諸王領。小国が乱立した大陸中央より西にある幾つもの領地を総称した名前である。
今でも戦乱に燻る危険地域としても知られるが、その中において、外交の巧みさと地下資源の豊かさを武器に、恒久中立を謡う場所、学術公国領が存在していた。学術都市を首都とした研究と学問の聖地は、今日もまた多くの学徒が集っている。
そんな公国領首都の南地区、まるで迷宮を思わす巨大な建築物が象徴的な研究機関。
錬金術師統合院。そこでは、世界最高峰の英知が集うのだが。
「ふむ。それにしても困ったな」
「そ、それ、それだけ? この状況の、か、感想が」
そんな場所、研究室の並ぶ区画に、1人の女性と1人の男が立っていた。
メイド服姿の女性は、一見して人ではない。目元を隠した艶やかな髪、両腕は皮膜に覆われた翼、頭部に突き出た耳朶は深く、蝙蝠の特性をもった魔物、ワーバットと呼ばれる存在だった。しかし、凶暴とされる性格は明るい環境の所為で霧散し、居住まいに品のある楚々とした動作には、怯えを含んだ羞恥が混じる。
要するに、恥ずかしがりな女性。
対して男の方は人であるものの異貌。
中肉中背、両腕には純銀の籠手、顔には丸い眼鏡、嘲笑にも似た酷薄な笑顔が張り付いた顔に、銀の刺繍がジクザグな模様刻んだベストは黒、衣服全て黒と、まさに錬金術師、という胡散くさい二十代後半の男。
「まぁ、そうだな。旅行にでも行くかね? ロゼッタ」
「ろ、ろん、論点は、そこじゃない、と思うの。ハーロット」
荒涼たる研究室、つまりは瓦礫の重なった光景を見て、ロゼッタは顔を隠しながら嘆息する。
「こ、こんなに、壊れちゃったのよ?」
「仕方がないのだ」
やれやれと首を左右に振ったハーロットは、何処からともなく一抱えほどの黒いトランクを取り出し、同じよう一抱えほどの白いトランクもどこからともなく取り出す。
「さて、何処へ行こうか。この季節だと南方領か司法領か」
「ま、まままま待って、待って」
「いっそ盲目領もよいかもしれない」
半倒壊した研究棟の原因となった彼は、さも軽い足取りで逃亡に移っていた。
後日、その光景を学園関係者は『またか』と声を揃えたことは別の話。
銀拳のハーロットことハーロット・ムスターファ。
学内で黒い天使と呼ばれるワーバットことロゼッタ。
こうして、彼と彼女の短い旅行は始まった。
馬車で逃亡、ではなく、旅行に出て数時間。目的地までは目と鼻の距離だった。
司法領。その名の通り『法』という一種異様な制度を掲げ、湖に隣接する形で領土を構えているこの場所は、公国領にとってかつての仇敵にあたる。
大図書館や工業街の他に法規警邏組織『イアルの手』という最大にして最強の国内戦力を有し、その走狗と呼ばれる事もある『法規警邏官《ハイドマン》』は、過去において諸王領でも最大勢力であった司法領と公国領の戦争において、錬金術師達との熾烈な闘争を繰り広げた。
彼等の特徴であり、最大の武器である『銀の銃』は、今尚畏怖の象徴である。
「で、初見の感想はどうだね?」
「さ、さむ、さむい」
「ふむ。そうかね?」
震えるロゼッタはダッフルコートを身にまとっていたが、それでも尚震えている。黒のインパネスコートのハーロットは、むしろ不思議そうに首を傾げる。
時節は秋に差し掛かったばかりであるが、確かに暗く立ち込めた曇り空といい、やや気温は低かった。
司法領は水源でもある湖に隣接している為、湿度が常に高い。故に霧の発生率なども多く、この時期などは狭霧の都市などとも表現されたこともある。
「夏であれば湖での遊泳の解禁などもあったが、この時期だと収穫祭があってだな。外延部の村落から多くの野菜が出回り、多くの屋台が通りを埋め尽くす盛大なものがあるそうだ。今年は今週末のようでな」
「は、はくが、博学ですね」
「いや、この間尋ねてきた東方移民の男、シェロウというの覚えているか? あれがここにしばらく住んでいたことがあるそうでな。その知り合いとやらにも挨拶するつもりなのだが」
「そ、そうなの、ですか」
「しかし、そういった瑣末事に拘るのも楽しくはないな。この秋祭りはウコバク古墳という土地である司法領でも最大の祭りの前夜祭に近いものでな、冬前では一番賑やかなものであるらしい」
「な、なる、なるほど」
「なので、君と愉しんでみたいと思う。迷惑かね?」
にこりと、殊更に楽しそうに笑うハーロットの顔に、真っ赤な顔をして俯くロゼッタがしきりに頷く。
喧騒は次第に増していき、既に露天や旅芸人が自らの仕事を始めている。
祭りの前の最も楽しい時間。浮き足立つ市民達の中で、二人の旅行者は、これが始めてのデートだということに気付いてもいないまま浮かれていた。
煩いほどに掻き鳴らされるヴァイオリンの音に合わせ、気の早い若者達
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