第四章 怠惰の勇者:後編
ある男の話をしよう。
男はレスカティエ教国の領地に住まう、移動しながら暮らしを立てる部族の出身である。
幼少を部族と共に移動しながら育ち、十代の頃に教国の中央を目指して旅立ち、様々な人物に師事し魔術師になった。
──以上である。
もしかしてこの物語を見聞きしている者は、男のことを勘違いしているのではないだろうか。
今までここで語る機会のあった三人の勇者、彼らと同じような悲しい過去があると勝手に邪推していないだろうか。
大切な人を亡くした。
語るも辛い出来事があった。
肉親に愛されずに育った。
そんな分かり易い、後天的な理由となるものは男の人生において何一つ存在していない。
真の異端とは、過去に何のきっかけも無く既に歪んでいるもの。鳥が空を飛び、魚が水を泳ぐのと同様のこと。異端は、異端であるが故に、異端に生まれついたのだ。後付けではない純粋培養、時としてこういう存在が生まれてしまうのが人の世である。
しかして、全く理由が無いわけでもない。男が自らの異常性を自覚したのは、まだ部族で生活していた幼少の頃だった。
新しい命が生まれた。喜ばしい。
大切な物を壊された。腹立たしい。
家族が亡くなった。悲しい。
季節の儀式を行った。楽しい。
「何だそれは」
男には、感情と呼べるモノが一切無かった。
周囲の人々や環境の変化に対し、男は常に冷淡だった。ただ現象として起きたことをありのままに捉え、吟味、理解し、それで終わり……それが男の頭の中だった。精神の強弱ではなく、そもそもの土台、精神を司る心がそっくりそのまま抜け落ちているのだ。
仮に見ず知らずの人間に殴られたとしよう。普通ならその瞬間や、殴られた部分に感じる痛みなどに対し「恐怖」し、殴った相手に理不尽を覚え「怒る」というのが通常の反応だ。
だが男は何も感じない。ただ相手に殴られ、痛みが残留している、ただそれだけの事でしかない。「恐怖」も「怒り」も「憎しみ」も、男の心には何も起こらない。心そのものが無いのだから当然だ。
代わりに湧き上がるのが「疑問」。
「どうして殴られた」
感情に翻弄されない分、男は自分の思考全てを疑問を解消することに費やせた。自分の立場、相手の立場、そこに至るまでの経緯、相手がそんな行動に出た理由……それら全てを突き止めることに成功した時、男は己の異常性を自覚する。
「そうか、自分には心が無いのか」
得心すると同時に、男は身の振り方を改めた。全てを冷静に俯瞰して見られる男の頭脳は、集団の中の異端がどれだけ爪弾きにされるかを知っていた。自己保存の本能に従い、男は集団に溶け込むことを余儀なくされたのだ。
それは、肉を食べるライオンに草食を強要するようなもの。最初から異端として生まれているから、矯正すべき箇所など初めから存在していないのだ。
だがそれならそれで簡単だった。正常になる必要など無い、正常である「ふり」をしていれば良いのだ。
それから男の趣味は「観察」になった。来る日も来る日も同じ空間に住む他人の所作を事細かに観察し、どんな時にどう返し、どんな状況でどう動くのか、それら全てを赤ん坊が親の言葉を覚えるかのように吸収していった。それと同時に自分をまともに見せる為の言動を学び、それを自然にこなす為の演技も身に付けた。生まれが違えば男は芝居小屋のスターにもなれただろう。
いつしか観察行動で身に付けた感情の動きは男の素の性格となり、受け答えは元からそうであったような自然さで振る舞えるようにまで成長した。周囲の人間から取捨選択して得た人格を全身に馴染ませ、もはや演じる必要すら無くなったのだ。
代わりに思考する時間が増えた。湧き出る疑問を解消し続ける日々が続き、それら全てに解答を求めた。
風が吹き、水が流れ、火が燃え、土が盛る……それら全ての些細なことですら解を得ずにはいられないほど、男は次第に知識と好奇心の塊になっていった。自分の周囲にそれらの疑問の種となる存在が無くなった時、男は生まれ育った地を離れた。
最初は学士の端くれとして教国の内部に入り込んだ。国中の図書館の蔵書を無造作に読み漁り、様々な方面の知識を無差別に吸収していった。男の好奇心が錬金術や魔術という外法の類に向けられるのもすぐの事だった。
この世にはまだ己の知らない事柄が満ちている。探し、調べ、解き明かす、それが己に課せられた使命だとでも言うように、男は持ち得た知識を纏って魔女とバフォメットが乱れ合うサバトへ何度も足を運んだ。彼女らから魔道の知識を得られれば更なる見識を持てると期待して。
実際のサバトや黒ミサはただの乱交会であり、男が求めるような知識はほとんど入手できなかった。男と女が激しく交わりを繰り返す肉の祭典、その光景は男にとって何の知的刺激にもならなかった。
だが、気になったことがひとつあった。交わる男女が口々にこう言うのだ。
「愛してる」、と。
愛とは……何だ?
人間観察をしていた時代、全ての感情を目の当たりにして学習したはずだった。喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ……それら全てを吸収し、己の下地に変えてきたはずだった。
だが愛とは何ぞや? 皆が口々にそれを睦言にするのに対し、とっくの昔に捨て去ったはずの感情への好奇心が男の中で再燃した。
その後自分なりに調べて分かったことがある。
愛とは、喜びであり、怒りであり、悲しみであり、憎しみであり、時に恐怖である……全ての感情の根源に座すモノ、それが「愛」。
「それでは何の証明にもならない」
証明するならば目に見え、耳に聞こえ、鼻で嗅げなければならないはずだ。誰も実物を見ない以上、いくらその存在を主張してもそれは空想幻想と何ら変わりない。妄想狂の戯言と同列のはずなのに、人はそれが確かに存在するという。
ならどこに? どうやって? 確たる元素や要素としてこの世に存在していると言うのなら、それを確かめる術とは何だ?
男が第三の勇者と違うのは、男自身は愛の存在を知っているということだ。ジーンではなくミームとして人々の間に存在する無形の概念、それが「愛」。男はそれを有形の世界に引きずり出したかったのだ。
悩み、調べ、研究し……男は生まれて初めて、その言葉を口にした。
「理解不能」
男が勇者に列せられ、単眼の少女と出会うのは、この五年後のことである。
鍛冶は根気の仕事である。硬い鉄をカンカンに灼けるまで熱し続け、次はそれを何度も何度も叩いて伸ばし、また熱し、また伸ばし……これの繰り返しである。素人が見よう見まねの一朝一夕で成せる業ではなく、物作りならではの職人芸が物を言う世界だ。
炉の温度を見極めるのに三年、鉄を思った形に鍛えるのに更に三年、仕上げとなる水の温度を知るのにそのまた三年と、非常に長い修行を経てやっと一人前になれる。そうして鍛えた腕で作られた鋼は何よりも硬く、柔軟で、そして長持ちするのだ。
サイクロプスは鍛冶を行うのに適した種族だ。大きな眼球が有する視力は炉の内部や灼けた鉄の細部まで見通し、激しい熱と光を正面から見据えても何ともないくらい丈夫なのだ。多少の傷などものともしない手から放たれる剛力は、どんな密度の高く硬度に優れた金属でさえ型にはめたように鍛えてしまう。彼女らの始祖は鍛冶の神に師事していたと言われているのも頷ける話だ。
この日、キューは村人が使う農具を作っていた。秋の刈り入れ時に備えて今のうちから刈り取り用の鎌を作成している。
分厚い金属の棒を熱し、それに大まかな反りをつけて更に熱し、それを何度も繰り返してようやく見慣れた三日月の形になる。刃として機能するまで薄く研ぎ、薬液に浸し再び熱した物を水に付けて完成するのだが……。
「……ダメ、こんなの……」
職人の端くれとして一切の妥協は許さない、その姿勢は立派なのだが……放り投げた先には同じ失敗作の烙印を押された鎌が幾つも転がり、彼女が不調であることを物語っていた。
鋳潰して再利用するにしても、この精神状況では納得のいく物など作れない。それを自覚した彼女は早々に作業を切り上げて自室に引きこもった。
不調の原因など分かっている。
「…………イルム、さん」
既に家を離れ王都に戻った男の顔を思い浮かべながら、腹をさする。見かけ上の目立った変化はないが、やはりあの時に「命中」していたのか、日に日に自分の腹部に違和感を覚えさせられる。
一ヶ月ごとに様子を見に来る、そう言い残して彼は去っていった。あの様子だと出産まで立ち会うつもりだろう。本来なら我が子の誕生に父が立ち会う感動の場面なのだろうが……。
「……かわいそうな子……」
彼にとっては血を引いた我が子も、今までの数有る依頼のひとつでしかないのか。
こんな武器が欲しい、作れ。
愛の存在を証明したい、孕め。
子を成すとは、結ばれるとは、物を作るよりもずっと軽いものだったのか。
いっそ堕ろすことさえ考えた。だが生まれる子に罪はないことを思えば、その決断は首を引っ込めた。仮に堕ろしたところで彼はきっと次を望むだろう。
ああ、それはまるで……。
「……失敗したら、次を作る……。あたしと、同じだね」
とんだ似た者夫婦だ。すぐにそんな考えに至れる自分に吐き気を催す。
ふと、ドアを叩く音が聞こえる。
村人ではない。とすると、依頼客だろうか。
「キュー、いるなら返事をしろ!」
「ア、アマナ……さん!?」
家の外で待ち構えていたのは、立派な胴をぶるんと揺らしてこちらを呼ぶケンタウロスのアマナ。長距離を移動して荷物を届ける運送業をしており、時折こうして通りがかったついでに会いに来る昔からの知り合いだ。
「む? 何やら顔色が悪いな! いかん、いかんぞそんなことでは! 鍛冶職人は体力勝負だろう、精を付けておけよぉ!!」
「アマナさん、相変わらず元気ですね」
「体が資本だからな! はーはっはっはっはっは!!」
久しぶりに会ったので茶飲み話でもと中へ誘い、気分転換に仕事先であったことや王都での話も聞くことにした。彼女の勤務先は王都にある。
アマナとは古い付き合いで、キューの母が彼女のために蹄鉄を打ったのが始まりだ。長距離を駆け抜けるアマナの足はそれを保護する蹄鉄が欠かせず、品質が良いと言っては贔屓にしてもらっている。
「社長さんがお亡くなりに! だ、大丈夫なの?」
「恨みを買うような方ではなかったのだがな……。経営者不在、それに伴う経営不振で一時は買収されそうになったのだが、運良く融資にありつけた。融資を引き受けた刑部狸が各方面から、ええと『すぽんさあ』? ……を募ってくれたよ。おかげで今は代理を立てて経営を続けている。金貸しなど信用できんと思っていたが、昔の自分は随分見識が狭かったようだ!」
「そうなんだ……。よかったですね」
「ああ! そう言えば、経営が立て直ると同時に珍しい御人が訪問されたんだ! どなただと思う? なんとっ、然る国の大使殿が来られたのだ! 魔物娘と人間との共存に我々の会社が良い見本になると仰られてなあ!!」
「すごいね!?」
「名前はなんだったかな。ええと確か……クリス、だったか」
「クリス…………」
出てきた人名にキューの琴線が触れる。どこかで聞いた名前、記憶の片隅に眠るそれを引っ張り出そうとこめかみを指で押さえながら長考し……。
思い出す。
「イルムさんが言ってた……」
偶然か? そんな有り触れた名前、全くの赤の他人の可能性の方がずっと高い。
膨らみかけた疑問が萎み、そのまま流れそうになったが……。
「ゴーレムの従者をつけていてな、少しでも大使殿に色目を使うとあの氷のような視線が突き刺さって……」
「ゴー、レム?」
記憶に引っかかるもう一つのワード。確か昔イルムがゴーレムを創造すると言って、何かいい案が無いか聞いてきたことがあった。まさかこれも偶然か。
いや、二度続いたことを偶然とは思えない。きっとその男性とイルムには何かつながりがあると確信した。
根拠は?
女の勘、それで充分だ。
「アマナさん!! これから王都に戻るんですよね!?」
「あ、ああ。荷物も届け終わったし、寝ずに走れば四日もあれば帰れ……」
「あたしも……あたしも、連れて行ってください!!」
「はあ? いやでもお前、仕事の方は……」
「お仕事より大事なことだってあるんです! お金も払いますから、お願いします!!」
いつになく押しの強いキューに押されて、アマナは無言で首を上下に降るしかなかった。
アマナ自身が引く小型の荷馬車に揺られること四日、道中大した出来事も無くキューは王都に到着した。
初めて訪れる王都は田舎とはどこまでも対照的に喧騒が満ち溢れ、街の住人の活気を物語る。それらを呆然と見つめながら、自分って意外と後先考えないのではと今更自覚したキューだった。
街に入って早速周囲の人々からの視線が痛い。田舎者の格好をしているから……ではなく、やはり持ち前の顔が珍しいのだとすぐに分かった。単眼は同じ魔物娘の間でも異形の扱い、ましてや人間たちにとっては奇っ怪なモノでしかないだろう。
人目を忍ぶように俯きながら王都の中央を目指した。件の男は大使館、政治家が集う区画に住むと聞いたのでまずはそこまで行くことが目標だ。
だが……。
「と、遠いよぉ……」
王都の入口から王宮が見える辺りの中央まで行くには相当な距離を歩かねばならない。普段からあまり長距離を移動せず、山に入るのも仕掛けた罠を片付ける時ぐらいのキューにとって、地平線まで続くような大通りは目もくらむ距離だった。鍛冶仕事で体力は鍛えていたと思っていたが、どうやらそれは上半身限定だったようだ。
そう言えば風呂場の一件も先にギブアップしたのはこっちだったっけ、と思い出す。目覚めると寝室のベッドで、イルムは例の野営設備で寝泊りしていた。気絶している間に運んでくれたのかと思うと純粋に嬉しく思ってしまうあたり、自分は手の施しようがないくらい単純なのかもしれない。
一時間ほど頑張って歩いてみたが一向に目的地に近付く気配が無く、遂にキューは疲労でバテてしまう。
「も……ダメ……」
道の脇に逸れて民家の軒先の影に腰を下ろす。持ってきた皮袋に蓄えた水を一口飲み、ほっと一息つく。少し風に当たって熱くなった体を冷やしてから歩こう……そう思いながら、何故か重くなる目蓋に誘われる眠気。
少しだけ、そう思って目を閉じそうになる。
「おい! あんた、起きろ!」
「ふぁい!?」
突然頭の上から響いた声に顔を上げると、厳ついナリの男がこちらを見下ろしていた。
「困るんだよなあ、こんなとこで休まれるとよ! 店開く邪魔じゃねえかよ!」
「す、すみません! 今すぐ、どきますから……って、あ!」
急いで立ち上がった瞬間、視界が揺らぎ平衡感覚を失い地面に倒れ伏しそうになった。立ちくらみ、と気付いた時にはもう遅く、地面と激突する前に固く目を閉じる。
「よっと!」
しかし、それを受け止めてくれた者がいた。ふんわりとした感触は衣服ではなく、獣の毛、獣人に属する魔物娘の腕だった。
「アヤの姐さん……!」
「田舎のおぼこい嬢ちゃんイジメるんは趣味が悪いなぁ〜? えぇ?」
キューを支えたのは金貸し刑部狸のアヤ。大通りの商人全員から恐れられている彼女に、男の方もたじろぐ。
「商売の邪魔? アホ言うとったらアカンで、そこの小道が見えんのか。露店出したらアカン公道やろ、ここは! 疲れてちょいと一休みするんの何が悪いんや! 言うてみぃ!」
「めめ、滅相もありやせん! こっちの勘違いでした!」
最初の威勢はどこへやら、男はそそくさと去っていった。事の成り行きを見ていた野次馬も面白いことが無くなるとそれぞれ戻っていった。
「サイクロプスなんて珍しいからね。ああやってイチャモンつける輩がおるんよ」
「あの……ありがとう、ございました」
「ええて、ええて! 気にせんといて! ……うん? あんたぁ、ちょいと……」
「ふぇ、あ、あの……なんですか?」
突然体の匂いを嗅がれてキューが固く身構える。
「おい、貴様……白昼堂々何をしている」
「あっ! トーマスさん! ちょうどええとこへ来たわ、この子なぁ……妊娠しとるよ」
「え、分かるんですか!?」
「体質とか変わるからなぁ。あんた見やん顔やけど、どっから来たん?」
「えと、ここから離れた山奥で、その、鍛治屋を……」
「鍛冶屋? お前ひょっとして、キューか?」
「トーマスさんお知り合い?」
「俺の知り合いの、知り合いだ。名前ぐらいは教えただろ、イルムの連れだよ」
「あぁ、イルムさんのなぁ」
「イルムさん? いま、イルムって……!?」
「まさかとは思うが、その腹の相手は……」
「は、はい……」
俯くような頷きの後、キューはここに来るまでの経緯を掻い摘んで説明した。もちろん、あの夜の事の詳細は伏せたが。
全てを話し終えた時、トーマスとアヤは惜しみない同情の念を覚えていた。
「野良犬に手を噛まれたと思って諦めろ。あれの考えることは分からん、分かろうとするだけ無駄だ」
「なんかもう、ただただ、ご愁傷様やね。困ったことあったら言うてな? 幾らでも用立てたるわ」
「あの人そんなダメな人なんですかっ!?」
「駄目というより……なあ?」
「直接会うたことあらへんけど、話し聞いとる限りでは相当アレな人やね」
「説明一言、『変人』で完了する相手だ。お前があいつの何を聞きたくてこんな所まで来たのかは知らんが、お前自身が感じた事が全てだよ。あれはそういう生き物だ、その行動に理由を求めるだけ本当に無駄だよ」
外部の協力者であるキューはイルムが勇者であることなどもちろん知らぬが、本来知人であるはずのトーマスにここまで言われることに少なからずショックを受けていた。それと同時に最も多く接していたはずの自分が彼の事を何も知らないという事実を再確認させられた。
「それにしても知り合いかもしれないという理由だけで一国の大使に会おうとはな。そんな回りくどくせず、本人に直接会えばいい」
「なんだか、会い辛くて……」
「住処は知っている。顔だけ見てから帰るのでもいいだろ」
「…………」
沈黙を肯定と受け取り、身篭っているキューに気を遣い道々に休憩を挟みながら三人で王都の外れにあるイルムの地下研究室の手前まで移動した。幸か不幸かイルムは在宅していたが……。
「ここから先は入れない」
家の前で通せんぼしたのは、イルムが創りし土人形、エステルであった。
「何故お前が止める?」
「わたしは調整で来ただけ。あの人は今から作業中。こっちからいくら話しかけても返ってこない」
「何か作ってるん?」
「ええ、まあ。あの人は何をしたいかよく分かりませんが、訊ねたら答えてくれました。大きなガラス瓶を作っていましたが」
「ガラス瓶……?」
何だろう、嫌な予感がする。そこから先を聞いてはいけないと、全身の毛がゾワゾワと逆立ち寒気を覚える。心臓の鼓動が内側から鼓膜を打ち、喉の奥がカラカラに乾き息をするのも痛く感じてしまう。
「それって……なにに、使うんですか?」
「はい。なんでも……」
「子供を容れておくのだとか」
キューの中で何かが壊れた。
「──っう!!」
腹が、今や自分だけのものではなくなった腹部が、腸をズタズタに引き裂かれたような痛みを感じる。その鈍痛は腹部だけに留まらず、不快感はその重苦しさに反して激しい勢いでせり上がり……。
「うぅ、げぇっ、ぇええええぇぇぇぇーッ!!!」
消化器官に蓄えていたモノ全てを吐き出させた。
激しく律動する胃は意思一つで止められず、やがて胃液も全て吐き出した後、キューの意識は闇に呑まれた。
「───……ここは?」
回復した時は夕方で、どこかの病院の一室のようだった。少し消毒の臭いが鼻を突く。
「気分はどうですか?」
看護師がそっと声をかけてくる。
「だいぶ、楽です。ありがとうございます」
「妊娠期間中は魔物でも体調管理に気をつけてくださいね? お腹の子にも響きますから」
「……はい」
「それと、あなたがこちらに運び込まれてからずっと面会の方がお見えになっています。お通ししますね」
「面会、ですか?」
「ええ」
看護師がドアを開けるとそこには、今最も会いたくない相手がいた。
「やあ、キュー。倒れたと聞いて駆けつけてやったのである」
つい数日前に見た時と全く同じ笑顔で、イルムが会いに来ていた。手には土産の品の果物を籠一杯に持っており、いかにも見舞いに来たと言う格好だ。穴蔵からわざわざ作業とやらを中断して来てくれたのだろうが、今のキューはその事を嬉しくもなんとも思わない。
「……なんですか」
「ふむ、妊娠期間中は些細な事でもすぐ怒るというが、なるほど、今の貴様はどこか不機嫌そうであるな。妻を慮るも夫の役目、不満があればこの我輩に言ってみよ!」
「あなたは……あなたは、あたしの夫でも、この子の親でも、ありません」
「ふはっ! 不思議なことを言うな。我輩は貴様に種を注ぎ、身篭ったその瞬間を見届けている。その腹の下にいるのは紛うことなく、貴様と我輩の子。であれば孕ませた我輩が夫であり父というのは自明の理であろう。我輩、何か間違ったことを言っているであるか?」
「……ならどうしてっ、あたしからこの子を取り上げるようなことを……」
「うん? ああ、人造母胎のことであるか。錬金術の人造人間法より着想を得た我輩の新発明である。妊娠三ヶ月で貴様の胎より胎児を取り出し、その中に移し替える。成長に必要な栄養分は全て外部から供給し……」
「あたしとこの子はあなたの道具じゃない!!」
怒りに任せて振るわれたキューの拳が壁を叩き、巨人族の剛力をまともに受けて一面に亀裂が走る。キュー自身、ここまで怒りに体が支配されたことは一度もなかった。だが虚ろな目で心にもないことを言ってのけるこの男を前に、もはやキューは平常心を保っていられない。
「誤解である、愛する妻の貴様に負担を掛けまいとだな……」
「負担と思うなら……そこまで分かるのに、どうしてあたしに……!」
「貴様が一番身近な適合者だったからである。我輩の目的は『愛の存在証明』、我輩を好いている女に我輩の子を産ませることが出来れば、それは即ち愛の実在を証明することへの第一歩になるはず。貴様は我輩を好いていた、ならばそうすることに何の不満がある? 極々普通の家庭に起こりうる夫婦の営みではないか」
「イルムさんは……あたしを愛してなんかいない」
「愛している、愛しているとも。好きでもない相手に契りを結ぶか? 愛してもない相手に我が子を産めと言えるか? ふふふ、長話で喉が乾いたであろう? リンゴの皮を剥いてやるのである」
話を強引に変えたいのか見舞いの品々からリンゴを取り出すイルム。
しかし、彼が皮を剥くことはなかった。キューの手が先にナイフを取ったからだ
「何をするのである! 危ないだろう、早く返すのである!」
「っ!!」
凶器を取り上げようとするイルムに対し、そのナイフを振り上げたキューはその切っ先を彼に向けて降ろし……。
「ほら……やっぱり」
「────」
ナイフを振った速度はたいして早くはなかった。健常な相手であればすぐさま回避できる速さ、だがそれが顔面に向かって飛んでくれば誰でも命の危機に過剰な反応を返すのが普通だ。驚愕に目を見開き、恐怖に慄き、怒りに震える、それが普通、在るべき反応。
だがイルムは、違っていた。
「────損傷、軽微。修復可能範囲。修復を開始」
顔面に向かって振り下ろされたそれを、避けるでも叩き落とすでもなく、その軌道上に手を差し出して受け止めた。当然刃は掌の肉を貫通し、無造作に引っこ抜いたその傷を魔術で治癒すると、傷跡すら残さず完治していた。
仮に、どんな傷を負っても瞬く間に治る不死の体を手に入れたとして、高所から投身できるか? 両目に釘を打てるか? 腕を切り落とせるか? 劫火の中に突っ込めるか?
絶対に出来ない。目の前に拳が飛んできただけで反射的に目を閉じるのに、それ以上の痛みがあると分かっていてそれを実践できる者などいない。魔術で完全治癒できると分かっていても、何の躊躇いもなく素手で刃を受け止め、あまつさえ平然としているなど普通は絶対に無理である。心を持っている人間には不可能なのだ。
「喜ぶふり、怒るふり、悲しむふり、楽しむふり……愛しているふり。全部演技、嘘だったの」
「────問題ない。全て計算通り」
「何が……。あたしはぁっ! あなたの思い描いた数式を解く道具じゃない!!」
「────否、道具だ。数式を解くための道具」
もはや隠すことさえしない。今ここで受け答えしているのは、人形だ。ヒトの姿形をした人形、寄せ集めた言葉を組み合わせ、あたかも心があるよう振舞う人形。それが遂に人間を真似ることすら放棄した。イルムという男の真実の姿がだ。
「もし……もし、ここであたしが、死ぬって言ったら……」
「────否定はしない。代わりを探す。────お前の価値は、ゼロ。ゼロ、無意味、無価値」
オウムが覚えた言葉を連呼するが如く、拾い集めた全ての感情を削ぎ落とし原初の姿に立ち返ったイルム。もはやその目には何も見えない、見る必要すら無い。これまでに得た感情の贋作は人間社会をスムーズに生きる為のハリボテに過ぎない。
万象総てを数式に見立て解を得るためだけに動く人型の計算機、それがこの男の本質。そこに感情という不確定要素はただのノイズ、邪魔なのだ。今回の研究にはそう振舞うことが必要だったからそうしただけで、そうする意味の無くなったキューに対してはそうするだけの価値が一片とて存在していない。
「…………」
イルムの居なくなった部屋でキューはシーツを握り締めたまま微動だにしない。その表情は陰に隠れ容として知れない。怒りも、悲しみも、憎しみも……彼女もまた全ての感情、心の揺らぎを喪失しつつあった。
やがて日が落ち、闇夜になり、星が瞬き、天頂に月が輝き出す頃……。
「ッ!!」
キューは動き出した。
「────これは何だ」
草木も眠る丑三つ時、イルムが来たのは街にいくつか設けられた噴水広場。既に人通りはなく、水が静々と流れ風が吹く音色だけが奏でられていた。
彼は呼び出しを受けてここにいる。七人の勇者がそれぞれ連絡用に用いる伝書鳩、それが運んできた密書に従い緊急会議があると聞いてこの場に召集されたはずだが……。
「────エステルとシャムエルが同席する理由を述べよ」
会議は基本的に勇者のみで行い、決して部外者は立ち入らせない。だがここにはイルムを合わせ、都合「八人」の存在が確認できた。
まずは呼び出されたイルムと、何故か広場に居合わせているエステルとシャムエル。
「鈍いな。これは会議でも何でもない。まだ気付かないか」
「存外頭の回転遅ぇんだなぁ。えぇ? 魔道師さまよぉ!」
「早いところ終わらせてくれないかな。僕はこの後エステルと深夜デートなんだ」
そして同じ裏方を担当しているトーマス、ゴードン、クリス。これで顔が見えるのが六人。全員物々しい雰囲気でトーマスとクリスは洗礼の儀式に一度着ただけの騎士の装備に身を包み、ゴードンに至っては滅多に見せない狂信者モードになっている。
「────再度問う。これは何だ」
「見て分かんねえのか。まあ、無理もないな、てめえは経験するのは初めてだもんな……『異端審問』。そこの二人は教会の代理役、まあ見届け人ってところだ」
「────意味不明。教会の指示には反していない」
「そうは問屋が卸さねぇ。あんたは教会の許す範囲内で動いてたつもりだろうがなぁ……あんたは、ヒトとして『やっちゃいけねぇこと』をした」
「君にかけられた嫌疑は唯一つ、『婦女子を惑わし乱りに関係を持ち、その心を踏み躙った』だよ。姦通と強姦は死罪に相当するって、知ってた?」
「────キューは魔物。よってヒトの法の適用外」
「だから? 要は俺らがてめぇを気に食わねぇって事なんだよぉ!」
「────七人の意志決定権は……」
「君には見えていないだろうけど、この場は『団長』と『小熊』も見てるよ。不在の一人を除き、ここは僕らの総意でお膳立てされている」
この場には、七人の内六人が集っている。つまり、完全に他の五人がイルムを始末するという合意の上でなければ決して成り立たない舞台。異端者を抹殺する刑場へまんまと引きずり出されたのだ。
顔が見えている三人が本気であることは、心を持たぬイルムにも分かった。彼らは本気で自分を始末する気でいる。
「お前はどちらにせよ人でなしだ。処分の理由は後付けでいくらでも用意できる」
「────教会はこの事態を容認しない」
「安心しろってぇ、俺らが殺すのはてめぇじゃねぇよ。後ろ見てみ」
「────」
背後を振り向き見えるもの、それはこの場の全てを仕組んだ存在。
「彼女に相談され、僕らがこの話を持ち掛け、それに彼女も乗った。それだけのことだよ」
「そいつがお前を殺し、俺らが勇者殺しとしてそいつを殺す。それで丸く収まるって話だ」
「嬢ちゃんにゃ、俺らの事は全て話した」
「────キュー」
愛を知るために利用し、そして無価値と切って捨てた少女、サイクロプスの独眼がイルムを貫いている。手には自らが鍛えたのか、スラリと伸びた剣が握られており、魔力を一切感じないことからそれが魔界銀ではなく従来の鉄を使った物だと分かる。斬るのはもちろん、魔力ではなく生身の肉体。
つまり、彼女は自分を殺すつもりだと理解する。
「君には彼女を返り討ちにする権利がある。だけど行使した場合、『無辜の民に危害を加えた』として僕らが君を殺す」
「てめぇがこの場を逃げ出せば、『教会の命令に背いた背信者』として俺らが始末する」
「要するに詰んでんだよ、お前は。心中するほど魔物をキレさせた男として、歴史の教科書に永遠に残るぜお前」
「────何故勇者が魔物の味方をする」
「さっきも言ったろ。これはもうヒトが魔物が〜って話じゃねぇ、単にてめぇが気に入らねぇって話をしてんだよ。あんたにゃ感謝してるよ。でもそれとこれとは別問題だ。つーわけで……いっちょ大人しく殺されてやってくれよ」
人「道」を「外」れると書いて「外道」。道を通せば角が立ち、道を外せば深みに嵌る。イルムは道理を外れて深みに嵌った。這い上がって汚物を撒き散らすぐらいなら、いっそ沈み切ることを願うか、あるいはその前に叩き潰すしかない。
果たせぬ禍根有りと立ち塞がるは、偽りの情を交わした女が一人。仇討ちを成功させたところで己も勇者殺しとして捕えられ、王国転覆の情報を知った者として口封じされる。行くも地獄行かぬも地獄、文字通り、「決死」の覚悟でここに立っているのだ。
「イルムさん……。一緒に、死んでください」
月光を受けて白刃が煌く。
旧魔王時代を経て、今の時世に魔物が人間を殺したという話は聞かない。だがここに今まさに己諸共一人の男を黄泉路に送ろうとする独眼鬼がいる。夜明けまでに互いにどちらかを殺し、残った片方もここにいる者らに処分される、勝者無き究極のデスマッチが今……始まった。
「〜〜ッ!!」
先に動いたのは当然キューだ。サイクロプスは武器作りのスペシャリストと同時に、あらゆる近接武装の取り扱いに熟知しており、彼女らは自身の戦闘力も総じて高い。技は我流だが余分な動きの一切を省くことに成功したその剣筋は、近接戦闘については門外漢のイルムにとってはまさに天敵──、
「────愚かな」
全てを思考と計算に費やすイルムの頭脳は自身の弱点など承知の上、更にそのための対策も講じていた。
霊木の杖が広場の石畳を軽く小突く。それだけでイルムとキューの間の地面が地震のようにぐらぐらと揺れ、亀裂が入り足元から崩れ始めた。
「────王都は既に手中にある。街の各所に、魔法陣を設置済み」
いずれ王国を陥落させる時にために教会の命令で設置したものだが、こんなのはほんの序の口でしかない。両足で踊るようにステップを刻み、そこに杖の音が加わることで民族舞踊を舞うような動きをするが、これらは全て足下に仕組んだ魔術を起動させているのだ。
右の爪先が土を踏むと火が吹き上がり、左の踵をつけると大量の酸が召喚される。酸に行く手を阻まれてまごついた瞬間、杖が連続して起動させた土槍の術式がキューを貫こうと迫る。対するキューはそれらを凌ぎきり、開けた場所での戦闘は不利と判断したか建物が立ち並ぶ路地へと誘いを掛けた。
当然それを追うつもりのイルムだが、ガラス玉の視線が自分を監視する者らに向けられる。
「俺たちは邪魔も助太刀もしない。思う存分やれ。どの道あとで始末はつけるがな」
「────委細承知」
言質を取れたことを確認すると風の術式で移動速度を高めながらキューの追跡を行った。この一帯は既に人払いが済んでおり、どれだけ暴れようが人的被害は一切出ない。
「────好都合」
入り組んだ路地に身を潜めたキューを炙りだそうと、杖を石畳の間に深く打ち付ける。その瞬間、一斉に土が舗装された地面から隆起し、平らだった道が山林の獣道の如く荒々しいものに変化する。イルムがもう一度杖を突くと、今度は土の間から油が染み出す。液体は瞬く間に土と溶け込んで周囲を湿原のような環境に変えるが、可燃性に富んだその液体にイルムが火を放った瞬間、街の区画丸ごと大火に飲み込まれた。
幻覚ではない、尽きぬ火種を受けて燃え盛る油の湿原はこの世に顕れた地獄の姿だ。石造りの家屋自体は燃えないが、路地裏のゴミや木で出来たドアなどは一瞬で燃え上がり、熱で割れた窓に飛び火して内部の可燃物にも引火する。もし住人がいる状態でこの術を使えば王都の三分の一は焼け尽くされていただろうことは想像に難くない。
熱を塞ぐ術式を使い類焼を防ぎ、自分以外誰も居ないはずの空間で動く生命の存在を感知する。それは軽い身のこなしで民家の屋根に上って難を逃れているようだった。その跡を追ってイルムも同じ土俵に上がると、果たしてキューはそこにいた。
「────追跡終了」
「……!」
鬼ごっこは早くも終わりを告げ、状況はさっきと同じ一対一に逆戻った。自身が言っていたように、イルムはこの街全体に魔術を仕込んでいる。ワイヤー張ってはい完成というような小規模なものではなく、一つ発動すればそれだけで王都の機能を一部麻痺させるレベルのもの、それが五万と仕掛けられている。
本来なら決して単独の相手に対し使うものではないのだが、イルムという男は加減を知らない。例え今この場に人は居ないのだとしても、これほどの大惨事を目の当たりにした人々がどんな感情を想起するのか、彼には露ほども理解しない。彼自身に感情が無い故に……。
キューが逃げ回ることを止めたのは、自分が戦いを長引かせることで被害を拡大することを防ぎたかったからだ。もちろん誘い込みをかける目的もあった。流石に民家の屋根にまで術を仕込んではいないだろう、となれば使ってくるのは持ち前の魔術と踏んでのことだった。
「せいっ!!」
キューの白刃が風を切ってイルムを仕留めようと振るわれる。やはり近接戦の心得が無いのか、間合いの僅かに外で防戦一方に徹しており、魔術で牽制を図るに留まっていた。
行ける。このまま息つく暇も与えず攻め続ければいずれ勝てる、そう感じたキューは一歩、また一歩とイルムへの間合いを詰める。徐々に激しさと鋭さを増す剣戟に、さほど鍛えられていない彼の体は少しずつ遅れを取り始めた。避けるだけだった動きが今では杖を使って防御しているのがその証拠だ。
(もう、少し……!)
後一歩で彼を捉えられると確信したキューが更に更に踏み込む。互いの間合いが完全に重なる半歩手前まで及び、彼女は勝利を得たと駆け出し最後の一撃を繰り出した。
「はあああっ!!!」
これが当たれば彼は死ぬ……ヒトを殺すという、魔物娘最大の禁忌を犯すその刹那、彼女は自らの決意を示すように自身唯一の眼を固く閉じて剣を突き入れる。
そして……。
「────甘い」
手応えはあった。骨の間の肉を裂き、熱い血潮が吹き出す音がキューの耳に届く。彼女の刃はイルムに届き、大きなダメージを与えることに成功したのだ。
だが、しかし……それでは仕留めきれなかった。
「う、そ……そんな!」
「────」
刃はイルムを貫いた、彼の左腕を。腕を支える二本の骨、橈骨と尺骨と呼ばれる部位の間、腕を動かす筋肉が詰まり重要な血管が密集している部分だ。その人体の僅かな隙間を使ってイルムはキューの剣を挟むように受け止めていた。
昼間、果物ナイフを手で受けた時とは違う、一歩間違えれば腕そのものが一生治らない傷を負うような行為だ。今だって刺さった剣そのものを支えにしてやっと姿勢を保ち、傷口から流れ出る血の量はあと数分も放置すれば致死量に達する勢いだ。
にも関わらず、イルムの表情は睫毛一本たりとも動じない。痛みに対する恐れは無い。死に直面してもなお揺らがない。
「────む」
「あっ!」
力を振り絞った腕の回転が剣をひったくる。拍子に腕からもすっぽ抜け、だらりと垂れ下がった腕の傷からはさっきまでより多くの血が流れ出す。自分の命を支える血潮が失われているのに、毛ほどの動揺も見せないばかりか、だらりと垂れ下がった腕を治癒する気配も見せない。自分の腕をこうしたきっかけを作った相手を、ガラス玉のような瞳でただ凝視するだけだ。
吸い込まれそうな瞳は、穴だ。彼は「穴」、この世界にこじ空いた底なしの「穴」。どれだけ満たそうとして注ごうとも、底が抜けた器に水が満たされることは無い。
ああ、それはなんて……寂しいこと。
ここに二人の男女の決着が着けられた。
「────これより貴様を処理する」
「……好きにしてください。イルムさんも、後で来るんですよね」
「────その考えは間違い。訂正を求む」
自分は生き延びるつもりなのだと知り、今際になぜか安堵するキュー。思えばイルムとはこういう男だった。他人の都合など知らんと押し通り、面倒なことや厄介事を押し付けて自分だけは涼しい顔をしている男だった。この世の全てを解き明かすまで止まらない、きっと自分を殺してどこかへ旅立っても彼は彼のままなのだろう。その事実に少しだけほっとしてしまっていた。
「────我輩は死なぬ。貴様も死なぬ」
「でも、あの人たちが生き残った方を……」
「────殺さなければいい。全てを、消去する」
「しょう、きょ?」
何かニュアンスの違う物言いに疑問を覚えるも、そんなキューの心理など意に介さずイルムの右手がその額に何かを素早く書き込んだ。己の血で描いた極小の魔法陣、あとは短く呪文を唱え再度そこに触れるだけで術が発動する。
「────忘却の暗示。仕込みは完了。貴様を連行する」
「れんこう……?」
「そうは行かねえって言っただろ」
二人だけだった屋根の上に更に人の気配が満ちる。劫火に包まれた路地をどうやって移動したのか、後始末役のトーマス、ゴードン、クリスの三人が周囲を取り囲んでいた。
「考えたな。どっちが生き残っても必ず死ぬってんなら、いっそ決闘そのものを最初からご破算にしようって魂胆か。そう簡単にことが運ぶかよ」
「僕らの秘密を知った彼女から記憶を奪えば、確かに僕らが彼女を始末する理由は無くなる。王都の外まで連れて行った後でそれをやられちゃ、僕らに手出しはできないね」
「そんなこと許すとか本気で思ってんのかよ、ええ? 魔道師さまよぉ!!」
「────消すのはキューだけではない。貴様らもだ」
秘密を知った者だけでなく、それを教えた者からも記憶を消す、そうすれば秘密をやり取りした事実そのものが霧消する。記憶を操る術を持つイルムだからこそ取れる第三の選択肢だ。
だがこの状況は既に決闘の名を借りた処刑。イルムが口先小手先でどんな手段を取ろうとも、この場の三人の勇者はそれを認めない。ヒトに仇なす心の無い怪物となったモノを生かしてはおけない。
「面白いな、今ここで俺達とことを構えるかよ。自分の状況よく見ろ、お前が一人の記憶を書き換えている間にあとの二人がお前を殺す。下は火の海、後はそこへ二人もろとも投げ込んで終わりだ! カスも残さず燃え尽きる!」
「君が生き延びる道なんて、精々彼女を見捨てて逃げ去るぐらいだ。君のことだ、どうせ逃亡用の術だってあちこちに仕込んでるんだろう? どうしてそれを使わないんだい?」
「やめなよ、魔道師さまの考えるこたぁ俺らにゃ分かんねえよ。つっても、とっくの昔からヒトじゃねえから当たり前か」
「────我輩が愚かと?」
「だってそうだろが。この街には、いや、さっきの広場にだってこの女を一撃で殺せる術が幾つもあった。その気なら初手で俺達もろとも纏めて始末できたはずだ。解せないな、お前ほどの男がどうしてここまで回りくどいことをする」
「────……」
「黙るなんて珍しいな。何とか言えよ」
「イルム、さん……」
「女にばかり背負わせて、てめえ男として何とか思わねえのかって聞いてんだよ。とっくに気付いてんだよ、てめえはその女を『殺さない』んじゃない、『殺せない』んだってな!」
心を持たぬイルムは常に最適解を導く。それがどれだけ自他に犠牲を強いるものであろうと、最も早く、正確で、効率の良い方法を躊躇なく実行してしまえる。
そんな彼が生まれて初めて、自ら思い描いた数式を外れる行為をしている。この場合の最適解とは言わずもがな、キューを殺して自分だけ逃亡し生き延びることだ。だがそれをしない、出来ない。やれる瞬間などいくらでもあったのに、彼の魔の手はついにキューを仕留めようとはしなかった。最適の道筋が見えているのにそれを選択しない、そんな不合理なことをする理由はたった一つ……。
「てめえを好いている女を殺せるほど、さすがに外道じゃなかったか。皮肉なもんだな、感情を感じられないから自分の中から湧き上がるモノの正体も分からねえで、ずっとそれに振り回されていやがったとはな」
「────我輩に心は無い」
「手頃な女なんてどこにでもいるってぇのに、わざわざ人里離れた山奥に住み着くサイクロプスに会いに行くんだもんな。王都に来てからずっと足繁く通うのは健気なもんだよなぁ〜?」
「わざわざ慣れないプレイボーイの真似事までしてそいつを手篭めにしたのは何でだ? 肉の交わり、快楽を与えることこそ愛だと思い込んだから、そんなことが出来たんじゃねえのか。そりゃ殺せねえよなあ、無自覚でも愛した女と、そいつの腹にてめえのガキが入ってると分かりゃよお!!」
「────彼女も、胎児も不要。だから切り捨てる」
「それも違うな! お前はそいつが怒ったから、傷付いたと思ったから身を引いたんだ。自分の存在がそいつと、そいつのガキにとって悪い影響しかないって分かったから、だからそいつから離れようと突き放したんじゃないのか!」
「例え演技や芝居だったとしても、君自身好きでもない相手に言い寄れるほど芸達者じゃないよね」
「────違う。違う。数式はまだ中途。まだ『愛の存在』を証明していない」
「ちっ! いい加減ウザったいな。そろそろ終わりにしてやれよ……キュー」
この時、イルムは二つの事実を知る。
この舞台が自分を除いて全員グルだったこと。トーマスもゴードンもクリスも、事の成り行きを静観しているエステルとシャムエルも、今この場には居ない残り二人の勇者も、全員が裏で通じていたのだと。
背後でゆらりと動く気配を感じて思わず振り向く。そして同時に二つ目の事実に気付けた。
「イルムさんっ!!!」
「────!」
今まで自分がキューを背中に隠し、まるで守るように彼女の前に立っていたことを。
意識が三人に向いていたイルムはこちらに向かって来るキューに対応できず、その左胸を何かが貫通するのを許してしまった。痛みは無い。肉を貫いたのに痛みは全く無く、血の一滴も出なかった。
そもそもイルムの体を貫いたのは武器ではない。キューが持っていたのは……。
「高かったんだぞ、それ」
「ありがたく……使いました!」
イルムの胸を貫いたのは、周囲の炎を受けて輝く黄金の矢……愛を膨れ上がらせる、キューピッドの矢。極々稀に闇市場に本物が出回ることがあり、その筋の者からトーマスが買い取ったのをキューに譲ったのだ。
愛の神に仕える天使のそれは決して殺傷能力を持たず、貫いた者が持つ愛の感情を激しく燃え上がらせる。膨れ上がった感情が外部へのはけ口を求めてさ迷い、やがては行動でそれを示さずにはいられなくなる。
だがそれが感情を理解できないイルムに対して使うとどうなるか。今までまともに感じたことのない感覚が体内に急速に充満する、それははっきり言って未知。更に頭脳の大半を思考に向ける癖が加わり、今の彼は金縛りにでもあったかのようにぴくりとも動けない。
だがどれだけ考えようと自分の中に湧き上がるそれの正体を自力で解き明かすことは出来ない。全てを極めると豪語した彼が最も知りえないものが自分自身というのは、もはや皮肉を通り越して運命めいたものを感じさせるが、このままでは埒が明かないのも事実だった。
湧き上がる熱い何かに翻弄されている彼を、もうひと押しする必要がある。それを可能とするもうひとつの道具を、キューが取り出した。
「イルムさん……」
「────」
キューピッドの矢は二本、金と鉛で対の矢となる。どちらも結ばれぬ男女を結びつける道具だが、キューはその手に漆黒の矢を強く握り締め、大きく息を吸い込むと……。
「っ!!!」
自らの胸に深く、深く突き立てた。イルムと同じかそれ以上に深く刺さった矢は心臓を貫き、魔道具の持つ効果を余すことなく身に受けることになる。
即ち、愛を枯れさせるのだ。
「あぁ……ああぁ……!」
周りは炎に包まれているのに、キューは身震いする体を抱きかかえてうずくまる。鉛の矢は愛を消し、貫かれた者は半身を失ったような喪失感と孤独感、そして身動きも取れないほどの深い悲しみに襲われる。キューピッドは愛に無自覚な人間にこれを撃つことで愛を自覚させ、本来ならイルムのような人間にこそ撃ち込むべき物である。だがキューは敢えて金の矢を彼に、鉛の矢を自分に突き刺した。彼自身の気持ちを確かめるにはこうするのが一番だったから。
愛を知る健常な者が黒の矢を受けるとどうなるか。流れる血潮は凍りつき、歯はガチガチと震え、もう立っていることも出来なくなる。愛を知らぬ者に自覚を促す矢、愛を知る者が受ければそれは心を侵す病毒となるのは至極当然のことだった。
「さびしい……さびしい……だれかぁ……」
この感覚を、キューは知っていた。両親が死んだ時の悲しみと同じだ。
誰も来ない山の中で一人暮らしていたあの日々……何度もこうやって自分の肩を抱いてベッドの上で泣いて過ごしていた。このまま一人で生き、一人で死んでいくのだと思うと無性に怖くなり、生きていくことに絶望していた。燃え盛る炉を見つめて、いっそここに飛び込めば楽になれるのではと何度も考えていた。
そんな自分を変えてくれる出会いがあった。
「イルム、さぁん……!」
厚顔で、不遜で、無遠慮で、情緒など糞くらえ……そんな彼に、キューはいつも救われていた。山小屋に一人で暮らしていても、彼が会いに来てくれるからと生きる希望を持てた。「ふり」でもいい、その行為が自分に向けられたものならそれでもいい、ここにいる自分を見て欲しかった。
その彼がこんな近くにいるのに、今は遠く感じることしか出来ない。
「どうか……どうかっ!」
この気持ちが勘違いならそれで構わない。だが、もし……もし、同じ気持ちをあなたも持っているのなら、その表し方を知らないと言うのなら……。
「あたしを、見て……? ここにいる、あたしを……!」
どうかここまで来てあたしに触れて欲しい。
この伸ばした手を掴むか離れてしまうまで、キューは彼のそばからどこにも行こうとはしなかった。
イルムは異端者だが、決して異常者ではなかった。
「愛」の存在を、証明したかった。木偶の坊でしかなかった幼き日の自分を産み育てた親がそうだったように、自分に注いでくれたモノが「愛」であると知ったイルムは、その存在を目に見えるものとして証明したかった。
だから子供を作ることにした。かつて両親が自分にそうしたように、天然自然のものとして自身の内側に存在する愛情を我が子に注ぐことでそれを証明しようと思った。そうすることで、自分の中の欠けた部分を補おうと考えた。
だがそれには相手がいる。男と女が交われば出来るもの、だがイルムは正常な思考として「夫婦になるのは好きな者同士」という倫理観を持ち、それを元に動いていた。父も母も、祖父母たちも、それ以前の先祖がそうであったように、子を作るのなら「好き」な相手とと決めていた。
でも自分には「好き」とかそういう感情が分からなかった。「好き」を分からない自分は他に基準とすべきものを持たず、よってイルムは自分から動くことをやめた。適当に見繕って情を交わしても、そこに「愛」は宿らないと知っていたから。「好き」ではない者同士に「愛」は結ばれないと理解していた。
その代わりに、イルムはひとつの誓いを立てた。
もし誰か、自分に好意を向けてくれる女が現れた時には、自分もその女を「好き」になろうと。その時、自分も君のことが「好き」なのだとわかってもらえるように、今の内から感情の動きを学んでおこうと。
彼にとって感情を学ぶことは社会を円滑に生きると同時に、まだ見ぬ将来を添い遂げる相手の為でもあったのだ。
だがそれも過去の話。感情が分からぬ不気味な男に好き好んで寄り付く女はおらず、イルムは程なく現実を見据え甘い考えを捨て去った。彼は自分を「好き」になってくれる者も、自分が誰かを「好き」になることも決してないと諦めたのだ。
そんな時、彼はキューと出会った。
片やハリボテの感情で装う変人と、片や人目を避けて山奥で暮らす女。互いに理解者を持たないからこそ、イルムは彼女の心が自分に向くであろうことを予測し、結果はまさにその通りになった。
彼女は自分を「好き」でいてくれる。自分も彼女を「好き」になれば夫婦になれる。夫婦の間に子供が生まれれば、自分は愛を証明できる。子供の頃思い描いた計画を実行に移す時が来たのだ、そうイルムは確信し彼女と添い遂げようとした。
でも彼女は自分のせいでひどく「傷付いた」。何がどう悪かったのかなんて分からなかった、自分には感情が分からないから。でも、誰かを傷つけるのは悪いことだと子供のように自覚していたからこそ、彼はキューから離れることを決めた。彼女を「傷付け」てしまった以上、自分は彼女の夫を、その胎の子の父を名乗れないということを漠然と受け入れたのだ。
もしイルムが感情を表に出せる人間だったなら、同じ行動をしていてもここまで話は拗れなかっただろう。全ては彼のハリボテのココロと、そこから飛び出すツギハギの感情が招いた結果だったのだ。
それを自覚しているからこそ、金の矢を受けた今も彼の足は根が生えたように動かない。自分が近づけばキューは「傷付く」と知っているから、そこから動こうとしない。「好き」になると決意したからこそ、「傷付け」たくなかった……という、いかにもお涙頂戴な人間のふりをしているに過ぎないのだ。
だが、キューは今泣いている。
求めているのだ……腹も減っていない赤ん坊が母を求めて泣くように、この木偶人形でしかない我が身の、あるかどうかすら疑わしい「愛」を。
無謬の胸中に小波立つ葛藤が足を止めたまま動けない。燃え盛る周囲の炎とキューのすすり泣く声だけが時間の流れを雄弁に物語っていた。
そして、時間は残酷だった。
火災によって家の中の可燃物が燃焼し続けると空気が汚れ、ある一定のラインでそれらが外に吹き出す現象が起こる。今イルム達が立っている民家も既に内部は様々な物体が燃え、熱と空気膨張で外側との境界線である窓が破裂するのも時間の問題だった。
そしてそれが遂に訪れた。
「のぉ!!」
「こ、りゃあいけねえや!!」
ドォムッ、という大太鼓を百台一斉に叩き鳴らしたような轟音の後、民家の屋根が揺れ動いた。立っている斜面もあってまるで噴火中の火山地帯の如き鳴動っぷりに、居合わせた全員が姿勢を維持できずに膝を突く。家そのものが崩れるにはまだ少し余裕があるはずだと、周囲を確認すると……。
「ぁ……っ」
揺れをまともに受けたキューの体が浮き上がり、慌てて立とうとする。だがその拍子にバランスを崩し……彼女は背中から倒れる。もう体勢を立て直すことは出来ない。
「っ……」
全てがゆっくりに動いている。炎も、風に舞う木の葉も、そして……炎の海に身を投げ入れるキューも、皆全てがスローに見える。
消える。
消えてしまう。
何が?
己の「愛」、やっと形を得られた「愛」がか?
今ここで彼女が骨まで灰になるのを見ても、きっと己は揺れ動かない。「ああ、そうか」で済ませてしまうことだろう。
だって自分には心が無いから、感情が無いから。
────違うだろ、そうじゃないだろ!
感じるとか感じないとか、心が在る無しとか、そんなエセ哲学やお題目なんて今はどうでもいいだろ。
動け。
動くんだ。
言葉でも表情でもない、この心の臓から湧き上がる熱い衝動を表すのは行動だけだ。
それがどんな言葉や顔より、どんな感情の機微でさえ置き去りにして相手に示すことだってあるのだ。
沸き立て、そしてその行動で伝えろ!
簡単じゃないか。いつもその口で喋くっていたように、今ここで伝えろ。
たった二つの大事なことを!
「────死ぬな」
右手を伸ばす。後一歩、届きそうにない。
諦めるものかよ。
やっと得られた自分の「愛」。目には見えず、触れられないが、ここに確かに存在しているモノ。失ってしまえば、二度と得られない大切なモノ。
「ずっと、我輩のそばにいてほしい」
伸ばされる手は二つ。繋がり合えば少し遠くでも触れ合っていられる。その手の間に存在するのは単なる熱を持った空気ではなく、それこそきっと極小単位の「愛」なのだろう。
抱き寄せて重なる二つの影。
「きっと、これからも貴様は傷付く。この手を振り払えば、あの日に死んでしまえば良かったと後悔する日が来るであろう。それでも、共にいてくれるであるか。この胸の熱が何であるかが分かるまで、分かってからも……我輩の妻でいてくれるだろうか?」
「あたしも、あなたを試そうとしたから……あなたの心が分からなかったから、分かろうとしなかったから……。あたしは結局……わがまま言って、イルムさんを困らせていただけなんだよね……。こんな、自分勝手なあたしだけど……一緒にいてくれますか? 『この子』のお父さんでいてくれますか?」
「貴様がそう望むなら……」
「あたしの望みとかじゃないの。あなたの、イルムさんの言葉で聞かせて?」
「先の事など分からんのである。ただ……今は貴様をこうして抱いていたい、離したくないと思う。それが答えではいけないか?」
「……はい!」
他人のことなど分からない。自分の事だって分からないことだらけだ。きっとこれから先二人の道がどうなるのかも、誰にも分からない。
いや、唯一つキューには確信があった。
自分はきっと、今日この日を後悔はしないだろうと。
互いを貫いていた矢は、もう消えていた。
「やっと終わっただか。人騒がせな人だべまったくよ」
「金にならないことはしない主義だ。もう金輪際こんな馬鹿げたことに手は貸さん」
「って割には結構ノリノリだったね。何だかんだで熱くなってたでしょ、トーマス。昔の自分と重ねちゃったかな」
「フン! ああいう煮え切らない奴が嫌いなだけだ。重ねて見ることにも吐き気を覚える」
「それにしたって、よく『騎士さま』がお許しになっただな。魔物に俺っちらの正体バラしたまんまで良かっただか?」
「いいんじゃないかな。『団長』もそろそろ分かってるんだよ、僕ら七人がそろそろ用無しになるってことをさ」
「んじゃ今のうちから再就職先探さねーと。若社長、ちょいと俺っちを雇う気は……」
「身投げでもしてろ。じゃあな」
「あー、行っちまった。しゃあねえ、俺っちも帰るだよ」
「ていうかこの焼け跡どうするのさ。大惨事じゃないか」
第三の勇者は素の自分をさらけ出してドン引きされ、第四の勇者は外面を盛りすぎてドン引かれた。勇者ってのは揃いも揃って恋愛下手で困るよなあ。
それが可愛いって魔物娘にゃ評判なんだがね。
とまあ、今回は珍しく他の勇者が手を組んで仲間に一杯食わせてやったって話だ。
件の勇者の行方は容として知れねえ。街を焼いた大罪人として処刑されたとも、自ら炎に突っ込んだとも言われちゃいるが、一応このお話ではサイクロプス共々生き残ったことになってる。ハッピーエンドじゃないと芝居屋は儲からないんだよ……。
なんか今日はいつもと毛色が違ったせいか、最後まで残ってた客も少ないな。今日はこれでお開き〜……っと、そこのお前さん! 連れてる馬の足見せてくれよ。
あちゃー、こりゃいけねえ。最後に蹄鉄変えたのはいつの話だい? 早いとこ替えないと馬の足がオシャカになるぜ。
すぐそこで金物を売ってる店がある。包丁、ハサミ、ナタ、斧、鎌、刃物なら何でもござれな店で、もちろん蹄鉄も売ってるぜ。
そこの店長は世間一般で言うところの変人なんだがな、売ってる品物は一流よ! 山奥のサイクロプスが鎚を振るってこさえた物を、旦那であるそいつがここまで来て売ってるんだとよ!
聞いた話じゃ最近二人目が産まれるってよ。娘が父親に似なきゃいいんだがって皆言ってるぜ。
男はレスカティエ教国の領地に住まう、移動しながら暮らしを立てる部族の出身である。
幼少を部族と共に移動しながら育ち、十代の頃に教国の中央を目指して旅立ち、様々な人物に師事し魔術師になった。
──以上である。
もしかしてこの物語を見聞きしている者は、男のことを勘違いしているのではないだろうか。
今までここで語る機会のあった三人の勇者、彼らと同じような悲しい過去があると勝手に邪推していないだろうか。
大切な人を亡くした。
語るも辛い出来事があった。
肉親に愛されずに育った。
そんな分かり易い、後天的な理由となるものは男の人生において何一つ存在していない。
真の異端とは、過去に何のきっかけも無く既に歪んでいるもの。鳥が空を飛び、魚が水を泳ぐのと同様のこと。異端は、異端であるが故に、異端に生まれついたのだ。後付けではない純粋培養、時としてこういう存在が生まれてしまうのが人の世である。
しかして、全く理由が無いわけでもない。男が自らの異常性を自覚したのは、まだ部族で生活していた幼少の頃だった。
新しい命が生まれた。喜ばしい。
大切な物を壊された。腹立たしい。
家族が亡くなった。悲しい。
季節の儀式を行った。楽しい。
「何だそれは」
男には、感情と呼べるモノが一切無かった。
周囲の人々や環境の変化に対し、男は常に冷淡だった。ただ現象として起きたことをありのままに捉え、吟味、理解し、それで終わり……それが男の頭の中だった。精神の強弱ではなく、そもそもの土台、精神を司る心がそっくりそのまま抜け落ちているのだ。
仮に見ず知らずの人間に殴られたとしよう。普通ならその瞬間や、殴られた部分に感じる痛みなどに対し「恐怖」し、殴った相手に理不尽を覚え「怒る」というのが通常の反応だ。
だが男は何も感じない。ただ相手に殴られ、痛みが残留している、ただそれだけの事でしかない。「恐怖」も「怒り」も「憎しみ」も、男の心には何も起こらない。心そのものが無いのだから当然だ。
代わりに湧き上がるのが「疑問」。
「どうして殴られた」
感情に翻弄されない分、男は自分の思考全てを疑問を解消することに費やせた。自分の立場、相手の立場、そこに至るまでの経緯、相手がそんな行動に出た理由……それら全てを突き止めることに成功した時、男は己の異常性を自覚する。
「そうか、自分には心が無いのか」
得心すると同時に、男は身の振り方を改めた。全てを冷静に俯瞰して見られる男の頭脳は、集団の中の異端がどれだけ爪弾きにされるかを知っていた。自己保存の本能に従い、男は集団に溶け込むことを余儀なくされたのだ。
それは、肉を食べるライオンに草食を強要するようなもの。最初から異端として生まれているから、矯正すべき箇所など初めから存在していないのだ。
だがそれならそれで簡単だった。正常になる必要など無い、正常である「ふり」をしていれば良いのだ。
それから男の趣味は「観察」になった。来る日も来る日も同じ空間に住む他人の所作を事細かに観察し、どんな時にどう返し、どんな状況でどう動くのか、それら全てを赤ん坊が親の言葉を覚えるかのように吸収していった。それと同時に自分をまともに見せる為の言動を学び、それを自然にこなす為の演技も身に付けた。生まれが違えば男は芝居小屋のスターにもなれただろう。
いつしか観察行動で身に付けた感情の動きは男の素の性格となり、受け答えは元からそうであったような自然さで振る舞えるようにまで成長した。周囲の人間から取捨選択して得た人格を全身に馴染ませ、もはや演じる必要すら無くなったのだ。
代わりに思考する時間が増えた。湧き出る疑問を解消し続ける日々が続き、それら全てに解答を求めた。
風が吹き、水が流れ、火が燃え、土が盛る……それら全ての些細なことですら解を得ずにはいられないほど、男は次第に知識と好奇心の塊になっていった。自分の周囲にそれらの疑問の種となる存在が無くなった時、男は生まれ育った地を離れた。
最初は学士の端くれとして教国の内部に入り込んだ。国中の図書館の蔵書を無造作に読み漁り、様々な方面の知識を無差別に吸収していった。男の好奇心が錬金術や魔術という外法の類に向けられるのもすぐの事だった。
この世にはまだ己の知らない事柄が満ちている。探し、調べ、解き明かす、それが己に課せられた使命だとでも言うように、男は持ち得た知識を纏って魔女とバフォメットが乱れ合うサバトへ何度も足を運んだ。彼女らから魔道の知識を得られれば更なる見識を持てると期待して。
実際のサバトや黒ミサはただの乱交会であり、男が求めるような知識はほとんど入手できなかった。男と女が激しく交わりを繰り返す肉の祭典、その光景は男にとって何の知的刺激にもならなかった。
だが、気になったことがひとつあった。交わる男女が口々にこう言うのだ。
「愛してる」、と。
愛とは……何だ?
人間観察をしていた時代、全ての感情を目の当たりにして学習したはずだった。喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ……それら全てを吸収し、己の下地に変えてきたはずだった。
だが愛とは何ぞや? 皆が口々にそれを睦言にするのに対し、とっくの昔に捨て去ったはずの感情への好奇心が男の中で再燃した。
その後自分なりに調べて分かったことがある。
愛とは、喜びであり、怒りであり、悲しみであり、憎しみであり、時に恐怖である……全ての感情の根源に座すモノ、それが「愛」。
「それでは何の証明にもならない」
証明するならば目に見え、耳に聞こえ、鼻で嗅げなければならないはずだ。誰も実物を見ない以上、いくらその存在を主張してもそれは空想幻想と何ら変わりない。妄想狂の戯言と同列のはずなのに、人はそれが確かに存在するという。
ならどこに? どうやって? 確たる元素や要素としてこの世に存在していると言うのなら、それを確かめる術とは何だ?
男が第三の勇者と違うのは、男自身は愛の存在を知っているということだ。ジーンではなくミームとして人々の間に存在する無形の概念、それが「愛」。男はそれを有形の世界に引きずり出したかったのだ。
悩み、調べ、研究し……男は生まれて初めて、その言葉を口にした。
「理解不能」
男が勇者に列せられ、単眼の少女と出会うのは、この五年後のことである。
鍛冶は根気の仕事である。硬い鉄をカンカンに灼けるまで熱し続け、次はそれを何度も何度も叩いて伸ばし、また熱し、また伸ばし……これの繰り返しである。素人が見よう見まねの一朝一夕で成せる業ではなく、物作りならではの職人芸が物を言う世界だ。
炉の温度を見極めるのに三年、鉄を思った形に鍛えるのに更に三年、仕上げとなる水の温度を知るのにそのまた三年と、非常に長い修行を経てやっと一人前になれる。そうして鍛えた腕で作られた鋼は何よりも硬く、柔軟で、そして長持ちするのだ。
サイクロプスは鍛冶を行うのに適した種族だ。大きな眼球が有する視力は炉の内部や灼けた鉄の細部まで見通し、激しい熱と光を正面から見据えても何ともないくらい丈夫なのだ。多少の傷などものともしない手から放たれる剛力は、どんな密度の高く硬度に優れた金属でさえ型にはめたように鍛えてしまう。彼女らの始祖は鍛冶の神に師事していたと言われているのも頷ける話だ。
この日、キューは村人が使う農具を作っていた。秋の刈り入れ時に備えて今のうちから刈り取り用の鎌を作成している。
分厚い金属の棒を熱し、それに大まかな反りをつけて更に熱し、それを何度も繰り返してようやく見慣れた三日月の形になる。刃として機能するまで薄く研ぎ、薬液に浸し再び熱した物を水に付けて完成するのだが……。
「……ダメ、こんなの……」
職人の端くれとして一切の妥協は許さない、その姿勢は立派なのだが……放り投げた先には同じ失敗作の烙印を押された鎌が幾つも転がり、彼女が不調であることを物語っていた。
鋳潰して再利用するにしても、この精神状況では納得のいく物など作れない。それを自覚した彼女は早々に作業を切り上げて自室に引きこもった。
不調の原因など分かっている。
「…………イルム、さん」
既に家を離れ王都に戻った男の顔を思い浮かべながら、腹をさする。見かけ上の目立った変化はないが、やはりあの時に「命中」していたのか、日に日に自分の腹部に違和感を覚えさせられる。
一ヶ月ごとに様子を見に来る、そう言い残して彼は去っていった。あの様子だと出産まで立ち会うつもりだろう。本来なら我が子の誕生に父が立ち会う感動の場面なのだろうが……。
「……かわいそうな子……」
彼にとっては血を引いた我が子も、今までの数有る依頼のひとつでしかないのか。
こんな武器が欲しい、作れ。
愛の存在を証明したい、孕め。
子を成すとは、結ばれるとは、物を作るよりもずっと軽いものだったのか。
いっそ堕ろすことさえ考えた。だが生まれる子に罪はないことを思えば、その決断は首を引っ込めた。仮に堕ろしたところで彼はきっと次を望むだろう。
ああ、それはまるで……。
「……失敗したら、次を作る……。あたしと、同じだね」
とんだ似た者夫婦だ。すぐにそんな考えに至れる自分に吐き気を催す。
ふと、ドアを叩く音が聞こえる。
村人ではない。とすると、依頼客だろうか。
「キュー、いるなら返事をしろ!」
「ア、アマナ……さん!?」
家の外で待ち構えていたのは、立派な胴をぶるんと揺らしてこちらを呼ぶケンタウロスのアマナ。長距離を移動して荷物を届ける運送業をしており、時折こうして通りがかったついでに会いに来る昔からの知り合いだ。
「む? 何やら顔色が悪いな! いかん、いかんぞそんなことでは! 鍛冶職人は体力勝負だろう、精を付けておけよぉ!!」
「アマナさん、相変わらず元気ですね」
「体が資本だからな! はーはっはっはっはっは!!」
久しぶりに会ったので茶飲み話でもと中へ誘い、気分転換に仕事先であったことや王都での話も聞くことにした。彼女の勤務先は王都にある。
アマナとは古い付き合いで、キューの母が彼女のために蹄鉄を打ったのが始まりだ。長距離を駆け抜けるアマナの足はそれを保護する蹄鉄が欠かせず、品質が良いと言っては贔屓にしてもらっている。
「社長さんがお亡くなりに! だ、大丈夫なの?」
「恨みを買うような方ではなかったのだがな……。経営者不在、それに伴う経営不振で一時は買収されそうになったのだが、運良く融資にありつけた。融資を引き受けた刑部狸が各方面から、ええと『すぽんさあ』? ……を募ってくれたよ。おかげで今は代理を立てて経営を続けている。金貸しなど信用できんと思っていたが、昔の自分は随分見識が狭かったようだ!」
「そうなんだ……。よかったですね」
「ああ! そう言えば、経営が立て直ると同時に珍しい御人が訪問されたんだ! どなただと思う? なんとっ、然る国の大使殿が来られたのだ! 魔物娘と人間との共存に我々の会社が良い見本になると仰られてなあ!!」
「すごいね!?」
「名前はなんだったかな。ええと確か……クリス、だったか」
「クリス…………」
出てきた人名にキューの琴線が触れる。どこかで聞いた名前、記憶の片隅に眠るそれを引っ張り出そうとこめかみを指で押さえながら長考し……。
思い出す。
「イルムさんが言ってた……」
偶然か? そんな有り触れた名前、全くの赤の他人の可能性の方がずっと高い。
膨らみかけた疑問が萎み、そのまま流れそうになったが……。
「ゴーレムの従者をつけていてな、少しでも大使殿に色目を使うとあの氷のような視線が突き刺さって……」
「ゴー、レム?」
記憶に引っかかるもう一つのワード。確か昔イルムがゴーレムを創造すると言って、何かいい案が無いか聞いてきたことがあった。まさかこれも偶然か。
いや、二度続いたことを偶然とは思えない。きっとその男性とイルムには何かつながりがあると確信した。
根拠は?
女の勘、それで充分だ。
「アマナさん!! これから王都に戻るんですよね!?」
「あ、ああ。荷物も届け終わったし、寝ずに走れば四日もあれば帰れ……」
「あたしも……あたしも、連れて行ってください!!」
「はあ? いやでもお前、仕事の方は……」
「お仕事より大事なことだってあるんです! お金も払いますから、お願いします!!」
いつになく押しの強いキューに押されて、アマナは無言で首を上下に降るしかなかった。
アマナ自身が引く小型の荷馬車に揺られること四日、道中大した出来事も無くキューは王都に到着した。
初めて訪れる王都は田舎とはどこまでも対照的に喧騒が満ち溢れ、街の住人の活気を物語る。それらを呆然と見つめながら、自分って意外と後先考えないのではと今更自覚したキューだった。
街に入って早速周囲の人々からの視線が痛い。田舎者の格好をしているから……ではなく、やはり持ち前の顔が珍しいのだとすぐに分かった。単眼は同じ魔物娘の間でも異形の扱い、ましてや人間たちにとっては奇っ怪なモノでしかないだろう。
人目を忍ぶように俯きながら王都の中央を目指した。件の男は大使館、政治家が集う区画に住むと聞いたのでまずはそこまで行くことが目標だ。
だが……。
「と、遠いよぉ……」
王都の入口から王宮が見える辺りの中央まで行くには相当な距離を歩かねばならない。普段からあまり長距離を移動せず、山に入るのも仕掛けた罠を片付ける時ぐらいのキューにとって、地平線まで続くような大通りは目もくらむ距離だった。鍛冶仕事で体力は鍛えていたと思っていたが、どうやらそれは上半身限定だったようだ。
そう言えば風呂場の一件も先にギブアップしたのはこっちだったっけ、と思い出す。目覚めると寝室のベッドで、イルムは例の野営設備で寝泊りしていた。気絶している間に運んでくれたのかと思うと純粋に嬉しく思ってしまうあたり、自分は手の施しようがないくらい単純なのかもしれない。
一時間ほど頑張って歩いてみたが一向に目的地に近付く気配が無く、遂にキューは疲労でバテてしまう。
「も……ダメ……」
道の脇に逸れて民家の軒先の影に腰を下ろす。持ってきた皮袋に蓄えた水を一口飲み、ほっと一息つく。少し風に当たって熱くなった体を冷やしてから歩こう……そう思いながら、何故か重くなる目蓋に誘われる眠気。
少しだけ、そう思って目を閉じそうになる。
「おい! あんた、起きろ!」
「ふぁい!?」
突然頭の上から響いた声に顔を上げると、厳ついナリの男がこちらを見下ろしていた。
「困るんだよなあ、こんなとこで休まれるとよ! 店開く邪魔じゃねえかよ!」
「す、すみません! 今すぐ、どきますから……って、あ!」
急いで立ち上がった瞬間、視界が揺らぎ平衡感覚を失い地面に倒れ伏しそうになった。立ちくらみ、と気付いた時にはもう遅く、地面と激突する前に固く目を閉じる。
「よっと!」
しかし、それを受け止めてくれた者がいた。ふんわりとした感触は衣服ではなく、獣の毛、獣人に属する魔物娘の腕だった。
「アヤの姐さん……!」
「田舎のおぼこい嬢ちゃんイジメるんは趣味が悪いなぁ〜? えぇ?」
キューを支えたのは金貸し刑部狸のアヤ。大通りの商人全員から恐れられている彼女に、男の方もたじろぐ。
「商売の邪魔? アホ言うとったらアカンで、そこの小道が見えんのか。露店出したらアカン公道やろ、ここは! 疲れてちょいと一休みするんの何が悪いんや! 言うてみぃ!」
「めめ、滅相もありやせん! こっちの勘違いでした!」
最初の威勢はどこへやら、男はそそくさと去っていった。事の成り行きを見ていた野次馬も面白いことが無くなるとそれぞれ戻っていった。
「サイクロプスなんて珍しいからね。ああやってイチャモンつける輩がおるんよ」
「あの……ありがとう、ございました」
「ええて、ええて! 気にせんといて! ……うん? あんたぁ、ちょいと……」
「ふぇ、あ、あの……なんですか?」
突然体の匂いを嗅がれてキューが固く身構える。
「おい、貴様……白昼堂々何をしている」
「あっ! トーマスさん! ちょうどええとこへ来たわ、この子なぁ……妊娠しとるよ」
「え、分かるんですか!?」
「体質とか変わるからなぁ。あんた見やん顔やけど、どっから来たん?」
「えと、ここから離れた山奥で、その、鍛治屋を……」
「鍛冶屋? お前ひょっとして、キューか?」
「トーマスさんお知り合い?」
「俺の知り合いの、知り合いだ。名前ぐらいは教えただろ、イルムの連れだよ」
「あぁ、イルムさんのなぁ」
「イルムさん? いま、イルムって……!?」
「まさかとは思うが、その腹の相手は……」
「は、はい……」
俯くような頷きの後、キューはここに来るまでの経緯を掻い摘んで説明した。もちろん、あの夜の事の詳細は伏せたが。
全てを話し終えた時、トーマスとアヤは惜しみない同情の念を覚えていた。
「野良犬に手を噛まれたと思って諦めろ。あれの考えることは分からん、分かろうとするだけ無駄だ」
「なんかもう、ただただ、ご愁傷様やね。困ったことあったら言うてな? 幾らでも用立てたるわ」
「あの人そんなダメな人なんですかっ!?」
「駄目というより……なあ?」
「直接会うたことあらへんけど、話し聞いとる限りでは相当アレな人やね」
「説明一言、『変人』で完了する相手だ。お前があいつの何を聞きたくてこんな所まで来たのかは知らんが、お前自身が感じた事が全てだよ。あれはそういう生き物だ、その行動に理由を求めるだけ本当に無駄だよ」
外部の協力者であるキューはイルムが勇者であることなどもちろん知らぬが、本来知人であるはずのトーマスにここまで言われることに少なからずショックを受けていた。それと同時に最も多く接していたはずの自分が彼の事を何も知らないという事実を再確認させられた。
「それにしても知り合いかもしれないという理由だけで一国の大使に会おうとはな。そんな回りくどくせず、本人に直接会えばいい」
「なんだか、会い辛くて……」
「住処は知っている。顔だけ見てから帰るのでもいいだろ」
「…………」
沈黙を肯定と受け取り、身篭っているキューに気を遣い道々に休憩を挟みながら三人で王都の外れにあるイルムの地下研究室の手前まで移動した。幸か不幸かイルムは在宅していたが……。
「ここから先は入れない」
家の前で通せんぼしたのは、イルムが創りし土人形、エステルであった。
「何故お前が止める?」
「わたしは調整で来ただけ。あの人は今から作業中。こっちからいくら話しかけても返ってこない」
「何か作ってるん?」
「ええ、まあ。あの人は何をしたいかよく分かりませんが、訊ねたら答えてくれました。大きなガラス瓶を作っていましたが」
「ガラス瓶……?」
何だろう、嫌な予感がする。そこから先を聞いてはいけないと、全身の毛がゾワゾワと逆立ち寒気を覚える。心臓の鼓動が内側から鼓膜を打ち、喉の奥がカラカラに乾き息をするのも痛く感じてしまう。
「それって……なにに、使うんですか?」
「はい。なんでも……」
「子供を容れておくのだとか」
キューの中で何かが壊れた。
「──っう!!」
腹が、今や自分だけのものではなくなった腹部が、腸をズタズタに引き裂かれたような痛みを感じる。その鈍痛は腹部だけに留まらず、不快感はその重苦しさに反して激しい勢いでせり上がり……。
「うぅ、げぇっ、ぇええええぇぇぇぇーッ!!!」
消化器官に蓄えていたモノ全てを吐き出させた。
激しく律動する胃は意思一つで止められず、やがて胃液も全て吐き出した後、キューの意識は闇に呑まれた。
「───……ここは?」
回復した時は夕方で、どこかの病院の一室のようだった。少し消毒の臭いが鼻を突く。
「気分はどうですか?」
看護師がそっと声をかけてくる。
「だいぶ、楽です。ありがとうございます」
「妊娠期間中は魔物でも体調管理に気をつけてくださいね? お腹の子にも響きますから」
「……はい」
「それと、あなたがこちらに運び込まれてからずっと面会の方がお見えになっています。お通ししますね」
「面会、ですか?」
「ええ」
看護師がドアを開けるとそこには、今最も会いたくない相手がいた。
「やあ、キュー。倒れたと聞いて駆けつけてやったのである」
つい数日前に見た時と全く同じ笑顔で、イルムが会いに来ていた。手には土産の品の果物を籠一杯に持っており、いかにも見舞いに来たと言う格好だ。穴蔵からわざわざ作業とやらを中断して来てくれたのだろうが、今のキューはその事を嬉しくもなんとも思わない。
「……なんですか」
「ふむ、妊娠期間中は些細な事でもすぐ怒るというが、なるほど、今の貴様はどこか不機嫌そうであるな。妻を慮るも夫の役目、不満があればこの我輩に言ってみよ!」
「あなたは……あなたは、あたしの夫でも、この子の親でも、ありません」
「ふはっ! 不思議なことを言うな。我輩は貴様に種を注ぎ、身篭ったその瞬間を見届けている。その腹の下にいるのは紛うことなく、貴様と我輩の子。であれば孕ませた我輩が夫であり父というのは自明の理であろう。我輩、何か間違ったことを言っているであるか?」
「……ならどうしてっ、あたしからこの子を取り上げるようなことを……」
「うん? ああ、人造母胎のことであるか。錬金術の人造人間法より着想を得た我輩の新発明である。妊娠三ヶ月で貴様の胎より胎児を取り出し、その中に移し替える。成長に必要な栄養分は全て外部から供給し……」
「あたしとこの子はあなたの道具じゃない!!」
怒りに任せて振るわれたキューの拳が壁を叩き、巨人族の剛力をまともに受けて一面に亀裂が走る。キュー自身、ここまで怒りに体が支配されたことは一度もなかった。だが虚ろな目で心にもないことを言ってのけるこの男を前に、もはやキューは平常心を保っていられない。
「誤解である、愛する妻の貴様に負担を掛けまいとだな……」
「負担と思うなら……そこまで分かるのに、どうしてあたしに……!」
「貴様が一番身近な適合者だったからである。我輩の目的は『愛の存在証明』、我輩を好いている女に我輩の子を産ませることが出来れば、それは即ち愛の実在を証明することへの第一歩になるはず。貴様は我輩を好いていた、ならばそうすることに何の不満がある? 極々普通の家庭に起こりうる夫婦の営みではないか」
「イルムさんは……あたしを愛してなんかいない」
「愛している、愛しているとも。好きでもない相手に契りを結ぶか? 愛してもない相手に我が子を産めと言えるか? ふふふ、長話で喉が乾いたであろう? リンゴの皮を剥いてやるのである」
話を強引に変えたいのか見舞いの品々からリンゴを取り出すイルム。
しかし、彼が皮を剥くことはなかった。キューの手が先にナイフを取ったからだ
「何をするのである! 危ないだろう、早く返すのである!」
「っ!!」
凶器を取り上げようとするイルムに対し、そのナイフを振り上げたキューはその切っ先を彼に向けて降ろし……。
「ほら……やっぱり」
「────」
ナイフを振った速度はたいして早くはなかった。健常な相手であればすぐさま回避できる速さ、だがそれが顔面に向かって飛んでくれば誰でも命の危機に過剰な反応を返すのが普通だ。驚愕に目を見開き、恐怖に慄き、怒りに震える、それが普通、在るべき反応。
だがイルムは、違っていた。
「────損傷、軽微。修復可能範囲。修復を開始」
顔面に向かって振り下ろされたそれを、避けるでも叩き落とすでもなく、その軌道上に手を差し出して受け止めた。当然刃は掌の肉を貫通し、無造作に引っこ抜いたその傷を魔術で治癒すると、傷跡すら残さず完治していた。
仮に、どんな傷を負っても瞬く間に治る不死の体を手に入れたとして、高所から投身できるか? 両目に釘を打てるか? 腕を切り落とせるか? 劫火の中に突っ込めるか?
絶対に出来ない。目の前に拳が飛んできただけで反射的に目を閉じるのに、それ以上の痛みがあると分かっていてそれを実践できる者などいない。魔術で完全治癒できると分かっていても、何の躊躇いもなく素手で刃を受け止め、あまつさえ平然としているなど普通は絶対に無理である。心を持っている人間には不可能なのだ。
「喜ぶふり、怒るふり、悲しむふり、楽しむふり……愛しているふり。全部演技、嘘だったの」
「────問題ない。全て計算通り」
「何が……。あたしはぁっ! あなたの思い描いた数式を解く道具じゃない!!」
「────否、道具だ。数式を解くための道具」
もはや隠すことさえしない。今ここで受け答えしているのは、人形だ。ヒトの姿形をした人形、寄せ集めた言葉を組み合わせ、あたかも心があるよう振舞う人形。それが遂に人間を真似ることすら放棄した。イルムという男の真実の姿がだ。
「もし……もし、ここであたしが、死ぬって言ったら……」
「────否定はしない。代わりを探す。────お前の価値は、ゼロ。ゼロ、無意味、無価値」
オウムが覚えた言葉を連呼するが如く、拾い集めた全ての感情を削ぎ落とし原初の姿に立ち返ったイルム。もはやその目には何も見えない、見る必要すら無い。これまでに得た感情の贋作は人間社会をスムーズに生きる為のハリボテに過ぎない。
万象総てを数式に見立て解を得るためだけに動く人型の計算機、それがこの男の本質。そこに感情という不確定要素はただのノイズ、邪魔なのだ。今回の研究にはそう振舞うことが必要だったからそうしただけで、そうする意味の無くなったキューに対してはそうするだけの価値が一片とて存在していない。
「…………」
イルムの居なくなった部屋でキューはシーツを握り締めたまま微動だにしない。その表情は陰に隠れ容として知れない。怒りも、悲しみも、憎しみも……彼女もまた全ての感情、心の揺らぎを喪失しつつあった。
やがて日が落ち、闇夜になり、星が瞬き、天頂に月が輝き出す頃……。
「ッ!!」
キューは動き出した。
「────これは何だ」
草木も眠る丑三つ時、イルムが来たのは街にいくつか設けられた噴水広場。既に人通りはなく、水が静々と流れ風が吹く音色だけが奏でられていた。
彼は呼び出しを受けてここにいる。七人の勇者がそれぞれ連絡用に用いる伝書鳩、それが運んできた密書に従い緊急会議があると聞いてこの場に召集されたはずだが……。
「────エステルとシャムエルが同席する理由を述べよ」
会議は基本的に勇者のみで行い、決して部外者は立ち入らせない。だがここにはイルムを合わせ、都合「八人」の存在が確認できた。
まずは呼び出されたイルムと、何故か広場に居合わせているエステルとシャムエル。
「鈍いな。これは会議でも何でもない。まだ気付かないか」
「存外頭の回転遅ぇんだなぁ。えぇ? 魔道師さまよぉ!」
「早いところ終わらせてくれないかな。僕はこの後エステルと深夜デートなんだ」
そして同じ裏方を担当しているトーマス、ゴードン、クリス。これで顔が見えるのが六人。全員物々しい雰囲気でトーマスとクリスは洗礼の儀式に一度着ただけの騎士の装備に身を包み、ゴードンに至っては滅多に見せない狂信者モードになっている。
「────再度問う。これは何だ」
「見て分かんねえのか。まあ、無理もないな、てめえは経験するのは初めてだもんな……『異端審問』。そこの二人は教会の代理役、まあ見届け人ってところだ」
「────意味不明。教会の指示には反していない」
「そうは問屋が卸さねぇ。あんたは教会の許す範囲内で動いてたつもりだろうがなぁ……あんたは、ヒトとして『やっちゃいけねぇこと』をした」
「君にかけられた嫌疑は唯一つ、『婦女子を惑わし乱りに関係を持ち、その心を踏み躙った』だよ。姦通と強姦は死罪に相当するって、知ってた?」
「────キューは魔物。よってヒトの法の適用外」
「だから? 要は俺らがてめぇを気に食わねぇって事なんだよぉ!」
「────七人の意志決定権は……」
「君には見えていないだろうけど、この場は『団長』と『小熊』も見てるよ。不在の一人を除き、ここは僕らの総意でお膳立てされている」
この場には、七人の内六人が集っている。つまり、完全に他の五人がイルムを始末するという合意の上でなければ決して成り立たない舞台。異端者を抹殺する刑場へまんまと引きずり出されたのだ。
顔が見えている三人が本気であることは、心を持たぬイルムにも分かった。彼らは本気で自分を始末する気でいる。
「お前はどちらにせよ人でなしだ。処分の理由は後付けでいくらでも用意できる」
「────教会はこの事態を容認しない」
「安心しろってぇ、俺らが殺すのはてめぇじゃねぇよ。後ろ見てみ」
「────」
背後を振り向き見えるもの、それはこの場の全てを仕組んだ存在。
「彼女に相談され、僕らがこの話を持ち掛け、それに彼女も乗った。それだけのことだよ」
「そいつがお前を殺し、俺らが勇者殺しとしてそいつを殺す。それで丸く収まるって話だ」
「嬢ちゃんにゃ、俺らの事は全て話した」
「────キュー」
愛を知るために利用し、そして無価値と切って捨てた少女、サイクロプスの独眼がイルムを貫いている。手には自らが鍛えたのか、スラリと伸びた剣が握られており、魔力を一切感じないことからそれが魔界銀ではなく従来の鉄を使った物だと分かる。斬るのはもちろん、魔力ではなく生身の肉体。
つまり、彼女は自分を殺すつもりだと理解する。
「君には彼女を返り討ちにする権利がある。だけど行使した場合、『無辜の民に危害を加えた』として僕らが君を殺す」
「てめぇがこの場を逃げ出せば、『教会の命令に背いた背信者』として俺らが始末する」
「要するに詰んでんだよ、お前は。心中するほど魔物をキレさせた男として、歴史の教科書に永遠に残るぜお前」
「────何故勇者が魔物の味方をする」
「さっきも言ったろ。これはもうヒトが魔物が〜って話じゃねぇ、単にてめぇが気に入らねぇって話をしてんだよ。あんたにゃ感謝してるよ。でもそれとこれとは別問題だ。つーわけで……いっちょ大人しく殺されてやってくれよ」
人「道」を「外」れると書いて「外道」。道を通せば角が立ち、道を外せば深みに嵌る。イルムは道理を外れて深みに嵌った。這い上がって汚物を撒き散らすぐらいなら、いっそ沈み切ることを願うか、あるいはその前に叩き潰すしかない。
果たせぬ禍根有りと立ち塞がるは、偽りの情を交わした女が一人。仇討ちを成功させたところで己も勇者殺しとして捕えられ、王国転覆の情報を知った者として口封じされる。行くも地獄行かぬも地獄、文字通り、「決死」の覚悟でここに立っているのだ。
「イルムさん……。一緒に、死んでください」
月光を受けて白刃が煌く。
旧魔王時代を経て、今の時世に魔物が人間を殺したという話は聞かない。だがここに今まさに己諸共一人の男を黄泉路に送ろうとする独眼鬼がいる。夜明けまでに互いにどちらかを殺し、残った片方もここにいる者らに処分される、勝者無き究極のデスマッチが今……始まった。
「〜〜ッ!!」
先に動いたのは当然キューだ。サイクロプスは武器作りのスペシャリストと同時に、あらゆる近接武装の取り扱いに熟知しており、彼女らは自身の戦闘力も総じて高い。技は我流だが余分な動きの一切を省くことに成功したその剣筋は、近接戦闘については門外漢のイルムにとってはまさに天敵──、
「────愚かな」
全てを思考と計算に費やすイルムの頭脳は自身の弱点など承知の上、更にそのための対策も講じていた。
霊木の杖が広場の石畳を軽く小突く。それだけでイルムとキューの間の地面が地震のようにぐらぐらと揺れ、亀裂が入り足元から崩れ始めた。
「────王都は既に手中にある。街の各所に、魔法陣を設置済み」
いずれ王国を陥落させる時にために教会の命令で設置したものだが、こんなのはほんの序の口でしかない。両足で踊るようにステップを刻み、そこに杖の音が加わることで民族舞踊を舞うような動きをするが、これらは全て足下に仕組んだ魔術を起動させているのだ。
右の爪先が土を踏むと火が吹き上がり、左の踵をつけると大量の酸が召喚される。酸に行く手を阻まれてまごついた瞬間、杖が連続して起動させた土槍の術式がキューを貫こうと迫る。対するキューはそれらを凌ぎきり、開けた場所での戦闘は不利と判断したか建物が立ち並ぶ路地へと誘いを掛けた。
当然それを追うつもりのイルムだが、ガラス玉の視線が自分を監視する者らに向けられる。
「俺たちは邪魔も助太刀もしない。思う存分やれ。どの道あとで始末はつけるがな」
「────委細承知」
言質を取れたことを確認すると風の術式で移動速度を高めながらキューの追跡を行った。この一帯は既に人払いが済んでおり、どれだけ暴れようが人的被害は一切出ない。
「────好都合」
入り組んだ路地に身を潜めたキューを炙りだそうと、杖を石畳の間に深く打ち付ける。その瞬間、一斉に土が舗装された地面から隆起し、平らだった道が山林の獣道の如く荒々しいものに変化する。イルムがもう一度杖を突くと、今度は土の間から油が染み出す。液体は瞬く間に土と溶け込んで周囲を湿原のような環境に変えるが、可燃性に富んだその液体にイルムが火を放った瞬間、街の区画丸ごと大火に飲み込まれた。
幻覚ではない、尽きぬ火種を受けて燃え盛る油の湿原はこの世に顕れた地獄の姿だ。石造りの家屋自体は燃えないが、路地裏のゴミや木で出来たドアなどは一瞬で燃え上がり、熱で割れた窓に飛び火して内部の可燃物にも引火する。もし住人がいる状態でこの術を使えば王都の三分の一は焼け尽くされていただろうことは想像に難くない。
熱を塞ぐ術式を使い類焼を防ぎ、自分以外誰も居ないはずの空間で動く生命の存在を感知する。それは軽い身のこなしで民家の屋根に上って難を逃れているようだった。その跡を追ってイルムも同じ土俵に上がると、果たしてキューはそこにいた。
「────追跡終了」
「……!」
鬼ごっこは早くも終わりを告げ、状況はさっきと同じ一対一に逆戻った。自身が言っていたように、イルムはこの街全体に魔術を仕込んでいる。ワイヤー張ってはい完成というような小規模なものではなく、一つ発動すればそれだけで王都の機能を一部麻痺させるレベルのもの、それが五万と仕掛けられている。
本来なら決して単独の相手に対し使うものではないのだが、イルムという男は加減を知らない。例え今この場に人は居ないのだとしても、これほどの大惨事を目の当たりにした人々がどんな感情を想起するのか、彼には露ほども理解しない。彼自身に感情が無い故に……。
キューが逃げ回ることを止めたのは、自分が戦いを長引かせることで被害を拡大することを防ぎたかったからだ。もちろん誘い込みをかける目的もあった。流石に民家の屋根にまで術を仕込んではいないだろう、となれば使ってくるのは持ち前の魔術と踏んでのことだった。
「せいっ!!」
キューの白刃が風を切ってイルムを仕留めようと振るわれる。やはり近接戦の心得が無いのか、間合いの僅かに外で防戦一方に徹しており、魔術で牽制を図るに留まっていた。
行ける。このまま息つく暇も与えず攻め続ければいずれ勝てる、そう感じたキューは一歩、また一歩とイルムへの間合いを詰める。徐々に激しさと鋭さを増す剣戟に、さほど鍛えられていない彼の体は少しずつ遅れを取り始めた。避けるだけだった動きが今では杖を使って防御しているのがその証拠だ。
(もう、少し……!)
後一歩で彼を捉えられると確信したキューが更に更に踏み込む。互いの間合いが完全に重なる半歩手前まで及び、彼女は勝利を得たと駆け出し最後の一撃を繰り出した。
「はあああっ!!!」
これが当たれば彼は死ぬ……ヒトを殺すという、魔物娘最大の禁忌を犯すその刹那、彼女は自らの決意を示すように自身唯一の眼を固く閉じて剣を突き入れる。
そして……。
「────甘い」
手応えはあった。骨の間の肉を裂き、熱い血潮が吹き出す音がキューの耳に届く。彼女の刃はイルムに届き、大きなダメージを与えることに成功したのだ。
だが、しかし……それでは仕留めきれなかった。
「う、そ……そんな!」
「────」
刃はイルムを貫いた、彼の左腕を。腕を支える二本の骨、橈骨と尺骨と呼ばれる部位の間、腕を動かす筋肉が詰まり重要な血管が密集している部分だ。その人体の僅かな隙間を使ってイルムはキューの剣を挟むように受け止めていた。
昼間、果物ナイフを手で受けた時とは違う、一歩間違えれば腕そのものが一生治らない傷を負うような行為だ。今だって刺さった剣そのものを支えにしてやっと姿勢を保ち、傷口から流れ出る血の量はあと数分も放置すれば致死量に達する勢いだ。
にも関わらず、イルムの表情は睫毛一本たりとも動じない。痛みに対する恐れは無い。死に直面してもなお揺らがない。
「────む」
「あっ!」
力を振り絞った腕の回転が剣をひったくる。拍子に腕からもすっぽ抜け、だらりと垂れ下がった腕の傷からはさっきまでより多くの血が流れ出す。自分の命を支える血潮が失われているのに、毛ほどの動揺も見せないばかりか、だらりと垂れ下がった腕を治癒する気配も見せない。自分の腕をこうしたきっかけを作った相手を、ガラス玉のような瞳でただ凝視するだけだ。
吸い込まれそうな瞳は、穴だ。彼は「穴」、この世界にこじ空いた底なしの「穴」。どれだけ満たそうとして注ごうとも、底が抜けた器に水が満たされることは無い。
ああ、それはなんて……寂しいこと。
ここに二人の男女の決着が着けられた。
「────これより貴様を処理する」
「……好きにしてください。イルムさんも、後で来るんですよね」
「────その考えは間違い。訂正を求む」
自分は生き延びるつもりなのだと知り、今際になぜか安堵するキュー。思えばイルムとはこういう男だった。他人の都合など知らんと押し通り、面倒なことや厄介事を押し付けて自分だけは涼しい顔をしている男だった。この世の全てを解き明かすまで止まらない、きっと自分を殺してどこかへ旅立っても彼は彼のままなのだろう。その事実に少しだけほっとしてしまっていた。
「────我輩は死なぬ。貴様も死なぬ」
「でも、あの人たちが生き残った方を……」
「────殺さなければいい。全てを、消去する」
「しょう、きょ?」
何かニュアンスの違う物言いに疑問を覚えるも、そんなキューの心理など意に介さずイルムの右手がその額に何かを素早く書き込んだ。己の血で描いた極小の魔法陣、あとは短く呪文を唱え再度そこに触れるだけで術が発動する。
「────忘却の暗示。仕込みは完了。貴様を連行する」
「れんこう……?」
「そうは行かねえって言っただろ」
二人だけだった屋根の上に更に人の気配が満ちる。劫火に包まれた路地をどうやって移動したのか、後始末役のトーマス、ゴードン、クリスの三人が周囲を取り囲んでいた。
「考えたな。どっちが生き残っても必ず死ぬってんなら、いっそ決闘そのものを最初からご破算にしようって魂胆か。そう簡単にことが運ぶかよ」
「僕らの秘密を知った彼女から記憶を奪えば、確かに僕らが彼女を始末する理由は無くなる。王都の外まで連れて行った後でそれをやられちゃ、僕らに手出しはできないね」
「そんなこと許すとか本気で思ってんのかよ、ええ? 魔道師さまよぉ!!」
「────消すのはキューだけではない。貴様らもだ」
秘密を知った者だけでなく、それを教えた者からも記憶を消す、そうすれば秘密をやり取りした事実そのものが霧消する。記憶を操る術を持つイルムだからこそ取れる第三の選択肢だ。
だがこの状況は既に決闘の名を借りた処刑。イルムが口先小手先でどんな手段を取ろうとも、この場の三人の勇者はそれを認めない。ヒトに仇なす心の無い怪物となったモノを生かしてはおけない。
「面白いな、今ここで俺達とことを構えるかよ。自分の状況よく見ろ、お前が一人の記憶を書き換えている間にあとの二人がお前を殺す。下は火の海、後はそこへ二人もろとも投げ込んで終わりだ! カスも残さず燃え尽きる!」
「君が生き延びる道なんて、精々彼女を見捨てて逃げ去るぐらいだ。君のことだ、どうせ逃亡用の術だってあちこちに仕込んでるんだろう? どうしてそれを使わないんだい?」
「やめなよ、魔道師さまの考えるこたぁ俺らにゃ分かんねえよ。つっても、とっくの昔からヒトじゃねえから当たり前か」
「────我輩が愚かと?」
「だってそうだろが。この街には、いや、さっきの広場にだってこの女を一撃で殺せる術が幾つもあった。その気なら初手で俺達もろとも纏めて始末できたはずだ。解せないな、お前ほどの男がどうしてここまで回りくどいことをする」
「────……」
「黙るなんて珍しいな。何とか言えよ」
「イルム、さん……」
「女にばかり背負わせて、てめえ男として何とか思わねえのかって聞いてんだよ。とっくに気付いてんだよ、てめえはその女を『殺さない』んじゃない、『殺せない』んだってな!」
心を持たぬイルムは常に最適解を導く。それがどれだけ自他に犠牲を強いるものであろうと、最も早く、正確で、効率の良い方法を躊躇なく実行してしまえる。
そんな彼が生まれて初めて、自ら思い描いた数式を外れる行為をしている。この場合の最適解とは言わずもがな、キューを殺して自分だけ逃亡し生き延びることだ。だがそれをしない、出来ない。やれる瞬間などいくらでもあったのに、彼の魔の手はついにキューを仕留めようとはしなかった。最適の道筋が見えているのにそれを選択しない、そんな不合理なことをする理由はたった一つ……。
「てめえを好いている女を殺せるほど、さすがに外道じゃなかったか。皮肉なもんだな、感情を感じられないから自分の中から湧き上がるモノの正体も分からねえで、ずっとそれに振り回されていやがったとはな」
「────我輩に心は無い」
「手頃な女なんてどこにでもいるってぇのに、わざわざ人里離れた山奥に住み着くサイクロプスに会いに行くんだもんな。王都に来てからずっと足繁く通うのは健気なもんだよなぁ〜?」
「わざわざ慣れないプレイボーイの真似事までしてそいつを手篭めにしたのは何でだ? 肉の交わり、快楽を与えることこそ愛だと思い込んだから、そんなことが出来たんじゃねえのか。そりゃ殺せねえよなあ、無自覚でも愛した女と、そいつの腹にてめえのガキが入ってると分かりゃよお!!」
「────彼女も、胎児も不要。だから切り捨てる」
「それも違うな! お前はそいつが怒ったから、傷付いたと思ったから身を引いたんだ。自分の存在がそいつと、そいつのガキにとって悪い影響しかないって分かったから、だからそいつから離れようと突き放したんじゃないのか!」
「例え演技や芝居だったとしても、君自身好きでもない相手に言い寄れるほど芸達者じゃないよね」
「────違う。違う。数式はまだ中途。まだ『愛の存在』を証明していない」
「ちっ! いい加減ウザったいな。そろそろ終わりにしてやれよ……キュー」
この時、イルムは二つの事実を知る。
この舞台が自分を除いて全員グルだったこと。トーマスもゴードンもクリスも、事の成り行きを静観しているエステルとシャムエルも、今この場には居ない残り二人の勇者も、全員が裏で通じていたのだと。
背後でゆらりと動く気配を感じて思わず振り向く。そして同時に二つ目の事実に気付けた。
「イルムさんっ!!!」
「────!」
今まで自分がキューを背中に隠し、まるで守るように彼女の前に立っていたことを。
意識が三人に向いていたイルムはこちらに向かって来るキューに対応できず、その左胸を何かが貫通するのを許してしまった。痛みは無い。肉を貫いたのに痛みは全く無く、血の一滴も出なかった。
そもそもイルムの体を貫いたのは武器ではない。キューが持っていたのは……。
「高かったんだぞ、それ」
「ありがたく……使いました!」
イルムの胸を貫いたのは、周囲の炎を受けて輝く黄金の矢……愛を膨れ上がらせる、キューピッドの矢。極々稀に闇市場に本物が出回ることがあり、その筋の者からトーマスが買い取ったのをキューに譲ったのだ。
愛の神に仕える天使のそれは決して殺傷能力を持たず、貫いた者が持つ愛の感情を激しく燃え上がらせる。膨れ上がった感情が外部へのはけ口を求めてさ迷い、やがては行動でそれを示さずにはいられなくなる。
だがそれが感情を理解できないイルムに対して使うとどうなるか。今までまともに感じたことのない感覚が体内に急速に充満する、それははっきり言って未知。更に頭脳の大半を思考に向ける癖が加わり、今の彼は金縛りにでもあったかのようにぴくりとも動けない。
だがどれだけ考えようと自分の中に湧き上がるそれの正体を自力で解き明かすことは出来ない。全てを極めると豪語した彼が最も知りえないものが自分自身というのは、もはや皮肉を通り越して運命めいたものを感じさせるが、このままでは埒が明かないのも事実だった。
湧き上がる熱い何かに翻弄されている彼を、もうひと押しする必要がある。それを可能とするもうひとつの道具を、キューが取り出した。
「イルムさん……」
「────」
キューピッドの矢は二本、金と鉛で対の矢となる。どちらも結ばれぬ男女を結びつける道具だが、キューはその手に漆黒の矢を強く握り締め、大きく息を吸い込むと……。
「っ!!!」
自らの胸に深く、深く突き立てた。イルムと同じかそれ以上に深く刺さった矢は心臓を貫き、魔道具の持つ効果を余すことなく身に受けることになる。
即ち、愛を枯れさせるのだ。
「あぁ……ああぁ……!」
周りは炎に包まれているのに、キューは身震いする体を抱きかかえてうずくまる。鉛の矢は愛を消し、貫かれた者は半身を失ったような喪失感と孤独感、そして身動きも取れないほどの深い悲しみに襲われる。キューピッドは愛に無自覚な人間にこれを撃つことで愛を自覚させ、本来ならイルムのような人間にこそ撃ち込むべき物である。だがキューは敢えて金の矢を彼に、鉛の矢を自分に突き刺した。彼自身の気持ちを確かめるにはこうするのが一番だったから。
愛を知る健常な者が黒の矢を受けるとどうなるか。流れる血潮は凍りつき、歯はガチガチと震え、もう立っていることも出来なくなる。愛を知らぬ者に自覚を促す矢、愛を知る者が受ければそれは心を侵す病毒となるのは至極当然のことだった。
「さびしい……さびしい……だれかぁ……」
この感覚を、キューは知っていた。両親が死んだ時の悲しみと同じだ。
誰も来ない山の中で一人暮らしていたあの日々……何度もこうやって自分の肩を抱いてベッドの上で泣いて過ごしていた。このまま一人で生き、一人で死んでいくのだと思うと無性に怖くなり、生きていくことに絶望していた。燃え盛る炉を見つめて、いっそここに飛び込めば楽になれるのではと何度も考えていた。
そんな自分を変えてくれる出会いがあった。
「イルム、さぁん……!」
厚顔で、不遜で、無遠慮で、情緒など糞くらえ……そんな彼に、キューはいつも救われていた。山小屋に一人で暮らしていても、彼が会いに来てくれるからと生きる希望を持てた。「ふり」でもいい、その行為が自分に向けられたものならそれでもいい、ここにいる自分を見て欲しかった。
その彼がこんな近くにいるのに、今は遠く感じることしか出来ない。
「どうか……どうかっ!」
この気持ちが勘違いならそれで構わない。だが、もし……もし、同じ気持ちをあなたも持っているのなら、その表し方を知らないと言うのなら……。
「あたしを、見て……? ここにいる、あたしを……!」
どうかここまで来てあたしに触れて欲しい。
この伸ばした手を掴むか離れてしまうまで、キューは彼のそばからどこにも行こうとはしなかった。
イルムは異端者だが、決して異常者ではなかった。
「愛」の存在を、証明したかった。木偶の坊でしかなかった幼き日の自分を産み育てた親がそうだったように、自分に注いでくれたモノが「愛」であると知ったイルムは、その存在を目に見えるものとして証明したかった。
だから子供を作ることにした。かつて両親が自分にそうしたように、天然自然のものとして自身の内側に存在する愛情を我が子に注ぐことでそれを証明しようと思った。そうすることで、自分の中の欠けた部分を補おうと考えた。
だがそれには相手がいる。男と女が交われば出来るもの、だがイルムは正常な思考として「夫婦になるのは好きな者同士」という倫理観を持ち、それを元に動いていた。父も母も、祖父母たちも、それ以前の先祖がそうであったように、子を作るのなら「好き」な相手とと決めていた。
でも自分には「好き」とかそういう感情が分からなかった。「好き」を分からない自分は他に基準とすべきものを持たず、よってイルムは自分から動くことをやめた。適当に見繕って情を交わしても、そこに「愛」は宿らないと知っていたから。「好き」ではない者同士に「愛」は結ばれないと理解していた。
その代わりに、イルムはひとつの誓いを立てた。
もし誰か、自分に好意を向けてくれる女が現れた時には、自分もその女を「好き」になろうと。その時、自分も君のことが「好き」なのだとわかってもらえるように、今の内から感情の動きを学んでおこうと。
彼にとって感情を学ぶことは社会を円滑に生きると同時に、まだ見ぬ将来を添い遂げる相手の為でもあったのだ。
だがそれも過去の話。感情が分からぬ不気味な男に好き好んで寄り付く女はおらず、イルムは程なく現実を見据え甘い考えを捨て去った。彼は自分を「好き」になってくれる者も、自分が誰かを「好き」になることも決してないと諦めたのだ。
そんな時、彼はキューと出会った。
片やハリボテの感情で装う変人と、片や人目を避けて山奥で暮らす女。互いに理解者を持たないからこそ、イルムは彼女の心が自分に向くであろうことを予測し、結果はまさにその通りになった。
彼女は自分を「好き」でいてくれる。自分も彼女を「好き」になれば夫婦になれる。夫婦の間に子供が生まれれば、自分は愛を証明できる。子供の頃思い描いた計画を実行に移す時が来たのだ、そうイルムは確信し彼女と添い遂げようとした。
でも彼女は自分のせいでひどく「傷付いた」。何がどう悪かったのかなんて分からなかった、自分には感情が分からないから。でも、誰かを傷つけるのは悪いことだと子供のように自覚していたからこそ、彼はキューから離れることを決めた。彼女を「傷付け」てしまった以上、自分は彼女の夫を、その胎の子の父を名乗れないということを漠然と受け入れたのだ。
もしイルムが感情を表に出せる人間だったなら、同じ行動をしていてもここまで話は拗れなかっただろう。全ては彼のハリボテのココロと、そこから飛び出すツギハギの感情が招いた結果だったのだ。
それを自覚しているからこそ、金の矢を受けた今も彼の足は根が生えたように動かない。自分が近づけばキューは「傷付く」と知っているから、そこから動こうとしない。「好き」になると決意したからこそ、「傷付け」たくなかった……という、いかにもお涙頂戴な人間のふりをしているに過ぎないのだ。
だが、キューは今泣いている。
求めているのだ……腹も減っていない赤ん坊が母を求めて泣くように、この木偶人形でしかない我が身の、あるかどうかすら疑わしい「愛」を。
無謬の胸中に小波立つ葛藤が足を止めたまま動けない。燃え盛る周囲の炎とキューのすすり泣く声だけが時間の流れを雄弁に物語っていた。
そして、時間は残酷だった。
火災によって家の中の可燃物が燃焼し続けると空気が汚れ、ある一定のラインでそれらが外に吹き出す現象が起こる。今イルム達が立っている民家も既に内部は様々な物体が燃え、熱と空気膨張で外側との境界線である窓が破裂するのも時間の問題だった。
そしてそれが遂に訪れた。
「のぉ!!」
「こ、りゃあいけねえや!!」
ドォムッ、という大太鼓を百台一斉に叩き鳴らしたような轟音の後、民家の屋根が揺れ動いた。立っている斜面もあってまるで噴火中の火山地帯の如き鳴動っぷりに、居合わせた全員が姿勢を維持できずに膝を突く。家そのものが崩れるにはまだ少し余裕があるはずだと、周囲を確認すると……。
「ぁ……っ」
揺れをまともに受けたキューの体が浮き上がり、慌てて立とうとする。だがその拍子にバランスを崩し……彼女は背中から倒れる。もう体勢を立て直すことは出来ない。
「っ……」
全てがゆっくりに動いている。炎も、風に舞う木の葉も、そして……炎の海に身を投げ入れるキューも、皆全てがスローに見える。
消える。
消えてしまう。
何が?
己の「愛」、やっと形を得られた「愛」がか?
今ここで彼女が骨まで灰になるのを見ても、きっと己は揺れ動かない。「ああ、そうか」で済ませてしまうことだろう。
だって自分には心が無いから、感情が無いから。
────違うだろ、そうじゃないだろ!
感じるとか感じないとか、心が在る無しとか、そんなエセ哲学やお題目なんて今はどうでもいいだろ。
動け。
動くんだ。
言葉でも表情でもない、この心の臓から湧き上がる熱い衝動を表すのは行動だけだ。
それがどんな言葉や顔より、どんな感情の機微でさえ置き去りにして相手に示すことだってあるのだ。
沸き立て、そしてその行動で伝えろ!
簡単じゃないか。いつもその口で喋くっていたように、今ここで伝えろ。
たった二つの大事なことを!
「────死ぬな」
右手を伸ばす。後一歩、届きそうにない。
諦めるものかよ。
やっと得られた自分の「愛」。目には見えず、触れられないが、ここに確かに存在しているモノ。失ってしまえば、二度と得られない大切なモノ。
「ずっと、我輩のそばにいてほしい」
伸ばされる手は二つ。繋がり合えば少し遠くでも触れ合っていられる。その手の間に存在するのは単なる熱を持った空気ではなく、それこそきっと極小単位の「愛」なのだろう。
抱き寄せて重なる二つの影。
「きっと、これからも貴様は傷付く。この手を振り払えば、あの日に死んでしまえば良かったと後悔する日が来るであろう。それでも、共にいてくれるであるか。この胸の熱が何であるかが分かるまで、分かってからも……我輩の妻でいてくれるだろうか?」
「あたしも、あなたを試そうとしたから……あなたの心が分からなかったから、分かろうとしなかったから……。あたしは結局……わがまま言って、イルムさんを困らせていただけなんだよね……。こんな、自分勝手なあたしだけど……一緒にいてくれますか? 『この子』のお父さんでいてくれますか?」
「貴様がそう望むなら……」
「あたしの望みとかじゃないの。あなたの、イルムさんの言葉で聞かせて?」
「先の事など分からんのである。ただ……今は貴様をこうして抱いていたい、離したくないと思う。それが答えではいけないか?」
「……はい!」
他人のことなど分からない。自分の事だって分からないことだらけだ。きっとこれから先二人の道がどうなるのかも、誰にも分からない。
いや、唯一つキューには確信があった。
自分はきっと、今日この日を後悔はしないだろうと。
互いを貫いていた矢は、もう消えていた。
「やっと終わっただか。人騒がせな人だべまったくよ」
「金にならないことはしない主義だ。もう金輪際こんな馬鹿げたことに手は貸さん」
「って割には結構ノリノリだったね。何だかんだで熱くなってたでしょ、トーマス。昔の自分と重ねちゃったかな」
「フン! ああいう煮え切らない奴が嫌いなだけだ。重ねて見ることにも吐き気を覚える」
「それにしたって、よく『騎士さま』がお許しになっただな。魔物に俺っちらの正体バラしたまんまで良かっただか?」
「いいんじゃないかな。『団長』もそろそろ分かってるんだよ、僕ら七人がそろそろ用無しになるってことをさ」
「んじゃ今のうちから再就職先探さねーと。若社長、ちょいと俺っちを雇う気は……」
「身投げでもしてろ。じゃあな」
「あー、行っちまった。しゃあねえ、俺っちも帰るだよ」
「ていうかこの焼け跡どうするのさ。大惨事じゃないか」
第三の勇者は素の自分をさらけ出してドン引きされ、第四の勇者は外面を盛りすぎてドン引かれた。勇者ってのは揃いも揃って恋愛下手で困るよなあ。
それが可愛いって魔物娘にゃ評判なんだがね。
とまあ、今回は珍しく他の勇者が手を組んで仲間に一杯食わせてやったって話だ。
件の勇者の行方は容として知れねえ。街を焼いた大罪人として処刑されたとも、自ら炎に突っ込んだとも言われちゃいるが、一応このお話ではサイクロプス共々生き残ったことになってる。ハッピーエンドじゃないと芝居屋は儲からないんだよ……。
なんか今日はいつもと毛色が違ったせいか、最後まで残ってた客も少ないな。今日はこれでお開き〜……っと、そこのお前さん! 連れてる馬の足見せてくれよ。
あちゃー、こりゃいけねえ。最後に蹄鉄変えたのはいつの話だい? 早いとこ替えないと馬の足がオシャカになるぜ。
すぐそこで金物を売ってる店がある。包丁、ハサミ、ナタ、斧、鎌、刃物なら何でもござれな店で、もちろん蹄鉄も売ってるぜ。
そこの店長は世間一般で言うところの変人なんだがな、売ってる品物は一流よ! 山奥のサイクロプスが鎚を振るってこさえた物を、旦那であるそいつがここまで来て売ってるんだとよ!
聞いた話じゃ最近二人目が産まれるってよ。娘が父親に似なきゃいいんだがって皆言ってるぜ。
15/08/25 22:08更新 / 毒素N
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