報告書「ベルゼブブ」(3)
痛くて、熱くて、苦しくて目を覚ました。
「ぁあ! っいた」
不衛生な場所はヴィベルにとってはいいところだが、傷ついているときはあまり良くない。
あまりにも痛い。
そっと巻いてあった包帯をはがす。
「うぐぐぅ……あ」
ベリベリと乾いたところがはがれていく。中途半端な瘡蓋から軽く出血する。
「う、膿んでる」
膿んだ所をそのままにはできない。ヴィベルは深呼吸をし、傷口を手で添えた。ゆっくりと力を入れていく。
「ぅぅぅ………グ」
少なくない出血と大量の膿が出てくる。目の前で火花が散ったような、頭を殴られたようなショック。何度も繰り返し、薬草を口で噛みつぶして傷口に塗る。それから渡された包帯を新しく巻いた。
「ミ…リア…ちゃん」
ここしばらく誰ともしゃべっていない。
アッシュの虐待もないが、しゃべってくれる人もいない。食事を運んでくれるのは、あのワーウルフのカーミル。1言もしゃべらずに行ってしまう。
「手は、治ってきた……」
まだ動かすと痛いが、軽く握る程度ならできるようになっていた。魔物という丈夫な体に生まれたおかげだろう。
「逃げる……できる?」
カーミルは大雑把な性格らしく、時々牢屋のカギをかけるのを忘れる。最初見たときにすぐ逃げださなかったのは、出血で満足に動けないので捕まるからだ。
足りない血は大分戻ってきた。足のけがの状態は良くないが、飛べば問題ない。
「行ける?」
用心に用心を重ねなければならない。もし捕まってしまったら、次こそ死んでしまうに違いなかった。
力を封じる拘束具は外に出てしまえばどうとでもなる。とにかくここから脱出することが先決だった。
いつもより長く羽の調子を確認する。力を封じられている以上、戦闘になれば絶対に負ける。狭い牢屋の中を旋回するように飛ぶ。
少し足が痛むが、出来ないことはなさそうだった。
「…よし」
いつでも逃げる準備はできている。あとは深夜になるのを待つだけだった。
少しでも体力を温存するためにベッドに入り込んで眠ることにした。
「……ぃ…た」
足の痛みで目を覚ますと、夜になっていた。扉の前には冷めた食事が置いてある。
「これがここでの最後の食事にするんだ」
残さず食べ、足に新しい包帯を巻き、牢屋の扉に手をかけた。
―――キィィィィ
今日もカギはかかっていなかった。
夜目は効く方だ。
暗い通路にはだれもいない。自分の心臓の音が耳元から聞こえる。
「ハァ」
1歩ごとに止まり、何度も耳を澄ませる。
牢屋の通路から上に上がる階段。その横にたくさんのカギが置いてあった。
「もしかしたらこの鍵があるかも」
鍵を触ると音が鳴る。触らずに目を凝らして、自分の腕のカギ穴と同じものを探す。
「コレか、コレだ」
たっぷりと時間をかけて、2つまで絞れた。
1つ目のカギはほかのカギと一緒くたにまとめられていない。安全なものから試す。
「回らない……これじゃない」
もう1つの鍵は10個くらいの束の中にある。これを持ったら確実に大きな音が鳴る。
ヴィベルは息を呑み、できるだけゆっくりと鍵を手にした。
チャリ…チャリ……カチャ
「…よし」
鍵穴はぴったりだ。久しぶりに体をめぐる魔力に安心感が芽生えた。
治癒の魔法は苦手だが、自分の手足に魔法をかけた。
だいぶマシになってから、階段を上がっていく。
蝋燭の明かりもない階段は踏み外しそうで怖かった。もしこの先にアッシュがいたら、全部が罠でほくそ笑んだアッシュがいたら。そんな考えが頭をよぎった。
「うまく、いきすぎてる?」
それでもここまで来てしまった。いまさら引くわけにはいかない。
「あったりー!」
突然後ろから声がした。
「きゃあ!」
フヨフヨとゴーストが浮いている。
「きゃはははははははははははは! バアーカバーカ! 飛んで逃げてみろ蠅!」
不気味な笑い声とともに壁の中へ消えてしまう。
それよりも問題なのは、逃げ出したことがばれたことだ。ヴィベルは恐怖に駆られるまま走りだした。
階段を一気に駆け上がり、廊下の窓から飛び出した。まだ間に合う、まだ逃げることができる。そんな淡い期待は………
「……思ったより遅かったな」
絶望によって裏切られた。
三日月が綺麗な夜。
あのジャングルで出会った時と同じ恰好で、アッシュが待ち受けていた。後ろには複数の影、ヴィベルからも気配を感じた。
「な、あ…う」
「俺を倒せれば逃がしてやる。もし負けたら……」
チャキ、と剣を鳴らす。
「あ、ああぁ、あ、わあああああああああああああああ!」
魔力を全開にする。
いくら幼いとはいえ、魔物の中でも上位種族ベルゼブブだ。前回捕獲された時は相手を侮っていた。今回は違う。捕まった時の恐ろしさを知っている。最初から全力だ。
手に魔力を集中させて飛ばす。1発ではなく10発以上。
「……フン」
アッシュはギリギリを見極めて避けていく。それは予測できていた。飛ばした魔力は時間稼ぎ。
「Rot! Melt! It is impossible to escape from my power! "Corroding sigh!"」
ヴィベルの足もとから植物が腐っていく。
「短時間でこれほどの魔法を使うか」
表情をめったに顔に出さないアッシュが、この時ばかりは笑っていた。
「死ね、死ね! 死んじゃえー!」
「ッハ!」
サク
そんな間抜けにも聞こえる音がした。
「…え?」
円形に広がっていたはずの腐っていく魔法。アッシュのほうから扇状に切り裂かれた。
「そこそこだったな」
だんだん近づいてくる。
それは死神の足音とおなじ。
「ヤ…ダ」
「さて、前回は足に穴をあけたな」
「イヤ……ヤメテ」
「次はどこを……」
「やだあああああああああああああああああああああああああああ!」
大きく舞い上がり、アッシュに狙いを定める。最後の最後で頼った攻撃は、自分の信頼する飛行能力をフルに使っての体当たり。
恐怖、混乱、それにより止まることも考えず、全ての魔力を使って特攻。
―――今までで一番早い! もうあそこに戻るのは嫌!
全てがスローモーションに感じた。
風を切る音1つ1つを聞き分け、視界の端にいる魔物もよく見える。
目の前にはあの憎い人間の男。
―――これを避けきれるもんか! 体全部粉々にしてやる!
アッシュもスローで動く。
―――なんでこんな一瞬でいっぱい考えられるんだろう?
手に持っていた剣だけが閃光のように輝いた。
―――もしかして……走馬灯?
―――……ママ
ほんの一瞬のこと。
魔力を暴走させながら突撃してきたヴィベルの羽を、すれ違いざまに切り落とした。たったそれだけのことだ。
空を駆けた魔物はその勢いのまま地面に激突していった。
「最後の最後だけマシだったな」
アッシュは使った剣を地面に捨てた。それはヴィベルの衝撃に耐えられず真中からぽっきりと折れていた。
このまま死んでしまったほうが、彼女にとって幸せだっただろう。
脱出できると思わせ、こうして想いを裏切る。
冷たい風が吹いた。
「ぁあ! っいた」
不衛生な場所はヴィベルにとってはいいところだが、傷ついているときはあまり良くない。
あまりにも痛い。
そっと巻いてあった包帯をはがす。
「うぐぐぅ……あ」
ベリベリと乾いたところがはがれていく。中途半端な瘡蓋から軽く出血する。
「う、膿んでる」
膿んだ所をそのままにはできない。ヴィベルは深呼吸をし、傷口を手で添えた。ゆっくりと力を入れていく。
「ぅぅぅ………グ」
少なくない出血と大量の膿が出てくる。目の前で火花が散ったような、頭を殴られたようなショック。何度も繰り返し、薬草を口で噛みつぶして傷口に塗る。それから渡された包帯を新しく巻いた。
「ミ…リア…ちゃん」
ここしばらく誰ともしゃべっていない。
アッシュの虐待もないが、しゃべってくれる人もいない。食事を運んでくれるのは、あのワーウルフのカーミル。1言もしゃべらずに行ってしまう。
「手は、治ってきた……」
まだ動かすと痛いが、軽く握る程度ならできるようになっていた。魔物という丈夫な体に生まれたおかげだろう。
「逃げる……できる?」
カーミルは大雑把な性格らしく、時々牢屋のカギをかけるのを忘れる。最初見たときにすぐ逃げださなかったのは、出血で満足に動けないので捕まるからだ。
足りない血は大分戻ってきた。足のけがの状態は良くないが、飛べば問題ない。
「行ける?」
用心に用心を重ねなければならない。もし捕まってしまったら、次こそ死んでしまうに違いなかった。
力を封じる拘束具は外に出てしまえばどうとでもなる。とにかくここから脱出することが先決だった。
いつもより長く羽の調子を確認する。力を封じられている以上、戦闘になれば絶対に負ける。狭い牢屋の中を旋回するように飛ぶ。
少し足が痛むが、出来ないことはなさそうだった。
「…よし」
いつでも逃げる準備はできている。あとは深夜になるのを待つだけだった。
少しでも体力を温存するためにベッドに入り込んで眠ることにした。
「……ぃ…た」
足の痛みで目を覚ますと、夜になっていた。扉の前には冷めた食事が置いてある。
「これがここでの最後の食事にするんだ」
残さず食べ、足に新しい包帯を巻き、牢屋の扉に手をかけた。
―――キィィィィ
今日もカギはかかっていなかった。
夜目は効く方だ。
暗い通路にはだれもいない。自分の心臓の音が耳元から聞こえる。
「ハァ」
1歩ごとに止まり、何度も耳を澄ませる。
牢屋の通路から上に上がる階段。その横にたくさんのカギが置いてあった。
「もしかしたらこの鍵があるかも」
鍵を触ると音が鳴る。触らずに目を凝らして、自分の腕のカギ穴と同じものを探す。
「コレか、コレだ」
たっぷりと時間をかけて、2つまで絞れた。
1つ目のカギはほかのカギと一緒くたにまとめられていない。安全なものから試す。
「回らない……これじゃない」
もう1つの鍵は10個くらいの束の中にある。これを持ったら確実に大きな音が鳴る。
ヴィベルは息を呑み、できるだけゆっくりと鍵を手にした。
チャリ…チャリ……カチャ
「…よし」
鍵穴はぴったりだ。久しぶりに体をめぐる魔力に安心感が芽生えた。
治癒の魔法は苦手だが、自分の手足に魔法をかけた。
だいぶマシになってから、階段を上がっていく。
蝋燭の明かりもない階段は踏み外しそうで怖かった。もしこの先にアッシュがいたら、全部が罠でほくそ笑んだアッシュがいたら。そんな考えが頭をよぎった。
「うまく、いきすぎてる?」
それでもここまで来てしまった。いまさら引くわけにはいかない。
「あったりー!」
突然後ろから声がした。
「きゃあ!」
フヨフヨとゴーストが浮いている。
「きゃはははははははははははは! バアーカバーカ! 飛んで逃げてみろ蠅!」
不気味な笑い声とともに壁の中へ消えてしまう。
それよりも問題なのは、逃げ出したことがばれたことだ。ヴィベルは恐怖に駆られるまま走りだした。
階段を一気に駆け上がり、廊下の窓から飛び出した。まだ間に合う、まだ逃げることができる。そんな淡い期待は………
「……思ったより遅かったな」
絶望によって裏切られた。
三日月が綺麗な夜。
あのジャングルで出会った時と同じ恰好で、アッシュが待ち受けていた。後ろには複数の影、ヴィベルからも気配を感じた。
「な、あ…う」
「俺を倒せれば逃がしてやる。もし負けたら……」
チャキ、と剣を鳴らす。
「あ、ああぁ、あ、わあああああああああああああああ!」
魔力を全開にする。
いくら幼いとはいえ、魔物の中でも上位種族ベルゼブブだ。前回捕獲された時は相手を侮っていた。今回は違う。捕まった時の恐ろしさを知っている。最初から全力だ。
手に魔力を集中させて飛ばす。1発ではなく10発以上。
「……フン」
アッシュはギリギリを見極めて避けていく。それは予測できていた。飛ばした魔力は時間稼ぎ。
「Rot! Melt! It is impossible to escape from my power! "Corroding sigh!"」
ヴィベルの足もとから植物が腐っていく。
「短時間でこれほどの魔法を使うか」
表情をめったに顔に出さないアッシュが、この時ばかりは笑っていた。
「死ね、死ね! 死んじゃえー!」
「ッハ!」
サク
そんな間抜けにも聞こえる音がした。
「…え?」
円形に広がっていたはずの腐っていく魔法。アッシュのほうから扇状に切り裂かれた。
「そこそこだったな」
だんだん近づいてくる。
それは死神の足音とおなじ。
「ヤ…ダ」
「さて、前回は足に穴をあけたな」
「イヤ……ヤメテ」
「次はどこを……」
「やだあああああああああああああああああああああああああああ!」
大きく舞い上がり、アッシュに狙いを定める。最後の最後で頼った攻撃は、自分の信頼する飛行能力をフルに使っての体当たり。
恐怖、混乱、それにより止まることも考えず、全ての魔力を使って特攻。
―――今までで一番早い! もうあそこに戻るのは嫌!
全てがスローモーションに感じた。
風を切る音1つ1つを聞き分け、視界の端にいる魔物もよく見える。
目の前にはあの憎い人間の男。
―――これを避けきれるもんか! 体全部粉々にしてやる!
アッシュもスローで動く。
―――なんでこんな一瞬でいっぱい考えられるんだろう?
手に持っていた剣だけが閃光のように輝いた。
―――もしかして……走馬灯?
―――……ママ
ほんの一瞬のこと。
魔力を暴走させながら突撃してきたヴィベルの羽を、すれ違いざまに切り落とした。たったそれだけのことだ。
空を駆けた魔物はその勢いのまま地面に激突していった。
「最後の最後だけマシだったな」
アッシュは使った剣を地面に捨てた。それはヴィベルの衝撃に耐えられず真中からぽっきりと折れていた。
このまま死んでしまったほうが、彼女にとって幸せだっただろう。
脱出できると思わせ、こうして想いを裏切る。
冷たい風が吹いた。
10/05/25 21:33更新 / Action
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