連載小説
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第9話 白羊病原【アリエス・ハザード】
 『第三次活動記録』

 『観察対象、検体0057(以下“甲”)に対する一連の調査と実験の経過、及びそれに伴う成果についての記述』

 『対象への生体強度測定は予測を大きく上回る数値を記録』

 『驚くべきは甲の持つ免疫機能の強靭さ。投与された全ての薬物に対し瞬時に適応し、耐性を獲得するという、一介の生物が持つ機能を凌駕した能力を有していることが判明した』

 『メカニズムについては未解明の部分が多く、今後更なる調査が必要になると思われる。完全に解明された暁には、他国と比して遅れているとされる我が国の医療分野は目覚ましい発展を遂げることは疑いようも無い』





 『第九次活動記録』

 『甲の精神が不安定になりかけているとの報告を受ける。長時間の拘束、度重なる調査や実験などがその影響と推測』

 『向精神効果を有する薬物の投与が検討されたが、例の免疫機能により効果は皆無と判断』

 『幸いにも肉体のコンディションは損なわれてはいないので、心理療法に留めることを選択』

 『委員会には可及的速やかに、それらが可能な人物、もしくは団体・組織などへの協力を求めます』





 『第十八次活動記録』

 『我々の調査に対する甲の協力姿勢は日に日に良好な傾向となっている。以前と比較して心身共に余裕が見られる』

 『やはり■■■■■■氏の影響は大きいようだ。引き続き氏には甲の心理面でのケアを一任したい』

 『このまま安定した状態が続くようであれば、調査は次の段階へと進められるだろう』

 『委員会には例の件について正式に検討いただきたい』





 『第二十七次活動記録』

 『例の件について委員会との審議が難航。最も重要な課題の解決に議論百出、着地点が見えず』

 『最終的にそれを実行に移すという点では一致している。問題は、それをどうやって実行するか、その方法だ』

 『強行すべしという意見もあったが、論外だ。甲は貴重な唯一の検体。これを失うことは絶対に回避しなければならない』

 『甲の謎を解き明かすことは急務である。だが焦りは禁物だ。必ず万全の対策を講じてから臨まねばならない』





 『第三十六次活動記録』

 『実験はついに解剖へと踏み出した。甲の有する生体機能の解明には必要不可欠なプロセスであり、かねてより委員会に具申していた案件が実現した事に、内心興奮を抑えきれない』

 『意見それ自体は前々からあった。我々の要望を拒む最大の要因は、皮肉にも甲が有する免疫機能にあったのだ』

 『あらゆる薬物薬効に対する耐性を獲得する甲に対し、麻酔となる痛覚抑止剤も効果は薄いだろうと推測。事前に行った検査でも予測通りとなった』

 『痛覚を残したまま解剖するという案は早々に却下された。彼には人類の存続と発展、その礎となる為に、更なる生存をもってそれらへの貢献としたい』

 『そう、彼は宝だ』

 『人類という種は進化の袋小路に立ち、頭打ちを迎えて久しい。万物の霊長を僭称できたのも今は昔、このままでは遠からず異種との生存競争に呑まれて種族ごと消え去るだろう』

 『だが彼が、彼さえいてくれれば、人類は新たなステージに進むことが出来る。種としてより上位に立ち、異種との交雑をも乗り越え、我々人類こそが霊長に返り咲き世界の基盤となる事も夢ではない』

 『その為にこそ、まずは行動あるのみだ』

 『経過を観測し、過程を検証し、結果を記録しよう』

 『然る後にこそ────』

 『“実り豊かなる黄金の安寧は訪れん”』

 『と、最後のは■■■■■■氏の受け売りだったか。彼にも世話になった。当初はその素性を怪しみもしたが、今にして思えばそれは無用の心配で、彼には失礼な振る舞いをしてしまった』

 『この調査活動が万事上手くいった暁には、是非彼には優秀なアドバイザーとして計画運営に携わってもらいたい』

 『今後、我々の活動はより多くの人民に肉体的、あるいは精神的苦痛を強いるものが増えるだろう。発展に多少の犠牲は已む無しとの見方もあるが、一個人としての発言を許されるなら、それらの艱難辛苦は須らく結果として人民全ての益とならなければいけない』

 『その時に必要になるのはきっと、彼のような精神的支柱をなす役割を持つ者なのだろう』




















 『結論から述べましょう』

 『計画は失敗しました』

 『失敗した』

 『失敗してしまった』

 『死者十四名。重症者三十名。軽症者百余名。重篤汚染区域は研究所全域に及び、研究棟はその全てを放棄。蓄積されていた数多の研究データも大半が失われてしまいました』

 『もはやこれは事故ではありません。多くの人命と貴重な資源を喪失させた、完全なる“災害”なのです』

 『直前までこの日誌を記していた研究員も、その犠牲となりました。今は事後処理を引き継いだ私が最後の記録としてペンを執っている次第です』

 『失敗の原因は、彼らが検体0057と呼称していた人物に対する、彼ら自身の理解の不足に他なりません』

 『三十六回も調査を重ねて……いえ、数の多寡ではなく、誰もがあの子を単なる装置のようにしか扱っていなかった。これをこうすればこの様になるから、こっちをこうやればきっとああなるのだろう……そんな認識でしかなかったのでしょう。この災害は起こるべくして起きたのであり、その意味では成果を急いた彼ら自身の自業自得と言える結果なのでしょう』

 『元は外部の人間だからと、直前で現場から遠ざけられていた私は幸運でした。私に出来ることは何もありません。精々、逝ってしまった人々への祈りと、残された方々に対する前途を案ずることだけでしょう』

 『ですが、曲がりなりにも計画に関わった一人として、今の自分に出来る全てのことをやり遂げることが私に与えられた使命でしょう』

 『その為にまずは、あの子の心を救うことから始めましょう』

 『全ての発端にして事件の元凶となってしまった、あの憐れな子。そのただ一人の子の心さえ救えずに、この先に人類の発展を口にする資格は無いのです』

 『生命に祝福を。精神に安息を。その魂に救済を。然る後にこそ、実り豊かなる黄金の安寧は訪れん』



 人類の進歩を夢見た最後の一人、■■■・■■■■■■がここに記す。










 以前、最も多くの人類を殺した魔物はスライムという話をした。その遭遇率の高さ故の数字であると。

 しかし、それは所詮、「魔物」という狭い範疇に限っての話。これが別のカテゴリや、範囲それ自体を広げると途端に話が変わって来る。

 確かに魔物たちはかつて人類を多く殺した。だが同じ魔物や魔族に分類されても、多種多様な種族に別けられることは周知の通り。それら一つ一つが別の種族、それらの総計として魔物は人類の敵として認定されているのだ。

 だがここに、単一の種族のみで人類を最も多く殺した種族が存在する。

 他でもない人類自身だ。

 人類は古くより魔物の脅威に晒されながら、同族との争いを脱却できず、そればかりかより効果的・効率的に自分達を殺す術を磨き続けて来た。地上に祖先が出現して一万年が経過し、殺し殺されの累計として人類は「最も多くの同族を殺した種」として歴史に刻まれた。

 その人類が、より迅速に、より正確に、より効率的に、効果的に、そして何よりも大量に同族を屠殺せしめる目的で用いた「武器」がある。

 「“毒”か」

 結界内を満たす花の芳香にも似た甘い香りは、その実情は嗅いだ者を楽園ではなく冥府へと引きずり込む魔性のモノ。肺いっぱいに吸い込めば瞬く間に昏倒、血中から神経を侵し全身の機能を殺し尽くし、生存に必要な力全てを奪い去るだろう。その毒性の猛悪さたるや、鼻腔に微かな甘い匂いを感じた魔術師の視力をほぼ完全な暗闇に落としたほどだ。

 「結界を張ったのはこちらにとっても好都合だぞ、魔術師。おかげでこの地を必要以上に汚染する心配がなくなった」

 「……っ!」

 「おっと、今頃になって呼吸を止めても遅い。今お前の視力を奪ったのは眼球周辺の粘膜から侵入した毒素による効果だ。吸い込み、肺から吸収した分は後から来る」

 その言葉が魔術師の脳髄に届くことは無かった。体内に侵入した毒は一瞬にして血中を通じて心臓に到達し、魔の効能を遺憾なく発揮し臓腑の動きを強制停止させるのに二十秒と掛からない。

 【アリエス】の言葉に虚飾や過分は断じて有り得ない。彼自身の射程圏内に入ったその時点で、全ての敵は息絶える。

 これこそが、第三世代超人兵科・十二星徒が第一宮たる【アリエス】の能力。もはや彼は兵士ではない。存在の根底からして用兵ではなく、「運用」を前提とした「兵器」としての部分が強調されている。彼一人を人口密集地に投入すれば、軍なら壊滅、街ならば半日も保たないことだろう。彼は「毒」そのもの。有史以来、「最も有効的に生命を害する道具」として人類が好んで用いた武器。彼はその体現者となったのだ。

 目、鼻、耳、そして口……七穴全てから血が噴き出し、魔術師の体は地に倒れる。魔術一つ、呪文の一節すら唱える事もないまま、異国の侵入者は見えざる猛威によって絶命したのである。

 「ふん。終わったよ、【アクエリウス】。戻って来るといい」

 「ほんとに、その……【アリエス】さんが戦う時は、生きた心地がしないです」

 術者の死亡に伴い結界が解除され、散布された毒が薄まるタイミングを見計らってようやく【アクエリウス】が戻って来た。今この場に充満している毒はまだ弱い方だが、それでも五感や四肢の自由を奪うほどの効力を発揮する。超人相手にこれだ、通常の人間相手に用いればどのような事態を招くかは推して知るべし。

 「よく言う。僕からすれば、君の方こそゾディアーク随一の『危険物』だよ」

 「これ、どうしましょう?」

 【アクエリウス】の指先は今しがた息絶えた魔術師の死骸を指していた。呼吸も脈も停止し、素人が見ても絶命は明らか。何かしらの魔術を発動させた形跡も無く、ここから何かをしてくるようにも見えなかった。

 それをまじまじと眺めた後に呟いた。

 「『食べて』もいいですか?」

 「僕の毒はしばらく残る。食あたりを起こしたいなら止めはしない」

 「そうですか……」

 「そんな露骨に残念がるな。前々から言いたかったが、そろそろ悪食癖を直そうとは……」

 白羊の言葉が止まる。視線は静かに、事切れたはずの死骸へと向けられた。

 死んでいる。確かにそれは死んでいる。呼吸は無く、鼓動も無く、万に一つも起き上がる可能性はない。魔術師の肉体は生物学的に間違いなく死を迎えていた。

 それが「魔術師本人」の体だと確認はしていない。

 「やられたようだ」

 着用していたローブを引き剥がせば、露になる死骸の正体。途中から入れ替わったのか、あるいは最初からそうだったのか、それは十羽ほどのカラスを寄せ集めた囮だった。魔術に疎いゾディアークはその術中にはまり、、敵を見逃してしまったのだ。

 「魔術師は傲慢だが、同時に用心深くもある。無策かつ生身で突っ込んでくるほど愚かではなかったようだ」

 「何が目的だったんでしょう」

 「決まっている。威力偵察だよ。不遜にも我々の実力のほどを調べて対策を講じるつもりだろうが、何が出来るという。命有する生物である限り、僕らに敵う存在などありはしない」

 これは油断からくる慢心ではない。事実に基づいた確信だ。世の中には手の内が全て明らかになってもなお、絶望的というものがある。

 ヒトは確かに知恵で困難を克服してきただろう。だがヒトは獣とは違い、自ら自身を強化することはしなかった。毒物に対する耐性は一万年の昔から殆ど変わらず、指先より小さな虫の針を受けるだけで命を落とす脆弱な生物だ。

 「連中は我々を分断したつもりだが、連中も戦力を割いて分断されている。しかも相手は魔術師と来た。これは好機だ、ツキはまだこちらにあるぞ」

 「ええ。“白鯨”に追い付かれるよりも前にぼく達が仕留めてしまえば……」

 「それでは芸がない。僕の能力で向こうの情報を洗い浚い『吐かせ』てからだ」

 革命の灯はまだ消えていない。その事実が【アリエス】を突き動かす。全ての人民を不偏なる平等に導くための聖戦は始まったばかり、その立役者になれることに彼は微塵の躊躇も疑問も抱いてはいない。

 「改革を、変革を! 黄金の安寧に至る為、まずは旧きを廃する事から始めよう」

 たとえ、それが痛みを伴うとしても、恐れることは何もない。

 勝利するのは、我々だ。





 「あれは本当に人間であるか?」

 魔術の徒として好奇心があったが直接の接触を避けて正解だった。だが流石にあそこまで突飛もない能力を見せつけられては、予定を大幅に変更せざるを得なくなる。

 「開口一番にどうしました?」

 魔術師が駆け込んだのはカマリとユーリィが潜伏する芝居小屋。以前から通じていたカマリはともかく、初対面となるユーリィは突然の闖入者、それも生まれて初めて目にする褐色の異人に驚きを禁じ得ない。

 「わっ……!?」

 「ああ、ユーリィ君は初対面でしたか。こちらはレスカティエ教国より、今回の作戦協力の全権を担われておられる方です。こう見えて……といいますか、見たまんまな魔術師です」

 「イルムである。ああ、貴様の自己紹介は結構である。その存在を記憶するのに用いる脳細胞は、生憎と我輩には一片たりとも持ち合わせておらんのでな」

 「嫌な人ですね」

 「こう見えて妻子持ちです」

 「そこ、聞こえているのである。せっかく人が十年に一度あるか無いかの親切心で、こんな北海くんだりまで足を運んでやったというのに、まさかここまで厄介極まる仕事を押し付けられようとはな」

 ぶつぶつと文句を垂れながら魔術師……イルムは小屋の四隅に何やら細工をしていく。

 「何をしているのですか?」

 「連中は魔術に疎い。今の内に認識阻害の術をここに掛けておく。目と鼻でしか物事を捉えられない輩には効果的であるからな」

 「え、でもそれだと、あの人も……」

 飛び出したきり未だ戻る気配を見せないもう一人。ここを覆い隠してしまえば、同じように魔術に縁遠い彼もまた帰るべき場所を見失ってしまう。

 「何を当たり前のことを。この術はその為のものである」

 「イルム師、まさか我らがイヴァンは……?」

 「我輩も奴とは長い付き合いではあるが、あそこまでキレたのを目にするのは久方振りだ。しばらくは関わらん方が吉と見た」

 ユーリィを除いた二人は事の重大さを理解しているのか、深刻な面持ちだ。まるで強大な敵がもう一体増えてしまったようであり、事実そんなものだった。

 「貴様はあれを物語の英雄そのままに捉えているのだろうが、とんだ勘違いだ。あれは英雄などではない、英雄らしい所業など一つもしたことはないし、恐らくこれから先もすることはない。あれは狂人だ。義や忠とは無縁の生き物である。そして同時に、我らの味方というわけでもない」

 「そんな……」

 「今一度、我々の立場や役目、その目的を明確にしておきましょうか」

 カマリの一声で、自分の与り知らぬ場所で起こった出来事に混乱しそうになっていたユーリィも一旦落ち着きを取り戻す。反体制運動に参加してはいたが中核にいたわけではない、そんなユーリィにとっては願っても無い申し出であった。

 そして滔々と語られるのは、この国が置かれている現状、それによる隣国との摩擦関係、それらの帰結としてもたらされるであろう大陸規模の混乱への危惧などであった。

 自分達が大事に関わっているという自覚はあった。ひとつの国家、その中枢を転覆させようというのだ、大事でないはずがない。だがここまでの規模だとは正直予想もしていなかった。然もありなん、ユーリィはレジスタンスの構成員ではあるが中心の人物ではない。大局的な視点を持つ必要が無い立場だったからこそ、そこまでの事実を知らされていないのだ。

 「まあ、要はそういうことだ。狂犬の国とは、言い得て何とやら。四方八方、辺り構わず噛みつき回るこの国から、密かに牙を抜き去るという難手術……我輩は確かにそれを引き受けた、一人なのである」

 「既に申し上げました通り、私はその案内役であり、外部とこの国のレジスタンスを繋ぐパイプ役です。途中から参謀のようなことまで任されていたけど、本職はどちらかというと補佐が本分なんですよ」

 「まだ見ぬ連中も続々とこの地を目指している。喜べ、少年。この国の未来は明るいぞ」

 悪い冗談だと思った。自分達はこの国を混沌の坩堝に落とさない為、まだ事態がこの国の内側だけで完結するうちに全てを片付けることが理想だった。だが実際のところ、事態はユーリィが想像していたよりもずっと大規模で、深刻で、そして火急の事案だったのである。

 「その上で、我輩らと奴は立場が違う。確かに奴はこの国に用があって、我輩らもあれを戦力の頭数に数えてはいる。だが元々此度の企みに奴は関わりなく、奴はあくまで我輩らに引っ付いて来たに過ぎないのである。本来なら完全な部外者である」

 「では、それなら、あの方はどうしてこの国に? 何の目的で?」

 「ほう。カマリよ、知り得たことを訳知り顔で喋らずにはいられん貴様には珍しい、流石に『そこまで』は話していないか。貴様も、あれの逆鱗に触れるのは余程恐ろしいと見える」

 「あの、何を……」

 「生憎と、その部分に関しては我輩も語るべき口を持たぬ。どうしても知りたいというのなら本人に直接聞くがよい。命が惜しくなければ、であるがな」

 それを最後にこの話は終わった。あくまで自分達の立ち位置や役割を再確認し、話は次の段階へと進む。

 「隠れ潜むだけで目的は達成されん。差し当たっては、まだ息のあるレジスタンス達との合流である。おい、小僧!」

 「ユーリィです! えっと、レジスタンスは普段は首都郊外に潜伏していて……」

 「そんなことは知っている。問題は、今まさに目を光らせている超人二体から、どうやって距離を置き街の外へ脱出するかだ」

 独断専行のもう一人はともかく、イルムは何も親切心だけでユーリィを助けにきたのではない。

 レジスタンスは万が一の事態に備え、一網打尽にされることを回避するために各地に散らばっている。互いの場所を知っているのは構成員だけだが、その構成員さえ知っているのは全体の一部のみ。合流するときは決められたチームから順繰りに合流する仕組みだ。組織存続の為の措置が取られており、それは彼らに協力姿勢を見せるイルムらにも徹底されている。

 「貴様ら哀れ極まる抵抗勢力に配慮し、我輩らもまた各隊が合流する場所以外の情報は知らされていない。本来なら各地に散った勢力と落ち合い、奴らからそれぞれの位置情報を受け取る手筈になっていた」

 だがイルムらが合流する予定であったチームは、予想以上の速度で迫って来たゾディアークの反撃によって壊滅。現状、他のチームの情報を有するのがユーリィ唯一人という状況なのである。つまり、彼の安全を確保できなければ、イルムが危険を冒してまで合流した意味がなくなるのだ。

 「っ……」

 「事態がどれほど切羽詰まっているかを正しく理解した辺りで、小僧! どこに抜け道がある?」

 「地下水道、です。街の外までは伸びていませんが、そこまで近付くことは可能です」

 「しかし、一部は既に【タウロス】によって侵入されています。命からがら抜け出した身としては、既に官憲らも入り込んでいるであろう場所に出戻るのは……」

 「そこが盲点である。連中もよもや、一度は尻をまくって逃げ出した相手が、まさか再び元の穴倉に戻るとは思わん。まして虎の子の超人を二体纏めて失った今、奴らの目は地上に釘付けであるからな」

 「脱出するなら今が好機……ということでしょうか」

 「今が、ではない。今しかない、である」

 「え? いや、待ってください! 超人を……仕留めたんですか? あの!?」

 今日、いや人生で一番の衝撃を受けていた。命のやり取りが経験として少ないユーリィにとっても、あの超人を名乗る者は怪物にしか見えなかった。超常の力を得るべく望んで人外に墜ちるのだ、怪物でないはずがない。どう足掻こうと勝つどころか、まともに抗する手段さえ思い浮かばないほど隔絶した相手だったはずだ。

 それが、斃された。

 人智超越の怪物を、それも二体まとめて。

 ユーリィの中で無名の英雄に対する崇敬の念はますます膨れ上がる一方であった。人の身で幻想に昇り詰めようとする者は、太陽に灼かれて地に墜ちる。だが元から超常のモノが地上に降臨したならば、それはもはや受肉した奇跡だ。元の立ち位置が違うならば、不遜にも前者が敵う要素は微塵もない。

 やはり彼なのだ。彼こそがこの行き詰った国を根底から変えてくれる者なのだ。

 「小僧、よく聞け」

 興奮冷めやらぬ、といった風を察したか、イルムが今一度ユーリィに向かって言葉を投げかける。表情は相変わらず何を考えているのか分からなかったが、その視線だけは真剣に少年を見据えて離さなかった。

 「我輩は決して親切で物を言わん。元より魔術師とは計算打算、権謀術数、策略で生きている人種だ。発する言葉には必ず裏がある」

 「は……ぁ?」

 「だからこそ、これは掛け値なしの親切心からの言葉になろう。小僧、やめておくのである。貴様のような年頃だと、己には無いものを羨んだり憧れたりと、まあ高望みをしやすいものだ。だが……あれは、『あれ』だけはいかん。止めておくのである。あれを目標に生きれば貴様の人生は道を外し、外道に堕ちる。まともに生きたいのなら決して近付かぬことだ」

 「……」

 「よいな?」

 「え?」

 「よいな? 耄碌してなければ返事をするのである」

 「は、はい!」

 「よろしい。では、早速だがここから一番近い合流可能地点をだな……」

 「あー、その前にイルム師、一つよろしいでしょうか」

 それまで事の成り行きを見守っているだけだったカマリが、申し訳なさそうに、心底本当におずおずと手を挙げながら……。



 「ここ、もうバレております」



 衝撃の告白。その刹那、彼ら三人が潜伏する小屋はこの街から、そしてこの地上から跡形も無く姿を消していた。





 「逃げられちゃいました」

 「よほど勘が鋭いと見える。これは意外と骨かもしれないな」

 超人はまさに一騎当千ではあるが、その戦力単位はあくまで一個人としての範囲内に限定される。例えば既に斃れた【タウロス】も、その膂力は確かに脅威ではあった。実際その全力の一撃は最新鋭の大砲にも匹敵する威力を秘め、一個人の発揮する武力としては桁外れであったことは事実だ。

 だが逆を言えば、「全力が大砲一発」という事でもある。一門の運用に掛かるコストを無視すれば、力自慢の【タウロス】一体より大砲の数を揃えれば同じことが出来るという理屈が成り立ってしまう。超人はその在り方から、大量破壊には決して不向きな存在なのだ。

 何事にも、常に例外は存在する。

 超人と言う一個人でありながら個人の武を逸脱し、存在それ自体が兵器としてカウントされる、現状ただ二体の超人。

 大量殺戮を可能とする【アリエス】。そして……。

 「【アクエリウス】、念入りに焼き尽くしておけ」

 「分かりました」

 『大量破壊』を可能とする【アクエリウス】だけだ。

 「っ……!」

 左手に持ったナイフが煌めき、白刃が右腕を切り刻む。自傷行為に魔術的・儀式的な意味合いは全く無く、ただ手首の直下を通る血管からの最大出血量のみを求めた行為に過ぎない。深々と骨まで達したナイフは容易く筋と血管を断ち、引き抜けばその傷跡から血液が吹き上げ真白の大地を染め上げる。

 血だ。血だ。生命の根幹を成す液体が惜しげも無く降り注ぐ。体温を宿した温かな液体は雪を溶かし、大地に燃え広がる。

 そうだ、『燃え広がる』のだ。

 比喩ではない。物の喩え、では断じてない。大地にぶちまけられた液体は、明らかに体内で蓄えられていた以上の熱量を秘め、外気に晒されながら冷えるどころかむしろ更に過熱する。地下一万年に渡り蓄積したマグマの如し熱は灼けた鉄も斯くやという熱量を伴い、ある一つの物理現象を引き起こす。

 急激な酸化反応によって燃焼する物質が辿る末路は、たった一つしかない。過熱と共に上昇した温度はやがて燐光を伴いながら激しく揮発し……。

 爆発する。

 今から百数十年後に人類が「手にするはずだった」とある炸薬……それに匹敵、あるいは凌駕する炸裂効率を以て、宝瓶宮の体液は敵が潜伏していると思しき小屋を跡形もなく爆砕した。大地に降り注いだ飛沫の痕跡からも燐火が立ち昇り、その熱が決して魔術による幻の類ではないことを示していた。

 「地下への抜け道は無いな。あの魔術師が転移の術でも使ったのだろうが、だとすればそう遠くまで行けはしないはず。奴は確かに、つい今しがたまでこの場に潜伏していたのだ」

 であれば遠くには行けない。人の手に堕ちたとはいえ、本来距離を縮める転移の類は神業。見知らぬ地でとっさに使う程度で逃げ果せるとは思えない。

 だが解せないこともある。彼等が突き止めたこの場所は人避けの呪いによって隠されていた。視覚によっては視界に影を映さず、聴覚にあっては音は鼓膜に届かず、意識すればするほど意識の外へと追いやられる。魔術による結界の類の厄介さは、「そこに結界がある」という前提の元に動かねば到底見つけられないという一点に尽きる。この辺りだろうという当たりを付けて虱潰し、それが魔術の心得が無い素人が結界を攻略する唯一の手段だからだ。

 しかし、【アリエス】はここを探し当てるのに三十分も掛けなかった。五感に優れた者ほど発見に手間取るはずの結界を、まるで「たまたま近くを通ったら見つけた」とでも言うようにあっさりと、呆気なくそれを突き止めてしまった。

 「【ヴァルゴ】など必要ない。迅速さでは劣るが、なに、僕にも『同じこと』は出来るという話だ」

 油断は無い。慢心も無い。嗅ぎ付けて見つけ出し、捕らえる事無く処分する。然る後に“白鯨”を引き離しドクタルと合流。それでこの事件は何もかも終わりだ。

 流れとしてはそんなところか。問題ない、何も問題はないのだ。



 今この場で、「問題」が浮上したことを除けば……。



 「下がってください、【アリエス】さん」

 それに、気付いたのは【アクエリウス】だった。無論彼に言われるまでもなく、【アリエス】もこちらに接近する存在には勘付いていた。だが彼の意識は今や逃走した魔術師に向けられていた。一度逃げ出した敵が戻って来るはずも無し、そう思い闖入者の対処は【アクエリウス】に一任するつもりでいた。

 それこそ、すぐ背後で【アクエリウス】が爆炎をまき散らさなければ。

 「ッ!!? おい、【アクエリウス】! せめて一言あって……!!」

 先行配備された前期型で最も火力に秀でているのは【アクエリウス】だ。全身を流れる灼血が一度外気に触れれば、ありとあらゆる物体を完全焼却する炸薬となって相手を地上から抹殺する。現状における十二星最大の武器が彼だ。

 その彼が、脇目も振らず、何の断りも無く、躊躇もせずに最大を叩き込む……それはつまり、「そうしなければならない相手」だったということだ。

 視界一杯を舐めるように燃焼する業火の断崖。その奥から細い枯れ木のような腕が覗く。

 「────」

 それは何の手品か奇術か、轟々と燃え盛る爆炎より出でた腕は全ての命を焼き尽くす焔の中にあってなお、傷どころか産毛一本さえ損なわず、その奥に隠れた本体もまた同じように健在であることを雄弁に物語っていた。と同時に、蛇が鎌首をもたげるような動きで腕が持ち上がる。角度を上げるごとに皮下の筋肉が絞られ、禍々しく浮き上がった血管が結集された剛力を表す。

 そして、最大限の力を溜め込んだ腕は渾身をもって振り下ろされる。

 「ッッッ!!!!!」

 火炎が、「削られた」。

 ロウソクの火を手団扇で掻き消すのとはわけが違う。しかし、その原理は全くその通り。狂猛なる五指を振り下ろして生じた波動は、燃え盛る炎以上の力をもってそれを削ぎ落した。きっと、宝瓶宮もまた他の超人と同じように、ヒトの英知を結して造られたヒト以上の存在だ。立ち塞がった何もかもを焼き尽くす暴威の具現として形を与えられた兵器だ。肉に依存する生命が対処できる相手ではない。だが、そんなことは知らんとばかりに、天変地異が、圧倒的暴力が全てを塗り潰す。

 削り取られた炎の壁、その亀裂から真なる怪物が姿を見せる。その全貌を目の当たりにして、二人は同時に理解し、そして納得した。

 「これは、勝てない」……と。

 人間は、生命は、この根源的暴威の具現に対して成す術はない。これは災害。極大の火災や雷雨の如きモノ。まかり間違っても勝ち負けを競うことは的を外している。

 だから、ここで『殺す』!

 「どけッ!!!」

 【アリエス】の行動に躊躇は無い。言葉と同時に攻撃態勢に入っていた。もし仮に宝瓶宮が巻き添えを喰らったとしても、それは彼が愚図という話。この大怪物を討ち取るという前提の前では紙屑も同然だった。

 外気を取り込み膨れ上がる上半身、次に左指が己の鼻を摘まみ上げる。不格好極まりないが、これが最も確実かつ効率的な攻撃方法。彼等が知る由は無いが、奇しくもそれは目の前の怪物が【ヴァルゴ】に対し行った攻撃と同一。即ち、空気砲。取り込まれた外気は肺を通じ、重度に汚染され武器と化したそれは噴き出される圧力に乗じて一気に目標めがけて射出された。

 彼我の距離はざっと見て十メートル前後。「着弾」に充分な射程圏内。飛沫の一粒でも付着すればそれで決着だ。どれだけ強大であろうと関係ない、生物の括りにあるのならばアドバンテージは常に【アリエス】が握っているはずだった。

 【アリエス】の人間に対する優位性を、毒虫に喩えた。激しさなどいらない、華やかさなど不要、堅実かつ確実に。生物として絶対に克服できない弱点のみを突くことで効率よく勝利を拾う。ああ、それに補足もなければ不足も無い。全くもってその通りであるし、戦いにおける理想形でもある。

 その刃が、相手に届けばの話だが。

 毒性を帯びた呼気を相手まで飛ばすという発想、それ自体は悪くない。むしろ非凡だ。不可視のそれを誰も毒とは思わず、毒と気付けた時には既に手遅れ。体内で毒を生成する能力と、超人の身体能力が組み合わさるからこそ可能な絶技。防ぐ術など万に一つもありはしない。

 「ガァ────ッ!!!!」

 防げないなら、破るまで。不可視の呼気という武器を放った【アリエス】に対し、敵が選んだ武器は……声。それも咆哮と言って差し支えない威力を内蔵した、音声の暴力。それが指向性を持って放たれた瞬間、後は速度の問題となる。即ち、先手を取った不意打ちより、後手に回った迎撃がそれを粉砕するという矛盾が発生した。

 軌道上に存在する一定以上の硬度を有した物体は、音もなく粉になった。粉微塵ではなく、まるで角砂糖を指で押し潰したように微粒子となって霧散する。物体が有する固有の振動限界、それを左右することで物理防御の一切を無力化する悪辣極まりない攻撃方法がこれだ。当然、硬度ではどう足掻いても劣る人体に直撃すればどうなるか?

 「ッ!!? ぁ────……!??!?」

 まず、聴覚から破壊される。指向性を与えられ、拡散することなく対象に到達した音波は、それを更に収束する器官を通じて鼓膜に無視できないダメージをもたらした。音を感じ取る感覚を殺され、体幹の均衡を司る三半規管はガタガタになり、増幅された超人の脳髄を焼き切らんとばかりに電流が奔走する。たった一瞬、刹那にも満たない攻防は、否、攻防と呼ぶ事さえ憚られる一方的な攻撃で、白羊宮は地に膝をついたのである。

 「【アリエス】さん!!」

 直前で互いの射線上から退いていた【アクエリウス】は辛うじて難を逃れたが、だからと言って彼だけが渦中から脱した訳ではない。むしろその真逆、唯一健在な障害物と認識され最優先撃滅対象に繰り上がったに過ぎないのだ。

 「────」

 赫怒を秘めた眼光が宝瓶宮を射抜く。これが“白鯨”、神話の怪物の名を冠した恐るべきモノ。ここにこうして立ち塞がっているという事は、必然として足止めに徹した【タウロス】と【ヴァルゴ】は既に斃されたということ。ここに増援や助力の類が来ることは無い。

 ナイフを取り出し、その切っ先が再び己の手首を捉える。一瞬の激痛の後、抉るように切り込まれた傷口から灼熱をもたらす鮮血が噴き上がった。しかし、安くない代償を伴うその行動さえ、この真性の怪物にとっては何の意味も持たない。

 「穢らわしいんだよ、『混ざり物』どもがァ……!!」

 “白鯨”は近付かない。己を害する要素が微塵でも存在するならば、彼は決して接近を許さないし、認めはしない。だがそれは彼が傷付くことを厭っての事ではない。彼からしてみれば、「わざわざ近寄ってまで仕留める理由」が無いのだ。吹けば飛ぶ、爪先で蹴飛ばせば視界から消え去る、そんな程度のゴミでしかない。彼我の断崖の如き実力差を弁えるからこそ、本気は出しても全力は出さない。

 この目障り極まりない塵屑の群れを一掃するのに必要な労力は、そう、「半歩」で充分だ。

 踏み込んだ足が大地を屈服させるのに秒も掛からない。

 「ぁう、ああ……!!!?」

 何が起きたか脳が理解を拒む。ありえないだろう。僅かに足先を伸ばした程度の爪先が軽く大地を踏んだ瞬間、まるで重量物を乗せた薄氷がそうなるように大地が悲鳴を上げて亀裂を生じさせたのだ。裂け目は大地の傷となり大口を開けて軌道上の全てを飲み込む深淵へと早変わり。当然、その真上に位置した二人の超人もまた、偉大な星の重力に従って奈落の底へと吸い込まれた。

 「落ちろ、墜ちろ、堕ちろ……。二度と這い上がって来るな」

 “白鯨”の、今度は腕が大地に突き刺さる。自ら生み出した割れ目の両端を挟むように突き立てた二本の腕は、即ち大方の予想に反することなく、一度は開けたその亀裂を今度は塞ぐという暴挙を可能とした。哀れ二体の超人は大地の奥底へと封じられ、虫のように地下を這いずることしか許されない。

 猛毒を生成する?

 ああ、それで?

 全身が炸薬の製造機?

 で、だから?

 何やらそれらしい理屈や小賢しい物言いで迷彩していたようだが、そんな物珍し気な小細工を弄している時点で的を外し過ぎている。圧倒的とはこう言うこと。搦め手やケチな小細工など必要ない。ただただ純粋な力だけが成立させる理不尽によって、常人を超えたなどと粋がる彼らは絶滅の憂き目を逃れ得ない。

 「────」

 ゴミの後始末を終えたことに僅かな充足感を覚え、それさえも刹那の内に忘却へ追いやりながら、“白鯨”は進撃を再開する。“白鯨”は何も見えない、聞こえない、知りもしない。ただ彼は決して忘れないだけだ。自らに傷を負わせた愛おしい存在を、そしてそれを奪い取った仇敵の存在を。

 一歩、また一歩と、破壊の王は街の中心を目指す。そこに敵の存在を確信しながら。





 かつて、この国には様々な事象を解き明かす科学者という人種がいた。彼等は理外の深淵を追及する魔術師とも、この世の真理を探究する錬金術師とも違う第三の求道者。解明した謎を利益に還元し万人に等しく供給することを使命とした彼らは、やがて国家運営の中枢に携わるようになるのに然程時を必要としなかった。時代が下り連邦が誕生してからもその活動は次第に活発になり、多くの国家主導プロジェクトの陣頭に彼等は立ち続けた。

 彼等が推進していた計画の一つに、疫病対策があった。決して恵まれているとは言えない北の大地では、多くの人間が厳しい環境や痩せた土壌に端を発する栄養失調、ひいてはそれらを起因とする病害によって命を落とす。手段やアプローチは問わない、どんな方法をもってしてでも人類を病毒の苦しみから救い出すことが彼らに課せられた使命であった。

 とある町、今はもう地図から消えた小さな町で、住民のほぼ全員が病死するという怪事件があった。全身に焦げ付いた炭のようなデキモノが吹き、消化器官や肺を冒され成す術も無く死んでいった。真相を究明するべく現地に入った彼らは、病魔の正体を探る以前に衝撃の光景を見る。

 唯一の生き残り……後に“57番目の検体”となる【アリエス】、この時は僅かに四歳だった。

 何故、この子は生き延びた? 同年代はおろか、脂の乗った健康な大人たちでさえ息絶えたのに。

 どうやって、この子は生き残った? 町に保存されていた食料は全て病原となっていた。その残り物を食い繋いで生き永らえたなら、なおのこと生き残った理屈に説明がつかない。

 調べなければ。経過を観測し、過程を検証し、結果を記録しなければ。

 そうしてまだ幼い彼は収容された。

 度重なる調査と研究の結果知り得た情報は、研究者らを狂喜乱舞させた。この幼子は「病を知らない」のだ。僅か四歳、最も病気に罹りやすい年齢でありながら、風邪はもちろん熱にうなされた経験さえ無く、そしてそれはこれから先も体験する事はないことが判明した。

 驚異の免疫力。汚染された食物をそのまま摂食しても、何一つ異常を来さない天性の肉体。風邪も、熱も、疱瘡、腸チフス、コレラ、黒死病に至るまで、およそ感染性の高い病全般に対する極端に高い耐性を維持し、奇跡の存在と言っても過言ではなかった。天啓、まさに掘り出し物。この世紀の大発見に誰もが興奮に沸き立ち、その存在を礎として未来の人民をあらゆる病害から守る指標とすることを決意した。

 記憶の中にある一番旧い記憶は、ベッドだけが置かれた純白の四方。それが【アリエス】の知る世界だった。

 人類の至宝、輝ける未来の礎……【アリエス】はそう称されるに足る存在であり、一生を封じられ余すことなく管理され、守られ続ける定めにあった。その仕組みが完全に解明された暁には、連邦人民は病理の苦しみより解き放たれ、彼自身も人類史に燦然とその名を輝かせるはずだった。

 (だが違った……違っていた)

 夢うつつの中で【アリエス】は否定する。己は希望と呼べる存在にはなれなかった。いや、そもそも資質から持ち合わせていなかった。本質を見誤り、開けたが最後絶望をまき散らすだけの禁忌の匣……それが己の正体だったではないか。

 希望は在らず。祝福は在らず。其は絶望と災厄を封じた悪の具現。

 「っ……あぁ!」

 全身を打ちのめす鈍痛が意識を覚醒へ引き上げる。徐々に明晰になる記憶が、自分はまだ生きているという事実を突きつけ、今置かれた状況についても再認識させられた。

 あの時、確かに自分達は引き裂かれた大地の奥底に落とされた。だが地面を割った亀裂は予想を遥かに越えて深く、押し潰されることなく廃棄されたこの空間に閉じ込めたのだ。同じように落下したはずの【アクエリウス】の姿が見えないが、恐らく死んではいないはずだ。彼が命を落としていれば「この程度」で終わるはずが無い。

 暗闇に視界が慣れる頃には、損傷を負っていた両耳を回復し、己が閉じ込められた空間の全容を把握できるようになった。なるほど、ここは地下水道だったのか。レジスタンスが壊滅した今となっては主人なき空き家。地割れに呑まれた瞬間はもう終わったと覚悟したが、どうやら幸運の女神とやらは己を見捨ててはいなかったらしい。

 「はっ……。神、か。随分と懐かしい夢を見た」

 神などという原始的ツールに対する信仰心など、とっくの昔に捨てたはずだった。厳冬と痩せた土地に生きる者らは、早い段階から神という存在が自分達の味方ではなく、高みに座しながら喜びを取り上げ苦しみをもたらし、罰と試練のみを与えるサディストであると気付いていた。主神に対する信仰は徐々に失われ、新魔王の台頭によって教団の影響力はゼロとなった。

 北海における宗教はそれによって絶滅した。だが正確には、「唯一絶対の神を信仰する教え」が廃れたのであり、実際には細々と新しい信仰が生まれていた。神という超常存在に帰依するのではなく、自らの、そして他者の善性を尊ぶことを是とし、悪性に堕ちることを否と唱える原始の教えが根付き始めていた。

 逆境に憂うことなく厳しさを受け入れよ。執着を捨て、我欲を抑え、規を範とし律し守り続ける。さすればその魂は磨き抜かれ、生まれや血筋に関わらず高貴に至る。

 生命に祝福を。精神に安息を。その魂に救済を。然る後にこそ……。

 「『黄金の安寧』には、まだ程遠いようですよ……“サンガ”」

 名、ではない。個人を表す名ではない。この北の大地にあっては馴染みが薄く、こことは違う別の土地ではまた違った意味を持つのかも知れない。だが今この単語について追及することに意味はない。かつて「サンガ」なる人物に教えを乞い師事したという過去がある、ただそれだけのこと。

 黄金は錆びず、朽ちず、滅びる事はない。正しき方向に歩み、善き研鑽を重ねれば、いずれ全ての人々はその境地に至るだろう。悩みも苦痛も無く、ただ凪の如き安寧の世が待つ。それこそが真の平和と呼べるのだと。

 「サンガ、あなたの唱えた理想に間違いは無いのでしょう。ですが、それを実践するには、この国はあまりにも未熟すぎた。環境が、土壌が、その下地となる全てが、あなたの掲げた安寧に至る妨げとなった」

 健全なる精神は健全なる肉体に宿るべき。同様に、正しい教えを実践するには、それを可能とするだけの環境にあってこそ可能となる。衣食足りて礼節を知る、足りない尽くしでは何をするにも事欠くのが実際のところ。

 だからこそ、今こそ「平等」が必要なのだ。全てを平らに均し、誰も彼もが同じスタートラインに立てるよう、そして誰もが同じ地平に並べるように。それこそが「救い」。この縋るべき縁のない現世において、ヒトが辿り着ける安寧への階はもうそこしかあり得ない。

 その為に、かつての少年は超人となった。普遍にして不変なる安寧に至る為、その前身となる平等を世に実現するために、彼は生き恥を晒し続ける。

 「……っ」

 不意に、夢想から意識が引き上げられる。拡張された五感が己以外の存在、その残滓を確かに感じ取っていた。

 いる。この閉鎖された空間には自分以外の何者かが、隠れ潜んでいる。あるいは、潜んでいた。増強された感覚器官が、空間に残った僅かな匂いと、奥から反響する微かな音がその存在を教えてくれる。そして脳に流れ込むそれらの情報が、今己の置かれている状況と併せ、電光石火の一条の光となって全ての点を線へと繋いだ。

 「ここへ逃げたのかっ……!!」

 盲点、まさに死角。一度は逃げ出した古巣を、踵を返し更なる逃走の退路とした。燻し出され、追い回された哀れなネズミが、まさかよりにもよって堂々と戻ってくるなど誰が想像した?

 「……いいだろう。どうせ行き先は同じ地上だ。付き合ってやるとしよう」

 幸いここからは一本道。先の戦闘の余波を向こうも感じ取っただろうから、ここから先は暗闇の中を追う者と逃げる者に分かれて行動することになる。

 皮肉なものだ。もし地上で何事も無ければ、自分達は地下という盲点に気付くのに時を要し、その間に敵は逃げ果せただろう。だが実際は“白鯨”の馬鹿げた力によって道をこじ開けられ、他でもない味方の手によって相手は追い詰められようとしていた。

 天はまだ見放してはいなかったのだ。起死回生、挽回の機会はまだあった。

 「お前達は、癌だ。今の旧い世界に固執し、新たな世界の到来を拒絶する悪性の塊だ」

 だから、発展のために切除する。かつて誓った約定、この身の全ては人類の進化のために捧げるという契約。己が身に課したそれを履行する為に、白羊宮の名を冠した男は止まる事はしない。

 斯く在れかし。星の輝きとは、それ即ち己の燃焼也。





 「あの野郎、やってくれやがった……であるな」

 距離をおいた暗闇の中で、魔術師イルムは毒づいた。地上で起きた戦闘の余波は既に逃走していた彼らの元にも届き、遠くで起きた出来事を想像することに難は無かった。そして常に周囲に展開している感知式結界の反応が、自分ら三人以外の何者かがこの空間に降りてきた事実を教える。

 「あの男が我輩の予測通りに動いた試しなど無かったが、今回ばかりは流石に恨むぞ」

 「直に向こうもこちらに……いえ、もう勘付いているでしょう」

 「ど、どういうことですか!?」

 「説明は後である。貴様はとにかく、ここから先の道をキリキリと教えるのである」

 【アリエス】の見立て通り、イルムは確かに転移の術を行使していた。彼はそれを小屋のすぐ真下を通っていた地下水道に向けて使い、瞬時に他の二人もつれて逃走、見事姿隠しを成し遂げた。

 だが、よりによって敵に追いついた“白鯨”の行動により、予測をずっと上回る短時間で逃走経路が特定され、今の彼らは細道を追い立てられる番になっている。

 「まったく、あいつは人の都合なぞお構いなしであるな。我輩らが下に潜り込んだことなど、とっくに分かっているだろうに」

 「これは体よく押し付けられてしまったみたいですね」

 「そんな悠長な……」

 ユーリィを先頭に、一行は暗闇の中を数珠繋ぎに駆けていく。遅れは許されない、少しでも足を緩めれば捕らわれる。あの毒性の怪物を知るイルムにとって、追い付かれれば即死を意味することは重々承知。それを伝え聞いている他の二人も同様の認識だ。体内で劇毒を生成する人間など常識の埒外、自分をフグか何かと間違えているとしか思えない。

 幸いにも勝手知ったるこちらと違い、相手は地下に不慣れ。しかもこちらは常に結界を纏いながらの移動、もし仮に接近や先回りを許しても、こちらは別のルートで迂回できる。完璧に保障された安全ではないが、それでも今の所のアドバンテージはまだ逃亡側にあった。



 その安全は、そこから僅か二分で「爆砕」された。



 幾度目かの角を曲がった刹那、ユーリィの鼻先を熱波がかすめた。すぐ背後にいたカマリが襟を掴んで引き寄せなければ、壁を突き破った熱量によって丸焦げとなっていただろう。

 爆煙の中から、とてもその光景に似つかわしくない陽気で幼げな声が響く。

 「あぁー、やっぱり! 匂いを辿って来てみれば!」

 その燃焼から火薬の臭いはしない。代わりに香るのは、咽るような息苦しさ。ここにいる面々でそれを一番嗅いだことがあるのはユーリィだ。今日が始まって半日足らず、もう散々嫌になるほど嗅いだその臭いは……。

 「いち、に、さん……大漁ですね。こんな豪勢なのは初めてです」

 腕、脚、首……およそ重要な血管が走る部位を残らず切り刻み、垂れ流される液体をまき散らしながら、「それ」は現れた。ぼたぼたと流れ落ちるそれは地に触れた瞬間に燃え上がり、秘めた熱量はこの地下水道を火の海に変えてなお余りあるものだった。

 「馬鹿な。周囲の結界に感知されずにどうやって……」

 「あー、あなただったんですね! 何だか『美味しそう』だったんで、ついつい頂いちゃいました」

 超人の再生力で塞がる傷口を、人懐こい敵意など欠片も感じさせない微笑みを浮かべ、ナイフで何度も抉りながらこちらに接近して来る。その姿と在り方は最も兵士らしからず、しかし、だからこそ、その純粋さを維持したまま能力を授ければ狂気を孕んだ生きた兵器の完成だ。

 「もっとごちそうしてください。ぼく、今日はまだ何も食べれてないんですから」

 前門の宝瓶宮、後門の白羊宮。

 魔術師と吟遊詩人と少年。“白鯨”に遠く及ばぬ只人の身でありながら、彼らは人智超越の超人兵士に挟み撃ちにされようとしていた。

 血の滴る音と、舌なめずりが暗闇に木霊していた。
18/09/23 01:38更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
生存報告を兼ねた久々の更新。

Q.魔物娘マダー?
A.彼らが別のチームと合流するまで待ってほしいのだ。

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