私が思うに、人間にとって最大の幸福は無知なことではないだろうか。
知ってはならない領域を知ってしまった人間に憩いは永久に訪れず、意識のあるときは幻覚を通して、意識のないときは夢を通して、絶えず深遠と破滅が手招きをするのである。
その点、主神でも魔王でもない、偉大なる古きものの存在が公にされていないのは、主神の、または魔王の最大の加護なのかもしれない。
私は今、崩れつつある精神を麻薬と酒に支えられながらこの手記を書いている。
女の命とも言える髪はくしゃくしゃに乱れ、かつての美しい髪を束ねていた髪留めも酒欲しさに手放した。
そうまでして得た酒や薬も、ほとんど全て飲み干してしまった。
今や私にとっては、机の上にある最後の一本が唯一の命綱になるため、飲み尽くす前にこの手記を書き上げなければならない。
よって、走り書きとなってしまうことには目を瞑って貰いたい。
また、書き終わり次第毒を飲んで苦悩から解放される手筈のため、これを読んでいる貴君の質問に答えることもできない。
この手記を発見した貴君は、この手記を公表する前に、この手記の一部を破り捨てて灰にすべきである。
この手記の内容はあらゆる言語に訳されて、世界中の全ての人々への警鐘となる必要があるが、手記を読んだ人間が私の二の舞にならないために、有害な情報は削除されなければならない。
炎に放り込む部分は、貴君の、または貴君が最も信頼する人間や組織の良心に一任しよう。
私がこの手記を書くにあたり、まずは私自身について書き記さねばならないだろう。
私はしがない傭兵で、要人警護や治安維持を行う組織に所属していた。
両親を早くに亡くし孤児となった私は、ある冒険者に拾われて育てられたのだ。
彼こそが私の所属する組織の構成員であり、私も組織の一員となるのはごく自然なことだったに違いない。
最も、学のない私は、その男に会わずとも遅かれ早かれ武力を生業にしていただろうが。
傭兵稼業は死と隣り合わせだったが、元より幼子の内に野垂れ死にするはずだった私は、特段生への執着など無かった。どうせ失うはずだった命なのだから。
それ故に死を恐れなかった私は、いつしか組織の中で有数の戦士となっていった。
……これを読んでいる貴君は、この手記に書かれている勇猛な戦士と、この手記を書いたであろう乞食じみた哀れな女との間に関係性を見出せないかもしれない。
くれぐれも、酒と薬に溺れた哀れな気違いの妄想だと思い込まないで頂きたい。
私の過去の証明として、机の引き出しに、私が国王より授かった勲章を入れておく。
私が全てを失った日。
あの日の事を忘れたことは一時たりとも無く、現在でも鮮明に思い出せる。
……というと若干語弊があるか。
どれだけ酒に溺れても薬漬けになっても、あの日のことは忘れたくても忘れることができないのである。
その日は、護衛を依頼してきた男と共に、洞窟探索を行っていた。
男の言う事を全て信じるならば、外世界からの来訪者が欲しがっている鉱物がその洞窟にあるのだという。
その来訪者とやらと諍いを起こせば確実に王国は壊滅するので、帰っていただくための手土産を採取する、とのことだ。
その言葉が真実かはともかく──今の私は、その言葉に一切の偽りが無いと知ってしまったのだが──私は、自慢の大剣とランタンを手に、洞窟へ赴いたのである。
今までにも、地質調査や鉱脈探索の護衛任務で何箇所もの洞窟に行ったことがあるので、洞窟探索はお手の物だった。
だが、その日向かった洞窟は、私の知る洞窟とは何もかもが違っていた。
通常、空気の篭りやすい洞窟内部では臭いで獣の位置を割り出すことができる。
だがその洞窟には、私が今まで嗅いだ事の無い、耐え難い異臭が充満しており、獣の類は、臭いから逃げるように、洞窟の出口付近にしか棲息していなかった。
その臭いは大きく分けて二種類あり、一つは岩を溶かしたような、溶岩の臭いが微かに感じられる。
そしてもう一つは、洞窟という環境では絶対に有り得ない、醜悪な魚の臭いだった。
上でも述べたとおり、臭いは強力かつ不快極まるもので、奥に進むにつれて、悪臭は意識すら揺さぶる程になっていた。
その強烈な臭いが私達にもたらした影響は大きく、私は大剣を杖代わりにしてやっと歩けるまでに気力を奪われていた。
男の方はもっと深刻で、異臭で頭をやられてしまったらしく、持参していた鉄製の円筒状のものと一人で会話をしだしたのである。
男が円筒を友人として紹介してくれたが、男の頭の中では、円筒の中には友人の頭が入っていて、男とは一種の催眠術を用いて意思疎通を行うのだという。
男の戯言──少なくとも当時はそう思っていた──には耳を貸さずに歩き続けていくと、洞窟の異常性は臭いだけではない事が判明した。
洞窟の壁の四方八方には丁度人
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