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第三章 色欲の勇者:前編
 はいはい、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!! 我らが王国に遣わされし七人の勇者のお話、その第三弾がはじまるよ〜!!

 一人目は詐欺師、二人目は狂信者、教国のレパートリーは尽きないねえ、一体どんな方法で選んだのか聞いてみたいとこだ。誰か暇があったら俺に代わって聞いといてくれよ。

 はてさて今回はどんな変わった勇者様がお出ましになるのやら? そしてどんな魔物娘と出会うのか? 勇者と魔物娘の間にあるのは愛か、憎しみか、悲劇か、はたまた喜劇なのか!? それはお話を聞いている皆さんだけが知る事ができる!

 聞きたい? 聞きたい聞きたい、興味あるんだね! そうと決まりゃ聞かせましょう!

 時に皆さん、モテたいかい? 女は三国一のイケメンに嫁ぎ、男は幾人もの美女を侍らせて一杯やるってのが、いつの時代も変わらぬ夢よ! この街は出会いの街だから、ひょっとすれば何人かは夢を叶えてっかもな。

 だけど……モテすぎるってのも考えもんだぜ? 惚れた腫れたは男女の仲だが、お前さんはそいつのどこに惚れてんだい? 顔? 体つき? 性格? 家柄? 何だっていい、ぱっと答えられるかな?

 お話は、『色欲の勇者 〜あるいは無愛想なメイドの話〜』。

 お前さんは、本当にそいつのことが「好き」なのかな?





 アルカーヌム連合王国はその名の通り王制国家であるが、肥大化した領土や多様化した領民らの政治に対する期待に応えるべく、王を支える大臣を選挙によって選出する仕組みがある。

 出馬できる者は政治教育を受けた貴族や良家の子女という制限はあるが、国民は自分達を治める国の代表者を自分達で選出できるという、後の世に民主主義と呼ばれる先駆けをこの国は実践していた。

 秘匿されるのが常識である王族の聖域にも一部だが民間に開放され、それまで王族と言う存在にあった堅苦しいイメージを払拭し、アルカーヌムは「開かれた王国」としての地位を内外に喧伝し、平和的でオープンな印象を与えることに成功していた。

 そして当然、門戸の開かれた文化的な国と繋がりを持ちたい他国が国交を結び、王都を始めとする主だった都市にはいくつもの大使館が建ち並ぶことになった。異文化交流の架け橋と同時に、外交の中間点でもあるそれらが増え、王国は一気に多方面への幅広い活動を要求された。

 派遣される大使は国の顔役であり代表者。国家としての思惑がどうであれ、大使たる者は誠実で質実剛健を旨として行動することが求められる。その所作振る舞いの全てに一流貴族と同等の気品を求められるのだ。

 「今宵も有意義な会談であった。まったく、そなたと話していると時が過ぎるのが早い」

 王都の中央、王宮が座すその周辺は政治経済の中心。様々な政治家や貴族、知識人などが昼夜を問わず省庁を行き来し、様々な思惑が行き交う「るつぼ」。

 そのとある場所、王侯貴族とそれに連なる者らのみが住まう事を許された区域に建つ一軒の豪邸。巨大な噴水庭園を有するその邸宅は、正門から玄関までの間だけで市民の家が何軒も建つような規模だった。

 この邸宅に住まう者こそ、この国の外交を一手に担う外務大臣、レドル伯爵である。歳は既に老齢と呼ばれて差し支えないが、魑魅魍魎が棲む政界を長く取り仕切ってきただけにその眼力は老いてなお鋭い。こうして談笑していれば人の好い老人だが、刻み込まれたシワと同じ数の修羅場を乗り切ったことは想像に難くない。

 「僕も同じ思いです、閣下。閣下が尽力して下さったからこそ、我が国と王国の現在があります。若輩の身として、いつも閣下からは学ばせてもらうことばかりです」

 「フハハ、謙遜はよさぬか。そなたはワシより五十も若い、まだまだこれからよ。それに未熟といえば言い方は悪いが、未熟は言い換えれば『青い』ともいう。これから先、そなたの付けるであろう実がどこまで熟すのか、ワシはそれが楽しみだ」

 「老いてなお精強、恐れ入ります。今宵はこのような宴の場に僕をお誘いいただき、本当にありがとうございました」

 「これ! 宴ではなく会談と言っとろう。一国の政治家であるワシが、これまた一国の代表者であるそなたをプライベートとはいえ宴に招待したとあれば、どんな下衆の勘繰りがあるか分かったものではない。そなたも政治に身を置く者なら、言葉は使い分けた方が何かと得だぞ?」

 「しかと肝に。それでは、僕はこれで失礼をば」

 「うむ。ワシはこれから執務がある故、書斎に戻ろう。見送りは……ふむ、そこのおぬし、責任を持って大使殿を正門まで送り届けよ」

 「かしこまりました」

 付き従っていたメイドの一人が前に進み出て、客人を門まで送り届ける役を仰せつけられた。

 広い敷地に設けられた歩道を歩きながら、青年──とある国の大使──は、月を見上げながら呟く。

 「月が綺麗だ。遠く離れた僕の故郷にも、同じ月が見えるのかな」

 「そうですね、大使さま」

 「他人行儀だね。いつもみたいに名前では呼んでくれないのかな?」

 「いけません、お屋敷ではそんな……」

 「構わないんじゃないかな。いくらレドル伯とはいえ、書斎から僕らのことが見えるはずがないよ」

 そう言って慣れた手つきで青年がメイドを抱き寄せる。雇い主に秘密で何度逢瀬を交わしても、やはり慣れないのか女は火がついたように顔を赤くして俯いてしまう。可愛らしい反応に青年も微笑むが、なぜかその表情を曇らせる。

 「けれど、こうしてあと何回君と言葉を交わせるのか……」

 「まあ! どうしてそんなことを仰るの!?」

 「大使だって長く続けられるわけじゃない。任期を終えれば僕は国元に帰らなくちゃいけないんだ。そうなると君とこうして会う事も……」

 「いや、いやです! きっと、きっとわたしと添い遂げると言ってくださった、あの言葉は嘘でしたの!?」

 「でも、僕の体は僕の物であって、僕のじゃない。もどかしいけれど、今の僕がここで君と過ごしていたいと願っても、それはわがままでしかないんだ」

 「あなた様はいつだってわたしのわがままを聞いてくださいました。そんな悲しい事を仰らないで。あなた様のわがままを受け入れることができるのは、わたしだけなのです」

 「嗚呼……愛しい人! 僕はなんて幸せ者なんだ、君と言う恋人を持てたことを神に感謝して生きていこう! 愛する人よ、僕の事を本当に愛しているのなら、どうかこの願いを聞き入れておくれ」

 感極まった青年は溢れ出る気持ちを押さえずメイドを抱きしめ、その耳元にそっと、愛を囁く代わりにこう言った。



 「今夜、レドル伯を殺してくれ。僕の代わりにね」



 雇い主、しかもそれがこの国の大臣ともあろう人物を、殺せという。普通なら耳を疑い、次の瞬間にはショックのあまり相手を弾き飛ばして逃げ出しても不思議ではない言葉。

 しかし──、

 「ああっ! 必ずあなた様の愛に応えてみせますわ!」

 愛する者に結婚を申し込まれた令嬢のように、メイドの顔は快楽による恍惚一色に染まっていた。

 この夜、半世紀もの間領民に善政を行った大臣が殺害された。

 犯人であるメイドは犯行後、事前に口に含んでいた毒薬を飲んで自殺。犯行に及んだ動機などは一切不明のまま、真相は闇に葬られた。





 三人目の勇者に対し、同僚で同じく勇者のゴードンはこう語る。

 「仕事は『間諜と暗殺』だ。俺っちと仕事が被ってっかもしれねえが、俺っちがあくまで民間人を相手にしてるのに対して、『大臣』の標的は政府高官やそれに関係する要人って違いがあるだ」

 「どんだけ影響力があったところで、民間人は所詮は市井の民なんだな。国としての重要な方向ってのは結局政治家とか王族が握ってっから、そいつらをどうにかして骨抜きにしちまうのがまず第一目標だで。流石にお国のお偉いさん相手に過激なやり方は取り辛いんだ」

 「んでもやっぱ、一番手っ取り早いのは殺しちまうことだかんな。ただでさえ近付きにくい相手に接近して、確実に生きの根止めるとなっちゃあ、並みの人間にゃ逆立ちしても無理だ。俺っちならとっくに捕まって返り討ちにあってるだ」

 「でも、『大臣』にはそれができちまう」

 「理屈がどうってのは分かんね。しかも自分の手は絶対に汚さねえで、いつも誰かを上手く使ってそれをやってる」

 「『大臣』の言葉にゃ逆らえねえ。あの人がもし死ねって言えば、言われた方は喜んでそれをやっちまう。あの人の言葉には魔力が宿るって司祭さまも言ってただよ」

 「若社長が言うには、『俺達の中で一番厄介なのは、例外を除けばあいつだ』って話だよ」

 「名前は『クリス』。七人の勇者で唯一、洗礼以外の加護を受けた奴だ」





 「僕は大臣じゃなくて、大使なんだけどなぁ……」

 クリスはとある教団国家に生を受けた勇者である。既に国の政治基盤はレスカティエに吸収されているが、彼を送り込むにあたり教国は生まれ故郷の大使として彼をアルカーヌムに派遣した。表向きは国家間のやり取りを円滑にするためだが、実際はレスカティエが王国の内情を探る為のスパイである。

 クリスは今、王宮にいくつか設けられた応接間に通されていた。提供された紅茶を完璧な作法で手に取り、音ひとつ立てずにそれを飲む。その振る舞いはそれだけで彼の育ちの良さを示している様だ。

 「お待たせしました大使様。どうぞ、こちらへ」

 「ありがとう」

 自分を呼びに来た家令について王宮の中を歩く。もう既に何回もここに来てはこの景色を楽しんだ。例え大使であってもそう簡単には来られない場所だが、クリスは年に何度もここを訪れ、年間行事以外の私的な用でここを訪問する際もほとんど顔パスで通ることが可能になっている。王国と国交を結んでいる大使の中でクリスだけがそれを可能としている。

 今回も呼ばれた理由は私用。王族に連なる遠縁の貴族が開くパーティーに彼も招待されているのだ。ある種のホームパーティーだが、流石は王侯貴族、宮殿の一角を借り切っての夜通しとは規模が桁違いだ。参加しているのは大半が親戚友人だが、もちろん全員が政治的VIPであることは言わずもがなだ。

 「今宵の晩餐会には是非、クリス殿も出席してほしいと我が主たっての希望です。どうかごゆるりと楽しまれますよう」

 「少し緊張します。部外者の僕なんかがこのような場に……」

 「何を仰いますか。クリス殿の人柄の良さはお会いした皆々様が存じていること。参加せずに咎められても、その逆など有り得ますまい」

 「客人をもてなすバトラーにそう言っていただけるとは、光栄の至りです」

 「もったいなきお言葉。さて、それではどうぞご堪能あれ」

 家令が開けたドアを通り、クリスが中に入ると、既に集っていた先客や主催者らが彼を出迎えた。

 「クリス! おお、クリス! 我らが友人よ。遅かったじゃないか! みんな君を待っていたんだぞ」

 「申し訳ありません、道が混んでいました」

 「ハハハッ、ジョークにも磨きが掛かったな。まあいい、今日は楽しんでもらえると嬉しい。朝まで語り明かそうではないか!」

 テーブルに着くと同時に前菜が通され、簡素な祈りの後に晩餐会が始まった。

 「最近はどうだ? 何か困っていることはないか」

 「常日頃、王国には助けられてばかりです。国交を樹立して数年、我が国はますますの繁栄の途上にあります。これも全ては王国と、この国を纏めて下さっている皆々様のおかげでございます」

 「我らは陛下の遠戚とは言え、政からは一歩退いておる。ここだけの話、他でもない陛下ご自身も、ゆくゆくは血族による統治から脱却したいとの仰せだ」

 「民主政治、ということですか?」

 「と言っても、一年や二年後と言うわけではない。貴族も商人も既得権益を守りたい部分では皆同じよ。無論我らもな。民草に政治を任せられるのもいつになることか」

 「以前、同じ話をレドル伯よりお聞きしました……」

 「レドルか……。奴がいなくなって半月、惜しい男を亡くしたものよ。誰も奴が自分の領地で死ぬなど思いもしなかったはずだ、精力的に政務に励んでいたからな。奴が居てくれたからこそ、我が国はより多くの国々と平和的な国交を結ぶことが出来たと言っても過言ではない」

 「下手人がメイドだったせいか、巷では痴情のもつれなどという世迷言まで出回っています」

 「奴自身、噂が絶えん奴だったからな。だが七十を越したとはいえ、手を付けた女にしっぺ返されるほど耄碌してはいなかったはず……。いずれにせよ、本当に惜しい男だったよ」

 晩餐の場に故人を偲ぶ空気が満ちる。かつての伯爵を一国の大臣としてばかりではなく、一人の人間として伯爵がどれだけの影響力を持っていたかが分かるようだ。

 「もっとも、奴が積極的に親魔物領国との国交を結んだのは、美しい愛人を得るためだともっぱらの噂だったがな!」

 「ははは! 伯爵らしいです。……っと、しまった!」

 笑った拍子に手からフォークが滑り落ち、金属の跳ねる澄んだ音が響いてしまった。皆の談笑が止み、視線がクリスに移る。

 「申し訳ございません! とんだ粗相を……」

 「よいよい。誰か、替わりを持て!」

 主人の命を受けて控えていたメイドがクリスの前に進み出て、落とした食器を回収、代わりの真新しいフォークと取り換えて再び背後に戻った。迅速に、そして一切の無駄の無い動きにクリスの視線が釘付けになる。

 「へぇ……新しいメイド、雇われたのですか」

 「うむ。紹介しておこうかの。去年の暮れから我が家で働いている、『エステル』だ。エステル、クリス殿に挨拶せい」

 主に促されて再びメイドがクリスの元へ進み出る。歩みを刻む二本の足は時計のように正確に、コンパスの針のように等間隔に開閉を繰り返しながら、さっきフォークを拾いに来た時と全く同じ動作でクリスの前に立った。

 「わたしは、エステル」

 「これはこれは、可愛らしい女中さんですね」

 「…………」

 「あらら、流されちゃいました」

 「これ、エステル! クリス殿に無礼であろう!」

 「いえ、よいのです。それも致し方ないこと、彼女も悪気があってやっているのではないのです。でしょう?」

 見透かしたようなクリスの物言いに、主人が少し言いよどむ。

 「やはり、気付かれましたか?」

 「ええ。彼女……エステルは、『ゴーレム』ですね」

 親魔物領である王国では奉仕能力に優れた魔物娘を雇っている家も少なくない。魔物家政婦の代名詞であるキキーモラや、一部の世話好きデビル、最近存在が確認されるようになったショゴスなど、人間に奉仕することに喜びを覚える魔物娘は多くいる。

 その中でも特に異質とされるのが、このエステルと同じゴーレムと呼ばれる種族。数ある魔物娘の中でも珍しい、「人間の手で生み出された魔物」である。魔術や錬金術で泥や石に生命を与え、ルーン文字の魔力によって肉体を維持することで活動する人造の存在だ。

 「申し訳ない! 教団国の代表者であるクリス殿に魔物はやはり……」

 「不快ではありませんよ。我が国も周辺諸国の情勢には常に気を配り、最近では魔物にもヒトの良き隣人として接する機会が増えています。主神の教えは無論のこと大切ですが、教義とはあくまで人間の心の在り方を方向付けるモノ、生きとし生けるものを分け隔てるものであってはならないと僕は考えます」

 「うむ、この国にも主神教徒は大勢いるが、彼らとの間で大きな摩擦があるという話は聞かんな」

 「でしょう? それに、我が国が魔物に対して差別的な国であったなら、亡き女好きのレドル伯が国交を結ぶはずもありません」

 「ははははっ! 確かにそうであるな!」

 快活な笑い声が部屋に満ちる。晩餐会はまだ始まったばかり、これから貴族たちはさらなる親交を深めるのだが……。

 「ああ、ひとつ、言い忘れたことがございます」

 「ふむ?」

 「実は、レドル伯を殺すよう仕向けたのは、僕なのです」

 衝撃の告白に部屋中がシンと静まり返った。もしここに別の誰が、具体的にはクリスとは初対面の人間がいれば彼の言っている事が恐ろしくも事実であると、その声音と顔を見れば一目瞭然で分かった事だろう。そして戦慄、恐怖し、すぐさま衛兵を呼んで彼を捕えさせたに違いない。

 しかし……。

 「そうかそうか! クリス殿に殺されたのならばレドルも幸せだろうて!」

 主人はクリスの言った事を冗談だと思っていない、むしろその逆、彼の言った事を真実と理解している。周囲の同じ貴族も、彼らに付き従う家令やメイド達も、クリスの言葉が嘘偽りの無い真実と理解している。その上で、彼の伯爵殺しを手離しで称賛しているのだ。誰か他の第三者がこの場に居合わせていれば、この晩餐を狂人の祭典か悪魔の集会と勘違いしただろう、それだけ今この場にいる人間は致命的なまでに何かがズレていた。

 今ここにおける正常者はたった二人。

 「レドル伯の冥福を祈り、乾杯!」

 教国より遣わされし勇者、クリス。

 そして……。

 「…………」

 その背後で静かに佇む、ゴーレムのエステルだけだった。





 神の加護、と一口に言っても様々なものがある。一般に広く知られているのは、勇者が持つ加護、魔界の魔力を遮断し淫魔や魔物に変化するのを防ぐものがある。これは中々に強力で、王魔界を除けば魔物に性的接触を受けない限りインキュバスになることは無いとされている。

 だがそれとは別に、時折何の因縁も無い人間に加護が授けられることもある。教会関係者は口々に祝福だと言うが、与えられた者達に人間である以外の共通点が無いことから一部では自然現象的なものなのではとも言われている。それらは勇者の加護とは別に、持っているだけで英雄になれるようなものもあれば、精々日常生活で役立つレベルというものまで千差万別だ。

 クリスのそれも、どちらかと言えば後者に当たる。加護そのものはクリスを守りもしないし、魔獣の爪から彼を守りもしないし、そもそも戦いを直接どうこうするような大層なものではない。風のような脚力も、一手も二手も先んじて動ける直感も、岩石の様な皮膚も……そんな「いかにも」というような加護は何一つクリスには無い。

 しかし、七人の勇者随一の頭脳派であるトーマスを以てして「厄介」と言わしめる真髄が、他でもないその加護にこそある。

 クリスの加護は……「自分に好意を抱かせる」、ただそれだけの単純なもの。クリスの顔を見て、その声を聞き言葉を交わした者は皆、彼に対しほぼ例外なく好印象を覚えることになる。男は無二の友情を、女は身を焦がすような愛情を、程度の違いこそあれ誰もがそれを胸に宿さずにはいられなくなる。

 対象は、彼と言葉を交わせる者全て。男、女、天使、エルフ、精霊、魔物……それらが全て、クリスの言葉を聞いただけで好印象を覚えるだけでなく、彼の言動全てを肯定的に捉えてしまう。クリスがどんなに口汚い罵詈雑言をまき散らそうとも、その全てを相手は好意に解釈し、歪め、そして納得してしまう。誰もクリスに対し敵意も、悪意も、害意さえも抱けなくされるのだ。

 ただの加護は、間諜及び要人暗殺という任務が加わることで「能力」へと変わった。大使という立場を利用して王国の要人たちと接触し、彼らに軒並み自身に対する好意を抱かせる。そうすれば後はほんの少しの「お願い」をするだけでいとも容易く機密情報を喋ってくれる。そして頃合いを見て別の「お願い」をすれば、嬉々として自らの命も絶つ。クリスは一切自分の手を汚すことなく仕事をやり遂げられるのだ。

 とは言え、あらゆる存在に対し特効の効果を発揮するこの能力も、決して万能ではない。例外が二つだけ存在する。

 ひとつは、クリスと同じ宿命を背負った六人の勇者。

 七人は教会の指示でチームを組まされており、それぞれに利害の一致などはあれど決して仲間意識は無く、常に互いの腹の内を探り合いながら過ごしている。そういう気持ちがプラスにもマイナスにも傾いていない曖昧な状態の人間は、とかくクリスの能力が効き辛い。

 特に疑いの心が念頭にあるトーマスとゴードンはそれが強い。実利第一のトーマスは得にも損にもならないクリスなど眼中に無く、ゴードンは隙あらばクリスを貶めようと身構えている。クリスからしても能力云々を抜きにして苦手な部類だ。

 他にも、『四人目』とはそもそも会話すらなく、『五人目』と『六人目』は言葉を聞き流し、『七人目』に至っては下手に話し掛けようものなら殺されかねない手合いだ。人間関係が実に殺伐としているのが特徴の七人の中では、クリスは二番目にまともな人間だった。

 そして二つ目。そもそもクリスに対し好悪どちらの感情も欠片として抱いていない者。

 「君の話は聞いているよ。何かと有能なんだって?」

 「恐れ入ります」

 宴の隙にそっと抜け出したクリスがバルコニーに来ると、先に来ていたエステルと出会う。メイドの仕事はまだ終わっていないにも関わらず彼女がここに来る理由は……。

 「君のご主人様、もうすぐご息女が結婚なさるんだって? 相手はこの国の王族、しかも王位継承権を持つお方。あの人、自分では民主政治に賛成みたいな言い方だったけれど、実際は自分が親戚に名前を連ねる気満々だね」

 「把握しています。全てはご命令どおりに」

 「やれやれ、君の『本当のご主人様』は愛想やユーモアを君に教えなかったのかな」

 「わたしにそれらの要素は不要。マスターのわたしに対するオーダーは唯一、『勇者クリスをサポートせよ』」

 ゴードンにシャムエルがついていたように、クリスにもその動きを手助けする役目を負った者がいた。それこそがこのエステル、『四人目』の勇者が術の粋を結して創り上げた人造の魔物娘である。

 エステルはこれまでにクリスの工作を裏から支援し、今夜の主催者である貴族との接点を持つのにも大いに役立った。普段は無口でテキパキと仕事をこなすメイドを演じながら、その裏では仕入れた情報をクリスに流していたのだ。

 「ご息女と接点を持てば、いずれ嫁いだ先で僕が大きな存在となる。そうなれば王国の国政に少なからず影響を持てるということだね」

 「果たしてそう簡単に事態が運ぶでしょうか」

 「出来るよ。僕がちょっとお話してあげるだけで、ご息女は僕の事が『好き』になる。お父上より、将来のお相手より、未来の我が子より……全てにおいて僕の言葉、僕の存在が上位に置かれることになる。あっ、そうだ! 適度に仲良くなったところでお父上には死んでもらうっていうのはどうかな? 一番頼りになる彼が亡くなれば必然的に僕への依存度が上がるし、そうなればより深くこの国に食い込める」

 「そのようになされば」

 「うーん、ちょっと君って淡泊だね。君はせっかく魔物というアドバンテージを持ってるんだから、もっとそれを活かさないと。そうだね、具体的には……」

 「するべきことはしている」

 「君のそれはただの動力を確保する行為だ。知ってるよ? 君が時折屋敷を抜け出し、路地裏で浮浪者を襲ってること。しかもご丁寧に噂を作らないように忘却の暗示まで掛けてね。ご主人様は愛想の振りまき方は教えなかったのに、魔術はしっかりと仕込んだんだね」

 「あなたに迷惑はかけてない」

 「確かに。でも……ただ相手を好きなようにして、それで終わりで満足かな? たまにはさ、自分が『好きにされる』って感覚も悪くないんじゃない?」

 そう言いながらクリスの腕がそっとエステルの肩に回される。言葉を交わすだけで男も女も虜にする魔性の勇者、そっと伸びる優腕が冷たいゴーレムの肌に触れようとする。

 「やだ。さわらないで」

 エステルの浅黒い手がそれを叩いた。

 ぴしゃり、という音が響き、クリスが少し面食らった顔をする。

 「驚いたよ。いや予想はしていたけれど、本当にそうだとはね」

 見かけ以上の力で叩かれたからか、クリスの男にしては白くしなやかな手が赤く腫れていた。

 通常、魔物娘というのは人間の雄を決して拒まない。産めよ、増えよ、地に満ちよを地で行く彼女らにとって人間の雄との交わりは至上命題、まさに本能で定められていることだ。鳥は空を飛び、魚が水を泳ぐように、魔物が男とまぐわうのは今の時代では自然なこと。人間が彼女らを拒んでも、その逆だけは決して有り得ないはずなのだ。

 だがこのエステルは明らかに誘いをかけたクリスを明確に拒んだ。男、それも加護により相手に半強制的に好意を抱かせるにも関わらず、彼女は何の感慨も無く切って捨てたのだ。

 「君はやっぱり変わってるよ。今まで僕の誘いを断る女性は数多く居た。でもその人達のほとんどは照れ隠しだったり、高嶺の花を気取っていたり、口には出来ない事情を抱えていたりだった。けれど……君は違う。何ていうか、言葉にするのは難しいけれど……君はどうして僕を拒めるんだい?」

 「その理由を話す意味は?」

 「意味だ何だと聞かれたら深く追及はできないけれど、不思議な事が気になるのは人の常じゃないかな」

 「理解できない」

 「今はそれでいいんじゃないかな。でもね、ゼロのままの気持ちだけで渡っていけるほど、世の中は甘くないよ。君の心がいつまで僕を拒めるのか、しばらく見守らせてもらうよ」

 「わたしの邪魔はしないで」

 「まさか。僕はただ君の気持ちを知りたいだけさ」

 最初から最後まで飄々とした物言いを崩さぬまま、クリスは宴の場に戻って行った。

 真意を見せないその言動、いやそもそも彼にそんな裏があるとは思えない、彼はいつだって「真剣」だ。煙に巻き、惚けることはあれど、決して飾り隠すことだけはしない。もし彼が嘘偽りを平気で抜かす人間であったなら、他の六人から一斉に袋叩きにあっていただろう。それがなく一定の信用を得ているということは、人間不信の集団である彼らからクリスの存在は容認されているということだ。

 だからこそ……。

 「…………」

 袖を捲り自らの素肌を確認する。土や石を練り上げて作られたとは思えない滑らかな肌、その二の腕には刺青のごとくびっしりと刻まれたルーン文字がある。それがゴーレムにとっての第二の心臓。ここには彼女を創った主の名と、彼女がこの王都ですべき任務の内容が事細かに記されている。ここを傷付けられ僅かでも文字を損なえば、その瞬間に感情を持たない彼女らゴーレムは活動を停止してしまうのだ。

 「わたしの、きもち?」

 そんなものはない。生物を生み出すのは生きとし生ける全てが出来るが、そこに自我を芽吹かせるのは神の御業、どんな魔術師も錬金術師も無から魂を生み出すことは出来なかった。

 エステルとて例外ではない。彼女を創った男は類稀なる才を持っていたが、その男ですら彼女に感情を持たせることは出来なかった。出来たのは他のゴーレムよりしなやかでヒトに近い体を型取り、ココロの代わりとなるルーンをより多く刻む事で自然な行動が出来るようにしただけだ。

 「わたしに、ココロなんてない」

 だったらどうして、あの時腕を払ったのか。エステルは自問自答すらしなかった。





 その後、クリスは定期的にエステルに会いに来た。表向きは彼女の雇い主である貴族への挨拶兼ご機嫌伺いだが、何かと理由をつけてエステルに会いに来ているのは明らかだった。その証拠に、時間の合間を縫って話をする相手はいつも彼女だ。手ごろなメイドなど他にいくらでもいるのに。

 「この間ね、王国の南にある港町まで行って来たんだ。すごかったんだよ! 町の規模はそれほどでもないのに、買い付けにきた問屋や商人で町は朝から夕方までごったがえしてさ!」

 「…………」

 「会談が終わった後で町長さんのご厚意で魚料理をご馳走になったんだ。ムニエルって言ってね、油を使うから味はちょっとくどいけど、レモンをかければ風味付けにピッタリなんだ。でもメインはイカのスミを使ったパスタだったよ。イカのスミだよ? 信じられる!?」

 「…………」

 「そうだ! また近い内に行く機会があるから今度一緒にどうだい? 君もたまには同じタンパク質でももっと別の味を楽しみたいだろう。ああ、もちろん僕の奢りだよ! こっちから誘っておいてレディにお金を出させるなんて真似、すると思うかい」

 「あの、掃除の邪魔ですので。どいてください」

 時刻は昼前、使用人たちにとっては夕方に次いで忙しい時間帯であるにも関わらず、箒で庭園を掃除するエステルの後ろからついて回り聞かれてもないことを話し続けるクリス。流石に痺れを切らしたのか、ハエを追い払う分かり易いジェスチャーでエステルが追い払おうとした。

 「僕は邪魔したつもりはないよ。いつも通りの情報交換会さ。僕が仕入れた情報と、君が仕入れた情報を照らし合わせるのが第一の仕事。違うかい?」

 「港町行ってお魚食べておいしかった……それのどこが貴重な情報なんですか」

 「君とこうしてお話しできる口実が出来た、それだけでも僕にとっては重要な事だよ」

 「そうですか。お帰りはあちらです、お気をつけて」

 「ごめん、待って。話す、ちゃんと話すから! ね? ねっ?」

 「分かりました。どうぞ」

 「君も大概いけずだね。まあ、捕まった時に口利きしてあげたのに、お礼のひとつも無かったトーマスよりはマシか」

 こほん、と空気を切り替える咳払いの後にクリスはやっと本題に入った。

 「港町が面している海は隣国との海峡になってる。さっきも言ったように漁業で食べている町だから、当然海峡を隔てた向こう側との漁業権の争いは絶えない。毎年互いの国が領海権を主張しているし、海上警備の軍隊はいつもピリピリしている」

 「それで?」

 「教会からもらった指令は、両国の緊張状態を解くこと。幸いあっちの国にも僕と同じような任務に就いている人がいて、今回は互いの国の妥協点を探ることにした。水面下での政治作戦っていうのは疲れるから嫌なのにね」

 「お疲れさまでした」

 「せっかく顔見せしてもお互いの主張しかしないわけだから、密談は難航しかしなくて。話してて思ったよ、これは一日中これだなって」

 「それなら最初からお受けしなければいいんです」

 「ごもっともだけど、立場上そういうのもね。でもあんまりにも進展しないから、ちょっと手助けしてあげたんだ。僕がちょっと『お願い』したら、皆いう事を聞いてくれたよ」

 「まあ、そうでしょうね」

 「だろう? だから、これで遠慮なく君をデートに誘える」

 「……はい?」

 どうしてこの流れでその話になるのか理解できず、表情筋を一切動かさぬままエステルが間抜けな声で問い返す。対するクリスは当然と言いたげな笑顔だ。

 「僕は君とデートがしたかったから、たいして面白くもない仕事を早めに終わらせてきたんだ」

 「ほんとうに、それだけのために?」

 「うん、そうだよ。あ、そうだ、今から少し予行演習も兼ねて二人でお出かけしようか」

 「…………」

 世間に疎いエステルとて隣国との緊張した情勢を知らない訳ではない。それまでは見向きもしなかった周辺国が、そこで一定以上の資源が採れると分かった途端、手の平を返して領有権を主張するというのはよくある話だ。主張するだけならタダだし聞き流せばいいのだが、実際それに手を付ければ小競り合いも発生する。もう二十年はそれを巡って争い、裏では政治家や官僚たちが鎬を削っていると言う。

 それをこの優男はたった一日で、正反対の主張を繰り返す互いを「納得させ」た。しかもその理由が自分と逢引きしたいがためというのは、感情を持たぬ故に執着の無いエステルにとっては理解不能な行動だった。

 「主人、今日一日エステルをお借りしますが、よろしいですよね?」

 「待って、わたしは……」

 「ええ、どうぞ。エステルよ、楽しんでくると良い」

 何度も接触を繰り返した主人が今更クリスの「お願い」に逆らうはずもなく、気前よく二人を送り出す馬車まで用意してくれた。貨物に紛れて荷馬車にしか乗った事の無いエステルにとって、石畳で舗装された道を優雅に移動する貴族の乗り物は初の体験だった。

 「見てごらん、エステル。サーカスの一座が来ているみたいだよ。食事の前に楽しんでいかないかい?」

 「興味ありません」

 「ああ、そう? まあ火を吹く芸なんて君達魔物からすれば別に珍しくもなんともないだろうし、逆につまらないか。配慮が足りなかったね。お詫びと言ってはなんだけど、しばらく街を観覧してから僕の行きつけの店でディナーでもどうだい?」

 「はじめからそのつもりでしょう」

 「そうだよ。それじゃあ、予行演習だけど今日は楽しんでほしい。まず最初は──」

 二人を乗せた馬車がゆっくりと街を練り歩く。

 西に傾き始めた陽がエステルの肌を照らした。





 エステルの創造主である『四人目』は、寡黙な男だった。決して必要以上のことは話さず、製造期間も含めれば最も近くにいたはずのエステルでさえ数える程しか言葉を交わしていない。そんな製作者の元で育ったためか、潜入工作用に作られたにも関わらずエステルは無愛想な性格に仕上がってしまった。

 聡明なエステルは自分の性格がスパイに向かない事を知っていた。もう少し愛想を振りまける性格だったなら、貴族相手に愛人の真似事が出来たのだろうが、いかんせんここまで愛想の無い性格となればそれも難しい。

 だから一度主に申し出たことがある、どうか自分の性格設定を変えるようにと。本心ではどうあれ、せめて言動だけでもそう見せかけるようにしてほしいと。

 「それでは意味が無い。我輩の求める結果を出すには、それでは過分なのである」

 返された答えはそれだった。

 「貴様は我輩が作りし数式。命令はたったひとつ……汝の欲するところを求めよ、以上である」

 それ以上、主は答えようとしなかった。答える時間も惜しいとばかりに羊皮紙に所狭しと数式を書き込む彼を尻目に、エステルはアルカーヌムへと旅立った。主とはそれ以来会話が無い。

 汝の欲するところとは何か、エステルにはついぞ分からぬままだった。喜怒哀楽の基本感情すらない彼女には自らが求める何かなどありはしない。ただ冷静に、ただ無機質に、そしてただ漫然と命令通りの行動を取る事しか出来ない、自分で何かを思考することなど無い。

 だからこそ、不可解なのだ。

 今自分に積極的に話し掛けてくれるこの男、クリスの心中がどうしても読めない。主にヒトの心理の機微を捉える知識を技術として教え込まれてはいるが、そんな知識が一切役に立たないほど、クリスの言動が読めなくなっていた。

 彼の行動、言葉、ちょっとした仕草や表情、その全てに「裏」が無い。どんな人間にも必ずある下心、それがこの男にだけは無い。その言動は全てが真実、飾り立てる気など更々無く、ただどこまでも純粋にまっすぐなモノをぶつけてくる。神の加護云々ではなく、彼自身が持つ感性としてそう行動しているのだと理解させられる。

 その言葉の一つひとつを受ける度に、エステルの胸の奥で熱い何かが揺れ動くのだ。

 (これはなに? わたしのなかで動く、“これ”はなに? “これ”がわたしの欲するものだというの?)

 あの時、彼の手を拒んだ理由がそこにあるのだろうか。





 口を噤んだエステルに一方的にクリスが言葉を投げ掛けるという逢引きが五時間も続き、二人は街の様々な場所を巡りながら最後に王都の中央に程近い場所までやって来た。デートもいよいよ終盤、二人きりでの晩餐が始まる。

 辿り着いたのは一軒のレストラン。建物を見ただけでも分かるが、出入りする人々や、入り口に立って扉を開け閉めするウェイターの格好を見ると場末の飲食店とは格が違うことを如実に知らされる。恐らくは貴族や一部の資産家、各国からやって来る要人をもてなす格式高い料理店であることは間違いない。

 「本当はそのままでって言いたいけれど、場所が場所だからこれに着替えようか。着付け方は分かる? 僕は外で待ってるよ」

 そう言って渡されるのは夜会などで着ていく余所行きのドレス。舞踏会で着るような煌びやかなものではなく、必要最低限のデザインで女性の魅力を引き立てる物だった。普段からメイド服しか着たことは無かったが、着用方法は普段から令嬢の相手をしているので熟知していた。

 姿見が無いので細部の違和感までは分からなかったが、外で待っていたクリスの表情で着直しが必要ないと悟った。

 「うんうん! とても似合っているよ! 女性の服を選ぶのは初めての経験だったけど、僕の見立てに狂いは無かったよ」

 浅黒い肌のエステルにあえて選んだ色は白、華美な装飾を持たないことで彼女のきめ細かい肌の方が美しく映えていた。しかも二の腕のルーンが見えないよう少し袖が長い物を選んでいる。全てを飾らないクリスらしい選出と言えるだろう。

 「さあ、フロイライン。お手をどうぞ」

 「…………」

 「フフ、意地でも僕に触れられたくないんだね。いいよ、いや……『それがいい』。君は君の気持に従えばそれでいいんだよ」

 そう言いながらクリスはウェイター二人に挨拶して扉を開けさせた。予約制であるにも関わらず彼の来客予定を確認する様子が無い。

 「まさかここも?」

 「言ったろう、行きつけだって。わざわざ面倒臭い予約を入れなくても、僕なら顔パスで入れる。ここのオーナーやコック長とは『仲良し』だからね、いつも最高の料理を『大好きな』僕のために振る舞ってくれるんだ」

 慣れた様子で入ると、僅かに歩調を崩すことなく店の中で一番良い席に座る。窓のすぐ外は河に面し、徐々に暗くなるこの時間帯から王都の夜景を眺めながら食事を楽しめる特等席だ。

 メニューは最初から決まっているのか、まず最初に前菜が通された。メインディッシュが来るまでの腹ごなしに程良く調味料が利き、口に入れた二人の食欲をそそる。

 「これ……」

 「美味しい?」

 「……ええ」

 「それはよかった。路地裏の彼らが出すモノに比べれば、ずっと味わい深いと思うよ」

 それからはデート中とは打って変わり、食事中は静かに気品良く食器を扱うクリス。彼にならってエステルも知識として持っている作法を用いて食事を行う。その部分だけを見ていると、どこかの貴族とそのフィアンセにも見えなくはない。それだけ、向かい合って食事する二人は絵になっていた。

 やがてサラダ、スープと平らげ、メインが出て来るまでの間、再びクリスから言葉が投げ掛けられる。

 「君が僕を拒む理由は分かっているんだ。君は僕を疑っているんだね。僕の言葉が本気か嘘か、計りかねているから寄せ付けまいとしている……違う?」

 「…………」

 「分かるよ。僕らの中にもかなり疑り深いのがいてね、だから分かる。でもね、怖がる必要なんて無いんだ。それが本心なら僕はそれを受け入れるよ」

 そう言いながらテーブル越しに手を伸ばす。エステルには届かないが、彼女の方からも手を伸ばせば互いに触れ合う十分な距離だ。

 これで三度目。東方にある「三度目の正直」という諺を二人が知っているかどうかは分からないが、真っ直ぐ見つめてくるクリスの視線を同じく真正面から見つめ返すエステル。無感情なその瞳が僅かに揺れ動くのは気のせいか、それとも……。

 「…………っ」

 腕が伸ばされ──、

 「大使様っ!!」

 闖入者の大声がそれを阻んだ。クリスを含む全員の視線がその発生源に集中した瞬間、エステルの手は再び膝の上に戻された。

 発生源は厨房、下手人は料理を運ぶ給仕の女。ただの女ではない、背中に生えたコウモリに似た羽と頭の角から彼女が最もポピュラーな魔物娘、サキュバスだと分かる。王都では種族で職業を差別する事は少ないが、それでも身分の高い者らが集うこの場所で魔物娘が働いているのは珍しいだろう。無論、以前からここを利用していたクリスは彼女の事を知っているが、今日は何やら様子がおかしい。

 「ああ、大使様! クリス様!! どうして、どうしてなの!? あれだけ私に優しい言葉をかけておきながら、どうして私の前に他の女を連れ歩けるのっ!!?」

 「えっと、誤解だよ。彼女とは今はまだ君が想像しているような関係じゃないし、何より僕は……」

 「私のことなど眼中に無かったと! ええ、そうでしょうとも! 私の誘いを幾度も幾度も袖にして、これ見よがしと他の女といちゃついて……!! でも……その我慢も今日でおしまい」

 「あ、あの、レディ?」

 「もうっ、我慢の限界なのよォォォーーッ!!!」

 与えられた給仕服を掻き毟り、ビリビリに破き去ってあられもない姿になったサキュバスがクリスに飛び掛かる。男と交わることしか頭にない今の彼女に、衆目など全く見えていない。ここで意中の男と添い遂げられるなら誰に見られていようが構わないのだ。

 髪を振り乱し乳房をさらけ出して、止めようとする者を蹴飛ばしながら急接近し、その腕がクリスの柔な体を押し倒そうと迫る。



 「……やめてよ」



 「ァ──!!」

 静かに呟かれたその言葉を聞いた刹那、後僅かで触れられた距離でサキュバスの動きが止まる。メドゥーサに魅入られたように小指一本動かせず、サキュバスは荒く呼吸しながらも絶対にクリスに触れない。クリスは何もしていない、止まったのはサキュバスの意志だ。

 だがそれは、とてもとても異常なこと。

 「へえ、君、僕の事が好きだったんだ。ごめんね、それは気付かなかったよ。君はサキュバスの中でも奥手な方だったからね。許してほしい」

 全ての魔物は男と交わることを望んでいる。その欲望を、精を、種を、我が身に受け入れることを至上の目的、生きる喜びとして感じている。鳥が空を飛び、魚が水を泳ぐ、それと同じ自然の摂理。

 だからこそ、一度発情した彼女らを止める事など絶対に出来ない。出来るとすればそれは自分の意志で止めることだが、一度でも火がつけば燃え盛るのが道理、つまりは不可能なのだ。

 「でもね、ここは君の家じゃないんだよ? 君もヒトと共に生きるのなら、もっと節度というものを弁えたほうが良い。こういうのは双方の同意が必要だからね。ところで君さ……一度でも僕が君のことを好きだって言ったかな?」

 「ぁ、それ、は……!」

 「言った? 言ってないよね? そう、君が勝手に勘違いしただけなんだ。勘違い、分かる? そんな勘違いで折角の食事を邪魔された僕は、君のことを迷惑としか思わない。まかり間違っても、『好き』とは思わないよ」

 固まったままのサキュバスの全身が恥辱と興奮で震えだす。しかし、決してその場から動けない。クリスがそう言ったから、「大好き」なクリスがそう言っているから、彼女はそれに絶対に逆らえない。

 クリスの能力はただ好意を植え付けるに留まらず、更にその先、望まぬことを強制させる「洗脳」の域にまで達していた。

 「君は半端な気持ちで僕にすり寄った、ただの勘違い女。迷惑だから二度と僕の前に姿を見せないでほしい。これはお願いじゃなくて、『命令』だよ」

 「ああ、そんな、クリス様どうか……!」

 「僕の事が好きなんだよね? 好き好き、大好き、愛してる……なら、愛している僕の言葉を聞き入れてくれるよね? これ以上、『愛してる』僕を煩わせないでほしい」

 「…………!!」

 「ね?」

 最後、子供が微笑むような無垢な笑顔を向けられて、サキュバスの心は完全に折れた。自ら破いた服を着の身着のままで、幽鬼のように項垂れてゆらゆらと厨房に消え、少ししてから裏口が開く音が聞こえた。

 騒然となった店内は一転、嵐の後の静けさに。

 「えー、ご同席の皆々様、大変お騒がせいたしました。引き続き、食事をお楽しみください」

 呆然としているコック長らに代わり挨拶を述べた後、クリスが席に着く。すかさず運ばれてきたメインディッシュを頂こうとナイフとフォークを持ち、それらを堪能する。さっきまでの出来事など無かったかのように。

 「騒がせたね。君には不快な思いをさせてすまないと思ってる」

 「ええ……そうですね、不快、ですね」

 呟くように返しながらエステルがグラスを持つ。グラスの脚ではなく、ボウルの方を掴み……。

 「っ!!!」

 赤ワインをクリスの顔目掛けて浴びせかけた。彼の体にアルコールの匂いが染みつく。

 この時初めて、クリスは目の前の彼女がそれまでと違うことに気が付いた。

 「いま、はじめて理解しました。わたしは……あなたのことが……」

 「エステル?」

 「……っ」

 彼と出会ってからこれまでの全てを、大きく吸い込んだ息と共に、こう吐き出す。

 「大っ嫌いです」

 本気。真剣。掛け値なし、混じりっ気なし、純粋に心の底から、エステルはたった今クリスという男を嫌悪し始めた。

 「今日は誘ってくださって感謝します。ですが……もう関わらないでください」

 それだけ言うとエステルは背を向け、ただの一瞥もくれずにクリスから去った。美味なメインディッシュには一口も手を付けず、それはまるでクリスの心を三度も拒んだように、四度目のこれもまた同じように拒否してみせたのだ。

 純白のドレスを纏ったまま去って行くその背を、クリスは呆然と見つめていた。追う事も、引き留めようともせず、ただ見送る。

 そして彼女が出て行った時、店内は再び気まずい静寂に包まれた。





 「ふふ、ふふふ、はははは……!」

 静寂を破ったのは再びクリス。頭からワインを被ったまま、髪の先から滴り落ちるのも気にせず、くつくつと堪えるような笑いを漏らす。給仕が拭き物を持つがそれも払い、遂には。

 「あはははははははははははっ、はーはっはっはっははははははは!!!!」

 店内中に響く大声で笑いだすその姿に、一堂がぎょっとした視線を向ける。だがそんなこと知ったことではないとばかりに、クリスは思う存分笑い続けた。

 やがて満足したのか、大きく深呼吸すると、ようやくその表情を衆人に晒した。その顔は……。

 「皆さん、今日は良き日です」

 笑っていた。心底嬉しいことがあったような、本当に愉快そうな笑顔だった。

 「皆さん、どうか祝って欲しい。今日と言う日を僕はずっと待ち焦がれていました。さあ、どうか皆さん、僕の為に拍手を。長年の望みが叶うであろうこの僕を祝福し、万雷の拍手を! どうか!!」

 刹那、店内にいた全ての人間が手を取って盛大な拍手を送る。客も、料理人も、給仕も、表に立つウェイターも、全ての人間が「大好き」なクリスを祝って手を叩く。

 「ありがとう! ありがとう、ありがとう!! 僕は今、とても幸せです」

 クリスが望んだ万雷の拍手は、月が天頂に昇るまで続いた。

 「嗚呼、エステル。ありがとう、君は僕の──」
15/08/16 21:44更新 / 毒素N
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