私は、魔物になっていました。
「うそ……。わ、私が……?」
それは真夜中の、何時なのかはわかりません。
遮るもののない風が、随分と――“長くなった”私の脚をなでていて、いいえ、どうやら長くなっただけでもなくて、増えている――ようです。
ちょうど近くにあった湖に姿を映すと、お父様の腕ほどもある太い、筋肉質な脚がうつっています。到底私のものではありません。
もはや人間のものですらなくて、お屋敷にいた黒馬の脚とよく似ていました。
ですが私の脚はその二本だけでなくて、更に少し後ろに二本。ともすれば忘れてしまいそうな、むしろこの後ろの脚のほうが違和感のない脚です。
細く長い下半身。ちょうど馬の首に乗って、背を仰げばこうなるでしょう。
人間の上半身に馬の下半身――――
「け、ケンタウロス……?」
がくりとその場に倒れると、器用に四本の脚が折りたたまれて、感覚からすると、“下の方にあるお腹”というような、新しくできた部位――馬の腹部を草地がなでていました。
まるで舞踏のときのクリノリンでもつけているような感覚。腰を折ることができなくて、ぐっと両手を伸ばしてようやく、目の前の湖の水に触れて波紋を作りました。
「ひゃっ」と声をあげてしまい、さっと口を塞ぎます。それは今の異質な姿の羞恥のせいなのかはわかりません。
「やっぱり……夢じゃない、ですね」
はぁーぁ、と大きくため息。体を重い下半身ごと横に倒して、ぐったりとその場に倒れこんでしまいました。
はしたないとは思います。ですが、私の纏っていた、ノイマン家の家紋が刻まれたドレスも失せていました。
紫紺色の、占星師のようなローブが、私の(馬のものを含めた)体を覆っていました。
「服があるだけ、まだ良いのでしょうか……」
頭をおさえると、何か帽子をかぶっていいました。柔らかい生地で作られた、まるで誰かに編まれたような帽子。どうしてこんな――呪術的な、不徳なものを、私がつけているのでしょう。
「はぁー……」
心を満たすのは大きな大きな虚無。
何をすれば。何をすればいいのでしょう。
訊いても誰も答えてくれません。お母様もお父様もどこなのか解りません。
そもそも私がどこにいるのかも解らないのです。
思いっきり叫びたかったのです。
何も解らない、何をすれば良いのかも、私という人間そのものもいなくなり、叫ぶ以外に何をすれば良いというのでしょうか。
しかし私の喉からは、生まれてこの方一度も上げたこともない醜い叫び声などはあがらず、ただ、湖の傍に体を横たえるだけでした。
私にそんな度胸はありません。
たとえ誰もいないであろう草原であろうと、どこだろうと私は、叫ぶなんて真似はできないのです。
「……エミリー。あなたなら、どうしますか?」
私の可愛い妹で、私の憧れの妹。
奔放で、怖いもの知らずで、無邪気で、男勝りで。
どれも私の持たないものばかりで、お父様もお母様も執事やメイドの皆さんも、ほとほと手を焼いていましたが……私にとっては、ただの可愛い妹でした。
私の後ろをついてきた頃もありましたが、私がお屋敷の仕事を任されるようになった頃から、エミリーは仕事を嫌がり……疎まれ、私にも近寄らなくなりました。
しかしそれでも、私はエミリーの部屋を訪ね――たわいもない話をしました。エミリーは気分屋で、私に本を読んでとねだるときもあれば、冷たくつき返すときもありました。
この子には私しかいない。
それとも、私自身、エミリーに助けられていたのでしょうか。
お屋敷の仕事は多忙を極め、街の治安もそう良いものではありませんでした。
ワーウルフやワーキャットの群れ、低級魔物の大群――魔物被害はとどまるところを知らず、自警団の皆さんをたびたびお屋敷に招き、ご機嫌をとりました。
エミリーはそんなことを知っていながら、何も口に出さず、私の話を聞いてくれることもありました。
ただ興味がないだけなのかもしれませんが、私にはそれを判別することはできませんでした。
「……エミリー。今、どこにいるのですか?」
だからこそ。エミリーが突然お屋敷からいなくなった時、私は自らの死すら感じました。
エミリーを疎んだお父様お母様よりも、私の受けた衝撃は大きかったと思っています。
血を分けた姉妹だからというものではなく、寧ろ――さびしかったのです。
気心の知れた友人のいない私にとってエミリーは妹であると同時に友人であり、相談役でもありました。
エミリーには逃走癖こそありましたが決してお屋敷の外を出ることもなかった。しかしどんな隠れ場所にもエミリーはいなかった…
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