第6話 乙女繚乱【メルトスルー・ヴァルゴ】
その日、普段通りの生活を営む大部分の人々は、自分たちが住まう家屋が揺れ動くのを感じた。
地震だ。大陸特有の地理ゆえに数えるほどしか経験したことが無いが、地を揺らすそれは確かに地震だった。僅か数秒ほどの小さな揺れだったが、それでも少なからず人々の動揺を誘ったことは否定できない。
特に大きな被害も出すことなく地の揺れは一時の混乱をもたらすのみに終わった。
何も壊れていないし、誰も死んでいない。大災害は発生しなかった。人々は少しすればその恐怖を忘れ、日を跨げば完全に忘却してしまうはずだ。
しかしこの災害が天の気紛れではなく、文字通り人の手によって引き起こされた「人災」と見抜いた者は数少ない。
魔人の鉄拳は、凄まじきの一言に尽きた。
超人がその剛腕を振るって地を掘削したのは確かに驚異的だ。人間の体はそのように出来てはいないし、仮に道具を使ったところで地を刳り貫く一撃には敵うはずもない。
だが、それに対しても魔人の一撃は輪を掛けて強大に過ぎた。
超人が力任せに何度も繰り出して形成した地の窪み。都合三十にものぼる殴打の果てに作り上げた大地の傷痕。
それを、一発で「上書き」していた。
新たに創られたクレーターの直径は、超人が作ったものの優に倍、周囲の雪が弾け飛んだ剥き出しの凍土を含めれば四倍にもなる大盆地。大量の炸薬が爆発したかのような大惨事が、二人の力比べの趨勢がここで如実に表れていた。
穴の中心には魔人……“白鯨”だけがいた。
「…………」
敵対していた超人は影も形もない。引き抜いた拳の着弾地点からは刹那に圧縮された水分が蒸気となって沸き昇り、もはや相対した敵の肉体など消滅せしめたかに思わせた。
事実、その周辺には肉塊はおろか髪の毛一本たりとも残ってはおらず、あれだけ大量に流した血さえも消え果ていた。
故に“白鯨”は確信する。
「逃げたか」
炸裂した拳に何かを殴り抜いた感触は無かった。にわかには信じ難いが、あの一瞬にも満たない時間の内に逃げ果せたのだろう。だがあの重体が死力を振り絞った程度で逃れ得るとは到底思えない。
ならば……。
「どこだ」
あの状況で連れ去った仲間がいる。
それをどうする?
決まっている。
「曳き潰してやる……!」
乱入した者がどこに行ったかは分からないが、問題は無かった。
既にその赫眼は行方を捉えていた。
水が好きだ、と親しい者に言ったことがある。
水は何もかもを流して清める。触れたくない汚濁も、饐えた悪臭も、目障りなおどろおどろしい色合いも、全てを流して清めてくれる。
自分の体が嫌いだ、と誰にも明かしたことは無い。
流れる涙が嫌いだ。湧きだす唾液が嫌いだ。滲み出る汗が嫌いだ。
股座から排泄されるものが嫌いだ。胃に溜まり込む酸液が嫌いだ。我が身を駆け巡る血液、もはやその事実にさえ発狂しかねない。
人は誰しも汚濁に塗れている。拭えない、消せない、滅せられない……人が人として生きる限り、その懊悩からは逃れられない。断言できる。地上に蔓延る何百、何千万という生命は須ら穢れているのだと。
【ヴァルゴ】は、その苦しみから逃れた唯一の存在だった。
「んっ……しょ!」
住人がいなくなり廃屋となった一軒の建物、その一室に【ヴァルゴ】は身を寄せていた。
彼女だけではない。その細い肩には、つい今しがた絶体絶命の危機から救い出した【タウロス】を引っ提げていた。全身を覆っていた甲殻は解除され、疲労困憊のその巨体を彼女はようやっとベッドに投げるように横にさせた。
休ませるのが目的ではない。ここには彼を、「治療」しに来たのだ。
「これは……ひどい」
仰向けにさせたことで傷の全容がはっきりする。抉られた箇所は頭がすっぽり入りそうなサイズで、ぐねぐねとした腸が覗いていた。出血というよりは泉水の如くに血が溢れ出し、これが医者の見立てなら遠目から見ただけで匙を投げる部類だ。
とはいえ、幸運なことに傷は内臓にまで達してはいなかった。ならばまだ救いようは有る。
「【タウロス】、ちょっと我慢して」
手袋を脱ぎ捨てて解放される手、それを傷の上にかざす。するとその手から水が溢れ出し、傷口へと降り注いだ。
水は傷口から溢れることなく水分特有の流動性を保ったまま球の形状に落ち着き、その内部に血の流れを留め置く。さしずめこれは「かさぶた」、傷を内部に閉じ込めてしまえば出血量は関係ない。
更に【ヴァルゴ】はもう片方の手から、ある物を取り出す。それは幻想的な光景だった。手の上には水でできた球が浮遊しており、それが魔術ではなく彼女の肉体機能の延長としてそのように動いている様子を表していた。
その水の中に封入された物が見える。それは逃亡の際にすかさず回収しておいた、【タウロス】の抉られた肉片。潰されて見る影もないが、これが有るのと無いのでは大違いだ。
鍋料理でも煮込むかの如くそれを傷口に投入する。流体を操作して肉片をそれぞれ正しい配置に戻せば、あとは持ち前の治癒力でガワだけでも再生するだろう。
何はともあれ一命は取り留める。しかし……。
「これって……まずい、かも」
【ヴァルゴ】の予感は的中した。それも最悪の形で。
今ようやく分かった。日の目を見ない後期型のロールアウトを待つように上層部から通達されたその理由が。
数を揃えなければ勝てないからだ。
そのコンセプトからして超人は「格上」との戦いを想定していない。いや、言い方が違うか。格上の存在、それ自体を想定して創られてはいないのだ。
来たる南下作戦に向けて製造された以上、その仮想敵は南の国々の兵士、もしくはこちらを篭絡しようと前線に出る一部の魔物娘のみだ。前者なら束になろうが制圧できるし、後者でも相性次第では二体を同時に相手取っても勝利するだろう。
だが、単純に強い相手とは、そもそも単騎で戦うという選択肢が誤っているとしか言いようがない。単独で戦況を左右すると評されておきながら、十二もの数を用意しなければいけなかった理由がここにある。
「まずい……。まずい、まずい」
あれは、いけない。
駆け付けた【ヴァルゴ】は“白鯨”の異常な戦闘力を目の当たりにしてしまった。勝ち負けを論ずる以前に同じ土俵に立てる要素が微塵も無い。
特に何をおいても【タウロス】との相性が悪過ぎる。基本戦術が腕っぷし頼りの彼は、それこそ圧倒的格上に対処する方法を何一つとして持ち合わせない。これが【アリエス】と【アクエリウス】なら話が違うだろうが、それも対処可能というだけで結果は恐らく同じだろう。前者なら「時間の問題」、後者なら「万に一つ」という程度の差だ。
結論を言うと、現状のゾディアークでは四人全員で掛かろうと勝ち目はない。
そんな規格外の怪物を相手取れと命じられた、その真意を知ってしまった今の心境は……言わずもがな、か。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。
「ぐっ……。ああ……!」
「っ、【タウロス】!?」
覚醒に至った体が身じろぎする。さすがは超人、腹を抉られて気絶で済ませてしまっている。
「おお……【ヴァルゴ】ォ……。俺の腹ぁ、どうなって……」
「見ない方がいい」
「そうかぁ……」
即座に応急処置用の鎮痛薬を打ち込む。覚醒と共に興奮した神経が激痛を認識する前に、彼が落ち着いている間にその気力を削いでおく必要があった。でなければこの男は後先考えずにまた突っ走る可能性があった。
「【アリエス】と合流する。いい?」
「待てよ……俺は、まだ」
「負けた。何度目? 今日たった一日で、あの怪物に何回負けた?」
「…………」
「でも、仕方ない、仕方ないことよ。あんなのどうしろっていうの」
二人の間に漂うのは諦観だ。圧倒的、という言葉が持つ意味をそのまま見せつけられた時に人が感じる最後の感情。それは直接戦わなかった【ヴァルゴ】でさえ強く感じていることだ。
仕方がない。どうしようもない。自分達では手に余る。
そうだ、そういうことなのだ。
「そうだなぁ、しゃーないよなぁ……」
「上の判断を待つ。さすがに上層部も目に見えて無茶な作戦を押し付けたりは……」
「そうだな。それが一番いいに決まってら。それは、そうとしてだ……」
「また『負ける』のを許せってのか」
金牛の闘志は未だ冷めず。その事実を前に、今度こそ【ヴァルゴ】は痺れを切らした。
「いい加減にっ、して! もうたくさん! あなたの無茶に引きずり回されるのは、もう嫌っ!!」
「そりゃあ、悪かった。訓練兵時代からだもんなぁ。お前には随分と迷惑かけた本当にすまなかった。だが、今日で終わりだ」
「何言って……!」
「つるんでた昔馴染みがここまで腰抜けだったなんてなぁ。情けなくって涙が出るってもんだ! これじゃあ何の為に“超人”になったのか分かりゃしねえ!」
「っ! 言っていいことと、悪いことが……!!」
「なら聞くがよ、【ヴァルゴ】。てめぇは『勝ち』たくねえのかよ」
その質問は、水乙女の核心を突いて余りあるものだった。いや、恐らく、他二人の超人に同じ問いかけをしたとしても一様に同じ反応をしただろう。
そんなこと、決まっている。
「『勝ち』たい」
生まれも育ちも、ここに至るまでの経緯全てが何もかも違う自分達が、唯一確かに共有する真実があるとすれば……それはこの、飽くなき勝利への渇望を除いて他には無い。
身の上話に興じたことも無ければ、そこまで親しくなった覚えも無い。互いの過去に微塵の興味はもちろん、そもそも自分の領域に踏み込まれること自体を好まない。だがそれでも、この想い一つを胸に抱いているのは確かであった。敵に、歴史に、運命に、それぞれ完全かつ完膚なきまでの勝利を望んだからこそ、人を超えた存在を夢見たのだから。
そして勝利の欲求は男達だけの特権ではない。むしろ紅一点として超人の列に並び立つことを許されている事実が、彼女の中に秘められた渇望の強靭さを示しているとも言える。
「別にお前のこれまでなんざ知ったことじゃねえが、俺らの過去なんてのは大概同じもんよ。生まれとか育ちとか、環境やら何やらで落ちるとこまで落ち切って、挑戦することさえ許されなかった敗北者風情の寄せ集めだろうが。今更立派にご高説垂れて選り好みできる立場かよ」
心底呆れたような口振りではあるが、今この場に限ってその言葉は真実を当てていた。そうだ、自分たちは今更になって「戦場」を選べるなどと、そんな上等な存在ではないのだから。
「いい加減気付けぇ!! これはお前が思ってるような窮地じゃねえ。むしろその逆、チャンスなんだよ。負けに負け込んだてめえのこれまでを、一気に取り返して勝ち逃げするチャンスだろうが!! んなことも分かんなくなっちまったってのか、ええ!?」
「わた、しは……!」
「こう見えて、お前のことは買ってたんだぜ? それが、見たことかよ。脳ミソ溶け出したか? 股の間から垂れ流してんじゃねえぞ!!」
罵倒されているが、それと相反して頭の中は冴えていった。
そうだ。彼の言う通りだ。自分達にはもう一本道しか用意されていない。およそ善意とは程遠い、欺瞞と虚栄と冒涜で舗装された片道切符の街道だけが。苦難という宿場が設けられたその道を突き進むには、勝利あるのみ。それ以外に達成される道理はない。
だからこそ……冷静に俯瞰できる。
煙は空に昇り、雨は地に落ち、光照らされる影は消え去るが定め。こう、と定められた法則には何者であっても抗えない道理がある。ジャイアントキリングなど存在せず、強きに弱きは敵わないというのは赤子でも知っている常識だ。
「【タウロス】、やっぱり私は……」
降りる……そう言おうとした。
「…………えっ!?」
不意に、【ヴァルゴ】は何かを感じ取った。
彼女は常に自分から分離させた液体を周囲に拡散させ、それらを一個の巨大な感覚網として使いこなしている。いわば蜘蛛の巣、そこに入り込んだ異物の一つひとつを個別に感知する高性能感知器だ。
それが、潰された。
感知に引っ掛かったのではない、「潰され」たのだ。まるでその部分を無造作に破り捨てたが如き強引な破壊の痕跡を、【ヴァルゴ】の感覚網は最後に捉えていた。
否、最後ではない。
「え、うそ……。なにこれ!?」
一点のみで起こったと思われた破壊現象は、刹那に怒涛の勢いで拡大を続ける。一つが二つに、二つが四つになり、その破壊痕は倍々に増加して【ヴァルゴ】を追い詰め始めた。そしてその破壊傾向は、ある一つの恐るべき事実を彼女に突き付ける。
「こっちに……近づいて、くる」
間違いない。偶然などではない。この破壊をもたらす元凶は、ただ無作為に、たまたま目に付いたから潰しているのではないのだ。揺るぎない確信……ここに獲物がいると分かっていて接近する捕食者の進撃なのだ。
張り巡らせた感覚網は蜘蛛の巣と表現した。しかし、この場合における「蜘蛛」は【ヴァルゴ】ではなくなっていた。
もはや彼女は餌。否、餌であることさえ許されぬ屠殺対象へと成り下がろうとしていた。
災害が起こる数日前にネズミを始めとする小動物が異常な行動を見せるというのは、古今東西で聞いたことがある話だ。自然の中で生きる彼らには災害を予知する力があり、洪水や地震が発生する予兆を感じるとそこから逃げようとするのだとか。
それを踏まえた上で、“白鯨”は何ら特別な行動はしていない。
彼はこの国に乗り込む以前からずっと自然体で、何も飾る事も削ぎ落すこともしていない。ただそこに在り、ただ目的地に向けて移動する。生物として当たり前に行われる移動行為だが、こと“白鯨”がそれを行えば付随する意味合いが大きく変わってくる。
彼は無人となった街の一区画を歩いている。彼が足を踏み入れるほんの五分前に、ここは無人となった。
人避けの呪いは掛けられていない。もとより彼は魔術を使わないし、その方法も知らない完全な門外漢だ。かといって鏖殺したわけでもない。二世紀ほど昔ならいざ知らず、今の彼は手当たり次第に肉塊を叩き潰して周るほど暇ではなくなっている。
答えは簡単だ。
住民は避難したのだ。速やかに、慌てず、混乱の一切を引き起こす事もなく、潮が引けるかのように生活の場を捨てて逃げ出したのだ。
ある者は急な用事を思い出した。
ある者は離れた所に住む親戚を訪ねに行った。
またある者は、特に大した理由もなく散歩でもしようかと家を出た。
それらは決して、意識的なものではなかった。偶然や些細なきっかけが重なり、彼ら彼女らはそれぞれの理由でその場を離れた。それが百数十人規模で発生した集団失踪の真相だ。
彼らは無意識、本能の領域で理解していたのだ。「ここに居てはまずい」と。明確にそれを認識していた者は誰もいないが、それは逆に言えば無意識に刷り込まれるほど巨大な圧を全ての住民が感じ取っていた証左だ。
所要時間およそ十五分。最後まで誰一人として自らが逃走しているという意識すら持たないまま、前代未聞の「自主的避難」はここに完了した。
「…………」
風の音だけが満たす空白の街を往くのは、白髪悪鬼。つい数分前まで人々が行き来していた往来が、今は彼一人が支配する空間となっていた。
天変地異の擬人化の如き彼だが、その存在が災害と異なるのは唯一点、彼自身の意志で自律した行動を取っていることに尽きる。災害はただそこに発生するだけで、行き当たってしまえば不幸と思って過ぎ去るのを待てば良い。だがもし災害そのものに意志があり、明確な目的を持って自律行動したならば、途端にその危険度は跳ね上がる。
「…………」
ふと、その足が止まる。目の前に障害物は無く、一見すればその移動を止める要因はどこにも無いはずだった。
しかし、“白鯨”の眼は邪魔者の存在を鋭く感知していた。
「…………ハァ」
息を吐き出す。ギリギリまで肺を萎ませた吐息は長い蒸気となって虚空に消える。そして吐き出せば次は吸い込む動作が必要となり、肺活量の限界まで外気を取り込んだ上半身が描く逆三角形は今にもはち切れんばかりだった。
そのはち切れんばかりに膨れ上がった上半身が、一瞬元に戻った次の瞬間……。
「ッボッッッ!!!!」
口から何かが飛び出した。
何かとはなんだ。そんなこと、決まりきっている。限界以上に吸い込んだとなれば、反転して余剰分を吐き出そうとする。当然の帰結がこの怪物の体内でも同様に起こっただけのこと。
吐き出された空気の弾丸が大地を穿ったことを除けば、だが。
視線の先、僅かに俯いた頭部が見据える先の地面には、真新しい穴が開いていた。小指が入るかどうかの小さな穴からは湯気が立ち昇り、底は見えない。高温かつ質量を持たされた高速の何かが穿孔した造形だ。
即ち、“白鯨”の吐息に他ならない。体内で圧縮された空気は急激に加熱され、人体の細胞が耐え得る限界まで高熱化したそれを射出。原理としては銃身、あるいは竜種の火炎に近い現象。
その威力は推して知るべし、たった今そこに潜んでいた邪魔者を「蒸発」させた。
「うざったいなぁ……」
地面の下、凍った大地の中を蠢く何かがある。モグラではない、強いて言えば「虫」。縦横無尽、自在に動き回る存在を感じ取った“白鯨”は……。
「ボッッ!!」
射出。
「ボッ!! ボッッ!! ボゥッッッ!!!」
射出。射出。射出。
雪を一瞬で気化させ凍土を貫通する空気弾の連続発射に、眼前の地面がハチの巣となる。一見当てずっぽうに発射しているように見えるだろうが、実際は百発百中、土中の潜伏者を悉く狙い撃っている。
ある程度撃ち込んだところで、ようやく“白鯨”は射出を止めた。この付近に潜んでいた「虫」を一匹残らず蒸発させた彼は、自ら開けた穿孔痕を睨みつけ、その正体を看破した。
「水……か」
溶かした土の断面から僅かに沁み出す水分。この気温、永久凍土の土中において氷結しない水分など有り得ない。つまるところ、これは小賢しくも敵が用意した何かの仕掛け、あるいは罠と見るべきだ。残された痕跡にしては微小、およそそれを足掛かりに居所を突き止めるのは至難の業だろう。
「そこにいるな」
“白鯨”には関係ない。
例えその痕跡が微小微細であろうとも、砂漠の砂に紛れた芥子粒だろうとも、水に溶けて消えた砂糖粒だろうとも、関係ない。
その眼は彼方を捉え。
その耳は千里を拾い。
その手は万物を掴む。
痕跡ひとつを残した為に、もはやこの下手人の運命は定まったも同然だった。もう彼の頭の中は、現れる第二の敵をどう潰すかしか考えていない。
一歩踏み出すたびに足元から蒸気が上がる。怒りに呼応して水分が蒸発し、その行く手を阻むものは存在しないはずだった。
だから、柄にもなく驚いてしまった。
「止まり、なさい」
「…………」
“白鯨”の長い歴史において、追っている相手が自分から姿を見せたことは数えるほどしかない。その稀有な例がたった今目の前に出現したことに、彼の脳髄が一瞬クリアになる。
強大な眼力を宿した双眸が敵対者、目の前に立ち塞がった乙女を見据えた。
「っ、ゲオルギア連邦陸軍、超人小隊『ゾディアーク』第二号! 【ヴァルゴ】!!」
赫眼は刹那の内に敵の全てを暴き立てる。そしてその上で“白鯨”はほぞを噛むように苦々しくこう吐き捨てる。
「面倒な……」
「よう、遅いお着きで」
「【タウロス】!」
治癒をかねて潜伏している家屋に入って来たのは、今一番顔を合わせたくない者だった。どうやってこの場所を特定したのかと訝しむが、入れ違いでここから飛び出していった【ヴァルゴ】がやったのだと今更ながら気付く。
最初からそうしていればこのような醜態を晒すことも無かったのだろうが、この期に及んで【タウロス】は未だに【アリエス】との共同戦線を拒んでいた。
「臆病風に吹かれた暫定隊長様は、やる事なす事がみみっちい上に遅いときたもんだ。あんたがチンタラやってる間に、俺はとっくに仕掛けたぜ」
「それでこのザマか! 呆れて物が言えないよ」
「そいつはどーも。おい、【アクエリウス】。痛み止め無いか? 【ヴァルゴ】の奴ぁ、俺をおいて先に逃げやがって……!」
「逃げた? どこへ?」
「知るもんか。急に怯えだしたと思えば、飛び出して行きやがった。ほんの五分足らず前のことだよ」
「逃げた……だと?」
【アリエス】は訝しんだ。
現状において、“白鯨”を目の当たりにしているのは【タウロス】と【ヴァルゴ】だけだ。その上で敵に対する脅威と危険性を真に理解しているとなれば、【ヴァルゴ】だけがその条件に適っている。
その【ヴァルゴ】が逃げ出した?
まさか、というのが【アリエス】の率直な感想だった。
【アリエス】は彼女の内情や性格、主義主張の一切を熟知しているわけではない。だが自分達ならともかく、一番の付き合いである【タウロス】を手負いのまま放置して自分だけ逃亡を図るほど落ちぶれたかと言われれば、素直に否と返せるだろう。現に彼女は自分から伸ばした端末を用いてここに呼び寄せた。傷付いた【タウロス】を回収させるためにだ。
その彼女が我先にと逃げた? 【アリエス】にはそこが信じられなかった。
だが逆に、逃げたのではないのだとしたら?
自分たちが来た方向とは逆の向き……つまり、本来逃げるはずの道を引き返して、だから駆け付けた自分達と出くわさなかったのだとしたら?
「うちに腰抜けが二人もいやがるとはな。って、おい!! どこ行くつもりだぁ【アリエス】ッ!」
ひとつの事実に予測を立てた【アリエス】の突然の行動に【タウロス】も面食らう。なにせ彼は何も聞かずに外に飛び出し、そのまま戻るそぶりも見せないまま駆け出してしまった。
まさにここに回収に来た【タウロス】がいるにも関わらず、だ。
「糞野郎どもがぁーっ!! どいつもこいつも、戦いもせずに逃げ出すってのか!!!」
激昂する【タウロス】だが、彼は動けない。その傷が完全に癒えるまでまだ時間が掛かる。闘志冷めやらぬ彼の矛先は、この場に唯一残った【アクエリウス】へと向けられた。
「こうなりゃ仕方ねえ! おい、【アクエリウス】! お前は違うよなぁ!? ゾディアークなら、超人なら戦って見せるだろぉ!!」
「なんで……。なんで、分からないんですか」
「何がだ!?」
【アクエリウス】は……涙していた。恐怖ではない、哀しみで泣いていた。
戦士として未熟ではあるが、同時に聡明でもある彼はもう気付いていたのだ。なぜあの【ヴァルゴ】がここから姿を消したのか。なぜ傷付いた【タウロス】を放置しなければならなかったのか。それらの謎の答えを知り得ていたからこそ、心幼き彼は涙を流す。
そしてその事実にただ一人、【タウロス】だけが気付けていない悲劇を哀しんで。
「あの人はっ、あなたを守るために行ったんじゃないですか!!」
ゾディアークの間に、団結はあっても仲間意識は無い。それはきっと、まだ見ぬ七人も同じことだろう。
ただ二人、【タウロス】と【ヴァルゴ】を除けば。
物事には大なり小なり必ず「相性」というものが存在する。火に対する水であり、光に対する闇であり、男に対する女。不等号やイコールで結ばれる、様々な事象の行く末を左右する因子だ。
率直に言えば、“白鯨”にとって【ヴァルゴ】は相性が悪かった。苦手、と言い換えても良いだろう。
「ここから先には進ませない」
それまでの“白鯨”なら、こんな啖呵や大見得を切らせる前に速攻で叩き潰していただろう。目の前の敵は明らかにさっき退けた男と比べて、柔で華奢なのは一目瞭然、万に一つも“白鯨”に負けは有り得ないはずだった。
しかし、彼は動かない。
肌に水滴が浮かび上がり、やがては全身から濁流の如く水を放出し始める【ヴァルゴ】を前に、人型災害は一歩も踏み込む様子を見せない。
「来ないなら……!」
痺れを切らした水乙女が先に仕掛ける。振り上げられる腕は指揮者の操演、その動きに合わせて足元に形成された溜め池が沸き立ち、瞬時に何かを射出した。
迷いなく頭部を狙って放たれた一発を難なく回避する“白鯨”だが、その眼は自分の直感が正しかったことを既に証明していた。
「……水弾」
髪が、切れていた。奇しくもその攻撃方法は、先ほど“白鯨”がやって見せた空気弾とほぼ同じ。瞬時に圧縮した液体を一定の方向に開放することで相手を撃つ、単純ながらも理に適った戦闘方法だった。
しかし、“白鯨”が暴いた秘密は攻撃の手段に留まらない。
「逃しはしない!」
かつて神代が終わり、主神一強時代の黎明期、当時最も多くの人類を殺した魔物は何だったか?
竜ではない。確かに強大だが、彼らは基本的に縄張りを離れない。自らの財宝に手を付けない限り、そもそも遭遇自体が稀なケースだ。
デーモンでもない。強欲な魂を餌として厳選する彼らは、虐殺から最も縁遠い種族だ。人間の欲望こそが飯のタネであり、むしろそれを助長する為に行動する。
その他、猛威を振るった魔物を挙げろと言われればキリが無いが、それでも有史以来、その遭遇率と被害数という両面において当時の「彼ら」を上回るものは存在しない。
彼らは平原にいた。
彼らは森にいた。
山にもいた。海にもいた。
湿原に、砂漠に、洞窟に、未開の迷宮に……そして「彼ら」は時として街に雪崩れ込むことも多々あった。
多数にして不定形、あらゆる場所に隠れ潜み、一匹でも取りこぼせば瞬く間に大繁殖。歴史上、最も人類を苦しめたその種族は……。
「粘水種(スライム)か」
もはや【ヴァルゴ】の周囲に雪は無い。その全身からしみ出た液体がそれらを溶かし、彼女の一部、領域へと変化させていた。
スライム、と言えば冒険譚や伝承においては端役ですらない、雑魚と言っても差し支えない扱いを受けている魔物だ。だがそのタチの悪さは多くの記録に克明に描かれている。
全身が水、この時点で斬る・打つ・殴るが主体の戦闘は望めない。こちらがどれだけ武器を叩き付けようと相手は水、その悉くを受け流し無効化し、あらゆる攻撃は致命傷とはなり得ない。上手く核を砕ければ良いが、そうでなければ仕留め損なう内に増殖し、物量で押し潰される未来が待っている。
加えて厄介なのは、その液質。スライムは己の肉体を構成する水分の性質を自在に操り、その容量や粘度はもちろん、何重にも積まれた鉄板を容易に溶かす腐食性を纏うことも出来る。こうなってしまえば手の付けようは無く、希少な貴金属をふんだんに用いた防具を持たない限り、攻撃はおろか防御さえもままならなくなる。
もうここまで述べれば理解が及ぶことだろう。
【ヴァルゴ】は、今列挙した全ての特徴を兼ね備えている。
「ここで仕留める。あなたは、この先には行かせない!」
水乙女の周囲に溢れ出す液体は既に水ではなくなっていた。強烈な酸性を秘めた腐食液へと変質を果たしたそれは、刺激臭をまき散らしながら版図拡大を続ける。一度触れれば皮が剥がれ肉は溶け、骨が髄から腐り落ちる猛毒泉湖の現出だ。流石の“白鯨”と言えども肉体を構成する素材は常人と同じ、一撃でも喰らえば致命傷は免れない。
はっきり言ってしまえば、“白鯨”にとって【ヴァルゴ】は最も苦手な手合いだった。
「面倒な……」
魔術師ではない“白鯨”は直接的な対抗策を持たず、距離を置くことで打開策を練る猶予を得ようとする。もちろん、それを逃す【ヴァルゴ】ではない。
「っ!!」
手の動きと共に水が隆起し、地上の大波となって襲来する。雪を溶かし、小石を融かし、毒のガスを噴出させながら突き進む猛悪な波濤が“白鯨”を追い詰めんとする。
厄介だ。果てしなく厄介だ。
指先程度なら先のブレスの要領で消し飛ばせる。だが相手が人体、ましてや増殖を繰り返しそれ以上の体積を獲得した状況では、同じ方法では圧倒的に出力が足りない。それこそ本物のドラゴンブレスでもなければ蒸発させるなど不可能だ。ましてこうしている間にも、その体積は加速度的に増えつつある。
だがそれはあくまで、全身をやろうとした場合だ。
「ボッッ、ボゥッッッ!!!」
瞬間、二連撃。放たれた不可視の銃砲が水乙女に着弾する。箇所は正確無比に眼球を撃ち抜き、灼けた鉄が水に浸けられたような蒸気の音が上がった。
「ギ……!!?」
顔面の二点から白煙を上げて【ヴァルゴ】の顔面が大きく仰け反った。これで視界は潰した、更なる反撃に転じるべく“白鯨”の拳に力が溜まる。
「あ、まい!!」
突如、水流がうねりを帯びて襲い掛かった。波濤は水乙女の意志を受けて自在に動き、両目を潰されたことなど関せずとばかりに“白鯨”に飛来する。間一髪それを回避した“白鯨”の代わりに、先ほどまで彼が立っていた場所に人ひとりが埋まるほどの大穴が開いた。
「目を潰したのは、いい判断だった」
仰け反っていた頭が元に戻ると、眼球の備わっていた部分が露になる。熱を帯びた二つの洞穴は激しく泡立っていたが、少しするとそれは収まり、二つの器官は何事も無かったかのように再生を果たしていた。
スライム特有の再生能力。例え大部分が欠損、摩耗しても瞬く間に増殖し、代替部分を生成、それを新たな器官として復元する力だ。
「全身が目。全身が耳。たとえ頭を潰しても、わたしの腕はあなたを捉える」
人の形は、ガワに過ぎぬ。此れこそは、人工的に太古の粘水種の力を与えられし液状化人間。索敵・偵察・暗殺に長じた連邦謹製超人第二号『処女宮』、【ヴァルゴ】の真骨頂。
人の身では抗えぬ。人の身では乗り越えられぬ。
此れなるは超人。「人」を「超」えしモノ。
「あなたは、私に負ける」
湧き立つ毒液の波は海嘯となって“白鯨”の行く手を阻む。膨張し続ける闘志を纏う麗しき水乙女。その勇壮なる姿を前に、人型災害は……。
「気持ち悪いなぁ、おまえ」
心底、嫌な物でも見たように吐き捨てた。
赫い眼光に射抜かれた【ヴァルゴ】は、その真意を理解できずしばし呆然となる。
「ひい……ふう……みい……二百五十六? よくもまあ、そこまで『搾り上げた』ものだ」
「あなたっ!?」
赫眼は全てを見抜く。ここまでの過程のみならず、その奥底に隠された真実であれ一切の容赦もなく、総てを暴き立てる。隠蔽に意味は無く、秘匿はその意義を失う。
「そこまでして禊落したいものかよ。おれから言わせれば、どいつもこいつも混ざり物ばかりで反吐が出そうだ。『超人』ってのは、みんなこうなのか」
「何を……知って」
「喚くな。こっちも“今”知った。あぁ、また“視え”たぞ」
赫眼が煌めく。いや、比喩ではない、一瞬の出来事ではあったが確かに両の眼は輝き、文字通りの眼光が【ヴァルゴ】の五体を見通し、真実全てを暴く。
「はぁ、ほぅ……つくづく、おまえらは気持ち悪いな。あの男も大概だったが、おまえは特にひどい。これが欲の先、狂信の果て、渇望の行き着くところかよ」
「やめて……」
暴かれる。白日の下に晒される。隠していた真実が、誰の目にも触れさせていない己の芯の部分が、一切の虚飾も装いも許さず見透かされていると実感する。
この怪物の前では一切の偽りは存在しない。
「どうせ長生きできないんだろ。だったら最後に言ってやろうか」
「やめて……! やめ、て!!」
追い詰める攻守が再び逆転する。否、始めから逆転などしていない。最初から追い詰めるのはこの“白鯨”と決まっている。
具現化して形を得た絶望という名の怪物。その口から、全てを粉々に打ち砕く呪詛が吐き出される。
「おまえは、死んでも、『綺麗にはなれない』」
「私を、見るなァァァァアアアアアーーー!!!!!」
胸の内に秘めた最も繊細な心理、即ち禁忌に触れられた精神が振り切れる。それは憤怒ではなく、さりとて悲嘆でもない。本当に触れられたくない、触れてはいけない部分に接触されてしまった事に対する純粋なまでの「狂気」だった。
「私を見るな! 見るな、見るな見るなみるなみるなミミミミアミイアイイナナンインナナインアナナナナナナナァァァ……!!!」
「やはり、所詮は水だな。脆すぎる」
思考と連結させられた肉体はそれを反映し、制御を離れて暴発する精神に引きずられて無作為な膨張を始める。膨れ上がる速度は体内で爆発が起こったかと見紛うほどであり、もはや【ヴァルゴ】の全身がヒトの形を失うのに秒も要さなかった。
「溶けろ、溶けろ。膨れ上がり、暴発し、そして消えてしまえばいい」
もう【ヴァルゴ】はヒトの形を保てない。物質と精神に密接な繋がりがある今、双方どちらかのバランスが崩れればこの末路は必然だった。もはや“白鯨”が直接手を下すまでもなく、水乙女の敗北は決まったも同然だった。
「否、それは認められない」
だが、まだ早い。
彼女が倒れるのは「ここ」ではない。
「第一宮たる【アリエス】が此処に命ずる。『閉じよ』」
詠い上げられるような声は、水乙女の暴走を一瞬にして停止させた。
止めた、のではない。暴走し錯乱する彼女を、説得し、宥め、その精神を落ち着かせることで均衡を戻した……のではない。
文字通りの、停止。マリオネットの糸を切り落とすように、暴走状態に陥っていた彼女の肉体をそのままに「落とし」て見せた。意識を切断された【ヴァルゴ】は完全に液体化した部分と、辛うじて肉体として残存した部分とで切り離され、事なきを得た。
「なんだぁ、おまえ」
己以外の一切を不要とする“白鯨”にとって、当然この乱入者は歓迎すべきものではない。今すぐにでもへし折り、叩き潰し、蹴り飛ばしてしまわなければならない。元より己と十二の尖兵はその為にこそ相対すれば。
しかし、次の瞬間に“白鯨”は誰も予想しなかった行動を取った。
それは当の“白鯨”自身でさえも……全く予想はしなかっただろう。
何せ彼は。
乱入者が姿を現す寸前に。
逃げた、のだから。
なぜ【アリエス】がゾディアークの四号でありながら、暫定隊長の地位に就いているのか。彼自身の性格や能力を鑑みた上での評価、というのは勿論だろうが、それは真の理由を箔付けする飾りに過ぎない。
真の理由……それは、現状において彼だけが残りのメンバーを制御できるからだ。肉体の剛柔、精神の強弱など関係ない。【アリエス】の力に掛かれば誰も逆らう事は出来ない。
そういう風に彼は創られている。
「【アクエリウス】!」
「はい! ……大丈夫です。意識は失っていますけれども、何とか」
「そうか。って、おい。どうして距離を取っているんだ?」
【アリエス】が仕掛けた瞬間、それまで隣を随伴していた【アクエリウス】は一目散に駆け出していた。膨張する毒液をまき散らす【ヴァルゴ】が完全に落ちたかどうかを確かめる、それよりも早く彼は駆け出していた。
然もありなん。
「いや、当然だったな。すまない」
仕方のない事だ。能力を使用する【アリエス】から距離を取る、即ち「逃亡」することは何ら不思議ではない。彼の能力は使用可能だが、決して「制御可能」という訳ではないからだ。
だからこそ、今この場で不可思議に思うのは仲間の行動に対してではない。
「『白鯨』がいません!」
「なに?」
周辺を軽く捜索したが、現場には回収できた【ヴァルゴ】を除いて第三者の姿は見えなかった。激しい戦闘の痕跡こそあったが、肝心の敵に関しては全くその行方を掴めなった。
逃げた? しかし、なぜ?
戦闘の跡を見れば分かる事だが、とても【ヴァルゴ】一人で敵を追い詰めていたようには思えない。むしろその逆、追い詰められていたのは彼女の方だ。敵は終始、圧倒的優位を保ち続けていたことは明々白々。
「なのに、逃走しただと? もう仕留める必要さえ無いと捨て置いたか?」
そうも考えられた。だがどうにも釈然としない。腑に落ちない。
【タウロス】の傷を見れば、相手がどんな戦い方をするのかおおよその予測は立てられる。“白鯨”は間違いなく、体躯の大小、実力の強弱の如何を問わず敵対者を完全に破壊するまでは止まらない手合いだ。
それなのに、逃げた。まだ相手に息があるのに、たかが数人の応援が駆け付けた程度で逃亡を決め込んだというのか?
おかしい。何かが、おかしい。
「【ヴァルゴ】の回収は果たした。即時ここを離れる」
「了解です」
疲労困憊の【ヴァルゴ】を【アクエリウス】が背負ったのを確認し、【アリエス】は来た道を引き返すべく一気に駆け出そうとした。
「『裁きの火は、禁忌の都を焼いた』」
頭上に熱を感じたその刹那、顕現した地上の太陽の如き大火球が彼らを焼き払った。
「相変わらず、見極める力だけは抜群であるな」
「おまえが分かり易いだけだ」
遠方より放たれた魔術による攻撃は、術者の思惑に違うことなく街の区画ごと焦土と化した。さながらそれは単なる術による攻撃の範疇に収まらず、大砲による対地砲撃と言っても差し支えない威力を秘めた一撃だった。
本来なら腕利きの魔術師が数人掛かりで発動させる魔術式だが、この恐るべき術を放ったのは……。
「して、これよりどうする?」
一人の、魔術師。手にした己の身長ほどある霊木より削り出した杖を振るい、その大魔術を呼吸する一手間で発動して見せたなどと、言ったところで誰も信じないだろう。
“白鯨”はこれが来ると分かっていたから退いたのだ。あらゆる不条理を腕力のみで成立させるこの怪物も、魔術の心得だけは無い故に。そして逆に魔術を極め尽くしたこの男こそ、“白鯨”と共に連邦を外側から変える任を受けた刺客の一人であった。
「どうもこうも無い。元より、おれ達の方針なんてのは最初から決まっているだろうが」
「そうであったか」
「そうだとも」
そうとも。何も変わりはしない。頭数が増えただけ。初めから“白鯨”の為すべき事柄は一片たりとも変化しない。
即ち、破壊。
即ち、殺戮。
即ち、殲滅。
然るべき者らに、然るべき報いを与えるべく、彼は戻って来た。
十年前のあの時の報復を為すべく。二十年前のあの時と同じようにこの極北に戻って来たのだ。
「遠く東方の賢人曰く、『聖者の赦しも三度まで』。貴様を三度に渡り怒らせたこの国を、我輩は心底哀れむのである」
まるで感情など挟むこともなく、魔術師は心にもない同情のセリフを口にするのであった。
「役者は出揃った」
「これより行われるは、遥か数千年の過去より連綿と受け継がれた神話的闘争。生き残りし者には、その結末を碑文に刻むことになろう」
「“第一”は人を導いた。“第二”は地に満ちた。“第三”はいずれ天に至る」
「ならばこそ、次なる“第四”を以て我等の大願成就をここに果たさん」
「我は切望する。我は渇望する。我は希求する」
「時代を変える者、即ち■■■■■の存在を」
「その出現を以て────」
「遥かなる神代、その終焉証明を完了するものとする」
地震だ。大陸特有の地理ゆえに数えるほどしか経験したことが無いが、地を揺らすそれは確かに地震だった。僅か数秒ほどの小さな揺れだったが、それでも少なからず人々の動揺を誘ったことは否定できない。
特に大きな被害も出すことなく地の揺れは一時の混乱をもたらすのみに終わった。
何も壊れていないし、誰も死んでいない。大災害は発生しなかった。人々は少しすればその恐怖を忘れ、日を跨げば完全に忘却してしまうはずだ。
しかしこの災害が天の気紛れではなく、文字通り人の手によって引き起こされた「人災」と見抜いた者は数少ない。
魔人の鉄拳は、凄まじきの一言に尽きた。
超人がその剛腕を振るって地を掘削したのは確かに驚異的だ。人間の体はそのように出来てはいないし、仮に道具を使ったところで地を刳り貫く一撃には敵うはずもない。
だが、それに対しても魔人の一撃は輪を掛けて強大に過ぎた。
超人が力任せに何度も繰り出して形成した地の窪み。都合三十にものぼる殴打の果てに作り上げた大地の傷痕。
それを、一発で「上書き」していた。
新たに創られたクレーターの直径は、超人が作ったものの優に倍、周囲の雪が弾け飛んだ剥き出しの凍土を含めれば四倍にもなる大盆地。大量の炸薬が爆発したかのような大惨事が、二人の力比べの趨勢がここで如実に表れていた。
穴の中心には魔人……“白鯨”だけがいた。
「…………」
敵対していた超人は影も形もない。引き抜いた拳の着弾地点からは刹那に圧縮された水分が蒸気となって沸き昇り、もはや相対した敵の肉体など消滅せしめたかに思わせた。
事実、その周辺には肉塊はおろか髪の毛一本たりとも残ってはおらず、あれだけ大量に流した血さえも消え果ていた。
故に“白鯨”は確信する。
「逃げたか」
炸裂した拳に何かを殴り抜いた感触は無かった。にわかには信じ難いが、あの一瞬にも満たない時間の内に逃げ果せたのだろう。だがあの重体が死力を振り絞った程度で逃れ得るとは到底思えない。
ならば……。
「どこだ」
あの状況で連れ去った仲間がいる。
それをどうする?
決まっている。
「曳き潰してやる……!」
乱入した者がどこに行ったかは分からないが、問題は無かった。
既にその赫眼は行方を捉えていた。
水が好きだ、と親しい者に言ったことがある。
水は何もかもを流して清める。触れたくない汚濁も、饐えた悪臭も、目障りなおどろおどろしい色合いも、全てを流して清めてくれる。
自分の体が嫌いだ、と誰にも明かしたことは無い。
流れる涙が嫌いだ。湧きだす唾液が嫌いだ。滲み出る汗が嫌いだ。
股座から排泄されるものが嫌いだ。胃に溜まり込む酸液が嫌いだ。我が身を駆け巡る血液、もはやその事実にさえ発狂しかねない。
人は誰しも汚濁に塗れている。拭えない、消せない、滅せられない……人が人として生きる限り、その懊悩からは逃れられない。断言できる。地上に蔓延る何百、何千万という生命は須ら穢れているのだと。
【ヴァルゴ】は、その苦しみから逃れた唯一の存在だった。
「んっ……しょ!」
住人がいなくなり廃屋となった一軒の建物、その一室に【ヴァルゴ】は身を寄せていた。
彼女だけではない。その細い肩には、つい今しがた絶体絶命の危機から救い出した【タウロス】を引っ提げていた。全身を覆っていた甲殻は解除され、疲労困憊のその巨体を彼女はようやっとベッドに投げるように横にさせた。
休ませるのが目的ではない。ここには彼を、「治療」しに来たのだ。
「これは……ひどい」
仰向けにさせたことで傷の全容がはっきりする。抉られた箇所は頭がすっぽり入りそうなサイズで、ぐねぐねとした腸が覗いていた。出血というよりは泉水の如くに血が溢れ出し、これが医者の見立てなら遠目から見ただけで匙を投げる部類だ。
とはいえ、幸運なことに傷は内臓にまで達してはいなかった。ならばまだ救いようは有る。
「【タウロス】、ちょっと我慢して」
手袋を脱ぎ捨てて解放される手、それを傷の上にかざす。するとその手から水が溢れ出し、傷口へと降り注いだ。
水は傷口から溢れることなく水分特有の流動性を保ったまま球の形状に落ち着き、その内部に血の流れを留め置く。さしずめこれは「かさぶた」、傷を内部に閉じ込めてしまえば出血量は関係ない。
更に【ヴァルゴ】はもう片方の手から、ある物を取り出す。それは幻想的な光景だった。手の上には水でできた球が浮遊しており、それが魔術ではなく彼女の肉体機能の延長としてそのように動いている様子を表していた。
その水の中に封入された物が見える。それは逃亡の際にすかさず回収しておいた、【タウロス】の抉られた肉片。潰されて見る影もないが、これが有るのと無いのでは大違いだ。
鍋料理でも煮込むかの如くそれを傷口に投入する。流体を操作して肉片をそれぞれ正しい配置に戻せば、あとは持ち前の治癒力でガワだけでも再生するだろう。
何はともあれ一命は取り留める。しかし……。
「これって……まずい、かも」
【ヴァルゴ】の予感は的中した。それも最悪の形で。
今ようやく分かった。日の目を見ない後期型のロールアウトを待つように上層部から通達されたその理由が。
数を揃えなければ勝てないからだ。
そのコンセプトからして超人は「格上」との戦いを想定していない。いや、言い方が違うか。格上の存在、それ自体を想定して創られてはいないのだ。
来たる南下作戦に向けて製造された以上、その仮想敵は南の国々の兵士、もしくはこちらを篭絡しようと前線に出る一部の魔物娘のみだ。前者なら束になろうが制圧できるし、後者でも相性次第では二体を同時に相手取っても勝利するだろう。
だが、単純に強い相手とは、そもそも単騎で戦うという選択肢が誤っているとしか言いようがない。単独で戦況を左右すると評されておきながら、十二もの数を用意しなければいけなかった理由がここにある。
「まずい……。まずい、まずい」
あれは、いけない。
駆け付けた【ヴァルゴ】は“白鯨”の異常な戦闘力を目の当たりにしてしまった。勝ち負けを論ずる以前に同じ土俵に立てる要素が微塵も無い。
特に何をおいても【タウロス】との相性が悪過ぎる。基本戦術が腕っぷし頼りの彼は、それこそ圧倒的格上に対処する方法を何一つとして持ち合わせない。これが【アリエス】と【アクエリウス】なら話が違うだろうが、それも対処可能というだけで結果は恐らく同じだろう。前者なら「時間の問題」、後者なら「万に一つ」という程度の差だ。
結論を言うと、現状のゾディアークでは四人全員で掛かろうと勝ち目はない。
そんな規格外の怪物を相手取れと命じられた、その真意を知ってしまった今の心境は……言わずもがな、か。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。
「ぐっ……。ああ……!」
「っ、【タウロス】!?」
覚醒に至った体が身じろぎする。さすがは超人、腹を抉られて気絶で済ませてしまっている。
「おお……【ヴァルゴ】ォ……。俺の腹ぁ、どうなって……」
「見ない方がいい」
「そうかぁ……」
即座に応急処置用の鎮痛薬を打ち込む。覚醒と共に興奮した神経が激痛を認識する前に、彼が落ち着いている間にその気力を削いでおく必要があった。でなければこの男は後先考えずにまた突っ走る可能性があった。
「【アリエス】と合流する。いい?」
「待てよ……俺は、まだ」
「負けた。何度目? 今日たった一日で、あの怪物に何回負けた?」
「…………」
「でも、仕方ない、仕方ないことよ。あんなのどうしろっていうの」
二人の間に漂うのは諦観だ。圧倒的、という言葉が持つ意味をそのまま見せつけられた時に人が感じる最後の感情。それは直接戦わなかった【ヴァルゴ】でさえ強く感じていることだ。
仕方がない。どうしようもない。自分達では手に余る。
そうだ、そういうことなのだ。
「そうだなぁ、しゃーないよなぁ……」
「上の判断を待つ。さすがに上層部も目に見えて無茶な作戦を押し付けたりは……」
「そうだな。それが一番いいに決まってら。それは、そうとしてだ……」
「また『負ける』のを許せってのか」
金牛の闘志は未だ冷めず。その事実を前に、今度こそ【ヴァルゴ】は痺れを切らした。
「いい加減にっ、して! もうたくさん! あなたの無茶に引きずり回されるのは、もう嫌っ!!」
「そりゃあ、悪かった。訓練兵時代からだもんなぁ。お前には随分と迷惑かけた本当にすまなかった。だが、今日で終わりだ」
「何言って……!」
「つるんでた昔馴染みがここまで腰抜けだったなんてなぁ。情けなくって涙が出るってもんだ! これじゃあ何の為に“超人”になったのか分かりゃしねえ!」
「っ! 言っていいことと、悪いことが……!!」
「なら聞くがよ、【ヴァルゴ】。てめぇは『勝ち』たくねえのかよ」
その質問は、水乙女の核心を突いて余りあるものだった。いや、恐らく、他二人の超人に同じ問いかけをしたとしても一様に同じ反応をしただろう。
そんなこと、決まっている。
「『勝ち』たい」
生まれも育ちも、ここに至るまでの経緯全てが何もかも違う自分達が、唯一確かに共有する真実があるとすれば……それはこの、飽くなき勝利への渇望を除いて他には無い。
身の上話に興じたことも無ければ、そこまで親しくなった覚えも無い。互いの過去に微塵の興味はもちろん、そもそも自分の領域に踏み込まれること自体を好まない。だがそれでも、この想い一つを胸に抱いているのは確かであった。敵に、歴史に、運命に、それぞれ完全かつ完膚なきまでの勝利を望んだからこそ、人を超えた存在を夢見たのだから。
そして勝利の欲求は男達だけの特権ではない。むしろ紅一点として超人の列に並び立つことを許されている事実が、彼女の中に秘められた渇望の強靭さを示しているとも言える。
「別にお前のこれまでなんざ知ったことじゃねえが、俺らの過去なんてのは大概同じもんよ。生まれとか育ちとか、環境やら何やらで落ちるとこまで落ち切って、挑戦することさえ許されなかった敗北者風情の寄せ集めだろうが。今更立派にご高説垂れて選り好みできる立場かよ」
心底呆れたような口振りではあるが、今この場に限ってその言葉は真実を当てていた。そうだ、自分たちは今更になって「戦場」を選べるなどと、そんな上等な存在ではないのだから。
「いい加減気付けぇ!! これはお前が思ってるような窮地じゃねえ。むしろその逆、チャンスなんだよ。負けに負け込んだてめえのこれまでを、一気に取り返して勝ち逃げするチャンスだろうが!! んなことも分かんなくなっちまったってのか、ええ!?」
「わた、しは……!」
「こう見えて、お前のことは買ってたんだぜ? それが、見たことかよ。脳ミソ溶け出したか? 股の間から垂れ流してんじゃねえぞ!!」
罵倒されているが、それと相反して頭の中は冴えていった。
そうだ。彼の言う通りだ。自分達にはもう一本道しか用意されていない。およそ善意とは程遠い、欺瞞と虚栄と冒涜で舗装された片道切符の街道だけが。苦難という宿場が設けられたその道を突き進むには、勝利あるのみ。それ以外に達成される道理はない。
だからこそ……冷静に俯瞰できる。
煙は空に昇り、雨は地に落ち、光照らされる影は消え去るが定め。こう、と定められた法則には何者であっても抗えない道理がある。ジャイアントキリングなど存在せず、強きに弱きは敵わないというのは赤子でも知っている常識だ。
「【タウロス】、やっぱり私は……」
降りる……そう言おうとした。
「…………えっ!?」
不意に、【ヴァルゴ】は何かを感じ取った。
彼女は常に自分から分離させた液体を周囲に拡散させ、それらを一個の巨大な感覚網として使いこなしている。いわば蜘蛛の巣、そこに入り込んだ異物の一つひとつを個別に感知する高性能感知器だ。
それが、潰された。
感知に引っ掛かったのではない、「潰され」たのだ。まるでその部分を無造作に破り捨てたが如き強引な破壊の痕跡を、【ヴァルゴ】の感覚網は最後に捉えていた。
否、最後ではない。
「え、うそ……。なにこれ!?」
一点のみで起こったと思われた破壊現象は、刹那に怒涛の勢いで拡大を続ける。一つが二つに、二つが四つになり、その破壊痕は倍々に増加して【ヴァルゴ】を追い詰め始めた。そしてその破壊傾向は、ある一つの恐るべき事実を彼女に突き付ける。
「こっちに……近づいて、くる」
間違いない。偶然などではない。この破壊をもたらす元凶は、ただ無作為に、たまたま目に付いたから潰しているのではないのだ。揺るぎない確信……ここに獲物がいると分かっていて接近する捕食者の進撃なのだ。
張り巡らせた感覚網は蜘蛛の巣と表現した。しかし、この場合における「蜘蛛」は【ヴァルゴ】ではなくなっていた。
もはや彼女は餌。否、餌であることさえ許されぬ屠殺対象へと成り下がろうとしていた。
災害が起こる数日前にネズミを始めとする小動物が異常な行動を見せるというのは、古今東西で聞いたことがある話だ。自然の中で生きる彼らには災害を予知する力があり、洪水や地震が発生する予兆を感じるとそこから逃げようとするのだとか。
それを踏まえた上で、“白鯨”は何ら特別な行動はしていない。
彼はこの国に乗り込む以前からずっと自然体で、何も飾る事も削ぎ落すこともしていない。ただそこに在り、ただ目的地に向けて移動する。生物として当たり前に行われる移動行為だが、こと“白鯨”がそれを行えば付随する意味合いが大きく変わってくる。
彼は無人となった街の一区画を歩いている。彼が足を踏み入れるほんの五分前に、ここは無人となった。
人避けの呪いは掛けられていない。もとより彼は魔術を使わないし、その方法も知らない完全な門外漢だ。かといって鏖殺したわけでもない。二世紀ほど昔ならいざ知らず、今の彼は手当たり次第に肉塊を叩き潰して周るほど暇ではなくなっている。
答えは簡単だ。
住民は避難したのだ。速やかに、慌てず、混乱の一切を引き起こす事もなく、潮が引けるかのように生活の場を捨てて逃げ出したのだ。
ある者は急な用事を思い出した。
ある者は離れた所に住む親戚を訪ねに行った。
またある者は、特に大した理由もなく散歩でもしようかと家を出た。
それらは決して、意識的なものではなかった。偶然や些細なきっかけが重なり、彼ら彼女らはそれぞれの理由でその場を離れた。それが百数十人規模で発生した集団失踪の真相だ。
彼らは無意識、本能の領域で理解していたのだ。「ここに居てはまずい」と。明確にそれを認識していた者は誰もいないが、それは逆に言えば無意識に刷り込まれるほど巨大な圧を全ての住民が感じ取っていた証左だ。
所要時間およそ十五分。最後まで誰一人として自らが逃走しているという意識すら持たないまま、前代未聞の「自主的避難」はここに完了した。
「…………」
風の音だけが満たす空白の街を往くのは、白髪悪鬼。つい数分前まで人々が行き来していた往来が、今は彼一人が支配する空間となっていた。
天変地異の擬人化の如き彼だが、その存在が災害と異なるのは唯一点、彼自身の意志で自律した行動を取っていることに尽きる。災害はただそこに発生するだけで、行き当たってしまえば不幸と思って過ぎ去るのを待てば良い。だがもし災害そのものに意志があり、明確な目的を持って自律行動したならば、途端にその危険度は跳ね上がる。
「…………」
ふと、その足が止まる。目の前に障害物は無く、一見すればその移動を止める要因はどこにも無いはずだった。
しかし、“白鯨”の眼は邪魔者の存在を鋭く感知していた。
「…………ハァ」
息を吐き出す。ギリギリまで肺を萎ませた吐息は長い蒸気となって虚空に消える。そして吐き出せば次は吸い込む動作が必要となり、肺活量の限界まで外気を取り込んだ上半身が描く逆三角形は今にもはち切れんばかりだった。
そのはち切れんばかりに膨れ上がった上半身が、一瞬元に戻った次の瞬間……。
「ッボッッッ!!!!」
口から何かが飛び出した。
何かとはなんだ。そんなこと、決まりきっている。限界以上に吸い込んだとなれば、反転して余剰分を吐き出そうとする。当然の帰結がこの怪物の体内でも同様に起こっただけのこと。
吐き出された空気の弾丸が大地を穿ったことを除けば、だが。
視線の先、僅かに俯いた頭部が見据える先の地面には、真新しい穴が開いていた。小指が入るかどうかの小さな穴からは湯気が立ち昇り、底は見えない。高温かつ質量を持たされた高速の何かが穿孔した造形だ。
即ち、“白鯨”の吐息に他ならない。体内で圧縮された空気は急激に加熱され、人体の細胞が耐え得る限界まで高熱化したそれを射出。原理としては銃身、あるいは竜種の火炎に近い現象。
その威力は推して知るべし、たった今そこに潜んでいた邪魔者を「蒸発」させた。
「うざったいなぁ……」
地面の下、凍った大地の中を蠢く何かがある。モグラではない、強いて言えば「虫」。縦横無尽、自在に動き回る存在を感じ取った“白鯨”は……。
「ボッッ!!」
射出。
「ボッ!! ボッッ!! ボゥッッッ!!!」
射出。射出。射出。
雪を一瞬で気化させ凍土を貫通する空気弾の連続発射に、眼前の地面がハチの巣となる。一見当てずっぽうに発射しているように見えるだろうが、実際は百発百中、土中の潜伏者を悉く狙い撃っている。
ある程度撃ち込んだところで、ようやく“白鯨”は射出を止めた。この付近に潜んでいた「虫」を一匹残らず蒸発させた彼は、自ら開けた穿孔痕を睨みつけ、その正体を看破した。
「水……か」
溶かした土の断面から僅かに沁み出す水分。この気温、永久凍土の土中において氷結しない水分など有り得ない。つまるところ、これは小賢しくも敵が用意した何かの仕掛け、あるいは罠と見るべきだ。残された痕跡にしては微小、およそそれを足掛かりに居所を突き止めるのは至難の業だろう。
「そこにいるな」
“白鯨”には関係ない。
例えその痕跡が微小微細であろうとも、砂漠の砂に紛れた芥子粒だろうとも、水に溶けて消えた砂糖粒だろうとも、関係ない。
その眼は彼方を捉え。
その耳は千里を拾い。
その手は万物を掴む。
痕跡ひとつを残した為に、もはやこの下手人の運命は定まったも同然だった。もう彼の頭の中は、現れる第二の敵をどう潰すかしか考えていない。
一歩踏み出すたびに足元から蒸気が上がる。怒りに呼応して水分が蒸発し、その行く手を阻むものは存在しないはずだった。
だから、柄にもなく驚いてしまった。
「止まり、なさい」
「…………」
“白鯨”の長い歴史において、追っている相手が自分から姿を見せたことは数えるほどしかない。その稀有な例がたった今目の前に出現したことに、彼の脳髄が一瞬クリアになる。
強大な眼力を宿した双眸が敵対者、目の前に立ち塞がった乙女を見据えた。
「っ、ゲオルギア連邦陸軍、超人小隊『ゾディアーク』第二号! 【ヴァルゴ】!!」
赫眼は刹那の内に敵の全てを暴き立てる。そしてその上で“白鯨”はほぞを噛むように苦々しくこう吐き捨てる。
「面倒な……」
「よう、遅いお着きで」
「【タウロス】!」
治癒をかねて潜伏している家屋に入って来たのは、今一番顔を合わせたくない者だった。どうやってこの場所を特定したのかと訝しむが、入れ違いでここから飛び出していった【ヴァルゴ】がやったのだと今更ながら気付く。
最初からそうしていればこのような醜態を晒すことも無かったのだろうが、この期に及んで【タウロス】は未だに【アリエス】との共同戦線を拒んでいた。
「臆病風に吹かれた暫定隊長様は、やる事なす事がみみっちい上に遅いときたもんだ。あんたがチンタラやってる間に、俺はとっくに仕掛けたぜ」
「それでこのザマか! 呆れて物が言えないよ」
「そいつはどーも。おい、【アクエリウス】。痛み止め無いか? 【ヴァルゴ】の奴ぁ、俺をおいて先に逃げやがって……!」
「逃げた? どこへ?」
「知るもんか。急に怯えだしたと思えば、飛び出して行きやがった。ほんの五分足らず前のことだよ」
「逃げた……だと?」
【アリエス】は訝しんだ。
現状において、“白鯨”を目の当たりにしているのは【タウロス】と【ヴァルゴ】だけだ。その上で敵に対する脅威と危険性を真に理解しているとなれば、【ヴァルゴ】だけがその条件に適っている。
その【ヴァルゴ】が逃げ出した?
まさか、というのが【アリエス】の率直な感想だった。
【アリエス】は彼女の内情や性格、主義主張の一切を熟知しているわけではない。だが自分達ならともかく、一番の付き合いである【タウロス】を手負いのまま放置して自分だけ逃亡を図るほど落ちぶれたかと言われれば、素直に否と返せるだろう。現に彼女は自分から伸ばした端末を用いてここに呼び寄せた。傷付いた【タウロス】を回収させるためにだ。
その彼女が我先にと逃げた? 【アリエス】にはそこが信じられなかった。
だが逆に、逃げたのではないのだとしたら?
自分たちが来た方向とは逆の向き……つまり、本来逃げるはずの道を引き返して、だから駆け付けた自分達と出くわさなかったのだとしたら?
「うちに腰抜けが二人もいやがるとはな。って、おい!! どこ行くつもりだぁ【アリエス】ッ!」
ひとつの事実に予測を立てた【アリエス】の突然の行動に【タウロス】も面食らう。なにせ彼は何も聞かずに外に飛び出し、そのまま戻るそぶりも見せないまま駆け出してしまった。
まさにここに回収に来た【タウロス】がいるにも関わらず、だ。
「糞野郎どもがぁーっ!! どいつもこいつも、戦いもせずに逃げ出すってのか!!!」
激昂する【タウロス】だが、彼は動けない。その傷が完全に癒えるまでまだ時間が掛かる。闘志冷めやらぬ彼の矛先は、この場に唯一残った【アクエリウス】へと向けられた。
「こうなりゃ仕方ねえ! おい、【アクエリウス】! お前は違うよなぁ!? ゾディアークなら、超人なら戦って見せるだろぉ!!」
「なんで……。なんで、分からないんですか」
「何がだ!?」
【アクエリウス】は……涙していた。恐怖ではない、哀しみで泣いていた。
戦士として未熟ではあるが、同時に聡明でもある彼はもう気付いていたのだ。なぜあの【ヴァルゴ】がここから姿を消したのか。なぜ傷付いた【タウロス】を放置しなければならなかったのか。それらの謎の答えを知り得ていたからこそ、心幼き彼は涙を流す。
そしてその事実にただ一人、【タウロス】だけが気付けていない悲劇を哀しんで。
「あの人はっ、あなたを守るために行ったんじゃないですか!!」
ゾディアークの間に、団結はあっても仲間意識は無い。それはきっと、まだ見ぬ七人も同じことだろう。
ただ二人、【タウロス】と【ヴァルゴ】を除けば。
物事には大なり小なり必ず「相性」というものが存在する。火に対する水であり、光に対する闇であり、男に対する女。不等号やイコールで結ばれる、様々な事象の行く末を左右する因子だ。
率直に言えば、“白鯨”にとって【ヴァルゴ】は相性が悪かった。苦手、と言い換えても良いだろう。
「ここから先には進ませない」
それまでの“白鯨”なら、こんな啖呵や大見得を切らせる前に速攻で叩き潰していただろう。目の前の敵は明らかにさっき退けた男と比べて、柔で華奢なのは一目瞭然、万に一つも“白鯨”に負けは有り得ないはずだった。
しかし、彼は動かない。
肌に水滴が浮かび上がり、やがては全身から濁流の如く水を放出し始める【ヴァルゴ】を前に、人型災害は一歩も踏み込む様子を見せない。
「来ないなら……!」
痺れを切らした水乙女が先に仕掛ける。振り上げられる腕は指揮者の操演、その動きに合わせて足元に形成された溜め池が沸き立ち、瞬時に何かを射出した。
迷いなく頭部を狙って放たれた一発を難なく回避する“白鯨”だが、その眼は自分の直感が正しかったことを既に証明していた。
「……水弾」
髪が、切れていた。奇しくもその攻撃方法は、先ほど“白鯨”がやって見せた空気弾とほぼ同じ。瞬時に圧縮した液体を一定の方向に開放することで相手を撃つ、単純ながらも理に適った戦闘方法だった。
しかし、“白鯨”が暴いた秘密は攻撃の手段に留まらない。
「逃しはしない!」
かつて神代が終わり、主神一強時代の黎明期、当時最も多くの人類を殺した魔物は何だったか?
竜ではない。確かに強大だが、彼らは基本的に縄張りを離れない。自らの財宝に手を付けない限り、そもそも遭遇自体が稀なケースだ。
デーモンでもない。強欲な魂を餌として厳選する彼らは、虐殺から最も縁遠い種族だ。人間の欲望こそが飯のタネであり、むしろそれを助長する為に行動する。
その他、猛威を振るった魔物を挙げろと言われればキリが無いが、それでも有史以来、その遭遇率と被害数という両面において当時の「彼ら」を上回るものは存在しない。
彼らは平原にいた。
彼らは森にいた。
山にもいた。海にもいた。
湿原に、砂漠に、洞窟に、未開の迷宮に……そして「彼ら」は時として街に雪崩れ込むことも多々あった。
多数にして不定形、あらゆる場所に隠れ潜み、一匹でも取りこぼせば瞬く間に大繁殖。歴史上、最も人類を苦しめたその種族は……。
「粘水種(スライム)か」
もはや【ヴァルゴ】の周囲に雪は無い。その全身からしみ出た液体がそれらを溶かし、彼女の一部、領域へと変化させていた。
スライム、と言えば冒険譚や伝承においては端役ですらない、雑魚と言っても差し支えない扱いを受けている魔物だ。だがそのタチの悪さは多くの記録に克明に描かれている。
全身が水、この時点で斬る・打つ・殴るが主体の戦闘は望めない。こちらがどれだけ武器を叩き付けようと相手は水、その悉くを受け流し無効化し、あらゆる攻撃は致命傷とはなり得ない。上手く核を砕ければ良いが、そうでなければ仕留め損なう内に増殖し、物量で押し潰される未来が待っている。
加えて厄介なのは、その液質。スライムは己の肉体を構成する水分の性質を自在に操り、その容量や粘度はもちろん、何重にも積まれた鉄板を容易に溶かす腐食性を纏うことも出来る。こうなってしまえば手の付けようは無く、希少な貴金属をふんだんに用いた防具を持たない限り、攻撃はおろか防御さえもままならなくなる。
もうここまで述べれば理解が及ぶことだろう。
【ヴァルゴ】は、今列挙した全ての特徴を兼ね備えている。
「ここで仕留める。あなたは、この先には行かせない!」
水乙女の周囲に溢れ出す液体は既に水ではなくなっていた。強烈な酸性を秘めた腐食液へと変質を果たしたそれは、刺激臭をまき散らしながら版図拡大を続ける。一度触れれば皮が剥がれ肉は溶け、骨が髄から腐り落ちる猛毒泉湖の現出だ。流石の“白鯨”と言えども肉体を構成する素材は常人と同じ、一撃でも喰らえば致命傷は免れない。
はっきり言ってしまえば、“白鯨”にとって【ヴァルゴ】は最も苦手な手合いだった。
「面倒な……」
魔術師ではない“白鯨”は直接的な対抗策を持たず、距離を置くことで打開策を練る猶予を得ようとする。もちろん、それを逃す【ヴァルゴ】ではない。
「っ!!」
手の動きと共に水が隆起し、地上の大波となって襲来する。雪を溶かし、小石を融かし、毒のガスを噴出させながら突き進む猛悪な波濤が“白鯨”を追い詰めんとする。
厄介だ。果てしなく厄介だ。
指先程度なら先のブレスの要領で消し飛ばせる。だが相手が人体、ましてや増殖を繰り返しそれ以上の体積を獲得した状況では、同じ方法では圧倒的に出力が足りない。それこそ本物のドラゴンブレスでもなければ蒸発させるなど不可能だ。ましてこうしている間にも、その体積は加速度的に増えつつある。
だがそれはあくまで、全身をやろうとした場合だ。
「ボッッ、ボゥッッッ!!!」
瞬間、二連撃。放たれた不可視の銃砲が水乙女に着弾する。箇所は正確無比に眼球を撃ち抜き、灼けた鉄が水に浸けられたような蒸気の音が上がった。
「ギ……!!?」
顔面の二点から白煙を上げて【ヴァルゴ】の顔面が大きく仰け反った。これで視界は潰した、更なる反撃に転じるべく“白鯨”の拳に力が溜まる。
「あ、まい!!」
突如、水流がうねりを帯びて襲い掛かった。波濤は水乙女の意志を受けて自在に動き、両目を潰されたことなど関せずとばかりに“白鯨”に飛来する。間一髪それを回避した“白鯨”の代わりに、先ほどまで彼が立っていた場所に人ひとりが埋まるほどの大穴が開いた。
「目を潰したのは、いい判断だった」
仰け反っていた頭が元に戻ると、眼球の備わっていた部分が露になる。熱を帯びた二つの洞穴は激しく泡立っていたが、少しするとそれは収まり、二つの器官は何事も無かったかのように再生を果たしていた。
スライム特有の再生能力。例え大部分が欠損、摩耗しても瞬く間に増殖し、代替部分を生成、それを新たな器官として復元する力だ。
「全身が目。全身が耳。たとえ頭を潰しても、わたしの腕はあなたを捉える」
人の形は、ガワに過ぎぬ。此れこそは、人工的に太古の粘水種の力を与えられし液状化人間。索敵・偵察・暗殺に長じた連邦謹製超人第二号『処女宮』、【ヴァルゴ】の真骨頂。
人の身では抗えぬ。人の身では乗り越えられぬ。
此れなるは超人。「人」を「超」えしモノ。
「あなたは、私に負ける」
湧き立つ毒液の波は海嘯となって“白鯨”の行く手を阻む。膨張し続ける闘志を纏う麗しき水乙女。その勇壮なる姿を前に、人型災害は……。
「気持ち悪いなぁ、おまえ」
心底、嫌な物でも見たように吐き捨てた。
赫い眼光に射抜かれた【ヴァルゴ】は、その真意を理解できずしばし呆然となる。
「ひい……ふう……みい……二百五十六? よくもまあ、そこまで『搾り上げた』ものだ」
「あなたっ!?」
赫眼は全てを見抜く。ここまでの過程のみならず、その奥底に隠された真実であれ一切の容赦もなく、総てを暴き立てる。隠蔽に意味は無く、秘匿はその意義を失う。
「そこまでして禊落したいものかよ。おれから言わせれば、どいつもこいつも混ざり物ばかりで反吐が出そうだ。『超人』ってのは、みんなこうなのか」
「何を……知って」
「喚くな。こっちも“今”知った。あぁ、また“視え”たぞ」
赫眼が煌めく。いや、比喩ではない、一瞬の出来事ではあったが確かに両の眼は輝き、文字通りの眼光が【ヴァルゴ】の五体を見通し、真実全てを暴く。
「はぁ、ほぅ……つくづく、おまえらは気持ち悪いな。あの男も大概だったが、おまえは特にひどい。これが欲の先、狂信の果て、渇望の行き着くところかよ」
「やめて……」
暴かれる。白日の下に晒される。隠していた真実が、誰の目にも触れさせていない己の芯の部分が、一切の虚飾も装いも許さず見透かされていると実感する。
この怪物の前では一切の偽りは存在しない。
「どうせ長生きできないんだろ。だったら最後に言ってやろうか」
「やめて……! やめ、て!!」
追い詰める攻守が再び逆転する。否、始めから逆転などしていない。最初から追い詰めるのはこの“白鯨”と決まっている。
具現化して形を得た絶望という名の怪物。その口から、全てを粉々に打ち砕く呪詛が吐き出される。
「おまえは、死んでも、『綺麗にはなれない』」
「私を、見るなァァァァアアアアアーーー!!!!!」
胸の内に秘めた最も繊細な心理、即ち禁忌に触れられた精神が振り切れる。それは憤怒ではなく、さりとて悲嘆でもない。本当に触れられたくない、触れてはいけない部分に接触されてしまった事に対する純粋なまでの「狂気」だった。
「私を見るな! 見るな、見るな見るなみるなみるなミミミミアミイアイイナナンインナナインアナナナナナナナァァァ……!!!」
「やはり、所詮は水だな。脆すぎる」
思考と連結させられた肉体はそれを反映し、制御を離れて暴発する精神に引きずられて無作為な膨張を始める。膨れ上がる速度は体内で爆発が起こったかと見紛うほどであり、もはや【ヴァルゴ】の全身がヒトの形を失うのに秒も要さなかった。
「溶けろ、溶けろ。膨れ上がり、暴発し、そして消えてしまえばいい」
もう【ヴァルゴ】はヒトの形を保てない。物質と精神に密接な繋がりがある今、双方どちらかのバランスが崩れればこの末路は必然だった。もはや“白鯨”が直接手を下すまでもなく、水乙女の敗北は決まったも同然だった。
「否、それは認められない」
だが、まだ早い。
彼女が倒れるのは「ここ」ではない。
「第一宮たる【アリエス】が此処に命ずる。『閉じよ』」
詠い上げられるような声は、水乙女の暴走を一瞬にして停止させた。
止めた、のではない。暴走し錯乱する彼女を、説得し、宥め、その精神を落ち着かせることで均衡を戻した……のではない。
文字通りの、停止。マリオネットの糸を切り落とすように、暴走状態に陥っていた彼女の肉体をそのままに「落とし」て見せた。意識を切断された【ヴァルゴ】は完全に液体化した部分と、辛うじて肉体として残存した部分とで切り離され、事なきを得た。
「なんだぁ、おまえ」
己以外の一切を不要とする“白鯨”にとって、当然この乱入者は歓迎すべきものではない。今すぐにでもへし折り、叩き潰し、蹴り飛ばしてしまわなければならない。元より己と十二の尖兵はその為にこそ相対すれば。
しかし、次の瞬間に“白鯨”は誰も予想しなかった行動を取った。
それは当の“白鯨”自身でさえも……全く予想はしなかっただろう。
何せ彼は。
乱入者が姿を現す寸前に。
逃げた、のだから。
なぜ【アリエス】がゾディアークの四号でありながら、暫定隊長の地位に就いているのか。彼自身の性格や能力を鑑みた上での評価、というのは勿論だろうが、それは真の理由を箔付けする飾りに過ぎない。
真の理由……それは、現状において彼だけが残りのメンバーを制御できるからだ。肉体の剛柔、精神の強弱など関係ない。【アリエス】の力に掛かれば誰も逆らう事は出来ない。
そういう風に彼は創られている。
「【アクエリウス】!」
「はい! ……大丈夫です。意識は失っていますけれども、何とか」
「そうか。って、おい。どうして距離を取っているんだ?」
【アリエス】が仕掛けた瞬間、それまで隣を随伴していた【アクエリウス】は一目散に駆け出していた。膨張する毒液をまき散らす【ヴァルゴ】が完全に落ちたかどうかを確かめる、それよりも早く彼は駆け出していた。
然もありなん。
「いや、当然だったな。すまない」
仕方のない事だ。能力を使用する【アリエス】から距離を取る、即ち「逃亡」することは何ら不思議ではない。彼の能力は使用可能だが、決して「制御可能」という訳ではないからだ。
だからこそ、今この場で不可思議に思うのは仲間の行動に対してではない。
「『白鯨』がいません!」
「なに?」
周辺を軽く捜索したが、現場には回収できた【ヴァルゴ】を除いて第三者の姿は見えなかった。激しい戦闘の痕跡こそあったが、肝心の敵に関しては全くその行方を掴めなった。
逃げた? しかし、なぜ?
戦闘の跡を見れば分かる事だが、とても【ヴァルゴ】一人で敵を追い詰めていたようには思えない。むしろその逆、追い詰められていたのは彼女の方だ。敵は終始、圧倒的優位を保ち続けていたことは明々白々。
「なのに、逃走しただと? もう仕留める必要さえ無いと捨て置いたか?」
そうも考えられた。だがどうにも釈然としない。腑に落ちない。
【タウロス】の傷を見れば、相手がどんな戦い方をするのかおおよその予測は立てられる。“白鯨”は間違いなく、体躯の大小、実力の強弱の如何を問わず敵対者を完全に破壊するまでは止まらない手合いだ。
それなのに、逃げた。まだ相手に息があるのに、たかが数人の応援が駆け付けた程度で逃亡を決め込んだというのか?
おかしい。何かが、おかしい。
「【ヴァルゴ】の回収は果たした。即時ここを離れる」
「了解です」
疲労困憊の【ヴァルゴ】を【アクエリウス】が背負ったのを確認し、【アリエス】は来た道を引き返すべく一気に駆け出そうとした。
「『裁きの火は、禁忌の都を焼いた』」
頭上に熱を感じたその刹那、顕現した地上の太陽の如き大火球が彼らを焼き払った。
「相変わらず、見極める力だけは抜群であるな」
「おまえが分かり易いだけだ」
遠方より放たれた魔術による攻撃は、術者の思惑に違うことなく街の区画ごと焦土と化した。さながらそれは単なる術による攻撃の範疇に収まらず、大砲による対地砲撃と言っても差し支えない威力を秘めた一撃だった。
本来なら腕利きの魔術師が数人掛かりで発動させる魔術式だが、この恐るべき術を放ったのは……。
「して、これよりどうする?」
一人の、魔術師。手にした己の身長ほどある霊木より削り出した杖を振るい、その大魔術を呼吸する一手間で発動して見せたなどと、言ったところで誰も信じないだろう。
“白鯨”はこれが来ると分かっていたから退いたのだ。あらゆる不条理を腕力のみで成立させるこの怪物も、魔術の心得だけは無い故に。そして逆に魔術を極め尽くしたこの男こそ、“白鯨”と共に連邦を外側から変える任を受けた刺客の一人であった。
「どうもこうも無い。元より、おれ達の方針なんてのは最初から決まっているだろうが」
「そうであったか」
「そうだとも」
そうとも。何も変わりはしない。頭数が増えただけ。初めから“白鯨”の為すべき事柄は一片たりとも変化しない。
即ち、破壊。
即ち、殺戮。
即ち、殲滅。
然るべき者らに、然るべき報いを与えるべく、彼は戻って来た。
十年前のあの時の報復を為すべく。二十年前のあの時と同じようにこの極北に戻って来たのだ。
「遠く東方の賢人曰く、『聖者の赦しも三度まで』。貴様を三度に渡り怒らせたこの国を、我輩は心底哀れむのである」
まるで感情など挟むこともなく、魔術師は心にもない同情のセリフを口にするのであった。
「役者は出揃った」
「これより行われるは、遥か数千年の過去より連綿と受け継がれた神話的闘争。生き残りし者には、その結末を碑文に刻むことになろう」
「“第一”は人を導いた。“第二”は地に満ちた。“第三”はいずれ天に至る」
「ならばこそ、次なる“第四”を以て我等の大願成就をここに果たさん」
「我は切望する。我は渇望する。我は希求する」
「時代を変える者、即ち■■■■■の存在を」
「その出現を以て────」
「遥かなる神代、その終焉証明を完了するものとする」
18/06/11 00:37更新 / 毒素N
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