第七章 憤怒の勇者:後編
レスカティエを表向き支配するのは前王カストールより王位を継承した女王、フランツィスカ・ミステル・レスカティエである。だが既に彼女は永遠の若さと快楽を得、その代償に政の決定権と己の理性を売り渡した傀儡王と成り果て既に半世紀も経過していた。
「う〜ん、そろそろ潮時かしらね」
厚いカーテンで閉ざされた寝室の中で蠢く影。僅かな光の中で見えるのは艶やかな女の肌、だがそれは常人のそれとは大きく異なり灰色に似た色をしていた。長い髪をかき分ける仕草一つに妖艶な魅力が醸し出され、ベッドから出た彼女はその身に何一つ纏うことなく窓際まで行くとカーテンを開け放った。
その瞬間、明らかになる女の全貌。流れる髪に汚れ一つ無い肌、程よく締まった肢体に豊かに実った乳房……そこには世界中の男を虜にしてもまだ足りない、美という概念の集大成があった。淫靡でありながら汚れという存在から全くの無縁であるその魅惑のカラダ、これを前にすれば六十を通り越した老人でさえも興奮でいきり立ち、女性もまたその肢体から淫蕩な様子を想像し股を濡らさずにはいられないだろう。地上の全てのオスを支配する大いなるバビロン、それがこの閨の主だった。
例えその背から人間にあるまじき漆黒の翼が生えていようとも、全身の肌の至るところに妖しい紋様が浮かび上がっていようとも、それが彼女の美しさを損なうようなことは決して有り得ない。
「教会派の連中、少しおイタが過ぎたわね」
彼女の名は「デルエラ」。現在主神と世界の覇権を巡って争う魔王と、かつてその魔王を討伐に現れた勇者との間に生まれた娘。魔王の娘はリリムと呼ばれ、普通のサキュバスとは一線も二線も画す強力な存在だ。デルエラはその四女、何十人ひょっとすれば何百人もいるリリムの中でもトップクラスの力の持ち主であり、五十年前にこのレスカティエをたった一日で陥落させたのも彼女の手腕によるものだ。魔界重鎮の中でも一番の過激派として知られ、今まで数多くの国を魔界に堕としてきたことから人間界でもかなりの知名度を誇る大淫魔だ。
今はレスカティエ陥落という大仕事を終えてしばらくの休息を取っている。人間で言えば「長期休暇」のようなものだが、それを年単位で過ごすあたり彼女らのライフスタイルのスパンの長さをうかがい知れる。
と言っても、全く仕事をしていない訳ではない。国王の地位には娘分のフランツィスカを据えているが、政治の実権はその大半をデルエラが牛耳っている。政策や国庫の運営、周辺国との外交や防衛に国境問題など、大まかではあるがそれらの方針を決めて指示しなければならない。これはこれで中々に面倒な仕事だ、表立って動けない分やはりどうしても現場の様子をすぐに知ることは難しい。かと言って自分が王位に取って代わることはナンセンスだ。連綿と続いてきた血筋を奪うには大義名分がない。そんな事をすれば民の反感を買うだけ、独裁者とはいかに民の支持を得られるかで寿命が決まる、決して抑圧だけが仕事ではないのだ。
だからこうしてストレス発散を兼ねて三日三晩も交わることもある。ちなみに、デルエラの夫がどんな人物なのかは謎に包まれている。かつて彼女を討伐に来た元勇者とも、教国侵攻の際に手篭めにした司祭とも、一介の民草から魔王軍の将軍に成り上がった男とも言われているが、いずれもはっきりとしない。
「誰かいるかしら」
「お呼びですか、デルエラ様」
寝室に音もなく現れる女騎士。五十年前にデルエラ自ら堕とした当時最も期待されていた勇者。かつて神に対し向けられていた絶対の信仰心は、今やこの第四皇女にのみ捧げられる忠誠心となっている。今ではもう右腕と言っても差し支えない存在だ。
「私が留守の間はお願いね」
「教会派への見せしめなら、私どもにお任せいただければ。わざわざデルエラ様が出て行かれるほどの事では……」
「見せしめなんて、人聞きが悪いわ。これは……お・し・お・き。最近少ぉし調子に乗ってる神父様たちに、どちらがこの国を動かしてるのかもう一回教えてあげるのよ。そして鞭の後には飴を、極上の快楽を与えてあげるのよ。そうすれば、ほら……彼らにも世界の素晴らしさが理解できると思わない?」
「相変わらずお上手ですね」
「それに最近、ここに篭りきりだったからぁ。たまにはお外で運動しなくちゃダメよね」
「お戯れを」
「あらぁ、本気よ? とにかくそういうことだから、あとよろしくぅ〜。あ、留守の間この部屋好きに使ってくれてもいいわよ。久々に彼としっぽり楽しんじゃってね」
「本当ですか!? さ、さっそく、彼を連れて来ますね!!」
清廉潔白、品行方正も今は昔、ウィルマリナにとって今の生活は愛しい伴侶との交わりに重きを置かれていた。彼女があられもない嬌声を上げて腰を振る様を見ながら、デルエラは自分達の野望が一歩一歩現実味を帯びていることを実感するのだ。
男女の交わりを是とする思想が広まりそれが常識となれば、世界はきっと薔薇色の輝きに満ちると強く信じ、その実現のために邁進してきた。彼女は決してヒトを支配したいのではなく、種そのものを伴侶に見立て共に歩むことを望んでいた。あらゆる存在が至上の快楽を甘受し続けられる魅惑と陶酔に満ちた酒池肉林の桃源郷、それこそが魔王とその娘たちの悲願である。
「さてと、何を着ていこうかしら」
教会に乗り込むのは実に半世紀ぶり、今までずっとこの国にいながら適当に泳がせていたが、同じ親魔物領にちょっかいを出していたとなっては見逃してやる道理はない。これが通常の独裁国であれば反体制派としてまとめて刑場送りにだが、幸いにもここは魔界国家、命を取らずに思想を変える手段や方法などいくらでもある。今日も何組かの夫婦が誕生しそうだと上機嫌になりながらクローゼットの中からお気に入りの服を見繕う。
春の陽気を一糸まとわぬ全身に浴びながら、デルエラは実に楽しげに鼻唄まで歌い始めた。
────ピシッ
「あらぁ?」
自分以外誰もおらず、締め切って風も吹かない部屋の中で小さな音がしたのをデルエラの耳は捉えた。音の出処を探ると、部屋の隅に飾られた花瓶に亀裂が入っていた。表面を走った程度のものだが、まだ取り替えたばかりの新品のはず……それほど寒暖の差があるわけでもないのに、急にひび割れたのだ。
しかも、異変はそれだけに留まらない。花瓶に差してあった花、開花したばかりで満開を誇っていた鮮やかな花がポッキリと首から切れていた。こんな枯れ方をするとは聞いていない、どうにも不吉な予感がしてならない。
「あまりこういうのは信じないのだけれど……」
丸ごと落下した花を手に乗せて、ふと窓の外を見つめる。空が少し曇ってきていた。
「奴が国境を越えるとなれば、進んだ方角から見て恐らくはこのルートだろう」
ばさりと地図を広げてミゲルが指し示すのは、王都を離れた場所を東西に流れる川。流れに逆らうように行った先にはレスカティエの国境がある。ここを通れば多少時間はかかるが迷わず確実に教国の土を踏める。しかも国境付近からは急に川の落差が激しくなり、警備兵も数名しか配置されていない。イーラにとって虫を蹴散らすより簡単に突破されるだろう。
「本当に追うのかい? 放っておきなよ、どうせ彼は自滅する。国境を越えてもその先で野垂れ死ぬだけさ」
「どうかね。殺しても死ななそうな奴だ、そんな簡単にくたばってくれるかよ」
「かと言って、セレナの聞いたことが真実なら事態はかなり面倒なのである」
「…………イーラより先に、教国に入る」
「ルートは一つ、街道に出て正規の道を行く。これが国境越えの最短ルートになる」
「時間がない、今すぐに行く」
自らの甲殻を加工して作った馬上槍を携えて、セレナは後を追おうとした。
だがそれを止められる。
「強い者と死合うのがそんなに好きか、この戦闘狂が。死ぬのならてめえ一人だけにしろ」
「それとも、たった数分かそこら言葉を交わしただけで情が移ったのかい? 流石は魔物、人間にはその辺り理解できないよ。君だってあれにはだいぶ痛い目にあったはずだよね」
「……何が言いたいの?」
「俺っち達を巻き込むなって言ってんだよ。もう勘弁してくれよ、何が悲しくてあんなのとこれ以上関わらなきゃならねえだよ」
「じゃ、俺帰るから。もうこの先会うこともないだろうけど、またな」
「僕も大使館をたたむ準備をしてきますので、これで失礼しますね」
「あなたたち……っ」
我関せずと、そそくさと勝手に解散を決め込む勇者たち。あくまで彼らは教会の指示に「従ってやっていた」のであり、その教会がドジった今となっては律儀にその後始末までするつもりはないのが本音のようだ。あわよくば教会とイーラが共倒れに終わってくれればそれでいいとさえ思っている。
そんな彼らにセレナは心底呆れ、そして強い怒りを覚えた。元はといえばお前たちが撒いた種だろうと、筆頭であるミゲルに詰め寄る。
「あの子を……見殺しにするの?」
「勘違いしないで欲しい。我々は別に運命共同体ではない。特にあれとは元々敵同士と言っても差し支えない関係だった。そんな彼がどうなろうと知ったことではないとは思わないか」
「あの子がどれだけ必死か……あなたは、知らない!」
「必死だよ、我々も。ある者は富のため、ある者は信仰のため、ある者は真実のため、ある者は愛のため、そしてある者は我が身のため……皆何かに必死で、真剣に向き合っている。別にあれだけが特別ではない、どこにでも転がっていることだよ」
「それは……」
「現状理由や経緯はどうあれ、イーラを特別に思っているのは君だけだ。彼のために行動を起こすのは君だけが持つ権利であり義務、私はどうするつもりもない」
こんな連中に頼ろうとした自分が馬鹿だったとセレナは踵を返して街の外に向かおうとする。ここから教国へ国境まででもそれなりの距離がある。自分の巨体では馬に乗れず、かと言って徒歩で行くには遠すぎる。いくらこちらの方が距離が短くても教国に入るころには何もかもが終わってしまっているだろう。だが、だからと言って走らない理由にはならない。
彼に何の理由があって魔界の皇女に立ち向かうのかは定かではない。ただ一つ確かなのは、これを放置すれば彼は必ず死ぬだろうということだ。魔物がそれを許してもデルエラを新たな崇拝対象とする人間たちからどのような仕打ちを受けるか分かったものではない。そうなる前に何としても衝突を止めなくてはならない。
「……邪魔はしないで……」
「どうぞご自由に。ああ、ついでだから、うちのイルムを連れて行くといい。彼ならいい『抜け道』を知っている」
「良いのであるか?」
「構わない。彼女の案内は任せたぞ」
「だそうである。では、行くとしよう」
そう言いながらイルムの足は門ではなく別の方向に歩き始めた。その事を指摘する暇も与えず、彼の足はずんずん目的の場所に向かう。
それについて一緒に辿り着いたのは、王都にもいくつか存在する教会だった。規模自体はそれほど大きくないが、裏手に回ると亡くなった信徒のための墓地があった。墓石の数はそれほど多くはなく、管理も滞っているのかかなり寂れていた。
こんな所に連れて来てどうするのかと疑問に思うセレナをよそに、イルムはなんと墓石を倒し始めた。
「貴様も手伝うのである。案ずるな、ここの墓石は全て偽物である」
バタバタと倒した墓石を今度は綺麗に並べていく。するとそれらは元々ひとつの石を切り出して造られたのか、細部の傷や模様まで一致していた。
「さてと……では始めるのである。貴様、敷いた石の上に乗れ。我輩は貴様の背中を借りるぞ。む、ちと硬いな」
「勝手に乗らないで……」
抗議の声も受け付けずイルムが術を起動させる。並べた石の表面に妖しい光の紋様が浮かび上がり、巨大な魔法陣が出現した。イルムが王都に隠した術式のひとつだが、その中でもこれは特別な意味を持っていた。
「これはこの王都から教国の国境まで点在する教会を結ぶ転移陣である。これを使い転移を繰り返せば、多少手間だが確実にイーラより先に教国に入られる」
「こんなものがあれば、これで脱出すればよかったのに」
「これは元々我輩だけが逃げるために用意してあったもの。それに、教国に着く頃には我輩の体力は王都の外周を丸一日駆けずり回った後のように……」
「早くして」
「容赦ないであるな」
流し込まれたイルムの魔力をキーにして術式が発動し、一瞬の後に彼とセレナは王都から数里離れた教会へ転移した。
転移すべき教会は残り十七、先はまだ長い。
レスカティエ国内で対立する女王派と教会派は魔物に対する扱いでのみ対立しているのであり、下々の民草に対する部分では何ら抑圧的なところは無い。清貧とは口ばかりの圧政を強いてきた前王カストールの反省から、それまで近すぎた王家と主神教会の距離を適正に保ち、民衆の暮らしを第一に考える政治を心がけている。傀儡とは言え政治を司る女王派はもちろん、正しき信仰には豊かな暮らしが肝要と説く教会派もその一点では互いに同意している。
だが一度議論の的が魔物に向けられると、この二勢力は瞬く間に火がつく。正確には魔物を淫らで邪悪なものとする教会派が勝手に熱くなっているのだが、そこはかつて人間界を最も長く広く支配した宗教勢力、発言力と影響力、そして行動力にかけては淫楽に耽る魔物とは比べ物にならない。
加えて彼らが勢い付く理由として、毎年のように現れる勇者の存在がある。拮抗しているとは言え未だ世界の支配者としての地位を有するのは主神だ。そのせいで彼らは自らを神に認められし代行者として後押しされていると思い込み、後ろ盾にすることであらゆる行動を正当化してしまう。げに宗教の厄介な部分を凝縮したような者達である。
だがこの淫魔の王女は知っている……そんな堅物ほど、一皮剥いてあげれば堕ちるのは早いと。
「フフフ、みんな幸せそうで嬉しいわ」
閨を出てから「堕とした」数は四つ、既に二十数名ものインキュバスを新しい伴侶と添い遂げさせることに成功した。
デルエラは知っている。正しい信仰、神への冒涜、そんなことは許されない、去れ悪魔……そういう事を言っている連中ほど、快楽を恐れているのだ。清貧と禁欲を美徳として今までの人生を捧げてきた彼らを見ていると、悲しいほど哀れに思えて仕方がない。この世に遍く存在する快と悦の何たるかも知らないまま過ごしてきたなどと、それが不幸でなくて何だと言うのだ。
デルエラはそれを教える伝道師だ。神の教えという抑圧された思想から肉欲という本来人間が持っている本能を引き出し、あらゆる苦しみから解放された不老長寿の天上楽土を創造するのだ。創世の神話に語られる楽園、かつて神が創り上げたそれを今度は魔物が創造することでこの世全てを楽園に変える。国家、人種、宗教……そんなつまらない理由による争いは全て過去のものになり、1000年続いた旧弊が打破される事で迷える子羊は抑圧から解き放たれるだろう。
「魔界が楽園と呼ばれる日も近いわね」
母たる魔王と、父たる勇者、その間に生まれた因果な宿命を背負い、魔界の王女は今日も征く。
「それにしても、そこそこ数を連れていたのだけれど、みんないなくなっちゃったわね」
閨を出る際に幾人か独身の魔物を連れて出たのだが、予想より神父の数が多かった上に何組か一夫多妻が出来上がってしまい、あっという間に数を減らした。幸せな夫婦が一度に何組も出来たのは喜ばしいのだが、主だった教会派の根城はあと一つ、シスターが過半数いなければ可哀想なインキュバスにはしばらくお預けをしてもらう羽目になる。
「部隊に何人か独身いたかしら。リストアップしておかないとダメね」
影とは言え仮にも国家の支配者が共も連れずに出歩くなど普通は考えられないことだが、そもそもからして教会の神父が使う術程度でデルエラを害することは出来ない。積極的に人間界に干渉する淫魔の中でも最強格の一人である彼女に対抗できる人間など、もはやこの時代では皆無だろう。
幸せな夫婦計画に思いを馳せている内に彼女の足は最後の教会にやって来た。こちらが動いていることは知っているはずなのに、相変わらず出迎えのひとつも無い。内部に篭城して徹底抗戦の構えというのもそろそろ食傷気味に感じてくる。
「それに付き合うのも一興と思わないといけないかしら」
内心では彼らの反抗を楽しんでいたことを認めつつ、古めかしい扉に手をかける。淫魔避けの術が張ってあったが薄紙を破るようにそれを取り去った。取り敢えずこれまでと同じようにシスターなど女性たちを魔物へと変え、彼女らの手で男をインキュバスへと変えるのだ。
デルエラの細い指が取っ手を握り、木造りの扉がギチギチと鳴りながら彼女を迎え入れ──、
その顔面に拳が突き刺さった。
鼻が折れ、歯の全てが口内へ押され、歪んだ眼窩が眼球を潰す……生まれて初めて感じる、肉を抉り骨を砕かれる感触を顔一杯に受けながら、デルエラの体は向かいの建物を三軒突き破り大地に伏した。突き抜ける衝撃は顔面のみならず、魔物にも等しく備わる脳髄もまとめて粉砕し、人間とは違う薄紫の粘液が辺りに散乱する。
彼女の力を知る者が見ればきっと誰もが開いた口が塞がらなかったに違いない。落日事件では膝を着くどころか怯む様子さえ見せなかった絶対の王者、それが何の冗談か今や崩れ瓦礫の山となった家屋に頭から突っ込んでいた。
「フゥゥゥゥゥ────」
木造りの古い扉から突き出す拳。籠手のような防具はおろか手袋一つつけていない裸の拳が、丸太を削り出して造られた扉を貫き最強の淫魔の顔面を砕いた。固く握り締められた五指は熱い蒸気を放ち、その威力を言葉以上に物語っている。
拳が引っ込むと同時に、支えを失った扉が自壊する。もうもうと立ち込めるホコリ煙の中から現れるのは、太陽を受けて煌く銀の兜、それ以外は麻を編んで作った簡素な服以外何も身につけず履物すら履いていない素足、極限まで引き締まり五体に圧縮された筋肉、風に流れる雪の如き白髪……。
「シャァァァァ────!!」
教国が人界より発掘せし最悪の勇者、イーラ。
今この時点を以て魔界の王女への宣戦布告は相成った。
「陛下にも叩かれたこと無いのよ。それなのにここまで強く、それも女性の顔を殴るなんて……」
三軒先まで殴り飛ばされたデルエラだが、瓦礫を這い出たその頭部はとっくに再生していた。民家の壁一面を汚した体液もいつの間にか消え去り、それらが全て意志を持った生物の如くデルエラの体に収まったことを示していた。潰れて二目と見れない有様になったはずの顔面は元の美貌を取り戻し、何の予告もなく自分を殴った不埒者を見据える。
「その兜……へぇ〜、そう、貴方がねぇ」
全ての生物を魅了する魔眼は一目で男が装着する兜に掛けられた術を見抜き、そこから男の素性まで見通した。そしてその情報から記憶に符合する人物を探し当てた。
「貴方の噂は以前耳にしたわよ。たくさんの魔物が貴方に夫を殺されて、それはもう悪名高い勇者さまだって」
「────」
「って、聞こえてないか。それで? どうするのかしら? この私を魔王陛下の四子、魔界の第四皇女と知っての振る舞いとしたら……これはもう単なるお遊びでは済まされないわよ。そこのところ、ちゃんと分かってる?」
すると音消しの兜で声など聞こえないはずのイーラが、そっとデルエラを指差しこう言った。
「お、まぇうぉ…………こ、ろ、すゥ……!!」
「あー、これはもうダメね」
わざとらしく肩をすくめるデルエラ。
それを合図のように、イーラの右足が高く天を衝く。
「シィ────ッ!!」
右と左の天地が描く角度はほぼ180度、硬く圧縮された見た目とは裏腹にその筋肉は柔軟を極めていた。
そして太陽を足蹴にする開脚はギロチンの如く一気に振り下ろされる。岩石の如き硬さの骨と、それを支える編み込まれた筋肉、そしてこの星を支配する偉大な重力、これらの要素に怒りの勇者の力が加わり放たれた一撃は……。
大地を殺す──。
雷にも似た爆音が街を揺らす。比喩ではない、本当に揺れた、激震である。震源地の半径数十メートルには蜘蛛の巣の如く亀裂が刻まれ、更にその数倍の範囲に建ち並ぶ家々は屋根がずれ窓が一つ残らず砕け散る衝撃に突き上げられた。
反動で地から離れる瓦礫の山、小さい物は拳大から大きいものは人の頭ほどもあるそれらを、再び振り上げられたイーラの脚が一蹴する。
「ゲェア────ッッ!!」
一個ずつなど悠長なやり方はしない。唸りを上げて振るわれた蹴り、そこから発生した衝撃波は直接脚に触れなかった瓦礫全てを高速の弾丸に変え、それが一斉にデルエラに襲いかかる。
だがそれらは一つとして淫魔の王女に届かない。飛来した瓦礫は彼女に到達する寸前で空中で静止していた。魔術ですらない、デルエラが使っている念力は彼女からしてみれば手足の延長、たかが数十かそこらの瓦礫を投げて寄越されたところでしれている。
「お返しするわ」
瑞々しい唇がすぼめられ、ふぅっと息を吹きかける。たったそれだけで静止から一転、瓦礫の大群が今度はイーラに向かって送り返される。頭部以外何の防御もしていないイーラでは雨霰と降り注ぐこれらを受ければ肉塊になってしまうなど、誰の目から見ても明らかな末路だった。
しかし、そんな事は彼とて百も承知。
「スゥゥゥゥゥゥ……!」
目には目を、歯には歯を、そして吐息には吐息を返す。
肺一杯に取り込んだ外気で体が膨れ上がり、イーラの体は歪な逆三角形を描く。そしてそれを体内で圧縮、出口を求めて荒れ狂う爆弾と化したそれを一気に放出した。
「ガァッッッ!!!!」
十里四方まで届きそうな爆音、その正体が人間の肉声などと誰が信じよう。今この場で戦う二人以外は……。
解放された空気とそれに乗せられた音波は収縮を繰り返しながら伝播し、大気を震わす音撃は瓦礫をことごとく粉微塵に粉砕した。物体が持つ固有の振動、その許容を遥かに凌駕した音波の打撃は一切を砂粒に変えてしまったのだ。
パラパラと降り注ぐ今や砂となった瓦礫の数々。それらが全て落ち切るまでに再びイーラが動く。今の攻防で遠距離では埒が明かないと悟り、今度は肉弾戦に切り替える。一歩踏み出すごとに大地が大きく揺れ動き街の亀裂が更に広がった。
拳の威力を味わったばかりのデルエラはそれを警戒して距離を離そうとした。しかし……。
「速いわね」
空中に逃げるよりも先に速く接近したイーラの拳がデルエラを捉えた。刹那、バグッという奇妙な音を立てて頭、胸、下腹部が同時に陥没する。あまりの速さに全く同時に攻撃されたように見えるが、その実態は異常発達した筋力が生み出す残像すら見せぬ超高速の拳撃。技術そのものは後世でいうジャブだが、その威力は牽制でありながら必殺というある種矛盾を極めた武器だ。
他の魔物なら致命傷となる傷でも、デルエラにとっては蚊が刺したほどにしか感じない。だがそれは逆を言えば、不死身の彼女に「蚊が刺したほど」とは言え痛みを与えたということ。それはこの百年有り得ない大事件だった。
更にイーラの猛攻は続く。
「ッッ!!!」
左手に仕込むのは音撃で粉砕し塵にした瓦礫の砂。手一杯に握り締めたそれを再生途中のデルエラの顔面に擦り込むように押し込んだ。
肉と血と骨、そこに砂。混入した異物は再生を阻害し、特に眼球内に大量に取り残されたそれらは網膜に影を映しまともに視界を確保できない。それ以外にも砂粒は肉を絶え間なく刺激し顔中を身悶えするような痒みと痛みに襲われた。まさしく傷口に荒塩ならぬ荒砂、流石のデルエラもこれには参ったようだった。
「ちょっ……な、によっ、これっ!!? 私にこんなことしてタダで──!」
そこから先は言わせない。痛みに呻き顔を掻き毟るその首をがっちりと掴み、水を含んだ布を絞るように首と頚骨を捩じ切る。分離した頭を足で踏み潰し、どくどくと血を噴き出す断面から胴体に手を突っ込む。熱い体内を五指が破壊しながら突き進み未だ鼓動を繰り返す心の臓を突き止め、遂にそれを……。
「────」
破壊した。だが……。
「残念でした」
死体が黒い粘液に変化し、それが可燃性の油であることに気付いた時にはイーラの全身を炎が包んだ。
「心臓や脳を潰したって私は死なないわ。無限に等しい命を持つこの私を殺すには、全身を塵も残さず消すか、直接魂を殺すしかないわ。貴方ぁ、両方ともできないでしょう?」
潰した頭の断面がぐじゅぐじゅと不快な音を立てて隆起し肉も骨も内臓も、数秒とかからずデルエラの裸体が復元される。彼女は比喩でも誇張でもなく事実しか言っていない、その気になれば血の一滴からでも完全復活することが出来る、それがデルエラという魔界の大淫魔の力なのだ。
この戦いも言わば児戯、利かん坊のワガママに付き合ってやった程度のことに過ぎない。指を弾くついでに彼を十回は殺せるデルエラだが、そうしないのは人間を傷付けない魔物娘のポリシーと、ヒトの身でここまで練り上げた実力を持つイーラに対する敬意の表れがそれをさせなかった。
「遥か昔、天界も魔界もなく勇者という存在もいなかった神代の時代、貴方のような特殊な能力も持たず神や魔を打ち倒す人間がゴロゴロいたらしいわ。極限まで鍛えた体は鋼より硬く、矢より速く、剣より鋭い……。神話やおとぎ話の類だと思っていたけれど、今の貴方を見ればそれがあながち嘘じゃなかったって分かるわ」
こんこんと出来の悪い子供に言い聞かせるようなデルエラの言葉を遮り、轟々と燃え盛る火炎を割ってイーラが再び姿を見せる。
「グルルゥゥゥ────!!」
全身の白い肌は所々焼け爛れ、長かった髪もそのほとんどが焼け落ちて周囲に鼻を突く悪臭を漂わせていた。常人ならとっくに疲労が限界に達し相手に勝ち目なしと思い立つ。だが兜の奥に光る赤眼は未だ戦意に燃え、全身を蝕む傷や痛みなど知ったことではないと背中から蒸気が上がる。
「貴方のことは言葉も解さない狂人と聞いていたけれど……とんだスカした下馬評ね。私の全身を激しく打ち鳴らした貴方のアツーい拳……一体、どこまで自分を追い込んだのかしらぁ。死の淵の、その底の、更に奥の、そのまた向こう側……脆弱で短命なヒトの身では難しい壁を幾つも、幾十も越えて、ようやく辿り着く境地……」
それを、ヒトの身には過ぎた力を、この自分を殺すためだけに磨いてくれたなどと……。
「あァッ! 出会うのがあと百年早かったら、貴方を私のモノに出来たのに!」
長い間ひっそりと温め続けた恋文をもらった時のような恋にも似た高揚感に、デルエラは激しい喜びを覚えていた。この男はなんと健気なのだろうと愛おしさまでこみ上げてくる。
「ァァァァ────!!!」
「頑張る男の子は大好きよぉ。さあ、もっと……もっとそのアツイ思いの丈を私にぶつけてきなさい!」
そっと虚空をなぞる手が空中にいくつもの火球を生み出す。触れるどころかその輪郭にかすっただけで皮膚は炭になってしまうだろう。殺すつもりはない、ちょっと懲らしめてやってから治癒を兼ねてインキュバスに変えてやるつもりだった。
対するイーラは丸腰。いかにその力が百人力とは言え、遊びに積極的になった淫魔の王女を相手にするには心許ないのは否めなかった。だがそんな程度で萎える戦意なら端から戦いなど挑まない、イーラにはどうしてもデルエラを倒さねばならない理由があるから……。
第二ラウンドの幕開け、誰もがそう予感する光景だった。
しかし……。
「お待ちください!!」
「お待ちください!!」
イルムをこき使って教国に辿り着いたセレナは街中に重苦しい魔力が満ちている事に気付き、その重い体を引きずってようやくイーラの元までやって来た。既に戦いの爪痕は周囲に刻み込まれ、その中心で大淫魔と怒りの勇者が対峙していた。
「あら、貴女は確か……」
「皇女殿下におかれましては、ご尊顔を拝謁できましたことは光栄の至り。殿下、このようなことは今すぐ……どうか、今すぐにおやめください」
「やめるも何も、その子から吹っかけてきたケンカよ? 私も別に迷惑に思ってないわ、むしろ楽しんでるぐらいよ。安心なさい、殺すなんてことを私がすると思って?」
「ですが……!」
「その子はヤる気満々みたいだけれど?」
「っ、イーラ!!」
セレナのすぐ背後まで迫っていたイーラはその殺気を抑えようともせず、早くどかなければ彼女も一緒に粉砕する気でいるようだった。
すぐさま音消しの兜を被って彼に語り掛ける。このまま続ければ何の拍子で命を落とすか分かったものではない。それだけは絶対に止めたかった。
『イーラ! イーラ、返事をして』
『…………せ、れ、なぁぁ』
互いの兜が共鳴し、それぞれの言葉をそのまま伝える。自分を追ってきたセレラに戸惑っているのか、その体がゆらゆらと揺れ動いていた。
『と、める……な。ぼくは、こいつを……ころすぅ』
『今ならきっと、デルエラ様もお許しになる。だから……もうこんなバカな事は……』
『ば、か……? ぼくの、やっていることがぁ……ばか、だってぇぇぇ?』
イーラの殺気が膨れ上がる……彼を怒らせたと自覚した時には、セレナの首をその手が潰そうとしていた。
「イィ……ラッ!!」
「だれにもォォォ……ぼくの、じゃまはァァァ……させないぃぃぃ!!!」
硬い甲殻に覆われているはずの喉も五指の圧力に悲鳴を上げながら潰れていく。もがき苦しむ様を睨む赤い瞳は全ての敵意をセレナにぶつけていた。
『なぜ……っ! どうして、そこまでっ』
『そうしなきゃ、だめなんだ……』
『教会そう言われたから……? デルエラ様を殺すよう、命令されたからっ?』
考えられないことではない、教会は元々魔物に対し好意的ではなく、それは国家方針が親魔に傾いてからでも変わらなかった。外堀を埋めるやり方の裏で直接元凶を叩くという作戦を考えていても何ら不思議ではない。イーラはその鉄砲玉として選ばれてしまったのだと思っていた。
しかし……。
『ちィ、がァァ、うゥゥゥ!!!! ぼくがぁ……ぼくの、いしでぇ……そいつを、ころすゥゥゥッ!!!』
ヒトの言葉など騒音としてしか捉えることの出来ないイーラが、奴隷育ちで文字すら知らない彼が誰かからの「命令」で動くなど有り得ないことだ。
そんな事はとっくに予想できていた。予想できていたからこそ、信じたくはなかった。
デルエラを斃すということ……万が一、億が一にでもそれが達せられればどんなことが起こるか。間違いなく人魔のバランスは崩れ、混乱につけ込んだ神々が下界に攻め入り、この地上に神代の時代に繰り広げられた果てなき闘争が再び顕現するだろう。デルエラという存在は魔界と人間界を結ぶ架け橋役、それをこの世から抹消するという事はそれだけ重い事実を意味するのだ。
己の肉体を極限まで追い込んだのは相手を確実に殺すため。言葉を理解できない彼がそれでも教会の意図をくんで黙々と任務をこなしていたのは、いずれ自分達の所業がデルエラの耳に届いた時彼女が直接動くのを予見していたから。そして今、イーラはデルエラを討つためにここにいる。
だが、分からないことがある。
『誰の命令でもないなら……イーラは、何のためにっ?』
デルエラに戦いを挑み勝利したところでイーラには何の利もない。イーラは戦士ではない、勝利の栄光など何の役にも立たないと知っている人種だ。地上に混乱をもたらす革命家でも、その闘争を制し覇王になることも彼には眼中にない。だからこそ、この行動に何の意味を見出しているのか、それだけがどうしても分からない。
彼の野望が達せられれば、事は彼とデルエラだけの問題ではなくなる。
『デルエラ様を殺して、イーラに何の意味がある? そんな事をしても、魔界全体を怒らせるだけ! デルエラ様の姉君も妹君も、魔王陛下も! きっと、イーラをお許しには……』
魔界と人間界に散った数百のリリムがイーラを討つために動き出すだろう。当然そこには親魔物領の国々も加わり、イーラはたった一人で世界を敵に回すことになるのだ。
神はきっと、高みから座し見守っている気になっているだけの神々は、イーラに決して手を差し伸べることは無いだろう。彼に全ての魔物が敵となって押し寄せようが────、
『すべての……魔物……?』
その時、セレナの脳裏にある破滅的な閃きが芽生えた。
散らばった点と点、割れたガラスの欠片が繋がり、ひとつの巨大な絵図に仕上がるように。そしてそれらが頭の中で組み上がると同時に、セレナの全身からさっと血の気が引いていった。月の引力に引かれて潮が干上がるが如く、イーラが思い描いている心底恐ろしい計画に気付き戦慄に震える体を抑えられなかった。
『すべての、まもの、うぉ…………コろす』
その恐怖の心中を察したイーラが肯定の言葉を吐いた。
『サキュバスもぉ……ラミアもぉ……ハーピーもぉ…………リリムも、まおうも、ほかのゆぅしゃも……みんな、ころす! りくの、まものも……うみの、まものも……そらの、まものもォ……みんな、みんなァ! ────コロシ、テ、ヤルゥゥ』
本気だ、イーラは本気で世界の全てを敵に回している。いや違う、先に敵に回ったのは世界の方だ。静寂を奪い、平穏を取り上げ、眠ることすら許さない、そんな残酷で凄惨で優しさなど欠片もない世界を、どうして憎まずにいられようか。その上に望んだ覚えのない加護という名の呪いまで与えられてしまった。
もはやこの天地にイーラの味方は何一つとしてありはしない。だからイーラは強くなった、ならねばいけなかった。彼にとって他者とは己を苛むモノ、その肉の一片まで絶滅すべき怨敵、それ以上でも以下でも以外でもない。そんな奴らを地上から消し去るため、真の平穏を得るため、ただそれだけの為に今の力を身につけたのだ。人を殺し、魔を斃し、やがては神さえも下さんとする金剛石の如き意志が結実した姿が“これ”だ。
見よ、これこそが蠱毒より現れたるモノ。人魔神が支配する三界の外より生まれた最悪の化外也。
『こんなもの……もぅ、いらない……!!』
イーラは奴隷である。奴隷とは奪われ続ける者。理不尽に、不条理に、そして一方的に奪われ、決して与えられることはない。例え与えられたように見えてもそれは所詮まやかしに過ぎない。誰かの気紛れで与えられたものは、気紛れで起こした理不尽によって奪われる……それを身を以て知る故に、イーラは仮初の平穏を捨て去るのだ。
脱ぎ捨てられる兜、押さえられていた髪が解き放たれ、今再びその素顔が露わになった。
「────」
「イーラ……」
こうして見ると若い。恐らく二十歳にも満たない、少年と言ってもいいだろう。血の赤が滲むほど血涙を流した眼は真紅に染まり、何度も何度も掻き毟ったのか耳は傷だらけで歪んだ形をしていた。
「ァァァァ────!!!」
引き絞る呻きと共に両の目からドロリと血が溢れ出す。一緒に流れ出るのは理性か、それとも涙なのか……。
「もうイイんじゃないかしら?」
それまでずっと静観を決め込んでいたデルエラも遂に動き出した。
「しばし……しばし、お待ちを!」
「もう無理よ。『戦う為に生きる』貴女が、『生きる為に戦う』その子を止めることなんて出来ないわ。土俵が違う、覚悟が違う、信念が違う……その子にとって貴女はお呼びじゃないのよ」
そも、理屈でどうにか出来るのなら狂人とは呼べない。理の外側、言葉や感情では絶対に推し量れない埒外にいるからこそ、彼は狂人と呼ばれ続けたのだ。
これはもう、遊びでもケンカでもない、たった一人と全世界の「戦争」なのだ。
「この子はもう自分の命なんて欠片も惜しんでないわ。命を懸ける、なんて陳腐に言うのも烏滸がましい、そんなレベルの言わば馬鹿よ」
「…………」
「それでも止めたい、どうしても止めたいって言うのなら……せめて貴女も同じリングに上がるべきよねぇ。彼の全てを受け止めるだけの覚悟が貴女にあるのかしら?」
捨て身という言葉すら生ぬるい、十死無生の境地、そんな場所に立つという覚悟。一度そこに立てばもう二度と生きて帰れない。
だが不思議と恐れる心はセレナには無かった。
「…………イーラは、このセレナが止めます」
「そう。なら、頑張りなさい。ソルジャービートルの誇りに懸けて、その子を守ってみせなさい」
「はっ」
最後に微笑みを見せて戦場を離れるデルエラ、当然イーラはそれを追おうとしたが……。
「あなたの相手は、こっち」
「ゥゥゥ────!!!!」
相対するのはこれで三度目。一度は瞬殺され、二度目は相手にされず、そして三度目の正直。最初で最後、互いの骨肉を削り合う真剣勝負が始まろうとしていた。
だがセレナが立ち塞がるのはイーラを倒すためではない。この先に待ち構える修羅の道に彼を進ませない、このまま進めばその身に刻まれる傷と痛みを背負わせない為に立ち塞がるのだ。
鋼の脚が四股を踏む。対するイーラも彼女の闘志にあてられたか、腰を低く構え臨戦態勢を取った。
「いざ、尋常に…………勝負っっっ!!!」
魔人と重甲虫の激突が教国を揺らした。
「貴方は参加しないのかしら? ねぇ、イルムくん」
「我輩、ああいうノリは苦手なのである」
少し離れた教会の裏手でデルエラとイルム、魔界の王女と怠惰の魔術師という奇妙な組み合わせがあった。すぐそこから轟く爆音にも構わず、まるで茶飲み話でもするように語らっている。
「そういう貴様は良いのであるか。このままだとこの一帯はどうなることやら」
「周辺住民の避難は完了してるわ。うちには優秀な人材がいるから」
「勇者ウィルマリナとその仲間たちも今や飼い猫であるか。だが我輩の見立てが正しければ……あの二人、死ぬぞ?」
「死によって咲き誇る愛も、美しいと思わない?」
「我輩には理解できんよ。この世の全てを解き明かし、知り尽くし、己の知識とするその日まで我輩は生き続ける。それまでは死なぬのである」
「なら、寿命を伸ばすために彼女を妻にしたのかしら?」
「────何を言う」
「フフ、そんなに怖い顔をしちゃダメよ。いい機会よ。死をも厭わない愛の形……しっかり見ておきなさい。貴方達が狂人と蔑んだ彼がどこまで真剣で、必死で、そして純粋だったのかを」
元から体力も気力も尽き果てて動けないという反論もせず、イルムは魔界の王女と共に男女の行く末を見届けることにした。
七人の勇者最後の男、その生き様を。
「はぁぁぁああああああああっっ!!!」
突き出される槍の先端が唸りを上げる。空気を切り裂き、あらゆる障害を貫き通す鋼の大槍はセレナの腕の延長となりイーラを迎え撃つ。
それを逃げもせずイーラはただ己の拳を突き出す。槍の切っ先が僅かに触れたその瞬間、砕けたのはやはり槍の方だった。どれだけ鍛えていようとも人体は人体、その硬度が鋼に勝る道理などあってはならない。だが魔人の鉄拳はその不条理を成立してしまう。まるで、自分の意志は鋼より硬いと宣言しているようだ。
鋭さを失った槍を棍棒のように振るうが、振るわれる度にその表面に虫食い穴のように拳の痕が刻みつけられる。片腕五撃、両腕で十撃、それを一瞬の内に放つ拳は先に動いた相手よりずっと早く迎撃するという矛盾を矛盾ではなくしてしまう。
加えてその聴覚。地平線の向こうで落とした硬貨の数すら聞き分けてしまうその耳は、相手の骨、腱、筋肉、それら肉体が織り成す微細な音を瞬時に拾う。ただ聞き取るだけではない、それまで人生を戦いに捧げてきたイーラの野性は相手の行動を一手も二手も先読みする。例えそれが四つ足の異形であろうと関係ない、彼の耳に掛かればスライムの動きさえ手に取るように分かってしまう。
「……ぐっ!!」
「──ガッ!!」
得物を失ったセレナが身一つで突貫し、互いの体が激しくぶつかり合った。手と手をつかみ合わせ絡み合う指と指。何の小細工もトリックも入り込まない、混じりっ気なしの純粋な力勝負だ。東方に聞く神事のスポーツ、「スモー」に通ずる肉と肉の衝突はどちらかが倒れるまで終わらない事を暗示しているようだった。
意外にもこの時両者は拮抗状態にあった。並外れた怪力を誇るイーラだが、人間の彼に対しソルジャービートルのセレナは四本足でその上重量があり、大地を支える足の数だけ彼女に分があった。攻撃を放つ手もこうして封じてしまえば怖くはない。
このまま一気に勝負を決めようと両腕に力を込め、それに対抗しようとイーラも更に力む。
そしてそれこそがセレナの狙いだった。
闘技場では様々な技を持つ者に出会う。かつて苦戦した者に相手の力をそのまま利用し労せず倒す「アイキ」なる技を使う者がいた。
(ここ……!!)
五指を僅かに動かし捕えたのはイーラの親指。どれだけ鍛えようと、ここを捻られればへし折れないはずはない。親指が折れれば拳を握っても力は篭らない、彼の武器を一つ奪えるのだ。
(獲った……っ!!)
自らの活路を確信し、渾身の力を発揮してその指を……。
へし折れなかった。
「へ……?」
力を入れた刹那、視界の中で天地が逆転する。この景色には見覚えがある。まさしくあの時闘技場で自分に苦戦を強いた武芸者と同じ、こちらが指をへし折ろうとした動きを逆手に取られてすっ転ばされたのだ。
地に横倒れになった巨体を急いで起こそうとするが、その顔面に白い脚が強襲する。間一髪で腕を戻して防いだが、大の大人二人分の重量がボールよろしく吹っ飛ばされる。民家の壁にぶつかりようやく止まるが、防御に使った腕はもう上がらなかった。どうやら指を折ろうとしてこちらの腕を折られてしまったらしい。
イーラが異国の武術まで習得していることに驚きながらも迅速に体勢を立て直した。だが予期した猛攻は襲っては来なかった。
「────」
「イーラ……?」
彼は来ない。セレナを蹴り飛ばした地点から一歩も動かず、ドロドロと血を流す目だけギョロギョロと動かしていた。
諦めた? もう戦わない?
いや、彼は野性で動いている。今さっきセレナに指を折られかけた彼はもう二度とセレナに近づかない。自らが傷を負う可能性を徹底的に排除し、その上で確実に息の根を止めるつもりでいる。
「フゥゥゥ────」
握った拳を解き、両腕がだらりと垂れ下がる。脱力した上半身をゆらゆらと動かし腕は振り子のように地面すれすれを揺れ動く。
何か嫌な予感がする……セレナのその心配は的中することになる。
「────シィ──!!!!」
腕が、消えた。
本能で危機を察知したセレナが動き、さっきまで彼女が立っていた地面がばっくりと一文字に裂かれた。見えない刃で切り裂かれた地面、それがイーラの手から放たれたゼロ気圧の剣が起こした現象だと気付いたセレナは全力で走り出した。
「シィ! シィィ!! シィィァア!!!」
次々と繰り出される不可視にして神速の風の刃がセレナを切り刻みにかかる。真空の刃は予告も前触れもなく、硬度など関係ないと万物を切り刻む。人体など容易くスライスしてしまう攻撃、もしまともに受ければセレナの甲殻もタダでは済まないだろう。
だがやはりここでもセレナの重量がネックになる。強靭な外骨格も、遠距離から一方的に攻められる今の戦いでは足枷にしかならない。走り続ければ魔物でもいずれはスタミナが尽きる、その一瞬をつけ込まれれば……。
「オォォォソォオォイイイィイイイィイイィィ!!!」
足払い一閃、手から放たれたそれとは比較にならない真空のギロチンが遂にセレナを捕えた。地を舐めるような軌道は瓦礫や街路樹、雑草を切断しながら駆け抜け、セレナの後ろ足その先端を切断した。人間で言えば爪先を切り落されたようなもの、これで彼女は逃げるどころか満足に走ることも出来なくなった。
支えを失い前のめりに倒れる。得物も機動力も喪失し、もはやカカシ同然の的に成り下がってしまった。闘技場で戦っていた頃には決して見せることは無かった醜態を、今や宿命の相手に晒すという恥辱にセレナは震えていた。
デルエラにも言われていたことだ。セレナは戦いに生きるが、決して戦い続ける必要はない。多くの同胞がそうするように槍をおいて静かに暮らすことだって出来る。
だがイーラは逆だ、戦わなければ生きられない。狩猟をスポーツで行う者と生活のため行う者の差、どちらがより真剣かは論ずるまでもない。その結果が今こうして表れている。
勝者となったイーラが太陽を背にする。天上から遣わされた御使いの如く、逆光に隠れたその顔は容として知れない。もうイーラはセレナを煮るも焼くも好きに出来る、勝利とは生、敗北とは死、彼はそれを与える権利を獲得したのだ。
「ァァ、ゥゥゥ」
足元に落ちていた瓦礫を拾い上げ、それを握り込む。カマイタチを発生させる腕力でそれを投擲すればセレナの頭蓋は容易く抉られるだろう。
セレナに死への恐怖はない、彼と対峙した瞬間からそんなものは無い。
だが、それでも新たに疑問が湧いてきた。
「どうして……どうして、こっちに来ない……?」
指を折ろうとして失敗し距離を取られてから、イーラは決してセレナに近づこうとしなかった。それは自身の圧倒的優位が決まった今でも変わらない、彼はそこから一歩もセレナに接近を試みない。もはやセレナに戦意など無いと分かっているのに。
その疑問の答えが、すぐそこにあった。
彼は……笑っていた。
初めて見る笑顔、それは他者を蔑む下種な笑みではなく、緊張から一転し頬を緩ませたものだった。歳相応の微笑みを見て、セレナはようやく彼の本心を悟る。
「…………怖かったの?」
彼を突き動かしていたモノ、それは怒りではなく恐怖だった。
怖いモノと相対した時、人は逃げる。だが逃げも隠れも出来ないと知った時、人は戦うことを選ぶ。
イーラは狂人ではない、その本質は暗闇に怯える子供でしかなかったのだ。
「ああ……!」
セレナも逃げはしない。両手を大きく広げたその姿は、まるで愛しい人を抱き留めようとするようで、実際その通りだった。
彼を「守る」……この世のありとあらゆる脅威から、痛みに怯え暗闇に震えるその身を守り通すと決意した。
ならば、それをこの身命をもって証明しよう。
「来て……」
傷付き血を流す足で大地に立つ。
「来て!」
一歩も退かない意志を四つ足と両手に宿し。
「来なさい!!」
一世一代、命を懸けて誓いを立てる。
「受け止めてあげる」
イーラは困惑していた。生まれて初めて相対する存在に、彼は未知に対する戸惑いを覚えていた。
今まで己と対峙した者は人間も魔物も己に並々ならぬ敵意を向けてきた。その口から撒き散らされる騒音と重ね、ああやはりこいつらは自分をイジメるんだと、何度も何度も目の当たりにさせられた。
その度にうるさく鳴き喚く頭を叩き潰し、この世から一匹でも自分を苛むモノを消し去ろうと決意した。
人を殺すのはいけないことだ、己の都合だけで殺戮の限りを尽くすなど、鬼畜魔性のバケモノめ。
それがどうした! 先にやってきたのはそっちだ、それを叩き潰して何が悪い。
そうやって全てを潰してきた。
なのに……何だ、こいつは?
害意も、敵意も、殺意も、悪意もない。今までこんな奴には出会った事がない。
困惑、混乱、戸惑い……様々な感情が湧き上がり渦を巻き、イーラは何をしたらいいのか分からなくなる。
だがその逡巡も僅か一瞬、彼の野性は最終的に眼前の彼女を叩き潰すことに決めた。
しかし、ただ潰すだけではもはや足りない。
ここから先は、「全力」だ。
「アアアアアアアァァァァァァァァァッッッ!!!!」
常人を遥かに凌駕するイーラの力、そのイーラにとっての全力とは即ち彼もまた命を懸けることを意味する。そして、たった一人で全世界に戦いを挑む彼が命を懸けるということは、文字通りの意味を帯びる。
命を懸けるとは背水の陣、己を追い込むことで生を拾い勝ちを得るということ。だがイーラの中にそんな都合のいい考えは、相手だけ倒して自分だけ生き残ろうという甘い考えなど微塵も無い。生き残る余力すら炉にくべて、願い奉るはただ敵の完全なる絶滅、誓って真実ただそれだけだ。
「グルアアアアアアアアァァァァァァァッッッ!!!!!」
一瞬で五つを放つ拳、その全ての力を一発に込めて突き出す。先端は容易く音の壁を幾重にも突破し、雷のような爆音が轟く。
彼が殴りつけたのは空気、この地上に満ちる大気そのもの。王都の城門で兵士らを吹き飛ばした時と同じ暴風の拳だ。だがその威力は昨日のそれとはまるで比較にならなかった。
セレナが感じたのは、超高速で迫り来る物体に激突したような衝撃だ。暴風という表現も生易しい、これはまるで空気の壁、全身を打ち付ける衝撃は石壁に叩きつけられるような激しさを有していた。まるで巨大な容器に入れられ内部を圧縮されるように、破壊的な風圧はセレナの残り少ない装甲にも亀裂を刻んでいった。
猛攻は止まらない。更に二撃目が放たれる。
「ダァァアアアアァァァアアアアァアアアアアアッッッ!!!!」
三撃目。背後の物体全てが押し流される。
四撃目。セレナの四つ足が地面にめり込む。
そして遂に、立て続けに五つの空圧拳がセレナに襲いかかった。もはや指一本動かせず立っているだけで精一杯。いや、激しい風圧が倒れることを許さず、今の彼女は無理矢理立たされている状況だった。
この時、イーラの拳はひとつの奇跡を起こしていた。
連続した空圧拳は放たれる度に加速し、拳で押し出された気流の圧力もそれに応じて爆発的に高めた。セレナに襲い来る気流は激しい圧力に変化を示し、空気と水の両方の性質を併せ持った摩訶不思議な物質へと変貌を遂げた。水の溶解性と空気の拡散性を持つ、あらゆる物体を溶かし分解し消滅させる超臨界のモノが人間の手で生み出されたのだ。
それはセレナの全身に容赦なく浸透し、その肉や骨、血液のみならず、全身の甲殻を腐食し分解して砂に変え、体内の内臓器官をドロドロに溶かしていった。もはや生きている事こそが奇跡、セレナはその猛攻に耐えきり遂に空圧の拳は彼女の命を奪えない結果に終わった。
だが、戦いの行方はまだ決していなかった。
「────」
膝をつくセレナが見たのは、大地に跪くイーラの姿。両手と膝を地に降ろし、腰を浮かせ顔はまっすぐ前を見据え四つん這い、およそ見たことも聞いたこともない姿勢だった。
だがこれこそが彼が放つ致死の一打、そして最後の一撃になる。
必殺の一撃とは何か? それは「死」である。あらゆる存在は定命のもの、それは無限に等しい命を持つ魔王も変わらない。死は全ての存在に命が与える最後の一撃、寿命とは己の命が己を殺すということ。
イーラの技もそれだ。「必殺によって死を与える」のではなく、「死によって必殺をもたらす」のだ。
ゆえに、この技に名は無い。名も無き奴隷が生み出した、絶死の一撃が今……放たれる。
「ッッッ!!!!!」
疾走を開始した体はもう止まらない。一歩を踏み出すごとに速度は倍々になり、瞬く間にその足は風を跨ぎ音を追い越す。それでもまだ加速を続ける。
肉体全てが音の壁を越えた時、二度目の奇跡がイーラに舞い降りた。
加速を止めない両足が赤くなる。血ではない、肌を覆う燐光は空気や地面との摩擦が生み出した熱、そしてイーラの全身を流れる血潮が生み出した熱だ。彼の撃滅の意志に呼応したのか、今や全身の熱がその両足に蓄積されつつあった。
踏み出した足は更に熱を帯びて赤くなる。大地を穿つ足跡から炎が吹き上がり、踏んだ若草は枯葉のごとく燃えて灰になるまでになった。だがまだ加速は続く。
足は雷電を発生させ、灼熱の足は燃え盛る赤から輝く黄金、そしてそれらを突破し白銀の光をもたらした。しかしその光は恵みの太陽ではなく死の絶滅光、イーラの命の輝きだ。
その輝きが最高潮に達した瞬間、足が地を離れイーラの体が天に舞い上がり、踏破した勢いそのままに両足がセレナ目掛けて飛翔する。
そして、両者がひとつに重なった瞬間──、
全てが終わった。
「うわ〜……なにこれ?」
激戦が終わって事の顛末を見届けにきたデルエラが見たのは、轟々と激しく燃え盛る教国の街だった。
ちょっとボヤがという程度ではない、全焼である、大火災である、火の海であった。いつか王都で起きた火災、それ以上の勢いである。
「えぇ……ちょ、ええ!? ちょっと、待って……えぇ〜?」
魔界の王女も流石にここまでの惨事になるとは予想しておらず、ただただ困惑の言葉しかない。少し目を離した隙に何があったのか、あの二人はどうなったのか、色々確かめたい事が多すぎる。
「やれやれ、好き放題やってくれたのである」
イルムがすぐさま水と風の混成魔術で周囲の炎を鎮火に当たった。
「いい腕ね。うちに戻ってこないかしら、イルムくん」
「貴様はさっさとそこの二人をどうにかするのである」
そう言って顎でしゃくった先には……。
「あぁ、こんなになるまで激しくヤっちゃったのねぇ」
黒い消し炭が二つ……。辛うじてヒトの形はしているが、もうどっちが前で後ろかも分からないほど、顔は潰れ髪も燃え、互いの下半身は消し飛び胸から上だけが残されていた。
(私なら自力の復活に百年ってところかしら。ママでも腕を持って行かれたかも……。本当に末恐ろしい子ね)
人間の覚悟と信念が狂気の域に達すればどうなるか、それをイーラは教えてくれた。
だがそれよりも……。
「勝てたのね」
ヒト型の消し炭の一体は相手を抱き締めるように眠っていた。
「さて、墓でも作るとするか」
「あら、何を言ってるの。この子達、まだ生きてるわよ」
「はあ?」
「さあさ、この子達を起こす準備をするわ! 貴方も手伝って、ね?」
蠱惑的に微笑む物言いの裏に有無を言わせぬものを感じ、イルムは黙って従う事にした。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
「────」
全身を包み込まれる温かさの中で、イーラは目を覚ました。一糸まとわぬ生まれたままの姿で、周囲がドロドロのゼリーに似た粘液で満たされている事に気付き、呼吸するまでもなく息が出来ることを不思議に思った。
薄緑の優しい色に満たされた世界で、イーラは流れに身を委ねて静かに微睡んでいた。ああ、ここが肉体を離れた魂が行き着くあの世なのかと安らいでいた。とても静かで穏やかで、例えここが死後の地獄でも自分にとっては楽園だと思えたのだ。
静かな生を渇望していただけに死の果ての静寂に悔しさを覚えずにはいられない。だがそれも今の穏やかさと比べれば何のことはない、今はただこの静けさに身を任せ────、
「気付いた?」
不意に逆さの顔が覗き込む。薄紫の髪にガラス玉の瞳、それが誰なのか分かった瞬間、イーラの安らぎが木っ端微塵に粉砕された。
「ヒィ、ァァ、ウァァァアアアアア!!」
悲しくなるぐらい情けない悲鳴を上げてイーラは頭を抱え込んだ。混乱と恐怖が刹那でピークに達し、自分と同じ空間に現れた彼女のから離れようともがいた。
頭を掻き毟り奇声を上げ、膝を抱え身を限界まで小さく竦めて危機をやり過ごそうとする。その様子はまるで小動物、もはや今の彼に敵を葬り去るだけの気力も精神も残ってはいなかった。己の命を燃料に死を現出した彼は、文字通り精も根も尽き果てたのだ。
なんでこいつがここにいる。
どうしてここまでやってきた。
もうほうっておいてくれ。
死の果てまで追ってきて自分を苛むのかと彼女、指の間からセレナに恨めしい視線をぶつける。だがそれが精一杯の抵抗だった。膝を抱え頭を蹲らせ、小さく縮こまって脅威が過ぎ去るのを待つだけだった。
「イーラ……」
ブルブルと身を震わせ怯え続けるイーラ。たった一人で戦い続け魔人と呼ばれた勇者の、遂にその心が折れてしまった瞬間だった。
彼はまだ子供なのだ。その暴虐ばかりに目が向いてしまうが、本当は誰よりも愚直で純粋で、そして臆病で繊細な少年でしかなかった。誰が悪いわけでもなく、重なり合った偶然がただの名も無き少年を怒りと恐怖に染め魔人に変えてしまっただけなのだ。
恐怖、不安、孤独……闇の中でずっと彷徨い続け、イーラが求めたモノは……。
「もう、大丈夫……」
ただ……たったひとつ、小さな願い。
「守ってあげる」
安らぎ、それだけ。
今ここにそれはあった。蹲る小さな体をそっと抱き寄せる暖かい手……もうほとんど覚えていない昔に母がそうしたように、セレナはイーラを優しく抱いた。
冷たく見える甲殻は互いの体温で少しずつ温まり、その温度に身を預けるようにイーラの震えも徐々に収まっていった。自分の全てを無条件に受け止めてくれる相手に、イーラは生まれて初めて安心を覚えることが出来た。
「せ、れ……な」
微睡みの靄の中でイーラはおずおずとセレナを抱き返した。そしてそのまま意識を手放し、二人は抱き合ったまま眠りについた。
しばらくそうして眠る二人。二時間おきに起きて互いに見つめ合い、そしてまた眠る、そんな言葉の無いやり取りを飽きることなく続けた。それだけで二人の間には通じるものがあった
それを幾度か繰り返した時、二人に変化が現れた。
肌が紅潮し熱くなり、疲れてもいないのに息は荒くなり、眠りから覚めたのに目が据わったままになる。それは心が通じ合った男女が自然と辿るプロセスなのか、治癒液に当然の如く混入された大量の媚薬の影響か、もしくはその両方か。
いずれにせよ、「その気」になった男女がヤることなど知れている。好都合にも二人とも身を包む物もなく、ここは二人だけの空間、水を差される野暮な心配もいらない。思う存分心ゆくまで逢瀬を楽しめる揺り籠だ。
セレナとしては身も心もとっくに準備は出来ていた。だがいつまで待ってもイーラが食指を動かす気配がない。別に焦らされているのでもセレナに興味が無いわけでもなく、彼のオスのシンボルは痛いぐらいに怒張していた。こうしている間にも肌を通して媚薬が五体に浸透しているのに、イーラは全く動かなかった。
そのことにある仮説を立てる。
(この子……もしかして、『知らない』?)
「?」
他者の撃滅を目的に生きてきたイーラの中に誰かと交わるという発想はない。その方面に関しての知識は幼子以下、下手すれば赤子と同程度の本能しかない。おしべとめしべ、キャベツ畑、コウノトリ……それ以前の問題だ。
まさか自分が手とり足取り教えなければならないとは。だが迷ったのは一瞬、本能に身を任せて臨むことにした。
「大丈夫。全部、まかせて」
そう言って唇を触れ合わせる。イーラが体験した初めてのキスは魔物娘特有の暴力的なものではなく、優しく触れ合う程度のものだった。
離れた口はずいずいと下半身へと移り、鬱血したような色を湛えた亀頭に到達する。僅かに痙攣する先端から発せられる濃厚なオスの匂いは、まだ誰も手を付けてない青い果実を思わせセレナの脳髄を甘く刺激した。そして小さく舌先を出すと、その先端に触れ静かに舐め始める。
「っ! っ!? !!??」
これに予想以上の反応を返したのはイーラだ。排泄器官を舐められるという行為、そしてそれによりもたらされる感覚、どれも彼には未知、何故そんな事をするのか理屈も意図も分からない。快楽という感覚に対しイーラはどこまでも無防備だった。
「ァ……ヤ、め……!」
「怖がらないで……」
逃げ腰になるイーラを引き止め、セレナは奉仕を続けた。まだ女を知らない青いカラダを自分が仕込んでいるという事実、それを意識して彼女の行為は更にヒートアップする。
チロチロと先端を舐めるだけだった舌がやがて亀頭、カサ、裏スジまで這い回り、少しずつだが確実に快楽を蓄積させていった。それを証明する粘液が鈴口から染み出すと、それを指ですくいペニスに隙間なく塗りたくりそれを舌で舐め取る、それを繰り返す。
男の体液を至高の甘露に感じるソルジャービートルならではの奉仕に、イーラの頭は快楽により桃色の霧に覆われたように呆然とそれを見つめていた。湧き上がる快楽という未知に恐怖が和らぎ、遅れてやって来たオスの本能がカラダの奥で鎌首をもたげ始める。女に奉仕させていると言う光景が彼の中に得も言われぬ充足感を与えていた。
(そろそろ……)
蕩けた目を見てセレナは潮時と判断し、舌だけ出していた控えめな口を大きく開け……。
一気にくわえ込んだ。
「────〜〜〜ッ!!?」
瞬間、イーラの全身が硬直し呼吸が止まる。だがくわえ込んだ一ヶ所は脳が送り出す停止のサインなど全く無視し、イーラの体内に蓄えられていた青い衝動をいとも簡単に決壊させた。
初めて経験する感覚に体が無意識に支えを欲し、己の分身をくわえ込むセレナの頭を強く押さえ、それが彼女の更に奥へと命の液を流し込んだ。
先走りとは比較にならないほど濃く甘く、どこか苦味にも似た青臭さが絡みつきながら胃の腑に流れ落ちる。その感覚をひとしきり堪能し、ゆっくりと口内から引き抜く。その際にも吸い込みをかけながら内部に残るものも一滴残らず飲み込み、最後まで至高の甘露を味わい尽くした。
「ハァ……ハァ……どう?」
「ーッ! ッ、ーッ!! 〜〜〜ッ!!!」
息も絶え絶えとはまさにこの事、必死に口を動かしてはいるが言葉は出ず、陸に揚げられてしまった魚みたいになっていた。
流石に怖がらせてしまったかと思ったが、胃袋を満たすほど射精したのにイーラのそれは硬さを増し、彼の中のオスを目覚めさせる事に成功したと教えてくれた。
「イーラ……ここ」
そっと彼の手を取り指先を濡れそぼった秘所に導く。イーラ以上に熱くなったそれは、噴火寸前の火口のよう。撫でさせただけで奥から粘液が溢れ指を通じて流れ出る。
「あとは……分かる?」
優しく教えてから手を離す。そこからの行動は早かった。
「ガッ──」
「あ……あァっ!! お、ぉ……きい……ッ!!」
青い衝動とオスの本能に身を任せ、イーラがセレナを貫いた。初めてだとか、相手を気遣うだとか、そんな感傷的な躊躇は一切なく、突き刺した勢いそのままにピストンを始めた。
「ん、ふああぁっ! あん、ああんっ! っ、ぐぅぅ! あああーっ!!!」
根元まで挿ったそれを入口ギリギリまで引き、それを押し込む。またギリギリまで引っ張り、また押し出す。テクニックも駆け引きもありはしない、暴力的で破壊的な抽送はただ快楽を得る以上の目的を持たない。己の欲望を目覚めさせた相手を喰らうことしか頭にない。
そう、喰らい尽くすのだ。
「ぎっ、がぁっ……!? ひぐ、ああァッッ!!!」
嬌声がいつの間にか悲鳴に変わる。それもそのはず、セレナを力の限り抱く腕は加減を知らず、彼女をサバ折りにせんばかりに圧力が増していた。そのダメージは交合で得た精力による回復より多く、万力の圧力で甲殻がミシミシとひび割れていった。
だがセレナは絶対逃げない。自分を力一杯抱き締め、必死に腰を動かす姿を見ればそんな発想は彼方に消えていた。
何よりこちらを見つめる目……赤い瞳はセレナだけを欲し、セレナだけを求めている。こんなに自分の事を見てくれている男に、今はただ愛しさしか感じない。
「もっと……! もっと、してぇっ!!」
あなたを受け止められるのは自分だけ。何も心配しなくていい、どこにも行かない。
六本あるソルジャービートルの脚、普段は使わない前脚を開くとイーラの腰をがっちりと掴んだ。これでもう離さない。
「きもちいい? ねぇイーラ、きもちいい? イイっ……もっと、もっとぉ!!」
「フゥ──フゥ──ッ! ァァァァ!!」
二人は更に加速する。
「あ! はぁん! あぁっ! あ゛あッ!!! んはあああっ!!」
寡黙な戦士も怒りの魔人も、今やただのオスとメス。共に頂きに向かって転がり堕ちる。
「あーッ! あ゛ーッ!! ダ、めぇ……ダメ、ダメダメぇぇ!! も、もう……ッ!!」
限界を前にセレナからも抱き締めが強くなる。痙攣を始める腰の動きはイーラの方にも誘発を招き、二人して一緒に絶頂の彼方に飛ぼうとする。
「あ……! ああ、あっあ……い……イ、く! いく……イく、イッちゃ、ぁぁぁああああああーっ!!」
膣が収縮し子宮が膨らむ、押し寄せる大波の予感に二人同時に一番強く抱き合い……。
「っ、ああ゛っ、ああぁあ゛ぁあああァァァァーーーッ!!!」
熱いものが胎内を満たし、じわりと下腹部が温かくなる。その感覚にこれまでにない充足感を覚えながら、自分の背中からベキっと嫌な音がしたことも忘れ恍惚とした顔でイーラを見つめていた。
彼もまた自分と同じように陶酔と疲労で似たような表情になっており、初めは怖がっていた未知の感覚にも今はすっかり虜になっているようだった。
セレナがその頬にキスをする。それを真似てイーラは彼女の目元、流れ出た快楽の涙を掬うように口付けした。その目にはまだ少し戸惑いの色はあるが、恐怖に怯え怒りに燃えていたあの時の目はもう無い。
きっとこの目が血を流すことは無い、自分が流させない……そう決意を新たにして、セレナは眠りについた。イーラも同時に眠りにつき、二人は抱き合ったまま、繋がり合ったまま床を同じくした。
治癒液の容器から出るまでの間、二人が眠りと交わりを繰り返していたことは言うまでもない。
その度にセレナに新しい傷が増え、一ヶ月で出られるはずが半年掛かってしまったのは別の話である。
かくして、怒りの魔人の正体とは恐怖に怯える童だった。勇敢な女戦士の手によって救われた童は、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし!
は? イーラがどこへ行ったって? どうせ他の連中みたいに知ってるんだろって?
いんや、七人目に限って言えば行方はとんと知れずさ。語り手の威信とプライドを懸けて八方手を尽くしたんだが、結局噂以上の話は聞けずじまいだったよ。
やれ、北の大地で凍土を削ってるとか、南の島で果物食いながら静かに暮らしてるとか、西の新大陸に渡ったとか、極東のジパングあたりに旅に出たとか。王魔界で姿を見ただの、不思議の国で見かけただの、海を走っている姿がどうだの……大半は眉唾ものだったよ。
ひょっとしたら静かに暮らせる場所を探し求めてるんだろうな。
あぁ、そうそう! イーラの行方を調べていて、決まって耳にする事が二つあった。ひとつはイーラのバカみたいな強さを恐れたもの。山を平地にしたとか、海を割ったとか、隕石を砕いたとか、もう絶対ウソだろそれみたいな奴。
そしてもう一つは……。
奴のそばにはいつもソルジャービートルが付き従っていたって話だぜ。
「う〜ん、そろそろ潮時かしらね」
厚いカーテンで閉ざされた寝室の中で蠢く影。僅かな光の中で見えるのは艶やかな女の肌、だがそれは常人のそれとは大きく異なり灰色に似た色をしていた。長い髪をかき分ける仕草一つに妖艶な魅力が醸し出され、ベッドから出た彼女はその身に何一つ纏うことなく窓際まで行くとカーテンを開け放った。
その瞬間、明らかになる女の全貌。流れる髪に汚れ一つ無い肌、程よく締まった肢体に豊かに実った乳房……そこには世界中の男を虜にしてもまだ足りない、美という概念の集大成があった。淫靡でありながら汚れという存在から全くの無縁であるその魅惑のカラダ、これを前にすれば六十を通り越した老人でさえも興奮でいきり立ち、女性もまたその肢体から淫蕩な様子を想像し股を濡らさずにはいられないだろう。地上の全てのオスを支配する大いなるバビロン、それがこの閨の主だった。
例えその背から人間にあるまじき漆黒の翼が生えていようとも、全身の肌の至るところに妖しい紋様が浮かび上がっていようとも、それが彼女の美しさを損なうようなことは決して有り得ない。
「教会派の連中、少しおイタが過ぎたわね」
彼女の名は「デルエラ」。現在主神と世界の覇権を巡って争う魔王と、かつてその魔王を討伐に現れた勇者との間に生まれた娘。魔王の娘はリリムと呼ばれ、普通のサキュバスとは一線も二線も画す強力な存在だ。デルエラはその四女、何十人ひょっとすれば何百人もいるリリムの中でもトップクラスの力の持ち主であり、五十年前にこのレスカティエをたった一日で陥落させたのも彼女の手腕によるものだ。魔界重鎮の中でも一番の過激派として知られ、今まで数多くの国を魔界に堕としてきたことから人間界でもかなりの知名度を誇る大淫魔だ。
今はレスカティエ陥落という大仕事を終えてしばらくの休息を取っている。人間で言えば「長期休暇」のようなものだが、それを年単位で過ごすあたり彼女らのライフスタイルのスパンの長さをうかがい知れる。
と言っても、全く仕事をしていない訳ではない。国王の地位には娘分のフランツィスカを据えているが、政治の実権はその大半をデルエラが牛耳っている。政策や国庫の運営、周辺国との外交や防衛に国境問題など、大まかではあるがそれらの方針を決めて指示しなければならない。これはこれで中々に面倒な仕事だ、表立って動けない分やはりどうしても現場の様子をすぐに知ることは難しい。かと言って自分が王位に取って代わることはナンセンスだ。連綿と続いてきた血筋を奪うには大義名分がない。そんな事をすれば民の反感を買うだけ、独裁者とはいかに民の支持を得られるかで寿命が決まる、決して抑圧だけが仕事ではないのだ。
だからこうしてストレス発散を兼ねて三日三晩も交わることもある。ちなみに、デルエラの夫がどんな人物なのかは謎に包まれている。かつて彼女を討伐に来た元勇者とも、教国侵攻の際に手篭めにした司祭とも、一介の民草から魔王軍の将軍に成り上がった男とも言われているが、いずれもはっきりとしない。
「誰かいるかしら」
「お呼びですか、デルエラ様」
寝室に音もなく現れる女騎士。五十年前にデルエラ自ら堕とした当時最も期待されていた勇者。かつて神に対し向けられていた絶対の信仰心は、今やこの第四皇女にのみ捧げられる忠誠心となっている。今ではもう右腕と言っても差し支えない存在だ。
「私が留守の間はお願いね」
「教会派への見せしめなら、私どもにお任せいただければ。わざわざデルエラ様が出て行かれるほどの事では……」
「見せしめなんて、人聞きが悪いわ。これは……お・し・お・き。最近少ぉし調子に乗ってる神父様たちに、どちらがこの国を動かしてるのかもう一回教えてあげるのよ。そして鞭の後には飴を、極上の快楽を与えてあげるのよ。そうすれば、ほら……彼らにも世界の素晴らしさが理解できると思わない?」
「相変わらずお上手ですね」
「それに最近、ここに篭りきりだったからぁ。たまにはお外で運動しなくちゃダメよね」
「お戯れを」
「あらぁ、本気よ? とにかくそういうことだから、あとよろしくぅ〜。あ、留守の間この部屋好きに使ってくれてもいいわよ。久々に彼としっぽり楽しんじゃってね」
「本当ですか!? さ、さっそく、彼を連れて来ますね!!」
清廉潔白、品行方正も今は昔、ウィルマリナにとって今の生活は愛しい伴侶との交わりに重きを置かれていた。彼女があられもない嬌声を上げて腰を振る様を見ながら、デルエラは自分達の野望が一歩一歩現実味を帯びていることを実感するのだ。
男女の交わりを是とする思想が広まりそれが常識となれば、世界はきっと薔薇色の輝きに満ちると強く信じ、その実現のために邁進してきた。彼女は決してヒトを支配したいのではなく、種そのものを伴侶に見立て共に歩むことを望んでいた。あらゆる存在が至上の快楽を甘受し続けられる魅惑と陶酔に満ちた酒池肉林の桃源郷、それこそが魔王とその娘たちの悲願である。
「さてと、何を着ていこうかしら」
教会に乗り込むのは実に半世紀ぶり、今までずっとこの国にいながら適当に泳がせていたが、同じ親魔物領にちょっかいを出していたとなっては見逃してやる道理はない。これが通常の独裁国であれば反体制派としてまとめて刑場送りにだが、幸いにもここは魔界国家、命を取らずに思想を変える手段や方法などいくらでもある。今日も何組かの夫婦が誕生しそうだと上機嫌になりながらクローゼットの中からお気に入りの服を見繕う。
春の陽気を一糸まとわぬ全身に浴びながら、デルエラは実に楽しげに鼻唄まで歌い始めた。
────ピシッ
「あらぁ?」
自分以外誰もおらず、締め切って風も吹かない部屋の中で小さな音がしたのをデルエラの耳は捉えた。音の出処を探ると、部屋の隅に飾られた花瓶に亀裂が入っていた。表面を走った程度のものだが、まだ取り替えたばかりの新品のはず……それほど寒暖の差があるわけでもないのに、急にひび割れたのだ。
しかも、異変はそれだけに留まらない。花瓶に差してあった花、開花したばかりで満開を誇っていた鮮やかな花がポッキリと首から切れていた。こんな枯れ方をするとは聞いていない、どうにも不吉な予感がしてならない。
「あまりこういうのは信じないのだけれど……」
丸ごと落下した花を手に乗せて、ふと窓の外を見つめる。空が少し曇ってきていた。
「奴が国境を越えるとなれば、進んだ方角から見て恐らくはこのルートだろう」
ばさりと地図を広げてミゲルが指し示すのは、王都を離れた場所を東西に流れる川。流れに逆らうように行った先にはレスカティエの国境がある。ここを通れば多少時間はかかるが迷わず確実に教国の土を踏める。しかも国境付近からは急に川の落差が激しくなり、警備兵も数名しか配置されていない。イーラにとって虫を蹴散らすより簡単に突破されるだろう。
「本当に追うのかい? 放っておきなよ、どうせ彼は自滅する。国境を越えてもその先で野垂れ死ぬだけさ」
「どうかね。殺しても死ななそうな奴だ、そんな簡単にくたばってくれるかよ」
「かと言って、セレナの聞いたことが真実なら事態はかなり面倒なのである」
「…………イーラより先に、教国に入る」
「ルートは一つ、街道に出て正規の道を行く。これが国境越えの最短ルートになる」
「時間がない、今すぐに行く」
自らの甲殻を加工して作った馬上槍を携えて、セレナは後を追おうとした。
だがそれを止められる。
「強い者と死合うのがそんなに好きか、この戦闘狂が。死ぬのならてめえ一人だけにしろ」
「それとも、たった数分かそこら言葉を交わしただけで情が移ったのかい? 流石は魔物、人間にはその辺り理解できないよ。君だってあれにはだいぶ痛い目にあったはずだよね」
「……何が言いたいの?」
「俺っち達を巻き込むなって言ってんだよ。もう勘弁してくれよ、何が悲しくてあんなのとこれ以上関わらなきゃならねえだよ」
「じゃ、俺帰るから。もうこの先会うこともないだろうけど、またな」
「僕も大使館をたたむ準備をしてきますので、これで失礼しますね」
「あなたたち……っ」
我関せずと、そそくさと勝手に解散を決め込む勇者たち。あくまで彼らは教会の指示に「従ってやっていた」のであり、その教会がドジった今となっては律儀にその後始末までするつもりはないのが本音のようだ。あわよくば教会とイーラが共倒れに終わってくれればそれでいいとさえ思っている。
そんな彼らにセレナは心底呆れ、そして強い怒りを覚えた。元はといえばお前たちが撒いた種だろうと、筆頭であるミゲルに詰め寄る。
「あの子を……見殺しにするの?」
「勘違いしないで欲しい。我々は別に運命共同体ではない。特にあれとは元々敵同士と言っても差し支えない関係だった。そんな彼がどうなろうと知ったことではないとは思わないか」
「あの子がどれだけ必死か……あなたは、知らない!」
「必死だよ、我々も。ある者は富のため、ある者は信仰のため、ある者は真実のため、ある者は愛のため、そしてある者は我が身のため……皆何かに必死で、真剣に向き合っている。別にあれだけが特別ではない、どこにでも転がっていることだよ」
「それは……」
「現状理由や経緯はどうあれ、イーラを特別に思っているのは君だけだ。彼のために行動を起こすのは君だけが持つ権利であり義務、私はどうするつもりもない」
こんな連中に頼ろうとした自分が馬鹿だったとセレナは踵を返して街の外に向かおうとする。ここから教国へ国境まででもそれなりの距離がある。自分の巨体では馬に乗れず、かと言って徒歩で行くには遠すぎる。いくらこちらの方が距離が短くても教国に入るころには何もかもが終わってしまっているだろう。だが、だからと言って走らない理由にはならない。
彼に何の理由があって魔界の皇女に立ち向かうのかは定かではない。ただ一つ確かなのは、これを放置すれば彼は必ず死ぬだろうということだ。魔物がそれを許してもデルエラを新たな崇拝対象とする人間たちからどのような仕打ちを受けるか分かったものではない。そうなる前に何としても衝突を止めなくてはならない。
「……邪魔はしないで……」
「どうぞご自由に。ああ、ついでだから、うちのイルムを連れて行くといい。彼ならいい『抜け道』を知っている」
「良いのであるか?」
「構わない。彼女の案内は任せたぞ」
「だそうである。では、行くとしよう」
そう言いながらイルムの足は門ではなく別の方向に歩き始めた。その事を指摘する暇も与えず、彼の足はずんずん目的の場所に向かう。
それについて一緒に辿り着いたのは、王都にもいくつか存在する教会だった。規模自体はそれほど大きくないが、裏手に回ると亡くなった信徒のための墓地があった。墓石の数はそれほど多くはなく、管理も滞っているのかかなり寂れていた。
こんな所に連れて来てどうするのかと疑問に思うセレナをよそに、イルムはなんと墓石を倒し始めた。
「貴様も手伝うのである。案ずるな、ここの墓石は全て偽物である」
バタバタと倒した墓石を今度は綺麗に並べていく。するとそれらは元々ひとつの石を切り出して造られたのか、細部の傷や模様まで一致していた。
「さてと……では始めるのである。貴様、敷いた石の上に乗れ。我輩は貴様の背中を借りるぞ。む、ちと硬いな」
「勝手に乗らないで……」
抗議の声も受け付けずイルムが術を起動させる。並べた石の表面に妖しい光の紋様が浮かび上がり、巨大な魔法陣が出現した。イルムが王都に隠した術式のひとつだが、その中でもこれは特別な意味を持っていた。
「これはこの王都から教国の国境まで点在する教会を結ぶ転移陣である。これを使い転移を繰り返せば、多少手間だが確実にイーラより先に教国に入られる」
「こんなものがあれば、これで脱出すればよかったのに」
「これは元々我輩だけが逃げるために用意してあったもの。それに、教国に着く頃には我輩の体力は王都の外周を丸一日駆けずり回った後のように……」
「早くして」
「容赦ないであるな」
流し込まれたイルムの魔力をキーにして術式が発動し、一瞬の後に彼とセレナは王都から数里離れた教会へ転移した。
転移すべき教会は残り十七、先はまだ長い。
レスカティエ国内で対立する女王派と教会派は魔物に対する扱いでのみ対立しているのであり、下々の民草に対する部分では何ら抑圧的なところは無い。清貧とは口ばかりの圧政を強いてきた前王カストールの反省から、それまで近すぎた王家と主神教会の距離を適正に保ち、民衆の暮らしを第一に考える政治を心がけている。傀儡とは言え政治を司る女王派はもちろん、正しき信仰には豊かな暮らしが肝要と説く教会派もその一点では互いに同意している。
だが一度議論の的が魔物に向けられると、この二勢力は瞬く間に火がつく。正確には魔物を淫らで邪悪なものとする教会派が勝手に熱くなっているのだが、そこはかつて人間界を最も長く広く支配した宗教勢力、発言力と影響力、そして行動力にかけては淫楽に耽る魔物とは比べ物にならない。
加えて彼らが勢い付く理由として、毎年のように現れる勇者の存在がある。拮抗しているとは言え未だ世界の支配者としての地位を有するのは主神だ。そのせいで彼らは自らを神に認められし代行者として後押しされていると思い込み、後ろ盾にすることであらゆる行動を正当化してしまう。げに宗教の厄介な部分を凝縮したような者達である。
だがこの淫魔の王女は知っている……そんな堅物ほど、一皮剥いてあげれば堕ちるのは早いと。
「フフフ、みんな幸せそうで嬉しいわ」
閨を出てから「堕とした」数は四つ、既に二十数名ものインキュバスを新しい伴侶と添い遂げさせることに成功した。
デルエラは知っている。正しい信仰、神への冒涜、そんなことは許されない、去れ悪魔……そういう事を言っている連中ほど、快楽を恐れているのだ。清貧と禁欲を美徳として今までの人生を捧げてきた彼らを見ていると、悲しいほど哀れに思えて仕方がない。この世に遍く存在する快と悦の何たるかも知らないまま過ごしてきたなどと、それが不幸でなくて何だと言うのだ。
デルエラはそれを教える伝道師だ。神の教えという抑圧された思想から肉欲という本来人間が持っている本能を引き出し、あらゆる苦しみから解放された不老長寿の天上楽土を創造するのだ。創世の神話に語られる楽園、かつて神が創り上げたそれを今度は魔物が創造することでこの世全てを楽園に変える。国家、人種、宗教……そんなつまらない理由による争いは全て過去のものになり、1000年続いた旧弊が打破される事で迷える子羊は抑圧から解き放たれるだろう。
「魔界が楽園と呼ばれる日も近いわね」
母たる魔王と、父たる勇者、その間に生まれた因果な宿命を背負い、魔界の王女は今日も征く。
「それにしても、そこそこ数を連れていたのだけれど、みんないなくなっちゃったわね」
閨を出る際に幾人か独身の魔物を連れて出たのだが、予想より神父の数が多かった上に何組か一夫多妻が出来上がってしまい、あっという間に数を減らした。幸せな夫婦が一度に何組も出来たのは喜ばしいのだが、主だった教会派の根城はあと一つ、シスターが過半数いなければ可哀想なインキュバスにはしばらくお預けをしてもらう羽目になる。
「部隊に何人か独身いたかしら。リストアップしておかないとダメね」
影とは言え仮にも国家の支配者が共も連れずに出歩くなど普通は考えられないことだが、そもそもからして教会の神父が使う術程度でデルエラを害することは出来ない。積極的に人間界に干渉する淫魔の中でも最強格の一人である彼女に対抗できる人間など、もはやこの時代では皆無だろう。
幸せな夫婦計画に思いを馳せている内に彼女の足は最後の教会にやって来た。こちらが動いていることは知っているはずなのに、相変わらず出迎えのひとつも無い。内部に篭城して徹底抗戦の構えというのもそろそろ食傷気味に感じてくる。
「それに付き合うのも一興と思わないといけないかしら」
内心では彼らの反抗を楽しんでいたことを認めつつ、古めかしい扉に手をかける。淫魔避けの術が張ってあったが薄紙を破るようにそれを取り去った。取り敢えずこれまでと同じようにシスターなど女性たちを魔物へと変え、彼女らの手で男をインキュバスへと変えるのだ。
デルエラの細い指が取っ手を握り、木造りの扉がギチギチと鳴りながら彼女を迎え入れ──、
その顔面に拳が突き刺さった。
鼻が折れ、歯の全てが口内へ押され、歪んだ眼窩が眼球を潰す……生まれて初めて感じる、肉を抉り骨を砕かれる感触を顔一杯に受けながら、デルエラの体は向かいの建物を三軒突き破り大地に伏した。突き抜ける衝撃は顔面のみならず、魔物にも等しく備わる脳髄もまとめて粉砕し、人間とは違う薄紫の粘液が辺りに散乱する。
彼女の力を知る者が見ればきっと誰もが開いた口が塞がらなかったに違いない。落日事件では膝を着くどころか怯む様子さえ見せなかった絶対の王者、それが何の冗談か今や崩れ瓦礫の山となった家屋に頭から突っ込んでいた。
「フゥゥゥゥゥ────」
木造りの古い扉から突き出す拳。籠手のような防具はおろか手袋一つつけていない裸の拳が、丸太を削り出して造られた扉を貫き最強の淫魔の顔面を砕いた。固く握り締められた五指は熱い蒸気を放ち、その威力を言葉以上に物語っている。
拳が引っ込むと同時に、支えを失った扉が自壊する。もうもうと立ち込めるホコリ煙の中から現れるのは、太陽を受けて煌く銀の兜、それ以外は麻を編んで作った簡素な服以外何も身につけず履物すら履いていない素足、極限まで引き締まり五体に圧縮された筋肉、風に流れる雪の如き白髪……。
「シャァァァァ────!!」
教国が人界より発掘せし最悪の勇者、イーラ。
今この時点を以て魔界の王女への宣戦布告は相成った。
「陛下にも叩かれたこと無いのよ。それなのにここまで強く、それも女性の顔を殴るなんて……」
三軒先まで殴り飛ばされたデルエラだが、瓦礫を這い出たその頭部はとっくに再生していた。民家の壁一面を汚した体液もいつの間にか消え去り、それらが全て意志を持った生物の如くデルエラの体に収まったことを示していた。潰れて二目と見れない有様になったはずの顔面は元の美貌を取り戻し、何の予告もなく自分を殴った不埒者を見据える。
「その兜……へぇ〜、そう、貴方がねぇ」
全ての生物を魅了する魔眼は一目で男が装着する兜に掛けられた術を見抜き、そこから男の素性まで見通した。そしてその情報から記憶に符合する人物を探し当てた。
「貴方の噂は以前耳にしたわよ。たくさんの魔物が貴方に夫を殺されて、それはもう悪名高い勇者さまだって」
「────」
「って、聞こえてないか。それで? どうするのかしら? この私を魔王陛下の四子、魔界の第四皇女と知っての振る舞いとしたら……これはもう単なるお遊びでは済まされないわよ。そこのところ、ちゃんと分かってる?」
すると音消しの兜で声など聞こえないはずのイーラが、そっとデルエラを指差しこう言った。
「お、まぇうぉ…………こ、ろ、すゥ……!!」
「あー、これはもうダメね」
わざとらしく肩をすくめるデルエラ。
それを合図のように、イーラの右足が高く天を衝く。
「シィ────ッ!!」
右と左の天地が描く角度はほぼ180度、硬く圧縮された見た目とは裏腹にその筋肉は柔軟を極めていた。
そして太陽を足蹴にする開脚はギロチンの如く一気に振り下ろされる。岩石の如き硬さの骨と、それを支える編み込まれた筋肉、そしてこの星を支配する偉大な重力、これらの要素に怒りの勇者の力が加わり放たれた一撃は……。
大地を殺す──。
雷にも似た爆音が街を揺らす。比喩ではない、本当に揺れた、激震である。震源地の半径数十メートルには蜘蛛の巣の如く亀裂が刻まれ、更にその数倍の範囲に建ち並ぶ家々は屋根がずれ窓が一つ残らず砕け散る衝撃に突き上げられた。
反動で地から離れる瓦礫の山、小さい物は拳大から大きいものは人の頭ほどもあるそれらを、再び振り上げられたイーラの脚が一蹴する。
「ゲェア────ッッ!!」
一個ずつなど悠長なやり方はしない。唸りを上げて振るわれた蹴り、そこから発生した衝撃波は直接脚に触れなかった瓦礫全てを高速の弾丸に変え、それが一斉にデルエラに襲いかかる。
だがそれらは一つとして淫魔の王女に届かない。飛来した瓦礫は彼女に到達する寸前で空中で静止していた。魔術ですらない、デルエラが使っている念力は彼女からしてみれば手足の延長、たかが数十かそこらの瓦礫を投げて寄越されたところでしれている。
「お返しするわ」
瑞々しい唇がすぼめられ、ふぅっと息を吹きかける。たったそれだけで静止から一転、瓦礫の大群が今度はイーラに向かって送り返される。頭部以外何の防御もしていないイーラでは雨霰と降り注ぐこれらを受ければ肉塊になってしまうなど、誰の目から見ても明らかな末路だった。
しかし、そんな事は彼とて百も承知。
「スゥゥゥゥゥゥ……!」
目には目を、歯には歯を、そして吐息には吐息を返す。
肺一杯に取り込んだ外気で体が膨れ上がり、イーラの体は歪な逆三角形を描く。そしてそれを体内で圧縮、出口を求めて荒れ狂う爆弾と化したそれを一気に放出した。
「ガァッッッ!!!!」
十里四方まで届きそうな爆音、その正体が人間の肉声などと誰が信じよう。今この場で戦う二人以外は……。
解放された空気とそれに乗せられた音波は収縮を繰り返しながら伝播し、大気を震わす音撃は瓦礫をことごとく粉微塵に粉砕した。物体が持つ固有の振動、その許容を遥かに凌駕した音波の打撃は一切を砂粒に変えてしまったのだ。
パラパラと降り注ぐ今や砂となった瓦礫の数々。それらが全て落ち切るまでに再びイーラが動く。今の攻防で遠距離では埒が明かないと悟り、今度は肉弾戦に切り替える。一歩踏み出すごとに大地が大きく揺れ動き街の亀裂が更に広がった。
拳の威力を味わったばかりのデルエラはそれを警戒して距離を離そうとした。しかし……。
「速いわね」
空中に逃げるよりも先に速く接近したイーラの拳がデルエラを捉えた。刹那、バグッという奇妙な音を立てて頭、胸、下腹部が同時に陥没する。あまりの速さに全く同時に攻撃されたように見えるが、その実態は異常発達した筋力が生み出す残像すら見せぬ超高速の拳撃。技術そのものは後世でいうジャブだが、その威力は牽制でありながら必殺というある種矛盾を極めた武器だ。
他の魔物なら致命傷となる傷でも、デルエラにとっては蚊が刺したほどにしか感じない。だがそれは逆を言えば、不死身の彼女に「蚊が刺したほど」とは言え痛みを与えたということ。それはこの百年有り得ない大事件だった。
更にイーラの猛攻は続く。
「ッッ!!!」
左手に仕込むのは音撃で粉砕し塵にした瓦礫の砂。手一杯に握り締めたそれを再生途中のデルエラの顔面に擦り込むように押し込んだ。
肉と血と骨、そこに砂。混入した異物は再生を阻害し、特に眼球内に大量に取り残されたそれらは網膜に影を映しまともに視界を確保できない。それ以外にも砂粒は肉を絶え間なく刺激し顔中を身悶えするような痒みと痛みに襲われた。まさしく傷口に荒塩ならぬ荒砂、流石のデルエラもこれには参ったようだった。
「ちょっ……な、によっ、これっ!!? 私にこんなことしてタダで──!」
そこから先は言わせない。痛みに呻き顔を掻き毟るその首をがっちりと掴み、水を含んだ布を絞るように首と頚骨を捩じ切る。分離した頭を足で踏み潰し、どくどくと血を噴き出す断面から胴体に手を突っ込む。熱い体内を五指が破壊しながら突き進み未だ鼓動を繰り返す心の臓を突き止め、遂にそれを……。
「────」
破壊した。だが……。
「残念でした」
死体が黒い粘液に変化し、それが可燃性の油であることに気付いた時にはイーラの全身を炎が包んだ。
「心臓や脳を潰したって私は死なないわ。無限に等しい命を持つこの私を殺すには、全身を塵も残さず消すか、直接魂を殺すしかないわ。貴方ぁ、両方ともできないでしょう?」
潰した頭の断面がぐじゅぐじゅと不快な音を立てて隆起し肉も骨も内臓も、数秒とかからずデルエラの裸体が復元される。彼女は比喩でも誇張でもなく事実しか言っていない、その気になれば血の一滴からでも完全復活することが出来る、それがデルエラという魔界の大淫魔の力なのだ。
この戦いも言わば児戯、利かん坊のワガママに付き合ってやった程度のことに過ぎない。指を弾くついでに彼を十回は殺せるデルエラだが、そうしないのは人間を傷付けない魔物娘のポリシーと、ヒトの身でここまで練り上げた実力を持つイーラに対する敬意の表れがそれをさせなかった。
「遥か昔、天界も魔界もなく勇者という存在もいなかった神代の時代、貴方のような特殊な能力も持たず神や魔を打ち倒す人間がゴロゴロいたらしいわ。極限まで鍛えた体は鋼より硬く、矢より速く、剣より鋭い……。神話やおとぎ話の類だと思っていたけれど、今の貴方を見ればそれがあながち嘘じゃなかったって分かるわ」
こんこんと出来の悪い子供に言い聞かせるようなデルエラの言葉を遮り、轟々と燃え盛る火炎を割ってイーラが再び姿を見せる。
「グルルゥゥゥ────!!」
全身の白い肌は所々焼け爛れ、長かった髪もそのほとんどが焼け落ちて周囲に鼻を突く悪臭を漂わせていた。常人ならとっくに疲労が限界に達し相手に勝ち目なしと思い立つ。だが兜の奥に光る赤眼は未だ戦意に燃え、全身を蝕む傷や痛みなど知ったことではないと背中から蒸気が上がる。
「貴方のことは言葉も解さない狂人と聞いていたけれど……とんだスカした下馬評ね。私の全身を激しく打ち鳴らした貴方のアツーい拳……一体、どこまで自分を追い込んだのかしらぁ。死の淵の、その底の、更に奥の、そのまた向こう側……脆弱で短命なヒトの身では難しい壁を幾つも、幾十も越えて、ようやく辿り着く境地……」
それを、ヒトの身には過ぎた力を、この自分を殺すためだけに磨いてくれたなどと……。
「あァッ! 出会うのがあと百年早かったら、貴方を私のモノに出来たのに!」
長い間ひっそりと温め続けた恋文をもらった時のような恋にも似た高揚感に、デルエラは激しい喜びを覚えていた。この男はなんと健気なのだろうと愛おしさまでこみ上げてくる。
「ァァァァ────!!!」
「頑張る男の子は大好きよぉ。さあ、もっと……もっとそのアツイ思いの丈を私にぶつけてきなさい!」
そっと虚空をなぞる手が空中にいくつもの火球を生み出す。触れるどころかその輪郭にかすっただけで皮膚は炭になってしまうだろう。殺すつもりはない、ちょっと懲らしめてやってから治癒を兼ねてインキュバスに変えてやるつもりだった。
対するイーラは丸腰。いかにその力が百人力とは言え、遊びに積極的になった淫魔の王女を相手にするには心許ないのは否めなかった。だがそんな程度で萎える戦意なら端から戦いなど挑まない、イーラにはどうしてもデルエラを倒さねばならない理由があるから……。
第二ラウンドの幕開け、誰もがそう予感する光景だった。
しかし……。
「お待ちください!!」
「お待ちください!!」
イルムをこき使って教国に辿り着いたセレナは街中に重苦しい魔力が満ちている事に気付き、その重い体を引きずってようやくイーラの元までやって来た。既に戦いの爪痕は周囲に刻み込まれ、その中心で大淫魔と怒りの勇者が対峙していた。
「あら、貴女は確か……」
「皇女殿下におかれましては、ご尊顔を拝謁できましたことは光栄の至り。殿下、このようなことは今すぐ……どうか、今すぐにおやめください」
「やめるも何も、その子から吹っかけてきたケンカよ? 私も別に迷惑に思ってないわ、むしろ楽しんでるぐらいよ。安心なさい、殺すなんてことを私がすると思って?」
「ですが……!」
「その子はヤる気満々みたいだけれど?」
「っ、イーラ!!」
セレナのすぐ背後まで迫っていたイーラはその殺気を抑えようともせず、早くどかなければ彼女も一緒に粉砕する気でいるようだった。
すぐさま音消しの兜を被って彼に語り掛ける。このまま続ければ何の拍子で命を落とすか分かったものではない。それだけは絶対に止めたかった。
『イーラ! イーラ、返事をして』
『…………せ、れ、なぁぁ』
互いの兜が共鳴し、それぞれの言葉をそのまま伝える。自分を追ってきたセレラに戸惑っているのか、その体がゆらゆらと揺れ動いていた。
『と、める……な。ぼくは、こいつを……ころすぅ』
『今ならきっと、デルエラ様もお許しになる。だから……もうこんなバカな事は……』
『ば、か……? ぼくの、やっていることがぁ……ばか、だってぇぇぇ?』
イーラの殺気が膨れ上がる……彼を怒らせたと自覚した時には、セレナの首をその手が潰そうとしていた。
「イィ……ラッ!!」
「だれにもォォォ……ぼくの、じゃまはァァァ……させないぃぃぃ!!!」
硬い甲殻に覆われているはずの喉も五指の圧力に悲鳴を上げながら潰れていく。もがき苦しむ様を睨む赤い瞳は全ての敵意をセレナにぶつけていた。
『なぜ……っ! どうして、そこまでっ』
『そうしなきゃ、だめなんだ……』
『教会そう言われたから……? デルエラ様を殺すよう、命令されたからっ?』
考えられないことではない、教会は元々魔物に対し好意的ではなく、それは国家方針が親魔に傾いてからでも変わらなかった。外堀を埋めるやり方の裏で直接元凶を叩くという作戦を考えていても何ら不思議ではない。イーラはその鉄砲玉として選ばれてしまったのだと思っていた。
しかし……。
『ちィ、がァァ、うゥゥゥ!!!! ぼくがぁ……ぼくの、いしでぇ……そいつを、ころすゥゥゥッ!!!』
ヒトの言葉など騒音としてしか捉えることの出来ないイーラが、奴隷育ちで文字すら知らない彼が誰かからの「命令」で動くなど有り得ないことだ。
そんな事はとっくに予想できていた。予想できていたからこそ、信じたくはなかった。
デルエラを斃すということ……万が一、億が一にでもそれが達せられればどんなことが起こるか。間違いなく人魔のバランスは崩れ、混乱につけ込んだ神々が下界に攻め入り、この地上に神代の時代に繰り広げられた果てなき闘争が再び顕現するだろう。デルエラという存在は魔界と人間界を結ぶ架け橋役、それをこの世から抹消するという事はそれだけ重い事実を意味するのだ。
己の肉体を極限まで追い込んだのは相手を確実に殺すため。言葉を理解できない彼がそれでも教会の意図をくんで黙々と任務をこなしていたのは、いずれ自分達の所業がデルエラの耳に届いた時彼女が直接動くのを予見していたから。そして今、イーラはデルエラを討つためにここにいる。
だが、分からないことがある。
『誰の命令でもないなら……イーラは、何のためにっ?』
デルエラに戦いを挑み勝利したところでイーラには何の利もない。イーラは戦士ではない、勝利の栄光など何の役にも立たないと知っている人種だ。地上に混乱をもたらす革命家でも、その闘争を制し覇王になることも彼には眼中にない。だからこそ、この行動に何の意味を見出しているのか、それだけがどうしても分からない。
彼の野望が達せられれば、事は彼とデルエラだけの問題ではなくなる。
『デルエラ様を殺して、イーラに何の意味がある? そんな事をしても、魔界全体を怒らせるだけ! デルエラ様の姉君も妹君も、魔王陛下も! きっと、イーラをお許しには……』
魔界と人間界に散った数百のリリムがイーラを討つために動き出すだろう。当然そこには親魔物領の国々も加わり、イーラはたった一人で世界を敵に回すことになるのだ。
神はきっと、高みから座し見守っている気になっているだけの神々は、イーラに決して手を差し伸べることは無いだろう。彼に全ての魔物が敵となって押し寄せようが────、
『すべての……魔物……?』
その時、セレナの脳裏にある破滅的な閃きが芽生えた。
散らばった点と点、割れたガラスの欠片が繋がり、ひとつの巨大な絵図に仕上がるように。そしてそれらが頭の中で組み上がると同時に、セレナの全身からさっと血の気が引いていった。月の引力に引かれて潮が干上がるが如く、イーラが思い描いている心底恐ろしい計画に気付き戦慄に震える体を抑えられなかった。
『すべての、まもの、うぉ…………コろす』
その恐怖の心中を察したイーラが肯定の言葉を吐いた。
『サキュバスもぉ……ラミアもぉ……ハーピーもぉ…………リリムも、まおうも、ほかのゆぅしゃも……みんな、ころす! りくの、まものも……うみの、まものも……そらの、まものもォ……みんな、みんなァ! ────コロシ、テ、ヤルゥゥ』
本気だ、イーラは本気で世界の全てを敵に回している。いや違う、先に敵に回ったのは世界の方だ。静寂を奪い、平穏を取り上げ、眠ることすら許さない、そんな残酷で凄惨で優しさなど欠片もない世界を、どうして憎まずにいられようか。その上に望んだ覚えのない加護という名の呪いまで与えられてしまった。
もはやこの天地にイーラの味方は何一つとしてありはしない。だからイーラは強くなった、ならねばいけなかった。彼にとって他者とは己を苛むモノ、その肉の一片まで絶滅すべき怨敵、それ以上でも以下でも以外でもない。そんな奴らを地上から消し去るため、真の平穏を得るため、ただそれだけの為に今の力を身につけたのだ。人を殺し、魔を斃し、やがては神さえも下さんとする金剛石の如き意志が結実した姿が“これ”だ。
見よ、これこそが蠱毒より現れたるモノ。人魔神が支配する三界の外より生まれた最悪の化外也。
『こんなもの……もぅ、いらない……!!』
イーラは奴隷である。奴隷とは奪われ続ける者。理不尽に、不条理に、そして一方的に奪われ、決して与えられることはない。例え与えられたように見えてもそれは所詮まやかしに過ぎない。誰かの気紛れで与えられたものは、気紛れで起こした理不尽によって奪われる……それを身を以て知る故に、イーラは仮初の平穏を捨て去るのだ。
脱ぎ捨てられる兜、押さえられていた髪が解き放たれ、今再びその素顔が露わになった。
「────」
「イーラ……」
こうして見ると若い。恐らく二十歳にも満たない、少年と言ってもいいだろう。血の赤が滲むほど血涙を流した眼は真紅に染まり、何度も何度も掻き毟ったのか耳は傷だらけで歪んだ形をしていた。
「ァァァァ────!!!」
引き絞る呻きと共に両の目からドロリと血が溢れ出す。一緒に流れ出るのは理性か、それとも涙なのか……。
「もうイイんじゃないかしら?」
それまでずっと静観を決め込んでいたデルエラも遂に動き出した。
「しばし……しばし、お待ちを!」
「もう無理よ。『戦う為に生きる』貴女が、『生きる為に戦う』その子を止めることなんて出来ないわ。土俵が違う、覚悟が違う、信念が違う……その子にとって貴女はお呼びじゃないのよ」
そも、理屈でどうにか出来るのなら狂人とは呼べない。理の外側、言葉や感情では絶対に推し量れない埒外にいるからこそ、彼は狂人と呼ばれ続けたのだ。
これはもう、遊びでもケンカでもない、たった一人と全世界の「戦争」なのだ。
「この子はもう自分の命なんて欠片も惜しんでないわ。命を懸ける、なんて陳腐に言うのも烏滸がましい、そんなレベルの言わば馬鹿よ」
「…………」
「それでも止めたい、どうしても止めたいって言うのなら……せめて貴女も同じリングに上がるべきよねぇ。彼の全てを受け止めるだけの覚悟が貴女にあるのかしら?」
捨て身という言葉すら生ぬるい、十死無生の境地、そんな場所に立つという覚悟。一度そこに立てばもう二度と生きて帰れない。
だが不思議と恐れる心はセレナには無かった。
「…………イーラは、このセレナが止めます」
「そう。なら、頑張りなさい。ソルジャービートルの誇りに懸けて、その子を守ってみせなさい」
「はっ」
最後に微笑みを見せて戦場を離れるデルエラ、当然イーラはそれを追おうとしたが……。
「あなたの相手は、こっち」
「ゥゥゥ────!!!!」
相対するのはこれで三度目。一度は瞬殺され、二度目は相手にされず、そして三度目の正直。最初で最後、互いの骨肉を削り合う真剣勝負が始まろうとしていた。
だがセレナが立ち塞がるのはイーラを倒すためではない。この先に待ち構える修羅の道に彼を進ませない、このまま進めばその身に刻まれる傷と痛みを背負わせない為に立ち塞がるのだ。
鋼の脚が四股を踏む。対するイーラも彼女の闘志にあてられたか、腰を低く構え臨戦態勢を取った。
「いざ、尋常に…………勝負っっっ!!!」
魔人と重甲虫の激突が教国を揺らした。
「貴方は参加しないのかしら? ねぇ、イルムくん」
「我輩、ああいうノリは苦手なのである」
少し離れた教会の裏手でデルエラとイルム、魔界の王女と怠惰の魔術師という奇妙な組み合わせがあった。すぐそこから轟く爆音にも構わず、まるで茶飲み話でもするように語らっている。
「そういう貴様は良いのであるか。このままだとこの一帯はどうなることやら」
「周辺住民の避難は完了してるわ。うちには優秀な人材がいるから」
「勇者ウィルマリナとその仲間たちも今や飼い猫であるか。だが我輩の見立てが正しければ……あの二人、死ぬぞ?」
「死によって咲き誇る愛も、美しいと思わない?」
「我輩には理解できんよ。この世の全てを解き明かし、知り尽くし、己の知識とするその日まで我輩は生き続ける。それまでは死なぬのである」
「なら、寿命を伸ばすために彼女を妻にしたのかしら?」
「────何を言う」
「フフ、そんなに怖い顔をしちゃダメよ。いい機会よ。死をも厭わない愛の形……しっかり見ておきなさい。貴方達が狂人と蔑んだ彼がどこまで真剣で、必死で、そして純粋だったのかを」
元から体力も気力も尽き果てて動けないという反論もせず、イルムは魔界の王女と共に男女の行く末を見届けることにした。
七人の勇者最後の男、その生き様を。
「はぁぁぁああああああああっっ!!!」
突き出される槍の先端が唸りを上げる。空気を切り裂き、あらゆる障害を貫き通す鋼の大槍はセレナの腕の延長となりイーラを迎え撃つ。
それを逃げもせずイーラはただ己の拳を突き出す。槍の切っ先が僅かに触れたその瞬間、砕けたのはやはり槍の方だった。どれだけ鍛えていようとも人体は人体、その硬度が鋼に勝る道理などあってはならない。だが魔人の鉄拳はその不条理を成立してしまう。まるで、自分の意志は鋼より硬いと宣言しているようだ。
鋭さを失った槍を棍棒のように振るうが、振るわれる度にその表面に虫食い穴のように拳の痕が刻みつけられる。片腕五撃、両腕で十撃、それを一瞬の内に放つ拳は先に動いた相手よりずっと早く迎撃するという矛盾を矛盾ではなくしてしまう。
加えてその聴覚。地平線の向こうで落とした硬貨の数すら聞き分けてしまうその耳は、相手の骨、腱、筋肉、それら肉体が織り成す微細な音を瞬時に拾う。ただ聞き取るだけではない、それまで人生を戦いに捧げてきたイーラの野性は相手の行動を一手も二手も先読みする。例えそれが四つ足の異形であろうと関係ない、彼の耳に掛かればスライムの動きさえ手に取るように分かってしまう。
「……ぐっ!!」
「──ガッ!!」
得物を失ったセレナが身一つで突貫し、互いの体が激しくぶつかり合った。手と手をつかみ合わせ絡み合う指と指。何の小細工もトリックも入り込まない、混じりっ気なしの純粋な力勝負だ。東方に聞く神事のスポーツ、「スモー」に通ずる肉と肉の衝突はどちらかが倒れるまで終わらない事を暗示しているようだった。
意外にもこの時両者は拮抗状態にあった。並外れた怪力を誇るイーラだが、人間の彼に対しソルジャービートルのセレナは四本足でその上重量があり、大地を支える足の数だけ彼女に分があった。攻撃を放つ手もこうして封じてしまえば怖くはない。
このまま一気に勝負を決めようと両腕に力を込め、それに対抗しようとイーラも更に力む。
そしてそれこそがセレナの狙いだった。
闘技場では様々な技を持つ者に出会う。かつて苦戦した者に相手の力をそのまま利用し労せず倒す「アイキ」なる技を使う者がいた。
(ここ……!!)
五指を僅かに動かし捕えたのはイーラの親指。どれだけ鍛えようと、ここを捻られればへし折れないはずはない。親指が折れれば拳を握っても力は篭らない、彼の武器を一つ奪えるのだ。
(獲った……っ!!)
自らの活路を確信し、渾身の力を発揮してその指を……。
へし折れなかった。
「へ……?」
力を入れた刹那、視界の中で天地が逆転する。この景色には見覚えがある。まさしくあの時闘技場で自分に苦戦を強いた武芸者と同じ、こちらが指をへし折ろうとした動きを逆手に取られてすっ転ばされたのだ。
地に横倒れになった巨体を急いで起こそうとするが、その顔面に白い脚が強襲する。間一髪で腕を戻して防いだが、大の大人二人分の重量がボールよろしく吹っ飛ばされる。民家の壁にぶつかりようやく止まるが、防御に使った腕はもう上がらなかった。どうやら指を折ろうとしてこちらの腕を折られてしまったらしい。
イーラが異国の武術まで習得していることに驚きながらも迅速に体勢を立て直した。だが予期した猛攻は襲っては来なかった。
「────」
「イーラ……?」
彼は来ない。セレナを蹴り飛ばした地点から一歩も動かず、ドロドロと血を流す目だけギョロギョロと動かしていた。
諦めた? もう戦わない?
いや、彼は野性で動いている。今さっきセレナに指を折られかけた彼はもう二度とセレナに近づかない。自らが傷を負う可能性を徹底的に排除し、その上で確実に息の根を止めるつもりでいる。
「フゥゥゥ────」
握った拳を解き、両腕がだらりと垂れ下がる。脱力した上半身をゆらゆらと動かし腕は振り子のように地面すれすれを揺れ動く。
何か嫌な予感がする……セレナのその心配は的中することになる。
「────シィ──!!!!」
腕が、消えた。
本能で危機を察知したセレナが動き、さっきまで彼女が立っていた地面がばっくりと一文字に裂かれた。見えない刃で切り裂かれた地面、それがイーラの手から放たれたゼロ気圧の剣が起こした現象だと気付いたセレナは全力で走り出した。
「シィ! シィィ!! シィィァア!!!」
次々と繰り出される不可視にして神速の風の刃がセレナを切り刻みにかかる。真空の刃は予告も前触れもなく、硬度など関係ないと万物を切り刻む。人体など容易くスライスしてしまう攻撃、もしまともに受ければセレナの甲殻もタダでは済まないだろう。
だがやはりここでもセレナの重量がネックになる。強靭な外骨格も、遠距離から一方的に攻められる今の戦いでは足枷にしかならない。走り続ければ魔物でもいずれはスタミナが尽きる、その一瞬をつけ込まれれば……。
「オォォォソォオォイイイィイイイィイイィィ!!!」
足払い一閃、手から放たれたそれとは比較にならない真空のギロチンが遂にセレナを捕えた。地を舐めるような軌道は瓦礫や街路樹、雑草を切断しながら駆け抜け、セレナの後ろ足その先端を切断した。人間で言えば爪先を切り落されたようなもの、これで彼女は逃げるどころか満足に走ることも出来なくなった。
支えを失い前のめりに倒れる。得物も機動力も喪失し、もはやカカシ同然の的に成り下がってしまった。闘技場で戦っていた頃には決して見せることは無かった醜態を、今や宿命の相手に晒すという恥辱にセレナは震えていた。
デルエラにも言われていたことだ。セレナは戦いに生きるが、決して戦い続ける必要はない。多くの同胞がそうするように槍をおいて静かに暮らすことだって出来る。
だがイーラは逆だ、戦わなければ生きられない。狩猟をスポーツで行う者と生活のため行う者の差、どちらがより真剣かは論ずるまでもない。その結果が今こうして表れている。
勝者となったイーラが太陽を背にする。天上から遣わされた御使いの如く、逆光に隠れたその顔は容として知れない。もうイーラはセレナを煮るも焼くも好きに出来る、勝利とは生、敗北とは死、彼はそれを与える権利を獲得したのだ。
「ァァ、ゥゥゥ」
足元に落ちていた瓦礫を拾い上げ、それを握り込む。カマイタチを発生させる腕力でそれを投擲すればセレナの頭蓋は容易く抉られるだろう。
セレナに死への恐怖はない、彼と対峙した瞬間からそんなものは無い。
だが、それでも新たに疑問が湧いてきた。
「どうして……どうして、こっちに来ない……?」
指を折ろうとして失敗し距離を取られてから、イーラは決してセレナに近づこうとしなかった。それは自身の圧倒的優位が決まった今でも変わらない、彼はそこから一歩もセレナに接近を試みない。もはやセレナに戦意など無いと分かっているのに。
その疑問の答えが、すぐそこにあった。
彼は……笑っていた。
初めて見る笑顔、それは他者を蔑む下種な笑みではなく、緊張から一転し頬を緩ませたものだった。歳相応の微笑みを見て、セレナはようやく彼の本心を悟る。
「…………怖かったの?」
彼を突き動かしていたモノ、それは怒りではなく恐怖だった。
怖いモノと相対した時、人は逃げる。だが逃げも隠れも出来ないと知った時、人は戦うことを選ぶ。
イーラは狂人ではない、その本質は暗闇に怯える子供でしかなかったのだ。
「ああ……!」
セレナも逃げはしない。両手を大きく広げたその姿は、まるで愛しい人を抱き留めようとするようで、実際その通りだった。
彼を「守る」……この世のありとあらゆる脅威から、痛みに怯え暗闇に震えるその身を守り通すと決意した。
ならば、それをこの身命をもって証明しよう。
「来て……」
傷付き血を流す足で大地に立つ。
「来て!」
一歩も退かない意志を四つ足と両手に宿し。
「来なさい!!」
一世一代、命を懸けて誓いを立てる。
「受け止めてあげる」
イーラは困惑していた。生まれて初めて相対する存在に、彼は未知に対する戸惑いを覚えていた。
今まで己と対峙した者は人間も魔物も己に並々ならぬ敵意を向けてきた。その口から撒き散らされる騒音と重ね、ああやはりこいつらは自分をイジメるんだと、何度も何度も目の当たりにさせられた。
その度にうるさく鳴き喚く頭を叩き潰し、この世から一匹でも自分を苛むモノを消し去ろうと決意した。
人を殺すのはいけないことだ、己の都合だけで殺戮の限りを尽くすなど、鬼畜魔性のバケモノめ。
それがどうした! 先にやってきたのはそっちだ、それを叩き潰して何が悪い。
そうやって全てを潰してきた。
なのに……何だ、こいつは?
害意も、敵意も、殺意も、悪意もない。今までこんな奴には出会った事がない。
困惑、混乱、戸惑い……様々な感情が湧き上がり渦を巻き、イーラは何をしたらいいのか分からなくなる。
だがその逡巡も僅か一瞬、彼の野性は最終的に眼前の彼女を叩き潰すことに決めた。
しかし、ただ潰すだけではもはや足りない。
ここから先は、「全力」だ。
「アアアアアアアァァァァァァァァァッッッ!!!!」
常人を遥かに凌駕するイーラの力、そのイーラにとっての全力とは即ち彼もまた命を懸けることを意味する。そして、たった一人で全世界に戦いを挑む彼が命を懸けるということは、文字通りの意味を帯びる。
命を懸けるとは背水の陣、己を追い込むことで生を拾い勝ちを得るということ。だがイーラの中にそんな都合のいい考えは、相手だけ倒して自分だけ生き残ろうという甘い考えなど微塵も無い。生き残る余力すら炉にくべて、願い奉るはただ敵の完全なる絶滅、誓って真実ただそれだけだ。
「グルアアアアアアアアァァァァァァァッッッ!!!!!」
一瞬で五つを放つ拳、その全ての力を一発に込めて突き出す。先端は容易く音の壁を幾重にも突破し、雷のような爆音が轟く。
彼が殴りつけたのは空気、この地上に満ちる大気そのもの。王都の城門で兵士らを吹き飛ばした時と同じ暴風の拳だ。だがその威力は昨日のそれとはまるで比較にならなかった。
セレナが感じたのは、超高速で迫り来る物体に激突したような衝撃だ。暴風という表現も生易しい、これはまるで空気の壁、全身を打ち付ける衝撃は石壁に叩きつけられるような激しさを有していた。まるで巨大な容器に入れられ内部を圧縮されるように、破壊的な風圧はセレナの残り少ない装甲にも亀裂を刻んでいった。
猛攻は止まらない。更に二撃目が放たれる。
「ダァァアアアアァァァアアアアァアアアアアアッッッ!!!!」
三撃目。背後の物体全てが押し流される。
四撃目。セレナの四つ足が地面にめり込む。
そして遂に、立て続けに五つの空圧拳がセレナに襲いかかった。もはや指一本動かせず立っているだけで精一杯。いや、激しい風圧が倒れることを許さず、今の彼女は無理矢理立たされている状況だった。
この時、イーラの拳はひとつの奇跡を起こしていた。
連続した空圧拳は放たれる度に加速し、拳で押し出された気流の圧力もそれに応じて爆発的に高めた。セレナに襲い来る気流は激しい圧力に変化を示し、空気と水の両方の性質を併せ持った摩訶不思議な物質へと変貌を遂げた。水の溶解性と空気の拡散性を持つ、あらゆる物体を溶かし分解し消滅させる超臨界のモノが人間の手で生み出されたのだ。
それはセレナの全身に容赦なく浸透し、その肉や骨、血液のみならず、全身の甲殻を腐食し分解して砂に変え、体内の内臓器官をドロドロに溶かしていった。もはや生きている事こそが奇跡、セレナはその猛攻に耐えきり遂に空圧の拳は彼女の命を奪えない結果に終わった。
だが、戦いの行方はまだ決していなかった。
「────」
膝をつくセレナが見たのは、大地に跪くイーラの姿。両手と膝を地に降ろし、腰を浮かせ顔はまっすぐ前を見据え四つん這い、およそ見たことも聞いたこともない姿勢だった。
だがこれこそが彼が放つ致死の一打、そして最後の一撃になる。
必殺の一撃とは何か? それは「死」である。あらゆる存在は定命のもの、それは無限に等しい命を持つ魔王も変わらない。死は全ての存在に命が与える最後の一撃、寿命とは己の命が己を殺すということ。
イーラの技もそれだ。「必殺によって死を与える」のではなく、「死によって必殺をもたらす」のだ。
ゆえに、この技に名は無い。名も無き奴隷が生み出した、絶死の一撃が今……放たれる。
「ッッッ!!!!!」
疾走を開始した体はもう止まらない。一歩を踏み出すごとに速度は倍々になり、瞬く間にその足は風を跨ぎ音を追い越す。それでもまだ加速を続ける。
肉体全てが音の壁を越えた時、二度目の奇跡がイーラに舞い降りた。
加速を止めない両足が赤くなる。血ではない、肌を覆う燐光は空気や地面との摩擦が生み出した熱、そしてイーラの全身を流れる血潮が生み出した熱だ。彼の撃滅の意志に呼応したのか、今や全身の熱がその両足に蓄積されつつあった。
踏み出した足は更に熱を帯びて赤くなる。大地を穿つ足跡から炎が吹き上がり、踏んだ若草は枯葉のごとく燃えて灰になるまでになった。だがまだ加速は続く。
足は雷電を発生させ、灼熱の足は燃え盛る赤から輝く黄金、そしてそれらを突破し白銀の光をもたらした。しかしその光は恵みの太陽ではなく死の絶滅光、イーラの命の輝きだ。
その輝きが最高潮に達した瞬間、足が地を離れイーラの体が天に舞い上がり、踏破した勢いそのままに両足がセレナ目掛けて飛翔する。
そして、両者がひとつに重なった瞬間──、
全てが終わった。
「うわ〜……なにこれ?」
激戦が終わって事の顛末を見届けにきたデルエラが見たのは、轟々と激しく燃え盛る教国の街だった。
ちょっとボヤがという程度ではない、全焼である、大火災である、火の海であった。いつか王都で起きた火災、それ以上の勢いである。
「えぇ……ちょ、ええ!? ちょっと、待って……えぇ〜?」
魔界の王女も流石にここまでの惨事になるとは予想しておらず、ただただ困惑の言葉しかない。少し目を離した隙に何があったのか、あの二人はどうなったのか、色々確かめたい事が多すぎる。
「やれやれ、好き放題やってくれたのである」
イルムがすぐさま水と風の混成魔術で周囲の炎を鎮火に当たった。
「いい腕ね。うちに戻ってこないかしら、イルムくん」
「貴様はさっさとそこの二人をどうにかするのである」
そう言って顎でしゃくった先には……。
「あぁ、こんなになるまで激しくヤっちゃったのねぇ」
黒い消し炭が二つ……。辛うじてヒトの形はしているが、もうどっちが前で後ろかも分からないほど、顔は潰れ髪も燃え、互いの下半身は消し飛び胸から上だけが残されていた。
(私なら自力の復活に百年ってところかしら。ママでも腕を持って行かれたかも……。本当に末恐ろしい子ね)
人間の覚悟と信念が狂気の域に達すればどうなるか、それをイーラは教えてくれた。
だがそれよりも……。
「勝てたのね」
ヒト型の消し炭の一体は相手を抱き締めるように眠っていた。
「さて、墓でも作るとするか」
「あら、何を言ってるの。この子達、まだ生きてるわよ」
「はあ?」
「さあさ、この子達を起こす準備をするわ! 貴方も手伝って、ね?」
蠱惑的に微笑む物言いの裏に有無を言わせぬものを感じ、イルムは黙って従う事にした。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
「────」
全身を包み込まれる温かさの中で、イーラは目を覚ました。一糸まとわぬ生まれたままの姿で、周囲がドロドロのゼリーに似た粘液で満たされている事に気付き、呼吸するまでもなく息が出来ることを不思議に思った。
薄緑の優しい色に満たされた世界で、イーラは流れに身を委ねて静かに微睡んでいた。ああ、ここが肉体を離れた魂が行き着くあの世なのかと安らいでいた。とても静かで穏やかで、例えここが死後の地獄でも自分にとっては楽園だと思えたのだ。
静かな生を渇望していただけに死の果ての静寂に悔しさを覚えずにはいられない。だがそれも今の穏やかさと比べれば何のことはない、今はただこの静けさに身を任せ────、
「気付いた?」
不意に逆さの顔が覗き込む。薄紫の髪にガラス玉の瞳、それが誰なのか分かった瞬間、イーラの安らぎが木っ端微塵に粉砕された。
「ヒィ、ァァ、ウァァァアアアアア!!」
悲しくなるぐらい情けない悲鳴を上げてイーラは頭を抱え込んだ。混乱と恐怖が刹那でピークに達し、自分と同じ空間に現れた彼女のから離れようともがいた。
頭を掻き毟り奇声を上げ、膝を抱え身を限界まで小さく竦めて危機をやり過ごそうとする。その様子はまるで小動物、もはや今の彼に敵を葬り去るだけの気力も精神も残ってはいなかった。己の命を燃料に死を現出した彼は、文字通り精も根も尽き果てたのだ。
なんでこいつがここにいる。
どうしてここまでやってきた。
もうほうっておいてくれ。
死の果てまで追ってきて自分を苛むのかと彼女、指の間からセレナに恨めしい視線をぶつける。だがそれが精一杯の抵抗だった。膝を抱え頭を蹲らせ、小さく縮こまって脅威が過ぎ去るのを待つだけだった。
「イーラ……」
ブルブルと身を震わせ怯え続けるイーラ。たった一人で戦い続け魔人と呼ばれた勇者の、遂にその心が折れてしまった瞬間だった。
彼はまだ子供なのだ。その暴虐ばかりに目が向いてしまうが、本当は誰よりも愚直で純粋で、そして臆病で繊細な少年でしかなかった。誰が悪いわけでもなく、重なり合った偶然がただの名も無き少年を怒りと恐怖に染め魔人に変えてしまっただけなのだ。
恐怖、不安、孤独……闇の中でずっと彷徨い続け、イーラが求めたモノは……。
「もう、大丈夫……」
ただ……たったひとつ、小さな願い。
「守ってあげる」
安らぎ、それだけ。
今ここにそれはあった。蹲る小さな体をそっと抱き寄せる暖かい手……もうほとんど覚えていない昔に母がそうしたように、セレナはイーラを優しく抱いた。
冷たく見える甲殻は互いの体温で少しずつ温まり、その温度に身を預けるようにイーラの震えも徐々に収まっていった。自分の全てを無条件に受け止めてくれる相手に、イーラは生まれて初めて安心を覚えることが出来た。
「せ、れ……な」
微睡みの靄の中でイーラはおずおずとセレナを抱き返した。そしてそのまま意識を手放し、二人は抱き合ったまま眠りについた。
しばらくそうして眠る二人。二時間おきに起きて互いに見つめ合い、そしてまた眠る、そんな言葉の無いやり取りを飽きることなく続けた。それだけで二人の間には通じるものがあった
それを幾度か繰り返した時、二人に変化が現れた。
肌が紅潮し熱くなり、疲れてもいないのに息は荒くなり、眠りから覚めたのに目が据わったままになる。それは心が通じ合った男女が自然と辿るプロセスなのか、治癒液に当然の如く混入された大量の媚薬の影響か、もしくはその両方か。
いずれにせよ、「その気」になった男女がヤることなど知れている。好都合にも二人とも身を包む物もなく、ここは二人だけの空間、水を差される野暮な心配もいらない。思う存分心ゆくまで逢瀬を楽しめる揺り籠だ。
セレナとしては身も心もとっくに準備は出来ていた。だがいつまで待ってもイーラが食指を動かす気配がない。別に焦らされているのでもセレナに興味が無いわけでもなく、彼のオスのシンボルは痛いぐらいに怒張していた。こうしている間にも肌を通して媚薬が五体に浸透しているのに、イーラは全く動かなかった。
そのことにある仮説を立てる。
(この子……もしかして、『知らない』?)
「?」
他者の撃滅を目的に生きてきたイーラの中に誰かと交わるという発想はない。その方面に関しての知識は幼子以下、下手すれば赤子と同程度の本能しかない。おしべとめしべ、キャベツ畑、コウノトリ……それ以前の問題だ。
まさか自分が手とり足取り教えなければならないとは。だが迷ったのは一瞬、本能に身を任せて臨むことにした。
「大丈夫。全部、まかせて」
そう言って唇を触れ合わせる。イーラが体験した初めてのキスは魔物娘特有の暴力的なものではなく、優しく触れ合う程度のものだった。
離れた口はずいずいと下半身へと移り、鬱血したような色を湛えた亀頭に到達する。僅かに痙攣する先端から発せられる濃厚なオスの匂いは、まだ誰も手を付けてない青い果実を思わせセレナの脳髄を甘く刺激した。そして小さく舌先を出すと、その先端に触れ静かに舐め始める。
「っ! っ!? !!??」
これに予想以上の反応を返したのはイーラだ。排泄器官を舐められるという行為、そしてそれによりもたらされる感覚、どれも彼には未知、何故そんな事をするのか理屈も意図も分からない。快楽という感覚に対しイーラはどこまでも無防備だった。
「ァ……ヤ、め……!」
「怖がらないで……」
逃げ腰になるイーラを引き止め、セレナは奉仕を続けた。まだ女を知らない青いカラダを自分が仕込んでいるという事実、それを意識して彼女の行為は更にヒートアップする。
チロチロと先端を舐めるだけだった舌がやがて亀頭、カサ、裏スジまで這い回り、少しずつだが確実に快楽を蓄積させていった。それを証明する粘液が鈴口から染み出すと、それを指ですくいペニスに隙間なく塗りたくりそれを舌で舐め取る、それを繰り返す。
男の体液を至高の甘露に感じるソルジャービートルならではの奉仕に、イーラの頭は快楽により桃色の霧に覆われたように呆然とそれを見つめていた。湧き上がる快楽という未知に恐怖が和らぎ、遅れてやって来たオスの本能がカラダの奥で鎌首をもたげ始める。女に奉仕させていると言う光景が彼の中に得も言われぬ充足感を与えていた。
(そろそろ……)
蕩けた目を見てセレナは潮時と判断し、舌だけ出していた控えめな口を大きく開け……。
一気にくわえ込んだ。
「────〜〜〜ッ!!?」
瞬間、イーラの全身が硬直し呼吸が止まる。だがくわえ込んだ一ヶ所は脳が送り出す停止のサインなど全く無視し、イーラの体内に蓄えられていた青い衝動をいとも簡単に決壊させた。
初めて経験する感覚に体が無意識に支えを欲し、己の分身をくわえ込むセレナの頭を強く押さえ、それが彼女の更に奥へと命の液を流し込んだ。
先走りとは比較にならないほど濃く甘く、どこか苦味にも似た青臭さが絡みつきながら胃の腑に流れ落ちる。その感覚をひとしきり堪能し、ゆっくりと口内から引き抜く。その際にも吸い込みをかけながら内部に残るものも一滴残らず飲み込み、最後まで至高の甘露を味わい尽くした。
「ハァ……ハァ……どう?」
「ーッ! ッ、ーッ!! 〜〜〜ッ!!!」
息も絶え絶えとはまさにこの事、必死に口を動かしてはいるが言葉は出ず、陸に揚げられてしまった魚みたいになっていた。
流石に怖がらせてしまったかと思ったが、胃袋を満たすほど射精したのにイーラのそれは硬さを増し、彼の中のオスを目覚めさせる事に成功したと教えてくれた。
「イーラ……ここ」
そっと彼の手を取り指先を濡れそぼった秘所に導く。イーラ以上に熱くなったそれは、噴火寸前の火口のよう。撫でさせただけで奥から粘液が溢れ指を通じて流れ出る。
「あとは……分かる?」
優しく教えてから手を離す。そこからの行動は早かった。
「ガッ──」
「あ……あァっ!! お、ぉ……きい……ッ!!」
青い衝動とオスの本能に身を任せ、イーラがセレナを貫いた。初めてだとか、相手を気遣うだとか、そんな感傷的な躊躇は一切なく、突き刺した勢いそのままにピストンを始めた。
「ん、ふああぁっ! あん、ああんっ! っ、ぐぅぅ! あああーっ!!!」
根元まで挿ったそれを入口ギリギリまで引き、それを押し込む。またギリギリまで引っ張り、また押し出す。テクニックも駆け引きもありはしない、暴力的で破壊的な抽送はただ快楽を得る以上の目的を持たない。己の欲望を目覚めさせた相手を喰らうことしか頭にない。
そう、喰らい尽くすのだ。
「ぎっ、がぁっ……!? ひぐ、ああァッッ!!!」
嬌声がいつの間にか悲鳴に変わる。それもそのはず、セレナを力の限り抱く腕は加減を知らず、彼女をサバ折りにせんばかりに圧力が増していた。そのダメージは交合で得た精力による回復より多く、万力の圧力で甲殻がミシミシとひび割れていった。
だがセレナは絶対逃げない。自分を力一杯抱き締め、必死に腰を動かす姿を見ればそんな発想は彼方に消えていた。
何よりこちらを見つめる目……赤い瞳はセレナだけを欲し、セレナだけを求めている。こんなに自分の事を見てくれている男に、今はただ愛しさしか感じない。
「もっと……! もっと、してぇっ!!」
あなたを受け止められるのは自分だけ。何も心配しなくていい、どこにも行かない。
六本あるソルジャービートルの脚、普段は使わない前脚を開くとイーラの腰をがっちりと掴んだ。これでもう離さない。
「きもちいい? ねぇイーラ、きもちいい? イイっ……もっと、もっとぉ!!」
「フゥ──フゥ──ッ! ァァァァ!!」
二人は更に加速する。
「あ! はぁん! あぁっ! あ゛あッ!!! んはあああっ!!」
寡黙な戦士も怒りの魔人も、今やただのオスとメス。共に頂きに向かって転がり堕ちる。
「あーッ! あ゛ーッ!! ダ、めぇ……ダメ、ダメダメぇぇ!! も、もう……ッ!!」
限界を前にセレナからも抱き締めが強くなる。痙攣を始める腰の動きはイーラの方にも誘発を招き、二人して一緒に絶頂の彼方に飛ぼうとする。
「あ……! ああ、あっあ……い……イ、く! いく……イく、イッちゃ、ぁぁぁああああああーっ!!」
膣が収縮し子宮が膨らむ、押し寄せる大波の予感に二人同時に一番強く抱き合い……。
「っ、ああ゛っ、ああぁあ゛ぁあああァァァァーーーッ!!!」
熱いものが胎内を満たし、じわりと下腹部が温かくなる。その感覚にこれまでにない充足感を覚えながら、自分の背中からベキっと嫌な音がしたことも忘れ恍惚とした顔でイーラを見つめていた。
彼もまた自分と同じように陶酔と疲労で似たような表情になっており、初めは怖がっていた未知の感覚にも今はすっかり虜になっているようだった。
セレナがその頬にキスをする。それを真似てイーラは彼女の目元、流れ出た快楽の涙を掬うように口付けした。その目にはまだ少し戸惑いの色はあるが、恐怖に怯え怒りに燃えていたあの時の目はもう無い。
きっとこの目が血を流すことは無い、自分が流させない……そう決意を新たにして、セレナは眠りについた。イーラも同時に眠りにつき、二人は抱き合ったまま、繋がり合ったまま床を同じくした。
治癒液の容器から出るまでの間、二人が眠りと交わりを繰り返していたことは言うまでもない。
その度にセレナに新しい傷が増え、一ヶ月で出られるはずが半年掛かってしまったのは別の話である。
かくして、怒りの魔人の正体とは恐怖に怯える童だった。勇敢な女戦士の手によって救われた童は、末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし!
は? イーラがどこへ行ったって? どうせ他の連中みたいに知ってるんだろって?
いんや、七人目に限って言えば行方はとんと知れずさ。語り手の威信とプライドを懸けて八方手を尽くしたんだが、結局噂以上の話は聞けずじまいだったよ。
やれ、北の大地で凍土を削ってるとか、南の島で果物食いながら静かに暮らしてるとか、西の新大陸に渡ったとか、極東のジパングあたりに旅に出たとか。王魔界で姿を見ただの、不思議の国で見かけただの、海を走っている姿がどうだの……大半は眉唾ものだったよ。
ひょっとしたら静かに暮らせる場所を探し求めてるんだろうな。
あぁ、そうそう! イーラの行方を調べていて、決まって耳にする事が二つあった。ひとつはイーラのバカみたいな強さを恐れたもの。山を平地にしたとか、海を割ったとか、隕石を砕いたとか、もう絶対ウソだろそれみたいな奴。
そしてもう一つは……。
奴のそばにはいつもソルジャービートルが付き従っていたって話だぜ。
15/10/10 00:33更新 / 毒素N
戻る
次へ