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実を言えばあの旅行がこんな結果をもたらすとは完全に予想範囲外だった。私は自由の国―その言葉の裏に多くの皮肉が含まれていようと―の戦士として大戦を戦い、勝利へ貢献した。16年間に及ぶ軍での生活から退き、残りの人生を穏やかに過ごすと決めていた。それがまさかこんな事になると、あの時知っていればまた違う道を選んだのだろうか? 恐らくそれはない。今の生活の味を知ってしまったせいもあるが、私はこれでよかったのだと思う。
のどかなイギリスの田舎まで来てこんなところにまで足を運ぶ事になるとは。ただ、ここを一度訪れようとは思っていたので旅行の日程に入れておいた。退役する前に将官の1人から昼食に誘われ話が私のイギリス旅行に及ぶと、彼はヘレフォード近郊が穏やかでいい場所だから是非行ってみるといい、と勧めてきたのだ。そこで何となく知的好奇心が湧いたため是非訪れる事にしますと答えた。 施設の中まで入れるかどうかよくわからないのでゲートを道路の反対から眺めているだけだが、車両が既に何台か入っていくところを見た。 「ここがそうか」 独り言を言いながら振り返り、今度は来た道を帰る。ただ、プラッと立ち寄りたくなっただけなのだから。 行きは近くのタクシーを拾って来たのだが、帰りは歩いて帰る事にした。ここは何と言ってものどかな農耕地帯が広がっている。せっかく来たのならそれをゆっくり眺めるのも悪くなかろう。いずれ滞在中にSBSの施設も見ておこうか。 「退役したのに私は何をやっているのだろうか」 「一人言なんか言ってどうしたの?」 聞こえてきた幼い少年の声でゲッとした気分になった。当然地元の子供ぐらいはそこら中にいるだろうが、だからと言って現役の頃なら近くに誰かいる事に気付かない事など、ありえなかった。どうやらもう感覚が鈍ったという事か、あるいは単純に老化か。気が付けば30代も半ば。 どうであれ、1人言を呟くオッサンは少年の目から見れば「頭ブッ飛んでないか?」という具合だろう。 「鈍ったな…」 言いながら振り向いて少年の顔を見た。年齢は10歳前後と言ったところか。どことなくアイルランド系っぽい目つきと、荒れてない綺麗な肌が印象的であると同時に懐かしい奴の顔を連想させた。 「え、オジサン外国の人? 発音が変だよ」 鋭いお子様でございますね。少年はアイリッシュだが訛りはなかった。 「アメリカ人だよ、ベンジャミンが君によろしくとさ」 「ベンジャミンって誰?」 少年の問いには答えず強引に話を切り上げて私は立ち去った。いい加減こんなところで油を売るより、さっさと帰国して身を固めた方が有益だとはわかっている。わかってはいるのだが、16年間勤続した自分へのご褒美でもくれてやりたくなった。誰かがポーンと99年型のコルベットをプレゼントしてくれるなら喜んで契約書にサインするだろう、たとえ違法な労働条件であっても。当分はミニカーで我慢するとしようか。ミニカーオタクになるのも悪くないかも知れない。 なるほど見事なもので、ここの風景はクソだらけの日常を送ってきた私の心を癒してくれた。安直な話だとは思うが、人間誰しも殺伐とした場から足を洗う日がいずれは訪れるのだろう。ただ、私の場合は他の奴らよりも早くドロップアウトしてしまった。同期でまだ頑張っている奴だっていた…あばよ、BJ、サム、それから中尉。これからも頑張ってくれ。終戦したので少しは楽になったとは思うが。 「そしてジョージ・オコーネルに、R.I.P.」 さっきの子供とあいつは全く似ていないのに、アイリッシュらしい顔があいつを思い起こさせた。整った顔立ちだったため専らプリンスと呼ばれていた。 地図を確認して、西の方を見た。近くに池の類があるようで、そこから涼しい風が吹いてきていた。このままキングス・エーカーを経由して中心部まで戻るつもりだ。まだあと何マイルかあるので、風景を楽しみながら感傷に浸るには充分な時間があるだろう。 「?」 ただ、何だろうか。ここは平和な土地だというのに、戦地で感じていたような感覚を覚える。誰かに見られているかのような。 中心部へ着いた頃には既に12時を越えていた。16年の軍役生活のお陰で疲労感はない、さっき子供相手に不覚を取ったのは何かの間違いという事にしておく。でないと元レンジャーの名折れというものだ。不快なぐらい汗をかいたという事もないが、空腹はいかんともし難い。満足な食事も取らずに行うタイプの訓練も受けてはいるが、退役した今となってはもうそんな事をあえてしたいとは思わない。断食する趣味があるなら別だが。 ベウェル・ストリートにさしかかると北側にカフェがあったのでそこへ入った。店内は混んでいたものの、テーブル席が1席空いていたのでそこへ座った。イギリスの飯は不味いという噂が広まってはいるが、私は幸運だったらしい。少なくともトイレに行きたくなるような事はなかった。空腹だった事もあり、食事は7分程度で終わったので、コーヒーを頼む事にした。どれがいいかと聞かれてよくわからなかったので適当に選んだが、無難な奴が運ばれてきてホッとする。こうしてゆったりとコーヒーを飲んでいると、その香りがかなり心落ち着くものだと気付いた。平和な時間を過ごせる事がこれほど幸せな事だったとは。アデレード近郊のキャンプで飲んだコーヒーは砂の味しかしなかったが。そうやってちびちびとコーヒーを飲んでいると、コーヒーの芳香がドブかゲロに思える程素晴らしい香りが漂ってきた。 「ご一緒してもよろしいかしら」 聞こえてきた声は機内アナウンスのような気品があり、何故かもっと聞きたいという気になった。そして顔を上げると今度は別の感動が待っていた。 「ああ、どうぞ」 頬ずりでもしたくなるような綺麗な金髪、首の辺りまで伸びたそれと乾いた血のような色のヘアバンドらしきもののコントラストが美しかった。白い肌には日焼けの跡はおろか肌荒れの類やその治癒跡さえ一切存在しない。顔のパーツはどれもスイスの職人のオーダーメイド品のように整っており優しい目付きをしている、計算された美だと思うが、何かが不自然でもある。とにかく凄い。年齢は恐らく17〜18歳ぐらいだろうか。美少女とはこういう子の事を言うんだろう、あの微笑みに抗うのは難しい。よく見ればヘアバンドだけでなく羽織っているコートも同じく乾いた血のような赤色だ。これが最近のイギリスの流行なのだろうか? 「何かしら?」 当然の問いかけだ。だが彼女の浮かべる笑みは、その内に何か別の感情を秘めた類ではなく、純粋にニコニコとしている風に見えた。 「失礼、君が…あまりにも可愛らしかったので」 私の返答を聞いた彼女は「まあ…」と言った、だが表情が少し変わったというか、少々肌に赤みが差したような気がする。これは予想外だった。 「それじゃあ、イギリスには観光で来たの?」 「そういう事になる。この前まで陸軍で働いていたんでね、気分転換にこうして田舎町でのんびりしている」 彼女はラリッた変態親父がイギリスに何をしに来たのか興味津々のようだ。 「それで、ええと。あ、名前をまだ聞いていなかったわ」 「マイク・ジェンキンスだ」 何故か「ふふん♪」と言いたげに上機嫌な顔をしている。いい娘だな。少なくともこうして話す事で、多くの「別れ」を経験した私の心の癒しになるだろう。 「私はカサンドラ・クロフトよ」 それがキャスとの出会いだった。 もう夜なのに私は未だにホテルを決めていなかった。主演男優賞モノのアホだろう。予定では他の町まで行って適当にそこで泊まるつもりだったが、妙なものだ。彼女、キャスの事が頭から離れない。上の空でヘレフォードをうろついていた私はそのまま夜を迎えてしまったわけだ。救いようのないアホだと言える。今いるキング・ストリートの南側のバーに入ってから地図を取り出し、近くにホテルがないか探そう。まずは酒を飲まないと始まるまい。 店内は昼間のカフェとは違い、客が1人もいなかった。既に時刻は19時を回っている以上、飲んだくれが溢れていてもおかしくないのだが。疑問を感じながらもとりあえずカウンターへ座り、スタウトを頼んだ。目の前に置かれた常温のそれを訝しみながら飲んでみると、キンキンに冷えたラガーとはまた別の味わいがあり、非常に新鮮だった。あの日から数十年後に知る事となるが、プライスはアメリカ人に本当の事を言っていたようだ。ためになるゲームだな。そうしてよそ者オーラバリバリで飲んでいるとまた昼間と同じ香りが漂ってきて、今度は一瞬思考が止まってしまった。 「あら、マイク? 偶然ね」 運命なんて今まで信じてこなかったというのに。 「へ? あ、ああ。まるで図ったみたいだな」 私の虚を突かれたような返答を聞いた彼女の表情が一瞬引きつったような気がした。グラスを置いてから見直すと、ニコニコとした表情に戻っていた。はて、もうそんなに酔ったのか。 「ともあれ、また会えて嬉しい」 「ええ、隣いいかしら?」 「この国の男全員が君に聞かれる前から答えはイエスだろう」 それを聞いて彼女が笑う。隣に座った彼女を見て俺は確信した。本物のアメリカンドリームは女王陛下のおられる国に転がっていたと見える。 「よく後ろ姿で私だとわかったな」 「ええ、服装を覚えていたから」 これはこれは。 どうしたものか知らないが、彼女と話していると自然と笑みがこぼれるような気持ちになる。クラブで女の子を引っ掛ける時の下品でスケベな笑みとは違って、今の私は純粋に心が喜んでいるような気がする。 彼女の浮かべる笑みを見ていると、心が落ち着く。 「父と母に楽させてやりたくて軍へ入ったのに、入って数年しないうちに2人とも西海岸への旅行中に戦災で逝ってしまって。まさか母国の領土が侵略を受けるとは…神様は恩返しの機会を私に与える程、甘くなかった。パパー、ママー、送金しに来たよー、あれー、どこに行ったのー?」 「…辛かったでしょう」 「かなりね。その後レンジャーから推薦が来て、主にオーストラリアの奪還に就いていた。訓練も実戦も地獄続きだったよ。仲の良かった奴も亡くしてしまった」 「いい人だったのね…」 「ご名答。ジョージという奴だった、ハンサムだからプリンスと呼ばれていたがあんな事に」 彼女の表情を伺う。見たところ続きを聞きたいらしい。大抵の子はこういう話を嫌う。帰還兵との会話はどんなものか? 色々あるだろうがその中の1つが、戦地ライフ語りだ。正直聞かされる方はたまったものではなかろう。 「我々の部隊が交戦している時に、あいつはロケット砲を構えたクソ野郎がビルの屋上からストライカーを狙っていたのに気付いた。一帯を確保したと思っていたんだが、伏兵がいた。ストライカーの中には負傷者も乗っていて。あいつはRPGの事を味方に叫びながらビルの方へ発砲した」 無言の促し。 「おかげでクソ野郎はビルから落ちてくたばったが、落ちる前に引き金を引いていたせいで、それがあいつの近くの地面にブチ当たった。爆風で破片が右腕と腹に刺さっていた」 「看取る事は出来た?」 「いい質問だ。あいつは最期まで色男だったよ。応急処置じゃどうしようもなく、そのまま息を引き取った…あいつの事は忘れない。もちろん他の仲間の事も」 少々喋りすぎたな。喉をビールで潤すとしよう。 その後辛気臭い話を切り上げて我々は店を出た。結局どこで泊まるかまだ決めていなかった。ノーベル賞モノのアホだ。結構飲んだし、そろそろ… 「あ…?」 体が動かない。思考だけはある程度の自由が利いたが一体何が?と思ったら視界が真っ暗になった。 「マイク、これを…妻に」 もう駄目だって事はわかっていた。ならば死にゆく戦友の頼みを叶える義務がある。 「絶対に渡す」 プリンスが血に濡れた左手で取り出した手紙。事前に用意していた遺書か、あるいは普通の手紙か。手紙をしまった俺は両手でプリンスの左手を握り締めた。 「そんなに強く握ってくれるのが、どうせなら…お前じゃなくて妻の方が嬉し…かったな」 信じられない事にあいつは自分の死ぬ間際でさえ笑っている。どうして? 「何でお前はこんな時まで笑っていられる? 最期まで…」 「おいおい泣くなよ…お前にはやるべき事があるだろ…」 「わかっている…お前の分まで我々がやっていく。だからプリンスさんよ、お前は安心してもいいんだからな…」 最期に苦痛を感じさせない微笑みを浮かべて、あいつは逝った。冷たくなる左手を握り締め、残った私達はあいつの分まで背負って生きる事を決心した。涙が一滴、私の手に落ちた。決心したところで気は一向に楽にはならない。だが、それでも何かを、何でもいいから何かをする事は出来る。だから今までやってこられたのだ。 |