何とも傾(かぶ)きよるわ。
煌々と輝く満月、照らされる黒々とした小山。
月明かりに見逃しそうになるが、その山頂にはポツンと灯りが灯っている。
この時代、灯りはけして安くなく、用事の無い者は基本寝静まる夜中。
城には消えぬ灯りが灯され、この藩の財政事情の明るさを象徴していた。
そんな城の中でも最も高い天守へと続く本丸の一画に、
四角く布で仕切られた陣地のような空間があった。
そこでは水の張られた大き目の釜のような物が火にくべられ、
一人の男が火で風呂を炊いている。
男の隣には茣蓙(ござ)と畳を地面の上に敷き、
その上で寝そべりつつ月見と洒落込んでいる城主定国がいた。
「良い月よな。」
「左様でございますな。」
定国の呟きに返す風呂焚きの男は、
白い御髪の目立つ初老の男で、同じく老齢の五郎左衛門と比べると、
細目の柔和な顔付きをした好々爺であった。
名を南龍(なんりゅう)といい、先代よりこの城に仕え、定国の世話係もしていた人物である。
現在は半分隠居した状態だが、今もたまに定国の我侭に付き合って昔同様に世話を焼いていた。
「さて・・・今宵は来るかのう?」
「ふふふ、どうでしょうな・・・あの者は神出鬼没ですので。」
などと話していると周囲を仕切る布の一画が揺れ、
そこから入った珍客が二人の方へトコトコと近づいていった。
「おお、ようきたのう。今宵は会えるような気がしておったぞ。」
「クゥーーーーーゥ」
寝そべった定国の顔の横に近づき、スンスンと鼻を鳴らす小さい影。
それはどこからか侵入した一匹の狸であった。
とても二人に慣れているようで、定国が差し出した手にも逃げず、
大人しく頭を撫でり撫でりされている。
「よ〜しよしよしよし、相変わらず愛い奴よの。」
今度は喉の方に手を回し、指でやさしく撫で摩る。
「キュゥ♥」
狸の方もまんざらでもないらしく、甘えた声を上げながら定国の指に身を任せている。
寝転がりながら、同じ高さの視線で狸とじゃれ合う少年の様な定国を、
南龍はそのどこを見ているかよく解らない目を一層細めて見守った。
「うりうりうり♥」
「クァウウ。」
調子に乗った定国は、狸を持ち上げると顔を近づけて頬ずりを始める。
急に持ち上げられ流石に狸も困惑したのか驚いたような声を上げた。
「若様、その辺に・・・親しき仲にも・・・ですぞ。」
見かねて声をかける南龍。
「かなわんの、余ももう若様という年ではないのだが・・・」
「私にとって殿というと、先代のことになってしまいますし。
そのお姿を見ればまだまだ十分若様で通りますよ。」
泥の足跡を鼻につけた定国の顔を見て、南龍は軽く笑いながらそう言った。
自分の顔に付いた狸の足型に気づき、泥を拭う定国。
「かまわんよ、どうせこの後月夜の下で月見風呂じゃ。」
簡易な露天風呂をつくりそこにつかりながら夜を過ごす。
もちろん季節や天候を選ぶが、みなの寝静まった城でこれをやるのが定国の趣味であった。
防犯上、家臣達には苦い顔をする者もいたが、そこは定国がガンとして譲らなかった。
「若様、そろそろよい塩梅かと・・・」
どうやら風呂が焚けたらしい。
「そうか、それでは南龍、今宵はもうよいぞ。」
「はい若様。湯ざめなどせぬよう。あがりましたらお早くお着替えを。」
「相変わらずじゃのw余をいくつだと思うておる。」
「最初は一人で着替えも出来なかったございましょ?」
「・・・・しばらく着せてもらうのが当たり前であった故な・・・」
言いくるめられ渋い顔をする定国。
彼がもっともこの城で頭が上がらないのがこの南龍なのである。
「それではごゆっくり。」
一礼して出て行く南龍、この空間には定国と狸だけになる。
定国は上体を起こし大きく伸びをすると、五右衛門風呂に近づいて湯に手を入れ軽く混ぜた。
「流石、年季の入った良い湯加減じゃ。」
「キュ。」
上機嫌に呟く定国に狸も応えるように一鳴きした。
そんな狸をじっと見つめる定国、見つめられてまるで人のように首を傾げる狸。
「のう御主。」
「クゥ?」
「今日は一緒に風呂に入らんか。」
風呂の縁を叩きながら定国が言う。
「キュ!」
一瞬びくっとしたものの、その場から動かない狸を見て定国も。
「合意と見てよろしいな。それでは・・・」
あっという間に畳の上に自分の着ているものを脱ぎ捨てると、
動かない狸を持ち上げ風呂に近づいていく。
釜の横の台に乗り、湯面に浮ぶ木の蓋を踏んで湯船に沈む。
狸は定国の肩に手ぬぐいのようにびろんとかかっている。
「ふいー、よきかなよきかな。まっこと乙よな。」
月を見上げながら定国が呟く。
湯船の中でマッサージして揉み解すような丁寧さで、
定国の手が狸の体毛を撫で濡らしていく。
「キュフゥゥゥ〜♥」
とろんとした目と声で、狸も甘美な温度と刺激を堪能しているようだ。
「湯はいやがるかと思うとったが、御主、いけるくちじゃの。」
気を良くした定国がさらなる悪ふざけを思いつく。
顔や耳まで含め、一通り湯で清めた後、
定国はふいに狸を眼前に持ち上げると顔に口を近づけていく。
「人でもここにはよう垢が溜まる、念入りに洗ってやろうぞw」
定国は舌を伸ばすとれろりと狸のまんまる耳を軽くほじる。
「ッ〜〜」
声にならぬ声を上げビクつく狸。
それを見てカラカラと笑うともう一度舌を伸ばす。
「くすぐったいかもしれんがな、我慢せいw」
「〜〜♥」
しばらく狸の反応を堪能した定国は、ぐったりピクピクしている狸を、
のぼせぬよう湯から引き上げ腕に乗せる形をとった。
「悪かったの、それ程敏感な場所じゃとは思わんかったわ。」
しばらく荒い息を吐いていた狸であったが、
持ち直すとするすると腕を伝い定国の肩に移り、
お返しとばかりに定国の耳を甘噛みしつつ舌で耳の内をほじり出す。
突然の反撃に面食らう定国。
「うおっ!」
心地よい耳朶への歯の刺激と、的確に伸びてくる舌が奏でる音が、
耳奥へと甘い水音を響かせる。
「クゥ♥」
甘えるような狸の声音と相まって、
定国は相手が畜生であることを一瞬忘れ、男を思わず反応させてしまう。
「や・・・やるのう。」
いいようにされたことが癪に障った定国は、
顔を狸の方に向き直ると反撃とばかりに狸の舌に自分の舌を絡める。
定国の反撃に対し、今度は一瞬驚きつつも、すぐに対応する狸。
愛らしい獣とのじゃれあいのはずが、
定国の体には確かに蓄積されていく甘い焦燥。
だが定国にも意地がある。最早何に対しての意地だが本人も良く判ってはいなかったが、
逃げるのを良しとせぬそれが狸との舌戦を延長へともつれ込ませる。
釜の風呂に入った狸を腕に乗せた青年が、狸とお互いの舌を貪り合うその光景は、
常軌を逸した光景であり、もし城の誰かが見て取った場合。
定国の乱心を迷わずに確信したであろう異常さであった。
※※※
色んな意味で熱くなった体を、畳の上で冷ます一人と一匹。
すでに風呂から上がり、浴衣に着替えた定国と、
湯上りの体を定国に拭いてもらった狸は、共に夜風に吹かれ涼んでいた。
「不思議な奴じゃな御主は。」
「キュウ?」
「こうして此処で御主と語らうのもそこそこになるが、
御主ほど余の寵愛を得ているものはおらんかもしれんw」
おどけた口調で語りかける定国に狸も元気に応える。
「キュ♥」
「ほんの戯れじゃがな、それでも戯れに興じる今こそが、
この城で余が最も満たされている時じゃ。」
「クゥゥ〜・・・」
ぽつぽつと一人語りを始める定国、狸も心配そうな声音をあげる。
「心配してくれておるのか?ありがとの。
ありがとうついでに、一つ余の愚痴でも聞いていってくれ友よ。」
「キュ!」
垂れていた頭を上げ、背を正す狸。
それを見て思わず顔をほころばせ頭をくしゃりと撫でる定国。
「先代の城主、余の父はな、表向きにはできん事情がありこの城に婿として入ってきた。
じゃから余り立場は強くも無く、元々の温厚な性格も相まって、
藩政は主に現筆頭家老の五郎左衛門やその一派が仕切っておった。
余が生まれ、藩主として家督を継ぎこの城に戻った後。
家臣の中には藩政を余の手に戻そうという忠義者達もいた。
しかしその運動の中核であった者はある日、
この山の中で遺体で発見された。あの南龍の息子でな、
余にとっても立場はどうあれ兄貴分といってよい男であった。
余は思い知った。この城での五郎左衛門の権勢は絶対じゃ。
その根がどれ程この城の中を蝕んでおるのか想像もつかんが、
信の置けるものはほんの一握り、
その他は五郎左衛門の息が掛かっていると見て間違いないじゃろう。
先代のように彼らの都合よい城主を演じれば、
問題は無く一生を終えられるであろう。
じゃがな、余は定国、この藩の藩主じゃ。
喧嘩を売られて無き寝入る趣味は無い。
とはいえ、今のままでは戦いにすらなるまい。
じゃからの、この四面楚歌の状況を少しでも変えるため、
今この城に新しい風を入れておるところよ。
余が直々にあって選抜した信の置ける者達。
有能という大義名分を持ってそのもの等を要職に任命し、
奴らの権力を少しずつ切り崩していく寸法よ。
実際、南龍以外にも、正信や八百乃を始めとする有望な者達が入ってくれておる。
とはいえ、急いてはいかん、ゆっくりと進めねばな。
前は余が若く、まだ矢面に立っていなかったから見逃されたが、
奴らにこちらの意図を悟られたなら、
御紺が嫡男を生んだとたん、余の命は風前の灯と化すであろう。」
月見酒で口を湿らせながら、外に漏れぬ声で語り続ける定国、
ふいに静かになった狸の方を向くが、
すでにその姿を視界に治めることは出来なかった。
「ふうむ、退屈させてしまったかのう。ほんに神出鬼没な奴よ。」
狸の事を考えたら先程の舌と甘噛みを思い出し、定国は思わず耳を抑えて息を吐いた。
しっかりと存在を主張する己が分身を見下ろし。
「狸相手にのう。流石我がいちもつ、何とも傾(かぶ)きよるわ。」
※※※
「・・・・・・」
「・・フフ・・・フヘ・・エヘ・・♥」
正信はだいぶ面食らっていた。
何時もは澄まし顔で仕事を片付ける先輩の顔がだいぶん歪んでいる。
「八百乃さん・・・八百乃さん!」
「・・・正信?・・何か。」
「昨夜、何かありました?」
「ナ・・・ナヌって?!・・何にもないわよお、決まってるわ。」
噛み噛みであからさまに怪しい先輩の、泳ぐ瞳を正信は見逃さない。
「いえね。何とも名状しがたい顔になっていましたので、
殿には見せられない冒涜的な・・・」
「何を言ってるのか解らないわ?そうでしょ正信?」
全てを言い終る前に、ヤオノのにこやかな顔とは裏腹に凶悪な手が正信の顔を引っつかむ。
「そうでしょ正信?」
一言一句たがえず復唱するヤオノ。
圧力を上げていく彼女の手と、瞳の奥に垣間見える凄みによって正信は瞬時に白旗をあげる。
精一杯顔を振動させ、恭順の意を示した正信に対し、ヤオノはその手を解いた。
「何も無いですね。決まってました。」
えへらと愛想笑いをしつつそう告げる正信に、うんうん頷くヤオノ。
この件に二度と触れるのは止そう。そう硬く心に誓う正信であった。
月明かりに見逃しそうになるが、その山頂にはポツンと灯りが灯っている。
この時代、灯りはけして安くなく、用事の無い者は基本寝静まる夜中。
城には消えぬ灯りが灯され、この藩の財政事情の明るさを象徴していた。
そんな城の中でも最も高い天守へと続く本丸の一画に、
四角く布で仕切られた陣地のような空間があった。
そこでは水の張られた大き目の釜のような物が火にくべられ、
一人の男が火で風呂を炊いている。
男の隣には茣蓙(ござ)と畳を地面の上に敷き、
その上で寝そべりつつ月見と洒落込んでいる城主定国がいた。
「良い月よな。」
「左様でございますな。」
定国の呟きに返す風呂焚きの男は、
白い御髪の目立つ初老の男で、同じく老齢の五郎左衛門と比べると、
細目の柔和な顔付きをした好々爺であった。
名を南龍(なんりゅう)といい、先代よりこの城に仕え、定国の世話係もしていた人物である。
現在は半分隠居した状態だが、今もたまに定国の我侭に付き合って昔同様に世話を焼いていた。
「さて・・・今宵は来るかのう?」
「ふふふ、どうでしょうな・・・あの者は神出鬼没ですので。」
などと話していると周囲を仕切る布の一画が揺れ、
そこから入った珍客が二人の方へトコトコと近づいていった。
「おお、ようきたのう。今宵は会えるような気がしておったぞ。」
「クゥーーーーーゥ」
寝そべった定国の顔の横に近づき、スンスンと鼻を鳴らす小さい影。
それはどこからか侵入した一匹の狸であった。
とても二人に慣れているようで、定国が差し出した手にも逃げず、
大人しく頭を撫でり撫でりされている。
「よ〜しよしよしよし、相変わらず愛い奴よの。」
今度は喉の方に手を回し、指でやさしく撫で摩る。
「キュゥ♥」
狸の方もまんざらでもないらしく、甘えた声を上げながら定国の指に身を任せている。
寝転がりながら、同じ高さの視線で狸とじゃれ合う少年の様な定国を、
南龍はそのどこを見ているかよく解らない目を一層細めて見守った。
「うりうりうり♥」
「クァウウ。」
調子に乗った定国は、狸を持ち上げると顔を近づけて頬ずりを始める。
急に持ち上げられ流石に狸も困惑したのか驚いたような声を上げた。
「若様、その辺に・・・親しき仲にも・・・ですぞ。」
見かねて声をかける南龍。
「かなわんの、余ももう若様という年ではないのだが・・・」
「私にとって殿というと、先代のことになってしまいますし。
そのお姿を見ればまだまだ十分若様で通りますよ。」
泥の足跡を鼻につけた定国の顔を見て、南龍は軽く笑いながらそう言った。
自分の顔に付いた狸の足型に気づき、泥を拭う定国。
「かまわんよ、どうせこの後月夜の下で月見風呂じゃ。」
簡易な露天風呂をつくりそこにつかりながら夜を過ごす。
もちろん季節や天候を選ぶが、みなの寝静まった城でこれをやるのが定国の趣味であった。
防犯上、家臣達には苦い顔をする者もいたが、そこは定国がガンとして譲らなかった。
「若様、そろそろよい塩梅かと・・・」
どうやら風呂が焚けたらしい。
「そうか、それでは南龍、今宵はもうよいぞ。」
「はい若様。湯ざめなどせぬよう。あがりましたらお早くお着替えを。」
「相変わらずじゃのw余をいくつだと思うておる。」
「最初は一人で着替えも出来なかったございましょ?」
「・・・・しばらく着せてもらうのが当たり前であった故な・・・」
言いくるめられ渋い顔をする定国。
彼がもっともこの城で頭が上がらないのがこの南龍なのである。
「それではごゆっくり。」
一礼して出て行く南龍、この空間には定国と狸だけになる。
定国は上体を起こし大きく伸びをすると、五右衛門風呂に近づいて湯に手を入れ軽く混ぜた。
「流石、年季の入った良い湯加減じゃ。」
「キュ。」
上機嫌に呟く定国に狸も応えるように一鳴きした。
そんな狸をじっと見つめる定国、見つめられてまるで人のように首を傾げる狸。
「のう御主。」
「クゥ?」
「今日は一緒に風呂に入らんか。」
風呂の縁を叩きながら定国が言う。
「キュ!」
一瞬びくっとしたものの、その場から動かない狸を見て定国も。
「合意と見てよろしいな。それでは・・・」
あっという間に畳の上に自分の着ているものを脱ぎ捨てると、
動かない狸を持ち上げ風呂に近づいていく。
釜の横の台に乗り、湯面に浮ぶ木の蓋を踏んで湯船に沈む。
狸は定国の肩に手ぬぐいのようにびろんとかかっている。
「ふいー、よきかなよきかな。まっこと乙よな。」
月を見上げながら定国が呟く。
湯船の中でマッサージして揉み解すような丁寧さで、
定国の手が狸の体毛を撫で濡らしていく。
「キュフゥゥゥ〜♥」
とろんとした目と声で、狸も甘美な温度と刺激を堪能しているようだ。
「湯はいやがるかと思うとったが、御主、いけるくちじゃの。」
気を良くした定国がさらなる悪ふざけを思いつく。
顔や耳まで含め、一通り湯で清めた後、
定国はふいに狸を眼前に持ち上げると顔に口を近づけていく。
「人でもここにはよう垢が溜まる、念入りに洗ってやろうぞw」
定国は舌を伸ばすとれろりと狸のまんまる耳を軽くほじる。
「ッ〜〜」
声にならぬ声を上げビクつく狸。
それを見てカラカラと笑うともう一度舌を伸ばす。
「くすぐったいかもしれんがな、我慢せいw」
「〜〜♥」
しばらく狸の反応を堪能した定国は、ぐったりピクピクしている狸を、
のぼせぬよう湯から引き上げ腕に乗せる形をとった。
「悪かったの、それ程敏感な場所じゃとは思わんかったわ。」
しばらく荒い息を吐いていた狸であったが、
持ち直すとするすると腕を伝い定国の肩に移り、
お返しとばかりに定国の耳を甘噛みしつつ舌で耳の内をほじり出す。
突然の反撃に面食らう定国。
「うおっ!」
心地よい耳朶への歯の刺激と、的確に伸びてくる舌が奏でる音が、
耳奥へと甘い水音を響かせる。
「クゥ♥」
甘えるような狸の声音と相まって、
定国は相手が畜生であることを一瞬忘れ、男を思わず反応させてしまう。
「や・・・やるのう。」
いいようにされたことが癪に障った定国は、
顔を狸の方に向き直ると反撃とばかりに狸の舌に自分の舌を絡める。
定国の反撃に対し、今度は一瞬驚きつつも、すぐに対応する狸。
愛らしい獣とのじゃれあいのはずが、
定国の体には確かに蓄積されていく甘い焦燥。
だが定国にも意地がある。最早何に対しての意地だが本人も良く判ってはいなかったが、
逃げるのを良しとせぬそれが狸との舌戦を延長へともつれ込ませる。
釜の風呂に入った狸を腕に乗せた青年が、狸とお互いの舌を貪り合うその光景は、
常軌を逸した光景であり、もし城の誰かが見て取った場合。
定国の乱心を迷わずに確信したであろう異常さであった。
※※※
色んな意味で熱くなった体を、畳の上で冷ます一人と一匹。
すでに風呂から上がり、浴衣に着替えた定国と、
湯上りの体を定国に拭いてもらった狸は、共に夜風に吹かれ涼んでいた。
「不思議な奴じゃな御主は。」
「キュウ?」
「こうして此処で御主と語らうのもそこそこになるが、
御主ほど余の寵愛を得ているものはおらんかもしれんw」
おどけた口調で語りかける定国に狸も元気に応える。
「キュ♥」
「ほんの戯れじゃがな、それでも戯れに興じる今こそが、
この城で余が最も満たされている時じゃ。」
「クゥゥ〜・・・」
ぽつぽつと一人語りを始める定国、狸も心配そうな声音をあげる。
「心配してくれておるのか?ありがとの。
ありがとうついでに、一つ余の愚痴でも聞いていってくれ友よ。」
「キュ!」
垂れていた頭を上げ、背を正す狸。
それを見て思わず顔をほころばせ頭をくしゃりと撫でる定国。
「先代の城主、余の父はな、表向きにはできん事情がありこの城に婿として入ってきた。
じゃから余り立場は強くも無く、元々の温厚な性格も相まって、
藩政は主に現筆頭家老の五郎左衛門やその一派が仕切っておった。
余が生まれ、藩主として家督を継ぎこの城に戻った後。
家臣の中には藩政を余の手に戻そうという忠義者達もいた。
しかしその運動の中核であった者はある日、
この山の中で遺体で発見された。あの南龍の息子でな、
余にとっても立場はどうあれ兄貴分といってよい男であった。
余は思い知った。この城での五郎左衛門の権勢は絶対じゃ。
その根がどれ程この城の中を蝕んでおるのか想像もつかんが、
信の置けるものはほんの一握り、
その他は五郎左衛門の息が掛かっていると見て間違いないじゃろう。
先代のように彼らの都合よい城主を演じれば、
問題は無く一生を終えられるであろう。
じゃがな、余は定国、この藩の藩主じゃ。
喧嘩を売られて無き寝入る趣味は無い。
とはいえ、今のままでは戦いにすらなるまい。
じゃからの、この四面楚歌の状況を少しでも変えるため、
今この城に新しい風を入れておるところよ。
余が直々にあって選抜した信の置ける者達。
有能という大義名分を持ってそのもの等を要職に任命し、
奴らの権力を少しずつ切り崩していく寸法よ。
実際、南龍以外にも、正信や八百乃を始めとする有望な者達が入ってくれておる。
とはいえ、急いてはいかん、ゆっくりと進めねばな。
前は余が若く、まだ矢面に立っていなかったから見逃されたが、
奴らにこちらの意図を悟られたなら、
御紺が嫡男を生んだとたん、余の命は風前の灯と化すであろう。」
月見酒で口を湿らせながら、外に漏れぬ声で語り続ける定国、
ふいに静かになった狸の方を向くが、
すでにその姿を視界に治めることは出来なかった。
「ふうむ、退屈させてしまったかのう。ほんに神出鬼没な奴よ。」
狸の事を考えたら先程の舌と甘噛みを思い出し、定国は思わず耳を抑えて息を吐いた。
しっかりと存在を主張する己が分身を見下ろし。
「狸相手にのう。流石我がいちもつ、何とも傾(かぶ)きよるわ。」
※※※
「・・・・・・」
「・・フフ・・・フヘ・・エヘ・・♥」
正信はだいぶ面食らっていた。
何時もは澄まし顔で仕事を片付ける先輩の顔がだいぶん歪んでいる。
「八百乃さん・・・八百乃さん!」
「・・・正信?・・何か。」
「昨夜、何かありました?」
「ナ・・・ナヌって?!・・何にもないわよお、決まってるわ。」
噛み噛みであからさまに怪しい先輩の、泳ぐ瞳を正信は見逃さない。
「いえね。何とも名状しがたい顔になっていましたので、
殿には見せられない冒涜的な・・・」
「何を言ってるのか解らないわ?そうでしょ正信?」
全てを言い終る前に、ヤオノのにこやかな顔とは裏腹に凶悪な手が正信の顔を引っつかむ。
「そうでしょ正信?」
一言一句たがえず復唱するヤオノ。
圧力を上げていく彼女の手と、瞳の奥に垣間見える凄みによって正信は瞬時に白旗をあげる。
精一杯顔を振動させ、恭順の意を示した正信に対し、ヤオノはその手を解いた。
「何も無いですね。決まってました。」
えへらと愛想笑いをしつつそう告げる正信に、うんうん頷くヤオノ。
この件に二度と触れるのは止そう。そう硬く心に誓う正信であった。
12/04/21 07:44更新 / 430
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