死の淵より


 川渕信夫(かわぶち のぶお)は屋上へ続く階段をのぼりきるとドアを開けた。
開けた瞬間、冬から春へと移り変わる時期独特の大気の匂いを感じた。視界の上には抜けるような青空、下には都会の喧騒。
その景色を背景に黒い背広の男の背中がぽつん、とあった。
「小菅(こすが)さん」
声を掛けるとフェンスに寄り掛かっていた男は振り返った。
無精ひげを生やした初老のその男は若い頃の端正な顔立ちの面影を残している。
「おう、お疲れさん」
煙草を持った手をひょいと上げて小菅は挨拶を返した。
「……」
信夫は何も言わずに小菅の隣に立ち、同じようにフェンスの上に肘を置いて街並みに目をやった。
「相変わらず愛想の無い奴だ」
「娘の顔は見ないんですか」
愛想のいい小菅と対照的に信夫は抑揚の無い声でそう言った。
「うん」
そう言って小菅は紫煙をくゆらせる、信夫はそれ以上何も言わずに黙っている。
「……どんな顔してた?あいつ」
「綺麗な顔してました」
「美人だったろ?」
「……」
小菅が愛する女性を失ったのはこれで二度目になる。一人目は妻、そして二人目が娘。
「……ああ、きっと後悔する事になるだろうな、何であの時最後に見てやらなかったんだって……だがなぁ……見たくないんだよ……どうしても、見たくない」
いつも捕え所がなく、飄々とした態度を崩さなかった小菅のこんな表情を信夫は見た事が無かった。
「所詮、こんなもんだ……この程度の男だよ、俺は……」
「……」
信夫はやはり何も言わなかった、小菅が何を言っても石のように黙っている。小菅はそんな信夫相手だからこそこうして弱音を晒す事が出来たのだ。







美濃小菅(みの こすが)の娘、美濃香苗(みの かなえ)が亡くなった原因は生まれた時からずっと戦って来た心臓の病。
母から類まれな美貌を、父から聡明な頭脳を受け継いだ女性の生涯は20年間に届くか届かないかくらいの長さで幕を閉じた。







「本当に変わった女だったな、俺の娘は……」
「小菅さんの娘ですから」
「ははっ、変人だという自覚はあるがあいつ程じゃあないよ」
「……」
「知ってるか?あいつの残した記録」
「病状の経過」
「そうだ、医者に提供し続けたらしいな、出来るか?自分の体が死に向かっていくのを記録する事が……普通は正視できん」
香苗は記録し続けていた。診断結果から自覚症状、心境の変化に至るまで自分の「死の記録」を主観を挟まずに淡々と記録し。この世を去る前に出来る事として医者に提供し続けていたのだ。
「超人的としか言いようがない、もしくは常人と違う感性の持ち主だ」と、資料の提供を受けた医師は漏らした。
「献体の事はよくわかりませんが、遺体はどうなるんですか」
「施設に搬送されるそうだ、お勤めが終わるまで1、2年……その後に遺族の元へ返されるって流れだ」
献体、とは医学や教育に役立てるために自分の遺体を提供する事だ。香苗は随分前から登録を行っていた。
「笑わないでくれよ、今になって献体に反対してりゃよかったと思ってる」
小菅は煙を深く吸い込み、吐き出した。
「結局あいつに触れる事が出来るのはメスだけだったって事か、あいつに……最初に触れるのはお前だと思ってたんだがな」
「……」
小菅は微かに笑みを浮かべて信夫の方を見やった、信夫は何も言わない。
「ははっ、妙な事を言ってすまん」
「……いいえ」
「ところで、一つ頼みがあるんだが」
「はい」
小菅は背広のポケットからCDケースのような物を取り出すと信夫に渡した。
見てみるとケースのラベルには達筆な文字で「信夫へ」と書いてある、間違いなく香苗の字だ。
「これは?」
「あいつの遺言だ、俺は見てない」
「何故ですか」
「書いてあるだろ、お前宛てだ、俺宛てじゃない」
言われて信夫は改めてCDケースに視線を落とす。
「見たくないなら見ずに捨ててもいいってよ」
「香苗が言ったんですか」
「そうだ……死ぬ二日前くらいかな」
「……」
信夫はケースを上着のポケットに入れた。小菅はまた煙を深く吸い、吐き出した。
「……すまん、少し一人にしてくれるか」
「はい」
信夫は小菅に一度頭を下げて階段へ続くドアへ歩いて行く。
ドアを開ける前に一度だけ振り返ってみた、小菅の背中は青空に呑まれてしまいそうに小さく見えた。







「やあ信夫、元気にしているか?」
画面に映し出された香苗はいつもと変わらない調子で挨拶を口にした。
日付を見てみると命日の三日前だ、肌は青白く、長い黒髪は艶を失い、頬は痩せ、病院着から覗く首や肩はか細い。
しかしその知性的な顔立ちから放たれる強い眼光はまるで変わらず、凛とした美しさにはいささかも陰りが無いように見える。
場所はいつもの病室のようだ、ベッドの上にカメラを置いて撮影したらし
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