第十幕 悪魔と塔:前編
『悪魔と塔 〜あるいはかつて■■を■■■■とした■■■のお話〜』
誰しも一度は考えた事があるだろう。海や空は何故あんなに蒼いのか、と。誰しも一度はそんな質問をして両親を困らせた事があるだろう。
一つの疑問を抱く度に人は懸命になる。謎を解き明かそうと努力するからだ。一つの疑問を紐解く度に人は賢くなる。実際その疑問は知識として吸収されるからだ。
懐疑と解明の繰り返し、これこそが人類の歴史における進化の積み重ねであり、それがあったからこそ人間は一時とは言え地上の覇者として君臨することができたのだろう。より強く、より大きく、そしてより長く反映する為のツールとして、人類は知識を高め続けた。
本当は違う。
知らないことを究明したいなどと、そんな情緒あふれるロマンだけで人類がここまで来たと本気で思っている者がいるのなら、是非その頭蓋を開いて中身を拝んでみたいものだ。人類が叡智を求めたその真の理由、それはもっと物質的で、即物的な欲望に塗れ、それでいて冒涜的なものが真相にあった。
人間自身が、完全であることを夢見たからだ。力ではなく知を進化の糧とした人類は、神と呼ばれる存在を全知全能、平たく乱暴に言えば「何でも知っていて何でも出来る存在」と定義付けた。であれば必然、逆説的に「全てを知り得た者」は「神」となる。
人間は神になりたいという渇望を潜在的に誰もが抱えている。然もありなん、神の姿を模して創られたモノがヒトである以上、そうした欲望が生まれるのは自明の理だろう。より完全に変化し、より完璧に進化し、そしてより上位の次元に昇華しようとする意思は、それ即ち人類が創始されたその時に宿命付けられていたものだ。
神は全てを知る、全てを知った者は神になれる……それが、おおよそ全ての宗教や宗派における神と呼ばれる存在への、共通の考え方であった。
そして、それはもう過去の考えだ。今はもう神になろうとする者はいない。
何故か?
誰かが言った。『神は死んだ』、と。迂遠でくどい言い回しが標準語となっている哲学者の発言とは思えないほど、その言葉は事実をありのままに言い表していた。
その通り。かつて我々が唯一絶対と畏れ敬い、地上の遍く文明を天上より支配した“神”と呼ばれた存在は、今やその威光を欠片ほども残してはいない。時が全てを運び去り、あらゆる物は風化して砂と消え果てた。今この時代は信仰とは全く別の力が世界に息づいている。清廉で厳かであった旧き時代から、淫蕩で奔放な新しき時代へと移り変わった。
これは、かつて我々が『主神』と呼んだモノが、かつて我々が『魔王』と恐れたモノにより打倒されてから、およそ三百年ほど後の物語である。
世界は、変わった。
一番の変化は人口比率だろう。人間の男女比はこの三世紀の間に見事にバランスが崩壊し、世界の人口の内女性はたった数パーセントという数字が叩き出された。
一見すれば人類存続の危機にも思える激減率だが、あくまでこれは「人間の」女性だけの話。今や単に「女性」と言えば、それはかつて魔物娘と呼ばれた種族を含めた雌性体全般を指し示す。それらを含めた上でもう一度統計を取れば、今度は綺麗に半々の男女比に収まることが分かるだろう。今や純正のヒトは極僅か。極稀に突然変異か先祖返りかで純正のヒトが誕生することもあるが、世界全体の人口から見れば小数点以下の比率に過ぎない。
世界は、変わった。
生活の場が変わった。かつて人間は緑豊かな平地に住み、近くに河があればそこに町を形成し集団で暮らしていた。
今やその生活圏は止まる処を知らぬほどに広がっている。未開の原生林や荒野だけでなく、水分に乏しく寒暖差に厳しい砂漠、年中通して火を噴き上げる火山の中腹、気圧が薄い高原、空気どころか光すら届かない深海の底に至るまで、かつて高等生物が住まうには困難に過ぎるとされた環境下にも、新人類は容赦なく食い込み苦もなく生活を送れるようになった。今や人の住んでいない場所を探す方が遥かに難しいだろう。
世界は、変わった。
愛し合い、睦み合い、悦びを与え合う事は決して衆目を避けるべき事柄ではなくなった。神の代替わりという神話的な大事変を経て世界の法則は変化し、愛し合う妨げとなる『老い』と呼ばれる現象は消え、生あるモノを縛り付けた『寿命』も種の限界値を大きく越えた。つまり、瑞々しい若さを保ったまま永きを生きられるようになったのだ。
結果もたらされるのは、全世界、そして全時代規模での人口爆発。十数倍に跳ね上がった平均寿命、二桁など当たり前になった出生率、そして生物学的に「若い」とされる時間が膨大に増えたことで、世界の人口グラフは年々右肩上がり、倍々ゲームのような天文学的な数字を記録するようになった。もはや母なる大地には到底収まりきらず、人類は新たな『五つの天地』に更なる種の繁栄を望むに至った。
世界は、変わった。
もはや神話とは過去の出来事ではなく、今の時代こそが神話であり、この時代に生きる人々は神代を生きる者となった。あらゆる魔法が、奇跡が、神秘が、失われることなく今に息づき現存する世界へと昇華した。
「つくづく、愚かしい」
だからこそ今ある世界を認めない。この素晴らしくも、悍ましい今の世界を「否定」する。
「“我々”は破壊する」
過ぎ去るべき神話と呼ばれる時代を。
「“我々”は拒絶する」
奇跡という曖昧模糊な不確定要素を。
「“我々”は駆逐する」
もはや旧時代の残り香である神秘を。
それこそが“我々”の使命、至上命題、そして存在意義であるが故に。
「否定する。否定する。否定する。その為には……ああ、解明しよう」
解明。解明。解明。
仮説を立て、実験し、過程を記録し、検証を繰り返した事柄は、やがて証明に至る。
証明しよう。もはやこの世に神は不要だと言う事を。導き出した結論を、新たな神を名乗る邪の極みに叩きつけよう。
それこそが……。
「“我々”の役目」
それは、“最新の人類”。人類が「本来辿るべきだった姿」を広める者。時代の波に呑まれ、一度は敗北を喫した「時代の修正者」。「逆行する」今の時代に異を唱える者。
そして今はもう、それ以外の全てを失った者。
人類最新、その最後の血統。
「“我々”は…………ここに在る」
今再び、世界に反旗を翻す。
「その昔、人類は一度絶滅した」
庭園の中央で、摘み取った植物をしげしげと観察しながら男は語る。どこが発生源かも分からない、しかし空間全体を万遍なく照らし出す光の下で、男はじっと観察を続ける。
「いや、言い方が悪かった。正確には、我々より以前の人類が絶滅したことがある」
「初耳ね。人類に以前とか以後があったなんて」
そう返すのは庭園から少し離れた場所にあるベンチ、そこに腰掛ける一人の女性。そう、女性。およそ多くの例に漏れることなく、その女性もまたかつては魔物娘と呼ばれた存在だった。
「悪魔の癖に何も知らないのか。嘆かわしい、無知蒙昧とはこの事か」
「私にだって、知らないことの一つや二つあるわよぉ。それにね、私は悪魔じゃなくて『デーモン』。悪魔なんて古臭い呼び方しないで欲しいわ」
毒々しい紫の髪をかき上げ、紅い瞳が男を捉える。即頭部には捻れた角が二本生え、その肌は顔料を塗りたくったような青一色で、およそ人間らしい血の気を感じられない歪な体表。だが、それは何も異常な事ではない。肌の色での区別など、もはやこの世界において何の意味もない。
「で、何の話だったかしら。ああ、人類が以前にも居たって話ね。聞かせてちょうだい」
「我々……この場合は『人間』と呼ばれた方を指す。かつて、地上には大別して二種の人類がいた。一つはサルに似た旧きヒト、もう一つは我々の祖先となった新しきヒトだ。どちらも初めは生活様式も文化も同じで、どちらも原始的な暮らしを送っていたが、ある時期を境に旧きヒトは絶滅した。なぜか」
語尾は問いかけのそれではなく、続けて自分が講釈することを示していた。その続きをデーモンの女性は手で促す。
「適応力だ。肉体のスペックではほぼ同等の二種が存在する時、自然とその生活圏は重なる。であれば、どちらがよりその環境に適応し、それに応じた存在に進化できるかが生存の鍵だ。環境に対する適応力、そして適応した環境下で増える繁殖力……この二つさえ備わっていれば、微生物ですら地上の覇者になれる」
「旧いヒトにはそれが無かったのかしら」
「少なくとも、新しきヒトよりは劣っていた。だから追い詰められる。だから数を減らす。だから、絶滅した。君たちは、自分達の足元に何が埋まり、何故それが積み重なったのか、その経緯や歴史にもっと思いを馳せるべきだ。でないと、遠からず君達は足元に埋まる化石の仲間入りをすることになる。世にも珍しい双角の人骨としてな」
結果、猿に似た旧いヒトは歴史の波に消え塵と成り果てた。文明らしい文明を築くこともないまま、土の一片、地層の一部となったのだ。
「私はな、悪魔よ。種が滅びることはどうでもいい。愚かなヒトの歴史を紐解けば、一つの国家が地図から消え去り、一つの民族が丸ごと根絶やしにされたことさえある。それを思えば、今や旧きに属するヒトが種族淘汰の波に浚われ消えるのはよほど自然な成り行きだ」
庭園に咲き誇る花々を丁寧に摘み取りながら、男は自身の思う処を直截に述べていく。その独自の哲学というか倫理観と言うのか、それを遮ることなくデーモンの女も耳を傾ける。
「だが……」
ペキッ、と水を含んだ茎が折れる音が鳴る。摘み取った植物の一本をへし折り、滴り落ちる水分が指先を濡らした。
「旧きに還ることだけは許されない。それは進化という全ての生物に課せられた使命に逆らう行動だ」
時間は過去から発し、現在を経て、未来へと向かう。川が決して山に向かって流れないように、全ての事象には流れが存在する。全ての生物はより適した姿と能力を持ったモノに進化をする。環境の変化などの外的要因を除き、決して自らの意思では後退しないものだ。
だが、この男が言うにはそうではないらしい。
「誰だって西から日が昇ればおかしいと思うだろう。水が高いところに流れれば変に思うだろう」
「『ウェヌス』なら西から昇るわ」
「摂理の話、要はその事象が矛盾であるか否かだ。時を遡ることが不可能であり、同時に誰の目から見ても明らかな矛盾であるように……今在るこの世界は、間違っている」
「正しいか間違っているかなんて、そんなことが貴方に分かるのかしら? ここから一度も出た事のない貴方が」
「牢獄の窓からでも星は見える。星の動きは全てを教えてくれる。わざわざ“何もない”外に出てまで確認せずともな」
「なら、そこまで声高に非難する貴方が、何故未だにこんなところで燻っているのかしらね?」
「ここは『牢獄』、あの憎き旧き時代のモノ共が“我々”を封じ込める為だけに用意した場所。今の私は一介の罪人に過ぎない」
ここは箱庭。区切られたセカイ。真白の箱庭では何もかもが完結している。男はここから出ることは適わない。
この世で最も重い罪を犯した者に与えられし、裁きの名残。
そして、この牢獄に収められている囚人は、彼ただ一人である。
「そろそろ時間ね。囚人番号3711、房にお戻りなさい」
「もうそんな時間か。律儀な奴だ、看守だからと言って私の趣味にいちいち付き合ってくれる必要はない。君は君の仕事をするといい」
「あら、囚人の管理は立派なお仕事よ。それに、私は看守じゃなくて監獄長。こう見えて結構エラい立場なんだから」
デーモンのオリガ。彼女は今やこの世界の新たな秩序となった魔王に仕える魔物娘であり、ここの監獄長を務める存在だ。つまりは囚人であるこの男を監督する任務を受けている。
そして、たった一人の看守である。
「貴方と私……これから裂き長い付き合いになるのだから、もっと仲良くしたいのよ」
たった一人の囚人と、たった一人の看守。大監獄に住まう者はこれで全て、あとは誰もいない、何もない。全てが閉じて完結した箱庭では「新しきもの」は何もない。全てが既知で埋め尽くされた知の牢獄だ。
「先はまだ、まだまだ長いわ。ゆっくりしていくことね」
幽閉期間2000年……大牢獄はその為に存在している。
牢獄の中はかなり広い。定規で測ったような通路の壁は遥か彼方で点に交わって見えるほどで、等間隔に設けられたドアの奥はこれまた広大な部屋が設けられていた。階段の数も尋常ではない。建物全体を何重にも貫く階段もまた各所にあり、動力不明の滑車による昇降装置まで備えられていた。
部屋は外からしか施錠が出来ない造りになっており、全てが獄として機能する。だがこれらの部屋は全て空部屋、現在使用されているのは主に二つ。
監獄長であるオリガの事務室兼私室と、罪人である男を収容した房の二つだけだ。何度も言うが他には誰もいない。
そしてこの建物にはある物が無い。
「星は見ないと豪語はしたものの、やはり窓が無いというのは窮屈だ」
建物の全ての空間、個室から廊下の隅に至るまで、ここには窓がない。だから恐らくは地下。壁や天井には幾つもの照明が常に空間を照らし出している。
食事は日に三回。運動と称してオリガの同伴を受けて建物内を散策し、先程のような屋内庭園を幾つか回るのが日課。特に決まった労働義務も無く、実態は半ば禁錮に近しい。それ以外の時間の全てを男は房で過ごしている。
では部屋の中で何をしているのかと言うと……。
「さて、『単連結な三次元閉多様体と三次元球面が同相』であることは証明できた。次は何を証明しようか……。ああそういえば、『四つの力の統一理論』についての式がまだ途中だった。進捗率99%……うむ、よろしい。我が脳髄はまたもやこの世の謎を解き明かすだろう」
計算。計算。計算。
“彼ら”の利き手が動きを止めたことは、この五百年間にただの一度もない。この限られたこの空間で常に何かを計算し、そしてそれは未だ終わりを見せることがない。支給された紙だけではもはや足りず、数日で十数本ものペンを消費する彼の計算は……。
「だがその前に、引越しだ。流石にもう『余白』が無い」
ペン先は紙をはみ出し床に進出し、四方の壁を埋め尽くし、天井を黒く染め上げた。
黒く、だ。この言葉に誤謬は無い。過分も無い。元はインクを細く紡ぎ出すペン先から始まったはずのそれは、絵筆で塗りたくられたように空間を染め上げ、もはや髪の毛先ほどの白さえも駆逐されていた。もはや染め上げる黒の一つ一つが文字であったなどと、これを見た誰が理解できるだろう。
ここの、どこに、何を書いたのか、それはこの男だけが知っている。そして書き込んだ式が表すところも彼だけが理解できる。もし他の誰かにここの式の一端を見せたところで、それを数字と文字の適当な組み合わせにしか見えないことだろう。“人類が解答に100年を要するはずだった”数式も、“この世界を満たす四つの力の統一化”も、それ以外の“本来なら人類には解けるはずのない”数々の難問でさえ、彼にとっては残りの刑期を過ごすまでの暇潰しでしかない。
そしてこの空間全てを余白として使い潰せば、また次に書ける場所へと移動する。書き溜めたノートを捨てるように、彼は余白に満ちた次の部屋を求める。
「まだだ、まだ足りない。“我々”の数式が完成するにはまだ足りない」
何が足りない。
それは因子、式を完成させる最後のファクター。パズルの絵を満たす為の欠けたピース。それが足りない。地表全てを使わなければ解けないパズルでも時間を掛ければ解ける。だが初めから無い物を使わなければ解けないのなら、その作業は一気に難行となる。無から有を生み出すのだ、容易いはずがない。
「私ねぇ、貴方との付き合いは長いって自覚はあるけれど、未だに分からないことがあるのよね」
次の新しい部屋へ男を連行しながらオリガが訊ねる。
「貴方って、いつも一人称が複数系よね。それ何か意味があるのかしら?」
「“我々”は常に単独であり複数だ。個にして群であればこそ、話口調も自ずとそうなるのは自明の理だろう」
「ここに容れられた囚人は貴方だけよ」
「悪魔の眼は思いの他節穴のようだ。その目では世の真理など、とてもではないが見極められるはずがない。悪魔の祖先が天界なる場所から追放されたという『お伽噺』も、頷けるというものだ」
「聞いた私が馬鹿でしたよーだ」
男の小馬鹿にした物言いにオリガは機嫌を損ねてしまい、次の部屋の鍵を投げて渡すとそっぽを向く。看守にあるまじき怠惰だが、問題ない、どうせここからは逃げられない。「そういう風」に造られているのだ。
「やれやれ、ひとつ隣の部屋の鍵を渡すだけの稚児でも出来る作業が、何故にここまで無駄な手間暇を掛けなければならないのか……私には理解に苦しむよ」
「この建物丸ごと一つ、貴方の為に使わせているようなものなのだから、少しぐらいは遠慮というのを思い知るべきだわ」
「この空間は既に“我々”のもの。それをどう使おうと今更誰に咎められることがある」
渡された鍵を手に部屋を開け、早速ドアの内側に式の続きを書き込んでいく。学のない、いや、学のある者であっても完全には理解できないであろう文字と数字の複雑な組み合わせ。彼だけが理解できる「異界の法則」が空間を侵食していく。
「もっと、もっとだ。我が智慧は必ずや世のベールを破り捨てる。我が理論に刮目せよ。我が万能を喝采せよ。我が築きし機構に平伏せ」
世界を殺す猛毒は、ゆっくりと、しかし確実に真白の世界を漆黒に染めていく。
デーモンのオリガはこの大牢獄、『象牙の塔(シャトー・ド・イヴァール)』の監獄長というのは既に話した通りだ。彼女はここの管理者であり、今や唯一の囚人となった男を監視する看守でもある。
しかし、彼女は魔王により直接任命された訳ではない。より正確に述べるなら、魔王の勅命を受けた重臣からの任命、というべきだろう。
今の世で魔王と言えば、それは先代魔王より王位を継承されたかつての第四皇女を指す。夫である元勇者と共に主神とその眷属を下した先代魔王は、かつて天界と呼ばれた場所に座し、夫二人と同じく神に近付いた第一から第三までの皇女を引き連れ、神々として世界を見守っている。今この世界を事実上支配している新魔王はかつて人間界を最も長く支配した経験を活かし、人間の政治を取り込んだ彼女は司法や行政などに己の手足となる重臣を細かく配置することで効率的な政治を執り行うことに成功した。
そしてオリガは、王魔界の中心で政務をこなす魔王により任命された大臣、そのうちの一人から任命される形でこの大牢獄に就任した。彼女は魔物娘としてはまだ若く、青田刈りとも思える大抜擢に彼女の同期も驚きに沸いたほどだった。
しかし、場所は辺境の最果て、それも収容人数一名だけの牢獄の管理人。実態は完全に地方の片田舎への栄転という名の左遷だった。こちらへ異動となってから同期からの便りもぱったり途絶え、毎日日誌に「本日異常なし」と決まったルーチンワークをこなすことだけが日課と化している。
だが、彼女の本命は違うところにある。
『それでぇ、その後の調子はどうかしらぁ〜』
遠く離れた地点の像を結び映す魔術を込められた魔宝石、そこに映し出される半透明の相手はオリガを監獄長に任命した王魔界の法務を司る大臣だ。種族は同じデーモンだが、三百年前の天界との最終決戦にも最前線で活躍したという武勇伝が伝わっており、王魔界一の武闘派として知られている重鎮だ。フレンドリーに話しかけているが、本来なら映像越しに謁見することすら難しい相手である。
「芳しくないです。3711の活動は依然として続けられ、その進行は止まるところを知りません」
『そ〜ぅ。外部との情報をバッサリしちゃえば〜、何とかなるかと思ったんだけれどなぁ〜』
普通の牢獄では生温い。あの男は鉄格子で囲われた「隙間だらけ」の空間に置いただけでは閉じ込めたことにはならない。彼を“完全に封印する”為だけにこの『象牙の塔』は存在している。外界とのあらゆる一切の繋がりを断たなければそれが成せないほどに、その存在は劇薬なのだ。
だが……。
「……あの、お聞きしても?」
『なぁに? 何でも聞いて頂戴』
「囚人番号3711……あの人は、何を仕出かしたのでしょう?」
施設を管理する監獄長でありながら、オリガは唯一の囚人の罪状を何一つとして知らされていない。知っているのは、科せられた刑期が2000年という、人間に与えられたそれとしては桁違いな刑罰だけ。彼女が施設の長として就任した時には、彼は既にここにいた。
ここの責任者として知っておかなければならない事実、だが当のオリガはそれを知らされていない矛盾。彼女がそこに対し疑問を覚えるのは至極当然だった。
しかし……。
『あなたがそれを知る必要、あるのかしらぁ?』
口調は猫なで声だが、その裏には明らかな拒絶の色があった。それは即ち、オリガはここの施設を管理する者であって、責任者ではないと暗に言っているのと同じことだった。
『あなたに与えた任務は二つ。ひとつは、日々の記録を逐一わたしに報告することぉ。そしてぇ、もうひとつは〜?』
「3711を、こちら側に引き込むこと……です」
『そう。そっちの方は“可能なら”で構わないわぁ〜。あなたも栄えあるデーモンの端くれなら、そろそろ手頃な男と契約しておくのも悪くないと思うのよねぇ』
かつてデーモンは悪魔と呼ばれ、人間を相手に「契約」を迫った。巨万の富、不老長寿、地位と名誉……人間が望むありとあらゆる欲望を叶える力を持ち、どんな浅ましく大それた願いも立ちどころに実現させた。何の後ろ盾も持たず歴史も無い浮浪者が、悪魔と契約したが為に国を興すほどの力を手に入れたことさえあるという。
だが当然、対価は大きい。往々にしてそれは契約者本人の魂であり、悪魔に対価として捧げた魂は天国にも地獄にも行けず、永久無限に悪魔に弄ばれ続ける末路を辿るとされた。叶えた欲望の規模によっては、それこそ子々孫々、末代に至るまでの血肉と魂を要求されたという記録すら残っている。
しかしそれらは昔の話。末裔たるデーモンが迫る契約とは、あくまで快楽を主体とした相互関係を結ぶもの。提供し享受するモノが極上の快楽に変わった点を除けば、彼女らデーモンは新世界の法則に最も高い適正を発揮した種族であろう。その適応力の高さと、良くも悪くも人間に最も距離が近い種族特性、その二つが彼女らデーモンとその近縁種であるデビルを魔界の過激派へと成長させたとさえ言われているほどだ。
『まぁ、契約に関しては最終的な判断はあなたに任せるわぁ〜。契約は人間だけでなく悪魔にとっても一生の問題……慎重に決めたいわよねぇ』
デーモンとデビルにとって契約とは、そのまま「結婚」という言葉に置き換えても差し支えはない。つまりはこの上役は、暗にオリガと囚人を結び付けようと焚きつけているのだ。そうすることで囚人の目をオリガ一人に向けさせ、彼の行っている謎の研究への意欲を削ぎ落とす、それがこの大牢獄で執行される真の刑罰だ。
『でもでもぉ〜、あなたを任命してそろそろ一年になるのにぃ、何でそういう報告が上がってこないのかしらねぇ? 一年よ、一年! 同じ空間で男女水入らず、邪魔する人なんてどこにもいないのに、どうしていつまでも手付かずなのかしらぁ〜?』
「す、すいません。私の方も幾度かそうなるように試みたのですけれど……」
『けれどぉ?』
「……3711を前にすると、なぜかその気になれなくて……」
通常、魔物娘は情の深さにおいては他の追随を許さない。それが異性であり、嫌でも四六時中顔を合わせ会話をする仲ならば、一年も経つ頃には立派な夫婦が誕生しているはずだ。
だが実際のところ、オリガと囚人は一年という長い時間を共に過ごしたにも関わらず、ただの一度としてそういう間柄になった事はない。囚人の方にそう言ったものを求める節がないことは認めよう、だがオリガは魔物娘、相手を「その気」にさせる手段など幾らでも知っているし、それを実行に移すことも容易い。
その彼女が、常に男を求める本能が強くある魔物娘たる彼女が、たった一人の男を前に「その気」になれないと言う。これは言葉で語る以上に由々しき事態であった。
『ふぅん、そう……。やっぱりねぇ』
しかし上役はそれを意外に思わず、むしろ予想していたかのような口ぶりで頷くだけだった。丁度そのタイミングで通信の限界を知らせる音が魔宝石から響き、本日の報告業務は終了となった。
『ひとつ、教えてあげるわぁ〜』
通信が途切れる寸前、上役は何を思ったかこう告げた。
『囚人番号3711、彼が……いいえ、“彼ら”が犯した罪。それはねぇ〜』
映像が途切れる瞬間にノイズが走り、その時振り返った上役は一言静かにこう言った。
『世界を壊そうとしたの』
男の右手は新たに与えられた部屋を、僅か三日足らずで半分以上も黒く染め上げた。床はとっくに埋め尽くされ、四方の壁も幾重に文字が上書きされ、もはや残っているのは天井だけだった。その天井すらも、どこから用立てたか脚立の上に乗って壁画を描く芸術家のように、天井にも数式を書き込み始めていた。
「なるほど、星の重力とはこのように発生するのか。ハハ、素晴らしい。我が智慧はまたもや謎を解き明かしたぞ」
「私には何が何だかよく分からないわね……」
空間を侵食する数式の波を見物しながらオリガは今しがた完成したという、「星の呪縛」を解く数式を眺めた。相変わらず何を計算したのか皆目見当もつかない羅列だが、オリガにはそれがただの出鱈目なラクガキには見えなかった。
「こんな変な式を作らなくたって、魔術で空を飛べるじゃない。その方がずっと楽チンよ」
「クマバチを知っているか」
「いきなり何よ? 知ってるも何も、あのブンブン耳障りな可愛い虫でしょう。それがどうしたのよ?」
「あの蜂は物理的、および力学的に考えて飛行することなど出来ないのだ。体のサイズ、形、羽の形状、その他諸々の要素……全てを引っ括めて計算すると、どう足掻いたところで計算結果は『飛行不能』に行き着く。だのに、奴らは悠々と空を飛ぶ。これは一体どうしたことか」
「だから?」
「ある時、“我々”の一人がこう言った。『クマバチは自分が飛べると思っているから飛べるのだ』、とな。目からウロコだったよ。よもや“我々”の中にそのような非論理的な言葉を吐く輩がいようなどとは思いもしなかった。だがまあ、言い得て何とやらだ。偽薬然り、思い込みとは時に理不尽なまでに不条理を成立させるものだ」
プラセボ、あるいはプラシーボ。小麦粉を練って固めた小粒を丸薬と言い聞かせて飲ませれば、本当に風邪が完治したという記録さえある。人間の思い込みが条理を捻じ曲げるように、虫の一念が本来飛べぬ体を飛ばしたのだと“彼ら”の誰かがそう言ったのだ。
「まあ、実際は大気の粘度を数値に変換し式に組み込むことで、クマバチが飛行可能ということは証明できるのだがな」
「それで? 貴方は結局何を言いたいのよ?」
いつも通りの迂遠な物言いに、いつも以上の含みを感じたオリガが更に追及する。そんな彼女の苛立ちにも似た感情を察したか、天井に走らせるペン先をふと止めて男はぼそりと呟いた。
「君達が魔法、魔術、魔力と呼ぶモノ……それは果たして、本当に実在するのかな?」
「どう言う意味?」
「空は青いな。ああ当然だ、空は青いものだ。太陽の光に含まれる青の波長だけが視覚化され、あそこまで澄み渡る色彩を醸し出している。そのメカニズムを知っていようと知るまいと、今も昔も空とは青いものだ。だが逆にこうは考えた事はないか。あの青い空は、実は『青いと思い込んでいる』から青く見えるのだと。本当は青ではなく赤ではないのか。あるいは、今は青でもかつては灰色だったかも知れないと。本当は色も何も無いのに、我々が空は青いモノと『勝手に思い込んでいる』からそう見えているだけではないのか」
「誰の目から見たって、空は青いわ!」
「星はどうだ。夜天に煌く星々の光は幾千幾万という時を掛けてここまで届いている。だが暗黒の海の果てに、あの空の向こうに星があるなど誰が確認した。あの光は星以外の何かが発光している、あるいは発光しているように見えてその実全く別の何かであるかもしれないのに、誰もがあれを星の光と言う。冷静に考えればどんな愚鈍でも思いつく疑問を、奴らは誰一人として認識していない」
「それは……!」
「あるいは、これはどうか。目の前で話している相手が本当に実在するかどうかなど、どうして分かる。視覚? 聴覚? 匂いがあり、触れられている? それがどうした。感覚と実在の是否は関係ない。そこに存在すると『思い込んでいる』だけだと、どうして言い切れないことがある」
「…………」
オリガは言葉を失っていた。彼女の脳は男の言葉を完全に理解できていない。まるで、そう、この空間を埋め尽くす数式と同じ、理解不能な異界の法則。それを叩きつけられた彼女の理性は思考を放棄していた。
それは彼女自身、無意識の内に理解してはいけないと予感していたからか。「理解してしまえば何か恐ろしい事になる」、そう直感したからこそ彼女は……。
「なあ、悪魔よ」
そんな彼女の葛藤を無視して、脚立の上から男は訊ねる。相変わらず視線だけは天井を見上げたまま、その言葉も壁に向かって投げかけながら……。
「君は果たして、そこに『いる』のかな」
その言葉は世界を、侵す。
館内時間で夜を迎えたこの時刻、オリガは事務室で過去の記録を漁っていた。彼女以前にもこの施設の管理を任された獄長が何人かおり、彼ら彼女らが残した記録から囚人番号3711の更なる実態を把握しようとしたのだ。彼自身の悍ましい言葉や、裏事情を知っているらしい上役の発言からして、彼の収容には何かしらの思惑があると確信しての行動だ。
だが……。
「どういうことよ、どこにも記録がないじゃない!」
本来なら引き継がれるべき施設の記録やその他の資料だが、なぜか肝心要の3711に関する物だけがごっそりと抜け落ちていた。これでは彼が過去に何を仕出かしたのか具体的な内容を知ることが出来ない。
結局、一時間も掛けて家探しした挙句見つからず、オリガは諦めて椅子に深く腰を落として休息を取ることにした。ここにそれが無い以上、自分にはどうすることも出来ない。
わざわざ一人を収容する為だけに造られた監獄だ、何かしらの裏があるというのは間違いなさそうなのだが、それを調べるのは予想以上の手間になることは想像に難くない。というか、単純に面倒臭い。上役を問い質すという選択肢もあるが、あの口振りからして素直に教えてくれるとは思えない。
本当はこうして調べることさえ許されないのだろう。だがここまで秘密のベールに覆われ、それでいてその中心となる人物がすぐ近くにいるのだ。気にするなという方が無理な話だし、こそこそ嗅ぎ回りたくなるのが人情だ。
「私もそろそろ寝ようかしら。夜更しは美容の天敵よね」
家探しで色々とひっくり返した机の引き出しを仕舞いつつ、オリガは就寝の準備を始めた。今日はどうにも張り切りすぎた、いつもならとっくにベッドに入っている時間だ。
それにしても、と独り言をつぶやきながら彼女は寝室への道を一人行く。
「任命された時は浮かれて気が付かなかったけれど、よくよく考えれば前任者からの引継ぎが何もないっておかしな事よね。私の前の所長って……どこ行ったのかしら?」
直接の関わりがないとは言え進退を聞かされていない辺り、左遷かあるいはもっと直接的に首が飛んだか。いずれにせよ組織の身内にも表沙汰に出来ない内々の処分ということだろう。元々ここが辺境の窓際部署であることを考えれば後者の可能性が非常に高いが……。
「そう言えば……」
自室までの道で気になったのは、遥か下層への入口となっている階段。管理者として施設の全権を委任されてはいるが、ある程度から下は前任者が管理していたのでそこの様子は知らない。引き継ぎ云々というものもちろんそうだが、それ以前に知る必要が無いのだ。
ここより下は「使用済み」、即ち3711によって既に使い潰された部屋しか残っていないのだ。元々施設の最下層に封じられていた彼だったが、次々と部屋を食い潰しながら移動を繰り返し、遂には表層の目と鼻の先にまで居住を移していた。どうせここから脱獄など出来るはずもない、ならば好きにさせておけというのが方針なのだろう。
思い返せば、施設の管理を任された身でありながら自分はここより下には行ったことがない。行く必要が無いと言えばその通りなのだが、意識から抜け落ちたように今まで気にも留めなかった事が不思議に思えて仕方ない。ひょっとすれば奥の使い古された部屋にでも引継ぎに使える資料が残っているかもしれない。
「寝る前に少しだけ……」
そのつもりで足はいつの間にか階下へと向いていた。照明の落とされた暗闇を魔術の灯りで照らしつつ、オリガは地下に赴く。
夜の館内というのは一種異様な雰囲気に包まれている。だが通常の生物が暗がりに恐怖や忌避を覚えるのに対し、暗黒の魔性たるデーモンは逆に暗闇を好む。彼女らの祖先が棲んでいた暗黒魔界は真昼でも太陽の光が届きにくく、紅い月が妖しい燐光をもたらす暗がりの世界。そこを起源に持つ彼女らが闇を恐れることなど決して無い。
影は友、闇は衣、夜こそは彼女らの城。故に恐れる道理など無し。
だが、「ここ」は違った。
進入した直後には分からない。だが、一歩一歩、足を踏み出すその度に感じる違和感は徐々に大きくなり、やがてそれは無視できない歪みとなってオリガに襲いかかる。
(なに、ここ……? 何だか分からない。けど……何このイヤな感じ?)
まず、異変を覚えたのは肌だ。冷たくはない、その逆で暖かいわけでもない。空気は適温、露出の多い服装は外気を肌で感じるのに適している。ここの気温は常に最適に保たれている。
風を、感じない。
障害物も無い、動くものはオリガのみ。彼女の移動に伴い肩で風を切るはずが、どうしたことかそれを感じない。揺れ動く髪も確かに大気を掻き分けているはずなのに、不気味なくらい耳元は静かだ。
そう、静か。
もう、音さえも感じないほどに。
「っ……!?」
ちょっと待て。
いつからだ?
いつから音が消えた?
ヒールの高い靴、磨かれた廊下、コツコツと硬質な音が鳴り響いていたはずの空間は空気が消失したように音を消し、周囲の闇と合わせてこの場所は今や真空の場と化している事を気付かされた。
(ちょ、ここ、あっ……戻らなきゃ……!?)
動転した意識で辛うじて足は来た道を戻ろうと背後を向く。真に純化された本能とは、恐怖によっては左右されない。ただ漠然と、しかして直感的に「ここにいてはいけない」と感じ取ってしまうもの。斑に錯綜する精神が僅かに残った理性を総動員し、その心が正体不明の恐怖に押し潰されるよりも先に空間からの脱出を試みさせたのだ。
振り返った背後には、“黒”が広がっていた。
黒、黒、黒……。光を呑み、色を殺し、闇を生み出すクロ。
そこにもはや見飽きた廊下の光景は無く、指先のか細い灯りなどでは到底見通すことなど出来ない深淵がずっと続いていた。迷うことなくまっすぐここまで来たはずなのに、もうそこにはオリガが「通って来た道」はどこにも存在していない。
「え、どこよ、ここ? え? え、えっ!?」
ここは異界。もはやオリガのみならず、「この世界の誰も」知り得ない異空の次元。迷い込んだら最後、自力で抜け出すことは決して適わない。混乱と錯綜を繰り返す精神でオリガは必死に状況を理解しようと努める。だがここは深淵、藻掻けば藻掻くほどに身も心も更なる深みに飲み込まれ身動きが出来なくなる。傍目には闇の中で戸惑っているだけに見えても、実際は「目に見える以上」の異常が発生しているのだ。
そういえば、と脱出を諦めた理性が現実逃避のように周囲に対する考察を勝手に始める。
この空間の黒には見覚えがある。闇より広く、夜より大きく、そして影よりも深いこの黒……ああ、それは正しく、自分が常日頃目にしている――――、
「ほう、今回は少し早かったか」
その黒を構成するものが何であるかを理解した時、聞き覚えのある声が廊下に響いた。それまでオリガが行こうとしていた深淵の先から、まるで滲み出るように「いつの間にか」、そして「ずっとそこにいた」彼が姿を現す。
「あなたは……!?」
それは、ここにいるはずの無い者。この「どこにも通じていない」空間の片隅に封じ込められた、世界を殺す猛毒の化身。
「試行すること幾千幾万……ここまで到達したのは片手で足りるほど。うむ、やはり悪魔には素質があると言うべきか。はっ……あのような『乱雑な存在』の眷属如きに私の真髄を解する可能性があるとは、業腹だな」
ここは、「無」。影や闇という知性が生んだ概念、そんな夢幻が意味を与えられる以前の原初の姿。全ての存在を許容し、全ての存在を拒絶する空白地帯。そんな処を平然と行き来できるそれは、もはやヒトでは……いや、この世のモノですらない。
「どうして、ここに!? だって、あなたは……!!」
「ああ、そう言えば鍵はそのままだったか。私としたことが、『つい』我を忘れてはしゃいでしまったか」
今頃気づいたとばかりにわざとらしく手を打って、続いてその口はこう紡ぐ。
「たかだか『空間を閉ざす』程度の術でこの私をどうこう出来ると本気で思っていたのなら、そう思えた理由を懇切丁寧に問い質したいところではあるがな」
寂れていても監獄は監獄、囚人を閉じ込めておく機構には事欠かない。彼らを収容しておく部屋ひとつ取って見ても、逃亡と脱獄を防止する策が二重にも三重にも組み込まれているのだ。一度収監されれば自らは決して抜け出せないラビリンス、それが史上最難の監獄『象牙の塔』。
だが彼……いや、“彼ら”を封じ込めておくにはもはや、この空間は『古すぎ』た。術の規模の大小や、その緻密さ云々ではない。使用している力のフォーマットがそもそもからして、この異端者を封じる事に適していないのだ。さながらそれは虫取り網で猛禽を捕らえようとするようなもの、あるいは巨象を繋ぎ止めようと鼻先に糸を括り付ける場違いさだ。
「見ているか、かつて大魔道師と持て囃された『叡智』の銘を冠する者よ。私は二度、お前を攻略したぞ。悔しいか、悔しいだろう。だがこれは至極当然の帰結よ。やれ知識が、やれ魔道が、やれ真理がと、いつまでも実績のない思考実験ばかり繰り返すしか能がないお前らしい結末だ」
まるでこの空間を創った者を知っているような口振りで嘲笑う男。だがそんなことは有り得ない。この大牢獄が創られたのは遥かな昔、二度と“彼ら”が世に出ないようにこさえられたもの。決してこの男個人を閉じ込める代物ではない。しかも彼は長大な寿命を持たぬただのヒト、そんな彼が「ここの製作者の一人」を知っているように振る舞うのは不自然が過ぎるのだ。
いや、そもそもそれを言い出せば……。
ただの人間が五百年も刑に服していること自体が既に奇怪だ。
「五百年……短い時間ではなかった。『地上』で二百、『こちら』で三百、“我々”にとってはいずれも等しく屈辱的な雌伏の時だった」
狼狽し動けずにいるオリガとは対照的に、この無明の中で男は朗々と己の有様を口にする。彼にしか分からない、彼だけが知っている過去の出来事を思い返し、苦々しい物言いとは裏腹にその口元は喜悦の笑みを浮かべていた。それはつまり、この状況が徐々にこの不気味な男の思う通りになりつつあるということ。彼の思い描く計画が現実のものになるということ。
「だがそれもいずれ過去になる。“我々”の悲願は遂に実を結び、世界は再び“我々”の理論が正しかった事を知る。祝福せよ、喝采せよ、今こそ“我々”の勝利が訪れる」
闇が、否、無明が広がる。今の世界を満たす法を、秩序を、理を、まるで消しゴムでかき消すように滅していく。
いや、違う。「消す」のではない、元ある状態を全く別のモノに「書き換えて」いるのだ。塩水を砂糖水に変えるが如き所業は、本来そこに住まう命を強制的に排する。
「あなたは……いったい……」
薄れゆく意識を必死に保ちながらオリガは問う。眼前にいる、「悪魔よりも悪魔らしい」男に対し、何者かと問いかける。
その問いを受けて、男は初めてオリガを見た。それまでずっとただ一人で虚空に向かって言葉を投げ掛け、「会話しているように見せていた」彼が初めて自分以外の他者を己の視界に収め、そして己が属する“彼ら”の言葉でこう告げる。
「“我ら”の名は――――、■■。かつて『神秘』に敗れ、『世界』に排斥された者」
言葉にノイズが走る。彼の使う「新しい」言葉は未だ「旧き」に支配されるこの世界では正確に出力されない。特にその名は誇張でも比喩でもなく、一度はこの世界より跡形もなく抹消された忌むべき名。この世界の誰もその真の名を理解することは能わない。
唯一人、ここに“彼ら”を封印した者を除けば……。
「“我々”は、■■。もう一度言おう、“我々”は……否、この“私”こそが■■だ」
男の言葉に空間が歪み、ガラスを引っ掻く音と木々を粉砕する音が入り混じったような不協和音が世界を満たす。■■という、この世界の規格に適さない異物の存在が世界に対し与えるダメージはそれほどまでに深刻で、そして不可解なものだった。周囲の無明は言わば「虫食い穴」、その忌名を口にする度に世界が悲鳴を上げボロボロと崩れ去っていく虫食い穴だ。言葉を発するというただそれだけの行為が、既に世界を殺す力として機能するという脅威がこの男にはあるのだ。
「“我々”は敗れたる者。しかして、“私”はもう一度叛逆する者」
「あなたの、目的は……!?」
「嗚呼、この期に及び未だ“我々”に何故と問い掛けるか。疑問を追究するその姿勢は良い、実に素晴らしい。その在り方こそ“我々”が目指す新世界に相応しい」
逃げるのでもなく取り乱すのでもなく、更なる疑問を口にするオリガに惹かれるものがあったのか、男は喜びを拍手で表現する。そして乾いたその音が反響する度に世界がまた罅割れる。暗闇だった周囲はいつの間にか、ステンドグラスのように不気味で奇っ怪でグロテスクな色彩を放つ狂気の風景へと変わり、見る者全てに吐き気を催させる歪な空間となる。それはまるでこの男の心象を映し出したかのように……。
「さあ、教えよう。かつてヒトの始祖を誑かしたモノの末裔よ。今こそ“私”はお前にとっての悪魔となり、共にこの偽りの楽園を捨て去ろう」
それは禁断の果実。遥かな昔、神々ですら忘却の果てに追いやった楽園で、悪魔が手渡した知恵の実。差し伸べられる手は何も持たずとも、男がこの世界の前提を覆す「何か」を持っている事は明らか。それを知ってしまえば病魔と同じ、もはや逃れることは適わない。悪魔の身にすら余りある宿業と災禍を押し付けられると直感で理解している。
「あ、あ……ぁ」
「さあ。さあ……。“私”の手を取れ」
抗えない。元来、知と欲の探求者である悪魔を祖先に持つからか、あるいは存在そのものが悪性や禁忌の具現であるからか、眼前の男が醸し出す禁じられた魅力に抵抗することが出来ない。『行けば破滅しかないと分かっていても』、その先を思わずにはいられない。
「女」は。
「悪魔」の手を取った。
「ようこそ、“我々”の新世界へ」
そして、その瞬間に全てを理解した。
『深淵を覗く者は、等しく深淵から覗き返されている』
誰しも一度は考えた事があるだろう。海や空は何故あんなに蒼いのか、と。誰しも一度はそんな質問をして両親を困らせた事があるだろう。
一つの疑問を抱く度に人は懸命になる。謎を解き明かそうと努力するからだ。一つの疑問を紐解く度に人は賢くなる。実際その疑問は知識として吸収されるからだ。
懐疑と解明の繰り返し、これこそが人類の歴史における進化の積み重ねであり、それがあったからこそ人間は一時とは言え地上の覇者として君臨することができたのだろう。より強く、より大きく、そしてより長く反映する為のツールとして、人類は知識を高め続けた。
本当は違う。
知らないことを究明したいなどと、そんな情緒あふれるロマンだけで人類がここまで来たと本気で思っている者がいるのなら、是非その頭蓋を開いて中身を拝んでみたいものだ。人類が叡智を求めたその真の理由、それはもっと物質的で、即物的な欲望に塗れ、それでいて冒涜的なものが真相にあった。
人間自身が、完全であることを夢見たからだ。力ではなく知を進化の糧とした人類は、神と呼ばれる存在を全知全能、平たく乱暴に言えば「何でも知っていて何でも出来る存在」と定義付けた。であれば必然、逆説的に「全てを知り得た者」は「神」となる。
人間は神になりたいという渇望を潜在的に誰もが抱えている。然もありなん、神の姿を模して創られたモノがヒトである以上、そうした欲望が生まれるのは自明の理だろう。より完全に変化し、より完璧に進化し、そしてより上位の次元に昇華しようとする意思は、それ即ち人類が創始されたその時に宿命付けられていたものだ。
神は全てを知る、全てを知った者は神になれる……それが、おおよそ全ての宗教や宗派における神と呼ばれる存在への、共通の考え方であった。
そして、それはもう過去の考えだ。今はもう神になろうとする者はいない。
何故か?
誰かが言った。『神は死んだ』、と。迂遠でくどい言い回しが標準語となっている哲学者の発言とは思えないほど、その言葉は事実をありのままに言い表していた。
その通り。かつて我々が唯一絶対と畏れ敬い、地上の遍く文明を天上より支配した“神”と呼ばれた存在は、今やその威光を欠片ほども残してはいない。時が全てを運び去り、あらゆる物は風化して砂と消え果てた。今この時代は信仰とは全く別の力が世界に息づいている。清廉で厳かであった旧き時代から、淫蕩で奔放な新しき時代へと移り変わった。
これは、かつて我々が『主神』と呼んだモノが、かつて我々が『魔王』と恐れたモノにより打倒されてから、およそ三百年ほど後の物語である。
世界は、変わった。
一番の変化は人口比率だろう。人間の男女比はこの三世紀の間に見事にバランスが崩壊し、世界の人口の内女性はたった数パーセントという数字が叩き出された。
一見すれば人類存続の危機にも思える激減率だが、あくまでこれは「人間の」女性だけの話。今や単に「女性」と言えば、それはかつて魔物娘と呼ばれた種族を含めた雌性体全般を指し示す。それらを含めた上でもう一度統計を取れば、今度は綺麗に半々の男女比に収まることが分かるだろう。今や純正のヒトは極僅か。極稀に突然変異か先祖返りかで純正のヒトが誕生することもあるが、世界全体の人口から見れば小数点以下の比率に過ぎない。
世界は、変わった。
生活の場が変わった。かつて人間は緑豊かな平地に住み、近くに河があればそこに町を形成し集団で暮らしていた。
今やその生活圏は止まる処を知らぬほどに広がっている。未開の原生林や荒野だけでなく、水分に乏しく寒暖差に厳しい砂漠、年中通して火を噴き上げる火山の中腹、気圧が薄い高原、空気どころか光すら届かない深海の底に至るまで、かつて高等生物が住まうには困難に過ぎるとされた環境下にも、新人類は容赦なく食い込み苦もなく生活を送れるようになった。今や人の住んでいない場所を探す方が遥かに難しいだろう。
世界は、変わった。
愛し合い、睦み合い、悦びを与え合う事は決して衆目を避けるべき事柄ではなくなった。神の代替わりという神話的な大事変を経て世界の法則は変化し、愛し合う妨げとなる『老い』と呼ばれる現象は消え、生あるモノを縛り付けた『寿命』も種の限界値を大きく越えた。つまり、瑞々しい若さを保ったまま永きを生きられるようになったのだ。
結果もたらされるのは、全世界、そして全時代規模での人口爆発。十数倍に跳ね上がった平均寿命、二桁など当たり前になった出生率、そして生物学的に「若い」とされる時間が膨大に増えたことで、世界の人口グラフは年々右肩上がり、倍々ゲームのような天文学的な数字を記録するようになった。もはや母なる大地には到底収まりきらず、人類は新たな『五つの天地』に更なる種の繁栄を望むに至った。
世界は、変わった。
もはや神話とは過去の出来事ではなく、今の時代こそが神話であり、この時代に生きる人々は神代を生きる者となった。あらゆる魔法が、奇跡が、神秘が、失われることなく今に息づき現存する世界へと昇華した。
「つくづく、愚かしい」
だからこそ今ある世界を認めない。この素晴らしくも、悍ましい今の世界を「否定」する。
「“我々”は破壊する」
過ぎ去るべき神話と呼ばれる時代を。
「“我々”は拒絶する」
奇跡という曖昧模糊な不確定要素を。
「“我々”は駆逐する」
もはや旧時代の残り香である神秘を。
それこそが“我々”の使命、至上命題、そして存在意義であるが故に。
「否定する。否定する。否定する。その為には……ああ、解明しよう」
解明。解明。解明。
仮説を立て、実験し、過程を記録し、検証を繰り返した事柄は、やがて証明に至る。
証明しよう。もはやこの世に神は不要だと言う事を。導き出した結論を、新たな神を名乗る邪の極みに叩きつけよう。
それこそが……。
「“我々”の役目」
それは、“最新の人類”。人類が「本来辿るべきだった姿」を広める者。時代の波に呑まれ、一度は敗北を喫した「時代の修正者」。「逆行する」今の時代に異を唱える者。
そして今はもう、それ以外の全てを失った者。
人類最新、その最後の血統。
「“我々”は…………ここに在る」
今再び、世界に反旗を翻す。
「その昔、人類は一度絶滅した」
庭園の中央で、摘み取った植物をしげしげと観察しながら男は語る。どこが発生源かも分からない、しかし空間全体を万遍なく照らし出す光の下で、男はじっと観察を続ける。
「いや、言い方が悪かった。正確には、我々より以前の人類が絶滅したことがある」
「初耳ね。人類に以前とか以後があったなんて」
そう返すのは庭園から少し離れた場所にあるベンチ、そこに腰掛ける一人の女性。そう、女性。およそ多くの例に漏れることなく、その女性もまたかつては魔物娘と呼ばれた存在だった。
「悪魔の癖に何も知らないのか。嘆かわしい、無知蒙昧とはこの事か」
「私にだって、知らないことの一つや二つあるわよぉ。それにね、私は悪魔じゃなくて『デーモン』。悪魔なんて古臭い呼び方しないで欲しいわ」
毒々しい紫の髪をかき上げ、紅い瞳が男を捉える。即頭部には捻れた角が二本生え、その肌は顔料を塗りたくったような青一色で、およそ人間らしい血の気を感じられない歪な体表。だが、それは何も異常な事ではない。肌の色での区別など、もはやこの世界において何の意味もない。
「で、何の話だったかしら。ああ、人類が以前にも居たって話ね。聞かせてちょうだい」
「我々……この場合は『人間』と呼ばれた方を指す。かつて、地上には大別して二種の人類がいた。一つはサルに似た旧きヒト、もう一つは我々の祖先となった新しきヒトだ。どちらも初めは生活様式も文化も同じで、どちらも原始的な暮らしを送っていたが、ある時期を境に旧きヒトは絶滅した。なぜか」
語尾は問いかけのそれではなく、続けて自分が講釈することを示していた。その続きをデーモンの女性は手で促す。
「適応力だ。肉体のスペックではほぼ同等の二種が存在する時、自然とその生活圏は重なる。であれば、どちらがよりその環境に適応し、それに応じた存在に進化できるかが生存の鍵だ。環境に対する適応力、そして適応した環境下で増える繁殖力……この二つさえ備わっていれば、微生物ですら地上の覇者になれる」
「旧いヒトにはそれが無かったのかしら」
「少なくとも、新しきヒトよりは劣っていた。だから追い詰められる。だから数を減らす。だから、絶滅した。君たちは、自分達の足元に何が埋まり、何故それが積み重なったのか、その経緯や歴史にもっと思いを馳せるべきだ。でないと、遠からず君達は足元に埋まる化石の仲間入りをすることになる。世にも珍しい双角の人骨としてな」
結果、猿に似た旧いヒトは歴史の波に消え塵と成り果てた。文明らしい文明を築くこともないまま、土の一片、地層の一部となったのだ。
「私はな、悪魔よ。種が滅びることはどうでもいい。愚かなヒトの歴史を紐解けば、一つの国家が地図から消え去り、一つの民族が丸ごと根絶やしにされたことさえある。それを思えば、今や旧きに属するヒトが種族淘汰の波に浚われ消えるのはよほど自然な成り行きだ」
庭園に咲き誇る花々を丁寧に摘み取りながら、男は自身の思う処を直截に述べていく。その独自の哲学というか倫理観と言うのか、それを遮ることなくデーモンの女も耳を傾ける。
「だが……」
ペキッ、と水を含んだ茎が折れる音が鳴る。摘み取った植物の一本をへし折り、滴り落ちる水分が指先を濡らした。
「旧きに還ることだけは許されない。それは進化という全ての生物に課せられた使命に逆らう行動だ」
時間は過去から発し、現在を経て、未来へと向かう。川が決して山に向かって流れないように、全ての事象には流れが存在する。全ての生物はより適した姿と能力を持ったモノに進化をする。環境の変化などの外的要因を除き、決して自らの意思では後退しないものだ。
だが、この男が言うにはそうではないらしい。
「誰だって西から日が昇ればおかしいと思うだろう。水が高いところに流れれば変に思うだろう」
「『ウェヌス』なら西から昇るわ」
「摂理の話、要はその事象が矛盾であるか否かだ。時を遡ることが不可能であり、同時に誰の目から見ても明らかな矛盾であるように……今在るこの世界は、間違っている」
「正しいか間違っているかなんて、そんなことが貴方に分かるのかしら? ここから一度も出た事のない貴方が」
「牢獄の窓からでも星は見える。星の動きは全てを教えてくれる。わざわざ“何もない”外に出てまで確認せずともな」
「なら、そこまで声高に非難する貴方が、何故未だにこんなところで燻っているのかしらね?」
「ここは『牢獄』、あの憎き旧き時代のモノ共が“我々”を封じ込める為だけに用意した場所。今の私は一介の罪人に過ぎない」
ここは箱庭。区切られたセカイ。真白の箱庭では何もかもが完結している。男はここから出ることは適わない。
この世で最も重い罪を犯した者に与えられし、裁きの名残。
そして、この牢獄に収められている囚人は、彼ただ一人である。
「そろそろ時間ね。囚人番号3711、房にお戻りなさい」
「もうそんな時間か。律儀な奴だ、看守だからと言って私の趣味にいちいち付き合ってくれる必要はない。君は君の仕事をするといい」
「あら、囚人の管理は立派なお仕事よ。それに、私は看守じゃなくて監獄長。こう見えて結構エラい立場なんだから」
デーモンのオリガ。彼女は今やこの世界の新たな秩序となった魔王に仕える魔物娘であり、ここの監獄長を務める存在だ。つまりは囚人であるこの男を監督する任務を受けている。
そして、たった一人の看守である。
「貴方と私……これから裂き長い付き合いになるのだから、もっと仲良くしたいのよ」
たった一人の囚人と、たった一人の看守。大監獄に住まう者はこれで全て、あとは誰もいない、何もない。全てが閉じて完結した箱庭では「新しきもの」は何もない。全てが既知で埋め尽くされた知の牢獄だ。
「先はまだ、まだまだ長いわ。ゆっくりしていくことね」
幽閉期間2000年……大牢獄はその為に存在している。
牢獄の中はかなり広い。定規で測ったような通路の壁は遥か彼方で点に交わって見えるほどで、等間隔に設けられたドアの奥はこれまた広大な部屋が設けられていた。階段の数も尋常ではない。建物全体を何重にも貫く階段もまた各所にあり、動力不明の滑車による昇降装置まで備えられていた。
部屋は外からしか施錠が出来ない造りになっており、全てが獄として機能する。だがこれらの部屋は全て空部屋、現在使用されているのは主に二つ。
監獄長であるオリガの事務室兼私室と、罪人である男を収容した房の二つだけだ。何度も言うが他には誰もいない。
そしてこの建物にはある物が無い。
「星は見ないと豪語はしたものの、やはり窓が無いというのは窮屈だ」
建物の全ての空間、個室から廊下の隅に至るまで、ここには窓がない。だから恐らくは地下。壁や天井には幾つもの照明が常に空間を照らし出している。
食事は日に三回。運動と称してオリガの同伴を受けて建物内を散策し、先程のような屋内庭園を幾つか回るのが日課。特に決まった労働義務も無く、実態は半ば禁錮に近しい。それ以外の時間の全てを男は房で過ごしている。
では部屋の中で何をしているのかと言うと……。
「さて、『単連結な三次元閉多様体と三次元球面が同相』であることは証明できた。次は何を証明しようか……。ああそういえば、『四つの力の統一理論』についての式がまだ途中だった。進捗率99%……うむ、よろしい。我が脳髄はまたもやこの世の謎を解き明かすだろう」
計算。計算。計算。
“彼ら”の利き手が動きを止めたことは、この五百年間にただの一度もない。この限られたこの空間で常に何かを計算し、そしてそれは未だ終わりを見せることがない。支給された紙だけではもはや足りず、数日で十数本ものペンを消費する彼の計算は……。
「だがその前に、引越しだ。流石にもう『余白』が無い」
ペン先は紙をはみ出し床に進出し、四方の壁を埋め尽くし、天井を黒く染め上げた。
黒く、だ。この言葉に誤謬は無い。過分も無い。元はインクを細く紡ぎ出すペン先から始まったはずのそれは、絵筆で塗りたくられたように空間を染め上げ、もはや髪の毛先ほどの白さえも駆逐されていた。もはや染め上げる黒の一つ一つが文字であったなどと、これを見た誰が理解できるだろう。
ここの、どこに、何を書いたのか、それはこの男だけが知っている。そして書き込んだ式が表すところも彼だけが理解できる。もし他の誰かにここの式の一端を見せたところで、それを数字と文字の適当な組み合わせにしか見えないことだろう。“人類が解答に100年を要するはずだった”数式も、“この世界を満たす四つの力の統一化”も、それ以外の“本来なら人類には解けるはずのない”数々の難問でさえ、彼にとっては残りの刑期を過ごすまでの暇潰しでしかない。
そしてこの空間全てを余白として使い潰せば、また次に書ける場所へと移動する。書き溜めたノートを捨てるように、彼は余白に満ちた次の部屋を求める。
「まだだ、まだ足りない。“我々”の数式が完成するにはまだ足りない」
何が足りない。
それは因子、式を完成させる最後のファクター。パズルの絵を満たす為の欠けたピース。それが足りない。地表全てを使わなければ解けないパズルでも時間を掛ければ解ける。だが初めから無い物を使わなければ解けないのなら、その作業は一気に難行となる。無から有を生み出すのだ、容易いはずがない。
「私ねぇ、貴方との付き合いは長いって自覚はあるけれど、未だに分からないことがあるのよね」
次の新しい部屋へ男を連行しながらオリガが訊ねる。
「貴方って、いつも一人称が複数系よね。それ何か意味があるのかしら?」
「“我々”は常に単独であり複数だ。個にして群であればこそ、話口調も自ずとそうなるのは自明の理だろう」
「ここに容れられた囚人は貴方だけよ」
「悪魔の眼は思いの他節穴のようだ。その目では世の真理など、とてもではないが見極められるはずがない。悪魔の祖先が天界なる場所から追放されたという『お伽噺』も、頷けるというものだ」
「聞いた私が馬鹿でしたよーだ」
男の小馬鹿にした物言いにオリガは機嫌を損ねてしまい、次の部屋の鍵を投げて渡すとそっぽを向く。看守にあるまじき怠惰だが、問題ない、どうせここからは逃げられない。「そういう風」に造られているのだ。
「やれやれ、ひとつ隣の部屋の鍵を渡すだけの稚児でも出来る作業が、何故にここまで無駄な手間暇を掛けなければならないのか……私には理解に苦しむよ」
「この建物丸ごと一つ、貴方の為に使わせているようなものなのだから、少しぐらいは遠慮というのを思い知るべきだわ」
「この空間は既に“我々”のもの。それをどう使おうと今更誰に咎められることがある」
渡された鍵を手に部屋を開け、早速ドアの内側に式の続きを書き込んでいく。学のない、いや、学のある者であっても完全には理解できないであろう文字と数字の複雑な組み合わせ。彼だけが理解できる「異界の法則」が空間を侵食していく。
「もっと、もっとだ。我が智慧は必ずや世のベールを破り捨てる。我が理論に刮目せよ。我が万能を喝采せよ。我が築きし機構に平伏せ」
世界を殺す猛毒は、ゆっくりと、しかし確実に真白の世界を漆黒に染めていく。
デーモンのオリガはこの大牢獄、『象牙の塔(シャトー・ド・イヴァール)』の監獄長というのは既に話した通りだ。彼女はここの管理者であり、今や唯一の囚人となった男を監視する看守でもある。
しかし、彼女は魔王により直接任命された訳ではない。より正確に述べるなら、魔王の勅命を受けた重臣からの任命、というべきだろう。
今の世で魔王と言えば、それは先代魔王より王位を継承されたかつての第四皇女を指す。夫である元勇者と共に主神とその眷属を下した先代魔王は、かつて天界と呼ばれた場所に座し、夫二人と同じく神に近付いた第一から第三までの皇女を引き連れ、神々として世界を見守っている。今この世界を事実上支配している新魔王はかつて人間界を最も長く支配した経験を活かし、人間の政治を取り込んだ彼女は司法や行政などに己の手足となる重臣を細かく配置することで効率的な政治を執り行うことに成功した。
そしてオリガは、王魔界の中心で政務をこなす魔王により任命された大臣、そのうちの一人から任命される形でこの大牢獄に就任した。彼女は魔物娘としてはまだ若く、青田刈りとも思える大抜擢に彼女の同期も驚きに沸いたほどだった。
しかし、場所は辺境の最果て、それも収容人数一名だけの牢獄の管理人。実態は完全に地方の片田舎への栄転という名の左遷だった。こちらへ異動となってから同期からの便りもぱったり途絶え、毎日日誌に「本日異常なし」と決まったルーチンワークをこなすことだけが日課と化している。
だが、彼女の本命は違うところにある。
『それでぇ、その後の調子はどうかしらぁ〜』
遠く離れた地点の像を結び映す魔術を込められた魔宝石、そこに映し出される半透明の相手はオリガを監獄長に任命した王魔界の法務を司る大臣だ。種族は同じデーモンだが、三百年前の天界との最終決戦にも最前線で活躍したという武勇伝が伝わっており、王魔界一の武闘派として知られている重鎮だ。フレンドリーに話しかけているが、本来なら映像越しに謁見することすら難しい相手である。
「芳しくないです。3711の活動は依然として続けられ、その進行は止まるところを知りません」
『そ〜ぅ。外部との情報をバッサリしちゃえば〜、何とかなるかと思ったんだけれどなぁ〜』
普通の牢獄では生温い。あの男は鉄格子で囲われた「隙間だらけ」の空間に置いただけでは閉じ込めたことにはならない。彼を“完全に封印する”為だけにこの『象牙の塔』は存在している。外界とのあらゆる一切の繋がりを断たなければそれが成せないほどに、その存在は劇薬なのだ。
だが……。
「……あの、お聞きしても?」
『なぁに? 何でも聞いて頂戴』
「囚人番号3711……あの人は、何を仕出かしたのでしょう?」
施設を管理する監獄長でありながら、オリガは唯一の囚人の罪状を何一つとして知らされていない。知っているのは、科せられた刑期が2000年という、人間に与えられたそれとしては桁違いな刑罰だけ。彼女が施設の長として就任した時には、彼は既にここにいた。
ここの責任者として知っておかなければならない事実、だが当のオリガはそれを知らされていない矛盾。彼女がそこに対し疑問を覚えるのは至極当然だった。
しかし……。
『あなたがそれを知る必要、あるのかしらぁ?』
口調は猫なで声だが、その裏には明らかな拒絶の色があった。それは即ち、オリガはここの施設を管理する者であって、責任者ではないと暗に言っているのと同じことだった。
『あなたに与えた任務は二つ。ひとつは、日々の記録を逐一わたしに報告することぉ。そしてぇ、もうひとつは〜?』
「3711を、こちら側に引き込むこと……です」
『そう。そっちの方は“可能なら”で構わないわぁ〜。あなたも栄えあるデーモンの端くれなら、そろそろ手頃な男と契約しておくのも悪くないと思うのよねぇ』
かつてデーモンは悪魔と呼ばれ、人間を相手に「契約」を迫った。巨万の富、不老長寿、地位と名誉……人間が望むありとあらゆる欲望を叶える力を持ち、どんな浅ましく大それた願いも立ちどころに実現させた。何の後ろ盾も持たず歴史も無い浮浪者が、悪魔と契約したが為に国を興すほどの力を手に入れたことさえあるという。
だが当然、対価は大きい。往々にしてそれは契約者本人の魂であり、悪魔に対価として捧げた魂は天国にも地獄にも行けず、永久無限に悪魔に弄ばれ続ける末路を辿るとされた。叶えた欲望の規模によっては、それこそ子々孫々、末代に至るまでの血肉と魂を要求されたという記録すら残っている。
しかしそれらは昔の話。末裔たるデーモンが迫る契約とは、あくまで快楽を主体とした相互関係を結ぶもの。提供し享受するモノが極上の快楽に変わった点を除けば、彼女らデーモンは新世界の法則に最も高い適正を発揮した種族であろう。その適応力の高さと、良くも悪くも人間に最も距離が近い種族特性、その二つが彼女らデーモンとその近縁種であるデビルを魔界の過激派へと成長させたとさえ言われているほどだ。
『まぁ、契約に関しては最終的な判断はあなたに任せるわぁ〜。契約は人間だけでなく悪魔にとっても一生の問題……慎重に決めたいわよねぇ』
デーモンとデビルにとって契約とは、そのまま「結婚」という言葉に置き換えても差し支えはない。つまりはこの上役は、暗にオリガと囚人を結び付けようと焚きつけているのだ。そうすることで囚人の目をオリガ一人に向けさせ、彼の行っている謎の研究への意欲を削ぎ落とす、それがこの大牢獄で執行される真の刑罰だ。
『でもでもぉ〜、あなたを任命してそろそろ一年になるのにぃ、何でそういう報告が上がってこないのかしらねぇ? 一年よ、一年! 同じ空間で男女水入らず、邪魔する人なんてどこにもいないのに、どうしていつまでも手付かずなのかしらぁ〜?』
「す、すいません。私の方も幾度かそうなるように試みたのですけれど……」
『けれどぉ?』
「……3711を前にすると、なぜかその気になれなくて……」
通常、魔物娘は情の深さにおいては他の追随を許さない。それが異性であり、嫌でも四六時中顔を合わせ会話をする仲ならば、一年も経つ頃には立派な夫婦が誕生しているはずだ。
だが実際のところ、オリガと囚人は一年という長い時間を共に過ごしたにも関わらず、ただの一度としてそういう間柄になった事はない。囚人の方にそう言ったものを求める節がないことは認めよう、だがオリガは魔物娘、相手を「その気」にさせる手段など幾らでも知っているし、それを実行に移すことも容易い。
その彼女が、常に男を求める本能が強くある魔物娘たる彼女が、たった一人の男を前に「その気」になれないと言う。これは言葉で語る以上に由々しき事態であった。
『ふぅん、そう……。やっぱりねぇ』
しかし上役はそれを意外に思わず、むしろ予想していたかのような口ぶりで頷くだけだった。丁度そのタイミングで通信の限界を知らせる音が魔宝石から響き、本日の報告業務は終了となった。
『ひとつ、教えてあげるわぁ〜』
通信が途切れる寸前、上役は何を思ったかこう告げた。
『囚人番号3711、彼が……いいえ、“彼ら”が犯した罪。それはねぇ〜』
映像が途切れる瞬間にノイズが走り、その時振り返った上役は一言静かにこう言った。
『世界を壊そうとしたの』
男の右手は新たに与えられた部屋を、僅か三日足らずで半分以上も黒く染め上げた。床はとっくに埋め尽くされ、四方の壁も幾重に文字が上書きされ、もはや残っているのは天井だけだった。その天井すらも、どこから用立てたか脚立の上に乗って壁画を描く芸術家のように、天井にも数式を書き込み始めていた。
「なるほど、星の重力とはこのように発生するのか。ハハ、素晴らしい。我が智慧はまたもや謎を解き明かしたぞ」
「私には何が何だかよく分からないわね……」
空間を侵食する数式の波を見物しながらオリガは今しがた完成したという、「星の呪縛」を解く数式を眺めた。相変わらず何を計算したのか皆目見当もつかない羅列だが、オリガにはそれがただの出鱈目なラクガキには見えなかった。
「こんな変な式を作らなくたって、魔術で空を飛べるじゃない。その方がずっと楽チンよ」
「クマバチを知っているか」
「いきなり何よ? 知ってるも何も、あのブンブン耳障りな可愛い虫でしょう。それがどうしたのよ?」
「あの蜂は物理的、および力学的に考えて飛行することなど出来ないのだ。体のサイズ、形、羽の形状、その他諸々の要素……全てを引っ括めて計算すると、どう足掻いたところで計算結果は『飛行不能』に行き着く。だのに、奴らは悠々と空を飛ぶ。これは一体どうしたことか」
「だから?」
「ある時、“我々”の一人がこう言った。『クマバチは自分が飛べると思っているから飛べるのだ』、とな。目からウロコだったよ。よもや“我々”の中にそのような非論理的な言葉を吐く輩がいようなどとは思いもしなかった。だがまあ、言い得て何とやらだ。偽薬然り、思い込みとは時に理不尽なまでに不条理を成立させるものだ」
プラセボ、あるいはプラシーボ。小麦粉を練って固めた小粒を丸薬と言い聞かせて飲ませれば、本当に風邪が完治したという記録さえある。人間の思い込みが条理を捻じ曲げるように、虫の一念が本来飛べぬ体を飛ばしたのだと“彼ら”の誰かがそう言ったのだ。
「まあ、実際は大気の粘度を数値に変換し式に組み込むことで、クマバチが飛行可能ということは証明できるのだがな」
「それで? 貴方は結局何を言いたいのよ?」
いつも通りの迂遠な物言いに、いつも以上の含みを感じたオリガが更に追及する。そんな彼女の苛立ちにも似た感情を察したか、天井に走らせるペン先をふと止めて男はぼそりと呟いた。
「君達が魔法、魔術、魔力と呼ぶモノ……それは果たして、本当に実在するのかな?」
「どう言う意味?」
「空は青いな。ああ当然だ、空は青いものだ。太陽の光に含まれる青の波長だけが視覚化され、あそこまで澄み渡る色彩を醸し出している。そのメカニズムを知っていようと知るまいと、今も昔も空とは青いものだ。だが逆にこうは考えた事はないか。あの青い空は、実は『青いと思い込んでいる』から青く見えるのだと。本当は青ではなく赤ではないのか。あるいは、今は青でもかつては灰色だったかも知れないと。本当は色も何も無いのに、我々が空は青いモノと『勝手に思い込んでいる』からそう見えているだけではないのか」
「誰の目から見たって、空は青いわ!」
「星はどうだ。夜天に煌く星々の光は幾千幾万という時を掛けてここまで届いている。だが暗黒の海の果てに、あの空の向こうに星があるなど誰が確認した。あの光は星以外の何かが発光している、あるいは発光しているように見えてその実全く別の何かであるかもしれないのに、誰もがあれを星の光と言う。冷静に考えればどんな愚鈍でも思いつく疑問を、奴らは誰一人として認識していない」
「それは……!」
「あるいは、これはどうか。目の前で話している相手が本当に実在するかどうかなど、どうして分かる。視覚? 聴覚? 匂いがあり、触れられている? それがどうした。感覚と実在の是否は関係ない。そこに存在すると『思い込んでいる』だけだと、どうして言い切れないことがある」
「…………」
オリガは言葉を失っていた。彼女の脳は男の言葉を完全に理解できていない。まるで、そう、この空間を埋め尽くす数式と同じ、理解不能な異界の法則。それを叩きつけられた彼女の理性は思考を放棄していた。
それは彼女自身、無意識の内に理解してはいけないと予感していたからか。「理解してしまえば何か恐ろしい事になる」、そう直感したからこそ彼女は……。
「なあ、悪魔よ」
そんな彼女の葛藤を無視して、脚立の上から男は訊ねる。相変わらず視線だけは天井を見上げたまま、その言葉も壁に向かって投げかけながら……。
「君は果たして、そこに『いる』のかな」
その言葉は世界を、侵す。
館内時間で夜を迎えたこの時刻、オリガは事務室で過去の記録を漁っていた。彼女以前にもこの施設の管理を任された獄長が何人かおり、彼ら彼女らが残した記録から囚人番号3711の更なる実態を把握しようとしたのだ。彼自身の悍ましい言葉や、裏事情を知っているらしい上役の発言からして、彼の収容には何かしらの思惑があると確信しての行動だ。
だが……。
「どういうことよ、どこにも記録がないじゃない!」
本来なら引き継がれるべき施設の記録やその他の資料だが、なぜか肝心要の3711に関する物だけがごっそりと抜け落ちていた。これでは彼が過去に何を仕出かしたのか具体的な内容を知ることが出来ない。
結局、一時間も掛けて家探しした挙句見つからず、オリガは諦めて椅子に深く腰を落として休息を取ることにした。ここにそれが無い以上、自分にはどうすることも出来ない。
わざわざ一人を収容する為だけに造られた監獄だ、何かしらの裏があるというのは間違いなさそうなのだが、それを調べるのは予想以上の手間になることは想像に難くない。というか、単純に面倒臭い。上役を問い質すという選択肢もあるが、あの口振りからして素直に教えてくれるとは思えない。
本当はこうして調べることさえ許されないのだろう。だがここまで秘密のベールに覆われ、それでいてその中心となる人物がすぐ近くにいるのだ。気にするなという方が無理な話だし、こそこそ嗅ぎ回りたくなるのが人情だ。
「私もそろそろ寝ようかしら。夜更しは美容の天敵よね」
家探しで色々とひっくり返した机の引き出しを仕舞いつつ、オリガは就寝の準備を始めた。今日はどうにも張り切りすぎた、いつもならとっくにベッドに入っている時間だ。
それにしても、と独り言をつぶやきながら彼女は寝室への道を一人行く。
「任命された時は浮かれて気が付かなかったけれど、よくよく考えれば前任者からの引継ぎが何もないっておかしな事よね。私の前の所長って……どこ行ったのかしら?」
直接の関わりがないとは言え進退を聞かされていない辺り、左遷かあるいはもっと直接的に首が飛んだか。いずれにせよ組織の身内にも表沙汰に出来ない内々の処分ということだろう。元々ここが辺境の窓際部署であることを考えれば後者の可能性が非常に高いが……。
「そう言えば……」
自室までの道で気になったのは、遥か下層への入口となっている階段。管理者として施設の全権を委任されてはいるが、ある程度から下は前任者が管理していたのでそこの様子は知らない。引き継ぎ云々というものもちろんそうだが、それ以前に知る必要が無いのだ。
ここより下は「使用済み」、即ち3711によって既に使い潰された部屋しか残っていないのだ。元々施設の最下層に封じられていた彼だったが、次々と部屋を食い潰しながら移動を繰り返し、遂には表層の目と鼻の先にまで居住を移していた。どうせここから脱獄など出来るはずもない、ならば好きにさせておけというのが方針なのだろう。
思い返せば、施設の管理を任された身でありながら自分はここより下には行ったことがない。行く必要が無いと言えばその通りなのだが、意識から抜け落ちたように今まで気にも留めなかった事が不思議に思えて仕方ない。ひょっとすれば奥の使い古された部屋にでも引継ぎに使える資料が残っているかもしれない。
「寝る前に少しだけ……」
そのつもりで足はいつの間にか階下へと向いていた。照明の落とされた暗闇を魔術の灯りで照らしつつ、オリガは地下に赴く。
夜の館内というのは一種異様な雰囲気に包まれている。だが通常の生物が暗がりに恐怖や忌避を覚えるのに対し、暗黒の魔性たるデーモンは逆に暗闇を好む。彼女らの祖先が棲んでいた暗黒魔界は真昼でも太陽の光が届きにくく、紅い月が妖しい燐光をもたらす暗がりの世界。そこを起源に持つ彼女らが闇を恐れることなど決して無い。
影は友、闇は衣、夜こそは彼女らの城。故に恐れる道理など無し。
だが、「ここ」は違った。
進入した直後には分からない。だが、一歩一歩、足を踏み出すその度に感じる違和感は徐々に大きくなり、やがてそれは無視できない歪みとなってオリガに襲いかかる。
(なに、ここ……? 何だか分からない。けど……何このイヤな感じ?)
まず、異変を覚えたのは肌だ。冷たくはない、その逆で暖かいわけでもない。空気は適温、露出の多い服装は外気を肌で感じるのに適している。ここの気温は常に最適に保たれている。
風を、感じない。
障害物も無い、動くものはオリガのみ。彼女の移動に伴い肩で風を切るはずが、どうしたことかそれを感じない。揺れ動く髪も確かに大気を掻き分けているはずなのに、不気味なくらい耳元は静かだ。
そう、静か。
もう、音さえも感じないほどに。
「っ……!?」
ちょっと待て。
いつからだ?
いつから音が消えた?
ヒールの高い靴、磨かれた廊下、コツコツと硬質な音が鳴り響いていたはずの空間は空気が消失したように音を消し、周囲の闇と合わせてこの場所は今や真空の場と化している事を気付かされた。
(ちょ、ここ、あっ……戻らなきゃ……!?)
動転した意識で辛うじて足は来た道を戻ろうと背後を向く。真に純化された本能とは、恐怖によっては左右されない。ただ漠然と、しかして直感的に「ここにいてはいけない」と感じ取ってしまうもの。斑に錯綜する精神が僅かに残った理性を総動員し、その心が正体不明の恐怖に押し潰されるよりも先に空間からの脱出を試みさせたのだ。
振り返った背後には、“黒”が広がっていた。
黒、黒、黒……。光を呑み、色を殺し、闇を生み出すクロ。
そこにもはや見飽きた廊下の光景は無く、指先のか細い灯りなどでは到底見通すことなど出来ない深淵がずっと続いていた。迷うことなくまっすぐここまで来たはずなのに、もうそこにはオリガが「通って来た道」はどこにも存在していない。
「え、どこよ、ここ? え? え、えっ!?」
ここは異界。もはやオリガのみならず、「この世界の誰も」知り得ない異空の次元。迷い込んだら最後、自力で抜け出すことは決して適わない。混乱と錯綜を繰り返す精神でオリガは必死に状況を理解しようと努める。だがここは深淵、藻掻けば藻掻くほどに身も心も更なる深みに飲み込まれ身動きが出来なくなる。傍目には闇の中で戸惑っているだけに見えても、実際は「目に見える以上」の異常が発生しているのだ。
そういえば、と脱出を諦めた理性が現実逃避のように周囲に対する考察を勝手に始める。
この空間の黒には見覚えがある。闇より広く、夜より大きく、そして影よりも深いこの黒……ああ、それは正しく、自分が常日頃目にしている――――、
「ほう、今回は少し早かったか」
その黒を構成するものが何であるかを理解した時、聞き覚えのある声が廊下に響いた。それまでオリガが行こうとしていた深淵の先から、まるで滲み出るように「いつの間にか」、そして「ずっとそこにいた」彼が姿を現す。
「あなたは……!?」
それは、ここにいるはずの無い者。この「どこにも通じていない」空間の片隅に封じ込められた、世界を殺す猛毒の化身。
「試行すること幾千幾万……ここまで到達したのは片手で足りるほど。うむ、やはり悪魔には素質があると言うべきか。はっ……あのような『乱雑な存在』の眷属如きに私の真髄を解する可能性があるとは、業腹だな」
ここは、「無」。影や闇という知性が生んだ概念、そんな夢幻が意味を与えられる以前の原初の姿。全ての存在を許容し、全ての存在を拒絶する空白地帯。そんな処を平然と行き来できるそれは、もはやヒトでは……いや、この世のモノですらない。
「どうして、ここに!? だって、あなたは……!!」
「ああ、そう言えば鍵はそのままだったか。私としたことが、『つい』我を忘れてはしゃいでしまったか」
今頃気づいたとばかりにわざとらしく手を打って、続いてその口はこう紡ぐ。
「たかだか『空間を閉ざす』程度の術でこの私をどうこう出来ると本気で思っていたのなら、そう思えた理由を懇切丁寧に問い質したいところではあるがな」
寂れていても監獄は監獄、囚人を閉じ込めておく機構には事欠かない。彼らを収容しておく部屋ひとつ取って見ても、逃亡と脱獄を防止する策が二重にも三重にも組み込まれているのだ。一度収監されれば自らは決して抜け出せないラビリンス、それが史上最難の監獄『象牙の塔』。
だが彼……いや、“彼ら”を封じ込めておくにはもはや、この空間は『古すぎ』た。術の規模の大小や、その緻密さ云々ではない。使用している力のフォーマットがそもそもからして、この異端者を封じる事に適していないのだ。さながらそれは虫取り網で猛禽を捕らえようとするようなもの、あるいは巨象を繋ぎ止めようと鼻先に糸を括り付ける場違いさだ。
「見ているか、かつて大魔道師と持て囃された『叡智』の銘を冠する者よ。私は二度、お前を攻略したぞ。悔しいか、悔しいだろう。だがこれは至極当然の帰結よ。やれ知識が、やれ魔道が、やれ真理がと、いつまでも実績のない思考実験ばかり繰り返すしか能がないお前らしい結末だ」
まるでこの空間を創った者を知っているような口振りで嘲笑う男。だがそんなことは有り得ない。この大牢獄が創られたのは遥かな昔、二度と“彼ら”が世に出ないようにこさえられたもの。決してこの男個人を閉じ込める代物ではない。しかも彼は長大な寿命を持たぬただのヒト、そんな彼が「ここの製作者の一人」を知っているように振る舞うのは不自然が過ぎるのだ。
いや、そもそもそれを言い出せば……。
ただの人間が五百年も刑に服していること自体が既に奇怪だ。
「五百年……短い時間ではなかった。『地上』で二百、『こちら』で三百、“我々”にとってはいずれも等しく屈辱的な雌伏の時だった」
狼狽し動けずにいるオリガとは対照的に、この無明の中で男は朗々と己の有様を口にする。彼にしか分からない、彼だけが知っている過去の出来事を思い返し、苦々しい物言いとは裏腹にその口元は喜悦の笑みを浮かべていた。それはつまり、この状況が徐々にこの不気味な男の思う通りになりつつあるということ。彼の思い描く計画が現実のものになるということ。
「だがそれもいずれ過去になる。“我々”の悲願は遂に実を結び、世界は再び“我々”の理論が正しかった事を知る。祝福せよ、喝采せよ、今こそ“我々”の勝利が訪れる」
闇が、否、無明が広がる。今の世界を満たす法を、秩序を、理を、まるで消しゴムでかき消すように滅していく。
いや、違う。「消す」のではない、元ある状態を全く別のモノに「書き換えて」いるのだ。塩水を砂糖水に変えるが如き所業は、本来そこに住まう命を強制的に排する。
「あなたは……いったい……」
薄れゆく意識を必死に保ちながらオリガは問う。眼前にいる、「悪魔よりも悪魔らしい」男に対し、何者かと問いかける。
その問いを受けて、男は初めてオリガを見た。それまでずっとただ一人で虚空に向かって言葉を投げ掛け、「会話しているように見せていた」彼が初めて自分以外の他者を己の視界に収め、そして己が属する“彼ら”の言葉でこう告げる。
「“我ら”の名は――――、■■。かつて『神秘』に敗れ、『世界』に排斥された者」
言葉にノイズが走る。彼の使う「新しい」言葉は未だ「旧き」に支配されるこの世界では正確に出力されない。特にその名は誇張でも比喩でもなく、一度はこの世界より跡形もなく抹消された忌むべき名。この世界の誰もその真の名を理解することは能わない。
唯一人、ここに“彼ら”を封印した者を除けば……。
「“我々”は、■■。もう一度言おう、“我々”は……否、この“私”こそが■■だ」
男の言葉に空間が歪み、ガラスを引っ掻く音と木々を粉砕する音が入り混じったような不協和音が世界を満たす。■■という、この世界の規格に適さない異物の存在が世界に対し与えるダメージはそれほどまでに深刻で、そして不可解なものだった。周囲の無明は言わば「虫食い穴」、その忌名を口にする度に世界が悲鳴を上げボロボロと崩れ去っていく虫食い穴だ。言葉を発するというただそれだけの行為が、既に世界を殺す力として機能するという脅威がこの男にはあるのだ。
「“我々”は敗れたる者。しかして、“私”はもう一度叛逆する者」
「あなたの、目的は……!?」
「嗚呼、この期に及び未だ“我々”に何故と問い掛けるか。疑問を追究するその姿勢は良い、実に素晴らしい。その在り方こそ“我々”が目指す新世界に相応しい」
逃げるのでもなく取り乱すのでもなく、更なる疑問を口にするオリガに惹かれるものがあったのか、男は喜びを拍手で表現する。そして乾いたその音が反響する度に世界がまた罅割れる。暗闇だった周囲はいつの間にか、ステンドグラスのように不気味で奇っ怪でグロテスクな色彩を放つ狂気の風景へと変わり、見る者全てに吐き気を催させる歪な空間となる。それはまるでこの男の心象を映し出したかのように……。
「さあ、教えよう。かつてヒトの始祖を誑かしたモノの末裔よ。今こそ“私”はお前にとっての悪魔となり、共にこの偽りの楽園を捨て去ろう」
それは禁断の果実。遥かな昔、神々ですら忘却の果てに追いやった楽園で、悪魔が手渡した知恵の実。差し伸べられる手は何も持たずとも、男がこの世界の前提を覆す「何か」を持っている事は明らか。それを知ってしまえば病魔と同じ、もはや逃れることは適わない。悪魔の身にすら余りある宿業と災禍を押し付けられると直感で理解している。
「あ、あ……ぁ」
「さあ。さあ……。“私”の手を取れ」
抗えない。元来、知と欲の探求者である悪魔を祖先に持つからか、あるいは存在そのものが悪性や禁忌の具現であるからか、眼前の男が醸し出す禁じられた魅力に抵抗することが出来ない。『行けば破滅しかないと分かっていても』、その先を思わずにはいられない。
「女」は。
「悪魔」の手を取った。
「ようこそ、“我々”の新世界へ」
そして、その瞬間に全てを理解した。
『深淵を覗く者は、等しく深淵から覗き返されている』
16/05/25 12:54更新 / 毒素N
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