善行を積め。
雪が降り続いている。飛び散った血液が、雪原を赤く穢していた。視界が明滅する。黒と、赤。目を擦ろうにも、腕が上がらない。立ち上がろうにも、足が動かない。寒風が傷口を抉る。呼気は白く、やがて大気に溶けて消える。這うことすらも、できそうにない。
「善行を、積め」
声は、掠れた。それでも、立ち上がることができた。血の滴が、また大地を穢す。一歩。また一歩。倒れ込むようにして歩く。鉄臭い唾を飲み込んで、前進する。向かい風が体を支えてくれていた。だから、この身ひとつで成し遂げられると、僕は信じていた。
野盗から村を救ってくれ――立ち寄った村で受け取ったその願いを、僕は叶えた。ねぐらに押し入り、全員を捕縛した。その過程で大怪我をしたのは僕の未熟のあらわれだった。村には必ず戻らねばならない。願いは叶えられたと伝えなければならない。それに、縛った人々をそのままにしておくわけにはいかない。これは急務だ。苦しむ人々に、早く安寧を伝えなければならない。僕の弱さが、不当に救済の時を遅らせていた。
「善行を積め」
だから、不意に体が軽くなったのは、不甲斐ない僕にそれでも残った底力のためだと傲ってしまった。
――光の輪を見た。
風に靡く白金の頭髪。ふわりとそよぐ純白の上衣。翼をゆっくりとはためかせ、それは降臨した。青い双眸が僕を見下ろし、唇が僅かに開く。
「望みは?」
透徹した、涼やかな声。頭が真っ白になった。天使様だ。最初にそれを理解して、僕は跪いた。尊いその姿を前に、無礼を働くわけにはいかなかった。状況を、遅れて理解していく。天使様は意味もなく地上に現れない。ここに、この方がいらっしゃるのは、確たる理由あってのことだ。だから最後に、愚かな自分が口にすべきことを、ようやく理解する。望みは、と。天使様は問うた。ゆえに僕は、その問いに答えなければならない。
「野盗を……全て捕縛したと」
一度咳き込む。雪をまた、血の赤が穢す。天使様の表情が、僅かに変わった。不快なものを見せてしまった。羞恥と悔恨で消え入りそうな思いだった。
「村の人々にお伝え願えますか」
その美しい瞳を見上げて、なすべきことを託す。天使様の表情が、また変わる。僕にも理解できる。それは、明らかに苦痛の色を示していた。
「わかりました。叶えましょう」
僅かの間を置いて、天使様は小さく頷いた。僕が抱いた感情は、恥ずべきことに安堵だった。少なくとも、これで村の人々は救われる。天使様の手を煩わせてしまったことを申し訳なく思うべきだったのに、やはり僕は未熟が過ぎる。
「ありがとう、ございます……申し訳、ありません」
安堵の思いが強まるほどに、体の力が抜けていく。僕はまた、雪の上に倒れ伏した。もう天使様を仰ぎ見ることもできない。折角降臨くださった方に、これでは本当に失礼極まるというのに、もう精神では体を動かせそうになかった。ここで、僕の命は尽きるらしい。もっと長く生きるつもりだった。もっと善行を積むべきだった。けれど、それでも。最後の一歩を託すことができて、僕は幸せだった。まあまあ、満足のいく人生だったと思う。
「――」
天使様が、何かをぽつりと呟いた。僕の耳は、もうそれを拾うことすらできなかった。幸せな終幕。まるで死に際に天使様が迎えに来てくださったようなものだ。果報者にも程がある。くすりと思わず笑ってしまう。それが、最後だった。全てがゆっくりと黒に沈んで、僕はようやく意識を手放した。
死に損ないという言葉がある。今の僕にぴったりの表現だろう。薄い毛布。固い寝台。体を走る鈍痛。朧気な視野が天井をとらえる。
「勇者様がお目覚めになったぞ!」
違う。僕は勇者ではない。体を起こそうとして、そっと肩に掌が置かれる。ゆっくりと焦点が合わさり、青い瞳と視線が交差する。金色の髪に白い翼、柔らかな光輪。清冽と表すべきそのお姿は天使様のものだった。にわかに室内が騒がしくなったが、僕たちに声をかける者はない。遠慮しているのだろう。あるいは、僕たちの会話を、聞きたがっているのかもしれない。天使様が、小さく口を開く。
「願いは、叶えました」
「ありがとうございます。たいへん手数をおかけしました」
「瑣事です。気にすることはありません」
天使様は小さく頷いて、老いた男性にちらりと視線を送った。彼はびくりと背を伸ばして、それから僕に深々と頭を下げた。
「勇者様、このたびは我が村を救済いただき誠にありがとう存じます」
深謝だった。心の底から礼を述べているようにも、謝っているようにもきこえた。切に心が痛む。
「こちらこそ、行き倒れた無様を救っていただき本当にありがとうございます。それから、僕ごときは勇者の名に値しません。レグル
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