追ってくる大人達から逃げており、大人達は逃げる少年と女性を追い駆けているようだ。雨で泥濘るんだ道を必死に走り抜けるが、それが逆に両者の体力を消耗していく。
そして先に根を上げたのは先頭を走っていた少年と女性だった。少年が足を滑らせて転び、それを見た女性が慌てて少年に駆け寄る。女性の手を借りながらも少年は立ち上がるが、その間に追って来た大人達に追い付かれ、あっという間に囲まれてしまう。
「とうとう追い詰めたぞ、化け物め!」
「全く、無駄な足掻きをしおって!」
「ホビー、村の掟を破ってどうなるのか分かっているだろうな!?」
大人達は殺気混じりのオーラを醸し出し、鬼のような形相で女性と少年を睨み付けている。しかし、少年は大人達の睨みに臆するどころか彼等の前に立つと、女性を自分の小さな背中に隠して庇おうとする。女性の姿は隠し切れていないが、それでも大人達への反骨精神が見て取れる。
「やだ! お姉ちゃんは殺させない! お姉ちゃんは僕が守るんだ!」
「うぅぅ……ホビー……ホビー……」
ホビーの小さな背中から微かに顔を覗かせる彼の姉。だが、それを見た村人達はおぞましい何かを見たかのように表情を強張らせる。
「ホビー! もうそれはお前の姉ではない! 化け物だ!」
「そうだ! お前は化け物に騙されているんだ!」
そう、ホビーの姉は既に人間ではなく、ゾンビという魔物に生まれ変わっていた。彼の村では村の女性が魔物になったら即座に粛清……抹殺する事を掟として定めている。
だが、姉の事が大好きだったホビーはそれを良しとせず、まだ十歳であるにも拘らず一回りも年の離れた姉を連れて村から脱走したのだ。
結局は追い付かれてしまったのだが、それでも大好きな姉を何としてでも守ろうと悪足掻きを試みている最中だ。
「お姉ちゃんの面倒は僕が見る! だから放っておいてよ!」
「そうはいかない! 我々の村から魔物が出たと教団に知れたら何をされるか分からねぇんだぞ!」
「そうだ! 我々の村を守る為だ! 諦めて姉を渡せ! さもなければ……!」
ホビーは姉を守る為に大人達と戦う覚悟を決めているが、村人たちもまた村の為、仲間を守る為に子供一人を殺す覚悟はしているようだ。松明を握り締め、各々が手にしている武器代わりの農具を構えて二人へ歩み寄っていく。
「ホビー……ホビー……こわいよ……こわいよぉ……」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。きっと僕が守る」
ホビーの服の裾を掴んで恐いと訴える姉に対し、ホビーは必死に微笑みを浮かべながら優しく答えた。勿論、彼に姉を守る手段なんて無い。大人に太刀打ちする術なんて持ち合わせていないし、何処にでも居そうな非力な子供の一人だ。ゾンビとなった姉も知能が衰え、自分がどんな目に遭うのか分かっていない。つまり、どちらも村人達に抵抗する方法は無いのだ。
だが、ホビーもまた完全な無策で逃げようと思った訳ではない。彼なりに考えがあって此処まで逃げて来たのだが、その考えが成功するかどうかは彼自身でさえ分からなかった。
何故なら、その考え自体が根も葉もない噂話を信じた不確定な要素が多過ぎるものであったからだ。
ホビーが聞いた噂によると、森の奥には一度は滅んだが再び復活した幻の王国があり、そこの国王様は人間と魔物を受け入れてくれるという話だ。果たしてその王国が実在するのかどうかは不明だが、魔物になった姉と人間の自分が穏やかに暮らす為には、そこへ行くしかないと考えて行動を起こしたのだ。傍から見れば無計画で無鉄砲な行動に違いないが、彼の心境を察すれば致し方ない事かもしれない。
とにかく、ホビーはこの噂話に自分の全運命を賭けたと言っても過言ではない。その結果、賭けに負けても彼は姉と一緒に死ねるのならば、それでも構わないとさえ思っていた。
だが、追い詰められる前はそう思っていても、実際に追い詰められるとやはり心の奥底に押し込んでいた恐怖の感情が込み上がって来る。武器を手にした大人達が自分の方へ近付いて来る様子は、たった一人の男の子の心に恐怖を与えるには十分だ。
唇をキュッと堅く結んで恐怖に耐えようとするが、足が震え、大きく見開いた瞳から涙が零れ落ちて来る。
そして村人の一人が自分の前に立ち、手に持った鎌を降り上げようとした時だ。
「助けて……」
彼は噂で聞いた王様の異名を叫んだ。
「助けて! 亡君様ぁ!!」
その叫びに呼応するかのように雷が近くに落ちたのか、辺りが真っ白な閃光に包まれ、轟音が響き渡る。そして村人が手にした鎌を振り下ろそうとした――――直前だった。
「情けねぇな、女子供相手に大の大人が複数で襲うなんざよぉ」
何処からともなくハッキリと聞こえて来た若い男の声にホビーも、村人達も目を見開いて周りを見回した。誰だと叫んで周りを見るが、雨が降り注ぐ暗い森の中で自分達以外の第三者を見付けるのは困難だ。
「ど、何処だ!?」
「ギャッ!」
「うあっ!」
「な、何だ!?」
暗闇の中から村人達と思しき短い悲鳴が聞こえ、直後にドサリッ、バサリッと倒れる音が続いてやってくる。一回だけじゃない。数秒置きに何処からか悲鳴が上がり、倒れる。悲鳴が上がり、倒れる。悲鳴が上がり、倒れる。まるで作業のように繰り返される度に村人の気配が一人ずつ消えていく。
「な、何が起きているんじゃ……」
村人達の纏め役である村長が蒼褪めた顔で呟いてから程なくして雨が止み、雲が引いていく。そして雲の向こうから仄かに赤い月が顔を表し、辺りを照らした時……村長は自分達が置かれている状況に漸く気付いた。
赤い月に照らされた森の中で村長が見たのは、赤い月以上にギラついた妖しげな瞳で自分達を見詰める無数の魔物達であった。その内の半数以上は彼女達に倒されたと思しき村の男達に群がっており、若干薄暗くて良く見えないが、ピチャクチャと舐めたりしゃぶったりする音が聞こえてくる。
「ひぃ! ま、魔物だ! 魔物だぁ!」
「食われちまう! 食われちまう!!」
「に、逃げろォォォォ!!」
「ま、待て! ワシを置いていくな!」
その擬音を“人間を食う”音だと思い込んだ村人の一人が恐怖に駆られ、仲間を置いて真っ先に逃げ出してしまう。逃げ出した仲間を見た他の村人達も我が身の安全が最優先だと言わんばかりに続々とその場から逃げていく。
あっという間にその場から村人達は居なくなり、突然の出来事で取り残されたホビーは呆然としてしまう。姉に至っては相変わらずあーうーと呻きながら彼の服にしがみ付いている。
「おい、坊主。大丈夫か?」
「え?」
村人達は去ったが代わりに現れた魔物達を前にして、どうすれば良いのだろうかとうろたえている彼の前に一人の大男が歩み寄って来た。黒い甲冑を身に纏い、肩手には六角形の鉄の棍棒を持った強面の男。
さっきまでホビーを追い詰めていた村人達よりも遥かに巨大で屈強そうな大男を目の当たりにし、ホビーは恐怖や畏怖ではなく、もしかしてという期待に満ちた目で男を見遣った。
「もしかして……貴方が亡君様ですか?」
「あ? あー…………まぁ、最近周りではそう呼ばれてはいるっちゃーいるな」
「やっぱりそうなんだ!! 有難うございます、亡君様! おかげで助かりました!」
「お、おう……」
風の噂で聞いていた亡国の王様……亡君に会えた事をホビーは心の底から喜んだ。もし単なる噂で根も葉もない御伽噺だったらどうしようと悩んでいたが、実物の亡君と出会えた事で彼の苦労は報われたと言っても過言ではない。
そして自分がゾンビと化した姉と一緒に逃げて来た事、魔物と人間が一緒に住めるナハトに移住したい事を亡君に伝えると、亡君は二つ返事でOKを出した。
「村の掟を破って姉を連れて逃避行なんざぁ、ガキにしては中々のもんだ。骨もありそうだ。良いぜ、付いてきな。俺達の国へ案内してやる」
「本当ですか!? 有難うございます!」
そうして亡君達の案内でホビーは姉を連れて彼等の国へと向かうのであった。その道中の最中、亡君はふと思い出したかのように彼に向かってこう呟いた。
「……おっと、一つ言い忘れていた事があった」
「え……何ですか?」
「俺の事を亡君様なんて呼ぶんじゃねぇ」
「はい?」
「何て言うかよー。誰がどんな噂を言い触らしたかは知らないが、何故か俺の異名が“亡君”になっちまっているんだよなぁ。俺としてはこのあだ名、微妙過ぎてあんまり好きじゃねぇんだよなぁ」
どうやら亡君……もとい大男は自分のあだ名が気に入らないらしく、特にホビーのように尊敬の念を込めて呼ばれるとどうにも気が気でないらしい。すると、周りの魔物達から『何でですかー。格好良いじゃないですじゃー』と言葉が投げられて来るが、彼は『うるせー! 俺が嫌なんだよ!』と仲の良い友達で遣り取りするような雰囲気で言葉を返した
「じゃあ、何てお呼びすれば良いですか?」
魔物と亡君との会話に恐る恐る質問を差し込み、それを聞いた亡君はニカッと爽やかな笑みを浮かべてこう答えた。
「俺は亡君でも王様でもない。ガルフだ。ガルフ・ライゼン。それが俺の名前だ」
「ガルフ……様」
「ああ、“様”も必要ねぇよ。さん付けで十分だ。よし、じゃあ帰るか。あっちで嫁が首を長くして待っているだろうしな」
あっち……と言うのは恐らく彼等が来た王国の事であろうとホビーは理解した。それと同時にガルフの言うお嫁さんとやらに興味を抱いた。
「ガルフさんのお嫁さんって……魔物ですか?」
「ああ、魔物だ。おっかない魔物だぞー。時々分厚い魔導書で俺の頭をぶん殴って来る恐い魔物だ」
「そ、そうなんですか……」(魔導書って殴る物だっけ?)
「だけどな、そんな魔物だけど俺は世界で一番愛している。これ以上にない程にな」
「へー……素敵ですね」
「……お前だって姉ちゃんが世界で一番好きだから、あの村から態々逃げて来たんだろ?」
「え……あ……」
ガルフの愛情を褒めたつもりが、何時の間にか自分が姉に抱いている仄かな恋愛感情について指摘された為、ホビーは顔を真っ赤にしてガルフからサッと顔を背けてしまう。だが、それはガルフから見れば答えを言っているにも等しいものであり、ホビーの初心な反応にガルフはクックックと笑みを零した。
「気にすんな。姉だろうと親だろうと、好きになっちまったもんは好きで結構。俺達の国に恋愛の御法度なんて存在しないんだからな」
「そ、そうなんですか?」
「おう、そうさ。だから実の姉を好きになっても笑う奴なんざ、俺達の国には居ねぇよ。………お、見えて来たぞ」
そう言ってガルフが指差す先には縦10m程、横に至っては何十mにも及ぶ巨大な石の壁があった。それを見た瞬間、ホビーはこの壁の向こうにどんな未来があるのだろかと期待に胸を膨らませた。
すると、そのホビーの期待を見透かしたかのように、ガルフは国に入る前に一つ質問を投げ掛けた。
「……此処を超えたらお前は俺達の家族であり、仲間だ。もうあっちに後戻り出来ないが、本当に良いのか?」
それはガルフなりの警告であり、ホビーに与えた最後のチャンスだった。此処を潜ってしまえば彼等が生まれ育った故郷には帰れないかもしれないし、また国内には大勢の魔物娘達が居る。もしかしたら彼女達に襲われるかもしれない、ある意味で危険な場所だぞとガルフはホビーに包み隠さず伝えた。
「はい、僕はお姉ちゃんが大好きです。例えお姉ちゃんがゾンビになっても、その気持ちは変わりませんし、お姉ちゃんを守ると誓いました。もう、あっちに未練はありません」
しかし、ホビーの意思は固く、大好きな姉を守る決意で漲っていた。そして彼の瞳に後悔や未練が無い事を確認すると、ガルフは彼等の入国を歓迎した。
「それじゃ、改めて……ようこそ、亡国のナハトへ」
その後、亡国ナハトは親魔物派として勢力を広げていき、自国の周りにあった多くの国々を吸収合併し、やがて大昔のような大国となって輝かしい栄光を取り戻すのは………もっと先の未来の事である。
しかし、夜明けを迎えてもガルフは目覚めなかった。遂に私は彼の名前を叫ぶのを止めて……彼の胸の上に突っ伏して泣いた。
泣いて、泣いて、人目を憚らずに泣き続けた。
どれだけ泣き続けたのかも分からず、気付いたら涙は最早枯れ果てており、口の中が乾燥していた。口だけじゃない、肌の潤いさえも失われていた。
もうこのまま……私は壊れてしまうのだろうか。最愛の男性を失い、悲しみに打ちひしがれながら生きていくのだろうか。死んで蘇った末に、こんな残酷な仕打ちはあんまりだと、アンデッド族のリッチとして生まれた己を呪った。
「何がリッチよ……。何が最強の魔法使いよ……。愛する人を守れないなんて……無意味じゃない……」
リッチ……アンデッド族の中でも最強の魔法使い……大層な肩書とは裏腹に役に立たないではないかと自分自身が嫌いになりそうになる。
自己嫌悪しつつある肩書や単語が何度も脳裏を駆け回る最中――――私の脳裏に突如閃きが舞い込んできた。
「ちょっと待って、確か魔導書に……!」
どうしてすぐに思い付かなかったのだろう。リッチの最大の武器であり、膨大な魔法が記されている魔導書にソレがあった筈だと言う事に。私の記憶が正しければ、魔導書の最後辺りに私が望んでいたソレが書かれていた筈だ。
膨大な魔法に関する知識と、微かに見覚えのある記憶を頼りに魔導書を一枚ずつ捲っていき、やがてお目当てのページに辿り着いた瞬間……私は目を見張った。
「これだ……! これを実行すれば……ガルフは助かる!」
私の叫びに同じようにガルフに抱き付いて泣いていたアンコが驚いて『本当ですか!?』と叫んだが、彼女の問い掛けに答えられる程に今の私は冷静じゃなかった。代わりに、彼女にお願いと称した命令を伝えた。
「アンコ、お願い。急いで私の研究室にセックスした魔物娘達を連れて来て!」
「え、あ、はい!」
私の言葉は理解出来てはいるが、一体何をするかまでは理解できていないようだ。子供の頭ではそれを理解するのは困難に等しいが、それでもガルフを助けるために必要な処置であろう事は重々理解したらしく、急いで他の魔物娘達の居る方へと飛んで行った。
そして私は魔力を使って彼の体をフワリと浮かすと、そのまま城の方へと運んで行く。既に顔色は肌色ではなく真っ白に近いぐらいに色褪せてしまっているが、それでも私は諦めなかった。否、諦めるつもりなんてない。
「ガルフ、待っててね。絶対に貴方を生き返らせてみせるから……」
………………
……………
…………
………
……
…
夢を見た。とてもとても懐かしい夢を見た。
幼い日に故郷を失い泣き崩れた子供だった頃の自分……
まだ新米傭兵として駆け出しだった若い頃の自分……
戦場を幾つも回って傭兵らしい立ち振る舞いが板に付いた頃の自分……
キャサリンと初めて出会って何時の間にか恋に落ちた自分……
そしてキャサリンとの別れで悲しみに暮れる自分……
今までの思い出が、人生が、全てが凝縮され、映画のように映像となって俺の目の前を流れていく。ああ、これが走馬灯ってヤツか。
そういえば俺の最期はどうなったんだっけ?………ああ、思い出した。教団の馬鹿騎士に刺されたんだ。思い出すと胸糞悪いし、我ながら呆気ない最期だと思える。呆気なさ過ぎて笑えやしない。
しかし、生き延びていたら、それはそれで面倒に巻き込まれるのは火を見るよりも明らかだ。特に魔物のキャサリンに何をされるか分かったものではない。
まぁ、こういう幕切れが……案外良いかもしれないな。それに俺は傭兵だ。戦う以外に能の無い男が死んだって、悲しむ奴は居ないだろう。寧ろ、俺の死を知った同業者が喜ぶだろうよ。稼ぎが増えるってな。
そうしている間に走馬灯の映像は終わり、暗い空間だけが取り残される。成る程、これが死後の世界か。
真っ暗で、足元はフワフワして落ち着かない。どっちが上下でどっちが左右なのか分からない。だけど自分の体等はハッキリと見えるし、恐怖心も感じない。何と言うか……人間の五感が全く通用しない世界だ。
そんな冷静な分析はさて置き、これからどうすれば良いかと悩んでいると、目の前に光に包まれた女性が何処からともなく現れた。
真っ白い光ではあるが、目が眩む程の強い光ではなく、直視出来る柔らかで温かな光だ。また逆光しているせいで姿は見えないが、背丈や体のラインなどで相手が女性である事は間違いない。
彼女が何処の誰なのかは分からないが、俺の中にある直感は彼女に違いないと叫んでいた。
「キャサリンか? キャサリンだよな?」
俺の問い掛けに彼女は言葉を返してはくれないが、代わりに微かに見える口元を軽く吊り上げてニコッと微笑みの形を浮かべてくれた。恐らく、今の質問に対する肯定であると捉えれば良い……んだよな?
「迎えに来てくれたのか……。有難いぜ」
あの世に行ったら顔見知りの死者が迎えに来るとは聞いていたが、まさかキャサリンとはな。てっきり迎えに来るのは先に死んだ両親や戦友や悪友だとばかり思っていたが、しかしこれはこれで悪くない。寧ろ、キャサリンと再会出来て喜ぶべき事だ。
「驚いただろ? いや、呆れたと言うべきか。悪運の強さならば右に出る者は居ないとさえ言われたこの俺が、こんな呆気ない最期を迎えるなんてよ」
キャサリンと思しき影は何も言わず、微動だにせず、只黙って俺の話を聞いてくれている。
それを見て、俺はこの影が彼女だと確信した。キャサリンは常に自分の意見よりも、他人の意見に耳を傾ける事に徹する節がある。悪く言えば引っ込み思案、良く言えば聞き上手というところだ。
暫くの間、俺はキャサリンに向けてずっと愚痴を零し続けていたが、やがてそれも底を突き、無言になる。すると、その瞬間を見計っていたのか、無言になったのと同時に彼女は俺に手を差し出した。
どうやら、俺をあの世に連れて行ってくれるようだ。全く、世話を焼くのが好きなお節介な所は死んでも変わらずってか。だが、それが彼女らしく思え、俺は思わず噴き出すように笑みを零してしまった。
「はははっ……じゃあ、地獄への道案内を頼むぜ。キャサリン」
今更生に対する執着も無ければ、思い残す事も無い。最もキャサリンが来てくれたおかげで爽やかな気持にもなれたので、俺は何の気兼ねも無くキャサリンから差し出された手を握り締める事が出来た。
そしていよいよ、キャサリンに導かれて地獄へ旅立つ――――かと思いきや、その予想は突然裏切られた
『ガルフ、貴方はまだ死んではいけない』
「!?」
既に気持ちの整理も終わり、思い残す事も無いと言うのに、キャサリンの口から出た言葉に俺は思わず顔を顰めた。何を今更とも言いたいし、『既に死んだ俺にどうしろと?』とも言いたかったが、それを告げる前に突然体がガクンと下に傾いた。
いや、傾いたんじゃない。彼女の体が急に鉄のように重くなり、彼女の手を握り締めていた俺までもが釣られて落下しているのだ。そう、落下だ。倒れるのではなく、高い場所から突き落とされるかのように落下しているのだ。
しかも、何処まで落下するんだと言いたくなるぐらいに長い時間に渡って落ちていく。周りは相変わらず暗いままだし、キャサリンも俺の手を掴んだままだ。
「おい! キャサリン! 何処へ行くんだよ!?」
『貴方はまだ死んではいけない』
「馬鹿言え! 俺は死んだんだぞ!! お前だって死んだから此処に居るんだろ!?」
真面目な話、俺もキャサリンも死んだ。死んだからこそ、こうやって顔を合わせられるのだ。俺はそう確信しており、彼女の言葉を真っ向から否定した。すると、彼女は両方の手で俺の顔を優しく挟み込むと、ハッキリと力強い口調でこう返した。
『いいえ、死なせはしない。そして私は死んでも、貴方の傍に居る。ずっとね……』
「何を言って――――!?」
言葉の意味が分からず聞き返そうとしたが、先に落ちていく彼女の背後に突然眩い光が満ち溢れた。視界が真っ白に覆われる程の強い光に俺は瞼を強く閉じ、瞼の向こうから感じる光がなくなるまで待ち続けた。
その光が感じなくなるまで、どれだけ目を閉じ続けていたかは分からない。気付いたら光も感じなくなっており、長い時間閉じ続けていたせいか重たく感じる瞼をゆっくり開けた。
「う…ん?」
瞼をこじ開けると真っ先に飛び込んできたのは灰色の石天井と豪華なシャンデリア……先程まで見ていた真っ暗な死後の世界とやらではなかった。しかも、温かいベッドの中で仰向けの格好で寝転がっているという贅沢な目覚めだ。
「此処は……何処だ?」
まさかとは思うが、此処は死後の世界ではない筈だ。温かいベッドの感触と心臓の鼓動を感じながら目覚めた挙句、やっぱりあの世でした……なんて酷いオチだったら俺は泣く。泣いて泣いて、あの世に居るゴーストに八つ当たりしてやる。大人気ないと思う奴も居るかもしれないが、そうでもしなければ俺の気が晴れない。いや、たったそれだけで晴れるとは思えないが。
……というか、右腕の傍で誰かが呼吸しているような空気の流れも感じるんですけど? しかも、ギュッと抱き絞められているような感覚もするような気が……。そう思いながら恐る恐る右腕の方へ首を捻ってみると―――
「すぅー……すぅー……」
―――何という事でしょう。穏やかな寝顔を浮かべて静かに眠るリッチことキャサリンさんが居られるではありませんか。しかも、蒼白い全裸の体を丸ごと使って、私の右腕をガッチリとホールドしております。
えーっと……うん。とりあえず深呼吸しましょう。吸ってー……吐いてー……吸ってー……吐いてー……よし。それじゃ改めて言いましょう。
何で生き返ったんだチキショォォォォォォウ!!!!
改めて言い直そう。やっぱり此処は地獄だわ。現実と言う名の地獄だわ。しかし、その地獄に気付いても叫び声一つ上げなかった俺に拍手を送りたい。
何はともあれ、これで確信した。一度死んだ筈の俺を生き返らせたのはコイツだ。絶対そうだ、そうに違いない。畜生、結局俺はキャサリンの魔の手から逃げ延びれなかったという訳かよ。
逃げ出そうにも今述べた通り、彼女の体は俺の右腕に密着しているので下手に動かせない。ヒンヤリとした肌の感触はそれなりに気持ち良いが、彼女が目覚めた後の事を想像するとその気持ち良さが悪寒に変換される気がするのは気のせいだろうか。
やべぇ、俺の一生終わった。絶望の余り真っ青になっているであろう顔を左手で撫で下ろし、溜息を吐き出した直後――――俺はある異変に気付いた。
「ん? 左腕?」
『確か左腕って教団の騎士に切り落とされた筈だよな?』と思いながらも恐る恐る左腕を前へ持ってくる。うん、ある。何処からどう見ても、左腕は俺の体にくっ付いている。
キャサリンか誰かが左腕の義手を直してくれたのか? いや、待て。それにしては左腕の動きが凄く敏感に分かる。
「まさか、これって……」
左腕を捻る、曲げる、伸ばす、指の一本一本を折り曲げたり伸ばしたり、そして五本同時に動かしたり……何度も何度もそれを繰り返した末、俺は一つの答えに辿り着いた。
「左腕が……元通りになっている?」
そう、直っているのではない。元通りになっているのだ。一度失って鉄と鋼で構築された左腕の義手が、再び血の通う生身の腕になっていたのだ。最初は何かの勘違いかと思ったが、指先まで通う神経の懐かしい感覚と、骨と筋肉が連動する動きの感触で勘違いではないと悟った。
「……信じられねぇ」
幾ら死に掛けた俺を助けたとは言え、失った左腕までも再生させるなんて、どんだけサービスが良いんだよ。まぁ、これも実験するのに必要な処置だろうなー……なんて思いながら首を横へ向けると、ベッドから少し離れた所に筋の装飾が施された大きな置き鏡が置かれてあった。
そこに映し出されているのは横に寝転がる俺なのだが、何かおかしい。そしてよくよく見詰め、漸くその違和感の正体に気付いた。
そこに映し出されていたのは俺なのだが、現在の俺ではない。熊の様なゴワゴワの髭が無く、顔の小皺も消えており、髪の毛だって死ぬ以前よりもフサフサだ。
うん、どう見てもこりゃー………若返っているな。この鏡に映っている俺は18か20ぐらいの頃の俺だ。
「のおおおおおおおおおおおおおおお!!?」
「ん……ガルフ?」
生き返った事、左腕が再生された事、挙句には若返っている事、流石の俺も怒涛の驚愕三連発を喰らって絶叫せずにはいられなかった。だが、その叫びによって隣で眠るキャサリンを起こしてしまい、眠たげに目を開ける彼女と目がバッチリと合ってしまう。
しまったと思っても時既に遅し。こうなれば彼女に色々と実験される前に文句をぶつけるしかない。
「キャ、キャサリン! 手前、俺に一体何を――――!?」
「ガルフ!!」
俺が怒りの形相を浮かべて何かを言おうとしたが、それよりも早く彼女が動き出す。やられる―――かと思って身構えたが、それは杞憂で終わった。
どういう訳か、彼女は俺の胸に顔を埋めるかのように抱き付いて来たのだ。突然の抱き付きに硬直してしまうが、すぐに俺は彼女を振り解こうとしたが……。
「お前! いきなり何……!」
「良かった……」
「あ?」
「良かった……! ガルフが生き返ってくれて……! このまま生き返らなかったらどうしようって不安で……あたし、あたし……!」
俺の体に抱き付く彼女の姿は、何かに怯えた幼い子供が母親に縋り付きながら泣くそれと全く同じに見えた。弱々しい姿に見えてしまうと俺も暴力を振る気が削がれてしまい、挙げ掛けた拳を解除し、彼女の頭の上にポスンと下ろすのが精一杯だった。
つーか、キャサリンってこんなキャラだったか? もっと不遜な態度が似合うリッチらしい奴かと思っていたが……こんな女々しい部分もあるだなんて意外だ。
「あー……お前に助けられた事は有難いと思うが、とりあえず何が起こったのか説明してくれねぇか? 死んだ筈なのに生きているし、義手だった左腕が生身に戻っているし、更には若返っているしで何が何やら……」
「あ、うん。……でも、その前にガルフに言っておきたい事があるの」
「何だよ? 貴方は今日から私専用の実験体になりますよっていう報告か何かか?」
「違う、そんな事よりももっと大事な事」
「大事な事?」
リッチにとって実験は最優先事項だと言うのに、それを『そんな事』と一蹴しやがった。しかも、念願の実験体である俺が手に入った割にはキャサリンの顔に喜びの色は見えない。いや、元々アンデッド族はこんな表情が主だったか。
それはさて置き、キャサリンの言う『大事な事』とは一体何だと視線で訴えると、彼女は俺の腕をギュッと力強く握り締め、覚悟を決めたような真剣な面持ちを浮かべ、俺に向かってこう言った。
「私の名前はキャサリン……キャサリン・フォルテック。貴方ならこの名前が何を意味するか分かるでしょう?」
「…………………………………はぁっ!?」
キャサリン・フォルテック……そのフルネームを持つ女性は、俺の知る限り一人しか居ない。他ならぬ、俺が初めて恋した魔法使いのキャサリンのフルネームだ。
「いや、ちょっと待て! お前のフルネームがそれだという事は……お前があのキャサリンなのか!?」
「う……うん」
「……マジかよ。いや、そもそも本当なのか?」
「……信じられない?」
「いや、だって……突然そう言われてもなぁ……」
寧ろ、信じられないという心境になって当たり前だ。俺と会った時も初対面のように余所余所しかったし、その後はナハトの城下町の中で散々追われ、敵味方に分かれるような関係だったのだ。それが目覚めた直後に私は貴方の初恋の相手なんですよと言われても正直信じるのは困難だ。
俺の表情に困惑の色を浮かび上がっているのを見て取れたのか、キャサリンは俺の方に顔を近付けてそっと囁いた。
「じゃあ、目を閉じて」
「あ?」
「良いから、目を閉じて」
「……ああ」
キャサリンが一体何をする気かは分からないが、とりあえず彼女に言われた通りに目を閉じた。そしてヒンヤリとした手の感触が俺の頬に伝わった直後、俺の脳裏に突然膨大な量の映像が流れ込んでくる。
何処の誰なのかは分からないが温かな家族団欒の姿、田舎者は絶対に足を踏み入れられそうにもない都会の街並みの風景、そして俺の知らない幾多の戦場の光景……。
いや、戦場の光景の中に見知った姿がある。俺だ。戦場の中を駆け回る俺の姿がある。映像はどんどんと俺の脳裏を流れていき、そして俺の左腕が吹き飛ばされる瞬間を最後にブツンと映像が途絶えた。
「……」
「マジ……かよ」
ここまで明白な映像を見せ付けられれば、最早信じる他あるまい。紛れもなく、このリッチは俺が愛した最強の魔法使いキャサリン・フォルテックその人だ。
何て事だ。俺が恋心抱いていたキャサリンと姿形が瓜二つの魔物も居るもんだなー、なんて呑気に思っていたが、まさかの本人だったとは。信じられねぇ、こんな奇跡みたいな事があるのかよ。しかし、今頃になってその事実を聞かされても素直に喜べない。
「だ、だったら何で最初から言わなかったんだよ!? 最初からそう言っていれば……そのー……別の方法だってあったかもしれねぇだろ!」
先に自分が死んだキャサリン本人である事を教えてくれれば、俺だって考え直していたかもしれない。いや、あくまでも仮定ではあるが。すると、彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべて語り始めた。
「ごめんなさい、今まで忘れていたの。死んだショックか、もしくは大量の魔力を吸い取ってリッチになった衝動で記憶が紛失していたのかもしれない」
「………じゃあ、何時頃思い出したんだ?」
「貴方と出会った時から、薄らとね。完全に思い出したのは、貴方が騎士に腹部を刺された直後だったわ」
成程な、俺が死ぬ間際になって漸く全てを思い出したって訳か。それじゃあ俺との戦いも避けられる筈がない。そして俺を蘇らせたのは、昔の仲間である俺を想っての事か、はたまた結果的に俺を死に追いやってしまった自責の念からか……。そう考えると彼女の行動にも辻褄が合う。
しかし、一つだけ分からない事がある。
「生き返らせてくれた事や、左腕を再生してくれた事は何となく察しが付いたが……若返らせる必要はあったのか?」
生き返らせるのは勿論のこと、左腕を再生する必要性もあったかもしれないが、若返らせる必要もあったかどうかは分からない。いや、生き返るだけでも十分だと言うのに、若返らせる必要はない筈だ。
「えっと……その前に一つだけガルフに教えないといけない事があるの」
「は? 何だよ突然?」
矢鱈と答えを先延ばしにするが、もしかして若返りをしたのは単なる魔術の研究の為ですーとか言うんじゃあるまいな。いや、魔物化した事で思考がリッチ寄りになっている可能性は十分に在り得る。
そしてキャサリンはコホンッと咳払いを一つした後、リッチの時と変わらぬ淡泊な表情で告げた。
「驚かないでね。あのね、ガルフはもう人間じゃないの」
「………………は?」
「ガルフを生き返らせる為にセックスで精を溜め込んだゾンビの魔力をガルフに注いだの。その結果、ガルフは復活を果たしたのと同時にインキュバスになっちゃったの」
「………………はぁぁぁぁぁ!!?」
ちょっ、えっ、嘘だろ!? てっきり無事に生き返ったのかと思いきや、知らない内に人間辞めていたのかよ!! おいおいおい、流石の俺でもこれはショックがデカ過ぎるぜ……。
「………ごめん、やっぱりショック受けた?」
「ああ、スゲー受けた。このまま寝込みたいぐらいにショック受けた。で、それと俺の若返りとどう関係があるんだ?」
「あ、うん。とりあえずガルフの肉体はインキュバスとなって蘇ったのは蘇ったんだけど、それでも魔力が余っちゃったの。まぁ、余計に集め過ぎたっていうのがそもそもの原因なんだけどね。で、その余った魔力のおかげで思わぬ二次効果が生まれちゃったの」
「……それがこの若返りって訳か」
「うん」
成る程、この若返りも一応は蘇りの術が生み出した予想外の結果だという訳か。だけど、まさかこの俺が魔物化とはなぁ。まぁ、ゾンビとなって蘇るよりかは遥かにマシかもしれんが、インキュバスって事はあれだろ。人間とは違って致命傷を受けても死ににくくなったり、年老いたりしなくなるんだろ。それはそれで便利かもしれんが……いや、やっぱり複雑だ。
「念の為に聞くが、インキュバスから人間に戻る方法は?」
「…………」
「……無いのか」
「ごめんなさい……」
無言と謝罪、それだけで俺の期待している答えが無いのは明らかであった。そりゃそうだろうな、インキュバスだった奴が人間に戻れるんだったら、魔物娘になってしまった女性を人間に戻せるのもまた然りだ。その術が無いから色々と面倒なんだ、この世界は。
シュンッと落ち込んだように項垂れるキャサリンの頭に軽く手を置くと、キャサリンは二重の瞳を見開いて俺の方を見た。
「まぁ、命が助かっただけでも儲けものだ。魔物になったのも生き返る為の代償だと思えば……何てことない」
「怒らないの……?」
「怒るも何も、これはお前が俺を助けようと努力した結果だろ? それを否定したり罵倒したりする権利は俺には無ぇよ。それに魔物になったと言っても、これと言って違和感はないし、結果オーライだろ」
俺が反魔物主義者だったら発狂していたかもしれないが、別に俺は反魔物主義者でなければ、人類至上主義者でもなければ。只、俺と言う個人が確立されていれば十分だ。例えその個人を分類する種族が人間であろうが、魔物であろうがだ。
要するに、生きていれば全て良し。それが俺のモットーだ。
「しかし、魔物になったとなれば、あっちの街には戻れないな。それに傭兵の仕事だって出来やしない。いや、素性を隠せば何とかなるか?……いや、だけど……」
だが、魔物になったらなったでこれは問題だ。特に今までのような人間生活は困難だろう。いや、隠し通せば大丈夫かもしれないが、親しい奴にバレたら何と言えば良いのやら。中には魔物を毛嫌いする奴だって居るし……と考えていると、キャサリンが俺の腕をツンツンと指で突いた。
「ガルフ、大丈夫よ。ガルフは私が守るから」
「は?」
「今まで貴方に守られてばかりだった。でも、今度は私が守る。だから……わ、私から離れないで、ずっと傍に居て……!」
………え、えーっと。何その告白めいた一言は。しかも、その一言を言い終えた直後のキャサリンの表情は蒼白いのが一転して熟したトマト並に真っ赤になっている。そんな顔を見られたくないからか、俺の太い腕にしがみ付いて表情を隠してしまう。
何と言うか、自分の記憶を取り戻した途端に表情豊かになったなー……こいつ。それに可愛く見えるのは俺の気のせいか?
「な、何だよ急に……。まるで告白じゃねぇか」
「そ、そうよ。告白よ」
「……え?」
「あ、貴方だって……この城に来た時、私の事が好きだって言ったじゃない」
あ。
うあああああ、そう言えばそうだった! コイツは俺の知るキャサリンじゃないと思い込んでいたからとは言え、キャサリンがどれだけ好きかって事を語っちまったんだぁぁぁぁ!!
死にたい。折角生き返ったけど、もう一回死んで忘れたい。忘れたいけど忘れられない、完全な黒歴史だよ……。自分の恥ずかしい思い出に頭を抱えていると、キャサリンの口から予想外の言葉が飛び出て来た。
「それに……生きている間に言えなかったけど、私だって貴方の事が好きだったのよ……」
「………へ!? 嘘だろ!?」
「本当よ! 貴方に助けられた日からずっと……ずっと好きだったの!!」
マジかよ。俺みたいな図体がデカくて人相も悪い傭兵では、キャサリンみたいな高嶺の花は手に入れられないだろうな……と出会った時から諦めていたというのに、時を超えてのカミングアウトに俺は度肝を抜かれてしまった。
「……って事は、両想いって事で良いのか?」
「うん、両想いって事でOKだと思う」
……何だこれ。片想いかと思っていたら、実は両思いでしたと分かった途端、俺はキャサリンの顔を直視出来なくなって顔を背けてしまう。それはキャサリンとて同じだ。俺の体に密着しながらも、視線だけはキョロキョロソワソワと落ち着かない。
やがてどちらも無言になってしまい、妙に緊張した空気が部屋に充満し始める。まぁ、互いの気持ちを知ってしまったのだから無理もない。
しかし、このまま無言で居続けるのは俺の性分に合わない。この重苦しい沈黙を破るべく、俺はキャサリンの方に体を向けて、彼女の華奢な体を抱き締めた。
その瞬間、彼女の目が大きく見開かれ、俺の心臓も動悸が激しくなる。それこそ正に心臓が壊れそうだと思える程だ。だが、この時ばかりは自分の心臓なんてどうでも良かった。
そんな事よりも、自分の命よりも大事な事を彼女に伝えなければならない……その想いで一杯だった。
「キャサリン、俺をお前の望む研究の実験道具にしても構わない。だから……結婚してくれ」
彼女を抱きしめながら、俺は今までの想いを込めて彼女に告白した。お付き合い云々とか言うべき事は他にもあったかもしれないが、この時ばかりは結婚意外に単語が思い浮かばなかった。
我ながら、何とも情けない告白だ。まぁ、戦場や修羅場は数多く潜ったものの、告白だの恋愛だの色恋は経験した事が無いからどうしようもない。
だが、そんな情けない告白に対しキャサリンは静かに、それでいて凛と透き通るような声で俺の耳元で囁いた。
「はい」
俺が告白してから、その返事が返って来るまでどれくらいの時間が経過したかは分からない。長かったのか、それとも短かったのか。
だが、彼女の一声で硬直していた時が動き出した。俺と彼女の……愛し合った者同士だけが織り成せる時が動き出したのだ。
………………
……………
…………
………
……
…
「はぁ……! はぁ……!」
「逃がすな! 追え!!」
「化け物共が逃げるぞ!!」
土砂降りの豪雨の中、とある王国へと続く森の中で人間達の喧騒が木霊する。先頭を走るのは大人の女性と年端もいかない少年、そのすぐ後ろからは肩手に松明を握り締め、もう片方の手に干し草フォークや鍬を握る大人達の姿があった。
その様子を察するに、少年と女性は追ってくる大人達から逃げており、大人達は逃げる少年と女性を追い駆けているようだ。雨で泥濘るんだ道を必死に走り抜けるが、それが逆に両者の体力を消耗していく。
そして先に根を上げたのは先頭を走っていた少年と女性だった。少年が足を滑らせて転び、それを見た女性が慌てて少年に駆け寄る。女性の手を借りながらも少年は立ち上がるが、その間に追って来た大人達に追い付かれ、あっという間に囲まれてしまう。
「とうとう追い詰めたぞ、化け物め!」
「全く、無駄な足掻きをしおって!」
「ホビー、村の掟を破ってどうなるのか分かっているだろうな!?」
大人達は殺気混じりのオーラを醸し出し、鬼のような形相で女性と少年を睨み付けている。しかし、少年は大人達の睨みに臆するどころか彼等の前に立つと、女性を自分の小さな背中に隠して庇おうとする。女性の姿は隠し切れていないが、それでも大人達への反骨精神が見て取れる。
「やだ! お姉ちゃんは殺させない! お姉ちゃんは僕が守るんだ!」
「うぅぅ……ホビー……ホビー……」
ホビーの小さな背中から微かに顔を覗かせる彼の姉。だが、それを見た村人達はおぞましい何かを見たかのように表情を強張らせる。
「ホビー! もうそれはお前の姉ではない! 化け物だ!」
「そうだ! お前は化け物に騙されているんだ!」
そう、ホビーの姉は既に人間ではなく、ゾンビという魔物に生まれ変わっていた。彼の村では村の女性が魔物になったら即座に粛清……抹殺する事を掟として定めている。
だが、姉の事が大好きだったホビーはそれを良しとせず、まだ十歳であるにも拘らず一回りも年の離れた姉を連れて村から脱走したのだ。
結局は追い付かれてしまったのだが、それでも大好きな姉を何としてでも守ろうと悪足掻きを試みている最中だ。
「お姉ちゃんの面倒は僕が見る! だから放っておいてよ!」
「そうはいかない! 我々の村から魔物が出たと教団に知れたら何をされるか分からねぇんだぞ!」
「そうだ! 我々の村を守る為だ! 諦めて姉を渡せ! さもなければ……!」
ホビーは姉を守る為に大人達と戦う覚悟を決めているが、村人たちもまた村の為、仲間を守る為に子供一人を殺す覚悟はしているようだ。松明を握り締め、各々が手にしている武器代わりの農具を構えて二人へ歩み寄っていく。
「ホビー……ホビー……こわいよ……こわいよぉ……」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。きっと僕が守る」
ホビーの服の裾を掴んで恐いと訴える姉に対し、ホビーは必死に微笑みを浮かべながら優しく答えた。勿論、彼に姉を守る手段なんて無い。大人に太刀打ちする術なんて持ち合わせていないし、何処にでも居そうな非力な子供の一人だ。ゾンビとなった姉も知能が衰え、自分がどんな目に遭うのか分かっていない。つまり、どちらも村人達に抵抗する方法は無いのだ。
だが、ホビーもまた完全な無策で逃げようと思った訳ではない。彼なりに考えがあって此処まで逃げて来たのだが、その考えが成功するかどうかは彼自身でさえ分からなかった。
何故なら、その考え自体が根も葉もない噂話を信じた不確定な要素が多過ぎるものであったからだ。
ホビーが聞いた噂によると、森の奥には一度は滅んだが再び復活した幻の王国があり、そこの国王様は人間と魔物を受け入れてくれるという話だ。果たしてその王国が実在するのかどうかは不明だが、魔物になった姉と人間の自分が穏やかに暮らす為には、そこへ行くしかないと考えて行動を起こしたのだ。傍から見れば無計画で無鉄砲な行動に違いないが、彼の心境を察すれば致し方ない事かもしれない。
とにかく、ホビーはこの噂話に自分の全運命を賭けたと言っても過言ではない。その結果、賭けに負けても彼は姉と一緒に死ねるのならば、それでも構わないとさえ思っていた。
だが、追い詰められる前はそう思っていても、実際に追い詰められるとやはり心の奥底に押し込んでいた恐怖の感情が込み上がって来る。武器を手にした大人達が自分の方へ近付いて来る様子は、たった一人の男の子の心に恐怖を与えるには十分だ。
唇をキュッと堅く結んで恐怖に耐えようとするが、足が震え、大きく見開いた瞳から涙が零れ落ちて来る。
そして村人の一人が自分の前に立ち、手に持った鎌を降り上げようとした時だ。
「助けて……」
彼は噂で聞いた王様の異名を叫んだ。
「助けて! 亡君様ぁ!!」
その叫びに呼応するかのように雷が近くに落ちたのか、辺りが真っ白な閃光に包まれ、轟音が響き渡る。そして村人が手にした鎌を振り下ろそうとした――――直前だった。
「情けねぇな、女子供相手に大の大人が複数で襲うなんざよぉ」
何処からともなくハッキリと聞こえて来た若い男の声にホビーも、村人達も目を見開いて周りを見回した。誰だと叫んで周りを見るが、雨が降り注ぐ暗い森の中で自分達以外の第三者を見付けるのは困難だ。
「ど、何処だ!?」
「ギャッ!」
「うあっ!」
「な、何だ!?」
暗闇の中から村人達と思しき短い悲鳴が聞こえ、直後にドサリッ、バサリッと倒れる音が続いてやってくる。一回だけじゃない。数秒置きに何処からか悲鳴が上がり、倒れる。悲鳴が上がり、倒れる。悲鳴が上がり、倒れる。まるで作業のように繰り返される度に村人の気配が一人ずつ消えていく。
「な、何が起きているんじゃ……」
村人達の纏め役である村長が蒼褪めた顔で呟いてから程なくして雨が止み、雲が引いていく。そして雲の向こうから仄かに赤い月が顔を表し、辺りを照らした時……村長は自分達が置かれている状況に漸く気付いた。
赤い月に照らされた森の中で村長が見たのは、赤い月以上にギラついた妖しげな瞳で自分達を見詰める無数の魔物達であった。その内の半数以上は彼女達に倒されたと思しき村の男達に群がっており、若干薄暗くて良く見えないが、ピチャクチャと舐めたりしゃぶったりする音が聞こえてくる。
「ひぃ! ま、魔物だ! 魔物だぁ!」
「食われちまう! 食われちまう!!」
「に、逃げろォォォォ!!」
「ま、待て! ワシを置いていくな!」
その擬音を“人間を食う”音だと思い込んだ村人の一人が恐怖に駆られ、仲間を置いて真っ先に逃げ出してしまう。逃げ出した仲間を見た他の村人達も我が身の安全が最優先だと言わんばかりに続々とその場から逃げていく。
あっという間にその場から村人達は居なくなり、突然の出来事で取り残されたホビーは呆然としてしまう。姉に至っては相変わらずあーうーと呻きながら彼の服にしがみ付いている。
「おい、坊主。大丈夫か?」
「え?」
村人達は去ったが代わりに現れた魔物達を前にして、どうすれば良いのだろうかとうろたえている彼の前に一人の大男が歩み寄って来た。黒い甲冑を身に纏い、肩手には六角形の鉄の棍棒を持った強面の男。
さっきまでホビーを追い詰めていた村人達よりも遥かに巨大で屈強そうな大男を目の当たりにし、ホビーは恐怖や畏怖ではなく、もしかしてという期待に満ちた目で男を見遣った。
「もしかして……貴方が亡君様ですか?」
「あ? あー…………まぁ、最近周りではそう呼ばれてはいるっちゃーいるな」
「やっぱりそうなんだ!! 有難うございます、亡君様! おかげで助かりました!」
「お、おう……」
風の噂で聞いていた亡国の王様……亡君に会えた事をホビーは心の底から喜んだ。もし単なる噂で根も葉もない御伽噺だったらどうしようと悩んでいたが、実物の亡君と出会えた事で彼の苦労は報われたと言っても過言ではない。
そして自分がゾンビと化した姉と一緒に逃げて来た事、魔物と人間が一緒に住めるナハトに移住したい事を亡君に伝えると、亡君は二つ返事でOKを出した。
「村の掟を破って姉を連れて逃避行なんざぁ、ガキにしては中々のもんだ。骨もありそうだ。良いぜ、付いてきな。俺達の国へ案内してやる」
「本当ですか!? 有難うございます!」
そうして亡君達の案内でホビーは姉を連れて彼等の国へと向かうのであった。その道中の最中、亡君はふと思い出したかのように彼に向かってこう呟いた。
「……おっと、一つ言い忘れていた事があった」
「え……何ですか?」
「俺の事を亡君様なんて呼ぶんじゃねぇ」
「はい?」
「何て言うかよー。誰がどんな噂を言い触らしたかは知らないが、何故か俺の異名が“亡君”になっちまっているんだよなぁ。俺としてはこのあだ名、微妙過ぎてあんまり好きじゃねぇんだよなぁ」
どうやら亡君……もとい大男は自分のあだ名が気に入らないらしく、特にホビーのように尊敬の念を込めて呼ばれるとどうにも気が気でないらしい。すると、周りの魔物達から『何でですかー。格好良いじゃないですじゃー』と言葉が投げられて来るが、彼は『うるせー! 俺が嫌なんだよ!』と仲の良い友達で遣り取りするような雰囲気で言葉を返した
「じゃあ、何てお呼びすれば良いですか?」
魔物と亡君との会話に恐る恐る質問を差し込み、それを聞いた亡君はニカッと爽やかな笑みを浮かべてこう答えた。
「俺は亡君でも王様でもない。ガルフだ。ガルフ・ライゼン。それが俺の名前だ」
「ガルフ……様」
「ああ、“様”も必要ねぇよ。さん付けで十分だ。よし、じゃあ帰るか。あっちで嫁が首を長くして待っているだろうしな」
あっち……と言うのは恐らく彼等が来た王国の事であろうとホビーは理解した。それと同時にガルフの言うお嫁さんとやらに興味を抱いた。
「ガルフさんのお嫁さんって……魔物ですか?」
「ああ、魔物だ。おっかない魔物だぞー。時々分厚い魔導書で俺の頭をぶん殴って来る恐い魔物だ」
「そ、そうなんですか……」(魔導書って殴る物だっけ?)
「だけどな、そんな魔物だけど俺は世界で一番愛している。これ以上にない程にな」
「へー……素敵ですね」
「……お前だって姉ちゃんが世界で一番好きだから、あの村から態々逃げて来たんだろ?」
「え……あ……」
ガルフの愛情を褒めたつもりが、何時の間にか自分が姉に抱いている仄かな恋愛感情について指摘された為、ホビーは顔を真っ赤にしてガルフからサッと顔を背けてしまう。だが、それはガルフから見れば答えを言っているにも等しいものであり、ホビーの初心な反応にガルフはクックックと笑みを零した。
「気にすんな。姉だろうと親だろうと、好きになっちまったもんは好きで結構。俺達の国に恋愛の御法度なんて存在しないんだからな」
「そ、そうなんですか?」
「おう、そうさ。だから実の姉を好きになっても笑う奴なんざ、俺達の国には居ねぇよ。………お、見えて来たぞ」
そう言ってガルフが指差す先には縦10m程、横に至っては何十mにも及ぶ巨大な石の壁があった。それを見た瞬間、ホビーはこの壁の向こうにどんな未来があるのだろかと期待に胸を膨らませた。
すると、そのホビーの期待を見透かしたかのように、ガルフは国に入る前に一つ質問を投げ掛けた。
「……此処を超えたらお前は俺達の家族であり、仲間だ。もうあっちに後戻り出来ないが、本当に良いのか?」
それはガルフなりの警告であり、ホビーに与えた最後のチャンスだった。此処を潜ってしまえば彼等が生まれ育った故郷には帰れないかもしれないし、また国内には大勢の魔物娘達が居る。もしかしたら彼女達に襲われるかもしれない、ある意味で危険な場所だぞとガルフはホビーに包み隠さず伝えた。
「はい、僕はお姉ちゃんが大好きです。例えお姉ちゃんがゾンビになっても、その気持ちは変わりませんし、お姉ちゃんを守ると誓いました。もう、あっちに未練はありません」
しかし、ホビーの意思は固く、大好きな姉を守る決意で漲っていた。そして彼の瞳に後悔や未練が無い事を確認すると、ガルフは彼等の入国を歓迎した。
「それじゃ、改めて……ようこそ、亡国のナハトへ」
その後、亡国ナハトは親魔物派として勢力を広げていき、自国の周りにあった多くの国々を吸収合併し、やがて大昔のような大国となって輝かしい栄光を取り戻すのは………もっと先の未来の事である。
13/08/29 23:42更新 / ババ
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