第二幕 魔術師と隠者:後編
「今回我輩が作ったこの薬は傑作である」
深夜、草木も寝静まる時刻に男がふと呟く。天井から吊り下げられたランタンが油を燃やした光で部屋を薄らと照らし、ぼうっとオレンジの明かりの下で男は自分の作成した薬について語っていた。
「魔界産の果実や野菜、キノコをふんだんに使い、煎じて、漉し取り、蒸溜、いくつもの工程を経て更に煮込むこと数日……そこまでしてようやく原液が作れるのである」
結婚した相手が鍛冶屋なので火種には困らない。作成に必要な材料は自称弟子に取ってこさせた。
「まず何より、その使用方法の多彩さがウリなのである。飲んで良し、塗って良し、火に炙って焚くも良し、料理の隠し味にも使える優れ物である」
薬とはもちろん、例の排卵誘発剤のことだ。男の作る薬はとても効くと魔物娘に評判で、直接買い付けにわざわざ山を越えてやって来る者もいる。彼の弟子は知らなかったが、十人の大家族を支える立派な収入源になっているのだ。
「更にこれは排卵期から最も外れた時期に使用しても副作用は一切ない。強いて言えば卵巣から排卵を誘発する際にホルモンバランスが崩れることぐらいだが、それらは全て性機能の活性化、即ち発情に回されるのである。そして発情状態は卵子と精子が接合し、完全な受精卵となって着床するまで続く。もし交合の機会が無く卵子を無駄にしてしまっても、ホルモン変化は日増しに強くなり、確実に服用者を孕ませるのである」
これを使えば不妊に悩む夫婦も犬猫のように子供を量産できる、というのが男の謳い文句である。
「だが、これには使用上の注意が幾つかあるのである」
「それって?」
同じベッドで隣に包まっていた妻が顔を出す。互いに服は一切着ておらず、紅潮した頬と背やうなじに光る汗からして、既に何戦かヤった後のようだ。
「うむ。まず、これは原液だから使用する際には必ず薄める必要があるのである。コップ一杯に一滴でも多いぐらいである。数十倍から百倍の溶液に希釈して使うことが望ましい。そうすればかなり長い期間使えるであるからな」
「もし薄めずに使ったら……」
「毒ではないから死にはしない。だが、媚薬も兼ねているから原液を使うと発情どころか理性を失い、男の上で女は何日でも腰を振り続けるのである。それこそ七日七晩では済まぬだろうな。ホルモンバランスは理性だの何だのを無視して滅茶苦茶に荒れ狂い、脳神経を焼き切るレベルで高まったメスの本能は一度に大量の排卵を行いより確実に孕もうとする。感度も殺人的に過敏になり、顔を風が撫でれば乳首が腫れ、布ずれが起こる度に絶頂を繰り返し、下着は汗と愛液でドロドロになるのである。魔物一寡黙と言われるマンティスも、これをそのまま使えば獣のような雄叫びを上げながら全身を痙攣させるのである」
「そ、そんなに……!?」
「更に、理論上ではあるが血中に直接取り込むことが出来れば……」
「出来れば……?」
「男の方が十月十日後まで無事でいられる保証は無いのである。だから傷薬には向かんのである」
太古の昔、旧魔王時代のサキュバスは一夜の快楽と引き換えに男を確実に吸い殺したという。先祖が淫魔ではない妻だが、その当時の淫魔がどれほどの実力を持った種族であるかは伝え聞いて知っていた為、夫の予測を聞き終える頃には半ば恐怖、そして半ば好奇心で肩が震えていた。普段物静かな妻自身、人語ですらない雄叫びを上げるほど乱れ狂った経験は無く、ほんの少しだけ興味をそそられてしまった。
「売る時は薄めてお出ししようね?」
「無論、初めからそのつもりである。だがその前に……試しておきたいことがある」
そう言ってベッド脇の卓からキラリと光る物体を取り出す。鋭い針が付いたそれは、注射器。その先端を瓶の中に挿入し、ゆっくりと吸い上げ……。
「さ、腕を出すのである」
「待って。え……さっきまでの話の流れで? しかもそれ、薄めてないよね! やっ、ちょ、ま……!!」
「はい、プスっとな」
「☆○△◇卍×÷∞$√%♂♀ーーーッ!!!?」
薬液が血中に浸透したその瞬間、この世のモノとは思えない金切り絶叫が轟いた。予め消音の術が掛けられたこの家でそれを知るのは、彼女の夫だけである。
「我輩、フットボールできるぐらい子供が欲しいのである」
この十ヶ月後、魔道師と鍛冶屋の間に双子が生まれた。計十二人に膨れ上がった彼の家族を見て、かつての同僚たちが皆呆れ顔になったのは別の話だ。
エルフの里と外界を区切る明確な境目は無い。特に柵も囲いも無く、村の外れはそのまま森に繋がっている。村の通り道にも剥き出しになった木の根が張り巡らされ、村に生まれた子供の特技は皆共通して木登りになる。
周囲を山と森に囲まれたこの村では、昼間ではなく夜こそが一番騒がしい時間帯となる。村のすぐ傍はあらゆる獣の通り道であり、樹上にはフクロウが、木の根の間をネズミが、そして狩りを行うオオカミが混声合唱の如く夜天の下で鳴き喚く。特に月に映えるオオカミの遠吠えは四方数里に響き渡り、それらが山に反響する様はとても幻想的だ。
だが山間部での野宿が初めてのニコにしてみれば、そんな野獣たちの饗宴は悪夢以外の何ものでもない。特に今の彼が寝泊まりしているこの馬小屋は森のすぐそばに建っており、葉を揺らすのが風なのか、それとも別の何かが蠢く度にビクビクして過ごしていた。
「こんなとこで寝れるかぁぁぁぁ……!!」
流石にエルフの里に侵入することは無いだろうが、獣の唸り声以上にニコの不眠の原因となっているのはその騒がしさだ。風や虫の音、そこへ山に木霊するオオカミの遠吠えが加わり、目を閉じ心を無にしてもちっとも眠りに落ちることが出来ない。
時刻は既に日付が変わって久しく、村の中で目を覚ましているのは今やニコだけだった。
「こんな事なら、音消しの術ぐらい習得しとくんだったな……」
ニコは知らないことだが、消音の魔術は彼の師匠が最も得意としている術だ。使用されるのは主に深夜の寝室……つまりは、そういうことである。
とにかくうるさい。時折小屋のすぐ外から唸り声が響くため、耳栓をしていてもかなり鼓膜を打つ。石でも投げて追い払おうかと何度も思ったが、次の朝日を肉片と骨で迎えるつもりは無いので息を殺してやり過ごした。オオカミは群れで行動するので、一匹追い払ったところで他の仲間が大人しく引き下がる保証はどこにもない。
だがそれも、遂に馬小屋の裏手を囲まれてしまった今となっては、もっと早くにそうするべきだったと後悔している。
「ひい、ふう、みい……三、いや四頭? ヤバくね?」
板一枚組んで仕上げたような壁の向こうに聞こえる獣の息遣い。明らかにそれは犬が体温調節で舌を出しているような生易しいものではなく、獲物の存在を感知し牙を剥き出しにした肉食獣が臨戦体勢に入ったそれだ。
裏手はともかく、表の入り口はドアも何も無い吹きさらしだ。そこに気が付き侵入してくるのも時間の問題だ。かと言って飛び出して行けば、それに反応して追いかけてくるかも知れない。ニコは微動だに出来ないまま絶体絶命の危機に瀕していた。
と言ってやきもきしていたのも今は昔……。
グルルルゥゥゥ。
「…………」
五分後、ニコは目算通り四頭ものオオカミに囲まれていた。いくら姿形が似ていようと、その大きさと唸り声は犬とは根っから異なり、ニコは遂に震えることすら止めてひたすら死んだふりに徹していた。
余談だが、野生の肉食獣に死んだふりは逆効果になる。抵抗を止めた獲物は獲物ではなく、単なる餌でしかなくなるからだ。
(田舎の母さんごめんなさい。父さんごめんなさい。歯型がついた骨だけでも拾って……)
本格的に死を覚悟したニコ。心の中で最後の祈りを済ませ、しずしずとその時を待つ。
しかし……。
クゥ〜ン。
「……はえ?」
脅すような唸り声からいつの間にか鼻を鳴らし、腕や足の肉ではなくニコの服や荷物に噛み付いてグイグイと引っ張り始めた。食べられる訳ではなさそうなので安心したが、引っ張る力の強さにどうしてそんな事をするのかという至極真っ当な疑問を覚える暇も無いまま、強引に起こされたニコはオオカミに引かれて移動させられた。
「な、なんだよ……! 僕をどこに……?!」
獣が人の言葉に答えるはずもなく、そのままニコはグイグイと村の外まで引きずり出される。森の秘密の道、既に一日でここを何度も行き来し、今まさにこうして獣に先導され、いい加減道も覚えてしまった。そして終始見覚えのある道を歩いた後、抜け出た場所はやはりあの滝壺だった。
どうやら自分とこの滝壺は縁があるようだと呟きつつ、どうしてこんなところへ連れて来られたのか、訊ねる相手もいないまま呆然と立ち尽くす。どうどうと流れる滝は月の光を受けて輝き、天上の星々よりも眩い光を放っていた。
自分を引っ張てきたオオカミもいつの間にか消え、ニコはいい加減戻ろうかと背を向ける。
「行くな」
「っ!?」
突如、聞こえる声。轟々と鳴り響く滝の音を縫うように耳に届いたその声は、フィーネのものだった。後で知ったことだが、引っ張ってきたオオカミは昔からエルフたちが猟犬代わりに使ってきたもので、主の異変を察知してニコをここまで引いてきたのだ。
「どこにいるんだよ?」
「探すな! オマエに、頼みたい事がある……」
「頼み?」
姿が見えないのに声だけが聞こえる。どんなトリックなのか、遠くから響いているのに、耳元で聞こえてくるフィーネの声に、ニコは彼女の居場所を把握できない。
「体の調子が悪い……。熱い、燃えるように熱い! 何とかしろ!!」
「何とかっ、たって……。僕は医者じゃないんだけど?」
「魔術師ならっ……! なんとかぁ……して見せろ!!」
「わ、分かったよ」
何がどんな状況なのか分からないが、体の調子が悪いという割には元気そうだ。そこまで重篤な病気ではないらしいし、単なる風邪ならそれこそ昼間血を止めるのに使ったような術でも何とか出来るかもしれない。
だが、事はそう簡単には運ばない。
「じゃあ、僕に見せてみろよ!」
「イヤだ」
「じゃあ、こっちに来いよ」
「イヤだ!!」
「どうしろってんだよ!!?」
とにかく、様子を見るにも治療をするにもフィーネの姿が見えないと話にならない。なのにどういう訳か、彼女は頑として姿を見せることを拒んでいる。これでは治癒も何も出来やしない。
「そうだ!」
こんな時こそと一緒にオオカミが引っ張てきた荷物の中から、透視鏡を取り出して周囲を見回す。
彼女は体が熱いと言っていた、ならば……そう考えてキラキラと光り輝く滝壺に目を向けると、そこに彼女はいた。
その姿はまたもや全裸。水面から僅かに鼻先だけを覗かせて、後は全て水の中に沈んでいる。頬は酒でも飲んだかのように紅潮し、こころなしか目線もゆらゆらと揺らめいて焦点が合っていない。明らかに心此処にあらずだった。
「危ないっての!!」
これは態度とは裏腹にヤバイと判断し、迷わずニコは水に飛び込んだ。昼間その裸体を真正面から見て悲鳴を上げたことも忘れ、今の彼は命の恩人を助けようとする一人の男だった。少し深かったが滝に近付くまでに彼女の腕を引いて岸まで戻ってこられた。
「熱い……熱いぃ……!」
「ああ、見りゃ分かるって!」
うなされるように呟くフィーネの体は、水から出ると全身が紅く火照り始めた。それまで冷水で押さえ込んでいた熱が一気に爆発し、もはや触れずとも肌で感じ取れるぐらいにまでになっていた。これはますます感染症か何かを疑わなくてはならない。きっとここに来るのも一苦労だったに違いない。
とにかく熱を冷まそうと、川原に横たわせて治癒を試みる。
しかし……。
「見るな……見るなァ!!!」
「うわ、ちょ、何を……痛っ!?」
昼間堂々と裸体を見せつけておいて何を今更恥ずかしがるのか、石を投げつけられ必死の抵抗を受けた。熱に冒されているので力は篭っていないが、それでも脛に当たると結構痛い。左足の痛みも押して親切心で動いていたのだが、そこまでされると流石にニコも怒る。
「いい加減にしろよ!」
「きゃ……ん!!」
石を掴む両手首を押さえつけ、上から押し倒すように乗りかかる。更に抵抗する足も尻に敷いて完全に動きを止めた。傍から見れば強姦魔だが、こうでもしないとフィーネは大人しくしてくれないのだから仕方がない。
どうしてフィーネは突然熱を出した? この森に長く住む彼女が体調を崩すような拾い食いをするとは考え難く、感染症なら彼女だけが罹る理由が分からない。一体何が原因なのか。
悶々と原因について考えていると、フィーネの体に次なる異が起こっている事に遅れて気付けた。
「ぁああ……なんだ、これ!? ああ、ああーっ、ふああっ!!?」
押さえた手首や足が痙攣し始め、最初は寒さに震えるような微かなものだったそれが、五秒と立たずその震えは上に乗っかったニコも揺らすほどに大きなものに変化した。四肢を硬直させ歯を食いしばり、特に足の指を太ももが痛くなるほど固く締め、ニコの体重も押しのけて股がきゅっと内側に寄り……。
「きゃぁぁああああああアアアーーーッ!!!?」
森全体に響き渡るようなフィーネの悲鳴に、オオカミたちの遠吠えも止む。叫びと同時に硬直はピークに達し、少しだけ小刻みに震えてから、フィーネの弓なりに反った背が落ちる。熱は冷めるどころか逆に燃え上がり、灼けた鉄のようにその体温は上昇する一方だ。
だがニコは、この「症状」について思い当たることがあった。
「まさか……」
二年間過ごした師匠の家で「これ」と同じ現象を何度か目にした事がある。掃除を言いつけられて、別の仕事を終えてから師の寝室を覗いた時……ベッドの上で彼の妻が乱れていた姿に酷似している。というか、正しくそれだった。
フィーネは、発情していた。獣のように周期的に訪れるものではないのに、彼女の体は本能が飢えと渇き、そして種の存続を強く強く訴えていた。
それこそ、生命の危機に瀕するレベルで。
「あつい……あつぃ、あついィ!!」
今のフィーネは度を越した発情状態で、重度の熱病を引き起こしているような状況だ。熱は全身の水分を汗として流し続け、収まらなければ脱水症状にもなりかねない。今は原因が何かと言うより先に症状を抑えることが先決だ。
発情状態を収める方法……ニコは一つしか知らない。
「……フィーネ」
「な、んだ?」
疼く子宮が発する熱で意識が混濁しているフィーネ。その手を優しく取り、指先を体のある箇所、熱の発生源に向けて導く。
「ああ……ッ!」
エルフは純潔と清廉を何よりも尊び、情欲という言葉から最も無縁な存在だ。フィーネのように年若い乙女なら、自分を慰めるなど考えるどころか方法すら知らないだろう。文字通り穢れを知らない乙女に禁忌の味を教え込む背徳感、それについてニコが愉悦を感じているのか、彼自身にも分かっていない。
「ひやっ!!?」
秘部に初めて触れたフィーネの肩がびくっと震えた。未知の感覚に驚きと戸惑いの声が上がったのだ。
だがそれも一瞬のことだった。理性を司る脳と快楽をもたらす本能は、拮抗すらせず後者の圧勝に終わり、フィーネの指は一切の迷いを捨てた。
「あふっ、はうっ、んっ……あああぁっ!!」
指を一本ずつ入れて慣らすような悠長な事もせず、湧き出る愛液を掻き出すように秘穴に三本も指を突っ込む。じゅぽっという湿り気たっぷりの音が淫靡な音楽を奏で、滝の音に負けないぐらい大きな音が川原に響いた。
「ぅわぁ」
ニコに他人の秘め事を鑑賞する趣味は無い。バフォメットや魔女の黒ミサやサバトを見たこともあるが、人間としての常識からそれを凝視することは避けてきた。他人の秘め事は盗み聞きするものでも、ましてや真正面から環視するものでもないと思っていた。
だが今時分の目の前で一心不乱に秘穴を掻くフィーネの姿に、ニコの目は釘付けになっていた。しかもそれが他でもない自分がそうさせたとなれば、感じる背徳感は一塩だ。
「っくぅぅぅぅうううううううううーっ!!」
二度目の絶頂は更に大きく、遮る者が退いた事で全身が最初以上の快楽を余すことなく受け止めることが出来た。股の間から大量に噴き出すのは小水でも潮でもなく、全て発情によって異常なまでに分泌された愛液の噴出だ。タルを栓抜きしたような勢いで噴く愛液が膣内を疾走する、その刺激でフィーネは絶え間ない絶頂に延々と晒され続け翻弄され脳が焼き切られる。
「ぐ、ぅ……」
処理できない量の快楽に当てられて気絶する。だが一度風が吹けば肌を撫でる感触が、本来変換されないはずの快感に変わって全身を駆け巡り眠ることも許さない。痙攣と同期して全力疾走後の息切れのように浅く連続した呼吸が、フィーネの肉体が限界に近いことを克明に語っていた。
そもそもこれは単なる性欲の昂ぶりではない。肉を持つモノ全てが等しく有する種の保存欲求、子孫を残そうとする働きの発現。
「みるな……みるな、みないで……」
昼間の毅然とした、男など違う生き物と思っているような態度は消え、今のフィーネは自らの痴態を見られてしまったことの羞恥と、未だ己を蝕む快楽に震え、顔を隠す手とは真逆に股はだらしなく開帳されていた。紅く火照った乙女の洞穴からは僅かに白が混じった婬液が溢れ出し、熱い迸りが小さな小川となって滝まで続いていた。
メスのあられもない姿を見せられれば、その気になってしまうのがオスのサガ。それが穢れを知らない乙女の柔肌ともなれば、男の理性など蝋も同然、メラメラと猛り狂う情欲の炎に溶けて消え去る。それはフィーネの汗を通じて染み出す媚薬の効果など、初めから合っても無くても同じことだった。
「フィーネ……」
「やぁぁ、ダメだ……ぁ!」
火照り鎮まらぬフィーネの体を抱きかかえ、シーツ代わりに敷いたマントの上に運ぶ。抵抗のつもりで肩を押されたが、滝から掬い上げてくれた者とは思えないほど、その力は弱々しかった。その弱さが逆にフィーネの「女」の部分をニコに思い知らせる事になる。
「綺麗だよ」
「っ!? ふあ、はぁぁぁ……ッ!!」
口説くためではない、純粋な見たままの感想を漏らす。ただそれだけの事でフィーネのメスは刺激され、また絶頂する。これで完全に骨抜き、もはやフィーネに抵抗する気力は無くなり、オスを受け入れるまな板の鯉と化した。
「イイよな……? イイだろ、フィーネ」
了承など最初から求めていない。仮に言葉で拒まれようと、この艶姿を前に冷静でいられる男など存在しない。いたとしたら、それは男じゃない。
取り出したオスの器官をあてがい、最後の確認と互いの目線が絡み合う。そして……。
「ひぎっ!? ヒィィアアアアアアアーーーッッッ!!!!?」
「うわ、キツ……っあ、ヤバい!」
怒張を包む熱を帯びた淫肉。いや、それは包むという生易しい表現に留まらず、痛みに対する防御反応と、指では届かない最奥にもたらされた快楽で、ニコの分身を痛いほど強く締め上げた。
女体と交わるのが初めての体験となるニコにとって、その絞め上げは致命的だった。へその下に力を入れる間もなく、愚息の暴発を許してしまう。
「ふああぁぁぁ……あったかぁい」
ろくに動きもせず、それも挿入直後、相手の熱と律動だけで漏れ出す情けない射精。ニコの初体験は、相手が相手なら失笑を買いそうな惨めなものに終わった。だが彼の精を受けたフィーネの表情はとても満たされ、口の端から唾液を流しながら悦びに蕩けていた。
今やフィーネは誇り高い森エルフではなく、ただの一匹のメスに堕とされていた。
恋も淫蕩も、堕落という意味では同じこと。一度肉の味に落ち始めれば、あとは加速するしかない。
「……っと…………も、っとぉ……!!」
性欲は男より女の方が強い。与太話程度にしか思っていなかったニコだが、今まさに身を以て知らされようとしていた。
夜はまだ長い。饗宴は始まったばかりだ。
「…………殺せ」
「僕の方が死にそうなんだけど……」
翌日の太陽が昇る時、川原では二人の男女が石の上に突っ伏していた。服は脱ぎ捨て二人とも裸で、その周囲は乱暴に脱ぎ捨てられた衣服が散乱し、肌は精液と愛液が混ざりベチャベチャの溶液となったモノに塗れていた。清涼な川の景色とはどこまでもミスマッチな様相を呈している。
「お日様が黄色く見えるよ……」
性交がここまで体力を削るとは思いもせず、互いに初体験なのもあって盛りのついたサルのように、本当に夜明けまで互いを責め続けた。結果、体力を考えない交わりの果てに二人はほぼ同時にノックダウンしてしまった。当然、何発ヤったかなど覚えているはずもない。
「そもそも、なんだってこんなことに?」
「知らない。オマエからもらった傷薬を塗ったら……こうなった。ピンクで、ドロドロして……見るからに濃そうだったから、薄めて使った」
「え、ピンク? 傷薬は水色だよ。ピンクは……僕の元師匠が作った媚薬だ」
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が二人の間に流れる。ギギギと脊髄が擦れる音を感じながら、二人は全く同じタイミングで互いを睨んだ。古今変わらず、痴情のもつれが行き着く先はいつだって、口喧嘩と罵り合いと相場が決まっているものだ。
「オマエのせいだ! オマエが鞄に媚薬など忍ばせておくから! これだからニンゲンは、ろくな事を考えない!!」
「よく言うよ! 何の薬かも確認しないで勝手に使っておいて、人のせいにすんな!! それが治療してやった相手に言う言葉か!!」
「治療!? 昨日一晩オマエは何をした! あれのどこが治療だ、体よく性欲処理の抱き人形にしただけだろ!!」
「それ以外の何をどうしろってのさ! 僕が相手をしてやったから、あんたは今こうして減らず口を叩いていられるんだろ!!」
「言わせておけば……!! オマエのせいで、オマエのせいで……!!」
フィーネの様子がおかしい事に気つけたのはこの時だった。それまで感情に任せて口汚く罵るだけだった彼女は、固く冷たい石に顔を埋めて肩を震わせ、恥ずかしさと悔しさに泣いているようだった。純潔を重んじるエルフが乱れに乱れ、男の欲望に身を任せて嬌声を上げるなど、あってはならない不徳だった。
「もう帰れない……。みんな、オババも、許してくれない……」
「そ、そんなことないだろ!? だ、黙ってりゃ……バレやしないって……。そこの川で体洗いなよ、な?」
「うう、ふぐっ、うううううぅうぅぅぅー!!」
昨日と今日だけで何度この川の世話になったことか。足に力が入らず泣き崩れるばかりのフィーネを連れて川に入り、全身の汚れを洗い落とす。初めて出会った時と立場が完全に逆転してしまった事に感慨じみた物を感じながら、取り敢えず見てくれだけでも異常がないように取り繕う事には成功した。
後は髪が乾くのを待ち、臭い消しに香草から搾り取ったエキスを振りまき、そこには昨日と変わらない森の乙女がいた。だが涙は引いても相変わらず表情は暗い。というか、青い。
「いける、いける。大丈夫だって!」
「…………」
なんと言うかもう……病気の母の為に必死に摘んできた薬草が、実は外見そっくりな毒草だと知らないまま煎じてしまった……それぐらいこの世の終わりみたいな表情だった。
ニコとて男だ。据え膳を食うだけ食い散らかして何の後片付けもなし、というのは男としての道に反する行為だという自覚はある。しかも相手は命の恩人、無碍に知らぬ顔は出来なかった。
「何とかなる……うん、何とかなるって」
だがこのニコという男、どこか抜けているというかボンクラと言うべきか……エルフにとって純潔を失うというのがどんな意味を持ち、どんな結果を招くのか、この時は露とも理解していなかった。
意外にも、ニコとフィーネの秘め事はすぐにはバレなかった。狩人のフィーネは日を跨いで獲物を追う事もあり最初から怪しまれず、ニコもエルフの生活に興味があることを押し出すことで彼女と一緒に居たことを不審がられないようにした。
もちろん疑いの目が無かったわけではないが、何より長老を納得させられた事が大きかった。フィーネにニコの身の回りを世話するように言ったのは他でもない彼女であり、それを他のエルフたちも知っていたため、二人が四六時中一緒でも過度に怪しまれなかった。
傷の手当と称して顔を合わせる度に特性の体臭消し香水をフィーネに使い、「あの夜」の匂いを消すことに集中した。エルフは堕落した同族を嗅ぎ分けると聞いていたので、首筋や脇など、男を誘う色香を発する場所を徹底的に押さえた。
無論あれ以来セックスはしていない。それは周囲にバレればどうなるか分からないという緊張感もあったが、心理内容としては互いに初心者特有の気まずいアレな感情が渦巻いていた事もある。だがその緊張が二人の間を適度に保っていたため、同じ間違いを犯すことだけは無かった。
事件は、ニコが隠れ里に来て一ヶ月経つ頃に起きた。
「フィーネをこれへ!!」
昼日中、いつもなら若い者は狩りに出ているこの時間、村の中央に設けられた小さな広場には長老を始めとするエルフ達が集合していた。その人数たるや、ニコを入れるかどうかで押し問答していた時の比ではない。老若男女、村中の全てがそこに集められていた。
その中にはニコもいた。皆が周囲をぐるりと取り囲む中、ニコとフィーネはその中心に引っ立てられていた。まるで処刑を待つ罪人、そして実際はその通りだった。
結論から言えば、バレてしまったのだ。
「フィーネや、申し開くことがあるかや?」
「……ありません」
「はあ……。お前は賢く利口で、分別のつく子じゃと思っておったが……。わしも老いたな」
俯いたままのフィーネ、それを見下ろし自嘲する長老。一人だけ蚊帳の外の扱いを受けるニコは、これから何が起きるのか分からず冷や汗を流し続けていた。
「皆の者っ、これにあるフィーネは誇りあるエルフにありながら、人の子と交わるという愚を侵した!! 汝ら、これが許せるか!?」
「「「許せない!! 許せない!!」」」
長老の呼びかけに興奮した村のエルフ達が声を荒げる。
「ならばどうする!? 男を誘惑し、穢れを知り、純潔を失った罪深きこの者を、どうするべきじゃ!!?」
「「「追放!! 追い出せ!! この村から出て行け!!」」」
ヒートアップするエルフ達の怒号が村だけでなく森全体に轟く。もはやこの場は魔女狩り裁判、被告人はニコとフィーネ。だが、所詮はよそ者のニコよりも、同族の誇りを汚したフィーネに彼女らの怒りが向けられていた。
「ま、待て!! 僕は知らない……! 僕は何もしちゃいない、無実だ! 潔白だ!! 言いがかりは止してくれよ!! 第一、証拠があるのか? 僕が、フィーネを、犯して汚したって明白な証拠がっ!?」
傍からしてみれば聞き苦しい言い訳だった。ともすれば自分一人だけが責任逃れをしているようにも聞こえるだろう。事実、ニコも周囲の憤りがフィーネに向けられているのをいい事幸いに、自分の責任を宙ぶらりんにさせようという魂胆が無いわけでもなかった。加えて、彼が作った臭い消しは野生動物の鼻もごまかす代物、エルフの嗅覚など簡単に騙せるはずだと高を括っていた。
しかし、彼はエルフという種族を甘く見すぎていた。
「如何に肌を白く化粧し、如何にその匂いを消したとて、我らエルフの目は誤魔化せぬわ。エルフとは純白の紙、そこにほんの僅かでも黒が混じれば気付かぬ道理なし。既にこのフィーネには人の子が与えた穢れが、消えない魔力の塊が植え付けられておる。堕ちた同族を見分ける目において我らの右に出る者はおらん」
「は、はったりだ……。僕にはフィーネの魔力なんていつもと同じにしか感じない。潔癖症のあんたらが、一番年下を寄ってたかって難癖つけているようにしか見えないね!!」
「我らにも間違いはある。じゃが……これを見てもまだ同じ言葉が吐けるかな、人の子よ」
そう言って長老が木を削って作った長パイプから、既に喫い終えたタバコの灰を手に叩き出す。火は消えているが鼻に近付ければ肺に染み付くようなタール臭がする。
長老の意図が分からず首をひねるニコ。だが、彼の隣にいるフィーネは違った。
「うぅ……うぅぅぅー……げぇっ!!」
「フィーネ?」
様子がおかしい、タバコの臭いが鼻に届いた瞬間にフィーネが苦しみもがき、えずき始めた。何も食べていないのか内容物が出てくる事はなかったが、それでも呼吸が難しいほどに苦しむ様はただ事ではないと容易に理解できた。
「わしはな、族長となる前は産婆をしておった。今やこの村の大半の者はわしが取り上げた。このフィーネも、フィーネの母も、そのまた母も。じゃから分かる、今フィーネの体に何が起こっておるのか」
ニコは、思い出すべきだったのだ。師匠の発明品からくすねてきた媚薬、それが単に女を発情させるだけの既製品とは違うことを。
「微熱……不眠……五感の変化、特に匂いや味に対する過剰な反応……。わしはこの症状をよく知っとる」
長老は言った、「魔力の塊」を「植え付け」られたと。
「まさか……?」
「この子は、そなたの子を身篭っておる」
別にやましい関係でなくても、女から「できちゃった」と聞かされれば男の思考回路と心臓はフリーズするものだ。
だがそれが殆ど成り行き、いや、成り行きと言うのも烏滸がましい行きずり、むしろ通り魔的な行為によるものだとすれば、自覚している男にとってはバケツ一杯の冷や汗でも間に合わない。
つまり、エルフ側の主張はこうだ。
人間に穢されたフィーネは村にいられない。
当然、事の原因となったニコも追い出す。
純潔を保つ事で魔王の影響から逃れているエルフは、コミュニティの一人が堕落しただけで全員が淫楽に感染する恐れを抱える、内側からの侵食に弱い種族だ。よって彼女らは淫蕩に耽る同族を完全に堕落する前に切り離すことで、これまで純潔を保ち続けてきた。
「じゃが、こうなってしまった事について、わしにも責任の一端がある事も認めよう。フィーネと人の子が共に居ることを許したのはわしの落ち度じゃ」
「だったら!」
「幸いにも、フィーネと人の子が交わったのは一度きりのようじゃし、今なら取り返しがつかぬ事もない。我らが部族に伝わりし清めの儀式によって、その穢れを払い落とすことも出来よう」
一縷の光明が見えて思わずニコとフィーネの頬が緩む。
だが事はそう簡単には進まない。
「じゃが、それには条件がある」
「条件……?」
「胎内の仔を堕ろすのじゃ」
この世には、誕生を祝福されない命がある。
「冗談だろ……? え、堕ろすって事は、つまり……中の子供は」
「何も珍しい事ではあるまい。特に、そなたら人の世界ではな。わしらもそれに倣うだけのことよ」
「そうじゃない、そうじゃないだろ! 分かってんのか? 堕ろすってことは、中の子供を殺すってことじゃないか!!」
「ニンゲン如きの小童が、自分の尻も満足に拭けんくせに威勢良くほざくでないわぁッ!!!!」
「っ!?」
それまで落ち着いた雰囲気で話していた長老の怒声に、ニコだけでなくフィーネや周囲のエルフ達もたじろぐ。
「元を質せば、そなたの浅ましい欲望が原因であろう! それが口を開けば責任逃れを目論見、一歩退いて綺麗事を振りかざせば相手が黙ると小賢しいやり方をしおってからに!! 貴様にはうら若き一人の女子を辱めたという自覚が無いのか!! 無いのであれば、一丁前に腹の仔の心配なぞするでないわ!!」
正論に次ぐ正論、これにはどんな優秀な弁護士でも二の句は告げない。この場における最大の被害者は、たった一度の過ちで子を成してしまった故に村を追い出されるフィーネだ。人間の、それも好いてもいない男の子を孕まされ、そしてそれを堕ろされる……女としてこれ以上に屈辱的な事はあろうか。
もはやこの場に、ニコの発言権はない。命を取られないだけむしろ感謝しなければならない。
「それで……どうする、フィーネや」
「…………オババの言うとおりにする」
「フィーネッ!?」
「どうせ身篭ったなんて言っても、形もない肉の塊なんだろ。だったら……何の問題もないじゃないか……」
吐き捨てるようにそう言ってフィーネは長老の命令に従う旨を伝えた。その俯いた顔は髪に隠れ容として知れず、表情を窺い知ることは誰にも出来なかった。
「それに、堕ろせばここを追い出されないし……」
「残念じゃが、それは出来ぬ。そなたをここから追放する事は決定事項じゃ」
「はぁ!? どういう事だよ! 穢れを払えば追放されないんじゃなかったのかよ!!」
「それは人の子の勝手な思い込みじゃ。仔を堕ろすにせよ、そうでないにせよ、どちらにせよフィーネにはこの里を出てもらう。一度穢れに触れてしまったエルフは、遅かれ早かれ闇に堕ちる。いずれ腐ると分かっている果物をいつまでも同じ箱に入れておくわけにはいかんのじゃ」
村に居たまま堕落されては困る、だから一度浄化してから追放する。その上で村の外で再び堕落しようとも、それは村とは無関係、誇りある森エルフの名誉は汚されないという理屈だ。
どちらにせよ、フィーネが理不尽な咎を背負わされることに変わりはない。
詮議が終わった後、彼女には何も残らない。
「…………なんだよ、それ……」
「何じゃ、人の子。最初の約束通り、足が治るまでは置いてやろうて。安心せい」
「……………………」
「他にはないな。では、早速……」
「待ってくれよ!!!」
お開きになりかけていた詮議にニコが待ったをかけた。エルフ達の敵意が込められた視線が一斉に突き刺さるが、それでも訴えを取り下げる事なく普段の厚かましさを発揮して尻込みはしない。
「まだ何かあるのかいや」
「……僕に……僕に、責任を取らせて欲しい」
「ほう? 殊勝な心がけじゃが、具体的にどう責任を取るんじゃ?」
長老のシワの底から貫く目に射抜かれながら、ニコは緊張を和らげるのと勢いをつかせる為に大きく息を吸い、そして……。
「僕が堕ろす。僕が責任を持って、子供を殺す」
「ほれ、これが薬を作るのに必要な調合書じゃ」
この時代、妊娠初期の妊婦から胎児を堕ろす手段は主に薬が使われた。長老が渡したリストにも素材として煎じる薬草が書かれており、その中には人間界で使われる物もあった。
「二ヶ月欲しい。それだけあれば……」
「ふん! 薬草の場所はフィーネに聞くといい。じゃが薬の調合は村の外でやれ。そなたが言ったんじゃ、責任を持つとはそういう事じゃ」
何の助言もアドバイスもなく去って行く長老。
すっかり住み慣れた馬小屋に残されたニコとフィーネの間には、重く冷たく苦しい沈黙が横たわっていた。互いに全く正反対の方向を見つめ、言葉どころか目も合わせようとしなかった。
ニコには分かっていた、口を開けばきっと批難の声を上げずにはいられない、だからフィーネは何も言わないのだと。下等な存在と蔑みながら人間である自分を助け、不本意でもその世話をし、妄想にも等しい一人語りを文句を言いながらでも聴き続けてくれるフィーネ。あの夜、同じ里のエルフではなく自分を呼んでくれたのは、自分のことを魔術師として信用してくれたから……そう考えるのはただの思い込みだろうか。
ヒトとエルフとして出会わなければ彼女以上に優しい者はこの世にいないと思えるほど、そしてそんな優しい彼女の心を踏み躙る行為を働いたことを……今はどれだけ恥じても足りない、それを悔やんでいた。
「オマエは……優しいな」
だから、彼女からそんな風に言われてニコは心底驚いた。
「追い出すのも追い出されるのも、エルフにはどっちも不名誉な事だ。身内の恥を何よりも嫌うからな。だから……ありがと、オマエが言ってくれなきゃ、オババ達が嫌な思いをするところだった」
「お、お礼を言う相手が間違ってるって。僕は別に……! 僕は将来偉大な魔術師になる人間だ! そんな僕がこの歳で子供がいるとか、邪魔以外の何ものでもないから、だから後始末するってだけの事で……」
「そういうことにしておいてやる」
そんなのは口から出任せだ。本当は、顔も性別も分からないヒトの形すらしていない我が子への未練が断ち切れないでいる。呆れたことだ、過程をすっ飛ばしておいて本心では一丁前に父親面をしていたいと思っているのだから。こんな自分勝手なことがあろうか。
だけどそれを口に出す事は許されない。長老から手前の尻云々と言われた事もあるが、それ以上に……。
「ごめんなぁ」
寂しそうに、まだ全然膨れていない自分の腹を撫でるフィーネを前に言えるはずがなかった。
「…………薬草、どこに生えてるか知ってる?」
薬草の在り処を聞き、それを採取し、村の外でそれを煎じて調合する。本当は一ヶ月も要らない作業だが、足の治療期間も含めて倍の時間を取った。
「はぁ……」
すり鉢で薬草をすり潰しながら、詮議の日から幾度目になるか分からない弱々しい溜息を吐く。折れた足を引きずって薬草を探し、今薬を煎じている場所はニコが落ちたあの橋があった場所だ。対岸との通路は未だに断たれており、あれ以来誰もここを通っていないことを教えてくれた。
ニコも、ここ数日エルフの村には戻っていない。住人の目もあるが、今のフィーネにどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。薬の在り処を聞くのも最小限に留め、ここ最近はずっと野宿生活を送っている。
「はぁ……」
自分の手違いと浅慮で一人の人生を狂わせた、その事が言葉で語る以上の重責となってニコの肩に乗っていた。何でも出来ると思っていたのに、自分と相手、たった二人の間の出来事でさえ四苦八苦している自分が情けなかった。
ふと、脳裏に思い浮かぶ顔があった。
こんな時、あの師匠なら何と言うだろう。傍若無人、人に物を教えることをついぞしなかったが、彼なら何を言っただろうかと夢想してしまう。あの横柄な物言いが今は無性に懐かしく思える。
「はぁ……」
「随分と辛気臭い顔をしているであるな」
「そりゃ辛気臭くもなるってもんだよ」
「悩め悩め、若人よ。それが貴様の糧になるのである」
「…………え、何してんのあんた?」
「見て分からんか、貴様と同じように薬草採取である」
聞こえた声に何気なく反応してしまったが、顔を見上げればそこには、あの鼻持ちならない喧嘩別れした師匠がいた。橋が架けられていない崖をどう渡ったのか、平然とそして当然のように師匠はそこに立ってニコを見下ろしていた。
「ほう、堕胎薬か。いつから貴様は魔術師から薬剤師に転向したのである? 貴様にそんな才能があると知っていれば、我が家の家計の足しにしてやれたものを」
「うるさいな……」
「我輩に絶縁状を突きつける勢いだった貴様とは思えない覇気の無さ……。一体、何があった?」
「あんたに関係ないだろ」
「マセた奴め。良いから話せ、愚痴くらいは聞いてやれるのである」
「…………あの、さ……」
それからニコはぽつぽつと、師匠にこれまでの経緯を語った。そしてその結果自分が今何をしているのかも、その全てを赤裸々に。
「阿呆だ阿呆だとは思っていたが、まさかそこまでとはな。それで……そんな薬を近くに置いていた我輩が悪いと、貴様はそう言いたいのでるか?」
「あんたの所為にして、それで解決するならそうするよ。でも……今苦しんでるフィーネは、そんなんじゃ解放されない」
「そうだ。で……貴様はそのエルフの小娘に何をしてやれる」
「何って、だからこうして堕ろす薬を……」
「話を聞く限り、貴様が何をどうしたところで小娘が追放されることに変わりはないようだ。つまり、お前がここで責任を放棄したところで、何の問題もない。何を難しく考えることがある」
「それは、僕に逃げてしまえって言ってるのかよ」
「それ以外の何かに聞こえたのであるか?」
「そんなことっ、出来るわけ……!」
「どの道、最終的にツケを払わされるのは小娘である。貴様は事の解決に何ら寄与していないのである。そんなケツの青いガキが責任だ何だと、ちゃんちゃらおかしくて片腹痛いのである」
「……じゃあ、じゃあどうすればいいんだよ!!!」
ニコにはもう分からない。師のように厚かましくもなく、エルフたちのように高潔でもなく、その正体はどこまで行っても自分を優秀だと思い込むことで自己を奮い立たせてきた少年だ。だからこそ、自分の手が届かない範囲で起きた出来事には弱く、脆く、惰弱だ。今まで無視してきた「努力では越えられない壁」を見せつけられ、その心は折れかかっていた。
今こうして薬草を煎じているのも、惰性以外の何ものでもない。他に方法が無いと諦めているからだ。
「もう……分かんないんだよぉ……」
「経験も何も無いくせに小賢しい理屈ばかり捏ねるからこうなる。貴様はガキだ、ケツが青く、未熟で、頭のハエも満足に追えない素人である。そんな貴様が無い知恵絞ったところで何の解決にもならん」
「だったら……!!」
「だったら、ガキはガキらしく大人に尻拭いをしてもらえばいい」
「え……? あ、ちょ!?」
薬草の入ったままのすり鉢を取り上げられる。慌てて取り返そうとするが、その時ニコの目の前に二つの物体が突きつけられた。
「選べ。このままここで貴様なりの『責任の取り方』を続けるのか、それとも……」
ひとつは薬草の入ったすり鉢、そしてもう一つは……。
「今ここで、更なる恥を忍んででも『大人に頼る』のか」
「僕は……僕は…………っ」
少年が取った選択は────、
二ヶ月後、エルフの隠れ里の入口にニコはいた。足の傷も完治し、今はもう杖なしで歩ける。相変わらず住人たちの視線はキツいが、それも今日でおさらばだ。
「来たか、人の子。早う」
長老に連れられてフィーネの元に向かうと、彼女の状態は酷いものだった。
妊娠三ヶ月は母胎への負担が心身共にピークに達する時期だ。悪阻、それに伴う食欲不振、子宮の肥大化による腰痛など、とにかく母胎を苛む症状のオンパレードが押し寄せてくる。この時期はストレスや少しのショックで流産の危険もあり、特に慎重に扱われなければならない。
だが、本来ならしっかり栄養を取り養生しなければならないはずのフィーネが、どういう訳かすっかり痩せこけり肌はシミが目立ち、蛍光色の髪はくすんで見えていた。どうせ堕ろすのだからと、胎の子のことを考えない食生活を強いられたのだろう。
「フィーネ……」
「……ぁ……ニコ」
初めて名前を呼んでくれた事に感動を覚えるが、今はそれより一刻も早く彼女を楽にさせることが重要だった。長老に急かされるまま懐から自作した散薬を取り出し、白湯に溶かして適温になるまで混ぜ合わせる。それを飲みやすい器に移し替えれば完成だ。
「フィーネ、ほら」
「待って…………最後に、もう一度だけ……。お別れだから」
膨らんではいない、だが確かにそこにある温もり。それがもうすぐそこから居なくなってしまう。それも十月十日を待たずして引き摺り下ろされる。その不幸を悲しんで腹を撫でるのは母の本能だ、誰にも否定は出来ない。
だが名残惜しい時間はすぐに過ぎてしまう。
器を受け取ったフィーネが飲みやすい温度にされた薬湯をおずおずと口に含み、決心が鈍らないうちにそれを飲み干した。薬は一滴残らず体内に収まり、後は処置の経過を待つだけとなった。
これで全てが終わった。薬を飲んだフィーネや、見届け人として集まった他のエルフ達も一様にほっと一息つく。これで一番の厄介事は清算されたと誰もが安堵していた。
「人の子……何を飲ませた」
ただ一人、長老を除いては。
「何って、薬だよ。見てたじゃないか」
「わしを馬鹿にしておるのか。堕胎は母胎に負荷を掛ける事ぐらい百も承知、その上でそなたの申し出を呑んだ。じゃが……これは何じゃ!?」
相手の魔力の変化を敏感に感じ取るエルフ、そして幾百年も生きてきた長老だからこそ気付けた事実。
「そなたが飲ませたのは堕胎薬などではないっ、フィーネの活力を取り戻させる何か……何を飲ませたぁーっ!!」
フィーネも気付く、自分の体がさっきまでのダルさが嘘のように消えている事に。この三ヶ月で削られていた体力全てが戻ったように、彼女の肌に血色が宿っていた。
「フィーネッ!!! 僕と、一緒に……!!」
「オマエ、何を……!?」
「早く!!!」
有無を言わせずニコが差し伸べた手、事態が飲み込めず尻込みする。この手を取って何が変わるのかフィーネには分からない、自分と彼は所詮間違いの関係だったのだという負い目がその手を取らせなかった。
「フィーネ!! 聞いてくれ……!」
だからそれを後押しする。
「僕の子供を産んでくれ!!」
師曰く、「我輩はこれで妻を落とした」。
およそエルフの基準では、いやともすれば人間の基準でもどうかと一考の余地がある文句。しかも過程で起きたことを鑑みれば最低の烙印を押されても仕方がないプロポーズだ。しかも相手が純潔の象徴たるエルフとなれば、言外に切って捨てろと言っているようなもの。
だが何の偶然か奇跡か、男と交わった事で属性が魔に傾きながらも一線で堪えていたフィーネは……。
「産みたい、オマエの子供!!」
その一言がきっかけで完全に堕ちた。
手を取り合った二人の体が宙に浮き上がる。重力を無視した力は二人の体重を消し去り、タンポポの綿毛の如く風に乗って流れ始める。
「降りてこんかぁぁ!!!」
激昂して杖やら長パイプやらを振り回す長老を尻目に、空に逃げた二人は徐々に隠れ里から離れていく。地上でなら絶対に無理なお姫様だっこでも、重力を消すこの靴を履いてなら出来る。地上の喧騒など二人の耳には届かなかった。
程なく二人は初めて出会った、そして結ばれたあの滝壺にやって来た。切り立つ大岩の上に降り立ち、二人は初めて真剣にお互いの目を合わせた。今まで一度も合わせようとしなかった目を。
「どうしてこの子を?」
「そりゃ、あんだけ名残惜しそうにされたら誰だって気づくよ」
「そうか」
「あ、あのさっ、何かその……順序とか、節度とか、お互いの気持ちとか、何か色んなあれこれを置いてきぼりにしちゃったけど……。僕はまだ未熟で、自分でしたことの後始末もちゃんと出来ないけれど……!!」
「…………」
「僕に……僕に、ちゃんとした責任を取らせて欲しい!」
「具体的には?」
「えっと、それは、その……」
「要するに、あの夜と同じ勢いだけか」
「ぐ……」
どうしてこんな男を助けたのだろう。この三ヶ月ずっとそう考えていた。でもさっき自分の手を引いた一言で全てが消え去った。それどころか今フィーネは安心を覚えていた。高潔なエルフが人間の、それも未熟な童に手篭めにされるなど本来なら末代までの恥だ。
だが、今はそんなことどうでも良かった。
「エルフにとって、片親がいないと言うのは不名誉なことだ」
「それって……?」
「生まれてくる子供に不名誉な父親でいてほしくない。分かるだろう。オマエが早く一人前になれば、そんな心配もしなくていいんだぞ」
「うん……うん、分かってるよ!!」
再び空に舞い上がる二人の体。幼き頃以来に飛ぶ者と、初めて地を離れた二人は滝を飛び越える高さまで飛び上がり、そして風に乗って何処へと去っていった。
「本当に飛べるんだな。嘘だと思っていた」
ニコが憧れた世界を眺めながら、フィーネは熱を帯びた新しい命が宿る場所をいつまでも愛おしそうに撫でていた。
天地をひっくり返した大騒ぎに見舞われたのはエルフの隠れ里だ。
部族から堕ちたエルフを出したとなれば沽券に関わると、皆が長老の指示で弓矢を持ち出す。空中に浮かぶ二人を撃墜させるつもりでいた。
「降りてこい、人の子ぉぉ!! 責任を取ると曰ったその口、たたっ切ってくれるわぁぁぁーーー!!!」
完全に怒り心頭の長老の指示で若者たちが一斉に弓を構え、幾十もの矢じりが空を飛ぶ二人を狙う。当たれば命はない。
キリキリと弦が絞られ、限界まで引かれたそれが矢を放った。
しかし……。
「な、なんじゃぁあ!!?」
突然グラグラと地面が鳴動し、轟音と共に村の周囲に影が差す。それは僅かでも日を届ける木々の葉の影ではなく、一分の隙も無い影。
その正体は村の周囲をぐるりと取り囲むように出現した、見上げるような分厚い土壁であった。矢の軌道を遮るように出現したそれらに作為的な者を感じ、エルフ達の視線が下手人を探す。
「『魔性』の『技術』と書いて『魔術』。それを操る魔術師とは得てして、人道人倫から外れているものである。それを今更道に外れる行いをした程度で、何をそこまで目くじらを立てる必要があるのである?」
「貴様かっ!!」
逃げも隠れもせず、一体いつからそこにいたのか見慣れない男が侵入していた。長老は一目でその男がニコの師匠だと勘付く。
「魔術は到達に非ず、魔術は其れに達する手段也。あの馬鹿弟子もようやくその辺りの取っ掛りが出来た頃、若い芽を摘まれるのは我輩としても不本意なのである」
「奴は自ら師の元を去ったと言うておった! 貴様こそ何故今更その弟子を庇い立てする!?」
「────貴様らに関係ない」
男のまとう雰囲気が変わる。まるで人形のような無機質な視線に貫かれ、エルフ達は残らず気勢を削がれてしまった。目の前の異質の塊、条理を逸しこちらの理屈など一切通用しないと本能で悟ってしまったのだ。
「────タダで見逃せとは言わない。交渉の用意がある」
「人の子と取引など……!」
「────そちらにとっても、悪くはない」
魔力を肌で感じ取るエルフだからこそ分かる。自分たちの魔力がダイヤの輝きなら、目の前の男は巨岩……それも地表に出ているような“欠片”ではなく、大地そのものを支える巨大な岩盤だ。大地がほんの僅か揺れただけでも地表の生物を滅するように、この男が指先を弾くだけでこの里どころか、森も、山も、一瞬にして灰塵に帰す事が容易に想像できてしまう。そんな力量差を感じていた。
「────では、交渉だ」
この日、純粋種の森エルフが一人、その数を減らした。
その後のことを少し語ろう。ニコとフィーネ、恋だの愛だの、惚れた腫れたの過程もすっ飛ばした不純な関係から始まった二人の顛末を。
あの後すぐ冷静になったニコは、今の自分に食い扶持を稼ぐ手段が無いという世知辛い現実に突き当たった。そしてそれ以前に喧嘩別れで飛び出した自分には住処が無いことにも気付き、それまでの威勢はどこへ行ったか青ざめた顔で空を飛んでいた。
この歳で夫婦となり、一年もせず子が生まれる事が確定している今、いつまでもプライドを鼻にかけての風来坊では路頭に迷うのは必定。だが弱冠十五歳の彼にゼロから稼ぐ手段を考えろというのも酷な話だった。
そこで出した結論が、恥の上塗りを覚悟で師匠の元に出戻るという選択肢だった。二年間住み慣れた鍛冶屋に行き、地に額を擦り付ける勢いで拝み倒した結果……。
「別に構わんのである」
案外あっさり受け入れられた。とは言え出戻りに関しいくつかの条件もあった。
その一つ、食い扶持は自分で稼ぐこと。家賃などは免除するが、地に足着いた者として最低限のラインだと言い渡された。だがいきなり稼ぐ手段を持てと言うのも無茶なので、師の口添えで村の商人や行商人を相手に薬草やそれを煎じた薬を売る仕事に就いた。幸い山には薬用に使える植物が豊富にあり、それを処方した物を卸す事で生計を立てられた。
二つ目、家の増改築に参加すること。奇しくも同じ時期に妊娠した師の妻を合わせると、総勢十五名にもなる大所帯に合わせ、家のサイズもそれに合わせて大きくする必要があった。二年間の生活でも全く慣れなかった力仕事だが、それでも自分たちも住む家だからとヒイヒイ言いながらニコも貢献した。
そして三つ目……。
「えと、この魔道書の第三章第二節の訳は……」
「違うのである。そこの文は第一節のこの部分と深い関わりがあり、正しくは……」
暇を見つけてでも構わないので、魔術の修練をすること。師匠は、あの二年間は一体何だったのかと言わんばかりに熱心に教えるようになり、出戻りを二つ返事で受け入れた事も含めて妻に心中を聞かれたという。そしたら……。
「昔我輩が作った失敗作を後生大事に抱えて、それが魔術師を目指すきっかけだと言われれば、師として弟子を可愛く思って何の不思議があるのである?」
とのことだった。
そして時は流れる。
「はい、ニコ君。ご注文の品、出来たよ」
「あ、ありがとう、ございますッ!」
「今緊張していてどうするのである。本番はこの後である。ここで失敗すると男は一生尻に敷かれ続けるのである。ああ、もう貴様はそうなっていたな」
「わ、わわ、分かってるっての!! いちいち要らねえこと言ってくるな!!」
「待たせてるから、早く行ってあげて」
「お、おぉう!!」
薬売りで稼いだ金を使って依頼した品を手に、ニコは改築を済ませた家のベランダ、日がよく当たり森が見える場所へと向かう。
「あの小僧、手と足が同時に出ているのである。あれは失敗であるな」
「まだ分からないですよ。それに、あの子はニコ君を尻に敷いてなんていませんよ。働かないといけないからって魔術師の道を断念しかけていたニコ君を、諦めちゃダメって留まらせたのはあの子だもの」
「だったか。我が弟子ながら、厄介なことばかりする奴だ」
「そう言って、エルフの人達を説得したじゃないですか。あの二人に手を出さないことを条件に」
「別に。ここで製造した金物を売り付ける、その為のルートを開拓したに過ぎん。いくら森エルフが気高くても、プライドだけでは食っていけない。木を削った道具より、金属を加工した物の方が便利だと教えただけである」
「そういうことにしておきますね。あっ、ほらほら! 行くみたい!」
妻が指さした方向を共に見つめる。
「あの二人、うまく行くかなぁ」
「どうであろうな。普通の魔物娘と違って、順序がアベコベになったままでここまで来たのがある種の奇跡だが」
「そこから始まる関係、なんていうのを思うのは妄想?」
「さてな。だが……ひょっとすれば、あるのかも知れないであるな」
二人の見つめる先、陽の光が降り注ぐベランダではニコが女性にプレゼントを差し出していた。太陽の光を浴びて煌く銀の指輪、女性はそれが薬指に通されるのを拒むことなく受け入れる。
二人の顔が近付く。互いの先端が触れるか触れないかという距離まで来た瞬間、狙いすましたように風が吹いて女性の黄緑の髪が二人の顔を隠した。
睦み合う二人の間には、可愛らしい赤子が抱かれていた。
深夜、草木も寝静まる時刻に男がふと呟く。天井から吊り下げられたランタンが油を燃やした光で部屋を薄らと照らし、ぼうっとオレンジの明かりの下で男は自分の作成した薬について語っていた。
「魔界産の果実や野菜、キノコをふんだんに使い、煎じて、漉し取り、蒸溜、いくつもの工程を経て更に煮込むこと数日……そこまでしてようやく原液が作れるのである」
結婚した相手が鍛冶屋なので火種には困らない。作成に必要な材料は自称弟子に取ってこさせた。
「まず何より、その使用方法の多彩さがウリなのである。飲んで良し、塗って良し、火に炙って焚くも良し、料理の隠し味にも使える優れ物である」
薬とはもちろん、例の排卵誘発剤のことだ。男の作る薬はとても効くと魔物娘に評判で、直接買い付けにわざわざ山を越えてやって来る者もいる。彼の弟子は知らなかったが、十人の大家族を支える立派な収入源になっているのだ。
「更にこれは排卵期から最も外れた時期に使用しても副作用は一切ない。強いて言えば卵巣から排卵を誘発する際にホルモンバランスが崩れることぐらいだが、それらは全て性機能の活性化、即ち発情に回されるのである。そして発情状態は卵子と精子が接合し、完全な受精卵となって着床するまで続く。もし交合の機会が無く卵子を無駄にしてしまっても、ホルモン変化は日増しに強くなり、確実に服用者を孕ませるのである」
これを使えば不妊に悩む夫婦も犬猫のように子供を量産できる、というのが男の謳い文句である。
「だが、これには使用上の注意が幾つかあるのである」
「それって?」
同じベッドで隣に包まっていた妻が顔を出す。互いに服は一切着ておらず、紅潮した頬と背やうなじに光る汗からして、既に何戦かヤった後のようだ。
「うむ。まず、これは原液だから使用する際には必ず薄める必要があるのである。コップ一杯に一滴でも多いぐらいである。数十倍から百倍の溶液に希釈して使うことが望ましい。そうすればかなり長い期間使えるであるからな」
「もし薄めずに使ったら……」
「毒ではないから死にはしない。だが、媚薬も兼ねているから原液を使うと発情どころか理性を失い、男の上で女は何日でも腰を振り続けるのである。それこそ七日七晩では済まぬだろうな。ホルモンバランスは理性だの何だのを無視して滅茶苦茶に荒れ狂い、脳神経を焼き切るレベルで高まったメスの本能は一度に大量の排卵を行いより確実に孕もうとする。感度も殺人的に過敏になり、顔を風が撫でれば乳首が腫れ、布ずれが起こる度に絶頂を繰り返し、下着は汗と愛液でドロドロになるのである。魔物一寡黙と言われるマンティスも、これをそのまま使えば獣のような雄叫びを上げながら全身を痙攣させるのである」
「そ、そんなに……!?」
「更に、理論上ではあるが血中に直接取り込むことが出来れば……」
「出来れば……?」
「男の方が十月十日後まで無事でいられる保証は無いのである。だから傷薬には向かんのである」
太古の昔、旧魔王時代のサキュバスは一夜の快楽と引き換えに男を確実に吸い殺したという。先祖が淫魔ではない妻だが、その当時の淫魔がどれほどの実力を持った種族であるかは伝え聞いて知っていた為、夫の予測を聞き終える頃には半ば恐怖、そして半ば好奇心で肩が震えていた。普段物静かな妻自身、人語ですらない雄叫びを上げるほど乱れ狂った経験は無く、ほんの少しだけ興味をそそられてしまった。
「売る時は薄めてお出ししようね?」
「無論、初めからそのつもりである。だがその前に……試しておきたいことがある」
そう言ってベッド脇の卓からキラリと光る物体を取り出す。鋭い針が付いたそれは、注射器。その先端を瓶の中に挿入し、ゆっくりと吸い上げ……。
「さ、腕を出すのである」
「待って。え……さっきまでの話の流れで? しかもそれ、薄めてないよね! やっ、ちょ、ま……!!」
「はい、プスっとな」
「☆○△◇卍×÷∞$√%♂♀ーーーッ!!!?」
薬液が血中に浸透したその瞬間、この世のモノとは思えない金切り絶叫が轟いた。予め消音の術が掛けられたこの家でそれを知るのは、彼女の夫だけである。
「我輩、フットボールできるぐらい子供が欲しいのである」
この十ヶ月後、魔道師と鍛冶屋の間に双子が生まれた。計十二人に膨れ上がった彼の家族を見て、かつての同僚たちが皆呆れ顔になったのは別の話だ。
エルフの里と外界を区切る明確な境目は無い。特に柵も囲いも無く、村の外れはそのまま森に繋がっている。村の通り道にも剥き出しになった木の根が張り巡らされ、村に生まれた子供の特技は皆共通して木登りになる。
周囲を山と森に囲まれたこの村では、昼間ではなく夜こそが一番騒がしい時間帯となる。村のすぐ傍はあらゆる獣の通り道であり、樹上にはフクロウが、木の根の間をネズミが、そして狩りを行うオオカミが混声合唱の如く夜天の下で鳴き喚く。特に月に映えるオオカミの遠吠えは四方数里に響き渡り、それらが山に反響する様はとても幻想的だ。
だが山間部での野宿が初めてのニコにしてみれば、そんな野獣たちの饗宴は悪夢以外の何ものでもない。特に今の彼が寝泊まりしているこの馬小屋は森のすぐそばに建っており、葉を揺らすのが風なのか、それとも別の何かが蠢く度にビクビクして過ごしていた。
「こんなとこで寝れるかぁぁぁぁ……!!」
流石にエルフの里に侵入することは無いだろうが、獣の唸り声以上にニコの不眠の原因となっているのはその騒がしさだ。風や虫の音、そこへ山に木霊するオオカミの遠吠えが加わり、目を閉じ心を無にしてもちっとも眠りに落ちることが出来ない。
時刻は既に日付が変わって久しく、村の中で目を覚ましているのは今やニコだけだった。
「こんな事なら、音消しの術ぐらい習得しとくんだったな……」
ニコは知らないことだが、消音の魔術は彼の師匠が最も得意としている術だ。使用されるのは主に深夜の寝室……つまりは、そういうことである。
とにかくうるさい。時折小屋のすぐ外から唸り声が響くため、耳栓をしていてもかなり鼓膜を打つ。石でも投げて追い払おうかと何度も思ったが、次の朝日を肉片と骨で迎えるつもりは無いので息を殺してやり過ごした。オオカミは群れで行動するので、一匹追い払ったところで他の仲間が大人しく引き下がる保証はどこにもない。
だがそれも、遂に馬小屋の裏手を囲まれてしまった今となっては、もっと早くにそうするべきだったと後悔している。
「ひい、ふう、みい……三、いや四頭? ヤバくね?」
板一枚組んで仕上げたような壁の向こうに聞こえる獣の息遣い。明らかにそれは犬が体温調節で舌を出しているような生易しいものではなく、獲物の存在を感知し牙を剥き出しにした肉食獣が臨戦体勢に入ったそれだ。
裏手はともかく、表の入り口はドアも何も無い吹きさらしだ。そこに気が付き侵入してくるのも時間の問題だ。かと言って飛び出して行けば、それに反応して追いかけてくるかも知れない。ニコは微動だに出来ないまま絶体絶命の危機に瀕していた。
と言ってやきもきしていたのも今は昔……。
グルルルゥゥゥ。
「…………」
五分後、ニコは目算通り四頭ものオオカミに囲まれていた。いくら姿形が似ていようと、その大きさと唸り声は犬とは根っから異なり、ニコは遂に震えることすら止めてひたすら死んだふりに徹していた。
余談だが、野生の肉食獣に死んだふりは逆効果になる。抵抗を止めた獲物は獲物ではなく、単なる餌でしかなくなるからだ。
(田舎の母さんごめんなさい。父さんごめんなさい。歯型がついた骨だけでも拾って……)
本格的に死を覚悟したニコ。心の中で最後の祈りを済ませ、しずしずとその時を待つ。
しかし……。
クゥ〜ン。
「……はえ?」
脅すような唸り声からいつの間にか鼻を鳴らし、腕や足の肉ではなくニコの服や荷物に噛み付いてグイグイと引っ張り始めた。食べられる訳ではなさそうなので安心したが、引っ張る力の強さにどうしてそんな事をするのかという至極真っ当な疑問を覚える暇も無いまま、強引に起こされたニコはオオカミに引かれて移動させられた。
「な、なんだよ……! 僕をどこに……?!」
獣が人の言葉に答えるはずもなく、そのままニコはグイグイと村の外まで引きずり出される。森の秘密の道、既に一日でここを何度も行き来し、今まさにこうして獣に先導され、いい加減道も覚えてしまった。そして終始見覚えのある道を歩いた後、抜け出た場所はやはりあの滝壺だった。
どうやら自分とこの滝壺は縁があるようだと呟きつつ、どうしてこんなところへ連れて来られたのか、訊ねる相手もいないまま呆然と立ち尽くす。どうどうと流れる滝は月の光を受けて輝き、天上の星々よりも眩い光を放っていた。
自分を引っ張てきたオオカミもいつの間にか消え、ニコはいい加減戻ろうかと背を向ける。
「行くな」
「っ!?」
突如、聞こえる声。轟々と鳴り響く滝の音を縫うように耳に届いたその声は、フィーネのものだった。後で知ったことだが、引っ張ってきたオオカミは昔からエルフたちが猟犬代わりに使ってきたもので、主の異変を察知してニコをここまで引いてきたのだ。
「どこにいるんだよ?」
「探すな! オマエに、頼みたい事がある……」
「頼み?」
姿が見えないのに声だけが聞こえる。どんなトリックなのか、遠くから響いているのに、耳元で聞こえてくるフィーネの声に、ニコは彼女の居場所を把握できない。
「体の調子が悪い……。熱い、燃えるように熱い! 何とかしろ!!」
「何とかっ、たって……。僕は医者じゃないんだけど?」
「魔術師ならっ……! なんとかぁ……して見せろ!!」
「わ、分かったよ」
何がどんな状況なのか分からないが、体の調子が悪いという割には元気そうだ。そこまで重篤な病気ではないらしいし、単なる風邪ならそれこそ昼間血を止めるのに使ったような術でも何とか出来るかもしれない。
だが、事はそう簡単には運ばない。
「じゃあ、僕に見せてみろよ!」
「イヤだ」
「じゃあ、こっちに来いよ」
「イヤだ!!」
「どうしろってんだよ!!?」
とにかく、様子を見るにも治療をするにもフィーネの姿が見えないと話にならない。なのにどういう訳か、彼女は頑として姿を見せることを拒んでいる。これでは治癒も何も出来やしない。
「そうだ!」
こんな時こそと一緒にオオカミが引っ張てきた荷物の中から、透視鏡を取り出して周囲を見回す。
彼女は体が熱いと言っていた、ならば……そう考えてキラキラと光り輝く滝壺に目を向けると、そこに彼女はいた。
その姿はまたもや全裸。水面から僅かに鼻先だけを覗かせて、後は全て水の中に沈んでいる。頬は酒でも飲んだかのように紅潮し、こころなしか目線もゆらゆらと揺らめいて焦点が合っていない。明らかに心此処にあらずだった。
「危ないっての!!」
これは態度とは裏腹にヤバイと判断し、迷わずニコは水に飛び込んだ。昼間その裸体を真正面から見て悲鳴を上げたことも忘れ、今の彼は命の恩人を助けようとする一人の男だった。少し深かったが滝に近付くまでに彼女の腕を引いて岸まで戻ってこられた。
「熱い……熱いぃ……!」
「ああ、見りゃ分かるって!」
うなされるように呟くフィーネの体は、水から出ると全身が紅く火照り始めた。それまで冷水で押さえ込んでいた熱が一気に爆発し、もはや触れずとも肌で感じ取れるぐらいにまでになっていた。これはますます感染症か何かを疑わなくてはならない。きっとここに来るのも一苦労だったに違いない。
とにかく熱を冷まそうと、川原に横たわせて治癒を試みる。
しかし……。
「見るな……見るなァ!!!」
「うわ、ちょ、何を……痛っ!?」
昼間堂々と裸体を見せつけておいて何を今更恥ずかしがるのか、石を投げつけられ必死の抵抗を受けた。熱に冒されているので力は篭っていないが、それでも脛に当たると結構痛い。左足の痛みも押して親切心で動いていたのだが、そこまでされると流石にニコも怒る。
「いい加減にしろよ!」
「きゃ……ん!!」
石を掴む両手首を押さえつけ、上から押し倒すように乗りかかる。更に抵抗する足も尻に敷いて完全に動きを止めた。傍から見れば強姦魔だが、こうでもしないとフィーネは大人しくしてくれないのだから仕方がない。
どうしてフィーネは突然熱を出した? この森に長く住む彼女が体調を崩すような拾い食いをするとは考え難く、感染症なら彼女だけが罹る理由が分からない。一体何が原因なのか。
悶々と原因について考えていると、フィーネの体に次なる異が起こっている事に遅れて気付けた。
「ぁああ……なんだ、これ!? ああ、ああーっ、ふああっ!!?」
押さえた手首や足が痙攣し始め、最初は寒さに震えるような微かなものだったそれが、五秒と立たずその震えは上に乗っかったニコも揺らすほどに大きなものに変化した。四肢を硬直させ歯を食いしばり、特に足の指を太ももが痛くなるほど固く締め、ニコの体重も押しのけて股がきゅっと内側に寄り……。
「きゃぁぁああああああアアアーーーッ!!!?」
森全体に響き渡るようなフィーネの悲鳴に、オオカミたちの遠吠えも止む。叫びと同時に硬直はピークに達し、少しだけ小刻みに震えてから、フィーネの弓なりに反った背が落ちる。熱は冷めるどころか逆に燃え上がり、灼けた鉄のようにその体温は上昇する一方だ。
だがニコは、この「症状」について思い当たることがあった。
「まさか……」
二年間過ごした師匠の家で「これ」と同じ現象を何度か目にした事がある。掃除を言いつけられて、別の仕事を終えてから師の寝室を覗いた時……ベッドの上で彼の妻が乱れていた姿に酷似している。というか、正しくそれだった。
フィーネは、発情していた。獣のように周期的に訪れるものではないのに、彼女の体は本能が飢えと渇き、そして種の存続を強く強く訴えていた。
それこそ、生命の危機に瀕するレベルで。
「あつい……あつぃ、あついィ!!」
今のフィーネは度を越した発情状態で、重度の熱病を引き起こしているような状況だ。熱は全身の水分を汗として流し続け、収まらなければ脱水症状にもなりかねない。今は原因が何かと言うより先に症状を抑えることが先決だ。
発情状態を収める方法……ニコは一つしか知らない。
「……フィーネ」
「な、んだ?」
疼く子宮が発する熱で意識が混濁しているフィーネ。その手を優しく取り、指先を体のある箇所、熱の発生源に向けて導く。
「ああ……ッ!」
エルフは純潔と清廉を何よりも尊び、情欲という言葉から最も無縁な存在だ。フィーネのように年若い乙女なら、自分を慰めるなど考えるどころか方法すら知らないだろう。文字通り穢れを知らない乙女に禁忌の味を教え込む背徳感、それについてニコが愉悦を感じているのか、彼自身にも分かっていない。
「ひやっ!!?」
秘部に初めて触れたフィーネの肩がびくっと震えた。未知の感覚に驚きと戸惑いの声が上がったのだ。
だがそれも一瞬のことだった。理性を司る脳と快楽をもたらす本能は、拮抗すらせず後者の圧勝に終わり、フィーネの指は一切の迷いを捨てた。
「あふっ、はうっ、んっ……あああぁっ!!」
指を一本ずつ入れて慣らすような悠長な事もせず、湧き出る愛液を掻き出すように秘穴に三本も指を突っ込む。じゅぽっという湿り気たっぷりの音が淫靡な音楽を奏で、滝の音に負けないぐらい大きな音が川原に響いた。
「ぅわぁ」
ニコに他人の秘め事を鑑賞する趣味は無い。バフォメットや魔女の黒ミサやサバトを見たこともあるが、人間としての常識からそれを凝視することは避けてきた。他人の秘め事は盗み聞きするものでも、ましてや真正面から環視するものでもないと思っていた。
だが今時分の目の前で一心不乱に秘穴を掻くフィーネの姿に、ニコの目は釘付けになっていた。しかもそれが他でもない自分がそうさせたとなれば、感じる背徳感は一塩だ。
「っくぅぅぅぅうううううううううーっ!!」
二度目の絶頂は更に大きく、遮る者が退いた事で全身が最初以上の快楽を余すことなく受け止めることが出来た。股の間から大量に噴き出すのは小水でも潮でもなく、全て発情によって異常なまでに分泌された愛液の噴出だ。タルを栓抜きしたような勢いで噴く愛液が膣内を疾走する、その刺激でフィーネは絶え間ない絶頂に延々と晒され続け翻弄され脳が焼き切られる。
「ぐ、ぅ……」
処理できない量の快楽に当てられて気絶する。だが一度風が吹けば肌を撫でる感触が、本来変換されないはずの快感に変わって全身を駆け巡り眠ることも許さない。痙攣と同期して全力疾走後の息切れのように浅く連続した呼吸が、フィーネの肉体が限界に近いことを克明に語っていた。
そもそもこれは単なる性欲の昂ぶりではない。肉を持つモノ全てが等しく有する種の保存欲求、子孫を残そうとする働きの発現。
「みるな……みるな、みないで……」
昼間の毅然とした、男など違う生き物と思っているような態度は消え、今のフィーネは自らの痴態を見られてしまったことの羞恥と、未だ己を蝕む快楽に震え、顔を隠す手とは真逆に股はだらしなく開帳されていた。紅く火照った乙女の洞穴からは僅かに白が混じった婬液が溢れ出し、熱い迸りが小さな小川となって滝まで続いていた。
メスのあられもない姿を見せられれば、その気になってしまうのがオスのサガ。それが穢れを知らない乙女の柔肌ともなれば、男の理性など蝋も同然、メラメラと猛り狂う情欲の炎に溶けて消え去る。それはフィーネの汗を通じて染み出す媚薬の効果など、初めから合っても無くても同じことだった。
「フィーネ……」
「やぁぁ、ダメだ……ぁ!」
火照り鎮まらぬフィーネの体を抱きかかえ、シーツ代わりに敷いたマントの上に運ぶ。抵抗のつもりで肩を押されたが、滝から掬い上げてくれた者とは思えないほど、その力は弱々しかった。その弱さが逆にフィーネの「女」の部分をニコに思い知らせる事になる。
「綺麗だよ」
「っ!? ふあ、はぁぁぁ……ッ!!」
口説くためではない、純粋な見たままの感想を漏らす。ただそれだけの事でフィーネのメスは刺激され、また絶頂する。これで完全に骨抜き、もはやフィーネに抵抗する気力は無くなり、オスを受け入れるまな板の鯉と化した。
「イイよな……? イイだろ、フィーネ」
了承など最初から求めていない。仮に言葉で拒まれようと、この艶姿を前に冷静でいられる男など存在しない。いたとしたら、それは男じゃない。
取り出したオスの器官をあてがい、最後の確認と互いの目線が絡み合う。そして……。
「ひぎっ!? ヒィィアアアアアアアーーーッッッ!!!!?」
「うわ、キツ……っあ、ヤバい!」
怒張を包む熱を帯びた淫肉。いや、それは包むという生易しい表現に留まらず、痛みに対する防御反応と、指では届かない最奥にもたらされた快楽で、ニコの分身を痛いほど強く締め上げた。
女体と交わるのが初めての体験となるニコにとって、その絞め上げは致命的だった。へその下に力を入れる間もなく、愚息の暴発を許してしまう。
「ふああぁぁぁ……あったかぁい」
ろくに動きもせず、それも挿入直後、相手の熱と律動だけで漏れ出す情けない射精。ニコの初体験は、相手が相手なら失笑を買いそうな惨めなものに終わった。だが彼の精を受けたフィーネの表情はとても満たされ、口の端から唾液を流しながら悦びに蕩けていた。
今やフィーネは誇り高い森エルフではなく、ただの一匹のメスに堕とされていた。
恋も淫蕩も、堕落という意味では同じこと。一度肉の味に落ち始めれば、あとは加速するしかない。
「……っと…………も、っとぉ……!!」
性欲は男より女の方が強い。与太話程度にしか思っていなかったニコだが、今まさに身を以て知らされようとしていた。
夜はまだ長い。饗宴は始まったばかりだ。
「…………殺せ」
「僕の方が死にそうなんだけど……」
翌日の太陽が昇る時、川原では二人の男女が石の上に突っ伏していた。服は脱ぎ捨て二人とも裸で、その周囲は乱暴に脱ぎ捨てられた衣服が散乱し、肌は精液と愛液が混ざりベチャベチャの溶液となったモノに塗れていた。清涼な川の景色とはどこまでもミスマッチな様相を呈している。
「お日様が黄色く見えるよ……」
性交がここまで体力を削るとは思いもせず、互いに初体験なのもあって盛りのついたサルのように、本当に夜明けまで互いを責め続けた。結果、体力を考えない交わりの果てに二人はほぼ同時にノックダウンしてしまった。当然、何発ヤったかなど覚えているはずもない。
「そもそも、なんだってこんなことに?」
「知らない。オマエからもらった傷薬を塗ったら……こうなった。ピンクで、ドロドロして……見るからに濃そうだったから、薄めて使った」
「え、ピンク? 傷薬は水色だよ。ピンクは……僕の元師匠が作った媚薬だ」
「…………」
「…………」
気まずい沈黙が二人の間に流れる。ギギギと脊髄が擦れる音を感じながら、二人は全く同じタイミングで互いを睨んだ。古今変わらず、痴情のもつれが行き着く先はいつだって、口喧嘩と罵り合いと相場が決まっているものだ。
「オマエのせいだ! オマエが鞄に媚薬など忍ばせておくから! これだからニンゲンは、ろくな事を考えない!!」
「よく言うよ! 何の薬かも確認しないで勝手に使っておいて、人のせいにすんな!! それが治療してやった相手に言う言葉か!!」
「治療!? 昨日一晩オマエは何をした! あれのどこが治療だ、体よく性欲処理の抱き人形にしただけだろ!!」
「それ以外の何をどうしろってのさ! 僕が相手をしてやったから、あんたは今こうして減らず口を叩いていられるんだろ!!」
「言わせておけば……!! オマエのせいで、オマエのせいで……!!」
フィーネの様子がおかしい事に気つけたのはこの時だった。それまで感情に任せて口汚く罵るだけだった彼女は、固く冷たい石に顔を埋めて肩を震わせ、恥ずかしさと悔しさに泣いているようだった。純潔を重んじるエルフが乱れに乱れ、男の欲望に身を任せて嬌声を上げるなど、あってはならない不徳だった。
「もう帰れない……。みんな、オババも、許してくれない……」
「そ、そんなことないだろ!? だ、黙ってりゃ……バレやしないって……。そこの川で体洗いなよ、な?」
「うう、ふぐっ、うううううぅうぅぅぅー!!」
昨日と今日だけで何度この川の世話になったことか。足に力が入らず泣き崩れるばかりのフィーネを連れて川に入り、全身の汚れを洗い落とす。初めて出会った時と立場が完全に逆転してしまった事に感慨じみた物を感じながら、取り敢えず見てくれだけでも異常がないように取り繕う事には成功した。
後は髪が乾くのを待ち、臭い消しに香草から搾り取ったエキスを振りまき、そこには昨日と変わらない森の乙女がいた。だが涙は引いても相変わらず表情は暗い。というか、青い。
「いける、いける。大丈夫だって!」
「…………」
なんと言うかもう……病気の母の為に必死に摘んできた薬草が、実は外見そっくりな毒草だと知らないまま煎じてしまった……それぐらいこの世の終わりみたいな表情だった。
ニコとて男だ。据え膳を食うだけ食い散らかして何の後片付けもなし、というのは男としての道に反する行為だという自覚はある。しかも相手は命の恩人、無碍に知らぬ顔は出来なかった。
「何とかなる……うん、何とかなるって」
だがこのニコという男、どこか抜けているというかボンクラと言うべきか……エルフにとって純潔を失うというのがどんな意味を持ち、どんな結果を招くのか、この時は露とも理解していなかった。
意外にも、ニコとフィーネの秘め事はすぐにはバレなかった。狩人のフィーネは日を跨いで獲物を追う事もあり最初から怪しまれず、ニコもエルフの生活に興味があることを押し出すことで彼女と一緒に居たことを不審がられないようにした。
もちろん疑いの目が無かったわけではないが、何より長老を納得させられた事が大きかった。フィーネにニコの身の回りを世話するように言ったのは他でもない彼女であり、それを他のエルフたちも知っていたため、二人が四六時中一緒でも過度に怪しまれなかった。
傷の手当と称して顔を合わせる度に特性の体臭消し香水をフィーネに使い、「あの夜」の匂いを消すことに集中した。エルフは堕落した同族を嗅ぎ分けると聞いていたので、首筋や脇など、男を誘う色香を発する場所を徹底的に押さえた。
無論あれ以来セックスはしていない。それは周囲にバレればどうなるか分からないという緊張感もあったが、心理内容としては互いに初心者特有の気まずいアレな感情が渦巻いていた事もある。だがその緊張が二人の間を適度に保っていたため、同じ間違いを犯すことだけは無かった。
事件は、ニコが隠れ里に来て一ヶ月経つ頃に起きた。
「フィーネをこれへ!!」
昼日中、いつもなら若い者は狩りに出ているこの時間、村の中央に設けられた小さな広場には長老を始めとするエルフ達が集合していた。その人数たるや、ニコを入れるかどうかで押し問答していた時の比ではない。老若男女、村中の全てがそこに集められていた。
その中にはニコもいた。皆が周囲をぐるりと取り囲む中、ニコとフィーネはその中心に引っ立てられていた。まるで処刑を待つ罪人、そして実際はその通りだった。
結論から言えば、バレてしまったのだ。
「フィーネや、申し開くことがあるかや?」
「……ありません」
「はあ……。お前は賢く利口で、分別のつく子じゃと思っておったが……。わしも老いたな」
俯いたままのフィーネ、それを見下ろし自嘲する長老。一人だけ蚊帳の外の扱いを受けるニコは、これから何が起きるのか分からず冷や汗を流し続けていた。
「皆の者っ、これにあるフィーネは誇りあるエルフにありながら、人の子と交わるという愚を侵した!! 汝ら、これが許せるか!?」
「「「許せない!! 許せない!!」」」
長老の呼びかけに興奮した村のエルフ達が声を荒げる。
「ならばどうする!? 男を誘惑し、穢れを知り、純潔を失った罪深きこの者を、どうするべきじゃ!!?」
「「「追放!! 追い出せ!! この村から出て行け!!」」」
ヒートアップするエルフ達の怒号が村だけでなく森全体に轟く。もはやこの場は魔女狩り裁判、被告人はニコとフィーネ。だが、所詮はよそ者のニコよりも、同族の誇りを汚したフィーネに彼女らの怒りが向けられていた。
「ま、待て!! 僕は知らない……! 僕は何もしちゃいない、無実だ! 潔白だ!! 言いがかりは止してくれよ!! 第一、証拠があるのか? 僕が、フィーネを、犯して汚したって明白な証拠がっ!?」
傍からしてみれば聞き苦しい言い訳だった。ともすれば自分一人だけが責任逃れをしているようにも聞こえるだろう。事実、ニコも周囲の憤りがフィーネに向けられているのをいい事幸いに、自分の責任を宙ぶらりんにさせようという魂胆が無いわけでもなかった。加えて、彼が作った臭い消しは野生動物の鼻もごまかす代物、エルフの嗅覚など簡単に騙せるはずだと高を括っていた。
しかし、彼はエルフという種族を甘く見すぎていた。
「如何に肌を白く化粧し、如何にその匂いを消したとて、我らエルフの目は誤魔化せぬわ。エルフとは純白の紙、そこにほんの僅かでも黒が混じれば気付かぬ道理なし。既にこのフィーネには人の子が与えた穢れが、消えない魔力の塊が植え付けられておる。堕ちた同族を見分ける目において我らの右に出る者はおらん」
「は、はったりだ……。僕にはフィーネの魔力なんていつもと同じにしか感じない。潔癖症のあんたらが、一番年下を寄ってたかって難癖つけているようにしか見えないね!!」
「我らにも間違いはある。じゃが……これを見てもまだ同じ言葉が吐けるかな、人の子よ」
そう言って長老が木を削って作った長パイプから、既に喫い終えたタバコの灰を手に叩き出す。火は消えているが鼻に近付ければ肺に染み付くようなタール臭がする。
長老の意図が分からず首をひねるニコ。だが、彼の隣にいるフィーネは違った。
「うぅ……うぅぅぅー……げぇっ!!」
「フィーネ?」
様子がおかしい、タバコの臭いが鼻に届いた瞬間にフィーネが苦しみもがき、えずき始めた。何も食べていないのか内容物が出てくる事はなかったが、それでも呼吸が難しいほどに苦しむ様はただ事ではないと容易に理解できた。
「わしはな、族長となる前は産婆をしておった。今やこの村の大半の者はわしが取り上げた。このフィーネも、フィーネの母も、そのまた母も。じゃから分かる、今フィーネの体に何が起こっておるのか」
ニコは、思い出すべきだったのだ。師匠の発明品からくすねてきた媚薬、それが単に女を発情させるだけの既製品とは違うことを。
「微熱……不眠……五感の変化、特に匂いや味に対する過剰な反応……。わしはこの症状をよく知っとる」
長老は言った、「魔力の塊」を「植え付け」られたと。
「まさか……?」
「この子は、そなたの子を身篭っておる」
別にやましい関係でなくても、女から「できちゃった」と聞かされれば男の思考回路と心臓はフリーズするものだ。
だがそれが殆ど成り行き、いや、成り行きと言うのも烏滸がましい行きずり、むしろ通り魔的な行為によるものだとすれば、自覚している男にとってはバケツ一杯の冷や汗でも間に合わない。
つまり、エルフ側の主張はこうだ。
人間に穢されたフィーネは村にいられない。
当然、事の原因となったニコも追い出す。
純潔を保つ事で魔王の影響から逃れているエルフは、コミュニティの一人が堕落しただけで全員が淫楽に感染する恐れを抱える、内側からの侵食に弱い種族だ。よって彼女らは淫蕩に耽る同族を完全に堕落する前に切り離すことで、これまで純潔を保ち続けてきた。
「じゃが、こうなってしまった事について、わしにも責任の一端がある事も認めよう。フィーネと人の子が共に居ることを許したのはわしの落ち度じゃ」
「だったら!」
「幸いにも、フィーネと人の子が交わったのは一度きりのようじゃし、今なら取り返しがつかぬ事もない。我らが部族に伝わりし清めの儀式によって、その穢れを払い落とすことも出来よう」
一縷の光明が見えて思わずニコとフィーネの頬が緩む。
だが事はそう簡単には進まない。
「じゃが、それには条件がある」
「条件……?」
「胎内の仔を堕ろすのじゃ」
この世には、誕生を祝福されない命がある。
「冗談だろ……? え、堕ろすって事は、つまり……中の子供は」
「何も珍しい事ではあるまい。特に、そなたら人の世界ではな。わしらもそれに倣うだけのことよ」
「そうじゃない、そうじゃないだろ! 分かってんのか? 堕ろすってことは、中の子供を殺すってことじゃないか!!」
「ニンゲン如きの小童が、自分の尻も満足に拭けんくせに威勢良くほざくでないわぁッ!!!!」
「っ!?」
それまで落ち着いた雰囲気で話していた長老の怒声に、ニコだけでなくフィーネや周囲のエルフ達もたじろぐ。
「元を質せば、そなたの浅ましい欲望が原因であろう! それが口を開けば責任逃れを目論見、一歩退いて綺麗事を振りかざせば相手が黙ると小賢しいやり方をしおってからに!! 貴様にはうら若き一人の女子を辱めたという自覚が無いのか!! 無いのであれば、一丁前に腹の仔の心配なぞするでないわ!!」
正論に次ぐ正論、これにはどんな優秀な弁護士でも二の句は告げない。この場における最大の被害者は、たった一度の過ちで子を成してしまった故に村を追い出されるフィーネだ。人間の、それも好いてもいない男の子を孕まされ、そしてそれを堕ろされる……女としてこれ以上に屈辱的な事はあろうか。
もはやこの場に、ニコの発言権はない。命を取られないだけむしろ感謝しなければならない。
「それで……どうする、フィーネや」
「…………オババの言うとおりにする」
「フィーネッ!?」
「どうせ身篭ったなんて言っても、形もない肉の塊なんだろ。だったら……何の問題もないじゃないか……」
吐き捨てるようにそう言ってフィーネは長老の命令に従う旨を伝えた。その俯いた顔は髪に隠れ容として知れず、表情を窺い知ることは誰にも出来なかった。
「それに、堕ろせばここを追い出されないし……」
「残念じゃが、それは出来ぬ。そなたをここから追放する事は決定事項じゃ」
「はぁ!? どういう事だよ! 穢れを払えば追放されないんじゃなかったのかよ!!」
「それは人の子の勝手な思い込みじゃ。仔を堕ろすにせよ、そうでないにせよ、どちらにせよフィーネにはこの里を出てもらう。一度穢れに触れてしまったエルフは、遅かれ早かれ闇に堕ちる。いずれ腐ると分かっている果物をいつまでも同じ箱に入れておくわけにはいかんのじゃ」
村に居たまま堕落されては困る、だから一度浄化してから追放する。その上で村の外で再び堕落しようとも、それは村とは無関係、誇りある森エルフの名誉は汚されないという理屈だ。
どちらにせよ、フィーネが理不尽な咎を背負わされることに変わりはない。
詮議が終わった後、彼女には何も残らない。
「…………なんだよ、それ……」
「何じゃ、人の子。最初の約束通り、足が治るまでは置いてやろうて。安心せい」
「……………………」
「他にはないな。では、早速……」
「待ってくれよ!!!」
お開きになりかけていた詮議にニコが待ったをかけた。エルフ達の敵意が込められた視線が一斉に突き刺さるが、それでも訴えを取り下げる事なく普段の厚かましさを発揮して尻込みはしない。
「まだ何かあるのかいや」
「……僕に……僕に、責任を取らせて欲しい」
「ほう? 殊勝な心がけじゃが、具体的にどう責任を取るんじゃ?」
長老のシワの底から貫く目に射抜かれながら、ニコは緊張を和らげるのと勢いをつかせる為に大きく息を吸い、そして……。
「僕が堕ろす。僕が責任を持って、子供を殺す」
「ほれ、これが薬を作るのに必要な調合書じゃ」
この時代、妊娠初期の妊婦から胎児を堕ろす手段は主に薬が使われた。長老が渡したリストにも素材として煎じる薬草が書かれており、その中には人間界で使われる物もあった。
「二ヶ月欲しい。それだけあれば……」
「ふん! 薬草の場所はフィーネに聞くといい。じゃが薬の調合は村の外でやれ。そなたが言ったんじゃ、責任を持つとはそういう事じゃ」
何の助言もアドバイスもなく去って行く長老。
すっかり住み慣れた馬小屋に残されたニコとフィーネの間には、重く冷たく苦しい沈黙が横たわっていた。互いに全く正反対の方向を見つめ、言葉どころか目も合わせようとしなかった。
ニコには分かっていた、口を開けばきっと批難の声を上げずにはいられない、だからフィーネは何も言わないのだと。下等な存在と蔑みながら人間である自分を助け、不本意でもその世話をし、妄想にも等しい一人語りを文句を言いながらでも聴き続けてくれるフィーネ。あの夜、同じ里のエルフではなく自分を呼んでくれたのは、自分のことを魔術師として信用してくれたから……そう考えるのはただの思い込みだろうか。
ヒトとエルフとして出会わなければ彼女以上に優しい者はこの世にいないと思えるほど、そしてそんな優しい彼女の心を踏み躙る行為を働いたことを……今はどれだけ恥じても足りない、それを悔やんでいた。
「オマエは……優しいな」
だから、彼女からそんな風に言われてニコは心底驚いた。
「追い出すのも追い出されるのも、エルフにはどっちも不名誉な事だ。身内の恥を何よりも嫌うからな。だから……ありがと、オマエが言ってくれなきゃ、オババ達が嫌な思いをするところだった」
「お、お礼を言う相手が間違ってるって。僕は別に……! 僕は将来偉大な魔術師になる人間だ! そんな僕がこの歳で子供がいるとか、邪魔以外の何ものでもないから、だから後始末するってだけの事で……」
「そういうことにしておいてやる」
そんなのは口から出任せだ。本当は、顔も性別も分からないヒトの形すらしていない我が子への未練が断ち切れないでいる。呆れたことだ、過程をすっ飛ばしておいて本心では一丁前に父親面をしていたいと思っているのだから。こんな自分勝手なことがあろうか。
だけどそれを口に出す事は許されない。長老から手前の尻云々と言われた事もあるが、それ以上に……。
「ごめんなぁ」
寂しそうに、まだ全然膨れていない自分の腹を撫でるフィーネを前に言えるはずがなかった。
「…………薬草、どこに生えてるか知ってる?」
薬草の在り処を聞き、それを採取し、村の外でそれを煎じて調合する。本当は一ヶ月も要らない作業だが、足の治療期間も含めて倍の時間を取った。
「はぁ……」
すり鉢で薬草をすり潰しながら、詮議の日から幾度目になるか分からない弱々しい溜息を吐く。折れた足を引きずって薬草を探し、今薬を煎じている場所はニコが落ちたあの橋があった場所だ。対岸との通路は未だに断たれており、あれ以来誰もここを通っていないことを教えてくれた。
ニコも、ここ数日エルフの村には戻っていない。住人の目もあるが、今のフィーネにどんな顔をして会えばいいのか分からなかった。薬の在り処を聞くのも最小限に留め、ここ最近はずっと野宿生活を送っている。
「はぁ……」
自分の手違いと浅慮で一人の人生を狂わせた、その事が言葉で語る以上の重責となってニコの肩に乗っていた。何でも出来ると思っていたのに、自分と相手、たった二人の間の出来事でさえ四苦八苦している自分が情けなかった。
ふと、脳裏に思い浮かぶ顔があった。
こんな時、あの師匠なら何と言うだろう。傍若無人、人に物を教えることをついぞしなかったが、彼なら何を言っただろうかと夢想してしまう。あの横柄な物言いが今は無性に懐かしく思える。
「はぁ……」
「随分と辛気臭い顔をしているであるな」
「そりゃ辛気臭くもなるってもんだよ」
「悩め悩め、若人よ。それが貴様の糧になるのである」
「…………え、何してんのあんた?」
「見て分からんか、貴様と同じように薬草採取である」
聞こえた声に何気なく反応してしまったが、顔を見上げればそこには、あの鼻持ちならない喧嘩別れした師匠がいた。橋が架けられていない崖をどう渡ったのか、平然とそして当然のように師匠はそこに立ってニコを見下ろしていた。
「ほう、堕胎薬か。いつから貴様は魔術師から薬剤師に転向したのである? 貴様にそんな才能があると知っていれば、我が家の家計の足しにしてやれたものを」
「うるさいな……」
「我輩に絶縁状を突きつける勢いだった貴様とは思えない覇気の無さ……。一体、何があった?」
「あんたに関係ないだろ」
「マセた奴め。良いから話せ、愚痴くらいは聞いてやれるのである」
「…………あの、さ……」
それからニコはぽつぽつと、師匠にこれまでの経緯を語った。そしてその結果自分が今何をしているのかも、その全てを赤裸々に。
「阿呆だ阿呆だとは思っていたが、まさかそこまでとはな。それで……そんな薬を近くに置いていた我輩が悪いと、貴様はそう言いたいのでるか?」
「あんたの所為にして、それで解決するならそうするよ。でも……今苦しんでるフィーネは、そんなんじゃ解放されない」
「そうだ。で……貴様はそのエルフの小娘に何をしてやれる」
「何って、だからこうして堕ろす薬を……」
「話を聞く限り、貴様が何をどうしたところで小娘が追放されることに変わりはないようだ。つまり、お前がここで責任を放棄したところで、何の問題もない。何を難しく考えることがある」
「それは、僕に逃げてしまえって言ってるのかよ」
「それ以外の何かに聞こえたのであるか?」
「そんなことっ、出来るわけ……!」
「どの道、最終的にツケを払わされるのは小娘である。貴様は事の解決に何ら寄与していないのである。そんなケツの青いガキが責任だ何だと、ちゃんちゃらおかしくて片腹痛いのである」
「……じゃあ、じゃあどうすればいいんだよ!!!」
ニコにはもう分からない。師のように厚かましくもなく、エルフたちのように高潔でもなく、その正体はどこまで行っても自分を優秀だと思い込むことで自己を奮い立たせてきた少年だ。だからこそ、自分の手が届かない範囲で起きた出来事には弱く、脆く、惰弱だ。今まで無視してきた「努力では越えられない壁」を見せつけられ、その心は折れかかっていた。
今こうして薬草を煎じているのも、惰性以外の何ものでもない。他に方法が無いと諦めているからだ。
「もう……分かんないんだよぉ……」
「経験も何も無いくせに小賢しい理屈ばかり捏ねるからこうなる。貴様はガキだ、ケツが青く、未熟で、頭のハエも満足に追えない素人である。そんな貴様が無い知恵絞ったところで何の解決にもならん」
「だったら……!!」
「だったら、ガキはガキらしく大人に尻拭いをしてもらえばいい」
「え……? あ、ちょ!?」
薬草の入ったままのすり鉢を取り上げられる。慌てて取り返そうとするが、その時ニコの目の前に二つの物体が突きつけられた。
「選べ。このままここで貴様なりの『責任の取り方』を続けるのか、それとも……」
ひとつは薬草の入ったすり鉢、そしてもう一つは……。
「今ここで、更なる恥を忍んででも『大人に頼る』のか」
「僕は……僕は…………っ」
少年が取った選択は────、
二ヶ月後、エルフの隠れ里の入口にニコはいた。足の傷も完治し、今はもう杖なしで歩ける。相変わらず住人たちの視線はキツいが、それも今日でおさらばだ。
「来たか、人の子。早う」
長老に連れられてフィーネの元に向かうと、彼女の状態は酷いものだった。
妊娠三ヶ月は母胎への負担が心身共にピークに達する時期だ。悪阻、それに伴う食欲不振、子宮の肥大化による腰痛など、とにかく母胎を苛む症状のオンパレードが押し寄せてくる。この時期はストレスや少しのショックで流産の危険もあり、特に慎重に扱われなければならない。
だが、本来ならしっかり栄養を取り養生しなければならないはずのフィーネが、どういう訳かすっかり痩せこけり肌はシミが目立ち、蛍光色の髪はくすんで見えていた。どうせ堕ろすのだからと、胎の子のことを考えない食生活を強いられたのだろう。
「フィーネ……」
「……ぁ……ニコ」
初めて名前を呼んでくれた事に感動を覚えるが、今はそれより一刻も早く彼女を楽にさせることが重要だった。長老に急かされるまま懐から自作した散薬を取り出し、白湯に溶かして適温になるまで混ぜ合わせる。それを飲みやすい器に移し替えれば完成だ。
「フィーネ、ほら」
「待って…………最後に、もう一度だけ……。お別れだから」
膨らんではいない、だが確かにそこにある温もり。それがもうすぐそこから居なくなってしまう。それも十月十日を待たずして引き摺り下ろされる。その不幸を悲しんで腹を撫でるのは母の本能だ、誰にも否定は出来ない。
だが名残惜しい時間はすぐに過ぎてしまう。
器を受け取ったフィーネが飲みやすい温度にされた薬湯をおずおずと口に含み、決心が鈍らないうちにそれを飲み干した。薬は一滴残らず体内に収まり、後は処置の経過を待つだけとなった。
これで全てが終わった。薬を飲んだフィーネや、見届け人として集まった他のエルフ達も一様にほっと一息つく。これで一番の厄介事は清算されたと誰もが安堵していた。
「人の子……何を飲ませた」
ただ一人、長老を除いては。
「何って、薬だよ。見てたじゃないか」
「わしを馬鹿にしておるのか。堕胎は母胎に負荷を掛ける事ぐらい百も承知、その上でそなたの申し出を呑んだ。じゃが……これは何じゃ!?」
相手の魔力の変化を敏感に感じ取るエルフ、そして幾百年も生きてきた長老だからこそ気付けた事実。
「そなたが飲ませたのは堕胎薬などではないっ、フィーネの活力を取り戻させる何か……何を飲ませたぁーっ!!」
フィーネも気付く、自分の体がさっきまでのダルさが嘘のように消えている事に。この三ヶ月で削られていた体力全てが戻ったように、彼女の肌に血色が宿っていた。
「フィーネッ!!! 僕と、一緒に……!!」
「オマエ、何を……!?」
「早く!!!」
有無を言わせずニコが差し伸べた手、事態が飲み込めず尻込みする。この手を取って何が変わるのかフィーネには分からない、自分と彼は所詮間違いの関係だったのだという負い目がその手を取らせなかった。
「フィーネ!! 聞いてくれ……!」
だからそれを後押しする。
「僕の子供を産んでくれ!!」
師曰く、「我輩はこれで妻を落とした」。
およそエルフの基準では、いやともすれば人間の基準でもどうかと一考の余地がある文句。しかも過程で起きたことを鑑みれば最低の烙印を押されても仕方がないプロポーズだ。しかも相手が純潔の象徴たるエルフとなれば、言外に切って捨てろと言っているようなもの。
だが何の偶然か奇跡か、男と交わった事で属性が魔に傾きながらも一線で堪えていたフィーネは……。
「産みたい、オマエの子供!!」
その一言がきっかけで完全に堕ちた。
手を取り合った二人の体が宙に浮き上がる。重力を無視した力は二人の体重を消し去り、タンポポの綿毛の如く風に乗って流れ始める。
「降りてこんかぁぁ!!!」
激昂して杖やら長パイプやらを振り回す長老を尻目に、空に逃げた二人は徐々に隠れ里から離れていく。地上でなら絶対に無理なお姫様だっこでも、重力を消すこの靴を履いてなら出来る。地上の喧騒など二人の耳には届かなかった。
程なく二人は初めて出会った、そして結ばれたあの滝壺にやって来た。切り立つ大岩の上に降り立ち、二人は初めて真剣にお互いの目を合わせた。今まで一度も合わせようとしなかった目を。
「どうしてこの子を?」
「そりゃ、あんだけ名残惜しそうにされたら誰だって気づくよ」
「そうか」
「あ、あのさっ、何かその……順序とか、節度とか、お互いの気持ちとか、何か色んなあれこれを置いてきぼりにしちゃったけど……。僕はまだ未熟で、自分でしたことの後始末もちゃんと出来ないけれど……!!」
「…………」
「僕に……僕に、ちゃんとした責任を取らせて欲しい!」
「具体的には?」
「えっと、それは、その……」
「要するに、あの夜と同じ勢いだけか」
「ぐ……」
どうしてこんな男を助けたのだろう。この三ヶ月ずっとそう考えていた。でもさっき自分の手を引いた一言で全てが消え去った。それどころか今フィーネは安心を覚えていた。高潔なエルフが人間の、それも未熟な童に手篭めにされるなど本来なら末代までの恥だ。
だが、今はそんなことどうでも良かった。
「エルフにとって、片親がいないと言うのは不名誉なことだ」
「それって……?」
「生まれてくる子供に不名誉な父親でいてほしくない。分かるだろう。オマエが早く一人前になれば、そんな心配もしなくていいんだぞ」
「うん……うん、分かってるよ!!」
再び空に舞い上がる二人の体。幼き頃以来に飛ぶ者と、初めて地を離れた二人は滝を飛び越える高さまで飛び上がり、そして風に乗って何処へと去っていった。
「本当に飛べるんだな。嘘だと思っていた」
ニコが憧れた世界を眺めながら、フィーネは熱を帯びた新しい命が宿る場所をいつまでも愛おしそうに撫でていた。
天地をひっくり返した大騒ぎに見舞われたのはエルフの隠れ里だ。
部族から堕ちたエルフを出したとなれば沽券に関わると、皆が長老の指示で弓矢を持ち出す。空中に浮かぶ二人を撃墜させるつもりでいた。
「降りてこい、人の子ぉぉ!! 責任を取ると曰ったその口、たたっ切ってくれるわぁぁぁーーー!!!」
完全に怒り心頭の長老の指示で若者たちが一斉に弓を構え、幾十もの矢じりが空を飛ぶ二人を狙う。当たれば命はない。
キリキリと弦が絞られ、限界まで引かれたそれが矢を放った。
しかし……。
「な、なんじゃぁあ!!?」
突然グラグラと地面が鳴動し、轟音と共に村の周囲に影が差す。それは僅かでも日を届ける木々の葉の影ではなく、一分の隙も無い影。
その正体は村の周囲をぐるりと取り囲むように出現した、見上げるような分厚い土壁であった。矢の軌道を遮るように出現したそれらに作為的な者を感じ、エルフ達の視線が下手人を探す。
「『魔性』の『技術』と書いて『魔術』。それを操る魔術師とは得てして、人道人倫から外れているものである。それを今更道に外れる行いをした程度で、何をそこまで目くじらを立てる必要があるのである?」
「貴様かっ!!」
逃げも隠れもせず、一体いつからそこにいたのか見慣れない男が侵入していた。長老は一目でその男がニコの師匠だと勘付く。
「魔術は到達に非ず、魔術は其れに達する手段也。あの馬鹿弟子もようやくその辺りの取っ掛りが出来た頃、若い芽を摘まれるのは我輩としても不本意なのである」
「奴は自ら師の元を去ったと言うておった! 貴様こそ何故今更その弟子を庇い立てする!?」
「────貴様らに関係ない」
男のまとう雰囲気が変わる。まるで人形のような無機質な視線に貫かれ、エルフ達は残らず気勢を削がれてしまった。目の前の異質の塊、条理を逸しこちらの理屈など一切通用しないと本能で悟ってしまったのだ。
「────タダで見逃せとは言わない。交渉の用意がある」
「人の子と取引など……!」
「────そちらにとっても、悪くはない」
魔力を肌で感じ取るエルフだからこそ分かる。自分たちの魔力がダイヤの輝きなら、目の前の男は巨岩……それも地表に出ているような“欠片”ではなく、大地そのものを支える巨大な岩盤だ。大地がほんの僅か揺れただけでも地表の生物を滅するように、この男が指先を弾くだけでこの里どころか、森も、山も、一瞬にして灰塵に帰す事が容易に想像できてしまう。そんな力量差を感じていた。
「────では、交渉だ」
この日、純粋種の森エルフが一人、その数を減らした。
その後のことを少し語ろう。ニコとフィーネ、恋だの愛だの、惚れた腫れたの過程もすっ飛ばした不純な関係から始まった二人の顛末を。
あの後すぐ冷静になったニコは、今の自分に食い扶持を稼ぐ手段が無いという世知辛い現実に突き当たった。そしてそれ以前に喧嘩別れで飛び出した自分には住処が無いことにも気付き、それまでの威勢はどこへ行ったか青ざめた顔で空を飛んでいた。
この歳で夫婦となり、一年もせず子が生まれる事が確定している今、いつまでもプライドを鼻にかけての風来坊では路頭に迷うのは必定。だが弱冠十五歳の彼にゼロから稼ぐ手段を考えろというのも酷な話だった。
そこで出した結論が、恥の上塗りを覚悟で師匠の元に出戻るという選択肢だった。二年間住み慣れた鍛冶屋に行き、地に額を擦り付ける勢いで拝み倒した結果……。
「別に構わんのである」
案外あっさり受け入れられた。とは言え出戻りに関しいくつかの条件もあった。
その一つ、食い扶持は自分で稼ぐこと。家賃などは免除するが、地に足着いた者として最低限のラインだと言い渡された。だがいきなり稼ぐ手段を持てと言うのも無茶なので、師の口添えで村の商人や行商人を相手に薬草やそれを煎じた薬を売る仕事に就いた。幸い山には薬用に使える植物が豊富にあり、それを処方した物を卸す事で生計を立てられた。
二つ目、家の増改築に参加すること。奇しくも同じ時期に妊娠した師の妻を合わせると、総勢十五名にもなる大所帯に合わせ、家のサイズもそれに合わせて大きくする必要があった。二年間の生活でも全く慣れなかった力仕事だが、それでも自分たちも住む家だからとヒイヒイ言いながらニコも貢献した。
そして三つ目……。
「えと、この魔道書の第三章第二節の訳は……」
「違うのである。そこの文は第一節のこの部分と深い関わりがあり、正しくは……」
暇を見つけてでも構わないので、魔術の修練をすること。師匠は、あの二年間は一体何だったのかと言わんばかりに熱心に教えるようになり、出戻りを二つ返事で受け入れた事も含めて妻に心中を聞かれたという。そしたら……。
「昔我輩が作った失敗作を後生大事に抱えて、それが魔術師を目指すきっかけだと言われれば、師として弟子を可愛く思って何の不思議があるのである?」
とのことだった。
そして時は流れる。
「はい、ニコ君。ご注文の品、出来たよ」
「あ、ありがとう、ございますッ!」
「今緊張していてどうするのである。本番はこの後である。ここで失敗すると男は一生尻に敷かれ続けるのである。ああ、もう貴様はそうなっていたな」
「わ、わわ、分かってるっての!! いちいち要らねえこと言ってくるな!!」
「待たせてるから、早く行ってあげて」
「お、おぉう!!」
薬売りで稼いだ金を使って依頼した品を手に、ニコは改築を済ませた家のベランダ、日がよく当たり森が見える場所へと向かう。
「あの小僧、手と足が同時に出ているのである。あれは失敗であるな」
「まだ分からないですよ。それに、あの子はニコ君を尻に敷いてなんていませんよ。働かないといけないからって魔術師の道を断念しかけていたニコ君を、諦めちゃダメって留まらせたのはあの子だもの」
「だったか。我が弟子ながら、厄介なことばかりする奴だ」
「そう言って、エルフの人達を説得したじゃないですか。あの二人に手を出さないことを条件に」
「別に。ここで製造した金物を売り付ける、その為のルートを開拓したに過ぎん。いくら森エルフが気高くても、プライドだけでは食っていけない。木を削った道具より、金属を加工した物の方が便利だと教えただけである」
「そういうことにしておきますね。あっ、ほらほら! 行くみたい!」
妻が指さした方向を共に見つめる。
「あの二人、うまく行くかなぁ」
「どうであろうな。普通の魔物娘と違って、順序がアベコベになったままでここまで来たのがある種の奇跡だが」
「そこから始まる関係、なんていうのを思うのは妄想?」
「さてな。だが……ひょっとすれば、あるのかも知れないであるな」
二人の見つめる先、陽の光が降り注ぐベランダではニコが女性にプレゼントを差し出していた。太陽の光を浴びて煌く銀の指輪、女性はそれが薬指に通されるのを拒むことなく受け入れる。
二人の顔が近付く。互いの先端が触れるか触れないかという距離まで来た瞬間、狙いすましたように風が吹いて女性の黄緑の髪が二人の顔を隠した。
睦み合う二人の間には、可愛らしい赤子が抱かれていた。
15/11/07 22:59更新 / 毒素N
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