連載小説
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リザードマンと彼の場合
あの時少女の目に満ちていたのは、確かに怒りと恨みと涙だった。
子供ながらに竦み上がるようなその視線に怯える俺を見て、少女は言ったのだ。
――覚えていろ。十年経ったら、もう一度お前に挑みに来る。
そして――








 小さな呼吸と共に一定間隔で木刀を振る。寝起きで筋肉も解れていないので、決して激しくはしない。いわゆる準備運動なのだ。
 ただし、準備運動とは言ってもれっきとした練習だ。足運び、手首の捻り、重心の移動など多くのものに気をつけながら行わなければならない。そうしていると意外に集中力を使い、しばらくすると汗もかき始める。まだ空が白む時間帯ながら、俺の体は既に汗でべたべたになっていた。
 手の平のほうにも汗が滲んできたのを感じ、木刀がすっぽ抜けてはいけないので、俺は一度素振りを止めた。途端に体が熱を帯びて汗が噴き出す。ふぅ、と息をつくと、ちょうど同じタイミングで道場の戸が開く音が聞こえた。
「おはようございます……あ、あれ? 先生が起きていらっしゃる?」
「よぉ。おはよう」
 予想通り、入ってきたのは使用人の娘、リンだった。ただ俺が起きていることがそんなに意外か。目を丸くしてこちらを見、外の太陽を見、果ては自分の目元を軽く押さえてから目を開く、という作業を繰り返している。
「わ、私、寝坊してしまいましたか……?」
「いや、今日は俺が早く起きた。あと『先生』はやめてくれ。老けてるみたいに聞こえるだろ」
 俺はまだ18だ。
「いえ、先生は道場の師範代ですし……それにしても、先生がこの時間に起きていらっしゃるなんて」
「……。今日は少し夢見が悪かっただけだよ」
「まぁ、どのような夢を?」
「いや、覚えてないんだけどさ…………」
 見た夢の内容はほとんど覚えていないが、それがどこか心地悪いような、ともかくあまり良いものでなかった感覚だけは残っている。最近は特に夢を見ることもなくぐっすりと眠っていたため、夢自体に慣れていないのかもしれないが。
 しかし、リンははたと気付いたように、もしかしてあのことですか、と俺に尋ねてきた。
「あのことって?」
「今からだとちょうど十年くらい前のことですよ。先生がまだ小さい頃、同じくらいの女の子と試合をなさったでしょう?」
 あくまで俺を『先生』と呼び続けるリンを軽く睨みながら、しかしいちいち突っ込んでいては話が逸れていくので、溜息をついてそっちのほうは諦める。仕方なしに、ええと、と一言置いて、俺は本題の方を尋ねることにした。
「……俺とどこかの女の子と試合をしたことって……あったか?」
「私の思い違いでなければ、恐らく先生が八つの頃に」
「どっちが勝ったんだっけ?」
「先生です。こう、巻き技を綺麗に決めた後、喉元に突きをぴたりと。今でもそうですが、先生はあの頃から巻き技がお得意でしたね」
「まぁな」
 道場内ではパフォーマンスみたいなもんだが、これが実戦となれば話が別だ。武器は時として防具以上に守りの役割も果たす。武器を失うというのは攻撃手段を減らされたと言うだけでなく、守りが格段に薄くなったという意味合いも持つのだ。……タイミングよく巻き技で相手の武器を奪うことで、勝手に実力を勘違いしてくれる三流冒険者がいるのも確かだが。
 ともあれ、自分では覚えていないが、そんなことがあったのは事実らしい。八歳とはいえ男女の体格や力の差が出てくる時期に、女の子と勝負していた……あまり喜ばしいことではないな。苦い顔をする俺を見て苦笑しながら、一応リンもフォローに回ってくれた。
「幼い頃ですから、まだ男女の分別なんて付いていませんし……十年前ですから、気になさらずとも……」
「……そういうことにしておいてくれ。ってことは、気分が悪いのはそのせいかねぇ」
 なんとなく気分が悪い原因は分かったものの、昔のこととはいえ自分が女の子に勝って喜んでいたところを想像すれば、今考えるに情けない。しばらくテンションは上がりそうにない。
 などと俺が考えていると、
「あ、いえ、それは違うと思います」
 リンが即座に、何の気兼ねもなくそれを否定した。
 え? と訝る俺に、リンはふるふると首を振る。
「先生はその後、勝ったこと自体はそれほど喜んだ様子でもなくて、むしろ女の子を気遣ってるみたいでしたから。ですが、女の子はよっぽど悔しかったのか、ちょっと怒った様子でして……その後先生に言ったみたいなんですよ」

「「十年経ったら、もう一度お前に挑みに来る」」

 声に違和感を覚え、ふとリンを見る。しかしリンも驚いた様子でこちらを見ている。
 確かに今、声が被るのを聞いた。その声は女性で、しかしリンの声ではなく、当然俺でもなく。
 ざり、と玄関のほうから土を踏む音。俺とリンは同時にそちらを振り向いた。
 玄関に人影――開かれたままの玄関に仁王立ちする人物は、竜種のものと見える鱗と皮で作られた鎧を身に纏い、長い髪を高く束ね、腰に一本の剣を佩いた長身の女性である。鋭く俺とリンを見回し、そして瞬時に俺を正面から見据えた。
 夢にも思い出せない少女の面影など何一つとして覚えちゃいないし、覚えていたとしてそれが今の女性に重なるとも思えないが、それでも自身の心の底で、彼女がそうだと断じていた。
 ああ、この人が、十年前のその少女なんだ。
 そしてその直感に応えるように、女性は固く結んでいた口を僅かに緩め。
「……十年前のことを、覚えているか」
 並々ならぬ威圧を前に、覚えていないなどと言えようはずもない。その言葉に、俺は無言で頷くしかなかった。
 女性はそれを見て、僅かに安心したように少しだけ息を吐いた。少しだけ緩んだその顔は、よく見れば思わず見とれてしまうほどの美人で……しかし女性はその顔をすぐに武人の顔へと引き戻し、鞘ごと剣の切っ先を俺に向けて言う。
「ならば深く言う必要はあるまい。あのときの約束を果たしに来た。……決闘だ」
 リンが驚いたように女性と俺を交互に見る。思わず無言でいた俺もようやく我に返り、まずは軽く深呼吸。内心では違って欲しいと願いながら、できるだけ静かに女性に話しかけた。
「決闘の前にいくつか聞いておきたい。良いだろうか」
「構わない」
「ありがとう。確認として、貴女は十年前……俺と試合し俺に負けた、あの少女ということに間違いはないだろうか」
 無言で首肯。負けた、という部分を明言したためか眉根は険しく寄っていたが、否定しないということはリンの話の裏づけにもなる。…………ここで否定でもしてくれれば決闘などせずに済むのだが。思わず溜息をつきそうになったが、どうにかそれは我慢して、次。
「わかった。では場所の提案だが、ここの道場か町外れにある草原か、どちらかを提案したい」
「その決定権はお前に委ねよう。私は決闘を申し込んだ側の者だからな」
「……では、草原で」
 正直に言えば自分がより慣れている道場を提案したかったが、決闘を行う場所としては狭すぎる。それに今から日が昇れば、門下生たちが次々に集まってくる時間になる。邪魔が多すぎるので、草原を選ぶほかなかった。
ともあれ決闘の前準備を済ませた俺は、最後にもう一つ、と女性に尋ねた。
「最後にもう一つ、尋ねておきたいことがある」
「なんだ? 最後にせずとも、必要なことには答えるが」
「いや、今はこれで最後でいい。確認しておきたいだけだ」
 怪訝そうな顔で見返す女性に、少々尋ねにくいなと思いながら、俺は一応尋ねた。
「いや、大したことではないが……その、貴女は……魔物、だったんだな」
 またも無言で首肯を返す女性。
 その腰の辺りからは、人間にはあろうはずのない爬虫類の――トカゲの尻尾が覗いていた。





 日が山の端から昇りきる頃、俺たちは町外れの草原に着いた。リンは置いてこようかとも思ったが、女性と少し話した結果、決闘の立会人として同行してもらうこととなり、数歩遅れて俺たちの後ろをついてきている。
 この場所に着くまで全員無言。……というか、恐らく一方的に話しかけ辛い雰囲気を感じていた俺と、決闘を前にして会話を必要としていない女性、何を話すべきかわからないリンで、会話が生まれなかったのだ。
 が、向こうから昇る朝日とそれが照らす草原を前に、女性が突然口を開く。
「……十年前と同じだ」
「え?」
「なんでもない。独り言だ」
 女性はそう言うと目も合わせずに俺から離れる。聞き間違いでなければ、俺は十年前にもここであの女性と戦ったということになる。……確かにこの草原は草も短く、そうそう足が滑ることもない。決闘にはもってこいの場所であるため、十年前の試合がここで行われていたとしてもおかしくないのだが……。
 怒っているのだろうか、と少しだけ考える。俺たちの前に現れたときの彼女の視線、あれは単に再決闘に燃える戦士の目ではない。もっと何か、少しだけ黒いものが見えるような、そんな視線だった。
 戦闘種族リザードマン。己が武芸を磨くために、その多くがある程度の年齢で世界を旅する武人になる。白兵戦随一の戦士と名高く、並の人間を遥かに凌駕するその身体能力と実力は、同時に自身への誇りと同等であると聞く。
 記憶にもない十年前の決闘で、俺は彼女の誇りを傷つけてしまったのだろうか。
「先生? どうかされましたか?」
「…………」
 リンの声、続いて向けられるリザードマンの視線で我に返り、なんでもない、と慌てて答える。なんにしても、思い出せないことを推測するだけで真実にたどり着けるとは思えない。この勝負が終わって……負けてしまえばどうなるかは分からないが……勝負が終わってから、彼女に尋ねることにしよう。そう結論付けて、頭を切り替えるために一度深呼吸。
 ともあれ俺も太陽を左に、相手を正面に、腰の太刀を抜いて構える。女性も同じく剣を抜くと、その切っ先を俺に向けて構えた。
 両者の距離は四メートル程度。俺には少し遠い距離だが、魔物……それも地上戦において随一の戦士と謳われるリザードマンにとっては一足の距離だろう。また女性と言えど相手は魔物、その身体能力は人間女性の比ではなく、単なる力比べでも男が押し負けることがしばしばあるという。彼女の実力は分からずとも、本気を出して勝てるかどうかの相手という見立てが過ぎることはあるまい。
 俺たちが各々構えたのを見て、リンが静かに、躊躇いがちに口を開く。
「互いに、構え。―――始め!」
 同時に、相手が動いた。





 相手が人間であれば、開始と共にこちらからも突っ込んで、一気に攻勢から勝負を展開したかもしれないが、俺は魔物と戦ったことはないし――いや、十年前に一度戦っているか――とにかく、相手の身体能力がどの程度のものかは想像の域を出ない。
 ならば一度守りだ。闇雲に突っ込んで勝てる相手ならいずれ勝ちの目は見える。相手が飛び込んでこなければそれもよし、飛び込んでくれば守りに徹し、相手の実力と反撃の機を窺う。
 そう考えて相手を見据え、開始と共に防御の姿勢をとる――結果的には、それで正しかったと言えるだろう。
 開始が叫ばれたその瞬間――相手は既に眼前で剣を振りかぶっていたのだから。
「っ――――!?」
「ふっ――――!」
 その一太刀をかろうじて避けられたのは防御体勢に入っていたからか、それとも相手の気迫に押されたためか。前者であって欲しいとは思うが、おそらくその両方だろう。反射的に体を後退させ、撫でるように刀身を当てて相手の大上段を辛くも逸らす。刀身越しに感じるその膂力は自分が想像していた『豪腕』があくまで人間女性の範囲を出ていなかったことを暗示する。まともにぶつかってしまえば最後、刀が折れるか手首が壊れるか……想像するだけで背筋が凍る。
 もう一度距離をとるべきか。……できればそうしたかったが、そんな隙は与えてくれなかった。いなされても相手は体勢まで崩されることはなく、さらに一歩踏み込んで剣先を突き出してくる。
 だが、一度防御されてからの追撃なら、こちらも幾分剣筋が読みやすい。
 きぃん、と金属が触れ合う音がして、相手の突きをまたもいなす。体勢が言うなれば三所避けの形になりこちらも刀が振りづらいのだが、それは相手も同じこと。相手の剣は切っ先が完全に後方に突き抜け、触れ合っているのは互いに鍔の近く。ほとんど密着しているとも見えるその立ち位置から剣を振っても互いに力を乗せることが出来ない。
 ……とは言っても、それもあくまで一瞬の話。身体能力で劣る以上、膠着すれば力負けするのは俺なのだ。ならばこちらからも、流れを引き込むよう動かねばならない。
 体を再び後退させながら回すように刀を摺り上げ、相手の両腕を跳ね上げる。そのまま大きく後退しながら、がら空きとなった相手の胴めがけて――
「ふっ―――!」
 一閃。鎧があるとはいえ、退きながらの太刀とはいえ、刀は竹刀と違いあくまで鉄の塊。手加減なしの太刀がそのまま入れば内臓や骨に深刻なダメージを与えることになる。もちろんそうなれば勝敗は決したも同然であり、それ以上戦わずに済むのだが――。
 がぎぃっ。
 耳障りな音と共に走る手応えは鉄のもの。竜種は鉄のように固い鱗を持つものもいると聞くが、そんな珍しい手応えではなく、ごくありふれた鍛鉄の手応え。それは即ち、
 ―――防がれたっ!!
 手を抜いたつもりはなかったが、もともと後退しながら打ち出した、言わば牽制の一太刀。その防がれたるを知るや、俺は全神経を目と左足に集中させ、さらに大きく後方に跳んだ。直後に剣が、直前まで俺がいた場所を通過する。……っていうかあの勢い、明らかに寸止めで済ませるつもりはないよな……。
 一気に距離を離して正眼。大陸の大国には本気の魔物と対等の身体能力を持つ人間がいると聞くが、ただ人間を相手に剣を振ってきただけの俺の身体能力では大した距離も稼げない。おおよそ三メートル前後、あくまで相手の剣の間合いから離れたというだけで、相手の跳び込みを考えれば間合いの外とも言い難いかもしれない。それでもその距離、それを詰める一瞬がなければ、続く一太刀で勝負が決していたかもしれないのだ。
 一呼吸するのもやっとの僅かな時間を空けて、やはり相手は距離を詰めてくる。その行動は予想通り――予想通りでありながら、それでようやく五分。そのスピードは見て反応すれば確実に遅れてしまうほどに速い。その要因は神懸かり的なレベルにまで達した踏み込みからの重心移動か。重心移動などは俺でも気に掛けるような当たり前の技術だが、その当たり前の技術を煮詰めただけのものが既に、妙技ではなく絶技、絶技ではなく神技といったレベルに達している。加えてこの身体能力―――。
 がぁんっ、と耳障りな金属音がして。
 太刀で防ぐも僅か三合、俺は弾き飛ばされるように三度目の後退を余儀なくされた。





 がぁんっ、と耳障りな金属音がして。
 心中で、吹っ飛べ、と荒々しく呟いて。
 剣を振り回すも僅か三合、私は得物を破壊せんばかりの勢いで相手を弾き飛ばした。
 一歩でいい。四半呼吸の間でいい。僅かにでも体勢を崩してくれれば、そこに攻め入る隙がきっとできる。
 そう思って、並の人間ならば得物を弾き飛ばされるか、手首を壊しかねないような力を込めて薙いだのだ。
 それなのに。
 ざっ、と地面を擦る音がして、相手は着地と同時に太刀を正眼に構えなおしてきた。
 悟られないように、とは思いつつも……動揺する。動揺して、思わず追撃を忘れていた。後退した先で、相手は僅かに息を切らせながら怪訝そうにこちらを見ている。
 読まれているのか、と、快くない想像がよぎる。
 そんなわけはないと思う一方で、しかしそう考えた方が納得もいく。まずもって開始直後の上段も、私が振りかぶると同時かそれ以前に守りの体勢に入っていたではないか。完全に意表をついたと確信した飛び込みもいなされ、今の今まで一度も体勢を崩さず渡り合っている……読まれていないと考えるのは、こちらの考えが甘すぎるのではないか。
 ぎり、と思わず歯軋りしながら、正面でこちらを窺う男を睨みつける。
 十年間だ。この十年、この戦いだけを考えて生きてきた。
 ただひたすらに、この男の事だけを考えて生きてきた。
 この男に勝つことだけを考えて生きてきて――そして今なお勝てないというなら。
 少しだけ考えて……すぐに、思考を払うように頭を振る。そして、再び剣を両手で強く握りなおした。
 ゆっくりと、相手に知らせるかのようにゆっくりと剣先を上げ――大上段まで振りかぶる。
「……行くぞ」
 なぜか、私はそう声をかけた。
 かけてから、ああ、決着をつけるつもりなのだ、と他人事のように理解した。
 相手が私の言葉を聞き届けるのを見て――
 地を這う蜥蜴のような俊敏さで、私は大地を駆けた。





 例え三合で弾き飛ばされようとも――なんとか、構えだけは崩さない。足が地面に着くと共に、正眼。相手はすぐにまた突進してくるはずだ。構えを崩してしまえば立て直す暇はないだろう。くそ、せめて穏やかに呼吸する暇でもあれば……っ。
 そう思っていたが、しかし追撃はなかった。思わずリズムを狂わされた俺が相手を探せば、探すまでもなく相手は正面、数秒前に打ち合った場所でこちらを睨んでいる。
 呼吸さえ整っていれば、その視線の意を尋ねていたかもしれない。もちろん呼吸も整っていないしそんな馬鹿な質問をする余裕はないので、こちらからも視線を返すだけになったが……それが気に食わなかったのか、とにかく相手は視線を険しくし、すこしだけ頭を振る。
 振って払ったのは思考か迷いか。分かったのは、その時彼女が何かを決めたということだけ。
 剣を両手で握りなおし、こちらを見据えて、俺に知らせるかのようにゆっくりと、彼女は得物を大上段に構えなおす。
「……行くぞ」
 声をかけられて――ああ、ここで決めるつもりなのか、と他人事のようにそう考える。
 俺がその言葉を聞き届けたのを見るや、彼女は大地を蹴った。
 人間を遥かに凌駕する身体能力、神技レベルの基礎技術、それらが余すところなく使われた踏み込みは、小細工なしの単純なものでありながら――その速さはまさしく神速。


 ――――瞬間。


 違和感。
 いや、違和感と言うより…………既視感。
 前にもこの光景を、俺は見たことがあるような……


 その思考が体に追いつくことはなく。
 相手が踏み出すのと全く同じタイミングで、俺の体も踏み込んでいた。


 うける――のでもなく。
 いなす――のでもなく。
 かわす――のでもなく。
 あるいは、それらの全てだろうか。
 相手の突進に合わせた踏み込みは、瞬時に武器の間合いを潰す。相手にとっては予想外の動きか、タイミングをずらされた剣は迷うように一瞬だけ震え、遅れたとも見えるその瞬間に振り下ろされる。
 うけるのではなく、いなすのでもなく、俺は四半歩の摺り足でそれをかわす。
 タイミングも外された。振り下ろしても手応えがない。焦ったか、相手はそこからさらに一歩、剣を突き出してくる。
 かわすのではなく、うけるのでもなく、俺は半歩横に移動して剣先で僅かにいなす。
 手玉に取るのはこのことだ、と自讃するのは後回し。完全にペースを崩された相手は何をするべきかも分からず、一瞬だけ動きを止めてしまう。
 いなすのではなく、かわすのではなく、俺は一歩踏み込んで円を描くように剣先を回し、刀の峰で相手の剣を受けて、

 きぃんっ、と僅かに音が響いて。
 相手の得物が宙に舞った。






 二歩退がって、剣先を喉の高さに据えて残心を取る。遅れること数瞬、宙を舞った剣が両者の間に落ちてくる。ざっくりと地面に突き刺さった剣の刀身に反射する相手の顔は、呆然というか驚嘆というか、それらの全てが混じったようなえもいえぬ表情を浮かべていた。
 今の巻き技はパフォーマンスではなく『本当に』決まった。こちらは残心まできちんと取ったのだから、勝敗は決した、と見ていいだろう。ふぅ、と息をついて、俺は静かに刀を収めた。
「せっ……先生! 勝ちましたね!」
 えっ、と驚いて振り返れば、リンが飛び上がってこちらに叫んでいた。ああ、そういえば立会人をやっててもらったんだっけ……すっかり存在を忘れていた。さすがに本人には言えないので、あたかも忘れてないよという風に手だけ振っておく。
 その視界の端で、リザードマンが静かに腰を落としたのが見えた。相変わらずの呆然とした表情のまま、信じられないといった様子で俺と自分の腕を交互に見つめて……そして直後、泣き出した。
 泣き出した!?
「っえ、えええっ!? おいおいおいおいおい、何で泣いてるんだ!?」
 思わずうろたえる俺。そこまでか。そこまで人間に負けたのが悔しかったのか!? 確かに話を信じるなら十年前にも一度負けているし、同じ相手に二度も敗北するのは戦士としての矜持が許さないって言われればそうかもしれないが、だからってそんなに泣くことじゃないだろう!? いやいやいや待ってくれ、今まですっごい厳格な戦士の顔をしてたのにそんな風に泣かれるともうこっちどうしたら良いかさっぱり分からなくなるんだけども!
「う……っく、ふ、ふえぇぇ……また、お前に負けた……っく、じゅ、十年間、修業してきたのに、私、ひっく、弱い、ままだった……ぅ、うわああぁぁぁ…………」
 うわぁ、本当に俺に負けたのがいやだったのか……そんなこと言われたらもう、なんて声を掛ければいいのかわからないんだが……。
「……えっと……ま、まぁお前が俺を嫌いになるのも分かるけどな、ほら、お前だって……」
「ぅっく、嫌いじゃ、ないっ! お前のことは好きだっ!」
「つよ、って、はぁ?」
「お前はっ! 十年前にも、私に勝って……その時から、お前のこと、好きだった! なのに、お前、お前、あのとき……ぅ、うぅぅぅ」
 慰めるつもりが告白された……と思ったら、やっぱり十年前になんかあったのか!? なんなんだ、何をしたんだ俺!?
「ぅ、ううぅ…………私が結婚してくれって言ったら、よ、『弱い女に興味ないから』って……」
 最悪の言葉を吐いていた。自分に負けた相手に、しかもリザードマンの少女に。幼少期に戻れるなら昏睡するくらいまでぶん殴りてぇ。
 つまり……十年前、理由はともかく試合をして、俺が勝った(その際に惚れた?)。結婚してください……は、まぁ子供なりの告白的なものか。
 しかし、俺は負けた少女に『弱いから〜』という言葉を吐く。戦闘種族としての誇りは傷つけられ、同時に子供なりにも好きになった男から辛辣な言葉を受けるというダブルパンチ。そのリベンジに来た今回も負け……泣くくらいの理由にはなっているか。
「す、すまん……その、本当にひどいことを言った。許してくれ」
「ぅっく、慰めの言葉なんて、欲しくない! こんな弱い女に興味はないんだろう!」
「……いや、全然弱くなんかないだろ」
 俺がそう言うと、リザードマンはえ? と顔を上げて。
 思わず口をついただけの言葉だったが、見返されれば答えないわけにもいかず。ちょっと恥ずかしいが、俺はそのまま口を開いた。
「その……実際のところ、十年前にそんな言葉を言ったなんて憶えてないんだが……それは、すまん。本当に、心から謝る。でも、お前が『弱いままだった』っていうのはお前の勘違いだ。正直、冗談にもなってない」
「…………、?」
 ああもう。頼むから今ので分かってくれよ。
 溜息をついて、俺はもう一言。……別に馬鹿にしてるわけじゃない、と心中でさらに付け加えて、
「…………今のお前は、かなり強い。し、その、興味がある」
「…………!!」
 リザードマンは驚いたようにこちらを見て、そしてまた目を潤ませて……
 ――泣くなよ? 泣くなよ!?
 俺がそう念じた瞬間、こちらに向かって飛びついてきていた。
「う、うぅぅぅ、」
「おっ、おい、泣くなって! 頼むから!」
「うぅぅ、ぅぅぅぅ……ぅれ、しぃ……」
 それだけ言って、嗚咽が治まるまで数分、結局ずっと泣いていた。





「よぉし、今日も全員張り切っていくぞ! まずは素振り千回からだ!」
 木刀に袴で高らかに門下生を指導するリザードマン(名前はリザだそうだ)に、門下生一同も元気よく返事を返す。ただ、時間がかかりすぎるから道場練習のときに素振り千回はやめてくれ。
 後日談としては、結局あの後、リザは再び俺に求婚してきた。話が一段落したところで聞いたのだが、リザードマンは自分より強い異性に求婚するという元からの習性があり、子供の頃の「結婚してくれ」も本気だったとのこと。
さすがに十年ぶりの再会、というか俺にとってはほとんど初対面に近い相手と結婚まで了承することは出来なかったので、なんとか言いくるめて『交際中』という関係に落ち着いた。……リンがなぜかものすごい勢いで俺を諭しだしたのもあるが。
 で、すでに独り立ちしているリザは寝泊りする場所もなく、また俺が師範代を務めている道場に強い興味を示したため、今は同棲中である。もちろんまだ寝室は別にしているが……正直、同じ寝室になる日が近いと思うのは俺だけではないはずだ。道場の方も手伝ってくれるし、俺より指導が分かりやすいため、特に女子の門下生に人気だ。魔物に反感のない人たちで助かった。
「あ、おい! ぼーっとしていないで指導に回ったらどうだ、『先生』?」
「先生、を強調するんじゃない。俺はまだ19だ」
「年齢など関係ない。お前は道場を継いだのだから、先生と呼んで何が悪い」
「老けてるみたいでなんとなく気分が悪い」
「気のせいだ。いいから指導をしてこい!」
 背中を叩くようにして俺を押し出すと、リザもまた別の門下生に向き直って声を張り上げる。鬼嫁って奴か……まだ結婚してないけど。
「あ、指導が終わったらまた私と試合だからな」
「またかよ! このところ毎日だぞ……それに、どうせ俺が勝つだろ」
「言ったな! お前、今度の試合では私が勝ってやるからな!」
 同棲を始めてからほとんど毎日行われている手合わせでは、今のところ俺が全勝している。リザとしては夫となるべき相手が自分より強いのは喜ばしいことで、しかし自分も相応に強くなければならず(未だに俺が強い女が好きなのだと勘違いしている。間違ってもいない)、とにかく研鑽を積んでいるようだ。
 恋人とか夫婦とか、そんな甘い雰囲気にはまだ無縁だけれども。
 それでも今のところは、これでもハッピーエンドなのだろう。






まぁ、酒に弱いってのは正直意外だったなぁ。
12/01/08 22:59更新 / 染色体
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■作者メッセージ
はい、ぐだぐだになりました。
最初は、強い男を求めるリザードマンが「弱い女に興味がない」と言われたらどうなるのか、それをギャグにしようとしてました。書いてるうちに意味不明になりました。
一応連載と銘打ってはいますが、いわゆる短編集的な扱いにするつもりですのでご了承ください。あと、主人公の名前が出ないのは仕様です。
12/1/8 二年越しに自分で読んでみてミス発見、訂正

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