第七章 憤怒の勇者:中編
──カツン、コツン。カツン、コツン。
なんの音だ? なにかを金槌が叩いているのか。
──ガラガラ、ガラガラ。
削った土を運び出すのか。ああ、外に出たい。
──ピィー! ピューイ!!
カナリアが鳴いている。ああ、うるさい。早く鳴き止んでくれ。
あ? なんだ? 急に暗くなった。なにも見えない、自分の手も足も見えない。どこまでが掘った穴で、どこからが壁なのか、それも分からない。
暗い、狭い、見えない、聞こえない、息苦しい……。出してくれ、出口はどこだ、早くここから出して……。
どこだ……明かりはどこだ、なにも見えない……怖い、怖い、出口はどこなんだ!?
暗い……。
狭い……。
苦しい……。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイ……!!!!
う る さ い ! ! !
誰だ、土を削るのは! 金槌を振るのをやめろ!! カンカンカンカンと、いい加減にしろ!!
カナリアがうるさい! その甲高い鳴き声を誰か止めさせろ!! 頭に響くんだよ!!
どこだ……どこから響いている! 止めてやる、止めてやるぞこんな騒音!! どいつもこいつも何でぼくをそのままにしておいてくれない、どうしていつもぼくを攻める!? ぼくをイジめてそんなに楽しいのかっ!!? もうぼくを放っておいてくれ、ぼくはただ……ただ静かに過ごしたいだけなんだ!!
お願いだ、頼むから……その音を止めてくれ……!
…………そこだな? そこにいるんだな?
よくも……よくも……!!
その音を──、止めろォォォォォォォォオオオオオオオオオッッッ!!!!
黙れ、黙れぇ!! 黙れだまれダマレェェェッ!!
お前か! お前かッ!! ぼくをイジめるのは、お前かァァァァアアアアアアアア!!!!
だぁぁぁああああアアアまぁあぁああぁああアアァァァあれぇえええええぇぇぇぇぇエエエエエエエエエーーーッ!!!!!
死ね! シネ!! シネしねしネシねしねしねだまレダマれしんデしまエ、ぶっツブれロォォォォオオオオオオオオオ!!!!!!
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
…………ああ、やっと……静かになった。
「────」
ゆらりと黒い体が揺らめき、地面に生えている突起物を掴む。それは僅かな柄だけを残し地面に突き刺してあった馬上槍だった。ソルジャービートルのセレナから奪い取った戦利品であるそれを、もはや元から己の物だったように片腕で振り回す。
「あぁ、化けm──」
全てを言い終える前に役人の頭は自分の胴にめり込んだ。やはり断末魔の叫びはない。元より怒りの使徒はそんな事を許しはしない。
逃げ惑う周囲の人々。だが鎧の奥に隠れた赤い眼はそんな有象無象など見えていない。今の彼は教会の命を受けて行動している。当然、その視線の先には……。
「みィ──げェ──るゥ────」
「……!!」
七人の勇者の団長とその他諸々。抹殺対象以上の意味を持たぬ連中を捉え、馬上槍の先端が唸りを上げる。固く鍛えられ折れず曲がらずのそれがまるで鞭のように空を切り裂き、一薙ぎで命を刈り取る死神の鎌にも見えてくる。
激突、と表現するのもおこがましい一方的な蹂躙と殺戮が始まるまで、まさに秒読み段階に入ろうとしていた。
だが、そんな彼の前に進み出る者があった。
「あなたの相手は……こっち」
「────」
立ち塞がったのは王国最強、馬上槍の本来の持ち主、ソルジャービートルのセレナだった。つい昨日受けたばかりの傷がまだ癒えず満身創痍にも関わらず、彼女の双眸は静かな闘志に燃えていた。勝利を重ね続けてきた彼女は昨日が初めての敗北、そしてこれは初のリベンジマッチ、これまでずっと「挑まれる側」だった彼女は自身が「挑む側」になったことに密かに興奮していた。
すぐ背後でミゲル達が制止する声が聞こえるが無視する。今はただ目の前の男との再戦を望む心しかない。同じ「強さ」を信奉する者としてここまで怪物的な実力を持ったイーラを前に、鉄面皮に隠された彼女の心は躍っていた。例えまた敗北を喫するのであっても正面から死力を尽くしての負けなら潔く認められる。この惨殺劇の主催者たる黒甲冑に対し愛おしさまで覚えていた。
「いざ……尋常に……!」
四股を踏み力を溜め臨戦態勢を取り、両者は激突──、
しなかった。
「────」
「……え?」
激突どころかイーラはすぐ眼前に立ち塞がったセレナを軽く押しのけ、軌道を変えずミゲルらに迫る。それまでの暴力がまるで嘘のように、軽く肩を押しただけに留まった。
強者の驕り? 人としての情け?
否、どれも的を外している。どんな形であれイーラに他人を思いやるという「余裕」など欠片もありはしない。
彼は単に邪魔だったのだ。自分の目の前に現れて、「何か訳のわからないことをさえずっている」こいつの事がはっきりと邪魔でしかなかった。目の前に獣の糞があれば跨ぐように、道を塞ぐ物があれば避けるように……何か自分の行く手を塞ぐデカブツがあるぞ、なら邪魔だからどけよう、ただそれだけ。
イーラの中に戦いだとか、勝ち負けだとか、そんな他者と競う何かという概念は微塵も無い。そもそも「同じイキモノと認識されていない」のだから当然だ。「戦う」ではなく「駆除」、「勝負」ではなく「掃除」、彼にとって他者への攻撃はそれ以外の何ものでもない。想像して欲しい、足元のゴキブリが「いざ尋常に戦え」などと曰ってきたら、あなたはどうするか……そういうことなのだ。
つまりイーラにとって今のセレナとは、路傍の石ころも同然の扱いでしかない。邪魔だから退かした、結論はだたそれだけのことである。
「…………なに、それ」
セレナの中で燃えていた闘志は瞬時に怒りの炎に豹変した。かつて槍を持ったばかりの無名の頃は多くの対戦者に見くびられたが、これはもはや見くびるとかそんな次元ではなく、文字通りの「眼中にない」状況だと思い知らされた。戦士云々の前に生物として認められていないのだ。
あくまで魔物娘である彼女にこう言うのはおかしな話だが、その怒りはまるで純潔を穢された乙女の恥辱にも似ていた。
「ッッッ!!!」
槍を振るうばかりが能ではない。ソルジャービートルの膂力は昆虫型魔物の中ではトップクラス、繰り出した張り手は全身の激痛を顧みなければ必殺の一撃を放つ槍に変化する。布告もなく放たれた岩をも容易く砕く張り手がイーラの背中を捉え──、
黒い踵が顎を打ち抜いた。
「がっ、は……!!?」
真後ろからの強襲にも関わらず、その足は正確にセレナの顎を砕きその平衡感覚を殺した。強烈な後ろ蹴りをまともに食らってしまい、大きくよろめく体を何とか抑えたものの、打ち鳴らした鐘のように揺れる頭が嘔吐中枢を執拗に刺激し、立っているだけで精一杯だった。
だがそこは歴戦の闘技女王、体は麻痺してもその頭はイーラに対する考察を始めていた。
(反応、早い!? どうやって、こっちの動きを……。その前に、何でこっちの動きが?)
仮にこれが正面向き合っての戦いだったとしても、今さっきのイーラの動きは異常極まる。セレナの動きを事前に予知していなければできない芸当、百歩譲っても攻撃の瞬間を目にしていなければあれほど速く、しかもこちらの攻撃より先に迎撃するなど出来るはずがない。
「そいつに背後からの攻撃は不可能だ! 奴は後ろにも目を持つ!」
遅いアドバイスを寄越すのはかつてイーラを封じたミゲル。彼らもまた勇者になる以前のイーラには手を焼かされた。特に背後からの奇襲も返り討つ直感や、こちらの隠遁を瞬時に看破する索敵能力、この二つは持ち前の怪力以上に厄介な能力だ。この二つがある限りイーラと一対一での戦いに勝利することは絶対に不可能である。
「まずは距離を取れ! 離れるんだ!!」
と簡単に言ってくれるが、平衡感覚を失った今の体では逃げることなど出来ない。
「じャ──まァ────!!」
黒鉄の腕が大きくしなり、開かれた五指がバネ仕掛けのようにセレナの顔面に振り下ろされる。音を越え大気を切り裂き、空間そのものを抉り取るような猛悪な毒手は身動き取れないセレナを……。
「エステル!!!」
「はい!!」
凶悪な一撃が触れる寸前、駆け抜けた褐色の影がセレナを担ぎ上げた。見た目以上の力を発揮したエステルはその脚力で逃げおおせることに成功したのだ。
「ギリギリで間に合いました。ですが……」
「…………」
ソルジャービートルの頭部に生える二本の角、それが今や根元の僅かな部分だけを残し白煙を上げて消滅していた。手に触れた物体が何をどうしてこの世から完全に消え失せたかなど、今は想像することすら恐ろしい。唯一つ確かなのは、あともう少し助け出すのが遅れていれば脳髄の三分の一を持って行かれただろうということだ。
だが致死の一撃を放ったイーラの意識は離れたうるさい小蝿に向けられず、本来の目的である六人の撃滅を再開しようとしていた。五体を凶器どころか兵器として振るいながら、魔人の進撃が勇者に押し寄せる。
すかさずエステルが右腕のルーンを起動させ触手の群れを召喚、それらが一斉にイーラの手足に絡みつく。常人なら指一本も動かせず餌食にされてしまうところだが、魔人の進撃はそれらを紙切れのように引きちぎりながら止まる様子をまるで見せない。触手の群れは足止めにもならなかった。
だが僅か一瞬、触手が絡みついたその瞬間だけイーラの意識が背後に向くのを見逃さなかった者がいた。
「リーダー、俺が倒れたらあとよろしく!!」
「ミーシャ!!?」
前に進み出るのは六勇者最弱の男、ミーシャ。両の腕を前に突き出しイーラに突貫した。
イーラを力尽くで倒すことは絶対に出来ない。だが力に頼らず正面から倒せる存在、それが小熊のミーシャだ。その指先爪の先が僅かでも触れさえすれば、その力は怒りの魔人以上の理不尽の権化、あらゆる生命は凶運から逃れ得ず死を迎える。そう、殴り合いで勝つ必要はない、イーラに触れるだけで全てが決まるのだ。
彼我の距離は僅か二メートル、曲がりなりにも勇者の加護により身体を強化されたミーシャにとっては瞬きの間に踏破できる距離だ。相手が触手に気を取られている今が絶好のチャンス、これを逃せば二度と好機は訪れないと一念発起してミーシャは魔人に向かって全力疾走した。
あと数センチ、指先がイーラに触れる距離にまで到達しそうになる。このまま行ける、誰もがそう確信していた。
当のイーラ以外は、だが。
「────!!!」
イーラは動じない。まるでそんな攻撃など届かないと知っているように。
そして、事実そうだった。
イーラの右足が半歩進み出て、自らを支える大地を「ほんの少し」踏み抜いた。それだけで大地は軋みを上げて重圧に負け、人ひとりを容易に飲み込む亀裂がミーシャの足元に出現する。
「のわぁぁぁあああああああ!!?」
両手を突き出して走っていたミーシャは突然開いた亀裂に前のめりに倒れこみ、その上から馬上槍が狙いを定める。
「ミーシャを……傷つけるなァァァ!!!!」
鬼のような形相で飛び出したシュエリーは竹を切って作られた棒を振るい、イーラの魔の手よりミーシャを救い出そうとする。その背後からはミゲルとゴードンも続き、三人して隙を与えぬ連携で魔人に接敵する。
棒の先端は当然の如くイーラに捉えられた。だがその隙に脇から飛び出したゴードンとミゲルが刃を突き立てようと二手に分かれて接近する。
だがそれは棒キレごと振り回されたシュエリーに阻まれ、三人まとめて吹っ飛ばされた。
「これで、どうです!!」
背後からイーラの首に飛び乗ったエステルがそのまま全体重をかけて頚骨をへし折りにかかる。どれだけ怪力を誇ろうと人体構造は常人と同じのはず、ヒトより遥かに重いエステルの体重ならと全身全霊で重力に任せ体を傾けるが……。
「────」
「そんなっ!?」
地下深くに打ち込まれた鉄の柱のように、イーラの首はびくともしなかった。首元に鬱陶しい何かが絡みついたと思ったか、黒い手がエステルの顔を鷲掴み、大きく振り上げ──、
亀裂に足を取られもがいているミーシャに叩きつけた。機を伺い触れる瞬間を見計らっていたミーシャは今度こそ沈黙し、僅か五分にも満たない短時間の内に腕が立つ者全員がやられてしまった。
「しィ────ねェ!!!!」
「させ、ない!!」
馬上槍が唸りを上げ、亀裂に飲み込まれた二人を磨り潰そうとする。だが回り込んだセレナがそれを羽交い絞めにして阻止しそのまま押し倒す。そこへ更にイルムが二人まとめて触手で固定した。
「でかした! 今しばらくそうしているのである! アヤ!!」
「お任せぃ!!」
体躯の小さいアヤがその俊敏さを活かして一気に接近する。決して戦いに向いていない彼女だが、動きを封じた今なら彼女の素早さが物を言う。そして彼女は今、イルムから預かった魔界銀の兜を抱えていた。
「ガアアァアァアア!! グアアァッ、ギガァッァアアアアアアア!!!!」
「うおっ怖!!? あんさんホントに人間か!?」
黒兜を外すとギョロリと覗いた赤眼がアヤを捉え、狂気の雄叫びを上げながら歯をガチガチと鳴らして噛み付こうとする。ドロドロと両の目から血涙を流す様はもはや人間どころかこの世の存在として認めることすら躊躇われたが、勇気を振り絞りアヤの手が遂に銀の兜でその頭を封じてみせた。
「────────」
「お? おお! おおおっ!?」
「これは……」
「見たか! 我輩の予測は的中したであろう!」
イルムが事前に言っていたように、兜を替えた瞬間にそれまでの暴虐が嘘のようにイーラの動きが停止した。糸の切れた人形、という言葉がそのまま当てはまるようにイーラは仰向けに倒れたまま動こうとしなかった。怒りの使徒は遂にその動きを止めたのである。
「人間、死ぬ気でやれば為せないことは無いんだね」
「そう言うお前と俺は見てるだけだったがな。だが、奴は本当に封じられたのか?」
「問題ない。我輩の見立てに狂いなど無い、奴はその力を自発的に振るうことはもうないだろう」
「いったい……なに?」
一人だけ置いてけぼりを食らっていたセレナは事態の真相が分からず、ただ自分が押し倒した男の兜越しの顔を見つめていた。それまで夥しい量の血涙を流していた目は血を流すのを止め、紅玉のような瞳はただ呆然と外界を、今は自分の上に陣取るセレナの紫の瞳を見返していた。
程なくして騒ぎを聞きつけた新たな役人たちが大挙して押し寄せ、門を破った重罪人としてイーラを引っ立てた。頭の兜を残して全身の装備を剥ぎ、手足に鎖を巻かれる。その間もやはりイーラは魂が抜け落ちたように抵抗もせず、沈黙を保ったまま彼らにしょっ引かれて行った。
かくして、六人の側からは誰一人の犠牲も出さず、驚く程あっさりと事態は収束したのだった。
「そろそろ話してくれてもいいだろう。一体どんなカラクリであのイーラを大人しくさせたんだ?」
騎士団の詰所で傷の手当を受けながら、ミゲルはイルムに質問する。イルムはそれに対する答えとして、イーラに被せた物と同じ予備の銀兜を取り出した。
「これにはちょっとした術を仕込んである。セレナとやら、装着してみるのである」
「ん……」
ちょうど角が折れたことで遮るものもなく、セレナの頭にそれがすっぽりと収まった。一見何の変哲もなかったが、実際被ってみたところで何の変化も無い……ように思われた。
「???」
おかしい、すぐ目の前でイルムが口を動かしているのにまるで声が聞こえない。すぐ隣のミーシャが兜を外すジェスチャーをしたのでそれを取り外すと……。
「とまあ、こういうことである」
「なるほど。『音を遮断する兜』か。だが奴とて馬鹿ではないはず。それを被せられてなぜ大人しくなる? そこが分からない」
「やれやれ。貴様らあれほど奴と矛を交えておきながら、奴の能力にまるで理解が及ばないのか。これだから凡俗は……」
「もったいつけねぇで話すだよ!」
「そもそも貴様ら、なぜイーラが暴れまわるのか考えたことはあるか? そして、なぜイーラにはこちらの動きがことごとく読まれるのかも」
「その二つに何の関係がある」
「大ありなのである!」
断言するイルムはミゲルの背後に回ると、そこで指を鳴らした。
「今我輩は何をした?」
「指を鳴らしただけだろう?」
「なぜそれが分かった?」
「それは音で…………そういうことか!」
今のやり取りで全員がイーラの秘密に辿りついた。割れてみればタネは簡単なものだった。
「背後からの奇襲も完璧にガードし、常にこちらの位置を正確に知る索敵能力……。その正体は奴の異常に発達した聴覚の成せる技だったわけか」
「そうである。奴の聴力はそんじょそこらの獣並み、いやそれ以上である。恐らく地平線の向こうで誰かが落とした硬貨の数も聞き分けるだろう。そしてそれと同時に奴の狂乱もそれで説明がつく」
「それは……?」
「そもそもヒトの脳とは獣並みの聴覚を有するに耐えられない。奴の暴れ具合から察するに恐らくは後天的に得た特性、否さ『異常』だ。奴にとって周囲に満ちる音や声は自分の頭をぶん殴る金槌のようなもの……今の奴は幾年か焦がれ続けた静寂の中にいる、自分からそれを捨てるなど有り得んのである」
そう考えればつくづくイーラという男も哀れなものだ。四六時中脳髄をヤスリ掻けされている彼にとってまともな思考など望むべくもなく、教会に飼い慣らされて言われるがままの仕事をするしか能がなかったに違いない。
「だが謎も残ったのである。奴の狂乱はそれで説明がつくとして、奴の魔物をも凌駕する剛力の出処は一体……いや、そもそも奴はどうやってそれだけの力を……」
「どーだってーじゃん、んなこと。どの道あいつはこの国の牢獄から出てこれないんだし、門破りの罪で兜を被ったまま断頭台行き確定だよ」
「そうなると、そろそろだね。おっ、来た来た」
図ったように窓際に留まる伝書鳩。その足に付けられていた文書に各々目を通す。はたしてその文書には……。
「『長らくの任務ご苦労。諸君らの働きにより王国陥落は既に確実なものと確信した。ついては今までの労をねぎらい、諸君らにそれぞれ爵位と領地を授けるものとする』。……これ本気で言ってるのか?」
「十中八九、嘘っぱち。もし本当なら教会は僕らが思ってる以上に馬鹿ってことになるね。おおかた、ここに書かれた報酬を受け取るためにホイホイと出てきたところを取り押さえるつもりなのだろうけど、今の教会に爵位と土地を寄越すだけの権力が無いことなんて子供でも知っているよ」
「ああ……そうだな」
こんな連中にこき使われていたのかと思うと今までの数年を無駄にしてしまったと思えてしまう。元から教会に対する忠誠など欠片も持ち合わせていないが、それでもここまで落ちぶれた雇い主だと知らされると呆れも通り越しやるせなさだけ感じる。
「こんな餌で今更俺達が釣れると本気で思っているのか」
「ああ、全くだ────」
「レスカティエなど、とっくの昔に滅んでいるのにな」
1000年の隆盛を誇ったレスカティエ教国も今は昔、「レスカティエの落日」と呼ばれる大事件が勃発したのが今から五十年も昔のことだ。反魔物派の筆頭であった教国は表向き人間が治める教団国家となっているが、その実態はリリムが裏で糸を引く魔界国家というのはもはや周知の事実だ。
だがそこは腐っても主神教の総本山、現在国内は二つの勢力が二分していた。傀儡となり堕ちた女王フランツィスカを筆頭とする親魔物の「女王派」、未だ出現する勇者資格者を使い教団国家のリーダーシップを取り戻そうとする「教会派」の二つだ。今回アルカーヌムに対する国家レベルの工作もその教会派の支援あってこそ成立していた。
「だがこれでもうおしまいだ。そろそろあの皇女殿下もこの企みに気付く頃だ」
「閨の外で起きてることに興味が無い今までだったから出来たことだけど、さすがに教会も調子に乗りすぎたね。殿下自ら敵対勢力の叩き潰しに出るかもね」
現在レスカティエは魔界でも五指に入る魔王の娘、リリムが影から支配している。半世紀前、当時最強と謳われた勇者ウィルマリナとそのパーティーが迎え撃ったにも関わらず、それをものともせず彼女らを「堕とし」、僅か一日で教国を制圧した強力な妖魔と聞いている。
「我々もそろそろ、再就職先を探すとするか」
「何人かはすぐ見つかりそうだな。……あん? あのセレナって奴はどこ行った?」
トーマスの指摘で彼らは闘技王が部屋から消えていることに初めて気付いた。元が部外者だったので自分に関わり無いことだと察して仕事場へ戻ったのだと納得したのだが……。
「あいつ、我輩の作った兜を持ったまま出て行ったのである……」
徐々に増える人波の中を歩く巨大な魔物、ソルジャービートルのセレナ。この街で彼女を知らない者はいない。ほんの二年前まで闘技場を湧かせていた名闘技士、数世紀後の世界で言えば地元出身の有名なスポーツ選手といったところだ。彼女の強さに憧れて闘技場デビューを飾る者もいれば、彼女の記録を塗り替えようと十冠を目指す者もいるし、王者の彼女が門番などになっている事に失望する者もいる。
そもそも十冠に輝いた自分が門番などになっているのは何故だ、セレナは自問する。そしてすぐに辿り着く。
自分が「最強になってしまったから」だ。最強とは即ち、それ以上が存在しないということ。強者との戦いの果てに辿りついた境地とは、己以外の全てが弱者に墜ちたという意味でもある。他者からの称賛を疎ましく感じたと言えば聞こえはいいが実際はそんな高尚な考えではなく、あのリングの上では自分以上の存在とは巡り会えないだろうと見切りをつけたからに他ならない。早い話が自分より弱い者と戦っても何の意味もないと高を括ったのだ。
門を守っていればいずれ自分の知らない強者がやって来るだろう……そう思い待ち構えて痛い目を見たのが昨日今日のこと。自分が十年かけて築き上げた強さなど何の意味も持たない、まさしく圧倒的という言葉がそのまま具現化した存在との対峙だった。もはやプライドも何も残っていない。
だがその当の強者は自分のことなどまるで眼中に無く、無謬の静寂の中に安らぎを見出しただけの人間に過ぎなかった。
「こんな物に……あれほどの強さを?」
手に収まるのは銀の兜。ついあの場から持ち出してしまった予備の一品だ。正体を明かせば何のことはない、ただ外部からの音をかき消してしまう実戦では用無しの装備だ。
だがそれを心から求めていたからこそ、彼はこれを被っただけで狂乱を収めた。押し倒した瞬間に見えたあの赤眼、戦いの最中に血涙を流していたその目もあの瞬間だけは心安らいでいた。
「…………本当にそう?」
湧き上がる疑問、それは奇しくもイルムが抱いたものと同じだった。
我が身一つの安らぎを得るためだけにあそこまでの力を必要とするだろうか? それにあれだけの力を持つ者が廃れた教会の手先に甘んじていること自体おかしい。
何か弱みを握られている? いや、彼の攻撃には敵を必ず滅するという意志それだけが込められていた。同じ戦いに身を置く者だからこその直感、彼の繰り出す一撃に不純はなく金剛石の如く磨き上げられていた。だからこそ余計に分からない。
「…………分からない」
一度思考に入るとなかなか抜け出さない性格か、イルムから拝借した兜を早速使用する。その瞬間に周囲の喧騒は無に消え去り、風が髪を揺らす微細な振動でさえ鼓膜に届かなくなった。完全な無音だけが頭の中に染み透る。
眠っている時のような静寂に満たされ、心は自然と原始の穏やかさに包まれる。耳を塞いでも手の僅かな動きがザワザワと聞こえるものだが、これはそんな音さえも聞こえない、真の意味での無音がもたらされていた。
春の陽気も相まって立ったまま寝入ってしまいそうになる。そう言えば昨夜は寝ずの番までして今朝の戦いだ。流石に自分の巨体が腰掛けるベンチは無いので、街の一角に作られた公園の芝生に腰を下ろして一眠りすることにした。
「……ふあ……」
陽気と風が心地よく眠気を誘い、程なくしてセレナの意識は微睡みに落ちた。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
『だァ────れェ────だァ』
「ッ!!?」
どこからともなく響く声にセレナは飛び起きた。巨体を揺らしたことで周囲に集まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
「……!? ……??」
耳元から聞こえた声の主を探して周囲を見回すが、自分のすぐ近くに怪しい人影は見当たらなかった。
というより、自分は音を遮る兜を着けている。そこに声が聞こえるなど……。
『だ、れ、だァ……!』
「!!!?」
聞こえた、確かに聞こえた。地の底から轟くような声がすぐ耳元から。
「だ……誰!?」
『だぁ……れぇ……だァァァ!!』
どうやらこちらが答えぬ限りこの問い掛けは延々と続くようだ。
「セレナ……」
『せ、れ、なぁ? ……ァア……おぼえたァァ……』
耳を打つ嗄れた声には聞き覚えがあるが、今はそれよりもこの声がどこから聞こえてくるのかが気になる。
どうやら被っている兜に原因があるのではと一旦外すと、魔界銀を熔かして鍛えられたそれが僅かに魔力を帯びていた。恐らくだが何らかの理由で発生した魔力が同じ波長で発せられる魔力に干渉し合い、それぞれの所有者の意識を結びつけたのだろう。
だがそうなると、今こうして会話している相手とは何者か。
「…………あなたは、誰?」
この銀兜は同じ製作者が全く同じ時期に同じ材料で鍛え上げた二つの片割れ。
残った片方の持ち主は……。
『アァ……い、“いぃら”……。ぼくの、なまえぇ……』
怒りの使徒、狂乱の魔人。今の声はどこまでも穏やかなものだった。
イーラにとって誰かと会話するのは実に十五、六年ぶりのことである。最後に言葉を交わした相手は顔も覚えていない母親で、今となってはどんな事を話したかさえうろ覚えだ。誰にでもある幼少の頃の記憶だ。
イーラは奴隷である。イーラの母も奴隷で、父親は母を性欲発散の道具にしていた不特定多数の誰かだ。暗く狭い坑道の中を出産直前まで行き来していた母は、その中でイーラを産んだ。暗く、狭く、埃臭い場所で、削り出した石塊を玩具に、カナリアの鳴き声を子守唄に育った。
イーラに名は無い。「イーラ」という名は教会が勇者となった彼に対し授けた洗礼名だ、元の名は知らない。奴隷に名前など上等なものは必要ない、「おい」や「おまえ」で一括りにされる。母がどんな名を付けてくれたか今ではさっぱり思い出せない。
奴隷に与えられた仕事は死ぬまで坑を掘り進めることだ。鉱脈を抱えた山を人の手だけで削り、その中に蓄えた鉄鉱石だか石炭を取り出すのが奴隷達に課せられた一生の仕事だった。明けても暮れても坑を掘り続け、支払われる報酬は薄い豆スープと粗悪な黒パンが二食、そして僅かな睡眠時間だけだ。
毎日毎日、男も女も関係なく子供から老人まで、手に金槌と杭を持って山に入った。鉱毒を検知するカナリアを相棒に、ロウソク一本の僅かな明かりを頼りに土を削った。ある程度削ればそれを外まで運び出し、また掘る。毎日がその繰り返しだった。
環境は劣悪、毎月のように死人が出た。多くは栄養失調や坑道に満ちる粉塵による労咳が死因だったが、中には雇い主からの暴力で命を落とす者もあった。奴隷は主人の所有物、使用人どころか備品以下の扱い、気まぐれや戯れで殺されても文句は言えなかった。
イーラもその一人だった。仕事が遅い、飯を食べるのが遅い、顔がムカつく……理由は何でもありで、その度に頭を横合いから殴りつけられた。相手が子供だろうと老人だろうと容赦なし、そうして死んだ者も土と一緒に外に放り出したりもした。
彼の耳が鋭くなったのもこの頃からだ。度重なる側頭部への打撃が聴覚を司る部分をどのように刺激したか定かではないが、暗く狭い坑道での生活は彼の聴覚を更に桁外れたものへと成長させてしまった。その異常発達した聴力はやがて人間の言葉ですら雑音としか捉えられないほど、大きくそして歪に膨れ上がった。
土を削る金槌と杭の打つ音、運び出す石同士が触れ合う音、甲高いカナリアの鳴き声、そして自分に暴力を振るう主人の怒鳴り声……それら全てがイーラの耳に突き刺さり、錐のように鼓膜を刺し貫いた。寝ても覚めても、いや、どんな微細な音も増幅して拾ってしまうイーラの耳は眠ることすら許さなかった。いつしか彼は眠ることをやめた。
四六時中頭を万力で絞められるような激痛で彼の精神は徐々に摩耗していった。ある一定の部分で均衡を保っていたか細い理性の糸。だがそれは坑道の落盤事故をきっかけに容易くちぎれ飛んだ。
「ころさなきゃ……! ぼくを、イジめるものは……ぜんぶ……!!」
同じ空間に取り残された者達を、鞭を振るった主人も、籠の中でうるさく鳴いていたカナリアも……拾った石でその頭を微塵に砕いた。
何度も何度も何度も何度も、暗闇の中で雑音を撒き散らすそいつらを探し出し、うるさく喚く部分を執念深く叩き潰した。暗闇は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、見えない殺人鬼の存在に皆が怯えた。だがその恐怖も長くは続かなかった。恐怖に慄きの声を上げることすらイーラは許さなかった。
「いたい……いたい、いたい……! アァ……いたいよぉ……!! ぁあたまが、いたいぃぃぃ!!」
完全に絶命するまでの間イーラもまた苦しんだ。彼らが発する断末魔の叫びはイーラにとっては頭を斧で叩き割られるようなもの、ますますその精神を凶暴化させる一因となった。
その全てを叩き潰した時、イーラは久しぶりに熟睡できた。そして自力で小さな穴を掘り、彼は人生で初めての自由を得た。
そして、すぐに終わった。
さまよい歩いていた自分を拾ってくれた村人だったが、静寂な暮らしを望んでいたイーラにとってそれは大きなお世話、むしろ拷問でしかなかった。その後の顛末は六人の勇者の知るところである。
牢獄の暮らしは耳を潰す騒音にまみれた穴蔵に比べればずっと過ごしやすかった。このままずっとそこで暮らすこともやぶさかではなかった。
だが、求めた「自由」は二度奪われる。
勇者の加護はそれを受けた者の肉体能力全てを上昇させる。筋力は言わずもがな、魔力も常人と比べれば多くなる。
そして、当然その五感も……。
「ギィィアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッッッ!!!!」
こうして怒りの使徒は、史上最悪の勇者は誕生してしまった。
イーラとの会話は思いのほか弾んだ。こうして言葉を交わしていると、あのおどろおどろしい破壊の権化がまるで嘘のように思えてくる。嗄れた声はまるで老人だが、彼が切り出す話は子供のそれだった。
『すきな、いろは……?』
『どこにぃ、すんでる?』
『あまいもの……すぅき?』
まるで子供だ。その精神年齢は幼い頃のまま止まってしまっている。
ちなみに好きな色は鋼色、住んでいる場所はここ王都、甘いものは魔界産の果実なら何でもイケる口だと答えた。
『まかいの、くだものぉ……。おいしぃ?』
「とても美味しい」
『そぉう……。たべて……みたぁいなぁ』
「王都にならある」
『ひとの、いるところは……き、ら、い。せれなはぁ……すき?』
「苦手。だけど……嫌いってわけじゃない。イーラは……何で嫌いなの?」
『みんな…………みぃんな、ぼくを、イジめるから……』
「いじめる……?」
『あたまが……いたいぃぃぃ』
「…………そう、大変だね。今は静かでしょ」
『うん……とっても』
流麗な音色を奏でる秋の虫を西方の人間が騒音と捉えるように、イーラにとって周囲の存在は自分を苛む敵なのだ。彼の中に敵味方という分け方は存在しない、己以外の全てが敵だ。
想像して欲しい、自分の周りを常に棍棒を携えた者らに囲まれる様を。そいつらが24時間、365日絶えず己の頭を眠る間も与えず打ち据える様子を。これが地獄以外に思えるのなら是非ともそいつの顔を拝んでみたい。
「よかったね……」
『……………………うん』
「何か不満なの?」
『…………』
それまでのたどたどしくも無邪気な物言いは鳴りをひそめ、その事には答えたくないと言わんばかりに沈黙する。互いに離れた場所にいるので彼がどんな表情をしているのか容として知れない。
やがて自分から折れたイーラがぽつりと呟いた。
『ぼくは、こんなもの……いらなかった……』
それが何を指しているのかは聞けなかった。その言葉に込められた情念がセレナに問いかけることを躊躇わせた。
確かに彼は暴虐の魔人である事は相違無いだろう。だがそれはあくまで一側面、今こうして話している彼はとても穏やかで純粋なただの子供だ。その子供がここまで乖離した二面性を持つに至った経緯を想像するだけで、セレナは気圧されてそれ以上の追求が出来なかったのだ。
自分がそれを知ったところでどうなる? その事実を背負えるのか? 背負ったから何だと言うのだ? それに何より、彼はもう最後の安息を手に入れる。六人が言っていたように断頭台に連れて行かれるのも時間の問題だろう。いずれ消え去ることが分かっている彼の何を知ってどうしようというのだ。
彼の境遇に哀れみを覚えたのなら、今の彼に対し出来ることはただ静かに何も煩わせず最期を迎えさせること、ただそれだけだ。
「……果物を、届ける。市場で買ってきてあげる。何がいい?」
『なんでもいい。でも……ぼくはいま、つかまってる……』
「持って行ってあげる」
『ありがとぅ、せれな……。でも、いいんだ……。ぼくは、もういかなきゃならない』
「イーラ……?」
何か様子がおかしい。それまで穏やかで漫然と喋っていただけの口調が、急に固い決心を抱えたものに変わる。
『れすかてぃえ、に……もどる』
「イーラ!?」
『ありがとぅ、せれな……。たのしかったぁ』
「っ!!」
いてもたってもいられず遂にセレナはイーラが収容されている監獄に向かって走った。彼に与えられた全身の傷が悲鳴を上げるがそんな事を気にする暇はなく、確信に変わった不安に突き動かされてただひたすら彼がいる場所を目指して疾走した。
だが彼女が辿り着いた時には既に遅かった。
石造りの壁に大穴が開けられ、その中から姿を現す姿……。
「イーラッ!!!」
「────」
銀兜の奥に素顔を隠し、陽を知らない細く白い体がゆらゆらと幽鬼の如く粉塵の中より現れる。両手両足には引きちぎったのであろう枷がそのままになっており、中で蹂躙したのか背後には看守も囚人も一緒くたに破壊され尽くした跡が残っていた。
ふと、彼の顔がセレナを向く。被っているのは互いに同じ兜、そして自分の名を叫んだ相手がさっきまで話していた相手で、それと同時に自分が叩き潰した相手だと知るイーラ。
「ご──、ご、めん……せ、れ、な」
「イーラ……」
「さ、よならぁ……」
「どこ行くの……待っ──!」
制止の言葉も聞かず、イーラの足は迅雷の速さで監獄を走り去った。足が一歩踏み出す度に衝撃が周囲の瓦礫や人間を弾き飛ばし、その姿が一瞬で地平線の向こうに消える。怒りの魔人の謎の脱走にセレナはただ呆然とその場に立ち尽くすだけだった。
彼は何故逃げ出した? そもそも何から逃げる必要があったというのか。
いや、逃げたのではなく、どこかへ向かったのだとしたら?
自問自答を続ける彼女に見知った面々が声をかけてくる。
「セレナ!! 君もここにいたのか!」
「一体これはどいうことだ! 何があったか説明しろ!」
六人の勇者とその一行が騒ぎを聞いて駆け付けた。
「分からない……。突然、イーラが……」
「奴がこれを? 奴はどこに行った!?」
「分からない。…………待って、イーラはレスカティエに行くって……」
「教国に? 何故であるか?」
「それは、どうやらこれが原因のようだね」
瓦礫の中からクリスが発掘した物、それは他の六人が受け取った文書と同じ教会からの召集状だった。これを目にして動き出したということは、彼はここに書かれている褒美を受け取るためだけに脱獄したことになってしまう。
「はぁ〜……狂っているとは知っていたが、まさか阿呆だったとはな。こんな見え見えの嘘八百に引っかかる程度の脳ミソだったのか」
「ちょうどいいや。厄介者を押し付ける相手が王国から教会に変わったってだけだよ。俺たちにゃ関係ないね」
「…………違う」
「違うって、何が違うだ?」
「イーラは……あの子は、そんな事のためには動かない。もっと別の、何か大きな理由があって……」
「狂人にまともな理由なんざあるもんかよ」
「狂ってなんかいない。あの子の言葉は真実だけを話してた。分かる……」
「奴と言葉を交わしたのか!? いつ、どうやって?!」
ここで初めてセレナは銀兜の隠された力を打ち明けた。魔界銀の合金と無音の魔術が引き起こした共鳴反応、これには製作者の一人であるイルムも驚いた。
「まさかそのような副産物があったとは。それで、彼奴と何を話した? どこまで知っているのであるか?」
「ただ、教国に行くとだけ……」
「おい、今ならまだそれで奴と話が出来るかも知れん。早いとこ奴自身から目的を聞き出せ!!」
「そうか……!」
怒涛の出来事につい失念していたが、最初からこれで会話を続けていればイーラの真意を問いただせると知りセレナは再びそれを被る。
彼女の直感が正しければイーラは狂ってなどいない。あの言葉は何か重大な決意によって口から出たものに違いない。であればそこに彼は何かを見出して行動しているのは明白だった。
「イーラ……答えて」
まだ自分の声が届く範囲にいると信じ、ひたすら呼び続けた。
そして……。
『────あァ……せれな』
「イーラ、何がしたい?」
『ぼくは……“ゆぅしゃ”だから……。そうしないとぉ、ぼくはいつまでたっても……ほしいものを、とれないからぁぁぁ』
「それは、教会がくれるっていう……」
『ち、が、う!! ぼくのほしいもの、おかねじゃ……かえないぃ! ぼくが、ぼくのてで……かちとらなきゃ……だめなんだぁ』
「勝ち取る……?」
『でもぉ……そのまえに、じゃまなやつ、かたづけるぅぅ……!!』
「それは一体……何!?」
『ァァァ……ま、まぉ……まおうのぉぉお、むすめぇぇぇ……!!』
「────っっっ」
セレナは自分の内臓が凍りつく錯覚を覚えた。いや実際は本当に凍っていたのかも知れない。イーラの言葉の意味するところを知らされ、その大それた行動に絶句してしまいそれ以上言葉をかける事も忘れてしまった。
『やっとぉ……やっと、このときがきたァァァアアアアッ!!!!』
最後に兜を通じて聞こえたのは、雄叫びを上げるイーラの歓喜の声だった。
茫然自失となりながら兜を外し、それと同時に全てに得心した。
何故彼ほどの強者が教会に従っていたのか。何故そこまで強さを得なければならなかったのか。何故彼が裏切り勇者の抹殺という任を大人しく受け続けていたのか。
全ての謎が線で繋がり、怒れる魔人の真の目的が白日にさらされる。
「あの子が、危ない…………」
第四皇女・デルエラの討伐──。
最強の淫魔を討つために、最悪の勇者が今教国へと進撃を開始したのだ。
なんの音だ? なにかを金槌が叩いているのか。
──ガラガラ、ガラガラ。
削った土を運び出すのか。ああ、外に出たい。
──ピィー! ピューイ!!
カナリアが鳴いている。ああ、うるさい。早く鳴き止んでくれ。
あ? なんだ? 急に暗くなった。なにも見えない、自分の手も足も見えない。どこまでが掘った穴で、どこからが壁なのか、それも分からない。
暗い、狭い、見えない、聞こえない、息苦しい……。出してくれ、出口はどこだ、早くここから出して……。
どこだ……明かりはどこだ、なにも見えない……怖い、怖い、出口はどこなんだ!?
暗い……。
狭い……。
苦しい……。
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
うるさい。
うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイウルサイ……!!!!
う る さ い ! ! !
誰だ、土を削るのは! 金槌を振るのをやめろ!! カンカンカンカンと、いい加減にしろ!!
カナリアがうるさい! その甲高い鳴き声を誰か止めさせろ!! 頭に響くんだよ!!
どこだ……どこから響いている! 止めてやる、止めてやるぞこんな騒音!! どいつもこいつも何でぼくをそのままにしておいてくれない、どうしていつもぼくを攻める!? ぼくをイジめてそんなに楽しいのかっ!!? もうぼくを放っておいてくれ、ぼくはただ……ただ静かに過ごしたいだけなんだ!!
お願いだ、頼むから……その音を止めてくれ……!
…………そこだな? そこにいるんだな?
よくも……よくも……!!
その音を──、止めろォォォォォォォォオオオオオオオオオッッッ!!!!
黙れ、黙れぇ!! 黙れだまれダマレェェェッ!!
お前か! お前かッ!! ぼくをイジめるのは、お前かァァァァアアアアアアアア!!!!
だぁぁぁああああアアアまぁあぁああぁああアアァァァあれぇえええええぇぇぇぇぇエエエエエエエエエーーーッ!!!!!
死ね! シネ!! シネしねしネシねしねしねだまレダマれしんデしまエ、ぶっツブれロォォォォオオオオオオオオオ!!!!!!
……………………。
……………………。
……………………。
……………………。
…………ああ、やっと……静かになった。
「────」
ゆらりと黒い体が揺らめき、地面に生えている突起物を掴む。それは僅かな柄だけを残し地面に突き刺してあった馬上槍だった。ソルジャービートルのセレナから奪い取った戦利品であるそれを、もはや元から己の物だったように片腕で振り回す。
「あぁ、化けm──」
全てを言い終える前に役人の頭は自分の胴にめり込んだ。やはり断末魔の叫びはない。元より怒りの使徒はそんな事を許しはしない。
逃げ惑う周囲の人々。だが鎧の奥に隠れた赤い眼はそんな有象無象など見えていない。今の彼は教会の命を受けて行動している。当然、その視線の先には……。
「みィ──げェ──るゥ────」
「……!!」
七人の勇者の団長とその他諸々。抹殺対象以上の意味を持たぬ連中を捉え、馬上槍の先端が唸りを上げる。固く鍛えられ折れず曲がらずのそれがまるで鞭のように空を切り裂き、一薙ぎで命を刈り取る死神の鎌にも見えてくる。
激突、と表現するのもおこがましい一方的な蹂躙と殺戮が始まるまで、まさに秒読み段階に入ろうとしていた。
だが、そんな彼の前に進み出る者があった。
「あなたの相手は……こっち」
「────」
立ち塞がったのは王国最強、馬上槍の本来の持ち主、ソルジャービートルのセレナだった。つい昨日受けたばかりの傷がまだ癒えず満身創痍にも関わらず、彼女の双眸は静かな闘志に燃えていた。勝利を重ね続けてきた彼女は昨日が初めての敗北、そしてこれは初のリベンジマッチ、これまでずっと「挑まれる側」だった彼女は自身が「挑む側」になったことに密かに興奮していた。
すぐ背後でミゲル達が制止する声が聞こえるが無視する。今はただ目の前の男との再戦を望む心しかない。同じ「強さ」を信奉する者としてここまで怪物的な実力を持ったイーラを前に、鉄面皮に隠された彼女の心は躍っていた。例えまた敗北を喫するのであっても正面から死力を尽くしての負けなら潔く認められる。この惨殺劇の主催者たる黒甲冑に対し愛おしさまで覚えていた。
「いざ……尋常に……!」
四股を踏み力を溜め臨戦態勢を取り、両者は激突──、
しなかった。
「────」
「……え?」
激突どころかイーラはすぐ眼前に立ち塞がったセレナを軽く押しのけ、軌道を変えずミゲルらに迫る。それまでの暴力がまるで嘘のように、軽く肩を押しただけに留まった。
強者の驕り? 人としての情け?
否、どれも的を外している。どんな形であれイーラに他人を思いやるという「余裕」など欠片もありはしない。
彼は単に邪魔だったのだ。自分の目の前に現れて、「何か訳のわからないことをさえずっている」こいつの事がはっきりと邪魔でしかなかった。目の前に獣の糞があれば跨ぐように、道を塞ぐ物があれば避けるように……何か自分の行く手を塞ぐデカブツがあるぞ、なら邪魔だからどけよう、ただそれだけ。
イーラの中に戦いだとか、勝ち負けだとか、そんな他者と競う何かという概念は微塵も無い。そもそも「同じイキモノと認識されていない」のだから当然だ。「戦う」ではなく「駆除」、「勝負」ではなく「掃除」、彼にとって他者への攻撃はそれ以外の何ものでもない。想像して欲しい、足元のゴキブリが「いざ尋常に戦え」などと曰ってきたら、あなたはどうするか……そういうことなのだ。
つまりイーラにとって今のセレナとは、路傍の石ころも同然の扱いでしかない。邪魔だから退かした、結論はだたそれだけのことである。
「…………なに、それ」
セレナの中で燃えていた闘志は瞬時に怒りの炎に豹変した。かつて槍を持ったばかりの無名の頃は多くの対戦者に見くびられたが、これはもはや見くびるとかそんな次元ではなく、文字通りの「眼中にない」状況だと思い知らされた。戦士云々の前に生物として認められていないのだ。
あくまで魔物娘である彼女にこう言うのはおかしな話だが、その怒りはまるで純潔を穢された乙女の恥辱にも似ていた。
「ッッッ!!!」
槍を振るうばかりが能ではない。ソルジャービートルの膂力は昆虫型魔物の中ではトップクラス、繰り出した張り手は全身の激痛を顧みなければ必殺の一撃を放つ槍に変化する。布告もなく放たれた岩をも容易く砕く張り手がイーラの背中を捉え──、
黒い踵が顎を打ち抜いた。
「がっ、は……!!?」
真後ろからの強襲にも関わらず、その足は正確にセレナの顎を砕きその平衡感覚を殺した。強烈な後ろ蹴りをまともに食らってしまい、大きくよろめく体を何とか抑えたものの、打ち鳴らした鐘のように揺れる頭が嘔吐中枢を執拗に刺激し、立っているだけで精一杯だった。
だがそこは歴戦の闘技女王、体は麻痺してもその頭はイーラに対する考察を始めていた。
(反応、早い!? どうやって、こっちの動きを……。その前に、何でこっちの動きが?)
仮にこれが正面向き合っての戦いだったとしても、今さっきのイーラの動きは異常極まる。セレナの動きを事前に予知していなければできない芸当、百歩譲っても攻撃の瞬間を目にしていなければあれほど速く、しかもこちらの攻撃より先に迎撃するなど出来るはずがない。
「そいつに背後からの攻撃は不可能だ! 奴は後ろにも目を持つ!」
遅いアドバイスを寄越すのはかつてイーラを封じたミゲル。彼らもまた勇者になる以前のイーラには手を焼かされた。特に背後からの奇襲も返り討つ直感や、こちらの隠遁を瞬時に看破する索敵能力、この二つは持ち前の怪力以上に厄介な能力だ。この二つがある限りイーラと一対一での戦いに勝利することは絶対に不可能である。
「まずは距離を取れ! 離れるんだ!!」
と簡単に言ってくれるが、平衡感覚を失った今の体では逃げることなど出来ない。
「じャ──まァ────!!」
黒鉄の腕が大きくしなり、開かれた五指がバネ仕掛けのようにセレナの顔面に振り下ろされる。音を越え大気を切り裂き、空間そのものを抉り取るような猛悪な毒手は身動き取れないセレナを……。
「エステル!!!」
「はい!!」
凶悪な一撃が触れる寸前、駆け抜けた褐色の影がセレナを担ぎ上げた。見た目以上の力を発揮したエステルはその脚力で逃げおおせることに成功したのだ。
「ギリギリで間に合いました。ですが……」
「…………」
ソルジャービートルの頭部に生える二本の角、それが今や根元の僅かな部分だけを残し白煙を上げて消滅していた。手に触れた物体が何をどうしてこの世から完全に消え失せたかなど、今は想像することすら恐ろしい。唯一つ確かなのは、あともう少し助け出すのが遅れていれば脳髄の三分の一を持って行かれただろうということだ。
だが致死の一撃を放ったイーラの意識は離れたうるさい小蝿に向けられず、本来の目的である六人の撃滅を再開しようとしていた。五体を凶器どころか兵器として振るいながら、魔人の進撃が勇者に押し寄せる。
すかさずエステルが右腕のルーンを起動させ触手の群れを召喚、それらが一斉にイーラの手足に絡みつく。常人なら指一本も動かせず餌食にされてしまうところだが、魔人の進撃はそれらを紙切れのように引きちぎりながら止まる様子をまるで見せない。触手の群れは足止めにもならなかった。
だが僅か一瞬、触手が絡みついたその瞬間だけイーラの意識が背後に向くのを見逃さなかった者がいた。
「リーダー、俺が倒れたらあとよろしく!!」
「ミーシャ!!?」
前に進み出るのは六勇者最弱の男、ミーシャ。両の腕を前に突き出しイーラに突貫した。
イーラを力尽くで倒すことは絶対に出来ない。だが力に頼らず正面から倒せる存在、それが小熊のミーシャだ。その指先爪の先が僅かでも触れさえすれば、その力は怒りの魔人以上の理不尽の権化、あらゆる生命は凶運から逃れ得ず死を迎える。そう、殴り合いで勝つ必要はない、イーラに触れるだけで全てが決まるのだ。
彼我の距離は僅か二メートル、曲がりなりにも勇者の加護により身体を強化されたミーシャにとっては瞬きの間に踏破できる距離だ。相手が触手に気を取られている今が絶好のチャンス、これを逃せば二度と好機は訪れないと一念発起してミーシャは魔人に向かって全力疾走した。
あと数センチ、指先がイーラに触れる距離にまで到達しそうになる。このまま行ける、誰もがそう確信していた。
当のイーラ以外は、だが。
「────!!!」
イーラは動じない。まるでそんな攻撃など届かないと知っているように。
そして、事実そうだった。
イーラの右足が半歩進み出て、自らを支える大地を「ほんの少し」踏み抜いた。それだけで大地は軋みを上げて重圧に負け、人ひとりを容易に飲み込む亀裂がミーシャの足元に出現する。
「のわぁぁぁあああああああ!!?」
両手を突き出して走っていたミーシャは突然開いた亀裂に前のめりに倒れこみ、その上から馬上槍が狙いを定める。
「ミーシャを……傷つけるなァァァ!!!!」
鬼のような形相で飛び出したシュエリーは竹を切って作られた棒を振るい、イーラの魔の手よりミーシャを救い出そうとする。その背後からはミゲルとゴードンも続き、三人して隙を与えぬ連携で魔人に接敵する。
棒の先端は当然の如くイーラに捉えられた。だがその隙に脇から飛び出したゴードンとミゲルが刃を突き立てようと二手に分かれて接近する。
だがそれは棒キレごと振り回されたシュエリーに阻まれ、三人まとめて吹っ飛ばされた。
「これで、どうです!!」
背後からイーラの首に飛び乗ったエステルがそのまま全体重をかけて頚骨をへし折りにかかる。どれだけ怪力を誇ろうと人体構造は常人と同じのはず、ヒトより遥かに重いエステルの体重ならと全身全霊で重力に任せ体を傾けるが……。
「────」
「そんなっ!?」
地下深くに打ち込まれた鉄の柱のように、イーラの首はびくともしなかった。首元に鬱陶しい何かが絡みついたと思ったか、黒い手がエステルの顔を鷲掴み、大きく振り上げ──、
亀裂に足を取られもがいているミーシャに叩きつけた。機を伺い触れる瞬間を見計らっていたミーシャは今度こそ沈黙し、僅か五分にも満たない短時間の内に腕が立つ者全員がやられてしまった。
「しィ────ねェ!!!!」
「させ、ない!!」
馬上槍が唸りを上げ、亀裂に飲み込まれた二人を磨り潰そうとする。だが回り込んだセレナがそれを羽交い絞めにして阻止しそのまま押し倒す。そこへ更にイルムが二人まとめて触手で固定した。
「でかした! 今しばらくそうしているのである! アヤ!!」
「お任せぃ!!」
体躯の小さいアヤがその俊敏さを活かして一気に接近する。決して戦いに向いていない彼女だが、動きを封じた今なら彼女の素早さが物を言う。そして彼女は今、イルムから預かった魔界銀の兜を抱えていた。
「ガアアァアァアア!! グアアァッ、ギガァッァアアアアアアア!!!!」
「うおっ怖!!? あんさんホントに人間か!?」
黒兜を外すとギョロリと覗いた赤眼がアヤを捉え、狂気の雄叫びを上げながら歯をガチガチと鳴らして噛み付こうとする。ドロドロと両の目から血涙を流す様はもはや人間どころかこの世の存在として認めることすら躊躇われたが、勇気を振り絞りアヤの手が遂に銀の兜でその頭を封じてみせた。
「────────」
「お? おお! おおおっ!?」
「これは……」
「見たか! 我輩の予測は的中したであろう!」
イルムが事前に言っていたように、兜を替えた瞬間にそれまでの暴虐が嘘のようにイーラの動きが停止した。糸の切れた人形、という言葉がそのまま当てはまるようにイーラは仰向けに倒れたまま動こうとしなかった。怒りの使徒は遂にその動きを止めたのである。
「人間、死ぬ気でやれば為せないことは無いんだね」
「そう言うお前と俺は見てるだけだったがな。だが、奴は本当に封じられたのか?」
「問題ない。我輩の見立てに狂いなど無い、奴はその力を自発的に振るうことはもうないだろう」
「いったい……なに?」
一人だけ置いてけぼりを食らっていたセレナは事態の真相が分からず、ただ自分が押し倒した男の兜越しの顔を見つめていた。それまで夥しい量の血涙を流していた目は血を流すのを止め、紅玉のような瞳はただ呆然と外界を、今は自分の上に陣取るセレナの紫の瞳を見返していた。
程なくして騒ぎを聞きつけた新たな役人たちが大挙して押し寄せ、門を破った重罪人としてイーラを引っ立てた。頭の兜を残して全身の装備を剥ぎ、手足に鎖を巻かれる。その間もやはりイーラは魂が抜け落ちたように抵抗もせず、沈黙を保ったまま彼らにしょっ引かれて行った。
かくして、六人の側からは誰一人の犠牲も出さず、驚く程あっさりと事態は収束したのだった。
「そろそろ話してくれてもいいだろう。一体どんなカラクリであのイーラを大人しくさせたんだ?」
騎士団の詰所で傷の手当を受けながら、ミゲルはイルムに質問する。イルムはそれに対する答えとして、イーラに被せた物と同じ予備の銀兜を取り出した。
「これにはちょっとした術を仕込んである。セレナとやら、装着してみるのである」
「ん……」
ちょうど角が折れたことで遮るものもなく、セレナの頭にそれがすっぽりと収まった。一見何の変哲もなかったが、実際被ってみたところで何の変化も無い……ように思われた。
「???」
おかしい、すぐ目の前でイルムが口を動かしているのにまるで声が聞こえない。すぐ隣のミーシャが兜を外すジェスチャーをしたのでそれを取り外すと……。
「とまあ、こういうことである」
「なるほど。『音を遮断する兜』か。だが奴とて馬鹿ではないはず。それを被せられてなぜ大人しくなる? そこが分からない」
「やれやれ。貴様らあれほど奴と矛を交えておきながら、奴の能力にまるで理解が及ばないのか。これだから凡俗は……」
「もったいつけねぇで話すだよ!」
「そもそも貴様ら、なぜイーラが暴れまわるのか考えたことはあるか? そして、なぜイーラにはこちらの動きがことごとく読まれるのかも」
「その二つに何の関係がある」
「大ありなのである!」
断言するイルムはミゲルの背後に回ると、そこで指を鳴らした。
「今我輩は何をした?」
「指を鳴らしただけだろう?」
「なぜそれが分かった?」
「それは音で…………そういうことか!」
今のやり取りで全員がイーラの秘密に辿りついた。割れてみればタネは簡単なものだった。
「背後からの奇襲も完璧にガードし、常にこちらの位置を正確に知る索敵能力……。その正体は奴の異常に発達した聴覚の成せる技だったわけか」
「そうである。奴の聴力はそんじょそこらの獣並み、いやそれ以上である。恐らく地平線の向こうで誰かが落とした硬貨の数も聞き分けるだろう。そしてそれと同時に奴の狂乱もそれで説明がつく」
「それは……?」
「そもそもヒトの脳とは獣並みの聴覚を有するに耐えられない。奴の暴れ具合から察するに恐らくは後天的に得た特性、否さ『異常』だ。奴にとって周囲に満ちる音や声は自分の頭をぶん殴る金槌のようなもの……今の奴は幾年か焦がれ続けた静寂の中にいる、自分からそれを捨てるなど有り得んのである」
そう考えればつくづくイーラという男も哀れなものだ。四六時中脳髄をヤスリ掻けされている彼にとってまともな思考など望むべくもなく、教会に飼い慣らされて言われるがままの仕事をするしか能がなかったに違いない。
「だが謎も残ったのである。奴の狂乱はそれで説明がつくとして、奴の魔物をも凌駕する剛力の出処は一体……いや、そもそも奴はどうやってそれだけの力を……」
「どーだってーじゃん、んなこと。どの道あいつはこの国の牢獄から出てこれないんだし、門破りの罪で兜を被ったまま断頭台行き確定だよ」
「そうなると、そろそろだね。おっ、来た来た」
図ったように窓際に留まる伝書鳩。その足に付けられていた文書に各々目を通す。はたしてその文書には……。
「『長らくの任務ご苦労。諸君らの働きにより王国陥落は既に確実なものと確信した。ついては今までの労をねぎらい、諸君らにそれぞれ爵位と領地を授けるものとする』。……これ本気で言ってるのか?」
「十中八九、嘘っぱち。もし本当なら教会は僕らが思ってる以上に馬鹿ってことになるね。おおかた、ここに書かれた報酬を受け取るためにホイホイと出てきたところを取り押さえるつもりなのだろうけど、今の教会に爵位と土地を寄越すだけの権力が無いことなんて子供でも知っているよ」
「ああ……そうだな」
こんな連中にこき使われていたのかと思うと今までの数年を無駄にしてしまったと思えてしまう。元から教会に対する忠誠など欠片も持ち合わせていないが、それでもここまで落ちぶれた雇い主だと知らされると呆れも通り越しやるせなさだけ感じる。
「こんな餌で今更俺達が釣れると本気で思っているのか」
「ああ、全くだ────」
「レスカティエなど、とっくの昔に滅んでいるのにな」
1000年の隆盛を誇ったレスカティエ教国も今は昔、「レスカティエの落日」と呼ばれる大事件が勃発したのが今から五十年も昔のことだ。反魔物派の筆頭であった教国は表向き人間が治める教団国家となっているが、その実態はリリムが裏で糸を引く魔界国家というのはもはや周知の事実だ。
だがそこは腐っても主神教の総本山、現在国内は二つの勢力が二分していた。傀儡となり堕ちた女王フランツィスカを筆頭とする親魔物の「女王派」、未だ出現する勇者資格者を使い教団国家のリーダーシップを取り戻そうとする「教会派」の二つだ。今回アルカーヌムに対する国家レベルの工作もその教会派の支援あってこそ成立していた。
「だがこれでもうおしまいだ。そろそろあの皇女殿下もこの企みに気付く頃だ」
「閨の外で起きてることに興味が無い今までだったから出来たことだけど、さすがに教会も調子に乗りすぎたね。殿下自ら敵対勢力の叩き潰しに出るかもね」
現在レスカティエは魔界でも五指に入る魔王の娘、リリムが影から支配している。半世紀前、当時最強と謳われた勇者ウィルマリナとそのパーティーが迎え撃ったにも関わらず、それをものともせず彼女らを「堕とし」、僅か一日で教国を制圧した強力な妖魔と聞いている。
「我々もそろそろ、再就職先を探すとするか」
「何人かはすぐ見つかりそうだな。……あん? あのセレナって奴はどこ行った?」
トーマスの指摘で彼らは闘技王が部屋から消えていることに初めて気付いた。元が部外者だったので自分に関わり無いことだと察して仕事場へ戻ったのだと納得したのだが……。
「あいつ、我輩の作った兜を持ったまま出て行ったのである……」
徐々に増える人波の中を歩く巨大な魔物、ソルジャービートルのセレナ。この街で彼女を知らない者はいない。ほんの二年前まで闘技場を湧かせていた名闘技士、数世紀後の世界で言えば地元出身の有名なスポーツ選手といったところだ。彼女の強さに憧れて闘技場デビューを飾る者もいれば、彼女の記録を塗り替えようと十冠を目指す者もいるし、王者の彼女が門番などになっている事に失望する者もいる。
そもそも十冠に輝いた自分が門番などになっているのは何故だ、セレナは自問する。そしてすぐに辿り着く。
自分が「最強になってしまったから」だ。最強とは即ち、それ以上が存在しないということ。強者との戦いの果てに辿りついた境地とは、己以外の全てが弱者に墜ちたという意味でもある。他者からの称賛を疎ましく感じたと言えば聞こえはいいが実際はそんな高尚な考えではなく、あのリングの上では自分以上の存在とは巡り会えないだろうと見切りをつけたからに他ならない。早い話が自分より弱い者と戦っても何の意味もないと高を括ったのだ。
門を守っていればいずれ自分の知らない強者がやって来るだろう……そう思い待ち構えて痛い目を見たのが昨日今日のこと。自分が十年かけて築き上げた強さなど何の意味も持たない、まさしく圧倒的という言葉がそのまま具現化した存在との対峙だった。もはやプライドも何も残っていない。
だがその当の強者は自分のことなどまるで眼中に無く、無謬の静寂の中に安らぎを見出しただけの人間に過ぎなかった。
「こんな物に……あれほどの強さを?」
手に収まるのは銀の兜。ついあの場から持ち出してしまった予備の一品だ。正体を明かせば何のことはない、ただ外部からの音をかき消してしまう実戦では用無しの装備だ。
だがそれを心から求めていたからこそ、彼はこれを被っただけで狂乱を収めた。押し倒した瞬間に見えたあの赤眼、戦いの最中に血涙を流していたその目もあの瞬間だけは心安らいでいた。
「…………本当にそう?」
湧き上がる疑問、それは奇しくもイルムが抱いたものと同じだった。
我が身一つの安らぎを得るためだけにあそこまでの力を必要とするだろうか? それにあれだけの力を持つ者が廃れた教会の手先に甘んじていること自体おかしい。
何か弱みを握られている? いや、彼の攻撃には敵を必ず滅するという意志それだけが込められていた。同じ戦いに身を置く者だからこその直感、彼の繰り出す一撃に不純はなく金剛石の如く磨き上げられていた。だからこそ余計に分からない。
「…………分からない」
一度思考に入るとなかなか抜け出さない性格か、イルムから拝借した兜を早速使用する。その瞬間に周囲の喧騒は無に消え去り、風が髪を揺らす微細な振動でさえ鼓膜に届かなくなった。完全な無音だけが頭の中に染み透る。
眠っている時のような静寂に満たされ、心は自然と原始の穏やかさに包まれる。耳を塞いでも手の僅かな動きがザワザワと聞こえるものだが、これはそんな音さえも聞こえない、真の意味での無音がもたらされていた。
春の陽気も相まって立ったまま寝入ってしまいそうになる。そう言えば昨夜は寝ずの番までして今朝の戦いだ。流石に自分の巨体が腰掛けるベンチは無いので、街の一角に作られた公園の芝生に腰を下ろして一眠りすることにした。
「……ふあ……」
陽気と風が心地よく眠気を誘い、程なくしてセレナの意識は微睡みに落ちた。
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『だァ────れェ────だァ』
「ッ!!?」
どこからともなく響く声にセレナは飛び起きた。巨体を揺らしたことで周囲に集まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。
「……!? ……??」
耳元から聞こえた声の主を探して周囲を見回すが、自分のすぐ近くに怪しい人影は見当たらなかった。
というより、自分は音を遮る兜を着けている。そこに声が聞こえるなど……。
『だ、れ、だァ……!』
「!!!?」
聞こえた、確かに聞こえた。地の底から轟くような声がすぐ耳元から。
「だ……誰!?」
『だぁ……れぇ……だァァァ!!』
どうやらこちらが答えぬ限りこの問い掛けは延々と続くようだ。
「セレナ……」
『せ、れ、なぁ? ……ァア……おぼえたァァ……』
耳を打つ嗄れた声には聞き覚えがあるが、今はそれよりもこの声がどこから聞こえてくるのかが気になる。
どうやら被っている兜に原因があるのではと一旦外すと、魔界銀を熔かして鍛えられたそれが僅かに魔力を帯びていた。恐らくだが何らかの理由で発生した魔力が同じ波長で発せられる魔力に干渉し合い、それぞれの所有者の意識を結びつけたのだろう。
だがそうなると、今こうして会話している相手とは何者か。
「…………あなたは、誰?」
この銀兜は同じ製作者が全く同じ時期に同じ材料で鍛え上げた二つの片割れ。
残った片方の持ち主は……。
『アァ……い、“いぃら”……。ぼくの、なまえぇ……』
怒りの使徒、狂乱の魔人。今の声はどこまでも穏やかなものだった。
イーラにとって誰かと会話するのは実に十五、六年ぶりのことである。最後に言葉を交わした相手は顔も覚えていない母親で、今となってはどんな事を話したかさえうろ覚えだ。誰にでもある幼少の頃の記憶だ。
イーラは奴隷である。イーラの母も奴隷で、父親は母を性欲発散の道具にしていた不特定多数の誰かだ。暗く狭い坑道の中を出産直前まで行き来していた母は、その中でイーラを産んだ。暗く、狭く、埃臭い場所で、削り出した石塊を玩具に、カナリアの鳴き声を子守唄に育った。
イーラに名は無い。「イーラ」という名は教会が勇者となった彼に対し授けた洗礼名だ、元の名は知らない。奴隷に名前など上等なものは必要ない、「おい」や「おまえ」で一括りにされる。母がどんな名を付けてくれたか今ではさっぱり思い出せない。
奴隷に与えられた仕事は死ぬまで坑を掘り進めることだ。鉱脈を抱えた山を人の手だけで削り、その中に蓄えた鉄鉱石だか石炭を取り出すのが奴隷達に課せられた一生の仕事だった。明けても暮れても坑を掘り続け、支払われる報酬は薄い豆スープと粗悪な黒パンが二食、そして僅かな睡眠時間だけだ。
毎日毎日、男も女も関係なく子供から老人まで、手に金槌と杭を持って山に入った。鉱毒を検知するカナリアを相棒に、ロウソク一本の僅かな明かりを頼りに土を削った。ある程度削ればそれを外まで運び出し、また掘る。毎日がその繰り返しだった。
環境は劣悪、毎月のように死人が出た。多くは栄養失調や坑道に満ちる粉塵による労咳が死因だったが、中には雇い主からの暴力で命を落とす者もあった。奴隷は主人の所有物、使用人どころか備品以下の扱い、気まぐれや戯れで殺されても文句は言えなかった。
イーラもその一人だった。仕事が遅い、飯を食べるのが遅い、顔がムカつく……理由は何でもありで、その度に頭を横合いから殴りつけられた。相手が子供だろうと老人だろうと容赦なし、そうして死んだ者も土と一緒に外に放り出したりもした。
彼の耳が鋭くなったのもこの頃からだ。度重なる側頭部への打撃が聴覚を司る部分をどのように刺激したか定かではないが、暗く狭い坑道での生活は彼の聴覚を更に桁外れたものへと成長させてしまった。その異常発達した聴力はやがて人間の言葉ですら雑音としか捉えられないほど、大きくそして歪に膨れ上がった。
土を削る金槌と杭の打つ音、運び出す石同士が触れ合う音、甲高いカナリアの鳴き声、そして自分に暴力を振るう主人の怒鳴り声……それら全てがイーラの耳に突き刺さり、錐のように鼓膜を刺し貫いた。寝ても覚めても、いや、どんな微細な音も増幅して拾ってしまうイーラの耳は眠ることすら許さなかった。いつしか彼は眠ることをやめた。
四六時中頭を万力で絞められるような激痛で彼の精神は徐々に摩耗していった。ある一定の部分で均衡を保っていたか細い理性の糸。だがそれは坑道の落盤事故をきっかけに容易くちぎれ飛んだ。
「ころさなきゃ……! ぼくを、イジめるものは……ぜんぶ……!!」
同じ空間に取り残された者達を、鞭を振るった主人も、籠の中でうるさく鳴いていたカナリアも……拾った石でその頭を微塵に砕いた。
何度も何度も何度も何度も、暗闇の中で雑音を撒き散らすそいつらを探し出し、うるさく喚く部分を執念深く叩き潰した。暗闇は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化し、見えない殺人鬼の存在に皆が怯えた。だがその恐怖も長くは続かなかった。恐怖に慄きの声を上げることすらイーラは許さなかった。
「いたい……いたい、いたい……! アァ……いたいよぉ……!! ぁあたまが、いたいぃぃぃ!!」
完全に絶命するまでの間イーラもまた苦しんだ。彼らが発する断末魔の叫びはイーラにとっては頭を斧で叩き割られるようなもの、ますますその精神を凶暴化させる一因となった。
その全てを叩き潰した時、イーラは久しぶりに熟睡できた。そして自力で小さな穴を掘り、彼は人生で初めての自由を得た。
そして、すぐに終わった。
さまよい歩いていた自分を拾ってくれた村人だったが、静寂な暮らしを望んでいたイーラにとってそれは大きなお世話、むしろ拷問でしかなかった。その後の顛末は六人の勇者の知るところである。
牢獄の暮らしは耳を潰す騒音にまみれた穴蔵に比べればずっと過ごしやすかった。このままずっとそこで暮らすこともやぶさかではなかった。
だが、求めた「自由」は二度奪われる。
勇者の加護はそれを受けた者の肉体能力全てを上昇させる。筋力は言わずもがな、魔力も常人と比べれば多くなる。
そして、当然その五感も……。
「ギィィアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッッッ!!!!」
こうして怒りの使徒は、史上最悪の勇者は誕生してしまった。
イーラとの会話は思いのほか弾んだ。こうして言葉を交わしていると、あのおどろおどろしい破壊の権化がまるで嘘のように思えてくる。嗄れた声はまるで老人だが、彼が切り出す話は子供のそれだった。
『すきな、いろは……?』
『どこにぃ、すんでる?』
『あまいもの……すぅき?』
まるで子供だ。その精神年齢は幼い頃のまま止まってしまっている。
ちなみに好きな色は鋼色、住んでいる場所はここ王都、甘いものは魔界産の果実なら何でもイケる口だと答えた。
『まかいの、くだものぉ……。おいしぃ?』
「とても美味しい」
『そぉう……。たべて……みたぁいなぁ』
「王都にならある」
『ひとの、いるところは……き、ら、い。せれなはぁ……すき?』
「苦手。だけど……嫌いってわけじゃない。イーラは……何で嫌いなの?」
『みんな…………みぃんな、ぼくを、イジめるから……』
「いじめる……?」
『あたまが……いたいぃぃぃ』
「…………そう、大変だね。今は静かでしょ」
『うん……とっても』
流麗な音色を奏でる秋の虫を西方の人間が騒音と捉えるように、イーラにとって周囲の存在は自分を苛む敵なのだ。彼の中に敵味方という分け方は存在しない、己以外の全てが敵だ。
想像して欲しい、自分の周りを常に棍棒を携えた者らに囲まれる様を。そいつらが24時間、365日絶えず己の頭を眠る間も与えず打ち据える様子を。これが地獄以外に思えるのなら是非ともそいつの顔を拝んでみたい。
「よかったね……」
『……………………うん』
「何か不満なの?」
『…………』
それまでのたどたどしくも無邪気な物言いは鳴りをひそめ、その事には答えたくないと言わんばかりに沈黙する。互いに離れた場所にいるので彼がどんな表情をしているのか容として知れない。
やがて自分から折れたイーラがぽつりと呟いた。
『ぼくは、こんなもの……いらなかった……』
それが何を指しているのかは聞けなかった。その言葉に込められた情念がセレナに問いかけることを躊躇わせた。
確かに彼は暴虐の魔人である事は相違無いだろう。だがそれはあくまで一側面、今こうして話している彼はとても穏やかで純粋なただの子供だ。その子供がここまで乖離した二面性を持つに至った経緯を想像するだけで、セレナは気圧されてそれ以上の追求が出来なかったのだ。
自分がそれを知ったところでどうなる? その事実を背負えるのか? 背負ったから何だと言うのだ? それに何より、彼はもう最後の安息を手に入れる。六人が言っていたように断頭台に連れて行かれるのも時間の問題だろう。いずれ消え去ることが分かっている彼の何を知ってどうしようというのだ。
彼の境遇に哀れみを覚えたのなら、今の彼に対し出来ることはただ静かに何も煩わせず最期を迎えさせること、ただそれだけだ。
「……果物を、届ける。市場で買ってきてあげる。何がいい?」
『なんでもいい。でも……ぼくはいま、つかまってる……』
「持って行ってあげる」
『ありがとぅ、せれな……。でも、いいんだ……。ぼくは、もういかなきゃならない』
「イーラ……?」
何か様子がおかしい。それまで穏やかで漫然と喋っていただけの口調が、急に固い決心を抱えたものに変わる。
『れすかてぃえ、に……もどる』
「イーラ!?」
『ありがとぅ、せれな……。たのしかったぁ』
「っ!!」
いてもたってもいられず遂にセレナはイーラが収容されている監獄に向かって走った。彼に与えられた全身の傷が悲鳴を上げるがそんな事を気にする暇はなく、確信に変わった不安に突き動かされてただひたすら彼がいる場所を目指して疾走した。
だが彼女が辿り着いた時には既に遅かった。
石造りの壁に大穴が開けられ、その中から姿を現す姿……。
「イーラッ!!!」
「────」
銀兜の奥に素顔を隠し、陽を知らない細く白い体がゆらゆらと幽鬼の如く粉塵の中より現れる。両手両足には引きちぎったのであろう枷がそのままになっており、中で蹂躙したのか背後には看守も囚人も一緒くたに破壊され尽くした跡が残っていた。
ふと、彼の顔がセレナを向く。被っているのは互いに同じ兜、そして自分の名を叫んだ相手がさっきまで話していた相手で、それと同時に自分が叩き潰した相手だと知るイーラ。
「ご──、ご、めん……せ、れ、な」
「イーラ……」
「さ、よならぁ……」
「どこ行くの……待っ──!」
制止の言葉も聞かず、イーラの足は迅雷の速さで監獄を走り去った。足が一歩踏み出す度に衝撃が周囲の瓦礫や人間を弾き飛ばし、その姿が一瞬で地平線の向こうに消える。怒りの魔人の謎の脱走にセレナはただ呆然とその場に立ち尽くすだけだった。
彼は何故逃げ出した? そもそも何から逃げる必要があったというのか。
いや、逃げたのではなく、どこかへ向かったのだとしたら?
自問自答を続ける彼女に見知った面々が声をかけてくる。
「セレナ!! 君もここにいたのか!」
「一体これはどいうことだ! 何があったか説明しろ!」
六人の勇者とその一行が騒ぎを聞いて駆け付けた。
「分からない……。突然、イーラが……」
「奴がこれを? 奴はどこに行った!?」
「分からない。…………待って、イーラはレスカティエに行くって……」
「教国に? 何故であるか?」
「それは、どうやらこれが原因のようだね」
瓦礫の中からクリスが発掘した物、それは他の六人が受け取った文書と同じ教会からの召集状だった。これを目にして動き出したということは、彼はここに書かれている褒美を受け取るためだけに脱獄したことになってしまう。
「はぁ〜……狂っているとは知っていたが、まさか阿呆だったとはな。こんな見え見えの嘘八百に引っかかる程度の脳ミソだったのか」
「ちょうどいいや。厄介者を押し付ける相手が王国から教会に変わったってだけだよ。俺たちにゃ関係ないね」
「…………違う」
「違うって、何が違うだ?」
「イーラは……あの子は、そんな事のためには動かない。もっと別の、何か大きな理由があって……」
「狂人にまともな理由なんざあるもんかよ」
「狂ってなんかいない。あの子の言葉は真実だけを話してた。分かる……」
「奴と言葉を交わしたのか!? いつ、どうやって?!」
ここで初めてセレナは銀兜の隠された力を打ち明けた。魔界銀の合金と無音の魔術が引き起こした共鳴反応、これには製作者の一人であるイルムも驚いた。
「まさかそのような副産物があったとは。それで、彼奴と何を話した? どこまで知っているのであるか?」
「ただ、教国に行くとだけ……」
「おい、今ならまだそれで奴と話が出来るかも知れん。早いとこ奴自身から目的を聞き出せ!!」
「そうか……!」
怒涛の出来事につい失念していたが、最初からこれで会話を続けていればイーラの真意を問いただせると知りセレナは再びそれを被る。
彼女の直感が正しければイーラは狂ってなどいない。あの言葉は何か重大な決意によって口から出たものに違いない。であればそこに彼は何かを見出して行動しているのは明白だった。
「イーラ……答えて」
まだ自分の声が届く範囲にいると信じ、ひたすら呼び続けた。
そして……。
『────あァ……せれな』
「イーラ、何がしたい?」
『ぼくは……“ゆぅしゃ”だから……。そうしないとぉ、ぼくはいつまでたっても……ほしいものを、とれないからぁぁぁ』
「それは、教会がくれるっていう……」
『ち、が、う!! ぼくのほしいもの、おかねじゃ……かえないぃ! ぼくが、ぼくのてで……かちとらなきゃ……だめなんだぁ』
「勝ち取る……?」
『でもぉ……そのまえに、じゃまなやつ、かたづけるぅぅ……!!』
「それは一体……何!?」
『ァァァ……ま、まぉ……まおうのぉぉお、むすめぇぇぇ……!!』
「────っっっ」
セレナは自分の内臓が凍りつく錯覚を覚えた。いや実際は本当に凍っていたのかも知れない。イーラの言葉の意味するところを知らされ、その大それた行動に絶句してしまいそれ以上言葉をかける事も忘れてしまった。
『やっとぉ……やっと、このときがきたァァァアアアアッ!!!!』
最後に兜を通じて聞こえたのは、雄叫びを上げるイーラの歓喜の声だった。
茫然自失となりながら兜を外し、それと同時に全てに得心した。
何故彼ほどの強者が教会に従っていたのか。何故そこまで強さを得なければならなかったのか。何故彼が裏切り勇者の抹殺という任を大人しく受け続けていたのか。
全ての謎が線で繋がり、怒れる魔人の真の目的が白日にさらされる。
「あの子が、危ない…………」
第四皇女・デルエラの討伐──。
最強の淫魔を討つために、最悪の勇者が今教国へと進撃を開始したのだ。
15/09/30 22:17更新 / 毒素N
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