東京湾。首都東京の眼の前に広がる湾口であり、古くは江戸前として知られた場所である。
早朝に近い時間帯、湾口の釣り船にも一人二人と客が乗り込んで行る。
波は穏やかであるものの、冬の厳しさに辟易するような朝であった。
時節の挨拶やら寒さへの愚痴やらを交わす客と船長の傍、海上を駆け、船の傍を擦り抜けるよう水飛沫と共に移動する何かが彼等の視界へ飛び込んできた。
「な、なんじゃありゃあ!?」
船長の叫びも無視し、人影らしきものは東京湾を横切っていく。
「さ、寒い!」
枝節 布由彦(えだふし ふゆひこ)。高校二年。オールバックの髪型か、特徴のある目鼻立ちの所為か、同級生にして『若頭』と呼ばれる青年である。
そんな彼が真冬の利根川から江戸川にかけてをアタッシュケースで川下りしているのには訳があるのだが、開始第二話で何をしているのやら。
アタッシュケースにも何かの仕掛けがあるのか、ほとんどモータボードと変わらぬ速度で急旋回する。上で震える布由彦は必死で足を動かし、崩れそうになったバランスを立て直した。
既に真冬の海。こんな珍奇な若者だろうと命は惜しい。
コートの裾を翻し、あたかも水上を走るような人影が去ると、水飛沫を舳先に浴びた船の上、客と船長は顔を見合わせた。
その後、東京湾界隈の釣り師に『コート幽霊』の名がまことしやかに囁かれたとか囁かれなかったとか。
数時間前。数時間前だったはず。
こたつで居眠りしそうになっていた額をしたたかに打ち付けた時、痛みに悶える自分の耳へ黒電話の音が届いていた。
じりりりと響く喧しい音を前に、欠伸混じりで立ち上がった。
「はい、枝節です」
時節は早朝と呼ぶにまだ速い深夜。電話越しに無礼に無言で抗議するも、相手の声を耳にした途端、驚いたような顔をしてしまっただろう。
『夜に失礼。緊急』
「夜都子?」
脳内の情報配列が記憶を算出する。
宮上 夜都子。東京都在住。歳は五つ上、広義における『同業者』。
カヌクイの名は多くが知るが、分家筋にあたる枝節を知るものは少ない。
『デート。今日』
「・・・土曜の深夜にかけてくる電話ではないような』
壁掛け時計を横目に欠伸を噛み殺す。今度は布団で眠りたかったのだが。
「デートに仕事は含まれるので?」
『残念ながら。移動手段は適当な『箱』に。そちらへはすぐ』
家の前で轟音。移動手段は既に到着したと認識。
「緊急なのは確定事項?」
『おそらく』
考えは即座に答えになる。彼女に恩はある。
「すぐに行く」
『ありがとう』
受話機を置く。
「・・・仕方ない。コートで足りるか?」
冬の日本海。
ろくに選びもせず黒いコーデュロイのスラックスに濃い青のタートルネックの上、コートを羽織る。
戸締りと書き置き。踵を蹴飛ばすように靴へ足を捻じ込んだ。
家の前には一抱えほどのアタッシュケースが存在を誇示。
その端から見覚えのない不定形にして青く瑪瑙に似た色合いの触手が伸びた。
「うぁ!?」
一瞬で足首を掴まれたと思った瞬間、ケースが夜空へ飛んだ。
「いくらなんでも死ぬ!これは無理だ!無理ぃぃぃぃぃ!」
野太い悲鳴など誰が聞くはずもなく、夜空の中へ連れ去られていた。
その後、東京まで移動経路を選ばずに移動された自分は大変に不幸だと思う。
端的に言えばもの凄く寒かった。
英雄、色を好む。それは剛毅さと引き換えに生来の仁義や常識を捨てて剛毅が故の多欲から女を求める類いに使う言葉でもある。
正しくは、英雄は精力的があるが為に女もまた求むる、といった意味合いの解釈であるが、過去においては戦で夫を失った女達を守る為に囲った男も居り、そういった歴史も鑑みると言葉の真意は奥が深い。
それと違い、枝節のみならず『カヌクイ』達が元となった貫射位、源流とも言われる家柄の祖は、良くも悪くも色を好んだらしい。
『羅刹』の異名で名を知られた『笹門《ささかど》』家。
『武器屋』と畏怖で呼ばわれた『百倉《ももくら》』家。
『鬼夷』の蔑視で囁かれるは『恵比寿《えびす》』家。
その他にも、名も血も知られぬようになる多くの家が生まれたが、今を以て残るは数える程。
何の因果か傍流が『枝節』が残ったのも、意味在ってなのかもしれない。
しかし。
「ごくごく普通に死ぬ!末代までの恥になる!」
夜間の高速飛行に加えて水上移動。足首はがっちりと固定されたまま一時間経過。
それだけの時間があれば九州から東京まで移動できるものらしい。この生き物は何なのか。
「もう駄目だ。すまん、入るぞ」
半ば強引にトランクの中へ身体を捻じ込む。何か触手の感覚が全身を這うが、意外と暖かく快適だった。
内部の次元や空間がどうなっているかは定かでないが、居心地がよく同化されないのであればそれでいい。
「喰い
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