第三章 色欲の勇者:後編
ある男の話をしよう。
男はとある小国同士の国境付近にある小さな農村で生まれ育った。国同士は互いに少ない土地を巡って争い、男が住む村は数年周期でその属する国を変え、どちらから見ても辺境に当たるその村の住人はその度に農奴として働かされていた。
だが財産を持て、婚姻の自由が認められいることを思えば、奴隷よりはマシ……そう前向きに考えながら住人たちは日々を慎ましく、誠実に生きていた。どうせ村を出て暮らせる宛もなく、それならこの小さな村で身を寄せ合い助け合いながら生きていこうとしていた。
男が産まれた時は難産だった。丸一日掛かって取り上げられた時、親戚だけでなく村の全員がその誕生を祝福し、その命を産み落とした母を称えた。誕生の困難を無事に乗り越えたこの子は、きっとたくましい大人に成長してくれる。我々がこの子を守り、育てよう……村全体が男を我が子のように可愛がり始めたのがこの時だった。
男性に対し使う言葉ではないが、男はそれこそ蝶よ花よと育てられ、村人全員の愛を受けてすくすくと育った。曲がらず、歪まず、まっすぐに。諸人の祝福に応えるかのように、彼はひたすら「まっすぐ」に育って行った。
だが農奴を生きるのは楽ではない。明けても暮れても畑の土と格闘し、半年経って得た収穫物の大半を税に徴収される。自分達の食い扶持は常に最低限、冬には必ず寒さと飢えで死ぬ者がいた。たまに村の生活に嫌気がさして村を出ようとした者もいたが、農奴は生まれついた村を離れることが出来ないと決められており、見つかって奴隷に売り飛ばされたりもした。
男も初めはそうだった。痩せた体に鞭を打って毎日畑に出ては土を耕し、採れた作物を税として役人がいる建物まで納めに行っていた。父も母も、両隣の住人も、村人全員がそうしていたから、男も疑うことなくそれらを日課に暮らしていた。
だがある時、ついこう言ってしまった。
「もう畑を耕したくないよ……」
嫌気がさしていたのだ。汗水垂らして収穫した麦も野菜も、糞を掃除して肥え太らせた家畜も、全てを役人に横取りされ続ける生活。冷静に考えてみればなんと馬鹿馬鹿しいのか、その現実を思い知って男はそう零した。逃れられるはずなどないのに、生まれた現実を受け入れない言葉は本来なら切って捨てられるはずだった。
だが……。
“そうか。なら、お前はもう出なくていい。あとは父さんと母さんに任せなさい”
わがままを言う息子を突き放した言い方、ではなかった。あの時の充実した笑顔を、男は忘れられない。
その日から男の分の畑を耕すのは両親の仕事になった。自分達の分と合わせ息子の分まで耕す、それだけ見ればわがまま息子が仕事を放棄して昼行燈で暮らしているのかと思われるのが普通だった。だが周囲の誰も男を責めず、見捨てようとはしなかった。いつもと変わらぬように接し、会話し、そして笑い合った。
両親が農耕に出て帰って来るまでの一日中、男は家で怠惰に過ごし、年下の子供に混じって遊び、村の老人たちの茶飲み話に耳を傾けて日々を送った。
二年後の冬、両親は過労で倒れ寒さが追い打ちしてこの世を去った。
ずっと畑を両親に任せきりだった男は、自分の置かれた立場を理解して青ざめた。畑の耕し方などとうに忘れ、男は税はおろか自分の食い扶持を稼ぐ事すら出来なくなった。いくら嘆こうとも後の祭りだった。
放蕩息子の末路、ここに極まれり。今度は誰も手を差し伸べてくれないと絶望しかけていた。
しかし……。
“おお、可哀想に! うちにおいで。お前一人を食わせるくらいどうということはない! さあ、おいで”
ずっと隣に住んでいた顔見知り、伯父のように慕っていた存在が男に手を差し伸べた。その家は子沢山の六人家族、男が入り込む余地など無いはずだった。
だが男はすぐさま飛びついた。そして今度は真面目に働いた。例え大半が自分の物ではなくなるのだとしても、自分の食べる分は自分で稼がなければという意識が男の中で芽生えていた。両親の死がそうさせたのか、あるいは手を差し伸べてくれた家主への恩義か……それとも、それらとは別の理由なのか。
男は恋をした。相手は自分を拾ってくれた家主の長女。自分より二歳年上でいつも「姉さん」と呼び慕い、幼い頃から姉代わりに接してくれていた彼女に男は淡い恋心を抱いていた。閉塞した農村の生まれとは思えないほど優しく、情緒に溢れ、誰からも好かれる人だった。それが一つ屋根の下で暮らし始め、男の慕情は日に日に大きく強く膨れ上がっていき、やがて憧れは恋慕に変わり、相手もそれを察してくれていたのか……。
「僕は、あなたのことが好きです! 愛しています! どうか、結婚してください!」
“……はい!”
父がいぬ間に逢瀬を重ね、弟妹たちが眠った夜に情を交わした。それは誰かに知られることを恥じたからか、秘めることにスリルと快感を覚えたからか、それすら分からない。確かなのはこうして抱き寄せている女と自分が愛し合っている事だけ、そしていずれは名実ともに結ばれるのだと男は思っていた。
変わらぬ愛、永遠の愛を二人は誓った。きっと周囲の誰もが自分達を祝福してくれる……そう思い込んでいた。
思い込んでいたのだ……相手が本当に、心の底から自分を愛してくれているのだと。
その夜、男は畑仕事の帰りに女を見かけた。普段はこんな時間に出歩かないはずの彼女、いつもと違う行動をしていたのを不審に思って静かに後をつけた。
行先は家ではなく、そこから少し離れた森の中、獣道を伝って行った先で小川に出た。昼間たまに魚を採りに来る場所、夜に来るような所ではないそこは当然この時間は闇に閉ざされており、僅かな月明かりを水が反射しているだけだった。
そこで男は……見てしまった。
「あぁ、そんなっ!!?」
幼い頃から自分と育ち、今は同じ屋根の下、いずれは将来を誓い合ったはずの愛しい女が……別の男性に組み敷かれ、啼かされていた。川のせせらぎと虫の音、時折聞こえるフクロウの鳴き声に混じり、肉欲に溺れた男の息遣いと女の喘ぎ声が、愛した男の耳朶を激しく打った。
暴漢に襲われているのだ、そう思いたかった。
だが男は見てしまったのだ。貫く怒張が腰と共に秘部を擦り上げる度に、女が嬉し泣きにも似た喘ぎ声を上げるのを。そしてその顔が、自分は見たことが無いような満たされたものであるのを。
直感で分かってしまった。彼女が愛しているのは己ではなく、今ここで獣のように交わりを要求するこいつだと。
ならば今までのは? 愛していると、将来を共に過ごそうと言ってくれたあの言葉は、嘘だったのか? 自分を騙し、謀り、欺いていたとでも言うのか!?
それを問い質すより先に、男の激情は手にしていた農具で二人の頭を砕いていた。間男を背後から後頭部を砕いて殺し、唖然としている女の顔にクワの刃を振り下ろした。何度も何度も、間男ではなく自分を騙し続けていた彼女の方を、それまでの愛しさ全てを恨みに変えて、男は頭が味噌になるまで叩き付けた。
姦通は身分に関わらず死罪になる。放っておいても役人に露見すれば二人は裁かれるはずだった。だが激情に身を任せた反動で冷静になった男は、次第に自分のしたことを理解させられる。
「う、うわあああああああぁぁあぁああっ!!!」
死体を隠匿するのも忘れ、まだ娘が帰って来ないと不思議がる彼女の父を無視し、男は寝室に飛び込んで眠りに落ちようとした。悪い夢を見たんだと何度も言い聞かせ、全てを見ていた月の光から逃れようと毛布を頭から被り、男は震えながら一睡も出来ぬまま朝を迎えた。
当然、翌日に死体が見つかり村は大騒ぎになった。老いも若いも総出で農具を取り、役人まで引っ張り出しての犯人探しが始まった。見つかれば死罪、いやさ村人全員で私刑にされるだろう。そうなれば命は無い。幸い皆は調子が悪いと言った自分の言葉を信じている、それなら今の内にイチかバチかで逃げ出すか?
だが男の中の良心と信仰心がそれを認めなかった。愛する者に裏切られた今、何を生にしがみ付く理由があろう。男は神妙な面持ちで村人の前で全てを打ち明けた。
「みんな、聞いて下さい! 僕がっ……僕です、僕が二人を殺したんです!! 人殺しは僕なんだぁぁああああーっ!!」
懺悔と悔恨の叫び、許してもらえるとは毛頭思っておらず、それでも男は村人らに睨まれる中で土に顔を擦りつけて告白した。あるいは、姦通の罪を犯した彼女も一緒の地獄にいると思ったからこそ、彼女と同じ場所に行こうとしての自殺願望の表れだったのか。どちらにせよ男の命運は決まったも同然だった。
だが、それもまた彼の思い込みだった。
目を閉じて沈黙の中待つも、石つぶてどころか罵倒の言葉ひとつも投げ付けられない。恐る恐る顔を上げて男の目に飛び込んだのは……。
“おお、クリス! なんと可哀想な。お前ほどの男がそこまで追い詰められていたなんて……”
“すまない、許しておくれ。お前を苦しめていたのはこの女だったんだね”
“お前は悪くないよ。悪いのは、お前を困らせていたこの女なんだ!”
犯人探しの熱気に満ちていた村の広場は、一転して不気味なまでに和やかな雰囲気に満たされた。誰もが心底ほっとしたように笑顔に包まれ、すぐそこに自分達の仲間の惨殺死体があるのに、その二人を殺した犯人が今まさにここにこうしているにも関わらず、村人たちの憎悪は既に男に向けられていなかった。
安心しているのだ……二人を殺したのが獣や山賊ではなく、同じ住人の男だったことに。
だが話はそれだけでは終わらなかった。
“そうだ、悪いのはこいつらの方なんだ! 俺達の大好きな、愛するこの子を困らせやがった、悪い連中なんだ!!”
“どうする?” “どうするんだ?”
“報いを、この子を困らせた報いを!”
“だが報いは受けている”
“まだだ! こうするんだ!!”
村人の一人がどこから持ち出したのか壷一杯に入った液体を死体にぶちまける。油だ、松明の先端に塗る可燃性のそれを、女と間男の死体にぶちまけたのだ。
もう何をするのか、男には理解できてしまった。
「待って……待ってよ、悪いのは僕なんだ、僕は人を殺した! 裁かれるのは僕のはずだろう、やるのなら僕を……お願いだっ!!!」
亡骸に火を点ける前に飛び込み油を自らの体にも塗りたくる。臓腑の奥も焼けとばかりに泥が混じった油を飲み干し、さあ焼き殺せと大の字になって死骸に折り重なった。後は激昂した村人らが火を投げ入れれば死ねる……。
だがそれを止めたのは、やはり村人たちだった。
“何やってんだ、邪魔すんじゃねえ!”
“ああ、危ないからお前はどいてな!”
口々に騒ぎ立てながら数多の腕が男を刑場から引きずりおろす。お前は後だ、そう言ってくれればどれだけ救われただろう。だが彼らは心の底から男を心配し、危ない目に合わせたくないという親切心だけで動いていた。
そして、火が放たれる。
“よぉく見とけよぉ! お前を傷付けた報いは受けさせるからなぁ〜!”
火を放ったのは、彼女の父親。四人の子供で唯一の女の子だった娘をとても可愛がり、彼女に対して怒る所など一度も無かったはずの父親。それが今や既に死体になった娘に対し過剰なまでの憎悪に塗れ、もう男の手によって報復は済んでいるにも関わらず、まるで己自身が傷付けられたような剣幕で我が子に対し復讐しようとしていた。
炎が二人分の肉塊を舐めるように燃やす様を、男は呆然自失の状態で見せ付けられていた。
「どうして……こんな、ことに」
おかしい、この村は異常だ。理由のあるなしに関わらず、人を二人も殺した人間を笑顔で受け入れ、死者に鞭打つ行為を善とするなど許されないことだ。それを嬉々として行うこの村の人々は狂っているに違いない。
“お前は苦しまなくていいんだ。お前を傷付け、困らせる連中はみんな俺達が追い払ってやる”
“そうだ。お前は今まで通りに生活すればいい。困った事があれば皆に言え、何だって協力してやろう”
“ああ! 畑仕事も代わってやろう、水汲みは女房にやらせよう、森の獣を狩るのはうちの子供たちがやってくれる。お役人様だってお前の分の税は免除してもいいと仰っている! よかったなぁ、お前はなんにも煩わされずに生きていけるんだ!!”
「……どうして……僕にそんな……」
“そんなこと決まってるだろう!”
“みんなお前のことが『好き』だからだよ”
「好き」って何だ?
「好き」なら何でも許すのか? 娘を殺されても、殺した相手がそいつならそんな良い笑顔が出来るのか? 「好き」なそいつが傷付けられたから、我が事のように怒り狂ってつい昨日まで笑い合っていた相手に報復をするものなのか?
「好き」ならそいつの分まで面倒を背負い込むのか? そいつのために金を稼ぎ、そいつの為に寝床を用意し、そいつの為に食べ物を提供し続けるのか。そいつが死ぬまでそれを続けられるのか?
違う、そういうのは違うだろ、そんなものを「好き」とは言わない、「愛している」とは間違っても言わない。だが、その真意を男が知る事は出来ない。どんなに望んでも、その貼り付いたような笑顔の下に隠れた真意を読み解くことが出来ない。
いや……ひとつ、ひとつだけそれを確かめる術があることを、男は思いついた。思いついてしまった。
「……本当に? 本当に、みんな僕のことが『好き』なの?」
“ああ、もちろんじゃないか!”
「なら……」
男はただ、知りたかったのだ。何が真実で何が嘘なのか、自分が間違っているのか皆が正しいのか、狂っているのかいないのか……ただそれだけだったのだ。
次に口をついて出た言葉が、男と、この村の命運を別けた。
「教えてよ……誰が一番、僕の事を『好き』なのか……教えてよ」
ここに、人界の地獄が顕現する。
王都を出て三日の距離、旅行者や行商人が通れるよう整備された道を一台の馬車が行く。主要な都市を結ぶよう舗装されたその街道を行く馬車は、王都を出た大使を乗せた車である。
方角は南、行先は国境の港町。途中二度の宿泊を経て教国の大使、クリスが向かうのは以前彼が仕事で訪れた漁業の町だが、今日は私用でお忍びの訪問だった。
「かつて、今使っている暦よりずっと昔の時代、とある帝国は都市を繋ぐ街道の舗装と整備に力を入れたらしいよ。軍拡に力を入れていたかの帝国は軍隊が通り易い道を作る目的でその政策を執ったらしいけど、次第に旅行者や吟遊詩人の利用も増えたことを受けて宿屋や食堂、馬を交換するための休憩所を設け、その利用者から徴収した料金を税として納めさせることで国中から潤沢な利益を得たという。今僕らが通っているこの道も、アルカーヌムが影も形も無かった時代からずっと残ってる史跡を再利用してるって話だよ」
どこかの歴史書にでも書いてあった知識をつらつらと喋って聞かせるクリス。話しているということは当然相手がおり、これは連れとの二人旅なのだ。相手はもちろん……。
「もう、わたしに関わらないでほしいと言ったはず」
ゴーレムのエステル。いつもと同じように庭園の掃除をしていた彼女は、何の前触れもなく現れたクリスに連れられ、半ば強制的に馬車に乗せられた。服装はあの日の予行演習と称した食事の時のように、クリスが用意した余所行きの服を着せられており、頭にはフリルの付いた愛らしさを覚える帽子を被っていた。
「僕の返答も聞かずに行ってしまったじゃないか。それに対する答えは、ノーだよ。それにあれは予行演習、僕と言う人間を計るのなら本番の後でも遅くはない。それに……王都を出てから既に三日、途中で宿場町に泊まった時にでも逃げ出せたのに、依然として君は僕の傍を離れない」
「それは、あなたが命令したから」
「嘘はいけないよ、エステル。君は僕の力なんて効かないじゃないか。それに、君のマスターは君のご主人様であって、僕は仕事上のパートナー、僕の命令も君は無視できる。ここに僕とこうして居るのは、他でもない君自身の意志による結果なんだよ」
「…………」
「納得はしてない、か。君が怒っているのは、あの日僕がサキュバスに望まぬ事を押し付けたことだね。確かにあの日の事はやり過ぎたと反省してる。君が帰った後はオーナーに彼女を解雇しないよう頼んだし、元を質せば僕が発端なわけだから、もうあの店は利用しないことにする。僕の浅慮な行為で君を不快にさせた事は謝罪させてほしい」
そう言って微笑むクリスに、エステルは嫌悪感から窓の外に顔を背けた。あの食事以来会ってなかったが、久しぶりに見た彼の顔にやはり好意は抱けない。
「わたしは、あなたが大嫌いです」
「それは前も聞いた。まあ、これ以上は無意味な水掛け論になるだけだよ。そんな事よりほら、見えてきた」
窓を開けて身を乗り出すように外を覗くと、道の先に二人の目的地が見えてきた。
青く輝く大海原と、そこに面した港町。以前クリスが仕事で向かった海の幸が美味しいと言っていた場所に、教国の勇者とゴーレムが辿り着く。
町の入口に馬車を停め、燦々と輝く朝の日差しを浴びながら漁師たちが自慢の獲物を卸し売る市場へと移動する。ちなみにだが、流石に四度も袖にされたのでクリスもエステルの手を取ろうとはしなかった。
「賑やかな町だね? 王都の大通りの喧騒とはまた違う、何て言うんだろう……活気っていうのかな、そういうので満ちている。僕の勝手な経験上だけど、この町はイイ町だと思うんだ。君はどう?」
「ええ……そうですね。わたしもそう思います」
「だろう。皆が皆、日々を真面目に、真剣に、そして本気で生きている。誰も自分の生き方を偽ってない、誰も自分の在り方を誤魔化さない……。うん、ここは本当にイイ町だよ」
魚市場で景気よく声を上げる漁師、彼らが沖で釣り上げたばかりの魚を買って行く主婦、父親に憧れて桟橋で釣り糸を垂らす少年少女、ここだけでなくどの港町でも見られるごく普通の光景だ。別段、珍しくもなんともない。
だが、どうしてだろう、そんなどこにでもある当たり前の光景を見つめるクリスの視線が、どこか物悲しい。哀愁を漂わせる表情は、どれだけ望んでも手に入らないと諦めた子供の様でもあった。
「……先に行こうか」
「……はい」
何も言わずその後に続くエステル。大嫌いな男の飄々とした笑みが、今この瞬間はとても弱々しいものに見えていた。
「あ、そうだ。せっかく港町まで来たんだから、ちょっと海の方へ行かない? 近くに浜もあるし、この時季なら遊ぶには申し分ないよ!」
と、次の瞬間にはケロっとしてそう言ってのける。もしエステルがもっと感情豊かだったなら、この瞬間に路地裏の暴漢も真っ青な暴言を吐いていただろう。
土や石で錬成されているゴーレムにとって水辺は鬼門、子供でも知っている常識だ。それを知らないはずはないのに、笑顔で言い放つその神経の図太さにほとほと呆れてしまう。
「わたしをバカにしているのですね」
「まさか! ちょっとしたジョークさ。気分を悪くさせてしまったね、お詫びに……」
「食事にでも誘おう……ですか」
「フフ、前に言ってたイカ墨パスタをご馳走してあげる」
もはやエステルを怒らせることに喜びを覚えている節さえあるようだ。これが彼の本性、人の好い笑みの奥には理由なく他人を見下し、嫌がらせをして怒らせ、そしてその様子を嘲笑っているのだ。勇者にあらざる下衆の極み、それがこのクリスという男。
……本当にそうだろうか?
(違う、何かが……)
感じ取った違和感、初めて言葉を交わした時と今とでクリスの何かが違っているとエステルは気付いていた。今日だけではない、馬車に乗って移動していたこの三日間、それらの違和感はずっと感じていた。
普段は決して飾らない、思ったこと感じたことをそのまま口にし行動に移すのがクリスという男、それが最初に抱いた感想だった。だが今は明らかな言葉で説明するのは難しいが、今のクリスは何かを隠している、偽っていると直感で感じ取っていた。だがそれが何かまでは分からない。
相手の核心が分からず、自らの感覚に確信が持てないもどかしさに、エステルはスカートの袖を掴むことでしか胸のモヤモヤを解消できなかった。
この直後の教訓、真っ黒になった歯を見ながら思ったのは「イカ墨パスタは二度と食べない」であった。
食事の後は再び町に繰り出し、色んな場所を見て回った。
港へ行き漁師の船を眺めながら猫と戯れた。エステルには一匹も寄らないのを見てクリスが笑った。
浜辺へ行き波打ち際から少し離れた場所から海を眺めた。水平線の彼方に見える陸が隣国だと教えられた。
桟橋へ行き子供たちから竿を借りて釣りをした。クリスが絡まった糸をほぐす間に、エステルはバケツ一杯の魚を釣り上げた。
釣った魚を民宿に持ち込み、周りの主婦たちも誘って皆で焼き魚を楽しんだ。肝を除かずに食べて二人揃って固まってしまった。
夕方まで町の人々との交流を楽しんだ後、クリスとエステルはもう一度浜辺へとやって来た。
夕日が水平線に沈み星の反対側へと去って行く、その幻想的な光景を砂浜に座り込んで静かに見つめ続けた。
「今日も楽しかった。旅行はそれを計画している時と、現地までの移動中が一番楽しいって聞いてたけど、君と過ごしている時だけは例外だと気付いたよ」
「わたしもです。あなたがいなかったらもっと楽しめた」
「それは、僕といても一応は楽しめたってことでいいのかな?」
「なんとでも」
どれだけ拒絶の言葉を吐こうとも根気よく話しかけてくるクリス、そのしつこさエステルは根負けしそうだった。普通、ここまで無愛想な女を好む男などいないのが相場だが、まだまだ人間の感情とは分からない。
太陽は既に半分が沈み、もう間もなく光が消えて夜が来る。そろそろ新しい宿を探さなければと立ち上がろうとしたエステル。
その手を、クリスが引き止めた。
「待って。もう少し、このままここにいて」
「宿を確保したいので、離して」
「ねえ、どうか……少しでいいんだ、僕の話を聞いてほしい」
いつになく真剣な物言い、いつも浮かべた笑みは消えており、初めてエステルに断りにくい迷いが生まれた。恐らくここでどれだけ言葉を尽くしたところでクリスは手を離さないだろうと、言葉ではなく感覚で理解できた。
浮かせた腰を砂に落ち着け、無言で先を促す。
「ありがとう。ねえ、エステル。聡明な君のことだから今更言葉にするのもおかしいだろうけど、どうかこの僕の言葉を最後まで聞いてほしい」
「…………」
「エステル、僕は君のことが好きだ。君のその毅然とした在り方に僕は心奪われている。運命なんて言葉は欠片も信じていなかったけど、君の前でなら僕はそれさえ信じることが出来る。何度でも言おう、僕は君を狂おしいほど愛している、恋い焦がれているんだ」
「そう、ですか」
「エステル」
砂の上に置かれたエステルの手にクリスのそれが重ねられる。彼女の赤い目と彼の青い目がじっと互いを捉えて離さない。
「どうか答えてほしい。君は僕をどう思ってる? 変な照れ隠しや、高飛車を気取ったり、つまらない白けるような誤魔化しはしないでほしい。今僕の手に触れ、僕の目を見て、君自身の偽りない気持ちを告げてほしい」
「わたしは……」
これだ、これがいつものクリスだ。初めて宴で出会ったあの時と同じ、飾らぬ素直な気持ちをまっすぐにぶつけてくる、裏も下心も無いこれこそがクリスの本性そのままなのだとエステルはようやく確信できた。
その「まっすぐさ」が、とても痛いのだ。
「わたしは、あなたの気持ちを受け入れることができません」
「どうして! 何故なんだい? はっきりと言ってくれ」
「以前にも言ったはず。わたしは、あなたのことが『嫌い』なんです」
にべもなく突き放した物言いでエステルは遂に手を離した。海とクリスに背を向け、自分のココロが一抹たりとも彼に向けられていないのだと証明しているようだ。
「……本当に、君は僕のことが『嫌い』だって言うのかい?」
「ええ」
「その言葉が君の心、真の言葉だと……そう理解していいんだね?」
「ええ、その通りです」
「ありがとう。その言葉を待ち焦がれていた」
振り向くまいと固く決意していたはずが、その瞬間に背後を向いてしまう。
さっきのクリスの言葉に嘘は無かった。本気で彼はエステルを愛していたし、囁いた言葉に微塵の嘘も偽りも無く心底己の思いの丈をそのまま伝えたものだった。彼は本当にエステルを一人の女性として愛しているのだ。
だが……その愛した女に気持ち足蹴にされたにも関わらず、今のクリスは──、
「フフフフ、ハハハハハハハ……!」
嗤っていた。愛しい相手に袖にされたと言うのに、まるで大望が叶ったかのような満面の笑みで笑っているのだ。
「フハハハ! ずっと、ずっと君を疑っていた! 本当はとっくに僕の力の影響を受けてるんじゃないか、本当はもう僕のことが『好き』になってしまったんじゃないかって。でもそれは僕の思い違いだったよ。君は真剣に心の底から僕を『嫌って』くれているんだね! 嗚呼、神よ! 僕にこんなつまらない力を、祝福を、呪いを、授けてくださった天の父よ! 今日この日を僕はあなたに感謝します!!」
夜の闇に閉ざされた天空に向かい高らかに謳い上げるその姿は、事実彼の望みが叶ったことを表していた。意図せずそれを叶えさせてしまったと知り、エステルの中で危機感が警鐘を鳴らし続ける。
「あなたは、何を……?」
「言ったはずだよ、僕は君の気持が知りたいだけだって。君が本気で、真剣に、心の底から僕に対して何らかの感情を抱いていて、それを飾る事なく素直に出してくれるのをずっと待っていた。僕の望みはねエステル、本当に君が僕に対して思っている事を知りたかっただけなんだよ。それが『怒り』だろうと『悲しみ』だろうと、『憎しみ』だって構わない。それが君の混じり気無し、純粋な気持ちだと言うなら僕はそれを受け入れるだけさ」
「そんなことが……」
「僕はいつだって『本気』だった。それは君が一番よく知っているはず。でもね……ゴードンほどじゃないけど、僕も疑い症なんだ。君の言葉が真実かどうか、完全には信じきれない自分がいる」
そう言ってクリスの手がエステルの袖を切り裂く。二の腕に刻まれたルーンが露わになった。
「君の言葉も、思考も、精神も、肉体も、君自身が最初から持っていたものじゃない。君のご主人様がそう言う風に『設定』しているから、ただそれだけで君は今の受け答えをしたのかも知れないと、僕はそう考えている。かと言ってそれを削ってしまったら、君の自我そのものが消えてしまう。どうすれば君の真に純粋な気持ちを確かめられるのか、僕は君と出会ってから今日この日までずーっと考えてたよ。考えて、考えて……そして思いついたよ。君の芯にある、真なる気持ちを確かめるその手段を!!」
右手が虚空に挙げられ、その指が渇いた音を鳴らした。それを合図に無人の浜辺に大勢の人間の気配が満ちる。
闇夜に紛れて浜辺に揃ったのは、甲冑に身を包み手に手に剣や槍を携えた軍人たち。目測で見えているだけでも数十人、浜辺に入りきらなかった分を合わせれば百、その更に後ろの町から響いてくる軍靴の音を合せれば中隊にも届きそうな軍勢。この港町のどこにそれだけの人数を隠していたのか、いつの間にか消えた住人に替わって現れた彼らは、そもそもアルカーヌムの兵士ではない。
「この鎧、隣国の」
「そう。以前ここを訪れた時にお招きした。僕は王国と隣国の摩擦問題を解消せよとは言われたけど、王国の利益を守れとは言われていない。いずれ滅ぼす国、ここで互いの軍が衝突すれば平和主義の王国だって事を構えるしかなくなる」
そして二国が争っている横合いからレスカティエが全てを掻っ攫う。二国間に挟まれたこの海峡を押さえれば王国だけでなく、その向かいの隣国の海上流通をも絶てる。制海権の横取りこそが教国の狙いだったのだ。
「でもそんなことはどうでもいい。彼等には僕の本懐を遂げるために動いてもらう。さあ、みんな──!!」
偽りの司令官が号令を下す。
「そこにいるゴーレム、エステルを殺してくれ」
僕は岬の灯台で待っている──、そう言って浜辺を去ったクリス。
直後、砂浜に雪崩れ込む兵士200人。エステルたった一人を始末するには過剰な数、だがそんなことは関係ない、彼等は皆一様にクリスの命令を至上として動く。「大好きな」、「愛している」彼のためだけの粉骨砕身する生きた人形たちだ。
意外にも、戦局は膠着していた。
石や土の肌、鉄の骨を持っているエステルにとって剣や槍など木彫りの刃物でしかない。それを自分より遥かに劣る膂力で何度突こうと、彼女の体には傷一つ付かない。逆に刃が欠け、最初に彼女を攻撃していた兵士たちは早々に武器を失う羽目になった。
だが不利なのはエステルも同じだった。人間を過剰に痛めつけられない、それは感情による忌避ではなく魔物の本能として決まっていること。大多数に取り囲まれた乱戦混戦の中で一対一に持ち込み、徒手空拳や関節技で気絶させてようやく一人減らせるのだ。
矢や投石がないだけマシだが、このまま正面からやり合えばいずれ数で劣るエステルが先にスタミナ切れを起こす。その前に、削れるだけ一気に削る。
エステルの魂と言えるルーンは左腕に刻まれたものだけで、右腕のそれは別の用途、魔術を起動させるためのもの。発動させるのは幻覚、誘惑、忘却や暗示、触手の召喚など、とにかく軍勢の動きを阻めるもの全てを一斉に起動させて足止めし、その煽りを受けて混乱している者から順に昏倒させていく。ある程度数を減らしたところで浜辺を脱し、寝静まった市場へと潜伏した。
それがおよそ二時間前のこと。
畳まれた店先の影に身を潜めて息を殺すエステル。無機物から創られた体は長時間呼吸をせずとも容易く活動する。自分を探して町を闊歩する異国の兵士らを観察すると同時に、灯りの消えた民家から完全に人の気配が無くなっていることも確認した。
「やはり、住民は避難済み」
既にクリスはこの町全体を掌握しているのだろう。無闇に巻き込まないためか、あるいは単に邪魔だから移動させただけなのか、それは今明らかにすべきことではない。
今はただ、クリスが待つ場所へ向かうのみ。
「……」
視線の先には宵闇の海を照らす灯台。彼はそこで待ち、自分がそれを追ってくると確信している。
思えばこの行為は不可解だ。最初からエステルを殺すつもりなら他にやりようはいくらでもあるし、わざわざ殺される相手を待つと口にするのもおかしい。仮にその言葉が悪意ある挑発だったとして、誘い込むような真似に一体何の意味がある。これではまるで……。
「……わたしに、憎悪させるため?」
彼は言っていた、自分のまことの心を知りたいと。好悪など問わない、エステル自身の気持ちとそれを証明する行動を見届けたいと。
煽っているのだ、この土人形でしかない我が身を。お前に真と呼べるものがあるならば、僕の元まで辿り着いて証明して見せろ、と。
「汝の欲するところを求めよ……ですか」
胸の奥の何かが熱く駆動する。内燃機関となって燃え盛るその衝動に従い、エステルが星の夜空の下を駆け抜け出した。
三人で探索していた兵士の懐に降り立つと、一瞬でその内の二人の顎を打って気絶させ、残る一人を締め落とす。発見が遅れるよう物陰に運び込んで装備一式を剥がし、長い髪を兜の中に束ねて入れ込み兵士に変装する。そして怪しまれぬよう静かに、そして確実に目的地へと移動する。
だが灯台の周辺は当然とばかりに物々しい雰囲気になっていた。一歩も中に入れまいと数十人もの兵士が灯台への道を塞いでいる。変装しているからと言ってすんなり通してくれそうにない、むしろ看破される確率も高くなる。海側から泳いで行こうにもゴーレムのエステルではそれすら難しい。身動き取れないところを押さえられてしまうだろう。
「ならば、正面から」
奪った剣と槍を携えて、エステルはある程度接近し真正面から突撃する。邪魔な甲冑を走りながら脱ぎ捨て身軽になったその体がヒョウの如く地を駆ける。ものの数秒で最高速度に達した後、両手の武器を立て続けに投擲、それらは二つとも兵士ではなく灯台の壁に突き刺さった。
「はっ!!」
目標に届いたのを確認し、跳躍。見上げる兵士らの頭上を通り過ぎ、刺さった剣の柄を足場に再び跳躍する。
そこから更に上に突き刺した槍の柄に捕まり、鉄棒の大車輪の要領で回転し勢いを付けた後……。
「失礼」
窓を突き破り、エステルは灯台への侵入を果たした。
「あの日と同じだね。違うのは、あの日は朝で、今日は夜。あの日も僕の周りには僕の事が『好き』な人達でいっぱいだった。皆とても親切だった。僕の為に仕事を代わり、僕の為に身の周りの世話をして、僕の為に食事を作ってくれると約束してくれた。あのままそうしていれば僕はきっとあの村の王様になっていたかもね」
窓に身を預けて眼下の様子を見守るクリスの懐古、今は過ぎ去った昔のことを思い浮かべ思い出話に興じている。
「ある日、気になって聞いてみたんだ。『この中で誰が一番僕を好いているのか』ってね。自分でも他人でも何が一番かっていうのは気になる事だよね。だから僕も同じように聞いてしまったんだ、好奇心に負けてね」
「それでどうなったの?」
クリスの元へ辿り着いたエステルがその先を促す。よくぞ聞いてくれたと、はにかんだ笑顔のクリス。
「一人が言った、『向こう一年畑で採れた作物をみんなあげよう』。もう一人が言った、『森の奥でイノシシを十頭狩って肉を振る舞おう』。また一人が言った、『村はずれの山に生える薬草全てを採ってこよう』。俺が、僕が、私が、ワシが……皆こぞって僕への『愛』を証明しようとした。誰もやった事の無い困難に進んで挑戦し、そうすることで自分はこれだけクリスという男を好いているんだ、そう証を立てようとした」
故郷の顔ぶれを懐かしみ虚空を見上げ、そしてこう言う。
「皆、死んだよ。最後には自分こそが一番だと言って刃物を持って、女の人は自分の首を、男の人は別の男の人を、自分が一番になる為だけに殺し合った。切って、刺して、砕いて、焼いて、絞めて、裂いて、それから、それから…………そうして、誰もいなくなった。僕だけが残ったんだ」
「…………」
「笑ってたんだ。あの人達は無残な死骸に成り下がっても僕に『愛』を証明できたと、一人ひとり勝手に満足して、僕を残して勝手に笑いながら死んでいった」
見上げる顔が俯き、そして上げられる。目を隠す前髪を掻き上げ見えたクリスの表情は……。
「ふざけるなよ……」
イラついていた。
「その時気付いた、『この人達は僕のことが好きなんじゃない』って。『僕を好いている自分のことが好きなんだ』ってね。そんな嘘と自己満足で塗り固めた愛なんて、そんなの愛じゃない、そんなのを好きとは呼ばない。好き好き、大好き、愛してる。ああ、うるさいうるさい! そんな嘘を言うな! おためごかしで機嫌を窺ってるつもりか。ウザいんだよ、いい加減にしろよ! その仮面を剥がせよ、どこ見てるんだこっちを見ろ、ちゃんと僕の目を見て物を言ってみろ!! 僕の事を知りもしないで、寄せ集めた薄っぺらいゴミをぶつけてくるな!! 真剣に、本気で、心の底から言えよ! それが出来もしないくせに! でも……でも、でも……!」
いつだってクリスはエステルに対してだけは本心を語っていた。これまでの人生で自分に纏わり付いた余計な物を引き剥がすように、堰を切って流れ出す彼の本音、これが彼の本質なのだ。自分はいつでも本心でぶつかっている、なのにお前達は嘘偽りを繰り返し本心を語ろうとしない。事の真髄はそれ、クリスでなくてもその心は腐るだろう。だがその本質は決して外道でも下衆でも無い。その証拠に、彼は悔いていた。
「でも……死ぬなんておかしいじゃないか。死んじゃったら、もう何も分からないじゃないかあ……」
彼はいつも、本気で、真剣で、心の底から、誰かの「本当」を知りたかっただけに過ぎないのだ。
「分かってるんだ、僕のせいだって。僕が無意識でもそうさせてしまってるんだって。でも、僕は信じたかった。この力が通用しない相手が必ずどこかにいて、その人なら僕への本心を教えてくれるって。あの六人もそうだった! でもあの人達は僕と深く関わろうとしてくれなかった……そんな時、僕は君と出会った。あの日君が僕を拒んでくれたから、僕は希望を持てたんだ」
「わたしのせいだと?」
「いいや、君のおかげさ。嗚呼、エステル! 僕の愛しい人! 何度でも聞くよ、僕をどう思ってる? こんな僕を好きになってくれるかい? 君の為だけに200もの人々の心を踏み躙ったこの僕を、愛してくれるかい?」
「…………」
「もう答える事さえしてくれないんだ。でも、君の気持は理解した。これで僕は……」
窓を開け放つと潮風が灯台の中を吹き荒れる。巻き上がった髪を払って見えたクリスの顔はやはり笑っており──、
「悔いなく、逝けるよ」
窓の外に消えた。
この世に真実は在った。それがこの現世でクリスが得られた答え、全てに納得がいった。
だからこそ、もう生きている意味が無い。
耳を打つ潮騒の音色に身を任せ、閉じた目蓋の裏に見えるのは懐かしい故郷と、かつて愛を誓った人の顔。姉のように慕い、もうその本心を問う機会を永遠に失ってしまった人。彼女が先にいるから怖くはない。
硬い地面に激突するまでの僅かな時間で過去を振り返り、全てを受け入れたクリスの体は……。
「どこへ行くんです」
その右手を掴んで引き止められた。その手を掴むのは、エステルだった。
「何で、何で助けるんだよ! 君は僕のことが嫌いなんだろ、許せない、死んでしまえばいいと思ってるんだろ! ならどうして引き止めるような真似をするんだ!?」
「何故? あなたが何故と問うのですか? 『怒り』、『恐れ』、『悲しみ』、『憎しみ』……どうしてそれしか信じない? ヒトなら、生きているのなら……自分が誰に好かれ、どう愛されているかを知る方がずっと重要なはず。どうしてあなたはそれを確かめない、どうして逃げようとする?」
「こんな力を持った僕が、今更そんな言葉のどこを信じられるんだ!? 僕に殺意を抱く人でさえ、僕を前にすればナイフを持ってない手で握手を求めて来る! そんな連中の言う『好意』や『愛』なんて信じられる訳がない! 偽って嘘を吐き、思ってもないことを馬鹿の一つ覚え、オウム返しにしているだけじゃないか!!」
「だから、あなたは『悪意』しか信じないと? 自分を拒み、傷付け、蔑ろにする言葉しか信用できないと? 本当は……あなた自身が一番、愛されたがっているのにですか?」
「そうだ!!」
「嘘を言うな!!」
その瞬間、ただ掴んでいるだけだったエステルの手が恐ろしい力でクリスを引き上げる。こっちの腕がちぎれそうな感覚を味わいながら、一瞬灰色になった視界はさっきまでいた灯台の中に移っていた。
何が起きたか理解しないクリス。だがそんな彼の首根っこを掴んで立たせ、壁に追いやるエステル。その顔はいつも見慣れた鉄面皮ではなく、浅黒い頬を上気させ唇を噛みしめ眉もひそめ、明らかに「怒って」いた。
「あなたこそ嘘吐きだ! いつもわたしに対して真実しか語らなかったその口は、一体どうした! 無遠慮に、不躾に、わたしの中に勝手に入り込んでくるいつもの強引さはどうした!! 急に手の平を返してしおらしくして、そうすればわたしの心を掴めるとでも思いましたか!」
両手で胸元を掴んでいたが、その左手をゆらりと上げ……。
「馬鹿にするな!!」
鋭い一撃がクリスの右頬を打った。いや、それはビンタではなく殴ったと言えるぐらいの威力で、クリスは自分の口内に鉄の味を感じる。
俯き血の塊を吐き出すクリス、だがそれさえ許さず胸倉を押して壁に立たせる。そして宣言する。
「あなたの思い通りになんて動いてやらない。嫌いな人に看取られて死にたいのなら、わたしは……わたしは、『嫌い』なまま、あなたを『愛する』と約束する」
「はっ……」
エステルの決意を鼻で笑う。何をおかしなことをと、半ば本心から笑った。
「そんなこと、出来るはずが……」
「証明しますよ。わたしの言葉が、嘘ではないと」
服の留め具に手を掛けて、それをゆっくりと外す。クリスが与えた服、彼の気持ち全てが乗せられた、「重く」、「まっすぐ」な、そして全てを漂泊する「純粋さ」で出来ていたそれを脱ぎ捨て、エステルの汚れ無い肢体が露わになる。
「わたしの匂いを、味を、肌を、声を、目を……わたしを創る全てを感じて。あなたの、『本当』を……わたしに刻んで」
暗闇に僅かに差し込む月明かり。罪を犯したあの時と同じ、天に淡く輝く月の光を今度は逃げずに浴びている。
「……ァ、ハァ……ン」
窓から入る涼しげな風とは対照的な、アツく熱を帯びた悩ましげな吐息が狭い空間に反響する。耳を澄まして僅かに聞こえる音、だが発生源である二人の間にはその音だけしか聞こえていない。もうお互いの真の音しか聞こえない。
床に仰向けになったエステルと、それに覆い被さるクリス。
文字通りの覆って、被さっていた。上から見ればまるで型でも取ったようにぴったりと、手足を指の先まで絡み合わせ互いを捉えて離さず、口づけは数分前から、挿入に至っては始まった時既に済んでいた。
前戯などすっ飛ばしたオス本位の獣の交わり。だが怒張を包み込むエステルの女陰は煮えるように熱く、土と石を捏ねて出来たその体のどこにそれだけあったのか溢れ出る蜜を抑えることすらせず、ひたすら自分と相手の快楽を引き出す媚薬となって香しい匂いを発していた。
「んっ、んっ、んっく! っはぁ、あああぁ!」
動いてはいない、クリスは己の分身を挿入してから十数分の間一度も腰を動かさない。時折思い出したように身じろぐが、それも姿勢を変える以上の意味を持たない。だがたったそれだけの稚拙な動きが、既に先端が触れている肉の小部屋を擦るようノックして、エステルの脳髄に快楽の電気信号を叩き込む。
「あぁっ、そこは……はぁんっ!!」
快楽の影響で興奮した乳房の先が膨れているのを見つかり、そこをクリスの口が襲う。勢いよく迫った口はその中の歯で乳首を噛み、更にその奥の舌が充血したそこを入念に舐め回す。まるで赤ん坊。だが熟れた肢体の表面から流し込まれる淫靡な快楽は四肢から力を奪い、覆い被さるクリスの体に対する抵抗を完全に無くしていく。
初めて味わう「好きにされる」感覚にエステルは翻弄されていた。路地裏の浮浪者相手に咥え込むことしか知らなかったエステルにとって、男の側から一方的に与えられるだけの快楽は未経験、その結果はまさに未知数だ。
「ーッ!! 〜〜〜ッ、ッ!!?」
産毛ひとつ無い玉のような肌をクリスの唇が吸う度に、もどかしくも鮮烈な刺激が、脳と今まさに交わっている下腹部を直撃する。首筋や胸の谷間を舌が這うだけで全然関係ないはずの膣内が苦しいぐらい収縮を繰り返し、反射的に逃げようと腰を動かせば今度は連続して軽く達してしまう。まるで蛇に絡め取られたネズミだった。
毒蛇のように快楽という毒を流し込み、大蛇のように悶える体をがっちり押さえ込んで逃がさない。全てのオスがメスを仕留めようと本能的に取る行動。それが意図してか否かは分からないが、エステルの肉体は悦楽の崖っぷちに墜落しようとしていた。
「あ……な、なに! これぇッ!?」
大きく緩かった呼吸が、短く浅い間隔に変わる。全身に網を張る神経電気が一斉に逆流を始めたような、肌や指先の感覚が無くなり、頭と繋がっている部位だけを残して他は消え失せてしまうような錯覚を覚える。すぐ背中が床に接しているのに、浮かび上がる快楽が高所からの墜落に似た体内を突き抜けるものに激変する。
「あァやだ、落ちる……!! 落ちてしまうゥゥゥーーッ!!?」
快楽混じりの恐怖感に追い立てられて逃げ出そうとする。だがそれをどこにも行くなとクリスが肩を掴んで引き戻した、その瞬間……。
「ア゛────ッッッッ!!!?」
怒張と肉部屋の先端がそれまで以上に強く擦れ合い、それがきっかけになった。
「ああっ! あああぁぁぁァァァッッッッ!!! イクっ、イ゛ク゛ゥゥゥゥゥッッッッッッッ―――!!!」
全身の神経と脳がそっくり爆薬に置き換わり、それが炸裂したような強烈な快感。津波のように下腹部から押し寄せ、嵐のように神経をバラバラに引き裂き、視界に星が瞬く。痙攣する背中が自然と弓形に反り返り、それをクリスが抱いて押さえるから体内の快楽の濁流が行き場を求めてエステルの全身を蹂躙する。じたばたと勝手にもがく両脚が支えを欲し自然とクリスの下半身を挟み込みホールドする。
極大の快感を得たのはクリスも同じだった。普段ならマグマのように堰を切って飛び出す欲望が、噴き出すのではなく失禁のように流れ出る感覚で開放された。白濁が一気に飛び出すのではなく、ドロドロと流れ出ることで快楽の電気信号がいつもとは比べものにならない長時間に渡って持続する。
「ア゛ーっ、ア゛ア゛ァーーっ……!!」
十秒、二十秒、三十秒……一分、もしかすると五分もの間射精が続き、その間エステルは胎内を焼き焦がす欲望の熱に快楽を叩き込まれ続けた。半開きの口、トロンと溶けた目、余剰水分を排出する尿道、そしてクリスを迎える膣、全身の穴という穴から快楽の証となる液体を漏らし続ける。
朦朧とする意識の中、エステルに僅かに残っていた理性の欠片が自分を快感の渦に叩き落とした男を目にさせた。
クリスは、泣いていた。その両目ら滂沱の涙を流し、熱い雫がエステルの胸にいくつも流れ落ちる。
だがその視線はエステルではなく、彼女のずっと後ろにいるのであろう何かを幻視していた。
「姉さん……姉さん……」
遠く故郷の残影に見えるかつての想い人。その本心を問う機会を、他ならない自分のせいで永遠に失ってしまった、二度とその心を知ることの出来ない人。
「姉さん、僕を……好きだって言ってよ。愛してるって……言ってくれよ。姉さん、僕を、愛してくれよ……」
クリスは泣いた。子供のように言葉にならない泣き声を上げ続けた。その慟哭は夜明けの水平線が白むまで止まらず、その間ずっと、エステルは彼を抱き寄せていた。
「朝です。もう充分寝たでしょう」
「まだ。もう少しこの柔らかさを楽しませてほしい」
「わたしは自分の意志で表皮を岩石並みに固くできます」
「起きるよ」
「待って。わたしはあなたに骨抜きにされた上に、寝落ちしたあなたをずっと支えてた。力が入らないから立たせて」
「……良いのかい?」
「ええ」
「お手をどうぞ」
「ありがとう」
「……ねえ、エステル。僕のこと、『愛してる』?」
「ええ、『大嫌い』」
もしあんたが相手の顔だけ見て好きになるならそれでもいい。世間様の言う第一印象なんてのは結局、顔と服装だしな。アラヤダ、あの人イケメン! オッ、いいカオしてるぜ!
でも、そこから先を望むのなら、顔や家柄、性格なんていう「仮面」をいつまでも愛でるのは止めて、そいつの「素顔」を拝む日が来る。そん時になって勝手に失望したり、我慢する、なんて失礼なことはしちゃならねえと俺は思うぜ!
でもわざわざ「どこを」愛してるなんて言うのも野暮だしな。理由の無い愛ってのも時にはイイもんだ。まったく、人生ってのは生き辛いねえ!
うん? 奴さんは今も大使してるのかって? 残念ながら奴さんの国はもう滅んで、今の大使館には別の国の奴が入ってるよ。
ああ、そうそう! 今度新しい大臣を決める選挙があるだろう? 俺ってばちょいとその宣伝を頼まれてんだよ。こちとらただの芝居屋なんだがねぇ〜。そんな選挙の手伝いなんかさせていいのかよ?
これが似顔絵なんだが、ほれ、なかなかのイケメンだろ? 男も虜にするってもっぱらのウワサさ! 何年か前の王都議会議員選ではぶっちぎりの一位で当選し、亡きレドル伯を大変尊敬されて、ゆくゆくは外務大臣に就任すると公言してるぜ!
まあ、街の野郎どもはこいつの美人秘書見たさに票を入れてるって話もあるんだがな!
とまあ、何はともあれ、ここは一つ頼んまさあ!
クリス議員に清き一票を、ってな!!
男はとある小国同士の国境付近にある小さな農村で生まれ育った。国同士は互いに少ない土地を巡って争い、男が住む村は数年周期でその属する国を変え、どちらから見ても辺境に当たるその村の住人はその度に農奴として働かされていた。
だが財産を持て、婚姻の自由が認められいることを思えば、奴隷よりはマシ……そう前向きに考えながら住人たちは日々を慎ましく、誠実に生きていた。どうせ村を出て暮らせる宛もなく、それならこの小さな村で身を寄せ合い助け合いながら生きていこうとしていた。
男が産まれた時は難産だった。丸一日掛かって取り上げられた時、親戚だけでなく村の全員がその誕生を祝福し、その命を産み落とした母を称えた。誕生の困難を無事に乗り越えたこの子は、きっとたくましい大人に成長してくれる。我々がこの子を守り、育てよう……村全体が男を我が子のように可愛がり始めたのがこの時だった。
男性に対し使う言葉ではないが、男はそれこそ蝶よ花よと育てられ、村人全員の愛を受けてすくすくと育った。曲がらず、歪まず、まっすぐに。諸人の祝福に応えるかのように、彼はひたすら「まっすぐ」に育って行った。
だが農奴を生きるのは楽ではない。明けても暮れても畑の土と格闘し、半年経って得た収穫物の大半を税に徴収される。自分達の食い扶持は常に最低限、冬には必ず寒さと飢えで死ぬ者がいた。たまに村の生活に嫌気がさして村を出ようとした者もいたが、農奴は生まれついた村を離れることが出来ないと決められており、見つかって奴隷に売り飛ばされたりもした。
男も初めはそうだった。痩せた体に鞭を打って毎日畑に出ては土を耕し、採れた作物を税として役人がいる建物まで納めに行っていた。父も母も、両隣の住人も、村人全員がそうしていたから、男も疑うことなくそれらを日課に暮らしていた。
だがある時、ついこう言ってしまった。
「もう畑を耕したくないよ……」
嫌気がさしていたのだ。汗水垂らして収穫した麦も野菜も、糞を掃除して肥え太らせた家畜も、全てを役人に横取りされ続ける生活。冷静に考えてみればなんと馬鹿馬鹿しいのか、その現実を思い知って男はそう零した。逃れられるはずなどないのに、生まれた現実を受け入れない言葉は本来なら切って捨てられるはずだった。
だが……。
“そうか。なら、お前はもう出なくていい。あとは父さんと母さんに任せなさい”
わがままを言う息子を突き放した言い方、ではなかった。あの時の充実した笑顔を、男は忘れられない。
その日から男の分の畑を耕すのは両親の仕事になった。自分達の分と合わせ息子の分まで耕す、それだけ見ればわがまま息子が仕事を放棄して昼行燈で暮らしているのかと思われるのが普通だった。だが周囲の誰も男を責めず、見捨てようとはしなかった。いつもと変わらぬように接し、会話し、そして笑い合った。
両親が農耕に出て帰って来るまでの一日中、男は家で怠惰に過ごし、年下の子供に混じって遊び、村の老人たちの茶飲み話に耳を傾けて日々を送った。
二年後の冬、両親は過労で倒れ寒さが追い打ちしてこの世を去った。
ずっと畑を両親に任せきりだった男は、自分の置かれた立場を理解して青ざめた。畑の耕し方などとうに忘れ、男は税はおろか自分の食い扶持を稼ぐ事すら出来なくなった。いくら嘆こうとも後の祭りだった。
放蕩息子の末路、ここに極まれり。今度は誰も手を差し伸べてくれないと絶望しかけていた。
しかし……。
“おお、可哀想に! うちにおいで。お前一人を食わせるくらいどうということはない! さあ、おいで”
ずっと隣に住んでいた顔見知り、伯父のように慕っていた存在が男に手を差し伸べた。その家は子沢山の六人家族、男が入り込む余地など無いはずだった。
だが男はすぐさま飛びついた。そして今度は真面目に働いた。例え大半が自分の物ではなくなるのだとしても、自分の食べる分は自分で稼がなければという意識が男の中で芽生えていた。両親の死がそうさせたのか、あるいは手を差し伸べてくれた家主への恩義か……それとも、それらとは別の理由なのか。
男は恋をした。相手は自分を拾ってくれた家主の長女。自分より二歳年上でいつも「姉さん」と呼び慕い、幼い頃から姉代わりに接してくれていた彼女に男は淡い恋心を抱いていた。閉塞した農村の生まれとは思えないほど優しく、情緒に溢れ、誰からも好かれる人だった。それが一つ屋根の下で暮らし始め、男の慕情は日に日に大きく強く膨れ上がっていき、やがて憧れは恋慕に変わり、相手もそれを察してくれていたのか……。
「僕は、あなたのことが好きです! 愛しています! どうか、結婚してください!」
“……はい!”
父がいぬ間に逢瀬を重ね、弟妹たちが眠った夜に情を交わした。それは誰かに知られることを恥じたからか、秘めることにスリルと快感を覚えたからか、それすら分からない。確かなのはこうして抱き寄せている女と自分が愛し合っている事だけ、そしていずれは名実ともに結ばれるのだと男は思っていた。
変わらぬ愛、永遠の愛を二人は誓った。きっと周囲の誰もが自分達を祝福してくれる……そう思い込んでいた。
思い込んでいたのだ……相手が本当に、心の底から自分を愛してくれているのだと。
その夜、男は畑仕事の帰りに女を見かけた。普段はこんな時間に出歩かないはずの彼女、いつもと違う行動をしていたのを不審に思って静かに後をつけた。
行先は家ではなく、そこから少し離れた森の中、獣道を伝って行った先で小川に出た。昼間たまに魚を採りに来る場所、夜に来るような所ではないそこは当然この時間は闇に閉ざされており、僅かな月明かりを水が反射しているだけだった。
そこで男は……見てしまった。
「あぁ、そんなっ!!?」
幼い頃から自分と育ち、今は同じ屋根の下、いずれは将来を誓い合ったはずの愛しい女が……別の男性に組み敷かれ、啼かされていた。川のせせらぎと虫の音、時折聞こえるフクロウの鳴き声に混じり、肉欲に溺れた男の息遣いと女の喘ぎ声が、愛した男の耳朶を激しく打った。
暴漢に襲われているのだ、そう思いたかった。
だが男は見てしまったのだ。貫く怒張が腰と共に秘部を擦り上げる度に、女が嬉し泣きにも似た喘ぎ声を上げるのを。そしてその顔が、自分は見たことが無いような満たされたものであるのを。
直感で分かってしまった。彼女が愛しているのは己ではなく、今ここで獣のように交わりを要求するこいつだと。
ならば今までのは? 愛していると、将来を共に過ごそうと言ってくれたあの言葉は、嘘だったのか? 自分を騙し、謀り、欺いていたとでも言うのか!?
それを問い質すより先に、男の激情は手にしていた農具で二人の頭を砕いていた。間男を背後から後頭部を砕いて殺し、唖然としている女の顔にクワの刃を振り下ろした。何度も何度も、間男ではなく自分を騙し続けていた彼女の方を、それまでの愛しさ全てを恨みに変えて、男は頭が味噌になるまで叩き付けた。
姦通は身分に関わらず死罪になる。放っておいても役人に露見すれば二人は裁かれるはずだった。だが激情に身を任せた反動で冷静になった男は、次第に自分のしたことを理解させられる。
「う、うわあああああああぁぁあぁああっ!!!」
死体を隠匿するのも忘れ、まだ娘が帰って来ないと不思議がる彼女の父を無視し、男は寝室に飛び込んで眠りに落ちようとした。悪い夢を見たんだと何度も言い聞かせ、全てを見ていた月の光から逃れようと毛布を頭から被り、男は震えながら一睡も出来ぬまま朝を迎えた。
当然、翌日に死体が見つかり村は大騒ぎになった。老いも若いも総出で農具を取り、役人まで引っ張り出しての犯人探しが始まった。見つかれば死罪、いやさ村人全員で私刑にされるだろう。そうなれば命は無い。幸い皆は調子が悪いと言った自分の言葉を信じている、それなら今の内にイチかバチかで逃げ出すか?
だが男の中の良心と信仰心がそれを認めなかった。愛する者に裏切られた今、何を生にしがみ付く理由があろう。男は神妙な面持ちで村人の前で全てを打ち明けた。
「みんな、聞いて下さい! 僕がっ……僕です、僕が二人を殺したんです!! 人殺しは僕なんだぁぁああああーっ!!」
懺悔と悔恨の叫び、許してもらえるとは毛頭思っておらず、それでも男は村人らに睨まれる中で土に顔を擦りつけて告白した。あるいは、姦通の罪を犯した彼女も一緒の地獄にいると思ったからこそ、彼女と同じ場所に行こうとしての自殺願望の表れだったのか。どちらにせよ男の命運は決まったも同然だった。
だが、それもまた彼の思い込みだった。
目を閉じて沈黙の中待つも、石つぶてどころか罵倒の言葉ひとつも投げ付けられない。恐る恐る顔を上げて男の目に飛び込んだのは……。
“おお、クリス! なんと可哀想な。お前ほどの男がそこまで追い詰められていたなんて……”
“すまない、許しておくれ。お前を苦しめていたのはこの女だったんだね”
“お前は悪くないよ。悪いのは、お前を困らせていたこの女なんだ!”
犯人探しの熱気に満ちていた村の広場は、一転して不気味なまでに和やかな雰囲気に満たされた。誰もが心底ほっとしたように笑顔に包まれ、すぐそこに自分達の仲間の惨殺死体があるのに、その二人を殺した犯人が今まさにここにこうしているにも関わらず、村人たちの憎悪は既に男に向けられていなかった。
安心しているのだ……二人を殺したのが獣や山賊ではなく、同じ住人の男だったことに。
だが話はそれだけでは終わらなかった。
“そうだ、悪いのはこいつらの方なんだ! 俺達の大好きな、愛するこの子を困らせやがった、悪い連中なんだ!!”
“どうする?” “どうするんだ?”
“報いを、この子を困らせた報いを!”
“だが報いは受けている”
“まだだ! こうするんだ!!”
村人の一人がどこから持ち出したのか壷一杯に入った液体を死体にぶちまける。油だ、松明の先端に塗る可燃性のそれを、女と間男の死体にぶちまけたのだ。
もう何をするのか、男には理解できてしまった。
「待って……待ってよ、悪いのは僕なんだ、僕は人を殺した! 裁かれるのは僕のはずだろう、やるのなら僕を……お願いだっ!!!」
亡骸に火を点ける前に飛び込み油を自らの体にも塗りたくる。臓腑の奥も焼けとばかりに泥が混じった油を飲み干し、さあ焼き殺せと大の字になって死骸に折り重なった。後は激昂した村人らが火を投げ入れれば死ねる……。
だがそれを止めたのは、やはり村人たちだった。
“何やってんだ、邪魔すんじゃねえ!”
“ああ、危ないからお前はどいてな!”
口々に騒ぎ立てながら数多の腕が男を刑場から引きずりおろす。お前は後だ、そう言ってくれればどれだけ救われただろう。だが彼らは心の底から男を心配し、危ない目に合わせたくないという親切心だけで動いていた。
そして、火が放たれる。
“よぉく見とけよぉ! お前を傷付けた報いは受けさせるからなぁ〜!”
火を放ったのは、彼女の父親。四人の子供で唯一の女の子だった娘をとても可愛がり、彼女に対して怒る所など一度も無かったはずの父親。それが今や既に死体になった娘に対し過剰なまでの憎悪に塗れ、もう男の手によって報復は済んでいるにも関わらず、まるで己自身が傷付けられたような剣幕で我が子に対し復讐しようとしていた。
炎が二人分の肉塊を舐めるように燃やす様を、男は呆然自失の状態で見せ付けられていた。
「どうして……こんな、ことに」
おかしい、この村は異常だ。理由のあるなしに関わらず、人を二人も殺した人間を笑顔で受け入れ、死者に鞭打つ行為を善とするなど許されないことだ。それを嬉々として行うこの村の人々は狂っているに違いない。
“お前は苦しまなくていいんだ。お前を傷付け、困らせる連中はみんな俺達が追い払ってやる”
“そうだ。お前は今まで通りに生活すればいい。困った事があれば皆に言え、何だって協力してやろう”
“ああ! 畑仕事も代わってやろう、水汲みは女房にやらせよう、森の獣を狩るのはうちの子供たちがやってくれる。お役人様だってお前の分の税は免除してもいいと仰っている! よかったなぁ、お前はなんにも煩わされずに生きていけるんだ!!”
「……どうして……僕にそんな……」
“そんなこと決まってるだろう!”
“みんなお前のことが『好き』だからだよ”
「好き」って何だ?
「好き」なら何でも許すのか? 娘を殺されても、殺した相手がそいつならそんな良い笑顔が出来るのか? 「好き」なそいつが傷付けられたから、我が事のように怒り狂ってつい昨日まで笑い合っていた相手に報復をするものなのか?
「好き」ならそいつの分まで面倒を背負い込むのか? そいつのために金を稼ぎ、そいつの為に寝床を用意し、そいつの為に食べ物を提供し続けるのか。そいつが死ぬまでそれを続けられるのか?
違う、そういうのは違うだろ、そんなものを「好き」とは言わない、「愛している」とは間違っても言わない。だが、その真意を男が知る事は出来ない。どんなに望んでも、その貼り付いたような笑顔の下に隠れた真意を読み解くことが出来ない。
いや……ひとつ、ひとつだけそれを確かめる術があることを、男は思いついた。思いついてしまった。
「……本当に? 本当に、みんな僕のことが『好き』なの?」
“ああ、もちろんじゃないか!”
「なら……」
男はただ、知りたかったのだ。何が真実で何が嘘なのか、自分が間違っているのか皆が正しいのか、狂っているのかいないのか……ただそれだけだったのだ。
次に口をついて出た言葉が、男と、この村の命運を別けた。
「教えてよ……誰が一番、僕の事を『好き』なのか……教えてよ」
ここに、人界の地獄が顕現する。
王都を出て三日の距離、旅行者や行商人が通れるよう整備された道を一台の馬車が行く。主要な都市を結ぶよう舗装されたその街道を行く馬車は、王都を出た大使を乗せた車である。
方角は南、行先は国境の港町。途中二度の宿泊を経て教国の大使、クリスが向かうのは以前彼が仕事で訪れた漁業の町だが、今日は私用でお忍びの訪問だった。
「かつて、今使っている暦よりずっと昔の時代、とある帝国は都市を繋ぐ街道の舗装と整備に力を入れたらしいよ。軍拡に力を入れていたかの帝国は軍隊が通り易い道を作る目的でその政策を執ったらしいけど、次第に旅行者や吟遊詩人の利用も増えたことを受けて宿屋や食堂、馬を交換するための休憩所を設け、その利用者から徴収した料金を税として納めさせることで国中から潤沢な利益を得たという。今僕らが通っているこの道も、アルカーヌムが影も形も無かった時代からずっと残ってる史跡を再利用してるって話だよ」
どこかの歴史書にでも書いてあった知識をつらつらと喋って聞かせるクリス。話しているということは当然相手がおり、これは連れとの二人旅なのだ。相手はもちろん……。
「もう、わたしに関わらないでほしいと言ったはず」
ゴーレムのエステル。いつもと同じように庭園の掃除をしていた彼女は、何の前触れもなく現れたクリスに連れられ、半ば強制的に馬車に乗せられた。服装はあの日の予行演習と称した食事の時のように、クリスが用意した余所行きの服を着せられており、頭にはフリルの付いた愛らしさを覚える帽子を被っていた。
「僕の返答も聞かずに行ってしまったじゃないか。それに対する答えは、ノーだよ。それにあれは予行演習、僕と言う人間を計るのなら本番の後でも遅くはない。それに……王都を出てから既に三日、途中で宿場町に泊まった時にでも逃げ出せたのに、依然として君は僕の傍を離れない」
「それは、あなたが命令したから」
「嘘はいけないよ、エステル。君は僕の力なんて効かないじゃないか。それに、君のマスターは君のご主人様であって、僕は仕事上のパートナー、僕の命令も君は無視できる。ここに僕とこうして居るのは、他でもない君自身の意志による結果なんだよ」
「…………」
「納得はしてない、か。君が怒っているのは、あの日僕がサキュバスに望まぬ事を押し付けたことだね。確かにあの日の事はやり過ぎたと反省してる。君が帰った後はオーナーに彼女を解雇しないよう頼んだし、元を質せば僕が発端なわけだから、もうあの店は利用しないことにする。僕の浅慮な行為で君を不快にさせた事は謝罪させてほしい」
そう言って微笑むクリスに、エステルは嫌悪感から窓の外に顔を背けた。あの食事以来会ってなかったが、久しぶりに見た彼の顔にやはり好意は抱けない。
「わたしは、あなたが大嫌いです」
「それは前も聞いた。まあ、これ以上は無意味な水掛け論になるだけだよ。そんな事よりほら、見えてきた」
窓を開けて身を乗り出すように外を覗くと、道の先に二人の目的地が見えてきた。
青く輝く大海原と、そこに面した港町。以前クリスが仕事で向かった海の幸が美味しいと言っていた場所に、教国の勇者とゴーレムが辿り着く。
町の入口に馬車を停め、燦々と輝く朝の日差しを浴びながら漁師たちが自慢の獲物を卸し売る市場へと移動する。ちなみにだが、流石に四度も袖にされたのでクリスもエステルの手を取ろうとはしなかった。
「賑やかな町だね? 王都の大通りの喧騒とはまた違う、何て言うんだろう……活気っていうのかな、そういうので満ちている。僕の勝手な経験上だけど、この町はイイ町だと思うんだ。君はどう?」
「ええ……そうですね。わたしもそう思います」
「だろう。皆が皆、日々を真面目に、真剣に、そして本気で生きている。誰も自分の生き方を偽ってない、誰も自分の在り方を誤魔化さない……。うん、ここは本当にイイ町だよ」
魚市場で景気よく声を上げる漁師、彼らが沖で釣り上げたばかりの魚を買って行く主婦、父親に憧れて桟橋で釣り糸を垂らす少年少女、ここだけでなくどの港町でも見られるごく普通の光景だ。別段、珍しくもなんともない。
だが、どうしてだろう、そんなどこにでもある当たり前の光景を見つめるクリスの視線が、どこか物悲しい。哀愁を漂わせる表情は、どれだけ望んでも手に入らないと諦めた子供の様でもあった。
「……先に行こうか」
「……はい」
何も言わずその後に続くエステル。大嫌いな男の飄々とした笑みが、今この瞬間はとても弱々しいものに見えていた。
「あ、そうだ。せっかく港町まで来たんだから、ちょっと海の方へ行かない? 近くに浜もあるし、この時季なら遊ぶには申し分ないよ!」
と、次の瞬間にはケロっとしてそう言ってのける。もしエステルがもっと感情豊かだったなら、この瞬間に路地裏の暴漢も真っ青な暴言を吐いていただろう。
土や石で錬成されているゴーレムにとって水辺は鬼門、子供でも知っている常識だ。それを知らないはずはないのに、笑顔で言い放つその神経の図太さにほとほと呆れてしまう。
「わたしをバカにしているのですね」
「まさか! ちょっとしたジョークさ。気分を悪くさせてしまったね、お詫びに……」
「食事にでも誘おう……ですか」
「フフ、前に言ってたイカ墨パスタをご馳走してあげる」
もはやエステルを怒らせることに喜びを覚えている節さえあるようだ。これが彼の本性、人の好い笑みの奥には理由なく他人を見下し、嫌がらせをして怒らせ、そしてその様子を嘲笑っているのだ。勇者にあらざる下衆の極み、それがこのクリスという男。
……本当にそうだろうか?
(違う、何かが……)
感じ取った違和感、初めて言葉を交わした時と今とでクリスの何かが違っているとエステルは気付いていた。今日だけではない、馬車に乗って移動していたこの三日間、それらの違和感はずっと感じていた。
普段は決して飾らない、思ったこと感じたことをそのまま口にし行動に移すのがクリスという男、それが最初に抱いた感想だった。だが今は明らかな言葉で説明するのは難しいが、今のクリスは何かを隠している、偽っていると直感で感じ取っていた。だがそれが何かまでは分からない。
相手の核心が分からず、自らの感覚に確信が持てないもどかしさに、エステルはスカートの袖を掴むことでしか胸のモヤモヤを解消できなかった。
この直後の教訓、真っ黒になった歯を見ながら思ったのは「イカ墨パスタは二度と食べない」であった。
食事の後は再び町に繰り出し、色んな場所を見て回った。
港へ行き漁師の船を眺めながら猫と戯れた。エステルには一匹も寄らないのを見てクリスが笑った。
浜辺へ行き波打ち際から少し離れた場所から海を眺めた。水平線の彼方に見える陸が隣国だと教えられた。
桟橋へ行き子供たちから竿を借りて釣りをした。クリスが絡まった糸をほぐす間に、エステルはバケツ一杯の魚を釣り上げた。
釣った魚を民宿に持ち込み、周りの主婦たちも誘って皆で焼き魚を楽しんだ。肝を除かずに食べて二人揃って固まってしまった。
夕方まで町の人々との交流を楽しんだ後、クリスとエステルはもう一度浜辺へとやって来た。
夕日が水平線に沈み星の反対側へと去って行く、その幻想的な光景を砂浜に座り込んで静かに見つめ続けた。
「今日も楽しかった。旅行はそれを計画している時と、現地までの移動中が一番楽しいって聞いてたけど、君と過ごしている時だけは例外だと気付いたよ」
「わたしもです。あなたがいなかったらもっと楽しめた」
「それは、僕といても一応は楽しめたってことでいいのかな?」
「なんとでも」
どれだけ拒絶の言葉を吐こうとも根気よく話しかけてくるクリス、そのしつこさエステルは根負けしそうだった。普通、ここまで無愛想な女を好む男などいないのが相場だが、まだまだ人間の感情とは分からない。
太陽は既に半分が沈み、もう間もなく光が消えて夜が来る。そろそろ新しい宿を探さなければと立ち上がろうとしたエステル。
その手を、クリスが引き止めた。
「待って。もう少し、このままここにいて」
「宿を確保したいので、離して」
「ねえ、どうか……少しでいいんだ、僕の話を聞いてほしい」
いつになく真剣な物言い、いつも浮かべた笑みは消えており、初めてエステルに断りにくい迷いが生まれた。恐らくここでどれだけ言葉を尽くしたところでクリスは手を離さないだろうと、言葉ではなく感覚で理解できた。
浮かせた腰を砂に落ち着け、無言で先を促す。
「ありがとう。ねえ、エステル。聡明な君のことだから今更言葉にするのもおかしいだろうけど、どうかこの僕の言葉を最後まで聞いてほしい」
「…………」
「エステル、僕は君のことが好きだ。君のその毅然とした在り方に僕は心奪われている。運命なんて言葉は欠片も信じていなかったけど、君の前でなら僕はそれさえ信じることが出来る。何度でも言おう、僕は君を狂おしいほど愛している、恋い焦がれているんだ」
「そう、ですか」
「エステル」
砂の上に置かれたエステルの手にクリスのそれが重ねられる。彼女の赤い目と彼の青い目がじっと互いを捉えて離さない。
「どうか答えてほしい。君は僕をどう思ってる? 変な照れ隠しや、高飛車を気取ったり、つまらない白けるような誤魔化しはしないでほしい。今僕の手に触れ、僕の目を見て、君自身の偽りない気持ちを告げてほしい」
「わたしは……」
これだ、これがいつものクリスだ。初めて宴で出会ったあの時と同じ、飾らぬ素直な気持ちをまっすぐにぶつけてくる、裏も下心も無いこれこそがクリスの本性そのままなのだとエステルはようやく確信できた。
その「まっすぐさ」が、とても痛いのだ。
「わたしは、あなたの気持ちを受け入れることができません」
「どうして! 何故なんだい? はっきりと言ってくれ」
「以前にも言ったはず。わたしは、あなたのことが『嫌い』なんです」
にべもなく突き放した物言いでエステルは遂に手を離した。海とクリスに背を向け、自分のココロが一抹たりとも彼に向けられていないのだと証明しているようだ。
「……本当に、君は僕のことが『嫌い』だって言うのかい?」
「ええ」
「その言葉が君の心、真の言葉だと……そう理解していいんだね?」
「ええ、その通りです」
「ありがとう。その言葉を待ち焦がれていた」
振り向くまいと固く決意していたはずが、その瞬間に背後を向いてしまう。
さっきのクリスの言葉に嘘は無かった。本気で彼はエステルを愛していたし、囁いた言葉に微塵の嘘も偽りも無く心底己の思いの丈をそのまま伝えたものだった。彼は本当にエステルを一人の女性として愛しているのだ。
だが……その愛した女に気持ち足蹴にされたにも関わらず、今のクリスは──、
「フフフフ、ハハハハハハハ……!」
嗤っていた。愛しい相手に袖にされたと言うのに、まるで大望が叶ったかのような満面の笑みで笑っているのだ。
「フハハハ! ずっと、ずっと君を疑っていた! 本当はとっくに僕の力の影響を受けてるんじゃないか、本当はもう僕のことが『好き』になってしまったんじゃないかって。でもそれは僕の思い違いだったよ。君は真剣に心の底から僕を『嫌って』くれているんだね! 嗚呼、神よ! 僕にこんなつまらない力を、祝福を、呪いを、授けてくださった天の父よ! 今日この日を僕はあなたに感謝します!!」
夜の闇に閉ざされた天空に向かい高らかに謳い上げるその姿は、事実彼の望みが叶ったことを表していた。意図せずそれを叶えさせてしまったと知り、エステルの中で危機感が警鐘を鳴らし続ける。
「あなたは、何を……?」
「言ったはずだよ、僕は君の気持が知りたいだけだって。君が本気で、真剣に、心の底から僕に対して何らかの感情を抱いていて、それを飾る事なく素直に出してくれるのをずっと待っていた。僕の望みはねエステル、本当に君が僕に対して思っている事を知りたかっただけなんだよ。それが『怒り』だろうと『悲しみ』だろうと、『憎しみ』だって構わない。それが君の混じり気無し、純粋な気持ちだと言うなら僕はそれを受け入れるだけさ」
「そんなことが……」
「僕はいつだって『本気』だった。それは君が一番よく知っているはず。でもね……ゴードンほどじゃないけど、僕も疑い症なんだ。君の言葉が真実かどうか、完全には信じきれない自分がいる」
そう言ってクリスの手がエステルの袖を切り裂く。二の腕に刻まれたルーンが露わになった。
「君の言葉も、思考も、精神も、肉体も、君自身が最初から持っていたものじゃない。君のご主人様がそう言う風に『設定』しているから、ただそれだけで君は今の受け答えをしたのかも知れないと、僕はそう考えている。かと言ってそれを削ってしまったら、君の自我そのものが消えてしまう。どうすれば君の真に純粋な気持ちを確かめられるのか、僕は君と出会ってから今日この日までずーっと考えてたよ。考えて、考えて……そして思いついたよ。君の芯にある、真なる気持ちを確かめるその手段を!!」
右手が虚空に挙げられ、その指が渇いた音を鳴らした。それを合図に無人の浜辺に大勢の人間の気配が満ちる。
闇夜に紛れて浜辺に揃ったのは、甲冑に身を包み手に手に剣や槍を携えた軍人たち。目測で見えているだけでも数十人、浜辺に入りきらなかった分を合わせれば百、その更に後ろの町から響いてくる軍靴の音を合せれば中隊にも届きそうな軍勢。この港町のどこにそれだけの人数を隠していたのか、いつの間にか消えた住人に替わって現れた彼らは、そもそもアルカーヌムの兵士ではない。
「この鎧、隣国の」
「そう。以前ここを訪れた時にお招きした。僕は王国と隣国の摩擦問題を解消せよとは言われたけど、王国の利益を守れとは言われていない。いずれ滅ぼす国、ここで互いの軍が衝突すれば平和主義の王国だって事を構えるしかなくなる」
そして二国が争っている横合いからレスカティエが全てを掻っ攫う。二国間に挟まれたこの海峡を押さえれば王国だけでなく、その向かいの隣国の海上流通をも絶てる。制海権の横取りこそが教国の狙いだったのだ。
「でもそんなことはどうでもいい。彼等には僕の本懐を遂げるために動いてもらう。さあ、みんな──!!」
偽りの司令官が号令を下す。
「そこにいるゴーレム、エステルを殺してくれ」
僕は岬の灯台で待っている──、そう言って浜辺を去ったクリス。
直後、砂浜に雪崩れ込む兵士200人。エステルたった一人を始末するには過剰な数、だがそんなことは関係ない、彼等は皆一様にクリスの命令を至上として動く。「大好きな」、「愛している」彼のためだけの粉骨砕身する生きた人形たちだ。
意外にも、戦局は膠着していた。
石や土の肌、鉄の骨を持っているエステルにとって剣や槍など木彫りの刃物でしかない。それを自分より遥かに劣る膂力で何度突こうと、彼女の体には傷一つ付かない。逆に刃が欠け、最初に彼女を攻撃していた兵士たちは早々に武器を失う羽目になった。
だが不利なのはエステルも同じだった。人間を過剰に痛めつけられない、それは感情による忌避ではなく魔物の本能として決まっていること。大多数に取り囲まれた乱戦混戦の中で一対一に持ち込み、徒手空拳や関節技で気絶させてようやく一人減らせるのだ。
矢や投石がないだけマシだが、このまま正面からやり合えばいずれ数で劣るエステルが先にスタミナ切れを起こす。その前に、削れるだけ一気に削る。
エステルの魂と言えるルーンは左腕に刻まれたものだけで、右腕のそれは別の用途、魔術を起動させるためのもの。発動させるのは幻覚、誘惑、忘却や暗示、触手の召喚など、とにかく軍勢の動きを阻めるもの全てを一斉に起動させて足止めし、その煽りを受けて混乱している者から順に昏倒させていく。ある程度数を減らしたところで浜辺を脱し、寝静まった市場へと潜伏した。
それがおよそ二時間前のこと。
畳まれた店先の影に身を潜めて息を殺すエステル。無機物から創られた体は長時間呼吸をせずとも容易く活動する。自分を探して町を闊歩する異国の兵士らを観察すると同時に、灯りの消えた民家から完全に人の気配が無くなっていることも確認した。
「やはり、住民は避難済み」
既にクリスはこの町全体を掌握しているのだろう。無闇に巻き込まないためか、あるいは単に邪魔だから移動させただけなのか、それは今明らかにすべきことではない。
今はただ、クリスが待つ場所へ向かうのみ。
「……」
視線の先には宵闇の海を照らす灯台。彼はそこで待ち、自分がそれを追ってくると確信している。
思えばこの行為は不可解だ。最初からエステルを殺すつもりなら他にやりようはいくらでもあるし、わざわざ殺される相手を待つと口にするのもおかしい。仮にその言葉が悪意ある挑発だったとして、誘い込むような真似に一体何の意味がある。これではまるで……。
「……わたしに、憎悪させるため?」
彼は言っていた、自分のまことの心を知りたいと。好悪など問わない、エステル自身の気持ちとそれを証明する行動を見届けたいと。
煽っているのだ、この土人形でしかない我が身を。お前に真と呼べるものがあるならば、僕の元まで辿り着いて証明して見せろ、と。
「汝の欲するところを求めよ……ですか」
胸の奥の何かが熱く駆動する。内燃機関となって燃え盛るその衝動に従い、エステルが星の夜空の下を駆け抜け出した。
三人で探索していた兵士の懐に降り立つと、一瞬でその内の二人の顎を打って気絶させ、残る一人を締め落とす。発見が遅れるよう物陰に運び込んで装備一式を剥がし、長い髪を兜の中に束ねて入れ込み兵士に変装する。そして怪しまれぬよう静かに、そして確実に目的地へと移動する。
だが灯台の周辺は当然とばかりに物々しい雰囲気になっていた。一歩も中に入れまいと数十人もの兵士が灯台への道を塞いでいる。変装しているからと言ってすんなり通してくれそうにない、むしろ看破される確率も高くなる。海側から泳いで行こうにもゴーレムのエステルではそれすら難しい。身動き取れないところを押さえられてしまうだろう。
「ならば、正面から」
奪った剣と槍を携えて、エステルはある程度接近し真正面から突撃する。邪魔な甲冑を走りながら脱ぎ捨て身軽になったその体がヒョウの如く地を駆ける。ものの数秒で最高速度に達した後、両手の武器を立て続けに投擲、それらは二つとも兵士ではなく灯台の壁に突き刺さった。
「はっ!!」
目標に届いたのを確認し、跳躍。見上げる兵士らの頭上を通り過ぎ、刺さった剣の柄を足場に再び跳躍する。
そこから更に上に突き刺した槍の柄に捕まり、鉄棒の大車輪の要領で回転し勢いを付けた後……。
「失礼」
窓を突き破り、エステルは灯台への侵入を果たした。
「あの日と同じだね。違うのは、あの日は朝で、今日は夜。あの日も僕の周りには僕の事が『好き』な人達でいっぱいだった。皆とても親切だった。僕の為に仕事を代わり、僕の為に身の周りの世話をして、僕の為に食事を作ってくれると約束してくれた。あのままそうしていれば僕はきっとあの村の王様になっていたかもね」
窓に身を預けて眼下の様子を見守るクリスの懐古、今は過ぎ去った昔のことを思い浮かべ思い出話に興じている。
「ある日、気になって聞いてみたんだ。『この中で誰が一番僕を好いているのか』ってね。自分でも他人でも何が一番かっていうのは気になる事だよね。だから僕も同じように聞いてしまったんだ、好奇心に負けてね」
「それでどうなったの?」
クリスの元へ辿り着いたエステルがその先を促す。よくぞ聞いてくれたと、はにかんだ笑顔のクリス。
「一人が言った、『向こう一年畑で採れた作物をみんなあげよう』。もう一人が言った、『森の奥でイノシシを十頭狩って肉を振る舞おう』。また一人が言った、『村はずれの山に生える薬草全てを採ってこよう』。俺が、僕が、私が、ワシが……皆こぞって僕への『愛』を証明しようとした。誰もやった事の無い困難に進んで挑戦し、そうすることで自分はこれだけクリスという男を好いているんだ、そう証を立てようとした」
故郷の顔ぶれを懐かしみ虚空を見上げ、そしてこう言う。
「皆、死んだよ。最後には自分こそが一番だと言って刃物を持って、女の人は自分の首を、男の人は別の男の人を、自分が一番になる為だけに殺し合った。切って、刺して、砕いて、焼いて、絞めて、裂いて、それから、それから…………そうして、誰もいなくなった。僕だけが残ったんだ」
「…………」
「笑ってたんだ。あの人達は無残な死骸に成り下がっても僕に『愛』を証明できたと、一人ひとり勝手に満足して、僕を残して勝手に笑いながら死んでいった」
見上げる顔が俯き、そして上げられる。目を隠す前髪を掻き上げ見えたクリスの表情は……。
「ふざけるなよ……」
イラついていた。
「その時気付いた、『この人達は僕のことが好きなんじゃない』って。『僕を好いている自分のことが好きなんだ』ってね。そんな嘘と自己満足で塗り固めた愛なんて、そんなの愛じゃない、そんなのを好きとは呼ばない。好き好き、大好き、愛してる。ああ、うるさいうるさい! そんな嘘を言うな! おためごかしで機嫌を窺ってるつもりか。ウザいんだよ、いい加減にしろよ! その仮面を剥がせよ、どこ見てるんだこっちを見ろ、ちゃんと僕の目を見て物を言ってみろ!! 僕の事を知りもしないで、寄せ集めた薄っぺらいゴミをぶつけてくるな!! 真剣に、本気で、心の底から言えよ! それが出来もしないくせに! でも……でも、でも……!」
いつだってクリスはエステルに対してだけは本心を語っていた。これまでの人生で自分に纏わり付いた余計な物を引き剥がすように、堰を切って流れ出す彼の本音、これが彼の本質なのだ。自分はいつでも本心でぶつかっている、なのにお前達は嘘偽りを繰り返し本心を語ろうとしない。事の真髄はそれ、クリスでなくてもその心は腐るだろう。だがその本質は決して外道でも下衆でも無い。その証拠に、彼は悔いていた。
「でも……死ぬなんておかしいじゃないか。死んじゃったら、もう何も分からないじゃないかあ……」
彼はいつも、本気で、真剣で、心の底から、誰かの「本当」を知りたかっただけに過ぎないのだ。
「分かってるんだ、僕のせいだって。僕が無意識でもそうさせてしまってるんだって。でも、僕は信じたかった。この力が通用しない相手が必ずどこかにいて、その人なら僕への本心を教えてくれるって。あの六人もそうだった! でもあの人達は僕と深く関わろうとしてくれなかった……そんな時、僕は君と出会った。あの日君が僕を拒んでくれたから、僕は希望を持てたんだ」
「わたしのせいだと?」
「いいや、君のおかげさ。嗚呼、エステル! 僕の愛しい人! 何度でも聞くよ、僕をどう思ってる? こんな僕を好きになってくれるかい? 君の為だけに200もの人々の心を踏み躙ったこの僕を、愛してくれるかい?」
「…………」
「もう答える事さえしてくれないんだ。でも、君の気持は理解した。これで僕は……」
窓を開け放つと潮風が灯台の中を吹き荒れる。巻き上がった髪を払って見えたクリスの顔はやはり笑っており──、
「悔いなく、逝けるよ」
窓の外に消えた。
この世に真実は在った。それがこの現世でクリスが得られた答え、全てに納得がいった。
だからこそ、もう生きている意味が無い。
耳を打つ潮騒の音色に身を任せ、閉じた目蓋の裏に見えるのは懐かしい故郷と、かつて愛を誓った人の顔。姉のように慕い、もうその本心を問う機会を永遠に失ってしまった人。彼女が先にいるから怖くはない。
硬い地面に激突するまでの僅かな時間で過去を振り返り、全てを受け入れたクリスの体は……。
「どこへ行くんです」
その右手を掴んで引き止められた。その手を掴むのは、エステルだった。
「何で、何で助けるんだよ! 君は僕のことが嫌いなんだろ、許せない、死んでしまえばいいと思ってるんだろ! ならどうして引き止めるような真似をするんだ!?」
「何故? あなたが何故と問うのですか? 『怒り』、『恐れ』、『悲しみ』、『憎しみ』……どうしてそれしか信じない? ヒトなら、生きているのなら……自分が誰に好かれ、どう愛されているかを知る方がずっと重要なはず。どうしてあなたはそれを確かめない、どうして逃げようとする?」
「こんな力を持った僕が、今更そんな言葉のどこを信じられるんだ!? 僕に殺意を抱く人でさえ、僕を前にすればナイフを持ってない手で握手を求めて来る! そんな連中の言う『好意』や『愛』なんて信じられる訳がない! 偽って嘘を吐き、思ってもないことを馬鹿の一つ覚え、オウム返しにしているだけじゃないか!!」
「だから、あなたは『悪意』しか信じないと? 自分を拒み、傷付け、蔑ろにする言葉しか信用できないと? 本当は……あなた自身が一番、愛されたがっているのにですか?」
「そうだ!!」
「嘘を言うな!!」
その瞬間、ただ掴んでいるだけだったエステルの手が恐ろしい力でクリスを引き上げる。こっちの腕がちぎれそうな感覚を味わいながら、一瞬灰色になった視界はさっきまでいた灯台の中に移っていた。
何が起きたか理解しないクリス。だがそんな彼の首根っこを掴んで立たせ、壁に追いやるエステル。その顔はいつも見慣れた鉄面皮ではなく、浅黒い頬を上気させ唇を噛みしめ眉もひそめ、明らかに「怒って」いた。
「あなたこそ嘘吐きだ! いつもわたしに対して真実しか語らなかったその口は、一体どうした! 無遠慮に、不躾に、わたしの中に勝手に入り込んでくるいつもの強引さはどうした!! 急に手の平を返してしおらしくして、そうすればわたしの心を掴めるとでも思いましたか!」
両手で胸元を掴んでいたが、その左手をゆらりと上げ……。
「馬鹿にするな!!」
鋭い一撃がクリスの右頬を打った。いや、それはビンタではなく殴ったと言えるぐらいの威力で、クリスは自分の口内に鉄の味を感じる。
俯き血の塊を吐き出すクリス、だがそれさえ許さず胸倉を押して壁に立たせる。そして宣言する。
「あなたの思い通りになんて動いてやらない。嫌いな人に看取られて死にたいのなら、わたしは……わたしは、『嫌い』なまま、あなたを『愛する』と約束する」
「はっ……」
エステルの決意を鼻で笑う。何をおかしなことをと、半ば本心から笑った。
「そんなこと、出来るはずが……」
「証明しますよ。わたしの言葉が、嘘ではないと」
服の留め具に手を掛けて、それをゆっくりと外す。クリスが与えた服、彼の気持ち全てが乗せられた、「重く」、「まっすぐ」な、そして全てを漂泊する「純粋さ」で出来ていたそれを脱ぎ捨て、エステルの汚れ無い肢体が露わになる。
「わたしの匂いを、味を、肌を、声を、目を……わたしを創る全てを感じて。あなたの、『本当』を……わたしに刻んで」
暗闇に僅かに差し込む月明かり。罪を犯したあの時と同じ、天に淡く輝く月の光を今度は逃げずに浴びている。
「……ァ、ハァ……ン」
窓から入る涼しげな風とは対照的な、アツく熱を帯びた悩ましげな吐息が狭い空間に反響する。耳を澄まして僅かに聞こえる音、だが発生源である二人の間にはその音だけしか聞こえていない。もうお互いの真の音しか聞こえない。
床に仰向けになったエステルと、それに覆い被さるクリス。
文字通りの覆って、被さっていた。上から見ればまるで型でも取ったようにぴったりと、手足を指の先まで絡み合わせ互いを捉えて離さず、口づけは数分前から、挿入に至っては始まった時既に済んでいた。
前戯などすっ飛ばしたオス本位の獣の交わり。だが怒張を包み込むエステルの女陰は煮えるように熱く、土と石を捏ねて出来たその体のどこにそれだけあったのか溢れ出る蜜を抑えることすらせず、ひたすら自分と相手の快楽を引き出す媚薬となって香しい匂いを発していた。
「んっ、んっ、んっく! っはぁ、あああぁ!」
動いてはいない、クリスは己の分身を挿入してから十数分の間一度も腰を動かさない。時折思い出したように身じろぐが、それも姿勢を変える以上の意味を持たない。だがたったそれだけの稚拙な動きが、既に先端が触れている肉の小部屋を擦るようノックして、エステルの脳髄に快楽の電気信号を叩き込む。
「あぁっ、そこは……はぁんっ!!」
快楽の影響で興奮した乳房の先が膨れているのを見つかり、そこをクリスの口が襲う。勢いよく迫った口はその中の歯で乳首を噛み、更にその奥の舌が充血したそこを入念に舐め回す。まるで赤ん坊。だが熟れた肢体の表面から流し込まれる淫靡な快楽は四肢から力を奪い、覆い被さるクリスの体に対する抵抗を完全に無くしていく。
初めて味わう「好きにされる」感覚にエステルは翻弄されていた。路地裏の浮浪者相手に咥え込むことしか知らなかったエステルにとって、男の側から一方的に与えられるだけの快楽は未経験、その結果はまさに未知数だ。
「ーッ!! 〜〜〜ッ、ッ!!?」
産毛ひとつ無い玉のような肌をクリスの唇が吸う度に、もどかしくも鮮烈な刺激が、脳と今まさに交わっている下腹部を直撃する。首筋や胸の谷間を舌が這うだけで全然関係ないはずの膣内が苦しいぐらい収縮を繰り返し、反射的に逃げようと腰を動かせば今度は連続して軽く達してしまう。まるで蛇に絡め取られたネズミだった。
毒蛇のように快楽という毒を流し込み、大蛇のように悶える体をがっちり押さえ込んで逃がさない。全てのオスがメスを仕留めようと本能的に取る行動。それが意図してか否かは分からないが、エステルの肉体は悦楽の崖っぷちに墜落しようとしていた。
「あ……な、なに! これぇッ!?」
大きく緩かった呼吸が、短く浅い間隔に変わる。全身に網を張る神経電気が一斉に逆流を始めたような、肌や指先の感覚が無くなり、頭と繋がっている部位だけを残して他は消え失せてしまうような錯覚を覚える。すぐ背中が床に接しているのに、浮かび上がる快楽が高所からの墜落に似た体内を突き抜けるものに激変する。
「あァやだ、落ちる……!! 落ちてしまうゥゥゥーーッ!!?」
快楽混じりの恐怖感に追い立てられて逃げ出そうとする。だがそれをどこにも行くなとクリスが肩を掴んで引き戻した、その瞬間……。
「ア゛────ッッッッ!!!?」
怒張と肉部屋の先端がそれまで以上に強く擦れ合い、それがきっかけになった。
「ああっ! あああぁぁぁァァァッッッッ!!! イクっ、イ゛ク゛ゥゥゥゥゥッッッッッッッ―――!!!」
全身の神経と脳がそっくり爆薬に置き換わり、それが炸裂したような強烈な快感。津波のように下腹部から押し寄せ、嵐のように神経をバラバラに引き裂き、視界に星が瞬く。痙攣する背中が自然と弓形に反り返り、それをクリスが抱いて押さえるから体内の快楽の濁流が行き場を求めてエステルの全身を蹂躙する。じたばたと勝手にもがく両脚が支えを欲し自然とクリスの下半身を挟み込みホールドする。
極大の快感を得たのはクリスも同じだった。普段ならマグマのように堰を切って飛び出す欲望が、噴き出すのではなく失禁のように流れ出る感覚で開放された。白濁が一気に飛び出すのではなく、ドロドロと流れ出ることで快楽の電気信号がいつもとは比べものにならない長時間に渡って持続する。
「ア゛ーっ、ア゛ア゛ァーーっ……!!」
十秒、二十秒、三十秒……一分、もしかすると五分もの間射精が続き、その間エステルは胎内を焼き焦がす欲望の熱に快楽を叩き込まれ続けた。半開きの口、トロンと溶けた目、余剰水分を排出する尿道、そしてクリスを迎える膣、全身の穴という穴から快楽の証となる液体を漏らし続ける。
朦朧とする意識の中、エステルに僅かに残っていた理性の欠片が自分を快感の渦に叩き落とした男を目にさせた。
クリスは、泣いていた。その両目ら滂沱の涙を流し、熱い雫がエステルの胸にいくつも流れ落ちる。
だがその視線はエステルではなく、彼女のずっと後ろにいるのであろう何かを幻視していた。
「姉さん……姉さん……」
遠く故郷の残影に見えるかつての想い人。その本心を問う機会を、他ならない自分のせいで永遠に失ってしまった、二度とその心を知ることの出来ない人。
「姉さん、僕を……好きだって言ってよ。愛してるって……言ってくれよ。姉さん、僕を、愛してくれよ……」
クリスは泣いた。子供のように言葉にならない泣き声を上げ続けた。その慟哭は夜明けの水平線が白むまで止まらず、その間ずっと、エステルは彼を抱き寄せていた。
「朝です。もう充分寝たでしょう」
「まだ。もう少しこの柔らかさを楽しませてほしい」
「わたしは自分の意志で表皮を岩石並みに固くできます」
「起きるよ」
「待って。わたしはあなたに骨抜きにされた上に、寝落ちしたあなたをずっと支えてた。力が入らないから立たせて」
「……良いのかい?」
「ええ」
「お手をどうぞ」
「ありがとう」
「……ねえ、エステル。僕のこと、『愛してる』?」
「ええ、『大嫌い』」
もしあんたが相手の顔だけ見て好きになるならそれでもいい。世間様の言う第一印象なんてのは結局、顔と服装だしな。アラヤダ、あの人イケメン! オッ、いいカオしてるぜ!
でも、そこから先を望むのなら、顔や家柄、性格なんていう「仮面」をいつまでも愛でるのは止めて、そいつの「素顔」を拝む日が来る。そん時になって勝手に失望したり、我慢する、なんて失礼なことはしちゃならねえと俺は思うぜ!
でもわざわざ「どこを」愛してるなんて言うのも野暮だしな。理由の無い愛ってのも時にはイイもんだ。まったく、人生ってのは生き辛いねえ!
うん? 奴さんは今も大使してるのかって? 残念ながら奴さんの国はもう滅んで、今の大使館には別の国の奴が入ってるよ。
ああ、そうそう! 今度新しい大臣を決める選挙があるだろう? 俺ってばちょいとその宣伝を頼まれてんだよ。こちとらただの芝居屋なんだがねぇ〜。そんな選挙の手伝いなんかさせていいのかよ?
これが似顔絵なんだが、ほれ、なかなかのイケメンだろ? 男も虜にするってもっぱらのウワサさ! 何年か前の王都議会議員選ではぶっちぎりの一位で当選し、亡きレドル伯を大変尊敬されて、ゆくゆくは外務大臣に就任すると公言してるぜ!
まあ、街の野郎どもはこいつの美人秘書見たさに票を入れてるって話もあるんだがな!
とまあ、何はともあれ、ここは一つ頼んまさあ!
クリス議員に清き一票を、ってな!!
15/08/22 18:47更新 / 毒素N
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