過去の話「旅立ち」
「酒買って来い!」
飛んできた瓶はよく見えた。だが、避けると怒られる。幼い子供はそう判断して避けることもなく額で瓶を受け止めた。
「お金がないよ…」
「何とかしやがれ!」
そう喚き散らすと初老の太った男は横になった。
ここはよくある貧民街。
金がない、人を殺した、誰にも会いたくない、そんな屑が集まった場所だ。幼い彼の名前はアッシュ。ファミリーネームは無い。ここではそんなものが必要ないからだ。
「痛…」
瓶が直撃した所がわずかに痛む。くそったれな父親だと理解してもアッシュは従う以外の選択を知らなかった。トボトボと歩いて行き、金を稼ぎに行った。
こんな子供が稼ぐ方法はとても少ない。薬を運んだり、物を盗む。そんなリスクの高いことばかり。だが、リスクなしで稼ぐ方法はいくつかある。
小さな小道を進んでいき、怪しげな雰囲気があふれる道を進む。そこらじゅうに肌を露出した人や魔物が気だるそうに立っている。
「すいません」
「ボウズ、稼ぎに来たか」
ガタイがいい大男がアッシュをある入口へと誘う。そのままついていき、貧民街にしてはとてもきれいな部屋へと連れ込まれる。アッシュは手慣れたように女物の服を着た。
子供が金を稼ぐ方法、それは売春だ。
魔物が溢れて以来、女の売春の売り上げは下がる一方、男を売り出すところが、売り上げを伸ばしていた。ここはそんな所の1つ。
アッシュは額の傷を化粧で隠し、鬘をかぶった。
「用意はできたか?」
「はい」
「すぐに指名が入ったぜ。4番の部屋に行け」
「…はい」
スカートを翻し、呼ばれたところへ行く。
「アッシュちゃん、久しぶりねぇ」
中年の太った女がアッシュを迎え入れた。香水の匂いがきつく、軽くクラクラした。そんな様子にも気がつかず、女はアッシュを抱きしめてから押し倒した。
「もう、何でいつもいないのよ。アッシュちゃんに会えなくてさびしかったんだから!」
「……はい」
アッシュはこういう行為が大嫌いだ。他人の臭い、体液、口臭、すべてが癇に障る。そんなことは顔に出さずされるがままになる。今日はマシなほうだった。
時々男からの指名があり、もっと最悪なことをされる時もあった。
「あぁん、かわいいわ…アッシュちゃん……」
決まってこういうときは心を閉ざす。そうすれば気がつけば終わっているからだ。アッシュは目を閉じて何も考えなくなった。
「おう、ご苦労さん」
「はい」
チャリ……ここではけして少なくないお金。これで1週間は暮らしていける。アッシュは音が鳴らないように靴の底にお金を隠した。
「おい、本格的にここで働かないか? お前ならもっと稼げるぜ?」
「嫌いだから…やりたくありません」
「そうかい、残念だ」
大男は大して残念にしてなさそうに肩をすくめる。用は済んだのでいつまでもここにいたくはない。アッシュは足早に店から遠ざかる。
「……あ」
失敗した。アッシュは自分の行動を後悔した。人が少ない小道。ここはあるストリートチルドレンの縄張りだった。出てきたのは3人。前に1人、後ろに2人。
その他にもいくつも視線を感じた。どうやっても逃がすつもりはないらしい。
「おい、稼いできたんだろ?」
キルヒと言う少年。年は10代半ば。大人から麻薬を売る仕事を任されていて、自分自身も麻薬を使っている奴だ。大方、自分の麻薬を買う金がないからたかりに来たのだろう。アッシュはそう見当をつけ、どうやってこの場を乗り切るか考えた。
「……」
「答えろ、よ!」
顔を殴られたが、当たる瞬間に首をひねり、自分から倒れた。殆んど痛くはなかった。ワザと靴が脱げるように倒れる。
靴の中に隠してあった金が地面に広がる。
「…あ!」
それを抱え込もうとしたが、後ろの2人に押さえられて身動きが取れなくなった。そのまま適度に暴れる。その滑稽な姿と金を見て満足したのか、キルヒは1枚だけアッシュの手に握らせた。
「おうおう、いつも俺たちのためにご苦労さん!」
そのまま地面に倒され、軽くけられてからアッシュは解放された。遠ざかっていく笑い声。そして、周囲に誰もいなくなったのを確認すると、何事もなかったかのように起き上がった。
「ハァ……オェ・・・ッグ」
その場で吐いた。キルヒたちのせいではなく、自分の意思で吐いた。吐瀉物の中に袋が転がった。こっちが本当の稼ぎ分だ。あれは奴等を満足させる最低限の金だ。
袋から取り出した金を改めて靴底に隠し、買い物に行くことにした。
「いつもの下さい」
「……おう。そこにある、金は今払えよ」
「はい」
繰り返される会話。最低限のことしか話さないし、知りたくもない。金を渡し、酒とわずかな食料が入った袋を持って、すぐにその場を離れる。帰る前に酒場の裏手にまわり、ゴミ箱を漁る。袋に入った食料は親のものだった。
「あ、また来た?」
先客がいた。ゴミ箱の中に顔を突っ込むようにしていた少女。アッシュと同じくらいの歳だろう。薄汚れ、汚い服をまとっている。伸び放題の髪を後ろにまとめ、眠そうだが意志の強そうな瞳が光る。
普通の人と違うのは獣のような耳としっぽがあること。彼女はワーウルフだ。ここで生まれ、ここで暮らしている魔物なんだろう。
「もうない?」
「ううん。今大物を手に入れたから、ここはあなたに譲ってあげる」
そう言ってゴミ箱に隠れるように置いてあったソレを持ち上げる。それは犬の死骸だった。頭を砕かれている。殺したばかりなのか、時々ピクピクと動いた。
「じゃあ、もらう」
その光景はよく見たものだった。初めて会った時も彼女は犬の死骸を持っていた。残飯がある場所を巡っているのは、残飯そのものよりも、それを狙ってやってくる犬を捕らえるためらしい。
仲がいいわけでもないし、どうでもいい相手なので軽く頷いてゴミをあさり始める。
「君、名前は?」
ふと、ワーウルフの少女が声をかけてきた。それはとても珍しいことだった。彼女は自分にはほとんど興味を持っていないと思っていたからだ。
「……アッシュ。君は?」
「私はカーミル。よろしく」
差し出された手にどうしたらいいか分からなかった。そうしてカーミルの手と顔を交互に見ていたら、手を掴まれて上下に振られた。
「なにこれ?」
「握手。友達になろうって、意味」
友達という言葉は知っていたけど、面と言われて少しだけ照れてしまった。それから彼女と少しの間話をした。
「それで、お父さんはいつも僕のことを殴るんだ」
「ふーん、大変」
「反応が薄いね、カーミルは」
「これが私。でも、何で反抗しない?」
「え?」
一瞬だけ、何を言われているか分からなかった。反抗する。そんな選択肢が頭に浮かんだことはなかった。
「それは既に自分の、アッシュの足手まとい。一緒にいる必要がない。何故、反抗しない?」
「それは……父さん、だから……」
自分で言っていて、何故言いなりになっているか分らなくなった。
「今さっきだってそう。何であれくらいのガキに抵抗もしないで金を取られていた?」
「見ていたの?」
無言で頷く。そして静かな眼で見据えている。これから発言することが重要だと言いたげに。
「もう、アッシュは一人で何でもできるはず。なんでこんなところで足踏みしている?」
それから何を話したかよく覚えていなかった。混乱する頭のままで、フラフラと自分の寝床に歩いて行く。どこで何をしていたのかはわからないが、気がつけば朝日が昇ろうとしていた。
「おぃこらぁ! どこをほっつき歩いてやがった! 酒は買ってきたんだろうな!」
足をふみならし、威嚇するように出てきた。
「……ぃ」
「あぁん!?」
持っていた酒瓶を取り出す。
「……さぃ」
「早く渡しやがれ、この糞が…ッギャ!」
渾身の力で酒瓶を振った。
頭にぶつけるつもりだったが、慎重さがあって鼻に直撃した。
「るさぃ……うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさい!」
「ッガァ、やめ……この…ゲ…」
倒れたところを馬乗りになって幾度となく振り下ろす。
ッゴッゴッゴッゴッゴ! ガシャン!
酒瓶が砕けたら、今度は逆手に持って、鋭利な刃物になった部分を振り下ろした。
「ぎゃあああああああああああああ!」
遮二無二に同じ行為を繰り返し、やがて親だったものは動かなくなった。
「ハァ、ハァ、ハァ!」
荒い息を吐き、動かない死体を見下ろす。顔は元の形が分からないほどにグチャグチャになり、血を広げていた。
立ち上がり、後ろに下がる。起きてこないか、また怒鳴り散らして襲いかかってこないか。そんな恐怖で足が震えた。
「おめでと」
不意に聞こえてきた声。振り向かなくても正体は分かっていた。
「カーミル。これ、僕がやったの?」
「うん」
そっけない返事。
「これが僕の父さんだったもの?」
「そう」
興味がないような返事。
「これからどうしたらいいの?」
「知らない。自分で決める」
「……ここの町には居たくない」
「うん」
振り向いたアッシュの顔は、恐ろしいほどまでに暗い眼をしていた。
「カーミルはどうする?」
「私も町から出たいと思ってた」
「そのために僕を誘ったの?」
「うん」
「じゃあ、いこうか」
そのまま歩きだす。カーミルはその横について並んだ。アッシュの顔を見て、少しだけ悲しそうな顔になった。
11/02/01 01:42更新 / Action
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