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第二章 嫉妬の勇者:後編
 ある男の話をしよう。

 国の首都から距離を置いた田舎町、特別裕福でも路頭に迷うような貧乏でもなく、平凡などこにでもいるごく普通の人間の一家に男は生まれた。

 上に二人の兄が居て、長男と次男は二歳違い、次男と三男は十歳も離れていた。歳の離れた兄弟姉妹など珍しくはない。それこそもっと田舎の農村に行けばいくらでもいるし、後妻を娶ったところなら二十歳違いという家族もいる。

 家は大工をしており、御殿を立てるような大層な仕事はなかったが、堅実な仕事ぶりが町の人々から信頼を得ている生粋の職人気質な父だった。だから当然男が生まれればその内の誰かが家業を継ぎ、その可能性が一番高かったのが長男だった。

 しかし、ここで一家にとって嬉しい誤算があった。家業以外には学が無い両親から生まれたその長男は、当時町に住む誰も敵わないほどの頭脳を持って生まれた。大きな学校や図書館の無かった田舎町に育ちながら、旅の商人や学者、知識人などを捕まえては積極的に知識を吸収し、砂地に水がの勢いで学習する彼を誰もが神童と持て囃した。

 まさにトンビがタカを生んだ故事通りに育った長男を両親も誇り、田舎で埋もれさせるのは惜しいと知り合いや伝手を頼って長男を少し大きな街の学校に入れることにした。恐らく家業を継ぐことは無いだろうが、それでよかった。高名な学者になり世の為人の為に役に立てよと、気前よく彼を送り出した。

 次に白羽の矢が立ったのが次男だ。頭の良い兄に負けじと家業を継ぐために修行を重ね、実の父の弟子として様々な現場に同行した。土の掘り方、石の積み上げ方、木の切り方、図面の書き方……家造りに必要な知識と経験を体に覚え込ませていった。兄に代わりいずれは彼が……そう誰もが思っていた。

 ところがその次男にも転機が訪れた。ある家の修繕でいつものように父に同行した際、そこで依頼主の家族と会う機会があった。相手は両親と娘の三人家族、娘の年齢は奇しくも次男と同じで……二人は一目で互いに恋に落ちた。片や地元の名士の一人娘、片や代々田舎町でしがない家業の見習い次男、どこをどうすれば通じ合うものがあったのかは謎だが、紆余曲折の後に二人は思いを通じ合せ想い人同士になった。

 ゆくゆくは結婚するのは確実というところまできたが、そうなると格式高い娘の家に次男が婿養子として行くことになる。当然跡取りが欲しい父親は渋ったが、息子の幸せを一番に思えばと、やはりそれを呑んだ。結婚式は町を上げて盛大に行われ、身分違いのラブロマンスはしばらくの間語り草になった。

 かくして、トンビの両親が分不相応なタカを二人も生むという奇跡が、とある国の田舎町で本当にあった。町一番の秀才は才能を伸ばすべく街へ行き、良縁に恵まれた次男は美しい妻と共に生活、絵に描いたような実におとぎ話のようなストーリーである。

 だがこのお話の主人公は彼らではない。

 最初の兄から十二も離れて生まれた三男。神童、良縁に続いてやっと得られた跡取り息子にして、唯一普通に生まれた存在。

 男は平凡な人間だった。裕福でも貧乏でもなく、飛び抜けた善人でも悪人でもない、大工と町娘の間の生まれにどこまでも分相応な、平々凡々なだけの人間。二人の兄が家を出る時には喜んで手を振り、皆と同じように祝福して送り出し、兄弟として恥じることのない立派な大工になることを幼心に決意していた。

 鎚を振り、木を削り、石を整え、家を建てる。連綿と続く大工の基礎を学び始めた時、男は兄二人より家業の習得に熱意を持って接していた。もうすぐ弟子から助手になれるぐらいにまで成長していた次男に代わるように、男は日々を大工として家造りの技術を学ぶのに費やした。

 暑い夏は汗を垂らし全身の水分を犠牲にし、寒い冬はかじかむ手が釘にくっ付いてしまう恐怖に耐え、体重の何倍もある石を運ぶ為に季節を問わず体も鍛えた。老いる父を安心させるために技術を覚え、自分の為に日々の生活を支えてくれる母を楽させようと体力を付けた。男は兄二人に負けないくらい、いや二人よりもずっと親思いの息子に育って行った。

 男がかつての次男と同じ年齢に達する十年後、国の情勢が一家に影を落とした。長年続いていた隣国との緊張が遂に限界にまで達し、このままでは将来必ずや二国間で戦争が勃発するという時代になった。

 来たる戦に備え国が打ち出した政策は、全国の一定の年齢に達した男子を訓練により兵士にさせる徴兵令だった。国家存亡の危機に瀕するかもしれないことを思えば反対する政治家はおらず、国が決めたことに反抗する国民に至っては皆無だった。誰もが皆諦めにも似た感情で現状を受け入れ、一人、また一人と軍への入隊を余儀なくされた。

 唯一、家の跡目を継ぐ者は兵役を免除された。その他にも既に公的な機関に属していたり重大な疾患を抱えているなどの理由があれば免除されたが、男はいずれ自分は家業を継いで大工になるのだし、次男は婿としてあちらの家を盛り立て、長男は既に学者として活動し、父も既に老齢に差し掛かる年齢だから我が家から徴兵される者はだれもいないと思い込んでいた。

 ところが、徴兵の命令は残酷だった。

 長男は確かに学者だが国家に属する公的なそれではなく、三男である自分が家督相続を放棄して兵役に服すべしという命令になった。加えて国は女性であっても家督相続人として認められるという理由から、婿入りした次男にも同じく徴兵に応じるよう通知があった。

 二人の兄弟は出戻る長男と入れ替わりで街に向かい、兵役につくことになった。それまでに培った大工の技術は城壁や攻城兵器の整備に有効とされ、兄弟そろって砦や陣地の整備兵として配属となった。槍を手に前線に出されることを思えばと二人はそこで兵役義務を乗り切ろうとしていた。

 隣国との戦争など起こらない、起こったとしても自分達の兵役期間を乗り切れば何の問題も無い、また故郷に帰れる……そう信じ、男は兄の励ましを受けながら自分の体に染み込ませた技術を軍と、命を懸けて国を守る使命を帯びた兵士らの為に使った。いつしか砦の兵士全員がひとつの目的を掲げた運命共同体、家族になったような感覚を覚えるのに時間は掛からなかった。

 一年が過ぎ……。

 二年が経ち……。

 二人が入隊して三年になる頃、事件は起きた。

 深夜、草木も眠る時刻に突然の轟音が陣地に鳴り響いた。雷でも落ちたような音は、果たして本当に轟雷が落ちた音だった。雨雲も嵐も無いのに突如轟いた雷鳴が何らかの魔術だと認識するのはすぐだった。

 男の国が教団国家であるのに対し、敵国は親魔物領。軍人や軍関係者にも魔物娘の薫陶を受けた兵士や魔術師がいる。元々両国の関係が悪化したのも近年の魔物娘に対する扱いの差による部分が大きく、こちらに対しあからさまな敵意を抱く国民も少なからずいた。雷鳴は魔術に長けた術師によるものだった。

 戦況は一方的だった。宵闇に紛れて行動する上に、相手は直接陣地に乗り込むことなく魔術による遠隔及び広範囲攻撃でこちらを攻める。こちらは相手がどこに陣取っているかさえ分からないのに、相手はこちらを正確に射抜いてくるのだ。

 湧き出る阿鼻叫喚、その混乱の中で兄は命を落とした。崩れ落ちる壁や天井の瓦礫を後頭部に受け、その衝撃でいとも容易く死んでしまったのだ。

 兄の死と共に砦の周囲を囲んでいた壁が壊され敵が雪崩れ込む。白兵による攻防は明け方まで続き、明るくなる前に敵は退却した。撤退ではない、既に大損害を与えた今労せず陣地を手に入れられる確信を得たからこそ敵は一時的に退いたまでに過ぎない。こちらが修繕や傷痍兵の治療に当たっている間に英気を養い、次に仕掛ける際に完全に潰す気でいるのだ。

 感染症の発生を防ぐ為、死体は早々に処理される。兄の亡骸も同様に処理してもらおうとした時、砦の兵士から待ったが掛けられた。

 “そいつは敵国のスパイじゃないのか!”

 何を言っているのか分からなかった。故郷に妻を残した彼がどうして敵国と通じているのか。

 “敵は砦の脆い部分を知っていた! 普段から城壁を整備している者でなければ知らないはずだ!” “そいつは敵に情報を流したスパイだ、敵だ! 死んで当然だ!” “墓なんか必要ねぇ! そのまま野ざらし……いや、先に恨みを晴らさなきゃ気が済まねえ!!”

 そう言って手に手に武器を持ちいきり立つ兵士たち。既に事切れた兄の亡骸を更に痛めつけようとしていることに気付き、男が縋り付く。

 「待ってくれ!! 兄貴はっ、兄貴はそんなことしてねぇ!! 本当だよ、信じてくれぇーッ!!」

 男は必死になって兵士を止めようとした。だが……。

 “そういうお前はどうなんだ? こいつと兄弟なんだよなあ” “怪しい、怪しいぞ!!” “お前もスパイなんだな、そうなんだなぁ!!?”

 矛先が男に向けられ、全ての謂れなき暴力が男を襲った。

 頭を、肩を、腕を、背中を、足を……全身のあらゆる場所を打たれるというリンチに合いながら、男はそれでも兄の無実を主張した。

 特に兄の亡骸を守るため覆いかぶさっていた為、背中に集中的に暴行を受け続けた。背骨が曲がり、肩甲骨にヒビが入り、それでも男は兄の上から絶対にどこうとはしなかった。周囲の皆が兄の潔白を信じてくれると思っていたから。

 「ち、違う……! あにきはっ、スパイなんかじゃ……ねえんだっ!!」

 だがその強情な態度が兵士たちの熱を加速させた。

 誰が持ってのか、森林を伐採するための斧……それを大きく振り上げ、皆の男を叩く動きが一瞬止められ──、

 「 ! ! 」

 男は気を失った。





 「結構掛かったな。やはり一度失った信用を買い戻すのは楽じゃない」

 「そう言うて、ちゃっかりと自分の一番得するところに落とし込むあたりほんに鬼畜やわぁ。あの店長涙目やったで」

 朝から立て続けに五件の商談を終える頃、時刻は完全に夕方になっていた。西に沈もうとする大陽に向かいトーマスとアヤが自分達の住処に戻ろうとする。

 「でもま、そんなえげつい手ぇ使うアンタに惚れたんやけどな」

 「気安く惚れた腫れたとか言うな、安く見えるぞ」

 「そんだけアンタがエエ男っちゅうことやん」

 「俺としてはそんな安物を連れ歩く男とは思われたくないんだがな」

 街の大通りの喧騒から切り離されたような静かな通り。人は誰も居らず、今まさに沈もうとするオレンジ色の光を二人占めしているような感覚になる。こういう情感溢れるシチュエーションは、悪くない。

 「あのさあのさぁ、この後あたしと飲まへん? あん時飲んだ酒、また仕入れることに成功したねん。滅多に飲まれへん東方の酒やで、ええやろぉ、なあ?」

 「…………」

 「むぅ、だんまり? いけずな男は商売に向かへんで? またあん時みたいに口移しで……」

 「……おい」

 「あ、やっと返事した! 分かった、あたしとまたシたいんやろ? ええで、路上でもバッチこ……」

 「来た道を戻れ。今ならまだ間に合うかもしれん」

 「? アンタ、何いうて……」



 「残念だけんど、あんたはもう引き返せねえだよ、若社長」



 背後からの声にアヤが振り向こうとする。しかし、その首根っこを掴んだトーマスがアヤを引いて一気に跳躍した。

 「おんや、外しちまったなぁ。流石は若社長、勘が鋭いだね」

 特徴的な田舎言葉で喋るのは、今朝会った義足の勇者・ゴードン。軽い失敗をしたように照れながら頭を掻いているが、その片方の手には小刀くらいはあるナイフが握られていた。

 あとほんの数センチ、反応が遅れていればアヤの首は刎ね飛んでいただろう。

 「あともう少しでタヌキの首を狩れただがねぇ」

 「狙いは俺達二人か」

 「うん。えと、『勇者トーマスは魔物と結託した疑惑があるため、勇者ゴードンはこれを調査すべし。なおその結果に対する処遇は一任する』……ってあるだよ」

 「一任か……。なあ、昔からのよしみで見逃してくれよ。頼むよゴードン」

 「うう、若社長に頭下げられると弱るだよ〜」

 そう言いながら本当に困ったという表情でゴードンが俯く。彼は決して殺人鬼ではない、殺すに足る絶対的な理由が無い限りは絶対に殺さない、それは人倫に生きる者として弁えている道理だった。

 「でも関係ねえだ。あんたは信仰を裏切っただよ」

 ゴードンは殺人鬼ではないが、狂信者だ。神の意思に背いた、それは彼にとっては人ひとり殺すには充分すぎる理由なのだ。

 交渉失敗と悟ったトーマスとアヤが一目散に駆け出す。普段背負っている商売道具の入った箱も捨てるように道に置き、勇者と獣は狂信の暗殺者から逃れようと全神経を逃走のみに集中させる。

 (人っ子一人いなかったのは人払いの術を使ったのか。ゴードンめ、『引き籠り』が作った術符を使ったな)

 夕刻という人通りがまだ絶えない時間帯なのに、ここだけは何故か人気が無かった。誰かに見られては暗殺が出来ない、だが出来るだけ早く抹殺したい、その二つの条件をクリアするには「人のいない状況」を作り出すしかない。それを達成している今、この空間は既にゴードンの支配下にある。

 「ゴードンは片脚が義足だ、足の速さではこちらに分がある」

 「大通りまで逃げ切れたらアタシらの勝ちってことやな」

 流石に天下の往来で殺しをするほど愚かではない。そこまで逃げ切ってしまえばこちらのものだ。

 だが、ゴードンがただ鈍足なだけの暗殺者ではない真髄がここで発揮される。

 「確かに俺っちの足は遅いだ。こんな重っ苦しい義足だからなぁ。でもよお、俺っちがただここで待ってるだけだと思ってたのかぃ?」

 ゴードンが投擲用の小さいナイフを投げる。それは民家の壁に仕掛けられていたワイヤーを切断し、途切れたワイヤーが作動させた様々な仕掛けを経由して……。

 「頭上注意だべ」

 「!?」

 別の民家の窓際に飾られていた植木鉢がアヤの頭めがけて落下する。すんでのところでそれを蹴り飛ばそうとするアヤだが……。

 「避けろマヌケが!」

 トーマスの怒号に反射的に身を避ける。地面に落ちた鉢が割れ、中から飛び散った黄色い液体が周囲に散乱し、あらゆる固形物を恐ろしい勢いで腐食させる。もし蹴っていればその瞬間にアヤの足はドロドロに溶かされていただろう。

 「あっちゃー! 外れちまっただ! でも……」

 腐食液の化学反応で熱が発生し、それが地面に埋め込んだ導火線を起動させる。ここから先、五メートルは絶え間なく炸裂し続ける地雷原へと早変わりした。

 石畳が粉砕され土砂が噴き上がる。民家の屋根や壁が盛大に破壊され、たった二人の相手を殺すには過剰な火力がトーマスとアヤを襲った。

 トーマスが素早くマントを解き、跳躍と同時に地面と自身の間の空間に滑り込ませる。勇者の装備として与えられたそれは、あらゆる剣戟や魔獣の爪さえ防ぐ加護が付与されており、爆発の熱波と礫弾からトーマスを守る。

 アヤもまた壁を蹴り上げてトーマスの上に移動し、彼自身を盾にして自らの身を守る。爆発が収まった時にはマントはボロボロに焼き切れ、着地と共にそれを捨てて駆け出す。

 爆発が収まるまでの間、手前で待っていたゴードンを置いて二人は大通りまであと一歩のところまで走った。その角を曲がれば人がいる場所へ出られる、そう確信してそこを曲がった瞬間──、

 アヤだけが弾かれた。

 「あでっ!?」

 「結界か?」

 「正解だよ。魔物だけを弾く結界だよ。よかっただ、若社長はまだインキュバスにはなってなかっただね」

 今の今までまとめて殺そうとしていたくせに、心底安心したような表情でゴードンが言ってのける。

 「このタヌキをぶっ殺せば、若社長はまた勇者に戻ってくれるだよね? あんたはちょいと騙されていただけ、教会に対する信心を忘れちまったわけじゃねえ、そうだよな?」

 「生憎と俺は神に対する信心など……」

 「ねぇわけがねぇだよ。だってあんたは『勇者』だ、勇者は魔物を殺すんだろ、堕落した人間を正すんだろ、魔王を倒すんだろ、この世界を主神さまの御威光で満たさなきゃいけないんだよ、どうしてそれが理解できねえかなぁぁぁあああアアア!!?」

 普段は卑屈な一歩引いた笑みを浮かべているゴードンが、今はただ悪鬼にしか見えない猛悪な笑顔でアヤに接近する。獲物を前にして歯をむき出す獣の顔を果たして笑顔を言えるかは疑問だが、少なくとも今の彼を下手に刺激するのだけは絶対に避けねばならないということは分かった。

 「でぇじょうぶだ、処遇は俺っちに一任されてっから若社長は見逃してやるだよ。だけんど、このタヌキは駄目だ。魔物は男を惑わす汚れた存在だ、生かしちゃおけねえ」

 「聞けゴードン。こいつは有能だ、生かしておく価値が……」

 「若社長は黙ってるだよ。獣を捌くのはちょいと手間だち、静かにしててほしいだ。こう見えて俺っち、緊張してるだよ?」

 ゴードンの笑っていない目がトーマスの二の句を潰す。トーマスが彼を面倒という真の理由がそこにあった。

 彼は自分の命を何とも思っていない。本気で、心底、自分の命をゴミクズ以下の無価値という前提で行動している。さっきの通りにも殺人級のトラップ「しか」設置されておらず、下手すればゴードン自身も共倒れする罠が十も二十も仕掛けられていた。罠とは相手の動きを止めて仕留めるためのもので、決して仕掛けた本人まで危険に晒すものを罠とは呼べない。誰だって自分の命は惜しいから、大規模な罠には自分が助かる抜け穴が用意されているものだ。

 だがゴードンに限ってそれはない。馬車に乗った要人を爆殺した時もそうだった。車体の裏に爆弾を仕掛け、導火線の長さを調節すればそれで済んだはずが、彼は自ら車体の裏に張り付き自ら爆弾を起爆させた。用水路を横切る瞬間に転がり出し、その拍子で紐を通したピンを引き抜く……一歩間違えば自分も木端微塵になる命懸けの大道芸を、彼は何の迷いも無く実践して見せるのだ。

 平凡で、非才で、無能だから、命を懸けることしか出来ない狂人、それがゴードンの正体。

 「俺っちは皆を尊敬しているだ。みんな俺っちが出来ないことを出来る、才能に恵まれた勇者さまだ。『若社長』も、『大臣』も、『魔導師さま』も、『騎士さま』も、『大旦那』も……みぃんな俺っちには出来ねえことをやってのけるだ。俺っちよりずっと素晴らしい、俺っちよりずっと凄ぇ、俺っちよりずっと認められてる皆を……俺っちは尊敬しているだ。同じ勇者に選ばれちまった俺っちにできるのは、そんな皆が進む『正しい道』を露払いすることだけだっち。それが出来る暁にゃ俺っちの命は惜しくねぇ、皆の進む道の礎になるなら、こんな名誉なこたぁねえだよ!!」

 だから、と続けながらゴードンの指がアヤの髪を掴み上げる。自らを追い込む過酷な鍛錬と任務を繰り返し、傷が傷を覆ってゴワゴワになった無骨な指だ。

 「だから勇者さまは『正しく』なけりゃなんねえ。魔物と関わりを持つなんてこと、『間違ってる』だ。間違いはよぉ、正さなきゃならねえよなぁ? だってそうだろぅ? 勇者さまは『正しい』んだからさぁ。もし勇者さまに出来ねえってんなら、俺っちがそれを手助けするべさ。汚点があるってなら、俺っちがそれを精魂込めて拭き取る……何の才能もねえ俺っちにも出来る、しょうもないお仕事だけんど、俺っちの正しさは神さまが見てくださってるだ。汚れはみーんな俺っちが引き受ける、だから……」

 首狩りナイフがアヤの顎を捉える。そのまま上に引けば彼女の顔は鞣された皮のように頭部から切り取られるだろう。

 「『正しく』なってくれよぉぉっ、勇者さまァァァアアアア。俺っちの願いを聞き入れておくんなさいましィィィィッ!」

 神に生贄を捧げて願いを乞う祈祷師のように、半狂乱になったゴードンの刃が悪しき魔物の首を刎ねようと振り上げられた。

 鮮血が、飛び散った。

 「キ、ヒィ! キヒヒ、クハ、クカカカカッ、ヒハハハハ!!」

 血を顔に浴びたことで別の何かに火がついたのか、いよいよ狂ったように笑い出すゴードン。おどおどしていた男の本性を見せ付けられ、トーマスの顔も苦いものに変わる。

 ひとしきり笑った後、ゴードンは大きく深呼吸して落ち着きを取り戻すと、こう問いかけた。

 「どぉして止めるだよぉ、ええ? 聖女さま」

 「ゴードン……!」
 
 飛び散った血はアヤではなく、ゴードンの背後から刃を掴んで止めたシャムエルのもの。斬ろうとするゴードンに対し、自分が切れているにも関わらずシャムエルの手は決してそれを離さない。

 「騒ぎを聞きつけて来てみれば……。見ていましたよ。アナタはトーマスを本気で殺すつもりでしたね」

 「そりゃあ誤解ですだよ、聖女さまぁ。あん時はまだ若社長がインキュバスになってたか分からなかっただ。でもこうして結界を通り抜けられたから、殺す必要なんて無くなっただよ」

 「それはつまり、インキュバスになっていれば殺したと? かつての数年来の仲間を、常日頃から尊敬すると仰ぎ見る者を?」

 「……それが、今この事となんか関係あるだか?」

 まるで、太陽が西から昇るという与太話を聞かされたように心底不思議そうに首をひねる。

 「嗚呼、ゴードン。私はいつも思っていました。アナタは勇者に向かないのでは、と。ワタシが見守り、アナタが信仰を忘れないとは言え、自分の力で乗り越えられない困難に当たれば、アナタは逃げ出してしまうのではないかと……いつもその前途を案じ、そして疑っていました」

 背後からそっと前に回り、刃を両手で包み込む。慈愛の笑みを浮かべるシャムエルに正面から見つめられ、照れ臭くなったゴードンが少し俯く。

 「ですが、それはワタシの浅はかな思い上がりでした。許してください、ワタシ程度がアナタの器を疑うなどあってはならないことだったのです」

 「せ、聖女さまは悪くねえだ! 俺っちが至らなかったから……」

 「ええ、ええ良いのです。過去は恥ずべきこと。今はもう微塵も疑ってなどいません。ゴードン……」



 「アナタは勇者になるべきではなかった!!」



 瞬間、シャムエルの手が万力のように力を込め刃が折れる。

 突然の事態に思わずゴードンの手が離れ、その隙にアヤが脱出し、トーマスがそれを抱えて民家の壁を蹴り上げて屋根伝いに逃亡した。

 後に残されたのは神の御使いと、その彼女に勇者失格の烙印を押されし男だけだった。





 もう一度、男の話をしよう。

 目覚めた時、男は自身の右脚を失っていた。どうやって持ち出したのか自分でも覚えがないが、兄の亡骸を背負って軍を抜け出し、自分を殴るのに使われた棒を杖代わりに彼は故郷を目指した。

 何日も、何日も……。太陽が肌を焼き、雨風が衣服を削り、石や土くれが素足を痛めつけてなお、男の足は休む事無く故郷を目指した。雑草を食べて飢えを凌ぎ、兜に溜まった雨水を飲んで渇きを癒す旅路が続いた。

 背負っていた兄の亡骸が腐り落ち頭だけになる頃、男はようやく故郷に辿り着いた。

 誰もが兄の死を嘆き悲しんだ。兄の妻も頭蓋骨を抱きしめて泣き叫んだ。兄が愛されていたことを再認識させられた。

 そう、兄は弟よりずっと愛されていた。

 誰かが言った。

 “兄は死んだのに、どうしてこいつは……” “逃げ帰って来た。兄は死んだのに” “どうして生き残ったのがこっちなんだ”

 悪意の有無は分からない。そんな声が聞こえてきた時には男は逃げるように実家に駆け込んでいた。家族だけは自分の傷を癒してくれると信じていた。

 だが、血をわけた親兄弟は赤の他人より残酷だった。

 足を失いカタワになった男は、体が資本である大工家業などもう出来ない……そう言って両親はただの穀潰しに成り下がった息子を露骨に煙たがった。特に教え込んだ技術の全てを無駄にされたと感じた父親の態度は冷ややかだった。

 兄ではなくお前が死ねばよかったのに……そう言われているような気がした。

 最後に残った長男に至っては弟の事を憎んですらいた。学業に専念できると都会に出たはずの兄は、弟二人が兵役についたことにより田舎に連れ戻されたことを不満に思っていた。

 “お前が兵隊に行かなければ、俺はこんな田舎に戻らずに済んだんだ。お前のせいだ”

 完全な逆恨み、もし男が心の強い人間であったなら反論し説き伏せ、自らの潔白を主張しただろう。

 だが男の弱い心は内罰的で自虐的な方向に大きく捻じ曲がることになった。

 「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 その日から、男の「祈り」は習慣から「義務」になった。来る日も来る日も神に贖罪を祈り、自らの不徳が浄化される事を願い続けた。

 皆が自分のことを悪いと言う、だからきっと自分はこの世に生きていちゃいけないんだ。だけど死ぬのは怖い、死にたくないから、神さまお願いしますどうか自分を救ってください。

 一日の大半を教会で過ごし、ずっとずっと祈り続けた男の願いは……思いもしない形で実現する。

 正義と秩序の実行者、「勇者」へと男は選ばれる。





 「俺っちのやったことは……悪いことだっただか?」

 呆然と立ち尽くすゴードン。日が沈み、暗闇の街にゴードンの輪郭が溶ける。全ての感情が抜け落ち何の抑揚も無い声だけが、無人の路地にこだまする。

 「アナタは常々、勇者とは正しい存在だと言っていましたね。魔を討ち、悪を正し、世に秩序と希望をもたらす者だと。ええ、その志は立派です。そこだけならアナタは天界に記録されているどの勇者よりも勇者としての志を持っていると判断できます」

 肉体、精神、魂、どれが欠けても決して勇者には選ばれない。結果だけを見れば確かにゴードンは勇者の素質を持っている。

 「ですが、アナタには芯が無い。その正義は誰が決めた、その秩序は誰が求めた、その希望は誰が欲した……アナタ自身のツギハギだらけの規範を誰が必要としたのです」

 「俺っちはただ、教会の命令に……」

 「教会の命令に従うのが勇者の在り方というのなら、アナタは今の自分の姿を誰かに誇れますか。同じ神を信じる者達に、『我こそは勇者ゴードンである』と胸を張って宣言できますか」

 「…………」

 「出来るはずがない。そもそもアナタは、本当に仲間を尊敬しているのですか。心の底から尊敬している相手を、勇者に相応しくない行動を取ったから、しかも疑惑の域を出ないにも関わらず殺してしまえるのですか。アナタにとっての尊敬の念など、所詮その程度なのですか」

 「疑わしきは罰するだ! 勇者にはっ、正しい人間には何一つとして欠点があっちゃならねえ! 清く正しい、何の間違いも犯さない、それが勇者なんだ!!」

 「ゴードン、それは……」

 「嘘だ、嘘だ嘘だ!! 聖女さまがこんな、人を惑わすようなこと言うはずがねえだ!!」

 「聞きなさい、ゴードン!」

 「ぃいやだぁ! 頼むよォ、これ以上俺っちをいじめないでくれよぅ……! も、もうヤなんだよぉぉおぉおお!!」

 大の男が泣き崩れるように顔を両手で覆い隠す。母親のお仕置きを怖がる子供のように、ゴードンは自分を追い詰める不可視の脅威に対しただ怯えていた。その次の言葉など聞きたくないと、いやいやと顔を振って抵抗する。

 だがそこに、無慈悲な追い撃ちがかけられた。

 「ゴードン、ワタシはアナタを……救いたいのです!」

 それが引き金となった。

 嗚咽が止み、振られていた頭もぴたりと止まった。糸の切れた人形のように停止する。

 だがその停止は一瞬の出来事。次にゴードンの十指にギリギリと力がこもり、髪を引き千切り、頬の皮を破り、大量の血が傷口から漏れ出る。

 「よくも……よくも……よくもッッ!!!!」

 掻き毟った毛や皮が爪の間に食い込むほど顔を掻き毟った後、離れた手の奥から覗いたゴードンの顔は……。

 「よくも、そんな嘘を言えたなァァァアアアアアアーーッ!!!!」

 シャムエルも初めて見る、怒りの形相だった。

 「心にもねえそんな歯が浮く優しい言葉を掛けて、嘘を吐いて騙して……俺を虐めて楽しいか、これ以上惨めにさせて楽しいかァッ!!! 憎い、ァァ憎ゥい!! 俺より『間違ってる』奴がよォ、俺より『正しい』扱いを受けてるなんてよォォッ、そんなの許せるわきゃねェだろォがよォォォオオオーッ!!!」

 「……それが、アナタの本質!」

 ゴードンは、ないない尽くし、なしのつぶての人間だった。

 能力が無い、素質が無い、才能が無い、思想が無い、主義が無い、情熱が無い、気品が無い、根気が無い……ヒトのカタチをした空洞の金型、それがゴードンという人間の正体である。

 無いなら無いなりにそれで良かった。人間、最初から全てを兼ね備えている者などいない、長い時間をかけて自己を磨くことで自分だけのオリジナルを育てる。

 だがゴードンは過去にそれらを否定されたことで捻じ曲がり、歪んでしまった。自己の研鑽、肉体ではなく精神面でのそれをすることを早々に諦めた。「どうせ俺なんか」……だがそう諦めておきながら、口では自分に無いモノを兼ね備えた人間を「素晴らしい」、「尊敬する」と嘯いている。人はそれを決して「尊敬」とは言わない、それは──、

 「誰かを『羨み』、『妬み』、そして一方的な『憧れ』を押し付ける。それは尊敬ではない、ただの『嫉妬』です!」

 自分には無い輝かしい何かに羨望を抱く、それ自体はいい。だが自分の仰ぎ見ていたそれが間違った、ただの思い込みに過ぎないものだと分かった時、ゴードンの尊敬はいとも容易く嫉妬と憎悪の炎に早変わりする。そしてその期待外れの「汚点」が自らと同じものだと断定し、過去の己と照らし合わせて勝手に失望する。

 「おかしいじゃねえかよ……俺は、間違ってっから『こんなこと』にされたんだぜぇ!!? なのによぉ、俺と同じ『間違った』奴がよぉ、何の咎も受けねえなんて変じゃあねえかぁ! おかしいだろ不公平だろ何で俺がダメであいつらが許されるんだよォォォッ、エエッ!!!」

 彼が任務以外で人間を殺すのは、単純明快、「自分と同じ」だからだ。何の取り柄もなく、誰からも愛されず、間違った存在と決め付けられた、そんな自分と少しでも同じ所があればその瞬間にこう考える。「こいつも俺と同じ目に合わせないといけない」、と。同じ自分が過去に憂き目を見たのだから、同じ部分が微塵でもあるこいつを野放しにするのは不公平だろう。誰も後ろ指を差さないのならそれでいい、俺がこいつを殺すだけだ。

 教会とて本気でトーマスを殺すつもりならはっきりとそう書く。そこを敢えて濁したのは、七人もいるとは言え勇者の一角を失いたくなかったからだ。出来る事なら元凶を取り除き、トーマスには引き続き任務を続けさせるのがベスト、自分達の立場を少し考えれば他の『四人』も同じ結論に達する。

 「アァ、殺さなきゃァ、なんで邪魔すんだよぅ……! 俺ぁ正しいことをしてるんだァァアア! 間違った連中をのさばらせちゃいけねぇんだよォオオ!!」

 「アナタはなぜ、受け入れようとしない。陰陽、清濁、善悪という相反するものを抱えるのがヒトの定めなのだと、どうしてそれを理解しない」

 「ハァ? 全部てめぇのせいだーって汚ぇモン押しつけといてぇ、今更手の平返してエラそうにすんじゃねえよぉ!! 俺が一日中教会にこもって祈ってた時に誰が俺を受け入れようとした? 町の人間の誰も俺に見向きもしなかった! 一番上の兄貴も、二番目の兄貴の奥さんも、おっ父も、おっ母も、みんなこう言うんだ……『お前が死ねばよかったのに』。だから俺は神さまにお願いしたんじゃねえか、どうか俺を助けて下さいってなぁ!! そしたらぁ!! 俺は勇者になったぁ、俺の祈りが天に通じて神さまが俺の正しさを認めてくださったんだぁッ!! それだけじゃねえ、同じ時期に勇者になった奴が六人もいる! 疎まれ、煙たがられ、蔑まれ続けてきた俺に出来た初めての仲間だった! 分かるかよぉ? 神さまは俺が欲しがって止まなかったモノを二つもお与えくださったんだぜぇ!! キヒヒ、グヒハハヘヘヘッ、ギャーッハッハッハハハハハーーッ!!!」

 人払いがされたこの空間に立ち入る者はない、誰憚りなくゴードンの狂笑が宵闇を揺らした。

 「俺が勇者失格ぅ? なるべきじゃなかったぁ? おいおい、下手なこたぁ言わねえ方がいいぜぇ。聖女さまは神さまに仕える身だが、俺を勇者にしてくれたのは神さまであって、あんたじゃねえ。あんたは神さまの決定に従って勇者を導くだけのお役目で、そいつが勇者に相応しいかどうかを決める仕事じゃねえ。分かるかぃ? あんたが俺を否定するってこたぁ、遠回したぁ言え神さまを否定するってことになるんだぜぇ。出来んのかよぉ、そんな大それたマネがあんたに、神さまの使いっパシリでしかないあんたによォ!!」

 「……っ!!」

 「まあいいや。若社長を殺るのはナシだ。代わりに……」

 ゆらり、とゴードンが右足を上げる。それは蹴りの動作ではなく、本当にただ膝を上げて足を地面から離しただけの動き。だがたったそれだけの動作が何を意味するのか、シャムエルは知っている。

 「この足が『魔導師さま』の特別製だってこたぁ知ってらぁな。ちょいとしたコツで地面に叩き付けりゃ、この足は爆弾だ、少なくともこの路地裏は吹っ飛ぶレベルの爆発が起こる。ドカーン、てな。お互いちょいと手を伸ばせば届く間合いだけど、あんたが手を伸ばすより先に、あんたが逃げるより速く、俺の足はこいつを起爆させる」

 「自死するなど……神はお許しになりませんよ!」

 「殉教と言ってくれよぉ! 神さま見ててくだせえよぉ、俺の一世一代の晴れ舞台をぉ!! この神敵をぶっ殺せばァッ、俺の罪は……きぃィィえええるぅんだぁああァアアアアアアアアアアッッッ!!!!」

 閃光がゴードンとシャムエルを包み込み、そして──、





 「────あ、ぁ?」

 覚醒した場所は光輝に満ちた楽園でも何でもなく、自らの死に場所と定めたはずの薄汚い路地。それどころかひどい耳鳴りと頭痛、全身を打ちつけた痛みで地獄にいる気分だった。

 だがそれだけだ。死んでもいないし、ケガらしいケガも地面と擦り剥いた部分だけ。周囲は爆発の衝撃で民家がことごとく粉微塵になっているのに、その影響をまるで受けていない。

 「ヴァルキリーの羽根はっ……ただの飾りではありません。天界と人間界を行き来するだけの力を込めた翼……羽根そのものが神性を帯びます」

 身動きできないのはその上に覆いかぶさるように、シャムエルが倒れ込んでいたから。流れる金の髪はくすみ、常に装備している空を映したような鎧は粉々に砕け散り、大空を舞う二対の翼は……。

 「神より賜りし聖なる翼、その全てを……今の爆発を相殺するのに使いました」

 二対四枚、幾百もの羽根からなっていた清廉純白の天使の象徴は今、熱波と衝撃でその大半が焼かれ、根元の僅かな部分に燻る火が生臭い悪臭を漂わせていた。羽根を失った天使の末路は決まっている。

 「ワタシはもう……飛べません」

 それは天使にとって死よりも残酷なこと。自らの意志で堕落しても天使は天使、だが象徴である羽根そのものまで失ってしまえば誰が天使と認めるだろうか。

 「な、なんで……俺を……」

 「……アナタも、かつて同じことをしたのでは?」

 「っ!?」

 「アナタの傷は背中に多い。ワタシと会うより以前から刻まれた痕……ただの逃げ傷ではない。それはきっと……今のワタシと同じように、誰かを守ってついた傷。命に代えても守りたいと……強く願った証。アナタが、ワタシと会うより、洗礼を受けるより、誰かに謂れのない悪意を向けられるよりも、ずっとずっと前からっ…………ゴードンという男が、誰も比することのない『勇者』だった証拠」

 「っ……違う! お、俺は守れなかった、俺みたいなグズでノロマが守らなくても、あ、あにきは……兄貴は……兄貴はっ!!」

 「よいのです」

 そっとゴードンを抱き寄せる。もっと早くからこうするべきだったと、シャムエルも己の不徳を反省する。だが今は反省よりももっと先にやるべきことがある。

 「よく頑張りましたね、ゴードン」

 その刹那、今までの人生で味わった全ての辛い過去が思い浮かぶ。

 二人の兄に比べられる日々、徴兵により故郷を離れた日、多くの仲間が死んだ日、兄が亡くなった日、その亡骸を携えて故郷に戻った日、謂われない悪意を向けられ続けた日々、何度も教会で己の罪を悔やんだ日々……大河の如く連なっていたその全ての過去に、今終止符が打たれた。

 「……っ、れ……おれ、俺はっ……! つみを、罪を犯しました……。人を妬み、羨み、蔑みました……。自分を偽り、嘘をつきましたっ。父と母の期待を裏切りました、兄弟を敬いませんでした、隣人を避けました……!! 誰も信じず、与えられた力に酔い、驕り、ほんとうは……神の存在も疑い、その教えを歪めましたっ……。義務を果たさずに生きる、この俺を……誰もお許しには、ならないでしょう」

 「…………ゴードン」

 そっと差し伸べられた手が狂信者の頬を包み込み、そして──。

 「アナタの全てを、ワタシは受け入れます」

 口づけと共に、純白の戦乙女の肌が宵闇に混ざるように黒を帯び、その神性が余さず魔性に変ずる。

 男の溢れ出る汚濁全てを飲み込み、我もまた共に堕ちんとその身を差し出した女の姿……羽根を失ったそれを天使とは呼べないが、きっと人々は彼女をこう呼ぶだろう。

 『聖女』、と。





 かくして、うだつの上がらぬはた迷惑な勇者失格男と、そんな男をどうにか社会復帰させようと付き従う戦乙女の話はこれでおしまいだ。

 うん? なんか足りない? ああ、そのことなんだけどなぁ、どうも聖女様の堕落のしかたが問題があったらしくてなぁ……。

 普通、天使ってのはズッコンバッコンで男の精を受けて堕天するだろ? だけどこの聖女様は男の歪みまくった情念で堕落したもんで、快楽をしらないままダークヴァルキリーになっちまったんだなあ。

 つまり! 種族は完全に堕落したのに心も体も淫乱の「い」の字も無い、変わったヴァルキリーになっちまったってわけよ! まあでも、男と女なんてのは単純なもんだから、一つ屋根の下にいりゃあ自然とムラムラしてだな……。

 ああ、それと、天使の羽根ってのは千切れても治らないってわけじゃないらしい。自力では難しいが、つがいがいればもらった精力や魔力を回復に回せるってんで、時間はえらく掛かるが人間界でも再生できるって話だ。

 それはそうとお客さんや。あそこに見える、そうそう、あの露店で買い物をしている二人組の女の方、キレイな方じゃないか。青みを帯びた黒肌がそそるけど、見てほしいのはそこじゃない。

 ほらごらんよ。あの人の背中の羽根、天使にしちゃあ少し短いと思わないかい。

 元の長さに戻る日も、きっと遠くは無いだろうね。
15/08/12 23:20更新 / 毒素N
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