夜。僕は眠れずに、二階の自室から一階のリビング兼勉強部屋へ降りてきていた。水路の蓋は固く閉じられ、施錠されている。だが僕は鍵を持っている。
ちゃぷん、ちゃぷん、というテッセ川の緩やかな流れが、僕をどうしてかひどく安心させる。小さなランプを叩いて火の精霊を活性化させ、水路蓋の横に置いた。僕はそこにペンと一抱えの袋を持ち、座る。今は、ペンは僕にとってのお守りに過ぎないが。
傍らに、ミンテリアースからもらった小さな石版を置いて。それを握って離すと、微かな潮の香りがする。遠い海から持ってきた――希少な鉱石の類だろうか?
僕は考えた。魔物という存在。父の言葉。父の言葉は忘れ得ない。
父にとって、この村にとって、教団の一部にとって、魔物とは生活の道具の一つ。そうと知らずに魔物たちは、持ち前の人間への友好性から僕たちに協力し続ける。
たとえ切り付けられようと。瀕死になろうと。
暗闇にぬらりと光る教団の剣が、まるで古い傷のように頭から離れない。
だが魔物たちは魔物たちで、人間と交わり、性交し、子を作るために友好的にしているのだという。人間へ愛想を振りまくことは求愛行動に等しい。そういうこと。
ミンテリアースのあの笑顔も、サハギンの少女が見せた謎の行動も。
皆、誰か人間への求愛。繁殖への欲望。
「……あのサキュバスがおかしいわけじゃなかったのか」
事の発端たる依頼者のサキュバス。あの文章は紛れもなく、魔物達のまっすぐな欲望だ。あのサキュバスは魔物として正しく、だからミンテリアースは評価していた。いくら理知的に、人間的に見えようと、奴も魔物だ。人間と魔物が、性的に近づくことを喜ばしいと思っているのだ。
だから魔物を道具として利用するのは、人間としての知恵。
魔物が狩られ、殺害されるのは、自業自得。
サハギンの少女の顔が、頭に浮かぶ。僕は確かに美しいと思った。あのか細い声をもっと聞きたいと思った。
腕に抱えた袋をほどこうと、指を動かす。
「……洗脳……」
指の動きが止まる。
今の状況を最も理論的に示せそうな言葉が浮かんでしまう。違う。そんなものではない。だがサハギンの少女は紛れもなく魔物だ。
学者としてすべきこと。魔物を冷静に観察し、その生態を記録すること。魔物を、魔物として見ること。あれは少女じゃない。ただの魔物だと見ること。
黒く邪悪な血を流し、魔物の子を産もうとする紛れもない魔物だと見ること。
学者の記録は多くの人が人間としていられる秩序を保ち、多くの人を貧困から救う。
僕は自分で嫌になるほど杓子定規で理詰めだと自己評価している。僕がすべきことは、契約した魔物の異常行動――人間の与えた業務を忘れ魔物の本能に負けそうになり、僕を犯そうとしたサハギンがいるという事実を記録し、通告すること。人間に利するために。学者見習いとして。学者修行の身として。
そうだ。そうに違いない。洗脳に負けるな。あの美しさも、人間の男を籠絡させるためのかりそめに過ぎない。
僕は震える手で、水路の鍵を開けた。川の流れは暗い。僕はうまく動かない指で、手元の包みを解いた。
村の漁師から届いた魚が数匹、そこにある。
サハギンの好むもの。
僕はそれを川へと落とした。魔物への餌付けなどあってはならない。当たり前だ。体力をつけた魔物ほど危険であり、人間にとっては不都合だ。
わかっている。わかっているのに、そうせずにはいられなかった。わざわざ包みを、まるで水の中でなびく旗のように垂らしたままで。
ばしゃん、と音を立て、無表情なサハギンの少女が現れる。
「……『契約』の対価?」
少女の顔はどことなく警戒の色がある。おそらく最低限しか払われていなかったであろう(使い捨てだったのかもしれないが)、餌を多く与えたこと。そして、僕が与えたこと。
もごもごと魚をいっぱいに頬張りながらそう言うサハギンの少女は、かわいらしかった。
「違うよ。話がしたくなったから」
僕は傍らの石版を握り、ガンガンと頭の中で鳴る警鐘を打ち消そうとする。夜の魔物。とても危険だと知っている。その危険の真の意味も。
足先だけを冷たい水につけると、少女はすっと僕に寄り添ってきた。ヒレの手で僕の腕に触れ、体を預けてくる。冷たい水に包まれた暖かい体。
「……君の名前は?」
僕はその体をそっと後ろから押さえ、あってはならないのに――抱きしめた。彼女の耳についたヒレが、清浄な川の匂いを放つ。
「……アレクシア。そう呼ばれる」
まるで人間のような名前。それは彼女たちにとって人間と性交する――いや、仲良くするための名前なのかもしれない。組織を築くシー・ビショップならともかく、同族意識の希薄な彼女たちにとって名前などあるものなのか
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