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第九幕 二人の教皇:後編
 「全滅した、か」

 「そのようです」

 成果報告が無いどころか誰一人として帰ってこない事に業を煮やした城主が再び素破を放ってしばらくの後、その報告により派遣した部隊が丸ごと壊滅させられた事を知った。城主は例の如く病身であることも忘れて怒り狂い、家臣や小姓に当たり散らしながら寝室に引きこもってしまった。その喧騒を背後に伊良と百合井は城下の景色を眺めながら静かに機を計っていた。

 “伊良”と“百合井”はそれぞれ偽名。西方の外来人である彼らはジパングで活動するに当たり、通りの良い名を名乗っているに過ぎない。彼らの仕事も本来なら外交官の真似事などではなく、暗部に関わるもっと深い影の仕事が本分であり、曲がりなりにも表舞台にこうして姿を見せることが異常と言える部類の人間だ。

 「ここでの仕事も相当時間を食う羽目になりそうですね」

 「おれ達はただのメッセンジャーだ。あくまで陛下の意志を伝える伝令役に過ぎない。その結果このジパングという国がどう転ぼうと、それはおれの知った事ではない。陛下から仰せつかった仕事は果たされ、もうおれ達はここに居なくてもいい」

 領内に抱えた厄介の種を排除するために兵を動かしたいと願い出た藩主の要望を汲み、魔界の名代である自分達を介して幕府に許可を求めた。ここに来て予定外の仕事はそれだけであり、後はその厄介事とやらが排除された後に事業を開始するかを見届けてから二人の仕事は終わるはずだった。

 ところが、実際そうはなっていない。派遣された三十もの兵士は悉く返り討ちに合い、誰一人として敵の排除が適わなかったからだ。その事に老城主は怒りを露わにしているが、それと比べてこの二人は至極落ち着いた様子だった。それは傍観者であるが故の高みの見物でもあったが、それとは別の思惑を腹に抱えているからでもあった。

 「おれ達の『もう一つの仕事』は、意外と早く片付きそうだ。廃村に住み着いたとかいう件の不埒者……興味がある」

 「またですか。我が師よ、思い込みだけで行動されるのは如何なものかと」

 「今更だな。おれは直感だけでこれまでを渡り歩いてきた。博打と同じだ、結局のところ最後に物を言うのは理屈では言い表せない何かだ」

 「確かに悪い予感は当たると言いますけども……」

 「そういうことだ。この国には、『二度ある事は三度ある』という諺がある。おれは既に三度、これと同じ物を感じ取っている……なら四度目があっても不思議じゃない。いや、そうでなければ極東くんだりまで足を運んだ意味がない」

 百合井には分かっている、伊良は決して憶測推測だけでは物を言わないと。彼の発言は常に現状を冷静に、そして冷徹に見据えており、それらに対する発言全てに過分な脚色や偽りは存在しない。いつ如何なる時と場合でも彼は『本気』でしか行動を示すことはない。有言実行という言葉が服を着て歩き人語を喋っている、それが伊良という人間だ。

 その彼が、感じると言っている。「目で嗅ぎ」、「鼻で触れ」、「舌で聞き」、「耳で味わい」、「肌で視る」……五体の感覚全てに訴え掛ける力強い波動、それを放つ者の存在を山の向こうに感じ取っていた。それと同時に思い起こすのは、これと同じ波動を放っていたかつての強者たちの姿だ。

 「おれ達は今までに見てきた。“餓狼”……“怪人”……こいつらはその肉体が、その精神が、その在り方が、凡百の愚図とはズレた場所に存在している。今はまだ常人の範疇だがいずれ……いや、このまま研鑽を積めばその力は必ず別次元に届く。あいつらは戦乱と闘争からは無縁でいられない、否が応でも扱き鍛え磨き上げられる運命にある。そうして戦い、闘い、斗い続けて……乱世に現れる戦闘の頂点、一つの時代に代表される傑物を人々はこう呼ぶことになる」

 「それこそが、『英雄』……我々の探し求めるモノ」

 勇者が神による「選定」を経て成るモノならば、英雄とは運命による「淘汰」を乗り越えた存在だ。戦闘、破壊、殺戮の極まった世に現れて、ある者はそれを平定するため、またある者は更なる混乱への呼び水として同じ力を振るう。それがヒトの最強種として覚醒した者、神の意志の介在すら許さぬ人界が生み出した血と暴力と蹂躙の結晶体……それが、「英雄」と呼ばれるモノの正体。ある意味では勇者以上に希少かつ危険な存在でもある。

 「魔王陛下より仰せつかった『英雄探索』の任務もいよいよ大詰め。約束の数は……『五』。あと一人、あと一人見つけることが出来れば」

 「焦るな。おれ達は、ここで静かに見極めよう……山の向こうにいるあいつが、『五人目』であるかどうかを」

 座敷に腰を落ち着け、瓢箪の中の酒を飲む伊良の脳裏にはこれまでに出会った「英雄」達の姿を思い浮かべていた。それは隣の百合井も同じであったか、渡された瓢箪に自分も口を付けながら酒を飲み合う。

 「さて、お手並み拝見といこうか……『この時代五人目の英雄』よ」

 藩内全ての兵士が城に集められたのは、この翌日のことである。





 「やってくれたな……ええ? この生臭坊主が」

 早朝の迎撃を終えて帰って来た風間を待っていたのは、これまでにないほど不機嫌な顔のルリだった。流れる髪はどんな神通力を使ってかゆらゆらと揺れ動き、口の端からは彼女の怒りを顕すように霊気を多分に含んだ陽炎が吹き出して、今にも火でも噴いて風間を焼き払ってしまいそうな気迫を感じさせた。

 「どうどう! 何だどうした、何がそんなに不機嫌だ? ああ、風呂用の薪を用意しておくのを忘れた! 君が三度の飯より朝風呂が好きな事を忘れていた私の落ち度だ」

 「戯け!! そんなことどうでもいいじゃろが! お前は加減というのを知らんのか!?」

 「ああ、昨日張り切りすぎて罠を沢山しかけてしまったからな。喜べ、今夜はウサギ鍋と洒落込もう」

 「そんなことを言っておるのではないわ、この唐変木が!! おい、分かっておるのか……お前は彼奴らを本気にさせたぞ、己が身が可愛ければ早うここから立ち去れ!」

 土地神であるルリはこの廃村とその一帯を取り囲む山々で起きた出来事を全て知り得ることが出来る。未明の内に斥候の忍が入り込んでいた事はもちろん、その後に三十もの集団が山に入った事も、その直後に風間の手によって全滅させられた事も、全ての経緯をこの社にいながら知ることが出来た。守ってみせると豪語しただけの事はあると感心するよりも先に、ルリは事の重大さを前にただ果てしない焦燥だけを感じていた。

 じきに相手も手の者が全滅したことを知るだろう。そうなれば今度はもっと大勢の数で攻めてくることは目に見えている。一度に三十人の数を相手取り嵌め殺しにしてみせた事は確かに凄い、だがそれが百、二百という数で押し寄せれば無双と呼ばれる猛者でも膝をつく。二百年も生きたルリは多くの合戦を見聞きしたから数こそが力の本質だということを知っている。ここはもう戦場になってしまったのだと嫌でも分かってしまったのだ。

 どんなに得体が知れず真意が分からずとも、ひと冬の間ともに過ごした相手が多勢に無勢となり磨り潰される様など見たくはなかった。だからこそこうして逃避を促している。

 「東へ落ち延びろ。そうすれば西から来るあやつらをわたしが抑える事も……」

 嘘は言っていない。痩せても枯れても龍の端くれ、衰えた体に鞭を打てばたかだか数百程度の人間を追い払うぐらいは訳もない。それがいつまで続くと聞かれれば答えに苦しむが、それがこの男を守る最善にして唯一の方法だった。

 だというのに、この男は……。

 「それは出来ない相談だな。逆ならまだしも、私が逃げ出したとあっては本末転倒。私はテコでもここから動かんと誓おう」

 「ッ、お前という男は……!」
 
 神としてこの地に縛られたルリはここから逃げ出せない。そんな彼女を守りながら戦うという事は、押し寄せる大軍を前に逃げも隠れも出来ない事を意味する。合戦の歴史を紐解けば少数が多勢を破ったという話は枚挙に暇がない。だがそれは結局、多くの戦乱の歴史の中に紛れたほんの断片に過ぎず、多くの場合において少数と多勢がぶつかれば前者が磨り潰されることは常識である。ましてやこちらの手勢はたった一人、一国を相手に喧嘩を売るなど正気の沙汰とは思いたくない。

 「狙われているのは君で、守るのは私、君は何も気にせず心配もせず、ここで変わらぬ暮らしを送っていればそれでいい。大丈夫だ、君は私が守る」

 「違うだろう……そうじゃなかろうに。わたしが言っているのはだな……!」

 「無論のこと、一国の軍勢と戦うその意味を私も理解している。押し寄せる敵をこちらから攻めることなく君を守り通す……ああ、容易いことではないだろう」

 違う、簡単か難儀かという話ではない。この事態をそういう物差しでしか計れない時点で、この男は致命的に間違えている。それはつまり、ここまでの危機的状況において風間の脳には「逃走」とか「撤退」という選択肢が欠如している事を意味していた。まるで御伽噺に出てくる義の士、絵の中の人物ががそのまま肉を得て言葉を話し始めたような違和感……言葉は通じるのに話が通じていない、そんなちぐはぐな感覚にただ困惑するしかない。

 「だが、何度も言うようだが心配には及ばない。私には君を守る義理がある、義務がある、それを可能とする術もある。例え敵が雲霞の如く押し寄せようと、それで私が退く理由にはならないのだ。何故なら……」

 何故なら、君は私の恩人だから────。

 続く言葉は一切の淀みが無く、それが天地神明の理と確信していることを表すものであり、それと同時に風間という男の本質を余すことなく示していた。

 「…………狂っている」

 「なに?」

 「お前は……狂っている。常人の神経ではない、お前は……おかしい」

 賢いものならば……否、別段賢くなかろうが人は危険を避けようと努力するもの。だがこの男は自ら好んで死地に飛び込もうと、危機が向こうから迫ってくることを望んでいるとしか思えない。でなければこんなにいい笑顔を浮かべられるはずもない。何もかもが思い通りとでも言いたげなその表情は、あまりにも爽やかに過ぎて、いっそ邪悪にさえ思えるほどの純粋無垢さを押し出していた。さっき絵の中の人物が云々という比喩をしたが、これはそんな生易しいものじゃなかった。

 純真無垢も時には害悪となる。赤子の心を持った大人が存在するというその狂気を思い知らされる。

 「君には、私が必要なはずだ。何も、何も心配は要らないのだよ。全て私に任せればそれでいい」

 ルリの心配など意にも介さず、風間は獲ってきたウサギの皮を剥ぎ始める。これまでそうしてきていたように、人を殺めたその手で飯を作る。そして事も無げにこう言ってのけるのだ。

 「これだって、君が頼んだんじゃないか」

 言われて思い出すのは、彼がここへ来てまだ間もない頃のこと。まだ彼のことを世話好きの節介焼きとしか思っていなかった時、何度か飯炊きぐらいは自分でしろと言われた。やれ女なのだからとか、やれ怠惰に過ごしてばかりではと口うるさく説教されたが、一週間もする頃にはそれもなりを潜めいつしか言葉だけは催促しながら暮らしにおける労働の大半は風間が担うようになっていった。

 今思えば、彼は初めから自分に何かをさせる気など無かったのではないだろうか……?

 初めから全ての労働を放棄して怠惰に過ごすと分かっていたから、あえて無理強いはしなかったのでは……?



 だってそれが君の望みだから。



 「……っ」

 それは鈴か鐘か銅鐸か、振れば鳴り、叩けば響く伽藍洞。その心は、空っぽの脳足りん。

 多分、ここでルリが一言「死ね」と言えば、それが本心からの言葉であれば彼は躊躇わずそうするだろう。風間はそういうモノである故に。

 思い返せば、彼はいつだってそうしていた。

 腹が減ったと言えば飯を作った。

 面倒臭いと言えば代わりに掃除をした。

 寝床を作り、風呂を沸かし、畑を耕し、生活の全てを賄った。

 いや、そもそも……十年も一人孤独に過ごしていた場所にこんな都合よく現れた事、それ自体が既に……。

 「ああ、いけない。山菜が足りないな。取ってくる」

 ふと思い出したように呟くと、血抜きついでに皮を剥いだウサギを吊るすと再び外出の準備をする風間。狂気の一端に触れたルリは彼に一言も声を掛ける事が出来ず、張り付いたにこやかな笑みを浮かべて山に向かうその背を黙って見送るしか出来なかった。

 「何度でも言おう。君は、何も、心配しなくていいんだ」

 全てを分け与える天主が如き口ぶりも、今となっては猿回しの腹話術にしか聞こえず……。

 事態の深刻さを理解しているのは今やこの天地にルリ唯一人だけだった。

 龍のルリ……その本名を、赤城命(あかぎのみこと)瑠璃姫と言った。赤城とはここより南に下った所にある山の名で、彼女の母に連なる代々の龍は元々その山を守護する魔物であった。古くはいと高き海の神とも争ったとされる八ツ頭の大蛇を祖先に持ち、神代の血を引き継ぐ霊格の高い一族であった。

 東の山を根城とする大百足との争いを経て傷付き、その傷を癒すべく山を降りたのが祖母の代。共に大百足と戦った気骨ある若武者を婿として母が生まれ、母が成長するにつれて集まった者達が村を作り、その中から選ばれた祭司を婿に迎えてルリが生まれた。

 土地神となった龍はその地を守護し、豊穣を約束する存在となる。だが豊穣と恐慌は表裏一体、いたずらに豊穣だけをもたらしても疫病が発生し、常に陰と陽の揺り戻しが存在してしまう。自然と人の間に立つからにはそのどちらにも寄り添う力量を求められ、そうした天秤を見極めて少しでもプラスが多くなるようにするのが自然の調停者たる土地神の役目だった。かつての人々はその事を理解していたからこそ、日頃の感謝という意味を込めてルリら龍の一族を崇め奉っていたのだ。

 そうした関係が崩れたのは十年前のこと。藩主がこの地一体の税率を見直し、重税を掛けてきた辺りからだった。聡明なルリにはその突然の圧政が自分に関わりがある事を早くから見抜いていた。だがこの地に生きる者らにとっては寝耳に水でしかなかった。山間の辺鄙ながらも豊かだった村は瞬く間に搾取の対象となり人々を苦しめ始めた。

 僅かな種籾だけを残し搾り取られる税を見て彼らは龍神に願った、「どうかこの地により多くの実りを授けたまえ」と。だが過度な豊穣は大地に過負荷を与え、それがどんな揺り戻しをもたらすか分からない。土地神としてそんな博打を打つことは出来ないとルリは断腸の思いでその願いを拒んだ。その結果、信仰が失われ自らは土地ごと廃されることになると分かっていても……。

 若い者からルリに愛想を尽かしてどんどん村を離れて行き、村は年寄りだけになっていった。そしてそれに反比例して外からちょっかいを出してくる不逞の輩も現れ、いよいよもって相手の狙いが自分だという確信を得られた。だからと言ってこの地を離れられない自分にはどうすることも出来ないと、来る日も来る日も社の中で惰眠を貪りながら時間だけを浪費していくしかなかった。

 そして遂に、老人たちが死に絶え村にはルリだけが取り残された。山間の豊かな村は瞬く間に人の手入れを離れ荒れ果て、周囲の山野と同化して消え果てるのも時間の問題かと思われた。日に日に信仰を失い衰えていく我が身を見ながら、次第に藩主の手の者を追い返す力さえ削れていくことを確認しながら、もう長くは生きられないだろうと半ば覚悟を決めてもいた。

 だがそれに異を唱える者が現れた。

 「けしからん、実にけしからん! 災いを退け恵みを与えてくれた恩も忘れ、己らの都合だけで土地を捨て、神を捨てた不心得者どもめ!」

 冬の山を通り掛かった所を招き入れた旅の坊主、彼だけがルリの現状に憐れみを示し、唯一人それに憤ってくれたのが伽藍坊風間を名乗る彼だった。最上位の魔物であるはずのルリが一人寂しく廃村で過ごしていることを訝しみ、何かあったのか教えてはくれないかと問われたのでほんの気まぐれのつもりで答えたのだ。するとその境遇に感情移入した風間は我が事のように怒ってくれた。一期一会、たまたま出会ったばかりの相手にここまで同情してくれる事に気を許したルリは、そこから先の込み入った事情もぽつぽつと話してしまった。

 自分はどうやら藩主に目の敵にされている……と。

 「それはまことか!? むぅ、一国を任された身でありながら何故そのような愚行に出るのか! 世の中とは非情にして不条理なものだ」

 ルリの言葉を特に疑うことなどせず風間は深く頷き、うんうん唸る仕草の後に手を打って……。

 「相分かった。聞けば聞くほどお困りの様子、ここは僭越ながらこの私が一肌脱いで力になって見せよう。なに、せっかく泊めてもらうのだから、せめて駄賃分は働いて見せようとも」

 生活のいくつかを賄うことを言っているのだと思っていた。だが時が過ぎて見れば風間は、いつの間にかもっと深い部分にも足を踏み入れていた。それこそ、取り返しのつかない場所にまで。

 聞いてくるのだ。

 ルリ、次は何をすればいい? 何か困っていることは無いか? あれもこれもやっておいたぞ。

 もっと、私を頼れ。

 もっと、私を必要としろ。

 もっと、もっと、もっと……もっとだ。私に君のありとあらゆることを任せろ。

 いつしか自分の命を狙う輩よりも、隣で飯の支度をするこの男の方がいっそ不気味にさえ感じられたのは……一体いつからだ。

 まるで人形、機械。「仕える」のではなく「使われる」ことに生きる価値すら見出している無私の権化、そういうモノに感じられてならない。

 恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい。

 彼が何を思っているのか分からないことが、恐ろしい。





 その日、宣戦を布告するものも何もなく、人の波は容赦なく山間を蹂躙し始めた。

 集めに集められた数は、2000。昨日の今日でここまでの数を動員した事それ自体も驚愕に値するが、何より驚きなのは……。

 「進め! 進めっ!! わしに逆らうならず者を屠った者には褒美を取らす!! 龍の肝を持ち帰った者ならば、望みは思うがままじゃ!!!」

 行軍の先に立ち檄を飛ばすのは、他でもないこの時世外れの進軍を画策した老藩主。恐らく初めて身に付けたであろう具足を馬上で揺らしながら、咳き込みそうになる胸を押さえつけ血走った目をギョロつかせるその姿は、さながら地獄から這い上がった亡者の如き醜怪さを醸し出して隠さなかった。ここにいるのはもはや数十年に渡りこの国を統治してきた君主ではなく、ただ己の欲のために病魔に侵された体を引きずる死に体の男だった。

 「何でもやろう……。領地をやる、蔵も開けよう、先祖伝来の宝物もくれてやるわ! じゃから……わしに、龍の肝をよこせぇぇぇえええっ!!!」

 もはや側仕えの小姓すら目を合わせようとしない。異常を極めた主に仕えるしかない我が身の不遇を呪っているのか、戦列の旗持ちすらも沈鬱とした面持ちだった。

 ぞろぞろと山中の道を行軍する兵士達は刻一刻と廃村へと距離を詰めていく。やがてその足並みは以前送った三十人の兵が倒れた場所まで差し掛かり……。

 「おおっ……!?」

 「これは!」

 「何と悍ましいっ!」

 兵らの行く手を阻むのは、山林三十三本に掲げられし骸の飾り付け。ある者は体を八つに裂かれ、ある者は四肢に杭打たれ、またある者は全身を隈なく焼かれていた。顎を裂かれ、皮を剥がれ、骨を折り曲げられた見るも痛ましい「三十三通り」の壊し方を実践された死骸が織り成すは、世にも恐ろしい惨死の博覧会。冬の寒気に晒され腐ることすら許されず、壊された瞬間をそのまま留めた有り様に、それを目にしてしまった兵士達が一様に恐れをなす。

 当然、これは「そういう目的」でここに飾られている。恐怖はヒトのあらゆる行動を束縛する。冷静に考えれば指先より遥かに小さい毒虫でもそれを恐ろしいと感じるように、恐怖は時にどんな固い鎖よりも強くその身を束縛する。そしてその恐怖を最も強く意識させるのが、“死”だ。究極、野良猫の死骸ひとつでもヒトは大なり小なり恐れを抱く。ましてやそれが同種の死骸ともなれば効果覿面、死骸が飾る山林を前に行軍の歩みは一時停止していた。

 だが生憎、狂した者に恐れなどあるはずがない。

 「ええいっ、何をモタモタしておるんだ! たかが骸程度で恐れ慄くなど情けない、貴様らそれでも武士かっ!! 進めっ! 進めと言っておろうが!!!」

 もはや生き永らえる事だけを望みとする老藩主に恐怖が喚起される余地は無く、既に狂気に汚染された視界はたかが死骸に脅かされるほどヤワではなくなっていた。これが戦乱の只中であれば狂気に堕ちた振る舞いすら頼もしく見えただろう。だが今は太平の世、本当なら戦をする事もする必要すら無い時代。そんな時世にあって彼の言動はもはや余計に士気を下げるだけの効果しか発揮しなかった。ノロノロと再開した行軍も自主的なものではなく、ただ支配者に逆らうことも出来ない彼らの哀愁がそうさせるだけだった。

 彼らは山の守り人の思惑通り最低まで落ち込んだ士気の下に戦わねばならず、更になれない山道の行軍で徐々に体力を磨り減らしながら、廃村を望める場所まで辿り着く頃には体力は底を尽きかけていた。

 だが山頂に辿り着いた彼らの視界には、予想すらしていなかった異様な光景が広がっていた。

 「ありゃあ……なんだ?」

 「どういうこった? ここはもう誰も住んでないはずだろ? なのに何で……」

 口々に戸惑いの言葉が漏れ出るのも無理からぬ話。山より見下ろし一望した廃村に見た景色は、幾筋もの煙が立つ様子だった。火事ではない、ゆらゆらと仄かに湧き上がる細い煙は飯炊きや川魚を焼く台所の煙。人が去って十年経つはずの廃村は今や、そこかしこの家屋から炊事の煙がもくもくと立ち昇り、まるで今も人々が住んでいると思わせるような光景が広がっていた。

 「お、おい! ここって本当に人が住んでねぇんだよなっ!?」

 「ああ、そのはずだ……多分な」

 「多分って何だ多分って!」

 「知るかよ、俺らはそう聞かされただけなんだっての!」

 「おい、相手は斥候三十人を返り討ちにしたそうじゃないか。そんな奴がもっと数がいて、あの家々に立てこもってるとか……ないよな?」

 ここにいる者達は急遽集められた面々であり、それ故細かな作戦などは殆ど伝達できていない。場所は山間の廃村、敵は一人、村の守り神である龍を生け捕る事が最終目標、それぐらいしか聞き及んでいない。なのにここへ来て敵の数が聞かされていたよりずっと多い可能性が出てきた。

 険しい道、士気を下げる仕掛け、そして予想外の現場……一つ一つは小さくても、積み重なったそれらは兵の精神を少しずつ圧迫し、やがては「自分達を騙したのでは」と指揮官への不信と変わる。

 「恐るな!! これは敵の策ぞ! 数を多く見せることでこちらの気勢を削ごうとする姑息なやり方、惑わされるな!」

 兵法を学んだ武家の者らは瞬時にこれが敵の作戦と見抜いた。だが連れている味方は二千、長く伸びた隊列は情報伝達に劣り、そのくせ先頭で起こった不安だけは加速度的に伝播する。「前で何かあったらしい」とか、「話と違うじゃないか」など、そういう負の感情だけは恐ろしい勢いで戦列全体に感染していった。疲れと不安と恐怖、それらがやっと目的地を前にした彼らの足をさらに重くする。

 だが目的地を前にして何もせず撤退することは許されない。指揮官が敵方の策と見抜いた以上、下の者らはその指示に従って動かざるを得なくなった。山の中腹まで下り陣を構え、そこから一気に雪崩込み村ごと蹂躙する……単純で下策、だが単純であり簡単だからこそ最も効率的な手段だった。下した命令はたった一つ、動くものは殺せ、それだけだ。

 じりじりと戦線を広げながら村に迫る軍勢。先遣の鉄砲隊は玉込めをとうに済ませ、火縄に点火して銃を構える。戦場において銃は決して当たることを期待されていない。重要なのはその発砲音で相手を威嚇し、「もしかしたら当たるかも」とその動きを牽制することだ。始めに鬨の声で敵方の出方を窺い、次に一斉射、続いて槍を持った後続の部隊が突撃という流れだ。

 山の中に火薬の臭いと兵たちの緊張が満ちる。機を見計らって指揮官の軍配が天高く掲げられ、それを合図に二千の男達がほぼ同時に雄叫びを上げて突撃の姿勢を取り……。

 彼らの頭上を“黒い何か”が飛翔していった。その事に気付けた者はいない。

 二千の兵が入り込んだ山野は「森」ではなかった。根元付近を鋭い刃物で真一文字に切られ、伐採済みの「木材」となった物がそこにあった。本来なら支えを失ったことで重力に引かれ倒れるはずのそれらは、枝に紛れるように張り巡らされた縄によって互いに結び縛られ、絶妙なバランスで均衡が保たれていた。少し注意を働かせれば気付いただろう異常。だがここに来るまで散々不安を煽られた彼らはもはや目標一筋しか見えておらず、結果自分たちの周りが既に一寸たりと逃れる隙のない巨大な「ネズミ取り」に追い立てられたなど露とも気付くことはなかった。

 飛来した物体は中指ほどの小さな刃物、それが林立する「木材」を縛り付けていた縄を一本切断した。とある地方には、森の巨木を切り出した柱を倒し山の斜面を滑らせ運ぶ神事がある。七年に一度行われるその祭りは大勢で柱と共に斜面を降り、更に柱にも多くの人間が乗って滑ることから毎回の如く死者が出る危険な催しとして有名だ。その祭りでは柱は一本ずつ滑り出されるが、もしそれが五本、十本、二十本同時となればどうなるか?



 百本の木が同時に倒れれば、『森』が『崩れ』る。



 まるで将棋倒し、支えを失った最初の十本が一斉に倒れると、その煽りを受けた周囲の木々も連鎖して倒壊した。轟音と地響きは地震の如く山脈を揺らし、盆地周辺に潜んでいた鳥や獣が一斉に鳴き喚き一目散に駆け出した。飛び去った鳥の目には、まるで萎んだ紙風船のようにペシャンコに潰された森の様子が見えた事だろう。当然、そのど真ん中に陣取っていた鉄砲隊とその後続の槍隊はひとたまりもない、倒れた木に押し潰されただけでなく、滑り落ちる木と地面の間に挟まれ全身を鑢掛けされた者も多く、辺りは一瞬にして大惨事に見舞われた。

 「あぁ、足がぁぁあああっ!!?」

 「くそぉ! 敵襲ッ、敵襲だァァァーーーッ!!!」

 「むやみに追うな!! まずは傷を負った者を下がらせろ! 死骸は放っておけ!!」

 まだ息があり戦えそうな者から優先的に救助が始まった。軽微で済んだ者らは率先して後方に下がり、骨折や打撲、体の一部が木々に押されて動けない者らを助け出そうと多くの人間がそれと入れ替わる形で災害現場に進み出る。

 戦場では動けない者はただの的、辛うじて動けても負傷が酷ければ足手まといになる。そうなれば味方であるはずの彼らが行軍の妨げとなってしまう。だから下がらせる、その為にそれと同数あるいは以上の数で対応しなければならない。

 故に、そこを狙われる。

 救出行動を取る集団に紛れ込んだ異物……姿形が同じなら二千もの数に紛れたたった一人を探し出すのは至難の業、ましてその場所が今まさに混乱の最中にある戦場となれば皆の意識が他事に向くはずもない。その隙に姿なき闖入者は倒れた樹木に接近し、その幹の洞穴に拳大の物体を仕込んでいく。



 点火済みの爆弾、十数個。一斉起爆。



 押し潰された者を助け出そうと樹木に近付いていた、それまで幸いにも無傷だった者らは突然の爆発に見舞われる。爆弾による爆発で最も恐ろしいのは、爆炎ではなく飛散する破片の方。まんまと姿なき敵の術中に嵌った彼らは、その多くが顔や腕脚などに破片の雨霰を受けて破壊され一瞬にして再起不能に陥った。

 もはや作戦がどうなどと言っている場合ではなくなった。大多数で一気に押し切り蹂躙するという常道は出鼻から挫かれ、森一角を用いた大規模な仕掛けと爆弾まで飛び出した事で兵たちは恐慌状態に陥った。辛うじて保たれ統率されていた隊列は乱れに乱れ、遂には武器を放り出して蜘蛛の子を散らすように逃げる者まで現れ始めた。

 「戻れぇぇ!!! 戻らんかああああああっ!!!!」

 戦う前から兵に逃げられたとあっては自身の首も危うくなると、指揮官の怒声が彼らを引き止める。そして実際に彼らはそれ以上遠くに行くことはなかった。だがそれは指揮官の統率が為した業ではなく、彼らを足止めしたのはもっと物理的な、そして強固な縛りだった。

 「ぎゃぁああああっ、首が……首っがぁぁああああああ!!?」

 武器を捨て森を突っ切ろうとした者らを迎えたのは、木々や残雪の中から湧き出る黒い紐のような物体。蔓のように伸びたそれは食虫花の触手のように兵の四肢や首に纏わり付き、叫び声は絞められた喉笛に押し込まれて縊殺された。

 毛倡妓の髪は魔力を帯び、それを「生きたまま」加工すれば独りでに男に追い縋る力を持つ。それをより合わせて縄を作れば、自動的に男を縛り吊るし上げる魔道具の完成だ。男の気配を感じ取った黒縄は兵の手に、足に、そして首に纏わり付き、本来なら加減を知るはずの毛倡妓が存在しないせいで、瞬く間に首を締め上げ窒息死させる「生きた」罠としての真価を存分に発揮することになった。

 この時、幸運にも難を逃れた者らはようやく気付いた……自分たちは既に、嵌められたのだと。

 ここだけではない。既に廃村を取り囲む山々は殺人罠の大展覧会となっている。数百数千の大軍がどこから進入し、どこに陣取り、どこから村を攻めようとするのか……その全てを読んだ上で、その全てを潰すように罠を仕掛けているのだ。

 ここはもはやただの森ではない、この地を主の許しなく侵した者達を根絶やしにせんとする悪意に満ちた瘴気の領域……破壊意志と殺戮技巧が織り成す“殺しの空間”だ。

 「我々は……一体、何と戦わされておるのだ!?」

 未だ姿を現さぬ正体不明の敵に対し、指揮官の呟きが阿鼻叫喚の地獄絵図に溶けて消えた。





 「見るがいいルリよ、君の命を狙っていた輩が無様に引き上げて行くぞ」

 社の屋根に立ち遠方を眺める風間が指差す方角、そこには山野を逃げ惑い勝手に自滅していく兵の様子が見えていた。山々に所狭しと仕掛けられた殺人罠の数々は二千の兵を、その数を利用して混沌の坩堝に叩き落とすという離れ業。一騎当千や無双とはまた異なる、しかし軍勢殺しという意味ではこれ以上に効果的な手段は無い。極論、進行上を落とし穴などで埋め尽くせば軍団という存在そのものが用を成さなくなる。だがそれを実際にやってのけたこの男の異様さたるや、その所業を軍神と讃えることすら憚られる歪さを十二分に感じさせるものだった。

 出来ないことは無いだろう。突き詰めれば力が要るとは言え単純作業、木を切り、穴を掘り、虎の子の爆弾を仕掛ける。言葉にすればそれだけ、「たったそれだけ」の事でしかない……この男にとっては。

 二千の兵を相手に尻込みせず尚戦う意志を見せるこの男にとっては、「その程度」の事なのだ。

 「……もうよい、お前の力は充分に分かった。分かったから……これ以上、奴らを挑発するのは……」

 「君は何を言っている? 言ったはずだ、君の望みこそ我が望み……この地を侵す不逞の輩が全て根絶えるその時まで、私は君のそばにいて君を守る責務がある」

 そう語る彼の目は、来た道を急ぎ戻っていく千数百の兵達をじっと見据えていた。彼らは敗走したのではない、一時的に戦線を撤退させ編成を変える為に下がっただけだ。数では未だあちらが圧倒的に有利、あの様子では山のように仕掛けた罠も足軽を犠牲にしてでも活路を開いてくることは想像に難くない。どのみちあれほどの数を完全に防ぎきるのは不可能なのだ。程なくしてこの村まで突入してくる、そうなればここはもう戦場だ。たった一人が小細工を弄したところでこの趨勢は覆せない。

 だと言うのに、風間は未だ恐れをなす気配すらない。撤退でも反攻でもなく、あえて座して迎え撃つ防衛にのみ徹するその異常さ……到底理解できるものではない。もはやルリの戸惑いは苛立ちに変わり、この期に及びそれは怒りへと変じた。

 「誰がそのような事を頼んだ!? お前はわたしの心を覗き見知ったつもりか!!」

 「私は神通力など持たないよ。だがそんな私にも分かることがある。君の心は平穏を望んでいる……花を慈しみ、鳥と戯れ、風に歌い、月を愛でる……君がそういう女性であることは私が知っている」

 「ならばもうよいだろう! 私はここで一人静かに暮らす、これまでのように変わらず……!」

 「平穏と孤独は違う!!」

 ルリは思わず口を噤んだ。それは初めて耳にする風間の怒声。普段から穏やかに接しているだけに、その変容に驚き慄いた。かっと見開いた目は怒りとも憎しみとも、ましてや憐憫とも異なる激情が宿っており、ルリは自分が力ある龍であることも忘れてその気迫に圧されていた。

 風間はそんなルリの剣幕に言葉を失い、風間は何も分かっていないのはお前の方だと言わんばかりにルリに詰め寄った。

 「私には分かる、分かるのだ! 雨と雪が違うように、炎と煙が違っているように、安らぎと孤独は違うものだ。大勢の人間に囲まれていても孤独を感じる時もあれば、逆に一人静かに微睡んで安らぎを覚えることもある。君は平穏無事に過ごす事に慣れたあまり、どうもその辺りの違いが分からなくなったようだが……それは、違うのだ。装い、隠しても私には分かる」

 力強く、確信に満ちた声でそう言い聞かせる風間の手はルリの肩を掴み、ルリは両肩に痛みさえ覚えていた。だがただ力が強いだけではない。今までにも風間から小言を言われる事はあった。それらは全て我が身を思っての発言と分かっていながら聞き流し続けたルリも、今度ばかりは右から左へは流せない気迫、一種の圧力のようなモノをひしひしと感じさせられていた。

 「君が真に唯一人の平穏を望むのならば、私は喜んでこの地を去ろう。だが君は本当は……寂しかったのだろう?」

 「な、何を言う!? この地に生き、この地と共に育ち、この地に死する私が……!!」

 否定したかった。だが、出来ない。何故なら図星だから。

 「本当に私を疎ましく思っていれば私をいつでも追い出せたはずだ。いや、そもそも最初から私を迎え入れるという選択肢すら持たなかったはず。だが君はあの日雪に道を阻まれた私に声を掛け、家に迎え入れてくれた。それは君自身の優しさがそうさせたのだろうが……そうではない事は君が一番知っているはずだ」

 それは即ち、十年の寂寞を埋めるために偶然出会った風間を招き入れたということ。純粋な慈悲や優しさではなく、そこに利己的な欲望が多少なりとも含まれていたと、風間の言葉はルリの心を暴く行為であった。だがそこに乙女の心根を掘り出す下種な感情や下心は一切ない。あるのはただ純粋な共感、それだけである。

 「分かるのだ。孤独の中に安らぎを見出し、それこそを心身の平穏とする……嗚呼、それはまさに弱き心が生み出す幻想、一時の儚い夢に過ぎない。だがそれでも構わない。“君は”、“私を”、“必要とした”……全てにおける契約はそれで完了している。私の体は、心は、命までもが君のモノだ。好きに使い潰してくれて構わない。むしろそうするべきだ。それこそが望まぬ孤独を強いられた君に与えられるべき報酬なのだから」

 「なぜだ……何がお前をそこまで駆り立てる……」

 「知りたいというのが君の確かな望みであるならば、それに応えるのは私の責務。それが、心の底から求める確かな望みであるならば、だが」

 そこで言葉を区切り風間は再び山野を睨む。視線の先には兵が退き静けさを取り戻した山。だが分かる、未だ驚異が去った訳ではない、山向こうに隠れ潜んだ軍勢は諦めずなおもこちらに侵攻するつもりでいる。そしてそれを睨む風間の戦意はなお膨れ上がるばかりだった。

 「私は『道具』だ……。君という『持ち主』に使われるだけの、ただの『道具』。だから君が気負う必要は全く無いのだよ」

 木々に隠れた山野から降り注ぐのは、矢の一斉射。近付けないのなら遠くから攻めればいいという、これまた単純だが効果的な手段。その攻撃は日が落ち、矢が尽きるまで続いた。





 「今日は狩りが出来なかったからな、あまり豪勢には出来なかった」

 屋根や壁、柱に突き刺さった矢を抜き取り薪代わりに囲炉裏にくべながら風間は干し肉を煮込んだ鍋を掻き回す。いつもと変わらない、何の変哲も、変わり映えもなく……だからこそ異常な空間。出された汁物も味を感じず、臭いがキツい麦飯すら無味乾燥したものに思えて仕方がなかった。

 「どうした? 箸が進んでいないぞ」

 「お前よくこの状況で飯が喉を通るな。ほとほと呆れたぞ」

 「矢や刀は当たり所が良ければ死にはしない。だが飯を食わなければ人は死ぬ。ああ、龍の君には関わり無いことだったか」

 「一言余計だ」

 「それはすまなかった」

 軽口を叩く姿にいつもの雰囲気が戻ったのを感じ、ルリの緊張も少し和らいだ。だがそれでも浮き彫りになった彼の異彩が消えてなくなるわけではなく、その事を風間本人も自覚しているようだった。やがて互いに遅めの夕食を終えると、風間が問いかけてきた。

 「さて、ルリ。今から少しいいかな?」

 聞いているのは時間の余裕ではない。日が落ちて山野に隠れ潜んだ兵らに動きがあればルリは即座にそれを感知する。今の質問は彼らが動いているか否かの確認だった。そして、この廃村に足を踏み入れる度胸に満ちた猛者は今この段階ではいないようであった。

 「ならば、今のうちに君が聞きたいことを聞いておくといい。恐らく明日は日の出と共に朝駆けが始まるだろう。そうなれば私も今日以上に前に出ることになるだろうからな」

 それは言外に今聞いておかなければ今生の別れにもなると言っているようなものだった。実際、状況を見れば昼間はただのまぐれ勝ち、連中が本気を出せば磨り潰されるのは目に見えて明らかだった。

 だからこそ、今の内に全てを明らかにしておかなければ。この胸に靄のようなものを残したまま終わってしまうわけにはいかない。ルリのせめてもの想いは、無関係である風間を何とかしてこの地から引き離すこと、ただそれだけだ。

 「お前は……何者なのだ? 正直に、包み隠さず答えてほしい」

 「流れの坊主……修験の僧……という言い訳は通じそうにないか」

 観念したかのように椀と箸を置き、姿勢を直して正座した風間は咳払い一つしていつにも増して真剣な面持ちで語り始めた。

 「『伽藍坊風間』という私の名は……本名だ」

 「そんなことは知って…………ぬ?」

 待て、何かおかしい。さらりと言われたから聞き流してしまいそうになったが、よくよく考えるとおかしな事を言った。

 俗世を捨て、親より与えられた名も変えて生きるのが僧の宿命。彼らの名は「いずれ仏になるための名」であり、人間として見た彼ら個人を差す名ではない。つまりは世を忍ぶ仮の名といったところだ。

 それを憚らずに本名と言ってのけたその真意とは……。

 「私には……いや、私だけではない、『私の一族』は古くより“名を持たない”のだ」

 「名を、持たない?」

 「ああ。もっとも、その中でも私は特に異質だという自覚はあるがね。とにかく、私の一族は生まれた時より名を与えられず、影に生き、夜を歩き、闇に住まい、そうして時を重ねてきた無銘の奴輩……」

 ここまで言われれば世間知らずのルリにも見当がついた。名を持たず、歴史を有さず、存在そのものを影に落とした、生きながらにして陰陽の狭間を行く者の存在……。「仕える」のではなく、「使われる」ことに重きを置く“理と秩序の機械”。

 「今の幕府が置かれている場所……私の先祖は、かつてその地を治めていた武家に奉仕していた。天下分け目の後には外様となり上方に追いやられた主君に追従する形で移り住み、表向きには同じ武家として振舞うことが許された」

 彼の一族だけではない。元々そう言った役目を負った一族は表向きには足軽だったり武士だったり、そうした階級に身を置きながら有事以外は過ごしている。今やそうした影の者が活躍する機会は失われ、太平の世となって彼らの多くは正式に武士として召抱えられたと聞く。

 “彼ら”はある意味において、滅私奉公の究極だ。個人を表す呼び名は不要、主人の益になれば親兄弟、我が子すら手に掛ける事すら厭わない。彼らに個は無く、実も無く、我も無い。

 「お前は、その一派だったとでも言うのか? 外様に追いやられた主君の命令で動く間者だとでも?」

 「ハハハ、私が幕府に仇なすつもりならこんな山奥をほっつき歩いたりなどしてないさ。むしろ……その方が私にとってどれだけ有意義だったことか」

 まあつまり、と言葉を挟み風間は素直に白状する。

 「私は僧ではない。いや、仏門に身を置いていた時期もあるから、『今は』と但した方が適切か。今の私は仏道における戒律の数々を破った破戒の徒に過ぎない」

 「かつては違ったと?」

 その質問に直接答えることなく、風間の口はぽつりぽつりと語り始めた。





 かつて少年だった男は、気付けば頭を丸めていた。寺の和尚に聞けば、門前で捨てられていた哀れな命とのこと。これも何かの縁と考えて拾い育ててくれたと聞いた。

 その事について深く考えた事はない。打ち捨てられ犬の餌にならずに済んだのだから、拾ってくれた寺の坊主らには感謝しても足りないぐらいだ、捨てられた事についても、「まあそういうこともあるだろう」と言ったぐらいで別段悩みに思う事はなかった。

 変化があったのは、少年が俗世で言うところの元服を迎える頃のこと。寺と懇意にしている武家から声があり、何の理由でか少年がその当主の名代を名乗る者の面前に通された。そのまま面立ちを確認されたかと思うと勝手に納得されてしまい、あれよあれよと連れて行かれたその先で……。

 「殿、若様を見つけ申した」

 結論から言えば、少年はとある武家の血筋を引く者であった。老いた武家の当主は御家存続のために必要な存在、つまりは跡取りを欲しており、少年はその落胤だったのだ。

 下女に産ませたとは言え半分は血を引く存在、お家騒動にならぬようにと寺に預けられていたのだが、結局跡目を継げる男児が生まれなかったがために少年は連れ戻されたのである。実際その場に出くわすかどうかは別にして、この手の話は別に珍しくも何ともない。かくして名も無き少年は一夜にして武家の次期当主としての教育を受けることになり、剃った頭に髪が生え揃う頃には羽織姿も様になるようになっていた。

 だが一つ違っていたのは、その武家は少々……と言うにも異質な、「闇の一族」だったことだ。当然、その当主になることを求められたということは、数百年に渡り一族が培ってきた技の全てを受け継ぐことも同時に求められている。

 詐術。隠遁。そして殺し。神州二百年が錬成した戦いと争いの歴史。燃え広がる戦火をもたらす力の発露が“表”なら、少年が受け継いだものはまさしく“裏”……影の黒に混じった血の赤こそを追い求める、冷たくも悍ましい常闇の住人の業。名も、過去も、個さえも捨て去ることで滅私の具現とする外道の理に生きる、ヒトならざるモノどもの巣窟がそこだった。太平を迎えて百余年、既に仕える主も落ちぶれて久しく、一族のやっている事は時代錯誤も甚だしかった。

 だが少年はそんなことに頓着しなかった。彼はただひたすら、自分を拾い上げた親の期待に応えようとしたのだ。

 例えそれが時代の流れに逆行する陰惨な宿業だとしても、自分が必要とされていると感じたからこそ、その事に何の疑念も抱かずにいられた。「己は必要とされている」という承認欲求が極限まで満たされた環境、それがもたらす快楽により少年は従順に、そして完璧に期待に応え続けることが出来ていた。時代が必要とせずとも、今ここに己の力を要する者がいてくれるのだと……。

 しかし、安寧の享受は長くは続かなかった。

 当主である男に別の子が生まれた。本妻を喪って長らく子に恵まれなかったはずの彼が孕ませたのは、武家として当然の如く囲っていた妾の一人。であればこそ、そこからの対応も「武家らしい」ものだった。

 同じ当主の血を受け継ぐ者でも、名も知らぬ下女と曲がりなりにも婚姻を交わした妾なら、どちらの胎から生まれた子を優先するだろうか……つまりはそういう話だ。

 少年はお払い箱になった。

 少年は、誰からも“必要とされなく”なっていた。





 「還俗した私は寺に戻ることも出来ず、かと言って嫡子がいる手前居座ることも出来ず、なおかつ一族秘伝の技の数々を知ってしまい、更には当主の血を引いた不義の子という……まあ、聞けば聞くほど微妙と言うべきほかない状況に追い込まれていた」

 つまりは厄介者だな、と嘯き肩をすくめる風間。軽い口調で言ってのけているが、実際は色んなしがらみがあったに違いない。

 「居場所が無くなった私は旅に出て、風の向くまま気の向くまま、行くあてもない行脚に出るより仕方なかった。私に残ったのは育ての和尚より授かった名と、もはや発揮する機会すら使い道すら失った技の数々だけだった」

 そして辿り着いた……無為なる旅路の果てに、名も失われたこの寒村に。

 そして出会った。出会ってしまった。

 「これで分かっただろう。君は私の救い主なのだと」

 そして自ずと風間の異常性、その根源までもが浮き彫りになる。

 幼少より身寄りがなく希薄にならざるを得なかった人間関係は、風間の人格形成に少なからぬ影響を及ぼした。それは恐らく、元々はそれほど気に留めるほどでもなかったのだろう。だが一度“必要とされる”状況に置かれたことで歪な感情は開花してしまった。

 即ち、純然たる喜悦。究極の奉仕精神、無私の具現。脈々と流れる血の為せる業か、あるいは受け継がれた技を習得する過程でそのように「加工」されたのか、いずれにせよ風間という男がそうした過程を経てそうなったことは疑いようもない。徹底して自己を希釈し、個我を削ぎ落とし、人格を均す……それを繰り返せば自然と「こういうモノ」が出来上がる。

 故に……『伽藍』。その中身は、「無」。いや、無であればむしろ良かった方だ。有象無象の全てに引き寄せ喰らう、暗黒物質の塊が如し。水が流れ渦を作るように、伽藍坊風間という“穴”は周囲の全てを引きずり込まずにはいられない。

 それもこれも、ただ「自分を必要としてくれる」が故に。

 「お前は……おかしいぞ!?」

 「何がだ? 私は、『私を必要としてくれる』者のために粉骨砕身しているだけだ。期待に応えようとすることのどこが異常だと言うのだ? 口幅ったいことは自覚するが、私ほど義に篤い男などそうそう……」

 だがそれは裏を返せば、力を貸す相手はルリである必要はないということ。自分という存在を知覚し、その実力を認め、それを発揮する場を用意すれば……究極、「誰でも構わない」。ルリである必要は「ない」。

 必要性も、必然性も、武器を取る理由すら完全に他者の手に委ねるその異常さ。それこそが風間を構成する異常性の根源たるモノの正体だ。

 この男には、「己」というものが無い。

 「私は君の為に生き、君の為に戦い、そして君の為に死のう。私には他に何もいらない。富も、名誉も、地位すら必要無い。私は、君の役に立てればそれだけでいいのだから」

 滅私の怪物、それが伽藍坊風間。

 「案ずるな、私は今……『幸せ』だよ。私を必要としてくれる者の為に、この身命を投げ打てるのだ。これが幸せでないはずがない」

 誰もこの男を止めることは出来ない。この世から彼以外の他者が居なくなるまで。





 翌日未明、山の稜線も定かではないこの時刻に軍は再び動き出した。夜討ち朝駆けの、朝駆け。古式に則った戦の常道が何の捻りもなく炸裂した。

 当然、名も無き男の悪辣とも言える手練手管の数々が、そう易易と村には近付けさせない。工作や罠はお手の物、むしろ専売特許である。彼の仕掛けは行軍する兵達を次から次へと仕留めていき、軍勢の先頭が村の外れに到達する頃には更に二割もの数が削られていた。毛倡妓の髪を始め、提灯おばけの種火、雷獣の濃縮体液、大百足の毒を煎じて作った心臓潰しの薬など、魔物娘の素材を「生きたまま」用いて加工した殺人罠が彼らの山越えを容易なものにはさせなかった。

 だが物量という地力に恵まれた軍は数に物を言わせたごり押しで山を切り拓き、決して少なくない犠牲の上に血路を開いた。当然、そこに辿り着くまでに払った犠牲など眼中にはない。全ては龍の生き肝を得るためだけに消費される捨て石でしかない。

 昨日と合わせて兵は四分の三、およそ千五百にまでその数を減らしていた。

 しかし、山野を抜け廃村の道に出ると罠の密林は消え去り、打って変わって静かで長閑な村の風情が彼らを出迎えた。十年も人間が不在のこの村はもはや人が住む場所として機能しておらず、遠目には民家に見えた家々も実際は草木に覆われた植物の塊と化していた。昨日兵たちを惑わした炊事の煙はその近くで炊かれていた湯の煙、やはり兵の士気を削ぐためのカラクリだったのだ。

 それさえ分かれば怖いものはない、敵の策を完全に見破った軍勢は罠を逃れた事に気を良くし、行軍の速度が増す。

 目標の龍が住まう社は村のほぼ中央、そこから四方の山々に通じる道が伸び蜘蛛の巣のように村を網羅している。社を取り囲もうと千を越す人の波が徐々にその包囲網を形成し、社を蹂躙するのは目前というところまで迫っていた。

 それこそが次なる罠への誘いとも知らず……。

 カラン、カラカラ、カラン――――!!

 突如鳴り響く乾いた音に緊張が走る。農村部出身の者なら聞き覚えがあるその音色は、秋の収穫期が近付くと田畑に仕掛けられる鳥避けの鳴子。草が生い茂る道に仕掛けられた紐が足に触れ、侵入者の存在を知らせる音が村中に響き渡った。四方からカラカラと耳障りな音が発生し続け、僅かながら集団の中に動揺が生まれる。

 その瞬間……。

 「あぐぁ……っ!!?」

 「ぐがぁ!!」

 集団の中から悲鳴が上がる。驚愕ではなく損傷による悲鳴、その正体は物陰から飛び出した礫弾の猛襲。鳴子が括りつけられていた紐の先はしなりを持たせた竹細工と繋がり、それが石礫を弾き出していた。鳴子の音に警戒して動きを止めていた集団は鴨打ちに合い、縦横無尽に仕掛けられた紐は更なる罠の起動を許す。

 集団が縺れた瞬間、地面に埋め隠してあった縄が引かれ姿を見せる。もつれ合った集団の足はその荒縄を引いてしまい……。

 引っ張る力に周囲の家屋が揃って倒壊した。

 事前に柱や梁を外してあったのだろう。縄で繋がれた家々は連鎖的に倒壊していき、荒れ果てた村の道を全て塞いだ。計算され尽くしたその倒れ方を疑問に感じた者は誰一人としていない。そんな隙を与える間もなく次の罠が炸裂する。

 放たれるのは、火。それが前もって油に浸けられた木材に着弾し周囲に炎が走った。倒れた木々は導火線のようにそれぞれを繋ぎ、たった一箇所からの着火で瞬く間に村は火炎の中に沈んだ。

 これぞ三十六計、以逸待労から声東撃西に繋がる勝戦計の極意。ここは既に紅蓮の地獄、湖面の鴨を一網の下に打尽する狩人の祭典。奥深くに誘い込まれた衆愚に逃げ場など無し。今や廃村は完全に焦熱の獄へと変化し、哀れな彼らを焼き殺さんとする火葬場となっていた。

 「ひ、ひけぇ!! ひけぇぇええい!!!」

 老藩主の指示に千の軍勢が来た道を引き返そうとする。だが火炎により分断された退路は彼らを容易く飲み込み、末広がりの包囲網から反転して一本道に収束する動きが更に彼ら自身の動きを束縛し、一気に半数が紅蓮の中に取り残される結果となった。

 半数、七百数十名が灰に帰す大惨事。それを引き起こした元凶こそ……。

 「哀れなるや衆生の生き様、愚かに過ぎて見るに耐えぬ」

 燃え盛る紅蓮の中に響くのは、金輪が擦れ合う錫杖の音色。穢れを払い除ける鈴の音は地獄の中にあって凛と澄んだ音色を奏で、炎に飲まれた彼らを浄土に送るかのように一定の間隔で鳴り響いた。

 「祈れ、唱えよ。然すれば観世音菩薩は必ずやお救いくださり、その魂を補陀落の彼方にお連れするだろう」

 炎を越えて現れる人影に兵の視線が釘付けになる。左手に錫杖、右手には数珠を握り締め、唱える念仏は迷える衆生を西方極楽に導く如来の経典。

 しかし、その背に負った葛篭の中身は御仏の使いにあるまじき武具の数々。刀、弓矢、投石器、槍、斧、杭、鎚、熊手……およそこの地上に存在するありとあらゆる武器を収めたかのようなそれは、彼が一歩大地を踏みしめるごとにガチャリガチャリと重厚な音が鳴り、やがては錫杖の音色より大きく轟く。

 「だが貴様らの行く先は極楽などではない。地の果て二万由旬の彼方……」

 錫杖が捨てられ、数珠が仕舞われる。空いた両手が葛篭に伸び、針山の如く盛り込まれた武器の山から二振りの刀が取り出される。鞘はなく既に抜き身、炎を受けてギラギラと輝きを返すその刀身は衆生を救う断罪の刃。身に背負った罪を、その命を以て償わせる無慈悲の一撃。

 「行き先は……奈落。阿鼻の奥底でも生温い」

 誰もが勘づく。この男こそ、今のこの状況を作り出した張本人であると。それを理解した指揮官が馬上より刀を振り上げて……。

 「討ち取……ッ!!」

 その首が宙を舞った。背後で燃え盛る木々に深々と刀が刺さり、一拍遅れて兜を被ったままの頭が地面に落着する。

 噴き上がる鮮血が開戦の狼煙となった。





 風間の戦い方は乱暴という他なかった。葛篭から取り出した武器の数々は、「振るう」のではなく「振る」、即ち投擲という原始的極まりない方法でしか使用しなかった。

 だが細身から放たれたとは思えない射出は雑兵を微塵に砕いた。回転する刀は肩を裂き、飛翔する槍は胴を貫き、曲線を描いた斧は頭を割った。その投擲は正確無比に並みいる敵を駆逐、破壊していく。汲めども汲めども尽きぬ泉のように、背負った葛篭はまるで武器庫と繋がっているのではと思わせるほど豊富に過ぎる手数を有していた。

 数の有利は未だ侵略者の側にある。だが場所が悪い。周囲を炎に囲まれ逃げ場を失い、唯一の退路は前方のみ。そこも左右を火炎に挟まれた今、狭い突破口を七百の兵が一度に通り抜けるのは無理があった。結果、たった一人が道を塞ぎ、前から順番に殺していくだけで渋滞が起きる。文字通りの屍山血河が後に続く者の足を止めるのだ。そこから先は攻める側にとっては楽なもの、動くものだけを狙えばそれで数が減っていく。

 しかし、手数は所詮有限。背負っていた武器は尽き、矢筒の中身も底を見せる時が来た。攻めの手が途切れた瞬間に攻め込もうと、一転攻勢に出た軍勢が敵を押し潰しに迫る。

 それより風間の方が速かった。

 武器が尽きた敵は刹那の逡巡も見せることなく、己が肉体を弾丸に前へ飛び出してきた。邪魔になった葛篭を放棄し、身軽になったその体は両の足が大地を捉える度に、その速度は倍々に加速していく。彼我の距離が埋まる事への関心は最早なく、その目には「七百の軍勢など見えていない」。

 その五体は、大地と同化する。

 最後の踏み込みで体は宙を掴んだ。飛蝗の如くに跳躍した脚はその次に斧となって振り上げられ……。

 兵の頭を粉砕せしめた。

 陳腐もここに極まれり。踵の着弾は相手の頭部を高所から落としたリンゴのように文字通り微塵に砕き、周囲に血肉と乳灰色の塊が飛散した。そして崩れ落ちる首から下を踏み台にして、更なる距離を飛翔する。砲弾の軌跡を描いて次にその足が降り立った場所は、山と積み上げられた屍の上だった。

 死体には武器が刺さっていた。つい先ほど、無造作に投擲された武器の山が。

 首を刎ねた刀と胴を貫いた槍を両手に構え、押し迫る軍勢を薙ぎ払う。左手の刀は蝶のような流線の軌道で兵の四肢と首を落とし、右手の槍は蜂のように反対側に回った三人の左胸を纏めて貫いた。遠くから火縄銃で狙ってくる者には蹴りで短刀を射出し、それは見事に眉間を貫いた。口内に隠した含み針は数十日も毒液に浸されたもので、僅かに肌をかすめただけで肉を髄まで腐らせるに足る凶猛な弾幕となる。

 全方位から襲い来る軍勢を一歩も動くことなく捌くその様は、まさしく“人間城塞”。自らは決して攻めず、迎撃にのみ全集中力を傾けるその姿は防衛戦の究極とも言えるものだった。刀を振るい、槍を突き出し、飛来する矢のことごとくを弾き返す。一瞬の迷いも、一分の隙も、一寸の狂いも無く、迎撃を反射の域まで高め純化させた動きは、もはや五体をその動きをさせる為の機構として成立させていた。限界まで単純に、そして極限まで効率化させたその戦法は数百もの軍勢に取り囲まれながら決して潰されない“壁”となって顕現する。

 単騎に軍勢が押し返されるという矛盾。そんな本来有り得ない光景を前に怒り狂い雄叫びを上げるのは、龍の生き肝を求めて戦を引き起こした蛮王だ。

 「貴様ぁ……!! 何者だ、何の故あって儂の邪魔立てを……!!!」

 「喧しい」

 怒声を遮るのは相反する静かな冷たい声。全く同時に投げられた短刀が一閃、馬上の藩主の具足、その鼻緒を切断した。外れたのではない、「外した」のだ。警告のために。

 「去れ、暗愚なる狂王よ。我が恩人は慈悲深いゆえ、神聖なる大地をこれ以上汚らわしい血で穢すわけにはいかぬ」

 「認めん……! 認めんぞ、儂の念願がこんなことで潰えるなど……認めていいはずがなかろうがぁぁああああああああ!!!」

 狂王の怒りに呼応するように周囲の兵の猛攻が更に勢いを増す。接近しての攻撃は不利と判断したか、距離を開けて弓矢で削る作戦に切り替わった。

 「もはや理解することすら放棄するか。ますますもって哀れだな」

 放たれる矢の悉くは風間を傷付けない。螺旋を描く右の槍の軌道が全周囲から飛来する矢を叩き落とし、続く左の刀が直線と曲線が入り混じる複雑な幾何学模様が巻き起こす風圧が矢の軌道を変える。最初に投擲した武器を足で引っ掛け、射出された斧は五人を纏めて両断し馬の胴を穿った。

 本来、風間の戦い方は邪道だ。夜に潜み、影から討つことこそを本懐とする闇の一族。それが大勢を前に孤軍奮闘するなどあってはならない珍事だ。

 だが邪道に堕ちた風間には何の関係も無い。地面に林立する武器を次々に持ち替えながら、ただ向かってくる邪魔者を順に撃滅する過程を修了していく。

 「囲め、囲めェエエえええ!!!」

 「利かん坊めが」

 手にした武器が燃え盛る木材に放り投げられる。その瞬間にあらかじめ柄に巻きつけられていた毛倡妓の髪が解き放たれ、轟々と炎を上げる木材に絡みつく。そしてそれを風間の腕が力一杯に振り上げれば……。

 意志を持った火炎が舐め尽くす。周囲の環境すら武器に変える手腕に掛かれば、例え数百の数を揃えたところで何の意味もない。ちり紙も同然だ。

 「もう一度警告する。去れ、愚かなる男よ。元よりそちら、それだけの気力があればまだまだ生きられよう」

 「黙れ黙れ、黙れぇぇぇええええええっ!!! 何故だ、何故儂の邪魔をするのだッ!!!!」

 「何故? この私の行動を何故と問うか? その問いに応えるのは簡単だ」

 用済みになった毛倡妓の髪を火に投げつけながら、風間は事も無げにこう言った。

 「こちらが先約だからだ」

 「な……に?」

 その言葉の真意を掴み損ねて、老藩主が一瞬正気に戻る。少なくともそれぐらい、この風間の言葉は彼の本質を、その歪んだ芯を如実に表していた。

 ただ頼まれたから、ただ先に会ったから、ただ片方が弱者だったから……。

 それだけ。ただ、それだけ。それ以下でも以上でも、ましてや以外でもない。「たったそれだけ」を命を張るに相応しい動機に変えてしまえる。義ではなく、仁でもなく、理でもない……どこまでも「己を他者に委ねる」という姿勢を崩さない風間の異常性を老藩主も目の当たりにする。

 “理性の怪物”。自らの命を天秤に乗せるのではなく、命そのものを天秤として扱うという狂った発想。傾いた側に全てを預けるのも高潔さからではなく、そうする以外に何も知らないからだ。我欲を抜き、個我を漂白し、自己を希釈すれば自然と“こういうもの”に成る。

 「さて、覚悟は良いな」

 「ひぃ……!!?」

 老いた藩主は恐怖した。殺されることに、ではない。こんな人知を超えた怪異にも似たモノが自分の眼前に存在すること、それ自体に怯えていた。自身の命を長引かせるという生物にとって至極当然な行為でさえ、理屈ではなく力で押し潰す。

 主張と主張のぶつかり合いさえ生じさせぬ、有無を言わせない一方的な蹂躙は殺すのではなく「否定」する。命を、意志を、記憶を、相手を構成する全てを批判ではなく否定する。それがどれほど悪魔的で恐ろしいことか、理解しないほうが幸いだろう。

 しかし、追い詰められた鼠は時として猫に逆襲する。

 「ふ、ふざけるなぁぁぁぁああああああああああああああ!!!!!」

 老藩主からしてみれば、龍の血肉は何にも代え難い天仙の妙薬だ。ルリから信仰を奪い十年かけて弱らせたということは、彼もまた病に冒されたその体で同じ時間を耐え続けた事になる。言い換えるならば、居城に篭もりながらもこの老人は遠い地に座す龍と目に見えぬ戦いを続けていたのだ。

 そして長く孤独な戦いの果てにようやく勝利を手にしようとした時になって現れた乱入者。積年の願望を成就させようとしていた老人からしてみれば、こんな理不尽な事はない。

 その積もり積もった怒りは爆発し、遂に求道の英雄に一矢報いた。雄叫びと共に突貫したその身は風間の防衛網、その僅かな綻びを突きものの見事に刃は彼の右肩から袈裟斬りに肉を切り裂いた。

 「ッ……!!!」

 筋を斬られ、だらりと垂れ下がる右腕。長柄の槍が落ちたことで右側が無防備に晒される。隙を逃さず打ち込まれる矢の大群が風間を更に追い詰める。僅かな偶然による一撃が一瞬にして趨勢を塗り替えていた。

 まず足を撃たれた。ぐらりと姿勢を崩し唯一の武具であった刀すら杖にしたことで、己の身を守れなくなった風間の体を次々に矢が襲った。

 肩を、背を、腕を、胸を、首を、頭を、太腿を……全身のあらゆる場所に矢が撃ち込まれ、瞬く間にその体はハリネズミのようになる。全身を丸めて急所への直撃だけは避けていたが、全身の矢が楔となり、もはやまともに手足を動かす事は適わない体となっていた。一騎当千から一転し、単騎の英雄は軍勢を前に膝を屈しその生殺与奪を他者に委ねる結果と相成った。

 「は……は、ハハハハ!! なんじゃ、蓋を開ければこの程度か! 他愛ない!!」

 勝敗は決した、誰の目からも明らかな結末だった。このまま放置して龍の捜索を続けていても、いずれ風間は死に絶える。それだけの深手を彼は負っていた。

 しかし、老獪な狂王がそんな生温い最期をくれてやるはずもなく。

 「この儂の悲願を散々邪魔してくれおって……! 死だ、貴様には死を以て償ってもらおう!!!」

 袈裟斬りにして血に塗れたままの刀をゆらりと振り上げ、項垂れて微動だにしない風間に狂王が迫る。振り下ろされれば間違いなく首を刎ねるであろう刃、それが今その脊髄に放たれ――、

 「待て!! 待ってくれ!!」

 戦場に似つかわしくない凛とした声が、それを寸前で引き止めた。誰も彼もの視線がその声の主を探して周囲を見回し、やがて瓦礫となって積み上がった廃屋の上にその姿を見つけた。

 「お前が欲しいのは、わたしの血肉、その生き肝じゃろう」

 見上げた彼が一様に言葉を失ったのは、きっとその姿が想像より遥かに神々しいものだったからだろう。全身を覆う鱗と蛇の尾、鹿の角に虎の爪、それら異形とされて当たり前の姿形にありながら、その全てが見事な調和を持つのが龍と呼ばれる種族の特徴。

 「さあ、とくと見よ! 不遜にも貴様ら人の子が求めし神秘の血肉はここにある! だが覚悟せよ……この地を治めたわたしを斃すというその意味を、貴様らは今一度考えるべきだとな!!」

 痩せても枯れても土地神、その一喝に多くの兵は恐れ慄き、思わず武器を落として後ずさる。神たる龍の気に触れればそれだけで心の弱い者は昏倒し、本能のままにより安全な場所へと逃亡を図ろうとするだろう。

 しかし、老いた狂王には関係ない。

 「よこせぇ……! その血を飲ませろ、肉を食わせろ、肝を寄越せぇぇぇえええええ!!!」

 自らを侵す病魔に精神まで変質したか、もはや神獣の気迫を前にしても一歩も恐れを見せないどころか、逆に追い求めた獲物を前にしてその狂気は更に増大の一途を辿った。始末するはずだった風間をそこに放置し、足はゆらゆらと虫が誘蛾灯に引き寄せられるようにルリの元へと接近していった。

 「老いさらばえてなお、生きようと足掻くのか。じゃが、それもまた人の姿か」

 ルリにも逃げる気は無かった。拒むでもなく、全てを諦めたように、ただ目の前の狂気に塗れた老人が自らの前に立つまで待っていた。

 神だった己は人々の願いを可能な限り叶えてきた。それが人に使われる神というモノの存在意義だったからだ。

 だが時の流れは神を必要としなくなり、いつしか誰も彼もがルリを見捨てて何処へと去っていった。誰からも必要とされなくなった神の末路は惨めなもの、寂れた地を一人で守りながらただ静かに朽ち果てる事しか許されない。

 (ならば、最後に人の願いを叶えて逝くのも悪くはない)

 例えそれが今のこの状況を作り出した張本人だとしても、今まさに必要とされているのであればその願いを叶えることは吝かではなかった。

 (風間よ……今にしてお前の求め、欲するところが理解できるとはな)

 瓦礫を乗り越え自らの前に立った老人は、目の前にいるのが遥かな昔よりこの地を守り治めてきた一族の末裔と知りながら、それを恐れず手にした刀も落とさず、凶猛な笑みは口の端から唾液をダラダラと流し、己一人の欲望のために神殺しという大罪に手を染める。

 「儂に命をォォォ、寄越せェェェェェエエエエエエエエーーーッ!!!!」

 遂にその魔手はその悲願を己のものとし――――、



 「『四方のひくみを結ぶ処は、気枯地にて禊に不良さず』」



 大地の鳴動が全てを打ち消した。

 唱えるは地相風水の一説、遥か昔に神州の人間が信じたとされ地鎮の源流にもなったとされている祝詞。しかし、その一説は決して祝福を示すものではない。むしろその逆、この一説を唱えられた場所は祝福を受けるに相応しくないとする詩。

 ただの人間がこれを唱えればいずれ空に溶けて消える。しかし、力ある者が正しい場所で正しい手順を踏み、正しい条件を整えた上で儀式に臨めば、この呪文は一つの効果を発揮する。

 「『ひと、ふた、みい、よお、いつ、むう、なな、や』」

 正しい場所……四方を山に囲われた盆地であること。

 正しい手順……その山々を人々の血で汚したこと。

 正しい条件……発生した穢れ全てを一点に集中させること。

 「『ふるべ、ゆらゆらとふるべ』」

 標高が低い盆地は湿気をため込む。古来、水は陰の気を帯び、それが集中する盆地は穢れが集う場所とされた。ただでさえ陰の気が流れ込み易い盆地、更に周辺で多くの人間が命を落とす事態になれば、その汚染度は爆発的に跳ね上がる。目で見て分からずとも、その穢れは確実に大地を毒し、悪影響を及ぼす。

 具体的には、土地と密接に繋がっている土地神がその汚染をまともに浴びる事になる。

 「ああっ、ああああ!? があああああああああああーーーっ!!?」

 山全体に満ちていた陰の気が一斉になだれ込み、ルリの全身は細胞ごと破壊されるような激痛に悲鳴を上げた。人間でいえば鉄を溶かす強酸に浸けられているようなもの。なまじ魔物娘の強靭な肉体が仇となり、全身を鑢掛けされているような激痛に晒されながら決して死ぬことはない、まさに生き地獄だった。

 その現象を引き起こしている張本人こそ、焼けた大地の中心で禁呪を唱える伽藍坊風間に他ならない。

 「おぬし……何をっ!!」

 「『恐み恐みも白す』」

 「ぐあぁああああああああああああああ!!!」

 血が、穢れが、怨念が、この地に吹き溜まっていたありとあらゆる不浄のモノがルリを苛む。もはや彼女は神ではない、信仰の代わりに穢れを背負ったモノは神にあらず。それはもはやただの魔性、天地に仇なす化外の類。ここに旧き神は信仰を失い零落し、遂には堕落の一途を辿った。

 揺れ動く大地はそれに連動するルリの苦悶。毒に侵された我が身を搔き毟り、その苦痛が更なる震えとなって山間の大地を揺らした。

 「お前は……私を……!」

 殺すのか。

 「もはやこれまでと……守り切れないと理解したから、私をここで……」

 誰にも侵されない所へ送るのか。

 「答えろ、風間ンンン!!!」

 「…………」

 全身に矢を受け俯き、それでもなお呪を口ずさむのを止めない風間。

 やっと唇の動きが止まり、祝詞が止むと、僅かに顔をあげたその表情は……。

 「否、私は諦めてなどいない」

 微笑んでいた。

 「私は誓ったはずだ。必ず、君を、守ると」

 ひとつひとつ言葉を区切り、その意志の強さを、決意を新たなものにしながら、求道の英雄は折れず曲がらず変わらず、己の覚悟を貫き通すことを示した。

 パァン、と乾いた音は柏手の音色。傷付き深手を負い、微塵も動けなかったはずの風間が最後の力を振り絞り合掌した音。

 「『高天原に坐し坐して、天と地に御働きを現し給う龍王は』」

 唱えるそれは先ほどと一変し、一切の汚穢不浄を祓い清める祝詞。唱えられる奏上は龍神と称される高位の神々へと捧げられる。もはや土地を治めるだけでなく、肉の器を棄て魔物という頸木からも解き放たれた真性の神、その中でも特に力を持ちルリとの親和性も高い龍神と風間は交信している。

 「『萬物の病災をも立所に祓い清め給い、萬世界も御親のもとに治めしせめ給へと』」

 今のルリは周囲一帯の穢れを一身に背負いこんだ状態、言わば限界まで膨らませた風船だ。彼女を支えるモノが信仰から不浄に切り替われば、彼女を構成する全ての属性は容易く反転する。それをさせない為にこの祝詞は捧げられている。内側から増大侵食する不浄や汚濁を、同じ龍で更に高位の存在からの加護を借り受けることで常に相殺し続けているのだ。

 だがそれはあくまで相殺、肝心の根源を断つには借り物ではなくルリ自身の力で自らの内に巣食った毒を除かねばならない。しかし、信仰を失った彼女ではもはや自分自身の穢れを祓うことも難しい。

 だからこそ、「本来あるべき場所」からそれを持ってくるのだ。

 「愚かな貴様らには分らんだろう。この私が……何も考えず貴様らから武器を奪い、ただ闇雲にそれを放り投げているとでも思ったか!!」

 大地には魔力の流れ、霊脈がある。霊脈は鉄や合金といった金物を避ける傾向にあり、正確に計算した上でそれを地に配置すれば、その流れを限定的に操作することも可能だ。

 今、この戦場には風間が敵から奪い、そして投げつけた大量の武器が地に突き刺さっている。これほどの量の金属が地を覆えば、周辺の名も無き山々から流れ込む程度の霊脈は霧散し、今この地に流れ込む霊脈は限られたほんの一握りのみ。それすらも風間の緻密な計算により配置された刀剣がその軌道を修正する。

 この地に到達す霊脈、その源泉、それは目に見える直近の山々や川のものではない。巨大で、雄大で、神代の昔よりこの地を見下ろし続け、そしてルリ自身とも縁深い神聖なるモノ。

 「確か、君の祖母の生まれ故郷は……赤城山だったな」

 今この土地に流れ込む聖なる霊気は、悠久の時を刻み続けた霊山にして、かつてはルリの一族が支配していた赤城山の霊脈によるもの。ほんの僅かに流れ込むそれをルリの元まで誘導すれば、元は先祖が住んでいた場所、魔力と霊気の適合性は抜群だった。瞬く間に抱え込んだ不浄は浄化され、その五体に精気が満ち満ちる。彼女の体は刹那にして全盛期に近い力を取り戻したのだ。

 それだけではない。一度穢れを受けて属性が魔に大きく傾いたことで、彼女は僅かに一瞬だが神ではなくなっていた。そこに元いた霊山の気を浴びたことで彼女は「ヒトの神」から本来あるべき正しい姿、「山の神」へと変貌を遂げた。言うなれば神としての契約相手が人間から山に変わったのだ。その結果として彼女は信仰の力という不安定なものではなく、地下深くを流れる強大な山の力を自在に振るうことができる存在に進化を果たした。

 「『四方のたかみを結ぶ処は、弥盛地にて禊に良し』……。これで、全てが整った」

 赤城山と繋がったルリは、山そのもの。実際の標高は関係ない、彼女自身が山であり、彼女の居る所は山となる。穢れの一切が祓われたこの瞬間より、この場所は彼女の“領域”。山との霊脈が途切れぬ限り、その力はついさっきまで死を覚悟していた時とはまるで違う。

 「さあ、赤城命瑠璃姫よ。君はもう自由だ、どこへなりとも行くがいい!」

 人との旧き契約より解放されたルリはもはやこの地に留まる理由がなくなった。今の彼女は完全なる自由、座して大人しく運命を待つだけの存在ではなくなった。

 「これで、私は……君の望みを叶えられただろうか」

 「ああ……ほんに、お前は大馬鹿者よ」

 ルリの手が天に翳される。何か企んでいるのだろうと老藩主が慌ててそれを阻止しようとするが、もう既に遅かった。

 次の瞬間、廃村は巨大な力に押し流されて全てが飲み込まれて消えた。





 風間が目覚めた時、周囲は一面の青に染まっていた。少しして自分が水の中にあり、自分の周囲だけ気泡に閉じ込められたように空気の層が出来ている事に気が付いた。

 「目が覚めたか」

 声のした方を見れば、水中を優雅に泳ぐルリの姿。

 「傷は癒えたようだな。あれだけの矢に射られながら命を繋ぐとは、お前も呆れた奴だ」

 「ここはどこだ?」

 「お前と私がいた村じゃ。今はこれこの通り、何もかも水浸しだ。少し張り切り過ぎて村を丸ごと溜池にしてしまった」

 「彼らはどうした?」

 「安心せい、殺してはおらん。わたしの力で流れが緩やかな下流まで押し流してやっただけよ。二度と来ることは無かろうが、もし来たとしてもここはもう湖よ」

 「……不機嫌なようだが」

 「当然じゃ! 何もかもがお前の手の上で踊らされていただけに思えて、わたしにとっては面白いはずがなかろう!」

 全ては風間が仕組んだ通りになった。彼は初めから自分一人で二千の軍勢を押し返すつもりは無く、彼らを利用してルリの神の契約を書き換える事を本命としていた。だからこそ、彼女の先祖が住んでいた山の霊気がここまで届いている事も調べ、その為にどう武器を配置すればいいか計算し、軍勢をそこまで誘い込む手段を講じ、そして争いを身を呈して止めようとルリが乱入する事すら予測していた。

 「いいや、実際は結構な綱渡りだった。事実この私も死にかけたのだからな」

 「…………お前、死ぬ気だったじゃろうに。あそこでわたしがお前を助けず、そのままどこかへ去っておったら、お前は死んでいた。むしろそうなることを望んでおったろう」

 「バレたか」

 バレバレじゃ、そう呆れの溜息が気泡となって上に昇っていく。その様子を眺めながら風間は弁解ではなく、呟くように語り始めた。

 「私は、私自身がおかしいという事を知っている。私の在り方は諸人の理解を得られないばかりか、人の世にあっては劇薬だ。利益を欲しない行為、見返りを求めぬ言動など、そんなものを大手を振って喧伝している私はきっとまともではないのだろう」

 だがな、と続ける。その顔は憂いと充足が同居した、何とも言えぬ不思議な面持ちだった。

 「だが、無理だ。どうにも抑えられない。伽藍坊風間という名無しの坊主は、これまでもこれからも、誰かの為、何かの為に動くことしか選べない。骨を折り、身を粉にすることでしか己自身の価値を計れない。私は、そういうものなのだよ」

 風間という男は純粋すぎる。そしてその純粋さ故に、人の世が彼に報いることは決してない。

 そんな彼の悲しくも非情とも言える在り方に一分の理解と哀れみを抱いたか、ふとルリは言った。

 「…………なら、ならば、わたしと共に来い」

 「君と?」

 「ああ。そんなに誰かの役に立ちたい、何かの為になりたいと強く想うのなら、私と共に来るのだ。そしてなればいい、神に」

 「神……」

 神とは、人の願いを叶える存在。本質においては、その精神性と在り方は風間の目指すものと全く同じだろう。

 だが容易い道ではない。人の身から神と呼ばれる存在に昇華した話など、ここ千年でとんと聞かなくなった。今や先祖を氏神として祀るのが精々、といったところだろう。それだけ矮小な人間が神になることは難しい。

 「仏になる者もおるのだ、神になる事も同じだ」

 「同じ……か。フッ、そうだな。そういえばここ最近、念仏を唱える以外に坊主らしい事など何もしてないように思う。ここは一つ、初心に立ち返り山にでも篭って仏になる道を模索するとしよう」

 「ならば、さっそく山に行こう。お婆様の生まれ故郷を見るのは初めてだが、流れる霊気で分かる……そこはきっと、良い処だろう」

 傷が癒えたばかりの風間を抱えてルリは水中を泳ぐ。やがて二人の姿は水底に消え、地面を通って地下水脈を通じて自分達の新たな棲家となる霊山へと去って行った。

 以後、沈んだこの村で龍の姿を見た者はいない。





 その後、沼田を治める藩主は私的な事由で兵を動かした責を問われ、幕府から謹慎の後に改易を迫られ、その後に切腹を命じられた。あれだけ病を克服するのだと息巻いていた彼を、周りの者らは武士らしい切腹という最期を迎えたことをむしろ本人にとっては幸せだったのではと口々に語り、その結末がとても皮肉なものに終わった事を暗示させた。山間の開湯計画はその後に藩政を受け継いだ家が引き継いだ。

 溜池となった元廃村は下流に住まう人々の新たな水源地となって田畑を潤し、そこから先彼らが水不足に悩まされることは無くなったという。人々はかつてその地に住んでいたとされる龍にちなみ、その湖を「龍が池」とか「辰淵」などと呼んだが一貫しなかった。しかし、その泉を指す時必ず人々はその名前に「龍」に関係する一字を入れたという。

 そういえば昔ここにいた龍はどこに消えたのか? そんな疑問に答えるように、南にある霊山では一つの噂が立ち始めた。何でも、昔ここを去った龍の末裔が戻ってきたのだと。噂の尾鰭では、戻ってきた龍の末裔こそがかつて廃村にいた龍なのではと囁かれたが、その真偽を確かめた者はいない。

 それとは別に、霊山ではもうひとつ違う噂が立っていた。

 曰く、山道で失くした物を届けてくれる者がいる。

 曰く、獣に襲われた時に錫杖の音がそれを追い払った。

 曰く、道に迷っているとどこからともなく現われて道案内をしてくれる。

 坊主の姿をしているがどこの宗派の者とも知れず、ふらっと現れてはすっと消える神出鬼没な謎の男の噂だ。誰もが彼を仙人だと言い、かつて隣の大山のムカデを退治した侍の生まれ変わりという者まで出始めた。時折、男と龍が一緒にいる所を目撃した者もおり、岩の上で座禅を組み瞑想するその傍らで、龍は尾を振りながらそれが終わるのを待っているのだとか。

 脇を通る分にはそのまま素通りさせてくれる。だが少しでも何かに窮する様子を見せれば……。

 「そこの。何かお困りかな? もしよろしければ私に手助けさせてもらえないだろうか。なに、山を出るまでの間だけだ。短い間だがよろしく頼む」

 曰く、僧は龍の下で悟りを開く修行をしているとか。

 いつか伴侶である彼が悟りを開くその日を、龍は静かに見守っているのだという。
16/04/11 07:05更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 再ッ開ッ! 連載再開ッッ! 連載再開ッッ!! 連載再k(ry
 長らくお待たせして申し訳ありません! 九幕後編、やっとお披露目することが出来ました。だがエロ無しだ(血涙)。
 (連載速度が)落ち込んだりもしたけれど、わたしは元気です。

 Q.こいつ絶対キ○ガイだよな?
 A.残念ながら違います。風間くんは純粋なだけなんです、信じてください。もし最初に出会ったのが藩主なら、彼は間違いなくルリをぶっ殺す側に回ってましたけど、別に悪気は無いんです。本当です!
 Q.風間は結局どこの何ていう一族がモデルなんだよ?
 A.「風間(ふうけん)」という名前を別の読みに変えていただければ一発で分かるかと。ヒント:日本史のト○イフォース。

 七、八、九と続いた英雄三人は実力伯仲。それぞれがジャンケンみたいな三竦みの相性。
 技のリンシンは受け身の風間の防御を手練手管でこじ開ける。
 攻めの浅之介は殺す速度と精度においてリンシンを上回る。
 守りの風間は馬鹿正直に正面から向かってくる浅之介を迎撃する。
ちなみに「こいつら三人にそれぞれ勝てる」のと、更に「そいつを含めた四人を纏めてに叩き潰せる」奴がしれっと居たりする。

 次回からまたお話は西に戻りますんで。またすぐに、書けるといいなぁ……(遠い目)。あとさらっと変な拘りは捨てて副題修正しましたん。
 次回予告:「悪魔×塔」

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