第一章 強欲の勇者:後編
ある男の話をしよう。
男はじぶんがいつ、どこで、誰から生まれたのかすら知らぬ、天涯孤独の身だった。確かなのは二つ。自分がどこかの女の股から生まれたことと、今自分が生きる場所が社会の底辺だということだ。
同じ場所で生きる他人同士、常にパイの奪い合いが起きていた。盗み盗まれは当たり前、そうしなければ自分が飢える……誰も彼もが必死に生きる努力を強いられた世界だった。
男が最初に犯した罪は盗みだった。どこか実入りのいいゴミ捨て場を探し当てた乞食から、その食い扶持を強奪した。悪い事だとは微塵も思わなかった。だってそうしなければ自分が死ぬ。自分の生き死にに比べれば他の一切など総じて塵でしかない。
人殺しもした。平民から富を収奪するのが貴族なら、貧民から日々の糧を奪うのは同じ貧民だった。そいつが生きている限り己が割りを食い続けると分かった時、男は躊躇なくそれを殺していた。罪悪感など無い、だってそうしなければ自分が死ぬから。
意外なことだが女を犯すことはしなかった。生きる上で必要なのは食い物と寝床、それ以外は「あればいい」という程度だ。同じ社会の底辺で生きる病気持ちの女などを相手にするのは馬鹿らしいと分かっていた。
だが世の中はどう転ぶか分からない。生きる上で最も下位にあったはずの女に、男は入れ込むことになる。生涯を通して初めての恋、そして最後の恋だった。
貧民街に咲いた小さな恋は男女を結び付け、二人は貧しくも慎ましく暮らし、男はそれまでの傍若無人な生き方から足を洗うことも考えていた。女の腹に小さな命が宿る頃、男はその決心を固めていた。互いに親兄弟の顔も知らず、姓も持たない卑賤の身だが、たった「三人」だけの家族でこの先を生きようとしていた。
運命の神はイタズラ好きだった。
女は病に罹った。決して大病ではなく、医者に診てもらい薬を処方してもらえれば助かる命だった。だが社会の底辺を生きる者達を庇護する法など無く、医者の診察を受けるには市民権が無い分の金を払わなければならなかった。
ゴミを漁るのは食べる為だった。それが街の清潔の為になった。
土を掘り返すのは死体を埋める為だった。それが道を作る為になった。
男はあらゆる仕事に従事して日銭を稼ごうとした。だが汗水垂らし血の混じった便を出してなお、得られた金は二人の生活を賄うので精一杯だった。
そうしている内に女は死んだ。金が無いから葬儀も出せず、不潔だからと亡骸は燃やされ、男の手に残ったのは「二人分」の灰だけだった。
男は考えた。
何故女は死んだ? 病に罹ったからか? 自分達が貧しかったから? それとも、その腹に別の命を宿していなかったら生きられたのか?
いいや、違う。
「俺の、努力が足りなかった」
金なんて、自分の周りに持っている奴がいくらでもいた。そいつを騙すなり殺すなりして奪えば良かったのだ。あるいは医者を脅すという手段だって取れた。そんな簡単なことにどうして気付けなかった。
男は悔やんだ。女を死なせたのは自分の怠慢が招いた結果だと、自分の「努力不足」を呪った。全て自分の責任だと理解していた。
男が金に執着するようになったのは至極当然の帰結と言えるだろう。金こそが人間の努力を数値として見られる唯一にして最大の共通単位。手段そのものに善悪など関係なく、誰がより効率よく、そして賢く生きられるかただそれだけ。
殺しと盗みでしか稼ぐ手段を知らなかった男は、賭場を荒らし、金利を脅し取り、詐欺で人を騙すやり方を学んでいった。それが最も賢く金を手にする方法だと知っていくことになる。
しかし、男自身の正当性はどうあれ、その行動が法と照らし合わせて紛れもない悪だった。であればこれもまた必然の成り行きとして男は捕縛され、その身を牢に繋がれた。蓄えていた財もその時全て没収された。男は再び名実共に社会の最底辺へと連れ戻されたのだ。
やがて自分を殺す法の裁きがあるだろう。それを地下牢でずっと待ち構えていた男だったが……。
「まさか、このような男に……」
「神託は全てに平等……例えそれが、下賤の身であろうとも」
「此度の采配は謎だらけだ。やはり見送るべきでは」
「主神の御心を疑いになる事は許されない。問答の暇があれば早く洗礼に執りかかろうぞ」
鎖を引いて連れられたのは刑場ではなく聖堂、そこには何の儀式を執り行うのか幾人もの神父や司祭が男の登壇を待っていた。
洗礼とやらが済んだ時、男を縛る枷は無くなっていた。そして同時に、この時彼は生まれ変わったのだ。
「おめでとう、勇者トーマス。大いなる使命を受けし君に、主神の祝福を!」
貧民街生まれの「ただのトーマス」は、魔物を打ち倒すことを命じられた「勇者トーマス」となったのだ。
「随分と懐かしい夢を見た」
今日は待ちに待った「取引」の日だ。既に物はタル詰めが終わり、例の場所へと移送されているだろう。王都の法では持ち込みまで規制していないが、見つからないに越したことはない。
「失礼します。社長、アヤ様よりお手紙を預かっております」
「見せろ」
メイドからひったくるように手紙を受け取ると、その文面を読みふっと鼻で笑った。
内容は、「急な用で取引に立ち会うことができなくなった」とのことだった。どうと言う事はない、最初から奴には立ち会う気など更々なかったのだ。
「大方、取引中に何か仕掛けるつもりでいるな。無駄な事を……」
証文からアシがつけば困るのはお互い様だ。署名には血判もさせている、どれだけ誤魔化そうと「その筋」の知り合いに言えば魔術的にサインがアヤのものだと証明される。共倒れはあるだろうが、アヤだけの一人勝ちは絶対に有り得ない。
荷車に乗り込み街の景色を観覧しながら目的地へと向かう。今見えているこの景色、そこに関わる金の流れの大部分は既にトーマスの支配下にある。後一歩、王国の国庫に直接接触できるレベルにまで達すればそこから先は簡単だ、トーマスの手に掛かれば一晩で全ての金を抜き取ることが出来る。そうなればアルカーヌムは文字通りの骨抜きとなるだろう。
だがそれではまだ足りない。彼の掲げる野望の実現にはとても程遠い。
「アヤ……お前は俺と組めば世界を手に出来ると言ったな。王国だけでなく、レスカティエも、霧の大陸も、ジパングも、魔界ですら……とな。だがそうするのは俺だけだ」
車が目的の場所、今はもう使われず無人となった場末の飲み屋跡に着いた。ここの地下室が取引の現場となる。金を持ち運ぶ人夫を何人か連れ、トーマスは遂に商品との対面を果たす。
地下室に人はいない。金額は事前に取り決めてあり、ここに金を置いて荷を運び出し、後刻相手が金を持ち出すという寸法になっている。
「さてと、では……いただくか」
所定の場所に金貨の詰まった袋を全て置き、トーマスの指示で人夫たちが作業に取り掛かる。屈強な腕に持ち上げられたタルが地下室から離れようとしていた。
しかし、彼らが地下を離れるより先に、ここに侵入する者があった。
「下がれ。下がれ下がれ! 全員荷物を降ろせ!!」
騎士甲冑にも似た装備に身を包むのは、王都の治安を維持する任務を与えられし憲兵隊。手に手に警棒を携え物々しい雰囲気に、雇われ人夫たちに動揺が走る。荷の中身まで知らされていないが、何か自分達がヤバイものに関わったのではと危機感が募る。
だがそんな状況でも、この男は冷静だった。
「これはこれは憲兵諸君、こんな所へ何用かな? ああ、ひょっとして君らの上司である地区長殿への差し入れの件かな。こちらにも都合がある、もうしばらく我慢してもらえると嬉しいのだが」
法の限界ギリギリを攻めるあくどい商法でもトーマスが捕まらなかったのは、こうして関係部署にそれ相応の口封じをしているからだ。この地区を担当する憲兵の長も彼の鼻薬を嗅がされた一人だ、少なくとも薬物を売買目的で入荷した確かな証拠を得ていない限りトーマスが縛につくことは有り得ない。どれだけ大量でも「個人使用」と言い切ってしまえばそれまでで、それがまかり通るだけの力を持っている。
故にこの官憲たちが自分を害することなど無い、その強い自信に裏打ちされた笑みを浮かべるトーマス。
「とある者からの告発で貴様の荷に疑いが掛かっている。中身を検めさせてもらおう。令状も既にある」
「用意のよろしいことで。つかぬ事を聞きますが、そのタレコミをしたのはもしや、獣姿の金貸しではありませんでしたか?」
「問答をするつもりはない。検分に執りかかる!」
一斉に憲兵たちがタルを叩き割り中身を確かめる。その様子をトーマスは微笑んだまま壁際にもたれかかって見つめるだけだ。
やがて隊長らしき男が底冷えするような声で問い詰める。
「……これは何だ」
「何だ、とは要領を得ませんなあ。見ての通り、ただの粉、としか答えられませぬ。仮にそれがケシの実から抽出した粉だったとして、何か問題でも?」
「ケシの粉?」
「ええ。王都の外にある農園の主とは懇意にさせてもらっておりますゆえ、事業拡大の為の協力に対する見返りとして『譲渡』してもらったまでのこと。そこの金子はそれとは別件、また新たな事業への資金提供として貸すものです。よって、この薬を売買したことにはならない。この王都はケシの粉の売買を禁じておりますが、あくまで『個人使用』や金銭を含まない『譲渡』なら話は別、そのはずですよね?」
「…………」
うつむいた隊長を見てトーマスは内心でさらに嘲笑う。人の悔しがる様は何と快感なのだろうか、今まで自分を縄の下にしようとした官憲たちが全員その顔をしていた。その度にトーマスは金稼ぎとは異なる快感を覚えるのだ。
「もうよろしいですか。この後も商談を抱えていますので……」
適当に口から出任せを吐きながらもっとその顔を近くで見ようとした。
そして、気付く……。
「あ……?」
目の前のこの男が、全く悔しがっていないことに。
むしろ困惑している。困惑、それ自体はよくある。だがこの表情は正真正銘、トーマスの言っている事を理解できていない白痴の困惑、完全に現実を分かっていない。その真相を問い質そうとする前に、憲兵が先に問うてきた。
「トーマスさん、あなたはこのタルの中身をケシの粉と……」
「ああ、言いましたね」
「……あなたは……あなたは、これがケシの粉に見えるのか?」
「…………なに!?」
「これは……ただの小麦粉だ!!」
そう言って憲兵が投げ付けると、手中の粉は粉末となって飛散し、その粘り気のある臭いを地下室に充満させた。その臭いは紛うことなく、小麦を挽いて生成されるあの小麦粉だった。
「馬鹿、なっ!!」
地面に落ちたそれを拾い上げて確認する。だがどんなに目を凝らせどその粉はケシではなく、王都のどの農場でも作物として不動の地位を有する穀物の王、小麦の粉でしかない。舐めても至高の快楽などなく、嗅いでもその心を桃源郷に誘いはしない。
様子を見るからに他の全てのタルも中身は同じだろう。そして、こんな事を仕出かせる人物に心当たりなど、一人しか思い当たらない。
「あの狸めが……!!」
失念していた、東方の狸と狐の魔物娘の最大の特性を。奴らは男を惑わす際に単なる力押しではなく、その対象に幻を見せる。他人に顔を変えて変化するなどお手の物、時間と労力を問わなければ広範囲に渡り幻覚を見せるという。今までトーマスが見せられていたケシの花は全て小麦だったのだ。
だが、それだけだ。タルの中が違法薬物でないと分かったからには官憲はこれ以上の追及はできない。見逃すしかないのだ。しかも金を支払う前なので事実上の損害はゼロ。あのメス狸はトーマスをからかうだけに終わったのだ。
(阿呆が。詰めが甘いんだよォ!!)
勇者と金貸しの化かし合いは勇者の勝利に終わった。
かに見えた。
「なら、これはどう説明する」
憲兵が粉の中から何かを掘り出す。それは厳重に封がされた木箱だ。小さいのや長いの、大きいのまでまちまちだ。小麦粉の中に隠されていたそれらを開くと、中には見慣れぬ工具や部品のような物がいくつもあり、それが全てのタルに五つほど隠されていた。
トーマスも見覚えのないそれらに首を傾げる。しかし、王都の治安を守護する憲兵らにはそれが何の部品であるかは一目瞭然だった。それらを組み立てれば見える物体……それは。
「……………………」
「武器密輸の現行犯で逮捕する」
旧式の型落ち品だが、組み上がったそれは実弾の射出が可能なレベルに仕上げられた銃の部品だった。アルカーヌムのみならず、全ての国において軍の介入しない武器の製造と売買は禁止されている。
見つかれば、死刑はほぼ確実とされる。
この日、とある企業が国の下に解体されることになった。
全てが無くなった部屋で、男は待っていた。扉を開けて自分に会いに来るであろう来客を。机も、時計も、ソファも、壁を彩っていた絵画も、必要最低限の家具すら無くなり、もはや誰かを出迎えることこそ失礼になるようなこの部屋で、男はずっと待っていた。
どれほど待ったか、窓の外の太陽が西に傾きその色を鮮やかなオレンジに変える頃、扉の向こうから特徴的な足音が聞こえてきた。
カラ、コロ。
カラ、コロ。
乾いた木を叩き合わせたような澄んだ音色。それが部屋の前まで来て、足音の主が扉を開け放つ。
「ごめんやっしゃ。トーマスさん、お元気?」
「ああ、すこぶるな」
あれだけ拠り所としていた金が無くなり、店ごと私財を取り上げられ正真正銘の無一文に落ちてなおトーマスの不遜な態度は欠片も減じない。
その証拠に、彼は自分をハメた女から軍資金を借りようとしている。
「連絡もろた時は仰天したわ。アンタ、恥やプライドちゅうのはあらへんの?」
「恥? 誇り? それが? そんな程度のものを質に入れるだけで金が入るなら、タダ同然だ。いくらだってくれてやれる」
武器の密輸は重罪、見つかり捕まれば死刑……にも関わらず、トーマスはこうしてここにいる。そして全てを失ったにも関わらずまだこうして自分がのし上がることしか考えていない。ここまで強欲の体現者をアヤは、いや、全てを支配する主神ですら見た事も聞いた事も無いだろう。
だからこそ、アヤは確信する。
「アンタ……何のために稼いでるん?」
「無論、自分の為だ」
「それは……真っ赤な嘘や。アンタは自分の為に金稼ぎしたことなんて一度もあらへん」
それは、核心。そこをまともに突かれた今、トーマスから全ての表情が消え去った。嫌味な笑みはどこへやら、石膏を塗り固めたような鉄面皮に発言したアヤも一瞬驚き、それを誤魔化すように身を捩る。だが決して追及を止めることはしない。ここでトドメを刺し切ると、この「偽の強欲」を体現した怪物を殺すのだと決意したからこそここにいる。
「あたしはアンタの金の流れをずっと追った。小さな生活費から、大きな商談まで、アンタが社長業を継いだっちゅう辺りからある記録を全部洗って、その一銭一分一厘に至るまで帳尻が合う金のルートを探した。難儀やったでぇ、金勘定に長けた刑部狸をここまでイワしたんは後にも先にもアンタだけやろ。なにせ今この時点でその全体の七割も掴めんかった。せやけど……そんだけ分かれば充分や。人は嘘をつく、物も隠したり壊したりしてしまえばそれまでやけど、金の流れだけは嘘を言わへんからな。それはたった数年とは言え商人やっとったトーマスさんも承知してるやろ」
「その口振り、既に俺の正体も知っているのか」
「いんや。あたしが掴めたんは、アンタがあのレスカティエと繋がりがあるっちゅうことだけや。普通成金ゆーうんは稼いだ金を浪費するもんや。やけどアンタは稼ぐだけ稼いで使いもせんと溜め込むだけ。商談や個人使用以外で唯一金が動いた先がレスカティエやったっちゅうわけや。そうなるとアンタはあの国が差し向けたスパイってのが妥当な線やろ」
「当たらからずも遠からず、いや、むしろ大正解だよ。俺はこの国の経済を内側から掌握し、経済的に王国を潰すという任務を負っている。指令を下したのはレスカティエ正教会だ」
「そんなんベラベラと喋ってもええん?」
「問題ない。俺がここで何を話そうと、お前に出来るのは真偽を確かめることだけ。お前がどれだけ知略策謀に優れようと、1000年続いた教国の威光までどうこう出来るはずがない。それに元より、お前には止めるつもりなど無いのだろう」
「せやな。あたしはただ、昔職探しの口利きをしてやったアーサーの坊やを困らせとる男を、ちょいと懲らしめてやりたかっただけや。刑部狸は金勘定はシビアやけど、決して義理人情が無いわけやないんやで」
「それは良かったな、目的が達成できて。だが俺には関わりないことだ。良いからさっさと金を出せ、二週間もあれば利子含め十倍にして返してやろう。手切れ金代わりにくれてやるよ」
己の素性がバレたところでトーマスは何の気にも留めない。だがそれはアヤにも予想できていた。まだだ、彼を殺す切り札は、まだこれから出すのだ。
「……アンタが密輸の一件で捕まってから二ヶ月、あたしがどこにおったか聞きたい?」
「金貸しをしていたんだろ」
「生憎とこの二ヶ月間、あたしは休業中やった。ちゅうんも、ちょいと気になる事があったんよ。アンタはレスカティエと繋がって自分の稼いだ上前をお上に納めとる。やけどなぁ、『少ない』んや、納めとる額が。ケチを起こして上納を渋っとるにしては、アンタはただ金を溜め込むだけでちいとも使わへん。金っちゅうもんは持てば必ず使わんとおれんはず。ちゅうことは、つまり……溜めた金を使う機会がまだ来てへんゆうことやろ」
「……だからどうした」
「せやから調べた。アンタが不在のこの二ヶ月、この建物に出入りできる人間に変化して日参し、屋敷中をくまなく調べ尽くした。寝室や食堂、便所から庭の木一本に至るまで、根掘り葉掘り全部な。そしたら、ほれ……」
ここまで長々と語っていたアヤが本題と言わんばかりに、背中に背負う荷箱からある物を取り出す。
そしてそれを見せた刹那、トーマスの顔色が激変した。
「き、さま……!?」
「やっぱりな。『これ』がアンタの金の使い道やったんか」
くすんだ銀色の壷、それが二つ。決して中を開くことは無いが、東方出身のアヤにはこの二つの壷が何を入れた物であるか知っていた。
骨壷。死者の骨と灰を納めた容器、本来なら墓の下に丁重に封じられて然るべきそれを二つ、二人分の遺灰をトーマスが持つその理由とは……?
「あたしの勝手な推測やけど、アンタに両親はおらへん。こんだけ調べてもその痕跡すらなかったんがその証拠や」
「…………」
「それならこれは誰の骨か。両親やないんなら二つ作った意味は? ここでアンタの両親がおらへん理由が出て来る」
「……せ……」
「アンタ、ひょっとして元孤児やろ。となればこの遺灰は親以外でアンタと親しかった人間……兄弟同然に育った奴か、あるいは……」
「かえ、せ……!」
「想い人と、その子供っちゅうトコやろか?」
「かえしやがれえぇぇぇえええええええええッ!!!!」
激昂したトーマスの腕がアヤに伸びる。アヤは彼が洗礼を受けた勇者であることまでは掴んでおらず、常人を遥かに越えた速度で迫るトーマスに対応が遅れて組み敷かれる。
魔物娘の膂力は大の男より遥かに強い。しかし怒りで我を忘れたトーマスの腕力は左手でアヤの両手首を、右手で彼女の首を容易く締め上げる。二つの骨壷が手を離れ転がって部屋の隅に行ってしまうが、それすら目に入らないほどトーマスは怒りに支配されていた。
「どいつも、こいつもっ!! 生まれついた環境に胡坐をかくしか能のない分際でぇ……! いつもそうだぁ!! 貴様らは自分で何の努力もせず、何も為さず、何も勝ち取ろうともしないくせに、自分より弱い連中からしか奪えない!! 法が、社会が、道徳が……そんな影も形もないものに守られているつもりでいる! ふざけるなぁっ!! そんなありもしない幻想に守られた現実に生きる奴らなど、生きる価値が無い、俺がそいつらの全てを奪い尽くしてやる! 貴様なんぞに邪魔させるか……これ以上俺から、『俺達』から奪わせるものか!!!!」
トーマスは決して強者ではない、彼の本質は未だに貧民街で地獄の暮らしを強いられていた頃の弱者でしかない。奪い奪われるのが当然だったあの世界では、元からきらびやかな世界で生きる者の常識は一切通用しない。誰もが獣に堕ちることでしか生き延びられなかった非情の場所にいるのは、弱者と、そこから更に搾取される弱者しか存在しなかった。そんな悪循環の世界から抜け出すには自分達を土台にして暮らす「強者」に成り代わることでしか達成されなかった。
だからこそ、自分が今まで目の敵にしてきた「強者」と同じ位置に立った時、トーマスは失望した。
「貴様らは弱者だ、俺と同じ、今この一瞬を自分以外の誰かから奪わなければ生きられない弱者。そこに人間も魔物も、神も魔王も関係ない、皆同じだ。皆同じ……空気を吸い、肉を食べ、糞をするように当たり前なこと……なら、何故『あいつら』は死んだ。弱者しか存在しないこの世界でどうしてあいつらだけが死ぬ必要があった」
骨壷に眠る者、一人は顔はおろか性別すら知らないままこの世を去った。
「考えてみれば簡単な事だった、誰もあいつらの努力を認めなかったからだ。成功するには既に成功していることが前提条件、そんなふざけたルールを先に作った連中がいたから、あいつらは割りを食うしかなかったんだ!」
悲劇や絶望などいくらでも転がっている。別にトーマスの周囲だけが異常だったわけではない。だがそれを彼が許容できるかどうかは全く違う話である。
「狡賢く生き、善を装った悪になるのが正しい生き方なら、俺がそれを実践し証明する! この地上全土から掻き集めた財という財を尽くし、その全てを注ぎ込み俺だけの国を作る!! その邪魔になるモノは全て、この俺が……!!!」
アヤの首にかけられた手の握力が高まる。既に顔は紫色になるまで絞め上げられているが、まだ足りないと言わんばかりにトーマスの腕は更に力を込める。
だがこの程度のことを想定していないアヤではなかった。
「──フッ!」
「っ!? ぐ、あああ!!」
予め隠していたのか、口に残っていた僅かな息を使って含み針を吹き出し、それが眉間に刺さった痛みで思わずトーマスが手を離した。その隙に呼吸を整えて彼女が飛び出した先は……。
「何をする、よせやめろ!!」
遺灰を納めた壷二つ、その蓋をこじ開けると窓際まで走り……。
「こんなっ、もぉぉぉぉん!!」
それをあろうことか天高く放り投げたのだ。
トーマスが追うよりずっと速く二つの壷は中の灰をまき散らしながら遠くへ消え去り、少し遅れて陶器が割れるような音が届いた。トーマスの野望が砕けた音である。
そして、それをきっかけに捲し立てるのはアヤの番だった。
「あたしはアンタを誤解しとったわ。アンタは前に努力しとる奴が正しいって言いはったけどやな、アンタは自分の何の努力をしたんや! あの二人がアンタにとってどんな人間やったか知らんし知るつもりもあらへんけどなぁ……。自分の国を作る? 寝言いうんも大概にせぇや!! 墓と仏壇に金かけるんはアホのすることやろが!! 欲深が聞いて呆れるわ、アンタはあの二人の墓作りたかっただけやろ!! じゃなけりゃあんな灰を後生大事に隠し持つもんか!!」
勇者の使命を帯びた後、トーマスは決して自らの為に金を稼ごうとはしなかった。王国の経済を握れと言われ、そのようにした。その為には与えられた店の事業拡大が必要だったので、培った才能を使いそうした。得られた金はそれ以外に決して手を付けず、全体の僅かな部分を上納金として教国に納めるだけだった。
そこまで調べた時、アヤの胸中にあったのは同じ商人としての燃え上がるような喜悦と興奮だった。幾人もの商人と交わり、また自らもそれらを育てた身としてトーマスの手腕の確かさを見抜き、「ここまでの稼ぎを出しながらまだ上を目指すこの男は、きっと自分でも及びもつかない野望を抱えているに違いない」と、そう夢想していた。
しかし実際はどうだ。蓋を開けてみればトーマスという男は影も形もない庇護を受ける強者を憎みながら、その実自分こそが既に失くしてしまった過去の遺物に対し妄執を抱くような輩だった。
アヤは失望し、同時に憤慨した。これほどまでの才覚を独力で磨いておきながら、努力の成果物を何の生産性も無いことに注ぎ込むその無為を、アヤは許しておけなかった。
奇しくもその義憤は、トーマスが「強者の世界」に対し抱いたものと寸分違わぬものであった。
本来ならここまでしたくはなかった。死者の無念を何より畏れ敬う国から来たアヤだからこそ、自分自身が行った暴挙がどれほどの事を意味するかは重々承知していたし、それについてトーマスから更なる恨みを買う事も覚悟の上だった。
だが、アヤはこれ以上見ていられなかったのだ。アヤにとってトーマスはアーサーの仇という認識は既に無く、自分を本気で「熱く」させたイイ男という認識に改められていた。
魔物娘は見初めた男と一生を添い遂げる。自分とて誇りある刑部狸を母に持つ身であれば、見初めた相手が腑抜けであるなど認めたくない。ならばいっそ……。
「ええか。よう聞け……」
懐から取り出したガラス瓶に封入された濃いピンク色の液体、それを一気に呷り口に含み、茫然自失となっているトーマスに近付くと。
「アンタをあたしのモンにする!」
ぐいっと掴んだ胸元を引き寄せ──。
「ん……っ」
「ン、ぐ!?」
唇を押さえられた息苦しさに僅かに口を開いた一瞬、舌先がトーマスの口内に侵入してドロリとした熱いものを流し込まれた。思わずむせて吐き出そうとするがもう遅い。彼は魔物娘の術中にはまってしまった。
「ンフっ……。今のは魔界やったらどこでも採れる果物、『虜の果実』を磨り潰したジュースや……。いつかエエ男に会うたら、一服盛ったろと思て何年も使わんだけど……やっと、やっと見つけたでぇ」
ポタポタと床に滴り落ちる音の発生源は、アヤの股の下。子供が小便でも漏らしたような勢いで出てくるそれは、決して不浄な液体ではなく、二人が口にした果実ジュースと同じかそれ以上に蠱惑で淫靡な匂いを放っていた。それを一息ごとに吸い込む度にトーマスの「雄」の部分が刺激される。
「なんやぁ、マンザラでもないんやなぁ……。やったら、楽しもうて」
ぽんっと軽く肩を押せばそれだけでトーマスは尻餅をつき、すかさずアヤがその腰に乗りかかる。立場は完全に逆転していた。
アヤの爪が互いの下半身を包み隠すものを切り裂き、互いの熱を持った陰部を露わにする。
トーマスの「雄」は果実の催淫効果だけでなく、目の前の淫靡な少女の艶姿に男として反応して固く猛々しく屹立し、既に理性の鎖では縛れなかった。対するアヤの「雌」の部分も、トーマスを受け入れようと溢れ出る蜜を隠そうともせず、それは邪魔な股布を取り去るとむせ返るような獣の匂いを部屋中に解き放った。
「ぅ……ん、ンンっ……!?」
雄を求める穴にトーマスを導き、一気に腰を降ろす。突き上げる衝撃はアヤにとっては完全な未知で、同時にもたらされる快感は一人で慰めていた時の比ではなかった。魔物娘である自分はいつか人間の男と結ばれると分かってはいたが、初めて体験するその感覚に彼女の中の獣性が劣情と共に加速する。
その加速は止まらず……。
「えぇ……ウソ、あッ、ちょアカ……ンンンゥッッ!!」
不意に秘部を襲った快楽の津波にアヤは成す術もなく押し流される。初めてで、しかも挿入しただけでイクなど人間の女なら淫乱の誹りは免れないが、彼女は魔物娘、むしろそれでいい。
その証拠に、一度絶頂を迎えたことで彼女は自ら腰を上下させ、トーマスを徹底的に搾り取り始めた。
「ふあぁぁぁっ!! あ、ん、んんっ! んあ、ああっ!! も……っと! もっと、ふかくゥゥ!!」
「ぐっ、ああ! ふっ!!」
トーマスもまた局部を通じて感じる快感を更に得ようと無意識に腰を突き上げる。アヤの体重とトーマスの突き上げが絶妙に合わさり、二人の体の相性はたった数回のピストンだけで完全に互いに最高の快楽を与え合う状態にまで高められていた。
「ああぁッ……!! トーマスぅ、キス……キスしてぇ、なあ! あム!」
返事も聞かず貪るようにトーマスの口を奪い、ジュースを飲ませた時と同じ様に舌を捻じ込む。舌先が歯茎や相手の舌に触れる、ただそれだけで猛烈な身悶えするような快感をもたらす。
やがてアヤの舌は内側にこもっていたトーマスの舌を解きほぐし、それを下半身の「雄」と同じく自らの口内に導かせることに成功した時、アヤの中で二発目の快楽が爆発しそうになる。それは不意に訪れて去った最初の時よりずっと激しく、その予兆の煽りを受けたトーマスもまた限界に追い込むような激しさだった。
「も、もう出るん? もうイキ、そう? フフ……ッ、ええよ、二人でいっしょにィ!!」
ラストスパートに小細工など必要ない、もうここまで来れば互いに高みへ達する為に必要最低限な動きだけ、そしてそれを最大のパワーで繰り返す。
そして──、
「イッッ……くウウウウウゥゥゥゥぁぁああああああぁ〜〜!!!!」
二匹の「雄」と「雌」は全く同時に絶頂を迎えた。
先にアヤの中がキツく締まり、一泊遅れてトーマスの白濁が奥を汚し、その熱を受けて脳天まで突き抜ける快感がアヤを貫いた。それは互いに数十秒は続いたか、吐き出され続ける欲望の種をアヤの子宮は悦びに震えながら受け入れ続け、トーマスももう彼女を突き放そうとはしなかった。
その波がじわじわと引き、どさりとアヤが倒れ込む。意図せずトーマスに受け止められる形になり、その大きく丈夫な胸板に抱かれながら、アヤの意識は交わりの熱と夕刻の微睡に沈んでいった。
「墓を……作ろうと思う」
数十分後、目覚めたアヤは呟くように発せられたトーマスの提案を黙って聞いていた。憑き物が抜け落ちたような顔のトーマスは初めて見る顔をしており、そんな彼の次の言葉を静かに待つ。
「俺はずっと自分の為にやっているつもりだった。だが実際は、それらしく振舞っているだけの三流役者、ずっとあいつらのためにやってきた。もうどこにもいない、あいつらのために」
「…………」
「だから、もう終わりにする。誰かの為になんて馬鹿みたいな事はもうやめだ。俺が俺の為だけに生きることが出来ないのは、あいつらのせいだったんだ。だから……もう終わりにするべきなんだろうな」
「……どこに作るん?」
「どこでもいい。あの貧民街の様な汚く、騒がしい所以外ならどこでも構わない。あいつらが静かに眠り、もう誰にも煩わされないようにな。もう二度と、誰かの為に稼いだりするものかよ」
忌々しげな言い方とは裏腹に、窓の向こうに見える月を見つめるその横顔は哀愁を帯びていた。そして、そうさせたのが自分だという責任を感じ、アヤもまた少し目を伏せる。
「……それでだ、話は最初に戻るぞ。俺に金を用意しろ。この国で俺が再びのし上がるだけの資金をな」
「アンタも懲りやんね〜」
「当然だ。額は……墓代含めて、ざっとこれだけか」
「ボリすぎちゃう? 今そこまで手持ちないんやけど」
「なら、資金作りに協力してやろう。取り分は俺が三で、お前が七だ」
「アホ言うな! あたしが八でアンタが二やろ! ていうか、人の為に金稼ぎはせんて今言うたやん」
「商談なら話は別だ。それにお前には俺をハメた責任を取ってもらう、二重の意味でな」
「はいはい……。でもええん? アンタ、教国の勇者様なんやろ。そっちの仕事はせんでええの?」
トーマスは既にアヤに全てを話した。自分が教国から遣わされた勇者であること、親魔物領を潰す目的でアルカーヌム連合王国にやって来て潜伏していたことも。勇者となれば全ての魔物の敵となる存在だが、アヤはそんなこと気にせず、トーマスもアヤを害するつもりは無かった。
しかし……。
「その事だが、一つ言い忘れていることがある。お前は何故、捕まれば死罪とされる現場を取り押さえられた俺が、今ここでこうして五体満足で居られるのだと思う?」
「そりゃあ、持っとった金で解決したんやろ?」
「金は全て国に徴収された。あの時点で役人どもを買収するだけの力は俺には無かった。つまり、お前の加減知らずのせいでこっちは本気で死にかけたということだ」
「わ、悪かったってぇ! そやったら何で……」
「簡単なことだ。俺の処遇に異議を唱え、それを通せるだけの人間がいたんだよ。そいつは俺が買収するまでもなく俺の味方だ」
「……まさか」
「ああ、そうだ……」
「この国には俺の他に、あと六人の勇者がいる」
勇者とは魔物を殺す者、それが全部で七人。その衝撃の事実に流石のアヤも青ざめる。
「き、聞かんかったことに……」
「なるわけないだろ」
「そやねー。って、あかんあかん! あたし死んでまうー!!」
「安心しろ、一人除いてむやみやたらに殺す奴はいない」
「その一人って誰やねん!! いややー、ジパング帰りたいぃぃ!!」
「俺を傷物にしたツケを払ってからにしろ」
「は、払う! 払わせてもらいますから、どうかお命だけは……」
「よし、まずは最初に言った額だ。次は失った信用を買い戻し、各方面にばら撒く資金、経営が軌道に乗ってからの事業拡大資金、地方の手付かずの鉱山を開くための利権開発もあるだろう。他には……」
「いややぁぁあああ!! 堪忍してぇぇえええええ!!!」
何も無くなった部屋の中で狸の悲鳴と、それを肴にする男の高笑いが輪唱していたことを、月だけが知っていた。
はたして、化かされたのはどちらだったのか。勇者か、狸か、それとも二人の商売の餌食にされた人達か?
何はともあれ、強欲勇者と金貸し狸のお話はこれでおしまい! 別に祝う事でもないが、めでたしめだたし〜! こう言わないとお話が終わらないからね。
うん? 本当はよくある話を上手いこと切り貼りしただけで、お前さんの作り話じゃないかって? そんな話なら俺でも思いつくぅ?
まあ分かる、分かるよその気持ち! 結局お伽噺みたいなもんだろって言いたいわけだ。でもこれは事実、本当にあったことなんだ!
お疑いならあそこ、ほら見えるだろ、王都で宮殿の次にデカいあの建物に行ってみな。中に入れば、それはそれは美人な刑部狸が出迎えてくれるだろうさ。
でも、あんまり彼女に色目を使いなさんな。運悪く出先から帰った社長に見られると、法外な慰謝料を吹っ掛けられちまうぜ!!
さあて、おいらは締めの口上の後にお開きさせてもらうかね。
『この芝居はアルカーヌム・トーマス金融会社の提供でお送りいたしました』ってな。
男はじぶんがいつ、どこで、誰から生まれたのかすら知らぬ、天涯孤独の身だった。確かなのは二つ。自分がどこかの女の股から生まれたことと、今自分が生きる場所が社会の底辺だということだ。
同じ場所で生きる他人同士、常にパイの奪い合いが起きていた。盗み盗まれは当たり前、そうしなければ自分が飢える……誰も彼もが必死に生きる努力を強いられた世界だった。
男が最初に犯した罪は盗みだった。どこか実入りのいいゴミ捨て場を探し当てた乞食から、その食い扶持を強奪した。悪い事だとは微塵も思わなかった。だってそうしなければ自分が死ぬ。自分の生き死にに比べれば他の一切など総じて塵でしかない。
人殺しもした。平民から富を収奪するのが貴族なら、貧民から日々の糧を奪うのは同じ貧民だった。そいつが生きている限り己が割りを食い続けると分かった時、男は躊躇なくそれを殺していた。罪悪感など無い、だってそうしなければ自分が死ぬから。
意外なことだが女を犯すことはしなかった。生きる上で必要なのは食い物と寝床、それ以外は「あればいい」という程度だ。同じ社会の底辺で生きる病気持ちの女などを相手にするのは馬鹿らしいと分かっていた。
だが世の中はどう転ぶか分からない。生きる上で最も下位にあったはずの女に、男は入れ込むことになる。生涯を通して初めての恋、そして最後の恋だった。
貧民街に咲いた小さな恋は男女を結び付け、二人は貧しくも慎ましく暮らし、男はそれまでの傍若無人な生き方から足を洗うことも考えていた。女の腹に小さな命が宿る頃、男はその決心を固めていた。互いに親兄弟の顔も知らず、姓も持たない卑賤の身だが、たった「三人」だけの家族でこの先を生きようとしていた。
運命の神はイタズラ好きだった。
女は病に罹った。決して大病ではなく、医者に診てもらい薬を処方してもらえれば助かる命だった。だが社会の底辺を生きる者達を庇護する法など無く、医者の診察を受けるには市民権が無い分の金を払わなければならなかった。
ゴミを漁るのは食べる為だった。それが街の清潔の為になった。
土を掘り返すのは死体を埋める為だった。それが道を作る為になった。
男はあらゆる仕事に従事して日銭を稼ごうとした。だが汗水垂らし血の混じった便を出してなお、得られた金は二人の生活を賄うので精一杯だった。
そうしている内に女は死んだ。金が無いから葬儀も出せず、不潔だからと亡骸は燃やされ、男の手に残ったのは「二人分」の灰だけだった。
男は考えた。
何故女は死んだ? 病に罹ったからか? 自分達が貧しかったから? それとも、その腹に別の命を宿していなかったら生きられたのか?
いいや、違う。
「俺の、努力が足りなかった」
金なんて、自分の周りに持っている奴がいくらでもいた。そいつを騙すなり殺すなりして奪えば良かったのだ。あるいは医者を脅すという手段だって取れた。そんな簡単なことにどうして気付けなかった。
男は悔やんだ。女を死なせたのは自分の怠慢が招いた結果だと、自分の「努力不足」を呪った。全て自分の責任だと理解していた。
男が金に執着するようになったのは至極当然の帰結と言えるだろう。金こそが人間の努力を数値として見られる唯一にして最大の共通単位。手段そのものに善悪など関係なく、誰がより効率よく、そして賢く生きられるかただそれだけ。
殺しと盗みでしか稼ぐ手段を知らなかった男は、賭場を荒らし、金利を脅し取り、詐欺で人を騙すやり方を学んでいった。それが最も賢く金を手にする方法だと知っていくことになる。
しかし、男自身の正当性はどうあれ、その行動が法と照らし合わせて紛れもない悪だった。であればこれもまた必然の成り行きとして男は捕縛され、その身を牢に繋がれた。蓄えていた財もその時全て没収された。男は再び名実共に社会の最底辺へと連れ戻されたのだ。
やがて自分を殺す法の裁きがあるだろう。それを地下牢でずっと待ち構えていた男だったが……。
「まさか、このような男に……」
「神託は全てに平等……例えそれが、下賤の身であろうとも」
「此度の采配は謎だらけだ。やはり見送るべきでは」
「主神の御心を疑いになる事は許されない。問答の暇があれば早く洗礼に執りかかろうぞ」
鎖を引いて連れられたのは刑場ではなく聖堂、そこには何の儀式を執り行うのか幾人もの神父や司祭が男の登壇を待っていた。
洗礼とやらが済んだ時、男を縛る枷は無くなっていた。そして同時に、この時彼は生まれ変わったのだ。
「おめでとう、勇者トーマス。大いなる使命を受けし君に、主神の祝福を!」
貧民街生まれの「ただのトーマス」は、魔物を打ち倒すことを命じられた「勇者トーマス」となったのだ。
「随分と懐かしい夢を見た」
今日は待ちに待った「取引」の日だ。既に物はタル詰めが終わり、例の場所へと移送されているだろう。王都の法では持ち込みまで規制していないが、見つからないに越したことはない。
「失礼します。社長、アヤ様よりお手紙を預かっております」
「見せろ」
メイドからひったくるように手紙を受け取ると、その文面を読みふっと鼻で笑った。
内容は、「急な用で取引に立ち会うことができなくなった」とのことだった。どうと言う事はない、最初から奴には立ち会う気など更々なかったのだ。
「大方、取引中に何か仕掛けるつもりでいるな。無駄な事を……」
証文からアシがつけば困るのはお互い様だ。署名には血判もさせている、どれだけ誤魔化そうと「その筋」の知り合いに言えば魔術的にサインがアヤのものだと証明される。共倒れはあるだろうが、アヤだけの一人勝ちは絶対に有り得ない。
荷車に乗り込み街の景色を観覧しながら目的地へと向かう。今見えているこの景色、そこに関わる金の流れの大部分は既にトーマスの支配下にある。後一歩、王国の国庫に直接接触できるレベルにまで達すればそこから先は簡単だ、トーマスの手に掛かれば一晩で全ての金を抜き取ることが出来る。そうなればアルカーヌムは文字通りの骨抜きとなるだろう。
だがそれではまだ足りない。彼の掲げる野望の実現にはとても程遠い。
「アヤ……お前は俺と組めば世界を手に出来ると言ったな。王国だけでなく、レスカティエも、霧の大陸も、ジパングも、魔界ですら……とな。だがそうするのは俺だけだ」
車が目的の場所、今はもう使われず無人となった場末の飲み屋跡に着いた。ここの地下室が取引の現場となる。金を持ち運ぶ人夫を何人か連れ、トーマスは遂に商品との対面を果たす。
地下室に人はいない。金額は事前に取り決めてあり、ここに金を置いて荷を運び出し、後刻相手が金を持ち出すという寸法になっている。
「さてと、では……いただくか」
所定の場所に金貨の詰まった袋を全て置き、トーマスの指示で人夫たちが作業に取り掛かる。屈強な腕に持ち上げられたタルが地下室から離れようとしていた。
しかし、彼らが地下を離れるより先に、ここに侵入する者があった。
「下がれ。下がれ下がれ! 全員荷物を降ろせ!!」
騎士甲冑にも似た装備に身を包むのは、王都の治安を維持する任務を与えられし憲兵隊。手に手に警棒を携え物々しい雰囲気に、雇われ人夫たちに動揺が走る。荷の中身まで知らされていないが、何か自分達がヤバイものに関わったのではと危機感が募る。
だがそんな状況でも、この男は冷静だった。
「これはこれは憲兵諸君、こんな所へ何用かな? ああ、ひょっとして君らの上司である地区長殿への差し入れの件かな。こちらにも都合がある、もうしばらく我慢してもらえると嬉しいのだが」
法の限界ギリギリを攻めるあくどい商法でもトーマスが捕まらなかったのは、こうして関係部署にそれ相応の口封じをしているからだ。この地区を担当する憲兵の長も彼の鼻薬を嗅がされた一人だ、少なくとも薬物を売買目的で入荷した確かな証拠を得ていない限りトーマスが縛につくことは有り得ない。どれだけ大量でも「個人使用」と言い切ってしまえばそれまでで、それがまかり通るだけの力を持っている。
故にこの官憲たちが自分を害することなど無い、その強い自信に裏打ちされた笑みを浮かべるトーマス。
「とある者からの告発で貴様の荷に疑いが掛かっている。中身を検めさせてもらおう。令状も既にある」
「用意のよろしいことで。つかぬ事を聞きますが、そのタレコミをしたのはもしや、獣姿の金貸しではありませんでしたか?」
「問答をするつもりはない。検分に執りかかる!」
一斉に憲兵たちがタルを叩き割り中身を確かめる。その様子をトーマスは微笑んだまま壁際にもたれかかって見つめるだけだ。
やがて隊長らしき男が底冷えするような声で問い詰める。
「……これは何だ」
「何だ、とは要領を得ませんなあ。見ての通り、ただの粉、としか答えられませぬ。仮にそれがケシの実から抽出した粉だったとして、何か問題でも?」
「ケシの粉?」
「ええ。王都の外にある農園の主とは懇意にさせてもらっておりますゆえ、事業拡大の為の協力に対する見返りとして『譲渡』してもらったまでのこと。そこの金子はそれとは別件、また新たな事業への資金提供として貸すものです。よって、この薬を売買したことにはならない。この王都はケシの粉の売買を禁じておりますが、あくまで『個人使用』や金銭を含まない『譲渡』なら話は別、そのはずですよね?」
「…………」
うつむいた隊長を見てトーマスは内心でさらに嘲笑う。人の悔しがる様は何と快感なのだろうか、今まで自分を縄の下にしようとした官憲たちが全員その顔をしていた。その度にトーマスは金稼ぎとは異なる快感を覚えるのだ。
「もうよろしいですか。この後も商談を抱えていますので……」
適当に口から出任せを吐きながらもっとその顔を近くで見ようとした。
そして、気付く……。
「あ……?」
目の前のこの男が、全く悔しがっていないことに。
むしろ困惑している。困惑、それ自体はよくある。だがこの表情は正真正銘、トーマスの言っている事を理解できていない白痴の困惑、完全に現実を分かっていない。その真相を問い質そうとする前に、憲兵が先に問うてきた。
「トーマスさん、あなたはこのタルの中身をケシの粉と……」
「ああ、言いましたね」
「……あなたは……あなたは、これがケシの粉に見えるのか?」
「…………なに!?」
「これは……ただの小麦粉だ!!」
そう言って憲兵が投げ付けると、手中の粉は粉末となって飛散し、その粘り気のある臭いを地下室に充満させた。その臭いは紛うことなく、小麦を挽いて生成されるあの小麦粉だった。
「馬鹿、なっ!!」
地面に落ちたそれを拾い上げて確認する。だがどんなに目を凝らせどその粉はケシではなく、王都のどの農場でも作物として不動の地位を有する穀物の王、小麦の粉でしかない。舐めても至高の快楽などなく、嗅いでもその心を桃源郷に誘いはしない。
様子を見るからに他の全てのタルも中身は同じだろう。そして、こんな事を仕出かせる人物に心当たりなど、一人しか思い当たらない。
「あの狸めが……!!」
失念していた、東方の狸と狐の魔物娘の最大の特性を。奴らは男を惑わす際に単なる力押しではなく、その対象に幻を見せる。他人に顔を変えて変化するなどお手の物、時間と労力を問わなければ広範囲に渡り幻覚を見せるという。今までトーマスが見せられていたケシの花は全て小麦だったのだ。
だが、それだけだ。タルの中が違法薬物でないと分かったからには官憲はこれ以上の追及はできない。見逃すしかないのだ。しかも金を支払う前なので事実上の損害はゼロ。あのメス狸はトーマスをからかうだけに終わったのだ。
(阿呆が。詰めが甘いんだよォ!!)
勇者と金貸しの化かし合いは勇者の勝利に終わった。
かに見えた。
「なら、これはどう説明する」
憲兵が粉の中から何かを掘り出す。それは厳重に封がされた木箱だ。小さいのや長いの、大きいのまでまちまちだ。小麦粉の中に隠されていたそれらを開くと、中には見慣れぬ工具や部品のような物がいくつもあり、それが全てのタルに五つほど隠されていた。
トーマスも見覚えのないそれらに首を傾げる。しかし、王都の治安を守護する憲兵らにはそれが何の部品であるかは一目瞭然だった。それらを組み立てれば見える物体……それは。
「……………………」
「武器密輸の現行犯で逮捕する」
旧式の型落ち品だが、組み上がったそれは実弾の射出が可能なレベルに仕上げられた銃の部品だった。アルカーヌムのみならず、全ての国において軍の介入しない武器の製造と売買は禁止されている。
見つかれば、死刑はほぼ確実とされる。
この日、とある企業が国の下に解体されることになった。
全てが無くなった部屋で、男は待っていた。扉を開けて自分に会いに来るであろう来客を。机も、時計も、ソファも、壁を彩っていた絵画も、必要最低限の家具すら無くなり、もはや誰かを出迎えることこそ失礼になるようなこの部屋で、男はずっと待っていた。
どれほど待ったか、窓の外の太陽が西に傾きその色を鮮やかなオレンジに変える頃、扉の向こうから特徴的な足音が聞こえてきた。
カラ、コロ。
カラ、コロ。
乾いた木を叩き合わせたような澄んだ音色。それが部屋の前まで来て、足音の主が扉を開け放つ。
「ごめんやっしゃ。トーマスさん、お元気?」
「ああ、すこぶるな」
あれだけ拠り所としていた金が無くなり、店ごと私財を取り上げられ正真正銘の無一文に落ちてなおトーマスの不遜な態度は欠片も減じない。
その証拠に、彼は自分をハメた女から軍資金を借りようとしている。
「連絡もろた時は仰天したわ。アンタ、恥やプライドちゅうのはあらへんの?」
「恥? 誇り? それが? そんな程度のものを質に入れるだけで金が入るなら、タダ同然だ。いくらだってくれてやれる」
武器の密輸は重罪、見つかり捕まれば死刑……にも関わらず、トーマスはこうしてここにいる。そして全てを失ったにも関わらずまだこうして自分がのし上がることしか考えていない。ここまで強欲の体現者をアヤは、いや、全てを支配する主神ですら見た事も聞いた事も無いだろう。
だからこそ、アヤは確信する。
「アンタ……何のために稼いでるん?」
「無論、自分の為だ」
「それは……真っ赤な嘘や。アンタは自分の為に金稼ぎしたことなんて一度もあらへん」
それは、核心。そこをまともに突かれた今、トーマスから全ての表情が消え去った。嫌味な笑みはどこへやら、石膏を塗り固めたような鉄面皮に発言したアヤも一瞬驚き、それを誤魔化すように身を捩る。だが決して追及を止めることはしない。ここでトドメを刺し切ると、この「偽の強欲」を体現した怪物を殺すのだと決意したからこそここにいる。
「あたしはアンタの金の流れをずっと追った。小さな生活費から、大きな商談まで、アンタが社長業を継いだっちゅう辺りからある記録を全部洗って、その一銭一分一厘に至るまで帳尻が合う金のルートを探した。難儀やったでぇ、金勘定に長けた刑部狸をここまでイワしたんは後にも先にもアンタだけやろ。なにせ今この時点でその全体の七割も掴めんかった。せやけど……そんだけ分かれば充分や。人は嘘をつく、物も隠したり壊したりしてしまえばそれまでやけど、金の流れだけは嘘を言わへんからな。それはたった数年とは言え商人やっとったトーマスさんも承知してるやろ」
「その口振り、既に俺の正体も知っているのか」
「いんや。あたしが掴めたんは、アンタがあのレスカティエと繋がりがあるっちゅうことだけや。普通成金ゆーうんは稼いだ金を浪費するもんや。やけどアンタは稼ぐだけ稼いで使いもせんと溜め込むだけ。商談や個人使用以外で唯一金が動いた先がレスカティエやったっちゅうわけや。そうなるとアンタはあの国が差し向けたスパイってのが妥当な線やろ」
「当たらからずも遠からず、いや、むしろ大正解だよ。俺はこの国の経済を内側から掌握し、経済的に王国を潰すという任務を負っている。指令を下したのはレスカティエ正教会だ」
「そんなんベラベラと喋ってもええん?」
「問題ない。俺がここで何を話そうと、お前に出来るのは真偽を確かめることだけ。お前がどれだけ知略策謀に優れようと、1000年続いた教国の威光までどうこう出来るはずがない。それに元より、お前には止めるつもりなど無いのだろう」
「せやな。あたしはただ、昔職探しの口利きをしてやったアーサーの坊やを困らせとる男を、ちょいと懲らしめてやりたかっただけや。刑部狸は金勘定はシビアやけど、決して義理人情が無いわけやないんやで」
「それは良かったな、目的が達成できて。だが俺には関わりないことだ。良いからさっさと金を出せ、二週間もあれば利子含め十倍にして返してやろう。手切れ金代わりにくれてやるよ」
己の素性がバレたところでトーマスは何の気にも留めない。だがそれはアヤにも予想できていた。まだだ、彼を殺す切り札は、まだこれから出すのだ。
「……アンタが密輸の一件で捕まってから二ヶ月、あたしがどこにおったか聞きたい?」
「金貸しをしていたんだろ」
「生憎とこの二ヶ月間、あたしは休業中やった。ちゅうんも、ちょいと気になる事があったんよ。アンタはレスカティエと繋がって自分の稼いだ上前をお上に納めとる。やけどなぁ、『少ない』んや、納めとる額が。ケチを起こして上納を渋っとるにしては、アンタはただ金を溜め込むだけでちいとも使わへん。金っちゅうもんは持てば必ず使わんとおれんはず。ちゅうことは、つまり……溜めた金を使う機会がまだ来てへんゆうことやろ」
「……だからどうした」
「せやから調べた。アンタが不在のこの二ヶ月、この建物に出入りできる人間に変化して日参し、屋敷中をくまなく調べ尽くした。寝室や食堂、便所から庭の木一本に至るまで、根掘り葉掘り全部な。そしたら、ほれ……」
ここまで長々と語っていたアヤが本題と言わんばかりに、背中に背負う荷箱からある物を取り出す。
そしてそれを見せた刹那、トーマスの顔色が激変した。
「き、さま……!?」
「やっぱりな。『これ』がアンタの金の使い道やったんか」
くすんだ銀色の壷、それが二つ。決して中を開くことは無いが、東方出身のアヤにはこの二つの壷が何を入れた物であるか知っていた。
骨壷。死者の骨と灰を納めた容器、本来なら墓の下に丁重に封じられて然るべきそれを二つ、二人分の遺灰をトーマスが持つその理由とは……?
「あたしの勝手な推測やけど、アンタに両親はおらへん。こんだけ調べてもその痕跡すらなかったんがその証拠や」
「…………」
「それならこれは誰の骨か。両親やないんなら二つ作った意味は? ここでアンタの両親がおらへん理由が出て来る」
「……せ……」
「アンタ、ひょっとして元孤児やろ。となればこの遺灰は親以外でアンタと親しかった人間……兄弟同然に育った奴か、あるいは……」
「かえ、せ……!」
「想い人と、その子供っちゅうトコやろか?」
「かえしやがれえぇぇぇえええええええええッ!!!!」
激昂したトーマスの腕がアヤに伸びる。アヤは彼が洗礼を受けた勇者であることまでは掴んでおらず、常人を遥かに越えた速度で迫るトーマスに対応が遅れて組み敷かれる。
魔物娘の膂力は大の男より遥かに強い。しかし怒りで我を忘れたトーマスの腕力は左手でアヤの両手首を、右手で彼女の首を容易く締め上げる。二つの骨壷が手を離れ転がって部屋の隅に行ってしまうが、それすら目に入らないほどトーマスは怒りに支配されていた。
「どいつも、こいつもっ!! 生まれついた環境に胡坐をかくしか能のない分際でぇ……! いつもそうだぁ!! 貴様らは自分で何の努力もせず、何も為さず、何も勝ち取ろうともしないくせに、自分より弱い連中からしか奪えない!! 法が、社会が、道徳が……そんな影も形もないものに守られているつもりでいる! ふざけるなぁっ!! そんなありもしない幻想に守られた現実に生きる奴らなど、生きる価値が無い、俺がそいつらの全てを奪い尽くしてやる! 貴様なんぞに邪魔させるか……これ以上俺から、『俺達』から奪わせるものか!!!!」
トーマスは決して強者ではない、彼の本質は未だに貧民街で地獄の暮らしを強いられていた頃の弱者でしかない。奪い奪われるのが当然だったあの世界では、元からきらびやかな世界で生きる者の常識は一切通用しない。誰もが獣に堕ちることでしか生き延びられなかった非情の場所にいるのは、弱者と、そこから更に搾取される弱者しか存在しなかった。そんな悪循環の世界から抜け出すには自分達を土台にして暮らす「強者」に成り代わることでしか達成されなかった。
だからこそ、自分が今まで目の敵にしてきた「強者」と同じ位置に立った時、トーマスは失望した。
「貴様らは弱者だ、俺と同じ、今この一瞬を自分以外の誰かから奪わなければ生きられない弱者。そこに人間も魔物も、神も魔王も関係ない、皆同じだ。皆同じ……空気を吸い、肉を食べ、糞をするように当たり前なこと……なら、何故『あいつら』は死んだ。弱者しか存在しないこの世界でどうしてあいつらだけが死ぬ必要があった」
骨壷に眠る者、一人は顔はおろか性別すら知らないままこの世を去った。
「考えてみれば簡単な事だった、誰もあいつらの努力を認めなかったからだ。成功するには既に成功していることが前提条件、そんなふざけたルールを先に作った連中がいたから、あいつらは割りを食うしかなかったんだ!」
悲劇や絶望などいくらでも転がっている。別にトーマスの周囲だけが異常だったわけではない。だがそれを彼が許容できるかどうかは全く違う話である。
「狡賢く生き、善を装った悪になるのが正しい生き方なら、俺がそれを実践し証明する! この地上全土から掻き集めた財という財を尽くし、その全てを注ぎ込み俺だけの国を作る!! その邪魔になるモノは全て、この俺が……!!!」
アヤの首にかけられた手の握力が高まる。既に顔は紫色になるまで絞め上げられているが、まだ足りないと言わんばかりにトーマスの腕は更に力を込める。
だがこの程度のことを想定していないアヤではなかった。
「──フッ!」
「っ!? ぐ、あああ!!」
予め隠していたのか、口に残っていた僅かな息を使って含み針を吹き出し、それが眉間に刺さった痛みで思わずトーマスが手を離した。その隙に呼吸を整えて彼女が飛び出した先は……。
「何をする、よせやめろ!!」
遺灰を納めた壷二つ、その蓋をこじ開けると窓際まで走り……。
「こんなっ、もぉぉぉぉん!!」
それをあろうことか天高く放り投げたのだ。
トーマスが追うよりずっと速く二つの壷は中の灰をまき散らしながら遠くへ消え去り、少し遅れて陶器が割れるような音が届いた。トーマスの野望が砕けた音である。
そして、それをきっかけに捲し立てるのはアヤの番だった。
「あたしはアンタを誤解しとったわ。アンタは前に努力しとる奴が正しいって言いはったけどやな、アンタは自分の何の努力をしたんや! あの二人がアンタにとってどんな人間やったか知らんし知るつもりもあらへんけどなぁ……。自分の国を作る? 寝言いうんも大概にせぇや!! 墓と仏壇に金かけるんはアホのすることやろが!! 欲深が聞いて呆れるわ、アンタはあの二人の墓作りたかっただけやろ!! じゃなけりゃあんな灰を後生大事に隠し持つもんか!!」
勇者の使命を帯びた後、トーマスは決して自らの為に金を稼ごうとはしなかった。王国の経済を握れと言われ、そのようにした。その為には与えられた店の事業拡大が必要だったので、培った才能を使いそうした。得られた金はそれ以外に決して手を付けず、全体の僅かな部分を上納金として教国に納めるだけだった。
そこまで調べた時、アヤの胸中にあったのは同じ商人としての燃え上がるような喜悦と興奮だった。幾人もの商人と交わり、また自らもそれらを育てた身としてトーマスの手腕の確かさを見抜き、「ここまでの稼ぎを出しながらまだ上を目指すこの男は、きっと自分でも及びもつかない野望を抱えているに違いない」と、そう夢想していた。
しかし実際はどうだ。蓋を開けてみればトーマスという男は影も形もない庇護を受ける強者を憎みながら、その実自分こそが既に失くしてしまった過去の遺物に対し妄執を抱くような輩だった。
アヤは失望し、同時に憤慨した。これほどまでの才覚を独力で磨いておきながら、努力の成果物を何の生産性も無いことに注ぎ込むその無為を、アヤは許しておけなかった。
奇しくもその義憤は、トーマスが「強者の世界」に対し抱いたものと寸分違わぬものであった。
本来ならここまでしたくはなかった。死者の無念を何より畏れ敬う国から来たアヤだからこそ、自分自身が行った暴挙がどれほどの事を意味するかは重々承知していたし、それについてトーマスから更なる恨みを買う事も覚悟の上だった。
だが、アヤはこれ以上見ていられなかったのだ。アヤにとってトーマスはアーサーの仇という認識は既に無く、自分を本気で「熱く」させたイイ男という認識に改められていた。
魔物娘は見初めた男と一生を添い遂げる。自分とて誇りある刑部狸を母に持つ身であれば、見初めた相手が腑抜けであるなど認めたくない。ならばいっそ……。
「ええか。よう聞け……」
懐から取り出したガラス瓶に封入された濃いピンク色の液体、それを一気に呷り口に含み、茫然自失となっているトーマスに近付くと。
「アンタをあたしのモンにする!」
ぐいっと掴んだ胸元を引き寄せ──。
「ん……っ」
「ン、ぐ!?」
唇を押さえられた息苦しさに僅かに口を開いた一瞬、舌先がトーマスの口内に侵入してドロリとした熱いものを流し込まれた。思わずむせて吐き出そうとするがもう遅い。彼は魔物娘の術中にはまってしまった。
「ンフっ……。今のは魔界やったらどこでも採れる果物、『虜の果実』を磨り潰したジュースや……。いつかエエ男に会うたら、一服盛ったろと思て何年も使わんだけど……やっと、やっと見つけたでぇ」
ポタポタと床に滴り落ちる音の発生源は、アヤの股の下。子供が小便でも漏らしたような勢いで出てくるそれは、決して不浄な液体ではなく、二人が口にした果実ジュースと同じかそれ以上に蠱惑で淫靡な匂いを放っていた。それを一息ごとに吸い込む度にトーマスの「雄」の部分が刺激される。
「なんやぁ、マンザラでもないんやなぁ……。やったら、楽しもうて」
ぽんっと軽く肩を押せばそれだけでトーマスは尻餅をつき、すかさずアヤがその腰に乗りかかる。立場は完全に逆転していた。
アヤの爪が互いの下半身を包み隠すものを切り裂き、互いの熱を持った陰部を露わにする。
トーマスの「雄」は果実の催淫効果だけでなく、目の前の淫靡な少女の艶姿に男として反応して固く猛々しく屹立し、既に理性の鎖では縛れなかった。対するアヤの「雌」の部分も、トーマスを受け入れようと溢れ出る蜜を隠そうともせず、それは邪魔な股布を取り去るとむせ返るような獣の匂いを部屋中に解き放った。
「ぅ……ん、ンンっ……!?」
雄を求める穴にトーマスを導き、一気に腰を降ろす。突き上げる衝撃はアヤにとっては完全な未知で、同時にもたらされる快感は一人で慰めていた時の比ではなかった。魔物娘である自分はいつか人間の男と結ばれると分かってはいたが、初めて体験するその感覚に彼女の中の獣性が劣情と共に加速する。
その加速は止まらず……。
「えぇ……ウソ、あッ、ちょアカ……ンンンゥッッ!!」
不意に秘部を襲った快楽の津波にアヤは成す術もなく押し流される。初めてで、しかも挿入しただけでイクなど人間の女なら淫乱の誹りは免れないが、彼女は魔物娘、むしろそれでいい。
その証拠に、一度絶頂を迎えたことで彼女は自ら腰を上下させ、トーマスを徹底的に搾り取り始めた。
「ふあぁぁぁっ!! あ、ん、んんっ! んあ、ああっ!! も……っと! もっと、ふかくゥゥ!!」
「ぐっ、ああ! ふっ!!」
トーマスもまた局部を通じて感じる快感を更に得ようと無意識に腰を突き上げる。アヤの体重とトーマスの突き上げが絶妙に合わさり、二人の体の相性はたった数回のピストンだけで完全に互いに最高の快楽を与え合う状態にまで高められていた。
「ああぁッ……!! トーマスぅ、キス……キスしてぇ、なあ! あム!」
返事も聞かず貪るようにトーマスの口を奪い、ジュースを飲ませた時と同じ様に舌を捻じ込む。舌先が歯茎や相手の舌に触れる、ただそれだけで猛烈な身悶えするような快感をもたらす。
やがてアヤの舌は内側にこもっていたトーマスの舌を解きほぐし、それを下半身の「雄」と同じく自らの口内に導かせることに成功した時、アヤの中で二発目の快楽が爆発しそうになる。それは不意に訪れて去った最初の時よりずっと激しく、その予兆の煽りを受けたトーマスもまた限界に追い込むような激しさだった。
「も、もう出るん? もうイキ、そう? フフ……ッ、ええよ、二人でいっしょにィ!!」
ラストスパートに小細工など必要ない、もうここまで来れば互いに高みへ達する為に必要最低限な動きだけ、そしてそれを最大のパワーで繰り返す。
そして──、
「イッッ……くウウウウウゥゥゥゥぁぁああああああぁ〜〜!!!!」
二匹の「雄」と「雌」は全く同時に絶頂を迎えた。
先にアヤの中がキツく締まり、一泊遅れてトーマスの白濁が奥を汚し、その熱を受けて脳天まで突き抜ける快感がアヤを貫いた。それは互いに数十秒は続いたか、吐き出され続ける欲望の種をアヤの子宮は悦びに震えながら受け入れ続け、トーマスももう彼女を突き放そうとはしなかった。
その波がじわじわと引き、どさりとアヤが倒れ込む。意図せずトーマスに受け止められる形になり、その大きく丈夫な胸板に抱かれながら、アヤの意識は交わりの熱と夕刻の微睡に沈んでいった。
「墓を……作ろうと思う」
数十分後、目覚めたアヤは呟くように発せられたトーマスの提案を黙って聞いていた。憑き物が抜け落ちたような顔のトーマスは初めて見る顔をしており、そんな彼の次の言葉を静かに待つ。
「俺はずっと自分の為にやっているつもりだった。だが実際は、それらしく振舞っているだけの三流役者、ずっとあいつらのためにやってきた。もうどこにもいない、あいつらのために」
「…………」
「だから、もう終わりにする。誰かの為になんて馬鹿みたいな事はもうやめだ。俺が俺の為だけに生きることが出来ないのは、あいつらのせいだったんだ。だから……もう終わりにするべきなんだろうな」
「……どこに作るん?」
「どこでもいい。あの貧民街の様な汚く、騒がしい所以外ならどこでも構わない。あいつらが静かに眠り、もう誰にも煩わされないようにな。もう二度と、誰かの為に稼いだりするものかよ」
忌々しげな言い方とは裏腹に、窓の向こうに見える月を見つめるその横顔は哀愁を帯びていた。そして、そうさせたのが自分だという責任を感じ、アヤもまた少し目を伏せる。
「……それでだ、話は最初に戻るぞ。俺に金を用意しろ。この国で俺が再びのし上がるだけの資金をな」
「アンタも懲りやんね〜」
「当然だ。額は……墓代含めて、ざっとこれだけか」
「ボリすぎちゃう? 今そこまで手持ちないんやけど」
「なら、資金作りに協力してやろう。取り分は俺が三で、お前が七だ」
「アホ言うな! あたしが八でアンタが二やろ! ていうか、人の為に金稼ぎはせんて今言うたやん」
「商談なら話は別だ。それにお前には俺をハメた責任を取ってもらう、二重の意味でな」
「はいはい……。でもええん? アンタ、教国の勇者様なんやろ。そっちの仕事はせんでええの?」
トーマスは既にアヤに全てを話した。自分が教国から遣わされた勇者であること、親魔物領を潰す目的でアルカーヌム連合王国にやって来て潜伏していたことも。勇者となれば全ての魔物の敵となる存在だが、アヤはそんなこと気にせず、トーマスもアヤを害するつもりは無かった。
しかし……。
「その事だが、一つ言い忘れていることがある。お前は何故、捕まれば死罪とされる現場を取り押さえられた俺が、今ここでこうして五体満足で居られるのだと思う?」
「そりゃあ、持っとった金で解決したんやろ?」
「金は全て国に徴収された。あの時点で役人どもを買収するだけの力は俺には無かった。つまり、お前の加減知らずのせいでこっちは本気で死にかけたということだ」
「わ、悪かったってぇ! そやったら何で……」
「簡単なことだ。俺の処遇に異議を唱え、それを通せるだけの人間がいたんだよ。そいつは俺が買収するまでもなく俺の味方だ」
「……まさか」
「ああ、そうだ……」
「この国には俺の他に、あと六人の勇者がいる」
勇者とは魔物を殺す者、それが全部で七人。その衝撃の事実に流石のアヤも青ざめる。
「き、聞かんかったことに……」
「なるわけないだろ」
「そやねー。って、あかんあかん! あたし死んでまうー!!」
「安心しろ、一人除いてむやみやたらに殺す奴はいない」
「その一人って誰やねん!! いややー、ジパング帰りたいぃぃ!!」
「俺を傷物にしたツケを払ってからにしろ」
「は、払う! 払わせてもらいますから、どうかお命だけは……」
「よし、まずは最初に言った額だ。次は失った信用を買い戻し、各方面にばら撒く資金、経営が軌道に乗ってからの事業拡大資金、地方の手付かずの鉱山を開くための利権開発もあるだろう。他には……」
「いややぁぁあああ!! 堪忍してぇぇえええええ!!!」
何も無くなった部屋の中で狸の悲鳴と、それを肴にする男の高笑いが輪唱していたことを、月だけが知っていた。
はたして、化かされたのはどちらだったのか。勇者か、狸か、それとも二人の商売の餌食にされた人達か?
何はともあれ、強欲勇者と金貸し狸のお話はこれでおしまい! 別に祝う事でもないが、めでたしめだたし〜! こう言わないとお話が終わらないからね。
うん? 本当はよくある話を上手いこと切り貼りしただけで、お前さんの作り話じゃないかって? そんな話なら俺でも思いつくぅ?
まあ分かる、分かるよその気持ち! 結局お伽噺みたいなもんだろって言いたいわけだ。でもこれは事実、本当にあったことなんだ!
お疑いならあそこ、ほら見えるだろ、王都で宮殿の次にデカいあの建物に行ってみな。中に入れば、それはそれは美人な刑部狸が出迎えてくれるだろうさ。
でも、あんまり彼女に色目を使いなさんな。運悪く出先から帰った社長に見られると、法外な慰謝料を吹っ掛けられちまうぜ!!
さあて、おいらは締めの口上の後にお開きさせてもらうかね。
『この芝居はアルカーヌム・トーマス金融会社の提供でお送りいたしました』ってな。
15/08/22 18:43更新 / 毒素N
戻る
次へ