真夜中の追い駆けっこ
「全く以て極楽じゃねぇか、ええ?」
キャサリンの言葉に甘えて隣の部屋を借りた俺だが、そこに広がる光景を目の当たりにして、そう独り言を言わずにはいられなかった。
生まれて初めて見る汚れ一つない真っ白な高級ベッド、天井からぶら下げられたシャンデリア、そして部屋の中に置かれてある棚や花瓶などの装飾品、どれもこれも職人魂と呼ぶに相応しい特級品ばかりだ。挙句の果てにはバスルームとシャワー付きという、至れり尽くせりときたもんだ。
恐らく、これらも全部キャサリンが魔法で元の状態……王族が住んでいた頃の状態に戻したのだろう。しかし、俺みたいな薄汚い傭兵が果たしてこんな豪華な部屋で寝泊まりしても良いのだろうかと、恐れ多い気もしてきた。ヤバい、こりゃ休めないかもしれねぇ。
「まぁ、どうせ今晩だけだし。一夜限りの贅沢だと思って寝ちまうか」
そもそも、当初は最悪の場合を想定して野宿を覚悟していたんだ。それに比べれば、こんな豪華な部屋で寝泊まり出来るのは幸運以外の何物でもない。
そうだ、全ては幸運の賜物なんだ。そう考えると恐れ多いと思っていた感情も薄れ、ゆっくりと休める気がしてきた。
そして俺はシャワーを浴びて汗と身体の汚れを落としてから、ベッドに潜り込み目を閉じた。安い宿にある薄っぺらい木の板と布を敷いただけの硬くてボロいベッドとは異なり、高級ベッドに用いられた羽毛や羊毛の柔らかさと温もりは正に天国だ。
夢見心地とは正にこの事だ。あっという間に睡魔が襲い掛かり、何時もよりも早く眠りの世界へと落ちていった。
昼間から降り始めた土砂降りの雨は真夜中も勢いを保ったまま降り続き、ナハトの街を潤していく。いや、既にその雨量は潤すの範囲を超えている。
だが、幸いにもナハトは雨に強い街らしく、大量の雨量にも拘らず未だに何処も冠水していない。雨に強い立地条件や、築かれた街の基礎が極めて優秀だと言う証拠だろうが、そこに住む人間が居なくなり、滅んでしまったのは残念としか言い様がない。
時折、雷の音も聞こえるが、それでも昼間の頃に比べれば遠ざかった方だ。多分、明日の昼か夕方には雨は明かり、ナハトの頭上には青空が顔を見せてくれるだろう。まぁ、どちらにせよ明日の昼間はナハトではなく、此処から少し離れた村に居るだろうけどな。
ベッドに潜り込んだままチラリと目を開けて部屋の窓から外の様子を窺うが、まだ東の空に太陽の姿はない。この冬の時期、太陽が昇り始めるのは7時前ぐらいか。それを考慮すれば、恐らく今は真夜中の3時か4時ぐらいというところだな。
まだ時間はある。もう少し休んで体力を温存しよう。
……………
…………
………
……
…
私達、アンデッド族の魔物に睡眠というものは必要ではない。既に死んでいるのだから、人間に必要不可欠だった機能が停止したという事なのだろう。但し、魔物娘の影響で人間ならば誰しもが持つ性欲は残っている。いや、生前よりも遥かに強くなっていると言うべきか。おかげで私の頭の中は常に魔法の研究と、精に対する探求心で一杯になってしまった。
まぁ、今まで興味が無かった物事にまで興味を抱けたおかげで視野が広がり、魔法の研究と絡ませる事で更なる発見が期待出来るので結果オーライという事にしておこう。
だが、その淫猥な研究を行う為にも必要不可欠なのは男だ。女は私や他の魔物娘が居るので必要無い。今までにも複数の男を捕まえたが、どいつも短小だし、2回か3回出しただけですぐに根を上げてしまう。度重なる性行為のせいだという見方もあるかもしれないが、ゾンビやグールに性行為の自重を求めるのは無理と言うものだ。
そして私も彼女達同様に、人間の男性を精の対象として見ている。それはこの部屋に一泊させたガルフという傭兵も同様だ。
いや、彼に対しては他の男には無い特別な感情を抱いている。一言で言えば気に入っている。彼だけはゾンビやグールに任せず、自分自身の手で研究材料の一つとして扱いたいとさえ思う程だ。因みにコレが私なりの精一杯の愛情表現だ。
「キャサリンさまー、入ってもいいですかー?」
私の後をゾロゾロと付いて来ている10人のゾンビの内の一人がメリハリの無い声で私に尋ねる。彼女達は何も考えずに私の後に付いて来た訳ではない。寧ろ、私が彼女達を連れて来たのだ。
彼女達を連れて来た目的は他ならぬガルフの捕獲だ。ゾンビは人間の女性と同じ筋力しか持たず、一対一ならば生身の人間でも十分に勝機はある。だからこそゾンビは数の暴力で相手を圧倒するのだ。更に+αで私の魔力による肉体強化が成されれば、それこそ正に鬼に金棒だ。
私はゾンビ達に『待て』と合図を出し、部屋の扉の鍵が掛けられているかどうかの確認をする。音を立てないようにドアノブを捻るが、鍵が掛けられているせいで開かない。やはり傭兵は用心深い……か。
だが、この程度ならば扉を破る必要もない。鍵穴に人差し指と中指の二本の指を当て、そのまま鍵を開けるかのように右へ捻る動作をすると、ガチャリと鍵穴から施錠が解除された音が鳴り響く。
コレで良し。そして再度ゾンビ達に魔法が掛かっているのを確認してから、私は指を使ってGOサインを出した。それを見るやゾンビ達は扉を破る勢いで部屋に侵入し、真っ先にベッドに飛び掛かる。
流石の彼も寝込みを襲われれば一溜まりもない――――筈だった。
「キャサリンさまー、いないですー」
「いないー、どこにもいないー」
「何ですって?」
だが、ゾンビ達が飛び掛かったベッドは既に蛻の殻。次いで部屋を見回すが、ガルフの姿は見当たらない。何処に行ったのかと視線を周囲に巡らすと、真夜中で雨が降っているにも拘らず微かに開かれた窓が視界に飛び込んできた。
「まさか……!」
慌てて窓へ駆け寄り下を覗いてみると、城の城壁を築く石煉瓦同士の僅かな隙間に手足を引っ掛けて降りていくガルフの姿があった。
「ガルフ!」
私が城壁を伝って下りていくガルフを彼の名を見付けて叫んだ直後、彼の顔が上へと向けられ、私の視線とかち合う。
「やべ! もう見付かったか!」
私に見付かるやガルフはそう叫び、まだ地面まで5m程あるにも関わらず城壁に引っ掛けていた手足を離し、そのまま地面に着地した。着地した瞬間に、まるで大砲の砲弾が着弾したかのような激しい音が鳴り響き、私は思わず一瞬ガルフの身の心配をしてしまう。
だが、私の心配は杞憂に終わった。激しい音が鳴り響いてから程なくして、ガルフは全速力で走り出して城から離れていった。いや、逃げていった。
どうやら戦場で鍛え抜かれた肉体のおかげで、あの程度の高さならビクともしないようだ。とりあえず、彼が無事なのは良い事だ。だが、みすみすと逃がす訳にはいかない。
「貴女達、早くあの男を―――」
「すーはーすーはーすーはーすーはーすーはーすーはーすーはー」
「くんかくんかくんかくんか……」
「お、おおおお男の匂い……ききき気持ち良いぃぃぃぃ」
直ちにゾンビ達にガルフを追うように命じたが、肝心の彼女達はベッドに残っていた彼の残り香に夢中になっていた。無理もない、あれだけ男性ホルモンの強そうな男は滅多に居ないだろう。かく言う私も彼女達のように枕に顔を埋めて匂いを嗅ぎたいという欲望があるが、その欲望に流されてしまっては確実に逃げられてしまう。
「貴女達……」
態と冷たいオーラを放ち偽りの怒りを演出し、地を這うような低い声で囁くとゾンビ達の身体がビクンと震え、コンマ0・5秒程の速さで私の方に振り返る。恐らく、これほどまでに速い動きをしてみせたゾンビはこの世界には居ないに違いない。しかも、全員の姿勢が良く訓練された軍人並の綺麗な直立姿勢だ。何と凄い事か。まぁ、彼女達をそういう風にしたのは私なんだけどね。
それは兎も角、私は改めて彼女達に命令を出した。
「直ちに奴を追いなさい。それと城下町に居るゾンビ・グール・ゴースト、そしてスケルトンとガーゴイルを総動員させなさい。奴がナハトを出る為には城下街の街道を通る必要がある。城下町の守りを厚くすれば、きっと引っ掛かります」
「「「らじゃー」」」
片仮名でもない微妙な発音で了解した旨を伝えると、ゾンビ達はゾロゾロと部屋を出ていく。そして誰も居なくなった部屋を一通り見回した後、私もガルフを追う為に出撃した。
態々ゾンビ達のように地面を駆ける必要などない。ガルフが逃げた窓から飛び出した私は魔法の力を駆使して飛行し、空中から彼を探索し始める。地上で探すのに比べれば極めて効率的だろうがしかし、入り組んだ道では意外と彼を見付け出すのは難しい事に気付かされた。
常に冷静沈着である筈の自分が珍しく『焦り』という感情を抱いているのが手に取る様に分かる。いや、自分自身の事なのだから当然なのだが。だが、それは裏を返せば私が彼に深く執着している事の表れでもある。
どうして彼にそこまで拘るのかと聞かれれば、一言では言い表せない。魔物娘の血が騒いでいるからかもしれないし、彼が気になっているのもまた事実だ。だが、これだけは確かだ。
絶対に彼を手に入れる、手に入れなくてはならない。そんな使命感に近い何かが私の内に存在するのだ。
「畜生、キャサリンの奴め。俺を裏切りやがって……!」
キャサリン達が部屋に入り込む数分前まで、俺は部屋で熟睡していた。だが、人間ではない何か……恐らくゾンビだろうが、それが部屋に向かって来る気配を察知して俺は反射的に目を覚ました。
まさかと思いながらも窓から脱出したら案の定、彼女達は俺の部屋に押し入って来た。危なかった、もし俺が気配を察知出来ていなかったら今頃はキャサリンの言う実験動物にさせられていたかもしれん。
襲われるかもしれないと予想はしていたが、いざ実際に襲われると此処まで腹立たしいものなのかと俺は改めて実感していた。
いや、正確に言うと魔物娘に襲われる事については然程怒りを抱いていない。この世界ではしょっちゅうある事だし、俺も万が一に備えて常に用心していた。が、一瞬でも気を許したキャサリンに裏切られたという事実に怒りを覚えていた。
ショックと墳怒が入り混じり、何としてでもキャサリンの思い通りになりたくないという強い想いさえ生じた俺は駆け足でナハトの城下町に逃げ込んだ。
前にも言ったかもしれないが、ナハトという国が滅び、都市部が廃墟になったとは言え街の半分は原形を保ったまま残っている。時間を掛けて修復してやれば、大勢の人間が住んでいた城下町の街並みが戻るかもしれないだろうが、そんな事をしてくれるお人好しはこの世に居ないだろう。だから、ナハトは名実共に滅んだのだ。
今ではナハトに住む人間は居らず、都市である城下町はゴーストタウンと化している。そしてゴーストタウンは犯罪者の温床地帯に変貌してしまっている……なんて噂話を散々聞かされたが、そんなのは全部嘘っぱちだった。
いや、人が居ないという点は正しい。だけど犯罪者も居ない。その代わり、街にはゾンビやらグールやらスケルトンやら、アンデッド系を中心としたモンスターが城下町を堂々と歩き回っている。
「ゴーストタウンじゃなくって、モンスタータウンかよ……」
数年前に人が居なくなってナハトという国が滅び、亡国となった後は犯罪者の居住地帯となり、そして今現在のナハトは魔物娘の巣窟となっていた。これが現実だ。
しかし、巣窟と呼ぶには……何と言うか、こう、魔物だからおどろおどろしい雰囲気や地獄のような街並みを想像していたのだが、俺の想像よりも大きく異なっていた。日も昇らぬ薄暗い街中で混雑するアンデッドの姿は一種の恐怖を覚えるが、それ以外は普通だ。普通の人間と全く同じような雰囲気で街に溶け込み、嘗て住んでいたナハトの人間と同じように城下町を愛する雰囲気さえも感じられた。
ぶっちゃければ、普通の人間と何ら変わらないって事だ。彼女達が活発に行動する時間帯を除いては。
だけど、人間と同じように街に住んでいても中身は立派な魔物なのだ。もし捕まったりしたら、何をされるのか分かったもんじゃない。いや、ナニをされるのかは大抵想像が付くが。
「だが、先ずはこの街からの脱出を最優先に考えないとな……」
キャサリンが亡国ナハトの支配者だとすれば、言わずもがなこの街に住んでいる魔物娘全員がキャサリンの手下という訳だ。取り合えず慎重に行かなければならない。
城下町に立てられた家と家の間に出来た僅かな隙間、大の大人一人が入るので精一杯の場所に身を潜めながら城下町の様子を窺っていると、何やら背後からヒヤリとする寒気を感じた。昨日からずっと降り続いている雨による寒気ではない。そもそも雨水などの物理的な寒気ではなく、精神的な寒気……俗に言う悪寒みたいな感じだ。
何だか嫌な予感はするが、それでも俺は振り返ってしまう。振り返った先に居たのは、まだ年端もいかぬ幼い子供だった。10歳ぐらいの可愛らしい顔立ちの少女で、ボロボロのドレス服を着ている。
それだけだったら良かったのだが、この少女……宙に浮いている。宙に浮いていると言うよりかは、下半身そのものがないと言う表現が正しいかもしれない。それに透けているし。
だが、それは彼女だけじゃない。ハッとなって彼女の後ろの方を見遣ると、そこには同じように下半身が無く、若干色の薄い少女達がこちらをジッと見詰めているではないか。ある者は宙に浮き、ある者は半透明の上半身が壁から突き出ている。否、通り抜けている。
「ゴースト……!」
俺が思わず目の前に居る魔物娘の種族名を口に出すのと同時に、一番近くに居たゴーストが空気を肺一杯に吸い込んで叫んだ。
「居たよー!! 逃亡者見付けたよー!!」
「ちぃ!! クソッたれが!!」
既に肉体の無いゴーストが空気を吸う必要などあるのだろうか…なんて疑問は浮かばなかった。そんな目先の些細な疑問よりも、キャサリンの味方であるゴーストに見付かった挙句、自分の隠れていた場所が周囲の魔物娘にバレてしまったのだ。
止むを得ず隠れていた狭い隙間から広い城下町の街道に出たが、当然ながら出た直後に冷たい視線が俺の体中に突き刺さる。
周りを見れば、ゴーストが、ゾンビが、グールが、スケルトンが……城下町に居る全ての魔物娘達がこちらの方をジッと見詰めているではないか。先程まであった穏やかな気配は既になく、誰もが俺を獲物として認識したギラついた目で注視している。
魔物娘にとっては最高だろうな。突然目の前に新鮮でガタイの良い男が現れたんだからな。
「あー……皆さんどうもこんばんは。突然お騒がせして申し訳ない。では、私は急ぎの用件がありますので失礼させて頂きますので」
ここで慌ててしまっては駄目だ。成るべく冷静に装い、何事も無かったかのように立ち去る。そうすれば誰も俺の事を逃亡者だと認識しないだろう。頭の緩いアンデッド系ならば、これで――――
「逃がすなー! 捕まえろー!!」
『『『オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!』』』
―――騙せる訳ないよなぁ!! 畜生!! 大体、本能で雄を求める魔物娘の前に姿を出した時点でアウトだっつーの!
ゴーストの命令とアンデッド達の雄叫びを合図に俺は全力で走り出し、周囲の魔物娘達も俺に襲い掛かってくる。ゾンビにグールにスケルトン、選り取り見取りとは正にこの事だ。どれかを選ぶ気なんて更々無いけどな! 寧ろこの場合は俺に選択肢なんてものは存在しないと言った方が正しいかもしれない。
因みにゴーストは肉体が無いからか、襲われる俺と襲い掛かる魔物娘達を空中から遠巻きに眺めているだけだ。どうやら彼女達だけは非戦闘員のようだ。それでもゴーストを抜いた残りのアンデッド族だけでもかなりの数に達する。敵の数がちょっと減ったからと言って楽観視は出来んな、こりゃ。
だが、それでもこの場を潜り抜けるしかない。俺は目の前から迫って来るゾンビの波へ敢えて突っ込んだ。
「退きやがれェ! ゾンビでも容赦しねぇぞ!!」
否、一度死んだゾンビだからこそ容赦しないのかもしれない。そう頭の中に浮かべながらも、俺は襲い掛かるゾンビ達の身体を強引に撥ね退け、押し退け、払い退ける。時には一体のゾンビを掴んでは他の仲間のゾンビ目掛けて放り投げるなどして強行突破を試みるが、次から次へと襲い掛かって来るのでキリがない。
だからと言って殴る蹴るという暴力は可愛らしい魔物娘相手だと若干気が引ける。精々、投げ飛ばすぐらいだ。くそっ、野郎だったら思い切りぶん殴れたのによ。
幸いにもゾンビ一人一人の力は人間の女子供と大差ない。付け加えて、体重が軽い上に動きは鈍重だ。勢いを落とさず進撃を続ければ、あっという間に後方から追い駆けて来るゾンビと俺との距離がみるみると開いていく。
このままなら行けるかもしれない……そう思った矢先に背後から敵意を感じ取った。
「シャアアアアアアア!!」
「くっ!」
背後からやってきた奇声に反応して首だけ後ろへ振り向けると、赤い手足と褐色の肌が特徴的なグールが舌と牙を剥き出しにして俺に向かって飛び掛かって来る姿が確認出来た。グールはゾンビよりも凶暴で、多分だが力やスピードもあるだろう。もし力の強いグールに捕まってしまえば、あっという間に周りに居る他の魔物娘達も俺の所に殺到するに違いない。それだけは絶対に避けなくてはならない。
「シャラァッ!!」
背後から迫り来るグールは手を伸ばし、俺の頭に掴み掛ろうとする。一度取り付いてしまえばこちらの物という考えがあるのだろうが、こちらとて多数の戦場という名の修羅場を潜り抜けた傭兵だ。
「舐めんな!!」
あと数センチで俺の頭にグールの手が届きそうになったギリギリの所で、俺は咄嗟に首を横に曲げて彼女の手を回避した。
狙いを外したグールは驚きの余りに目を大きく見開くが、これで終わりじゃない。自分の顔横を通り過ぎたグールの手首を掴むと、そのまま一本背負いに近い形でグールを目の前から迫って来ていたスケルトンの群れ目掛けて放り投げる。
その結果、放り投げられたグールに衝突したスケルトン数人の身体は一瞬でバラバラになり、身体を維持出来ずにその場に崩れ落ちる。
身体がバラバラに崩れ落ちると言ってもスケルトンが死んだわけではない。彼女達の身体は特殊であり、強い衝撃を受けると骨で構成された身体がパーツごとにバラけてしまうのだ。バラけた後は身体を元に戻そうと己の魔力で骨を動かし始め、数十秒後には何事も無かったかのように再生する。それがスケルトンだ。言うまでもないが、再生している間は流石のスケルトンも行動不能だ。
少し酷い事をしたかもしれないという罪悪感があったが、スケルトン達が埋め尽くされていた所に僅かな一本道が出来上がったのを見た瞬間に罪悪感なんて何処かへ吹き飛んでしまった。
宛ら地獄から抜け出す為に垂らされた蜘蛛の糸の如く、極めて細くて狭い一本道ではあるが、今の状況では十分過ぎる程の抜け道だ。
その抜け道に巨体を押し込み、左右に居るゾンビやグールを押し退け、俺は一気に前進する。そして遂にアンデッド達の群れから切り抜け、城下町の中央にある噴水が設けられた公園に出た。空中から見下ろすと綺麗な円形に拓けた地で、嘗ては此処で多くの人が行き来したに違いない。
今は俺一人が追われる逃走劇の舞台だけどな!
だけど、ここが城下町の真ん中辺りだと考えれば気分も楽だ。何せ、この逃走劇も漸く折り返し地点に到達したも同然だからだ。
あとは只管に出口向かって真っ直ぐに……と行きたかったのだが、人生って思いも寄らない出来事が起こるものだ。
突然、日の光も昇っていない天空が蒼白い光に染まり、何事かと思い顔を上げると―――幾つもの蒼白い火炎球がこちらに向かって降ってきた。
「どわ!?」
隕石の如く降り注いだそれらは幸いにも全て俺や魔物娘に命中する事は無かったが、代わりに俺の行く手を阻むように落下した。雨で濡れた地面に着弾したにも拘らず、バスケットボールとほぼ同じサイズを誇る火炎球はメラメラと蒼白い炎を纏ったまま消える気配を感じさせない。
どうやら、あの炎には相当強い魔力が込められているらしい。尚且つ、当たれば致命傷は免れないであろう大技を複数放てるなんて余程の魔力を持つ奴じゃないと無理だ。
……と、ここまで考えれば今の火炎球が誰の仕業なのかは嫌でも予想が付いた。そして誰の仕業なのか気付いた直後、火炎球が降り注いできた漆黒の天空から一人のリッチがゆっくりと舞い降りて来た。
「キャサリン……!」
「逃がさないわよ、ガルフ」
俺と炎を挟む位置に舞い降りたキャサリンは相変わらず冷めた表情で俺を見詰めるが、その瞳の奥底は明らかに俺を狙う狩人のような鋭い眼光が煌めいていた。
「ったく、俺一人の為だけにゾンビやグールを総動員するとは恐れ入ったぜ。で、今度はボス直々にご登場って訳か。しかも、御丁寧に逃げ場を封じるとは……少しは手加減してくれよな」
「貴方が逃げるのを諦めてくれたら済む話よ」
「おいおい、残り少ない人生をモルモットで過ごすなんて絶対に嫌だぜ」
「大丈夫、充実した人生にしてあげるから」
「そういう問題じゃねぇだろう……」
話が平行線を辿るのは予想の範疇ではあったが、こうも取り付く島が無いとどうしようもないな。俺を実験動物にする気満々じゃねぇか。
だけど、俺だってこんな所で一生を棒に振るつもりはない。何としてでも此処から逃げ切り、自分の人生を謳歌するまでだ。
……とは言え、この状況下は少し分が悪いな。後ろはアンデッドの魔物で埋め尽くされ、前方はキャサリンが落とした火炎球で生じた火の海で満たされている。
だが、この場にキャサリンが現れた途端に後方の魔物娘達は大人しくなった。恐らく、彼女から『一対一になった場合は手出し無用』的な事を言われているのだろう。
確かにキャサリンが直接手を下すとなれば、彼女の判断は正しい。彼女の使う魔法は今見た通り強力なものであり、もし彼女の部下達が入り乱れるような状況下で同様の魔法を放てば、仲間が巻き添えを喰らうのは目に見えている。
キャサリンの部下達もそれを重々理解している。理解しているからこそ、動こうとしないのだ。
一見すると数の暴力からは解放されたかに見えるが、その実は強大な魔法の暴力と向き合っているという極めて厄介な状況となっている。
果たして、この状況下で逃げる手立てはあるのかと頭の中で算段を立てていると、先に向こうから仕掛けて来た。
「“水よ、支配者の前に平伏し忠義心を見せよ”」
「!?」
俺の耳では何を言っているのかは分からないが、ボソボソと短い呪文を唱えると地面を流れていく雨水や、天から未だに降ってくる雨の滴、周囲の水という水がキャサリンの頭上へ集まっていく。そして集まった水は球体の形を維持しつつも、周囲の建物をも越す程の大きさになる。
一体何をする気なのだと呆然と見ていると、キャサリンは再び俺には分からぬ言葉で呪文を唱えた。
「“あの男を捕らえよ”」
「!!」
呪文を唱えた途端、集められて球体となっていた水は形を変え、巨大な津波となって俺に襲い掛かって来た。
流石の俺もこれにはどうする事も出来ない。魔物娘が犇めき合っている後ろへは逃げられないので、逃げ道はガラ空きの右か左しかない。俺は咄嗟に右へと走るが、津波は意思を持っているかの如くに追尾してくる。どれだけ逃げても、全力で逃げても、まるで猟犬のように執拗に俺を追い立てる。
「畜生、魔法だからってコレは反則だろう!!」
「だったら、諦める?」
「ふざけんな!」
クスリッと微笑みを浮かべる彼女は見る人が見れば美しいと感じるだろう。だがしかし、俺からすればその笑みは『さっさと降参しろ』と言っているも同然だ。これで相手の言葉に従い負けを認めるのは、負けず嫌いな俺にとって屈辱に等しい。
只管にこの場から逃げ切る方法を考えていると、津波の如く凄まじい勢いで押し寄せる水の塊に変化が現れた。単なる水の塊がスライムのように形を変え、やがて蛇の頭のような形となった。否、蛇そのものだ。しかも、その蛇の頭が一つだけでなく、一気に八つも出現する。
そう言えば東洋出身の傭兵仲間に八つの頭を持つ大蛇の話を聞いたっけなぁ……今思い出す事じゃないけど。蛇の頭へと変化を遂げたを水は津波のように押し寄せるだけでなく、首を伸ばして俺に噛み付かん勢いで襲い掛かって来る。
「うおおおお!?」
水だから噛まれても毒は無いだろうが、その代わりに捕まって一巻の終わりだ。今度は水に追われるだけでなく、蛇の噛み付きからも逃げなくてはならず、たった一つの動作が増えただけで神経が削られるような気分だ。
くそー、見た目は綺麗なのに中身は物騒とはコレ如何に。更に周りの炎の光をも反射して、美しい輝きを放っている。無論、そんな輝きなど今の俺には何の得も無いのだが………。
いや、待てよ? 炎の光を反射して輝く水を見た数秒後、それがきっかけとなって俺の脳裏である発想が閃く。もしかしたら、これは行けるかもしれない。そうとなれば、先手必勝。今まで水から逃げ回っていた俺はぐるりと身体を翻し、背後から追い駆けて来る水と向き合った。
俺が振り返った直後、八つの蛇の頭を持った水の動きがピタリと止まり、こちらを窺うようにジッと見詰める。恐らく、キャサリンが水の動きを止めたのだろう。そう予想した束の間、案の定、キャサリンから声が掛かった。
「あら、もう諦めたの?」
「諦めちゃいねぇよ。でも、逃げ回る事に疲れたのも事実だ」
「じゃあ、最後まで無駄な足掻きをするという訳ね」
もし素直に諦めたと言えば、恐らく彼女は水の魔法を解いてくれたかもしれない。だが、それでは駄目だ。俺が逃げる為にも、あの水は必要なんだ。
ジリッと右足を僅かに横へ動かすと、それに敏感に反応したキャサリンは素早く呪文を唱え、再び水蛇を操って俺を襲わせた。
「今度こそ捕まえる……!」
「はっ! やれるもんなら……やってみやがれ!」
見せ掛けでも行動を起こすようなアクションを見せてやれば、相手は過剰に反応して襲い掛かって来るに違いない。そう予想はしていたが、案の定その通りとなった。
こちらへ向かって来る水蛇を見て俺はニヤリとほくそ笑むのと同時に、懐から取り出した球体を水蛇へ向かって放り投げる。
ちゃぽんっ
放り投げた球体は水蛇に命中したが、小石を池に投げ込んだかのような可愛らしい音と共に水蛇の体内に吸い込まれてしまう。
「……何がしたかったのかは分からないけど、どんな攻撃も無意味よ。これで貴方の万策は尽きたかしら?」
今の攻撃を悪足掻きの一つと捉えたキャサリンは相変わらず冷めた表情のまま、こちらをジッと見詰めている。後方からは無駄な足掻きだと言わんばかりに魔物娘達のクスクスと笑う声が聞こえる。いや、この笑い声はもうすぐで俺が手に入る事への喜びを表す声かもしれない。
どちらにせよ、キャサリンもその他の魔物娘も今の攻撃が完全なる不発で終わったと見ているようだが……それはとんだ大間違いだ!
「さぁ、そろそろ私の物に――――!?」
キャサリンが言葉を発しようとした瞬間、突然水蛇の身体から眩い光が発せられた。目も眩む程の強烈な光を前にキャサリンは勿論のこと、暗闇にしか慣れていないアンデッド族の大半は完全に目を瞑っている。
そして俺はこの瞬間を予め予想していたので、片腕で閃光を遮りながらその場から離れた。
俺が投げたのは対人戦闘や対魔物戦闘などで用いられる閃光弾と呼ばれるものだ。近距離で使えば相手の目を暫くの間は封じる事も可能であり、敵の奇襲や不意打ちを受けた際に咄嗟に使用して危機を脱するなんて事も屡だ。
だが、この閃光弾は近距離ならば効果はあるが、遠距離に対して効果は薄い。なので、只単に閃光弾を投げただけでは間近で対峙しているキャサリンの目を封じられても、後ろの魔物娘達までをも黙らせるには至らなかっただろう。
そこで俺が目を付けたのは水だ。水による光の反射、あの原理を利用すれば閃光玉の光を増強出来るのではないのだろうかと。しかし、あくまでも“だろうか”という仮説であり、確証なんてこれっぽっちもなかった。学や知識も無い空っぽの頭の中で咄嗟に思い付いた策であり、これを実行するに当たっては一種の賭けに近い心境だったのは内緒だ。
だが、幸いにもその賭けに俺は勝った。閃光弾の光は周囲を真っ白な空間で包み込む程の強力な光を発し、キャサリンだけでなく後方の魔物娘達の目をも封じ込めてくれた。その間に俺はキャサリンの元から離れ、再び逃走を開始するのであった………。
「……逃げられたわね」
十秒程続いた眩い光が収まり、何時もの真夜中のナハトの街並みの風景が見え始めた時には既にガルフの姿は無かった。巨体に似合わず、逃げ足の速い男だ。だけど、私の魔法をあんな風に逆手に取るだなんて……今までの人間の男とは異なり、かなり厄介な男を相手にしたもんだと思わざるを得ない。
「貴女達は逃げた男の行先を見た?」
「いいーえー」
「眩しい光のせいで全く見えませんでした! ごめんなさい!」
「謝る必要は無いわ。寧ろ、あれで目を開け続けていたら逆にこっちの目が瞑れてしまうわ」
駄目元で後方に待機するよう指示していた魔物娘達に尋ねては見たが、やはり誰もガルフの姿を見ていないようだ。しかし、こればかりはしょうがない。私を含めてアンデッド族の殆どが強い光に慣れていないのだから。
「だけど、あの光が起こってから収まるまでの時間はそう長くはなかった……。多分、あの男はまだこの近くに居る筈。皆、この城下町の中を徹底的に捜索して。見付けたらすぐに知らせてね」
「分かりました!」
「はぁーい」
元気に返事を返したゴーストはすぐに空中へと舞い上がって頭上から標的を見付け出そうと躍起になり、グールやゾンビも手分けしてガルフの行方を探し始める。
だけど、流石の私も危惧を抱かずにはいられない。あの男の度量と頭の回転の速さならば、彼女達の手からも逃げられるかもしれないと思ってしまう。
彼女達には少しあの男の相手は荷が重いかもしれない。けれど、だからと言って今更になってガルフの獲得を諦める事は出来ない。
「……念の為に先手を打っておいた方が良いわね」
そう呟いた私は水の魔法を解いた後、フワリと宙に浮かび上がり、ナハトの上空を飛行してとある場所に向かった。
彼がナハトの外へ出ようとしているのは明白だ。ならば、その出口を塞いでしまえば良いだけだ。
私のやり方を知れば彼は怒るかもしれないが、その程度は覚悟の上だ。そもそも私は最初から正々堂々と彼と遣り合うつもりは毛頭ない。
「さて、今度はどう切り抜けるのかしらね……ガルフ」
ニヤリとほくそ笑んだ私は一旦街の外へと出て、ナハトに入国する唯一の手段である国境に設けられた大門に向かうのであった。
キャサリンの言葉に甘えて隣の部屋を借りた俺だが、そこに広がる光景を目の当たりにして、そう独り言を言わずにはいられなかった。
生まれて初めて見る汚れ一つない真っ白な高級ベッド、天井からぶら下げられたシャンデリア、そして部屋の中に置かれてある棚や花瓶などの装飾品、どれもこれも職人魂と呼ぶに相応しい特級品ばかりだ。挙句の果てにはバスルームとシャワー付きという、至れり尽くせりときたもんだ。
恐らく、これらも全部キャサリンが魔法で元の状態……王族が住んでいた頃の状態に戻したのだろう。しかし、俺みたいな薄汚い傭兵が果たしてこんな豪華な部屋で寝泊まりしても良いのだろうかと、恐れ多い気もしてきた。ヤバい、こりゃ休めないかもしれねぇ。
「まぁ、どうせ今晩だけだし。一夜限りの贅沢だと思って寝ちまうか」
そもそも、当初は最悪の場合を想定して野宿を覚悟していたんだ。それに比べれば、こんな豪華な部屋で寝泊まり出来るのは幸運以外の何物でもない。
そうだ、全ては幸運の賜物なんだ。そう考えると恐れ多いと思っていた感情も薄れ、ゆっくりと休める気がしてきた。
そして俺はシャワーを浴びて汗と身体の汚れを落としてから、ベッドに潜り込み目を閉じた。安い宿にある薄っぺらい木の板と布を敷いただけの硬くてボロいベッドとは異なり、高級ベッドに用いられた羽毛や羊毛の柔らかさと温もりは正に天国だ。
夢見心地とは正にこの事だ。あっという間に睡魔が襲い掛かり、何時もよりも早く眠りの世界へと落ちていった。
昼間から降り始めた土砂降りの雨は真夜中も勢いを保ったまま降り続き、ナハトの街を潤していく。いや、既にその雨量は潤すの範囲を超えている。
だが、幸いにもナハトは雨に強い街らしく、大量の雨量にも拘らず未だに何処も冠水していない。雨に強い立地条件や、築かれた街の基礎が極めて優秀だと言う証拠だろうが、そこに住む人間が居なくなり、滅んでしまったのは残念としか言い様がない。
時折、雷の音も聞こえるが、それでも昼間の頃に比べれば遠ざかった方だ。多分、明日の昼か夕方には雨は明かり、ナハトの頭上には青空が顔を見せてくれるだろう。まぁ、どちらにせよ明日の昼間はナハトではなく、此処から少し離れた村に居るだろうけどな。
ベッドに潜り込んだままチラリと目を開けて部屋の窓から外の様子を窺うが、まだ東の空に太陽の姿はない。この冬の時期、太陽が昇り始めるのは7時前ぐらいか。それを考慮すれば、恐らく今は真夜中の3時か4時ぐらいというところだな。
まだ時間はある。もう少し休んで体力を温存しよう。
……………
…………
………
……
…
私達、アンデッド族の魔物に睡眠というものは必要ではない。既に死んでいるのだから、人間に必要不可欠だった機能が停止したという事なのだろう。但し、魔物娘の影響で人間ならば誰しもが持つ性欲は残っている。いや、生前よりも遥かに強くなっていると言うべきか。おかげで私の頭の中は常に魔法の研究と、精に対する探求心で一杯になってしまった。
まぁ、今まで興味が無かった物事にまで興味を抱けたおかげで視野が広がり、魔法の研究と絡ませる事で更なる発見が期待出来るので結果オーライという事にしておこう。
だが、その淫猥な研究を行う為にも必要不可欠なのは男だ。女は私や他の魔物娘が居るので必要無い。今までにも複数の男を捕まえたが、どいつも短小だし、2回か3回出しただけですぐに根を上げてしまう。度重なる性行為のせいだという見方もあるかもしれないが、ゾンビやグールに性行為の自重を求めるのは無理と言うものだ。
そして私も彼女達同様に、人間の男性を精の対象として見ている。それはこの部屋に一泊させたガルフという傭兵も同様だ。
いや、彼に対しては他の男には無い特別な感情を抱いている。一言で言えば気に入っている。彼だけはゾンビやグールに任せず、自分自身の手で研究材料の一つとして扱いたいとさえ思う程だ。因みにコレが私なりの精一杯の愛情表現だ。
「キャサリンさまー、入ってもいいですかー?」
私の後をゾロゾロと付いて来ている10人のゾンビの内の一人がメリハリの無い声で私に尋ねる。彼女達は何も考えずに私の後に付いて来た訳ではない。寧ろ、私が彼女達を連れて来たのだ。
彼女達を連れて来た目的は他ならぬガルフの捕獲だ。ゾンビは人間の女性と同じ筋力しか持たず、一対一ならば生身の人間でも十分に勝機はある。だからこそゾンビは数の暴力で相手を圧倒するのだ。更に+αで私の魔力による肉体強化が成されれば、それこそ正に鬼に金棒だ。
私はゾンビ達に『待て』と合図を出し、部屋の扉の鍵が掛けられているかどうかの確認をする。音を立てないようにドアノブを捻るが、鍵が掛けられているせいで開かない。やはり傭兵は用心深い……か。
だが、この程度ならば扉を破る必要もない。鍵穴に人差し指と中指の二本の指を当て、そのまま鍵を開けるかのように右へ捻る動作をすると、ガチャリと鍵穴から施錠が解除された音が鳴り響く。
コレで良し。そして再度ゾンビ達に魔法が掛かっているのを確認してから、私は指を使ってGOサインを出した。それを見るやゾンビ達は扉を破る勢いで部屋に侵入し、真っ先にベッドに飛び掛かる。
流石の彼も寝込みを襲われれば一溜まりもない――――筈だった。
「キャサリンさまー、いないですー」
「いないー、どこにもいないー」
「何ですって?」
だが、ゾンビ達が飛び掛かったベッドは既に蛻の殻。次いで部屋を見回すが、ガルフの姿は見当たらない。何処に行ったのかと視線を周囲に巡らすと、真夜中で雨が降っているにも拘らず微かに開かれた窓が視界に飛び込んできた。
「まさか……!」
慌てて窓へ駆け寄り下を覗いてみると、城の城壁を築く石煉瓦同士の僅かな隙間に手足を引っ掛けて降りていくガルフの姿があった。
「ガルフ!」
私が城壁を伝って下りていくガルフを彼の名を見付けて叫んだ直後、彼の顔が上へと向けられ、私の視線とかち合う。
「やべ! もう見付かったか!」
私に見付かるやガルフはそう叫び、まだ地面まで5m程あるにも関わらず城壁に引っ掛けていた手足を離し、そのまま地面に着地した。着地した瞬間に、まるで大砲の砲弾が着弾したかのような激しい音が鳴り響き、私は思わず一瞬ガルフの身の心配をしてしまう。
だが、私の心配は杞憂に終わった。激しい音が鳴り響いてから程なくして、ガルフは全速力で走り出して城から離れていった。いや、逃げていった。
どうやら戦場で鍛え抜かれた肉体のおかげで、あの程度の高さならビクともしないようだ。とりあえず、彼が無事なのは良い事だ。だが、みすみすと逃がす訳にはいかない。
「貴女達、早くあの男を―――」
「すーはーすーはーすーはーすーはーすーはーすーはーすーはー」
「くんかくんかくんかくんか……」
「お、おおおお男の匂い……ききき気持ち良いぃぃぃぃ」
直ちにゾンビ達にガルフを追うように命じたが、肝心の彼女達はベッドに残っていた彼の残り香に夢中になっていた。無理もない、あれだけ男性ホルモンの強そうな男は滅多に居ないだろう。かく言う私も彼女達のように枕に顔を埋めて匂いを嗅ぎたいという欲望があるが、その欲望に流されてしまっては確実に逃げられてしまう。
「貴女達……」
態と冷たいオーラを放ち偽りの怒りを演出し、地を這うような低い声で囁くとゾンビ達の身体がビクンと震え、コンマ0・5秒程の速さで私の方に振り返る。恐らく、これほどまでに速い動きをしてみせたゾンビはこの世界には居ないに違いない。しかも、全員の姿勢が良く訓練された軍人並の綺麗な直立姿勢だ。何と凄い事か。まぁ、彼女達をそういう風にしたのは私なんだけどね。
それは兎も角、私は改めて彼女達に命令を出した。
「直ちに奴を追いなさい。それと城下町に居るゾンビ・グール・ゴースト、そしてスケルトンとガーゴイルを総動員させなさい。奴がナハトを出る為には城下街の街道を通る必要がある。城下町の守りを厚くすれば、きっと引っ掛かります」
「「「らじゃー」」」
片仮名でもない微妙な発音で了解した旨を伝えると、ゾンビ達はゾロゾロと部屋を出ていく。そして誰も居なくなった部屋を一通り見回した後、私もガルフを追う為に出撃した。
態々ゾンビ達のように地面を駆ける必要などない。ガルフが逃げた窓から飛び出した私は魔法の力を駆使して飛行し、空中から彼を探索し始める。地上で探すのに比べれば極めて効率的だろうがしかし、入り組んだ道では意外と彼を見付け出すのは難しい事に気付かされた。
常に冷静沈着である筈の自分が珍しく『焦り』という感情を抱いているのが手に取る様に分かる。いや、自分自身の事なのだから当然なのだが。だが、それは裏を返せば私が彼に深く執着している事の表れでもある。
どうして彼にそこまで拘るのかと聞かれれば、一言では言い表せない。魔物娘の血が騒いでいるからかもしれないし、彼が気になっているのもまた事実だ。だが、これだけは確かだ。
絶対に彼を手に入れる、手に入れなくてはならない。そんな使命感に近い何かが私の内に存在するのだ。
「畜生、キャサリンの奴め。俺を裏切りやがって……!」
キャサリン達が部屋に入り込む数分前まで、俺は部屋で熟睡していた。だが、人間ではない何か……恐らくゾンビだろうが、それが部屋に向かって来る気配を察知して俺は反射的に目を覚ました。
まさかと思いながらも窓から脱出したら案の定、彼女達は俺の部屋に押し入って来た。危なかった、もし俺が気配を察知出来ていなかったら今頃はキャサリンの言う実験動物にさせられていたかもしれん。
襲われるかもしれないと予想はしていたが、いざ実際に襲われると此処まで腹立たしいものなのかと俺は改めて実感していた。
いや、正確に言うと魔物娘に襲われる事については然程怒りを抱いていない。この世界ではしょっちゅうある事だし、俺も万が一に備えて常に用心していた。が、一瞬でも気を許したキャサリンに裏切られたという事実に怒りを覚えていた。
ショックと墳怒が入り混じり、何としてでもキャサリンの思い通りになりたくないという強い想いさえ生じた俺は駆け足でナハトの城下町に逃げ込んだ。
前にも言ったかもしれないが、ナハトという国が滅び、都市部が廃墟になったとは言え街の半分は原形を保ったまま残っている。時間を掛けて修復してやれば、大勢の人間が住んでいた城下町の街並みが戻るかもしれないだろうが、そんな事をしてくれるお人好しはこの世に居ないだろう。だから、ナハトは名実共に滅んだのだ。
今ではナハトに住む人間は居らず、都市である城下町はゴーストタウンと化している。そしてゴーストタウンは犯罪者の温床地帯に変貌してしまっている……なんて噂話を散々聞かされたが、そんなのは全部嘘っぱちだった。
いや、人が居ないという点は正しい。だけど犯罪者も居ない。その代わり、街にはゾンビやらグールやらスケルトンやら、アンデッド系を中心としたモンスターが城下町を堂々と歩き回っている。
「ゴーストタウンじゃなくって、モンスタータウンかよ……」
数年前に人が居なくなってナハトという国が滅び、亡国となった後は犯罪者の居住地帯となり、そして今現在のナハトは魔物娘の巣窟となっていた。これが現実だ。
しかし、巣窟と呼ぶには……何と言うか、こう、魔物だからおどろおどろしい雰囲気や地獄のような街並みを想像していたのだが、俺の想像よりも大きく異なっていた。日も昇らぬ薄暗い街中で混雑するアンデッドの姿は一種の恐怖を覚えるが、それ以外は普通だ。普通の人間と全く同じような雰囲気で街に溶け込み、嘗て住んでいたナハトの人間と同じように城下町を愛する雰囲気さえも感じられた。
ぶっちゃければ、普通の人間と何ら変わらないって事だ。彼女達が活発に行動する時間帯を除いては。
だけど、人間と同じように街に住んでいても中身は立派な魔物なのだ。もし捕まったりしたら、何をされるのか分かったもんじゃない。いや、ナニをされるのかは大抵想像が付くが。
「だが、先ずはこの街からの脱出を最優先に考えないとな……」
キャサリンが亡国ナハトの支配者だとすれば、言わずもがなこの街に住んでいる魔物娘全員がキャサリンの手下という訳だ。取り合えず慎重に行かなければならない。
城下町に立てられた家と家の間に出来た僅かな隙間、大の大人一人が入るので精一杯の場所に身を潜めながら城下町の様子を窺っていると、何やら背後からヒヤリとする寒気を感じた。昨日からずっと降り続いている雨による寒気ではない。そもそも雨水などの物理的な寒気ではなく、精神的な寒気……俗に言う悪寒みたいな感じだ。
何だか嫌な予感はするが、それでも俺は振り返ってしまう。振り返った先に居たのは、まだ年端もいかぬ幼い子供だった。10歳ぐらいの可愛らしい顔立ちの少女で、ボロボロのドレス服を着ている。
それだけだったら良かったのだが、この少女……宙に浮いている。宙に浮いていると言うよりかは、下半身そのものがないと言う表現が正しいかもしれない。それに透けているし。
だが、それは彼女だけじゃない。ハッとなって彼女の後ろの方を見遣ると、そこには同じように下半身が無く、若干色の薄い少女達がこちらをジッと見詰めているではないか。ある者は宙に浮き、ある者は半透明の上半身が壁から突き出ている。否、通り抜けている。
「ゴースト……!」
俺が思わず目の前に居る魔物娘の種族名を口に出すのと同時に、一番近くに居たゴーストが空気を肺一杯に吸い込んで叫んだ。
「居たよー!! 逃亡者見付けたよー!!」
「ちぃ!! クソッたれが!!」
既に肉体の無いゴーストが空気を吸う必要などあるのだろうか…なんて疑問は浮かばなかった。そんな目先の些細な疑問よりも、キャサリンの味方であるゴーストに見付かった挙句、自分の隠れていた場所が周囲の魔物娘にバレてしまったのだ。
止むを得ず隠れていた狭い隙間から広い城下町の街道に出たが、当然ながら出た直後に冷たい視線が俺の体中に突き刺さる。
周りを見れば、ゴーストが、ゾンビが、グールが、スケルトンが……城下町に居る全ての魔物娘達がこちらの方をジッと見詰めているではないか。先程まであった穏やかな気配は既になく、誰もが俺を獲物として認識したギラついた目で注視している。
魔物娘にとっては最高だろうな。突然目の前に新鮮でガタイの良い男が現れたんだからな。
「あー……皆さんどうもこんばんは。突然お騒がせして申し訳ない。では、私は急ぎの用件がありますので失礼させて頂きますので」
ここで慌ててしまっては駄目だ。成るべく冷静に装い、何事も無かったかのように立ち去る。そうすれば誰も俺の事を逃亡者だと認識しないだろう。頭の緩いアンデッド系ならば、これで――――
「逃がすなー! 捕まえろー!!」
『『『オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛オ゛!!!』』』
―――騙せる訳ないよなぁ!! 畜生!! 大体、本能で雄を求める魔物娘の前に姿を出した時点でアウトだっつーの!
ゴーストの命令とアンデッド達の雄叫びを合図に俺は全力で走り出し、周囲の魔物娘達も俺に襲い掛かってくる。ゾンビにグールにスケルトン、選り取り見取りとは正にこの事だ。どれかを選ぶ気なんて更々無いけどな! 寧ろこの場合は俺に選択肢なんてものは存在しないと言った方が正しいかもしれない。
因みにゴーストは肉体が無いからか、襲われる俺と襲い掛かる魔物娘達を空中から遠巻きに眺めているだけだ。どうやら彼女達だけは非戦闘員のようだ。それでもゴーストを抜いた残りのアンデッド族だけでもかなりの数に達する。敵の数がちょっと減ったからと言って楽観視は出来んな、こりゃ。
だが、それでもこの場を潜り抜けるしかない。俺は目の前から迫って来るゾンビの波へ敢えて突っ込んだ。
「退きやがれェ! ゾンビでも容赦しねぇぞ!!」
否、一度死んだゾンビだからこそ容赦しないのかもしれない。そう頭の中に浮かべながらも、俺は襲い掛かるゾンビ達の身体を強引に撥ね退け、押し退け、払い退ける。時には一体のゾンビを掴んでは他の仲間のゾンビ目掛けて放り投げるなどして強行突破を試みるが、次から次へと襲い掛かって来るのでキリがない。
だからと言って殴る蹴るという暴力は可愛らしい魔物娘相手だと若干気が引ける。精々、投げ飛ばすぐらいだ。くそっ、野郎だったら思い切りぶん殴れたのによ。
幸いにもゾンビ一人一人の力は人間の女子供と大差ない。付け加えて、体重が軽い上に動きは鈍重だ。勢いを落とさず進撃を続ければ、あっという間に後方から追い駆けて来るゾンビと俺との距離がみるみると開いていく。
このままなら行けるかもしれない……そう思った矢先に背後から敵意を感じ取った。
「シャアアアアアアア!!」
「くっ!」
背後からやってきた奇声に反応して首だけ後ろへ振り向けると、赤い手足と褐色の肌が特徴的なグールが舌と牙を剥き出しにして俺に向かって飛び掛かって来る姿が確認出来た。グールはゾンビよりも凶暴で、多分だが力やスピードもあるだろう。もし力の強いグールに捕まってしまえば、あっという間に周りに居る他の魔物娘達も俺の所に殺到するに違いない。それだけは絶対に避けなくてはならない。
「シャラァッ!!」
背後から迫り来るグールは手を伸ばし、俺の頭に掴み掛ろうとする。一度取り付いてしまえばこちらの物という考えがあるのだろうが、こちらとて多数の戦場という名の修羅場を潜り抜けた傭兵だ。
「舐めんな!!」
あと数センチで俺の頭にグールの手が届きそうになったギリギリの所で、俺は咄嗟に首を横に曲げて彼女の手を回避した。
狙いを外したグールは驚きの余りに目を大きく見開くが、これで終わりじゃない。自分の顔横を通り過ぎたグールの手首を掴むと、そのまま一本背負いに近い形でグールを目の前から迫って来ていたスケルトンの群れ目掛けて放り投げる。
その結果、放り投げられたグールに衝突したスケルトン数人の身体は一瞬でバラバラになり、身体を維持出来ずにその場に崩れ落ちる。
身体がバラバラに崩れ落ちると言ってもスケルトンが死んだわけではない。彼女達の身体は特殊であり、強い衝撃を受けると骨で構成された身体がパーツごとにバラけてしまうのだ。バラけた後は身体を元に戻そうと己の魔力で骨を動かし始め、数十秒後には何事も無かったかのように再生する。それがスケルトンだ。言うまでもないが、再生している間は流石のスケルトンも行動不能だ。
少し酷い事をしたかもしれないという罪悪感があったが、スケルトン達が埋め尽くされていた所に僅かな一本道が出来上がったのを見た瞬間に罪悪感なんて何処かへ吹き飛んでしまった。
宛ら地獄から抜け出す為に垂らされた蜘蛛の糸の如く、極めて細くて狭い一本道ではあるが、今の状況では十分過ぎる程の抜け道だ。
その抜け道に巨体を押し込み、左右に居るゾンビやグールを押し退け、俺は一気に前進する。そして遂にアンデッド達の群れから切り抜け、城下町の中央にある噴水が設けられた公園に出た。空中から見下ろすと綺麗な円形に拓けた地で、嘗ては此処で多くの人が行き来したに違いない。
今は俺一人が追われる逃走劇の舞台だけどな!
だけど、ここが城下町の真ん中辺りだと考えれば気分も楽だ。何せ、この逃走劇も漸く折り返し地点に到達したも同然だからだ。
あとは只管に出口向かって真っ直ぐに……と行きたかったのだが、人生って思いも寄らない出来事が起こるものだ。
突然、日の光も昇っていない天空が蒼白い光に染まり、何事かと思い顔を上げると―――幾つもの蒼白い火炎球がこちらに向かって降ってきた。
「どわ!?」
隕石の如く降り注いだそれらは幸いにも全て俺や魔物娘に命中する事は無かったが、代わりに俺の行く手を阻むように落下した。雨で濡れた地面に着弾したにも拘らず、バスケットボールとほぼ同じサイズを誇る火炎球はメラメラと蒼白い炎を纏ったまま消える気配を感じさせない。
どうやら、あの炎には相当強い魔力が込められているらしい。尚且つ、当たれば致命傷は免れないであろう大技を複数放てるなんて余程の魔力を持つ奴じゃないと無理だ。
……と、ここまで考えれば今の火炎球が誰の仕業なのかは嫌でも予想が付いた。そして誰の仕業なのか気付いた直後、火炎球が降り注いできた漆黒の天空から一人のリッチがゆっくりと舞い降りて来た。
「キャサリン……!」
「逃がさないわよ、ガルフ」
俺と炎を挟む位置に舞い降りたキャサリンは相変わらず冷めた表情で俺を見詰めるが、その瞳の奥底は明らかに俺を狙う狩人のような鋭い眼光が煌めいていた。
「ったく、俺一人の為だけにゾンビやグールを総動員するとは恐れ入ったぜ。で、今度はボス直々にご登場って訳か。しかも、御丁寧に逃げ場を封じるとは……少しは手加減してくれよな」
「貴方が逃げるのを諦めてくれたら済む話よ」
「おいおい、残り少ない人生をモルモットで過ごすなんて絶対に嫌だぜ」
「大丈夫、充実した人生にしてあげるから」
「そういう問題じゃねぇだろう……」
話が平行線を辿るのは予想の範疇ではあったが、こうも取り付く島が無いとどうしようもないな。俺を実験動物にする気満々じゃねぇか。
だけど、俺だってこんな所で一生を棒に振るつもりはない。何としてでも此処から逃げ切り、自分の人生を謳歌するまでだ。
……とは言え、この状況下は少し分が悪いな。後ろはアンデッドの魔物で埋め尽くされ、前方はキャサリンが落とした火炎球で生じた火の海で満たされている。
だが、この場にキャサリンが現れた途端に後方の魔物娘達は大人しくなった。恐らく、彼女から『一対一になった場合は手出し無用』的な事を言われているのだろう。
確かにキャサリンが直接手を下すとなれば、彼女の判断は正しい。彼女の使う魔法は今見た通り強力なものであり、もし彼女の部下達が入り乱れるような状況下で同様の魔法を放てば、仲間が巻き添えを喰らうのは目に見えている。
キャサリンの部下達もそれを重々理解している。理解しているからこそ、動こうとしないのだ。
一見すると数の暴力からは解放されたかに見えるが、その実は強大な魔法の暴力と向き合っているという極めて厄介な状況となっている。
果たして、この状況下で逃げる手立てはあるのかと頭の中で算段を立てていると、先に向こうから仕掛けて来た。
「“水よ、支配者の前に平伏し忠義心を見せよ”」
「!?」
俺の耳では何を言っているのかは分からないが、ボソボソと短い呪文を唱えると地面を流れていく雨水や、天から未だに降ってくる雨の滴、周囲の水という水がキャサリンの頭上へ集まっていく。そして集まった水は球体の形を維持しつつも、周囲の建物をも越す程の大きさになる。
一体何をする気なのだと呆然と見ていると、キャサリンは再び俺には分からぬ言葉で呪文を唱えた。
「“あの男を捕らえよ”」
「!!」
呪文を唱えた途端、集められて球体となっていた水は形を変え、巨大な津波となって俺に襲い掛かって来た。
流石の俺もこれにはどうする事も出来ない。魔物娘が犇めき合っている後ろへは逃げられないので、逃げ道はガラ空きの右か左しかない。俺は咄嗟に右へと走るが、津波は意思を持っているかの如くに追尾してくる。どれだけ逃げても、全力で逃げても、まるで猟犬のように執拗に俺を追い立てる。
「畜生、魔法だからってコレは反則だろう!!」
「だったら、諦める?」
「ふざけんな!」
クスリッと微笑みを浮かべる彼女は見る人が見れば美しいと感じるだろう。だがしかし、俺からすればその笑みは『さっさと降参しろ』と言っているも同然だ。これで相手の言葉に従い負けを認めるのは、負けず嫌いな俺にとって屈辱に等しい。
只管にこの場から逃げ切る方法を考えていると、津波の如く凄まじい勢いで押し寄せる水の塊に変化が現れた。単なる水の塊がスライムのように形を変え、やがて蛇の頭のような形となった。否、蛇そのものだ。しかも、その蛇の頭が一つだけでなく、一気に八つも出現する。
そう言えば東洋出身の傭兵仲間に八つの頭を持つ大蛇の話を聞いたっけなぁ……今思い出す事じゃないけど。蛇の頭へと変化を遂げたを水は津波のように押し寄せるだけでなく、首を伸ばして俺に噛み付かん勢いで襲い掛かって来る。
「うおおおお!?」
水だから噛まれても毒は無いだろうが、その代わりに捕まって一巻の終わりだ。今度は水に追われるだけでなく、蛇の噛み付きからも逃げなくてはならず、たった一つの動作が増えただけで神経が削られるような気分だ。
くそー、見た目は綺麗なのに中身は物騒とはコレ如何に。更に周りの炎の光をも反射して、美しい輝きを放っている。無論、そんな輝きなど今の俺には何の得も無いのだが………。
いや、待てよ? 炎の光を反射して輝く水を見た数秒後、それがきっかけとなって俺の脳裏である発想が閃く。もしかしたら、これは行けるかもしれない。そうとなれば、先手必勝。今まで水から逃げ回っていた俺はぐるりと身体を翻し、背後から追い駆けて来る水と向き合った。
俺が振り返った直後、八つの蛇の頭を持った水の動きがピタリと止まり、こちらを窺うようにジッと見詰める。恐らく、キャサリンが水の動きを止めたのだろう。そう予想した束の間、案の定、キャサリンから声が掛かった。
「あら、もう諦めたの?」
「諦めちゃいねぇよ。でも、逃げ回る事に疲れたのも事実だ」
「じゃあ、最後まで無駄な足掻きをするという訳ね」
もし素直に諦めたと言えば、恐らく彼女は水の魔法を解いてくれたかもしれない。だが、それでは駄目だ。俺が逃げる為にも、あの水は必要なんだ。
ジリッと右足を僅かに横へ動かすと、それに敏感に反応したキャサリンは素早く呪文を唱え、再び水蛇を操って俺を襲わせた。
「今度こそ捕まえる……!」
「はっ! やれるもんなら……やってみやがれ!」
見せ掛けでも行動を起こすようなアクションを見せてやれば、相手は過剰に反応して襲い掛かって来るに違いない。そう予想はしていたが、案の定その通りとなった。
こちらへ向かって来る水蛇を見て俺はニヤリとほくそ笑むのと同時に、懐から取り出した球体を水蛇へ向かって放り投げる。
ちゃぽんっ
放り投げた球体は水蛇に命中したが、小石を池に投げ込んだかのような可愛らしい音と共に水蛇の体内に吸い込まれてしまう。
「……何がしたかったのかは分からないけど、どんな攻撃も無意味よ。これで貴方の万策は尽きたかしら?」
今の攻撃を悪足掻きの一つと捉えたキャサリンは相変わらず冷めた表情のまま、こちらをジッと見詰めている。後方からは無駄な足掻きだと言わんばかりに魔物娘達のクスクスと笑う声が聞こえる。いや、この笑い声はもうすぐで俺が手に入る事への喜びを表す声かもしれない。
どちらにせよ、キャサリンもその他の魔物娘も今の攻撃が完全なる不発で終わったと見ているようだが……それはとんだ大間違いだ!
「さぁ、そろそろ私の物に――――!?」
キャサリンが言葉を発しようとした瞬間、突然水蛇の身体から眩い光が発せられた。目も眩む程の強烈な光を前にキャサリンは勿論のこと、暗闇にしか慣れていないアンデッド族の大半は完全に目を瞑っている。
そして俺はこの瞬間を予め予想していたので、片腕で閃光を遮りながらその場から離れた。
俺が投げたのは対人戦闘や対魔物戦闘などで用いられる閃光弾と呼ばれるものだ。近距離で使えば相手の目を暫くの間は封じる事も可能であり、敵の奇襲や不意打ちを受けた際に咄嗟に使用して危機を脱するなんて事も屡だ。
だが、この閃光弾は近距離ならば効果はあるが、遠距離に対して効果は薄い。なので、只単に閃光弾を投げただけでは間近で対峙しているキャサリンの目を封じられても、後ろの魔物娘達までをも黙らせるには至らなかっただろう。
そこで俺が目を付けたのは水だ。水による光の反射、あの原理を利用すれば閃光玉の光を増強出来るのではないのだろうかと。しかし、あくまでも“だろうか”という仮説であり、確証なんてこれっぽっちもなかった。学や知識も無い空っぽの頭の中で咄嗟に思い付いた策であり、これを実行するに当たっては一種の賭けに近い心境だったのは内緒だ。
だが、幸いにもその賭けに俺は勝った。閃光弾の光は周囲を真っ白な空間で包み込む程の強力な光を発し、キャサリンだけでなく後方の魔物娘達の目をも封じ込めてくれた。その間に俺はキャサリンの元から離れ、再び逃走を開始するのであった………。
「……逃げられたわね」
十秒程続いた眩い光が収まり、何時もの真夜中のナハトの街並みの風景が見え始めた時には既にガルフの姿は無かった。巨体に似合わず、逃げ足の速い男だ。だけど、私の魔法をあんな風に逆手に取るだなんて……今までの人間の男とは異なり、かなり厄介な男を相手にしたもんだと思わざるを得ない。
「貴女達は逃げた男の行先を見た?」
「いいーえー」
「眩しい光のせいで全く見えませんでした! ごめんなさい!」
「謝る必要は無いわ。寧ろ、あれで目を開け続けていたら逆にこっちの目が瞑れてしまうわ」
駄目元で後方に待機するよう指示していた魔物娘達に尋ねては見たが、やはり誰もガルフの姿を見ていないようだ。しかし、こればかりはしょうがない。私を含めてアンデッド族の殆どが強い光に慣れていないのだから。
「だけど、あの光が起こってから収まるまでの時間はそう長くはなかった……。多分、あの男はまだこの近くに居る筈。皆、この城下町の中を徹底的に捜索して。見付けたらすぐに知らせてね」
「分かりました!」
「はぁーい」
元気に返事を返したゴーストはすぐに空中へと舞い上がって頭上から標的を見付け出そうと躍起になり、グールやゾンビも手分けしてガルフの行方を探し始める。
だけど、流石の私も危惧を抱かずにはいられない。あの男の度量と頭の回転の速さならば、彼女達の手からも逃げられるかもしれないと思ってしまう。
彼女達には少しあの男の相手は荷が重いかもしれない。けれど、だからと言って今更になってガルフの獲得を諦める事は出来ない。
「……念の為に先手を打っておいた方が良いわね」
そう呟いた私は水の魔法を解いた後、フワリと宙に浮かび上がり、ナハトの上空を飛行してとある場所に向かった。
彼がナハトの外へ出ようとしているのは明白だ。ならば、その出口を塞いでしまえば良いだけだ。
私のやり方を知れば彼は怒るかもしれないが、その程度は覚悟の上だ。そもそも私は最初から正々堂々と彼と遣り合うつもりは毛頭ない。
「さて、今度はどう切り抜けるのかしらね……ガルフ」
ニヤリとほくそ笑んだ私は一旦街の外へと出て、ナハトに入国する唯一の手段である国境に設けられた大門に向かうのであった。
13/08/06 17:53更新 / ババ
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