アラシバスの人形師
梅雨時の昼は蒸し暑くてかなわない。いつもいつも雨が降りしきり、このヴァンホーン劇場に客はいない。
いつもなら劇を始めているところだが、今日は劇場を休みにした。僕は人形が入ったアタッシュケースを持ち、雨で寂れた街中を歩く。馬車はおろか、人すら歩いていない街を。
僕はロイド。このアラシバスという国で人形師をしている。2歳から親の手ほどきを受け、人形師一族の末裔として生きる16歳だ。そして、ヴァンホーン劇場を弟と2人で切り盛りしている。
「…………おっと」
何かにつまづいた。
慌ててつまづいた何かを確認すると、それは私が持っているケースよりも二回り小さなアタッシュケースだった。かなり高価そうなケースで、新品な見た目からして最近置かれたようだ。
僕はケースを抱え、一軒のカフェに立ち寄った。適当にコーヒーを注文し、席に座る。ケース2つをテーブルを挟んで向かいの席に置き、コーヒーを待つ。
「コーヒーです」
ウエイトレスの若い女性がコーヒーを慣れた感じで置く。
「ちょっといいですか?」
「は?」
ウエイトレスが声を掛けてきた。いきなりで少し驚いた。
「呪われた人形って知ってます?」
「いえ……なんですか?それ」
「可愛らしい少女の人形なんですけど、その人形には呪いが掛けられていて、その人形に魅入った持ち主は人形を片手に行方不明になる……っていうお話。噂ですけど」
「そんな噂が流れていたんですか」
コーヒーを飲み干して、ため息を1つ。ウエイトレスはしばらく話した後、小走りで店の奥に行った。
店に誰もいなくなって、ふと、さっきのケースに目をやる。中身が気になった。僕はケースを手に取り、そのケースの金具を外して開けた。
中には白い布で包まれた何かがあった。不吉な気配を感じ、僕はケースを閉じる。こんなものは、さっさと拾ったあの場所に戻そうと思った。
しかし、戻さなかった。戻そうとは思ったけれど、なぜか戻せなかった。その気になれなかった。
僕はヴァンホーン劇場の中に戻り、ステージの上で再びケースを開ける。中にあるのは当然、白い布で包まれたアレ。
軽く震える手で、その布を恐る恐る剥がす。
「人形…………?」
どこかの令嬢を想起させるとても綺麗なドレスや可愛らしい顔立ち、美しい銀髪……人形とは思えないような、不思議な魅力があった。僕の持っているような人形とは明らかに、高級感とかそんなんじゃなく、何かが違った。
こんなに綺麗なものを操ろうとは到底思えず、僕は大事にしようと、舞台裏の自室にある人形を飾っている棚の真ん中に置いた。
「そこにいたのか、ロイド」
父さんはパイプをくわえて部屋に来た。
父さんは僕が飾った人形を見て一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの不機嫌そうな表情に戻った。
「その人形は?」
「え?あ、えっと……」
『拾ってきた』とは口が裂けても言えなかった。かと言って答えないわけにもいかなかったから、とっさに僕は
「身の回りを片付けてたら出てきたんだ。綺麗だから飾ったんだよ」
と言った。
父さんはしばらく黙り、そして納得したのか数回頷き、部屋を出て行く。
「ああそうだ。ロイド」
「なに?」
「ランバス、知ってるよな?」
ランバスさんは隣国で人形師をしていて、父さんの友人だ。
「ランバスさんがどうしたの?」
「行方不明になった」
短く、父さんは言った。
…………行方不明。
気さくな性格のランバスさんが、なんで。
「なぜかは分からない。ただ……」
「ただ?」
「……いや、何でもない。ロイド、明日は晴れるそうだから明日の演目の練習をしておきなさい」
「…………はい」
なんだか煮え切らない、微妙な気持ちが胸中に残った。
今日、私にご主人様が出来ました♪
とっても優しそうな男の子で、私のことを大事にしてくれそうです♪名前はロイドさん、いいお名前です♪
そういえば私を見たご主人様のお父様、なんだか驚いていたように見えました。ランバスという方が行方不明になったとか、そんな話をしてました。私と関係してるんでしょうか?
???です。
はぁ……楽しみです。いつかご主人様と結ばれる、そんな日が来るのが♥
いっぱいに愛し合う、ご主人様と私の幸せの日々が♥
次の日。今日1日の演目を終えた僕は劇場の鍵を閉め、舞台の片付けをせずにそのまま自室に入ってベッドに飛び込む。
棚を見れば――あの人形。
「……………………」
あの人形を僕は『マリア』と名付けた。見つめているとどんどん本物の少女のように見えてきて、名前が無いのは可哀想だと思ったからだ。
無心にマリアを見ていると、マリアの大きな目がまばたきをした。
「!?」
起き上がり、棚からマリアを取り出す。
ただの人形だった。気のせいだろう、僕はマリアの頭を優しく撫でて棚に戻した。
「シュペリエ、メリル、アルテノ……」
三体の人形を机に並べ、メンテナンス。梅雨時のように湿気が強いと、人形の体の金属部品が錆びてしまったりするからだ。錆びてしまうと、最悪の場合買い替えなければならなくなる。
一体一体服を脱がし、関節のネジを外して丁寧に見ていく。だいたい1時間くらいで全てのメンテナンスは終わった。
「マリアは大丈夫かな……」
マリアを棚から取り出し、服を脱がす。
当たり前だが、つやのある綺麗な体。
「球体関節……?この近辺じゃ見かけないや」
一冊の古ぼけた本を取り出す。この本は色々な人形の構造などが載った、いわゆる図鑑本。球体関節の人形をそんなに扱ったことがないから、テキストを用いないと壊してしまうかもしれない。
「金属部品がそんなに無いんだ……なめらかに動くのはそのせいか」
うん、なるほど。
僕は外した関節を慎重に組み直す。直して座らせて眺めていると、愛着が一層湧く。
明日はフリーだから、マリアを連れてどこかに行こう。そう思いながら、僕は片付けをしに舞台へ戻った。
今日はご主人様に名前を付けてもらいました♪マリアなんて素敵な名前……嬉しい限りです♪
それにご主人様、服を脱がせて私の身体をあんなにまじまじと……♥興奮し過ぎて思わず襲いそうになっちゃいました♥
私の身体を触るご主人様の手は温かくて、優しくて、丁寧で、ずっと触っていて欲しいと思いました♪
ご主人様の手に……いえ、いずれは身体に抱かれる日が待ち遠しい♥
お出かけ日和の快晴だった。日差しが強く、少々暑い。僕はラフな格好になり、マリアをケースに入れて家の外に出た。
「確か少し街を出たところに河原があったっけ……」
あそこはのどかだし魔物の出現率も低いし、すぐに決まった。心なしか足取りが軽く感じる。
しばらく歩くと、透き通った水が流れる川があった。その河原近くの大木に背中を預け、ケースを開く。
「ごめん、狭かったでしょ」
マリアを膝に乗せる。程よく吹く風が涼しい。
「マリア、僕、アラシバスの街から外に出ようと思うんだ」
僕は唐突に、この街が何故だか狭く感じた。
「旅がしたいと、そう思った。人形は全部あの劇場に預けて劇場は弟に任せれば大丈夫か……マリアと一緒に世界が見たい。たとえ父さんに反対されても僕は行く」
マリアの髪を撫で、胸に抱く。
「僕はマリアが大好きだから、マリアと一緒なら、何でも出来る気がするんだ」
僕はマリアをケースに入れて、アラシバスと反対方向に向かって歩く。劇場に戻って支度すれば、父さんに見つかるかもしれなかった。
「ロイド!」
後ろから呼び止められる。
聞き覚えのある、威厳こもった声。
「父さん……?」
父さんは焦燥に駆られた表情だった。
「ロイド!その人形を捨てろ!」
「何言ってるのさ父さん。何でマリアを捨てるなんて」
「それとよく似た人形をランバスは持っていたんだ!ランバスだけじゃない、行方不明になった人形コレクターも全員、似た人形を持っていたという話があった!だからお前、早くその人形……を……」
父さんは青ざめた。
「ご主人様♪」
マリアが僕の肩に座っていた。父さんは多分びっくりしたんだろう。
「マリア、ケースから勝手に出たらダメだろう?」
「お父様にお別れを」
マリアは可愛いらしい笑顔を父さんに向ける。
「ロイド……ロイド!!」
「それじゃ父さん、元気で」
僕は進む。父さんはずっと僕の名前を叫んでいた。僕らの姿が見えなくなるまで、ずっと。
〇
……………………
………………
…………
しばらく草原を歩いていると、マリアは言いました。
この先に、素敵なところがありますよ。
ロイドは尋ねました。
どんなところ?
その疑問を待っていたかのように、マリアは嬉しそうに笑い、そしてこう答えました。
ご主人様とずっと一緒に暮らせる場所です。
「こうしてマリアとロイドは夫婦になって毎日毎晩幸せに暮らしましたとさ……はい、おしまい」
アラシバスは二年前に魔物の襲撃を受け、レスカティエ領となったアラシバスには魔物たちが多く行き交うようになり、大規模に発展していった。
そのとある幼稚園――
「せんせー」
ドラゴンの子供が先生にこう言った。
「そのおはなし、ほんとうにあったの?」
「うん」
メガネを掛けた好青年は微笑んで応える。
「君が産まれるずっと前――8年くらい前かな。この街でお人形劇をしていた人が、魔物になったお人形さんと旅していったってお話」
「このひと……」
子供は絵本の挿し絵に描かれた青年を指差す。
「せんせーそっくりだね」
「あ、本当だ。そっくりだね」
子供は絵本を持ってどこかへ行く。それと入れ違いに1人の職員が彼の近くに来る。青年の同僚の、同い年くらいの人間の女だった。
「ユース先生?」
「なんだか微妙な気分だよ」
天井をぼーっと眺めるユース。
「微妙……?」
「シャナさん、あの子が持ってた絵本あったでしょ?」
「『アラシバスの人形師』でしたっけ」
「うん。あれに出てくる主人公のロイドは、8年前に家を出た僕の兄さんなんだよ」
「えっ!?」
シャナのリアクションを見て、ユースはクスリと笑う
「まさか本にされてたなんてね……しかもドール型魔物が結婚相手ってのは、なかなかどうして、皮肉めいてる感じ」
「でも、ユース先生のお兄さんは確か行方不明になって……」
「リビングドール」
人差し指を上に立てるユース。
「8年前にビングドールの存在がこの街で初めて明確に魔物として目撃されて、50人以上の行方不明者がその魔物が原因と断定されて大騒ぎになったでしょ?」
「ええ」
「反魔物国家の間ではいまだに『リビングドールが男を連れ去る』という感じで貫き通してるけど、実際は『相思相愛になった2人が反魔物国家から抜け出すためにわざと行方をくらましている』んだよ。この意味分かる?」
「え……?じゃあまさか……リビングドールは魔王の軍隊によって反魔物国家に送られたってことですか?内側から懐柔するために。でっち上げている理由は、他の反魔物国家に『スパイが潜入していた』という恥ずべき事態を隠すため?」
「正解。外が硬いと内が弱い……軍はそれを利用して反魔物国家にスパイを潜り込ませた。例えば……このアラシバスのカフェにウエイトレスとして潜り込んだ女性」
つまり、8年前にロイドが人形マリアを拾ったのは単なる偶然ではなく、そのウエイトレスになりすましたスパイが意図的に仕掛けたということだ。
彼女の持つ魔力の影響を人形師が最も都合良く受けてくれると踏んで。
完全に魔物の方が一枚上手だったと言えた。
そしてまた、どこかで――
「…………おや?」
ある寂れかけた田舎町。
杖を突いて歩いていた老人は、路上にカバンが落ちているのを見つける。
闇を固めたような真っ黒いアタッシュケースで、高級感が漂う代物。裏を見ると、『差し上げます』と白いチョークで書かれていた。
「誰か落としたのかな……」
開けると、中には銀髪で白と紫の綺麗なドレスを纏った美しい少女の人形だった。
「これは美しい……孫娘のプレゼントにしよう。きっと喜ぶことだろう」
腕に抱えて、ゆっくりと家に向かう。
一瞬、人形がにこやかに笑った――気がした。
いつもなら劇を始めているところだが、今日は劇場を休みにした。僕は人形が入ったアタッシュケースを持ち、雨で寂れた街中を歩く。馬車はおろか、人すら歩いていない街を。
僕はロイド。このアラシバスという国で人形師をしている。2歳から親の手ほどきを受け、人形師一族の末裔として生きる16歳だ。そして、ヴァンホーン劇場を弟と2人で切り盛りしている。
「…………おっと」
何かにつまづいた。
慌ててつまづいた何かを確認すると、それは私が持っているケースよりも二回り小さなアタッシュケースだった。かなり高価そうなケースで、新品な見た目からして最近置かれたようだ。
僕はケースを抱え、一軒のカフェに立ち寄った。適当にコーヒーを注文し、席に座る。ケース2つをテーブルを挟んで向かいの席に置き、コーヒーを待つ。
「コーヒーです」
ウエイトレスの若い女性がコーヒーを慣れた感じで置く。
「ちょっといいですか?」
「は?」
ウエイトレスが声を掛けてきた。いきなりで少し驚いた。
「呪われた人形って知ってます?」
「いえ……なんですか?それ」
「可愛らしい少女の人形なんですけど、その人形には呪いが掛けられていて、その人形に魅入った持ち主は人形を片手に行方不明になる……っていうお話。噂ですけど」
「そんな噂が流れていたんですか」
コーヒーを飲み干して、ため息を1つ。ウエイトレスはしばらく話した後、小走りで店の奥に行った。
店に誰もいなくなって、ふと、さっきのケースに目をやる。中身が気になった。僕はケースを手に取り、そのケースの金具を外して開けた。
中には白い布で包まれた何かがあった。不吉な気配を感じ、僕はケースを閉じる。こんなものは、さっさと拾ったあの場所に戻そうと思った。
しかし、戻さなかった。戻そうとは思ったけれど、なぜか戻せなかった。その気になれなかった。
僕はヴァンホーン劇場の中に戻り、ステージの上で再びケースを開ける。中にあるのは当然、白い布で包まれたアレ。
軽く震える手で、その布を恐る恐る剥がす。
「人形…………?」
どこかの令嬢を想起させるとても綺麗なドレスや可愛らしい顔立ち、美しい銀髪……人形とは思えないような、不思議な魅力があった。僕の持っているような人形とは明らかに、高級感とかそんなんじゃなく、何かが違った。
こんなに綺麗なものを操ろうとは到底思えず、僕は大事にしようと、舞台裏の自室にある人形を飾っている棚の真ん中に置いた。
「そこにいたのか、ロイド」
父さんはパイプをくわえて部屋に来た。
父さんは僕が飾った人形を見て一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの不機嫌そうな表情に戻った。
「その人形は?」
「え?あ、えっと……」
『拾ってきた』とは口が裂けても言えなかった。かと言って答えないわけにもいかなかったから、とっさに僕は
「身の回りを片付けてたら出てきたんだ。綺麗だから飾ったんだよ」
と言った。
父さんはしばらく黙り、そして納得したのか数回頷き、部屋を出て行く。
「ああそうだ。ロイド」
「なに?」
「ランバス、知ってるよな?」
ランバスさんは隣国で人形師をしていて、父さんの友人だ。
「ランバスさんがどうしたの?」
「行方不明になった」
短く、父さんは言った。
…………行方不明。
気さくな性格のランバスさんが、なんで。
「なぜかは分からない。ただ……」
「ただ?」
「……いや、何でもない。ロイド、明日は晴れるそうだから明日の演目の練習をしておきなさい」
「…………はい」
なんだか煮え切らない、微妙な気持ちが胸中に残った。
今日、私にご主人様が出来ました♪
とっても優しそうな男の子で、私のことを大事にしてくれそうです♪名前はロイドさん、いいお名前です♪
そういえば私を見たご主人様のお父様、なんだか驚いていたように見えました。ランバスという方が行方不明になったとか、そんな話をしてました。私と関係してるんでしょうか?
???です。
はぁ……楽しみです。いつかご主人様と結ばれる、そんな日が来るのが♥
いっぱいに愛し合う、ご主人様と私の幸せの日々が♥
次の日。今日1日の演目を終えた僕は劇場の鍵を閉め、舞台の片付けをせずにそのまま自室に入ってベッドに飛び込む。
棚を見れば――あの人形。
「……………………」
あの人形を僕は『マリア』と名付けた。見つめているとどんどん本物の少女のように見えてきて、名前が無いのは可哀想だと思ったからだ。
無心にマリアを見ていると、マリアの大きな目がまばたきをした。
「!?」
起き上がり、棚からマリアを取り出す。
ただの人形だった。気のせいだろう、僕はマリアの頭を優しく撫でて棚に戻した。
「シュペリエ、メリル、アルテノ……」
三体の人形を机に並べ、メンテナンス。梅雨時のように湿気が強いと、人形の体の金属部品が錆びてしまったりするからだ。錆びてしまうと、最悪の場合買い替えなければならなくなる。
一体一体服を脱がし、関節のネジを外して丁寧に見ていく。だいたい1時間くらいで全てのメンテナンスは終わった。
「マリアは大丈夫かな……」
マリアを棚から取り出し、服を脱がす。
当たり前だが、つやのある綺麗な体。
「球体関節……?この近辺じゃ見かけないや」
一冊の古ぼけた本を取り出す。この本は色々な人形の構造などが載った、いわゆる図鑑本。球体関節の人形をそんなに扱ったことがないから、テキストを用いないと壊してしまうかもしれない。
「金属部品がそんなに無いんだ……なめらかに動くのはそのせいか」
うん、なるほど。
僕は外した関節を慎重に組み直す。直して座らせて眺めていると、愛着が一層湧く。
明日はフリーだから、マリアを連れてどこかに行こう。そう思いながら、僕は片付けをしに舞台へ戻った。
今日はご主人様に名前を付けてもらいました♪マリアなんて素敵な名前……嬉しい限りです♪
それにご主人様、服を脱がせて私の身体をあんなにまじまじと……♥興奮し過ぎて思わず襲いそうになっちゃいました♥
私の身体を触るご主人様の手は温かくて、優しくて、丁寧で、ずっと触っていて欲しいと思いました♪
ご主人様の手に……いえ、いずれは身体に抱かれる日が待ち遠しい♥
お出かけ日和の快晴だった。日差しが強く、少々暑い。僕はラフな格好になり、マリアをケースに入れて家の外に出た。
「確か少し街を出たところに河原があったっけ……」
あそこはのどかだし魔物の出現率も低いし、すぐに決まった。心なしか足取りが軽く感じる。
しばらく歩くと、透き通った水が流れる川があった。その河原近くの大木に背中を預け、ケースを開く。
「ごめん、狭かったでしょ」
マリアを膝に乗せる。程よく吹く風が涼しい。
「マリア、僕、アラシバスの街から外に出ようと思うんだ」
僕は唐突に、この街が何故だか狭く感じた。
「旅がしたいと、そう思った。人形は全部あの劇場に預けて劇場は弟に任せれば大丈夫か……マリアと一緒に世界が見たい。たとえ父さんに反対されても僕は行く」
マリアの髪を撫で、胸に抱く。
「僕はマリアが大好きだから、マリアと一緒なら、何でも出来る気がするんだ」
僕はマリアをケースに入れて、アラシバスと反対方向に向かって歩く。劇場に戻って支度すれば、父さんに見つかるかもしれなかった。
「ロイド!」
後ろから呼び止められる。
聞き覚えのある、威厳こもった声。
「父さん……?」
父さんは焦燥に駆られた表情だった。
「ロイド!その人形を捨てろ!」
「何言ってるのさ父さん。何でマリアを捨てるなんて」
「それとよく似た人形をランバスは持っていたんだ!ランバスだけじゃない、行方不明になった人形コレクターも全員、似た人形を持っていたという話があった!だからお前、早くその人形……を……」
父さんは青ざめた。
「ご主人様♪」
マリアが僕の肩に座っていた。父さんは多分びっくりしたんだろう。
「マリア、ケースから勝手に出たらダメだろう?」
「お父様にお別れを」
マリアは可愛いらしい笑顔を父さんに向ける。
「ロイド……ロイド!!」
「それじゃ父さん、元気で」
僕は進む。父さんはずっと僕の名前を叫んでいた。僕らの姿が見えなくなるまで、ずっと。
〇
……………………
………………
…………
しばらく草原を歩いていると、マリアは言いました。
この先に、素敵なところがありますよ。
ロイドは尋ねました。
どんなところ?
その疑問を待っていたかのように、マリアは嬉しそうに笑い、そしてこう答えました。
ご主人様とずっと一緒に暮らせる場所です。
「こうしてマリアとロイドは夫婦になって毎日毎晩幸せに暮らしましたとさ……はい、おしまい」
アラシバスは二年前に魔物の襲撃を受け、レスカティエ領となったアラシバスには魔物たちが多く行き交うようになり、大規模に発展していった。
そのとある幼稚園――
「せんせー」
ドラゴンの子供が先生にこう言った。
「そのおはなし、ほんとうにあったの?」
「うん」
メガネを掛けた好青年は微笑んで応える。
「君が産まれるずっと前――8年くらい前かな。この街でお人形劇をしていた人が、魔物になったお人形さんと旅していったってお話」
「このひと……」
子供は絵本の挿し絵に描かれた青年を指差す。
「せんせーそっくりだね」
「あ、本当だ。そっくりだね」
子供は絵本を持ってどこかへ行く。それと入れ違いに1人の職員が彼の近くに来る。青年の同僚の、同い年くらいの人間の女だった。
「ユース先生?」
「なんだか微妙な気分だよ」
天井をぼーっと眺めるユース。
「微妙……?」
「シャナさん、あの子が持ってた絵本あったでしょ?」
「『アラシバスの人形師』でしたっけ」
「うん。あれに出てくる主人公のロイドは、8年前に家を出た僕の兄さんなんだよ」
「えっ!?」
シャナのリアクションを見て、ユースはクスリと笑う
「まさか本にされてたなんてね……しかもドール型魔物が結婚相手ってのは、なかなかどうして、皮肉めいてる感じ」
「でも、ユース先生のお兄さんは確か行方不明になって……」
「リビングドール」
人差し指を上に立てるユース。
「8年前にビングドールの存在がこの街で初めて明確に魔物として目撃されて、50人以上の行方不明者がその魔物が原因と断定されて大騒ぎになったでしょ?」
「ええ」
「反魔物国家の間ではいまだに『リビングドールが男を連れ去る』という感じで貫き通してるけど、実際は『相思相愛になった2人が反魔物国家から抜け出すためにわざと行方をくらましている』んだよ。この意味分かる?」
「え……?じゃあまさか……リビングドールは魔王の軍隊によって反魔物国家に送られたってことですか?内側から懐柔するために。でっち上げている理由は、他の反魔物国家に『スパイが潜入していた』という恥ずべき事態を隠すため?」
「正解。外が硬いと内が弱い……軍はそれを利用して反魔物国家にスパイを潜り込ませた。例えば……このアラシバスのカフェにウエイトレスとして潜り込んだ女性」
つまり、8年前にロイドが人形マリアを拾ったのは単なる偶然ではなく、そのウエイトレスになりすましたスパイが意図的に仕掛けたということだ。
彼女の持つ魔力の影響を人形師が最も都合良く受けてくれると踏んで。
完全に魔物の方が一枚上手だったと言えた。
そしてまた、どこかで――
「…………おや?」
ある寂れかけた田舎町。
杖を突いて歩いていた老人は、路上にカバンが落ちているのを見つける。
闇を固めたような真っ黒いアタッシュケースで、高級感が漂う代物。裏を見ると、『差し上げます』と白いチョークで書かれていた。
「誰か落としたのかな……」
開けると、中には銀髪で白と紫の綺麗なドレスを纏った美しい少女の人形だった。
「これは美しい……孫娘のプレゼントにしよう。きっと喜ぶことだろう」
腕に抱えて、ゆっくりと家に向かう。
一瞬、人形がにこやかに笑った――気がした。
13/08/20 19:45更新 / 祝詞