連載小説
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幕間の5 もーいーかい?    もーいーよ(壱)
まだ母が存命であり、自分も幼い時分の頃のことだ。
家族揃って城下町の外を歩いていた時のことだ。
我々は飢えた野犬に襲われた。
子供の私にとっては、大型の虎のような巨躯に感じられた猛犬が牙をむく。
母が悲鳴を上げ、幼い私も金縛りにあったように動けずにいた。
それからのことは子供の頃の私の目には映っていない。
飛び込んできた父の大きな背中と、犬の甲高い鳴き声だけが私の知る全てだ。
後で聞いたところによると、父は瞬時に抜き放った刀のみねで、
野犬を打ち据えて追っ払ったとのことである。
犬が走り去った後も固まって父の背を見る事しか出来ぬ私、
そんな私の方に振り向いて父は屈んで視線を合わせてきた。

「・・・恐ろしいか?・・・強くなれ。誰よりも・・・このわしよりもな。
そうでなければ、いざというときに誰も守れぬし何もなせぬ。」

父はそれだけ言うと、未だ震える母の元へと歩いていき何か話し始めた。
みなが突然の襲撃に浮き足立つ中、悠然とした佇まいと物腰を保ち、
瞬時に野犬を撃退した父、その背中は私にとって憧れとなった。

何時か私も、刀を携え父のようにみなを守れる存在になりたい。
幼い私にとって武士とは英雄(ヒーロー)と同義であった。


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八百乃に敗北し、五郎左衛門が死んだ後、
正信を逃がす算段をめぐらす裏で、私は粛々と別の準備をも進めていた。
弟子達の次の勤め先の世話をしていたのである。
幸い私の家は特に誰かを雇っているなどということはなく、
この沈み行く泥舟から逃すのは弟子達だけで済んでいた。

とはいえ、飢饉で懐事情が厳しいのはどこもいっしょである。
私自身の使える縁や伝を全て活用し、家柄や身分の低い者、
蓄えの無い者から順に方々に紹介していった。
当然全ての弟子の世話が出来たわけではないが、
それでも飢えて死ぬ者はでないであろうという状態にまでは持っていけたと思う。
この冬さえ乗り切れば、後はみな手塩にかけた優秀な者達だ。
何処かの藩で武官として、最悪場末の用心棒としてでもやっていけるであろう。
成すべき事をなし、一段落着いた私は胸を撫で下ろして眠りについた。

その夜、また夢を見た。
何時もの夢だ。最近は見ていなかったから久々に来たか、という感じである。

だが、その日の夢は何時もと多少様子が違った。
内容は取り留めなく、場面展開も急、音や映像も父が登場するところまでは不鮮明。
一言で言ってしまえば何が何だか判らない。それが私の見る夢であった。
だが今日は違う、確かに場面はぶつ切りぶつ切りで切り替わるが、
切り替わる頻度が緩やかで、音も映像もかなり鮮明だ。




青い・・・碧い・・・蒼い・・・
蒼穹をビー玉に閉じ込めたようなそれには一寸法師が映りこむ。
いや、それは、そのどこかいかめしい面をした小さな子供には覚えがある。
それは己だ。父に純粋に憧れ、強さに焦れ、希望に燃えていた幼い自分だ。

びっくりするような澄んだ蒼い瞳、それが幼い私を見つめているのだ。
当時の私は、その瞳に見られた瞬間心の中ではじっとりと汗を掻いていた。

確かまだあまりに幼く、流石に父も野山で遊ぶのを禁じていなかった時分の頃。
私は駆け巡る野山の中で、突然見慣れぬ少女と出会った。
その少女は長めの前髪を垂らして目元があまり見えず、
また雰囲気もどこかおびえておどおどとしていた。
私はその態度に少しいらついたのだったか、父の振る舞いを真似たかったのか、
無礼だぞ、とか顔を見せろ、などとのたまったのだと思う。

その呼びかけに少女は少しびくつきながらも、
抗おうとせずオデコを見せるように、前髪を掻き分けて顔を見せた。
その時の自分は目を見開いて石の様に固まってしまった。
覗いた少女の顔、その態度に反してすっきりとした顔立ちや目元よりなにより、
左右で違う目の色が私の関心を買っていた。

左目は普通の黒い瞳なのに、右の瞳は蒼天を凝縮したような抜ける蒼色だ。
その目に見据えられ、私は全てを見透かされるような感覚と、
其処に移る自分が、まるで果ての無い空に一人取り残されたような妙な寂寥に襲われた。
私は固まって唾を飲み込んでいた。蛇に睨まれた蛙の気持というやつであった。

だが、其処で私は強がった。武士は何事にも動じない、武士は何者も恐れない。
などと心の中で勝手に思っていた私は、自分と大差ない年端の女子に臆することなど恥だ。
そう考えて回らぬ口で無理矢理に言葉を紡ぎ出した。

「そらみたいに きれいなひとみだな。」

それを聞いて今度は相手の少女がしばらく固まる番であった。




世界の色が変った。薄日の差す山中の林の中ではなく、此処は夕暮れの川原であった。
私の目の前にはおそらく町人の鼻をたらした子供と、
先程より少し成長したおどおど少女、利発そうな顔をした若き日の北辰がいた。
そんな彼らに対し、私はその口から大仰に決意表明をしている。

「まかせろ! おれはりっぱなさむらいになる。」

当時の私よりだいぶ大人であった北辰が呆れ半分に突っ込む。
「立派な侍か、そうなったら俺も家柄的にはお前に頭を下げなきゃなあ。」

皮肉交じりであった北辰の言に、無知であった私は素直に胸を張って続けた。
「おまえら みんなおれの けらいにしてやる。」

家来の正確な意味を知らない当時の私にとって、
それは特別親しい友や仲間、のような意味であったのだと思う。
北辰からすれば苦笑もののそんな私の言葉に、
相変わらず目元を前髪で隠した少女は珍しく反応して発言した。

「ほんとうにほんと? やくそくだよ。」
「もちろんほんとだ ぶしに にごんはない。」




また世界が暗転する、此処は・・・城下の裏通りだ。

「それじゃあ おれが おになやくか。」

ああ、そうだった、範囲を決めて隠れたみなを探す遊び。
此処からは何時もの夢の続きだ。私は決められた数を数え終えると声を上げる。

もーいーかい?  まーだだよ!      当時、すでにこのような子供の遊びは禁止されていた。
                           何度か父にあとが残るほど折檻されたこともあった。
                           だが年長の北辰の誘いと、
                           何よりみなとの戯れが忘れられぬ私は、
もーいーかい?     まーだだよ!   何とかなるさと甘い考えで参加してしまったのだ。
                           仏の顔も三度まで、
                          そんな言葉が何故作られたのか考えもせず。

もーいーかい?        まーだだよ!


父の手が何時も通りに私の頭に食い込んだ。
どうしようもない激痛、何時も通り・・・のはずだ。
だが何時もとは何かが違った・・・何が違う?
・・・・・・そうだ、恐怖だ。
目を背けたくなるような恐怖、其処にいるだけで畏怖と忌避を感じさせる父への感情。
拭っても拭えぬはずのそれが、この夢には無かった。

その違和感は、夢が進むとやがてよりはっきりとした形になって私に示された。
何時もなら、父の顔はまるで黒い穴のように濃い陰影になって見えぬはずであった。
だが、内容に変化すら無いものの、私は父の怒りの表情をしっかりと見る事が出来た。

我が事として逃れようの無かった辛い過去の悪夢、
だが今日のそれを、私は他人事のように俯瞰して見る事が出来た。
痛みこそあるが、心を蝕む恐怖は微塵も感じられない。
所詮は過去、所詮は夢・・・そんな風に割り切る事が許されたのだ。


※※※


竹刀を打ち込まれ横たわる過去の自分を横目に、私は目を開け現に帰還する。
軽く荒い息を吐いているが、ある実感が私にはあった。
何時もの通り明かりをつけ体を見る。
やはりだ。感じていた実感の通り、私の体には痣が浮んではいなかった。
寝汗こそかいているものの、体は綺麗なものであった。

「ははっ・・・ははは・・・は・・・」
乾いた笑いを私は吐き出した。
克服したということか、今更・・・今更になって。
いや、今更だからか、全てを失い全てを捨てる。
そんな決心をしたからこそ、私は恐怖という呪縛から解放されたのであろう。

「武士道は・・・死ぬ事と見つけたり・・・か。」

私は明日、その命を断つつもりであった。


※※※


弟子達の世話を終え、死んだ定国様の亡骸を焼いた後、
無縁仏として骨を壷に収め、霊山として名のある、とある山に埋めた。

弟子達には何も伝えなかったが、幾人か察しの良いものは私の覚悟を知っていたようである。
だが何も言わなかった。自分たちでは止められぬことも察していたからである。

さて、どう死のうか・・・腹を切ることを最初は当然考えた。
だが、駄目だ。腹を切るなどというのは武士の死に方だ。
私如きには分不相応というものであろう。
かといって弟子達に斬首を頼む事は出来ない。
誰もやりたがらないであろうし、其処まで手間を掛けさせるのもあれだ。

そこで私は考えた。もっぱら山賊などの類が出る場所まで出向いて殺されてやろうと・・・



そして私は運よく? 目論見どおりに今現在袋叩きにあっていた。

何と腰の入っていないことよ、それでは人は殺せんぞ。
ああいかんいかん、左足を前に出したまま抜刀する奴があるか・・・
団子のように固まりおって、徒党を組んでおるのに数の有利をまったくいかそうとせん。

などと顔を殴られ口内に血の味がした状態でさえ、ついついそんな事を考えてしまう。
統率の無い烏合の衆で、腹を減らせているらしく動きにも切れが無い。
鍬などの農具や、何処からか盗んだのか扱いなれぬ刀などを持った集団だ。
その気になれば素手でも制圧するのは容易いが、私は一切反撃をしなかった。

いくらこやつらがなっていないとは言え、私を生かしておくなどと言う愚行までは犯すまい。
このまま寝転んだ私に刀であれ鍬であれ、振り下ろして何発か打ち込めば致命傷だ。
私は心静かに目を閉じ、ただ自分に訪れる最期の時を待った。

瞳を閉じた私の瞼の裏に、ぼぅ と人の顔が浮んだ。
その小さな顔は幼き日の私であった。
何も言わずただただこちらをじぃと見つめている。

落胆しているか? 憤りを感じているか?
何事にも動じず、何者も恐れず。
比類なき武で主君を、仲間を、牙無き弱者を助ける正義の体現者。
幼きころに胸に抱いていた武士というものへの偶像。
父への恐れを抜きにしても、私の胸には確かにあった。
それへの憧れとそれを目指す確かな意思が・・・

だというのに今はどうだ?
守るべき弱者の受け取るべき米を、掠め取るような悪党の片棒を担ぎ、
五郎左衛門という逆賊の言うがままに、その手を血に染め臓腑で満たす。
主君を殺したその逆賊を討つことも出来ず。
幼き日々を共に過した掛け替えの無い友すらその手に掛けた。

どうしてこうなった? どこから私は間違えたのだ?
父の子として産まれた時からか。
父に恐怖を植え付けられたあの時からか。
いや、それはただの責任転嫁というものであろう。
過ちと知って正せなかったのはひとえに、私の弱さ以外の何ものでもない。
鬼の武太夫だのと持て囃され、武人の鑑などと評されていたがその実、
私はどうしようもない弱者であったのだ。

幼き日の私は、それでも微動だにせずこちらを見つめ続けている。

何を期待しようと無駄だ。もう取り返しはつかぬ。
藩は近い将来滅びを迎えよう。
使えるべき主君も、守るべき藩も無い。
此処は終点だ。もう次は無いのだ。

私はてこでも動かない自身の幻に対し、苦笑し懇願するように声を絞り出した。


                 もーいーかい? 
























                  もーいーよ。

涼風のような声が耳朶を打つ、瞼の裏に浮んだ幻が応えたとでも?
いや、確かに現実の声として聞こえた。
それに何時までたっても、周囲の連中が私に危害を加えてくる様子が無い。

私は目を開け、首を上げると周囲を見回した。
みながみな、その場に崩れ落ちるように倒れ伏していた。
そして私と山賊たちの間には一人の人影が佇んでいた。

一目見てそれと判るほど女性的な体付きの女人だ。
女性としてはかなり上背もあり、男としてはそれ程長身でない私とほぼ同じくらいだ。
出で立ちは薄くて軽装、露出も多く腰の辺りなどは横からだと尻と太股がほとんど見えている。
髪も括って後ろに垂らしているが、かなり長く先端は太股の辺りまで来ている。
そして何より特徴的なのは、腰から一本の紐のようなものが出ている点であろう。
小指ほどの太さのそれは、先端が薄く刃のように広がっており、
意思を持っているかのようにしゅるりと動く。

その特徴的過ぎる外見を一目見て、私は相手の正体に思い至る。
「クノイチ・・・何用か? 何故こやつらを・・・誰の命だ。」

私の問いかけに対し、隙の無い動きでこちらを向くクノイチ。
前髪も長く、顔の右半分は覆われていてほぼ見えない。
さらに顔の下半分は布で覆われているため、実質顔の四分の一しか見えない。
とはいえ、切れ長で涼やかな目元は整った美人であることを隠しきれていない。
しばらく沈黙のままこちらを見ていたクノイチだが、
布越しに多少くぐもった声を上げこちらに応えた。

「誰の命でもございませぬ、寝ているだけです。その者達も・・・」
「・・・言えぬでなく、誰の命でもないと? では何故私を助けた。」

そのものは私の言葉には答えず。その瞳を静かに閉じると、前髪を手で持ち上げる。
あらわになる顔と右目、その色を見て私は眼を見開いた。
空を凝縮し石にしたような抜ける蒼い瞳が私を映している。

「御主は・・・」
「・・・まことに・・・御久しゅうございます・・・」
「妖怪であったか。」
「尖った耳は髪で隠れておりましたし・・・尻尾は幼い頃は短いので。」


※※※


武士が生まれついて武士であるように、
我々クノイチは生まれついてにクノイチである。
他の生き方は許されていない。

もしかしたら他の里は違うのかもしれない。
だがうちの里はクノイチとしての生き方を辞す事は出来ない。
何故なら一族ごとに一子相伝の技、もしくは血により受け継がれる秘術。
そういったものを独自に開発し、子に継がせているからである。
才能が欠片もないクノイチとして余程の落伍者で無い限り、
一族や里を抜けるなど許されることではなかった。

私には才があった。私の一族は代々魔眼使いの一族であり、
一族全員というわけではないが、生まれる子の幾人かは生まれつき魔眼を持っていた。
その特性にはある程度種類があり、私のそれは破幻(はげん)の瞳と呼ばれるものであった。
変化や幻術、クノイチの分身や隠蔽系の忍術を、視認するだけで無力化するという代物だ。
この眼は一族の中でも中々顕われない珍しい魔眼であったらしく、
私は一族のみなに蝶よ花よと大事に育てられた。

だが、私はこの目が嫌いであった。
この目が原因で、里の子供の中で私はいじめられていたからである。
きっかけは些細な事であった。

当時子供たちの中でも年長で成長の早いクノイチが、
分身の術をいち早く体得し、みなに自慢まじりに披露しようとした時のことだ。
私はまだ自分の目の特性を理解しておらず。
知らず知らずのうちにそのクノイチの分身の術を破り、発動できなくしていたのである。

みなの前で赤っ恥をかかされたそのクノイチは、集団のリーダー格であったこともあり、
私に対してみなで団結しいじめを開始した。
聞こえるように囁かれる陰口、私の呼びかけに対する無視、
遊びに混ざろうと近づくと途端に散り散りに逃げる。
落とし穴などの罠をしかけられることもしばしばである。
そして何より、この色の違う目を悪し様に罵られ続けた。
気味が悪い、見られると術の秘密が漏れる。見られると心を覗かれる。
など根も葉もない中傷までが事実の如く飛び交っていた。

家の者に言えば、いじめそのものを止める事は出来たかもしれない。
だが、大人の介入で仲裁された喧嘩の相手と今後仲良くなるなど望めまい。
私はこの眼の存在を呪い、みなが訓練混じりに鬼ごっこなどの遊びに興じている間、
そっと里を出て外に遊びに行くようになった。

当時の私は猿のように山を跳び、燕の様に大地を駆けて野山を駆け回った。
そして夕暮れの刻限には帰れる距離にそれはあった。
頂上に城を頂いた小山と、それを囲むように広がる町。

私は興味を引かれ、その町に侵入した。
幸いクノイチの子供の服装は見咎められても怪しまれぬよう、
一般的な農民の子供と変らぬものであった。
そのため潜入と見学はあっけないくらい簡単であった。
私は栄えた町と、其処に雑多に暮らす人々の持つ活気や熱に魅せられて目を輝かせた。
人知れず里の中で暮らす私には、何もかもが初めての連続であった。

そうして私は其処を訪れて探索するのが日課になっていた。
そんなある日、城のある小山の中で私は同じ年頃の男子と出会った。
少々いかめしい仏頂面をした子供で、私の姿を見ると近づいてきた。
いじめのせいか、当時の私は人の顔色を伺うおどおどした態度が身についていた。
そして魔眼を人に見せる事を嫌っていた私は、当時前髪を伸ばして目元を隠していた。

そんな私の態度と面貌が、男の子に不信感を抱かせたらしく、
少々強い調子で何者だ、顔を見せろと命令口調で言われた。
私は瞳を見せる事には抵抗があったが、
だからといってこのまま逃げれば本当に不審者である。
また此処には何度も来るつもりであったし、揉めると面倒だなと考えつつ顔を見せた。

そして私の右の瞳、破幻の瞳を見た男の子は固まった。
次に来るのは何であろうか、罵倒? 恐怖? 拒絶?
いずれにせよ、相手から奇異や畏怖をもって見られるというのは、
予想通りいい気分のするものではないなあ。などと考えつつ私は目をそらしていた。
だが、固まった男の子が吐き出した言葉は、私の予想とはまるで違うものであった。

「そらみたいに きれいなひとみだな。」

だいぶ片言というか、ぎこちない調子ではあったものの、
その男の子は私の忌むべき瞳を綺麗と褒めてくれたのだ。

里ではみなが忌み嫌うこの瞳を・・・
家の者にしてもクノイチの道具として褒めてくれた事はあっても、
容姿として褒めてくれた事はなかった。

今度は私が固まる番であった。
どうしたというのだろう。頭が真っ白で言葉が出てこない。
心臓はしだいに鼓動を早鐘のように鳴らし始め、
その鐘が鳴るごとに、居た堪れない衝動のようなものが私のうちに溜まっていく。
私は駆け出した。さよならの一言も言わずにその場を走って後にした。

そしてそれから私の世界は一変した。
私は暇を見つけては城下町に行き。その男の子やその友達といっしょに遊んだ。
淀んでいた世界は色鮮やかに染まり、空気は気持ちよく透き通った。
時間は矢の如く飛び交い、あっという間に日々は暮れなずんだ。

その子は武家の子供で、将来は弱気を助け強気を挫く、
そんな立派な侍になるのだと息をまいていた。
そんな中で、子供の口約束とはいえ、あの人は私を家来にして下さると仰った。
念を押したら武士に二言はないとも・・・
その言葉はどんなに私を勇気付け喜ばせた事だろう。
私はクノイチに生まれたことを生まれて初めて感謝した。


美しき幼年期の一幕、しかしそれはある日突然に終わりを告げる。
もう夕日が赤く町中を染める時分の事であった。
鬼が隠れた者達を探す遊びをしている最中の事だ。

私は何処に隠れようかと思案しながら移動している最中だ。
これが中々に難しい。本気を出せば決して見つからないであろう。
だがそれは寂しいのでいやだ。とはいえすぐに見つかっても手を抜いたと怒られる。
クノイチとして育てられた身では、普通の子供と遊ぶには中々に加減がいるのである。

もーいーかい?

あの人の声が裏通りの間を抜けて聞こえてくる。
私は数少ない言葉を交わす機会を逃すまいとすぐに応える。

まーだだよ!

こんな他愛ないやりとりすら、私の胸をぽかぽかと温かくしてくれる。
そうして決まり文句を三度ほど繰り返す間に、何処に隠れるのか私は決めた。
時間的に今日はこれが最後の遊びとなるだろう。だったら少しでもあの人のことを見てたい。
そう考えて、私は後ろから隠れながらあの人を尾行する事に決めた。

だが、彼の元に辿り着いた時、其処にはもう一人の人間がいた。
大きな影、それがあの人の頭を鷲掴みにしていた。
その力の強さに苦しげに吐息を吐き、あの人が呻く。

それを見た瞬間、私の頭から里の掟だとか正体だとか、
そういった些事が見事に消し飛んでいた。
掛け値なしの全力で、その大人の人間を突き飛ばそうと両足で地面を蹴った。
だが、脚は地面から離れずに私は勢いよく地面につんのめった。

振り返ってみると何時の間にか、自分の後ろにクナイが突き立っている。
それは影を地面に縫いとめ、間接的に私の動きを封じていた。
影縫いの術、クノイチの使う忍術の一つだ。
それに気づくと同時に、何時の間にか自分の横に人影が立っていた。
音も気配も無く忍び寄っていたそれは母であった。

後で聞いたことだが、全て見られていたのだ。
いじめを受けていた事、里を抜けて城下町に辿り着いた事、あの人に出会った事、
みんなと遊んでいた日々の事、全て母は見守っていたのである。

「駄目よ、私たちは影、本性を晒し、あまつさえ人間を加減無く攻撃する。
あなたのやろうとしたことは二重の意味で許されないわ。」

でもこのままじゃあ、あの人が! 私は影縫いで動かない口の代わりに目で訴える。
そんな私の意を汲んだのか、母は頷いて答える。

「勿論、あなたの大事な人は私が責任を持って見張るわ。だから此処は任せて。」

そう言って母は引き摺られて消えていったあの人とその親の後をつけて行った。
後で聞いた話だが、あの人は私達と遊ぶのを禁止されていたそうである。
それなのに子供らしい無責任さで、何とかなるさと高を括ってしまったらしい。

結果としてあの人は、一生もののトラウマとなる傷を心と体に負う事になる。
母が手回しして、早々に医者を近くまで連れてきてくれたおかげで一命は取り留めたものの、
二度といっしょに遊ぶ事は出来なくなってしまったし、そんな事になって私は母を責めたりもした。
とはいえ、妖怪で既婚のクノイチである母が依頼も無く直々に人間に手を下せるわけも無い。
幼いながらにそれを理解した私は、すぐに頭を切り替えた。

私はそれから修行に明け暮れた。
いっしょに遊ぶ事は出来なくなってしまった以上、
あの城下町に行ってもあの人には会えない。
遠くから眺める事は出来るかもしれないが、以前のように会って話したりすれば、
またあの人が責めを負う羽目になるであろう。

だから私は相も変らぬみなの誹謗中傷など何処吹く風で、
一生懸命日々を修行に明け暮れた。
早く一人前になって一人で任務をこなせる様になる為だ。
そしてあの人のところに行って家臣にしてもらうのだ。


そうして月日は経ち、私は大人になり一人前のクノイチになっていた。
私は母に断りを入れると、一も二も無くあの人の元へと走った。
小山に見える城、そして少しばかり城下町が広がって大きくなった以外は、
変らぬ景色が其処にあった。
それだけで胸が詰まりそうになりながら、私は姿を術で隠蔽して城へ向かった。

其処で私はあの人と再会した。
といっても一方的に私が陰から見ていただけだが・・・
時間は経っていたが、その特徴的ないかめしい顔は一目見て彼だと判った。
相当に鍛えこんだであろう岩のような肉体、年老いた達人を思わせる体運び。
それは会えなかった年月を、自分だけでなく彼も脇目も振らず修行に明け暮れた証であった。
離れてても思いは一つ、そんな風に早合点し私は胸を膨らませる。
それに浮いた話の一つも無く、女人の影が見えぬ事も私を安堵させた。
教団の手が及んでいる大陸側に比べ、この国の婚約や婚礼は早いからだ。
すでに許婚と子供まで作っているという事もありえた。
もっとも、だとして私がすることを変えることは無い。

そして彼の素行を影から見張るうち、私の期待はガラスのようにたやすく砕かれた。
弱気を助け強気を挫く、そう幼い頃に目を輝かせていた彼は其処にはもういなかった。
不正をして私腹を肥やす。そんな悪家老の片腕として人の命を奪っては、
夜は悪夢にうなされ自分のした事に苦悩する。そんな痛ましい姿が其処にはあった。

幼い頃いっしょに遊んだリーダー格の男の子、
親友だったあの人さえその手に掛けてしまった。
独り言として吐き出されたその懺悔を盗み聞き、
私の胸は張り裂けそうであった。
私はクノイチとして恥ずべき行為と解っていたが、
溢れ出る涙と嗚咽を抑えきれずに城下町の外へと跳び去った。


それから私は無い頭を捻って考えた。
どうすればあの方を御救い出来るだろうか?
家老を暗殺? いや、私が仕える方は決まっている。
暗殺はその相手にしか使えない。
ではあの方を暗殺してそのまま忍びの里に攫ってしまおうか。
後者の手段が現実的かとも思った。

でも、私は考えてしまう。
今のあの方の傷だらけの心を考えれば取り入るのは簡単であろう。
現状から逃避したい心と肉欲を刺激すれば、
彼は今の地位や立場を捨てて、すぐにでも私と一緒に来てくれる。
だがそれは、幼き日の約束を私が違えさせてしまう事に他ならない。
りっぱな侍とは程遠いし、私は家来というより溺れ逃避するための相手になってしまう。

私にとってあの約束は全てといってよかった。
それを思えばこそ、いじめや修行、そして何より彼に会えない日々に耐えてこれた。
それを自分から否定する事は、私にはついに出来なかった。
彼の苦しみを目の当たりにしながら、私は何も出来ぬ自分に絶望していた。


そしてまた数年の歳月が流れた。
私は里からの任務をこなしつつ、時間の許す限りをあの人の観察に当てた。
私が手をこまねいてる間にも、着実に彼はその手を不正と血に染めていた。
彼が刀を振るうたび、幼い頃輝いていたその目は曇り、笑顔は減っていった。
母は言った。耐え忍びなさい、恐らく後数年もしないうちに城の情勢は大きく動く・・・と。

その言葉は的中する。
母の言葉から更に数年後、家老に藩政を好き勝手されていた城主が、
人材を外から募り、城の中の業務に登用を始める。
そして私に母から依頼が回ってきた。
何でも彼の勤める城の城主から、里に依頼が来たとのことである。
内容や受けるか否かは未定にしてあるので、会って見ろと母は私に言った。
その城主なら当然知っている。あの方を見ている傍らで何度も見ていたのだから。

その依頼内容は身元調査であった。
城主自身が採用した、とある女性勘定方の家に赴き、
素性を調べて欲しいとの事であった。
その依頼の報酬として私はあることを条件につけた。
あの方の身の上の保障である。

この城主が場外から人員を募り、
少しずつでも、自分の城内での権勢を取り戻そうとしているのは知っていた。
いずれこの方はあの家老と事を構えることになるだろう。
そして今のままでは厳しいが、仮にこの方が藩政をその手に取り戻した時、
家老の一派は厳しい責めを負うことになるであろう。
当然あの方もそこには含まれる。だから私は願った。

「御主・・・武太夫の何だ? あの武辺者に一目惚れか?」
どこか愉快そうに城主は私に問いかけてきた。

「幼い頃に、共に野山を駆け回り遊んだ事がございます。」
私は迷ったが、城主に本当の事を告げた。

「ほう・・・では御主が、北辰から聞いておる。まさか御主がのう・・・
事の顛末は大体聞いておるよ。ではずっと片恋慕しておるのか。
もう何年も何年も・・・すまぬな。本当に・・・」

突然一介の忍びにすぎない私に対し、その城主は深々と頭を下げた。

「頭を御上げ下さい。そのようなままでは話の続きも出来ませぬ。
それに、貴方様が謝る筋では・・・」
「いや、五郎左衛門に好き勝ってやらせておる余の不甲斐なさ、
それがあの男をあんな境遇のままにしておる原因よ。」

良いお方だ。武太夫様の事をきちんと理解し案じて下さっている。
しかし、私は一つの事が気になって定国様に問いかけた。

「御聞きしたい事がございます。」
「何なりと申すが良い。」
「貴方様は、北辰様が誰に討たれたのかをご存知でしょうか。」

それを聞き、何処か飄々とした態度を取っていた定国様の雰囲気が変る。
物憂げに鼻からゆっくりと息を吐き、目を閉じて返答を発した。

「そんな事、遺体を見た瞬間に判っておった。
北辰は城でも五指に入る使い手じゃった。
その北辰が何の抵抗もせずに刀傷で死んでいた。
顔見知りの、親しい者の犯行であることは明白、
そして油断していたとはいえ北辰相手にそれが出来る者。
該当する者なぞ一人しかおらん。」
「恨んでおられないのでしょうか? 
生前の北辰様とは貴方様も仲が良かったと聞いております。」

踏み込みすぎたか? そう思わないでもなかったが、
私はどうしても聞いておきたくてその一言を発した。

「許した。などと気安くは言えぬ。出来るだけ考えぬようにしているが、
あの件については未だに腸が煮えたぎったままじゃ。それは南龍も変らぬであろう。
じゃがな、それと同時に、痛ましすぎて責める気にはなれぬのじゃ。
あれは余に等しく北辰を慕い敬っておった。
そんなあやつがどのような心持で事に及んだのか、
余がその立場であれば・・・そう考えると安易にあれを責める気にはなれぬ。
まったく難儀な奴じゃ。どうしようもなく難儀な奴。」

私のように武太夫様をずっと見ていたわけでもなく、
それでいてその言葉を紡ぎ出せる。
私は改めてこの藩の城主、定国という男の器と思慮深さに感服した。
この方なら、約束を違えずあの方に対しても良きに計らってくれるであろう。
私は深く頭を下げ、この方の依頼を御受けした。


依頼を完了した後、すぐに大飢饉が南海を襲った。
そして城に入り込んでいた狸
(目的は定国様のようなのでほうっておいた。)の正体が衆目に晒され、
何と定国様が五郎左衛門と事を構えた。あの思慮深い方が随分と事を急いたものだ。
助力を添えたかったが、依頼無しに勝手に人同士の争いに手を出すのは禁じられていた。

結果は予想通り、定国様の一派は敗北。
さらに定国様も五郎左衛門の手違いによって斬殺されてしまう。
私は落胆した。あの方なら武太夫様を解放してくれるかもと期待していただけに・・・

その後、復讐に狂った狸が武太夫様と戦い勝ち。
その次に控えていた祓い屋との戦いの結果、仲間と共に去っていった。
そして五郎左衛門の天下が来る。
そう思っていた矢先、あっさりと五郎左衛門は死んだ。
定国様の奥方に刺されたらしい。

あの方はあっさりと突然に解放された。
しかし定国様と五郎左衛門が死んだ今、この藩に未来は無い。
それでも武太夫様程の方なら、その気であれば他の藩からも引く手数多であろう。
だが、あの方の心は磨り減り、手折られ、砕かれてしまっていた。
狸に負けた後、山中で私の知る限り初めて泣いたあの方の元に、
どれだけ駆け寄ろうとしたか知れない。
約束などに縛られず、早くあの方を里に攫うべきであったのだろうか?
どうすれば良かったのだろう。そしてこれからどうすれば良いのだろう。
迷いながらあの人の傍で見る事しか出来ない自分。
そして武太夫様は半ば自殺を図るように山賊達にされるがままになっていた。
もう迷っている時間など無かった。
私は瞬時に山賊達を即効性の痺れ薬を塗った手裏剣で撃ち、
倒れ伏して動かないあの人の元へと参じた。そして突然あの人は声を発した。


             もーいーかい?


その懐かしい台詞に対し、私は泣きそうになりながら応えてしまっていた。


              もーいーよ。

12/12/03 09:02更新 / 430
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■作者メッセージ
数少ない待ってた読者のみなさん遅くなってごめんなさい。

もはや恒例、長くなったので分割です。
まだ書いてる途中だけど普通の一話の三倍くらいの文量に・・・
切り所が中々難しくて、分割しても普通の二話分に・・・
続きはたぶん数日中に書きあがる予定です。



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