連載小説
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外伝T:ある女の望み
 「ねえ、あなた、どこから来たの?」

 「あん?」

 暖かな日差しを受けて寝転がっていたその顔に影が差す。逆光を受けて顔は分からないが、必然として見下ろされる形になってるのは確かだ。

 それが、気に喰わない。

 「おい、なに人が気持ちよく寝そべっているとこを、勝手に見下ろしてくれてんだ」

 「ねえ、あなた、どこから来たの?」

 「てめえは耳聞こえねえのか? どけ、って言ってんだよ俺は」

 どこに行ってもこういう輩がいる。同じ檻にライオンとトラを放り込んでおくようなもの。何をせずとも互いのテリトリーが重なればいがみ合い、噛みつき合いになるのは、人も動物も同じことだ。

 特に「ここ」はそうだ。ならず者や喰い詰め者、行き場を失くした世間の鼻つまみ者がごまんと寄せ集められている。そんな連中は総じて粗暴で横柄な性格ばかりで、それはこの少年もまた同じだった。

 「見ねえ顔だな。最近ここに来たクチかよ。しかも、なんだぁお前……」

 視線が観察を要することなく、自分を見下ろす生意気な闖入者の真実を見抜く。

 「ここに女が来るとか、珍しいじゃねえか。娑婆で何やらかせば、そんな身空でこんな掃き溜めに来る羽目になるんだか」

 髪は短く体格は貧相、頬も皮と筋が目立ちお世辞にも整った容姿とは言えない。だが、全体的な雰囲気が男のそれとは異なるのですぐに分かる。ましてや、少年の言うようにこの場所においては珍しい存在なので、余計にその差異が浮き彫りになる。

 だから余計に不思議だった。今の発言もその不思議さゆえに本心から出た言葉だった。



 「ぺっ────!」



 「……はぁ?」

 だというのに、何だこれは?

 どうして何の脈絡もなく自分の顔面に唾を吐きかけられたのかが理解できない。一瞬頬に生暖かい感触を覚えると、即座に冷たくなって流れ落ちていく。

 「おい……どういうつもりだ、これは?」

 「別に。気分が悪くなって、ちょうどそこにタン壺があったから。でも不思議ね。穴が五つもあるなんて」

 自分が賢いとは思っていないが、とりあえず馬鹿にされている事だけは分かった。それだけで少年の次の行動を決定付けるには充分な理由だった。

 後にも先にも、女の顔を全力で殴り抜いたのはこの時限りである。

 ここはゲオルギア連邦領内に幾つか設けられた練兵場の一つ。全国から集められた人員に訓練を課し、その修了をもって兵士とし前線に送り出す育成機関だ。とは言え、現在の連邦は表立って交戦状態にあるわけではないので、兵士はもっぱら国境や要地の警護などに回されている。

 しかし、一口に訓練施設と言っても、その実態は色々ある。

 特にこの第12練兵施設に関しては、悪い意味で有名な場所だった。通常が徴兵であれ志願制であれ正規のルートで訓練を課されるのに対し、ここに集められたのは労働局がしょっ引いて来た社会不適合のならず者ばかり。生産性を第一とする連邦からしてみれば、浮浪者や犯罪者を少しでも「有効活用」したいということなのだろうか。だが所詮は粗製乱造、正規のそれと比べれば練度も程度も知れている。

 二人が放り込まれたのは、まさにそんな掃き溜めのような場所だった。

 「で? てめえはどこの誰だよ」

 「教える必要ある?」

 五分後、互いの位置は逆転していた。少年が立ち、少女が仰向けになっていた。少女の顔は腫れて歪み、一方的な暴力による制圧があったことは想像に難くなかった。僅かな抵抗の痕が少年の衣服に乱れとなって刻まれているが、結局それらは少年を害するほどの効果を発揮できなかった。

 それでもなお平然と話しているあたり、この少女の図太さを表しているのだろうか。

 「人に聞いておいて、てめえは名乗りもしないとは筋が通らねえな。お里が知れるってもんだぜ」

 「驚いたわ。私達の間でどこの誰が上等かどうか、いちいち比べられるほどの違いがあるのかしら」

 「正論だな。だが気に食わねえ。顔面行くぞ」

 振り上げられた爪先が少女の頬を容赦なく蹴り抜いた。吐き出された血反吐と一緒に歯の欠片も飛び出る。

 「イキってんじゃねえぞ? てめえが今までその調子こいた態度でどれだけ鳴らしたか知らねえが、ここじゃ腕っ節の強さだけが正義だ。弱いくせに口だけ達者なトーシロは犬と同じだ、俺が屠殺してやるよ」

 少年はずっとそうしてきた。誇張も無ければ過少も無い。気に入れば我が物とし、気に食わなければ徹底的に叩き潰す。そこには男も女もない、原始的で暴力的、力で他者を隷属させ続ける人生を彼は歩み続けて来た。その人生に何か屈折をもたらすような過去は何一つ無く、彼という人間は最初から「そう」であったが故に。

 「お互いよぉ、落ちるトコまで落ちた身だろ。だったら弱い奴はそのまま大人しく縮こまって過ごしてろよ」

 少年にとって人間は二種類しかいなかった。即ち、自分と、自分が叩きのめす弱い人間だ。強い自分が弱い誰かを踏み付けると、相手は決まって恨めしそうな視線をこっちに向けて来た。もはや強弱の格付けは済んだというのに、弱いくせに抵抗だけは一丁前な連中を少年は心底嫌っていた。そして二度とそんな生意気な真似も出来ないように、こうやって踏み潰してきた。

 だから、こんな人間には初めて出会った。

 「空が、きれいね」

 その目は少年を見てはいなかった。視線は遥か彼方、澄み切った蒼穹に向けられており少年の顔などその通過点、風景の一つとしてしか認識していないようだった。まるで自分が今置かれている状況が理解できていないのか、そんな事さえ文字通り眼中に無いのか。

 「ここってこんな寝心地よかったのね」

 あるいは、最初からこうすることを目的にしていたのか。

 「けっ! 頭イカレた不思議ちゃんかよ。ここはいつから精神病院になったんだ」

 もう嬲る気も失せたとばかりに少年は少女を置き去りにこの場を後にした。どうせここは社会不適合者の廃棄場、掃き溜めでしかない。だからこんな「おかしな」奴がいても不思議ではないし、しばらくして戦場にでも飛ばされる頃にはそんな存在は忘れてしまうはずだった。

 自分と彼女の運命は、ただその時一度の出会いで終わるはずだった。





 運命とは、常に数奇なモノである。

 「自己紹介を。私はムウ。連邦軍直属の研究機関に所属する、しがない研究員だ」

 兵士とは名ばかりのゴロツキの寄せ集めでしかなかったこの場所へ、何の前触れもなく訪れた人物。彼がもたらした一つの提案が、自分達を狂騒に駆り立てることになる。

 「率直に諸君に訊ねよう。人間を辞める気は無いかね?」

 とりあえず、ここには頭のおかしな連中しか集まらないらしいと理解した。そんな少年の至極真っ当な感性で導かれた感想をよそに、来客の言葉は続く。

 「今の発言を、鼻持ちならないインテリの戯言と捉えた者は、こちらも用は無いのでお引き取り願おう。しかし、欠片でも興味を抱いたという者はここに残ってもらいたい。決して後悔はさせない」

 まるで詐欺師のような発言の数々に完全に関心を失くした少年もまた、ここで腰を上げた大多数と同じように話に付き合う気はないとその場を去るつもりだった。学の無い頭でも、オチもない与太話に付き合うことの非生産性は理解している。それに何が悲しくて自分をこんなところに閉じ込めた連中の与太話を傾聴せねばならんのか。

 腰を上げ、他の連中と同じように出口へと向かう。その道中……。

 「あら……」

 見知った顔を目にしてしまった。相手も視線に気付いて反応したが、すぐに興味を失ったのか顔は元の位置を向いた。そう、あの胡散臭い研究者が立つ檀上を。

 「…………」

 ここで彼女を無視して出ていくことも出来た。事実彼は直前までそうするつもりであったし、見知った顔が何人ここに詰めていて、その全員と視線が合っていたとしても同じようにするはずだった。

 「残ったのはこれだけか。よろしい、では改めて始めようか」

 少年は……。

 「よう、目ぇ合っといて無視すんなよな」

 少年は残った。当てつけのように少女の隣に腰を下ろし、馴れ馴れしくもその肩に腕を回す。僅かに身じろぎした少女ではあるが、結局その腕を払うこともせず目の前の研究者の話に耳を傾け始めた。

 だが、眼前のインテリの言葉に興味は微塵も無い。

 「よお、お前は何でここに残った?」

 「それ、言う意味あるかしら?」

 「嫌なら別にいいんだぜ。ただ、機嫌を損ねた俺にボコボコにされるってだけのこと。そうなりゃ俺は懲罰房に、お前はケガの治療で医務室に直行だ。俺を無視してまで聞きたかった『大事なお話』はパァってわけだ」

 分かり易い脅しの言葉に流石に気分を悪くしたか、少女の恨めしそうな視線が刺さる。しかしそれ以上の抵抗が出来ず、あるいはするのも億劫だったか、観念したように一言こう呟いた。

 「私ね……『きれい』になりたいの」

 後年、思い返す機会さえないまま忘却の彼方へと追いやっていた記憶。

 超人を志した少女の、それは何とも場違いで、そして「人間のような」理由だった。

 「そりゃあ、いいこって。精々頑張ろうぜ」





 そして誰も、いなくなった。

 超人とは、「人」を「超」えると書く。しかしてその実態とは、言葉一言、文字ひとつで表す以上の難業であった。元よりその形に定まって久しい一つの生命を、「全く別」の形にしてしまおうという偉業(異形)が容易いはずがない。

 最初の一回で有志はその数を半分に減らした。脱落、とはなんとも優しい言い方だ。実際は肉体が急激な変化、その「前段階」にさえ耐え切れず変身と壊死を繰り返した果ての完全なる破壊がもたらされた。当然だが生物として乗り越えられる変化ではない。

 「報告いたします。検体番号0196、並びに0326、『素材』との適合が適わずロストしました」

 「具体的に」

 「0196は術式直後より全身に壊死に酷似した兆候が発露。その後、組織の液状化を引き起こし形象崩壊。逆に0326は埋め込んだ『素材』の励起反応の上昇が規定値を越えても止まらず、およそ五十分後に強制終了させました」

 「そう。遺族には謝礼を兼ねた恩給を忘れないよう。彼らの献身が必ず訪れる成功への道標となるのだ、それ相応の対価は支払わねばならない」

 経過は「順調」だった。順調に端数を消費し、経過を克明に観測し、その結果を余すことなく記録し続けた。それにより得られる成果を漏らさず享受するために、何の前例もない未知の事業に対する成功率を、只管に数を用いることで補っていたのだ。公になれば非人道的の誹りは免れないが、ここには誰も彼もが承諾の上で参加している以上、文句を言う筋合いは微塵もなかった。

 命を対価に分の悪い賭けに挑むのは人間の本質か。であれば、この時点で辛うじて勝ちを拾えている者が、二人残っていた。

 「ようこそ、検体番号0015、並びに0056。立ち話も何だから、どうぞ掛けてほしい」

 「はい」

 「おう」

 三ヶ月。たった三ヶ月で、計画に志願した人員は少年と少女の二人だけとなっていた。残りはその過程において失敗の烙印を押され、廃棄処分された。聞かされているのはそれだけだ。それ以上のことは何も教えられず、また知りたいとも思っていなかった。

 しかし、計画の発起人からこうして直に呼び出されるのは初めてであり、今までとは違う何かをされるのだろうとは容易に想像がついた。

 「まずは、三ヶ月の間よく保ってくれた」

 労いの言葉と同時に出された紅茶を、少女はジャムを口に含んでから、少年はジャムを混ぜ込んでから一気に飲み干した。

 「正直言うと、生き残るのは一人いれば御の字、最悪収穫は無しと踏んでいたのだが……いやはや、人間の立てた予測などアテにはならないな」

 「どーでもいいけどよぉ、こんなところでお茶会やるためだけに呼び出したわけじゃねーだろ。それとも何か? 毎日得体の知れねぇ薬をブチ込まれて、舌も鼻もバカになってる俺らに対する嫌味かこれは?」

 「ふむ。やはり味覚と嗅覚の一部喪失については共通して発生する兆候か。良いデータが採れたよ」

 「てめぇ……!」

 「すまない。ちょっとした冗談だ。無論のこと、茶飲み話に興じたくて君たちを呼んだのではない。ここには最終確認の為に呼んだのだよ」

 「今更何の確認?」

 侍従の衛兵に紅茶の替わりを注がせ、それを一口含んでからムウは続ける。

 「この三ヶ月、君達の肉体には劇的な変化があっただろう。そしてそれに伴う地獄の苦しみも。細胞単位で行う全身の強化は激痛と共に骨組織を増強し、薬物を過剰投与の一歩手前まで接種させ、脱毛や五感の一時喪失はもちろん、気付いているかね……君達、瞳の色も変わっているよ?」

 もしここに二人の過去の姿を知る者が他にいれば、きっと二人とは気付けないだろう。過酷な実験の数々は二人の容姿容貌を変化させるには充分で、むしろ生き延びたことが奇跡に等しかった。

 しかし二人は生き延びた。人間をやめ、人間以上の性能を持つ存在、超人へと生まれ変わることを許されたのだ。

 「その上で君達に伝えておくべき事柄がある」



 「君達は、まだ“超人”ではない」



 少年の行動は素早かった。恐らく常人では捕捉はできず、実際すぐ近くに控えていた衛兵でさえ反応も出来ずその行動を看過するしかなかった。両手がムウの胸倉を掴み上げ、その体を壁に叩き付ける。

 「騙しやがったな!? 俺らを都合のいいモルモットにして、訳の分からねえ実験に使い回してやがったんだな!!」

 「多少、誤解があるようだ。確かに君達を募るのに耳触りのいい甘言を弄した。余人には理解の及ばぬ実験に付き合わせ、その貴重な人命を浪費したことは確かだ。君の言い分をほぼ認めた上で、あえて訂正したい箇所がある」

 「何だ!!?」

 「私はこう言ったはずだ、『まだ』超人ではない、と。これから君達は人間を超えるんだ」

 離してくれるかな、とムウは胸倉を掴む手を軽く叩いて恭順を促すと、何事も無かったかのように服を整えて席に座りなおした。少年の方も釈然としないものを感じながらも取り合えず続きを聞こうと、どっかりと腰を落ち着けた。これで場は再び最初の状態に戻り、ようやく話は本腰を入れて語るべき部分に差し掛かった。

 「実を言うと、君達を含め今回参加してもらった全員に施した術式は、『旧い』ものなんだ」

 「旧い? 旧式ってことかしら」

 「その通り。超人化計画は何も今始まったものではない」

 そこで聞かされたのは、ゲオルギア連邦が軍部で執り行ってきた超人兵士製造計画の一端。来たる南下進攻の要となる「ヒトを超えたヒト」を創造する狂気の計画。現在それは第二世代の域にあること。

 「私はそこに、第三世代という新たなステージを設けたい。これまでの三ヶ月は、その変化に耐え得る素体を作成する期間だった。既存のアプローチ……肉体を強化し、五感を拡張する従来の第一・第二世代に共通した人体改造法を前進させ、かつてはそれを以て完成とした領域を『踏み台』として使うことで、更なる飛躍を試みた」

 「つまり? 長ったらしくしないで、さっさと言いたいこと言えよ」

 「晴れて素体となった君達は、ようやく本番を迎えることになる。超人兵士それ自体は軍内では公然の秘密だが、私の描く理想は未だ秘匿の段階。ここから先は君達の存在は公式記録の一切から削除され、成功しようが失敗しようが二度と表の世界には浮かび上がらない」

 「死んだことにするってこと?」

 「有り体に言えばそうなる。無論、ここで引き返しても止めはしないし、恩給の支給も滞りなく行おう」

 そこまで言うとムウは席を立った。

 「一日あげよう。一人で思案するも良し、二人で相談するも良し。よくよく考えてから答えてほしい」

 この先を左右する決定権。自分の人生だ、その権利が自分達にある事は理解していた。それを行使する瞬間が予想以上に早く訪れたことだけが、予想外な出来事だった。





 「どうするよ?」

 「何が?」

 降って湧いたモラトリアムに、二人は特に何をするでもなく施設をぶらついていた。計画に参加した時から訓練兵としての課程は免除されており、他の面々が寒空の下で厳しい訓練を課される様子を眺めるのは、何とも不思議な気分だった。

 「このまま承諾しちまっていいものか否かってことよ」

 「逆に躊躇う理由は何?」

 「俺らは所詮、都合のいいモルモットってことだ。連中にとっちゃ、俺らは『いい記録』を残してくれるってだけで、俺らである必要はない。同じ、あるいはそれ以上の結果を残せれば他の何だって代わりは務まるわけだからな」

 たった一つの命を賭けに使った時点で自分達はろくでなしだ。だからこそ、それに見合った対価が欲しい。せめて、ただ無意味に消費されるだけの弱者の立場から脱したいと願うのは自然なことだろう。

 切実な問題だった。少年だけでなく、同じ立場に置かれたなら誰でもそう願うだろう。それは、誰にも縋らず無頼であり続けようとした彼が、唯一漏らした弱音だったのかもしれない。

 「……ねえ、そういえば、私の質問にはいつになったら答えてくれるのかしら?」

 「はあ? いきなり何の話だ?」

 「初めて会った時に、私聞いたわよね? どこから来たのって」

 「……あー……あー、何かそんなこと言った気がするな。お前そんなに気にしてたのかよ」

 「気にしてなきゃ、聞かない」

 「それもそうか。別に隠してるわけでもなし、聞きたけりゃ勝手に聞いてろ」

 少年が語るのは己の過去。どんなところに生まれ、どんな生活を送り、そしてどんな経緯でここへやって来たのかという半生。簡単に簡潔に、五分もあれば語り尽くせる内容に凝縮して話した。山場も無ければオチも無い。所詮は他人の人生、面白おかしく脚色したところで意味はないと知る故に。

 「ふぅん。何だか、思ってたよりつまらないのね」

 「てめえから聞いておいてその言い草はなんだ、ぶっとばすぞ。そういうお前はどうなんだよ。他人のそれを鼻で笑って捨てられるほど、上等な人生歩んできたのかよ」

 「私、別にこっちの過去を話すなんて一言も言ってないんだけど」

 「お前いちいち腹立つな! で? わざわざ人の神経を逆撫でして何を聞き出したかったんだよ本当は!」

 「質問に質問で返して悪いけれど、昔のあなたと、今のあなたはどっちが強くなったのかしら」

 「そりゃあ、今に決まってんだろ。胸糞悪ぃが、あの胡散臭えインテリの言うように俺達は強化されたんだ。ここにぶち込まれた時の俺よりも遥かに強くなっている!」

 「何の為に強くなるの?」

 「それこそ決まってんだろうがよ! 俺は今の状況に納得しちゃいねえ! 弱過ぎる有象無象、一人じゃ何も出来やしねえ連中が群れるだけ群れて俺をここへ押し込めた! 連中が俺のザマを見て敗北ってんなら、それでいいさ、ああ文句は無えよ。なら、次は勝つ! その為に力を手に入れた!」

 最初は確かに胡散臭い話だと訝しんだ。所詮は学者風情のほざく理屈倒れの世迷言、まともに受け取れば馬鹿を見るだろうと思っていたのは本当だ。だが予期せぬ巡り合わせで力を得たならば、その使い道はとっくに決まっている。元より自分にはそれしか能がないのだし、勝手に己に敗者の烙印を押して安穏としている惰弱な奴輩を微塵も残さず捻り潰さずにはいられない。「負けと認めていないのだから負けていない」、「故に己は勝つ」という、子供の屁理屈にもなっていない自負心のみでここまで至ったのがこの少年の本質だ。

 しかし、根本的に異なる「女」の目線を持つ少女からすれば、この言葉の論理が破綻している部分などすぐ分かる。

 「あなた……薄々分かってたけれど、バカなのね」

 「はぁッ!? いい加減に……!」

 「強くなる為にここまで来たんでしょ? なら、もう答えなんて出てるじゃない。それを今更何をビビッてるのかしら」

 「それで死んじまったら意味もクソも無えだろうがよ」

 「そう。だったら……仮に死んじゃったとして、それはあなたにとっての『負け』になるのかしら?」

 その問い掛けに少年は何も言い返さなかった。呆れ果てたのでも、逆上したのでもない。恐らく生まれて初めて実感しているであろう、言葉による納得、「腑に落ちる」という表現そのままに己の裡にストンと入り込む感覚に思わず言葉を失ったのだ。

 これは「分の悪い賭け」だ。当たれば全てを手に入れ、外せばそれまで。一攫千金か、尻の毛まで毟り取られるか。だがそれは結局のところ、流れを読めず山を外した自分の自業自得。単純な損得の話であって、誰に勝ったとか負けたとかという話ではない。仮にその結果、惨たらしい最期を迎えるのだとしても「負け」ではない、決して敗北とは言えない。一時の気の迷い、馬鹿をやって、失敗して終わった……それだけで済むのだ。

 「は……ハハハッ! 確かにな。言われて見りゃその通りだな! 連中はただウマい話を持ってきただけだ。俺が勝手に乗っかって、成功すれば儲けもの、失敗すりゃそれまでの人生ってことか。俺としたことがそんな簡単なことも忘れちまってたなんて、ハハッ、お笑いだぜ!」

 決めたぜ、と豪快に膝を打つと、それまでの逡巡が嘘のように少年は宣言した。

 「俺は受ける! あの野郎の話を思い返せば、第三世代にまで届いた奴は一人もいない。なら! 俺が最初の一人になってやろうじゃねえか!」

 最強や最高なんてものは、時代や環境、条件によって定義が変わる。だが一番最初というのは常に記録に残される。誰が一等か一着か、そこに文句を挟む余地はない。これ以上ない覆しようのない明確な「勝利」の形だ。

 「そうと決まれば俺は行くぜ! ありがとよ、お前のおかげでふっ切れたぜ! 持つべきは同じ釜の飯を食らった同期だなあ!」

 「どういたしまして。そんな、下らないことで役に立てるならお安いご用よ」

 「なんだか気分いいぜ。礼がしたい気分だ」

 「そう。なら…………気が向いたら、何か頼み事でもするわ」

 それは後に人間性を捨てることになる二人の、ほんの些細な気の迷い、口から出まかせなやり取りだったのかもしれない。

 その日、日が暮れるのを待たずして少年が、続いて日付が変わる寸前になって少女が、それぞれ共に超人になる意志を示した。





 「古の偉人に曰く、『偉大なことを欲したこと、それ自体が偉大なのだ』とある」

 「おめでとう。君は晴れてその偉大な物語への階へと辿り着いた。お膳立てはこちらで行う。君はただ昇るだけで良い」

 「超人の仮想敵は山脈を越えた国々に生息する魔物なる生物種。文字通りの人外を駆逐する為に、超人兵士計画は始動した。それは既に耳にタコが出来るぐらい説明を受けたかと思う」

 「実際は少しだけ違っている」

 「ああ、いや、嘘ではない。超人兵士はその為のものだ。“無駄遣い”などするつもりはないし、私が許さない。現行の第二世代とは別に、第三世代の君達には従来とは別のもう一つの仮想敵が用意されている」

 「忘れ去られた神話の残滓、旧き巨いなる神の欠片、海を飲み干すモノ、あるいは……それを討ち滅ぼした者」

 「いずれ追って新たな説明があるだろう。南下作戦の前哨戦、君達を製造する本当の目的はこの仮想敵を倒すことにある」

 「そして、これは君だけに言う事なんだが……」

 「そいつと最初に矛を交えるのは君になるだろう」

 「一番槍の栄誉は男の本懐だろう? 精々、励むと良い」

 「前置きが長くなった。さて、これが君を超人へと昇華させてくれる『素材』だ。あぁ、出処は聞かないでくれると助かる。六年ほど前に、軍のとある作戦で……とだけ言っておこう」

 「さあ、恐れることは何もない。変革はすぐそこだ。あとは……“我々”に任せたまえ」





 少年は超人となり、最初の栄光は彼の手元に置かれることになった。与えられた力が日々自らに馴染む感覚に、己が秒ごとに強くなっていると肌で感じることが出来た。

 やがて少年は更なる訓練課程を修めるべく、練兵施設を離れ別の場所へと移送された。キートムィース、別名「鯨岬」。氷に閉ざされた北海に臨むその地は、ここ最近で軍の施設が次々と移転したことで急速に発展を遂げ、村民数十名の漁村は影も形も無い。もっとも、軍の関連施設というのはつまるところ、超人兵士製造のためのものなのだが。

 「暇だな。おい、【アクエリウス】! 適当に頭爆発してみろ」

 「前振りが雑ですよ! さすがに僕だって頭をやったら、生きていられませんってば!」

 「真に受けるな。君は君でもう少し分別というものを身に付けたらどうだ、【タウロス】」

 自分以外の超人も次々と集結し、この極寒の地で訓練を重ねていく日々。元々名乗っていた名前はとうに捨て去り、今はコードネームでそれぞれを呼び合っている。お互いの過去を話すことは無く、また興味も無い。唯一興味があった一人は、今ここにはいない。

 あの日以来、彼女の顔は見ていない。あの少女の姿だけはどこにも無かった。一度だけ周囲の研究員に行方を聞いたが、担当ではないので分かりません、などと返された。同じ超人になった者が皆ここに集められているのに、一人だけ何の情報も無いということは……つまりはそういう事なのだろう。

 「やあ、【タウロス】! 何かお悩みかい?」

 「あ……げ!」

 ぼんやりと灰色の空を眺めていた【タウロス】は自らに声を掛ける人物を知覚し、その正体に思わず忌避の声を漏らした。ある意味では頭でっかちの【アリエス】よりも関わりたくない相手がそこにいたからだ。

 「同志【タウロス】、嗚呼我らが始まりのゾディアークよ! 何が君をそこまで悩ませる? 単純明快、猪突猛進を絵に描いたような君とは思えぬ物思い顔だ。あ、いや待てよ、牛なのに猪突猛進とはこれは如何に。何はともあれ君の悩みはこの身の苦悩でもある。さあ! 打ち明けてほしい、その髄まで筋肉で出来た脳ミソの溝あたりにこびり付いた程度の小さな悩みの種とやらを!」

 「とりあえず、てめえの首あたりを締め上げりゃ、そのウザったいペラ回しも止まるんだよなあ? 【リブラ】」

 「フフフ、いつもの調子に戻ったようだ。それでこそ君、そうじゃなければ君とは言えない!」

 「用件を言えよ。俺は今機嫌が悪い。お前の自慢の『眼』も抉り出して潰したくなるぐれぇにはな」

 「怖い怖い! ここを離れる前に同志たちに挨拶して周ってるだけさ。国家戦略情報室、そこの第三分室に一時的に赴任になるものでね。しばらく君達とも会えなくなるんだ」

 「そいつは朗報だな。そのまま二度と面ぁ見せんな」

 「そう素っ気ない態度ばかり取らないでほしいな。せっかく君には格別の情報を聞かせてあげようってのに」

 「ほーん」

 興味無さげな様子を隠しもせず、あからさまに鼻に指を入れながら聞き流す。

 「君の待ち人、そろそろ来るよ?」

 「……はぁ?」

 「堅物の羊くんも知らない新情報さ。君、彼女と知り合いなんだろう?」

 思い当たる人物など一人しかいない。そのことが表情に出たのを読まれたか、天秤宮の顔が露骨にニヤけたものに変わった。

 「いいよね、彼女。なんていうか、こう……“そそる”よね。自分は届かない、得られないって理解して、というかそもそも『何かをどうにもするつもりさえ微塵も無い』くせに、よくもまあここまで残れたと思うよね。錯誤、この場合は矛盾っていうのかな。こちらとしてはああいうジレンマ的なのを抱えて悶々としてるのを見ると、グっと来るっていうかさ」

 「……どこまで『視た』?」

 「別に? 何も? いや、思春期をこの歳まで引き摺った、股の代わりに頭がユルユルに蕩けきった女の本質なんて……ほら、何が悲しくてそんなグロ絵を観賞しなくちゃいけないんだい?」

 「…………」

 「おや? 何だか露骨にご機嫌斜め? 君ってこういう下世話な話題イケる口じゃなかったかな?」

 「今は気分じゃねえんだよ」

 これ以上話す事はないとばかりの顰め面で睨み返す。だが当の【リブラ】はそんなことは知らんとばかりに上機嫌だ。この天秤宮にかかれば他人の下品な話題が大好きな口さがない井戸端のご婦人らでさえ顔を嫌悪に歪ませるだろう。

 「伝えることは伝えたし、そろそろ行くよ。次に会うのは……いや、いいか。行ってくるとしよう」

 「おう。さっさと行けよ」

 かくして【リブラ】は鯨岬を発った。その後ろ姿を見送る……などと感傷的な行為は何一つせず、【タウロス】の足は正反対の方向へ向かっていた。あの天秤宮は言い回しこそウンザリするほどにウザったいが、決して噓偽りを口にすることはない。彼の“役目”はそのように定められているからだ。

 歩く速度に変化は無い。急ぐ意味が無いから。たかだが数十秒ほど早く着いたところで何だという、こっちはもう四年も待ち惚けを喰らったのだから。

 「よぉっ!! 懐かしい顔があったもんだなあ、おい!」

 違う、最後に見た頃とはだいぶ雰囲気が変わった。短かった髪は身長ほどに長くなり、身に纏う衣服は没個性な白服から厳つい軍服に、どんなマジックを使ったのか肉付きも良くなっていた。本音を言えば、見違えたという表現が最も正しかった。

 「あら……久しぶり。これから挨拶に行こうと思ってた」

 「随分とご無沙汰だったじゃねえかよ。今の今までどこをほっつき歩いてたんだ?」

 「それ、あなたに言う意味ある?」

 「相変わらず、ムカつく言い方だな」

 腹は立たない。そういえばこいつはそんな奴だった、と思い出せば腹も立たない。

 「今は何て名乗ってんだよ」

 「【ヴァルゴ】よ」

 二人は超人、ヒトではない。ヒトであった頃の名はもう捨てた。

 「これからよろしくなあ、同志」





 「まあ、飲めよ」

 「ありがとう」

 深夜、起きている者は見回りの兵士ぐらいしかいない時間帯。超人兵士は各々に宛がわれた部屋で休んでいるが、とある一室にて二人の男女が細やかな歓談を楽しんでいた。

 「再会を祝して、ってところか」

 互いに軽くグラスを掲げ、その後一気に呷る。味なんて分かりはしない。それは目の前の女も同じことだ。ただ「祝い事の時には酒を飲む」などという、人間だった頃には出来なかった事を、超人になってから真似ているに過ぎない。そもそも体内機能を底上げされた今、ちょっとやそっとの量で酔いが回ることなど無いのだから。

 「不在が長かったな。てっきり、お前はおっ死んだとばかり思ってたぜ」

 「調整が長引いたのよ。あのドクタルに付き合っていたら、あっという間に四年よ」

 「そりゃ災難だったな」

 「……これ、結構高いやつ?」

 「さあ? 鼻についた下士官の野郎から分捕った。自慢げに見せびらかすもんでよ」

 「呆れた。当の本人が尉官相当の立場のくせに、訓練施設にいた頃と大して変わらないのね」

 「そういうお前は随分と様変わりしたもんだな。実を言うとよ、面ぁ見るまではお前だって自信が無かったんだぜ? 何食ったらそんな変わるんだよ。やっぱ肉か! ちくしょう、やっぱそうだよなぁ。こちとら来る日も来る日もアザラシばっかでよお、上の連中ばっかイイもん食いやがって」

 夜は更ける。愚痴を言い合いながらの酒は殊の外、グラスが空くのが早い。見る見る間に用意したボトルは空になり、二本目、三本目と続き、流石に二人の顔にも紅が差すようになってきた。

 「でよぉ、俺は言ってやったわけよぉ! お前の戦い方はぁ、邪道だぁっ……男の王道って奴にゃ、程遠いってなぁ! 毒だぜ? 毒! 如何ほどのもんか知らねえが、てめえの腕っ節じゃなく相手弱らせてトドメ刺そうって魂胆が気に食わねえ! なあっ、お前はどう思うよ!?」

 「そうね……」

 「【アリエス】はまだいい! 【アクエリウス】も、そーゆー兵器って使い道なら分からねえでもない。だが【リブラ】は何だありゃ! あれのどこが戦闘用だってんだか!」

 「そうなの……」

 「しかも何だ。聞けば俺らのデータを下地にして、また別の連中を造るそうじゃねえか。フン、後期型だがなんだか知らねえが、実戦もまだだってのに俺らに断りもなく改良案出すとは随分とナメた話だぜ!」

 「そうかしらね……」

 「……なんだぁ、お前。もう酔っちまったてか? 相槌だけなら犬でもやれっぞ」

 「ちょっと考え事」

 「ああ、そうかい」

 そこから最後の一本は無言のまま飲み続けた。互いの空いたグラスに注ぎ合い、やがて三十分もせずにそれらも飲み干す。空になったグラスと瓶を適当に卓に並べ、少し酩酊を楽しんだ後に【タウロス】が立ち上がった。

 「んじゃ、この辺でお開きだな。寝る前に小便しとけよぉ〜」

 訓練兵時代には無かった上質なベッドにどっかりと身を投げ出し、そのまま意識を手放しかける。酒精の効き目が脳をマヒさせるのに十秒と掛からないはずであった。

 だがそうはならなかった。

 「…………何だよ?」

 目を閉じたというのに、ピリピリと刺さる視線を感じて目を開くと、とっくに酒を飲み終えたにも関わらず未だに椅子に腰かける【ヴァルゴ】の両目が静かにこちらを見据えていた。

 いや、静か、ではない。「眼は口ほどに物を言い」、言葉や動作こそ何もしてはいないが視線は明らかな不満を訴えているようであった。アイコンタクトだけで相手の全てを把握できるほど密な仲ではないが、記憶の中を精査してもこんな表情の彼女はそうそう見た覚えがない。はて、何か気に障るようなことをしただろうか?

 「意外ね」

 ふと、こちらの疑問に答えない形で声が返ってきた。どこから出したのか飴玉を口に含み、燭台の灯りがその顔の陰影を浮かび上がらせる様は彼女を一流のやり手娼婦に錯覚させた。

 「深夜に部屋に誘って、酒を飲ませて、管巻いて……そういうの、男の常套手段じゃないの?」

 「……あー……あぁ? え、すまん、何のことだ?」

 言っている意味は分かる。それが分からないと惚けるほど馬鹿ではない。分からないのは、「何でこの女がそんなモーションを掛けるのか」という一点。なるほど、確かにシチュエーションとしてはそういう展開もあるのだろう。

 「なんか……勘違いしてるみてえだが、俺はそんなつもりで呼んだんじゃねえよ」

 だが悲しいかな、【タウロス】にその気が全く起こらない。無い、のではなく、起こらない。これが色街で適当に愛想を振りまく商売女ならば話は違ったが、では目の前の彼女を相手に同じことをしろと言われれば、根拠は無いが何となく「違う」と断言できる確信があった。にも関わらず、【ヴァルゴ】の方は知らないとばかりに続けてくる。

 「昔……言ったわよね」

 「何を?」

 「礼がしたい気分だ、って」

 冷静に記憶を掘り返せば、気を良くしてそんな言葉を口走ったこともあったかもしれない。思えば彼女に対し好ましく接するようになったのはあの頃からだった。

 「今、その『お礼』を要求してもいいかしら?」

 「流れからして嫌な予感しかしないなオイ。一応、聞いてやるよ」

 「抱きなさいよ、私を」

 「聞いた俺が阿呆だったぜ」

 どうやらかなり酔いが回っているらしい。奥の戸棚に水があったことを思い出し、溜息混じりにそれを取り出そうとベッドを離れる。

 「逃げないで」

 腕を掴まれた。ただ掴まれただけなら力任せに引き剥がしただろう。だが【タウロス】の動きを止めたのは五指の力強さではなく、その感触にあった。

 冷たかった。単なる冷え症、程度であれば布越しに分かるはずがない。感覚として理解できるのは、その原因となるものが布地を通り越して皮膚に到達したからに他ならない。【ヴァルゴ】の掌が水に濡れていることに今やっと気が付いた。

 「ねぇ……確かめさせて」

 目の前にいるのは、半透明に変わり果てた女の姿だった。

 「いったい、何喰ったらこうなるんだよ」

 多分、自分の中の知識に間違いが無ければ、今目の前にいるのは「人間」ではない。確か、そう、スライムとかいう液体系の魔物……その特徴をそっくりそのまま受け継いでいる。液体というよりは表面が固いゼリーといった感触だが、そんなのは誤差だろう。もっとも、魔物なんて実物を見たのは初めてだが。

 「さあ? ここ最近、固形物は口にしてないから」

 「最近、ねぇ。何年前からよ?」

 「……四年、ぐらいかしら」

 「つまりずっとだな」

 なるほど、それが彼女の“超人”としての姿なのだろう。姿形を変えただけでなく、生態ごと変革させてしまったのか。今の彼女を見て人間、もしくはそこから派生した何かに見えるという者はいないだろう。

 変わり果てた、正しくその表現こそ似合う有り様だ。

 「ふー……ん」

 試しに指の腹で表面を軽くなぞる。表面の感触それ自体は人肌だが、こと軟らかさに関しては予想を遥かに越えている。軽く撫でる程度の接触のはずが吸い込まれるように指先が埋没し、あっという間に指の付け根まで沈み込んだ。

 「おおお……?」

 「ちょっと、なに遊んでるのよ」

 「おおっ!」

 抵抗もなくスルスルと沈み込んでいた指先は、驚いた拍子に入って来た時と同じくするりと抜け出た。僅かに指先に湿りを覚えるも、液体は無味無臭。今の彼女を構成しているのは水なのだとはっきり理解させられる。

 「気安く人の中を弄らないでもらえるかしら。脇腹を抉られる感触って、結構エグいのよ?」

 傷を負っていないので痛みはないのだろうが、それでも本来侵入するはずのない部分に異物が入り込めば違和感はあるのだろう。あのまま力を入れれば指だけでなく五指、手首、そのまま肘まで飲み込んで向こう側に突き出そうな軟らかさだった。

 「脱がすぞ」

 「別に聞く必要ないわ」

 それもそうだ。どうにも今晩は調子が狂う。こんな間違いのような展開はさっさと終わらせるに限る。

 邪魔な衣服を脱ぎ捨てて身軽になると、同じ事を女にも強いた。邪魔なものを剥ぎ取る以上の意味を持たないその行為の結末を、彼はすぐに後悔することになった。

 「ははっ……すげぇな」

 彼の世界に判別可能な要素はたった二つしか存在しなかった。即ち、「強い」か「弱い」か。そこにたった今、第三の選択肢が入り込んだ。

 美しい、と。概念としては知っているし、それを女相手に使うこともあるのは分かっている。透き通る肌と肉は湧き出る泉水を人型に収め、渦巻くそれは取り込んだ僅かな光を複雑に反射させて内側から微かな輝きを放っていた。透明な部分は彼女の腹を中心に徐々に広がり、点滅する輝きはその数を増やす。ああ、これは夏の静かな夜にだけ見ることが出来る星空にも似ている。冬の今では見ることは叶わぬが、今ここに在る輝きは満天の星にも劣らぬ煌めきであった。

 だが何事も過ぎれば毒になる。「美しさ」もまた同じ。完璧に仕上がった彫刻や絵画の美しさを賛美しても、それに情欲の熱を向ける者はいないだろう。いや、むしろ、完成されればされるほどに劣情の入り込む余地は駆逐されていく。研磨され加工された宝石に性愛の昂ぶりを覚えるだろうか。これはつまりそういうこと。

 そんな彼の心中を察してかは知らぬが、少女の手が少年の手を取って自らへと導いた。

 「ほら、ボケっとしてないで」

 掴まれた手首、その指先が一度は離れた腹部へと再び導かれる。ただし脇腹ではなく、今度は正中線が走るヘソの辺り。今や明確にそこと分かる特徴は消え失せ、僅かな凹凸でのみ判断できる状態だったが、そこは確かに彼女が母の胎より生まれ落ちた証拠を有する部位に他ならなかった。

 そして少年の手首を掴んだまま、少女の手が己の腹部へと沈み込んだ。体内に沈むと同時に彼女の輪郭は一つに溶け合い、ただ掴まれているという感覚だけが残る。渦潮に引き込まれる小舟のように腕が埋没するが、どこまでも行きそうな予想に反して五指の付け根辺りでそれは止まった。引き込むのを止めたのではない、そこから先への侵入を拒む何かに突き当たったのだ。それは殆ど水と同じになってしまった彼女の体内に、決して硬くもないが軟らかくもない感触を伴い確かに存在していた。

 学の無い者でも、そこに何が座しているかぐらいは知っている。

 「分かるでしょ? 『ここ』が何なのか」

 分からぬはずがない。

 「ほら、元気になった。男って単純ね。ここに注いで、ここを汚して、それで征服したつもりになれるの」

 見透かしたような薄ら笑いを浮かべて、もう片方の手が少年の股座を撫で上げる。官能など欠片も無い、隆起した感触を確かめる程度の意味合いしか持たぬその動作。

 「でも、安心した」

 何が、と問い返す前に少女のもう片方の腕が首に掛かり、少年の体を強く引き寄せる。耳元にそっと口を近付け、宵闇の静寂だからこそ微かに聞き取れるほどの声でこう告げる。

 「わざわざ残しておいたのよ、あなたの為に」





 カチリ、と脳内で何かが切り替わる音がした。それは理性と本能の転換、一級の芸術品を観賞するという理性ある仕草から、極上の肢体を貪り喰らう獣の行動へと切り替わる瞬間。食らい尽くしていい最高級の食材、それもその中で最も美味とされる部分が皿に盛りつけられているのだ、食わずにはいられない。

 それは、途方もない感覚だった。

 少年にとって、女を犯すのは特別な意味を持たなかった。腹が減れば食い物を奪うように、気が向けばいつでも手の届く場所にある駄菓子と同じ。得られる快楽は口に含んだ一瞬だけで、喉元を過ぎれば消え去る一過性のものでしかない。体内を走る神経をほんの一時楽しませるだけの、外付けの娯楽要素。

 「これ」は違っていた。

 知らなかった。これは「一体感」。目の前の誰かと同じ感覚を共有できているという事実は、それが悲しみや怒り、果ては憎悪といった感情でさえシンパシーとなって神経を刺激する。ましてや、それが交わりによって得られる快楽ともなれば、感じる一体感もまた一入だ。

 「結構……柔らかいんだな、お前」

 「それは何かのジョークかしら」

 全身が水みたいなものなのだから、柔らかくて当然。また阿呆なことを口走ってしまったと、気恥ずかしさを紛らわす為に手が胸元の膨らみを乱暴に掴む。

 「ンっ……」

 一瞬の抵抗を感じた後、五指は難なくその内部へと滑り込んだ。普通ならボールをそうするように揉みしだくのだが、ことスライムに対する愛撫は多少乱暴なくらいが丁度いい。即ち、指先で中身をかき混ぜるのだ。抽送し、引っかき、そして螺旋を描くように掻き回す。人間なら激痛を感じるこの行為でも、こと相手が粘水の肉体であれば充分に愛撫として成立する。指先が流れを生み出すと体内の宇宙が電気信号を発生させ、その煌めきが星のように広がる。

 「ああ……ぁ」

 身を捩るたびに全身が波打ち、少女の輪郭が曖昧に歪んでいく。今や全身が神経の塊で、息を吹きかけるだけでも常人の数倍以上の感度となって体内を駆け巡る。酒精の酩酊、薬物による高揚、快を得る手段はいくつかあれど、肉の交わりに優る悦楽は無いのだと身をもって理解する。

 しかも、これはまた一味違う。

 「っか……ンぁ」

 突き入れた先端に感じる唯一残された「肉」の部分。つまるところ交わりとは、何かと言い繕って見せたところで結局はここに行き着くのだ。己の種を残すという大目的。これを果たす悦びに比べたら、それ以外のあらゆる娯楽は陳腐に落ちる。

 このメスを孕ませるという単一の思考。今この瞬間に限って、彼らは超人としての使命ではなく、生命の原理原則に則って自らを動かしていた。

 「イイ具合だぜ。向こうにいた時、これで何人咥え込んだんだよ」

 「っ……両手の数……って、言ったら?」

 「ハハッ、ハハハハ! そいつぁ、面白ぇ……な!」

 面白い。本当に面白い。

 とりあえず、「不愉快なぐらい」に面白かったので、もう片方の手で少女の顔面を掴み上げる。愛撫ではなく暴力的な意図を込められた五指は過たず彼女の顔面を握りつぶし、周囲にゼリー状の飛沫をまき散らす。瞬時に形を変えて元の姿を取り戻した少女は、何事も無かったように振舞いこう言った。

 「ねえ、キス……してくれないの?」

 返事は行動で表す。先ほどと同じように顔に手をやり、髪を掴み引き寄せ強引にその口を塞いでみせた。言葉が途切れ荒い吐息だけが支配する刹那、それまで不定形のモノと化していた肉体がヒトの形を取り戻す。少年の猛々しい腕は少女を捕え、少女の細い指先は少年の顔に添えられ、互いが互いを喰らい合うような粗雑な唇合わせを繰り返す。滲み出る多幸感が酸素や水分以上に相手を求めさせ、傍目にはもう肉を食んでいるようにしか見えないだろう。

 だがどんな事にも終わりがある。神経は無制限に鈍化せず、昂る本能も天井知らずとはならない。

 「一応っ……一応、聞くだけなんだがよぉ……。どうしたい? お前はこの後、俺にどうされてぇんだ」

 「それにっ、何の意味があるの……っ?」

 「気分なんだよ。言えよ」

 気分、気紛れ、一時の気の迷い……少年の善意など所詮はそんな程度、「何となく気分が良いから」この女の言葉を聞いてやろう、言葉にすればそんなもの。その理性の奥底に、この女の望みを聞き入れて「やりたい」という気分があった、それだけの他愛もない話。

 ともすれば、それは彼に残された最後の人間性、その一欠片だったのだろう。

 「……ゃ……」

 そんな小さく。

 「い、ゃ……」

 脆く。

 「お願いよ……」

 吹けば飛んでしまう紙屑のような、最後の一片は……。

 「これ以上……私をっ、穢さないで……!!」



 「嫌だね」



 微塵に砕け散った。

 顔色など知らない。表情なんて見るつもりもない。彼女の全身が波打ち、泡立ち、その形を崩していく。恐怖によってか絶望か、その両方か。それをもたらす暴力となった少年の魔手から逃れようとしてなのか。だが、悲しいかな、その抵抗は空しく、そして遅すぎた。

 「────ッ、ア──!?」

 じわり、熱が浸食する。己の中を満たす確かな感触。己を侵す残酷な熱量。今の自分を構成するものの中に他人由来の異物を容赦なく埋め込まれた衝撃に、全身をゆるりと流れていた体液が逆巻き、渦を成し、沸騰する。自分という存在を根底から崩すその凶悪な一撃に、昂ぶりのまま震える神経とは裏腹に諦観と絶望の奥底へと叩き落される感情に支配される。

 ああ……“堕落”とは、ただ只管に落下する感覚こそを言い表すならば。

 ほんの一瞬の短い悲鳴を上げた直後、少女の全身は崩れ去り、そこにはただの水溜りが残るだけだった。





 「ほれよ」

 「……ん」

 崩壊した【ヴァルゴ】の全身が復元される頃、もう既に空は明け方の模様に変わろうとしていた。取り乱す様子もない彼女に、【タウロス】は呑みかけの最後の一本を気付け代わりに渡す。彼女は瓶の中身を一気に飲み干し、まだ乱雑とする己の内側を躁と鬱の中間へ強制置換されるまでしばし無言となる。

 やがて思考がクリアになったのか、沈黙を破った【ヴァルゴ】は言った。

 「ありがとう」

 「何がだ」

 「あなたのおかげで、私は自分を確かめることが出来たわ。だから、ありがとう」

 「自分探しのついでに男に抱かれますっ、てか。そいつぁ、メルヘンなこって」

 何を根拠にどんな経緯でなどと、聞き出す必要を感じないし興味も無い。気になる事はたった一つ。

 「んで、確かめてどうだったよ」

 「そうね。…………一言でいえば、最悪」

 「ふぅん」

 「頭がガンガンするし、お腹はグルグル。目は冴えてるのに意識はドロドロで、寒気も止まらないし、気持ち悪くて今にも吐きそう。でも何も食べてないから吐くことも出来ないの」

 「……」

 「ねえ、本当のこと言ってもいいかしら? あなたに抱かれている時、この体を好きにさせている間……私は、苦痛だった。押し広げられる痛みが。今まで感じなかった感触が。私を塗り潰そうとする熱いものが……ただ、ただ、ずっと、不快で、憂鬱で……たまらなく、気持ち悪かった」

 「……」

 「ずっと不安だった。私は、私以外の何かに変えられてしまったんじゃないかって。この顔も、声も、記憶も私の物だけど、前とは違う“何か”に変わってしまってたら! ……そう考えると、怖かった」

 「……」

 「でも、変わってなかった。私は今までどおりの“私”。恰好が変わったって、私の本質は何にも侵されていなかった。フフ……フフフ」

 ねえ、と薄明かりの中で【ヴァルゴ】が見上げる。何の穢れも憂いも無い微笑を浮かべ、希望に満ち溢れた視線はまさに年相応の少女そのものだった。ベッドから立ったその姿は元通りになり、何事も無かったかのように支給された軍服を身に纏う。一切の乱れも迷いも無く、確信を得たという心の在り様を表すままに彼女は振舞う。

 「私、今とっても『綺麗』でしょう」

 儀式は終わった。かつて弱きものだった少女は自分の弱さを捨て、醜さを削ぎ落した。妄念と狂信の果てに彼女が辿り着いた最後の場所、それをずっと間近で鑑賞してきた【タウロス】。この時ふと、彼はこう感じた。

 (ああ、俺らきっと、ロクな終わり方しねぇな)

 腑に落ちるという感覚を、再び味わう。1足す1が2になることに何の疑念も異論もないように、漠然と、曖昧模糊でありながら、それでいて確固たる確信。【タウロス】の脳裏に広がる理性の回路が彼自身ですら思いもよらぬ整然さでその結論を導き出した。

 神ならぬ身でありながら、道理を捻じ曲げ条理を踏み倒し、己の望みを完全に叶えながらヒト以上のものへと変化した。おとぎ話の精霊でさえ噴飯物の、ご都合主義の権化、それが超人。自分も、この少女も、そうした「いいとこ取り」をした結果、本質と在り方はヒトのまま、魔には落ちずその力だけを受け取るというインチキを押し通したのだ。

 インチキは暴かれる。イカサマをすれば、そのツケを払わされる。ヒト以上の存在となった者に、ヒト並みの最期が訪れないのは当然の帰結だろう。

 「ああ、綺麗だな」

 だが今は、そう今だけは、そんな降って湧いた嫌な予感からは目を背けたい。何も知らぬ無垢を気取る彼女の好きなようにさせておきたい。この哀れな女が思い描いたままの世界に留め置きたい。

 そうすることが、この女に対する最も誠実な接し方だと信じて。

 「また不安になったら言えよ。いつでも俺のオンナにしてやるぜ」

 嫌悪感だけを提供する堕落と退廃の誘い、その甘美な言葉を前に……。

 「ぜったい、嫌よ」

 心底、気分を損ねたように【ヴァルゴ】は吐き捨てた。





 ほんの少し前に交わした、今は久遠のものとなった記憶の残滓。

 二人がまだヒトであった頃の、最後の思い出。
19/05/13 17:23更新 / 毒素N
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