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第二章 嫉妬の勇者:前編
 さあさ皆さんお立合い! またもや登場、この街で本当にあったお話の第二弾が始まるよ〜!

 おお、何人か見た顔がいるねえ。この前の続きが気になるかい? そうだろそうだろ、気になるだろ! 

 この街に潜り込んだ勇者は七人! 今日語るのはその二人目! トーマスが欲深な男なら、こいつはちょいと奇々怪々、説明は一言「めんどー」で完了!

 寄ってらっしゃい見てらっしゃい! 勇者失格の烙印を押された男と、そんなどうしようもない男を甲斐甲斐しく世話する聖女さまのお話だ! お代は聞いてからで結構!

 ズバリ、タイトルは『嫉妬の勇者 〜あるいは献身的な聖女の話〜』!!

 それでは、はじまりはじまり〜!





 「俺っちは、ダメなおとこなんだぁ……」

 その夜、酒場の隅の席で酒を浴びるように飲む一人の男が居た。夕方に開店してから何時間もそうしているのか、流石に店員らも付き合いきれないとばかりに呆れ顔だ。

 「故郷の田舎さ捨てて、王都でならいい暮らしが出来っと思ったのによぉ〜。俺っちが能なしなばっかりに、田舎のお父とお母には迷惑ばっかりで……ろくに日銭も稼げねえくせに安酒一杯頼むだけの俺っちなんか……俺っちなんか……死んじまったほうが世の為人の為だよ〜!!」

 それだけ分かっているのなら酒など飲まず、真面目に働けばいいのでは……と、そんなアドバイスすらしない。ここ数日ですっかり常連と化した男だが、大の中年男が大声でおいおい泣き喚く姿を見れば誰だって距離を置くだろう。わざわざ奇特にも真摯に声を掛けてくれる者などいない。

 男の名前は「ゴードン」。前に店員が聞いた話では、出稼ぎの為に王都に上京してきた田舎の三男坊とのこと。長男は家業を継ぎ次男は名家に婿養子に行き、最後に残った穀潰しの彼は半ば勘当同然に家を出されたらしい。一応は出稼ぎと言う名目だが、毎日のごとく酒屋に入り浸って嘆き悲しんでいるところを見ると仕事にはありつけていないらしい。

 とはいえ、脂が落ち始めるこの歳まで悠々自適な三男坊だったことを鑑みれば、誰も彼に同情する者などいないのが普通だ。だがこの日は少し違っていた。

 「いけませんよ、あなたそんなんじゃこの先どうするんですか!」

 「ん〜、あんたは?」

 「私は街の物資や流通を手助けする運搬業を営む者です。あなた見た所体も丈夫そうだ、それを活かさないなんて宝の持ち腐れですよ!」

 「で、でも、俺っちは……グズでノロマで、そのうえ物覚えも悪くて……」

 「誰でも最初は初心者です、恥じる事じゃありません。年齢だって、年老いてヨボヨボになってから気付くよりずっといい! あなたまだやり直せるんですよ!」

 「で、でもよぉ……」

 「乗りかかった船です。どうです、私の経営する会社で働きませんか?」

 「物運ぶ仕事だろぉ? 俺っちの足ってば、こんなんだし……」

 そう言ってゴードンは自分の右脚を見せる。彼が恵まれた職に就けない理由がそこにある。

 「義足ですか」

 「んだよ。だから、社長さんの誘いはありがてえけんど……」

 「でしたら事務の仕事だってありますよ。なあに、覚えれば簡単。要は慣れですよ、慣れ!」

 「しゃ、社長さんはどうして見ず知らずの俺っちにそこまでしてくれるだか?」

 「私も今の規模になるまでには多くの人達に助けられました。今は少しでも、その人達と同じように困っている人々を助けたいのです」

 「しゃ、しゃちょ〜さ〜ん!! おれ、俺っちは感動したよ〜!! 是非、是非ともお願いしますだ!」

 「ええ、ええこちらこそ! 頑張りましょうね!!」

 人の縁とは奇妙なもの。安酒を呷って嘆き悲しむだけだった男の新たな門出に、厄介な客が一人減ってくれたと安堵する周囲だった。





 帰り道、すっかり千鳥足になるまで酔いが回ったゴードンは、ひとまず社長の宅にお邪魔することになり、二人で肩を貸し合いながらその道を歩いていた。既に時刻は深夜、通りに人の気配は無く時折のら猫の鳴き声だけが聞こえる路地だった。

 「こんなことってあるんだなぁ。俺っちってば都会は怖いとこだって聞いてたから、誰も俺っちを助けてなんかくれねえと思い込んでただよ」

 「持ちつ持たれつですよ。困ったことがあれば何でも言ってください、力になりますから」

 社長の方も赤ら顔でアルコール臭い息を吐きながらゴードンの肩を強く抱き寄せる。

 「えへへ、なんだか俺っち、社長さんとはうまくやってけそうだよ〜。あは、あははは! あーそうだ! あのさぁ、さっそくで悪ぃんだけども、俺っちってば困ってることがあるんだな」

 「はい? どうかしました?」

 「じ、実は俺っち、仕事が無いって言いながら本当はちょいとした副業……? みたいなのをやってんだな。そんで、社長さんのお誘いを受けるとなると、そっちの方も都合しねえといけなくて……」

 「うちは業務に支障が無ければ特に副業を禁止してはいませんよ、ご安心ください!」

 「ほ、ほんとだか!? いやぁ社長さんってばほんとに太っ腹だなあ!」

 「それほどでも。でも、そのお仕事はお忙しいのですか?」

 「いんや、俺っちみたいな人間でも出来る簡単なお仕事だぁよ。ちょちょっとやって、すぐ終わるような仕事さぁ」

 「何か協力できるかも知れません。差し支えなければ聞いても?」

 「あー、ほんとほんと、大したこたぁねーんだ。簡単に言うとなぁ──」



 「おめぇみたいな野郎をぶっ殺す仕事だよ」



 刹那、ゴードンの左手が口元を、肩に組まれていた右腕が社長の首に回され、コンマの時間も掛からずその頚骨をへし折った。

 真夜中の路地に悲鳴は聞こえず、完全なる無音の殺人術が敢行された事実を知る者はいない。このゴードンを除いては。

 「死んだ? ほんとに死んだ? ……息してない、心臓の音も聞こえない……うん、死んだ。生き返らない。やった……今日もうまく殺せた」

 ついさっきまで同じ酒を飲み共に笑い合っていた相手を殺し、その死骸を壊れたオモチャを見るように何度も丹念に確認する。自分のやった事が完遂された事を知ると、ようやくゴードンは溜め込んでいた息をほぅっと吐き出し安堵したのだった。

 「ああ、いけねぇ、さっさと身包み剥いで川に捨てねぇと。あー待った待った、その前に……」

 近くに転がっていた煉瓦を振り上げ……。

 「誰だか分かんねえように顔も潰さねえとな」

 歯が折れ、目が潰れ、鼻が陥没するまで何度も何度も、血を吸ってボロボロになった角度を変えながら何度もその顔面に向けて振り下ろす。ものの三分で顔面は吐き気を催す醜悪な肉と骨のシェイクにされ、自らの仕事ぶりに満足がいったのかゴードンが破顔する。

 「よっし! 今日もお国のため、レスカティエのため、主神さまのために働けたことに感謝するだ」

 グチャグチャに顔をかき混ぜられた死体を神の供物に捧げるように、ゴードンは真夜中の月に向かって祈りを捧げる。その両手と顔が返り血に塗れてさえいなければ、彼はただの敬虔な信徒で済んだのだろう。

 彼の名はゴードン。出身は辺境の主神教が盛んな小国、実家は三人兄弟の三男坊で、過去の事故で右脚を失った。これらは全て事実である。

 しかし、彼は酒場では話していない事実が二つある。

 ひとつ、彼はこのアルカーヌム王都に来る前に、故郷で軍役に就いていたこと。

 二つ目、彼こそがレスカティエ正教会に洗礼を受けし七人の勇者、その一角であること。

 彼に課せられた任務は「親魔物領の主だった親魔物派の暗殺」である。魔物娘の社会進出を手助けする人間たちに近付き、それを抹殺するのが彼の役目だ。例えば今しがた手に掛けた相手も、運送業に荷物運び適した膂力に優れた魔物娘を雇い入れ、彼女らの社会的な交流を手助けしていた。反魔物派の筆頭である教会は彼らのような存在こそが親魔物領というものを増加させる原因としており、腐ったミカンを取り除く仕事をゴードンに言い渡したのだ。

 普通、暗殺者というのは同じ裏方仕事の工作員の中でも特に嫌われる。闇討ち不意討ち騙し討ち、どれを取ってもいいイメージがつかないのがその証左と言えるだろう。例え敵でなくても背を見せたくはない相手だ。

 しかし、このゴードンという男はそれを嬉々として全うしている。彼は決して殺しに快楽を覚える殺人鬼ではないが、今の自分の仕事を誇っているのだ。こんな勇者という輝かしい言葉とは全く合わない、血なまぐさい殺し屋稼業を。

 「ああ、こんなろくでもない俺っちが世の為人の為に尽くせるなんて……ああ、なんて果報者なんだ」

 死体を運んだ先の河に投げ込み、それが下流に流されていくのを確認してゴードンは帰路についた。標的の会社がすぐに潰れてしまうことは無いだろうが、経営者不在の混乱に乗じて金勘定が得意な勇者がトドメを刺してくれるだろう。ゴードンの仕事はここで終わりだ。





 七人の勇者唯一の「殺し屋」、ゴードン。彼について同じく勇者の一人で、彼の仲間であるトーマスはこう語る。

 「ただ一言、『面倒臭い』、これに尽きる」

 「奴は努力家だ。考えてみろ、足を失った軍人の末路がどれだけ惨めかを。今は義足があるとはいえ、カタワの状態から暗殺技術を学び、それを五体に身に付けるまでの道のりは決して平坦ではなかったはずだ」

 「奴がここ数年の内にアルカーヌムで始末した標的の数は17人。通りすがりの一瞬で刺殺や、食い物に毒を混ぜるのはお手の物。銃から抜いた火薬をこつこつ集めて、作った爆弾で馬車を木端微塵にしたこともあった」

 「奴は偏屈だ。自分で自分の実力が信じられないらしい。初めて顔合わせした時など、終始うじうじとしていて、とても年上の男には見えなかったよ。こいつはいつか俺達の足を引っ張ると、誰もが思ったに違いない」

 「だが、奴は卑屈で自信が無い性格はそのままに、妙にやる気だけをつけてしまった。他人を疑り、自分を信じず、それでいて任務には人一倍精を出すんだ。ほら、聞いてるだけで面倒臭いだろ」

 「その原因は特定するまでもなく分かっているんだが……それがまた厄介な奴でな」

 「勇者と言うのは、まあ時と場合にもよるが、洗礼とは別になれる方法がある。俺達は七人同時という異例中の異例だったが、そのせいか『ある奴』が監督役として天界から派遣されてきた」

 「勇者を導くモノ、だ」





 「ただいまだよ、聖女さま」

 寝床に居ている宿に戻ったゴードンは自分の帰りを待ってくれていた同居人に挨拶する。

 「ワタシは聖女ではないと何度言えば分かってもらえるのです」

 「す、すまないだよ。でも、あんたは俺っちに生きる希望を与えてくれただ。こんな俺っちでも生きてていいんだって教えてくれた……そんな女性を人間は聖女と呼ぶだよ。だから許してほしいだよ」

 「まったく……!」

 同居人の女性は頭を押さえながらため息を吐く。それに呼応するように彼女の背中に生える二対の翼が上下した。

 女は名を「シャムエル」。種族は天界に住まう戦乙女、ヴァルキリー。七人の勇者に同時に神託を授けし主神の御使いである。

 普通、ヴァルキリーの任務は二つ。「勇者見習いを教導すること」と「勇者の魂を死後に天へ迎えること」である。洗礼が済んだ時点で勇者になるので、本来ならシャムエルの任務は神託を授けた時点で天界に戻るはずだった。

 しかし、常態で天界に座す神との交信を可能とする彼女はその際に新たな神託を授けられたのだ。

 『勇者ゴードンを導け』

 簡潔にして明快、それがシャムエルに与えられた天界からの至上命令となった。

 既に他の六人も同様に勇者として覚醒してる中で、どうしてゴードンだけを特別扱いするのかシャムエルには理解し難かった。しかし、実際に彼と行動を共にするようになってからその認識は改めさせられた。

 勇者とは名ばかりの殺し屋が仕事だと知った時、シャムエルは人間の醜悪さをひどく嫌悪した。そして同時にゴードンの心が折れぬよう彼の心をサポートすることを決意した。魔物ではなく同じ人間を殺し続けるとなれば、精神の摩耗は計り知れない。

 だがここで誤算が発生する。

 「今日も殺したのですか」

 「んだ。聞いてくれ聖女さま、今日は魔物を人間と同じ職場で働かせる奴を殺したんだ! 神さまは『聖なるものを魔物にくれてやるな』と言っているのに、信仰をあいつらは忘れちまっただ! そんな奴に鉄槌を下した俺っちは主神さまに褒めていただけるだか?」

 「ええ、神もあなたの働きを見ていらっしゃるでしょう。……これからも励むとよいのです」

 「分かってるだよ。俺っち、魔物を殺せる自信はねえけど、人間なら軍人の時から殺してきただ。だからきっとこれからも皆の役に立って見せるさ!」

 三十も後半の男がまるで子供のように目を輝かせながら宣言する姿に、シャムエルは狂気しか覚えない。そしてそれと同時に、その狂気を加速させたのが自分自身であることを深く恥じ入っていた。

 元々ゴードンは敬虔な主神教徒だった。レスカティエに連なる教団国家に生を受け、親も兄弟も親戚も皆一様に信心深い家系に育った。朝昼晩の食事と寝る前の祈りは欠かさず、それは軍に入ってからも変わらなかった。

 足を失い二度とまともに動けない身となっても、そんな自分が勇者に選ばれ、あまつさえ神の使いであるヴァルキリーが見守ってくれているのだ。熱心な信徒なら気絶するほどの光栄だが、それがゴードン生来の鬱屈した性格と化学反応を起こし、彼を静かな狂信者へと変貌させようとしていた。即ち、信仰の為に人殺しを正当化しつつあるのだ。

 自信が無いくせに過度な使命感を覚えている……組織の上に立つ者なら大歓迎だが、一緒に仕事をする仲間としては厄介だ。狂信者は神の名の下にいとも容易く「自分ルール」を押し付けてくる。常識人を装った無自覚な狂人ほど、厄介な存在は無い。

 「夜も更けています。今日は身を清め、明日に備えて休みましょう」

 「へえ、そのように。ほいじゃ……」

 「待ちなさい。何を勝手に行こうとしているのです。今日も同行しましょう」

 「ええっ、で、でも聖女さまに手数はかけられねえだよ」

 「風呂場で足を滑らせては適いません。それに、アナタは義足を付けたまま入るつもりですか」

 ゴードンの義足は少し特別な作りになっている。雨水を少し浴びる程度なら問題ないが、川を渡ったり湯浴みするには適さない。その時には必ず外さなければならないが、そうすると今度は片足で行動するゴードンの身の回りをサポートしなくてはならない。

 そしてそれはシャムエルの役目でもある。

 「洗うのはその左脚だけです。それならわざわざ不便な思いをしなくてすみます」

 「聖女さまに俺っちの汚ぇ足を洗わせるのはちょっとなぁ。てか、俺っちが座りながら洗えば済む話じゃ……」

 「何をボサっとしているのです。早く行きますよ」

 「あ、ちょいと、お待ちを……!」





 現王家が諸国を統べアルカーヌム連合王国を形成した際、まず最初に取り組んだ政策が治水だった。国土を横切る河川を工事して軌道を変え、各地の地下に眠る水源を掘り当て、それらを人の住む街まで持ってくる技術を早くから確立させた。

 建国以前からこの周辺は魔物と交流する氏族が多く、自然の扱いに優れた能力を持つ彼女らの力を借りたことが大きな要因だ。今では街に設けられた大浴場の他に、一般的な宿には宿泊者共用の風呂が設けられるまでになっている。

 時刻は深夜、既に他の客も居らず静かな時間帯の風呂場では片脚の男と、介護士のように彼の左脚を丹念に洗うヴァルキリーという、滅多に見られない光景が広がっていた。

 「健全な魂は健全な肉体に宿ります。常日頃から清潔を心がけることで人は清く正しく在れるのです」

 「は、はあ」

 腰布以外は全裸になったゴードンに対し、シャムエルは鎧を脱いでほとんど下着に近い姿になっていた。行動を共にするようになって早数年、何かとゴードンの身の回りを助けるシャムエルだったが、風呂にまでついて来るのには度肝を抜かれた。

 普段は荘厳な鎧兜を装着しているので、ただそれを脱いだだけでも男を惑わす色香を振りまく。しかもそれを自覚せずやっているのだから、当のゴードンにとっては苦行でしかない。毎度こうして風呂場で前屈みになって足を洗われる度に、膨れ上がろうとする「愚息」を理性と気合だけで抑えている。

 「痒いところはありませんね」

 「ね、ねえです」

 「受け答えする時はちゃんと相手の目を見て言いなさい。無いんですか、どうなんです?」

 「ないです!」

 「よろしい。では後は自分でどうぞ。私はここで待ってますから」

 そう言って風呂場の隅に座ろうとする。

 「先に部屋戻ってていいだよ」

 「いえ、万が一があるといけませんから。ワタシにはアナタを監督する義務があります」

 結局シャムエルは先に言ったように風呂場の隅に座る。だが、隅は隅でもゴードンの眼前の方にだ。湿気を多分に含んで肌に張り付いた下着に、決して貧しくない膨らみが浮かび上がっている様をまじまじと見せつけられる。

 「…………」

 「どうしました、早く洗うのです。まさか脚だけ洗って終わりにするのですか」

 分かっている、悪意は無いのだと。彼女は彼女の務めを果たしているだけ、決して邪な意志が介在しているわけではない。今彼女がしているのは、ゴードンが完全に体を洗い終わるのを見届けること。それ以上でも以下でもない。

 頭、顔、首筋、肩、両腕、脇の下、胴、背中……それら全てがちゃんと清潔にされるまでシャムエルは全てを見届ける。

 そして、当然こう言う。

 「さあ、その腰布の下も洗うのです。まさかそれを付けたままするのですか」

 (……もういっそ殺してほしいだ)

 母親以外の異性には見られたことのない恥部を、信仰の対象でもあるヴァルキリーに見られるという背徳行為。だがそれをしなければ何時間でもシャムエルは待ち続けるか、しびれを切らして自分で洗おうとする。どちらも身をもって経験済みだ。

 「気に病むことはありません。ヒトは誰しも不浄を有するもの。我らが主神がそうお創りになられたのですから、アナタはそれを恥じ入る必要など無いのです。さあ、私が見守ります、洗い清めなさい」

 (目の前にいるのはおっ母、目の前にいるのはおっ母、目の前にいるのはおっ母、目の前にいるのはおっ母、目の前にいるのはおっ母、いるのはおっ母いるのはおっ母おっ母おっ母おっ母おっ母おっ母……!!)

 この世で一番欲望の対象として見れない者の顔を、目の前の女性に完全に一致させるまで待ち……ゴードンは──、

 「はい。よくできました。神もお喜びでしょう」

 今日もまた、大切なものを失った。





 ゴードンの朝は早い。夜の明けないうちに起き、腹筋と背筋を鍛える運動を50回、脚部筋肉を鍛える運動を義足を付けて50回、腕立て伏せを同じく50回、窓際の縁に掴まり懸垂を30回、更に各関節の回りを機敏にさせる柔軟体操を念入りに、それらを全て部屋の中で行う。

 更に持久力を鍛える為に少し休憩を挟んだ後で早朝の街をランニングする。

 「行ってきますだよ、聖女さま!」

 「道中には気を付けなさい」

 「はいだよ!」

 そう言って宿を出たゴードンは小鳥が囀るよりも早い時間帯の朝を駆け抜ける。徐々に火照る体を通り過ぎる風が適度に冷やすのを感じながら、店を開く準備をする行商人らのすぐ横を通り過ぎていく。

 少し耳を澄ませば分かるだろうが、ゴードンの足音は少し変わっている。右が義足だからか、左が踏み締める音なら、こちらは杖のように突く様な音がする。だがランニングフォームは軍隊で身に沁みるまで教え込まれたまま崩れておらず、その姿だけを見れば彼が身体障害を抱えているなど誰も思わないだろう。

 「相変わらず精が出るな」

 「おんやぁ、若社長!」

 駆け抜けるゴードンに声を掛けるのは彼もよく知る人物だった。

 トーマス。自身と同じ時期に選ばれし七人の勇者の一人。他の勇者が活動する資金の全てをたった一人で捻出する、若き鋭才にして財布役。若社長とは表の顔の呼び名でもあり、ゴードンにとっての尊称でもあった。

 敵をただ殺すだけしか能が無い自分には決して真似できない仕事。それを見事に完遂して見せるトーマスを、年下にも関わらずゴードンは「尊敬」しているのだ。

 「どうだ、その後調子は」

 「おかげさまで元気にやらせてもらってますだ。それより若社長のほうこそ、大丈夫だったか? 捕まったって聞いた時は腰が抜けるほど驚ぇたぞ!」

 「『あいつ』が手を回してくれたおかげで大事には至らなかった。それより今は当座の活動資金をどう捻出するかだ。次の事業が安定するまでは教会からの支援に頼るしかないだろう。忌々しいがな」

 「流石は若社長、転んでもタダじゃ起きねえな〜。新しい事業ってのは何をしてるだか?」

 「ああ、ある奴と組んで金融関係の……」

 「こんなトコにおったぁ〜! もう、自分だけほいほいと先行かんといてや〜!」

 トーマスを追って来た相方が息を切らしながら追い付く。その姿を見た瞬間……。

 「ゴードン、こいつは『違う』」

 「…………」

 「うん? なになに、どーしたん?」

 「アヤ、紹介してやろう。『ゴードン』、俺の古い友人だ。ゴードン、こいつは『アヤ』」

 「アヤでぇす。おじちゃん金に困ったことあったらあたしに言うてや! 宿代から極上の女を買う金まで、二つ返事で貸したるから!」

 「金利は十日で一割だ。とんだ闇金だ、関わるなよ。俺はこれからこいつと商談がある。おい、行くぞ」

 「ああ、待ってってばぁ!!」

 アヤを置いて行くようにトーマスが街角に消え、それを追ってアヤもゴードンに会釈してからその前を去る。

 後に残ったゴードンはしばし指先で頭を掻いた後、また何事も無かったかのようにランニングを再開した。

 アルカーヌム王都、今日は雲一つない快晴である。





 「お前、危なかったな。夜中だったら死んでいたぞ」

 「ってことは、あのおじちゃん?」

 「ああ、俺と同じ勇者だ。任務は……まあ言わなくても分かるだろう。魔物を殺したと言う話は聞かんが、お前ぐらいなら縊り殺せる」

 「朝っぱらから血の臭いはキツいで。あれがアンタが言うてた、『殺し好きな奴』?」

 「いや、あいつは『面倒』なだけだ。『ヤバい』のや『厄介』なのは別にいるから安心しろ」

 「心配してくれてんの〜? なんや優しいとこあるんやね! せや! あのおじちゃんも骨抜きにしてやな……」

 「ここであいつに、お前が灰をばら撒いた話をすればすぐにでも地獄に行けるが……どうする?」

 「その節はほんまにあたしが悪ぅございました……っ!!」

 「まあいい。さっさと行くぞ」

 「はいな」





 ヴァルキリーの特殊能力に「天界との交信」がある。正確には彼女らの直属の上司に当たる神との交信だが、彼女らはこの能力を用い自らの思考を大きく逸脱する案件について判断を仰ぐ。

 シャムエルもまた幾度かそうしてきた。彼女が直面している問題は彼女自身で判断できる域を遥かに越えていた。

 ≪主よ、お導きください。愚かな私めは一体どのようにすれば……どうすれば勇者ゴードンを救えるのでしょう≫

 ゴードンは、このまま放置するべきではない。彼は非常に危うい精神に成り立っている。

 シャムエルが知る由は無いが、かつてトーマスや勘の良い他の勇者が懸念したように、このままにしておけば彼は必ず七人の勇者を内部から崩す遠因になりかねない。言わば地雷なのだ。

 シャムエルは彼らの任務が正当な勇者に課せられるものではないと考えるが、だからと言って与えられたそれを放棄してよい理由にはならない。ましてやそれが内部分裂によるものとなれば目も当てられない。

 だからこうして神にお伺いを立てるのだが、ある時期を境に返される答えは全て同じになった。

 ≪騎士シャムエル、受け入れよ。勇者ゴードンの全てを受け入れるのだ≫

 シャムエルは理解した、これは自身に課せられた試練なのだと。これを乗り越えることで自分は御使いとして一段上に立ち、今まで以上に多くの信ずる者を救いに導けるのだと。

 ゴードンは言わばその第一号、彼を救わずには自分は試練を達成できない。彼もまた苦しい状況に自身を追いこんでおり、彼だけ残して自分が先に中途で抜けるのは許されないことだ。

 ≪全ては主の御心のままに≫

 天界との交信を終了する。しかし、素直に頷いてはみたものの、シャムエルには「受け入れる」という事が何を意味するのかまるで分からない。

 ヴァルキリーの中には勇者候補と寝食を共にする内に過度な愛情を抱き、関係を持ってしまう事例が多く発生している。肉体的な意味でならシャムエルにも可能だろうし、ゴードンが時折自分を性的な目で見ていることにも気付いている。だが一度交われば高潔なヴァルキリーですら容易く魔に堕ちることを思うと、軽率な判断はできない。

 肉体的な快楽はあくまで一時的というのがシャムエルの考えだ。よしんばシャムエルの方から誘ったとしても、対するゴードンがそれを良しとはしないだろう。彼は自分の欲望を決して他人には向けない、鬱屈したそれを全て自分の中に溜め込んでしまう性質だ。本来ならそうすることで精神の向上を行う事で成長するのが勇者だが……。

 「もう、ここまで……」

 姿見の前で背を向ける。背中に生えた純白の二対の翼は天界と人間界を行き来する器官、全ての天使が有する天使の誇り。神より与えられしその羽根の一枚一枚は決して汚れることはなく、その羽ばたきだけであらゆる不浄を祓い清めるという。

 だがその根元、普段着込んでいる衣服や鎧の下に隠れて見えない生え際の辺り……そこが黒く変色していた。

 天使やエルフなど一部の「魔王の眷属ではない魔物」は、人間の精や欲望に触れる機会が増えると自然とその性質が魔に傾く。いわゆる「堕落」。堕落した神やその眷属は天界を追われ、魑魅魍魎が欲望を喰らい貪り合う万魔殿へと誘われるという。羽根が変色するのはその兆候、肌が青みを帯びた黒になれば完全に堕落したことを示す。

 何度も言うが、シャムエルとゴードンの間に性的な関わりは一切ない。にも関わらず堕落の兆しが見えるのは、ゴードンの抱える闇が直接的な交わりを経ずともヴァルキリーを汚染する程に大きく、そして重いということだ。彼が僅かに劣情を含んだ視線を向ける度に、シャムエルの体をドス黒いヘドロのようなモノが這いずり回る。一瞬でも気を抜けば四枚の翼全てが漆黒に染められそうなほど重厚だ。

 なら風呂場に同行するのだけでも止めればと思ったが、職務に忠実な彼女はそれをすぐに頭の隅から追いやった。困難に対し正面から打ち克ってこその試練、それを姑息な手段で乗り切っても意味が無い。

 「ゴードン……ワタシは必ずアナタの闇を克服して見せます。ですから、アナタも自身の闇に克って見せなさい」

 戦乙女は厳格を体現する。自他共に厳しく、決して妥協せず、一度決めた路線を絶対に曲げない。彼女らがいたからこそ、かつての教国とその勇者は千年に渡るその版図を維持できた。絶対正義の教義の下にあらゆる不浄と悪は駆逐されるという免罪符があったからこそ、いつの時代も一定数以上の狂信者が生まれ続けた。

 だからシャムエルは気付けない。自分がゴードンの狂気を加速させていると知りながら、「自分の何が原因でそうなっているのか」を全く自覚できていない。それは彼女だけでなく全てのヴァルキリーにある陥穽だが、本来なら小さな短所で済むはずのそれが、この場合は致命的な欠点に変化してしまっていた。

 羽根がまた僅かに黒くなった。





 走り込みを終えたゴードンが宿に戻る帰路につく。手拭いで汗を拭き取りながら、すっかり賑やかになった大通りで売り物を眺めつつ宿に帰る。途中で買ったリンゴを補給水代わりにかじりながら、既に日常となった道を歩く。

 ふと耳に届いてくる噂話があった。

 「なあ聞いたかよ。そこの河の下流で死体が上がったって話……」

 「ああ、聞いた聞いた! なんでも、素っ裸で顔が……」

 「酒屋で誰かと話してるのは見たらしいが、相手が誰なのかは分からんらしい」

 「ひえ〜、くわばらくわばら! やっぱ飲むのは見知った相手とだけに限るね〜」

 人間はいつの時代も噂好き。どこどこで災難が、誰それが死んだ……そんな話が大好きで、そして自分の身にはそんな不幸が降りかからないと心のどこかでたかを括っている。

 (俺っちだってそうだった。それが普通で、なんも悪い事じゃねえ。だからこそ……いつそうなっちまってもいいように、人間は悔いなく生きなきゃなんねえ。なあ、あんたらよぅ、あんたらは悔いなく生きてんのかい?)

 心の中で問い掛けながらゴードンは今一度街を見回す。

 誰も彼も生き生きと日常を謳歌している。子供、大人、老人、男も女も、物を売る行商人から、見回りの役人まで……誰もが今在る自分の生が永遠に続く、これから悪くなるなど微塵も考えていない、起こったとしても自分の知らないどこか遠くの世界での出来事だと言うような笑顔を浮かべている。

 それがまやかしだとゴードンだけが知っている。今の彼らが信じている平穏など、何かの拍子に崩れてしまうと。いや、そもそもそれが本当に平穏の上に成り立っている日常なのかさえ彼らは理解しておらず、また知ろうともしないのだと。

 だからこそ……その純朴さがゴードンにとっては「羨ましい」。自分一人の平穏さえ求めることを許されなくなったからこそ、老若男女すべてが等しく輝いて見える。

 そして同時に強い使命感にも駆られる。

 守るのだ、この平穏を生きる彼らの輝きを……。何の才能も無く、誰からも必要とされないのだとしても、それが身命を賭して達成すべき我が使命と信じて。

 神に誓い、仲間に誓い、教会に誓い、そして──。

 (聖女さま……)

 閉じた目蓋に浮かぶは、いつも自分を厳しくそして優しく導いてくれるヴァルキリーの姿。あの神々しい光輝に満ち溢れた存在から見守ってもらえる己は何と幸せなのか。

 自分は期待されている、彼女の期待に背くことだけは死んでも避けなければならない。

 そして……その期待に応えられるのならば、己は死んでも構わない。

 裏路地に続く道にハトが降り立つ。足に掛けられた環からそれが教会からの伝書鳩だと気付き、その指令書に目を通す。

 時刻、昼と言うには早すぎる。

 一人の暗殺者が動き出した。
15/08/10 19:29更新 / 毒素N
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