ゾンビとゴーストと彼の場合
十年経ったら結婚しよう。
そんな青臭い約束をしたのは、お互いに14歳の秋のことで。
それでもその時は、そんな約束を本気で守ろうと考えていた。
目が覚めた。まだ日は昇っていない。窓を開け、そこから見える時計塔で時刻を確認すると、いつもの起床時刻より二時間も早い。
寝直そうかとも考えたが、初秋の冷たい空気のせいで眠気はとうに覚めている。溜息をついて、仕方なく俺はベッドから出た。
口を濯ぎ、顔を洗って、かなり早いが朝食の準備を始める。日を熾す気にはなれなかったので、パンをいくつかと保存していた燻製肉、野菜を少しよそって出来上がりだ。どうせ朝早くからは胃も働かないので、少ないくらいで丁度いい。
神に祈りを捧げることもなく、代わりにあくびを一つして、俺は無言でそれを食べ始めた。風邪がカタカタと窓を揺らす音が、静かな家に響き渡る。
そんな、24歳の秋だった。
「おー、おはよう教授殿。相変わらず早起きだねぇ」
時計塔の鐘が鳴るころ、俺は近くにある仕立て屋を訪ねた。しばらくの友人である店長は、開店時間前に訪れた俺にも嫌な顔一つせずにそのように挨拶する。
俺のことを『教授』と呼ぶのは、俺がこれでも王都大の教壇に立っているからであり、そして店長は一年前の俺の教え子だったからだ。
「開店前にすまん。あれを取りに来たんだが」
「できてるできてる、うちの奥さんが張り切って作っちゃった。取ってくるね」
店長はそう言うと店の奥に消え、すぐに箱を二つ抱えて戻ってくる。カウンターに置いて蓋を取って見せれば、中には店長の卒業時に頼んだとおり、純白のタキシードとウェディングドレスが入っていた。
「うちの奥さんが、初仕事にウェディングドレスを作らせてもらえるなんて……って大喜びでさ。結構な良作に仕上がってると思うんだけど……お気に召しましたか、お客様?」
「素晴らしい」
手にとって見ると、今まで触れたどんな布よりも柔らかく、滑らかで、輝くように美しい。そこらの高級服飾店に置いてあってもなんら遜色ないほどの品だ。
「……大変な時期だっていうのに悪いな。代金払うよ」
「教授からは受け取れないよ。そもそもこの店を開くための元手だって返してないし」
「ついさっき、自分で俺のことを『お客様』と呼んだだろ? 客から代金を受け取らずにどうやって生計を立てるつもりだ。開店の元手は余裕が出てきたら返してもらうから、代金は受け取れ」
俺が指摘したとおり、直前に俺を『お客様』と呼んでいるため、店長も言葉に詰まる。こうなったら俺がどのようにしても代金を受け取らせるということは分かっているので、仕方なく、といった様子で店長は呟いた。
「……20万」
「100万だな。小切手で頼む。それから領収書は貰っておこう」
「ちょ、教授!」
「随分と我儘を言ったから、その礼だ。……というか、単純に考えて礼装一式の二人分なら100万でも安い方だ」
「そんなこと言ったってさぁ……」
「悪いけどこれから指輪も受け取りにいくんだ。手早く会計を済ませてくれないか」
まともに取り合う気のない俺を見て、店長は会計を済ませながらも、仕方なしどころかむしろ恨めしそうな目で俺を睨んでくる。無視して領収書を受け取ると、俺は手早く台車に箱をくくりつけた。
「じゃ、失礼する。重ねて言うけど、感謝してる。奥さんの方にも伝えてくれ」
「そりゃどーも。……ねぇ、リューちん」
「なんだ?」
教授、ではなく学生時代の渾名で呼びかける店長を振り返ると、つまらなさそうに小切手を弄びながら、
「……僕、結婚式に招待された覚えがないんだけど?」
「…………」
「いや、別に恨んでるとかそういうのじゃなくて。ただ、いろいろと気になってさ。リューちんに恋人がいたなんて知らなかったし、見たこともなかったしね。……聞いたとすれば、四年前に一回くらいじゃないかと思うんだけど?」
「……。マルス、何が言いたいんだ」
「まぁ、ほらアレだよ。マリーは覚えてる? 『黙ったら死ぬ女』のマリー」
「覚えてないわけがないだろう。あいつだけ一回留年して、一年長く面倒を見たんだからな」
「そのマリー曰く……『黙って静かにするなんてこと、死んでから存分にできるでしょ。生きてるうちは喋らなきゃ損!』だって」
「……あいつにしては良い言葉だな」
「僕もそう思うよ。だから、『生きてるうちは何でも喋って欲しい』と思うんだよね」
「…………」
押し黙る俺を前に、結局店長は溜息を一つだけついて。
「とにかく、帰ってきてよ。お金はちゃんと返すからさ」
「……気長に待ってろ。こっちも気長に待つ」
俺も結局それだけ答えて、軽く手を振って店を後にした。
町の北東には墓地がある。数百年前から墓地であるそこに大抵の村人は葬られ、墓を建てられる。
日当たりは良い。場所が場所でなければ晴れの日の散歩道に選びそうなくらいに涼やかだが、それが墓地というだけで陰鬱になる。花の色さえ翳って見えるようなこの場所には、俺以外の誰も来ていなかった。
「久しぶり、だな」
軽く手を上げて、俺はとある墓の前で挨拶した。
真っ白なタキシードを着て、手には指輪の入った小箱と、小脇にドレスの入った箱を抱えている。さらにもう片方の手には花束まで持っているため、正直なところ今にも落としそうだ。
落とすわけにもいかないのでまずは花束を墓に捧げて、箱をそれぞれ横に重ねてから改めて挨拶する。当然、返事はなかった。
「……四年ぶりか。まぁ遺影の方には何回も会ったが。こっちだってかなり大変だったんだからな、文句は後回しにしてくれ」
まるでそこに誰かがいるみたいに振舞って……空しくなって、やめる。目の前には墓標が立っているだけなのだ。
泣けるよなぁ、と言いながら、墓標に腰掛けて天を仰ぐ。
十年経ったんだなぁ、と言いながら、指輪の一つを左手の薬指に通す。
十年経ったら、結婚しよう。
そんな青臭い約束をしたのは、14歳の秋のことで。
約束が破られたのは、20歳の秋のことだった。
「……双子の妹と死ぬまで一緒とか、どれだけ仲良し姉妹なんだよお前。ていうか約束守れよ馬鹿野郎」
店長に話せるわけがない、どころか結婚式に招待できるはずがない。花嫁が既に死んでいて、せっかくのドレスを着る相手は死体なのだから。
山の斜面を落石が転がり、馬車を横から直撃したと聞いている。下敷きになったわけではないので死体も大分綺麗なままで、そのままひょっこり目を覚ますんじゃないか、と何度も夢に見た。その度起きて涙して、いつしか涙も枯れ果てた。
一時は酒に溺れたし、ほとんど記憶がないときもある。
それでもこの約束は、結局消えてくれなかったわけで。
「……律儀に約束を守ってる俺も相当…………」
ドレスも指輪もあいつと話したそのままのものを用意して。
用意するために教え子たちにも無茶を言って。
無茶を言うために死ぬ気で働いてきた。
既に死んだ相手との約束なのに、律儀に守ろうとしているのだから、
「……………………ああ、なんだ。俺の方が馬鹿か」
馬鹿は俺の方だったのか、と今更ながらに呟いた。
気付くとなんだか笑えてきた。涙が枯れたから笑いしか出てこなかった。
気付いただけでも重畳だ、なんて無理矢理締めくくって、俺は墓標から腰を上げる。
「ま、約束も守ったしこれでおしまいだな。店長の奥さんには礼を言っとけよ? ……もう帰るわ。じゃぁな」
もう、これでお終いにしよう。約束も果たして縛られることはなくなった。教職を続ける理由もないし、遺影なんかも処分してしまおう。いっそこの町、どころか国を出て新天地を探すのも良いかもしれない。
その辺の詳しいことは後で考えるにしても――結局このタキシードも使い捨てだな、なんて自分に毒を吐きながら、まずは墓標を後にして、
「…………ちょっと、待ってよ」
誰もいないはずの墓地に響いた、俺の物ではない――女性の声。
聞き覚えのある懐かしい声に、俺は思わず振り返って――
「!?!?!?」
――直後、ギョッとする。
当然だ。ドレスと指輪を置いた墓の前、地面が僅かに盛り上がり、そして俺が見ている中で腕が生えてきたのだから、驚かないほうがおかしい。
声も出せず身を固くする俺の目の前で、腕は見る見る土を押し上げ、やがてその全貌を露にする。
一見まだ成人していないほどにも見える幼い顔立ちだが、空ろな視線に、土に塗れてくすんだ栗色の髪、痛々しいほど白い肌が少しだけそれをやつれて見せていた。纏った衣服はむしろ原形を留めていたのが不思議と思えるくらいにボロボロで、肌の大半が露出してしまっている。それでもかろうじて局部や胴体を覆っている服には、埋葬の際に死人に着せる喪服の面影が残っていた。
四年前に『死体に』着せた、喪服の面影が残っていた。
「……ずっと来てくれないとは、思わなかった。寂しかった」
空ろな表情ながらも僅かに拗ねてみせるその表情は、面影があるどころではなく、記憶にそのまま一致する。それはつまり、目の前の『彼女』が何なのか、誰なのかをそのまま意味するところであり。
「……マリア?」
「リューくん、ひさしぶり」
軽く手を上げて、挨拶に答える少女は――アンデッド、ゾンビという名の魔物と化した俺の恋人、マリアだった。
「…………」
「絶句?」
「………………この状況、まともに喋れる方がまともじゃないだろ」
「じゃあリューくんは、まともなこと喋ってないからまともだね。……あれ? まともじゃないことを喋ってるんだから、まともじゃなくて……あれ? どっち?」
その小首を傾げる動作すらもいちいち記憶に合致して……目の前の存在を認めざるを得ない。
「生き返った……のか?」
「黄泉返った……かな。言うなれば」
「……言い得てるな。魔物になったのか」
「そうみたい。……ここの墓地、この町唯一の魔力溜まりなの。私たちのお墓がその中心。少しずつ、ゆっくり魔力が溜まっていって……」
そう言われると多少なりとも納得できる。統計的に見て、魔力溜まりの多くは北東と南西の二箇所、及び極地点に集中していると聞く。この墓地は曲がりなりにも町の北東に位置しており、また魔力の呼び水となるような死体も多く存在している。魔力溜まりとなる条件は満たしているだろう。
「……そっか、生き返った、のか。四年も経って、ようやく、だな」
「驚かないんだね。……意識は、もう少し前からあったの。体が動くようになったのが、たぶん半年くらい前。でもリューくんが来てくれなかったから…………私たち、ずっと待ってたんだよ」
「たち?」
「うん。私『たち』」
マリアが頷いて、少しだけ振り返る。視線の先は自分の墓……の隣の、妹の墓。
「一人じゃなかったから」
「…………」
「クレアも一緒だったから」
「……クレアは、生き返らなかったのか」
少しだけ間を空けて、うん、と頷くその表情は、ただ空ろげにも見えて、ただ悲しげにも見えた。
鑑みるに、魔力溜まりといってもこの墓地の魔力量は本当に微々たる物だろう。相応の量が溜まっているなら王都大の研究員が見つけているだろうし、他の死体だって黄泉返っていて然るべきだ。それがないということは溜まっている魔力量がそれほど多くないということで、つまりマリアが黄泉返ったことだって奇跡と呼んでもおかしくないような偶然なのだ。まして姉妹が両方黄泉返るなんてこと、並大抵の奇跡が起きたところで起こり得ない。
今ここに立っているのがクレアであってもおかしくない……どころか、そもそもどちらも立っていなくて当然だったのだから。
「…………」
無言で、俺はクレアの墓の前に跪いた。胸の前で軽く十時を切って両手を合わせ、静かに目を伏せる。ただそれだけで、昔の思い出が蘇るようだった。
草原で遊んだこととか。
泥まみれになって、風呂に入ったこととか。
風呂で背中を流し合ったこととか。
そのまま欲情して…………え? え!?
「――――ちょっと待て。そんな憶えはないぞ」
「リューくん?」
「待て。なんかおかしい。マリア、俺になんかしたか?」
「肩に触っただけ。あと、なにしてるの?」
「なにって、クレアの冥福を祈って―――」
見れば分かるだろう、と俺はマリアを振り返って――
「―――!?!?!?」
直後、再びギョッとする。
当然だ。マリアの首元には半透明の人の腕が回されていて、背後にはその本体である半透明の人間が宙に浮いているのだから。
「なっ、だっ、だ、な、なんだそれ!?」
「え? え? なになに? それってどれ?」
「それ! それ! それ! お前の後ろに浮いてるそれ!」
やばい、大学教授とは思えないようなアホな発言してるぞ俺。
意味が分からない、といった様子でマリアは後ろを振り返り、宙に浮いている半透明の何かと視線を交わす。そのまま二人で互いに首を傾げて、やはり分からないといった様子で俺に視線を戻す。
「…………もしかしてリューくん、この娘のこと言ってるの?」
「いやそれ以外に言うべきものないだろ!」
「それ以外もなにも……誰だか分からないの? もしかして」
少し呆れたような表情を見せるマリア、それに呼応するように悲しげな表情を取る半透明の……少女。
そう、少女だった。よく見れば、宙に浮くその人影は間違いなく女の子の姿をしていた。
栗色の髪に幼い顔立ち、見覚えのある真っ黒な服はきっと喪服だろう。マリアに良く似た顔立ちをしているが、よく見ればマリアよりも僅かに目尻が高く、気の強そうな印象を受ける…………ていうか、え、ああ、うん。
「え……クレア、か?」
俺がそう言うと、半透明少女の表情がぱぁっと明るくなり、周囲に人魂を浮かべて楽しそうに踊りだす。反面でマリアの方はますます呆れた様子でこちらを見た。
「……分からなかったんだ」
「分かるかっ! いきなり半透明の何かが浮いてて驚かない方がおかしいだろ! っつーかついぞ今クレアは生き返らなかったって……」
「生き返ってはいないよ。ゴーストだし、まだ実体化も出来ないもん。声も聞こえないでしょ?」
詭弁じゃねぇか。そう言いたいのをどうにかこらえ、改めてその少女を……クレアのほうを見る。マリアの言葉に少し悲しげに頷くクレア、しかしその声は聞こえなかった。そうか、さっきのクレアに欲情したなんていう記憶にない記憶は、ゴーストお得意の思考共有……妄想送信ってやつか。
ゴーストは、マリアと同じアンデッド系の魔物でも割と特殊な位置づけの魔物だ。今言ったように最初のうちは物理的な体を持っておらず、魔力を蓄えることでようやく実体化する。それまでは誰かに憑依して魔力を蓄えるというから……
「今はマリアが憑かれてるのか」
「うん。だから私にはクレアの声も聞こえるよ」
「そうか…………」
クレアの声が聞こえないのは、少し残念だが。
目まぐるしく起こった多くのことに、俺の思考も付いていかない。なんと言うべきかも分からず、一旦腰を落ち着けようと俺は墓標側に少し歩いて、
ぽす、と、爪先に何か当たるのを感じた。視線を落とすと、そこには箱。
ウェディングドレスと指輪が入った、二つの箱。
――――ってぇ、忘れてたっ!
「マリア!」
「ふぇっ!? な、なに?」
「十年前のこと覚えてるか!?」
ばっ、と振り返ると、驚いて身を引いているマリアとその背後に憑いているクレアに箱を突きつける。最初はわけの分からなかった二人も、すぐに何のことかは気付いた様子で……つまり、約束を覚えていてくれたということで。
「……リューくん、そのことだけど、話があるの」
それなのに、マリアはすぐに神妙な面持ちで、少し重い雰囲気を醸しながらそんな風に言った。
俺が驚くのも束の間……やはり、いやな予感が胸中によぎる。
それが顔に出たのかは分からないが、俺の方を見るなりマリアは慌てた表情になって手をぶんぶんと振った。
「あ、違うよ! リューくんが嫌いになったとかそんなのじゃないよ!」
「え……あ、そ、そうなのか?」
「大丈夫だよ。……確かに、お墓参りにはきてくれなかったけど……これ、ウェディングドレスと結婚指輪だよね?」
「ああ」
「これ用意するために働いてたんだよね。だから、嬉しくて……やっぱり私リューくんが好き。大好き」
やばい。照れる。顔が紅潮するのが分かる。つーか涙腺が崩壊する、嬉しさで。
それでも、マリアがまだ何か話そうとしているのは分かった。泣くのはその後だ、と必死に涙を堪えてマリアに続きを促すと、マリアは背後のクレアに視線を向けて、少しだけ間を置いて俺に向き直った。
「ね、リューくん。クレアのことは好き?」
「ん? ……そりゃ嫌いじゃないけど」
「好き?」
「好きだよ」
「よかった。あのね、クレアもリューくんのことが好きなんだって。気付いてるよね?」
「……………………まぁ、な」
俺は自分が鈍感だと思ったことはない。どころか、むしろ普通の人より何事においても敏感な方だ。それはある意味で俺が神童だった所以でもあり、学術一般から日常生活その他のスキル全てにおいてそうだった。
当然、他者の感情に対しても敏感だったし、まして相手は恋人の双子の妹、俺じゃなくてもある程度推測できるくらいに気心が知れている仲だ。自分で尋ねるのも気が引けたので確認はしなかったが、確証はなくとも確信はあった。
俺の答えを聞いて、マリアは安心と困惑が混ざったような、その後ろでクレアは驚きと悲しみが混ざったような表情を浮かべる。……好意に気付いた上でそれを無視していたのだから、当然の表情だろう。
それでも、マリアは少し間を置いて、安心したように溜息をついた。
「そっか。クレアもね、リューくんと結婚したいんだって。だから私だけじゃなくて、クレアもお嫁さんにしてほしいな」
「は? …………え、本気か?」
「本気だよ。ね、クレア?」
後ろで漂っているクレアに視線を向ければ、やはり声は聞こえないものの、大きく頷く。とはいえ俺には大きな問題だ。一応この国では重婚は良しとされていないし、妻とするべき恋人がいる上でその妹の求婚を承諾してしまっては……。
「……だめ?」
「駄目っていうか……正直に言えば、男としては相当嬉しいシチュエーションなんだが……モラルに悖るだろ」
「そんな曖昧な言葉で誤魔化さないで。嫌ならはっきり言って」
思いがけず強い口調で言われ、驚く。生前はこのように強く言うことはなかったのだが、魔物化による影響だとすれば……いい変化かもしれない。
もとい、誤魔化すなと言われれば俺もはっきりと伝えるしかない。
もちろんクレアのことは好きだ。対人関係というだけの『好き』ではなく、性格や人格、その内面に救われたことも多い。クレアが俺に好意を抱いていると知ってからは、マリアとクレアの間で揺れたことだってあった。
マリアと喧嘩したとき、仲を取り成してくれたのもクレアだったし。
俺が深く落ち込んだときも、クレアもマリアと一緒に励ましてくれた。
「…………」
少しの間、しかし十分に熟考して。
「……そうだな、うん。クレア。結婚しよう」
「!」
「思い返せば当たり前のことだ。俺の恋人はマリアだったけど、だからってお前がいなかったときなんてなかった。ありきたりだけど、今まで三人一緒だったんだから、三人一緒で当たり前なんだ。だから、結婚しよう」
そう言うと、クレアはしばし驚いた表情から、やがてぽろぽろと涙をこぼし始めた。少し焦ったが、マリアが優しく微笑んで頷いてくれたので安心する。声なき嗚咽もおさまらないまま、クレアは泣きながら俺の方に近寄ってきて、
すかっ、と。
クレアの体が俺の体をすり抜けた。抱きとめようとした手が空しく宙を切り、肩透かしを食らったように少し体勢を崩す。
……か、格好つかないな……。
そう思いながら後ろを振り向くと、体を突き抜けて俺の背後に回り、驚いているクレアと目が合い。
「……ぷっ。二人とも、何やってるの?」
そんなマリアの声を皮切りに、俺たちは少しの間笑いあった。
話の締めとして、もう少しお話しよう。
実体化できるようになるまでは、クレアはマリアに憑いていてもらうことになった。霊体ではドレスも着ることが出来ないので、結婚式も『一緒に』行うことになった。どころか初夜もである。
双子だから体の相性が良かったのか、その後すぐに声も聞こえるようになったし、半年で実体化できるようになった。今では家事もこなせるくらいなのだが、たまに幽体に戻って驚かしてくるのだけは困っている。
一方マリアは相変わらずで、おっとりとしているし毎日皆を労わってくれている。愛妻弁当がかなりファンシーなところだけが、嬉しい悩みだ。
どちらも一度は死んでいるため、戸籍上は生前と別人ということになっている。が、俺にとって些細なことなので割愛。当初は周囲の奇異の目もあったものの、早くも昔のように馴染めている。人間の適応能力にこれほど感謝したことはない。
唯一残念だったことが、やはり一応重婚になる以上公序良俗に悖るため、王都大教授として在籍することが困難になった。そのため今年で王都大の教授から退くことになる。学長その他の教員が手回しをしてくれて別の王都大に次ぐ名門大学に移籍することになったのだが、国の端まで引っ越さなければならないので今でも準備に手間取っている。
が、まぁやはり些細な問題だ。少し変則的ではあるけれど、好きな人と一緒にいられるのだからこれ以上の幸せがあるだろうか。
四年前には考えもしなかったが……これは間違いなく、最高のハッピーエンドだ。
そんな青臭い約束をしたのは、お互いに14歳の秋のことで。
それでもその時は、そんな約束を本気で守ろうと考えていた。
目が覚めた。まだ日は昇っていない。窓を開け、そこから見える時計塔で時刻を確認すると、いつもの起床時刻より二時間も早い。
寝直そうかとも考えたが、初秋の冷たい空気のせいで眠気はとうに覚めている。溜息をついて、仕方なく俺はベッドから出た。
口を濯ぎ、顔を洗って、かなり早いが朝食の準備を始める。日を熾す気にはなれなかったので、パンをいくつかと保存していた燻製肉、野菜を少しよそって出来上がりだ。どうせ朝早くからは胃も働かないので、少ないくらいで丁度いい。
神に祈りを捧げることもなく、代わりにあくびを一つして、俺は無言でそれを食べ始めた。風邪がカタカタと窓を揺らす音が、静かな家に響き渡る。
そんな、24歳の秋だった。
「おー、おはよう教授殿。相変わらず早起きだねぇ」
時計塔の鐘が鳴るころ、俺は近くにある仕立て屋を訪ねた。しばらくの友人である店長は、開店時間前に訪れた俺にも嫌な顔一つせずにそのように挨拶する。
俺のことを『教授』と呼ぶのは、俺がこれでも王都大の教壇に立っているからであり、そして店長は一年前の俺の教え子だったからだ。
「開店前にすまん。あれを取りに来たんだが」
「できてるできてる、うちの奥さんが張り切って作っちゃった。取ってくるね」
店長はそう言うと店の奥に消え、すぐに箱を二つ抱えて戻ってくる。カウンターに置いて蓋を取って見せれば、中には店長の卒業時に頼んだとおり、純白のタキシードとウェディングドレスが入っていた。
「うちの奥さんが、初仕事にウェディングドレスを作らせてもらえるなんて……って大喜びでさ。結構な良作に仕上がってると思うんだけど……お気に召しましたか、お客様?」
「素晴らしい」
手にとって見ると、今まで触れたどんな布よりも柔らかく、滑らかで、輝くように美しい。そこらの高級服飾店に置いてあってもなんら遜色ないほどの品だ。
「……大変な時期だっていうのに悪いな。代金払うよ」
「教授からは受け取れないよ。そもそもこの店を開くための元手だって返してないし」
「ついさっき、自分で俺のことを『お客様』と呼んだだろ? 客から代金を受け取らずにどうやって生計を立てるつもりだ。開店の元手は余裕が出てきたら返してもらうから、代金は受け取れ」
俺が指摘したとおり、直前に俺を『お客様』と呼んでいるため、店長も言葉に詰まる。こうなったら俺がどのようにしても代金を受け取らせるということは分かっているので、仕方なく、といった様子で店長は呟いた。
「……20万」
「100万だな。小切手で頼む。それから領収書は貰っておこう」
「ちょ、教授!」
「随分と我儘を言ったから、その礼だ。……というか、単純に考えて礼装一式の二人分なら100万でも安い方だ」
「そんなこと言ったってさぁ……」
「悪いけどこれから指輪も受け取りにいくんだ。手早く会計を済ませてくれないか」
まともに取り合う気のない俺を見て、店長は会計を済ませながらも、仕方なしどころかむしろ恨めしそうな目で俺を睨んでくる。無視して領収書を受け取ると、俺は手早く台車に箱をくくりつけた。
「じゃ、失礼する。重ねて言うけど、感謝してる。奥さんの方にも伝えてくれ」
「そりゃどーも。……ねぇ、リューちん」
「なんだ?」
教授、ではなく学生時代の渾名で呼びかける店長を振り返ると、つまらなさそうに小切手を弄びながら、
「……僕、結婚式に招待された覚えがないんだけど?」
「…………」
「いや、別に恨んでるとかそういうのじゃなくて。ただ、いろいろと気になってさ。リューちんに恋人がいたなんて知らなかったし、見たこともなかったしね。……聞いたとすれば、四年前に一回くらいじゃないかと思うんだけど?」
「……。マルス、何が言いたいんだ」
「まぁ、ほらアレだよ。マリーは覚えてる? 『黙ったら死ぬ女』のマリー」
「覚えてないわけがないだろう。あいつだけ一回留年して、一年長く面倒を見たんだからな」
「そのマリー曰く……『黙って静かにするなんてこと、死んでから存分にできるでしょ。生きてるうちは喋らなきゃ損!』だって」
「……あいつにしては良い言葉だな」
「僕もそう思うよ。だから、『生きてるうちは何でも喋って欲しい』と思うんだよね」
「…………」
押し黙る俺を前に、結局店長は溜息を一つだけついて。
「とにかく、帰ってきてよ。お金はちゃんと返すからさ」
「……気長に待ってろ。こっちも気長に待つ」
俺も結局それだけ答えて、軽く手を振って店を後にした。
町の北東には墓地がある。数百年前から墓地であるそこに大抵の村人は葬られ、墓を建てられる。
日当たりは良い。場所が場所でなければ晴れの日の散歩道に選びそうなくらいに涼やかだが、それが墓地というだけで陰鬱になる。花の色さえ翳って見えるようなこの場所には、俺以外の誰も来ていなかった。
「久しぶり、だな」
軽く手を上げて、俺はとある墓の前で挨拶した。
真っ白なタキシードを着て、手には指輪の入った小箱と、小脇にドレスの入った箱を抱えている。さらにもう片方の手には花束まで持っているため、正直なところ今にも落としそうだ。
落とすわけにもいかないのでまずは花束を墓に捧げて、箱をそれぞれ横に重ねてから改めて挨拶する。当然、返事はなかった。
「……四年ぶりか。まぁ遺影の方には何回も会ったが。こっちだってかなり大変だったんだからな、文句は後回しにしてくれ」
まるでそこに誰かがいるみたいに振舞って……空しくなって、やめる。目の前には墓標が立っているだけなのだ。
泣けるよなぁ、と言いながら、墓標に腰掛けて天を仰ぐ。
十年経ったんだなぁ、と言いながら、指輪の一つを左手の薬指に通す。
十年経ったら、結婚しよう。
そんな青臭い約束をしたのは、14歳の秋のことで。
約束が破られたのは、20歳の秋のことだった。
「……双子の妹と死ぬまで一緒とか、どれだけ仲良し姉妹なんだよお前。ていうか約束守れよ馬鹿野郎」
店長に話せるわけがない、どころか結婚式に招待できるはずがない。花嫁が既に死んでいて、せっかくのドレスを着る相手は死体なのだから。
山の斜面を落石が転がり、馬車を横から直撃したと聞いている。下敷きになったわけではないので死体も大分綺麗なままで、そのままひょっこり目を覚ますんじゃないか、と何度も夢に見た。その度起きて涙して、いつしか涙も枯れ果てた。
一時は酒に溺れたし、ほとんど記憶がないときもある。
それでもこの約束は、結局消えてくれなかったわけで。
「……律儀に約束を守ってる俺も相当…………」
ドレスも指輪もあいつと話したそのままのものを用意して。
用意するために教え子たちにも無茶を言って。
無茶を言うために死ぬ気で働いてきた。
既に死んだ相手との約束なのに、律儀に守ろうとしているのだから、
「……………………ああ、なんだ。俺の方が馬鹿か」
馬鹿は俺の方だったのか、と今更ながらに呟いた。
気付くとなんだか笑えてきた。涙が枯れたから笑いしか出てこなかった。
気付いただけでも重畳だ、なんて無理矢理締めくくって、俺は墓標から腰を上げる。
「ま、約束も守ったしこれでおしまいだな。店長の奥さんには礼を言っとけよ? ……もう帰るわ。じゃぁな」
もう、これでお終いにしよう。約束も果たして縛られることはなくなった。教職を続ける理由もないし、遺影なんかも処分してしまおう。いっそこの町、どころか国を出て新天地を探すのも良いかもしれない。
その辺の詳しいことは後で考えるにしても――結局このタキシードも使い捨てだな、なんて自分に毒を吐きながら、まずは墓標を後にして、
「…………ちょっと、待ってよ」
誰もいないはずの墓地に響いた、俺の物ではない――女性の声。
聞き覚えのある懐かしい声に、俺は思わず振り返って――
「!?!?!?」
――直後、ギョッとする。
当然だ。ドレスと指輪を置いた墓の前、地面が僅かに盛り上がり、そして俺が見ている中で腕が生えてきたのだから、驚かないほうがおかしい。
声も出せず身を固くする俺の目の前で、腕は見る見る土を押し上げ、やがてその全貌を露にする。
一見まだ成人していないほどにも見える幼い顔立ちだが、空ろな視線に、土に塗れてくすんだ栗色の髪、痛々しいほど白い肌が少しだけそれをやつれて見せていた。纏った衣服はむしろ原形を留めていたのが不思議と思えるくらいにボロボロで、肌の大半が露出してしまっている。それでもかろうじて局部や胴体を覆っている服には、埋葬の際に死人に着せる喪服の面影が残っていた。
四年前に『死体に』着せた、喪服の面影が残っていた。
「……ずっと来てくれないとは、思わなかった。寂しかった」
空ろな表情ながらも僅かに拗ねてみせるその表情は、面影があるどころではなく、記憶にそのまま一致する。それはつまり、目の前の『彼女』が何なのか、誰なのかをそのまま意味するところであり。
「……マリア?」
「リューくん、ひさしぶり」
軽く手を上げて、挨拶に答える少女は――アンデッド、ゾンビという名の魔物と化した俺の恋人、マリアだった。
「…………」
「絶句?」
「………………この状況、まともに喋れる方がまともじゃないだろ」
「じゃあリューくんは、まともなこと喋ってないからまともだね。……あれ? まともじゃないことを喋ってるんだから、まともじゃなくて……あれ? どっち?」
その小首を傾げる動作すらもいちいち記憶に合致して……目の前の存在を認めざるを得ない。
「生き返った……のか?」
「黄泉返った……かな。言うなれば」
「……言い得てるな。魔物になったのか」
「そうみたい。……ここの墓地、この町唯一の魔力溜まりなの。私たちのお墓がその中心。少しずつ、ゆっくり魔力が溜まっていって……」
そう言われると多少なりとも納得できる。統計的に見て、魔力溜まりの多くは北東と南西の二箇所、及び極地点に集中していると聞く。この墓地は曲がりなりにも町の北東に位置しており、また魔力の呼び水となるような死体も多く存在している。魔力溜まりとなる条件は満たしているだろう。
「……そっか、生き返った、のか。四年も経って、ようやく、だな」
「驚かないんだね。……意識は、もう少し前からあったの。体が動くようになったのが、たぶん半年くらい前。でもリューくんが来てくれなかったから…………私たち、ずっと待ってたんだよ」
「たち?」
「うん。私『たち』」
マリアが頷いて、少しだけ振り返る。視線の先は自分の墓……の隣の、妹の墓。
「一人じゃなかったから」
「…………」
「クレアも一緒だったから」
「……クレアは、生き返らなかったのか」
少しだけ間を空けて、うん、と頷くその表情は、ただ空ろげにも見えて、ただ悲しげにも見えた。
鑑みるに、魔力溜まりといってもこの墓地の魔力量は本当に微々たる物だろう。相応の量が溜まっているなら王都大の研究員が見つけているだろうし、他の死体だって黄泉返っていて然るべきだ。それがないということは溜まっている魔力量がそれほど多くないということで、つまりマリアが黄泉返ったことだって奇跡と呼んでもおかしくないような偶然なのだ。まして姉妹が両方黄泉返るなんてこと、並大抵の奇跡が起きたところで起こり得ない。
今ここに立っているのがクレアであってもおかしくない……どころか、そもそもどちらも立っていなくて当然だったのだから。
「…………」
無言で、俺はクレアの墓の前に跪いた。胸の前で軽く十時を切って両手を合わせ、静かに目を伏せる。ただそれだけで、昔の思い出が蘇るようだった。
草原で遊んだこととか。
泥まみれになって、風呂に入ったこととか。
風呂で背中を流し合ったこととか。
そのまま欲情して…………え? え!?
「――――ちょっと待て。そんな憶えはないぞ」
「リューくん?」
「待て。なんかおかしい。マリア、俺になんかしたか?」
「肩に触っただけ。あと、なにしてるの?」
「なにって、クレアの冥福を祈って―――」
見れば分かるだろう、と俺はマリアを振り返って――
「―――!?!?!?」
直後、再びギョッとする。
当然だ。マリアの首元には半透明の人の腕が回されていて、背後にはその本体である半透明の人間が宙に浮いているのだから。
「なっ、だっ、だ、な、なんだそれ!?」
「え? え? なになに? それってどれ?」
「それ! それ! それ! お前の後ろに浮いてるそれ!」
やばい、大学教授とは思えないようなアホな発言してるぞ俺。
意味が分からない、といった様子でマリアは後ろを振り返り、宙に浮いている半透明の何かと視線を交わす。そのまま二人で互いに首を傾げて、やはり分からないといった様子で俺に視線を戻す。
「…………もしかしてリューくん、この娘のこと言ってるの?」
「いやそれ以外に言うべきものないだろ!」
「それ以外もなにも……誰だか分からないの? もしかして」
少し呆れたような表情を見せるマリア、それに呼応するように悲しげな表情を取る半透明の……少女。
そう、少女だった。よく見れば、宙に浮くその人影は間違いなく女の子の姿をしていた。
栗色の髪に幼い顔立ち、見覚えのある真っ黒な服はきっと喪服だろう。マリアに良く似た顔立ちをしているが、よく見ればマリアよりも僅かに目尻が高く、気の強そうな印象を受ける…………ていうか、え、ああ、うん。
「え……クレア、か?」
俺がそう言うと、半透明少女の表情がぱぁっと明るくなり、周囲に人魂を浮かべて楽しそうに踊りだす。反面でマリアの方はますます呆れた様子でこちらを見た。
「……分からなかったんだ」
「分かるかっ! いきなり半透明の何かが浮いてて驚かない方がおかしいだろ! っつーかついぞ今クレアは生き返らなかったって……」
「生き返ってはいないよ。ゴーストだし、まだ実体化も出来ないもん。声も聞こえないでしょ?」
詭弁じゃねぇか。そう言いたいのをどうにかこらえ、改めてその少女を……クレアのほうを見る。マリアの言葉に少し悲しげに頷くクレア、しかしその声は聞こえなかった。そうか、さっきのクレアに欲情したなんていう記憶にない記憶は、ゴーストお得意の思考共有……妄想送信ってやつか。
ゴーストは、マリアと同じアンデッド系の魔物でも割と特殊な位置づけの魔物だ。今言ったように最初のうちは物理的な体を持っておらず、魔力を蓄えることでようやく実体化する。それまでは誰かに憑依して魔力を蓄えるというから……
「今はマリアが憑かれてるのか」
「うん。だから私にはクレアの声も聞こえるよ」
「そうか…………」
クレアの声が聞こえないのは、少し残念だが。
目まぐるしく起こった多くのことに、俺の思考も付いていかない。なんと言うべきかも分からず、一旦腰を落ち着けようと俺は墓標側に少し歩いて、
ぽす、と、爪先に何か当たるのを感じた。視線を落とすと、そこには箱。
ウェディングドレスと指輪が入った、二つの箱。
――――ってぇ、忘れてたっ!
「マリア!」
「ふぇっ!? な、なに?」
「十年前のこと覚えてるか!?」
ばっ、と振り返ると、驚いて身を引いているマリアとその背後に憑いているクレアに箱を突きつける。最初はわけの分からなかった二人も、すぐに何のことかは気付いた様子で……つまり、約束を覚えていてくれたということで。
「……リューくん、そのことだけど、話があるの」
それなのに、マリアはすぐに神妙な面持ちで、少し重い雰囲気を醸しながらそんな風に言った。
俺が驚くのも束の間……やはり、いやな予感が胸中によぎる。
それが顔に出たのかは分からないが、俺の方を見るなりマリアは慌てた表情になって手をぶんぶんと振った。
「あ、違うよ! リューくんが嫌いになったとかそんなのじゃないよ!」
「え……あ、そ、そうなのか?」
「大丈夫だよ。……確かに、お墓参りにはきてくれなかったけど……これ、ウェディングドレスと結婚指輪だよね?」
「ああ」
「これ用意するために働いてたんだよね。だから、嬉しくて……やっぱり私リューくんが好き。大好き」
やばい。照れる。顔が紅潮するのが分かる。つーか涙腺が崩壊する、嬉しさで。
それでも、マリアがまだ何か話そうとしているのは分かった。泣くのはその後だ、と必死に涙を堪えてマリアに続きを促すと、マリアは背後のクレアに視線を向けて、少しだけ間を置いて俺に向き直った。
「ね、リューくん。クレアのことは好き?」
「ん? ……そりゃ嫌いじゃないけど」
「好き?」
「好きだよ」
「よかった。あのね、クレアもリューくんのことが好きなんだって。気付いてるよね?」
「……………………まぁ、な」
俺は自分が鈍感だと思ったことはない。どころか、むしろ普通の人より何事においても敏感な方だ。それはある意味で俺が神童だった所以でもあり、学術一般から日常生活その他のスキル全てにおいてそうだった。
当然、他者の感情に対しても敏感だったし、まして相手は恋人の双子の妹、俺じゃなくてもある程度推測できるくらいに気心が知れている仲だ。自分で尋ねるのも気が引けたので確認はしなかったが、確証はなくとも確信はあった。
俺の答えを聞いて、マリアは安心と困惑が混ざったような、その後ろでクレアは驚きと悲しみが混ざったような表情を浮かべる。……好意に気付いた上でそれを無視していたのだから、当然の表情だろう。
それでも、マリアは少し間を置いて、安心したように溜息をついた。
「そっか。クレアもね、リューくんと結婚したいんだって。だから私だけじゃなくて、クレアもお嫁さんにしてほしいな」
「は? …………え、本気か?」
「本気だよ。ね、クレア?」
後ろで漂っているクレアに視線を向ければ、やはり声は聞こえないものの、大きく頷く。とはいえ俺には大きな問題だ。一応この国では重婚は良しとされていないし、妻とするべき恋人がいる上でその妹の求婚を承諾してしまっては……。
「……だめ?」
「駄目っていうか……正直に言えば、男としては相当嬉しいシチュエーションなんだが……モラルに悖るだろ」
「そんな曖昧な言葉で誤魔化さないで。嫌ならはっきり言って」
思いがけず強い口調で言われ、驚く。生前はこのように強く言うことはなかったのだが、魔物化による影響だとすれば……いい変化かもしれない。
もとい、誤魔化すなと言われれば俺もはっきりと伝えるしかない。
もちろんクレアのことは好きだ。対人関係というだけの『好き』ではなく、性格や人格、その内面に救われたことも多い。クレアが俺に好意を抱いていると知ってからは、マリアとクレアの間で揺れたことだってあった。
マリアと喧嘩したとき、仲を取り成してくれたのもクレアだったし。
俺が深く落ち込んだときも、クレアもマリアと一緒に励ましてくれた。
「…………」
少しの間、しかし十分に熟考して。
「……そうだな、うん。クレア。結婚しよう」
「!」
「思い返せば当たり前のことだ。俺の恋人はマリアだったけど、だからってお前がいなかったときなんてなかった。ありきたりだけど、今まで三人一緒だったんだから、三人一緒で当たり前なんだ。だから、結婚しよう」
そう言うと、クレアはしばし驚いた表情から、やがてぽろぽろと涙をこぼし始めた。少し焦ったが、マリアが優しく微笑んで頷いてくれたので安心する。声なき嗚咽もおさまらないまま、クレアは泣きながら俺の方に近寄ってきて、
すかっ、と。
クレアの体が俺の体をすり抜けた。抱きとめようとした手が空しく宙を切り、肩透かしを食らったように少し体勢を崩す。
……か、格好つかないな……。
そう思いながら後ろを振り向くと、体を突き抜けて俺の背後に回り、驚いているクレアと目が合い。
「……ぷっ。二人とも、何やってるの?」
そんなマリアの声を皮切りに、俺たちは少しの間笑いあった。
話の締めとして、もう少しお話しよう。
実体化できるようになるまでは、クレアはマリアに憑いていてもらうことになった。霊体ではドレスも着ることが出来ないので、結婚式も『一緒に』行うことになった。どころか初夜もである。
双子だから体の相性が良かったのか、その後すぐに声も聞こえるようになったし、半年で実体化できるようになった。今では家事もこなせるくらいなのだが、たまに幽体に戻って驚かしてくるのだけは困っている。
一方マリアは相変わらずで、おっとりとしているし毎日皆を労わってくれている。愛妻弁当がかなりファンシーなところだけが、嬉しい悩みだ。
どちらも一度は死んでいるため、戸籍上は生前と別人ということになっている。が、俺にとって些細なことなので割愛。当初は周囲の奇異の目もあったものの、早くも昔のように馴染めている。人間の適応能力にこれほど感謝したことはない。
唯一残念だったことが、やはり一応重婚になる以上公序良俗に悖るため、王都大教授として在籍することが困難になった。そのため今年で王都大の教授から退くことになる。学長その他の教員が手回しをしてくれて別の王都大に次ぐ名門大学に移籍することになったのだが、国の端まで引っ越さなければならないので今でも準備に手間取っている。
が、まぁやはり些細な問題だ。少し変則的ではあるけれど、好きな人と一緒にいられるのだからこれ以上の幸せがあるだろうか。
四年前には考えもしなかったが……これは間違いなく、最高のハッピーエンドだ。
10/06/14 19:48更新 / 染色体
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