第8話 欠落巨星【ブレイク・スターズ】
“彼”はきっと、とても素晴らしい人物なのだと確信しました。
「何故ここまでのことを? 誰に頼まれたのでもなく、まして貴方に益があるわけでもないのに」
私の問い掛けに“彼”はこう答えてくれた。
「おれはただ静かに生きたいだけだ」、と。これはその為に必要なことだったのだと。
嗚呼、そのささやかな望みの何と難しいことよ。私は感動に打ち震えた。
たったそれだけ……ただそれだけの為に、この男は「ここまでの偉業」を成し遂げたのだ。その覚悟、その献身、その想い。もはや並大抵の言葉でそれを飾る事は無礼に当たろう。決して多くの望まぬその在り方が、結果として多くの人々を救い上げることになろうとは。
私は知った。きっと“彼”の如き者こそを……。
『英雄』、と云うのだろう……と。
“白鯨”は自らの生において、敵対した者を許したことは一度もない。長い歴史の中で彼と事を構えた命知らずは数多くいたが、そのほぼ全てにツケを払わせてきた。特に、自らを「怒らせた」者には加減も容赦もない。必ずその命を代償として要求してきた。
だが、今回の相手はどうにも珍しい。
「「さあっ!! 続きをやろうじゃあないか!!」」
幾千幾万にもなる戦いの記憶を掘り起こせば、自分より体重差のある奴はごまんといた。特殊な鍛錬や魔術による筋力の強化で一時的な肉体増強を実現した者らの中には、それこそ三倍の体重差という馬鹿げた連中もいた。だがどれだけ鍛え上げても体のサイズそれ自体は常識の範疇だった。五体という限られた範囲に、増強した筋肉をコンパクトに収納することで、一撃ごとの威力を高めるというのが常識だった。
「これ」は違う。
泥団子を二つ捏ね合わせたら重さも大きさも倍になるように、「これ」は接続された二つ分の質量がそのまま形に表れていた。順当に、当たり前に、至極当然のように、そいつは肉体を構成する質量全てがきれいに倍になっていた。
身長も倍。
胴回りも倍。
重量も倍。
体積も倍。
何もかもがきれいに倍々。そんなこと有り得るはずが無い。だがそれを成立させるのが眼前の「これ」の特異なる部分だ。
異常なまでに膨れ上がった上半身は歪な逆三角形を描き出し、その下に無数の大蛇を飼い慣らしているように皮膚が流動を繰り返す。融合により増加した部分は全てがそこに集中しており、上部に重量が寄っているその姿はさながら巨大なハンマーか。更に全身に纏った甲殻も健在であり、膨張し面積が増した体表を隈なく覆い尽くし臨戦態勢は完全に整った。
もはや超人ではない。しかし、皮肉にもその思想は受け継いだ。
足りなければ、足す。「無い」のなら「有る」ところからそれを持ってくる。
金牛だけではどう足掻いても“白鯨”には勝てなかった。だが二人ならどうだ。それもただ頭数を用意するだけでなく、比喩ではない文字通りの一心同体、肉体のスペックは単純にその総和。だが単純であるからこそ穴も隙もない。眼には眼を、歯には歯を、力には力を。腕力を誇示する者には、それ以上の暴力をもって制圧する。
「「来ないなら、こっちから行くぜぇぇえ!!!」」
発気揚々とばかりに振り上げられた巨腕が拳を形作る。動作それ自体は予測の範疇、“白鯨”にとっては苦も無く迎撃可能な攻撃のはずだった。
しかし、いざパンチが繰り出された時、予想を遥かに上回る『圧』に“白鯨”も驚愕した。
「これは……」
拳が、膨れた。
この一瞬を目撃した第三者がいたならば、きっとその異様な光景に目を剥いたはずだ。振り上がった拳が射出されたその刹那、元から大木のようだった巨腕が更に肥大化し、常人二人分の胴にも匹敵する巨大質量が大地もろとも“白鯨”を潰しに掛ったのだから。
それはもう、着弾と言ってよかった。極限まで固められ膨張した五指が接触した途端に大地は捲れ上がり、地上の大津波となって彼らを中心とし周囲へと伝播する。破壊の波動が到達した瞬間に建物は土台の基礎から爆砕され、まるでそこに炸薬でも仕込んでいたかのように木端微塵に吹き飛ぶ。遅れて落下してきた瓦礫の雨が破壊の追い打ちとなって降り注ぎ、そのエネルギーの甚大さを物語る。
「「ちょこまかと、逃げ足の早いやつ!」」
規模が桁違いなせいで魔物が使う異能のように見えるだろうが、実際のところ起こっている現象そのものは常人の肉体でも起こり得るものだ。筋肉に負荷や圧力を掛け、ポンプのように血液を集中させることでそれを肥大化させる現象。今目の前にいるこいつは二人分の体積を有しており、片方に至ってはほぼ完全な液状だった。恐らく甲殻の下は半液状であり、必要に応じて部位に集中させ硬化させることで瞬間的な破壊力を得ているのだ。
攻撃に転じる一瞬だけ、肥大化していた上半身の体積が拳に集中していた。単純なことこの上ないが、間合いを狂わせる一撃は迎撃のリズムをも狂わせる。攻撃にしろ防御にしろ、タイミングがズレればその瞬間だけは無防備に晒される。そこにこれだけの質量が叩き込まれれば、並大抵の生物なら軽く轢き潰せてしまうだろう。
「「逃げろ! 逃げろ逃げろォ! どこまでだって追い詰めてやらあ!!!」」
しかも「こいつ」、速い。
巨体=鈍重という方程式は既に【タウロス】が否定したが、これは想定外の速度だ。体内の水分を脚部に集中させることで足を肥大化し、踏み出した僅かな一瞬にそれを再び上半身へと推移させる。重心の移動によって得られる加速は、さながら限界まで押し込まれたバネの如し。大質量の物体が最低限の予備動作だけで高速跳躍を繰り出す様は、相対する側にとっては悪夢だろう。
「ッ!」
突進した頭部と、迎撃の拳が激突し、周囲に大音量の衝突音が鳴り響く。巨大な打楽器を打ち鳴らしたそれは衝撃の大部分が内部へ浸透せず、音に変換され効率よく拡散させられたことを意味していた。恐らく体内へのダメージは軽微なものでしかないはずだ。
こっちのカラクリも単純だ。今のこいつは大量の水分を蓄えている。頑丈な甲殻によって衝撃を受け止め、続く内部の水分がそれを完全に殺す。ただ頑丈にするだけでなく、軟らかさを持たせることで完全な物理耐性を獲得していた。
「──ボゥッ!!!」
外気を取り込んだ“白鯨”の空気砲が唸りを上げる。しかし、射出された不可視の熱弾は鋼鉄の外皮を僅かに変形させただけに留まり、その内部まで到達することはない。元よりこれは全身が液体で熱の影響を受け易かった【ヴァルゴ】だからこそ成立した技だ。【タウロス】の甲殻を相手にするには力不足だった。
もはやこの怪物は【タウロス】でもなければ【ヴァルゴ】でもない。金牛が有していた『硬さ』と、水乙女が有していた『柔軟さ』を併せ持っただけでなく、歪に膨れ上がった巨体さえも自在に操る機動性さえも手に入れた、まさに兵器としては完璧な存在だろう。
「「ハハハハッ!! どうした、どうしたぁ!!? そんなんじゃあ傷も付かねえぞ!!」」
面倒だ。厄介だ。
闘争と破壊には終ぞ事欠かなかった“白鯨”ではあるが、その実彼はそういった事柄に労力を割くことを億劫に思う性質をしていた。嫌っている、と言ってもいいだろう。長引かせるのが我慢ならないからこそ面倒と直感した相手を率先して叩き、後は流れ作業よろしく適当に潰していくというのがお決まりのパターンだった。だから決して、面倒な相手との戦いが好みという訳ではないのだ。
にも拘らず、こんな面倒極まりない相手との戦いを強要されるこの現状において、“白鯨”の苛立ちは徐々にピークを迎えようとしていた。心理の奥底で封じ込めていた殺意が熱を帯びて蓄積され、今や噴火を待つマグマとなって煮え滾る。爆発まで秒読みの段階にあった。
ああ、面倒だ。
ああ、厄介だ。
もう、どうでもよくなってきた。
「誰も彼もっ、馬鹿ばかりか!」
【アリエス】は不合理を嫌う。筋も理屈も通らない事象を嫌い、それを良しとする頭の回らない輩など愚物の極みと断じられた。常識で考えれば稚児でも理解できる事柄を、一時の感情で投げ打つなど特に許せない。優先するべき順序を誤れば勝機は彼方へ遠ざかると知っているからこそ、誤った判断を下す者は理解不能だ。
ほんの僅かに目を離した隙に消えた【ヴァルゴ】の行方を、今はもう探しもしない。自分から死地に戻った愚か者のことなど、もうどうでもいい。
「【アリエス】さんっ! 【ヴァルゴ】さんがっ、【ヴァルゴ】さんが!!?」
「ゾディアークに戦局を読めない者は二人と要らない! 死に場所を選びたいならそうさせろ、もう回収は不可能だ!」
もうお終いだ。ゾディアークは壊滅だ。一度目なら不運な偶然だった。二度目ならマグレと言えた。だが三度、四度と続けば言い逃れはできない。
もう終わりか? 終わりなのか? 公正にして永久なる平等、人々を真なる安寧に導く革命の灯火はもう消え果てしまうのか?
「否だ……。否、否っ! 断じて否だ!! あってはならない、そんなこと! まだだ。まだ何も始まってすらいない!」
そう、革命は始まっていない。遍く全ての人民に真の平等を供与するための聖戦は、その狼煙さえも上がっていない。
来たる南下作戦において十二星徒は竜尾の山脈を越え隣国へ至り、血統支配の旧弊に囚われた王国や、神などという原始的なツールに依存する教国に革命の火をもたらさなければならない。それだけではない、ゆくゆくはそこから更に西へと版図を広げながら進行し、未だ闘争に明け暮れる霧の大陸や未開国の極東にまで人民による統治という崇高な理念を浸透させるのが使命なのだ。十二星徒はその為に造られている。それこそが真価なのだ。
「だから、だから! こんな所で終わるはずがないんだ!! 我々はまだ成すべきことを何一つとして成し遂げてはいない! 真に崇敬されるべき理念とは完遂されるその瞬間まで決して潰えることはないんだ!!」
「お、落ち着いてください【アリエス】さん! ドクタルに会えれば……あの人ならきっと、何か解決策を!」
「解決!? 何をっ、一体、どうやってこの状況を改善できる!? 鼻つまみ者だった委員会のトップに運よく座り込んだだけの理屈倒れが、これ以上のことを僕らに何をしてくれると思っている! 奴は崇高な革命さえも研究の道具にしている男だぞ!」
革命に必要な力をもたらしてくれた事には恩義もあるし感謝もしている。だがそれだけだ。根本的な部分で【アリエス】とドクタル・ムウは噛み合わない。理想を追い求める者と現実を見据える者とでは、すれ違うのは必然だった。
とにかく、今は早急に数を揃えなければならない。最終調整中だろうが構うものか、今すぐにでも後期型を動かせばまだ戦況は覆る可能性が残されている。編成は激変し、指揮系統は乱れるだろうが……。
「問題なし!!」
そう、問題はない。この第一白羊宮たる【アリエス】が部隊の指揮を任されているという、その意味を理解すれば彼にとっては何ら問題にはならない。仮に後続のゾディアークが全員【タウロス】並みか、それ以上の問題児であっても然したる障害にはなり得ない。
【アリエス】は、そういう超人なのだから。十二星徒の全権を預かる者として当然の能力を付与された個体、それが彼という存在。
彼が健在である限りゾディアークは不滅だ。少なくとも現時点では、だが。
「いいや、貴様らはここで終わりである」
故に、敵がこの行動に出ることは必然と言えた。
建物の影から滲み出るように出現するその様は、影を伝って任意の場所に姿を現す高等魔術の痕跡。それまでそこに存在していなかった者が、知覚外から急に出現したことに……いや、もう追い付かれてしまった事に二人の超人も戸惑いを隠せなかった。
「貴様らは、『哀れ』である。ヒトを凌駕する可能性と価値を持たされながら、それらを一切発揮できぬまま、無意味に終わるのである」
高度な術式を無数に重ね合わせた裾長の外套を揺らし、手には万年を生きた霊木から惜しげもなく削り出した身の丈ほどの杖を持ち、雪除けに目深に被ったフードの奥からは連邦ではまず見られない日に焼けた茶色い肌と黒い髪が覗いていた。
影から出た足が大地を踏み締める度に魔力を帯びた燐光が足元から発せられる。一歩ごとに効果を発動する魔術が大地に刻まれ、常とは位相の異なる結界空間が周囲を覆い隠した。これでもう誰も逃げることは出来ない。ゾディアークは今再び、完全に分断されたのだ。
「まあ、仕方のないことか。分不相応……自ら“白鯨”とまで名付けた大敵に、たった『この程度』の熟度で挑もうとしたとはな。正直、お笑いである」
「あ、ああぁ……!」
魔術師という、初めて相対する敵。この北の大地には「存在しない」種類の者との直接遭遇に、経験不足の【アクエリウス】は既に戦意を喪失しかけていた。
「ああ、そこの小僧。貴様か、我輩の術をいとも簡単に『喰らって』くれたのは。ほう……ほう、ほう」
漆黒の瞳に射抜かれて【アクエリウス】は徐々に尻込みする。それに代わるように【アリエス】が前に出る。魔術師風情が何するものぞ、彼の闘志は逆に燃え盛ろうとしていた。
「失せるがいい。旧時代の遺物が如何なる了見でこの地を侵す。神秘に寄り添い幻想を糧とするお前達の居場所など、もはや錆び付いた神話の隅にしか存在しないと知れ!」
ジリジリと距離を詰める【アリエス】には、必勝の策がある。
彼は確かに腕っ節という意味でなら【タウロス】に劣るし、その制圧力という面でも【ヴァルゴ】には及ばない。身体能力と五感の向上という点だけで見れば、その性能は第二世代相当しかない。彼が【タウロス】から軽視される要因がここにあり、所詮型落ちだと高を括っての言動だった。
しかし、忘れてはならない。
「哀れ? 哀れと言ったか。たかだかヒトの分際で、この身に対し憐憫を抱いたと言うのか!」
ただ「優れている」だけでは超人たり得ない。超人はヒトを超えたからこそ超人と呼ばれるのだ。常人とは強弱や優劣を語る土台からして違う。
「お前こそ哀れだよ、魔術師。大方、【タウロス】と【ヴァルゴ】に比べれば貧弱な二人組の方が楽だと踏んだのかもしれないが……だとすれば、お前は判断を誤った!」
【アリエス】は事実しか言わない。時にはハッタリを口にする【タウロス】とも、虚勢を張る【ヴァルゴ】とも違う。彼は常に事実に裏打ちされた事柄のみを口にし、それ故に自信が揺らぐことは決して有り得ない。
肉体能力は【タウロス】に劣る。事実だ。
制圧力においては【ヴァルゴ】に劣る。事実だ。
だが対人戦における最強は、この【アリエス】だ。
「お前は姿を見せるべきではなかった。僕の前に姿を見せ、声を聞き、存在を確かにしたその時点で、お前の敗北は確定していた」
甘い香りが周囲に漂い始める。春の満開の花々を思わせるそれらの芳香は、氷雪舞い降るこの北国においては『異臭』でしかない。その「危険性」を余すことなく理解している【アクエリウス】はとっくの昔に姿を消していた。
「選ぶといい。楽に死ぬか、苦しんで死ぬか」
対人最強。その対“人”という言葉にはもちろん、超“人”も含まれている。白羊宮はその能力の猛悪さ、危険性の重要度において十二星の中で比する者のない最右翼に位置する。一度彼がその力を振るえば、大地に立ち息をする者全ては悉く倒れ伏すだろう。そこには何人たりとも例外は有り得ない。
「僕としては後者を選ぶことを期待するが」
花の香りが街を包み始める。もはやこの場に、生物は存在できない。
“白鯨”は、「全力」と「本気」を使い分ける存在だった。
例えば、「邪魔な奴は『本気』で潰す」。これは彼の根底に刻まれた行動原理、彼が動く上での自分ルールというやつだ。人間が害虫を見つければ反射的かつ本能的にそうするように、彼は立ち塞がる者を半ば自動でそうするように習慣付けている。
そして、「敵は『全力』で殺す」。邪魔をしなければ基本は看過だが、もし眼前のそれが自分にとってどう転んでも不利益しかもたらさない場合、それを確実に排除するよう動く。
この二つは彼にとって絶対のルールだ。余人はこの二つを同一視、あるいは混同して捉えるだろう。だがいくら邪魔な害虫が出て来たからと言って、我が身とその命を懸けてまで種族ごと絶滅させようと実行する者はいないだろう。彼にとって「全力」とはそれだけの重みがあるのだ。
だが彼は本気にはなっても、全力を出したことは数える程しかない。何故か?
彼は“敵”にだけ全力を出す。敵とはその力が自分に伍する者、あるいは自ら以上の力を持つ脅威そのものだからだ。肉を持つ災害たる“白鯨”からしてみれば、自分と対等の力量の持ち主など片手で足りる程しか知らず、ましてそれ以上の存在など知りもしなかった。
故に、そう……これは仕方のないことだったのだ。
「ふぁ…………ぁぁ、あぁぁ」
殺るか殺られるか、食うか食われるか、命の奪い合いという極限の環境にあってこの“白鯨”は、あろうことか欠伸をかましたのだ。あまつさえ、その後に目頭を擦るなどあからさまに眠気を堪えているような仕草までする始末。
当然、相手がこれに怒るのは分かり切っていた。
「「て、てめえ! よっぽど死にてえらしいなぁぁ!!?」」
何やら図体だけが取り柄の奴が囀っているが、今の“白鯨”はそんなのに一々構っていられるような状態ではなかった。
暇、なのだ。退屈と言ってもいい。
極まった退屈は集中力を奪い、肉体から緊張を喪失させる。足は失速し腕はだれ落ち、力みを失くした上半身はだらしなく猫背になる。今の“白鯨”は過去に類を観ないほどに「だらけきって」おり、リラックスを通り越しやる気の無さを全面に押し出していた。
彼は、暇で、退屈で、飽いていた。それこそ一瞬でも気を抜けば寝落ちしてしまいそうなほどに。精神はとっくに限界で、論理的思考は抜け落ちる寸前だった。
「「この野郎ォォォォォオオオオオオオッッッ!!!」」
なのに、面倒だ。こんな状況でこんな奴の相手を、馬鹿真面目にこなさなければならないのは、何と面倒で厄介なのだろう。
ああ、そうだ。
もう終わらせよう。
気分を転換した“白鯨”の動きに活が戻る。それは反撃の兆候と捉えるのが普通だろうが、そも前提からして違う。反撃とはそれまで追い詰められていた側が窮鼠の一撃として行うものであり、ただの一度も追い詰められなかった者がやる事ではない。
金属同士が打ち合う音、遠く異国の銅鑼の音色にも似た大音響の刹那、怪物の巨体は見事な「く」の字に折れ曲がっていた。
「「ごっ……!!?」」
左脇腹を打ちのめした蹴りの衝撃は五体を隙間なく埋め尽くすのみならず、常人の倍を誇ったその巨躯を空中へと放り出す。脱力からの突然の反撃に反応しきれなかった怪物はまともに攻撃を受けてしまい、内臓器官の幾つかが破壊されたことを身を以て知らされた。
だがその程度は問題にならない。体内の大部分を半液状化させたことで再生力は桁違いだ。それこそ心臓を潰されたぐらいでは活動停止さえしない。
だからこそ……その自らを過信する驕りがあるからこそ、彼らはこの期に及んでようやく思い知るのだ。
自分達は“弱く”なっていたのだと。
【タウロス】と【ヴァルゴ】は、致命的な勘違いをしていた。身も心も一心同体となったことで力を得たと、仇敵に相対するだけの力量を得たと思い込んだ。一理あるだろう。一足す一が二になるのだ、確かに強くはなっている。単純な算数の問題ならこの答え方で満点だ。
金牛が持っていた『硬さ』と、水乙女が持っていた『柔軟さ』を併せ持った完全生物。
それはつまり、裏を返せば……。
【タウロス】は『硬さ』を失い、【ヴァルゴ】は『柔軟さ』を失ったということでもある。
【タウロス】は体液移動によって肉体の変形機能を得たが、それにより全身に展開する甲殻に柔軟性を持たせる必要が出て来た。硬度と衝撃拡散性が売りだったはずが、新たな機能を獲得したことで綻びが生じたのだ。
同じことは【ヴァルゴ】にも言える。彼女の最大の武器は液質変化にこそあった。瞬時に組成や配分を変化させることで、自らを猛毒にも強酸にも変えられたその能力は間違いなく彼女が持てる力の中で最強の矛たり得ていた。だが今はもう無い。今のこの状況でそれを行えば、焼け爛れ、溶け落ちるのは彼女を収める【タウロス】だからだ。彼らは同化すべきではなかった。少しでも勝率を上げたいのなら、互いがまだ健在な内に手を組んで共闘という形を取るべきだったのだ。
「間抜けどもがァ……!」
“白鯨”が固く握った拳を以て原初の暴力を具現化させる。大地を抉り、鋼をも粉砕する鉄拳が殴り抜けるのは空中に打ち上げられた巨体ではない。突き上げられた拳が殴り抜いたのは、この星を満たす大気そのもの。撃ち出された大気の塊は砲弾となって相手を打ちのめすだろう。
それだけでは終わらない。この特大の害虫を駆除するにあたり、そんな「やさしいやり方」で終わらせる気は毛頭ない。与えた傷は直に再生するだろう。唯一損なわれずに残った再生力のみが拠り所ならば、そこに全力を傾け防御に徹すればジリ貧の泥仕合の始まりだ。
だからまず、そこから“滅ぼす”。
「まだだ」
拳がもう一度唸りを上げた。大気の壁は先ほどよりも分厚く、巨大で、重力さえ感じさせる圧力を伴って怪物に襲い掛かった。隙は与えない。そこから立て続けに両腕が虚空を打ち鳴らし、三発目、四発目と角度を変えながら放たれ続ける不可視の圧力は、その力をもって怪物の巨体を空中に留め置くという離れ業を実現させていた。空中という逃げ場なき牢獄はその巨体を隈なく圧迫し続け、もはや圧壊させるのではと思わせた。
本番はここからだ。
かつて“白鯨”が対峙した『愛しい宿敵』……それを絶命一歩手前まで追い詰めた大技が、炸裂する。
「「な、なんだ、こりゃあ! 体がッ! 灼け……!!?」」
甲殻は金属に酷似した性質を持つ。展性と延性に富み、頑丈で硬度もあり、そして……熱の伝播性も同じ。全方位から埋め尽くすように圧縮された空気は熱を発生させ、甲殻の表面が流星が燃え尽きる瞬間のような灼熱の輝きを生み出す。そう、どんな生物も熱には弱い。それは他のゾディアークも同じ事で、【リブラ】に至っては爆弾で命を落としている。そしてこの複合超人も生物である以上、その宿命からは逃れられない。
そして、熱の影響を最も受け易いのは……「液体」だ。
「「ギャアアアアアアアアアアーーーーッ!!! 熱いっ、熱いィィィ!! ここから、『ここ』から出してぇぇぇぇぇえええええ!!!!」」
もう遅い。二つの存在はもう分離不可能なレベルで結合してしまっている。仮に分離できたとして、死に体だった【ヴァルゴ】ではどの道長くはない。
「「やめろ……! やめろォ!! 【ヴァルゴ】ッ!! 【ヴァルゴ】ォォォ……ォ、オオッ、ゴゴオオオオオババババァァアアア゛ア゛ア゛ア゛!!?」」
怪物の肉体が内側から膨れ上がる。液体が気化した時、その体積は一千倍を越えて膨張する。隙間なく密閉された容器の中でそれが起これば、逃げ場を求めて外に向かう圧力で器は変形する。怪物の肉体は内外から同時に掛かる圧力が鬩ぎ合い、更なる高温が発生し、もはや一つの炉と化していた。なお高温を伴いながら暴走する炉が辿る末路は一つだけだ……。
「「タ……ウロ、ス…………助け……────」」
全身に裂け目が入った次の刹那、複合超人の最期は決まった。
急激に上昇した金属部分と、それに接触する大量の水分、そして密閉された環境……これら三つの条件が合わさった瞬間、一つの巨大な爆弾がそこには出来上がっていた。即ち、水蒸気爆発。原始的かつ暴力的な手段によりもたらされた、実に科学的な攻撃方法によって、複合超人の打倒はここに完了した。
「所詮、こんなものか」
“白鯨”にとって、これは分かり切った結末だった。負けるべき定めの者が、分不相応にも戦いを挑み、当然のように敗北した、ただそれだけの事だ。勝利したことに対し何の感慨も歓びもありはしない。
「ま……ま、てぇ……! どこに、いく……」
死に掛けが何か喋ろうとしているみたいだが、もう無視する。甲殻は内側から吹き飛び、全身の皮膚を丸ごと喪失、筋肉の大部分と内臓も熱で機能焼失。体内から焼かれてなお息があるのは、流石は超人といったところか。
「ヴァ、ルゴ…………あいつは……」
【ヴァルゴ】はもういない。周囲から立ち昇る大量の湯気が彼女の名残だ。彼女だったモノは余すことなく全て蒸発し、かつてその思考を司った脳髄の一片さえ、今は火が通った肉片となった。もう二度と肉体が復活することはない。
「くそぉ……。どういうことだよ……話が、違うじゃねえか……! 俺は、無敵なんじゃなかったのかよ……ドクタル!!」
何者にも干渉されない鉄壁の肉体を手に入れたはずだった。どんな攻撃にも耐え得る鎧を持ったはずだった。なのに実際はほとんど反撃も許されず一方的な、戦いとも呼べない殲滅がそこにはあった。
超人は確かにヒトを超えた。しかし、仮想敵に定めた“白鯨”には敵わなかった。厳然たる現実という壁に打ちのめされ、もう恨み言を呟く以外に何も出来ることが無い。
「何がっ、魔物の力を備え付ける……だ! ふざけやがって! この俺を……っ、実験の踏み台にしやがってぇ……! 俺は勝てた……勝てたんだ。他の魔物を素材にしてりゃあ……。こんな、こんな…………!!」
「ソルジャービートルの殻なんか……」
【タウロス】がその人生で幸運だったのは、間違いなくこの瞬間だ。
苦しまず刹那の内に逝けたのだから。
「おまえかァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
頭部、頸部、続いて下腹部に至るまでの部位が弾けた。周囲三メートルは赤い塗料をぶちまけたように一色に染まり、それでもなお“白鯨”の追撃は止まない。
「おまえかっ!!! おまえかァッ!!!! おまえが、おれから奪ったのかァァァアアアアアアアアッッッ!!!!」
二撃、三撃、四撃……かつて超人を名乗った者の肉体はとっくに消え去り、もはや拳が穿つのは血が染みついた大地のみだった。それでも“白鯨”は獣の如き雄叫びを上げながら拳を叩き付けるのみ。完全に理性は吹き飛び、湧き上がる怒りにのみ支配された狂乱状態にあった。
“白鯨”の「全力かつ本気」の一撃を受けた史上二人目の存在は、痛みを感じる暇も無いまま消滅したのであった。
「許さない……ッ! 許さない!! 奪ったな、奪いやがったな! おれからあれを……! あいつがいなければ、おれは……! おれはぁぁぁあ、あああ!!」
暴走する“白鯨”の全身から蒸気が上がる。怒りのボルテージが臨界を越えてなお止まる様子を見せず、物理的な熱を伴って周囲を焼き尽くす。爛々と妖しい輝きを湛えた赫眼は大トカゲの如くギョロギョロと周囲を見回し、その虚空に在りもしない幻影を追っていた。
「どこだ。どこにいった。どこにいる。おまえは今、どこにいるんだ…………セレナ」
“白鯨”はやって来たのではない。戻って来た、のだ。かつて自分から奪われた物を取り戻すために。奪い取った不埒者を、滅ぼし尽くすために。巨星は墜ちた。鏖滅の嵐はここより巻き起こる。神代の闘争の幕開けは誰が望んだものなのか……誰も知りはしない。
今は「まだ」何も見えない。
「【タウロス】と【ヴァルゴ】が落ちた」
ドクタル・ムウとその同盟者は、遠く距離を置いた地で起こった戦いの行方を知った。手塩にかけて製造した超人が二体まとめて撃破された事に対するドクタルの反応は……。
「そうか」
実に淡白だった。当然の結果が、当然の過程を経て導き出されたとばかりの落ち着きよう。何の想定外もありはしない。全ては予定通りだと言外に主張していた。
「彼らは、何一つ落ち度など無い。与えられた任務を遂行し、微塵の誤差なくそれを完遂して見せた。兵士とは斯く在るべし、という気概を見せつけた彼らは未来永劫に渡り革命の道標として称えられるべきとは思わんか」
二人は知っていた。報告を受けるまでも無く、彼らゾディアークが襲撃を受けていることを既に察知していた。そうなるように全ての絵図を描いていた。
「だが、想定外の事もある」
「何がだい?」
「会敵予想時刻。予測ではまだ48時間の猶予有り」
本来、彼ら前期型は48時間の内に軍部の協力を取り付け、後期型のロールアウトを迎え完全体制を以て対“白鯨”戦に臨むはずだった。ところが、いざ蓋を開けてみれば敵は一切の猶予も与えない速度で迫り、あまつさえ情報にも無かった協力者さえ現れまんまと分断させられてしまった。結果として緒戦で超人を二体まとめて失うという大敗北を喫し、出だしから連邦側は敗色濃厚な戦況に立たされてしまった。
しかし、この男はあくまで平常だ。
「ああ。確かに戦略情報室が掴んだ情報ではその予定だったか。何の問題も無い。それも予定通りだ」
「ほう」
「それは私が意図してリークした偽報、つまりは誤情報だ」
「なるほど」
事も無げに言ってのけたムウと、衝撃の事実であるはずのそれをこれまた予想通りと受け止めた同盟者。まるで昨日の夜起こったことを報告し合う友人同士のようでもあるが、その内情は前線に立たせる精鋭部隊を、事もあろうにその後ろ盾となる人物が欺いていたという有り得てはならない真実の暴露だ。
「畑違いの情報室に誤情報を流せる伝手があったとは」
「おいおい。大事なことを忘れているじゃないか。情報室には誰がいた? 早期の段階から私は誰をあそこへ向かわせていた?」
「嗚呼、なるほど」
ムウの言わんとしている事の全容を把握した同盟者は、実に得心したように感嘆の呟きをもらした。それはこの計画の深遠さに対してか、あるいはこの男の悪辣な手腕を前にしてのものだったか、それは定かではない。
「【リブラ】は初めからこちら側にいた」
「そして彼は今も動いている」
天秤宮は墜ちてはいない。善悪両支のアストライアは失われたのではない、ただ姿をくらましたに過ぎない。一連の裏で蠢く「真の計画」を知る数少ない一人として、その完全なる遂行の為に【リブラ】を名乗る超人は表舞台から消えた。
「最初の薪はくべられた。真なる革命はここからだ。旧きを廃し、新しきをこの大地より始める。超人も、“白鯨”も、連邦という国体でさえその為の駒に過ぎない」
「鉄に火を、炉心に熱を。神秘を駆逐し、幻想を破壊せよ。しかる後に再世の刻は来れり」
残る星は“十”。
その全てが地に墜ちる時、もたらされるのは輝かしい繁栄か、約束された災厄か。
今は彼らのみぞ知る。
「“我々”の勝利は近い」
白鯨討伐作戦……続行。
英雄再造計画……再始動。
■■■■式……起動準備。
「何故ここまでのことを? 誰に頼まれたのでもなく、まして貴方に益があるわけでもないのに」
私の問い掛けに“彼”はこう答えてくれた。
「おれはただ静かに生きたいだけだ」、と。これはその為に必要なことだったのだと。
嗚呼、そのささやかな望みの何と難しいことよ。私は感動に打ち震えた。
たったそれだけ……ただそれだけの為に、この男は「ここまでの偉業」を成し遂げたのだ。その覚悟、その献身、その想い。もはや並大抵の言葉でそれを飾る事は無礼に当たろう。決して多くの望まぬその在り方が、結果として多くの人々を救い上げることになろうとは。
私は知った。きっと“彼”の如き者こそを……。
『英雄』、と云うのだろう……と。
“白鯨”は自らの生において、敵対した者を許したことは一度もない。長い歴史の中で彼と事を構えた命知らずは数多くいたが、そのほぼ全てにツケを払わせてきた。特に、自らを「怒らせた」者には加減も容赦もない。必ずその命を代償として要求してきた。
だが、今回の相手はどうにも珍しい。
「「さあっ!! 続きをやろうじゃあないか!!」」
幾千幾万にもなる戦いの記憶を掘り起こせば、自分より体重差のある奴はごまんといた。特殊な鍛錬や魔術による筋力の強化で一時的な肉体増強を実現した者らの中には、それこそ三倍の体重差という馬鹿げた連中もいた。だがどれだけ鍛え上げても体のサイズそれ自体は常識の範疇だった。五体という限られた範囲に、増強した筋肉をコンパクトに収納することで、一撃ごとの威力を高めるというのが常識だった。
「これ」は違う。
泥団子を二つ捏ね合わせたら重さも大きさも倍になるように、「これ」は接続された二つ分の質量がそのまま形に表れていた。順当に、当たり前に、至極当然のように、そいつは肉体を構成する質量全てがきれいに倍になっていた。
身長も倍。
胴回りも倍。
重量も倍。
体積も倍。
何もかもがきれいに倍々。そんなこと有り得るはずが無い。だがそれを成立させるのが眼前の「これ」の特異なる部分だ。
異常なまでに膨れ上がった上半身は歪な逆三角形を描き出し、その下に無数の大蛇を飼い慣らしているように皮膚が流動を繰り返す。融合により増加した部分は全てがそこに集中しており、上部に重量が寄っているその姿はさながら巨大なハンマーか。更に全身に纏った甲殻も健在であり、膨張し面積が増した体表を隈なく覆い尽くし臨戦態勢は完全に整った。
もはや超人ではない。しかし、皮肉にもその思想は受け継いだ。
足りなければ、足す。「無い」のなら「有る」ところからそれを持ってくる。
金牛だけではどう足掻いても“白鯨”には勝てなかった。だが二人ならどうだ。それもただ頭数を用意するだけでなく、比喩ではない文字通りの一心同体、肉体のスペックは単純にその総和。だが単純であるからこそ穴も隙もない。眼には眼を、歯には歯を、力には力を。腕力を誇示する者には、それ以上の暴力をもって制圧する。
「「来ないなら、こっちから行くぜぇぇえ!!!」」
発気揚々とばかりに振り上げられた巨腕が拳を形作る。動作それ自体は予測の範疇、“白鯨”にとっては苦も無く迎撃可能な攻撃のはずだった。
しかし、いざパンチが繰り出された時、予想を遥かに上回る『圧』に“白鯨”も驚愕した。
「これは……」
拳が、膨れた。
この一瞬を目撃した第三者がいたならば、きっとその異様な光景に目を剥いたはずだ。振り上がった拳が射出されたその刹那、元から大木のようだった巨腕が更に肥大化し、常人二人分の胴にも匹敵する巨大質量が大地もろとも“白鯨”を潰しに掛ったのだから。
それはもう、着弾と言ってよかった。極限まで固められ膨張した五指が接触した途端に大地は捲れ上がり、地上の大津波となって彼らを中心とし周囲へと伝播する。破壊の波動が到達した瞬間に建物は土台の基礎から爆砕され、まるでそこに炸薬でも仕込んでいたかのように木端微塵に吹き飛ぶ。遅れて落下してきた瓦礫の雨が破壊の追い打ちとなって降り注ぎ、そのエネルギーの甚大さを物語る。
「「ちょこまかと、逃げ足の早いやつ!」」
規模が桁違いなせいで魔物が使う異能のように見えるだろうが、実際のところ起こっている現象そのものは常人の肉体でも起こり得るものだ。筋肉に負荷や圧力を掛け、ポンプのように血液を集中させることでそれを肥大化させる現象。今目の前にいるこいつは二人分の体積を有しており、片方に至ってはほぼ完全な液状だった。恐らく甲殻の下は半液状であり、必要に応じて部位に集中させ硬化させることで瞬間的な破壊力を得ているのだ。
攻撃に転じる一瞬だけ、肥大化していた上半身の体積が拳に集中していた。単純なことこの上ないが、間合いを狂わせる一撃は迎撃のリズムをも狂わせる。攻撃にしろ防御にしろ、タイミングがズレればその瞬間だけは無防備に晒される。そこにこれだけの質量が叩き込まれれば、並大抵の生物なら軽く轢き潰せてしまうだろう。
「「逃げろ! 逃げろ逃げろォ! どこまでだって追い詰めてやらあ!!!」」
しかも「こいつ」、速い。
巨体=鈍重という方程式は既に【タウロス】が否定したが、これは想定外の速度だ。体内の水分を脚部に集中させることで足を肥大化し、踏み出した僅かな一瞬にそれを再び上半身へと推移させる。重心の移動によって得られる加速は、さながら限界まで押し込まれたバネの如し。大質量の物体が最低限の予備動作だけで高速跳躍を繰り出す様は、相対する側にとっては悪夢だろう。
「ッ!」
突進した頭部と、迎撃の拳が激突し、周囲に大音量の衝突音が鳴り響く。巨大な打楽器を打ち鳴らしたそれは衝撃の大部分が内部へ浸透せず、音に変換され効率よく拡散させられたことを意味していた。恐らく体内へのダメージは軽微なものでしかないはずだ。
こっちのカラクリも単純だ。今のこいつは大量の水分を蓄えている。頑丈な甲殻によって衝撃を受け止め、続く内部の水分がそれを完全に殺す。ただ頑丈にするだけでなく、軟らかさを持たせることで完全な物理耐性を獲得していた。
「──ボゥッ!!!」
外気を取り込んだ“白鯨”の空気砲が唸りを上げる。しかし、射出された不可視の熱弾は鋼鉄の外皮を僅かに変形させただけに留まり、その内部まで到達することはない。元よりこれは全身が液体で熱の影響を受け易かった【ヴァルゴ】だからこそ成立した技だ。【タウロス】の甲殻を相手にするには力不足だった。
もはやこの怪物は【タウロス】でもなければ【ヴァルゴ】でもない。金牛が有していた『硬さ』と、水乙女が有していた『柔軟さ』を併せ持っただけでなく、歪に膨れ上がった巨体さえも自在に操る機動性さえも手に入れた、まさに兵器としては完璧な存在だろう。
「「ハハハハッ!! どうした、どうしたぁ!!? そんなんじゃあ傷も付かねえぞ!!」」
面倒だ。厄介だ。
闘争と破壊には終ぞ事欠かなかった“白鯨”ではあるが、その実彼はそういった事柄に労力を割くことを億劫に思う性質をしていた。嫌っている、と言ってもいいだろう。長引かせるのが我慢ならないからこそ面倒と直感した相手を率先して叩き、後は流れ作業よろしく適当に潰していくというのがお決まりのパターンだった。だから決して、面倒な相手との戦いが好みという訳ではないのだ。
にも拘らず、こんな面倒極まりない相手との戦いを強要されるこの現状において、“白鯨”の苛立ちは徐々にピークを迎えようとしていた。心理の奥底で封じ込めていた殺意が熱を帯びて蓄積され、今や噴火を待つマグマとなって煮え滾る。爆発まで秒読みの段階にあった。
ああ、面倒だ。
ああ、厄介だ。
もう、どうでもよくなってきた。
「誰も彼もっ、馬鹿ばかりか!」
【アリエス】は不合理を嫌う。筋も理屈も通らない事象を嫌い、それを良しとする頭の回らない輩など愚物の極みと断じられた。常識で考えれば稚児でも理解できる事柄を、一時の感情で投げ打つなど特に許せない。優先するべき順序を誤れば勝機は彼方へ遠ざかると知っているからこそ、誤った判断を下す者は理解不能だ。
ほんの僅かに目を離した隙に消えた【ヴァルゴ】の行方を、今はもう探しもしない。自分から死地に戻った愚か者のことなど、もうどうでもいい。
「【アリエス】さんっ! 【ヴァルゴ】さんがっ、【ヴァルゴ】さんが!!?」
「ゾディアークに戦局を読めない者は二人と要らない! 死に場所を選びたいならそうさせろ、もう回収は不可能だ!」
もうお終いだ。ゾディアークは壊滅だ。一度目なら不運な偶然だった。二度目ならマグレと言えた。だが三度、四度と続けば言い逃れはできない。
もう終わりか? 終わりなのか? 公正にして永久なる平等、人々を真なる安寧に導く革命の灯火はもう消え果てしまうのか?
「否だ……。否、否っ! 断じて否だ!! あってはならない、そんなこと! まだだ。まだ何も始まってすらいない!」
そう、革命は始まっていない。遍く全ての人民に真の平等を供与するための聖戦は、その狼煙さえも上がっていない。
来たる南下作戦において十二星徒は竜尾の山脈を越え隣国へ至り、血統支配の旧弊に囚われた王国や、神などという原始的なツールに依存する教国に革命の火をもたらさなければならない。それだけではない、ゆくゆくはそこから更に西へと版図を広げながら進行し、未だ闘争に明け暮れる霧の大陸や未開国の極東にまで人民による統治という崇高な理念を浸透させるのが使命なのだ。十二星徒はその為に造られている。それこそが真価なのだ。
「だから、だから! こんな所で終わるはずがないんだ!! 我々はまだ成すべきことを何一つとして成し遂げてはいない! 真に崇敬されるべき理念とは完遂されるその瞬間まで決して潰えることはないんだ!!」
「お、落ち着いてください【アリエス】さん! ドクタルに会えれば……あの人ならきっと、何か解決策を!」
「解決!? 何をっ、一体、どうやってこの状況を改善できる!? 鼻つまみ者だった委員会のトップに運よく座り込んだだけの理屈倒れが、これ以上のことを僕らに何をしてくれると思っている! 奴は崇高な革命さえも研究の道具にしている男だぞ!」
革命に必要な力をもたらしてくれた事には恩義もあるし感謝もしている。だがそれだけだ。根本的な部分で【アリエス】とドクタル・ムウは噛み合わない。理想を追い求める者と現実を見据える者とでは、すれ違うのは必然だった。
とにかく、今は早急に数を揃えなければならない。最終調整中だろうが構うものか、今すぐにでも後期型を動かせばまだ戦況は覆る可能性が残されている。編成は激変し、指揮系統は乱れるだろうが……。
「問題なし!!」
そう、問題はない。この第一白羊宮たる【アリエス】が部隊の指揮を任されているという、その意味を理解すれば彼にとっては何ら問題にはならない。仮に後続のゾディアークが全員【タウロス】並みか、それ以上の問題児であっても然したる障害にはなり得ない。
【アリエス】は、そういう超人なのだから。十二星徒の全権を預かる者として当然の能力を付与された個体、それが彼という存在。
彼が健在である限りゾディアークは不滅だ。少なくとも現時点では、だが。
「いいや、貴様らはここで終わりである」
故に、敵がこの行動に出ることは必然と言えた。
建物の影から滲み出るように出現するその様は、影を伝って任意の場所に姿を現す高等魔術の痕跡。それまでそこに存在していなかった者が、知覚外から急に出現したことに……いや、もう追い付かれてしまった事に二人の超人も戸惑いを隠せなかった。
「貴様らは、『哀れ』である。ヒトを凌駕する可能性と価値を持たされながら、それらを一切発揮できぬまま、無意味に終わるのである」
高度な術式を無数に重ね合わせた裾長の外套を揺らし、手には万年を生きた霊木から惜しげもなく削り出した身の丈ほどの杖を持ち、雪除けに目深に被ったフードの奥からは連邦ではまず見られない日に焼けた茶色い肌と黒い髪が覗いていた。
影から出た足が大地を踏み締める度に魔力を帯びた燐光が足元から発せられる。一歩ごとに効果を発動する魔術が大地に刻まれ、常とは位相の異なる結界空間が周囲を覆い隠した。これでもう誰も逃げることは出来ない。ゾディアークは今再び、完全に分断されたのだ。
「まあ、仕方のないことか。分不相応……自ら“白鯨”とまで名付けた大敵に、たった『この程度』の熟度で挑もうとしたとはな。正直、お笑いである」
「あ、ああぁ……!」
魔術師という、初めて相対する敵。この北の大地には「存在しない」種類の者との直接遭遇に、経験不足の【アクエリウス】は既に戦意を喪失しかけていた。
「ああ、そこの小僧。貴様か、我輩の術をいとも簡単に『喰らって』くれたのは。ほう……ほう、ほう」
漆黒の瞳に射抜かれて【アクエリウス】は徐々に尻込みする。それに代わるように【アリエス】が前に出る。魔術師風情が何するものぞ、彼の闘志は逆に燃え盛ろうとしていた。
「失せるがいい。旧時代の遺物が如何なる了見でこの地を侵す。神秘に寄り添い幻想を糧とするお前達の居場所など、もはや錆び付いた神話の隅にしか存在しないと知れ!」
ジリジリと距離を詰める【アリエス】には、必勝の策がある。
彼は確かに腕っ節という意味でなら【タウロス】に劣るし、その制圧力という面でも【ヴァルゴ】には及ばない。身体能力と五感の向上という点だけで見れば、その性能は第二世代相当しかない。彼が【タウロス】から軽視される要因がここにあり、所詮型落ちだと高を括っての言動だった。
しかし、忘れてはならない。
「哀れ? 哀れと言ったか。たかだかヒトの分際で、この身に対し憐憫を抱いたと言うのか!」
ただ「優れている」だけでは超人たり得ない。超人はヒトを超えたからこそ超人と呼ばれるのだ。常人とは強弱や優劣を語る土台からして違う。
「お前こそ哀れだよ、魔術師。大方、【タウロス】と【ヴァルゴ】に比べれば貧弱な二人組の方が楽だと踏んだのかもしれないが……だとすれば、お前は判断を誤った!」
【アリエス】は事実しか言わない。時にはハッタリを口にする【タウロス】とも、虚勢を張る【ヴァルゴ】とも違う。彼は常に事実に裏打ちされた事柄のみを口にし、それ故に自信が揺らぐことは決して有り得ない。
肉体能力は【タウロス】に劣る。事実だ。
制圧力においては【ヴァルゴ】に劣る。事実だ。
だが対人戦における最強は、この【アリエス】だ。
「お前は姿を見せるべきではなかった。僕の前に姿を見せ、声を聞き、存在を確かにしたその時点で、お前の敗北は確定していた」
甘い香りが周囲に漂い始める。春の満開の花々を思わせるそれらの芳香は、氷雪舞い降るこの北国においては『異臭』でしかない。その「危険性」を余すことなく理解している【アクエリウス】はとっくの昔に姿を消していた。
「選ぶといい。楽に死ぬか、苦しんで死ぬか」
対人最強。その対“人”という言葉にはもちろん、超“人”も含まれている。白羊宮はその能力の猛悪さ、危険性の重要度において十二星の中で比する者のない最右翼に位置する。一度彼がその力を振るえば、大地に立ち息をする者全ては悉く倒れ伏すだろう。そこには何人たりとも例外は有り得ない。
「僕としては後者を選ぶことを期待するが」
花の香りが街を包み始める。もはやこの場に、生物は存在できない。
“白鯨”は、「全力」と「本気」を使い分ける存在だった。
例えば、「邪魔な奴は『本気』で潰す」。これは彼の根底に刻まれた行動原理、彼が動く上での自分ルールというやつだ。人間が害虫を見つければ反射的かつ本能的にそうするように、彼は立ち塞がる者を半ば自動でそうするように習慣付けている。
そして、「敵は『全力』で殺す」。邪魔をしなければ基本は看過だが、もし眼前のそれが自分にとってどう転んでも不利益しかもたらさない場合、それを確実に排除するよう動く。
この二つは彼にとって絶対のルールだ。余人はこの二つを同一視、あるいは混同して捉えるだろう。だがいくら邪魔な害虫が出て来たからと言って、我が身とその命を懸けてまで種族ごと絶滅させようと実行する者はいないだろう。彼にとって「全力」とはそれだけの重みがあるのだ。
だが彼は本気にはなっても、全力を出したことは数える程しかない。何故か?
彼は“敵”にだけ全力を出す。敵とはその力が自分に伍する者、あるいは自ら以上の力を持つ脅威そのものだからだ。肉を持つ災害たる“白鯨”からしてみれば、自分と対等の力量の持ち主など片手で足りる程しか知らず、ましてそれ以上の存在など知りもしなかった。
故に、そう……これは仕方のないことだったのだ。
「ふぁ…………ぁぁ、あぁぁ」
殺るか殺られるか、食うか食われるか、命の奪い合いという極限の環境にあってこの“白鯨”は、あろうことか欠伸をかましたのだ。あまつさえ、その後に目頭を擦るなどあからさまに眠気を堪えているような仕草までする始末。
当然、相手がこれに怒るのは分かり切っていた。
「「て、てめえ! よっぽど死にてえらしいなぁぁ!!?」」
何やら図体だけが取り柄の奴が囀っているが、今の“白鯨”はそんなのに一々構っていられるような状態ではなかった。
暇、なのだ。退屈と言ってもいい。
極まった退屈は集中力を奪い、肉体から緊張を喪失させる。足は失速し腕はだれ落ち、力みを失くした上半身はだらしなく猫背になる。今の“白鯨”は過去に類を観ないほどに「だらけきって」おり、リラックスを通り越しやる気の無さを全面に押し出していた。
彼は、暇で、退屈で、飽いていた。それこそ一瞬でも気を抜けば寝落ちしてしまいそうなほどに。精神はとっくに限界で、論理的思考は抜け落ちる寸前だった。
「「この野郎ォォォォォオオオオオオオッッッ!!!」」
なのに、面倒だ。こんな状況でこんな奴の相手を、馬鹿真面目にこなさなければならないのは、何と面倒で厄介なのだろう。
ああ、そうだ。
もう終わらせよう。
気分を転換した“白鯨”の動きに活が戻る。それは反撃の兆候と捉えるのが普通だろうが、そも前提からして違う。反撃とはそれまで追い詰められていた側が窮鼠の一撃として行うものであり、ただの一度も追い詰められなかった者がやる事ではない。
金属同士が打ち合う音、遠く異国の銅鑼の音色にも似た大音響の刹那、怪物の巨体は見事な「く」の字に折れ曲がっていた。
「「ごっ……!!?」」
左脇腹を打ちのめした蹴りの衝撃は五体を隙間なく埋め尽くすのみならず、常人の倍を誇ったその巨躯を空中へと放り出す。脱力からの突然の反撃に反応しきれなかった怪物はまともに攻撃を受けてしまい、内臓器官の幾つかが破壊されたことを身を以て知らされた。
だがその程度は問題にならない。体内の大部分を半液状化させたことで再生力は桁違いだ。それこそ心臓を潰されたぐらいでは活動停止さえしない。
だからこそ……その自らを過信する驕りがあるからこそ、彼らはこの期に及んでようやく思い知るのだ。
自分達は“弱く”なっていたのだと。
【タウロス】と【ヴァルゴ】は、致命的な勘違いをしていた。身も心も一心同体となったことで力を得たと、仇敵に相対するだけの力量を得たと思い込んだ。一理あるだろう。一足す一が二になるのだ、確かに強くはなっている。単純な算数の問題ならこの答え方で満点だ。
金牛が持っていた『硬さ』と、水乙女が持っていた『柔軟さ』を併せ持った完全生物。
それはつまり、裏を返せば……。
【タウロス】は『硬さ』を失い、【ヴァルゴ】は『柔軟さ』を失ったということでもある。
【タウロス】は体液移動によって肉体の変形機能を得たが、それにより全身に展開する甲殻に柔軟性を持たせる必要が出て来た。硬度と衝撃拡散性が売りだったはずが、新たな機能を獲得したことで綻びが生じたのだ。
同じことは【ヴァルゴ】にも言える。彼女の最大の武器は液質変化にこそあった。瞬時に組成や配分を変化させることで、自らを猛毒にも強酸にも変えられたその能力は間違いなく彼女が持てる力の中で最強の矛たり得ていた。だが今はもう無い。今のこの状況でそれを行えば、焼け爛れ、溶け落ちるのは彼女を収める【タウロス】だからだ。彼らは同化すべきではなかった。少しでも勝率を上げたいのなら、互いがまだ健在な内に手を組んで共闘という形を取るべきだったのだ。
「間抜けどもがァ……!」
“白鯨”が固く握った拳を以て原初の暴力を具現化させる。大地を抉り、鋼をも粉砕する鉄拳が殴り抜けるのは空中に打ち上げられた巨体ではない。突き上げられた拳が殴り抜いたのは、この星を満たす大気そのもの。撃ち出された大気の塊は砲弾となって相手を打ちのめすだろう。
それだけでは終わらない。この特大の害虫を駆除するにあたり、そんな「やさしいやり方」で終わらせる気は毛頭ない。与えた傷は直に再生するだろう。唯一損なわれずに残った再生力のみが拠り所ならば、そこに全力を傾け防御に徹すればジリ貧の泥仕合の始まりだ。
だからまず、そこから“滅ぼす”。
「まだだ」
拳がもう一度唸りを上げた。大気の壁は先ほどよりも分厚く、巨大で、重力さえ感じさせる圧力を伴って怪物に襲い掛かった。隙は与えない。そこから立て続けに両腕が虚空を打ち鳴らし、三発目、四発目と角度を変えながら放たれ続ける不可視の圧力は、その力をもって怪物の巨体を空中に留め置くという離れ業を実現させていた。空中という逃げ場なき牢獄はその巨体を隈なく圧迫し続け、もはや圧壊させるのではと思わせた。
本番はここからだ。
かつて“白鯨”が対峙した『愛しい宿敵』……それを絶命一歩手前まで追い詰めた大技が、炸裂する。
「「な、なんだ、こりゃあ! 体がッ! 灼け……!!?」」
甲殻は金属に酷似した性質を持つ。展性と延性に富み、頑丈で硬度もあり、そして……熱の伝播性も同じ。全方位から埋め尽くすように圧縮された空気は熱を発生させ、甲殻の表面が流星が燃え尽きる瞬間のような灼熱の輝きを生み出す。そう、どんな生物も熱には弱い。それは他のゾディアークも同じ事で、【リブラ】に至っては爆弾で命を落としている。そしてこの複合超人も生物である以上、その宿命からは逃れられない。
そして、熱の影響を最も受け易いのは……「液体」だ。
「「ギャアアアアアアアアアアーーーーッ!!! 熱いっ、熱いィィィ!! ここから、『ここ』から出してぇぇぇぇぇえええええ!!!!」」
もう遅い。二つの存在はもう分離不可能なレベルで結合してしまっている。仮に分離できたとして、死に体だった【ヴァルゴ】ではどの道長くはない。
「「やめろ……! やめろォ!! 【ヴァルゴ】ッ!! 【ヴァルゴ】ォォォ……ォ、オオッ、ゴゴオオオオオババババァァアアア゛ア゛ア゛ア゛!!?」」
怪物の肉体が内側から膨れ上がる。液体が気化した時、その体積は一千倍を越えて膨張する。隙間なく密閉された容器の中でそれが起これば、逃げ場を求めて外に向かう圧力で器は変形する。怪物の肉体は内外から同時に掛かる圧力が鬩ぎ合い、更なる高温が発生し、もはや一つの炉と化していた。なお高温を伴いながら暴走する炉が辿る末路は一つだけだ……。
「「タ……ウロ、ス…………助け……────」」
全身に裂け目が入った次の刹那、複合超人の最期は決まった。
急激に上昇した金属部分と、それに接触する大量の水分、そして密閉された環境……これら三つの条件が合わさった瞬間、一つの巨大な爆弾がそこには出来上がっていた。即ち、水蒸気爆発。原始的かつ暴力的な手段によりもたらされた、実に科学的な攻撃方法によって、複合超人の打倒はここに完了した。
「所詮、こんなものか」
“白鯨”にとって、これは分かり切った結末だった。負けるべき定めの者が、分不相応にも戦いを挑み、当然のように敗北した、ただそれだけの事だ。勝利したことに対し何の感慨も歓びもありはしない。
「ま……ま、てぇ……! どこに、いく……」
死に掛けが何か喋ろうとしているみたいだが、もう無視する。甲殻は内側から吹き飛び、全身の皮膚を丸ごと喪失、筋肉の大部分と内臓も熱で機能焼失。体内から焼かれてなお息があるのは、流石は超人といったところか。
「ヴァ、ルゴ…………あいつは……」
【ヴァルゴ】はもういない。周囲から立ち昇る大量の湯気が彼女の名残だ。彼女だったモノは余すことなく全て蒸発し、かつてその思考を司った脳髄の一片さえ、今は火が通った肉片となった。もう二度と肉体が復活することはない。
「くそぉ……。どういうことだよ……話が、違うじゃねえか……! 俺は、無敵なんじゃなかったのかよ……ドクタル!!」
何者にも干渉されない鉄壁の肉体を手に入れたはずだった。どんな攻撃にも耐え得る鎧を持ったはずだった。なのに実際はほとんど反撃も許されず一方的な、戦いとも呼べない殲滅がそこにはあった。
超人は確かにヒトを超えた。しかし、仮想敵に定めた“白鯨”には敵わなかった。厳然たる現実という壁に打ちのめされ、もう恨み言を呟く以外に何も出来ることが無い。
「何がっ、魔物の力を備え付ける……だ! ふざけやがって! この俺を……っ、実験の踏み台にしやがってぇ……! 俺は勝てた……勝てたんだ。他の魔物を素材にしてりゃあ……。こんな、こんな…………!!」
「ソルジャービートルの殻なんか……」
【タウロス】がその人生で幸運だったのは、間違いなくこの瞬間だ。
苦しまず刹那の内に逝けたのだから。
「おまえかァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
頭部、頸部、続いて下腹部に至るまでの部位が弾けた。周囲三メートルは赤い塗料をぶちまけたように一色に染まり、それでもなお“白鯨”の追撃は止まない。
「おまえかっ!!! おまえかァッ!!!! おまえが、おれから奪ったのかァァァアアアアアアアアッッッ!!!!」
二撃、三撃、四撃……かつて超人を名乗った者の肉体はとっくに消え去り、もはや拳が穿つのは血が染みついた大地のみだった。それでも“白鯨”は獣の如き雄叫びを上げながら拳を叩き付けるのみ。完全に理性は吹き飛び、湧き上がる怒りにのみ支配された狂乱状態にあった。
“白鯨”の「全力かつ本気」の一撃を受けた史上二人目の存在は、痛みを感じる暇も無いまま消滅したのであった。
「許さない……ッ! 許さない!! 奪ったな、奪いやがったな! おれからあれを……! あいつがいなければ、おれは……! おれはぁぁぁあ、あああ!!」
暴走する“白鯨”の全身から蒸気が上がる。怒りのボルテージが臨界を越えてなお止まる様子を見せず、物理的な熱を伴って周囲を焼き尽くす。爛々と妖しい輝きを湛えた赫眼は大トカゲの如くギョロギョロと周囲を見回し、その虚空に在りもしない幻影を追っていた。
「どこだ。どこにいった。どこにいる。おまえは今、どこにいるんだ…………セレナ」
“白鯨”はやって来たのではない。戻って来た、のだ。かつて自分から奪われた物を取り戻すために。奪い取った不埒者を、滅ぼし尽くすために。巨星は墜ちた。鏖滅の嵐はここより巻き起こる。神代の闘争の幕開けは誰が望んだものなのか……誰も知りはしない。
今は「まだ」何も見えない。
「【タウロス】と【ヴァルゴ】が落ちた」
ドクタル・ムウとその同盟者は、遠く距離を置いた地で起こった戦いの行方を知った。手塩にかけて製造した超人が二体まとめて撃破された事に対するドクタルの反応は……。
「そうか」
実に淡白だった。当然の結果が、当然の過程を経て導き出されたとばかりの落ち着きよう。何の想定外もありはしない。全ては予定通りだと言外に主張していた。
「彼らは、何一つ落ち度など無い。与えられた任務を遂行し、微塵の誤差なくそれを完遂して見せた。兵士とは斯く在るべし、という気概を見せつけた彼らは未来永劫に渡り革命の道標として称えられるべきとは思わんか」
二人は知っていた。報告を受けるまでも無く、彼らゾディアークが襲撃を受けていることを既に察知していた。そうなるように全ての絵図を描いていた。
「だが、想定外の事もある」
「何がだい?」
「会敵予想時刻。予測ではまだ48時間の猶予有り」
本来、彼ら前期型は48時間の内に軍部の協力を取り付け、後期型のロールアウトを迎え完全体制を以て対“白鯨”戦に臨むはずだった。ところが、いざ蓋を開けてみれば敵は一切の猶予も与えない速度で迫り、あまつさえ情報にも無かった協力者さえ現れまんまと分断させられてしまった。結果として緒戦で超人を二体まとめて失うという大敗北を喫し、出だしから連邦側は敗色濃厚な戦況に立たされてしまった。
しかし、この男はあくまで平常だ。
「ああ。確かに戦略情報室が掴んだ情報ではその予定だったか。何の問題も無い。それも予定通りだ」
「ほう」
「それは私が意図してリークした偽報、つまりは誤情報だ」
「なるほど」
事も無げに言ってのけたムウと、衝撃の事実であるはずのそれをこれまた予想通りと受け止めた同盟者。まるで昨日の夜起こったことを報告し合う友人同士のようでもあるが、その内情は前線に立たせる精鋭部隊を、事もあろうにその後ろ盾となる人物が欺いていたという有り得てはならない真実の暴露だ。
「畑違いの情報室に誤情報を流せる伝手があったとは」
「おいおい。大事なことを忘れているじゃないか。情報室には誰がいた? 早期の段階から私は誰をあそこへ向かわせていた?」
「嗚呼、なるほど」
ムウの言わんとしている事の全容を把握した同盟者は、実に得心したように感嘆の呟きをもらした。それはこの計画の深遠さに対してか、あるいはこの男の悪辣な手腕を前にしてのものだったか、それは定かではない。
「【リブラ】は初めからこちら側にいた」
「そして彼は今も動いている」
天秤宮は墜ちてはいない。善悪両支のアストライアは失われたのではない、ただ姿をくらましたに過ぎない。一連の裏で蠢く「真の計画」を知る数少ない一人として、その完全なる遂行の為に【リブラ】を名乗る超人は表舞台から消えた。
「最初の薪はくべられた。真なる革命はここからだ。旧きを廃し、新しきをこの大地より始める。超人も、“白鯨”も、連邦という国体でさえその為の駒に過ぎない」
「鉄に火を、炉心に熱を。神秘を駆逐し、幻想を破壊せよ。しかる後に再世の刻は来れり」
残る星は“十”。
その全てが地に墜ちる時、もたらされるのは輝かしい繁栄か、約束された災厄か。
今は彼らのみぞ知る。
「“我々”の勝利は近い」
白鯨討伐作戦……続行。
英雄再造計画……再始動。
■■■■式……起動準備。
18/06/11 01:02更新 / 毒素N
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