幕間の5 もーいーかい? もーいーよ(弐)
昔のとある一幕
平和に安寧と座さず、武士の本分を忘れぬため。
そんな建前の元、南海の主だった流派の道場や各藩の抱える武官、
そういった面々が集って御膳試合に興じた事がある。
当然ながら武太夫も城の武官代表としてその場にいた。
そして控える者達を見回しながら軽く嘆息した。
それを見た五郎左衛門と一派の家老の一人が話しかけてくる。
「いかがした? 武太夫。」
「緊張しておるのですかな?」
「いえ、少なからず落胆を。全部が全部とは申しませぬが・・・」
「武芸者とは名ばかりの者達がおると?」
「はい、まるで案山子ですな。」
武太夫は聞こえるのも構わず、そんな事を口にした。
案の定聞きとがめた者がおり、武太夫は試合の前に会場から少し離れた場所に呼び出された。
弟子達が付いて行こうかと提案したが、手をフリフリいらぬと取り下げさせた。
どこぞの道場主とその弟子達であろうか、
武太夫を取り囲むと師範であろう男が凄んできた。
「先程の発言、無礼千万であろう。
あの場にいた全ての武芸者に謝罪をせよ。」
「・・・人の話は良く聞く事だ。全ての武芸者とは言っておらぬぞ。
もっとも、アレを聞いてその通りと納得し嘆く者、
御主らのように食って掛かる者、どちらが案山子かは言うまでもないが。」
「貴様、状況が飲み込めておらぬのか?
謝るなら今のうちだ。そう言っておるのだぞ。」
そういうと相手側は武太夫を完全に取り囲み、腰の物に各々手を掛けた。
それに対しても武太夫は何処吹く風、といった感じで構えすらしない。
「おかしなことを言う。案山子に囲まれて臆する者がおるか?」
そんな武太夫の一言が契機になり、男達は刀を抜き放った。
しかし男達を武太夫は刀も抜かず。あっさりとものの数分で鎮圧してしまった。
「御主ら、踊りの稽古事なら道場ではなく、舞妓にでも習うがよいぞ。」
そう言って試合会場へと立ち去る武太夫。
それを物陰より見ていた五郎左衛門と家老。
「流石でございますな。あの者が味方とは本当に頼もしい。」
「ふ、頼もしい・・・か。貴様にはあの者がどう映る?」
「武太夫がですか? そうですな、南海随一の武と肉体を持ち、
五郎左衛門様にも臆さぬ胆力、清廉潔白の心、
弟子達にも慕われ、正に武人の鑑とも言うべきかと。」
「まあ、それが普通に武太夫を評した結果であろうな。
では、私があやつの何処を気に入っておるか判るか?」
「五郎左衛門様がですか? そうですな、やはり巨木のように揺ぎ無い胆力では?」
家老のそんな発言を聞き、五郎左衛門は愉快そうに笑った。
「巨木のように揺ぎ無い・・・か、かはははは、惜しいが少々違うな。
木に例えるなら、あれは也ばかり大きいが、中身は虫に食われスカスカに腐り落ちておる。
そんな存在よ。私があやつを気に入っておるのは正に其処なのだ。
外から見れば完璧に近い様に見えるあやつがその実、
内面はボロボロで何時朽ち果てても不思議ではない。
そんな薄氷の危うさが、普段の不動のような振る舞いとの対比で、
なんともあわれ且つ滑稽で笑いを誘うのだ。」
家老は五郎左衛門の言にしばし言葉を失う。
「・・・・・・ははは・・・五郎左衛門様が御冗談を言うとは、
何とも珍しゅうございますな。天気は快晴ですが夜は崩れますかな。」
そんな家老を無視し、五郎左衛門は武太夫をご満悦といった表情で見る。
(あれは一点物の至高の工芸品、人間とはかくも歪(いびつ)で正しくあれるのかという。
アレの父親は本当に良い仕事をしたものよ。歪みは魂の根にまでいたっておる。
もはや本人の心持一つでどうにかなる段階は過ぎておろう。
となれば、アレの最後はいかがなものであろうか、武士としての面子を保ち死ねるか。
歪みに耐え切れず途中でぽきりと折れるであろうか、願わくば後者であれ、
そしてそれを観察できる時と場所に居たいものよな・・・
その様はさぞかし・・・さぞかし・・・・)
五郎左衛門は一人妄想に耽り、邪な笑みを浮かべていた。
よもや武太夫より己の方が早く黄泉路を辿る事になろうとは、
微塵も考えもせずに、ただ静かに嘲笑っていた。
※※※
私は立ち上がると無言でクノイチに近づき、顔を突き合わせその瞳を覗き込んだ。
相手も微動だにせず見つめ返す。其処にはちっぽけな一人の男が映し出されている。
幼い頃に抱いた恐怖や寂寥はもはや感じない。むしろその色は・・・
成る程、空の色とはよく言ったものだ。
だというのに、幼い頃の私ときたら、こんなものに怯えていたのか。
私は可笑しくなり小さく苦笑した。
その私の笑いに対し、非常に判りづらいが相手がいぶかしげな表情をした。
「空の色みたいに綺麗な瞳だな。その目をそう評した事を覚えておるか?」
「私(わたくし)にとって、何より忘れられぬ言葉でございます。」
「だがな、この言葉は実は嘘だ。私はお前の瞳を恐れていた。
強がったのだ、子供ながらに、女子に恐れを抱くなど武士の恥とな。」
それを聞いた相手はしばし固まる。
それはもう見事に、時の流れすら止まってるのではないかというほどに。
そして瞳孔が開き両の瞳に水分が満ちるのが見える。
私にそれを見られている事に気づいたのか、
慌てて顔をそらすと瞳をごしごしと擦り始めた。
「失礼いたします。目に埃が・・・」
「苦し紛れにしては昔の私は的を射たことを言っていた。
確かに空を宝石にしたような瞳だ。美しい色をした綺麗な瞳だと思う。。
そう言えば、名は何と言ったかな? 何分昔の事ゆえ覚えておらぬ。」
その私の言葉にクノイチはぴたりと目を擦るのをやめた。
顔を上げはしなかったが、小さな声で私の質問に答えてくれた。
「碧(あおい)と・・・御呼び下さい。それが私の名でございます。」
「碧、そうか・・・あおちゃんなどと呼んでおったなそういえば。」
「・・・御懐かしゅうございます。」
碧は顔を上げると少し赤くなった目を細めてそう言った。
「随分と大きくなったものだ。昔は私の後ろに隠れておったというのに、
今では私より上背だけならあるのではないか?」
「ほんのわずかですがおそらくは・・・大きな女は御嫌いでしょうか?」
「いいや気にせぬよ。それに随分と・・・その、何だ・・・女性らしくなったものだな。」
私の視線が何処を彷徨っているのか恐らくは丸判りで、
碧はそれに気づき、うれしそうにクスリと笑っていた。
二人の間には、何処か懐かしく牧歌的な雰囲気が流れている。
だが、私はそんな雰囲気を壊すであろう一言を言わねばならなかった。
「偶然・・・ではないな。この出会いは。」
「ええ、御止め下さい。自殺しようなどという愚行は。
約束を違えるのですか? 家来にして下さると仰ってくれたではありませぬか。」
「正気か? 子供同士の戯言を・・・昨日まで私とて忘れていた事だ。」
「武士に二言は無いのでしょう? たとえ貴方様にとって子供の戯言でも、
私にとってはその言葉は・・・その言葉は・・・」
言葉とは時に不足で不自由だ。碧は溢れるものを表現しきれずに押し黙った。
そんな彼女の想いを武太夫も少なからず察し、すまなそうにその顔を歪めた。
「すまぬな。だがやはりその約束は無効だ。私は武士などではない。」
「そんなことは・・・」
「あるのだ。どの程度知っておる。御主と別れてからの私について。」
「何時でもとは参りませんが、何年も陰から見て知っております。」
「そうか・・・そう言えば八百乃とやりおうた時も、何者かに見られておったな。」
「流石でございます。基本的に妖怪は人を手には掛けませぬが、
あの怒り狂った狸では貴方様を牙に掛けぬ保障はございませんでしたので。」
「恥ずかしい所を見られたものだ。」
大声で泣いた事を思い出し武太夫は照れから顔を反らした。
「あの時は、何度貴方様の元へと駆け寄ろうとしたか知れません。」
「まあ、此処数年見ておったのであれば話は早い。
私のやったことは知っていよう。私は武士などではない、それ以外の醜悪な何かだ。
終わらせてくれ、もはや、私が私の有り様に耐え切れぬのだ。」
武太夫は見るも無残、毛の刈られた羊のように小さくなって見えた。
そんな武太夫に対し、碧はゆっくりと近づいて抱きしめた。
そのまま母が幼子を諭すようにやさしく囁く。
「貴方様は立派なお方です。誰が何と言おうと、私とっては貴方様は立派な侍です。」
彼女の懐の柔らかさと温もりは幼き頃に母をなくした武太夫にとって、
あまりに久しいものであった。
それを甘受し、振りほどく事が出来なくなりながらも、武太夫は思いのたけを幼馴染に吐露した。
「幼き頃、父の強さと揺ぎ無さに憧れ、それを持って皆を守り助ける。
そんな者に私はなりたかった。侍とは武士とはそういうものだと思い込んでおった。
愚かよな。子供であった。どうしようもないほどに・・・」
「愚かなどと仰らないで下さい。そんな貴方様に私は。」
「だが現実はどうだ?! みな武士とは名ばかりの五郎左衛門に取り入り保身を考えるものばかり
そして父すら家の繁栄のため逆臣と繋がり、そんな父に恐れから逆らえぬ私は、
幼き頃に抱いていた夢を、真の武士と呼べる者を、無二の友をこの手で・・・
下らぬ男だ私は、幼き頃に抱いていた想いも、夢も全て自分で駄目にしてしまった。」
「だから死ぬと? 此処で終わりにすると?
それは間違いです。死んで償われる過ちなど何一つありません。
我々は死んでも生まれ変わることは出来ません。
ですが生きて変っていくことは出来るはずです。
幼き頃に抱いていた夢が所詮子供の夢だというなら、その夢に貴方が成ればいい。
北辰の分まで、そうでしょう? 武太夫・・・」
何時しか彼女の口調は敬語ではなくなっていた。
武太夫は一瞬、自分と碧が幼い頃に戻ったかのように錯覚する。
(やり直せるのか? こやつとなら私は・・・)
「簡単に言ってくれる・・・」
「簡単ではありません。その覚悟は出来ています。
例えその道程が茨の道でも修羅の道でも、貴方の影として一生仕える覚悟が。」
「その主従契約、拒否権は無いのか?」
「拒否なさるのですか?」
「・・・いいや、よろしく頼む。あおちゃん。」
「・・・はい。」
碧は幼き頃の面影を感じさせる笑顔を武太夫に向け、そのまま彼の口を吸った。
やさしく、動物の母親が子の毛づくろいをする時のように武太夫の口内を舐めて吸う。
目をまん丸にして成すがままの武太夫、その顔を見てしてやったりと眼で微笑む碧。
武太夫にとって数分に感じた数秒を終え、碧いはその唇を武太夫から離した。
「ど・・・どどど、どういう。」
「契約の手続き、それだけです。」
「・・・まったく、こやつめ・・・」
互いに瞳を閉じて抱きしめあう、腕の中の温もりを一生はなさないとばかりに。
なにを・・・・
なにをしておる・・・・
声が聞こえる。聞こえるはずの無い声、聞こえてはならない声が・・・
武太夫はその瞳を見開いて硬直する。
碧は武太夫が抱きしめてくれていた腕を緩めた事に寂しさを感じつつも、
やっと手に入れた感触に酔い、その目を閉じていた。
もし開いていれば気づいたであろう。武太夫の顔がみるみる歪んでいく事に。
「か・・・はっ?!」
武太夫はあらん限りの力を込めて碧の首を絞めていた。
常人の女であればとうに頚椎が粉砕されている力でだ。
「・・・おやめ・・・くだ・・・さ・・・」
武太夫には確かに見えていた。聞こえていた。
亡き父の姿と声が。
妖怪は武家の敵、馴れ合うなど言語道断。
速やかに始末せよ武太夫・・・武太夫・・・
父の声は絶対だ。己の意思を越えて体を動かす。
武太夫は悲痛な表情で碧の首を絞め続ける。
「御許し下さい。この者だけは、この者だけは・・・
もう私は、二度と北辰の時のようなことは・・・父上!!」
だが何と言おうと、何と思おうと指の力は緩んではくれない。
父の声も姿も、武太夫の前から消えてはくれない。
(やはり無理だったのだ。私は何処まで行っても・・・)
「み・・・て・・・」
かろうじて腕を掴み指の拘束が緩んだ一瞬、碧は掠れた声で武太夫に言った。
そして首絞めに対し普通は首をすくめるところ、逆に大きく首を反らした。
そんなことをすればますます武太夫の指が首に食い込むというのに。
その動作で前髪を跳ね上げ、隠されていた蒼い右の瞳を晒す。
それは相変わらず空色の鏡のように、まっすぐに武太夫だけを映していた。
まるで果ての無い空に一人取り残されたような妙な寂寥。
幼い頃にも感じたその感覚、だが今はそれが心地よい。
映された己だけを見ていると父の声が遠くなった。腕の力が緩む。
「見て、此処には御父上はいない。もう死んだのだから・・・
此処にいるのは私と貴方だけ、貴方は何にも縛られてなどいない。
何処にだって行けるし、何にだってなれる。目指す意思さえ捨てなければ。」
武太夫は腕を離し、放心したように膝を落とした。そして呟き始める。
「ずっと恐ろしかった。父の声に従い妻を、子を・・・その手に掛けてしまう事が。
うちに使用人すらいないのはそういうことだ。」
「・・・浮いた話し一つ無いのは・・・そういう。」
「・・・傍にいてくれ、ずっと私を見ていてくれ、その蒼い瞳で・・・
そうすれば・・・お前がいれば私は狂わずに・・・」
「地獄の果てまでだって御供いたしますわ。何時までも。」
武太夫はすすり泣いた。武士として、男としての面子など捨て、
そして縋る様に碧に抱きつきその胸に顔を埋めた。
碧もそんな武太夫を抱き、母が幼子にするようにその背と頭を撫で摩っていた。
幼い頃、あの城下の裏通りで止まってしまった武太夫と碧の時は、
がたつきながらも再びしっかりと互いの歯車を噛み、その時を刻み始めた。
回り始める。回り始める。抱いた夢とともに。
※※※
二人はその後、武太夫の屋敷に帰って来ていた。
そして弟子達と武太夫の鍛錬用に作られた道場にやって来た時。
其処には思いもよらない人々がいた。
「お、御主ら。」
其処には武太夫の門下達が勢ぞろいしていた。
彼が働き口を世話し、今は此処にいないはずの者までいる。
「我ら一同、貴方様以外に仕えるべき者を知りませぬ。」
みなが正座で頭を垂れたまま、先頭の師範代にあたるものがただそれだけを言った。
「馬鹿者共が・・・」
「みな貴方様の弟子で御座いますれば。」
その言葉に目頭を熱くさせられる武太夫、
その顔は今朝此処を発った時とは、最早別人のように晴れやかなものであった。
そして武太夫は言った。
「面を上げよ。そして急な話しでなんだが、
紹介しよう私の妻、碧だ。今此処に私が立っていられるのも彼女のおかげだ。」
それだけ聞いて、察しの良い弟子の幾人かは大体何があったのかを察する。
そしてただ無言に、碧に対して頭を下げた。
みな彼女の尻尾には気づいている。だが、そんなことは武太夫を助けてくれた恩義に対しては、
あまりにも些細なことであったため、誰もそれに触れる野暮なものはいなかった。
誰も一言も話さぬまま、静けさが支配する道場。
その静けさを破るのは馬の足音、何者かが馬に乗り近づいてくる。
それはまっすぐ屋敷の敷居をまたぐと、ぐるりと表を回って道場の方に近づいてきた。
「みなさん御揃いのようですね。これは都合がいい。」
「正信か、如何した? 確か八百乃の行方を捜しておったはず。」
「ええ、所在はだいたい掴めました。ただ、連れ戻すのにみなさんの協力がいります。
そして、もし彼女を連れ戻せれば、この藩にはまだ未来があります。
どうかお力添えを、武太夫様。」
「是非も無い。話せ、我らは何をすればいい。」
平和に安寧と座さず、武士の本分を忘れぬため。
そんな建前の元、南海の主だった流派の道場や各藩の抱える武官、
そういった面々が集って御膳試合に興じた事がある。
当然ながら武太夫も城の武官代表としてその場にいた。
そして控える者達を見回しながら軽く嘆息した。
それを見た五郎左衛門と一派の家老の一人が話しかけてくる。
「いかがした? 武太夫。」
「緊張しておるのですかな?」
「いえ、少なからず落胆を。全部が全部とは申しませぬが・・・」
「武芸者とは名ばかりの者達がおると?」
「はい、まるで案山子ですな。」
武太夫は聞こえるのも構わず、そんな事を口にした。
案の定聞きとがめた者がおり、武太夫は試合の前に会場から少し離れた場所に呼び出された。
弟子達が付いて行こうかと提案したが、手をフリフリいらぬと取り下げさせた。
どこぞの道場主とその弟子達であろうか、
武太夫を取り囲むと師範であろう男が凄んできた。
「先程の発言、無礼千万であろう。
あの場にいた全ての武芸者に謝罪をせよ。」
「・・・人の話は良く聞く事だ。全ての武芸者とは言っておらぬぞ。
もっとも、アレを聞いてその通りと納得し嘆く者、
御主らのように食って掛かる者、どちらが案山子かは言うまでもないが。」
「貴様、状況が飲み込めておらぬのか?
謝るなら今のうちだ。そう言っておるのだぞ。」
そういうと相手側は武太夫を完全に取り囲み、腰の物に各々手を掛けた。
それに対しても武太夫は何処吹く風、といった感じで構えすらしない。
「おかしなことを言う。案山子に囲まれて臆する者がおるか?」
そんな武太夫の一言が契機になり、男達は刀を抜き放った。
しかし男達を武太夫は刀も抜かず。あっさりとものの数分で鎮圧してしまった。
「御主ら、踊りの稽古事なら道場ではなく、舞妓にでも習うがよいぞ。」
そう言って試合会場へと立ち去る武太夫。
それを物陰より見ていた五郎左衛門と家老。
「流石でございますな。あの者が味方とは本当に頼もしい。」
「ふ、頼もしい・・・か。貴様にはあの者がどう映る?」
「武太夫がですか? そうですな、南海随一の武と肉体を持ち、
五郎左衛門様にも臆さぬ胆力、清廉潔白の心、
弟子達にも慕われ、正に武人の鑑とも言うべきかと。」
「まあ、それが普通に武太夫を評した結果であろうな。
では、私があやつの何処を気に入っておるか判るか?」
「五郎左衛門様がですか? そうですな、やはり巨木のように揺ぎ無い胆力では?」
家老のそんな発言を聞き、五郎左衛門は愉快そうに笑った。
「巨木のように揺ぎ無い・・・か、かはははは、惜しいが少々違うな。
木に例えるなら、あれは也ばかり大きいが、中身は虫に食われスカスカに腐り落ちておる。
そんな存在よ。私があやつを気に入っておるのは正に其処なのだ。
外から見れば完璧に近い様に見えるあやつがその実、
内面はボロボロで何時朽ち果てても不思議ではない。
そんな薄氷の危うさが、普段の不動のような振る舞いとの対比で、
なんともあわれ且つ滑稽で笑いを誘うのだ。」
家老は五郎左衛門の言にしばし言葉を失う。
「・・・・・・ははは・・・五郎左衛門様が御冗談を言うとは、
何とも珍しゅうございますな。天気は快晴ですが夜は崩れますかな。」
そんな家老を無視し、五郎左衛門は武太夫をご満悦といった表情で見る。
(あれは一点物の至高の工芸品、人間とはかくも歪(いびつ)で正しくあれるのかという。
アレの父親は本当に良い仕事をしたものよ。歪みは魂の根にまでいたっておる。
もはや本人の心持一つでどうにかなる段階は過ぎておろう。
となれば、アレの最後はいかがなものであろうか、武士としての面子を保ち死ねるか。
歪みに耐え切れず途中でぽきりと折れるであろうか、願わくば後者であれ、
そしてそれを観察できる時と場所に居たいものよな・・・
その様はさぞかし・・・さぞかし・・・・)
五郎左衛門は一人妄想に耽り、邪な笑みを浮かべていた。
よもや武太夫より己の方が早く黄泉路を辿る事になろうとは、
微塵も考えもせずに、ただ静かに嘲笑っていた。
※※※
私は立ち上がると無言でクノイチに近づき、顔を突き合わせその瞳を覗き込んだ。
相手も微動だにせず見つめ返す。其処にはちっぽけな一人の男が映し出されている。
幼い頃に抱いた恐怖や寂寥はもはや感じない。むしろその色は・・・
成る程、空の色とはよく言ったものだ。
だというのに、幼い頃の私ときたら、こんなものに怯えていたのか。
私は可笑しくなり小さく苦笑した。
その私の笑いに対し、非常に判りづらいが相手がいぶかしげな表情をした。
「空の色みたいに綺麗な瞳だな。その目をそう評した事を覚えておるか?」
「私(わたくし)にとって、何より忘れられぬ言葉でございます。」
「だがな、この言葉は実は嘘だ。私はお前の瞳を恐れていた。
強がったのだ、子供ながらに、女子に恐れを抱くなど武士の恥とな。」
それを聞いた相手はしばし固まる。
それはもう見事に、時の流れすら止まってるのではないかというほどに。
そして瞳孔が開き両の瞳に水分が満ちるのが見える。
私にそれを見られている事に気づいたのか、
慌てて顔をそらすと瞳をごしごしと擦り始めた。
「失礼いたします。目に埃が・・・」
「苦し紛れにしては昔の私は的を射たことを言っていた。
確かに空を宝石にしたような瞳だ。美しい色をした綺麗な瞳だと思う。。
そう言えば、名は何と言ったかな? 何分昔の事ゆえ覚えておらぬ。」
その私の言葉にクノイチはぴたりと目を擦るのをやめた。
顔を上げはしなかったが、小さな声で私の質問に答えてくれた。
「碧(あおい)と・・・御呼び下さい。それが私の名でございます。」
「碧、そうか・・・あおちゃんなどと呼んでおったなそういえば。」
「・・・御懐かしゅうございます。」
碧は顔を上げると少し赤くなった目を細めてそう言った。
「随分と大きくなったものだ。昔は私の後ろに隠れておったというのに、
今では私より上背だけならあるのではないか?」
「ほんのわずかですがおそらくは・・・大きな女は御嫌いでしょうか?」
「いいや気にせぬよ。それに随分と・・・その、何だ・・・女性らしくなったものだな。」
私の視線が何処を彷徨っているのか恐らくは丸判りで、
碧はそれに気づき、うれしそうにクスリと笑っていた。
二人の間には、何処か懐かしく牧歌的な雰囲気が流れている。
だが、私はそんな雰囲気を壊すであろう一言を言わねばならなかった。
「偶然・・・ではないな。この出会いは。」
「ええ、御止め下さい。自殺しようなどという愚行は。
約束を違えるのですか? 家来にして下さると仰ってくれたではありませぬか。」
「正気か? 子供同士の戯言を・・・昨日まで私とて忘れていた事だ。」
「武士に二言は無いのでしょう? たとえ貴方様にとって子供の戯言でも、
私にとってはその言葉は・・・その言葉は・・・」
言葉とは時に不足で不自由だ。碧は溢れるものを表現しきれずに押し黙った。
そんな彼女の想いを武太夫も少なからず察し、すまなそうにその顔を歪めた。
「すまぬな。だがやはりその約束は無効だ。私は武士などではない。」
「そんなことは・・・」
「あるのだ。どの程度知っておる。御主と別れてからの私について。」
「何時でもとは参りませんが、何年も陰から見て知っております。」
「そうか・・・そう言えば八百乃とやりおうた時も、何者かに見られておったな。」
「流石でございます。基本的に妖怪は人を手には掛けませぬが、
あの怒り狂った狸では貴方様を牙に掛けぬ保障はございませんでしたので。」
「恥ずかしい所を見られたものだ。」
大声で泣いた事を思い出し武太夫は照れから顔を反らした。
「あの時は、何度貴方様の元へと駆け寄ろうとしたか知れません。」
「まあ、此処数年見ておったのであれば話は早い。
私のやったことは知っていよう。私は武士などではない、それ以外の醜悪な何かだ。
終わらせてくれ、もはや、私が私の有り様に耐え切れぬのだ。」
武太夫は見るも無残、毛の刈られた羊のように小さくなって見えた。
そんな武太夫に対し、碧はゆっくりと近づいて抱きしめた。
そのまま母が幼子を諭すようにやさしく囁く。
「貴方様は立派なお方です。誰が何と言おうと、私とっては貴方様は立派な侍です。」
彼女の懐の柔らかさと温もりは幼き頃に母をなくした武太夫にとって、
あまりに久しいものであった。
それを甘受し、振りほどく事が出来なくなりながらも、武太夫は思いのたけを幼馴染に吐露した。
「幼き頃、父の強さと揺ぎ無さに憧れ、それを持って皆を守り助ける。
そんな者に私はなりたかった。侍とは武士とはそういうものだと思い込んでおった。
愚かよな。子供であった。どうしようもないほどに・・・」
「愚かなどと仰らないで下さい。そんな貴方様に私は。」
「だが現実はどうだ?! みな武士とは名ばかりの五郎左衛門に取り入り保身を考えるものばかり
そして父すら家の繁栄のため逆臣と繋がり、そんな父に恐れから逆らえぬ私は、
幼き頃に抱いていた夢を、真の武士と呼べる者を、無二の友をこの手で・・・
下らぬ男だ私は、幼き頃に抱いていた想いも、夢も全て自分で駄目にしてしまった。」
「だから死ぬと? 此処で終わりにすると?
それは間違いです。死んで償われる過ちなど何一つありません。
我々は死んでも生まれ変わることは出来ません。
ですが生きて変っていくことは出来るはずです。
幼き頃に抱いていた夢が所詮子供の夢だというなら、その夢に貴方が成ればいい。
北辰の分まで、そうでしょう? 武太夫・・・」
何時しか彼女の口調は敬語ではなくなっていた。
武太夫は一瞬、自分と碧が幼い頃に戻ったかのように錯覚する。
(やり直せるのか? こやつとなら私は・・・)
「簡単に言ってくれる・・・」
「簡単ではありません。その覚悟は出来ています。
例えその道程が茨の道でも修羅の道でも、貴方の影として一生仕える覚悟が。」
「その主従契約、拒否権は無いのか?」
「拒否なさるのですか?」
「・・・いいや、よろしく頼む。あおちゃん。」
「・・・はい。」
碧は幼き頃の面影を感じさせる笑顔を武太夫に向け、そのまま彼の口を吸った。
やさしく、動物の母親が子の毛づくろいをする時のように武太夫の口内を舐めて吸う。
目をまん丸にして成すがままの武太夫、その顔を見てしてやったりと眼で微笑む碧。
武太夫にとって数分に感じた数秒を終え、碧いはその唇を武太夫から離した。
「ど・・・どどど、どういう。」
「契約の手続き、それだけです。」
「・・・まったく、こやつめ・・・」
互いに瞳を閉じて抱きしめあう、腕の中の温もりを一生はなさないとばかりに。
なにを・・・・
なにをしておる・・・・
声が聞こえる。聞こえるはずの無い声、聞こえてはならない声が・・・
武太夫はその瞳を見開いて硬直する。
碧は武太夫が抱きしめてくれていた腕を緩めた事に寂しさを感じつつも、
やっと手に入れた感触に酔い、その目を閉じていた。
もし開いていれば気づいたであろう。武太夫の顔がみるみる歪んでいく事に。
「か・・・はっ?!」
武太夫はあらん限りの力を込めて碧の首を絞めていた。
常人の女であればとうに頚椎が粉砕されている力でだ。
「・・・おやめ・・・くだ・・・さ・・・」
武太夫には確かに見えていた。聞こえていた。
亡き父の姿と声が。
妖怪は武家の敵、馴れ合うなど言語道断。
速やかに始末せよ武太夫・・・武太夫・・・
父の声は絶対だ。己の意思を越えて体を動かす。
武太夫は悲痛な表情で碧の首を絞め続ける。
「御許し下さい。この者だけは、この者だけは・・・
もう私は、二度と北辰の時のようなことは・・・父上!!」
だが何と言おうと、何と思おうと指の力は緩んではくれない。
父の声も姿も、武太夫の前から消えてはくれない。
(やはり無理だったのだ。私は何処まで行っても・・・)
「み・・・て・・・」
かろうじて腕を掴み指の拘束が緩んだ一瞬、碧は掠れた声で武太夫に言った。
そして首絞めに対し普通は首をすくめるところ、逆に大きく首を反らした。
そんなことをすればますます武太夫の指が首に食い込むというのに。
その動作で前髪を跳ね上げ、隠されていた蒼い右の瞳を晒す。
それは相変わらず空色の鏡のように、まっすぐに武太夫だけを映していた。
まるで果ての無い空に一人取り残されたような妙な寂寥。
幼い頃にも感じたその感覚、だが今はそれが心地よい。
映された己だけを見ていると父の声が遠くなった。腕の力が緩む。
「見て、此処には御父上はいない。もう死んだのだから・・・
此処にいるのは私と貴方だけ、貴方は何にも縛られてなどいない。
何処にだって行けるし、何にだってなれる。目指す意思さえ捨てなければ。」
武太夫は腕を離し、放心したように膝を落とした。そして呟き始める。
「ずっと恐ろしかった。父の声に従い妻を、子を・・・その手に掛けてしまう事が。
うちに使用人すらいないのはそういうことだ。」
「・・・浮いた話し一つ無いのは・・・そういう。」
「・・・傍にいてくれ、ずっと私を見ていてくれ、その蒼い瞳で・・・
そうすれば・・・お前がいれば私は狂わずに・・・」
「地獄の果てまでだって御供いたしますわ。何時までも。」
武太夫はすすり泣いた。武士として、男としての面子など捨て、
そして縋る様に碧に抱きつきその胸に顔を埋めた。
碧もそんな武太夫を抱き、母が幼子にするようにその背と頭を撫で摩っていた。
幼い頃、あの城下の裏通りで止まってしまった武太夫と碧の時は、
がたつきながらも再びしっかりと互いの歯車を噛み、その時を刻み始めた。
回り始める。回り始める。抱いた夢とともに。
※※※
二人はその後、武太夫の屋敷に帰って来ていた。
そして弟子達と武太夫の鍛錬用に作られた道場にやって来た時。
其処には思いもよらない人々がいた。
「お、御主ら。」
其処には武太夫の門下達が勢ぞろいしていた。
彼が働き口を世話し、今は此処にいないはずの者までいる。
「我ら一同、貴方様以外に仕えるべき者を知りませぬ。」
みなが正座で頭を垂れたまま、先頭の師範代にあたるものがただそれだけを言った。
「馬鹿者共が・・・」
「みな貴方様の弟子で御座いますれば。」
その言葉に目頭を熱くさせられる武太夫、
その顔は今朝此処を発った時とは、最早別人のように晴れやかなものであった。
そして武太夫は言った。
「面を上げよ。そして急な話しでなんだが、
紹介しよう私の妻、碧だ。今此処に私が立っていられるのも彼女のおかげだ。」
それだけ聞いて、察しの良い弟子の幾人かは大体何があったのかを察する。
そしてただ無言に、碧に対して頭を下げた。
みな彼女の尻尾には気づいている。だが、そんなことは武太夫を助けてくれた恩義に対しては、
あまりにも些細なことであったため、誰もそれに触れる野暮なものはいなかった。
誰も一言も話さぬまま、静けさが支配する道場。
その静けさを破るのは馬の足音、何者かが馬に乗り近づいてくる。
それはまっすぐ屋敷の敷居をまたぐと、ぐるりと表を回って道場の方に近づいてきた。
「みなさん御揃いのようですね。これは都合がいい。」
「正信か、如何した? 確か八百乃の行方を捜しておったはず。」
「ええ、所在はだいたい掴めました。ただ、連れ戻すのにみなさんの協力がいります。
そして、もし彼女を連れ戻せれば、この藩にはまだ未来があります。
どうかお力添えを、武太夫様。」
「是非も無い。話せ、我らは何をすればいい。」
12/12/12 17:11更新 / 430
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