閑話 龍と狐

 男は鬼の左から入った。
 これで駄目なら仲間同様、肉を撒き散らして野豚の餌になる。
 仲間の大男が鍔迫りで鬼に膝を着かされたその合間、隆々たる筋肉の張る鬼の右腕を狙った。鬼はいち早く男の殺気に反応し、押し込んでいた刀ごと金棒で人間を右に払いその軸線上にある男の上半身を吹き飛ばそうと金剛力を振るう。
 男は素早く身を落とし眼前に迫る金棒を刀の上縁で滑らせ勢いを殺すことなく震脚。金棒を鞘に見立てた居合い斬りを大上段で鬼の右鎖骨から左脇腹へと抜いた。
 血の色は人と同じ赤だった。
 金棒を取り落として呆然と立ち尽くす鬼のまさかの応戦を嫌い、切った腹を足蹴にすると開いた傷から臓物を零して狂ったようにもんどり打ち、しばらく鬼は血の海の中で事切れた。
 違和感は始めからあった。前の二匹は人と似ているとはいえ獣然とした体躯と気勢が抜けきらなかったが、この鬼は額に二本の角があり青い肌ではあるものの、女人と見た目はほとんど変わらなかった。何より前の妖怪と違うのは、ただ意の相容れない動物としての敵愾心を丸出しにして、あるいは空腹を満たすために捕食する命懸けの態度ともまるで違い、この鬼はただひたすら気が触れたかのように目に入る物も人も壊破し続けていた。
 暴れていたときの血を吐くような雄叫びが、あたかも泣き声のように聞こえたのは果たして錯覚か。
 人の女を斬り殺したかのような後味の悪さが、この血溜まりのごとく男の胸中に広がる。今日も男は生き残った。今回も仲間が四人死んだ。
 しとしとと雨が降っていた。鬼の骸を見下ろす男の、熱を持った体から湯気が立ち上る。

 体が動かない。

 血の池に躊躇いもなく手を差し伸べて鬼の骸を抱き上げた者がいた。
 男は激しい動悸も悪汗も止まらず歯の根が合わない、命乞いをするかのように見上げたその先に、大蛇の化身がいた。
「世話をかけたの」
 人語を喋りやがった。
 今先ほど命がけで戦った鬼が赤子に思えるほどの圧倒的な存在感。そしてその声音はまるで男など意に介していない。ただそこに人が居たから気まぐれに声をかけただけのように、実際の身長差よりも遙か高みからかけられたかのようだった。
「そう気負うことはない」
 お主を害するつもりはない、と大蛇は言った。
 それは嘘だ。
 こうしてすぐに駆け付けられるくらいの近くで同じ妖怪が斬り殺されたのに、こんなにも鬼の返り血を浴びている人間を許す謂われはない。
 男は生まれてこの方覚えが無いほど体が竦んでも、心までは折られまいと震える歯を砕けんばかりに食い縛る。大地を踏み締め刀が振れないほど柄を強く握り締め、大蛇の金色の眼を真正面から睨み付けた。
 一人と一匹は、雨の降りしきる中ひととき、そうしていた。
 近くの腰を抜かした仲間はすでに気を失っていたが、そいつのことなどすっかり頭から抜けていた。
 生死の境だ。
 大蛇が口を開く。
「たまさか、こういう者が生まれる。人にもおるじゃろう、鬼子という輩が。手が付けられなんだ、大概は同胞や人に害なす前に妾たちが諫めるのじゃが。妾たちの代わりにしてくれたこと、お主たちにも死人が出たであろ。恨みはせぬ。礼を言う」
 人のように、思わぬ慈悲の籠もった大蛇の理解に、やっと男は気付いた。
 長大な蛇の尾、鬼の頭を撫でる手腕にこそ雄々しい爪と鱗があるものの、大蛇の上半身はこの鬼のように人の形を取っており、天女のごとくあまりにも美しかった。思い掛けず白い肌を隠す着物に血が染みこむのも厭わず、薄く目を開いて固まった鬼の顔に頬を寄せ、泣いているようにも見えた。
「そいつをどうするつもりだ」
 乾いた唾液ではり付いた喉からやっと搾り出せた言葉がこれだ。俺は何を言っているんだ。まるで人を相手にしたような言葉じゃないか。むしろ今言わねばならぬ言葉は、俺をどうするつもりだ、ではないか。大蛇の言葉を信用したのではないのに。男は狼狽する。
「妾が弔う。首でも取らんとお主が困るやもしれぬが、ここは承知してくれぬかえ」
 是非もない。死体を嬲る趣味はない。それにこの大蛇に指一本触れようものなら、男は跡形もなく食い尽くされてしまう予感がある。だが、
「なら、金棒は貰っていってもいいか」
 この一言に命をかけた。遺品を奪おうと言うのだ、この瞬間にあの尾で絞め殺されてもおかしくはない。だが、人としてこのまま屈服してしまってはつまらない。いまわの際に詰まる詰まらぬの話もないが、これまで数多の修羅場を駆け抜けてきた男なりの矜持だ。戦って勝利した印をくれ、無理なら殺してくれて構わない。
「よかろ」
 大蛇は男を一瞥すると、これ以上語ること無しとばかりに尾をうねらせ遠ざかる。
「お、おい!」
 咄嗟に男は自身も意味も分からず呼び止めるが、その背は昼なお暗い森の中へ消えていった。根が張った
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