その8 悪魔を憐れむ歌
ツァイトが闇の中から立ち去ると、
其処にはデュケルハイトと闇そのものだけが残った。
しばしの逡巡の後、デュケルハイトはおずおずと口を開いた。
「よろしかったのですか? 行かせてしまって。」
{逆に問おう。如何様にすべきだったと貴様は考える。}
「デルエラにせよ、あのツァイトにせよ、それぞれの陣営のトップの子息。
人質として捕えたなら、交渉しきゃつらの領土の要所と交換するなど。
使い道は幾らでもあると愚考致しますが。」
{先ほどの男の言、どう考えるデュケルハイト。}
闇は息子の問いには答えず、更なる問いを重ねた。
「・・・どういう意味でしょう。」
{あれが本当に己が身を投げ出す程の理由に足るか?}
「あの言葉が偽りではと? 共感は出来ませぬが、恐らく・・・嘘ではないかと。」
{・・・であれば、やはり此処までだ。それが最善手。}
「何故です。」
{判らぬか? 我らは元々、古の盟約により主神とは不戦の約定を結んでいる。
はなから奴を捕虜に取ったり殺したりすることは出来ぬ。}
「そんなもの、お上品に守る必要もありますまい。
此度の件は向うからちょっかいを出してきた形、
非は天界にあると言えるでしょう。」
{以前であればな、だが魔王と主神の和解が、
一時的な軍事的均衡によるものでないとすれば話が変わる。
故に、和解とやらがどの程度のレベルなのかを知る必要があった。}
「確かに、主神の息子と魔王の娘、二人の間には友と呼ぶに不足ない感情があるかと。
となれば、和解とやらもどうやら口先だけではないのでしょう。」
数年前に魔王が男児を産むための儀式を敢行し、
主神や教団がそれを防ぐために一大侵攻作戦を仕掛けた戦い。
その結果、主神側は敗北し無事魔王は男の子を出産した。
だが、そのために両者が支払った代償を少なくなかった。
魔王側は数年間に及ぶ魔王の夫の不在と、
出産後に消耗した魔力の補充が、満足に出来ない魔王の衰弱という事態を招いた。
主神側も、滅びの月やトリニティの創造などにより、
先代や当代の主神の力の大幅な消耗という結果となった。
その好機を指をくわえて見ている程、彼らはお人よしではない。
事実、デュケルハイトは情報収集しつつ、
どちらに攻め込むのが得策かを考えていたところであった。
だがそんな彼の元にもたらされた情報は、
その目を見開かせるのに十分であった。
この星の存亡さえ掛けて戦った直後に、
魔王と主神が和解したというものであった。
教団サイド(人間)にはまだ下りていない情報であったが、
王魔界伝手にその情報は彼の耳に届くこととなる。
彼らは両者の激突以前から水面下で進んでいた、
漁夫の利を狙った侵攻作戦を思いとどまる事となった。
「確かに今の我らの戦力で、
魔王と主神を同時に敵に回すのは、得策とはいえませぬ。
なれば此度の決断も、それなりに得心が行くところではありますが。」
{それともう一つ、貴様は我の中に居たし感じ取れなんだろうが、
外にあいつらを受け取りに来ていたぞ。忌々しいあの女が。}
※※※
絶景、空と海の織りなす蒼と藍のグラデーション。
その水と宙を分かつように全様を横たえる。
なだらかなふたこぶラクダの様な山々。
その遠景はまるで幻の様に空に溶け込むかのようだ。
それにアクセントを加えているのが弾ける黄色の花畑である。
そんな心躍る景色に鼻歌を弾ませながら、
とある島にある秘湯につかる女性が一人いた。
その裸体は均整が取れたもので、
老若男女を問わず、ため息を付かせるような美を備えていた。
その瞳は眼前の絶景を彩る空と海さえ霞む碧をたたえ、
その髪は眩い黄金でさえくすむ様な輝きを放つ。
本来であれば長く垂らされているその長髪を、
結ってあげてアップにしてある。
彼女は湯に浮いたお盆から、
葡萄酒を取りその香りを楽しみつつ嚥下した。
その島で取れたブドウから作った地酒である。
「ああ、極楽極楽・・・」
「あらあら、もう始めてしまってるのねぇ。
待っててくれてもいいのにぃ。」
ゆるっとした声と共に、
その御盆の上にもう一つのグラスが置かれる。
そうしてもう一人女性が裸体を湯に沈めた。
最初に入っていた女性に比べだいぶグラマーな体型をしている。
最初の彼女がギリシャ彫刻のような美なら、
後から入ってきた女性のそれは、肉感的で母性的と言えた。
髪はまるで海の蒼を織り込んだような、ウェーブの掛かった長髪。
彼女は髪をアップにせず、そのまま垂らしていたが、
不思議な事に髪は湯にはつからず、
反発する磁石同士の様に、微妙に水面から距離を開けて浮いていた。
金髪の女性はチラリと青髪の女性の方に目を向ける。
何処とは言わないが、プカプカと浮かぶそれに少し敵意めいた視線を向ける。
「・・・相変わらず・・・はしたない。」
「なあにぃ?」
「何でもありません。それにしても今回の件は礼を言います。
頼めた義理もなかったというのに、こちらの依頼を承諾して頂いて。」
「いいのよぅ。また昔みたいに頼ってくれてぇ。
お姉ちゃんとっても嬉しかったんだからぁ。
それに海や海辺の事ならぁ、あたしにお任せなんだからぁ。」
「正直悩みました。今の私ではアレに睨みを利かすには力不足ですし。
だからといって、魔王の伝手でアレの親族に頼るというのも・・・
それで恥を承知で貴方に息子の迎えを頼みました。」
「ツァイトちゃんねぇ。とっても素直でぇ可愛い子よねぇ。
昔の貴方を思い出すわぁ。胸でギュってするとワタワタする対応もそっくりぃ。」
「ちょっ?! あまりあの子で遊ばないでください。」
「え〜〜、ちょっとくらいぃ、いいじゃない?」
「よくありません。貴方は昔っからそうです。
そうやって語尾をぃぃぃって伸ばして、おっとり要求すれば何でも通ると・・・ん?」
自分の方に向けられる瞳に、
暖かな慈愛を感じ彼女はバツが悪そうに押し黙った。
「うふふ♥」
「何ですか、そのウフフは・・・気持ち悪い。」
「だってぇ、嬉しいんだものぉ。
貴女がだいぶ昔に戻ってきたなあって。
お姉ちゃんとかぁ、お姉さまとかぁ、呼んで慕ってくれた頃にぃ。」
「・・・何時の話です何時の!! お互いいいとし。」
突如大きな波が音を立て、彼女の言葉を打ち消した。
「お互いぃ・・・なあにい?」
その不自然な波が偶然でないことぐらいサルでも判る。
言うなれば海は彼女そのものなのだから。
そのニコニコした顔が少々凄味を帯びてきてる事を察し、
彼女は少々言い方の矛先をずらした。
「お互い・・・もうそんな立場でも無いでしょう。
確かに貴方は先代の言いつけで、
私が主神となるまで私の教育係でもありました。
私も・・・貴方を慕っていた時期があったことも事実です。
ですが、私は貴方に命令する立場になった。
もっとも貴方の裏切りでそれさえ過去の話ですが。」
裏切り、その単語が出てきたことで、
どちらの女性の顔色も少し曇る。
信じていた勇者の反乱、魔王との結託、そして敗北。
そんな彼女に畳みかける様に、
思いを寄せていた姉も同然の相手からの離反宣言。
しかもその与する相手は、この世でもっとも憎い魔王だという。
主神と言う大役を受け持ったばかりの彼女は、心底打ちのめされた。
早い段階で体勢を立て直し、天界の総力を挙げて戦いを挑んで居れば、
歴史は変わっていたかもしれない。
だが彼女はとても長い時間、心身ともにそれが出来る状態には無い、
ポンコツ女神となっていた。やっと動き出した頃には、
新魔王体制は思いのほか盤石になりつつあった。
そんな過去を思い出して、青髪の女性は瞳を閉じて語り出した。
「今でもぉ、あの時に貴女に一緒に行きましょう。
そう手を差し出せたらってぇ、ずっと悔やんでいたわぁ。」
「いいのです、私にそんな事を言ってもらう資格何て無いのだから。
私は貴方の気持ちを知りながら、それでも人々を殺すように指示を出し続けた。
主神としての業務を全うしているだけ、そう自分を誤魔化してずっと。
神として、世界のバランスを保つために生かし殺す。
そんな数字としてしか見てこなかった人間。
いえ、数字としてしか見てこようとしなかった相手と、
同じ目線に立って世界を巡って、自分のしてきた事の意味を目の当たりにして、
どう償うべきか途方に暮れているのが現状です。」
半ば投げやりに残った酒を一気に呷る。
「でもぉ、貴方は先代に言われるがままにやっていただけ。そうでしょ?」
「・・・それが言い訳になるとでも?」
「そうねぇ、為らないわよねぇ。私もぉ、いっぱいいっぱい悩んだわぁ。」
「・・・・・・あ! そういう・・・意味では・・・」
「教団っていう団体を通じてぇ、間接的に殺した数を入れるなら兎も角ぅ。
直接その手に掛けた数ならあ、私は貴方よりずっとずっと殺してるわぁ。
嵐で船を返しぃ、津波で村を洗いぃ。時には陸を沈める。
そんな事をずっと繰り返してきてたんだからぁ。」
「・・・・・・でも、貴方は私よりずっと早く自分で其処から抜け出せた。」
「ううん、私も結局卑怯ものなのよぉ。先代には結局何も言えなかった。
親しい貴方がぁ、弱ってる時に言い逃げしたも同然よぉ。
時間が掛かったとはいえ、先代に直に抗った貴方はぁ、
とってもとっても立派だったわぁ。」
彼女はその豊満な胸に相手を招く。
相手も少し硬くなったが、観念したように頭をその両峰に委ねた。
「あらあらぁ、やっぱり貴方の肌はすっごいすべすべよねぇ。」
「・・・姉・・・さまの胸も・・・相変わらずもちもちです。」
「あら・・・あらあらあらあら〜〜〜〜!!」
「むぎゅん。」
彼女は興奮したように、益々その胸に深く相手の顔を埋める。
埋められた相手は抗議のむぎゅんをあげたが、
通じないようだと判ると、仕方なく相手の興奮が収まるまで、
彼女に体を預ける事にしたようだった。
しばらくぎゅ〜が続いたが、彼女の興奮も少しづつ冷めてきたらしく。
その豊満な谷間から豪奢な金髪を解放した。
「もう、暑苦しい。」
「だってだってぇ〜〜。嬉しかったんですものぉ。」
「・・・細やかながら今回の件の御礼です。
今の私には、他に貴女に支払うべきものの持ち合わせが無いですから。
言っておきますけどね、二度と金輪際この呼び方はしませんから。」
「え〜〜〜、いけずぅ。」
「いいですか、仮にもこの私は天界のトップなのですよ。
だというのに、何時までも袂を分かった相手とベタベタするなど、
下の者に対して示しがつかないにも程があります。」
そう言ってプイと海へと視線を向けてしまう主神。
相手はブーたれた顔で不満げだ。
「む〜〜、またそんな事言ってぇ・・・
じゃあじゃあ、あれはどうなのぉ?」
「・・・あれ? 何の事です。」
「貴方ぁ、魔王ちゃんの所にぃ、時々行ってるわよねぇ。」
ピタリ、明後日を向いて再び注いだ酒を傾けていた主神の動きが止まる。
「私ぃ、あの子に聞いちゃったのぉ。時々現れてぇ、
飴をくれる金髪のお姉さんってぇ、貴方のことよねぇ?」
「・・・・・・・・・何を馬鹿な。」
「可愛いものねえ〜うふふ♥
あの人の息子だものねぇ、
とっても面影があるものねぇ。うふふ♥」
「そのにやついた顔を辞めなさい。
な・・・何を言ってるのかさっきから意味不明です。」
「でもお、思い人を寝取られたからってぇ、
その息子に粉を掛ける何てぇ、だいぶ業の深いお話よねぇ。
それもぉ、小さいころからぁ、餌付けしてだなんてぇ。」
「な?! 何てふしだらで破廉恥な発想か。
私はそんな目であの子の事を見て何ていません!!
恥を知りなさい。お姉さまは脳まであの女との付き合いで穢れてしまったんです。」
「そおかしら〜〜?」
「決まっています。全ては・・・全ては忌々しいあの女のせいなのです。」
「ところで〜〜、いいのかしらぁ?」
「何がですか。」
「通ってたことを〜認めちゃってるのとぉ、
またまたお姉さまってぇ、呼んでくれてるわよぉ。」
「ハッ?!」
「うふふふふ♥」
「ぐっ・・・グヌヌッ。」
古い知己との会話は弾めど、
酒が美味いやら不味いやら、
どうにも複雑な心境の主神であった。
※※※
デュケルハイトは抱えていた。
自分の内に呑み込みがたい不快な感情を。
彼は期待していたのだ。
ようやくこの長い長い停滞した戦況に、
楔を打ち込み止まった時計の針を動かせるのではと・・・
しかし結果はご覧の有様だ。
魔王の娘と主神の息子をその手中に収めながら、
みすみす見逃さねばならないのだから。
彼が落胆を覚えるのも無理からぬ事であった。
魔王が代替わりする以前に、
彼らの同胞は多くの犠牲を払い、また相手にも多くの犠牲を強いて、
主神と互いに不干渉の盟約を結び一時休戦と相成った。
だがそれは戦力を整え、再びこの星の覇を競うまでの準備期間だ。
彼はずっとそう思っていた。
自分達が戦後産み出されたのは、古の大戦で失われた多くの同胞達。
その穴埋めをするためであると彼は解釈していた。
彼なりに産み出された意義に報いるため、
今日までほぼ全権の指揮を彼が取ってきた。
生みの親である闇は静謐を守っていた。
彼はその沈黙を肯定と捉えていた。
自分は親の意に沿って期待通りに振る舞えていると。
彼はずっとそう自分に言い聞かせてきた。
だが、常々彼は感じていた。
自らの生みの親である闇が、何を考えているのか判らないと。
故に、ツァイトの言葉は彼を苛立たせた。
今日までは感じていながらも見過ごしていたその違和感も、
此度の件ですら何の懊悩も怒りも無く、
人質を解放した様に見える闇の態度は、
彼に今まで喉元までで形にならなかった言葉を、
決定的な確認の言葉を彼に上げさせた。
「口惜しゅうございます。」
{・・・・・・・・・・・・}
「・・・これ程の、これ程の件があっても結局現状維持しか出来ない。
我々に・・・きゃつらを倒しこの星の覇権を握れる日は来るのでしょうか。」
初めてである。弱音とも取れる台詞を彼が親に吐いたのは。
そんなものを吐くのは恥じだと思っていた。
彼は邪神の子として、その期待に応えるために生きてきたのだから。
だがその矜持すら揺らぐほどに、この件に対する彼の落胆は大きかった。
そんな彼に、闇は小石を投げる様に一つの言葉を吐き出した。
だが、その無造作な一言は・・・デュケルハイトの足元を大きく揺るがした。
{・・・無理だ。}
「・・・無理・・・無理とは?」
{魔王側の領地や戦力の増強率、天界との和解、これらの要因から導き出される結論。
我らだけで奴らを倒すのは無理だ。何か大きな外的要因が働きでもせん限り永遠にな。}
「それは・・・しかし・・・」
{この結論が理解出来ぬほど蒙昧でもあるまい。}
(理解出来る。理解出来るとも・・・だがしかし、
それを・・・それを認めてしまえば・・・我らは。
だというのに・・・何故そんな平然と言える?!)
「何故、その様な事を平然と・・・天気でも口にするかのように。貴方様は・・・」
{・・・・・・何を狼狽える? まさか本当に我らで今の世界を覆せると思っていたのか?}
ぐらり 彼は自身の魂が崩れる感覚を味わう。
「では・・・我らは一体何なのです! なぜ存在しているのです!!」
{保険だ。}
「保険・・・何の?!」
{我が怠惰なる父が、失敗した時の為の保険だ。}
「・・・大司祭様が?! 生きておられるのですか。では今一体何をしておられるのです。」
{魔王の元で魔物となり、同胞と領地を増やし続けている。}
「・・・マインド・・・フレイア。」
{そうだ。あれは父の産み出した同胞だ。}
「あの魔物を取り仕切っておられるのが大司祭様?!
どういう事です。おられないのは古の大戦で、
御身を深く傷付けられ、深き底で眠っていたからでは無かったのですか?」
{我が一言でも、そのような事を述べたか?
魔王が主神を破り世界を変革した時の衝撃は、天界から冥界まであらゆる世界を駆け巡った。
深き水底や地の底にいた我らとてそれは同じ。そして我らは考えた。
戦力は消耗しこのまま行っても、いずれ不利な状況で膠着状態になるのは目に見えている。
ならいっそこの変革のごたごたに乗って見るのも手だとな。
そして父を初めとした一部の同胞や兄弟達は魔王の元で、
サキュバスとしての特性を得て、新たなやり方で活動を開始した。
結果は上々だ。我らが現状維持が精一杯なところ、
彼女達は順調に同胞の数と領地を増やし続けている。
とはいえ、余りにも不確定な要素が多く、上手くいくかは掛けであったのも事実。
故に、我と父は話し合い、袂を分かち今まで通りのやり方も続けることにした。}
淡々と、何の抑揚も無く機械的に読み上げられる事実は。
デュケルハイトの根幹を微塵に打ち砕いていく。
「それが我々。」
{そうだ。}
「ただの保険。」
{そうだ。}
何故そんな大事な事をっ!! そう喉まで出かかった悲鳴をデュケルハイトは呑み込んだ。
決まっているではないか・・・聞かれなかったから。
そう淡々と答えるだけだ。それを知る事で貴様のやるべき事に何か変わりがあるのか?
そう本気で聞いてくるだけだろう
(道化ではないか・・・余りにも。)
「デルエラが我らを骨董品と嘲りましたが・・・そのものだったというわけですか。」
{骨董品・・・正しい形容だな。戦略的に見ても我らのやり方は時代遅れ故に。}
挑発のつもりだった言葉でさえ、暖簾に腕押しという反応。
彼はたまった鬱屈を吐き出すために遂に吠えた。
「悔しくは無いのですか!! 我らはもはや無用の長物だというのに。」
{悔しい? 結構ではないか。保険とは使わぬならそれに越したことは無い物の事だ。
同胞を増やしこの星をその血と肉で満たす。それ以外の全ては些末な事だ。
過程や方法など・・・どうでもいいことだ・・・我らの行く末も含め。}
デュケルハイトはこの日、少しだけ彼の父である存在の事を理解した。
矜持もプライドも、こだわりも何もないのだ。
結果が出るならそれ以外に何もいらない。
彼にとって、自身も息子も路傍の石ころも、全ては同じものなのだ。
目的にとって役に立つか否か、それ以外に彼に物差しは存在しないのだ。
多少の理解は出来る。だが、彼にはそんな境地はとても共感できるものではなかった。
君と彼は違うものだ。ツァイトの言葉が再び真実の矢となって彼を射抜く。
「何故です。何故・・・我々は貴方の実子だというのに。
こんなにも貴方と違うものとして創造されたのです。」
(最初からそう割り切れる存在ならこんなにも、自分は苦しまなくて済んだはずだ。)
{父が言っていた。魔王との感応で愛を理解したと・・・主神の敗北はその心にあると。
だが、我にはそれが理解出来なかった。故に眷属を産むための母体となった人間の魂、
我が喰らった勇者らの魂、それらをベースにコピーした人格、
心というものを付随して作られたのが貴様らだ。
私も父同様に魔王の魔力を取り込む案もあったが、
汚染されて戻れなくなっては元も子もないからな。}
「それでは・・・我々は・・・道化どころか・・・モルモットではないですか。」
{そうだな、子で手駒でモルモット、どれも貴様らを形容するに正しい表現だ。
もっとも、今日までその試みは上手くいっているとは言い難い。
まあ、所詮は保険である我らの余剰で行っている実験に過ぎぬ。
成果が出ぬとて落胆には当たらぬ。}
自分が心血を注いできた思想も理想も、
全ては幻・・・意味の無い事だ。
デュケルハイトは目の前でそれを冷徹なまでに突き付けられた。
一気に衝撃の事実を告げられた彼は、
茫然自失となって何時の間にか神殿の一角を彷徨い歩いていた。
どう父と別れ、何故歩いているのか、どうやってここまで来たのか、
その記憶さえも不確かな程の曖昧な状態。
そんな彼の目端に原色のどぎつい赤や緑が飛び込む。
「知性と自信に満ち溢れた顔が、絶望に青ざめ虚無に染まる。
とてもいいお顔ですデュケルハイト様。私好みで。」
恭しく失礼な事を申し立てる道化が一人。
「ヒッポリトか・・・失せろ。
今の私は・・・貴様の声を聞きたい気分ではない。」
この世界も何もかも、壊してしまいたい。
さしあたっては目の前の不愉快な男を殴殺したい。
デュケルハイトはそんな湧き上がる欲求をなけなしの自我で抑える。
「ままま、そう仰らず。消沈為されておいでのデュケルハイト様に、
この道化から少しばかりアドバイスを・・・」
「貴様・・・その態度。」
「ええ、キッチリ聞かせて頂いておりました。
御労しいですねえ。何と何と・・・王子様の正体は実験ネズミでした。
美しい姫君のキスで呪いが解けたら拍手喝采ですが、
残念姫君もネズミだったのです。これでは呪いが解ける可能性は望み薄ですな。」
舞台役者の様な大仰な語りで朗々と声を響かせる。
「・・・・・・死にたいらしいな。」
「憎しみであれお元気になられて嬉しく思います。
さて冗談はこの辺りに、いいではありませんかネズミで。」
「何だと?」
「貴方には果たすべき義理も地位も名誉も無い。
それはつまり、貴方様はこれより好きに生きれるということ。」
「フン、馬鹿を言うな、私はモルモットでも邪神の直系。
それは変えようもない事実だ。」
「そうですね。それは変えようもない事実だ。
ですが、それは貴方の生き方を決める全てではない。」
「・・・・・・」
「私を御覧なさい。教団圏で人として生を受け。
今は人を超えた体と邪教の半神半人と並ぶ地位を得て、
こうして邪神の直系と語らう生を謳歌しています。
生まれが与えた影響など、この人生に於いて半分に満たぬでしょう。
まあ、すぐにどうこうしろとは言いませんが、
我らは本質的に自由なのですよ。貴方様もそうあられませ。」
それだけ言い残すと、道化じみた悪趣味な芸術家は神殿の奥へと消えて行った。
それを見送ったデュケルハイトはツァイトの事を思い出す。
「無いという事は・・・自由と同義・・・か。
自由とは・・・楽ではないな。闘神よ・・・」
※※※
神殿内にシャリンシャリンと軽い金属音と足音が響く。
日本人が聞けば、錫杖を持った僧が歩いてるのかと勘違いするだろう。
その音を立てているのは、裸の地肌に金色の鎖帷子を直につけた。
三日月型の角を生やした金髪の男だ。
男の名はゴルド、彼が先ほどまでいたシルバの所領と神殿とは、
本来ワイバーンが空を飛んですら、数刻をようする位置関係にある。
だが、この時空に干渉する男にとっては、距離も時間もさして意味の無い要素だ。
力量と性格、それ以外にもこの男が世界各地に散らばる将の監督役をしているのは、
この能力に寄るところが大きい。
彼はこの国の長の取り決めに従い、
侵入者たちの追跡令の解除を伝えに現地へと飛び、
そして今また帰投し、現地での出来事を報告し終わったところである。
「報告御苦労さまでした。ゴルド将軍。」
「妖将か・・・何用だ?」
一瞬とはいえ、大いなる闇が戦場とした神殿内。
その破壊の爪あとが残る場所で彼を待ち構えていたのは、
豪奢でエキゾチックなゴルドとは対照的に、
チープでアヴァンギャルドな装いに身を包むヒッポリトであった。
二人の間にはこれと言って親交は無い。
むしろ、ヒッポリトは皆に嫌われているのでそんな相手は皆無と言えたが。
彼を嫌っていないのは、この国の長くらいのものである。
「いえいえ、将のまとめ役でありながら伝令役をご自身でこなされる。
ゴルド将軍への労いの言葉、それだけでございますよ。」
「見え透いた言葉をしゃあしゃあと・・・もう一度聞く、何用だ。」
ゴルドは腕を組み、目を閉じて言葉を待つ。
「職務に忠実、謹厳実直なゴルド将軍としましては・・・
大変珍しい事を為されたと思いまして。」
「・・・・・・何の事だ。」
「報告内容に一部欠落があったことについて・・・ですよ。」
「決定を私が伝えた時点では、まだ侵入者は生存していたため、
それらを見逃して引き上げてきました。
何処かに欠落があったかな? 妖将。」
「ええ、大有りです。その報告では・・・触れられていませんよねえ。
貴方の弟君の敗北について。決定と結末については別として。
侵入者に敗北した。というのは各地を任された将として・・・
死罪であってもおかしくはない失態だと思われますが。」
その言を聞き、ゴルドはしばし黙り込んだ。
「出歯亀が・・・狙いは我の失脚か? それとも愚弟を罰する事か?」
「どちらかというと後者が近いですかね。
将のまとめ役など貴方様以外には勤まらない。その考えには異論有りませんから。」
「・・・愚弟を死罪として何を欲する。あれの所領か?
それとも、誰か代わりに将として推挙したいものでもいるのか。」
「いえいえ、どちらも違います。私が欲しいのはシルバ様の御体です。
あの神にさえ届く無双の肉体、前々からコレクションに加えたいと焦がれておりました。」
「只殺すには惜しい、だが貴様の傀儡として再利用すれば、
勿体なくは無い。そうのたまうか。」
「ええ、ええ、そうですとも。
あの御方に惜しむところあるとすれば、あの性格とおつむの出来です。
ですが・・・死体を保管し、然るべき時に我が秘術にて使役すれば、
生前以上の無敵の剛力無双が誕生する事、固く約束いたします。
容赦も慈悲も皆無、指示は私が出し、死人ゆえに呼吸も必要ありません。
今回の様な不手際は万が一にでも起きることは無いでしょう。」
「食屍鬼神(モルディギアン)とか言ったか。
貴様の趣味の悪い死体遊びは・・・」
「そうです。結果としてこの国の戦力も増強される。
我が神もお喜び下さるでしょう。ゴルド様も体の良い厄介払いが出来る。
一石二鳥というものではあり・・・」
言葉に被せる形で、乾いた木の枝を折った様な音が響く。
音源に目を向けたヒッポリトが見たものは、
自身の意志とは無関係に持ち上げられ、
雑巾の様に捩じり折られた己の右腕だった。
「良く回る舌だ。感心するぞ。それだけ謳っておいて、
出るのはのべつ幕なし耳障る戯言だけとは。」
閉じていた瞳を開いたゴルド、
その瞳の奥にはっきりとした怒りの色を感じ、
ヒッポリトが押し黙る。
(・・・普段の扱いから見下げ果てていると思い込んでいたが。
こいつ・・・報告から敗北の件を省いたのは・・・)
※※※
邪神が眷属の母体となるものを選ぶ時、
その指針は余人には知れぬものであるとしか言いようがなかった。
邪教徒の中から選ばれることもあれば、
教団の中から選ばれることもあった。
そうして産まれた子の扱いは大きく分けて二つ。
神の子として崇拝の対象となるか、
忌み子として蔑まれて生きるかに分けられる。
とある教団圏の聖都にて、
雪の降る夜に産まれた二つの命は、
当然ながら後者の扱いを受ける事となった。
とある一室にて母の腹から産み落とされた子は、
二人とも角が生えていた。
それを見て彼らに向けられた感情は、
落胆、嫌悪、憎悪、恐怖などと言った代物で、
一つとしてそれらを祝福したり歓迎するものは無かった。
その娘はとある教団幹部の娘で、
政略結婚で良家に嫁ぎ、
腹が膨れてきた事で、どちらの親も安堵したものだった。
だが、それと時を同じくして娘の情緒は不安定になっていった。
起きていても心此処にあらずといった虚ろな表情が増え、
仕える者達の話では、寝る時には酷くうなされ暴れるという。
生まれ落ちた異形の前で、これはどうしたことだと阿鼻叫喚の親族を前に、
娘の夫は涙ながらに告白した。これは自分の子供ではない。
この娘と同じ床に入ると、筆舌に尽くしがたい悪夢を見るのだという。
内容は覚えていないが、ただただ恐怖で頭がおかしくなりそうという結果だけが残るという。
だから自分は、この娘と婚姻後、一度としてまともに寝ていないのだと。
だがそんな事を言っても誰も信じては貰えないだろう。
無理やりにでもまた一緒に寝ることを強要されるはずだ。
それだけは嫌だ。ああ恐ろしい、
恐ろしくて恐ろしくて眼球が飛び出しそうだ。
そう目を見開いてまくし立てる男の常軌を逸した面貌を見て、
教団幹部も、これは尋常ならざる力の働いた結果だと気付いた。
教団の教えでは、産まれた命を人為的におろすことは許されていない。
だから幹部の男は私兵を呼び、皆に口止めをした。
今宵此処で行われたことは、絶対に口外してはならないと・・・
異種姦は大罪である。人は人とのみ交わる事が良しとされ、
愛があっても他種族との子は迫害の対象となる。
基本的に清く正しく、他者を愛する事が基本の教団に於いても、
魔物同様に他種族との混血はその例外として忌避の対象となる。
それは産まれた児だけにとどまらず。
産んだ母と父、そしてそれらの血族にまで向けられる。
ましてその聖都で幹部をしている家柄と、
その娘を娶るに相応しい良家にとって、
一族から得体の知れぬ混血が産まれたなどというスキャンダルは、
彼らの権勢を一夜にして白紙にするに十分すぎた。
故に彼らは、生まれ落ちたその二つの命を、
深々と降る雪の夜、亡き者にしようとした。
その白い雪でこれから起きる惨劇の記憶も消え去るだろう。
そう言わんばかりに無慈悲な剣を振るった。
だが彼らは誤った。
相手を赤子と侮りお抱えの勇者をその場に呼ばなかった。
もっともその勇者は正義感の強い男で、
彼にこの事が知れればどの道彼らはお終いだったろう。
それでも、もしそちらの選択を取っていれば、
その日失われた命は二つだけで済んだはずだった。
(どうした? 貴様は我の母親だろう。
母ならば子を抱き上げ、乳を与えるものではないのか?)
言葉として明確に声をあげる事は出来なかったが、
親である神の恩寵によるものか、その赤子は生まれながらにして、
成人に近い五感と知識と知恵を有していた。
そんな彼であるから、周囲の大人たちが自分を歓迎していない事、
恐怖し憎悪している事にすぐに気付く。
(誰も彼も・・・何という顔をしているのか・・・。
此処には我を、敬う者も愛する者もいないというわけか。
腹を痛めて産んだ母親すらが・・・・・・)
その時既に、彼の母は気が半分違っていたが、
産まれた赤子から感じる気配は、
自分を狂わせた元凶に通じるものがあったため、
彼女が我が子を見下ろす視線には恐怖しかなかった。
産まれた瞬間、周囲の全てから拒絶された男の短い腕を誰かが握った。
その手は自分と同じ様に、小さくかぼそいものであったが、
彼はその手が握った場所から、激痛を感じ思わず呻きを上げた。
(無礼な!)
痛みを与えた相手の方を見ると、
隣には自分と同じくらいの赤子が寝かされている。
赤子の手だというのに、
その手はまるで男の手を折らんばかりに強く握ってきた。
「にいちゃ! にいちゃ!」
笑顔だった。この刺すような視線の只中で、
ただ一つ、自分を傷つけんばかりに握ってくる手の持ち主。
その持ち主だけが、彼の事を好きで仕方ないという笑顔を向けてくれていた。
持って生まれた神性による感応か、血による共鳴か、
男はその赤子が自分の弟だという事を理解した。
(そうか・・・お前だけが・・・我の家族か。)
さっさと殺すのだ。私兵に教団幹部の声がとび、
人形の様に無表情な男が剣を振り上げた。
その剣の振り下ろす先は、彼のたった一人の家族だった。
(動け・・・動け・・・何故動かん。)
如何に彼らの肉体が人間離れしていようと、
まだ武装した正規兵と渡り合える程に動けるものではなかった。
ゆっくりと立ち上がり睨み付けるが精一杯だ。
だがそれは相手の恐怖と嫌悪を煽りこそすれ、
事態の打開にはむしろ逆の効果しか及ぼさなかった。
やはり悪魔の子だ。おぞましい呪われた命だ。
誰が言ったかそんな言葉が彼らに浴びせられる。
潰そうとしていた虫が毒を持っていたのを知ったような、
そんなおぞ気を覗かせながら、
私兵の男は振り上げたその剣を振り下ろした。
(貴様ら、只の卑しい人間の分際で・・・神の眷属たる我らに!!)
ガツッ 鉄の剣が突き立ったのは、柔らかい赤子の肉ではなく。
寝台の一部であった。男は狙いを大きく外していた。
男の目が見開かれる。何故外したのか理解出来ないという顔であった。
「何をしている?!」
「・・・・・・次は外しません。」
その現象を彼は即座に理解した。簡単だった。
自分の意志という非物質で、自分の体という物質を動かすのと本質は同じだ。
自分の意志という非物質で、眼前の物体という物質を動かす。
彼にはそれが生まれながらに出来た。
私兵が寝台から抜いた剣先は大きく後ろにそれ。
教団幹部の胸に深々と突き立った。
その場にいた女のものらしき黄色い悲鳴が上がる。
(踊れ踊れ!)
抜けた剣は鞘というねぐらを求める狂犬の様に。
狭い室内に閃いて、次々と肉体から肉体へと跳んで跳ねて回った。
10cm、だらりと脱力した成人男性の掌ほどの幅も刺されば人は死に至る。
倒れ伏す大人たちの間を、青々とした顔で私兵が飛び回る。
周囲の者達からすれば、突如気が触れたとしか思えなかっただろう。
彼は剣を持った右手首を左手で抑えながらも、
人形の様な不自然な動きで、剣に引きずられる様に惨劇を演ずる。
逃げまどう人々はその凶刃に背を向けて、扉や窓に殺到する。
だが、扉も窓も見えない薄壁に覆われたようで、
取っ手を掴むことも打ち破る事も出来なかった。
そんな者達の背中にすぐさま血の花が咲く。
逃げ惑う者達の一人が燭台を倒した。
油が火と共に絨毯に広がって部屋を赤々と彩った。
館は全焼だった。生存者もいなかったという。
ただその雪の夜に、聖都では全身を黒のローブで覆った一団が、
何処からともなく現れ、そして館の傍に集まり、
夜が明ける前に消えて行ったという。
そんな怪しげな目撃証言も幾つかあがったが、
彼らの正体も惨劇の真相も何もかも、
白い雪と赤い炎、そして黒い夜の闇が永劫たる時の彼方へと押し流していく。
※※※
超将ゴルド、彼にとって世界はとてもシンプルだ。
自分と親である父と、血を分けた弟の為にのみ世界はあると言っていい。
厳密に言えば、暗闇の子供達や眷属は皆彼の異母兄弟だが、
彼らの事を家族と思ったことは一度として無い。
彼が普段弟に必要以上に当るのも、立場を利用して依怙贔屓する。
などと諸将から思われては、弟の為にならないからに過ぎない。
彼は時空の狭間から弟とエスクードの戦いも見ていた。
侵入者は追跡令の解除前に、弟によってすでに殺されていました。
そうやって弟の手柄とするため、
彼は当初エスクードとチェルヴィを見殺しにするつもりだった。
だが、結果はシルバの敗北と彼の予想を裏切る結果となる。
エスクードがシルバに止めを刺そうとしたその時、
チェルヴィが止めていなければ、エスクードはゴルドによって殺されていただろう。
だが、その後のチェルヴィとの会話を盗み聞いていたゴルドは、
彼女のシルバへの感情を知り、その命を取る事を止める事とした。
立場は敵同士なれど、弟の事を彼以外に其処まで思ってくれたのは、
彼女が初めての相手だったからだ。
そして今、そんな彼女とは真逆に地雷を踏み抜いた男が一人いた。
捻じれ雑巾の様な腕を眼前に持ちあげたヒッポリトは、
その痛々しさを感じさせぬ静かな声色で言った。
「乱心召されたか? ゴルド将軍。」
「笑止、常に己に酔うが如き貴様に言われる筋合いはない。」
今は人払いしてあるとは言え、此処は彼らの本拠だ。
闘って人知れずというわけにはいかない。
だがゴルド、彼には将達の独断での処分権が与えられている。
元々胡散臭い事この上なく、何時裏切っても不思議ではないこの男。
口を封じてから、適当な理由を付ければ最悪彼が死罪になる事はあるまい。
ゴルドはそれだけ考えると、その魔力を解放した。
「問答無用というわけですか・・・ではこちらも。
我が秘術(ギアス)でお相手しましょう。
貴方にお釈迦にされたこの腕を生贄とし、
現れいでよ、極光白夜(アフーム=ザー)。」
ヒッポリト、彼の右肩から先が燃え墜ちると同時に、
彼の背後に突如数mもある炎が燃え上がる。
だが、奇妙なのはその炎の芯は灰色で周囲は青白い燐光を放つ点である。
そしてメラメラと燃え上がるそれは、辺りを一瞬で灰色の世界へと染め上げていく。
滑る様に広がっていくそれは凍りだ。
ヒッポリトとその奇妙な白炎を除いた全てが染まり止まる。
それは石畳も燭台で燃え盛る炎さえも例外ではない。
更に違和感を覚えるのは、一瞬で炎すら凍結していくという凄まじい現象が、
全て無音で進行していくという事実。
普通物体は急速に凍らされれば、熱膨張の関係で大なり小なり音を立てる。
だがその現象にはそれがまったく見られない。
静かな神殿内でさえ、音が立つことはないのである。
浸食されていく無音の世界。
それを前にゴルドは一歩も引かず。
仁王立ちのままでその瞳を光らせ、角から閃光を放った。
するとある線を境に浸食が止まった。
まるでガラスで仕切られたように、
白と灰色の世界はまるで水槽に閉じ込められたようだ。
(大陸を凍土とするに一昼夜いらぬこの力。
空気さえ凍らせる絶対静止をこの狭き場所で押し留めるか。
相変わらずでたらめな出力ですね。)
アフーム=ザーの現象が無音なのは、
音と言う振動を伝える前に、
その媒介である空気さえ振動ごと凍結させてしまう事による。
その本来の射程は小さな大陸に匹敵する代物だ。
そんな戦略級の事象を建物内で使用しているというのに、
ゴルドの力は微塵も揺らがない。
彼の力はその思想同様にシンプルだ。
テレキネシスやサイコキネシスと呼ばれるそれで、
手を触れずに対象を動かせる力。
だが問題なのは、その力の及ぶ範囲の法外さである。
海底から沈んだ島を楽々天に持ち上げる程の射程と出力を誇り、
相手の血管一本を狙って潰せる精密性、
将同士の眼にも止まらぬ接近戦にも対応できる即応性、
寝てる最中や意識外の攻撃にもオートでガードを設定できる柔軟性。
干渉できるものは固体液体、気体だけに留まらず。
質量のないものや、ある程度なら概念存在にまで干渉可能であった。
時空間の歪みや穴を利用した移動が可能なのも、
この能力の応用に過ぎないのである。
力を超えた力、故に超将。
その圧倒的に応用の効く力は彼を最強の将たらしめている。
その鉄壁っぷりは、本来同格である将相手ですら彼に傷をつけるを困難とした。
そんな彼には傷無し=(ハートレスゴールド)という異名が与えられている。
とはいえ、ヒッポリトが右腕を犠牲に呼び出した神も安くは無い。
二つの力は拮抗し両者の中央で世界を分かつ。
だが両者の状況は二人に平等ではない。
(まあいい、このまま拮抗し続けても、
いずれ誰かに見つかればその時点で私の勝ちだ。
映像は押さえてある。さて、どんな言い訳を躍らせてくれるでしょうねえ。
ゴルド将軍、貴方の行動はますます貴方の弟君の立場を悪くした。
これで決定的です。シルバ殿は私の貴重なコレクションとなることでしょう。)
そんな思索を巡らせるヒッポリトの耳奥で声が響く。
「このまま逃げ切りで私の勝利、
などとそんなうすら寒いほくそ笑みを、仮面の下でしているのだろう?
侮るな。我は貴様を始めとした、魍魎ぞろいの将をまとめ上げる男ぞ。」
ゴルドの言葉に応えようとしてヒッポリトは気づく。
(声・・・念話なら兎も角、声などが届くはずが?!)
低温とは分子振動の停止に他ならない。
空気さえも凍り音の振動さえも震えを止める。
そんな静止世界で、ただゴルドの声だけが不気味に響く。
「驚くことはあるまい。俺の力は空気さえも動かす。それだけの事だ。」
(器用な事を・・・声という空気の振動を、
サイコキネシスで再現などと・・・いや、待てよ。それはつまり?!)
ヒッポリトはその意味に気づく。
サイコキネシスでの音の再現、そんな曲芸じみた現象に気を取られ、
事の本質に気づくのが遅れた。
彼の力が境界を越えてこちら側に作用しているという事実に。
左手に異常を感じそちらを見たヒッポリト、
その視線の先で、左手が指先から裏返っていく。
骨から肉や血管が綺麗に削げ落ちて丸まり、
肩付近で圧縮されてサイコロステーキの様に押し固められる左腕。
骨も関節ごとに高速で逆に回転してねじ切られてバラされていく。
(ぐぅ?! 流石・・・生贄が腕一本では不足でしたかねえ。
しかし弱りました。これを黙らせるとなると・・・
もはやアレを出すしか。)
「とどめだ。足も潰してダルマにした後、
時空の狭間に捨ててきてやろう。
貴様は下手に殺すと、魂を別の肉体に移すらしいからな。」
どちらが勝つにせよ次の一手で勝敗が決する。
それだけは確かであった二人の勝負、
それは突如現れた二人の乱入者の手で水入りとなる。
「フン!」
丸太の様に野太い腕が振るわれ、本当にガラスの様に灰色世界を打ち砕いた。
呼び出された神性も、その一撃で吹き消すようにヒッポリトの後ろから消える。
「はい、そこまで・・・」
戦闘態勢に入っていたゴルドの後ろとその首、
それを易々と眼にも止まらぬ瞬足で、彼女は取っていた。
「おお・・・助かりました。御二方。」
二人の将の間に割って入ったのは、闇の嫡男であるダラムスとハイドラであった。
「ココ、父上ノ神殿・・・不敬・・・ホワーイ?」
「クスクス、あたし熱いと寝苦しいからやだけどさあ。
ちょっと冷やしすぎなんじゃない?
面白いからもうちょっと見てたかったけどね。
これ以上はダラムス兄ぃが駄目だってさあ。」
ダラムスは仁王像の様な形相で目を光らせ、
ハイドラは猫を思わせる悪戯っけのある笑みで両者を見比べている。
(此処までか・・・流石にこの方々まで黙らせるのは・・・)
ゴルドは冷静を装っていたが、唇を噛み切りたい心持であった。
そうしている間にも、ヒッポリトは自分に有利な証言を重ねていく。
とはいえ、それらはすべて事実で迂闊に口をはさむのは状況を悪くするだけだった。
「フムフム、へェ〜〜〜、ゴルドってクソまじめで面白味のない奴だと思ってたけど。
そっかそっかあ、シルバちゃんのためにこいつを消そうとしたんだ。」
ハイドラは面白げにその顔を覗き込む、勿論首には鋭い手のヒレを当てながらだが。
「ヒッポリト・・・父上二、報告ハ?」
「いえ、ゴルド将軍の意図を聞かず。
頭越しに告げ口などしては角が立ちましょう。
故に、本人に了解を取ってからと思っておりましたが・・・この有様でして。」
腕の無い両肩を器用にすくめて見せるヒッポリト。
「っそ・・・つまり、この事を知ってるのはこの4人だけってことね。
いいわ、この件あたしが預かっちゃう。
たかだか一人の将の敗残の処遇如きで、御父様の御耳を汚す必要もないわ。」
ゴルドの肩に乗っていたハイドラが一瞬で二人の間に降り立つ。
「して・・・どのような御沙汰を?」
「負けたことで−1、結果論とは言え侵入者を殺さなかったことは+1、
±0で今回は失態を免じるとしよっか。」
ニヤニヤと上目づかいでハイドラはヒッポリトを見上げる。
「そんな馬鹿な?! そのような沙汰は今まで一度も。」
「ん? なあに、バカって言ったの。
たかだが一将の、それも食客の分際でこのあたしに。
不服があると・・・いいわよ。実力で黙らせてみなさいな。」
「直系たるハイドラ様に・・・卑称なこの私めがかなう筈など。」
「嘘ば〜〜っかり、どうせあたし一人くらいなら何とかなると思ってるでしょ?
あたしもずっとあんたの切り札には興味あったのよねえ。
ほら、最強の手駒、出すまで待っててあげるわよ。
腐敗した君臨せし竜の王、前魔王の遺骸。
御父様曰く、生前の全盛には及ばないらしいけど、それでも興味深いわ。」
ハイドラのあからさまな挑発、それを受けてヒッポリトも頭を振る。
(やれやれ、血の気の多いお嬢様だ。
アレを抜いたら、流石に戦争・・・後には引けませんからねえ。
まだその時ではない、惜しいが此処は引くか。)
「御冗談を、あのようなもの・・・味方に使う代物ではございません。
矮小なる私如きが、差し出がましい真似をいたしました。
それでは、私めはこれにて。」
そそくさと逃げる様に、ヒッポリトは廊下を後にした。
そうしてそこにはゴルドとダラムス、そしてハイドラが残るのみとなった。
ゴルドは膝を突き、ハイドラに深く首を垂れた。
「寛大な御処置、兄として心から御礼申し上げます。」
「うふふ、お兄ちゃんしてるじゃないゴルド、
まあ正直言うとね、本当の採点なら敗北は−3点くらいついちゃうけどね。」
「・・・では、何故愚弟は免罪されたのです?」
「あははは、あたしあの野郎が大嫌いだからそれで+1、
んで最後の1点はね。シルバちゃんがダラムス兄ぃのお気にだからよ。」
「シルバ・・・マイフレンド、イイ奴。何度負ケテモ、
鍛エ直シテ俺二本気デチャレンジ。俺ガ全力ダセル奴、アイツダケ。」
「っま、あたしもシルバちゃんの事は嫌いじゃないわ。
そんじゃあねゴルド、シルバちゃんへのお仕置きはあんたが適当にやんなさい。」
ハイドラは頭の後ろで手を重ねると、ピョンとダラムスの肩に乗った。
そうしてダラムスは首を垂れるゴルドの肩に手を置くと、
その横をハイドラを載せたまま歩いて去って行った。
「このゴルド・・・改めまして、深く堅く御二方に絶対の忠誠を・・・」
その後、ゴルドが頭を上げるまで長い永い時間、
彼は其処でそのままの姿勢を維持し続けた。
この日、彼の中の世界の構造が少しばかり変化した。
※※※
野望という名の夢が確かにあった
無理だって? 人事のように言う
どうしてこうなった
何を憎めばいい
過去と自分自身か?
出来れば他の誰かであれ
そう祈らずにはいられない
神殿内、デュケルハイトは彼らが寝所として使う部屋で天井を見つめていた。
思考はグルグルと降りるべき場所と、向かうべき道を求め彷徨う。
だが、それらは徒労に終わろうとしていた。
彼は群れとはぐれ、方角を見失った海上の渡り鳥の様であった。
そんな彼の足元に止まり木を差し出すように、
彼の手が誰かの掌で握られた。
デュケルハイトは瞳だけを動かし、
何時の間にかベッドの脇に座り込んでいた女性を見る。
「・・・シェリダン。」
「・・・もう少し、このまま握っていても宜しいでしょうかお兄様。」
デュケルハイトは答えなかった。だが特別振り払いもしなかった。
だから、二人の手は握り合ったままであった。
二人の間に言葉はない、だからと言って気まずいという事も無い。
それは、長きに渡る時を積み上げてきた者同士、
家族だからこその空気とも言えた。
(こんなものに・・・安らぎを感じる。)
デュケルハイトにとって、それは認めがたい感情だ。
デルエラやイールが言った事を半ば肯定する事だからだ。
だが、空っぽの今だからこそはっきりと感じ取れる手の温もり、
それの呼び起こす感情は確かに其処にあって、
到底否定出来るものではなかった。
(それに、今更一体何のために否定するというのか?)
彼には、もはや張るべき意地も誇りも無くなってしまった。
「シェリダン、お前は私の事が好きか?」
「・・・御疲れなのですねお兄様。
その様な事実を態々口に出して言って欲しいだなんて。」
だが言ってる事とは逆に、シェリダンは少しウキウキした口調だ。
「・・・嬉しそうだな。」
「失礼いたしましたお兄様、ですが、私は何時でも貴方の為に生きております。
だから、どんな事であれ求められるのは嬉しいものです。
まして、好意を持つ相手から甘えられる事を嫌がる女がいるでしょうか?」
彼らは普段、こういう話をしない。
デュケルハイトが意図的にしないようにしており、
シェリダンもそんな兄の気持ちを慮って振らないのだった。
邪神の子として相応しい振る舞いを、彼なりにそう考えた時、
家族相手であっても、そういう会話をするのが相応しいとは思えなかったからだ。
「甘えか・・・私などの何処が好きなのだ?」
「・・・全部です。いえ、というより、貴方だからとしか言いようがありません。
何処が、などと言う問い自体が的を外していると思いますわ。」
「一本取られたのか、それさえ判らん。」
「例えば、今お兄様は無知を晒されたわけです。
他の者であれば嘲笑や見下しの感情が入るところですが、
相手がお兄様の場合、私はかわいいとか微笑ましいと感じてしまいます。」
「好きという感情が先にあると?」
「たぶんそうですわ。でも、理屈では測りがたいものですので断言はしかねます。」
「馬鹿な、卵が先か鶏が先かという議論じゃあるまいし、
ではその好きは一体どこから来たというのだ。
いや・・・待てよ。そうか、父から聞いた話だがな。
我々の性格は、眷属の母体となった者や、過去の勇者たちのそれをコピーしたものらしい。
つまり、お前のその感情や好みもその誰かの借り物というわけだ。」
何処か自嘲気味かつ投げやりにデュケルハイトはシェリダンに言った。
デュケルハイトは自分の味わっている懊悩の欠片でも、
妹に味あわせて困らせてみよう。そんな意地の悪さを抱き言った。
だが、それを聞いたシェリダンはそんな彼を裏切るように首をかしげる。
「成程、そうだったのですか。まあ大した事でもありませんわね。」
「・・・お前にとって俺は其処まで軽い存在か?」
「え?! 何故そんな事をおっしゃるのでしょう。」
「お前の中で俺への好意が大きなウェイトを占めるというなら、
その感情が借り物という事に何故そうも平然としていられる?」
「ああ、そんな事ですか。確かに、お兄様に惹かれたきっかけは、
人格元となった誰かの好みがあったかもしれません。
ですが、今日まで幾千年と共に生き、育んできたこの感情、
これは私のものです。他の誰でもない私の魂です。
それがある限り、他が全て夢幻でも構いませんわ。
お慕いしておりますお兄様、もし貴方様が許して下さるのなら、
千の海を越え、千の時代(とき)を越えてもなお御傍にいとうございます。
遠く遠く、何処までも御傍に・・・」
「強いのだな。お前は・・・」
デュケルハイトは上体を起こし、握っていた手を離して、
その手をシェリダンの頬に這わせた。
少しビクリとしつつも、シェリダンもその手を黙って受け入れる。
見つめ合う両者、デュケルハイトはそのまま何も告げず。
少し首を傾げて顔を前に出す。重なる影と影、
シェリダンは突然の奇襲に、目を見開いたままガチゴチに固まっていた。
あまり濃厚なものではなく、軽く触れ合うだけの行為。
「・・・・・・フム、喜べシェリダン。
少なくとも、私もお前の事が嫌いではないらしい。」
彼は自分の唇に指を這わせながら、
自分の胸の内が不快感を覚えてはいないことを自覚する。
そんな彼の頭上には大穴が空き、
神殿上の曇天が更にくり抜かれてベッドに日が差し込むことになった。
暴走するリビドーと溢れでる何かを御しきれなくなったシェリダンが、
ありったけの魔力を砲として目と口から吐き出した跡だった。
だがそのリアクションも含め、
デュケルハイトにはどうでもよかったので彼はそれらを無視した。
そして彼は話した。自分の知った全てを・・・自分達が何であるかという事を。
それを知ったシェリダンは、敬愛する兄の心中を察して顔を曇らせた。
実際の所、その事実より先ほどの行為の方が、
彼女の頭の中ではよほどショッキングであったので、
ともすれば恍惚笑顔ハイテンションになりそうな自分の顔を曇らせる、
シェリダンは骨を折りつつもその器用な芸当をやり遂げた。
「心中、お察しいたしますわお兄様。」
「・・・思ったより、ショックを受けていないようだな。」
「ショックが無いと言えば嘘になりますが・・・
私にとってはお兄様こそが全てですから。」
「このモルモット以外の何者でもない私を、まだそう言ってくれるか。」
「先ほども言ったでしょう? 好きという気持ちが先にある以上、
それ以外のあらゆる事はそれを覆すに足りませんわ。
私がお兄様をお慕いする事は決定事項で、全ては其処から始まるのですから。」
「だが、全ては無意味だ。もはややるべき事も為すべき大義も無くなった。
この星というカゴの中で車を廻すネズミでしかない。
それが今の私だ、それ以上でもそれ以下でもない。」
「・・・・・・お兄様。」
「何だ?」
「それでは降伏いたしますか?」
「何処にだ。」
「天界でも魔界でも、どちらでも良いではありませんか。」
「・・・・・・」
「なら御父様に反逆して嬲り殺されましょうか? やるなら御供致しますわ。」
「・・・・・・」
「各所領を治める将達を皆殺しにして、
残った土地を周辺国に譲渡するのもいいかもしれませんわね。」
「・・・ふざけて・・・いるのか?」
「怖い声、お気を悪くされましたか?」
「ああ、承諾しがたい提案ばかりだ。」
「・・・あるではありませんか。」
「何だと?」
「やりたくない事、不快な提案、それがあるなら、逆にやりたい事もあるはずですわ。
お兄様は何者でもなくはありません。お兄様はお兄様です。
今まで生きて、考えて感じて、そうやって此処まで来た私のお兄様です。
今までの様に邪神の子としての立場がないなら、
その胸にお尋ねになればいいだけなのです。
何が貴方の幸せ? 何をして喜ぶ? それだけでいいのです。」
自分 己 そう言ったものへの関心が、彼はあまりに薄すぎた。
邪神の子としての自分、それだけあればいいと思っていたから、
彼は己というものを知らな過ぎた。
「大司祭様の様にやり方を変えますか?」
「・・・NOだ。今更どの面下げてデルエラどもに下れる。」
「では全てを捨てて二人で逃げますか? 世捨て人の様に暮らすのです。」
「・・・NOだ。その先は結局袋小路だ。結論の先延ばしでしかない。」
「少し残念です。なら皆を連れこの星から旅立つのは?
この星は大司祭様に任せ、私達は新たな新天地を探して・・・」
「成程、宙には数多の星がある。此処に拘る必要はないのかもしれん。
いずれ世界の果てまで我らの居場所が無くなりし時、
先達たちがゾスより此処に降り立ったように、
我らも此処から新たな地へ旅立つ日が来るのかもしれん。
・・・・・・だがやはりNOだ。それはまだ今ではない。」
やり方は消去法という形ではあったが、
少しずつ少しずつ、シェリダンはデュケルハイトに問いを投げ、
彼にそれを否定させることで、彼の魂の輪郭を浮き彫りにしていく。
実を言えば、彼女は既に知っていた。
デュケルハイトをずっと見て、彼を案じ続けてきた彼女は、
彼以上に彼の事を深く理解していた。
だが、正解をいきなり口で伝えても意味は無い。
デュケルハイト自身が、己と向き合いそれを実感する。
その過程を経て納得出来ねば、それは只の情報に過ぎない。
そして二人の問答は暫く続く事となる。
※※※
そんな二人を見下ろす二つの視線が合った。
シェリダンが天上に開けた穴、その二つ上の寝所で寝ていた二人だ。
ベットの真上には丁度ベッドが重なっており、
其処で寝ていたハイドラは、あわやというところで直撃を免れていた。
彼女のスピードあっての芸当だ。
「あんのブラコン・・・殺す気か。」
「クワイエット、シスター。」
「はいはい、わーってるわよダラムス兄ぃ。」
最初階下に怒鳴りこもうとしたハイドラであったが、
二人の様子がおかしかったのでダラムス共々、
耳を傾けるに留めた。そして二人もこの国の現状と自分達が何か大体悟った。
「やれやれ・・・とんだ逢瀬の現場を見ちまったわ。
デュケルハイトの奴は生真面目だし、ああなるのも無理ないか。」
「ドウスル? マイシスター。」
「ん? うーん、あたしは別にあいつほど躍起になって結果を求めてないから。
楽しめればそれで良いってスタンスだしねえ。
御父様の事は生みの親として敬ってるけどそれだけだし、
ダラムス兄ぃこそどうなのよ?」
「俺・・・デュケルハイト、オ前ホド嫌イジャナイ。
リトルブラザートシテ、支エテアゲタイ。」
それを聞き、ハイドラは目を閉じて微笑する。
「やっぱりね、まあそれでこそダラムス兄ぃだよねえ。
仕方ない、デュケル馬鹿のシェリダンとダラムス兄ぃだけじゃ何かと大変だろうし。
あたしも残ってやるわよ。ある意味面白くなってきたしね。」
そんなハイドラの様子を黙って見ていたダラムスだったが、
突如何かに気づいたとばかりに左手のひらに握った右手を直角に降ろした。
「何よ?」
「ナイス ツンデレ。」
「・・・アアン?!」
「・・・デレツン?」
渋い顔で睨みを利かせるハイドラだが、
ダラムスが素で言ってると判りため息を吐き出した。
「チッ、いいわよもう、ベッド消し飛んじゃったし、
水の上で寝よっかなあ・・・あ・・・そうだダラムス兄ぃ。」
「ホワッツ?」
「ダラムス兄ぃのベッドでっかいしさ、あたし一人くらいなら問題ないよね。
シェリダンの馬鹿の所為で悪いけど、一緒に寝ても良い?」
「オーケーシスター、御安イ御用ダ。」
「シシシ、何千年ぶりだっけ? 二人で寝るの、懐かしいなあ。」
「最初、オ前、トッテモジャジャホース。」
「ぬぅ・・・あ・・・あの時は照れてただけだし。」
「照レデ・・・首ヲハネラレルノハ・・・ドウカト。」
「み・・・未遂だからノーカンだし。頸動脈だけだったし。
妹の過去を蒸し返す何て兄失格だし。」
「攻メテハイナイ、俺モ懐カシイ。傷モ記憶モ全テ・・・大切。」
ダラムスはそう言って敢えて残している首の横の傷を見せる。
それをすまなそうに、愛しむようにハイドラは撫でる。
「ん・・・そうだね。今日は色々あったしあたしも疲れたわ。
それじゃ寝よっか。デュケルハイトはシェリダンに任せとけば大丈夫でしょ。」
「オーケーシスター。」
体格差が異常な二人は共に一つのベッドで眠った。
端から見れば熊とその懐で丸くなる猫の様であった。
其処にはデュケルハイトと闇そのものだけが残った。
しばしの逡巡の後、デュケルハイトはおずおずと口を開いた。
「よろしかったのですか? 行かせてしまって。」
{逆に問おう。如何様にすべきだったと貴様は考える。}
「デルエラにせよ、あのツァイトにせよ、それぞれの陣営のトップの子息。
人質として捕えたなら、交渉しきゃつらの領土の要所と交換するなど。
使い道は幾らでもあると愚考致しますが。」
{先ほどの男の言、どう考えるデュケルハイト。}
闇は息子の問いには答えず、更なる問いを重ねた。
「・・・どういう意味でしょう。」
{あれが本当に己が身を投げ出す程の理由に足るか?}
「あの言葉が偽りではと? 共感は出来ませぬが、恐らく・・・嘘ではないかと。」
{・・・であれば、やはり此処までだ。それが最善手。}
「何故です。」
{判らぬか? 我らは元々、古の盟約により主神とは不戦の約定を結んでいる。
はなから奴を捕虜に取ったり殺したりすることは出来ぬ。}
「そんなもの、お上品に守る必要もありますまい。
此度の件は向うからちょっかいを出してきた形、
非は天界にあると言えるでしょう。」
{以前であればな、だが魔王と主神の和解が、
一時的な軍事的均衡によるものでないとすれば話が変わる。
故に、和解とやらがどの程度のレベルなのかを知る必要があった。}
「確かに、主神の息子と魔王の娘、二人の間には友と呼ぶに不足ない感情があるかと。
となれば、和解とやらもどうやら口先だけではないのでしょう。」
数年前に魔王が男児を産むための儀式を敢行し、
主神や教団がそれを防ぐために一大侵攻作戦を仕掛けた戦い。
その結果、主神側は敗北し無事魔王は男の子を出産した。
だが、そのために両者が支払った代償を少なくなかった。
魔王側は数年間に及ぶ魔王の夫の不在と、
出産後に消耗した魔力の補充が、満足に出来ない魔王の衰弱という事態を招いた。
主神側も、滅びの月やトリニティの創造などにより、
先代や当代の主神の力の大幅な消耗という結果となった。
その好機を指をくわえて見ている程、彼らはお人よしではない。
事実、デュケルハイトは情報収集しつつ、
どちらに攻め込むのが得策かを考えていたところであった。
だがそんな彼の元にもたらされた情報は、
その目を見開かせるのに十分であった。
この星の存亡さえ掛けて戦った直後に、
魔王と主神が和解したというものであった。
教団サイド(人間)にはまだ下りていない情報であったが、
王魔界伝手にその情報は彼の耳に届くこととなる。
彼らは両者の激突以前から水面下で進んでいた、
漁夫の利を狙った侵攻作戦を思いとどまる事となった。
「確かに今の我らの戦力で、
魔王と主神を同時に敵に回すのは、得策とはいえませぬ。
なれば此度の決断も、それなりに得心が行くところではありますが。」
{それともう一つ、貴様は我の中に居たし感じ取れなんだろうが、
外にあいつらを受け取りに来ていたぞ。忌々しいあの女が。}
※※※
絶景、空と海の織りなす蒼と藍のグラデーション。
その水と宙を分かつように全様を横たえる。
なだらかなふたこぶラクダの様な山々。
その遠景はまるで幻の様に空に溶け込むかのようだ。
それにアクセントを加えているのが弾ける黄色の花畑である。
そんな心躍る景色に鼻歌を弾ませながら、
とある島にある秘湯につかる女性が一人いた。
その裸体は均整が取れたもので、
老若男女を問わず、ため息を付かせるような美を備えていた。
その瞳は眼前の絶景を彩る空と海さえ霞む碧をたたえ、
その髪は眩い黄金でさえくすむ様な輝きを放つ。
本来であれば長く垂らされているその長髪を、
結ってあげてアップにしてある。
彼女は湯に浮いたお盆から、
葡萄酒を取りその香りを楽しみつつ嚥下した。
その島で取れたブドウから作った地酒である。
「ああ、極楽極楽・・・」
「あらあら、もう始めてしまってるのねぇ。
待っててくれてもいいのにぃ。」
ゆるっとした声と共に、
その御盆の上にもう一つのグラスが置かれる。
そうしてもう一人女性が裸体を湯に沈めた。
最初に入っていた女性に比べだいぶグラマーな体型をしている。
最初の彼女がギリシャ彫刻のような美なら、
後から入ってきた女性のそれは、肉感的で母性的と言えた。
髪はまるで海の蒼を織り込んだような、ウェーブの掛かった長髪。
彼女は髪をアップにせず、そのまま垂らしていたが、
不思議な事に髪は湯にはつからず、
反発する磁石同士の様に、微妙に水面から距離を開けて浮いていた。
金髪の女性はチラリと青髪の女性の方に目を向ける。
何処とは言わないが、プカプカと浮かぶそれに少し敵意めいた視線を向ける。
「・・・相変わらず・・・はしたない。」
「なあにぃ?」
「何でもありません。それにしても今回の件は礼を言います。
頼めた義理もなかったというのに、こちらの依頼を承諾して頂いて。」
「いいのよぅ。また昔みたいに頼ってくれてぇ。
お姉ちゃんとっても嬉しかったんだからぁ。
それに海や海辺の事ならぁ、あたしにお任せなんだからぁ。」
「正直悩みました。今の私ではアレに睨みを利かすには力不足ですし。
だからといって、魔王の伝手でアレの親族に頼るというのも・・・
それで恥を承知で貴方に息子の迎えを頼みました。」
「ツァイトちゃんねぇ。とっても素直でぇ可愛い子よねぇ。
昔の貴方を思い出すわぁ。胸でギュってするとワタワタする対応もそっくりぃ。」
「ちょっ?! あまりあの子で遊ばないでください。」
「え〜〜、ちょっとくらいぃ、いいじゃない?」
「よくありません。貴方は昔っからそうです。
そうやって語尾をぃぃぃって伸ばして、おっとり要求すれば何でも通ると・・・ん?」
自分の方に向けられる瞳に、
暖かな慈愛を感じ彼女はバツが悪そうに押し黙った。
「うふふ♥」
「何ですか、そのウフフは・・・気持ち悪い。」
「だってぇ、嬉しいんだものぉ。
貴女がだいぶ昔に戻ってきたなあって。
お姉ちゃんとかぁ、お姉さまとかぁ、呼んで慕ってくれた頃にぃ。」
「・・・何時の話です何時の!! お互いいいとし。」
突如大きな波が音を立て、彼女の言葉を打ち消した。
「お互いぃ・・・なあにい?」
その不自然な波が偶然でないことぐらいサルでも判る。
言うなれば海は彼女そのものなのだから。
そのニコニコした顔が少々凄味を帯びてきてる事を察し、
彼女は少々言い方の矛先をずらした。
「お互い・・・もうそんな立場でも無いでしょう。
確かに貴方は先代の言いつけで、
私が主神となるまで私の教育係でもありました。
私も・・・貴方を慕っていた時期があったことも事実です。
ですが、私は貴方に命令する立場になった。
もっとも貴方の裏切りでそれさえ過去の話ですが。」
裏切り、その単語が出てきたことで、
どちらの女性の顔色も少し曇る。
信じていた勇者の反乱、魔王との結託、そして敗北。
そんな彼女に畳みかける様に、
思いを寄せていた姉も同然の相手からの離反宣言。
しかもその与する相手は、この世でもっとも憎い魔王だという。
主神と言う大役を受け持ったばかりの彼女は、心底打ちのめされた。
早い段階で体勢を立て直し、天界の総力を挙げて戦いを挑んで居れば、
歴史は変わっていたかもしれない。
だが彼女はとても長い時間、心身ともにそれが出来る状態には無い、
ポンコツ女神となっていた。やっと動き出した頃には、
新魔王体制は思いのほか盤石になりつつあった。
そんな過去を思い出して、青髪の女性は瞳を閉じて語り出した。
「今でもぉ、あの時に貴女に一緒に行きましょう。
そう手を差し出せたらってぇ、ずっと悔やんでいたわぁ。」
「いいのです、私にそんな事を言ってもらう資格何て無いのだから。
私は貴方の気持ちを知りながら、それでも人々を殺すように指示を出し続けた。
主神としての業務を全うしているだけ、そう自分を誤魔化してずっと。
神として、世界のバランスを保つために生かし殺す。
そんな数字としてしか見てこなかった人間。
いえ、数字としてしか見てこようとしなかった相手と、
同じ目線に立って世界を巡って、自分のしてきた事の意味を目の当たりにして、
どう償うべきか途方に暮れているのが現状です。」
半ば投げやりに残った酒を一気に呷る。
「でもぉ、貴方は先代に言われるがままにやっていただけ。そうでしょ?」
「・・・それが言い訳になるとでも?」
「そうねぇ、為らないわよねぇ。私もぉ、いっぱいいっぱい悩んだわぁ。」
「・・・・・・あ! そういう・・・意味では・・・」
「教団っていう団体を通じてぇ、間接的に殺した数を入れるなら兎も角ぅ。
直接その手に掛けた数ならあ、私は貴方よりずっとずっと殺してるわぁ。
嵐で船を返しぃ、津波で村を洗いぃ。時には陸を沈める。
そんな事をずっと繰り返してきてたんだからぁ。」
「・・・・・・でも、貴方は私よりずっと早く自分で其処から抜け出せた。」
「ううん、私も結局卑怯ものなのよぉ。先代には結局何も言えなかった。
親しい貴方がぁ、弱ってる時に言い逃げしたも同然よぉ。
時間が掛かったとはいえ、先代に直に抗った貴方はぁ、
とってもとっても立派だったわぁ。」
彼女はその豊満な胸に相手を招く。
相手も少し硬くなったが、観念したように頭をその両峰に委ねた。
「あらあらぁ、やっぱり貴方の肌はすっごいすべすべよねぇ。」
「・・・姉・・・さまの胸も・・・相変わらずもちもちです。」
「あら・・・あらあらあらあら〜〜〜〜!!」
「むぎゅん。」
彼女は興奮したように、益々その胸に深く相手の顔を埋める。
埋められた相手は抗議のむぎゅんをあげたが、
通じないようだと判ると、仕方なく相手の興奮が収まるまで、
彼女に体を預ける事にしたようだった。
しばらくぎゅ〜が続いたが、彼女の興奮も少しづつ冷めてきたらしく。
その豊満な谷間から豪奢な金髪を解放した。
「もう、暑苦しい。」
「だってだってぇ〜〜。嬉しかったんですものぉ。」
「・・・細やかながら今回の件の御礼です。
今の私には、他に貴女に支払うべきものの持ち合わせが無いですから。
言っておきますけどね、二度と金輪際この呼び方はしませんから。」
「え〜〜〜、いけずぅ。」
「いいですか、仮にもこの私は天界のトップなのですよ。
だというのに、何時までも袂を分かった相手とベタベタするなど、
下の者に対して示しがつかないにも程があります。」
そう言ってプイと海へと視線を向けてしまう主神。
相手はブーたれた顔で不満げだ。
「む〜〜、またそんな事言ってぇ・・・
じゃあじゃあ、あれはどうなのぉ?」
「・・・あれ? 何の事です。」
「貴方ぁ、魔王ちゃんの所にぃ、時々行ってるわよねぇ。」
ピタリ、明後日を向いて再び注いだ酒を傾けていた主神の動きが止まる。
「私ぃ、あの子に聞いちゃったのぉ。時々現れてぇ、
飴をくれる金髪のお姉さんってぇ、貴方のことよねぇ?」
「・・・・・・・・・何を馬鹿な。」
「可愛いものねえ〜うふふ♥
あの人の息子だものねぇ、
とっても面影があるものねぇ。うふふ♥」
「そのにやついた顔を辞めなさい。
な・・・何を言ってるのかさっきから意味不明です。」
「でもお、思い人を寝取られたからってぇ、
その息子に粉を掛ける何てぇ、だいぶ業の深いお話よねぇ。
それもぉ、小さいころからぁ、餌付けしてだなんてぇ。」
「な?! 何てふしだらで破廉恥な発想か。
私はそんな目であの子の事を見て何ていません!!
恥を知りなさい。お姉さまは脳まであの女との付き合いで穢れてしまったんです。」
「そおかしら〜〜?」
「決まっています。全ては・・・全ては忌々しいあの女のせいなのです。」
「ところで〜〜、いいのかしらぁ?」
「何がですか。」
「通ってたことを〜認めちゃってるのとぉ、
またまたお姉さまってぇ、呼んでくれてるわよぉ。」
「ハッ?!」
「うふふふふ♥」
「ぐっ・・・グヌヌッ。」
古い知己との会話は弾めど、
酒が美味いやら不味いやら、
どうにも複雑な心境の主神であった。
※※※
デュケルハイトは抱えていた。
自分の内に呑み込みがたい不快な感情を。
彼は期待していたのだ。
ようやくこの長い長い停滞した戦況に、
楔を打ち込み止まった時計の針を動かせるのではと・・・
しかし結果はご覧の有様だ。
魔王の娘と主神の息子をその手中に収めながら、
みすみす見逃さねばならないのだから。
彼が落胆を覚えるのも無理からぬ事であった。
魔王が代替わりする以前に、
彼らの同胞は多くの犠牲を払い、また相手にも多くの犠牲を強いて、
主神と互いに不干渉の盟約を結び一時休戦と相成った。
だがそれは戦力を整え、再びこの星の覇を競うまでの準備期間だ。
彼はずっとそう思っていた。
自分達が戦後産み出されたのは、古の大戦で失われた多くの同胞達。
その穴埋めをするためであると彼は解釈していた。
彼なりに産み出された意義に報いるため、
今日までほぼ全権の指揮を彼が取ってきた。
生みの親である闇は静謐を守っていた。
彼はその沈黙を肯定と捉えていた。
自分は親の意に沿って期待通りに振る舞えていると。
彼はずっとそう自分に言い聞かせてきた。
だが、常々彼は感じていた。
自らの生みの親である闇が、何を考えているのか判らないと。
故に、ツァイトの言葉は彼を苛立たせた。
今日までは感じていながらも見過ごしていたその違和感も、
此度の件ですら何の懊悩も怒りも無く、
人質を解放した様に見える闇の態度は、
彼に今まで喉元までで形にならなかった言葉を、
決定的な確認の言葉を彼に上げさせた。
「口惜しゅうございます。」
{・・・・・・・・・・・・}
「・・・これ程の、これ程の件があっても結局現状維持しか出来ない。
我々に・・・きゃつらを倒しこの星の覇権を握れる日は来るのでしょうか。」
初めてである。弱音とも取れる台詞を彼が親に吐いたのは。
そんなものを吐くのは恥じだと思っていた。
彼は邪神の子として、その期待に応えるために生きてきたのだから。
だがその矜持すら揺らぐほどに、この件に対する彼の落胆は大きかった。
そんな彼に、闇は小石を投げる様に一つの言葉を吐き出した。
だが、その無造作な一言は・・・デュケルハイトの足元を大きく揺るがした。
{・・・無理だ。}
「・・・無理・・・無理とは?」
{魔王側の領地や戦力の増強率、天界との和解、これらの要因から導き出される結論。
我らだけで奴らを倒すのは無理だ。何か大きな外的要因が働きでもせん限り永遠にな。}
「それは・・・しかし・・・」
{この結論が理解出来ぬほど蒙昧でもあるまい。}
(理解出来る。理解出来るとも・・・だがしかし、
それを・・・それを認めてしまえば・・・我らは。
だというのに・・・何故そんな平然と言える?!)
「何故、その様な事を平然と・・・天気でも口にするかのように。貴方様は・・・」
{・・・・・・何を狼狽える? まさか本当に我らで今の世界を覆せると思っていたのか?}
ぐらり 彼は自身の魂が崩れる感覚を味わう。
「では・・・我らは一体何なのです! なぜ存在しているのです!!」
{保険だ。}
「保険・・・何の?!」
{我が怠惰なる父が、失敗した時の為の保険だ。}
「・・・大司祭様が?! 生きておられるのですか。では今一体何をしておられるのです。」
{魔王の元で魔物となり、同胞と領地を増やし続けている。}
「・・・マインド・・・フレイア。」
{そうだ。あれは父の産み出した同胞だ。}
「あの魔物を取り仕切っておられるのが大司祭様?!
どういう事です。おられないのは古の大戦で、
御身を深く傷付けられ、深き底で眠っていたからでは無かったのですか?」
{我が一言でも、そのような事を述べたか?
魔王が主神を破り世界を変革した時の衝撃は、天界から冥界まであらゆる世界を駆け巡った。
深き水底や地の底にいた我らとてそれは同じ。そして我らは考えた。
戦力は消耗しこのまま行っても、いずれ不利な状況で膠着状態になるのは目に見えている。
ならいっそこの変革のごたごたに乗って見るのも手だとな。
そして父を初めとした一部の同胞や兄弟達は魔王の元で、
サキュバスとしての特性を得て、新たなやり方で活動を開始した。
結果は上々だ。我らが現状維持が精一杯なところ、
彼女達は順調に同胞の数と領地を増やし続けている。
とはいえ、余りにも不確定な要素が多く、上手くいくかは掛けであったのも事実。
故に、我と父は話し合い、袂を分かち今まで通りのやり方も続けることにした。}
淡々と、何の抑揚も無く機械的に読み上げられる事実は。
デュケルハイトの根幹を微塵に打ち砕いていく。
「それが我々。」
{そうだ。}
「ただの保険。」
{そうだ。}
何故そんな大事な事をっ!! そう喉まで出かかった悲鳴をデュケルハイトは呑み込んだ。
決まっているではないか・・・聞かれなかったから。
そう淡々と答えるだけだ。それを知る事で貴様のやるべき事に何か変わりがあるのか?
そう本気で聞いてくるだけだろう
(道化ではないか・・・余りにも。)
「デルエラが我らを骨董品と嘲りましたが・・・そのものだったというわけですか。」
{骨董品・・・正しい形容だな。戦略的に見ても我らのやり方は時代遅れ故に。}
挑発のつもりだった言葉でさえ、暖簾に腕押しという反応。
彼はたまった鬱屈を吐き出すために遂に吠えた。
「悔しくは無いのですか!! 我らはもはや無用の長物だというのに。」
{悔しい? 結構ではないか。保険とは使わぬならそれに越したことは無い物の事だ。
同胞を増やしこの星をその血と肉で満たす。それ以外の全ては些末な事だ。
過程や方法など・・・どうでもいいことだ・・・我らの行く末も含め。}
デュケルハイトはこの日、少しだけ彼の父である存在の事を理解した。
矜持もプライドも、こだわりも何もないのだ。
結果が出るならそれ以外に何もいらない。
彼にとって、自身も息子も路傍の石ころも、全ては同じものなのだ。
目的にとって役に立つか否か、それ以外に彼に物差しは存在しないのだ。
多少の理解は出来る。だが、彼にはそんな境地はとても共感できるものではなかった。
君と彼は違うものだ。ツァイトの言葉が再び真実の矢となって彼を射抜く。
「何故です。何故・・・我々は貴方の実子だというのに。
こんなにも貴方と違うものとして創造されたのです。」
(最初からそう割り切れる存在ならこんなにも、自分は苦しまなくて済んだはずだ。)
{父が言っていた。魔王との感応で愛を理解したと・・・主神の敗北はその心にあると。
だが、我にはそれが理解出来なかった。故に眷属を産むための母体となった人間の魂、
我が喰らった勇者らの魂、それらをベースにコピーした人格、
心というものを付随して作られたのが貴様らだ。
私も父同様に魔王の魔力を取り込む案もあったが、
汚染されて戻れなくなっては元も子もないからな。}
「それでは・・・我々は・・・道化どころか・・・モルモットではないですか。」
{そうだな、子で手駒でモルモット、どれも貴様らを形容するに正しい表現だ。
もっとも、今日までその試みは上手くいっているとは言い難い。
まあ、所詮は保険である我らの余剰で行っている実験に過ぎぬ。
成果が出ぬとて落胆には当たらぬ。}
自分が心血を注いできた思想も理想も、
全ては幻・・・意味の無い事だ。
デュケルハイトは目の前でそれを冷徹なまでに突き付けられた。
一気に衝撃の事実を告げられた彼は、
茫然自失となって何時の間にか神殿の一角を彷徨い歩いていた。
どう父と別れ、何故歩いているのか、どうやってここまで来たのか、
その記憶さえも不確かな程の曖昧な状態。
そんな彼の目端に原色のどぎつい赤や緑が飛び込む。
「知性と自信に満ち溢れた顔が、絶望に青ざめ虚無に染まる。
とてもいいお顔ですデュケルハイト様。私好みで。」
恭しく失礼な事を申し立てる道化が一人。
「ヒッポリトか・・・失せろ。
今の私は・・・貴様の声を聞きたい気分ではない。」
この世界も何もかも、壊してしまいたい。
さしあたっては目の前の不愉快な男を殴殺したい。
デュケルハイトはそんな湧き上がる欲求をなけなしの自我で抑える。
「ままま、そう仰らず。消沈為されておいでのデュケルハイト様に、
この道化から少しばかりアドバイスを・・・」
「貴様・・・その態度。」
「ええ、キッチリ聞かせて頂いておりました。
御労しいですねえ。何と何と・・・王子様の正体は実験ネズミでした。
美しい姫君のキスで呪いが解けたら拍手喝采ですが、
残念姫君もネズミだったのです。これでは呪いが解ける可能性は望み薄ですな。」
舞台役者の様な大仰な語りで朗々と声を響かせる。
「・・・・・・死にたいらしいな。」
「憎しみであれお元気になられて嬉しく思います。
さて冗談はこの辺りに、いいではありませんかネズミで。」
「何だと?」
「貴方には果たすべき義理も地位も名誉も無い。
それはつまり、貴方様はこれより好きに生きれるということ。」
「フン、馬鹿を言うな、私はモルモットでも邪神の直系。
それは変えようもない事実だ。」
「そうですね。それは変えようもない事実だ。
ですが、それは貴方の生き方を決める全てではない。」
「・・・・・・」
「私を御覧なさい。教団圏で人として生を受け。
今は人を超えた体と邪教の半神半人と並ぶ地位を得て、
こうして邪神の直系と語らう生を謳歌しています。
生まれが与えた影響など、この人生に於いて半分に満たぬでしょう。
まあ、すぐにどうこうしろとは言いませんが、
我らは本質的に自由なのですよ。貴方様もそうあられませ。」
それだけ言い残すと、道化じみた悪趣味な芸術家は神殿の奥へと消えて行った。
それを見送ったデュケルハイトはツァイトの事を思い出す。
「無いという事は・・・自由と同義・・・か。
自由とは・・・楽ではないな。闘神よ・・・」
※※※
神殿内にシャリンシャリンと軽い金属音と足音が響く。
日本人が聞けば、錫杖を持った僧が歩いてるのかと勘違いするだろう。
その音を立てているのは、裸の地肌に金色の鎖帷子を直につけた。
三日月型の角を生やした金髪の男だ。
男の名はゴルド、彼が先ほどまでいたシルバの所領と神殿とは、
本来ワイバーンが空を飛んですら、数刻をようする位置関係にある。
だが、この時空に干渉する男にとっては、距離も時間もさして意味の無い要素だ。
力量と性格、それ以外にもこの男が世界各地に散らばる将の監督役をしているのは、
この能力に寄るところが大きい。
彼はこの国の長の取り決めに従い、
侵入者たちの追跡令の解除を伝えに現地へと飛び、
そして今また帰投し、現地での出来事を報告し終わったところである。
「報告御苦労さまでした。ゴルド将軍。」
「妖将か・・・何用だ?」
一瞬とはいえ、大いなる闇が戦場とした神殿内。
その破壊の爪あとが残る場所で彼を待ち構えていたのは、
豪奢でエキゾチックなゴルドとは対照的に、
チープでアヴァンギャルドな装いに身を包むヒッポリトであった。
二人の間にはこれと言って親交は無い。
むしろ、ヒッポリトは皆に嫌われているのでそんな相手は皆無と言えたが。
彼を嫌っていないのは、この国の長くらいのものである。
「いえいえ、将のまとめ役でありながら伝令役をご自身でこなされる。
ゴルド将軍への労いの言葉、それだけでございますよ。」
「見え透いた言葉をしゃあしゃあと・・・もう一度聞く、何用だ。」
ゴルドは腕を組み、目を閉じて言葉を待つ。
「職務に忠実、謹厳実直なゴルド将軍としましては・・・
大変珍しい事を為されたと思いまして。」
「・・・・・・何の事だ。」
「報告内容に一部欠落があったことについて・・・ですよ。」
「決定を私が伝えた時点では、まだ侵入者は生存していたため、
それらを見逃して引き上げてきました。
何処かに欠落があったかな? 妖将。」
「ええ、大有りです。その報告では・・・触れられていませんよねえ。
貴方の弟君の敗北について。決定と結末については別として。
侵入者に敗北した。というのは各地を任された将として・・・
死罪であってもおかしくはない失態だと思われますが。」
その言を聞き、ゴルドはしばし黙り込んだ。
「出歯亀が・・・狙いは我の失脚か? それとも愚弟を罰する事か?」
「どちらかというと後者が近いですかね。
将のまとめ役など貴方様以外には勤まらない。その考えには異論有りませんから。」
「・・・愚弟を死罪として何を欲する。あれの所領か?
それとも、誰か代わりに将として推挙したいものでもいるのか。」
「いえいえ、どちらも違います。私が欲しいのはシルバ様の御体です。
あの神にさえ届く無双の肉体、前々からコレクションに加えたいと焦がれておりました。」
「只殺すには惜しい、だが貴様の傀儡として再利用すれば、
勿体なくは無い。そうのたまうか。」
「ええ、ええ、そうですとも。
あの御方に惜しむところあるとすれば、あの性格とおつむの出来です。
ですが・・・死体を保管し、然るべき時に我が秘術にて使役すれば、
生前以上の無敵の剛力無双が誕生する事、固く約束いたします。
容赦も慈悲も皆無、指示は私が出し、死人ゆえに呼吸も必要ありません。
今回の様な不手際は万が一にでも起きることは無いでしょう。」
「食屍鬼神(モルディギアン)とか言ったか。
貴様の趣味の悪い死体遊びは・・・」
「そうです。結果としてこの国の戦力も増強される。
我が神もお喜び下さるでしょう。ゴルド様も体の良い厄介払いが出来る。
一石二鳥というものではあり・・・」
言葉に被せる形で、乾いた木の枝を折った様な音が響く。
音源に目を向けたヒッポリトが見たものは、
自身の意志とは無関係に持ち上げられ、
雑巾の様に捩じり折られた己の右腕だった。
「良く回る舌だ。感心するぞ。それだけ謳っておいて、
出るのはのべつ幕なし耳障る戯言だけとは。」
閉じていた瞳を開いたゴルド、
その瞳の奥にはっきりとした怒りの色を感じ、
ヒッポリトが押し黙る。
(・・・普段の扱いから見下げ果てていると思い込んでいたが。
こいつ・・・報告から敗北の件を省いたのは・・・)
※※※
邪神が眷属の母体となるものを選ぶ時、
その指針は余人には知れぬものであるとしか言いようがなかった。
邪教徒の中から選ばれることもあれば、
教団の中から選ばれることもあった。
そうして産まれた子の扱いは大きく分けて二つ。
神の子として崇拝の対象となるか、
忌み子として蔑まれて生きるかに分けられる。
とある教団圏の聖都にて、
雪の降る夜に産まれた二つの命は、
当然ながら後者の扱いを受ける事となった。
とある一室にて母の腹から産み落とされた子は、
二人とも角が生えていた。
それを見て彼らに向けられた感情は、
落胆、嫌悪、憎悪、恐怖などと言った代物で、
一つとしてそれらを祝福したり歓迎するものは無かった。
その娘はとある教団幹部の娘で、
政略結婚で良家に嫁ぎ、
腹が膨れてきた事で、どちらの親も安堵したものだった。
だが、それと時を同じくして娘の情緒は不安定になっていった。
起きていても心此処にあらずといった虚ろな表情が増え、
仕える者達の話では、寝る時には酷くうなされ暴れるという。
生まれ落ちた異形の前で、これはどうしたことだと阿鼻叫喚の親族を前に、
娘の夫は涙ながらに告白した。これは自分の子供ではない。
この娘と同じ床に入ると、筆舌に尽くしがたい悪夢を見るのだという。
内容は覚えていないが、ただただ恐怖で頭がおかしくなりそうという結果だけが残るという。
だから自分は、この娘と婚姻後、一度としてまともに寝ていないのだと。
だがそんな事を言っても誰も信じては貰えないだろう。
無理やりにでもまた一緒に寝ることを強要されるはずだ。
それだけは嫌だ。ああ恐ろしい、
恐ろしくて恐ろしくて眼球が飛び出しそうだ。
そう目を見開いてまくし立てる男の常軌を逸した面貌を見て、
教団幹部も、これは尋常ならざる力の働いた結果だと気付いた。
教団の教えでは、産まれた命を人為的におろすことは許されていない。
だから幹部の男は私兵を呼び、皆に口止めをした。
今宵此処で行われたことは、絶対に口外してはならないと・・・
異種姦は大罪である。人は人とのみ交わる事が良しとされ、
愛があっても他種族との子は迫害の対象となる。
基本的に清く正しく、他者を愛する事が基本の教団に於いても、
魔物同様に他種族との混血はその例外として忌避の対象となる。
それは産まれた児だけにとどまらず。
産んだ母と父、そしてそれらの血族にまで向けられる。
ましてその聖都で幹部をしている家柄と、
その娘を娶るに相応しい良家にとって、
一族から得体の知れぬ混血が産まれたなどというスキャンダルは、
彼らの権勢を一夜にして白紙にするに十分すぎた。
故に彼らは、生まれ落ちたその二つの命を、
深々と降る雪の夜、亡き者にしようとした。
その白い雪でこれから起きる惨劇の記憶も消え去るだろう。
そう言わんばかりに無慈悲な剣を振るった。
だが彼らは誤った。
相手を赤子と侮りお抱えの勇者をその場に呼ばなかった。
もっともその勇者は正義感の強い男で、
彼にこの事が知れればどの道彼らはお終いだったろう。
それでも、もしそちらの選択を取っていれば、
その日失われた命は二つだけで済んだはずだった。
(どうした? 貴様は我の母親だろう。
母ならば子を抱き上げ、乳を与えるものではないのか?)
言葉として明確に声をあげる事は出来なかったが、
親である神の恩寵によるものか、その赤子は生まれながらにして、
成人に近い五感と知識と知恵を有していた。
そんな彼であるから、周囲の大人たちが自分を歓迎していない事、
恐怖し憎悪している事にすぐに気付く。
(誰も彼も・・・何という顔をしているのか・・・。
此処には我を、敬う者も愛する者もいないというわけか。
腹を痛めて産んだ母親すらが・・・・・・)
その時既に、彼の母は気が半分違っていたが、
産まれた赤子から感じる気配は、
自分を狂わせた元凶に通じるものがあったため、
彼女が我が子を見下ろす視線には恐怖しかなかった。
産まれた瞬間、周囲の全てから拒絶された男の短い腕を誰かが握った。
その手は自分と同じ様に、小さくかぼそいものであったが、
彼はその手が握った場所から、激痛を感じ思わず呻きを上げた。
(無礼な!)
痛みを与えた相手の方を見ると、
隣には自分と同じくらいの赤子が寝かされている。
赤子の手だというのに、
その手はまるで男の手を折らんばかりに強く握ってきた。
「にいちゃ! にいちゃ!」
笑顔だった。この刺すような視線の只中で、
ただ一つ、自分を傷つけんばかりに握ってくる手の持ち主。
その持ち主だけが、彼の事を好きで仕方ないという笑顔を向けてくれていた。
持って生まれた神性による感応か、血による共鳴か、
男はその赤子が自分の弟だという事を理解した。
(そうか・・・お前だけが・・・我の家族か。)
さっさと殺すのだ。私兵に教団幹部の声がとび、
人形の様に無表情な男が剣を振り上げた。
その剣の振り下ろす先は、彼のたった一人の家族だった。
(動け・・・動け・・・何故動かん。)
如何に彼らの肉体が人間離れしていようと、
まだ武装した正規兵と渡り合える程に動けるものではなかった。
ゆっくりと立ち上がり睨み付けるが精一杯だ。
だがそれは相手の恐怖と嫌悪を煽りこそすれ、
事態の打開にはむしろ逆の効果しか及ぼさなかった。
やはり悪魔の子だ。おぞましい呪われた命だ。
誰が言ったかそんな言葉が彼らに浴びせられる。
潰そうとしていた虫が毒を持っていたのを知ったような、
そんなおぞ気を覗かせながら、
私兵の男は振り上げたその剣を振り下ろした。
(貴様ら、只の卑しい人間の分際で・・・神の眷属たる我らに!!)
ガツッ 鉄の剣が突き立ったのは、柔らかい赤子の肉ではなく。
寝台の一部であった。男は狙いを大きく外していた。
男の目が見開かれる。何故外したのか理解出来ないという顔であった。
「何をしている?!」
「・・・・・・次は外しません。」
その現象を彼は即座に理解した。簡単だった。
自分の意志という非物質で、自分の体という物質を動かすのと本質は同じだ。
自分の意志という非物質で、眼前の物体という物質を動かす。
彼にはそれが生まれながらに出来た。
私兵が寝台から抜いた剣先は大きく後ろにそれ。
教団幹部の胸に深々と突き立った。
その場にいた女のものらしき黄色い悲鳴が上がる。
(踊れ踊れ!)
抜けた剣は鞘というねぐらを求める狂犬の様に。
狭い室内に閃いて、次々と肉体から肉体へと跳んで跳ねて回った。
10cm、だらりと脱力した成人男性の掌ほどの幅も刺されば人は死に至る。
倒れ伏す大人たちの間を、青々とした顔で私兵が飛び回る。
周囲の者達からすれば、突如気が触れたとしか思えなかっただろう。
彼は剣を持った右手首を左手で抑えながらも、
人形の様な不自然な動きで、剣に引きずられる様に惨劇を演ずる。
逃げまどう人々はその凶刃に背を向けて、扉や窓に殺到する。
だが、扉も窓も見えない薄壁に覆われたようで、
取っ手を掴むことも打ち破る事も出来なかった。
そんな者達の背中にすぐさま血の花が咲く。
逃げ惑う者達の一人が燭台を倒した。
油が火と共に絨毯に広がって部屋を赤々と彩った。
館は全焼だった。生存者もいなかったという。
ただその雪の夜に、聖都では全身を黒のローブで覆った一団が、
何処からともなく現れ、そして館の傍に集まり、
夜が明ける前に消えて行ったという。
そんな怪しげな目撃証言も幾つかあがったが、
彼らの正体も惨劇の真相も何もかも、
白い雪と赤い炎、そして黒い夜の闇が永劫たる時の彼方へと押し流していく。
※※※
超将ゴルド、彼にとって世界はとてもシンプルだ。
自分と親である父と、血を分けた弟の為にのみ世界はあると言っていい。
厳密に言えば、暗闇の子供達や眷属は皆彼の異母兄弟だが、
彼らの事を家族と思ったことは一度として無い。
彼が普段弟に必要以上に当るのも、立場を利用して依怙贔屓する。
などと諸将から思われては、弟の為にならないからに過ぎない。
彼は時空の狭間から弟とエスクードの戦いも見ていた。
侵入者は追跡令の解除前に、弟によってすでに殺されていました。
そうやって弟の手柄とするため、
彼は当初エスクードとチェルヴィを見殺しにするつもりだった。
だが、結果はシルバの敗北と彼の予想を裏切る結果となる。
エスクードがシルバに止めを刺そうとしたその時、
チェルヴィが止めていなければ、エスクードはゴルドによって殺されていただろう。
だが、その後のチェルヴィとの会話を盗み聞いていたゴルドは、
彼女のシルバへの感情を知り、その命を取る事を止める事とした。
立場は敵同士なれど、弟の事を彼以外に其処まで思ってくれたのは、
彼女が初めての相手だったからだ。
そして今、そんな彼女とは真逆に地雷を踏み抜いた男が一人いた。
捻じれ雑巾の様な腕を眼前に持ちあげたヒッポリトは、
その痛々しさを感じさせぬ静かな声色で言った。
「乱心召されたか? ゴルド将軍。」
「笑止、常に己に酔うが如き貴様に言われる筋合いはない。」
今は人払いしてあるとは言え、此処は彼らの本拠だ。
闘って人知れずというわけにはいかない。
だがゴルド、彼には将達の独断での処分権が与えられている。
元々胡散臭い事この上なく、何時裏切っても不思議ではないこの男。
口を封じてから、適当な理由を付ければ最悪彼が死罪になる事はあるまい。
ゴルドはそれだけ考えると、その魔力を解放した。
「問答無用というわけですか・・・ではこちらも。
我が秘術(ギアス)でお相手しましょう。
貴方にお釈迦にされたこの腕を生贄とし、
現れいでよ、極光白夜(アフーム=ザー)。」
ヒッポリト、彼の右肩から先が燃え墜ちると同時に、
彼の背後に突如数mもある炎が燃え上がる。
だが、奇妙なのはその炎の芯は灰色で周囲は青白い燐光を放つ点である。
そしてメラメラと燃え上がるそれは、辺りを一瞬で灰色の世界へと染め上げていく。
滑る様に広がっていくそれは凍りだ。
ヒッポリトとその奇妙な白炎を除いた全てが染まり止まる。
それは石畳も燭台で燃え盛る炎さえも例外ではない。
更に違和感を覚えるのは、一瞬で炎すら凍結していくという凄まじい現象が、
全て無音で進行していくという事実。
普通物体は急速に凍らされれば、熱膨張の関係で大なり小なり音を立てる。
だがその現象にはそれがまったく見られない。
静かな神殿内でさえ、音が立つことはないのである。
浸食されていく無音の世界。
それを前にゴルドは一歩も引かず。
仁王立ちのままでその瞳を光らせ、角から閃光を放った。
するとある線を境に浸食が止まった。
まるでガラスで仕切られたように、
白と灰色の世界はまるで水槽に閉じ込められたようだ。
(大陸を凍土とするに一昼夜いらぬこの力。
空気さえ凍らせる絶対静止をこの狭き場所で押し留めるか。
相変わらずでたらめな出力ですね。)
アフーム=ザーの現象が無音なのは、
音と言う振動を伝える前に、
その媒介である空気さえ振動ごと凍結させてしまう事による。
その本来の射程は小さな大陸に匹敵する代物だ。
そんな戦略級の事象を建物内で使用しているというのに、
ゴルドの力は微塵も揺らがない。
彼の力はその思想同様にシンプルだ。
テレキネシスやサイコキネシスと呼ばれるそれで、
手を触れずに対象を動かせる力。
だが問題なのは、その力の及ぶ範囲の法外さである。
海底から沈んだ島を楽々天に持ち上げる程の射程と出力を誇り、
相手の血管一本を狙って潰せる精密性、
将同士の眼にも止まらぬ接近戦にも対応できる即応性、
寝てる最中や意識外の攻撃にもオートでガードを設定できる柔軟性。
干渉できるものは固体液体、気体だけに留まらず。
質量のないものや、ある程度なら概念存在にまで干渉可能であった。
時空間の歪みや穴を利用した移動が可能なのも、
この能力の応用に過ぎないのである。
力を超えた力、故に超将。
その圧倒的に応用の効く力は彼を最強の将たらしめている。
その鉄壁っぷりは、本来同格である将相手ですら彼に傷をつけるを困難とした。
そんな彼には傷無し=(ハートレスゴールド)という異名が与えられている。
とはいえ、ヒッポリトが右腕を犠牲に呼び出した神も安くは無い。
二つの力は拮抗し両者の中央で世界を分かつ。
だが両者の状況は二人に平等ではない。
(まあいい、このまま拮抗し続けても、
いずれ誰かに見つかればその時点で私の勝ちだ。
映像は押さえてある。さて、どんな言い訳を躍らせてくれるでしょうねえ。
ゴルド将軍、貴方の行動はますます貴方の弟君の立場を悪くした。
これで決定的です。シルバ殿は私の貴重なコレクションとなることでしょう。)
そんな思索を巡らせるヒッポリトの耳奥で声が響く。
「このまま逃げ切りで私の勝利、
などとそんなうすら寒いほくそ笑みを、仮面の下でしているのだろう?
侮るな。我は貴様を始めとした、魍魎ぞろいの将をまとめ上げる男ぞ。」
ゴルドの言葉に応えようとしてヒッポリトは気づく。
(声・・・念話なら兎も角、声などが届くはずが?!)
低温とは分子振動の停止に他ならない。
空気さえも凍り音の振動さえも震えを止める。
そんな静止世界で、ただゴルドの声だけが不気味に響く。
「驚くことはあるまい。俺の力は空気さえも動かす。それだけの事だ。」
(器用な事を・・・声という空気の振動を、
サイコキネシスで再現などと・・・いや、待てよ。それはつまり?!)
ヒッポリトはその意味に気づく。
サイコキネシスでの音の再現、そんな曲芸じみた現象に気を取られ、
事の本質に気づくのが遅れた。
彼の力が境界を越えてこちら側に作用しているという事実に。
左手に異常を感じそちらを見たヒッポリト、
その視線の先で、左手が指先から裏返っていく。
骨から肉や血管が綺麗に削げ落ちて丸まり、
肩付近で圧縮されてサイコロステーキの様に押し固められる左腕。
骨も関節ごとに高速で逆に回転してねじ切られてバラされていく。
(ぐぅ?! 流石・・・生贄が腕一本では不足でしたかねえ。
しかし弱りました。これを黙らせるとなると・・・
もはやアレを出すしか。)
「とどめだ。足も潰してダルマにした後、
時空の狭間に捨ててきてやろう。
貴様は下手に殺すと、魂を別の肉体に移すらしいからな。」
どちらが勝つにせよ次の一手で勝敗が決する。
それだけは確かであった二人の勝負、
それは突如現れた二人の乱入者の手で水入りとなる。
「フン!」
丸太の様に野太い腕が振るわれ、本当にガラスの様に灰色世界を打ち砕いた。
呼び出された神性も、その一撃で吹き消すようにヒッポリトの後ろから消える。
「はい、そこまで・・・」
戦闘態勢に入っていたゴルドの後ろとその首、
それを易々と眼にも止まらぬ瞬足で、彼女は取っていた。
「おお・・・助かりました。御二方。」
二人の将の間に割って入ったのは、闇の嫡男であるダラムスとハイドラであった。
「ココ、父上ノ神殿・・・不敬・・・ホワーイ?」
「クスクス、あたし熱いと寝苦しいからやだけどさあ。
ちょっと冷やしすぎなんじゃない?
面白いからもうちょっと見てたかったけどね。
これ以上はダラムス兄ぃが駄目だってさあ。」
ダラムスは仁王像の様な形相で目を光らせ、
ハイドラは猫を思わせる悪戯っけのある笑みで両者を見比べている。
(此処までか・・・流石にこの方々まで黙らせるのは・・・)
ゴルドは冷静を装っていたが、唇を噛み切りたい心持であった。
そうしている間にも、ヒッポリトは自分に有利な証言を重ねていく。
とはいえ、それらはすべて事実で迂闊に口をはさむのは状況を悪くするだけだった。
「フムフム、へェ〜〜〜、ゴルドってクソまじめで面白味のない奴だと思ってたけど。
そっかそっかあ、シルバちゃんのためにこいつを消そうとしたんだ。」
ハイドラは面白げにその顔を覗き込む、勿論首には鋭い手のヒレを当てながらだが。
「ヒッポリト・・・父上二、報告ハ?」
「いえ、ゴルド将軍の意図を聞かず。
頭越しに告げ口などしては角が立ちましょう。
故に、本人に了解を取ってからと思っておりましたが・・・この有様でして。」
腕の無い両肩を器用にすくめて見せるヒッポリト。
「っそ・・・つまり、この事を知ってるのはこの4人だけってことね。
いいわ、この件あたしが預かっちゃう。
たかだか一人の将の敗残の処遇如きで、御父様の御耳を汚す必要もないわ。」
ゴルドの肩に乗っていたハイドラが一瞬で二人の間に降り立つ。
「して・・・どのような御沙汰を?」
「負けたことで−1、結果論とは言え侵入者を殺さなかったことは+1、
±0で今回は失態を免じるとしよっか。」
ニヤニヤと上目づかいでハイドラはヒッポリトを見上げる。
「そんな馬鹿な?! そのような沙汰は今まで一度も。」
「ん? なあに、バカって言ったの。
たかだが一将の、それも食客の分際でこのあたしに。
不服があると・・・いいわよ。実力で黙らせてみなさいな。」
「直系たるハイドラ様に・・・卑称なこの私めがかなう筈など。」
「嘘ば〜〜っかり、どうせあたし一人くらいなら何とかなると思ってるでしょ?
あたしもずっとあんたの切り札には興味あったのよねえ。
ほら、最強の手駒、出すまで待っててあげるわよ。
腐敗した君臨せし竜の王、前魔王の遺骸。
御父様曰く、生前の全盛には及ばないらしいけど、それでも興味深いわ。」
ハイドラのあからさまな挑発、それを受けてヒッポリトも頭を振る。
(やれやれ、血の気の多いお嬢様だ。
アレを抜いたら、流石に戦争・・・後には引けませんからねえ。
まだその時ではない、惜しいが此処は引くか。)
「御冗談を、あのようなもの・・・味方に使う代物ではございません。
矮小なる私如きが、差し出がましい真似をいたしました。
それでは、私めはこれにて。」
そそくさと逃げる様に、ヒッポリトは廊下を後にした。
そうしてそこにはゴルドとダラムス、そしてハイドラが残るのみとなった。
ゴルドは膝を突き、ハイドラに深く首を垂れた。
「寛大な御処置、兄として心から御礼申し上げます。」
「うふふ、お兄ちゃんしてるじゃないゴルド、
まあ正直言うとね、本当の採点なら敗北は−3点くらいついちゃうけどね。」
「・・・では、何故愚弟は免罪されたのです?」
「あははは、あたしあの野郎が大嫌いだからそれで+1、
んで最後の1点はね。シルバちゃんがダラムス兄ぃのお気にだからよ。」
「シルバ・・・マイフレンド、イイ奴。何度負ケテモ、
鍛エ直シテ俺二本気デチャレンジ。俺ガ全力ダセル奴、アイツダケ。」
「っま、あたしもシルバちゃんの事は嫌いじゃないわ。
そんじゃあねゴルド、シルバちゃんへのお仕置きはあんたが適当にやんなさい。」
ハイドラは頭の後ろで手を重ねると、ピョンとダラムスの肩に乗った。
そうしてダラムスは首を垂れるゴルドの肩に手を置くと、
その横をハイドラを載せたまま歩いて去って行った。
「このゴルド・・・改めまして、深く堅く御二方に絶対の忠誠を・・・」
その後、ゴルドが頭を上げるまで長い永い時間、
彼は其処でそのままの姿勢を維持し続けた。
この日、彼の中の世界の構造が少しばかり変化した。
※※※
野望という名の夢が確かにあった
無理だって? 人事のように言う
どうしてこうなった
何を憎めばいい
過去と自分自身か?
出来れば他の誰かであれ
そう祈らずにはいられない
神殿内、デュケルハイトは彼らが寝所として使う部屋で天井を見つめていた。
思考はグルグルと降りるべき場所と、向かうべき道を求め彷徨う。
だが、それらは徒労に終わろうとしていた。
彼は群れとはぐれ、方角を見失った海上の渡り鳥の様であった。
そんな彼の足元に止まり木を差し出すように、
彼の手が誰かの掌で握られた。
デュケルハイトは瞳だけを動かし、
何時の間にかベッドの脇に座り込んでいた女性を見る。
「・・・シェリダン。」
「・・・もう少し、このまま握っていても宜しいでしょうかお兄様。」
デュケルハイトは答えなかった。だが特別振り払いもしなかった。
だから、二人の手は握り合ったままであった。
二人の間に言葉はない、だからと言って気まずいという事も無い。
それは、長きに渡る時を積み上げてきた者同士、
家族だからこその空気とも言えた。
(こんなものに・・・安らぎを感じる。)
デュケルハイトにとって、それは認めがたい感情だ。
デルエラやイールが言った事を半ば肯定する事だからだ。
だが、空っぽの今だからこそはっきりと感じ取れる手の温もり、
それの呼び起こす感情は確かに其処にあって、
到底否定出来るものではなかった。
(それに、今更一体何のために否定するというのか?)
彼には、もはや張るべき意地も誇りも無くなってしまった。
「シェリダン、お前は私の事が好きか?」
「・・・御疲れなのですねお兄様。
その様な事実を態々口に出して言って欲しいだなんて。」
だが言ってる事とは逆に、シェリダンは少しウキウキした口調だ。
「・・・嬉しそうだな。」
「失礼いたしましたお兄様、ですが、私は何時でも貴方の為に生きております。
だから、どんな事であれ求められるのは嬉しいものです。
まして、好意を持つ相手から甘えられる事を嫌がる女がいるでしょうか?」
彼らは普段、こういう話をしない。
デュケルハイトが意図的にしないようにしており、
シェリダンもそんな兄の気持ちを慮って振らないのだった。
邪神の子として相応しい振る舞いを、彼なりにそう考えた時、
家族相手であっても、そういう会話をするのが相応しいとは思えなかったからだ。
「甘えか・・・私などの何処が好きなのだ?」
「・・・全部です。いえ、というより、貴方だからとしか言いようがありません。
何処が、などと言う問い自体が的を外していると思いますわ。」
「一本取られたのか、それさえ判らん。」
「例えば、今お兄様は無知を晒されたわけです。
他の者であれば嘲笑や見下しの感情が入るところですが、
相手がお兄様の場合、私はかわいいとか微笑ましいと感じてしまいます。」
「好きという感情が先にあると?」
「たぶんそうですわ。でも、理屈では測りがたいものですので断言はしかねます。」
「馬鹿な、卵が先か鶏が先かという議論じゃあるまいし、
ではその好きは一体どこから来たというのだ。
いや・・・待てよ。そうか、父から聞いた話だがな。
我々の性格は、眷属の母体となった者や、過去の勇者たちのそれをコピーしたものらしい。
つまり、お前のその感情や好みもその誰かの借り物というわけだ。」
何処か自嘲気味かつ投げやりにデュケルハイトはシェリダンに言った。
デュケルハイトは自分の味わっている懊悩の欠片でも、
妹に味あわせて困らせてみよう。そんな意地の悪さを抱き言った。
だが、それを聞いたシェリダンはそんな彼を裏切るように首をかしげる。
「成程、そうだったのですか。まあ大した事でもありませんわね。」
「・・・お前にとって俺は其処まで軽い存在か?」
「え?! 何故そんな事をおっしゃるのでしょう。」
「お前の中で俺への好意が大きなウェイトを占めるというなら、
その感情が借り物という事に何故そうも平然としていられる?」
「ああ、そんな事ですか。確かに、お兄様に惹かれたきっかけは、
人格元となった誰かの好みがあったかもしれません。
ですが、今日まで幾千年と共に生き、育んできたこの感情、
これは私のものです。他の誰でもない私の魂です。
それがある限り、他が全て夢幻でも構いませんわ。
お慕いしておりますお兄様、もし貴方様が許して下さるのなら、
千の海を越え、千の時代(とき)を越えてもなお御傍にいとうございます。
遠く遠く、何処までも御傍に・・・」
「強いのだな。お前は・・・」
デュケルハイトは上体を起こし、握っていた手を離して、
その手をシェリダンの頬に這わせた。
少しビクリとしつつも、シェリダンもその手を黙って受け入れる。
見つめ合う両者、デュケルハイトはそのまま何も告げず。
少し首を傾げて顔を前に出す。重なる影と影、
シェリダンは突然の奇襲に、目を見開いたままガチゴチに固まっていた。
あまり濃厚なものではなく、軽く触れ合うだけの行為。
「・・・・・・フム、喜べシェリダン。
少なくとも、私もお前の事が嫌いではないらしい。」
彼は自分の唇に指を這わせながら、
自分の胸の内が不快感を覚えてはいないことを自覚する。
そんな彼の頭上には大穴が空き、
神殿上の曇天が更にくり抜かれてベッドに日が差し込むことになった。
暴走するリビドーと溢れでる何かを御しきれなくなったシェリダンが、
ありったけの魔力を砲として目と口から吐き出した跡だった。
だがそのリアクションも含め、
デュケルハイトにはどうでもよかったので彼はそれらを無視した。
そして彼は話した。自分の知った全てを・・・自分達が何であるかという事を。
それを知ったシェリダンは、敬愛する兄の心中を察して顔を曇らせた。
実際の所、その事実より先ほどの行為の方が、
彼女の頭の中ではよほどショッキングであったので、
ともすれば恍惚笑顔ハイテンションになりそうな自分の顔を曇らせる、
シェリダンは骨を折りつつもその器用な芸当をやり遂げた。
「心中、お察しいたしますわお兄様。」
「・・・思ったより、ショックを受けていないようだな。」
「ショックが無いと言えば嘘になりますが・・・
私にとってはお兄様こそが全てですから。」
「このモルモット以外の何者でもない私を、まだそう言ってくれるか。」
「先ほども言ったでしょう? 好きという気持ちが先にある以上、
それ以外のあらゆる事はそれを覆すに足りませんわ。
私がお兄様をお慕いする事は決定事項で、全ては其処から始まるのですから。」
「だが、全ては無意味だ。もはややるべき事も為すべき大義も無くなった。
この星というカゴの中で車を廻すネズミでしかない。
それが今の私だ、それ以上でもそれ以下でもない。」
「・・・・・・お兄様。」
「何だ?」
「それでは降伏いたしますか?」
「何処にだ。」
「天界でも魔界でも、どちらでも良いではありませんか。」
「・・・・・・」
「なら御父様に反逆して嬲り殺されましょうか? やるなら御供致しますわ。」
「・・・・・・」
「各所領を治める将達を皆殺しにして、
残った土地を周辺国に譲渡するのもいいかもしれませんわね。」
「・・・ふざけて・・・いるのか?」
「怖い声、お気を悪くされましたか?」
「ああ、承諾しがたい提案ばかりだ。」
「・・・あるではありませんか。」
「何だと?」
「やりたくない事、不快な提案、それがあるなら、逆にやりたい事もあるはずですわ。
お兄様は何者でもなくはありません。お兄様はお兄様です。
今まで生きて、考えて感じて、そうやって此処まで来た私のお兄様です。
今までの様に邪神の子としての立場がないなら、
その胸にお尋ねになればいいだけなのです。
何が貴方の幸せ? 何をして喜ぶ? それだけでいいのです。」
自分 己 そう言ったものへの関心が、彼はあまりに薄すぎた。
邪神の子としての自分、それだけあればいいと思っていたから、
彼は己というものを知らな過ぎた。
「大司祭様の様にやり方を変えますか?」
「・・・NOだ。今更どの面下げてデルエラどもに下れる。」
「では全てを捨てて二人で逃げますか? 世捨て人の様に暮らすのです。」
「・・・NOだ。その先は結局袋小路だ。結論の先延ばしでしかない。」
「少し残念です。なら皆を連れこの星から旅立つのは?
この星は大司祭様に任せ、私達は新たな新天地を探して・・・」
「成程、宙には数多の星がある。此処に拘る必要はないのかもしれん。
いずれ世界の果てまで我らの居場所が無くなりし時、
先達たちがゾスより此処に降り立ったように、
我らも此処から新たな地へ旅立つ日が来るのかもしれん。
・・・・・・だがやはりNOだ。それはまだ今ではない。」
やり方は消去法という形ではあったが、
少しずつ少しずつ、シェリダンはデュケルハイトに問いを投げ、
彼にそれを否定させることで、彼の魂の輪郭を浮き彫りにしていく。
実を言えば、彼女は既に知っていた。
デュケルハイトをずっと見て、彼を案じ続けてきた彼女は、
彼以上に彼の事を深く理解していた。
だが、正解をいきなり口で伝えても意味は無い。
デュケルハイト自身が、己と向き合いそれを実感する。
その過程を経て納得出来ねば、それは只の情報に過ぎない。
そして二人の問答は暫く続く事となる。
※※※
そんな二人を見下ろす二つの視線が合った。
シェリダンが天上に開けた穴、その二つ上の寝所で寝ていた二人だ。
ベットの真上には丁度ベッドが重なっており、
其処で寝ていたハイドラは、あわやというところで直撃を免れていた。
彼女のスピードあっての芸当だ。
「あんのブラコン・・・殺す気か。」
「クワイエット、シスター。」
「はいはい、わーってるわよダラムス兄ぃ。」
最初階下に怒鳴りこもうとしたハイドラであったが、
二人の様子がおかしかったのでダラムス共々、
耳を傾けるに留めた。そして二人もこの国の現状と自分達が何か大体悟った。
「やれやれ・・・とんだ逢瀬の現場を見ちまったわ。
デュケルハイトの奴は生真面目だし、ああなるのも無理ないか。」
「ドウスル? マイシスター。」
「ん? うーん、あたしは別にあいつほど躍起になって結果を求めてないから。
楽しめればそれで良いってスタンスだしねえ。
御父様の事は生みの親として敬ってるけどそれだけだし、
ダラムス兄ぃこそどうなのよ?」
「俺・・・デュケルハイト、オ前ホド嫌イジャナイ。
リトルブラザートシテ、支エテアゲタイ。」
それを聞き、ハイドラは目を閉じて微笑する。
「やっぱりね、まあそれでこそダラムス兄ぃだよねえ。
仕方ない、デュケル馬鹿のシェリダンとダラムス兄ぃだけじゃ何かと大変だろうし。
あたしも残ってやるわよ。ある意味面白くなってきたしね。」
そんなハイドラの様子を黙って見ていたダラムスだったが、
突如何かに気づいたとばかりに左手のひらに握った右手を直角に降ろした。
「何よ?」
「ナイス ツンデレ。」
「・・・アアン?!」
「・・・デレツン?」
渋い顔で睨みを利かせるハイドラだが、
ダラムスが素で言ってると判りため息を吐き出した。
「チッ、いいわよもう、ベッド消し飛んじゃったし、
水の上で寝よっかなあ・・・あ・・・そうだダラムス兄ぃ。」
「ホワッツ?」
「ダラムス兄ぃのベッドでっかいしさ、あたし一人くらいなら問題ないよね。
シェリダンの馬鹿の所為で悪いけど、一緒に寝ても良い?」
「オーケーシスター、御安イ御用ダ。」
「シシシ、何千年ぶりだっけ? 二人で寝るの、懐かしいなあ。」
「最初、オ前、トッテモジャジャホース。」
「ぬぅ・・・あ・・・あの時は照れてただけだし。」
「照レデ・・・首ヲハネラレルノハ・・・ドウカト。」
「み・・・未遂だからノーカンだし。頸動脈だけだったし。
妹の過去を蒸し返す何て兄失格だし。」
「攻メテハイナイ、俺モ懐カシイ。傷モ記憶モ全テ・・・大切。」
ダラムスはそう言って敢えて残している首の横の傷を見せる。
それをすまなそうに、愛しむようにハイドラは撫でる。
「ん・・・そうだね。今日は色々あったしあたしも疲れたわ。
それじゃ寝よっか。デュケルハイトはシェリダンに任せとけば大丈夫でしょ。」
「オーケーシスター。」
体格差が異常な二人は共に一つのベッドで眠った。
端から見れば熊とその懐で丸くなる猫の様であった。
15/09/07 00:52更新 / 430
戻る
次へ